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43、言語道断 世の中、言語道断なことが多いですねぇ。イジメをする学校の先生も飲酒運転をする警察官も、年金を行方不明にしてしまった社会保険庁も、暴走する北朝鮮も、本当に言語道断ですよね。いったい、どうなっているんだか・・・・。 と、いうわけで、今回は「言語道断」です。これ、仏教語なんですよ。 一般的に使われている「言語道断」の意味は、まあ、皆さんよくご存知だとは思いますが、一応記しておきますね。 言語道断・・・言いようのないほど間違っていること。もってのほか。(新潮社 現代国語辞典より抜粋) とあります。 が、たいていの国語辞典には、もう一つの意味が載っています。それは、 言語道断・・・仏教語。真理は言語を越えて奥深いこと(前出)。 とあります。 そうそう、これが本来の「言語道断」の意味なんですよ。まあ、国語辞典の解説は、簡単すぎるといえば簡単すぎますけどね。 「言語道断」とは、覚りや真理は言葉では表すことができない、ということを説いている言葉なのです。仏教語辞典によりますと、 言語道断・・・言語を超えていること。真理ないしは究極の境地は、口(言葉)や文字(文章)ではとても表しえないほど奥深いことをいう。 とあります。つまり、覚りの境地や究極の真理は、言葉や文字で伝えることはできない、ということですね。 じゃあ、どう伝えるのか・・・・。それは、ポンッとわかっちゃうこと、なんですよ。あっ、という瞬間にわかってしまうことなんですね。これは、禅の世界なんです。 禅の教えは、言語道断、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心・・・・などといわれています。言葉では言い表すことができず(言語道断)、文字では指し示すことができず(不立文字)、心から心へと伝わるもの(以心伝心)・・・・なのです。ここに禅の境地、禅によって至る覚りがあるのです。 禅の教えが生まれたのは、お釈迦様のあるエピソードにあります。有名な話なので、知っておいてもいいと思いますよ。 あるとき、お釈迦様が、たくさんの弟子の前で結跏趺坐をしていました。弟子たちは、いつ教えが始まるのか、静かに待っていました。すると、お釈迦様は、蓮の花を一本とり、それをひねって見せました。クイッと蓮の花の茎の部分をひねってみんなの前に差し出したのです。で、微笑みました。 それを見た弟子たちは、ただただぼんやりとして、その蓮を眺めるばかりでした。ただひとり、マハーカッサパ(大迦葉・・・十大弟子の一人)だけが、お釈迦様を見て、うなずきながら微笑んだのです・・・。 このお話は、これだけです。意味はわかりません。お釈迦様が蓮をひねって示したのはどういうことなのか、マハーカッサパは何がわかってうなずいたのか、それは古来よりナゾになっています。(このお話は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という題名がつけられ、禅問答などに多く使われています)。 このお釈迦様からマハーカッサパへ伝わったことが、言語道断であり、不立文字であり、以心伝心なんですね。お釈迦様は、蓮をひねっただけ。でも、マハーカッサパには伝わった・・・。ここから、文字や言葉では伝わらない深い教えがあるのだ、という教えが生まれたのです。こうして、「禅」が生まれたのです。 ちなみに「禅」は、サンスクリット語の庶民の言葉であるパーリー語の「ジャーナ」を音写したものです。もとは「禅那(ぜんな)」と記し、心静かに瞑想したり、座禅をしたりすることを意味しています。(詳しく言えば、座禅と瞑想は違います。座禅は心を無にしますが、瞑想は己と宇宙をイメージします。似ているようで異なるのが座禅と瞑想ですね)。 つまり、お釈迦様が示した、「曲がった蓮の花の意味」は、「座禅をして覚るしかない」のだ、ということですね。 ちなみに、あなたはこの「拈華微笑」の示す意味をどうとらえるでしょうか?。「わかった」と思う方、もしくは「こうじゃないかな」と思うところがある方は、ぜひメールでお知らせください。なお、私は、私なりの答えを持っています。ぜひぜひ、拈華微笑の意味を説いてみてください。 さて、この拈華微笑のエピソードから、「言葉や文字では伝わらない教えがある」という教えが生まれ、その後多くの言語を超えた教え、を説いた経典が誕生します。言語を超えた教えが説かれた、とは矛盾していますが、その様子を説いたお経、といえばわかるでしょうか。その中でも特に有名な経典は、「維摩経(ゆいまきょう)」でしょう。 このお経は、「維摩」という仏教教団の在家の協力者で「維摩居士」(居士とは、本来仏教教団に多額の寄付をした方のことをいったのです)といわれていた長者が、お釈迦様の十大弟子と問答をし、次々と論破していくという物語になっています。で、十大弟子ではとても敵わないので、文殊菩薩が登場し、維摩と問答をするのです。さすがに文殊菩薩は維摩の問いに悉く答えていきます。そして、問答は「覚りの境地を示せ」というところまで発展します。 維摩は文殊菩薩に問います。 「覚りの境地とは如何に」 しかし、文殊菩薩は答えません。ただただ禅定に入っています。周りにいた十大弟子はあわてます。 (文殊菩薩まで維摩居士に負けるのか・・・。これでは、お釈迦様に面目が立たない・・・) が、当の文殊菩薩は何事もないような表情で、深い深い禅定に入ったままです。 「覚りの境地とは如何に」 維摩が問います。周りは焦りだし、ざわざわします。すると、そこでようやく維摩が大きく笑っていいます。 「見事じゃ、見事じゃ、さすがに文殊菩薩じゃ。それこそ覚りの境地なり!。」 と。周りにいる弟子たちには、さっぱりわかりません。なぜ、黙っているだけの文殊菩薩が覚りの境地なのか・・・・。 で、仕方がないので維摩居士が解説をします。本来、解説はしてはいけないのだけど、お前たちは何もわかっていないから大サービスだよ、と。それは・・・・。 「覚りの境地は言葉では言い表せないものなのだ。だから、そのことを文殊菩薩は禅定に入ることで示したのだ。黙して語らず、これが覚りの境地なのだよ。言葉では伝わらない、ただ心を以って心に伝わるものなのだ。」 これを聞いたお釈迦様の弟子たちは「やられた!」と思ったのだそうです。 (維摩経は、とても面白いお経です。現代語訳もでています。読んでみてください。完璧に見えるお釈迦様の弟子たちが次々に論破されるのは、なんだか気持ちがいいものです。) 禅が説く覚りの境地とは、このように言語を超えたところにある、ものです。それは座禅をして得たり、何か作業をしていてフッとしたときにやってきたり、様々です。古来より、禅の高僧たちは、弟子を殴って教えを伝えたり、師を殴って教えを確認したり、便所掃除中に閃いたり、薪を切っているときにハッとわかったり、そりゃもういろいろです。覚りは、そこここにあるんですね。 まあ、もっとも、そこに至るには、基本の教えと修行だけはしておかないといけませんけどね。 というわけで、言語道断とは、実はとても深〜い深〜い覚りの境地を示した言葉なのですよ。それがいつのまにやら、「言葉では言い表せないほどの大バカモノ」を意味するようになってしまったんですね。 まあ、確かに世の中を見ておりますと、言葉では言い表せないほどの大バカモノは多々いますよね。警察官の癖に飲酒運転するヤツとか、教師の癖に生徒をいじめるヤツとか、親の癖に子を虐待するヤツとか、市民の公僕であるはずなのに市民のことなどち〜っとも考えていない公務員的なヤツとか・・・・・。 とてもとても言葉では言い表せないほどの大バカモノが世の中には、結構いっぱいいたりするんですよね。言葉を超えた大バカモノ・・・・。まさしく、言語道断ですよね。合掌。 44、声明と呂律 他国との取り決めごとなどを発表するときに「共同声明」を行ないます。先日も北朝鮮問題が「議長声明」で終わってしまい、日本にとっては大変残念なことでした。 あるいは、テロリストたちがどこかで爆発行為などをすると、そのあとほとんどの場合「声明文」が発表されますね。まあ、内容は身勝手な事柄なんですが、行為の是非、内容の是非は別として、彼らの主張を声明文に込めているわけですね。 というこの「声明」なんですが、実はもとは仏教の言葉です。一般の読み方は「せいめい」ですが、仏教では「しょうみょう」と読みます。 この言葉、ちょっと変わっていて、漢字は同じなのに読み方で意味が異なる・・・・という言葉です。同音異義語というのは、日本語にはたくさんありますが、同漢字異音異義語というのは、他にあるでしょうか?。う〜ん、ちょっと考えてみたのですが、思いつきません。同じ漢字なのに、読みが異なり、意味も異なるという言葉・・・。もし、他にありましたら教えてください。 と、話はそれましたが、「声明(せいめい)」は、もとは仏教の「声明(しょうみょう)」から生まれた言葉です。読み方を「せいめい」と変えてはいますが、出自は同じなんですよ。 「声明」を「せいめい」と読んだときの意味は、 *ある事柄についての立場・意見などを広く発表すること。また、発表された内容。(新潮社 現代国語辞典) と、まあ、これはわかりますよね。ニュースでよく聞くことですから。 問題は、「しょうみょう」と読んだときですよね。この場合の意味は、国語辞典には *仏教の儀式に用いられる声楽。歌詞に一定の曲調を付して歌うもの。(前出) とあります。ようは、音程付きのお経なんですよ。 真言宗や天台宗などの大きなお寺で、大きな法要を参拝したことがある方は、歌うように唱えるお経を聞いたことがあるのではないでしょうか。それは独唱であったり、大勢のお坊さんで一斉に唱えたり、と様々ですが、独特の節回しでお経を唱えるのが声明(しょうみょう)です。楽器は用いず、声のみですね。アカペラです。 あるいは、うちのお寺で供養をされたことがある方は、節つきのお経を唱えているのを聞いたことがあるのではないでしょうか?。それを唱え終わると、シンバルのようなもの(鉢・・・はち・・・といいます)を叩きますが、聞いたことありますよね。それです。あれは、讃(さん)という声明です。 最近では、お坊さんとオーケストラやオペラが合同でコンサートを開いたりもするようですね。「声明コンサート」なんていう題がついていますが、ご存知ありませんか?。 この声明、うまいお坊さんが唱えると、本当にきれいな声なんですよ。うっとりとします。また、大勢のお坊さんで唱えてもなかなか重々しく、いい声してます。ありがたいですよ〜。そんな気分になります。 そもそも、この声明とは、お釈迦様の教えを歌で以って伝えたところから始まっています。 インドには、バラモンが学ぶべき事柄が五つあります。これを五明というのですが、声明はその中の一つなのです。 (五明・・・@声明:文法学、A工功明:技術・工芸・歴、B医方明:医学・薬学・まじない、C因明:論理学、D内明:自己の宗教観、仏教語辞典より) 本来、声明とは、文法を学ぶことでした。文法を学ぶため、文学を学ぶようになりました。そうして、詩文や抒情詩などを学ぶようになりました。そうしたものは、音程付きのものが多く、歌うように唱える詩が多かったようです。こうしたところから、インドの人々は、様々な教えを詩文にし、音程をつけて唱えたり、覚えたりしたようです。それらは、お経の中では偈文(げもん)と呼ばれています。お経の偈文は、詩です。本来は、歌うように唱えられていたものだったようです。これが声明の始まりですね。 お釈迦様のいらした頃や以後のインドのお坊さんたちは、ただ教えを説くだけでなく、時には吟遊詩人のように詩を唱えて教えを説きまわったのです。それが、中国に伝わり、声明という形ができあがり日本に伝わったのです。 つまり、声明(しょうみょう)とは、お釈迦様の教えを広くわかりやすく伝えるための歌だったのです。この広く世に伝える、という意味から、自分たちの意見などを広く発表することを声明(せいめい)というようになったようですね。声明(しょうみょう)から声明(せいめい)へと読み方だけが変わったわけです。 声明は、主に真言宗や天台宗の密教の宗派で用いられます。他宗派でも声明を唱えますが、真言や天台の声明に比べたら、それほどのものではありません。真言宗や天台宗の声明は見事ですね。 声明には種類がいろいろありまして、唄(ばい)とか散華(さんげ)、伽陀(かだ)、讃(さん、梵語・漢語)、中曲・・・・などたくさんあります。去年、うちのお寺で中曲理趣三昧(ちゅうきょくりしゅざんまい)の法会を行ないましたが、その時は、散華・対揚・五悔・前讃・中曲・後讃・称名礼・・・・といったものを唱えました。ほとんどが、節つきですね。 これが、なかなか難しいものでして、音程が外れたりすると、まあ、あまりよろしくないんです。習いたての頃は、「ヘタクソ!」などと諸大徳のお坊さんから、叱咤されたりもしました。(今じゃあ、あきらめられているようですが・・・)。でもね、ホント、この節回しが難しいんですよ。 その節回しに「呂(りょ)」と「律(りつ)」があるんですが、なかなかこの区別が難しいんです。習いたての頃は、どっちが「呂」でどっちが「律」なのか、よくわかりませんでした。 「この部分は『呂』のユリで唱える、こっちは『律』のユリじゃ。」(ユリっていうのは・・・読み方ですね)。 とか言われてもねぇ・・・。皆さんだってわからないでしょ。 とまあ、このように声明には、「呂」と「律」の唱え方があるんですよ。これは、そもそもは、中国の旋律の約束事だったようです。呂の音、律の音、とあったようですね。呂と律で演奏の仕方が違うらしいのです。 それが、声明にも取り入れられたようです。そうして、仏教の歌である声明にも「呂」の読み方と「律」の読み方ができたのです。 で、お坊さんで声明がヘタクソだったりすると、「『呂』と『律』の節回しがよくない。『呂』も『律』も回っていない」と注意されるんですね。 「呂律(りょりつ)が回っていない!」→「呂律(ろれつ)が回っていない!」 となったらしいのですよ。 すなわち、酔っ払いが何を言っているかわからない状態は、声明がヘタクソなお坊さんの呂と律がうまくない、というところから生まれた言葉らしいのですよ。まあ、漢字は同じですからね。元は、声明の呂と律なんでしょう。 これにはもう一つ説があります。 この呂と律は、端唄や三味線などにもあるらしいのですが、ご存知でしょうか?。私は、よくは知らないのですが・・・。で、歌の師匠さんがヘタクソな弟子を怒るときに、「呂律(りょりつ)が回ってない」と怒ったようです。そこから、酔っ払いが何を言っているかわからないときに「呂律が回らない」を転用した、らしいです。 まあ、いずれにしても「呂」と「律」は、声明と共に中国から入ってきた音程に関する言葉です。日本では、仏教の声明で用いられていました。ですから、声明も呂律も、由緒正しき仏教語なんですよ。 しかし、声明文を発表するときは、堂々として欲しいですね。何を言っているのかわからないようでは困ります。ましてや、呂律が回っていないようなボソボソ声で読みあげるのだけは、やめて欲しいですね。広く、世界に自分たちの立場や考えを発表するのが声明ですからね。自信のなさそうな読み方だけは避けて欲しいものです。 また、今月は忘年会の季節でもあります。酔っ払って、呂律の回らない口調で 「私が○○しま〜す」 などと発表しないようにご注意ください。そんなことで声明を発表する必要はありませんからね。合掌。 45、無頓着 「あいつは、何かにつけて無頓着なやつだ。」 といわれた場合、どちらかというと悪い意味の内容を表しています。「無頓着」は、どちらかといえば「無神経、気がつかない」というような意味で用いられていることが多いですよね。本来の「無頓着」は、いい意味の言葉だと思うのですが、どうもそのようには使われてはいないようですね。 言葉とは難しいものです。いろいろに意味を変化させたり、場合や状況によっては、いい言葉でも悪い意味で使われたりもしますからね。 それだけではありません。言葉は、時代と共に変化していってしまいます。元の意味や漢字も、いつの間にか摩り替わっていたりしますからね。 話はそれましたが、この「無頓着」も実は仏教語の摩り替わったものなのです。いつの間にやら、漢字が摩り替わってしまったんですよ。 「無頓着(むとんちゃく・むとんじゃく)」は、当然ですが「頓着」という言葉から派生しています。もともとは「頓着(とんちゃく・どんちゃく)」という言葉があったからこそ「無頓着」という言葉が存在しているのですね。 この頓着ですが、意味は、 「こだわって気をつかうこと」 とあります。(新潮社、現代国語辞典より) で、無頓着はというと、 「物事を気にかけないこと、平気なこと」 とあります。(同上) まあ、そうですよね。「あいつは無頓着なヤツだ」といえば、「あいつは、気を遣わないヤツだ」なのか「あいつは何にも気にしないバカなヤツだ」なのか「あいつはどんなことにも平気な強いやつなんだ」ということなのか、その真意はそれぞれでしょうが、意味としては「気にしない、気にかけない、こだわらない」という意味になりますが、冒頭に言ったように、あまりいい意味では使われないようです。むしろ、無頓着だと、「無神経」・「気を遣わない」の意味に用いられることの方が多いようですね。なので、「頓着」は、「気を遣う」という意味で使われるようです。「無頓着」ほど用いられませんけどね。 仏教語での頓着は、悪い意味で用いられます。ですから、「無頓着」はいい意味になります。さらに、漢字が異なります。仏教語では、「頓着」のことを 「貪著(とんじゃく)」 と書きます。もともとは、「頓着」はこの「貪著」と書いていたのですよ。 「貪著」の意味は仏教語辞典(縮刷版、東京書籍)によりますと、 @むさぼり求めること。むさぼり執着すること。むさぼり、とらわれ。 A深く心にかけること。 とあります。 本来の意味は、@だけでした。ところが、仏教が日本に伝わり、文化に影響を与えるようになると、仏教語が日常に取り入れられ、誰かに執着することを「貪著する」と言うようになったようです。つまり、相手のことを深く心に思うことを、「相手の人・・・・想い人・・・・に貪著する」というようになったのです。こうして、Aの意味が生まれてきました。 その後、いつの間にやら、@の本来の意味が忘れられ、Aの意味が主流になるにつれ、「貪著」と書き表すことがなくなり、「頓着」と書くようになったそうです。つまり、そもそもは、「恋愛対象の相手や想い人に執着した、想い人を貪った」ところから漢字が摩り替わってしまったのです。 しかし、どうもこの摩り替えには、摩り替えたものたちの意思が残っているように思えます。自然に変わっていったのではなく、作為的に変えた・・・ように思えるんですね。あくまでも想像ですが。 本来の頓着、すなわち「貪著」ですが、これは悪い意味で用いました。もともと「貪」は仏教では三毒(さんどく)の一つで、人間の苦しみの元の一つといわれております。 三毒とは、「貪りの心」、「怒りや妬み怨みなどの心」、「自分を知ろうとしない愚かな心」、の三つの過ちのことを言います。この三毒が人間を苦しめているのですね。この三毒さえ、解毒してしまえば、人は安楽の心を得られるのです。 その中でも貪りは、誰にでもある厄介な毒です。欲望は誰にでもありますからね。貪りとは、己の欲求に従い欲望を顕わにし、欲望の対象に執着することです。ですので、それは苦しみの原因の一つになるのです。 欲しくても手に入らない、でも欲しい。欲しい、欲しい、欲しい・・・・これが執着になります。欲しくても手に入らなければ、人は悩みます。悩むだけならいいけど、無理にでも手に入れようとする場合もあります。それが過ぎれば犯罪に走ることもあるでしょう。貪欲は恐ろしいものなのです。すなわち、貪著は恐ろしいものであり、消し去るようにすべきものなのです。本当はね。 ところが、いにしえの人々は、貪るような恋愛に明け暮れていたんですね。平安期のことです。そんな頃は、他に楽しみがないですしね、愛を貪るのは自然の成り行きだったのかもしれません。 が、しかし、これは当時の教養である仏教に反することです。仏教では、貪るな、と教えています。貪著するな、と説きます。悩んだでしょうねぇ、当時の文化人たちは。想い人に貪著してはならない、でも恋愛をしたい。貪著するな、でも想い人とくっつきたい。それもできるだけ早く・・・・。 「あぁ、愛しい人よ、わらわはあなたに貪著してしまった」 などと嘆いていたのでしょうか。これは仏法に反する、でも思いは変えられない・・・。 こうした時、人は何をするかというと、意味の摩り替えや漢字の摩り替えを行なうんですね。作為的に。じゃあ、こういう意味にしちゃえばいいだろうとか、こういう漢字を使えばいいだろう、などとね。 で、一つには、「相手のことを貪る」という意味を、「相手のことを深く思う、想いを寄せる」という意味に摩り替えようとしました。そして、仏教的な意味での「貪著」は、別の言葉で言い表そう、「貪欲」とか単に「貪る」とか・・・・、としたのでしょう。たとえばこんなふうに・・・。 「じゃあ、漢字はどうしようか・・・・。」 「う〜ん、早く一緒になりたい、という意味を込めたいな。」 「そうか、では、早くという意味で『どん、とん』と発音する漢字・・・・そうだ『頓』がいい。」 「では、ちゃくはくっつくという意味で『着』をあてよう。」 「おぉ『頓着』とは!。これなら、想い人に対する気持ちが込められているぞ。」 「これを広めようではないか。これで想い人に対する気持ちは『貪著』ではなくなった。悪い心ではなくなったのだ。深く思いを寄せる、その人に気を遣っている、という意味で用いればよいのだ。」 「そうだそうだ、愛する人へ思いを寄せる気持ちは、何も悪いことではないからな・・・・。」 とまあ、このようなことがあったのか、なかったのか定かではありませんが、おそらくはこうした経緯から漢字のすり替えが行なわれたのではないかな、と私は想像します。 こうして、貪り執着するという意味の「貪著」は、こだわって気を遣うことという意味の「頓着」へ変化していったのではないでしょうか。人間の欲望が本来の意味や姿を変えてしまったのですね。それこそ、なんという貪欲さ、と思いますけどね。 こうして、「貪著」は「頓着」に生まれ変わりました。意味も「貪る、執着する」から「気を遣う、深く相手のことを思う」へと変化しました。 当然のことながら、本来いい意味であった「無貪著」・・・「執着心がない、貪りの心がない」・・・が、「無頓着」となったとたん、「気を遣わない、気にかけない」になってしまったのです。 こうして見事な、言葉のすり替えが完成したのです。 でも、こうしたことはよくあることだと思います。人は、自分たちに都合の悪いことは、言葉を変え、表面的な姿を変え、わからないようにしてしまうものです。 特に政治家といわれている人や官僚といわれている人なんかは、摩り替えは得意ですよね。いつの間にか、庶民にとって不利益な内容のことでも、耳に入りやすい心地よい言葉に摩り替えて納得させてしまいますからね。 皆さん気をつけてくださいね。知らない間に摩り替わっていることもあるのですよ。表面はソフトな言葉ですが、内容は庶民にとって悲惨なもの、ってよくありますからね。本質をよ〜く見てください、よ〜く監視してください。 それこそ、 「私はそんなこと、なんにもわからない。」 「政治なんて・・・。私が言ったところで変わらないから。」 などと、無頓着になってはいけません。国がやろうとしていることや、世の中の動き、お役人の行動などには、少しは「貪著」した方がいいと思いますよ。あまりにも無関心、無神経じゃあ、気付かなければいけない事柄や、気付くべき事柄にも気付かずに通り過ぎていってしまいますからね。あとで悔やんでも遅いです。あまり無頓着もいけませんよね。 合掌。 追記 「オシャカになる」という言葉について、別の語源を教えてくださったやっきさん、ありがとうございます。ここに紹介させていただきます。 「オシャカになる」・・・その昔、陶製で阿弥陀如来像を造ったとき、阿弥陀様の光背がうまくできないことがあったそうです。阿弥陀様の光背は、針のように一本一本造っていくので難しいんですね。焼きあがると、すっかり光背がなくなっていることもしばしば・・・。そのような阿弥陀如来像の光背が取れてしまった姿は、釈迦如来像と同じになってしまいます。阿弥陀如来像が釈迦如来像になる・・・・。ここから、「オシャカになる」という言葉が生まれた、のだそうです。 同漢字異音異義語を寄せてくださったHIさん、ありがとうございます。紹介させていただきます。 「大会」・・・・お寺の行事などでは「だいえ」と読みます。でも一般には「たいかい」ですよね。仏教では「○○大会」とかけば、「○○だいえ」と読み、大きな法会(ほうえ)のことですね。一般では、「○○大会」と書けば「○○たいかい」と読み、何かのイベントごとになりますよね・・・。 ありがとうございます。このメールを読みまして思い出しました。高野山の伽藍には「大会堂」というお堂があります。「たいかいどう」とは読みません。「だいえどう」です。 そして、「集会」は仏教では「しゅうえ、しゅえ」と読みます。「しゅうかい」ではありません。意味は、法会を行なうために集まること、です。一般にいう集会(しゅうかい)ではありません。「集会所」も「しゅえしょ」になります。 こうしてみると、他にもありました。「結集」は、仏教では「けつじゅう」と読みます。「けっしゅう」ではありません。 まあ、もともと「集会」も「結集」も仏教語を一般に転用したものですからね。読みを変えたのでしょう。意外と仏教語の転用ってあるものですね。皆さんも探してみてください。 合掌。 46、断末魔 「断末魔の叫び声をあげて、彼は死んでいった・・・・。」 などという使われ方をする言葉が「断末魔」ですね。あまり縁起のいい言葉じゃありません。苦しそう死に際を表現するために使われる言葉ですよね。この断末魔、元を尋ねれば、これも仏教語なんですよ。 まあ、字を見れば、なんとなく想像がつきそうな感じですよね。でも、たぶん、その想像は間違っていると思います。この断末魔という言葉、仏教的な解釈をよく間違われるんですよ。 おそらく、皆さんは、次のように想像したのではないでしょうか?。 文字から読み取ると、「末魔を断つ」と書いてありますから、 「人間の持つ些細な魔(欲)、最後の魔を断って覚りを得ること」 どうです?。こういう意味を思い浮かべたのではないですか?。そう思いますよね、漢字から推測すると・・・。 こうした解釈は、結構あるんですよ。 でも、これは間違っているんですね。こんな解釈は仏教語の中にはありません。実は、これはこじつけの解釈なんですよ。 ひどい解釈本などは、 「お釈迦様が覚った時、悪魔の王パーピマンを降伏した。そのときにパーピマンがあげた叫び声のこと。ここから、すべての魔・・・すなわち欲・・・を断って覚りを得ること。」 などとなっていることもあるようです。とんだ間違いです。全くのウソです。こういう書物は、仏教を知らない人が書いたものです。こういう本が出たりしているんですよ。 まあ、間違った解釈が堂々と通ってしまうことはよくある話ですからね、驚きもしませんが、この解釈、すごくもっともらしいんですよね。むしろ、本来の意味よりも、その間違った解釈の方がいいくらいです。 本来の意味は、実はこの間違った解釈ほど、意味が深いものじゃないんですよ。残念ながら・・・・。 現在使われている断末魔の意味は、 1、息を引き取るときの苦痛 2、死にぎわ、臨終。 と国語辞典(新潮社 現代国語辞典より)にあります。 小説などに出てくる「断末魔の叫び声」という場合は、「死んでいくときの苦痛や恐怖の声」という解釈になりますよね。ですから、「断末魔=死に際、臨終」ですよね。 では、本来の意味はどうなんでしょう。お馴染みの仏教語辞典(東京書籍 仏教語大辞典 縮刷版)によりますと、 「末摩とはサンスクリット語のマルマンの音写。末摩に触れて命を断つこと。末摩は身体の中にある特殊の急所で、何かがこれにさわると激しい痛みを起こして必ず死ぬといわれる。転じて人が死ぬ時の最後の苦しみをいう。」 とあります。 古代インドの医学書によりますと、「人間の身体にはマルマンという命を左右する急所がある」、と書かれています。そのマルマンは、十箇所(あるいは64箇所とか120箇所ともいわれている)あるのだそうです。で、そのマルマンが傷つくと、人は激痛や激しい苦しみに襲われて死んでしまうのだそうです。 (このことを取り入れた漫画もあります。よく調べてますよね、漫画家って。) すなわち、断末摩とは、人間の急所であるマルマンが傷ついて激しく苦しんで死ぬことを意味しているのです。ですから、 「断末摩」=「突然の激痛死」 といえばわかりやすいでしょうか。その昔インドでは、突然、激痛や激しい苦しみの襲われ死んでしまった人のことを 「マルマンが断たれたために死んだんだ」 といったのです。現代でいえば、劇症肝炎や激しい心筋梗塞などのことだったのでしょうね。 これが「断末摩」の意味なんですね。これは、仏教語というよりは、古代インドのヴェーダの言葉といった方がいいのですが、仏教と共に日本に入ってきた言葉なので、まあ仏教語でいいでしょう。 さて、上記で、断末魔を「断末摩」と書きました。ひょっとして、「あ、また誤字だ〜。よく間違っているんだよね〜。」とニヤニヤしていたんではないでしょうか?。(まあ、確かに誤字脱字は結構あったりします。お恥ずかしい限りですが・・・・)。実は、これは誤字ではありません。本来は「断末摩」と書いたのです。 いつの時代からなのか、「断末摩」は「断末魔」と書かれるようになりました。もちろん、現代でも「断末摩」とも書きます。「断末摩」と書いても間違いではありません。「断末摩」・「断末魔」、どちらを使っても正しいんです。 が、一般的には「断末魔」と書くことが多いですね。元は「断末摩」なんですが。 おそらく、「断末摩」の意味の誤解は、この文字にあるのではないかと思われます。つまり「断末摩」を「断末魔」と書くようになってから、間違った意味が出てくるようになったのでしょう。 マルマン(末摩)という人間の急所を表した言葉が、断末魔と書くことによって、わずかな魔(欲)という意味を表すようになってしまったのでしょう。そこから、「激しい苦しみを伴った突然死」の意味が「最後の欲を断つ」という誤解が生まれたのでしょう。 でも、どちらかというと、断末摩は、「断末魔」と書いて、「最後の極々最小の魔・・・欲・・・を断って覚りを得る、魔王パーピマンが地獄へ落ちた」という意味の方が仏教的なんですよね。あながち、 「間違ってます」 と指摘しない方がいいのかもしれません。とはいえ、やはり本当の意味もしっかり抑えておかないとね。誤解された意味の方が通るというのでは、ただでさえ本来の意味が失われつつある仏教語が廃れてしまいますからね。 それこそ 「仏教語の断末魔が聞こえる!」 なんてことになりかねないですから。言葉の意味は正しく捉えたいですね。合掌。 47、観念 「え〜い、いい加減に観念しやがれ〜。」 時代劇などを見てますと、よき出てくるセリフですよね。遠山の金さんなどが、悪者に言ったりしていますよね。あるいは悪いほうが、 「観念いたしました〜。」 などといって萎れるシーンもよく見ます。これは、時代劇でなくとも現代のドラマ・・・刑事モノなど・・・で出てきたりしますね。 「観念」、「かんねん」と読みますが、「参りました」というような意味で使われますよね。冒頭の「いい加減に観念しろ〜」は、「いい加減に参ったと言え」でしょうし、「観念いたしました」といえば、「参りました」という意味ですよね。現在ではそういう意味で使われています。現在だけじゃないですね、時代劇でもそういう意味で出てくるのですから。 この「参った」という意味で使われる「観念」ですが、本来の意味は全く違います。そう、この「観念」も仏教語なんですよ。なんとなく、そんな感じの言葉ですよね。「観念」は、紛れもなく仏教語なんですよ、本当はね。 一応、一般で使われている「観念」の意味をおさらいしておきましょう。国語辞典(新潮社 現代国語辞典)によりますと 1、あきらめること、覚悟 2、@(哲)ある対象を指示する意識内容。心理的には表象、論理的には概念。イデア。 A実際から遊離した単なる思考。 B考え。 などとあります。(哲)の方の意味については、パスします。よくわからないですから。あまり関係ないですしね。 ところで、ここで私は省略をしました。というのは、たいていの国語辞典には、(仏)という注意書きつきで、本来の意味が載っているのではないでしょうか。上のは、その部分をわざとはずしておいたのです。なぜはずしたかというと、その意味では、あまり使われることがないからです。また、やはり本来の意味は、仏教語辞典に従った方がいいからです。 とはいえ、一応、現代の国語辞典の内容も全部書いておいたほうがいいでしょうから、やはり掲載しておきます。現代の国語辞典では、 「(仏)真理や仏などを、心を集中して観察思念すること。」 とありました(前出の国語辞典)。確かに、仏教語であることはわかりますね。 さて、では、仏教語辞典(東京書籍 仏教語大辞典)ではどうなっているでしょうか?。仏教語辞典では、このようになっています。 観念・・・観想すること。念想。真理または、仏・浄土などに心を集中して観察思念すること。仏・菩薩のすがたを心に思い浮かべて念ずること。 とあります。なんだ、国語辞典とほぼ一緒じゃないか、と思ったことでしょう。当然ですよね。おそらく国語辞典の編纂者は、仏教辞典や仏教語辞典を参考にしているでしょうから。 ま、それはともかく、観念とは、本来は、「仏様や菩薩の姿、あるいは浄土を思い浮かべ念ずること」を意味していたのです。「浄土を思い浮かべる」ということから想像つくと思いますが、この「観念」という言葉は、どちらかといえば浄土宗や浄土真宗系、念仏宗系の言葉なのですよ。 仏教語辞典の解説に、「観想すること」とあります。「観想」とは、深くおもいをこらすこと、です。真言宗では瞑想といいます。天台宗では止観と同等でしょう。禅では座禅が近いのではないでしょうか。 真言で説く瞑想は、月輪観(がちりんかん)や阿字観(あじかん)です。月の姿を写した掛け軸や阿字(あじ、梵字です)を書いた掛け軸の前で座り、深く瞑想します。その内容は、「己とは?」というところからスタートします。「自分とは如何なるものか。自分自身を深く知る」ことが、密教の瞑想の始まりです。 自分自身のすべてを知ってしまい、それを認めてしまえば、覚りを得られる・・・・ というのが、密教の基本ですからね。大日経に説くところです。 天台宗の場合は、摩訶止観(まかしかん)といいます。私は詳しくは知らないのですが、仏教語辞典によりますと、「止」は心の動揺を止め、本源の真理に住すること・・・であり、「観」はものごとを真理に即して正しく観察すること・・・・なのだそうです。また、「止」=「定(じょう、禅定)」であり、「観」=「慧(え、智慧)」にあたるのだそうです。まあ、一種の瞑想法ですね。 座禅については、何もいうことはないでしょう。ただただ座るだけです。一切のとらわれから解放される・・・それが座禅でしょう。 さて、次に浄土系の瞑想法です。実は、これが「観念」にあたるものなのです。念仏の方法の中に、「観想念仏(かんそうねんぶつ)」というものがあります。字を見て「ははぁ〜ん」と思ったことでしょう。その通りです。観想念仏・・・・略して「観念」ですよね。 観想念仏とは、仏教語辞典によりますと、 「端座し、思いを正しくして想をこらし、一人の仏の相好の功徳荘厳を念ずること。これによって三昧を発得すれば、明らかに仏を見ることができる。この念を行ずる者は、罪障を滅して死後にその仏の浄土に往生することができる」 とあります。 つまり、仏様の姿を瞑想して、その仏様の境地に至れば、死後にその仏様の浄土に生まれ変わることができる、という意味ですね。「死後にその仏様の浄土に生まれ変わる」という点が、いかにも、浄土的教えでありますね。ここから、特に阿弥陀浄土に特化していったのが、観念になっていったのでしょう。観念という言葉は、「往生要集」(浄土系の書)に説かれているようですから。 観念とは、阿弥陀浄土や阿弥陀仏に思いをはせ、 「あぁ、こんな辛い世界はいやだぁ〜。阿弥陀様の極楽浄土へ行きてぇよ〜」 という強い願いを持ったものが行なった一種の瞑想なのでしょう。 「極楽浄土へ行きたいのなら、極楽浄土を想像し、そこに生まれ変わったと念じなさい・・・」 これが、本来の観念の意味なのでしょう。そこには、 「浄土に生まれ変わる」=「この世の死を覚悟する」 という思いが含まれていたのではないでしょうか。阿弥陀浄土に思いをはせ、阿弥陀浄土に生まれ変わることを願い、その覚悟ができたものは、きっと死を恐れずに権力者に立ち向かったことでしょう。 そう、念仏宗などが起こした一揆です。一揆に参加したものは、死後に阿弥陀浄土へ生まれ変われることを信じていたのです。ですから、死をも恐れませんでした。死への覚悟ができていました。 このことから、観念することが、「覚悟する、あきらめる」という意味で使われるようになったのではないでしょうか。一揆に参加するとき、あるいは、これから一揆を起こそうとするとき、参加者は指導者に 「さぁ、阿弥陀浄土を観念しよう。極楽浄土を思い浮かべよう。いいか、みんな覚悟はできたか。観念したか。観念したなら、さぁいくぞ!。」 といわれ、立ち上がったのではないでしょうか。「観念」という言葉には、辛い時代を過ごした辛い生き様が宿っているのです。 しかし、現代の世の中、「いい加減、観念しろ!」といわれる人物が多いこと。そういうヤカラに限って、なかなか「観念しない」んですよね。少しは、仏様の心を学んで、殊勝な気持ちになればいいのに・・・な〜んて思います。 「おい、この悪党ども、いい加減に観念しやがれ!。」 遠山の金さんみたいに、スパッと啖呵きって、悪党を懲らしめて欲しいですよね。そんな世の中、無理ですかねぇ〜。無理ですよね、と観念しますよ、とほほ・・・・。 合掌。 48、用 「さぁさぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。今月もこんなところに仏教語の話を語ります。どうぞ、御用のない方、お急ぎでない方、ちょっと立ち止まって読んでいっては如何かな。さぁさぁ、そこのお兄さん、読んでいってくださいな。ちょいと、そこの粋なお姉さん。うんちく聞いておくんなさい。用のある方もちょいと立ち止まっておくんなさい。今回は、その『用』の話だよ〜。」 ということで、「用」です。 これが仏教語?、と思われるでしょう。確かに、仏教語、といってしまうと語弊があるかもしれません。が、現在の「用」と仏教での「用」との意味が異なるので、取り上げてみました。 また、「用」を使った単語、「用事」などの意味も仏教での意味と現代使われているその単語の意味と、やはり異なるので、それについてもお話したいと思います。 まずは、基本となる「用」からです。 国語辞典(新潮社 現代国語辞典)によりますと、「用」とは 1、@なすべき仕事。用事。 A働き、機能。 (1)なし、なされること。行い、行なわれること。 (2)手段、道具として役立つさま。また、その種類。使い道。使い出。 B大小便。 2、@もちいること。 Aもちいられる金。 B必要とされること。 C用語の略 以下省略・・・・。 とまあ、こんなところでしょう。たいていの場合は、1の@の意味で使いますよね。ところが仏教では、意味が違うんです。そもそも読み方も違います。「用(よう)」は、仏教では「ゆう」と読むんですよ。 では、その意味をお馴染みの仏教語辞典(東京書籍、縮刷版)でみてみましょう。 「用(ゆう)」 @受用(じゅゆう)に同じ。特に施者が僧衆に種種のものを施し、僧衆がこれを受け、費やすことをいう。 A楽しむ。(与えられたものを)享受すること。 Bはたらき。作用。活動。 C実行。耽ること。 D必要とする。 E学人の素質・力量に応じて示す師家の機用。 F・・・・を。対格を示す。「もちいる」という意味ではない。 G「以(もって)」に同じ。具格を示す。「何用」は「何ゆえに」の意。 以下省略・・・・。 ざっと見てどうですか?。現在使われている意味とは異なるでしょ。 そもそも仏教では、「用(ゆう)」といえば、「受け入れる」ことを意味しているのです。これを「受用(じゅゆう)」といいます。これは、今でもそのままの意味で使いますよね。「受け入れ用いる」という意味です。 仏教では、様々な施しを受けたとき、それを受け入れるときに「用」という言葉を使ったのです。たとえば、ある方が 「布を施ししたいのですが」 と精舎を訪れたとします。そうした場合、長老もしくはお釈迦様が 「受用しよう」 といったのですね。「受け入れて使いましょう」という意味です。これが、@の意味です。 Aは、密教でいう「自受法楽(じじゅほうらく)」と同じ意味です。かえって難しくなりましたか?。 「自受法楽」というのは、自分で自分のために覚りの内容を語り瞑想することを意味します。如来は、いつも「自受法楽」しています。つまり、いつも教えを説いているのです。それは独り言のようなものですね。 私たちも、ふとしたはずみに独り言を言っていることあるでしょ。自受法楽というのは、独り言というか、自分で教えの内容を吟味しているというか、考察しているというか、ふっと気がつくとそうしていること、と思っていただいてもいいでしょう。 皆さんも、知らない間に、自分で自分の思いを巡らせ、考察しているときってあるんじゃないでしょうか?。それが、「自受法楽」の状態なのです。 Aの意味は、お釈迦様の教えである仏教を自分自身でよく吟味して、「なるほどなるほど」と楽しんでいることを意味しているのです。つまりこんな感じです。弟子同士の会話と思ってください。 「君、なにニヤニヤしてるんだ。」 「あぁ、お釈迦様の教えを考察していたんだ。」 「なるほど、それで楽しくなったのか。」 「そうそう。お釈迦様の教えを『用(ゆう)』していたんだよ。」 と、こういう使い方ですね。 おそらく、現代使われている「用」の意味は、Bから派生したのだと思います。働き、という意味ですね。また、@で与えられたものを「もちいる」という意味からも生まれてきたのでしょう。 しかし、本来は、Fにもあるように「もちいる」という意味ではなく、「受け入れる」という意味が中心だったのです。 Eの「機用」とは、「機に応じて用をなす」ことです。つまり、弟子の素質「機」に対応した、師の教えの段階のことです。どの程度の教えをもちいるかの判断を意味しています。ですから、師のほうの裁量のことになりますね。 Gは、時代劇などによく出てくるセリフだと思います。「何用じゃ。」という言葉です。聞いたことありませんか?。 時代劇の場合、「何用じゃ」といえば、「何の用じゃ」という意味になりますよね。でも、仏教語では違うんですよ。 仏教で「何用じゃ」といえば、「どうしてだ?、何を以ってそのようなことになるのだ?。」という理由を尋ねる言葉になってしまうのです。 「用」が「用事」ではなく、「理由」を示す意味で使われいるのです。 どうです?、単純な「用」一字を取ってみても、現代語と仏教語では意味が大きく異なるんですよ。 では、用を使った言葉はどうでしょうか?。「受用」は先程出てきましたので、省略します。そのほかの単語についてお話しましょう。 *「用事」 仏教で言う「用事」は「ゆうじ」と読みまして、その意味は「享受、享楽」となります。つまり、「用」の意味のAにあたりますね。 ところが、現代の「用事」は・・・・いうまでもありませんね。誰もが知っていることでしょう。 仏教では「用事」といえば、「受け入れ楽しむこと」になるのですよ。ぜんぜん用事じゃないですよね。 *「用心」 仏教では、 「心をもちいること。心得。心がけ。心くばり。心をはたらかせること。修行の心がけ。病気や心に気をつけること。「常存正念」ともいう。」 とあります(仏教語大辞典 東京書籍)。 現在使われている意味は、「病気や心に気をつけること」から生まれてきたのでしょう。そもそもは、修行中に欲に侵されたり、病気にならないように注意するという意味で使われています。 「常存正念」とは、「常にいつも正しく念じなさい」ということで、魔や欲に負けないよう、心を強くもち、瞑想をしなさいという意味です。 *「用意」 仏教では 「心がまえをすること」 の意味で使われています。「用意せい」といわれれば、「心の準備をすること」となるのです。現在、この意味でもちいたら、大変なことになってしまいますよね。 「用意しておきなさい」 「はい、わかりました」 「・・・・用意できてないじゃない!」 「えっ?、ちゃんと用意しました。心の準備、できてますよ」 これじゃあ、話になりませんよね。仏教語の意味と現在の意味では、大きな隔たりがあるのですよ。 他にもいろいろあるのですが、最後に面白いのを紹介しておきます。それは「用水」です。 「用水」といえば、使用するための水のことですよね。人間にとって「用水」は重要な意味を持っています。 ところが、仏教では「用水」といえば、「小便」のことなのです。したがって、「用水所」といえば「便所」のことになります。「用水路」といえば「小便が流れる水路」となります。そういえば、トイレへ行くことを 「用を足す」、「ちょっと小用に・・・」 などといいますよね。これは、仏教の「用水」の意味の名残りなのかもしれません。 仏教語と現在の言葉の意味の隔たり・・・・。これは大きなものです。間違って使用したら意味が通じませんよね。相手を煙に撒くにはいいかもしれませんが。いっそのこと、わけのわからない言い訳ばかりしている政治家に教えてあげたらいいかもしれません。ちぐはぐな答弁も少しは聞けるようになるかもしれませんよ。 合掌。 49、一味 あるうどん屋さんでの和尚さんと小僧さんの会話。 「和尚様、このようなうどん屋さんに入ってもよろしいので・・・。」 「あぁ、よい。かけうどんや山菜うどんは精進料理じゃからのう。」 「そうなのですか。私は、うどん屋さんは初めてです。いったい何を食べたらいいのでしょう。」 「そうじゃな、まあ、かけうどんがよかろう。おぉ、ただし、ネギは入れるなよ。」 「はい、わかりました。」 注文したうどんが運ばれてきます。 「和尚様、これはなんと読みまするか?。」 「ふむ、一味(いちみ)じゃ。」 「一味とはなんですか?。」 一味を知らなかった和尚さん、困り果てます。 (さてはて・・・確か一味とは・・・・仏の教えはすべて同じであるというような意味じゃったと思ったが・・・。う〜ん、思い出せん。じゃが、仏教語ではあったのう・・・。) 「ふむ、一味とは仏教の言葉でな、仏様の教えはみな同じ、という意味じゃ。」 「では、この一味は仏教のものですね?。」 「そうじゃそうじゃ。」 「へぇ〜。」 と納得しつつ、よその席を眺める小僧さん。すると、他のお客さんは一味をうどんにかけています。小僧さんも真似したくなりました。 「和尚様、他のお客さんは一味をうどんにかけていますよ。」 「そうか、みな仏様の教えを味わいたいのじゃのう。どれ、わしらもかけてみるか。覚りが得られるかもしれん。」 (しかし、なぜ一味がうどん屋にあるのじゃ?。しかもうどんにかけるとは・・・・?。わからん。しばらくうどん屋に来ないうちに、仏様の教えがうどん屋にも浸透したのだろうかのう・・・。ありがたいことじゃ。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・・・・。) 和尚さん、念仏を唱えながら一味をうどんに勢いよく振り掛けました。 「おぉ、見事な朱色じゃのう。朱は魔除けの色じゃ。」 「なんだか、ツーンとするにおいがしますが・・・。」 「目が覚めるようじゃな。頭が冴えて覚りが得られそうじゃな。」 一味たっぷりのうどんを食べた二人は・・・・。 「お、和尚様、さ、覚りを得るのはか、辛いものですね〜。」 「そうじゃ、苦なくして覚りは得られん。耐えるのじゃ。これも修行じゃ。」 「和尚様は、さすがですね。私は和尚様のようには耐えられません。から〜い!。水、お水をください!。」 「わ、わしも・・・・わしも水じゃ。水をくれ〜。おぉ、御仏の教えとは、実に厳しいものよのう・・・。」 二人は、水をがぶがぶ飲んだとさ・・・・。 とまあ、こんなお坊さんは今時いませんよね。そもそも「一味」が仏教語だということを知らないでしょう。「一味」は知ってるけど「一味」は知らない・・・・???。イヤイヤ、食べる一味は知ってるけど、仏教語の一味は知らないのが現状でしょうね。 そうなんです。「一味」とは仏教の言葉なんですよ。 「一味」といえば、うどんやそばに振り掛ける唐辛子の粉である「一味」を思い浮かべるのが一般的でしょう。そのほかには、「仲間」という意味の「一味」がありますか。「○○泥棒の一味」なんて使われ方をしますね。 国語辞典で「一味」を調べますとこうなっています(新潮社 現代国語辞典)。 1、@味方すること。 A同じ仲間。同類の人。同志。 B特に悪人の一党。 2、@一つの味や趣。 A副食物などが一品であること。 B成分が一種類であること。 とあります。まあ、意味はわかりますね。あの唐辛子の「一味」は、2のBの意味から来ているのでしょうね。 ところが、仏教語は違います。仏教語の「一味」の意味は(東京書籍 仏教語大辞典) 事(諸現象)または理(本質)の平等であることを、海水のすべてが同一の塩味であるのに喩える。また無差別のこと。 とあります。ちょっと意味がわかりませんか?。 仏教で言う一味とは、 「この世で起こりうるすべての現象と、そのもとである本質・・・・つまり現象を引き起こしている原因・・・・は、すべて平等である」 という意味なのです。それを 「海水は、波の部分を舐めても、中間の波のない部分を舐めても、海底の部分を舐めても、みな同じ塩味である」 ことに喩えて説いているので、すべて同じ味であるという意味で「一味」と呼んだのです。ちょっと難しいですね。わかりやすく説明しましょう。 この世で起きている現象とは、喩えていえば海の波のようなものなのです。波が起きる原因があって、波は起きています。そして、その波とは、海の水とつながっています。切り離されてはいません。海の水があってこそ、波は生じるのです。波は、海水の表面で起きていることにすぎません。 その証拠に、波を舐めても、波の下の水を舐めても、もっと深くの水を舐めても同じ味がします。これは、波も波の下も、さらに波の奥深くも、みなつながっている、同じ海水であることを示しています。 すなわち、この波と同じように、この世で起きる現象も、それは表面上のことだけであって、起きた現象もその原因も同じものである、本質的には平等であるのです。つまり、結果である現象も原因である本質も、すべて平等である、ということなのですよ。 したがって、この世で起きた現象だけを追いかけてはいけないのです。現象は現象です。波は波です。波だけ切り離して海が理解でぬように、現象だけ見ていては本質が見えては来ないのです。 つまり、現象も本質も同じもの、海水の波と海底の水とが同じ味・・・一味・・・・であるのと同様なのですよ。 というたとえ話に用いられたのです。 もう一つ「一味」は、別のことを喩えるために使われます。それは、冒頭の和尚さんが考えていたことです。和尚さんは、間違っていたわけではないのですよ。 「一味の法」といい、「仏(お釈迦様)の教えは、誰に、どんな内容を説いたときも平等に説かれたものである。」という意味で使われます。 お釈迦様は、対機説法(たいきせっぽう)という説法の方法をとっていました。対機説法というのは、相手の能力・理解力、立場や環境に応じ、相手に合わせた教えを説いたのです。誰に対しても一律に同じ事を説いていたのではありません。なので、ある人は「このように聞いた」、また別の人は「そうは聞いてない」ということも有り得るのです。こうなると、「聞いた」、「聞かない」という揉め事が起き、「不平等だ」という不満が生まれますよね。 対機説法というお釈迦様の説法の仕方を理解していればこのような誤解は起こらないのですが、教えを聞いたものの中には、このことを理解していないものもいたのですね。 で、そこで、お釈迦様は 「仏の教えはすべて一味である」 と教えたのです。つまり、 「仏の教えは、相手によって内容は変わるが、本質は同じである。それはあたかも、海水の味が海岸でも遠くの沖のほうでも、西の海岸でも東の海岸でも、同様に塩味であることと同じである。誰が、いつ、どのような内容の教えを聞こうとも、それはその人に合わせた説き方をしただけであって、内容の本質は同じなのだ。すべて平等なのである。」 ということなのです。お釈迦様の教えは、すべて平等、同じ味・・・一味・・・なのです。波立った人であろうと、穏やかな人であろうと、深く沈んだ人であろうと、その人に話すことは違っていても、内容の本質は同じなんですよ。 ところで、よく「波乱万丈の人生」とか「人生の荒波に耐えてきて・・・」などといいますよね。多くの苦労を重ねてきた方の人生を波に喩えていった言葉ですよね。 波乱万丈の人生のその波も、実は所詮は現象なのです。海水の波の部分だけなんですよね。海水の表面しかみていないんです。いわば、苦労なんて、波乱なんて、表面上のできごとにしか過ぎないのですよ。海を見ないで波だけ見ている、に過ぎないのです。 問題は、波の部分でなく、海のほうなのでしょう。海水そのものを見なければいけないのです。波だけ切り離して見てはいけないのですよ。波も海水も「一味」なのですからね。 大切なのは、「なぜ波乱万丈になったか、なぜ波ばかりあったのか」なのです。そちらが本質なんですね。 私は、他人の苦労話が大嫌いです。よくいますよね。苦労自慢する方。ああいうのは聞きたくありません。ですので、私も苦労話はいたしません。 TVなどで「波乱万丈伝」などというものがやっていたそうですが、ああいうものも見ません。人の苦労話を聞いてどうするの?、と思います。 苦労を乗り切ってきたんですよ、こんなに苦労したから今があるんですよ・・・。 そういうのは、自分がわかっていればいいことでしょう。他人に自慢することじゃありませんよね。しかも、苦労するということは、それだけ徳がなかった、苦労の原因があった、ということですからね。大事なのは、苦労という波の部分ではなく、そのもとを作っている原因のほうでしょう。苦労するに至った原因が大事なのです。 私は苦労ばかりで・・・、苦労してきましたよ、今も苦労ばかりですよ・・・・。 などと嘆く方がいますが、それは波の部分しか見ていないんですね。波だけじゃなく、海水・・・本質・・・のほうをみなくちゃ。問題は、波にあるのではなく、波を起こすもとにあるのですから。波も海水も同じ海の味、ですからね。 ものごとの現象ばかり追っかけていてはいけません。現象ばかりにとらわれてはいけません。現象ばかり見ていると、その本質を見失ってしまいます。 表面上の華やかさ、TVに出て持て囃されている・・・・そういう現象にとらわれていると、その人の本質を見失いますよ。表面上は美味しそうに見えても、本質は毒・・・ってこともありますからね。 本来は、表面も本質も同じ味なのですからね、気をつけてください。気をつけないと、「一味」を知らないでかけた和尚さんのように、辛い思いをしますよ。 合掌。 50、観察 梅雨時ですね。この時期なると、小学生のころ、カタツムリの観察を授業で行ったことを思い出します。そういえば、カタツムリも最近見ないですねぇ。いったい、どこへ行ってしまったのやら・・・。 とある学校の低学年の教室でのこと。 「はい、皆さん、カタツムリを捕まえてきましたか?。今日から、教室で飼ってみましょう。いいですか〜、毎日、カタツムリの様子を観察するのですよ〜。わかりましたか〜?。」 「は〜い。わかりました〜!。」 さて、その日から子供たちのカタツムリの観察が始まりました。ノートと鉛筆を手にカタツムリの絵を描いたり、何を食べているかを記録したり、糞はどんなものか調べたり・・・。みんな交代でよ〜くカタツムリの様子を観察しています。 そんな中、一人の子供がボ〜ッとしていました。 「おやおや、太郎君は何をしているのかな?。」 先生がやさしく聞きます。 「カタツムリを観察しているんです。」 「観察してるの?。ふ〜ん、で、ノートや鉛筆は?。」 「いりません。」 「どうして?。観察しているんでしょ?。観察したことをノートに書いておいたほうがいいんじゃないのかな?。」 「でも先生は観察しなさい、って言ったでしょ。」 「うん、いったわよ〜。」 「だから、観察しているんです。」 「いや、だから、太郎君のは見てるだけでしょ。観察じゃないでしょ。」 「えっ?。観察ですよ。やだな、先生、観察の意味を知らないんですか?。」 「何を言ってるの?。それくらい知ってるわよ。知ってるから、君に観察しなさい、って言ってるのよ。」 「ダメだな、先生。観察って言うのは、よ〜く見ること、って言う意味なんですよ。だから、僕はよ〜っく見ているんです。先生が言っていることは、よく観察しなさい、そして観察したことをノートに記録しなさい、と言うべきなんですよ。」 (きぃ〜、何ってニクッタらしいガキなんでしょう!。誰がそんなことを教えたのかしら?。) 「先生、怒るとせっかくの美人が台無しですよ。先生をよく観察していれば、先生の心はわかっちゃいますよ。あぁ、観察って、怖いなぁ・・・。」 と、まあ、こんな小生意気な小学生はいないでしょうが・・・・えっ、最近はいるかも知れないって?、あらそうですか、嫌な世の中ですねぇ・・・・、観察の意味に関しては、この小学生の言うとおりなのです。 もとは、仏教とともに日本に伝わった言葉のようです。 国語辞典(新潮社 現代国語辞典)によりますと、観察とは、 @物事をよく注意して見ること。 Aある現象を、一定の目的に従って、自然の状態のままに注意して見ること。 とあります。まあ、どちらも、よ〜っく注意して見ること、ですね。 そうなんですよ。観察って言うのは、よく注意してみることなんですね。ですから、 「観察しなさい」 といわれたら、よく見ていればいいのです。ただ、よく注意して見ていればいいのです。 そもそも観察とは、仏教の言葉であったらしく、仏教では、 「見つめる、ながめる」 という意味で用いられていたようです。おなじみの仏教語大辞典(中村元著 東京書籍)によりますと、 @見つめること。ながめる。 A物事を心に思い浮かべて細やかに明らかに考えること。よく熟思すること。よく熟考すること。考察すること。 B判断、決定。 Cよく熟考する人。 とあります。 本来は、@の意味でした。世の中の状況、流れ、仕組みをよく眺めて悟ることを「観察する」といったのです。これは、仏教の修行の基本であります「八正道」の一番最初の「正見」にあたります。 正見とは、あるがままに「見る」ことです。自分の思いや感想、感情、思想などを含まないで、あるがままそのものを「見る」ことです。 本来、観察とは、自分の意見や予測、期待などを入れないで、ただそのものを見ることなのです。それが観察なのです。 これは、結構難しいことです。自分の思いや考え、期待感、感情などを入れないで、そのものを見るというのは大変難しいんです。それは、絶対的客観という立場でなければなりません。まったく感情を入れてはいけないのです。どうですか、できますか?。 できない、と思った方は正直ですよね。そう、完璧な客観というものは、まあ無理な話なのです。人は、感情に流されているんですよ、絶えずね。 さて、それでは話になりませんので、絶対的な客観という見方はできるかどうか、そういう見方ができたらどうなるだろうか、と想像してみましょう。自分が、完璧な客観的思考を手に入れた、とします。さぁ、想像してみてください。できましたか?。 想像の世界では、あなたは完璧に客観的にものごとを見ることができます。その立場から見れば、世の中はどうでしょうか?。不平等でしょうか?。平等でしょうか?。個人の感情や意見は交えてはいけませんよ。あくまでも客観的立場で見てくださいね。想像の世界ですからね、実際ではありません。想像するんですよ。 と、このように想像したり、一つのことについてよく考えることも観察の意味の一つです。仏教語大辞典のAの意味に当たりますね。これは、一種の瞑想でもあります。 悟りについてじっくり考えてみる。深く深く考えてみる・・・・。こんなことが悟りだろうか、悟ればこうなるのだろうか、お釈迦様の悟りの内容はいかなるものだったろうか・・・・。 このように熟考することを観察というのです。 般若心経を思い出してください。 「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時・・・・」 観自在菩薩が、般若波羅蜜多を深く行じた時・・・・。つまり、観自在菩薩は般若波羅蜜多を観察したのですよ。そうしたとき、すべては空である、と覚ったのですね。 深く行ずる・・・これも観察なのです。 ちなみに、大日如来の智慧の一つに(大日如来には五つの智慧があります。詳しく話すと難しくなりますので、深く考えないでください。)「妙観察智(みょうかんざっち)」という智慧があります。簡単に言えば、「不思議なる観察の智慧」という意味になります。つまり、究極的に正しくものを見ることができる智慧、のことです。また、あらゆる「あり方」を熟考することができる智慧でもあります。これが、観察の中でも究極の観察なのです。 すなわち、観察とは、絶対的な客観で物事を見る、ことなのです。 世の中のことをじっくり観察すれば、世の中の矛盾や間違いがよく見えてきますし、如何に人間は勝手で感情に流されやすく、物事を深く考えない、騙されやすい、他の意見に流されやすい、その上ワガママで嫉妬深く、執念を燃やし、欲深く、うじうじしていて、腹黒く・・・・あぁ、なんて愚かな生き物なのだろうか、ということがよくわかります。また、そういうところが愛されるところでもあるのか、ともわかることでしょう。 さぁ、皆さん、世の中を観察してみましょう。なんの感情も交えず、あるがままを見てみましょう。 えっ、そんなことをしたら、昨日まで惚れていた女性が見られなくなる?、昨日まで素敵に思えた男性が醜く見える?。 いやいや、何も悲観することはありませんよ。だって、お互い様ですからね。自分もじっくり観察されれば・・・・・。あぁ、この先はいえません。観察しすぎるのも罪かも知れませんねぇ。ホント、太郎君の言葉の通り、 「観察って怖いなぁ・・・。」 合掌。 |
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