えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー8

57、道理で・・・
「なるほど、道理でそうなったわけだ・・・」
「道理で・・・・あぁ、そういうことか」
などという言葉、日常でよく使うこと、ありませんか?。普段は意識していないけど、
「道理で・・・」
って、結構聞きますが、如何でしょうか?。皆さんは、使いません?、「道理」という言葉。
そのほかには、筋道が通らないこと、話の筋が通ってないことを
「道理が通らない」
などとも言いますよね。
普段、何気なく使っている言葉「道理」。これも元々は、仏教の言葉なんですよ。

すっかり日常に使う言葉になっている「道理」ですが、日常で使う場合の意味は、国語辞典によりますと次のようになっています(新潮社 現代国語辞典)。
@正しい判断・行為の基準となる事柄。物事のそうあるべき筋道。ことわり。わけ。原理。
A人として行うべき道。道徳。申し分なく筋道が立っていること。もっとも千万。
「道理で・・・・」と使う場合は、Aの後半ほうですね。「道理が通らない」として使う場合は、@のほうです。まあ、国語辞典を引っ張り出さなくても、意味は皆さんご存じだとは思いますが・・・。

では、仏教語の「道理」はどうなっているのでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典(東京書籍)でみてみましょう。
@みちすじ。事がらのみちすじ。あらゆる事物が存在し、変化していくにあたって必ず依準されるきまり、法則をいう。ことわり。正しい理論。生滅変化する一切万有をつらぬいている法則。観待(かんたい)・作用(さゆう)・誠成(じょうせい)・法爾(ほうに)の四つの道理が説かれる。
A次第。わけ。
B歴史的変遷の展開過程。あらゆる国々に通ずる普遍的理法をいうのではない。
なんだか、よくわからないですよね。かえって難しくなってしまっているような・・・・。
とりあえず、現代使われている「道理」も仏教語の「道理」も「みちすじ、筋道」という意味である、ことは確かですね。簡単にいえば「正しい筋道、正しい意見」が「道理」です。
「道理で・・・」というのは、「道理」が「わけ」や「ことわり」という意味があるから、「そういうことならば、なるほど筋が通っている」という意味で「道理で・・・」になっていったのでしょう。「道理が通っているから」、「なるほど、それは道理だな・・・」から、「道理でそうなるわけだ」となっていったのだと思います。

さて、わからないのは、仏教語大辞典の@の中にあった「四つの道理」です。「観待・作用・誠成・法爾」です。なんのことやら・・・・ですよね。
で、またしても仏教語大辞典の登場です。それぞれの意味を調べますと・・・。
*観待(かんたい)・・・他のものに依存すること。
という意味ですから、「観待の道理」とは、「修行者は他のものに依存する心があるということ」を意味しています。すなわち、「人間、誰でも他人に頼ってしまうのだ」という道理ですね。なるほど、その通りです。人間だけでなく、この世に存在する生命は、互いに依存しあってますからね。ですから、人は一人では生きてはいけないのですよ。ちっぽけな存在かもしれませんが、誰かがあなたを頼っているのです。なので、命は大切にしましょうね。

*作用(さゆう)・・・@はたらき。活動。A作因。動因。B法の生滅をいう。C実行すること。
この中でも、「作用の道理」とは、ABの意味で、「実在根拠となって何ものかをつくり出す因がある」という意味です。え〜、何だかわからないですね。簡単にいえば、「何かが他のものをつくりだす原因になっているという因果関係のこと、すべての存在が生滅を繰り返すという法則」のことですね。「因果関係。輪廻転生」のことです。「何かが何かに働きかけて、何かを生み出している。また、そのことにより、生と死を繰り返している」という教えのことです。
ちなみに、現代使われている作用(さよう)という言葉は、仏教語の作用(さゆう)がもとです。そもそもは「さゆう」と読むんですよ。

*誠成(じょうせい)・・・仏教語大辞典には掲載されていません。ですが、「誠」とは「まこと」のことですから(仏教語大辞典にも、「まこと」と記されています)、誠成は、「まことを成す」の意味でしょう。また、「まこと」は「真実」の意味で使われますから、「まことを成す」とは「真実を成就する」という意味になります。
したがって、「誠成の道理」とは、「真実を成就するための筋道」のことを意味しているのでしょう。「真実へ至るための過程」ですね。そういう道理のことです。

*法爾(ほうに)・・・@自然の定まり。運命が定まっていること。A自然に。もともと。法としてそのまま。B任運。自然(「じねん」と読みます)。もとからそのまま。きまり。本来。本来あるがまま。あるがままのすがた。天然自然そのままのこと。さながらに。C省略
とまあ、たくさんあるのですが、意味は同じですね。「もともと」ということです。「最初っから」と言ったほうがわかりやすいですね。私たち坊さんは「法爾自然(ほうにじねん)」という言葉を使います。たとえば、
「悟りは法爾自然に備わっているのだ」
とかね。意味は「悟りはもともと備わっているものだ」ということですよね。本来、悟りを持っているのにいろいろな欲望が邪魔をして悟りが埋もれていることを意味しています。
これが、「法爾の道理」ですね。「もともと、備わっているものがある」ということです。人間が手を加えたのではなく、何かから影響を受けたのではなく、「初めっから身についていること、初めっからあるもの」が存在するのだ、というのが「法爾の道理」です。

難しい話になってしまいましたが、「道理」にもいろいろあるんですよ。いわれてみれば、「当たり前のこと」なんですが、その「当たり前のこと」に気がつかないんですよね。言われて初めて
「あぁ、そうか・・・。道理だな」
とわかるんですよね。道理ってそういうものかもしれません。

なお、現代使われている「道理」の意味のA(国語辞典に掲載されているほう)で、「人として行うべき道。道徳。」という意味がありました。その中の「道徳」・・・皆さんよくご存知の・・・も仏教の言葉なんですよ。もともとはね。仏教語大辞典によりますと、
道徳・・・@さとりの本質。A生きる道。道。人の行うべき正しいすじみち。B徳は得の意。道を学んで身につけた徳。道とそれによって実現される徳。
とあります。「道」とは仏教では「さとりへの道。悟りへ至る方法」のことですから、「道徳」とは「悟りに至る過程において身に付いた徳、人として生きるための大事なこと」なのです。つまり、「人が人として身につけておかねばいけないマナー」ですよね。
私が小学生のころは、ちゃんと「道徳」の授業がありました。内容は、仏教的な話が多かったように思います。他者への思いやり、をテーマにした物語を中心とした授業だったように記憶しています。
いつの頃からか、「道徳」の授業がなくなってしまいました。宗教色が強いとか、一方的な考えの押しつけだとか、そんなアホらしい理由でなくなったように聞いていますが、もしそうなら、とても残念なことだと思います。その当時の教育者・文部省のお偉いさんは、「道徳」の本当の意味をご存知なかったのでしょう。
「道徳」は、仏教語かも知れませんが、意味は「人が人として身につけておかねばいけない最低のマナー。人が人として生きる道、思いやり」ということなのですからね。それを理解できないなんて、なんと思いやりのない教育者ばかりだったのでしょうか、とつくづく思います。
現在でも、道徳教育については、なんだかんだと揉めているようですね。バカバカしいったらありゃしない。難しく考えないで、子供たちに「他人に対する思いやり、社会のマナー、環境や社会への優しさ」を教えればいいことです。それに対して「成績」などつける必要はありません。話を聞かせたり、読ませたりして、「どう思ったか」を書かせればいいだけのことです。で、その結果をみんなで話し合えばいいのですよ。そうして、一人ひとりがマナーについて、思いやりについて、優しさについて理解を深めればいいだけのことです。
スーツを着た偉い方々が、くだらない理屈を並べたて子供たちの心を蝕んでいくんですねぇ・・・・。

道理で、この国のお偉いさん方の言葉は「道理が通ってない」のでしょう。なんせ、道理がわかってないですからね。人としての道理が理解できていないんですよ。
だから、政治家はじめ、官僚、役人、その他もろもろのお偉いさん方には優しさがないんです。もう一度、道徳教育を受けなきゃいけないのは、お偉いさん方なんじゃないでしょうか。そのほうが、道理が通るってもんです。
合掌。


58、食堂
最近では
「食堂へ行こうか」
などという言葉は、あまり使わなくなりましたね。食堂・・・というよりレストランですかねぇ。昔は、「大衆食堂」というのがたくさんありましたが、最近では商店街の中に少し残っている・・・という程度でしょうか。家庭的な料理を食べさせてくれる大衆食堂・・・。懐かしいものです。
さて、この「食堂」ですが、もともとは仏教の言葉なんですよ。ご存知でしたでしょうか?。仏教では、「しょくどう」と読まずに「じきどう」と読みます。「食」は「しょく」ではなく「じき」なんですね。ですから、仏教語では「食事」も「しょくじ」とは読まず、「じきじ」と読みます。

「食堂(しょくどう)」を国語辞典(新潮社 現代国語辞典)で調べてみますと(今さら、そんな必要ないだろ、という声も聞こえなくはないですが・・・)、
@食事に専用するへや。ダイニングルーム。
A食事をさせる店。
とあります。ちなみに「→ジキドウ」とも書かれていました。さすが国語辞典ですね。
また、これ以上の説明も不要でしょう。誰もが、一度はお世話になったことがあるでしょうから。

では、「食堂(じきどう)」のほうはどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典(東京書籍)で見てみましょう。
*僧衆の食事をする建物。上代では独立の建造物であった。禅宗では斎堂または僧堂として残っているが、他宗では一般に庫裡があてられた(以下省略)。
ということで、お坊さんが食事をするところを「食堂(じきどう)」と呼んだのですね。現在でいう、庫裡(くり)にあたる、とされていますが、これは実は正確ではありません。
庫裡は、食事をする場所だけではなく、僧房・・・お坊さんが生活をする部屋・・・、トイレ、風呂なども含んでいます。つまり、お坊さんが修行をする場所が本堂や講堂、修行道場であり、生活する場所が庫裡なのです。
なので、食堂を庫裡にあてるのは、広い意味で・・・ということになります。
食堂は食堂・・・ですね。
ちなみにトイレですが、お寺用語では「東司(とうす)」といいます。厠(かわや)ともいいますが、主に禅宗では東司といいます。そもそもは、東のほうと西のほうにトイレを作ったらしいんですね。で、東のトイレを東司、西のトイレを西浄と呼んだそうです。後に、トイレのある方角と関係なく、東司と呼ぶのが主流になってきたそうです。和風の食堂などのトイレに「東司」と書かれたりしていたら、ちょっと粋かもしれません。

さて、食堂です。
坊さんにとって食事も修行です。その修行をする場所が「食堂」なのです。ですから、現代の食堂のように食事を楽しむ場所ではありません。食事を楽しんではいけないのですよ。食堂は、本堂や修行道場と同じ場所なのです。
食事は修行ですから、細かな作法があります。食事作法(じきじさほう)といいます。え〜、詳しくは書けませんが、食事をする前に、お経を唱えたり、仏様や世界中の人々、一切精霊などに食事を施すなどの作法があるんです。特に重要なことは、食事は身体を保つために取るものだ、と認識することです。その部分だけ、ちょっと書いておきます。在家の方が修行するために優しく書かれた句がありますので、紹介しておきましょう。高野山真言宗の勤行次第「食事極略作法」に載っています。
*五観(ごかん)
一つには「己の行為をかえりみ この食べ物が如何にして作られたか思う」
二つには「己の徳を積む行いが 完(まった)きか欠けているか多いか少ないかを思う」
三つには「善心を妨げ過ちを起こすは 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚痴なることを思う」
四つには「食べ物は命を養うためであり 正しい食べ物を必要の限度にとることを思う」
五つには「正しき生活を目標にして 徒に世の栄達を願わざるを思う」

*誓願の偈(せいがんのげ)
また食事の始まりには、次のように念じながら食事を始めます。
一切の悪を断つために・・・ご飯を一口食べる
一切の善を修すために・・・ご飯を一口食べる
一切の生を度すために・・・ご飯を一口食べる
仏道に回向するために・・・菜汁(おかず)を一口食べる
このような決まりがあります。それから静かに食事を始めるんですよ。

意味はだいたいわかりますよね。
五観は、簡単にいえば食事を取る資格が自分にあるかどうかを問うているのです。
まずは、食事が多くの人々、多くの命によって作られていることを認識し、その多くの命を取るにふさわしい行為をしているかどうかを思います。己の行為が他の命を頂くのに相応しくないのであれば、食事はとってはならないわけです。
次に、自分の徳を積む行いが、ちゃんとできているか、足りなくはないか、多いか少ないか、を思います。徳積みの行為が足らなかったり、少なかったりすれば、食事も少なくする必要があります。己の徳積みに見合っただけの量でいいのです。
次に善の心を妨害する原因は、貪りや妬み愚かさであると認識し、食事に対し貪らず、多いとか少ないとか妬まず、不味いとか愚痴を言わぬよう戒めるのです。
続いて、食事というのは身体を維持するためのものであり、楽しむものではない、と認識します。
そして最後に、欲の心を断つのです。
このことを思ってから食事をするのですよ。このようなことを問われたら、私などは食事がほとんどありませんね。
皆さんはいかがでしょうか?。食事を取る資格はありますでしょうか?。ちょうどいいダイエットになるかも?。
それもいいのか悪いのか・・・・。

で、食事の始まりですが、ご飯を三回食べてからおかずを食べます。おかずと言っても当然「一汁一菜」ですから、大したものではりません。ちなみに、私が修行をしていた時は、
朝食は「ご飯、お味噌汁、漬物少々」
昼食は「ご飯、お味噌汁、おかず、漬物少々」
でした。お昼のおかずは、もちろん精進料理です。野菜炒めとか、ナスの焼いたものとか・・・。変わったところではミート抜きミートスパゲッティなんていうのもありましたね。(夕飯は基本的にありません。まあ、自由ですが、本来は無いものです、二食が基本です)。
こうしてみるだけでも、如何にも修行になりそうでしょ。食べすぎなんてあり得ませんからね。修行の食事を実生活に取り入れれば絶対ダイエットできますよ。メタボよさようなら・・・・なんて簡単ですね。

とまあ、このように食事も修行の一つなのです。というよりも、むしろ重要な修行なのです。食欲(「しょくよく」ではなく「じきよく」です)をなくす、食欲にとらわれないためのね。
今では、「食欲(しょくよく)がない」・・・といえば「大丈夫ですか?」と心配されるのですが、仏教者にとっては「食欲(じきよく)がない」・・・・といえば、「それはよかった、悟りに近づいた」と褒められることなんですね。
食欲は、捨てるもの、とらわれてはいけないもの、なのです。そのために食堂で食事の修業をするのです。
ちなみに、食堂にも本尊様を安置します。食堂の本尊様は「文殊菩薩」か「大黒天」が多いようです。文殊菩薩は、智慧の菩薩ですが、智慧を持って食事をするということから、食堂に祀られたのでしょう。大黒天は日本では台所の神ですからね(日本では、です。本来は破壊の神ですから)。

ちなみにお釈迦様がいらした時代も食堂はあったようです。ただし、その当時は、食事は托鉢でした。ですので、食堂で修行僧が一緒に食事を取る、という決まりはなかったようです。また、托鉢ですから、当然修行僧が作る、というものでもありませんでした。仏教が中国に伝わった頃から、托鉢だけでなく、僧侶が修行の一つとして食事を作るようになったようです。そのころから、食堂も積極的に造られることになったのです。
日本でも托鉢とお堂の中で食事を作るという二種類が混在していました。今では托鉢僧は見かけませんが、昭和30年代は「門付け(かどづけ)」などと言って、家々を回って食を乞う人たちに交じって托鉢僧がやってくることがあったようです。
ちなみに現在では差別用語になっている「乞食」ですが、もとは「こつじき」といい、仏教の言葉です。托鉢のことを「乞食(こつじき)」といったのです。托鉢=食を乞う、ことですから、乞食(こつじき)といったのです。そこから、僧侶以外で家々を回って食を乞う者、路上などで托鉢する僧侶を真似て金品を乞うものを「乞食」と呼んだのですね。
彼らは、僧侶の托鉢を真似て食や金品を乞うようになったのです。もとは、托鉢のことを言ったのです。
余談でしたが・・・・。

さてはて、現在、高級食堂・・・あぁ、一般では料亭と呼ばれていますが・・・ここでは、修行ならぬ不穏な相談事が毎夜行われているとか・・・。いけませんねぇ。食堂は修行の場ですからね。怪しい相談で汚されたら困りますな。
この国のかじ取りを行っている人々(妖怪?)には、ぜひぜひ食事作法(じきじさほう)を行ってほしいですね。己が税金を使うのに相応しいかどうかを問うて欲しいですね。
国会議事堂ならぬ国会食事堂(こっかいじきじどう)のほうが必要なのではないかと・・・・思うのは、ひねくれ過ぎてますかねぇ・・・・。
合掌。


59、成仏
「成仏」といえば、当然仏教の言葉ですよね。どなたでも気がつくことでしょうし、ご存知のことだと思います。それを今さらなんでここで取り上げるのか・・・・。皆さん、そう思われるのではないでしょうか。さては、ネタに詰まったのか・・・などと思う方もいらっしゃるでしょう。
いやいや、別にネタに詰まったわけではありません。ちょっと詰まり気味ですが、最近・・・。確かに苦しいですが・・・。
いや、そうではなくて、日ごろ使われている「成仏」の意味が、本来の「成仏」の意味とかけ離れているので、これはいずれ取り上げるべきだ、と前から思っていたんですよ。で、たまたま他のいい仏教語・・・わかりやすくて馴染みのある言葉・・・が思い浮かばなかったので、今回は「成仏」にしたのです。そういうわけで、今回は「成仏」です。

「成仏」・・・この言葉はどなたでもご存知でしょう。では、その意味はどうでしょうか?。
「成仏とはどんな意味だと思いますか?」
と質問すれば、多くの人が
「仏に成ること」
「死ぬこと」
「あの世に行くこと」
などと答えるのではないでしょうか。まあ、確かに「成仏」は「仏に成ること」ではあります。しかし、この場合の「仏」とは「死者」の意味での「仏」だと思っていらっしゃるのではないでしょうか。つまり、「仏に成ること」は、「死ぬこと」と同じ意味で使っているのではないでしょうか?。

いつの頃からか、遺体のことを「仏さん」と呼ぶようになりました。死者は「仏さん」と呼ばれるんですね。よく刑事もののTVドラマなどを見ていると、
「この仏さんの身元はわかっているのか」
な〜んていうセリフがありますよね。殺人事件の現場の遺体の前で刑事さんがしゃがんで若い刑事に尋ねている・・・・というようなシーンです。あまりにも定番・・・ですよね。こういうドラマでは、たいていの場合は遺体を「仏さん」と呼んでいます。
これは、なにもドラマに限ったことではなくて、一般の方も遺体を「仏様」などと呼びますよね。そう呼んでいるほうは、たぶんあまり意識していないから気が付いていない場合が多いとは思いますが、我々坊さん側からすれば、本来の「仏様」とは意味が違いますので、すぐに気がつくんですよ。
確かに、習慣的に亡くなった方のことを「仏さん、仏様」と呼んでいます。いつから、そう呼ぶようになったんでしょうね。「仏様」の意味は、本当は違うんですけどね。

同じように「成仏」もいつの頃からか、死を表す言葉となってしまいました。時代劇などでは
「成仏しろ」
などと言って敵を叩き切るシーンがあります。
また、ちゃんとあの世へ行け、この世にとどまるな、という意味を込めて
「成仏しろよ」
などというセリフが吐かれたりしますよね。
「成仏」も意味はもっと深いんですけどね。それに、そう簡単に「成仏」できないんですけどねぇ、本当は・・・。

さて、「成仏」です。意味は
「仏に成る」
です。なんだ、今まで書いていたことと同じじゃないか、というのはちょっと待ってください。これからが本番です。
確かに「成仏」は「仏に成る」ことですが、死ぬことではありません。生きたまま成仏するのが本当の成仏なんですよ。
「成仏=死」
ではないのです。生きたまま、生きているうちに成仏するものなのです。本来は。

「成仏」の「仏」とは「仏陀」の略です。仏陀・・・ブッダですね。伝説の聖者、仏陀です。この世で仏陀といえばお釈迦様ですが、そう、仏陀とは究極の覚りを得た者のことです。死者ではありません。ですから、成仏とは
「仏陀に成る」
ことなのです。つまり、
「成仏しろよ」
と言われたら、
「仏陀に成れよ。覚れよ。」
という意味になるんですね。本当は。

仏陀になるのは、死んでからではありません。生きているうちにならなきゃ意味がないです。というか、死んでからでは仏陀にはなれません。生きている者だけが仏陀になれるのです。死体は仏陀にはなれませんからね。
ですから、遺体のことを「仏さん」と呼ぶのは間違ってます。遺体は遺体です。決して「仏陀」にはなれません。「仏陀」でもありません。ですから、遺体を「仏さん」と呼ぶのは間違った使い方なんですね。

生きとし生けるものは、死すれば六道に輪廻し、違う生き物(同じ場合もありますが)に生まれ変わります。その輪廻から脱出するには修行するしかありません。ただし、修行できるのは、人間か天人のみです。他の世界の住人・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界の住人・・・は修行しているのではなく、罪の清算をしているのです。ですから、仏陀になるための修行はできないのです。仏陀になるための修行ができるのは、人間か天人だけなのです。
しかし、天人は実は仏陀にはなれないのです。仏陀になれるのは、人間だけなのです。

確かに天界は修行の場でもあります。しかし、同時に快楽の場でもあるのです。人間には味わえない極上の快楽があるのです。そんな快楽を知ったらとても仏陀になれるような修行はできないでしょう。なにも覚らなくてもいいからです。
ちょっと修行すれば神通力は使える、真面目に菩薩様の話を聞いていれば天界から落ちることはない、困ったことがあれば子孫にいって供養してもらえば助かる、特に苦しみはない・・・・そんな快適な状態で真面目に仏陀になるための修行ができるでしょうか?。まず、無理だと思います。
また、経典に
「仏陀になるには一度人間に生まれてこなければならない」
と説いてあります。そりゃそうですよね。もし、天界の住人のまま仏陀になれるのなら、お釈迦様は人間界に生まれてくる必要はありませんから。都卒天(とそつてん)にいたまま修行して仏陀になればよかったのですよ。
ですから、次に仏陀になる弥勒菩薩も、今は都卒天で修行中ですが、仏陀になるときは人間に生まれ変わってくることになっています。
そう、仏陀になれるのは人だけなのです。人間だけが仏陀になれるのです。しかも、生きているうちになるものであって、死んでからなるのではないのです。

すなわち「成仏」とは、亡くなったものに対する言葉ではないのですよ。
よくお葬式などで
「故人はこれで成仏なさいました」
などといいますが、それは慣例で言っているだけで、成仏なんて絶対にしていません。仏陀にはなれないんです。死んでからではね。
なので、お葬式での言葉
「これで成仏なさいました」
というのは、厳密にいえば「うそ」なのです。いうならば、
「これで故人はあの世に旅立たれました」
というのが正しいわけです。

ということですから
「うちのご先祖は成仏してますでしょうか」
「亡くなったお父さんは成仏していますか」
と聞くのは間違ってるんですね。また、こう聞かれたら答えも決まっています。
「いいえ、成仏してませんよ。いや、成仏できないですし。死んでますから」
となってしまうんですね。聞くなら
「うちの先祖は、いいところに生まれ変わっているでしょうか」
「父は、苦しみの世界に生まれ変わっていないでしょうか」
と聞くべきですね。

となると、時代劇のあのセリフ
「成仏せいよ」
などと言ってバッサリ切るのは、切られる側としては
「なに言ってやんでぇ、成仏できるわけないだろ。死んじゃったんだから」
と、突っ込みを入れるべきなんですね。
じゃあ、なんて言えばいいのかといいますと、
「死んでから行くべきところへ行けよ。この世をさまようなよ」
「あの世へ旅立てよ。この世に残るなよ」
「いいところへ生まれ変わりな」
などというのが適切ですね。そうすれば、切られる側も
「うぅぅ、未練はあるが・・・そうか迷わずあの世へ旅だとうかのう」
となるかもしれません。まあ、殺される側ですからね
「勝手なこと言うな、化けて出てやるぅ」
が本音でしょうけど・・・。

このように、「成仏」とは、本来は亡くなること、死ぬことを意味しているわけではないのです。「成仏」とは「仏陀になること」、「究極の覚りを得ること」を意味しているのです。ですから、そう簡単に「成仏」できるものではないのです。簡単に
「成仏されました」
な〜んて言える言葉じゃないんですね。しかも、生きている者しか「成仏」できませんしね。

というわけですから、亡くなった方の100%は「成仏」していません。いいところ、天界に生まれ変わって「落ち着いている」ことはあっても、「成仏」はしていません。ですから、死者へ送る言葉としては、
「どうか成仏してください」
ではなく、
「どうか、いいところへ生まれ変わって修行をしてください。そして、いずれ人間になって、仏陀になれるよう修行をしてください」
というのが正しいのでしょうね。

「成仏」・・・「仏陀に成る」
死んでからでは仏陀にはなれないんです。仏陀になれなくても、覚りに近づくには死んでからじゃなくて、生きているうちにすべきことなんですよ。生きているからこそ、仏陀に近づけるんです。
死んでから「成仏」なんて、無理な話なんですよ。皆さん、生きているうちに「成仏」してください!。
合掌。


60、勝利
今年はオリンピックイヤーですね(なんで横文字で言うかな。オリンピック開催の年でいいのにね。って私も使ってますが・・・・)。皆さんTVにくぎ付けになるのではないでしょうか(開催できるのかしらん?、怪しいぞ中国)。
競技につきものなのが「勝負」です。勝ち負けですね。「ぜひ金メダルを」という声は、どこの国からも聞こえてくることでしょう。本当は、そんなことはどうだっていいことなんですけどねぇ。ま、競うことがあれば、そこに勝敗が生まれるのは仕方がないことでして・・・。それに、どの国の、どの競技の選手も、「勝利」を目指して練習に励んでいるんですからね。金メダルは練習の成果、努力の証でもありますから、金メダルを取ることを目指すのが当然でしょう。
で、今回はその「勝利」です。
「勝利」が仏教語?、と思われることでしょう。でも意外や意外。勝利は仏教の言葉なんですね。というか、古いインドの言葉をお経を訳したときに「勝利」と訳されたのですが・・・。
そういう意味では、仏教語ですね。そもそもは経典にあった言葉ですからね。しかも、意味が異なりますし。本来の「勝利」は「勝負に勝つこと」じゃないんですよ・・・。

一応、確認のために国語辞典ではどのような説明になっているのかみておきます。一般的な国語辞典(新潮社 現代国語辞典より)では「勝利」をこのように解説しています。
「戦争や競技にかつこと。勝ち。」
まあ、そうでしょうね。それ以外に言いようがないでしょう。「勝利」とは争い事や勝負事などに「勝つ」ことです。
ところが仏教語の「勝利」は意味が違います。そもそも仏教では争い事はありませんし。それなのに「勝利」が仏教語というのもおかしいのですが、本来の意味を知れば納得できると思います。
では、本来の「勝利」の意味をお馴染みの仏教語大辞典(縮刷版 東京書籍)でみてみましょう。
*勝利
@すぐれていること。「獲大勝利」
Aすぐれた利点。功徳。卓越。福利。勝功徳に同じ。
B利益
となっています。どうですか?。「勝負に勝つこと、争い事に勝つこと」なんて意味はまったくないでしょ。これが本当の「勝利」の意味なんですよ。
@の「獲大勝利」とは、「大勝利を獲得すること」です。「大勝利」とは、「大いにすぐれていること、大いにすぐれた利点」ですね。Aの意味を使って「大きな功徳、大きな福利」でもいいです。
さて、Bです。「利益」ですが、仏教では当然「りやく」と読みます。「りえき」ではありません。そもそも「利益(りえき)」も仏教語です。先に「利益(りやく)」があったのです。これは、想像がつきますよね。
「ご利益」といえばわかりやすいでしょう。「ご利益があった、ご利益のおかげだ、ご利益がない」などと使いますよね。それをそのまま、「ご」をとって経済的な収入にあてはめれば、「利益があった、利益を得たおかげだ、利益がなかった」となりますよね。この場合は「りやく」ではなく「りえき」です。
今では、「ご利益」といえば、「神仏に祈った結果、よい事に恵まれること、望みがかなうこと」になるのでしょうが、本来の意味は少々異なります。本来の意味は、
@ためになること。
Aすぐれた利点。功徳。勝利に同じ。
B他人を益すること。恵みを与えること。
C仏の教えに従うことによって得られる幸福、恩恵
(以上、仏教語大辞典より)
となっています。現在の意味はBとCを合わせたものでしょう。本来は、仏の教え・・・仏教・・・に従うことによって得られる「安心、安穏、心の幸福、精神的安定」を言います。物質的な恵みのことではなかったのですよ。
まあ、それが「現世利益」などという言葉が生まれ、この世で生きるための物質的な恵みも意味するようになったのです。おそらくは、密教の台頭によるものでしょう。密教は現世利益を認めますからね。
そりゃあそうでしょう。食べること、職、住まいなどに困っている人に、いくら精神的な話をしても耳には入りません。所詮、理想論・・・と一蹴されてしまいます。「ためになる話でも腹はふくれん」で終わりです。まずは、困っている人が求めているものを与えて、現実的な喜びを与えてから、
「どうだ、すごいだろ。だから話を聞け」
といったほうが、現実的ですよね。救われて初めて、真実の話が聞けるのですよ。
こうして、「利益(りやく)」に経済的な意味が含まれるようになりました。商売に成功したり、出世したり、金持ちになったり・・・といった「利益(りえき)」が生まれたのですね。

さて、「勝利」の「利」とは「利益」のことでした。では、「勝」はどうでしょうか。そもそも仏教でいう「勝」とは、
@すぐれていること
Aすぐれた
B優秀な点。優秀なもの。
C優勢。
D主として。
E勝利者。如来の同義語。
F耐え忍ぶこと。
なのです(前出 仏教語大辞典)
つまり、「勝」ということは、単に「すぐれている」ことを表した言葉なのです。
とすれば「勝利」は「すぐれた利益」というのが、最も適切な意味でしょう。では、人々にとって「すぐれた利益」とは如何なるものなのでしょうか?。
答えは簡単です。お金でも仕事でも結婚でも家でもありません。すぐれた利益とは「覚り」なのです。
「覚り」というと、少々大袈裟かもしれませんね。では、こう言いなおしましょう。人間にとって「すぐれた利益=勝利」とは
「己に勝つ」
ことです。すなわち、
「自己の欲望に勝つこと」
なのですよ。

仏教では他と争うことを避けます。むしろ嫌います。遠ざけますよね。ですから、仏教には勝ち負けはありません。あるとすれば、それは
「己に勝つか負けるか」
なのです。己自身に勝つことが「勝利」であり、勝ったものが「勝利者」なのです。
「己に勝つ」とはどういうことでしょうか?。
それは自分自身が持っている欲望・欲求、妬みや羨みの心、怒り、愚痴などを克服し、制圧し、自在にコントロールすることを「己に勝つ」というのですね。お釈迦様は
「己をよく制御できるもの、かの者を勝利者と呼ぶ」
と説いています。その中でも特に最もよく己を制御できたもの、完全に己の欲を制圧した者を仏陀と呼び、最勝利者と呼ぶのです。つまり、お釈迦様ですね。如来です。完全なる覚りを得た仏陀である如来が「最勝利者」なのです。
このように、本当の意味での「勝利者」とは、「己の欲望に打ち勝ったもの」をいうのですよ。ですから、怠けてしまう自分、だらだらと過ごしてしまう自分、イライラしてしまう自分、愚痴ばっかり言っている自分、他人を羨んだり妬んだりしている自分、つまらない誘惑に引っ掛かってしまう自分、己の欲望に負けてしまう自分・・・・は、まさに「敗者」なのですよ。勝者ではないんですね。真の勝者とは「己に勝った者」だけなのです。

それには、あらゆる苦難を乗り越えなければならないでしょう。嫌なこともイラつくことも他人からの邪魔も嫌がらせも、やめたいと思う弱気な自分も怠けも誘惑も・・・すべての欲や苦難を乗り越えねばならないんですね。苦しみを強く耐えていかねばならないのです。
ですから、「勝」の意味で「耐え忍ぶこと」とあるのです。すべての苦しみ、どんな苦しみをも耐え忍んだものが「仏陀=勝利者」であるのですから、「勝」にこの意味があるんですね。なんにしても「勝」ためには、強く強く耐えしのばなければいけないのですよ。
「この世は苦の世界である」
とお釈迦様は説きました。まさにその苦の世界を「強く耐えしのんで」生きた者こそが勝利を得るのです。勝利者となるのですね。苦に耐えきれなかった者は敗者となってしまうのですよ。
ただし、これは経済的な勝者・敗者のことを言っているのではありません。収入が多いから勝者であるとか、収入が少ないから敗者であるとか、そういう意味ではないので注意してください。大金持ちだって敗者はいます。欲望にまみれ、自滅していく者はいますからね。
仏教でいうところの勝者とは
「己の欲望をよく制御した者」
なのですから、そこのところを間違えないようにしてください。仏教でいう「勝利者」は「現世利益」上の勝利者ではないのです。
そう、「勝利」とは人間にとって最もすぐれた利益のことなのです。それはすなわち「覚り」なんですね。これ以上の利益はないのです。

ですので、たかだか大金持ちになったからと言って真実の「勝利者」になったわけではありません。貧しいからと言って「敗者」ではありません。金持ちであっても、貧しくとも、「己の欲望を克服した者」だけが「勝利」を得るのです。
ライバルに負けたからと言って嘆く必要はありません。己自身に勝っていればいいのです。己自身に勝って、ベストを尽くしたのならそれでいいんですよ。勝敗なんてどうでもいいんですよね。
勝ったからと言ってうぬぼれちゃいけません。ライバルを打ち負かしたとしても、己に勝っていなければ本当の意味での勝利ではないからです。
勝負や勝敗にこだわる必要はないのです。ただただ、己に勝つこと、それさえ知っていれば十分なのですよ。

そこの若者たち、ケンカに勝ったからって偉くもなんともないよ。ケンカをしない、相手を傷つけないように心をコントロールできるもののほうが断然強いんですからね。
そこのおじさん、賭け事に勝っても喜んじゃいけませんよ。賭け事におぼれないように、欲に打ち勝てるものが勝者なのですからね。
政治家の皆さん、選挙に勝っても己の欲望に勝てないようじゃ、いい政治家にはなれません。官僚の皆さん、政治家との駆け引きに勝ったからと言って、エラソーな態度はやめていただきたいですな。政治家も官僚も、金銭や名誉の誘惑に弱い己に勝ってこそ、尊敬されるんですからねぇ。
さてさて、どんなかたも、勝敗などを気にせず、負けなど気にせず、己に勝つことを気にしてください。どうせなら、真の勝利者を目指しましょう。
合掌。


61、まだら模様
まだら模様と言えば、どんな模様を思い浮かべるでしょうか?。迷彩服のような模様でしょうか?。そういえば、最近、携帯電話のQRコードとかいうもの、あれも一種のまだら模様でしょうかねぇ。はたまた、黄砂がひどいときに雨が降ったりすると、黒い車が見事なまだら模様になっていますねぇ。そういえば、シャーロックホームズの物語に「まだらの紐」という話があったような・・・。
というわけで、今回はまだら模様と仏教語の関わりについてお話しいたします。

「まだら」が仏教語と関わりがある?、と驚かれるかもしれませんが、大ありなんですよ。「まだら」・・・。声に出していってみてください。気が付きませんでしょうか。カタカナで書くとわかりますかねぇ。「マダラ」です。
気が付きました?。
そう「マンダラ」です。「マンダラ」を早口で10回言ってみてください。はい、スタート!。マンダラ、マンダラ、マンダラ・・・・マダラ・・・・ってなりません?(なるわけないだろ!、という突っ込みは却下)。
冗談じゃありません。本当の話です。知る人ぞ知る、「まだら」は曼荼羅が語源なんですよ。まだら模様は、曼荼羅模様だったのです。

曼荼羅には、様々な種類がありますが、根本の曼荼羅は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅です。どちらも、如来や菩薩の集合体ですね。それぞれ表している内容は異なりますが、それは後にお話ししましょう。
(左が金剛界曼荼羅、右が胎蔵界曼荼羅。このコーナー、初画像ですねぇ・・・)

                 

さて、この如来や菩薩の集合体である曼荼羅、遠目で見てみてください。まだら模様に見えませんか?。遠目でなくてもそう見えません?。画像が小さいので、余計にまだら模様に見えます。
まだら模様の語源が、曼荼羅にあるってわかっていただけたでしょうか。内容的なことは全く考慮していません。ただ、見た目だけです。まだら模様の原点は、曼荼羅なのです。御納得いただけたでしょうか?。

これで終わってはちょっと詰まらないですよね。やっぱり、曼荼羅の内容を説明しないと。
上の写真の右側が胎蔵界曼荼羅で、慈悲を表していると言われています。左が金剛界曼荼羅で智慧を表していると言われています。左右比べてみてみますと、左のほうが整然と並んでいるというか、整理されている、という印象を受けませんか?。右側は中央を除いてなんだかゴチャッとしているような・・・・。そういう印象を受けないでしょうか?。
もし、そう思ったのでしたら、その印象は正しいものです。金剛界曼荼羅は智慧を表していますので、理路整然さを表現しているのです。ですから、区割りがきっちりなされています。その中の如来や菩薩の配置もしっかりしています。
ところが、胎蔵界曼荼羅は中心部分を除いて、大雑把に区割りがされているのです。しかも、描かれているのは如来や菩薩、明王だけではありません。天部の神々や魔神までもが描かれています。一切の差別のない、すべてを包括する宇宙、を表現しているのです。なので、魔神までもが含まれるのです。それはまるで母親の愛のような・・・・とよく譬えられます。すべてをやさしく包み込む、すべてを生み出す、というイメージを表現しているのが胎蔵界曼荼羅なのです。

二つを比べてみますと、金剛界のほうはちょっと冷たく感じませんか?。いわば都会の冷たさ、というか・・・。胎蔵界のほうは、なんとなく庶民的というか、商店街のようなにぎやかさがあるように感じないでしょうか?。
見比べていろいろ感想を持っていただきたいと思います。
しかし、曼荼羅は金剛界と胎蔵界の二つがそろって一つです。片方だけでは完成ではありません。すなわち、慈悲と智慧、両方がそろって初めて覚りが展開されるのです。
やさしい愛情だけではいけません。冷静な智慧も必要なのです。冷たく切り離すだけではいけません。優しく包み込むことも必要なのです。どちらにも偏らない、バランスよく両方兼ね合わせたところに真実があるんですね。

さらに、曼荼羅は集合体です。集合体が、一つになって描かれています。それは、様々な種類の生命体があるが、みな一つの世界の一員である、ということを意味しています。
特に、胎蔵界曼荼羅は魔神さえも含んでいます。仲間外れなどはありません。すべての個性を認めています。実際、胎蔵界曼荼羅には、人肉を食らう魔神も描かれているのです。彼らとて忌み嫌われる存在ではない、ということなのです。差別のない社会の実現が曼荼羅なのですよ。

私たちの社会も曼荼羅です。学校の教室、学校自体、会社の部署、会社自体、家庭内、遊び仲間、サークル・・・・人の集団はみな曼荼羅なのです。ですから、それぞれの個性をお互い認め合って、差別のない、いじめのない、排除のない集合体を目指してほしいものです。仏様の世界を描いた曼荼羅と我々の住む世界は何の隔たりもないのです。すべては、曼荼羅なのですよ。
ということは・・・。
世の中はみな、まだら模様になっているんですねぇ・・・・。
合掌。


62、念力
最近ではトンと見なくなりましたが、昔はよくTVで「スプーン曲げ」などという念力ショーがありました。子供たちは、「すっげぇ〜」と言いつつTVにかじりつき、自らもスプーンを持って、スプーン曲げに挑戦したものです。今から思えば、ものすごくバカバカしいのですが、あの当時はみなスプーンを曲げる、怪しげな外国人や日本人の少年に魅了されていました。平和な世の中だったんですねぇ・・・。
そんなころからでしょうか、念力という言葉が巷で流行し始めたのは。スプーン曲げをはじめ、物体移動、はこの中を見抜く透視、相手の心を読むテレパシーなどが、大いにTVをにぎわせました。念力は、やがて超能力と言われるようになり、すっかり忘れ去られた言葉になりつつあります。今では、あまり使わなくなってしまいました。
この念力。初めに使った方はどなただったのでしょうか?。この言葉が仏教語だと知っていたのでしょうか?。そう、念力は仏教の言葉なのです。

国語辞典(新潮社 現代国語辞典)には
@一心に思いこんだ意志の力。強い決意。
A物理的な力を加えずに物に作用を及ぼすことができるという精神の力。
とあります。実際によく使うのはAの意味ですね。@は「一念」と言うほうが多いのではないでしょうか。「虚仮の一念岩をも徹(とお)す」で、おなじみですね。これと同じ意味です。

では、仏教語大辞典(東京書籍)ではどうなっているのでしょうか。
*じっと思い続ける力。憶念の力。記憶術のような力。五力の一つ。
とあります。
記憶術のような力とは、インドで通じる意味でしょう。お釈迦様がいらした当時の仏教教団は、教えを紙に書いて残すということはしませんでした。すべて記憶するのです。そのためには、お釈迦様の教えを一心に思い浮かべ、頭の中で何度も何度も復習する必要があります。その姿が一心に念じている姿に見えたのでしょう。そこから念力に記憶術の意味が含まれるようになったと思われます。ですから、これはオマケのような意味合いですね。念力の主たる意味とはちょっと異なります。

次に、五力について説明しましょう。五力とは、覚りに至らしめる五つの力のことです。
@信じる力、信仰を持ち続けるという力である「信力」
A努力し続ける力である「精進力」
B一心に念じ続ける力である「念力」
Cいつでもどこでも禅定ができる力である「定力」
D物事を深く考えることができる力である「慧力」
確かに、こうれらの力を持っていれば覚りに至ることができるのではないかと思います。
さて、念力です。この五力の説明にあるように、念力とは、「一心に念じ続ける力」のことです。本来の意味も「じっとと思い続ける力」のことでした。それは具体的にはどういうことなのでしょうか。

観音経の偈文に「念彼観音力」という句が繰り返し出てきます。意味は「彼の観音力を念ぜよ」ということです。すなわち、数々の世の中の苦難から救われるために、観音菩薩の救いの力を一心に念じなさい、という意味です。
あるいは、念仏という言葉があります。時代劇を見ていると、「そろそろあの世が近付いたようだな。念仏でも唱えるといい」などという悪人のセリフがよくあります。その念仏です。田舎に行くと、お婆さんが仏壇の前で
「ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・嫁にバチがあたりますように・・・、長生きできますように・・・」
などとお参りしている(?)姿が見られますが、その「ナンマンダブ」が念仏です。正確には「南無阿弥陀仏」と唱えます。この「南無阿弥陀仏」という念仏も、その意味は「一心に阿弥陀如来の救いを求めよ」ということです。
つまり、念力とは、
「この世の苦しみからの救いを一心に念じること」
なのです。決してスプーン曲げをすることではないのですよ。

スプーン曲げが流行った当時に注目された少年は、スプーン曲げはインチキだったと告白しています。大元であるユリゲラー氏だって怪しいものです(っていうかトリックでしょう、当然)。
それに、スプーンを曲げて果たして何だというのでしょうか?。一体何の意味があるのでしょうかねぇ。スプーンを無駄にしているだけのことでしょう。物は大切に・・・などと片方で注意していて、新品のスプーンを曲げるショーをしている・・・。なんともはや、矛盾だらけの世の中ですよね。
念力とは、一心に救いを求める心、または覚りを得ようと一心にお釈迦様の教えを念じることです。つまらないインチキのトリックに、念力などという言葉はもったいないでしょう。同じ念じるならば、スプーンを曲げることではなく、世界の平和を念じてもらいたいですね、超能力者の皆さん!。
合掌。


63、真空
真空といえば、皆さんは何を連想するでしょうか?。
真空管、真空ポンプ、真空切りは赤胴鈴之介でしたか(この漢字であっているのかな?)。真空投げなんてのもありましたかねぇ?。御存知でしょうか?。
さて、この真空。実は仏教語なんです。気付かないでしょ、普段使っていても。でもね、真空をバラバラにするとわかると思いますよ。「真」と「空」ですからね。もうわかったでしょうか。そう、真空は「真実の空」なのです。

真空と言えば、一般的には空気がない状態のことですよね。中学くらいでしょうか真空の実験をするのは。二つのドーム状の吸盤のようなものを合わせて、中の空気を抜くと、そのドーム状の吸盤がとれなくなる、という実験ですね。一斗缶(イットカン、知りませんかねぇ・・・)の空気を抜くと、缶が潰れるという実験・・・今はしませんかねぇ・・・そういう実験を通して、真空を知ったのですが、皆さんは実験されたでしょうか。
真空状態のもとでは、空気抵抗がないため、羽根も鉄球も同じ速度で落下する、なんてことも実験したような気がするのですが・・・・。
ま、それはともかく、真空の状態というのは、皆さんご存知だと思います。今さら説明も要らないでしょう。真空の意味を広く解釈して、「中身がない」というときにも使用したりします。たとえば、「真空国会」などですね。「中身のない国会」や「審議が停止してしまった国会」を揶揄して使います。そうえいば、最近の新聞には「真空国会」という言葉は見なくなりましたねぇ。昔はよく使っていていたように思うのですが・・・。ま、いつもいつも真空国会だから、この言葉を使うのを止めたのでしょうかねぇ。

さて、これが仏教語の真空となると、ちょっと難しくなります。なんせ、真実の空ですからね。空の思想すら難しいのに、真実の空となれば・・・・・。どのように話を進めようか迷ってしまいます。
とりあえず、おなじみの仏教語大辞典(東京書籍)で見てみましょう。
@アートマンが全く存在しないこと。
A小乗仏教で説かれるニルヴァーナをさしていう。虚偽でないから真と言い、一切の相(特性)を離れている、すなわち無特性であるから空という。
B真理の本性(真如)がすべて凡人の迷いの考え方を離れている状態。
C有でない有である妙有に対して、空でない空のこと。これが大乗仏教の究極の教えである。真実の空。空が徹底したところを言う。
とあります。この意味がわかりますか?。

難しく書いてありますが、よ〜く読むとなんとなくわかるような気もしますが、どうでしょうか。
アートマンとは「我」のことです。ですから、@は「我」がまったくなくなった状態のことです。ニルヴァーナは「涅槃」のことで、「覚った状態」のことです。ですので、小乗仏教でいう覚りのこと、というのがAの意味ですね。Bも同じ意味です。
つまり、@〜Bは、「我を離れ、覚りを得たことを「真空」という」、という意味になります。まあ、真空=覚り、ですね。
Cはちょっと特殊です。これが真実の空の説明なのですが、意味はよくわからないのではないでしょうか。
「有でない有である」というのは、「有や有でないことにこだわっている状態」を意味しています。つまり、「空」ということにこだわっている状態です。真空は真実の空ですから、「空でない空」になるのです。
何のことかさっぱりわかりませんよね。

空を覚るのは、仏教では重要な要素です。空を覚ることが仏教の教えでもあります。しかし、この「空」、実に厄介者です。まず、よく意味がわかりません。空ってなに?、って感じです。
「空」とは、すべてにこだわりを失くした心のことだと思ってください。何にも引っかからない、何もこだわらない、行く雲のごとく流れる水のごとし、泰然自若と過ごす心の状態を「空」を覚った状態と言います。そのような境地に達すれば、
「空がわかった」
となるのです。「一切は空なり」ですね。般若心経にも出てきます。
ところが、空は「空を覚った」と口にした瞬間、「空でなくなる」のです。なぜなら、「空を覚った」というこだわりが生まれるからです。
「あ、空がわかった」
と思った瞬間、空でなくなるなんて・・・、ああ、ややこしや〜。
ここが空の難しいところです。なので、空は言葉では表現できないのです。言葉で表現すれば、その言葉にこだわりが生まれ、空を説明することになり、空でなくなるからです。ああ、ややこしや〜。先ほどから同じことばかり書いてます。

そこで、イニシエノ高僧は、禅問答やら絵画やらで空を表現しました。しかし、それも後々に「こだわりがある」と言われたりもします。考案(禅問答)にこだわれば空は理解できぬ、ということですね。そこで、ただひたすら座禅をするという表現も生まれました。しかし、これも座禅にこだわれば、空は覚れぬ、となります。まことに空は難しい思想なのです。ああ、ややこしや〜。
中には、
「わしの覚りはこうじゃ」
といって弟子を殴ったりもしました。で、殴られて覚った高僧もいます。そういう場合は、
「あ、そうだったのか。あぁ、もういい・・・」
と沈黙になるのです。殴ったほうは、
「何がわかった?」
などと問うことがあります。これで言葉で返したら、「真空」ではなくなります。言葉というこだわりが生まれるからですね。そこで、
「こうじゃ」
といって殴り返したりもします。あるいは、沈黙を通す・・・とかですね。ここが難しいところなのですよ。真空は表現を超えた空なのですからね。

空を説明しようとすると、空ではなくなる。
空だと覚った瞬間、空ではなくなる。
これじゃあ、どうしようもありません。真空とは、そうしたこだわりを一切排除したところの状態をいうのですから、表現ができないのです。
まあ、究極の空の状態、と思ってください。それは、その状態になった者しかわからないし、表現できないものだ、と理解して下さい。それしか言いようがありません。

真空・・・なんとも困った言葉です。真空と一言で言えますが、その中身は全く真空ではありません。否、全く真空の状態とも言えます。むむむむ・・・。
中身はあるのに真空、否、中身はなく真空、あるのにない、ないのにある、有と無がまったく交差しなくなり、相反しなくなり、絡むことなく、離れることなく・・・・むむむむ。あ〜、わかった!。なるほど!、今の国会と同じですね。議員さんはいるのに役立たずでいないのと同じ、だから空なのですね。しかも、それを眺めている人たちは、それを理解しているから・・・・そうか、日本人は真空をみんな知っているんですよ。
あ〜、ようやくわかった。無能な国会に感謝ですね!。
合掌。


64、娑婆
娑婆・・・しゃば、と読みます。昔の任侠映画などを見ていますと、
「娑婆の空気はうめぇなぁ・・・・」
などというセリフが出てきますよね。ご存知でしょうか?。最近では、任侠映画があまり流行りませんからねぇ。ご存知ない方が多いかも知れません。刑務所から刑期を終えた主役などが、迎えに来ていた子分にあって言うセリフなんですがねぇ・・・・。
近頃では、不良用語にシャバがあるそうです。不良漫画に登場するらしいのですが、聞いたことがあるでしょうか。
「シャバゾウ」
というらしいです。「シャバ僧」と書くらしいですね。意味は、
「ヘタレタ不良、あまり強くない不良」
あるいは、ケンカの時などに相手を見下して
「このシャバ僧が〜!」
というらしいです。ツッパリ漫画、不良が登場する漫画を読んでみてください。たいていは出てくる言葉だそうです。この「シャバ僧」の「シャバ」はまぎれもなく「娑婆」でしょう。シャバが仏教語の娑婆で、僧も当然仏教語です。不良って、結構仏教が好きなんですねぇ。そんなに好きなら、修行させてあげるのにね。ビシビシと・・・。

さてさて、ヤクザな世界でも不良の世界でも使用される「シャバ」、漢字で書けば「娑婆」ですが、本来の意味はどんな意味なのでしょうか。
お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
サンスクリット語「サハー」の音写。忍土、堪忍土、忍界と漢訳する。語源的には「忍ぶ」という意味で、この世界のこと。この世界の衆生は内に種々の煩悩があり、外には風雨寒暑などがあって、苦悩を耐え忍ばねばならないからこの名称がある。この世、現実の世界。釈尊が現れて教化する世界。
とあります。
簡単に言えば「この世」のことですね。

この世は、いろいろな苦労があります。苦しみが存在しています。老いることも、病気になることも、嫌な相手会うことも、愛する人との別れも、求めるものが得られないことも、精神的苦悩も、肉体的苦悩も、そして死も・・・・。
苦しいことばかり多くある世界といえましょう。もちろん、楽しいこともありますが、人々は苦悩に耐えながら、苦しみを乗り越えながら生きているのです。
だからこそ、この世は耐え忍ぶ世界・・・忍土・・・なのです。娑婆とは、この現実世界のことで、苦に耐える世界のことを意味しているのです。

ということならば、いくら刑務所から出ても
「シャバの空気はうめぇなぁ」
ということはありません。刑務所内も外の世界も、似たようなものです。同じ苦の世界の中なのですから。なるほど、任侠映画を見ておりますと、刑務所から出てきた主役
「シャバの空気はうまい」
といいつつ、そのシャバの事件に巻き込まれて、苦難の道を歩んでいきます。多くは。で、最後は無念にも命を落としたりするんですね。
「なんだ、結局、苦しみで終わったじゃないか」
という結末です。しょせん、シャバは娑婆であり、耐え忍ばねばならない、苦の世界なのです。

同じように不良が、敵対する不良に
「このシャバ僧が」
とバカにして叫んでみても、
「君も娑婆世界の人間だから同じだよ。同じシャバ僧。あ、ちなみに、坊さんじゃないけどね、お互いに」
ということになりますよね。全くくだらないことで、同じ娑婆世界で生きている者同士がケンカしてもね、小さなことなんですよ。大きな現実世界である娑婆に生きる者同士が、争ってみても仕方がないことなんですけどねぇ。

そう考えれば、戦争なんて本当にくだらないものですよ。戦争をしている人たちは、あまりにも世界が小さすぎます。同じ娑婆世界の住人なのに。同じように苦しみに耐えしのんでいる人間なのに・・・・。
仏教のこの世界観をもってすれば、戦争なんて起こらないんですよね。みんな娑婆世界の住人、みんな苦を耐えて生きているんだ、という平等感がありますからね。やはり、世界平和をもたらすのは仏教しかありませんね。他の宗教では世界は救われません。そりゃ、そうですよね。「我らの神が一番」などという優劣をつけるような宗教じゃあ、救われませんよ。そこには争いしか生まれませんから。一切は平等という精神がないとね、真実の救いは生まれてきません(ちなみに、日本の新興宗教にも「他宗派はダメ、我が宗教のみが本物」などと宣伝しているソーカガッカイなる宗教がありますが、これは仏教の平等性を忘れている宗教ですね。なので、仏教系ではありません。根本から仏教の勉強をしたほうがいいと思いますよ、ガッカイのみなさん)。

この地球は娑婆世界です。耐え忍んでいる世界です。誰もが苦しみに耐えている世界なのです。それは地球そのものもそうでしょう。地球自体も、人間の汚物に汚されることに耐えているのです。
だからこそ、なるべく安心のできる生き方をして、平和に過ごしたいですね。少しでも耐える度合いを減らしたい、というのが人情ってもんです。
耐え忍ぶ生き方なんて、できればしたくありませんからね。

それにしても日本は辛抱我慢を強いられることがなんと多いことでしょう。ガソリンの値上げにも無策、生活用品の値上がりにも無策、年金の不始末にも無策、少子高齢化にも無策、心を病む人々の増加にも無策、生活する上での苦しみに対して一切無策・・・・。
あぁ、そうか、この苦しみに耐えて生きることを強要して、この世が娑婆世界であることを認識せよ、という意味だったのですか!。
なるほど、やるじゃん福田君!。あなたは悪魔的菩薩だ!。
合掌。



バックナンバー9へ


今月のこんなところに仏教語へ戻る    表紙へ