えっ?!

こんなところに仏教語!

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36、学生
春です。新社会人、新入生など、新しく始まる春です。新入生や新社会人でなくても、新たな部署や新たな仕事に取り掛かる方は多い時期でもあります。皆さん、希望と不安だと思います。
この時期、都会では駅や街中でウロウロしている若者が増えるようです。そう、地方から都会の学校へやってきた学生さんです。20数年前、私もそうした一人でした。岐阜の田舎から、東京の大学に進んだ学生だったのです。ウキウキしながらも、不安を隠せない表情でうろついていた一人だったのです。
しかし、新社会人と違って、新入生、特に大学生の方は、まだまだ気分的に楽ですよね。楽しい日々が待っています。学生さんは、いい身分なんですよ、社会人から見たらね。学生時代が懐かしいものです。

さて、この「学生」と言う言葉、これも仏教から出た言葉なんですよ。ご存知でしたでしょうか、学生の皆さん!。仏教では、「学生」を「がくせい」と読まずに「がくしょう」と読むんです。
おなじみ仏教語辞典(東京書籍・中村元著)によりますと、「学生(がくしょう)」とは
@寺院に寄寓し、外典(げてん)を習学する者。また、仏道を学ぶ者。特に年少の者をいう。
A仏教を研究する者。学匠(がくしょう)、学者、学僧。
(以下省略)
とあります。
そもそも、学生とは、寺院に住んで、仏教以外の教典を学ぶ者のことを示したそうです。仏教を学ぶものは、学僧(がくそう)とか学侶(がくりょ)と言われていました。ところが、日本に学生と言う言葉が仏教と共に伝わったとき、仏教を学ぶ年少の者のことを指して「学生(がくしょう)」と呼ぶようになったのです。

「学」と言う言葉も、仏教と共に入った言葉なんだそうです。「学」とは本来、「いわゆる学問のことではなく、実践修行のこと」であり、また「僧侶として身につけるべき戒律・禅定・智慧(戒定慧・・・かいじょうえ・・・という)を修行すること」を意味していました。つまり、お坊さんとしての修行をすることを「学」と言ったのです。
ですから、僧侶でまだまだ修行中のもののことを「学僧」といったり「学侶」と言ったりしたのです。私たちも、高野山大学に在学中は「学僧」と呼ばれていました。
ちなみに、「学者」はそのまま「がくしゃ」と読みますが、意味は
「仏教を学ぶ者、修行者、弟子」
のことでして、現在使われている意味での「学者」とは、ちょっと遠いですね。仏教で「学者さん」といえば、本来は「まだまだ修行中の弟子、修行僧」と言う意味になるのですよ。尤も、このような意味で「学者」を使っている方は、どこの本山にも、どこの仏教系大学にもないですけどね。どこの仏教系大学でも「学者」さんは、偉そうな方たちばかりですね。本来は、「修行者」なのにねぇ〜。

もう一つちなみに。「学徒」ですが、これも元は仏教語です。太平洋戦争の際、日本の状況が悪くなってきたころ、「学徒動員」の名のもとに、多くの若い命が散っていきました。まさか、仏教の言葉である「学徒」がそんなところで使われるとは・・・・。お釈迦様もさぞや嘆かれたことでしょう。本来の意味は、
「仏教の学問をするもの、仏法を修するもの、修行僧」
のことだったのですが・・・・。

さらにちなみに。「留学生」ですが、これも仏教語です。「留学生」と書いて、「るがくしょう」と読みます。意味は、現在の留学生と同じで、日本からよその国に(主に中国ですが)仏教を学びに言った修行僧のことです。
遣隋使や遣唐使などが盛んだったころ、「留学」とは、中国に渡り、仏教を学んで帰ってくることでした。その当時、学問にしろ技術にしろ、最先端を行っていたのは、中国でした。日本は、多くのことを中国から学んだのですね。その留学には、二種類ありました。短期間(約2年ほど)で帰ってくる学生のことを「還学生(げんがくしょう)」、長期間(約20年ほど)で帰ってくる学生のことを「留学生(るがくしょう)」と言ったのです。つまり、「留学生」とは、20年もの長い間、中国にとどまり仏教を学ぶ者のことを意味していたのです。
なお、弘法大師空海さんは「留学生」でした。天台の最澄さんは「還学生」でした。この二人は一緒に日本を出発しているのですが、最澄さんは先に日本に帰ってきてます。
ところが、本来20年いるべきはずのお大師さんもやく2年で日本に帰ってきてます。規約違反ですね。ですから、お大師さんは日本に帰ってきてもすぐには都に登らず、大宰府で謹慎しています。(まあ、これも想定内の範囲なんですが。いずれ詳しく弘法大師伝もお話しましょう)。

とまあ、このように学生さんに関する言葉の多くは、仏教がもとなのですよ。もとは、修行僧のことだったのですが、時代が進むうちに、いつのまにか何かを学ぶ者は「学生」になり、読み方も「がくせい」になったのでしょう。
同様に「学者」も単に仏教修行者ではなく、学問に精通した者へと変化していったのでしょう。
こうして現在使われている「学生」や「学者」、「留学生」は、仏教のことだけに限らず、いずれも様々な学業・学問をする人のことを指し示すようになったのですね。

さてはて、これから学生になる方はもちろん、学生を終わって社会に出る方も、学ぶことはまだまだ多いものです。いや、むしろ、一生勉強なわけでして、そういう意味では、実は一生「学生」なのですよ。
そう、ずいぶん昔に学生を終えたあなたも、実はまだ「学生」なのです。特に仏教の勉強を始めた方は、「学生(がくしょう)」の仲間ですからね。そう思えば、いつまでも若い気分でいられますよね。
さぁ、学ぶことはまだまだたくさんあります。皆さんも、春を迎えて新たな「学生」になりましょう。決して、学ぶことを辞めてはいけませんよ。卒業は、死ぬときなのですから。合掌。


37、毛頭
頭の毛の話ではありません。ですので、頭髪の薄い方も機嫌をそこねず読んでください。まあ、頭の毛が薄いことくらい、気にしないほうがいいですけどね。世の中には、いやいや、あなたの人生には、もっと気にしなきゃいけないことがたくさんありますからねぇ。髪の毛が薄いくらい・・・、いいじゃないですか。
っと、頭髪の話ではありません。失礼致しました。

「毛頭」と言えば、
「そんな気は毛頭ありません」
などというセリフで使う場合が多いですね。こういうセリフを言った場合、真意は言葉と正反対の場合が多いようです。あまり、よい意味で使われる言葉ではないように思われますが、悪いことを言い表す言葉ではありませんね。ちなみに、現代使われている「毛頭」の意味を国語辞典で見てみますと、
毛頭・・・毛の先ほども。ほんの少しも。
となっています。(新選国語辞典、小学館)
また、「毛頭」の下に否定の語をつけて、「そういう意図がない」ことを示している、と解説しております。まさにその通りですね。この解説に疑いを挟む余地は毛頭ありません、ということですね。このように一般的に使われている言葉です。
ところが、この「毛頭」、元は仏教の言葉だったのですよ。意味も異なっているんです。

「毛頭」は、仏教では「もうとう」と読まず、「もうず」と読みます。それも、さらに元がありまして、どうやら「毛頭」はその元・・・これはサンスクリット語(インドの古代語)なのですが・・・それを誤訳したのではないか、という疑いがあるのです。
本来、「毛頭(もうず)」は、「毛道」と訳された言葉でした。順を追って話しましょう。

お経は、そもそもサンスクリット語で書かれております。それをむか〜しむかし、中国語に翻訳したのです。漢訳と言います。それが現代、我々が目にするお経なのです。
そのサンスクリット語で書かれたお経の中に、「バーラ・パタ・ジャナ」という言葉があります。これは直訳すると「毛道凡夫(もうどうぼんぷ)」という意味になります。「毛道凡夫」というのは、「愚かな凡夫」という意味です。
ところが、ここでどうやら間違い生じたらしいのです。

「バーラ」という語は、本来「V]から始まる言葉で「愚か」という意味だったのですが、その言葉の俗語が「B」から始まる「バーラ」だったのです。で、その俗語の「バーラ(Bバーラ)」には、「Vバーラ」にはない「毛」という意味が含まれていたのです。
本当は、「Vバーラ」を訳して「愚かな」でよかったのです。ところが、元のお経が俗語の「Bバーラ」で書かれていたため、「毛」の意味が含まれてしまったのです。しかも・・・。

その次の「パタ」も間違いが生じたようなのです。
本来の「パタ」は「prthag」と表記し、「ジャナ(jana)」と組み合わせて、「異生、凡夫」と訳されたのです。ところが、ここでも元のお経が俗語の「パタ(patha)」と書かれていたため、俗語パタの本来の意味の「道」が含まれてしまったのです。
つまり・・・・。

本来は、「Vバーラ・パタ(prthag)・ジャナ」と表記され、「愚かな凡夫の生」と訳されなければいけなかったのを、
お経が「Bバーラ・パタ(patha)・ジャナ」という俗語で表記されていたため、「毛の道のような生」と訳されてしまったわけです。これでは意味が通じないので、本来の意味の「愚かな凡夫の生」と組み合わせて、「毛道凡夫の生」としたのです。すなわち、「愚か」という意味を表す「毛道」という新しい言葉を作ってしまったわけです。

このように、サンスクリット語で書かれたお経の言葉の表記の間違いで、「毛道(もうどう)」という言葉が生まれました。さらにここで、間違いが生じるのです。
「毛道」は、いつの間にか「毛頭」と書かれるようになってしまったのです。どこでどう間違ったのかは不明です。おそらくは、お経の解説をした師の言葉を弟子が書き取ったときに、発音が似ているため「毛道」を「毛頭」と書き誤ったのであろうと推察されます。
書き誤りですから、もちろん意味は同じです。「毛頭」と書いてあっても意味は「愚かな凡夫」の意味です。
しかし、お経の解説本を見比べてみると、「毛道」と「毛頭」という二つの言葉出てくるのに勉学の僧侶たちは気付くのですね。昔の学僧は真面目でしたから、同じ経典でも様々な訳本を見比べたり、いろいろな解説本を読み比べたりしたのですね。
で、「愚かな凡夫」を表す言葉に「毛道」と「毛頭」があることに気付くのです。

この二つの言葉、どう違うのか?。
そう疑問を抱いたに違いありません。そこで、「毛頭」のほうを「もうず」と読ませるようにしたのでしょう。「毛道」と区別するためにね。意味は同じでも、表記が違うからまぎらわしい発音は避けよう、ということだったのでしょう。こういう区別をしたのは、おそらくは禅系の僧侶たちだったのではないかなぁ・・・と私は思いますが、根拠はありません。憶測です。
それはさておき、ここに「毛頭(もうず)」という言葉が完成するのです。意味は「毛道」と同じ「愚かな凡夫」です。

この「毛頭(もうず)」がいつの間にか、一般の人々にも使われるようになったのでしょう。それはいつだったのか、どのようにであったのかは、定かではありません。しかし、最初は、「もうず」と発音していたのでしょう。あるいは、「毛道」と混同されたのかもしれません。たとえば、和尚さんと村の百姓との会話などで・・・、
「和尚さん、それはどういう意味ですだ。」
「なんじゃ、わからんのか。うむ、凡夫のお前さんにはわからぬかのう。おまえさんらは毛道じゃからなぁ。」
「もうどう・・・ですか?。ますますわからんですだ。」
「いやいや、毛頭(もうとう)じゃ。うん?、毛道(もうどう)じゃったかな?。まあいわい、意味は同じじゃ。お前さんたちのように。物事の道理を理解できぬ愚かな凡夫のことを言うのじゃ。」
「もうとう・・・ですか。はぁ、まあわしらは、もうとうですだ。百姓には難しいことはわかりませんですだ。」
「そうじゃな、お前さんたちは髪の毛ほどの智慧もなかろうて。じゃから、祈るしかないんじゃ。」
「もうとう・・・、髪の毛ほどの智慧なし・・・ですか。じゃあ、もうとうは、毛頭なのだろうか・・・。」
と言うことがあったかどうかは、私にはわかりません。が、こんなようにして仏教の言葉が庶民の間に流れていったのではないかということは、推察できますよね。この和尚さんのように、仏教の特殊な言葉を使いたがったとか、特殊な言葉で説法を誤魔化したとかしてね。そうして、庶民の間に仏教語が流れていって、やがて定着していったのでしょうね。

言葉は生き物ですからね。難しい言葉も、その表記に従って意味を変えることもあります。それが間違っているとは思いません。現代でも怪しげな言葉が飛び交っているようですが、それはいつの時代でもあったことでしょう。しかし、その怪しげな言葉が、定着するとは限りません。やはり、庶民に受け入れられない言葉は消えていってしまうのです。言葉は生き物である・・・・。そのことに疑いを挟む余地は毛頭ありません・・・よね。合掌。



38、通
あたなた通人でしょうか?。たんに何かについてよく知っている人のことを通人・・・というのではないですよ。粋な遊び・・・たとえば花柳界での遊びなど・・・ができるような方を通人というのです。そんな余裕のある方は、あまりいませんよね。そういう方は、このような無粋な話は読まない・・・ことでしょう。
通人・・・とまではいかないくても、「○○通」という方はいらっしゃるんじゃないでしょうか?。たとえば、コーヒー通とか、日本酒通とか、ワイン通とか・・・。または、事情通などというわけのわからない方もいらっしゃるようで。変わったところじゃ、妖怪通なんていう方もいらっしゃることでしょう。(それはお前のことか?、という声が聞こえそうですが・・・)。
このように、通といえば(カーなんてベタなことは考えないでください)、何かによく通じていること、そのことについてよく知っている方のことをいいますよね。
さて、この通なんですが、これも仏教語なんです。私たちは通といえば、別の意味を思い浮かべるんですよ。

現代で使われている「通」について、念のため確認しておきましょう。
国語辞典によりますと(新選国語辞典・小学館)、「通」の意味は
@趣味・道楽などの物事によく通じること。また、その人。
A花柳界の事情に通じ、さばけていること。また、その人。
B人情によく通じ、さばけて思いやりのあること。また、その人。
となっています。詳しい辞書には、
*何事も自由にできる不思議な力
などという解説も載っています。そう、これが本来の「通」の意味なんですよ。すなわち、「神通力」のことですね。

お馴染みの仏教語辞典(東京書籍)によりますと、
@仏・菩薩などが具える自由自在で、さまたげのない能力作用。超人的な能力。威神力(いじんりき)、神通力。
A知識を得ること。
・・・・省略・・・・
E三乗通教(さんじょうつうきょう)の意。すなわち、声聞・縁覚・菩薩に共通の教え。
となっています。B〜Dは省略いたしましたが、これはあまり使用されない例ですので、省略いたしました。
E「通教(つうきょう)」などという言い方で使用されます。仏教の基本的教えや戒律のことを意味します。まあ、「通」という言葉だけでは、あまり使われないですけどね。
現在使用されている「通」の意味としては、Aですね。「さまざまな知識に通じる」という意味ですね。しかし、仏教では、「通」といえば、@の意味で使うのです。いや、そもそも「通」といえば、「神通力」の略語なのですよ。

「神通力」・・・・現代の言葉で言えば、「超能力」とでもいいましょうか。きっと、誰もが一度は「欲しい」と思ったことがあるであろう「摩訶不思議な力」のことですよね。怪しい新興宗教などでは
「修行すれば神通力、超能力が得られる。」
「霊能力が身につく。」
「空中を飛ぶことができる。」
などと吹聴しているようですが、嘘八百です。騙されちゃあいけませんよ。そんなに簡単に神通力が身につくわけがないじゃないですか。仙人のような生活をすれば身につくかもしれませんけどね。いや、それでも「かもしれない」という程度です。不確定です。確実に神通力が得られるような修行なんてありません、現代ではね。
なぜなら、文明が発達してしまい、神通力を必要とした時代ではなくなったからです。また、「神通力を得るための修行」という段階で方向性が間違っているからです(こちらの理由の方が重要です)。
神通力は、覚りを得るための修行をしている途中で、次第に副産物として身についてくる力なのです。おまけですね。なので、動機が不純だと、神通力など身につかないのですよ。しかも、覚った者、あるいは天界に生きる者でないと使用できないのです。
この世に覚った者はいません。お釈迦様以来、一人もいません。まあ、ある程度の覚りを得た方はいますけどね。その方は、過去の高僧のみです。現代には、覚った者は一人もいません。ですので、現代では、どなたも神通力は使えません。また、どなたも神通力を得られるようなことはありません。
ただし、正しい修行をしていれば、仏様や菩薩様などに貸してもらえることはあります。しかし、それも稀です。しかも、本当は魔性の力(悪い神通力)なのに、「これは神の力だ」と思い込んでいるアホな霊能者や占い師というのもいます。皆さん、よく見極めましょうね。

そうなのですよ。今、言いましたように、神通力には「善い神通力」と「悪い神通力」があるのです。善い神通力は仏・菩薩・神々から与えられたか、貸してもらえた力です。悪い神通力は、神の振りをした魔性のもの(天部崩れとか、天部の眷属だった霊とか)がとり憑いて発揮している力です。
善い神通力は「人々を救うための神通力」です。ですので、時にはその人の望むとおりにならない場合があります。人を救うための力ですから、使用者の思うようにならないこともあるのですよ。また、救いを求めてきたものに対し、厳しいことを告げることもあります。救うためには、現実をはっきり認識させることが必要だからです。
悪い神通力は、「人々を惑わすための神通力」です。ですので、使用者の思うように使えます。救いを求めてきたものに対して、その者が不幸になろうが、問題が解決しなかろうが、そんなことは関係ないのですよ。神通力を使う者が目立てばいいのです。神通力を使うものが目立って、それを見たものがその力に迷い、その神通力を使う者の元に集えばいいのです。そうして、人々を惑わすのですよ。

困ったことに、善い神通力も悪い神通力も、やることがほぼ似ているのですよ。ですので、それが本当に善い神通力なのか、悪い神通力なのか、見極めがつきにくいのです。
まあ、筋が通らないことを平然と言う者や、やたら憑いているなどを口にする者、目立ちたがる者は、怪しいと思ったがいいでしょうね。それと、やはり仏教に通じていない者は、信用できないですよね。仏教に通じているからこその神通力なのですから。

ちなみに、神通力にはどんな種類があるのかあげておきましょう。
正しい神通力には次の6種類があります。これを六神通といいます。
@天眼通・・・あらゆるものを見通す力。世界の事柄すべてを見ることができる。普通は見えないものも見える。
A天耳通・・・世界中のすべての声をもらさず聞くことができる力。
B他心通・・・他人の考えていること、心を知る力。
C宿住通・・・前世がわかる力。
D漏尽通・・・煩悩がなくなったことを知る力。一切の穢れをなくしたと知る力。
E神境通・・・神足通ともいう。自由に思いのままに行動できる力。瞬間移動や空を飛ぶこと、手を使わずものを動かすなど。
とあります。占い師や霊感師などが使うのが、BCですね。たいていは、いい加減なことを言ってるようですが。(魔性の力だからいい加減になるのですが)。かつて事件を起こした新興宗教は、空中浮遊を売り物にしていましたが、それはEにあたります。まあ、インチキでしたけど。
しかし、空中浮遊などで驚いてはいけません。昔の高僧は、托鉢用の鉢を飛ばしたのだそうですから。

昔の高僧は、托鉢にいく時間が惜しいというとき、神通力のEを使って、鉢を飛ばしたのだそうです。鉢だけが各家を廻り、托鉢をしたのだそうです。各家では、誰もいないのに鉢だけが浮いているのを見て、
「あぁ、○○様は、修行に忙しいのだな。それで鉢だけを飛ばされたのだな。尊い方はこんな力を持っておられる。その尊い方に食事の施しができるとは・・・。徳が積めて嬉しいことだ。」
といって、鉢に食事を入れたのだそうです。本当かどうかは知りませんが、そういう伝記は残っています。

さて、このように、通とは神通力の略なのですが、私は通になることは賛成しますが、神通力を求めることは反対します。神通力は、求めてはいけません。一般の方が「神通力を身につけたい」、と望むようなことはしないでください。なぜなら、それはアンフェアな望みだからです。簡単に神通力なんて得られるものではありません。血のにじむような正しい修行をして、覚りに至る過程で自然に身につく、もしくは貸してもらえるものなのです。
もし、「神通力が欲しい」などと願えば、必ず魔性の者がやってくるでしょう。そして、神通力を望んだものにとり憑き、魔性の力を発揮して世の人々を惑わすことになるでしょう。そうなれば、やがては身も心も魔性のものに支配され、ボロボロになっていくのです。
神通力なんて望まずに、まずは仏教の「通」になってください。そうすれば、迷うこともなくなるでしょうから。
合掌。


39、ガリガリ

今回の言葉は「ガリガリ」ですが、この「ガリガリ」は、木などを削ったりするときの音を表す「ガリガリ」ではありません。「ガリガリに痩せている」の「ガリガリ」です。
それにしても「ガリガリに痩せている」の「ガリガリ」って、どういうことなのかわかりますか?。意味的には、「痩せ細った・・・」っていうことなのでしょうが、なんでそれが「ガリガリ」なんでしょうか?。
「ガリガリ」ですよ「ガリガリ」。この言葉の中に、「やせ細った」というイメージが・・・そりゃ今ならわくでしょうけど・・・・、どこにも「細い」と言う意味を表す言葉がないですよね。
ものを削る音を表す「ガリガリ」は、わかりますよね。擬音語ですからね。だけど、「やせ細った」を表す言葉が「ガリガリ」であるというのは・・・。一体どこから生まれたのでしょうか?。

実は、この「ガリガリ」の生まれは仏教の言葉にあるのですよ。すなわち、「ガリガリ」は仏教語なのです。それは、この「ガリガリ」を漢字で書くとわかると思います。
「ガリガリ」を漢字で書くと「我利我利」となります。これに「亡者」をつけることもあります。すなわち「我利我利亡者(がりがりもうじゃ)」です。聞いたことありませんか?、この言葉。ご年配の方はよくご存知だと思いますが、若い方は聞いたことはないかもしれませんね。私は、昔のTV番組で聞いたり、本で見たりしたことがありますよ。
「我利我利亡者」・・・・その意味は、文字の通りなのです。「我の利益、我の利益、それのみを追求する亡者のようなヤツ」ということです。「亡者」というのは、本来は死者のことですが、「何かにとり憑かれたように一つのことに執着するもの」という意味でも使われます。
ですから、「我利我利亡者」とは、「他人のことはどうでもよく、自分の利益のみ追求する、すごく嫌なヤツ」という意味ですね。
具体的に言えば、「金儲けばかり考え、そのためならなんでもするようなヤツ」のことを言います。そう言えば最近、世間を騒がせたIT関係者やファンド経営者がいましたが、彼らは「金を儲けて何が悪い」なんていってましたね。「世の中金じゃ〜」みたいなね。ああいう方は、きっと現代版「我利我利亡者」というのでしょうね。
このように、「我利我利亡者」とは、金に執着して、金儲けのためには何でもするような者のことを蔑んで言った言葉なのです。

この「金儲けばかり考え、そのためならなんでもするようなヤツ」・・・って、何かに似ているとは思いませんか?。「お気楽!・仏教講座(当HP、こちら)」を読んでいる方は、すぐに気付いたことと思います。
そう、それは「餓鬼」なのですよ。金に執着して、なりふり構わず自分の利益のみ追求する者・・・それはまさしく餓鬼の姿なのです。
つまり、「我利我利亡者」とは、金に執着し過ぎた「餓鬼」のことを表しているのです。

餓鬼は、ご存知の方も多いと思いますが、その姿は「背は低く、非常に痩せていて、喉は針の如く細く、肋骨は浮き出ていて、手足は骨に皮が張り付いている」ような姿をしています。生前、自分の利益のみに執着したためにそんな姿の生き物に生まれ変わってしまったのです。生きているとき、「わしの利益」、「私の金」、「我の利益」と、自分の利益のみを追求していた者が、痩せ細った餓鬼に生まれ変わるのです。つまり、生きているとき「我利、我利」と言っていたものが、「非常に痩せ細った姿」の餓鬼になるのですよ。
これでおわかりでしょう。すごく痩せた人を表す言葉である「ガリガリ」が、仏教が元の言葉である、ということが。そう、そもそも「ガリガリ」は、餓鬼が元で生まれた言葉なのですよ。

昔は、「ガリガリ」に痩せ細っていることは、あまりいいことではないと思われていました。女性ならば、あまり細ければ「子供が産めないのではないか、家事や育児がまともにできないのではないか、健康ではないのではないか」・・・と思われていました。また、男性も、あまりガリガリだと、「体力がないから労働力にならないのではないか、戦争に行けないのではないか、長生きできないのではないか」・・・・などとね。
現代でも、男性の場合、結婚してから痩せたりすると、「嫁がいいものを食べさせてくれないのではないか、嫁に苦労しているのではないか、嫁姑にはさまれ辛い思いをしているのではないか」などと勘ぐられます。まあ、あまりガリガリだと、いい印象は与えませんよね。そういえば、お笑い芸人さんでもガリガリに痩せている人がいますが、「キモイ」などといわれてますからね。

そういう私も細い方です。ガリガリ・・・とまでは行きませんが、細いですねぇ。昔から、太るのは難しいのですが痩せるのは簡単にできる体質なんですよ。なので、女性からは、羨ましいと言われますが、本人は嬉しくともなんともありません。むしろ、もう少し太りたいと思っているくらいです。
女性は、細いことが美であるように思っているようですね。ダイエット、ダイエット、ダイエット・・・とTVでも雑誌でも、その文字を見ない日は無いくらいです。確かに、太っているのは不健康でしょう。しかし、痩せすぎも、これまた不健康だと思います。やはり、お肉は、付いているところには付いていた方がいいでしょう。要は、バランスが取れていればいいと思うのですが、どうも女性の方は、過度に痩せたがるような傾向がありますね。程々でいいと思うのですけどねぇ。

最近は、メタボリック・シンドロームなるものがありまして、男性の二人に一人はこれに罹っているとか。確かに、腹がでっぷりと突き出ているオジサンたち、多いですよね。これには注意しないといけません。太りすぎ、脂肪やコレステロールの溜め込みすぎは、よくありません。少しは、ダイエットしないとね。不健康です。家族のためにも、なるべく健康でいないとね、責任が果たせませんから。

なんでもやり過ぎ、し過ぎはよくありません。食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、遊び過ぎたり、仕事をし過ぎたり、勉強し過ぎたり、お金を使い過ぎたり、金を儲け過ぎたり・・・・。過度に行うから、軋轢が生まれるんですよね。あるいは、健康を害したり、世の中に嫌われたりするんです。バランスが大事なんですよ、バランスが・・・。
程よく、バランスよく、自分の器にあったように、食べ、飲み、遊び、働き、勉強し、お金を使い、お金を儲け・・・・、ていれば、それこそが本当の利益になっていくのですよ。健康が得られ、他人との和が得られ、職場での評価が得られ、自己の成長が得られ、知識が得られ、モノが得られ、貯金が得られる。すべてにバランスよくすることが重要ですね。
どこかに偏るから、どこかにしわ寄せが来るんです。そうなれば、「我利我利亡者」への道へと進むことになるのです。この世を楽に生きるには、バランス感覚が必要なようでして。まずは、偏らない生き方ができるようにすることですね。「ガリガリ」にならないようにね。合掌。


40、講師・教師・教授
今回は、三つの単語です。いずれも、「先生」と呼ばれる方たちですね。一般に、大学の教授になろうと思うと、研究生・助手からスタートし、講師へと昇格し、助教授を経て教授へと出世していきますよね。こうした、人にものを教える仕事をする人のことを「教師」と呼びます。皆さん、よくご存知ですよね。
さて、この先生方の呼称である「講師、教師、教授」は、いずれも、仏教から借用された言葉なのですよ。本来は、仏教教団内で使われていた言葉なのです。順にお話ししていきましょう。

*「講師」
一般的には、「こうし」と読みますが、仏教では「こうじ」と読みます。発音も異なります。「こうし」は、「こ」にアクセントが付きますが、「こうじ」はアクセントは特にありません。平ったく発音します。意味は、お馴染みの仏教語大辞典(中村元著、縮刷版、東京書籍)によりますと、
@論議の時に、問者の質問に答える人。天台宗の用語。南都(奈良のこと)でいう答者に同じ。一段と高い講座に坐す。
A僧・尼を指導し、仏教を講説する僧職。
B講師は、もと国師といった。国ごとに一名ずつ任命され、国分寺に置かれていた僧官。もっぱら経典の講説にたずさわっていた。以下略。
C真宗大谷派や高田派では最高の学階名に用いる。
となっています。

@は、いわゆる問答の儀式でのことを意味しています。僧侶の階級と言いますか、役職で上の方へあがろうというものや、自宗の教義を極めようとするものは、それなりに教義の勉学に励まなければいけません。で、その過程で、問答の儀式があったりします。高野山でも本山内での特別な役職に就任するには、ある問答の儀式を経ないとなりません。
そうした儀式のとき、問いを発する側ではなく答える側のことを、天台宗では、「講師」と呼ぶのだそうです。
ちなみに、一段と高い講座とは、高座とも呼ばれます。そう、落語家が座るあの席、高座と同じです。元は、問答の儀式ですわる高い座のことだったのですね。
また、授業のことを講座と呼びますが、これも元は仏教語で、問答の儀式の際に問者と答者が座る場所のことです。講義する座、と言う意味ですね。
さらに、ちなみに。講義も元は、仏教の教義について「説明し、討議すること」から生まれた言葉です。また、講演も元の意味は、「仏の教えを説くこと」を意味していましたが、これが広く一般にも使われるようになったのです。こうしてみると、仏教が元の言葉って、ホントいっぱいありますよね。

話がそれましたが、Aについてです。これは説明がなくてもわかりますよね。Bは、その由来ですね。
Cですが、どの宗派にもお坊さんの位というものがあります。その位なのですが、教義に関するものと儀式に関するものと、両方の位がある場合があります。教義に関するくらいのことを「学階」と呼んだりします。あるいは、「学位」という宗派もあります。まあ、一生懸命勉強しました、という証ですね。どの宗派でも、その宗派内の重要ポストに就こうと思うと、そのような「位」が必要になってくるのです。宗派内のポストなんか関係ない、と思っている方は、そうした「位」は取得する必要はないんですよ。

とまあ、以上が「講師」の本来の意味です。本来は、仏教の教えについて、説き明かしたものを「講師」と呼んだわけです。それが、一般に使用されるようになったんですね。

*「教師」
これは、簡単です。現在使われている意味と同じ
「教える人」
です。しかし、教える内容が違います。何を教えるのかと言いますと、もちろん「仏教」です。お釈迦様の教えを伝え教える者を「教師」と呼んだのです。ですから、お坊さんは、みんな「教師」です。
たとえば、高野山真言宗では、お坊さんたちの研修会のことを「教師研修会」といいます。本山で行う場合は、「本山教師研修会」といいますし、地方で行う場合は「地方別教師研修会」といいます。
地方の場合、こうした研修会はホテルなどを使って行う場合が多いのですが、その場合、入り口に立て看板なぞがあったりします。その看板にも「○○支所 教師研修会」などと書いてあります。これを見ると、学校の先生の研修会かと勘違いされることがよくあります。実際は、お坊さんの研修会なんですけどね。
本来は、教師といえば、僧侶・お坊さんのことだったのですよ。お坊さんは、何でもよく知っているし、その町や村の先生でもあったわけですからね。最近じゃ、先生を兼職しているお坊さんはいますが、地域の先生役を担っているようなお坊さんは随分少なくなったように思います。教えるどころか、仏教のことをな〜んにも知らないお坊さんもいるようでして。お金儲けのことはよく知っているようですけどね。
今一度、お坊さんは「教師」である、という自覚を持って欲しいと思いますね。

*「教授」
仏教語大辞典(前出)によりますと、
@教え導く。法を教え道を授けること。
A教授阿闍梨(きょうじゅあじゃり)のこと。
とあります。

@は、いいですよね。そのままです。
Aは、説明が要りますね。「阿闍梨(あじゃり)」というのは、いわば先生に当たる言葉です。師匠とでも言いましょうか。インドの言葉で「アーチャリー」を音写した言葉です。某怪しげなひどい新興宗教教団の教祖の娘を「アーチャリー」などと呼んでいたようですが、バカバカしくて話にもなりません。ふざけるな、ですよね。あれがアーチャリー?。流石にクダラナイ教団ですよね。言葉の意味をよく理解してから使って欲しいものです。
さらに、「阿闍梨」というと、なんだかすごい特別な偉大なお坊さん、みたいな感じで威張って使っている新興宗教のオバサンがいましたが、そんなたいしたものではありません。密教系の宗派では、一通りの修行を経て、灌頂を受けたものはみんな阿闍梨です。私も阿闍梨です。私のお付き合いのあるお坊さん方も、みんな阿闍梨です。とてつもない法力の持ち主が阿闍梨だ、などというのは妄想です。ちゃんと修行をし、灌頂を受け、住職になれる資格を持ったお坊さんは、みんな阿闍梨なんですよ。特別な存在ではありません。「私は阿闍梨だ」などと威張っている人がいましたら、絶対に信じないことです。そんなのいっぱいいますからね。威張るほどのものじゃないですから。言葉の響きに騙されないようにしましょう。
簡単に言ってしまえば、阿闍梨とは、先に説明した「教師」のことなのですよ。

さて、その阿闍梨ですが、いろいろな作法を伝授することがあります。一般的には、阿闍梨の中でもさらに修行をした大阿闍梨が伝授をするのですが、阿闍梨でも伝授は可能です。(ちなみに大阿闍梨は、大変数が少なく貴重な存在で、我が宗派が国内にいる大阿闍梨のほとんどを抑えている、などと吹聴している新興宗教があるそうですが、ウソもいい加減にして欲しいですね。大阿闍梨さんもたくさんいます。高野山の場合、阿闍梨が学会・・・がくえ・・・という特別の修行・・・内容は問答です・・・を経て、灌頂を受けると大阿闍梨になります。そんなにたいしたものではありません。人数もいっぱいいます。ふたを開ければそんなもんです。)
で、いろいろな作法を伝授する役の阿闍梨さんを「教授阿闍梨」といいます。略して「教授師」といいます。

「教授師」は、本来、戒律を授ける役のお坊さんです。戒律を教え授ける師、と言う意味ですね。すなわち、教授とは、作法や戒律を教え授ける役割を担った僧侶のことを意味していたのです。
で、そのような教授師を担えるお坊さんは、たいていは偉いのです。偉いといっても、位が高いというだけですけどね。そう、「講師」よりもね。つまり、お坊さんの世界でも「講師」より、「教授」は偉いわけなんですよ。現在の大学と同じですね。(だからといって、教授が立派だとは限りませんけどね)。
これが、教授の本来の意味なんですよ。元は、このように仏教の言葉だったのです。

さてはて、某大学には不正に国からの研究費を盗ってしまった教授がいましたが、この下にいた講師や研究生は大きな迷惑を被ったことでしょう。また、最近は、大学教授がセクハラで捕まった、訴えられた、なんていう話をよく耳にします。教授も地に落ちたのですかねぇ。まあ、そんなことをする教授は一部だとは思うのですが、残念なことだと思います。あるいは、学校の先生でも買春で捕まったりする人もいるようですし、犯罪でなくても学級崩壊を引き起こしてしまう先生や、授業放棄をしてしまう先生もいるようです。困ったものです。先生、教師という自覚をもっと持って欲しいものですね。もともと、仏教の言葉を借用している方たちなのですから、自分を律することを知って欲しいと思います。
講師も教授も、教師です。人にものを教え、正しき道へと導くのが仕事です。もちろん、お坊さんも教師です。教師たるもの、自分の感情を抑え、欲求を控え、教える立場にあるという自覚をもって、望んでほしいものです。教師だ、教授だ、と威張る前に、自分を省みることが大切ですよね。
と、偉そうに言っているのですが、お坊さんが一番自覚がなかったりするんですよね、教師という自覚がね。困ったものです・・・。合掌。


41、無念
時代劇などを見ていると、斬られてしまった侍が
「無念じゃあ〜」
と苦しそうにひとこと言って死んでいく・・・・というシーンが出てきます。皆さんも、一度は見たことがあるのではないでしょうか?。あるいは、そういうシーンは見たことはなくても、
「無念じゃあ〜」
といって死んでいく姿は、想像できるのではないでしょうか?。
この「無念」と言う言葉、「念が無い」と書いてあるのに、その意味は
「無念じゃあ〜」
といって、たっぷり念を残している・・・・そういう意味に聞こえますよね。「念が無い」のに「念を残している」という言葉、「無念」・・・・・。よく考えると、ちょっと変な言葉ですよね。
この「無念」という言葉、これも元は仏教語なんです。なんとなくわかりますよね。でも、意味は、「念が無い」ほうの意味になります。無念ですが、無念じゃないんですよ・・・・。

そもそも「無念」とは、「念が無い」という状態を表した言葉です。例の如く仏教語大辞典(中村元著、東京書籍)によりますと、
@有念の対。妄念のないこと。とらわれのない正しい念慮。
A・・・省略(禅宗の派による解釈の違いなので省略しました)
B正念を失ったさま。残念。
とあります。
現在使われている意味の「無念」はBにあたりますね。この意味は、武家社会における禅の中から生まれたようです。禅を学ぶことは、武家や侍としては、当然のことでしたからね。
そんな中で、「残念」と組み合わせて使ったのが始まりのようですね。そういえば、昔の時代劇では
「残念無念あわせて九年」(ざんねんむねんあわせてくねん)
などというセリフが出ていました(知っている人は時代劇通か、相当ご年配か・・・)。今でも、オヤジ(相当ご年配の)・・・たちが使うんじゃないですか?。語呂がいいんですね。で、「残念」・・・「念が残る、念を残す」と言う言葉と組み合わせて使っているうち、「無念」に「残念」の意味も含まれるようになったのではないか・・・・と推測されます。侍たちの言葉遊びから生まれたものなのでしょう。

本来の意味は、@の方です。ここでよくわからないのは「有念」じゃないでしょうか?。これは「うねん」と読むのですが、本来「無念」と組み合わされるべき言葉は、この「有念」なんです。「有念・無念(うねんむねん)」なんですね。
「有念」とは、仏教語大辞典によりますと
@智慧を持っていること
A無念と対。・・・省略・・・差別のすがたについて分別する心
これでは、よくわからないですね。
@の意味ではほとんど使われませんが、これはAの意味にも通じています。
つまり、「有念」とは、「世の中の事象に対して、正しく差別したり分別したりする智慧のこと」なのです。これは、我々が生活するうえで行なっていることですよね。ただし、悪い差別・・・蔑視・・・のことではありません。正しく分別すること、です。他を差別し、排除したり、蔑視したり、いじめたりすることではありませんので、注意してください。すなわち「有念」とは、
「この世のできごとや現象、存在に対して正しい観察ができること」
と理解していただければいいでしょう。正しく観察する智慧のことなのですよ。

これに対し、「無念」とは、その分け隔てや分類から離れている状態を言います。「何もかも平等、同じ」という境地に至った状態が「無念」なのです。ですから、悟りに近いわけです。すなわち、
「一切の分別、差別、区別を離れ、絶対平等ですべての事象・現象・存在をとらえる」
と言う状態が「無念」なんですね。ですから、「無念」には、ほんの少しの個人的な思いも混じってはいないのですよ。

ところで、有念とか無念とか、あるいは残念とかいいますが、そもそも「念」ってどういう意味かわかりますか?。今では「念」といえば、「念力の元なんじゃないの・・・」と思う方が多いのではないでしょうか?。特殊な想い、強い思い、気合を込めた想い・・・・という意味を想像するのではないでしょうか。
この「念」も仏教語なんですが、その意味は幅広いんですよ。仏教語大辞典から略して拾い上げましょう。
@思い出すこと。記憶すること。忘れない心の作用→憶念・執念
A善事の一つで、一つのことに取り組むこと→専念
B心の中で思うこと
C考えること。思考すること→思念
D観ずる智慧
E心の思いを正すこと
FG記憶作用の一つ→不失念
H意思作用
I意のこと
Jおもい、慕う心
KL略
M仏に強く願うこと→念じる、念願
NO略
とまあ、これだけの意味があるのですが、まとめてしまえば、「記憶すること」と「強く思うこと」ですね。で、主に使われている意味は、「強く思うこと」の方です。

これは、大乗仏教において、仏様や菩薩様などに「強く救いを求めなさい」と言うことが説かれるようになって生まれてきた意味なのです。有名なところでは観音経の「念彼観音力」ですね。「強く観音様を念じなさい、願いなさい」、という意味です。で、こうした中から「強く願う心、強く念じる心」と言う意味の言葉が、やがて「念じる力」になり「念力」と言う言葉が生まれてきたのでしょう。今では、怪しげな言葉なのですけどね(私は念力などというものは信じていません。あれはトリックでしょ。)

まあ、それはいいとしまして、「念」とは本来「記憶すること」であり、「強く思うこと」であったわけです。ということは、「無念」は「記憶も強く思う気持ちもすべてない」と言う状態なのですね。この境地が、禅で言うところの
「無念無想」すなわち「空」
になるわけです。何も記憶しない、思いを留めておかない、強い思いも持たない・・・。それが「無念」です。それは、一種の「空」の状態なのですね。

ということは、時代劇の「無念じゃあ〜」と言うセリフは、本来は不似合いなセリフなわけです。どうせ使うなら、斬られたらすぐに結跏趺坐して
「無念にござる。よって、この世に未練なし。」
とでも言えば正しい使い方になるんですね。なのに、「無念じゃあ〜」といいながら、いっぱい念・・・思い・・・を残しているんですから・・・・。

さてさて、皆さんは、どちらの無念なのでしょうか?。あなたが死を迎えるとき、未練や思いをたっぷり残した「無念」であるのか、あるいは本来の「無念」であるのか・・・・。今から、自分の死を迎えるときを想像して本来の「無念」になれるよう、準備しておいた方がいいんじゃないでしょうか。そのためには、未練を残さぬよう、執念を残さぬよう、やれることはやっておいたほうがいいですよね。後悔しないようにね。で、
「無念です」
と悟ってあの世に行きましょう。念を残してしまうと、この世にさ迷ってしまうかもしれませんよ。だって、幽霊って
「自分の思いが遂げられず、無念の情が姿をなしたもの」
と言われていますからねぇ・・・。合掌。


42、相好
「そうごう」と読みます。ご存知ですよね。よく「相好を崩す」・・・という使い方をされますが、今は使いませんかねぇ、この言葉。本を読んでいたりすると、まだまだ出てくるのですが。たとえば、
「彼は、彼女の気持ちを知って相好を崩した・・・。」
なんていう感じなんですけど。
「相好」の意味は、簡単に言えば顔のことですよね。国語辞典(新潮社、現代国語辞典より)によりますと、
「顔かたち。容貌」
とあります。で、使い方として「相好を崩す」とあります。その意味は、
「顔をほころばせて、大いに笑い喜ぶさまにいう。にこにこ顔になる」
とあります。
今は、あまり使われなくなってしまったこの「相好」ですが、これも元は仏教の言葉なんですよ。

とはいえ、仏教語の中に「相好」という言葉があるわけではありません。これは、実は二つの言葉が合体してできた言葉なのです。いや、言葉と言うより、お釈迦様の身体的特徴を表した言葉を合体させたものなのです。
お釈迦様は、完全なる覚りを得て仏陀になりました。仏陀は、一般的な人間とは異なる身体的特徴がいくつかあります。その数なんと、32種類です。このことを
「如来の三十二相(さんじゅにそう)」
と言います。
さらにその三十二相を細かに分析すると、80種類の身体的特徴になるのだそうです。これを「八十種好(はちじっしゅごう)」といいます。
つまり、仏陀(如来)には、「三十二相及び八十種好」の身体的特徴がある、とされているのです。逆に言えば、この身体的特徴が無い者は、いくら自分で「私は完全なる覚りを得た」といっても、「私は解脱者だ」と威張ってみても、「私は仏陀だ」と主張しても、ウソなんです。如来じゃないんです。仏陀じゃないんです。仏陀であれば、「三十二相八十種好」の身体的特徴を兼ね備えていなければいけないのです。

その特徴の内容については、後ほど説明いたします。その前に、この「「三十二八十種」の文字、よくご覧ください。アンダーラインを引いておきましたのでわかると思います。「相」と「好」と言う文字がありますよね。この文字を並べると「相好」になるでしょ。
そう、つまり「相好」とは、元は如来の身体的特徴を表した語句を縮めたものだったのですよ。

さて、その如来の身体的特徴ですが、具体的に紹介いたします。まずは、三十二相からです。

1、頭頂部に肉が盛り上がった状態になっている。これを肉けい(にっけい)という。
仏像を見ますと、頭が饅頭のように盛り上がっていますよね。二段重ねの頭髪、のように見えます。が、実はあれは髪の毛ではなく、肉自体が盛り上がっているのです。頭頂部にもっこりと肉がついているのですよ。
そんな人間はいない・・・と思うでしょ。でもそうでもないのですよ。まあ、仏像ほど盛り上がってはいませんが、よく修行ができた出家者は、頭頂部がとんがってくるんです。もっこりと膨らんでくるんです。修行が進めば進むほど頭頂部は出てきます。ちなみに、自慢じゃないですが(自慢ですが)、私も頭頂部が少しもっこりと出てきております。少しですけどね。どのようなものか知りたい方は、見せて欲しいといってください。剃髪しているのですぐにわかりますから。

2、身体のすべての毛が右回りになっている。
仏像の頭髪を見ると、イボイボに造ってありますよね。あれは、実は頭髪が右回りにパーマされている状態を表しているんです。仏像ではわからないのですが、如来はすべての毛・・・体毛・・・が、右回りになっているのです。あらゆる毛が、渦巻きになっているんですよ。
お釈迦様は、身体のことはわかりませんが、頭髪は実際はウェーブがかかっていたようです。初期の仏像を見ますと、きれいなウエーブの頭髪になっています。天然パーマだったようですね。それが、いつの間にか、渦巻状の毛になったようです。(その理由は後ほどお話いたします)。

3、前額が平正である。額がでこぼこしていなく、髪の生え際もすっきりしている。
そのままです。解説はいりませんね。額にこぶが無い、ということです。

4、眉間に白いやわらかい毛があって、右回りになっている。これを白毫(びゃくごう)という。
仏像を見ますと、眉間にホクロのようなポッチがつけてありますよね。これは、実は毛です。白髪です。これも毛ですから2の特徴のように右回りに渦巻いています。つまり、仏像のあの眉間のポッチは毛なんですよ。しかも、白髪です。よく、眉間にホクロがあると幸運の相、といいますが、それはウソです。そのホクロが白髪であったり、白っぽいホクロであったなら、幸運なんですけどね。
大切な教えを説くとき、この眉間の毛から、光が放たれます。ウルトラセブンの光線みたいに・・・。
そうそう、よく修行が進むと、額が光りだします。額の中央がぼんやり光って見えるんですね。この白毫相の元はこの額の光だったのではないかと思われます。

5、目の瞳の色が紺碧で、まつげが牝牛の如くである。
お釈迦様(釈迦族)は、純粋なインド系民族ではなかったようです。中近東や欧州系の血が混じっていたようで、瞳の色が青だったらしいです。身体も色も白色系で、白人に近かったようです。瞳が青く、まつげが長い・・・最近の若いお嬢さん方が羨ましい、と思うような目ですよね。

6、歯が40本ある。
普通は親知らずを入れて32本ですね。私は親知らずが生えてませんので28本です。ちなみに3分の1の人は親知らずが生えないそうです(小学館、家庭医学大辞典、参照)。
しかし、40本は生えすぎでしょう。どうやってはえていたんでしょうね。ちょっと大げさなような気もしますが・・・。

7、歯が平らで、きれいな歯並びをしている。
この特徴を持った方は、たくさんいますよね。きれいな歯並びはいいですよね。

8、歯が密で、隙間がない。
歯が丈夫なのです。なんでも咀嚼できる・・・という意味を含んでいます。

9、歯が白くきれいに輝いている。
8番と同じですね。如来は何でも咀嚼できて、歯が丈夫なんです。完璧な人間ですからね。歯が美しいのは、見た目いいですからね。

10、最上の味感を持っている。唾液でどんなものでも美味しくすることができる。
実際には、如来は味と言うものを超越しています。味覚は空ですからね。なので、味わうことはありません。ならば、何を食べても最高であるわけです。一般人の「おいしい」とはちょっと違うんですよ。

11、顎骨が獅子の如くしっかりしている。
歯並びがよく、40本も歯があるということは、当然アゴの骨もしっかりしています。仏像を見てみますと、アゴが張ってますよね。どちらかというと、四角い顔です。

12、舌が薄くやわらかく、長くて細い。舌を出すと顔を覆うことができ、舌先が耳まで達する。
舌がやわらかい、というのはカツゼツがいい、という意味です。舌はきっと長かったのでしょうね。が、顔を覆うことができる、耳まで達するというのは大げさな表現です。そんな人は・・・いませんよね。

13、絶妙なる音声を出すことができる。
どんな人間でも聞きたくなるような声を出すことができるのです。耳に心地よい声、というのがあるらしいですね。揺らぎの音とかいうようですが。お釈迦様は、そういう声の持ち主だったのでしょう。

14、肩の先が丸く豊満である。
仏像の肩を想像して下さい。丸みがあって肉厚な感じですよね。如来像は、みんな「まぁるく」造ってあります。イカツイ仏像は、如来の中にはありません。これは、誰にでも優しくあたることを表しています。慈悲を表現しているんですよ。

15、七つの隆起−両手・両足・両肩・頭頂−が満足していて、柔軟であること。
これはいいでしょう。そのままです。身体が柔らかいんですよ。

16、両腋の下の肉が豊満である。腋の下のへこみがない。
太っているわけではないですよ。いや、太っていても、普通は腋の下はへこんでいるでしょう。これは、如来の身体には、凹みが無い、ということを強調したいがために生まれた相なのではないかと思います。

17、皮膚が滑らかで、黄金に輝いている。
このことから、仏像は金箔にされるんですね。これは、つまりオーラです。夜にオーラのなんとか、っていうくだらない番組(茶番ですなありゃ)がやっていますが、如来のオーラは黄金色です。誰の目にも見えるほどに金色の光を放つのが如来です。ちなみに、大日如来は七色のオーラを自在に出すそうです。
一般人でも、充実した日々を送っている方は、生き生きとしていて輝いて見えますよね。逆に、元気がなく、いつもメソメソ、インインウツウツとしている方は、くら〜く見えたりします。それが、オーラです。誰にでもあるんですよ、このオーラと言うものは。どうせなら、生き生きとしたオーラをかもし出したいですね。

18、手が長い。立っているときに手を下に伸ばせば、ひざまで届く。
実際のお釈迦様も手が長かったようです。とはいえ、ひざまで届くと言うのはちょっと大げさなような・・・。

19、堂々としていて、恐れがない。どっしりとしている。
そりゃそうでしょ。覚っているんですから。覚っている人が、オドオドしないでしょ。解脱者はいつも堂々としているものです。どんな状況であれね・・・。

20、身長と両手を伸ばした長さが等しい。
実はこれ、18番と矛盾しています。両手を広げた長さが身長と同じなら、手が長い、とはいえません。手が長いと言う人は、身長以上に長くないとね。一般に、両手を広げた長さが、その人の身長である、といわれてますよね。ほぼそれであっているようです。まれに、身長より長い人がいます。ボクシングで言うリーチが長い、というものです。なので、これは、18番と矛盾してしまいます。これは、ちょっと間違ったんでしょうね。
ちなみに、私は、自分の身長より両手を広げた長さが15センチほど長いです。おぉ、18番の特徴と同じだ、と喜んだりしてます。(キモイともいわれますが・・・。)

21、一つ一つの毛髪が右旋している。
もう特徴がなくなってきたのでしょうか。きっと最初に三十二相という数字を宣言してしまったのでしょうね。これって、2番と被っているでしょ。ちょっと苦しくなってきたのでしょう。数字合わせは大変です。

22、身体の毛がすべて上向きに生えている。
上向きで右回転の渦巻き・・・・。うぅぅむ、難しいなぁ。実際にどんなのか見てみたい。

23、男根が身体の中に隠れている。
放尿を催すと出てくるのだそうです。これは、男女の性差を超越している、性欲が無いことを表しているのです。実際に、修行が進み、性欲を超越することができると、男根は身体の中に隠れてしまうそうです。そういう修行者がいたそうですよ。

24、大腿部が丸くやわらかい。
14番と同じような意味です。身体が「まぁるい」ことを表しています。その意味は、慈悲です。

25、足の甲が高く、柔軟である。
甲高で柔軟な足なんだそうです。

26、手足が柔軟である。
15番と被ってます。

27、手足の指と指の間に水かきがある。
これは、多くのものをすくい取る、という意味を表しています。両手のひらを広げて水かきで多くの衆生を救う・・・・という意味なのですよ。水泳選手は一流になってくると水かきができてくるらしいですね。人間の身体は不思議ですねぇ。

28、指が長い。
白魚ような指で長くしなやか・・・なんだそうです。

29、手のひら、足の裏に輪の相がある。
仏足石(ぶっそくせき)と言うものを見たことはありませんか?。それは、お釈迦様の足の裏の型(といわれているもの)なんですが、それを見ますと法輪の柄がついています。つまり、足の裏に法輪状に筋が入っているのですよ。これが手のひらにもあるのです。ということは、お釈迦様の手相と足相?は、法輪の模様だったわけですね。まあ、伝説ですよ、伝説・・・。

30、足の裏がすべて地に着く。足の裏に凹凸がなく、どんな地形でもすべて足の裏に接触できる。
いわゆる偏平足ですね。でも歩けなかったわけではありません。お釈迦様はよく歩きましたから。実際は違っていたと思いますよ・・・。

31、足の踵が幅広く、柔らかである。
仏像を見るとよくわかりますよね。足の裏が「まぁるく」造ってあります。この特徴を取り入れているのですよ。

32、ふくらはぎが繊細だが、やわらかく丸い。

身体のどこもかもが「まぁるい」のです。お釈迦様は優しく柔らかく、慈悲深いのです。それを表現したことです。

とまあ、長くなりましたが、これが三十二相です。もちろん、「有りえない」と言うものも含まれています。これは跡付けでしょう。大げさなのもあります。うそ臭いのもあります。
80種好というのは、これをさらに細かく分析したものです。書き出そうかと思いましたが、疲れたのでやめます。有りえないことが多すぎますし・・・。

なぜ、このような特徴をお釈迦様にくっ付けたのか・・・・。もちろん、なるほどと言うものもあります。頭の出っ張りや目の色には根拠があるでしょう。手が長いのもそうです。身体の色も眉間の輝きも根拠があることでしょう。でも、そりゃあ無理・・・というものも含まれていることも確かです。それじゃあ、宇宙人だろ、みたいな・・・。
なぜお釈迦様をこのような超人にしなければならなかったのか・・・・。
答えは簡単です。お釈迦様を特別扱いにしなければ、自分たちが立ち行かなくなったからです。

弟子たちは、お釈迦様の指導のもと、一生懸命修行しました。その弟子たちも修行しました。その弟子たちも、一生懸命修行しました。ずーっと代々、弟子たちは、お釈迦様の教えの通りに一心に修行しました。
がしかし、お釈迦様のような覚りは得られないのです。
そのうちに、一般大衆から批判されます。
「お釈迦様の教えの通りに修行しているのに、あいつらはちっともお釈迦様のような覚りを得られない。修行しているといっているが、遊んでるんじゃないか。あいつらは、怠け者なんじゃないのか。」
とね。
これは困ります。実際に修行しているのにバカにされては、修行者として生きてはいけません。(現代ならよかったのにねぇ)。
そこで、「お釈迦様は特別なんだ」という説が必要になってくるのです。
「お釈迦様は自分たちとは違うんだ、だから仏陀となれたんだ、我々とは異なるんだ」
という根拠が必要となったのです。なので、伝えられているお釈迦様の身体的特徴をもとに、三十二相が創られたのですよ。覚りを得られなかった弟子たちの苦肉の策なんですね。(ちなみに経典の中の前世譚・・・お釈迦様の前世の物語・・・も、覚りを得られなかった弟子たちが教えを元に作ったものがあるようです。)

覚りを得られない・・・というのは、当時の弟子たちにとっては死活問題だったのです。なので、お釈迦様を特別視する必要があったわけです。それには、お釈迦様を超人にするのが一番手っ取り早いですからね。これには、もう一つ、カリスマを生みだすという利点もありますし。今では、覚れない弟子なんて当たり前なんですけどね。昔の弟子たちは純粋に修行をしていたんですねぇ。そのころの修行者から見れば、今の坊主は・・・・。

お釈迦様を初め、如来像というものはたいていの場合、ちょっと微笑んだように顔に造られます。微妙な微笑ですよね。見方によっては、悲しんでいるようにも、哀れんでいるようにも見えますが、たいていの方は微笑んでいるように見える・・・・と思うことでしょう。

仏像のこの微妙な微笑み・・・・ここから相好を崩すという表現が生まれたのでしょう。お釈迦様が人々の善行や信仰する姿を見て、そっと相好を崩しておられる・・・・。
そのように仏像が見えるようになったら・・・・いいですよねぇ。合掌。



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