えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー9

65、不思議
「この世に不思議なことなど何一つないのだよ、関口君・・・・・」
私が大好きな本、京極夏彦さんの京極堂シリーズの決めゼリフです。この響きがとても好きですねぇ。このセリフ、真似していってみたいな、と思うくらい気持ちいですねぇ。
ま、それはさておき、この「不思議」という言葉。結構、みなさんよく使っているんじゃないでしょうか。
「え〜、ほんと〜、不思議〜」
という使い方から
「あの子って、不思議ちゃんだよね〜」
みたいな使い方まで、不思議という言葉は様々な場面で、ごく簡単に使われます。「不思議、不思議」とよく使いますが、本当に不思議なのでしょうか?。あるいは、京極さんの本に登場する京極堂の言うように「世の中に不思議はない」のでしょうか。
不思議とはいったいどういうことなのでしょうか・・・・。

不思議と言う言葉を一般の国語辞典で調べてみますと
「不可思議の略。思い図ることができないこと、考えが及ばないこと」
とあります。まあ、多くの人が辞書を引かないまでもご存知のことだと思いますが・・・。

が、ここで重要なことは、「不思議は不可思議の略である」、ということです。「不可思議」とは「思議できない」ということです。
そもそもは、この「不可思議」という言葉が経典の中にあり、仏教とともに日本に伝わったのです。すなわち、「不可思議」とは仏教の言葉と言ってもいいでしょう。従って「不思議」とは仏教語だったのですよ、元はね。

さて、不可思議(不思議)とは、そもそもはどういう意味だったのでしょうか。おなじみの仏教語大辞典で見てみますと、
@不思議ともいう。言葉で言い表したり、心でおしはかることのできないこと。仏のさとりの境地や智慧・神通力などの形容に用いる。
A不可思議の境界
とあります。
つまり、本来の不思議は、如来の覚りの境地のことだったのです。

覚りの世界とは、覚った者にしかわかりません。しかも、その覚りには深い浅いがあります。どの程度の覚りを得ているのかは、本人にしかわからないことでしょう。
さらに、真理に至ってしまい、仏陀となった者の存在する世界は、言葉では到底言い表せない世界です。至った者にしかわからない境地です。
お釈迦様は、いろいろな方便を使ってその世界を伝えようとしました。それがお経となって現代まで伝わっているのですね。
曼荼羅もその一つです。曼荼羅は覚りの世界そのままを絵画にしたものです。覚った者にしか見えない世界を絵画にして一般の人々に伝えているのです。ですから、覚りを得た者は、曼荼羅に描かれているような世界に存在することができるのです。
まあ、実際、「御仏に囲まれている世界に私は存在しています」という人には出会ったことはありませんし、私もそんな世界に存在したことはありません。想像することはできても。
そう思えば、やはり覚りの世界は「思議できない」世界なのでしょう。至った者しかわからない世界なのですからね。誰も思議できないのは当然なのです。

「この世に不思議なことなどなにもない」
私は、このセリフが好きですが、実際は「この世は不思議だらけ」だと思っています。人間の知恵など小さなものです。様々な分野で不思議なことを解明しようと必死に努力している学者さんが、やがていつか、未だわかっていないことを解明してくれるかもしれません。しかし、一つ解明したと思ったら、きっとまた疑問が出てくるでしょう。
「なぜなんだ、不思議だ・・・」
ということがね。
そもそも、人間自体が不思議な生き物です。心はころころ変わるし、気分しだいでいろいろな人間になることもできる。思い悩み、イライラし、妬み、愚痴り、焦り、羨み、怨み、怒り、喜び、泣き、悲しみ、慈しみ・・・・。人間の感情は一体どういう構造になっているのでしょうか?。とても不思議です。
人の気持ちがよくわかる人もいれば、周囲のことなど気にもかけずマイペースの人もいれば、他人を傷つけても平気な人がいれば、他人に対して遠慮しながら生きている人もいれば、中身もないのに威張ってばかりいる勘違い人間もいれば、実力はあるのに人前には出ない人もいれば・・・・。それこそ千差万別です。
「この世の不思議は人間そのものだ」
とも言えるんじゃないでしょうか。

その人間を知ってしまったのが、仏陀なのです。いや、人間だけでなく、この現象世界のすべてを知ってしまったのが仏陀なのですよ。
現象世界であるこの世は、人間の知恵如きでは、なかなか解明できないのではないかと思うのですよ。すべてを解明したいのなら仏陀になるしかないのです。すべての真理に至った者は、仏陀以外にはいないのですから。仏陀は、
「すべての過去を見通し、すべての未来を見通す」
ことができるのですから。そして、
「宇宙と一体化できる」
のが仏陀なのですからね。仏陀になれば、この世の成り立ちも、この世以外の成り立ちもすべてわかってしまうのです。
不思議を解明したいなら、仏陀になることが最善の道でしょう。そう、だから、仏陀になってしまえば
「この世に不思議なことなど何一つないのだよ」
といえるのでしょうね。
仏陀になる・・・、それが難しいんですけどね・・・・。
合掌。



66、娯楽
最近の娯楽にはいったい何があるのでしょうか?。皆さんは、何を楽しんでいるのでしょうか。
昔は、「娯楽遊技場」なるものがあって、スマートボール(ご存知?)だの、ビリヤードだの、手打ち式パチンコだの、射的だの・・・いろいろな遊戯施設があったものです(いつの時代だ!、あんたいったい何歳やねん!、という声が聞こえそうですが・・・・)。今でいうゲームセンターですね。あんなに音がうるさくなく、せせこましくなく、優雅な時代でしたねぇ・・・・しみじみ・・・・。
さて、この娯楽ですが、元はお経に乗っていた言葉だということをあなたはご存じだったでしょうか?。知らないですよね、きっと。知っていたとしたら、びっくりです。私も知りませんでしたから。

娯楽は一般的には「楽しむこと」ですよね。これは間違いありません。では、仏教語の娯楽とは何でしょうか?。
お馴染みの「仏教語大辞典」によりますと、娯楽とは
@自分自身を観じて心のやすまること
A楽しむこと
とあります。
Aの意味は、現在でいう楽しむこととは異なります。Aも@の意味と同じです。すなわち、自分で自分に教えを説き、楽しむことです。これを自受法楽(じじゅほうらく)といいます。

お釈迦様の時代、仏教教団では、歌舞音曲の類の娯楽は一切禁止されていました。お釈迦様の弟子たちは、歌や演劇を見に行ったり、その当時の流行歌を歌ったりしてはいけなかったのです。もちろん、楽器を奏でることも禁止でした。お釈迦様の弟子のひとりに琴弾きがいますが、彼も出家以降は琴には触れることは、ありませんでした。出家者は音楽を聴いたり歌ったり、演劇を見たり舞いを見たりしてはいけなかったのです。つまり、一切の娯楽は禁じられていたのです。
ただし、お釈迦様の教えを暗記するために、曲をつけて教えを唱えることは許されていました。また、お釈迦様の教えを説くとき、歌うように説くことも許されていました。これは、インドの習慣に基づくものです。
これが、お経にも残っています。偈文といわれるお経です。五言絶句や詩句の形で書かれているお経がこれにあたります。お釈迦様のいらした当時は、詩文で曲をつけて唱えれていたと考えられています。お経にも、「歌うように教えを唱えた」、「詩で以って教えを歌った」というような表現が出てきます。これが仏教系の吟遊詩人や琵琶法師、声明の元となっているのです。

しかし、これは娯楽ではありません。教えを説くとき、節をつけているだけ、ということです。娯楽でもなんでもないのです。
仏教でいう本来の娯楽とは、自分で自分のために教えを説き、なるほどなるほどと一人納得して微笑んでいる状態を言います。瞑想して、
「なるほど、お釈迦様のおっしゃるとおりだわい。真実はこうなっておるのだのう・・・・」
と一人覚りの世界を楽しむのが、仏教でいう娯楽なのです。

覚りの世界にいることは、実は楽しいのです。覚りの世界は「常楽我浄(じょうらくがじょう)」です。永遠であり、安楽であり、我が存在し、清らかなのです。そんな世界にいれば楽しいに決まっているでしょう。真実の楽しみを味わっているのです。
これを自受法楽というのです。自分で自分のために法を説き、楽しんでいるのですよ。自分で自分のために教えを説いて楽しむ・・・・これが唯一認められた娯楽だったのです。

お釈迦様は、覚りを得たあと人々のために教えを説くことをしないつもりでした。一人で覚りの世界を楽しんでいればいい、この教えは難解だからだれも理解はしないだろう、自分だけで楽しもう・・・そう決意していました。ところが、梵天から頼まれ人々に教えを説くようになったのです。自分だけの法楽から、人々のための法楽へと変化させたのですね。
本来、覚りは自分自身の為にあるものです。自分のために覚るのです。ですから、覚ったあとは、一人で覚りの世界を楽しむことになるのです。
ただし、ここで終わってしまうと、自分のためだけという小さな教えになってしまいます。人々のために・・・という救いがなくなってしまうのです。これでは、真実の娯楽ではないのでしょう。菩薩が得る、救った喜び、これも娯楽になるのです。
娯楽は楽しむことでもあります。それは、菩薩の喜びのことでもあるのでしょう。人を救う喜び、他人のために働ける喜び、それこそが菩薩の娯楽になるのです。
この娯楽は誰でも味わえるものです。他人のために役立った時のあの喜びのことですから。

さてさて、ゲームセンターやパチンコなどの娯楽に興じるのもいいでしょうけど、たまには菩薩の娯楽を味わってみるのもいいのではないでしょうか。ちょっとしたことでいいのですから、社会のため、他人のための役立ってみてはどうでしょうか?。
そのときに味わう喜びこそが本当の娯楽なんですよ。
合掌。


67、方便
方便といえば、すぐに思いつく言葉が「うそも方便」ですよね。「うそも方便っていうじゃ〜ん」などと、最近の若い方でも使うようでして。
で、私たち坊さんが「まあ、うそも方便って言いますからね」などというと、「いいんですか、うそついて」と突っ込まれたりもしますが・・・・。でも、いいんです。うそも方便ですから。というか、方便は仏教にとって、いや、人々を導くことにおいて、大変重要なことなのですから。
そう、方便という言葉も仏教語なんですよ。

「方便」という言葉を一般的な辞書で調べてみますと、ちゃんと
@(仏)仏が人を真の教えに導くために用いる仮の手段。
とあります。仏教語である(仏)がついています。そのほかに、
A目的を遂げるために利用する便宜的手段。
とありますが、これは@を一般的な意味に広げたものです。もともとは、仏教の教えの中の言葉なのです。

仏教では、人々を救うためにはどんな手段を用いてもいい・・・・、という考え方があります。たとえば、大日経の中には「方便を究極とす」とありますからね。
もちろん、これは危険を伴います。ですから、その手段を使用するときは、熟慮に熟慮を重ね、他に方法がないか、ということを考察した上でのことです。安易な、救えれば何でもいいや、ということではありません。
先の大日経には、菩提心と大慈悲心がなければいけない、それが根本になければ方便は使ってはいけない、という意味のことがちゃんと説かれています。覚りのためであり、人々を救うという慈悲心をもとに、方便を使用しなさい、ということですね。そういうことならどんな手段を用いてもいい、ということです。

たとえば、聖天さんの伝説も方便です。
聖天さんのもとは、ガネーシャという魔神です。最近、夢をかなえるゾウなどという本が売れているようですが、そこに登場するガネーシャは、インドでは魔神なのです。
インドの神話に悪魔集団ビナーヤカという魔神の集団があります。このビナーヤカ、悪いことは何でもするという集団でした。で、そのリーダーがガネーシャです。
ガネーシャは、頭が象で身体が人間という魔神です。魔神・大自在天(シヴァ神)の息子なのですが、この息子、魔神である父親の大自在天より悪いんです。父親が手を焼くほどの悪さなんですね。で、ある時、怒り狂った大自在天がガネーシャの首を刎ねてしまいました。で、
「最初にすれ違った生き物の首をつけよ」
と命じます。最初にすれ違ったのが象だったので、象の首を刎ね、ガネーシャにくっつけたのです。こうして、象頭の悪魔ガネーシャが誕生したのですよ。
それからガネーシャは、自暴自棄になり益々悪の限りを尽くすのですが、何をやっても虚しいばかり。己の醜い姿に苦しむばかりだったのです。皆から嫌われるし、怖がれるし、その反発でさらに悪事を働き、ますます嫌われるという悪循環の中にいたのです。
でもね、ガネーシャは、本当は寂しかったのですよ。誰からも愛されない自分に苦しんでいたのです。そんなガネーシャ、ある日のこと湖のほとりに一人で佇んでいました。死んでしまおう、自殺しよう、としていたんですね。湖の水面に映る醜い姿を清めてもらおうと、湖に飛び込むつもりだったのかも知れません。
一人、ガネーシャは湖の中に入ろうとします。そのとき、
「待って、お待ちになって・・・。醜い姿をしているのはあなただけではありません。苦しんでいるのはあなただけではないのですよ」
という声が聞こえてきました。振り返ると、そこには自分と同じ姿・・・象の頭に人間の体・・・の女性がいたのです。女性とわかったのは、胸があったからです。衣装も天女の衣装でしたし。ガネーシャは、
「おぉ、私と同じだ・・・・。あなたも苦しんでいるのですね」
といって、その女性にすがりつきます。そして、二人はひっしと抱き合い、愛し合うのです(え〜、意味はわかりますよね。愛しあったのですよ。単なる肉体関係ではなく、愛情の表れとしての関係ですね)。
こうして、ガネーシャは救われました。一切の悪事から足を洗い、ビナーヤカも解散し、善神になることを誓うのです(ま、ヤクザさんが組を解散し、堅気に戻り、皆さんのために尽くす、ということですね。清水の次郎長のようなものです。ご存知ない?)。
そうして善神となったのが聖天さんなのですよ。
さてさて、ガネーシャを救ったのは一体誰なのか?。ガネーシャを抱きしめ、どん底だったガネーシャを立ち直らせたのは誰なのか・・・。
それは観音様なのです。観音様は、ガネーシャの苦しみを哀れんで、また、ガネーシャの心が実は純粋であることを知って、自らを象頭の醜い姿に変身させ、ガネーシャと抱き合ったのです。つまり、観音様はガネーシャを救うために、ガネーシャと肉体関係を持ったのですよ。これが「方便」なのです。
(もちろん、そうだからといって、坊さんが女性と肉体関係を持っていい、といっているのではないですよ。あくまでも、そこには救いと導きがないといけないのですよ。しかも、相手を選んではいけません。どんな醜い相手でも、救うためには身を犠牲にする、という精神が必要なのです。誰でもいいから、Hしちゃえ〜、ということではありませんので、ご注意ください)
そう、これが方便なのです。

なお、日本の昔話や古典にも、観音様が変化をして人間となり、どうしようもないダメ男を導いたとか、わざと嚇して正しい教えを聞くように導いたとか、つらい目にあわせて信仰の大切さを教えた、といった話はたくさんあります(たとえば「日本霊異記」などが有名ですね)。興味のある方は、読んでみてください。

方便というのは、人々を救うために用いる手段のことです。人々を救うのですから、それはどんなことでも許されるのです。まあ、程度の問題はありますが。そこから、
「うそも方便」
という言葉も生まれたのでしょう。たとえ、仏教で禁止されている「うそ」でも、人々を救うためならば、使ってもいい、閻魔様も許してくれる、ということなのですよ。あくまでも、人々を救い導くため、とういう目的があってのことですけどね。

本来は、方便はいい意味だったのですが、最近ではどうも悪い言葉で使われていることが多いようです。特にナガタチョーとか、カスミガセキとか、シャカイホケンチョーとか、コウロウショウとかいったあたりで・・・。
その界隈では、「うそも方便」が悪い意味で横行しているようですね。自分たちの都合のいいように、改竄したり、二枚舌を使ったり、ごまかしたり・・・・・。人々のための「うそも方便」ではなく、自分たちの保身のための「うそも方便」になってしまっています。
これは、閻魔様も許してはくれませんよね。きっと、地獄の底で、舌を引っこ抜く道具を持って
「早くこ〜い」
と笑って待っていることでしょう。気をつけてほしいですね。方便は、あくまでも「人を救うため、導くため」の手段なのですから。
合掌。


68、超越
何かを超越することは、大変難しいことですよね。スポーツの世界で言えば世界記録を超えるとか、自分自身の記録を超越するとか・・・・。それは簡単にできるものではありません。
スポーツの世界だけでなく、何かを超越することは簡単なことではないでしょう。特に、人間を超越する・・・な〜んてことは、できそうにありません。何かを超越することは難しいものです。
というように、超越とは「超える」ことを意味しますが、仏教の場合、ちょっと意味が異なるんですよ。仏教語の超越は一般の超越ではないんです。

とりあえず、一般の超越の意味を確認しておきましょう。国語辞典によりますと、超越とは
@事物・行動などが一定の限度・基準をこえまさること。
A俗事から抜け出ること。
B(哲)感覚対象たる個物や世界、あるいは可能的経験の領域、あるいは意識などから離れてあること。超絶。
とあります。
B以外はわかりますよね。まあ、Bも意識が一般常識を超えてしまった世界に至ること、と言い換えればわかりやすいですかね。
こうしてみると、仏教での「超越」は、きっとAやBの意味だろう・・・・と思われることでしょう。もちろん、そうした意味もあるにはあるのですが、本来の「超越」は少々異なるのです。

お馴染みの仏教語大辞典で「超越」を見てみましょう。あっと、言い忘れましたが、「超越」は仏教では「ちょうえつ」とは読みません。「ちょうおつ」と読みます。ご注意ください。
@過ぎ去った。過去。
A他にかかずらわらないこと。
B微細精緻な。
Cとびこえること。「超」は中間をおつこえたることで、「越」は当前の段をこすこと。
さてさて、如何でしょう。私たちが使っている超越の意味はCになるようですね。これについては、後ほど説明したしましょう。まずは@から順に解説します。

本来、超越とは「過ぎ去ったこと、過去」の意味でした。いわゆる「超える」という場合は「超過」を使っていたようです。
たとえば、現代で「私は彼を超越した」という文章は、仏教の本来の言い方をすれば「私は彼を超過した」となるのです。
現代では、「超過」と言えば「時間的に過ぎてしまったこと」になりますが、仏教では異なるんですね。「超越」が「時間的に過ぎたこと」になって、「超過」が「超えること」になるのです。今と全く逆ですよね。それもただ単に「時間が過ぎてしまったこと」ではないのです。今でいう「超過」とも異なるんですよ。

「超越」とは本来、「時間的に超えること」を意味しているのです。「時間が過ぎること」ではありません。タイムオーバーではないのです。「時間を超えること」なのです。もちろん、タイムマシンのような発想ではないですよ。現実的時間の流れを超えることです。ですから、「超越する」といえば「過ぎ去った事柄、過去のこと」となるわけですね。
たとえば、こういえばわかりやすいでしょうか。
「私は超越した」といえば、それは「私は私の過去を超えた」という意味になるのです。
これでよくわかるのではないでしょうか。つまり、仏教でいう「超越」とは「古い自分自身を超える」ことを意味していたのです。

さらに、Aの意味です。これは、他の事柄、つまり自分自身に関係しないことに対して、平然としていることを意味します。他とかかずらわらないとは、自分以外の内証・・・覚り・・・以外とは関わらないという意味なのですよ。泰然自若としている状態ですね。まさに、超越している姿と言えるでしょう。
他がどうあれ、他人がどうあれ、自分自身は何の揺らぎもなく、何の影響もなく、泰然自若としている状態が「超越」なのです。
(泰然自若も仏教では「たいぜんじじゃく」とは読みません。「たいねんじじゃく」と読みます。「たいねんじじゃく」と打ち込んでも泰然自若が出てこないんですよね。昔は「たいねんじじゃく」と読んでいたように思うのですが・・・・。違いましたっけ?)

Bは、微細精緻な智慧のことです。「超越智慧」ともいいます。一般の智慧ではなく、すべてを見通すような微細で精緻な智慧のことを意味しています。すなわち、一般の智慧を超えた智慧、ということですね。

こうした意味を総合的に考えると、Cの意味になるのでしょう。すなわち
@自分自身を飛び越え、
A周囲からの影響を飛び越え、
B一般的な智慧を飛び越え、
たところが「超越」なのでしょう。それは、もはや覚りの境地なのですね。

そもそも「超」とは、段階的な状態を経ずして、いきなり覚ってしまうことを意味していています。中間を飛び越え、涅槃に至る、ことを意味しているのです。禅で使っている言葉の「頓悟」(とんご)と同じ意味と言っていいでしょう。
「頓悟」とは、何の気なしにふっとしたことで悟ってしまうことをいいます。反対の言葉は「漸悟」(ぜんご)です。修行を重ね、次第に深い境地に入っていくことを「漸悟」というのです。「頓悟」はなにかのきっかけでパッと一瞬で悟ることであり、「漸悟」は修行を重ね次第に悟りを得ていくことなのです。
「超越」とは、この「頓悟」と同じ意味なのです。修行を重ねずして、一瞬で「あ、そうだったのか」と悟ってしまうのですね。それはまさに人間を超越しているのかも知れません。
こんなことは、難しいことでして、我々凡人には縁のないことなのでしょうけどね・・・。

が、実はそうでもないのです。実は、皆さんも日常生活において、超越しているのですよ。なぜなら、
「あ、そうだったのか」
ということって、たまにあるでしょ。
「あ、わかった。そうだったのか。そういうことだったのか」
って言いません?。言わない?。それは困りましたね。ちょっとぼんやりし過ぎてませんか?。それじゃあ、どこかの国の総理と同じレベルですよ。それではいけません。脳科学者の茂木先生も言っていますよね。「あ、わかったぞ」が大切なんだって・・・・。

「あ、そうだったのか」、「あ、わかったぞ」
これには、実に大きな意味があるのですよ。なぜなら、こう言ったとき、あなたは「過去のあなたを超えている」のですよ。わからないことがわかったのですからね。すなわち、それは「わからなかったときの自分」を「超越」したのです。
ということは、「超越」することは、実は誰でも簡単にできる、ことなのですよ。あなたは、あなたを超越するために、よく考え、よく観察し、行動をすればいいのです。
何も考えず、ただぼんやりと日常生活を過ごしていてはいけませんよね。日頃から「疑問」に思い、「あ、わかった」という脳の働きをすることが大切なんですね。そうした小さな超越を繰り返していくうちに、やがて自分自身を超越していくのです。

今年ももう終わりですね。新たな年を迎えるためにも、新たな自分を思い描いてください。そして、今年の自分を超越してください。
大丈夫です。誰にでもできることなのです。今年の自分の何がいけなかったかをよく観察し、よく考えれば、その答えがわかることでしょう。そうすれば、あなたは今年のあなたを超越できるのですよ。新年に向けて「超越」してくださいね。
合掌。


69、閻魔帳

最近の学生さんは「閻魔帳」という言葉は使わないのではないでしょうか。私が学生のときもあまり言いませんでしたからねぇ。私よりももう少し上の世代が使っていたのではないでしょうか。もちろん、意味は知っていましたけどね。マンガやTVドラマにも出てきましたから「閻魔帳」という言葉。今では死語になってしまったようです。
と思っていたら、つい先月のこと、TVで「閻魔様って、閻魔帳の閻魔様?」などと言っていたタレントさんがいました。たまたま、TVがついている部屋を通りがかった時に聞こえてきたので、どんなタレントさんが言っていたのかは知りませんが・・・・。きっと、中年以上の御年の方なのでしょう。
でも、その番組内の中では通じていたみたいなので、
「まだ完全な死語にはなっていないんだ・・・・」
と驚いたのですよ。
で、今回はその「閻魔帳」にスポットを当てたいと思います。

「閻魔帳」。
私以上の年齢の方なら説明はいらないでしょう。しかし、若い方たちは知らないと思いますので、一応その意味を書きだしておきます。
国語辞典によりますと、「閻魔帳」とは
@閻魔王が死者の生前の罪状を記すという帳面。
A教師が学生や生徒の成績を書きとめておく手帳。
私たちが知っていたのは、Aの意味のほうですね。マンガや学園ドラマなどでは
「あ、あれは先生の閻魔帳だ。ちょっと見てみようぜ〜」
なんていうシーンがよくありました。あるいは、
「閻魔帳に書かれるぞぉ〜」
とかね。懐かしき青春ドラマです(森田健作とか・・・・ですねぇ)。閻魔帳とは、先生が生徒の成績や日頃の態度を書き留めておく覚え書き手帳のことでした。それをもとに成績がつけられるのです。
で、先生の閻魔帳は、本来の意味での閻魔帳のパクリです。本来の意味とは、@のほうですね。すなわち、閻魔大王が持っている帳面で、それには人間が生きているときに犯した罪が記されている、と言われているものです。閻魔大王はこの帳面を見ながら、
「お前は生きているときに、こ〜んな悪いことをしただろう。だから、地獄行きだな!」
と言って、死者を脅すわけですね。死者は、そうした指摘に、たいていは
「そ、そんな事はしていません」
などと、しらばっくれたりします。往生際が悪いんですな、人間ていうものは。正直に「はいそうです」って言えば楽なものを・・・・。
そうした死者に対し閻魔大王は、あの有名な浄波璃の鏡を見せるんですね。そこには、生前の悪事が次から次へと映し出されるわけです。それを閻魔様と一緒に見るわけですね。いわば、
「その死者の一生の罪」
というくだらない作品を閻魔様と一緒に自分で観賞するわけです。いやはや・・・・これは恥ずかしいでしょうねぇ。証拠映像を見るんですからねぇ、つらいですよ、これは・・・・。
と、まあ、映像を見せられちゃあ、しらばっくれるわけにもいかず、死者は
「すみませんでした。やっちゃいました」
と認めざるを得ませんな。となれば閻魔大王、得意顔で
「ほ〜らみろ、やっぱりやってるじゃないか。初めから素直に認めらばいいものを・・・。そういう嘘つきは、地獄行きだな。決定、この者を地獄へ落とせ!」
というかと思えば、実はそうではありません。実は、閻魔大王、そんなに怖くはないのです。

ここで閻魔大王のプロフィールを紹介しておきましょう。
閻魔様。本名をヤマといいます。これを音写して閻魔となりました。そもそも仏典では「閻魔」と書かないで、「閻摩」と書いていました。それが死者の行き先を決定する冥界の王という意味から恐れられるようになり、「摩」の字は「魔」の字になってしまったんですね。
閻魔さんは、実は人類死者第一号、と言われています。人間で初めて死んだのが閻魔さんだったんですね。
そのころは、人間が死ぬという認識がなかったのです。生き残っている人たちはびっくりしたでしょう、きっと。いきなり動かなくなってしまったんですからね。しかも、放っておくと腐ってくるし。驚くやら恐ろしいやら・・・・きっとパニック状態だったと思います。
一方、亡くなった閻魔さん。その魂は、とぼとぼと暗闇の中を進んでいきます。暗闇なのに進めるのか?というのは愚問ですな。なぜなら、勝手に魂が進んでいってしまったからです。
で、行き着いた先は楽園でした。それは如来や菩薩が過ごしていた一種の極楽だったのです。
「おやおや、人間だな、あれは・・・。ほう、亡くなったのか。ついにここも人間の死者に見つかってしまった。あぁ、恐れることはない。こちらへ来なさい。名前は?・・・ふむ閻魔というのか。よし、この地を汝に託そう。これから汝の仲間である人間の死者がここに来るであろう。それを汝が管理するのだ。まあ、初めは汝のように清浄なる死者が多いだろうが、そのうちに悪い奴も来る。そのときは・・・・。皆で話し合って決めるがよい。では、さらばじゃ」
というようなことがあって(たぶん・・・)、閻魔さんはあの世の楽園の王となるのです。一人しかいませんからね。当然、王です。
そうこうするうちに、顔見知りがやってきます。知らない者もやってきます。楽園はにぎやかになりました。ところが、やがて悪い奴も来るようになったのです。予言通りですね。
そこで、閻魔さんを代表とする初期の死者で話し合って、悪人を閉じ込めておく場所を造ることにしました。それが地獄です。悪人が逃げられないように、地面の下、深い所につくったのです。それで地獄というんですね。
で、その管理を閻魔さんが任されてしまったのです。つまり、貧乏くじを引いたわけですね。
閻魔さんは、楽園の王だったんですよ。なのに、死者第一号だから、地獄の管理もやってくれ、と言われちゃったんでしょうね。で、ついつい引き受けてしまったようなのです。閻魔さん、実は押しに弱いんですよ。頼まれると嫌とは言えない性格だったようです。

ま、そうこうするうちに、死者も増え、それに伴い死者の罪を多様化します。そこで、裁判が行われるようになり、死者の罪の種類により行き先も様々になりました。これが六道輪廻の始まりですね。
初めは、閻魔さんが一人で裁判をやっていたのですが、押しに弱い閻魔さん、死者に
「いいじゃないですか、お願いですよ、反省していますから、楽園に行かせて下さい。せめて地獄は勘弁してください。お願いです、ね、閻魔大王!、よ、大統領!、さすが閻魔大王、王の中の王!、お願い!」
と言われたりすると、
「しかたがないなぁ」
といって、悪者であっても地獄行きを免除してしまうんですね。そのため、裁判は七回行われるようになったのだそうです。しかも、閻魔さんは五番目という中途半端な場所を任されるようになったのです。
まあ、それでも一応は、霊界の王ではあるのですが・・・・。
そう、閻魔さんは、一応、あの世の王ではあるので、死者の管理をする代表者ではあります。したがって、下僕である牛頭や馬頭、あるいは地獄の番人は閻魔大王の命に従っているのですよ。
なお、如来から頂いた楽園は、閻魔天という天界になりました。閻魔さん自身も天部の神となっています。神通力も使えるようになったんですね。まあ、だからこそ、地獄を造ったりもできたわけで・・・・。
そのうちに、閻魔物語を書きましょうかねぇ・・・。

と、まあ、こういうわけですから、閻魔大王というのは実は優しんですね。地蔵菩薩の化身とも言われています。地蔵菩薩が閻魔として人間界に生まれ、人間たちに死を教えたのだ、ということですね。地蔵菩薩の化身ですから、やさしいこと間違いなしです。
なので、死者に対し、
「地獄へ落とせ!」
などと言わないんですよ。閻魔帳を見て
「こういう悪事をしたことを認めるなら・・・・次に行っていいよ。次の裁判では、初めから素直に罪を認めなさいね。そうすれば、地獄へ行くことはないから。じゃあ、次へ行って下さいな」
と優しく言ってくれるんです。顔に似合わず。あの恐ろしげな顔で。ちょっとびっくりなんですが。

が、そう言ってもらえる者は、心優しき一般市民でして。大した罪はしてないんですよね、こういう人たちは。まあ、せいぜい、
虫を殺した、カエルを殺した・・・程度の殺生の罪。
盗み聞きした、盗み見した、あるいは、一度だけ万引きしちゃった・・・程度の盗みの罪。
風俗で遊んじゃった、ちょっとだけ浮気しちゃった、少しだけ不倫してた・・・程度の邪淫の罪。
うそついちゃった、ごまかしちゃった、悪口いっちゃった、ちょっと噂話に興じちゃった・・・程度の口の罪。
少し欲ばちゃった、妬んじゃった、うらやんじゃった、ちょっとだけ怨んじゃった・・・程度の心の罪。
を犯したくらいの者なのです。それ以上の罪を犯した者は、裁判には来ないですからね。
たとえば、
動物を数多く虐待した、殺人を犯した、窃盗の常習者だった、異性との交渉におぼれ家庭を不幸にした、怨み怒り続けて一生を終えた・・・
というような重罪を犯した者は、裁判は受けずに地獄へ直行です。
あぁ、そうそう、多くの者を不安に陥れたり、不幸にしたものも地獄行きですな。たとえば、国民を不安にさせたとか、苦しめたとか・・・ね。
あ、じゃあ、彼の国の首相や議員、官僚の皆さんは、自分の私利私欲のために国民を苦しめたから・・・・・。
きゃ〜、恐ろしい!。かわいそうですねぇ。でも、仕方がないですよね、私欲が強すぎなんですよね。きっと、閻魔帳にしっかり書いてあることでしょう。この者、地獄へ直行・・・と。
合掌。


70、他力本願
物事を他人任せにすることを「他力本願」といいます。
なんでも人任せ。「お願いね」の一言で終わってしまう・・・・。そういう方、結構世の中に多いのではないでしょうか。まあ、他人任せもいいのですが、少しは自分の努力で・・・とも思いますよね。
さて、この「他力本願」、言うまでもなく元は仏教の言葉だということは、ご存知でしょう。えっ?、知らなかった?。ま、そのような方もいらっしゃるかも知れませんね。
ということで、今回は、「他力本願」の本来の意味をお話しいたしましょう。他力本願って、結構責任が重いんですよ。

他力本願といえば、無責任の象徴、他人任せ、自らは何もしない、身勝手・・・という印象がありますよね。国語辞典を見ても、
「物事を他人任せにすること」
とあります。自分では何もしないで、他人の力をあてにすることが、現代で使われている「他力本願」の意味ですよね。
ところが、仏教語としての本来の意味は、ちょっと違います。単に無責任な他人任せ、というわけではないのですよ。それはそれは厳しい意味があるのです。

他力本願という言葉は、「他力」と「本願」という言葉でできています。それぞれの意味をお馴染みの仏教語大辞典で見てみましょう。
「他力」
@自力の対。他の力。他人あるいは他のものの作用。
A自力に対していう。特に仏・菩薩の力によってさとりに導かれることをいう。広義には仏や菩薩の加被・加護をさす。他からの力添え(以下省略)
B浄土教では、衆生を極楽に往生させる阿弥陀仏の願力をいう。真宗では阿弥陀仏の念仏往生の本願を信楽するのをいう。

「本願」
@もとからの願い。仏や菩薩がむかし立てた願い。菩薩が過去世に修行していた時に起こしたもとの願い。すべての人びとを救おうとする願。希望。誓い。
A根本の願。特に阿弥陀仏が一切衆生を救済しようとして発した誓願。
B最初の誓願。
(以下省略)

本来、他力とは「自力での修行」に対する言葉だったのです(「他力」@)。そもそもお釈迦様がいらした時代は、だれにも頼らず、ただお釈迦様の教えを聞き、「一人で瞑想して真理を悟る」のが修行でした。他者へ依頼したり、他者を頼ったりせず、己のみを頼りとして修行したのです。
これに対し、他力とは「悟りを得ることを仏や菩薩に頼ってしまうこと」を意味しています。つまり、自分で悟りを得ようとしないで、仏様や菩薩にお任せしてしまう、ということです。

なぜ、そうした考え方が生まれてきたのでしょうか。
本来、悟りとは、自分で修業してその境地に到達するものでした。自力での修行ですね。ところが、いくら修行してもち〜っとも悟れません。なかなか悟りの境地には至れないのです。そんな修行僧が増大したんですね。
修行者は困りました。
悟りを得るために出家したのに悟れないないんて・・・・。それでは、死んでも死にきれないでしょう。何のために出家したのか!と嘆くことでしょう。その当時(お釈迦様が涅槃に入られて後2〜3百年後のころ)の出家修行者はまじめだったんですよ。真剣に悟りの境地を求めていたんですねぇ。今の坊さんは、真剣に悟りなんて求めていませんからねぇ。真剣にお金は求めているでしょうけど・・・・。
ま、そんな訳でして、悟れないんですね、真面目な修行者も。で、思いつきました。たぶん、こんな感じだったと思われます(あくまでも想像です。史実ではありませんよ)。
「はぁ〜、いくら修行してもち〜っとも悟れないなぁ・・・。もうダメかも・・・」
「そう嘆くなよ。ところでさ、仏陀や菩薩っているよな」
「あぁ、いるよ。仏陀は完全なる覚りを得た如来。お釈迦様をはじめ、阿弥陀如来や薬師如来などがいらっしゃるとお釈迦様は説かれた。菩薩は、悟りを得てはいるのだが、衆生を救うためにあえて如来にならず、あえて菩薩でいるんだ。立派だよなぁ・・・。一切の衆生を救う、なんてさ」
「それだよそれ」
「どれ?」
「だからさ、菩薩は一切の衆生を救うことを誓っているんだろ。一切の衆生が悟りを得たら、自分も悟りを得るのだ、と」
「あぁ、そうだよ。最近、仏教教団の中でも、菩薩の教えを説く集団が多くなってきたよな。彼らがそう言っていたよ」
「そうならば、俺たちも救ってもらえばいいじゃないか」
「どういうこと?」
「菩薩は、一切の衆生が悟りを得ることを望んでいるわけだろ。ならば、悟りを得られるようにしてくれってお願いすればいいじゃないか」
「あぁ、なるほど・・・・。そうか、そういう手があったか・・・・」
「そうだろ。何も自分で修業しなくても、たくさんいる仏や菩薩に頼ってしまえばいいんじゃないか」
「なるほど。仏や菩薩の誓願に頼ればいいのか。そうだな。仏も菩薩も、みんなを救うと誓っているんだからな」
「そうそう。誓っているんだから、その誓いを果たしてもらえばいいんじゃないか。だから、自分で修行などしなくて、願うだけでいいんじゃないの?」
「それだ!。それしかない!。我々が悟りの境地に至る道は、頼ってしまうことだ!」
と、まあ、こんな感じで仏・菩薩に頼ってしまおう、という考えが生まれてきたのではないかと想像できるのです。
なぜなら、そもそも、仏も菩薩も人々を悟りの境地に導くために存在しているのですから。

仏や菩薩は、衆生・・・我々や生あるものすべて・・・を悟りの境地に導くのが仕事です。特に菩薩は一切の衆生を救うのだ、と誓っているのです。それが成就するまでは決して如来にはならないと、ね。
また、阿弥陀如来は、48もの誓願を立て、それをすべて成就したがために阿弥陀如来になったのです。その中でも、「ひとたび我が名を心から呼んで救いを求めれば、我が仏国土に生まれ変わらせよう」という誓いがあります。すなわちこれは、
「南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽に往生させてあげる」
と言ってるのです。
こんな簡単なことはないでしょう。ならば、自力での修行なんて止めてもいいですよね。みんな阿弥陀如来にお任せしてしまえばいいのですから。
こうして、仏や菩薩のもともとの誓い・・・本願・・・に頼ってしまえばいい、という「他力本願」の思想が生まれたのです。それが後々、日本で大発展し、浄土宗や浄土真宗を生んだのですね。

しかし、他力本願はそんなに簡単なことではなかったのです。否、実際にすべきことは簡単です。
「南無阿弥陀仏」
と唱えるだけでいいのです。それだけで、極楽浄土に往生できるのです。
が、できるのは往生することです。往生とは「往って生まれること」です。つまり、阿弥陀如来の国土である「極楽に往って生まれる、極楽へ生まれ変わる」ことを意味しています。すなわち、この世で救われるのではなく、死んでから救われるんですねぇ・・・・。
また、すべてを仏や菩薩に任せてしまうのですから、自分の考えや思い、希望などを捨てさらねば、他力本願になりません。
そう、他力本願とは、「一切を仏・菩薩にお任せしてしまうこと」なのです。
それ他力本願の本当の意味なのです。
一切をお任せしてしまい、自分の考えや思いなどは捨ててしまう・・・、これは難しいことなのですよ。

たとえば、あなたが誰かに仕事をお任せしてしまったとします。
「私は、他力本願だから」
とか言ってニヤニヤしてお願いします。あるいは
「あんたって、ホント他力本願ねぇ」
「はい、そうなんですぅ」
などとすっかりお任せしてしまう、とします。そういうこと、よくあるでしょ。
で、お任せした結果。それが自分が思ったとおり、もしくは思った以上の出来ならば、きっと何事もなく
「ありがとうございますぅ。感謝感激ですぅ」
で終わるでしょう。しかし、その結果が思った以上に悪い出来だった、あるいはこじれてしまったら
「どういうこと!、なんでこうなるの?、これじゃあ任せた意味がないでしょ。あ〜、もう、こんなんだったら自分でやればよかった!」
と怒り心頭になるのではないでしょうか。そして、感謝するよりも怒るほうが多いのも事実なのではないでしょうか。

実は他力本願ほど難しいことはありません。お任せしてしまったら、一切文句は言えないのですからね。本当の他力本願は、自分の人生をすべて阿弥陀如来に預けてしまうことです。そんなことは、無理ですよねぇ・・・。
ただただ「南無阿弥陀仏」と唱えていることが他力本願ではないのです。無責任なお任せ主義のことではないのですよ。
ですから、他力本願なんて実際にはできないことなのです。

と思っていたら、完全なる他力本願を実践している集団がいることを私は発見してしまいました。彼らは、一国の指導者でありながら
「アメリカ任せ」
「官僚任せ」
という完全なる他力本願をやってのけているんですねぇ。もうびっくりです。きっと死後は、米国なる極楽浄土へ往生できるんでしょうねぇ。ね、国会にいらっしゃる皆さん!。
合掌。


71、分別
まったく近頃の大人は分別がないようで。やっていいことと悪いことの区別がつかない方が多いようですな。いや、行為だけじゃなく、言葉もそうですな。言っていいことと悪いことの区別がつかない。はたまた、そのタイミングでいう?、てなことが多いようでございます。
永田町界隈では、
「あたしゃ反対だった」
などと今更ノタマウお偉いさんがいるかと思えば、大事な記者会見の場にフラフラになって登場するお偉いさんもいます。
まあ、メディアに叩かれ、気の毒っちゃあ気の毒ですが、それにしても分別がなさすぎじゃあないかと思いますなぁ。いい大人なんだから、もう少ししっかりしていただかないと・・・、ましてや国を代表するお方たちですからねぇ。
「おっと、御免なすって」
じゃあ、すまないでしょう。

「いやいや、そうじゃあんめぇよ」
「な、なんだい、いきなり。あんた誰だい」
「俺かい?。俺は、なんだなぁ、え〜っと、まあ通りすがりの屁理屈和尚だよ」
「屁理屈和尚って・・・自分で屁理屈だって言ってるよ、この人。まあいいや。その屁理屈和尚が何のようだい」
「いや、あんたが『最近のお偉いさんは分別がなくていけねぇ』と嘆いていたのを小耳にはさんでね。なんで嘆いているのかと、そう思ったんだな。だから声をかけたんだよ」
「なんで嘆いているかって、そんなこたぁ、当たり前でしょう。大人が分別なくってどうするんですか。ましてや、国を代表するお偉いさんだ。分別がなきゃあ恥をかくってもんでしょうよ」
「はぁ〜、そんなもんかねぇ」
「そんなもんかねぇ、ってあんた。あんた和尚さんでしょ。分別がなきゃ困るって説教するんじゃないのかね」
「いや、しねぇな。そんな説教は、俺はしねぇ」
「しねぇって・・・。あんたみたいな和尚がいるからいけないんだ。和尚さんなら和尚さんらしく、こう『かーっつ!』とか言って、あの人たちを叱ったらどうだい」
「『かーっつ!』っていうのは、宗派違いだなぁ・・・。まあ、それはいいんだがな、和尚さんなら和尚さんらしくという分別がいかん。分別なんてものは糞くらえだ」
「糞くらえって、いいのかいそれで。分別がなきゃ、立派な人間になれないでしょうに」
「いんや、分別があるから立派な大人になれないんだな」
「はぁ?、おいおい、大丈夫かいこの人。あんた本当に和尚さんなのかい?」
「なになに、大丈夫だ。俺は立派な和尚さんだから。うわっはっはっは」
「わらないねぇ。なんで分別があると立派な大人になれないんだい。逆だろうに」
「いやいや、逆じゃないんだな、これが。何を隠そう、彼のお釈迦様は、全く分別のないお方だった」
「おいおい、俺に学がないからって、そんな嘘をついちゃいけねぇよ。お釈迦様が分別のないお方だったぁ?。そんなことあるわけないだろうに。悪いことはいわねぇ、もう一度修行し直した方がよろしいんじゃないかい」
「うわっはっはっは。これだから、俗人は困る。そんじゃあ、教えてやるから、耳の穴かっぽじって、よ〜っく聞きなさい。こんなありがてぇ説教聴けるお前さんは、果報もんだよ。うわっはっは」

屁理屈和尚、いきなり説教を始めますな。
「そもそも分別ってのはなんでぇ?」
「分別ってのは・・・・、物事の道理をわきまえることでしょう。そうさねぇ、TPOがちゃんとできること、と言ってもいいんじゃないかね」
「いい答えだねぇ。その通りだな」
「じゃあ、分別がなきゃ困るだろうに。分別のない人間は、ダメなやつだろう」
「そうとも言えんのだな、これが。何を隠そう、彼のお釈迦様は、全く分別のないお方だった」
「さっき聞いたよ、それは。そういう嘘はいけないだろうに」
「嘘じゃないんだな、これが。お釈迦様は分別のない方だったのだよ。
いいかい、分別ってのは、分け隔てることだな。区別することだ。そいつは、差別でもある。そもそも分別ってのは、己の価値判断によって区別することを分別っていうんだ」
「それは道理をわきまえていることと同じじゃないのか」
「違うな。ここで大事なことは、『己の価値判断による』というところだ。いいかい、己、なんだな」
「己の価値判断がどういけないんだ?」
「いけないねぇ。お前さんの判断は絶対かい?。間違いは犯さないかい?」
「絶対ってことはないが・・・・しかし、ある程度の常識ってもんがあるでしょうに」
「その常識ってのは、どんな常識だ?。世界に通用するかい?」
「そう言われると・・・自信がないなぁ。国内なら何とか・・・」
「そうかい、じゃあ聞くがな、お前さんは、男と女の区別をするかい?」
「そりゃあするでしょうよ。しなきゃ、銭湯へは行けねぇ。いや、むしろ、区別がなきゃ嬉しいがな」
「なんでだ。なんで、嬉しい」
「なんでって、和尚だって嬉しいでしょうに。やっぱり女のハダカは見てみたい」
「なにニヤニヤしてんだ、この愚か者めが。それがいかんのだ。そうやって、男だの女だの区別するからだな、変な欲が生まれるんだ」
「どういう意味で?」
「いいかい、男だの女だの、お前さんはそうやって男女の区別をするだろ」
「へい、そりゃあします」
「そこが間違うておる。男女の区別など、この世にはない!。いや、あの世にもない!」
「え、男と女の区別がない?。じゃあ、みんなオカマで?」
「バカモノ!。男だ女だ、と区別をするから欲が生まれる、と言っておるのだ。さらに、男女の区別は、男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ、という差別を生む。そうした差別が、苦しみの元なんだ」
「わからねぇ・・・・」
「いいかい、お前さんたち男どもは、そろってこう言うな。『男は外で働き、女は家を守るものだ。だから、お前は家にいろ。外に出るな。働かなくていい、いや、ちょっとだけ、内職的なものをすればいい、遊びに行くなんてもってのほか。亭主が外で働いているんだからな』。こういうだろ」
「まあ、世間一般では・・・・。俺も言いますが・・・・。しかし、日本では、そういう社会状況になっているし、それが日本男児の常識ってもんじゃ・・・・」
「なにが日本男児の、だ。そんなものは、男の勝手ないい言い分じゃないのかね。男の都合ってもんだろうに。そもそも男が働き、女が家の中、って誰が決めたんだ」
「いや・・・・さぁ、徳川家康とか・・・・」
ポカリ!
「なにもぶたなくても・・・・」
「お前のカス頭なんぞぶってないわ。手が痛いからな。男女の区別なんぞ、『元より無し』じゃ。男だの女だの区別するから性欲も生まれるし、固定観念も生まれる。お互い人間だ、という眼で見れば、性欲も生まれないし、男はこうだ女はこうだ、という固定観念も生まれない。すべては平等だ、となる」
「ははぁ・・・確かにぃ」
「なんだ、その手の格好は。なんで両手を×にする。しかもその指・・・・。ともかくだ、これでお前さんの常識もあやふやだということがわかったろ」
「男女の区別はない?」
「そうだ。己の価値判断で区別したことが真理であるわけではない、真実であるわけではないのだ。己の価値判断で、男はこう、女はこう、と分け隔てることの愚かさよ。そんな分別は、間違っておろう」
「確かにぃ」
「もういいちゅーに。同じようにだ、自分たちの勝手な価値判断によって、俺の神、お前の神、俺の国、お前の国、などと区別をするから、争いが生まれる。俺の国もお前の国も同じ地球上じゃないか、と思えば、争いなどおこらん。どこの神様もいていいんじゃないの、と思えば、信仰上の争いもおこらん。日本の八百万の神々がいい例だ。俺の神は、俺の神でいいから、それを他に押し付けるな、っていうんだよ。そういう自分勝手な分別が、つまらぬ差別や区別を生み出し、固定観念を生み出し、自由な発想ができなくなり、視野が狭くなり、自分勝手な人間が生まれてくるんだよ。
つまらねぇ区別なんぞしないで、助けてやりゃあいいこともあろう。人種差別だの、主義主張が違うだの、そんなこたぁどうでもいいことだ。同じ人間じゃねぇか。どこが違うってんだ。
同じように、与党だ野党だなどと、くだらない争いをしているから、ち〜っとも進歩しねぇ。そんな区別なんてしねぇで、お互い垣根を取っ払い、腹を割って本音で話をすればいいものを。与党だの、野党だの区別するから、足の引っ張り合いばかりじゃねぇか。お互い貶しあってどうするよ。それじゃあ、この国がよくなるわけあるめぇ。つまらねぇ、自分勝手な価値判断は横におておいてだ、日本をよくするにはどうしたらいいだろうと、なぜ話しあわねぇ。自分たちの利益のことばかり考え、分別しあっているから日本は三流国家なんだろ。
まったく、くだらねぇ分別なんて糞くらえだ。
男であってもいいじゃねぇか。女であってもいいじゃねぇか。男は家でメシ作っちゃいけねぇのか?。女がバリバリ仕事しちゃあいけねぇのか。
鰯の頭を信じちゃあいけねぇか。誰にも迷惑掛けてねぇだろ。坊さんだ、俗人だ、と分け隔てて何になる?。同じ人間じゃねぇか。
金持ちだ、貧乏だ、とこだわってどうする。たまたま、その時金を持っているだけに過ぎないじゃないか。貧乏が不幸せか?。貧乏でもいいじゃねぇか。車なんて持ってなくてもいいじゃねぇか。洗濯してりゃあ、襤褸を着ててもいいじゃねぇか。
高学歴だの、高収入だの、こだわってどうする。普通に生活できりゃあいいじゃねぇか。自分で稼いだ範囲でものを持てばいいじゃねぇか。何も見栄をはるこたぁねぇだろう。ブランドだの高級だの低級だのって区別するから、つまらねぇ欲望が生まれてくるんだろうが。何だっていいじゃねぇか、そんなもの。同じ鞄だろうに。デザインがどうの、材質がどうの・・・・いいじゃねぇか、そんなこと。鞄にゃあ変わりはない。
ブスだの、美人だの、ブサメンだのイケメンだの、キモいだの、そうやって区別ばかりしているから、その人間の本質が見えねぇんだよ。
欲で曇った眼、勝手な自己判断で区別するから、本質が見抜けないんだ。欲を去り、自己判断で区別をしなきゃ、物事の本質が見えてくるってものよ。だから、分別はしちゃぁいけないんだよ。
ところで、お前さんは、学がないが、バカか?。非常識な人間かい?」
「いや、そうではないと思っていますが・・・・」
「そうだろ。学がないからって、何も問題はないだろ。仕事だって、自分に合った仕事を選べば問題なかろう。学がなくても生きていけるし、学がないからと言って悪い人間でもない。大切なのは、お前さんという人間そのものだろう」
「へい、そう言っていただけると嬉しいような、こそばゆいような・・・・」
「何ニヤついているんでぇ。いいかい、大事なことは物事に分別をつけるんじゃなくて、物事の本質を見抜くことなんだ。外見で判断して、一方向から物事を見て、区別したり、差別したり、分類してはいけないんだよ。そういうことをするから、物事の本質を見失うんだ」
「なるほどねぇ。そうか、じゃあ、分別ってのは、あまりしないほうがいいことで・・・」
「そういうことだな。分別していいのは、善悪だけだ」
「善悪?」
「やっていいことか悪いことか。その判断だけだな。ただし、それも状況によっては異なるから簡単に分別しないほうがいい」
「あぁ、国によっても異なるようですからねぇ」
「そういうことだな。ま、全世界共通なことは、殺しちゃいけない、盗んじゃいけない、他人の夫や女房と交わるな、他者をだますな、暴言を吐くな、ってことくらいだろ。あとは、状況によって異なるから、全体をよ〜っく眺めて、物事の本質を見極めて判断することだな」
「なるほどねぇ、分別も奥が深いねぇ」
「当たり前よ。だから、永田町の連中が、分別のない言動を繰り返していることは、いいことなんだよ」
「なんで?」
「なんでって、バカだな、お前は。なぜなら、あの連中の本質が見えてくるだろ。分別のない言動が、彼らの本質をさらけ出しているだろうに」
「あ、なるほど。確かにぃ」
「しつこい。分別臭い態度しているヤツのほうが、何を考えているかわからん。胡散臭いってものだ。ああやって、本質をさらけ出している者は、正直者なんだよ。あとは、それを我々がどう判断するかが問題なのだ」
「なるほどねぇ。分別がない場合、そいつの本質が見えているってことか」
「そういうことだな。だから、分別なんてしないで、本質を見抜こうとすることが大事なのだ。いいかい、一切の分別を失くし、一切が平等だ、と思えるようになったら、悟りの世界よ。悟りの世界にゃあ、悟りとか迷いとかの分別もない。一切はあるようにある、ないようにない、のだ。それが理解できたらお釈迦様と同じだよ」
「あぁ、わからねぇ。なんだそりゃ」
「分別のある人間にゃあ、それはわからねぇよ。分別を無くせばわかるってものよ。さてと、おしゃべりも飽きた。ちょっとそこへ行ってくるかの・・・」
屁理屈和尚は、そういうと、通りの角を曲がったお店に入って行こうとした。
「ちょっと、和尚、いいのか、そんなところへ入って。そこはストリップ小屋じゃねぇか!」
「お前、何を聞いていたんだ。俺にはな、男女の区別はないんだ。俺は、女の裸を見に行くんじゃねぇ。ここに出ている人間の本質を見に行くのよ。うわっはっは」
和尚は大笑いすると、ストリップ小屋へ入って行ったのだった。

「いいのか、これで・・・・。本当に?」
男がそうつぶやくと、天から声が聞こえてきた。
「善悪の分別すら、本当は誰にもつけられないんだよ。何が善で何が悪か。それを判断できるのは、人間を超えた叡智ではなかろうか・・・・。分別をせず、一切を平等と知ることが悟りなのだ。あの和尚に関して言えば、自分勝手で分別のあるなしを使い分けているようだな。まあ、ストリップを見ることで誰かを苦しめているわけでもなし。出家者としての罪は自ら背負うであろうよ・・・・・」
「なるほど、分別は、本当に難しい・・・・」
お粗末さまでした。チャンチャン。
合掌。



72、お礼参り
「お礼参り」といえば、一言で言えば「仕返し」のことですよね。怖いにーちゃん(ねーちゃんでもいいのですが)が、ひどいことをされた仕返しとして、復讐することを「お礼参り」と言います。知らない方は、あまりいないんじゃないでしょうか。
しかし、そもそもは、「お礼参り」とは神仏に対しての言葉です。仏教に限った言葉ではないですね。神道・神社も含めての言葉です。したがって、仏教語とは言えないのですが、まあ、仏教にも使いますし、本来の意味が忘れられているということもありまして、今回は「お礼参り」を取り上げてみました。

つい最近のことです。私が、
「ふ〜ん、やれやれ、祈願が一つかなった。お礼参りに行ってこなきゃ」
と言いますと、そばにいたある方が
「えっ?、何か仕返しに行くんですか?。怖い相手ですか?。いいんですか、そんなことをして」
と聞いてきたんですね。
「いやいや、お礼参りって、ヤクザじゃないんだから、そっちのじゃなくて・・・」
「だってぇ、お礼参りでしょ?。ヤバいんじゃないですか?」
「あれ?、君、お礼参りの意味知らないの?」
「知ってますよぉ〜、それくらい。仕返しに行くんでしょ?」
「違う違う。お礼のお参りだって」
「お礼のお参り?。なにそれ。お礼のお参りってなんですか」
「あ、やっぱり知らないんだ・・・・」
というようなことがあったのです。困ったものですねぇ。今の若者には、「お礼参り」は、不良軍団やヤクザ者たちの仕返しのケンカぐらいにしか思ってないんですよね・・・・。

そもそも、お礼参りとは、賢明な皆さんならよく御存じとは思いますが、「お礼のお参り」のことです。それは神仏に対し、何か祈願が叶ったときするお参りです。
「祈願がかないました。ありがとうございました」
というお礼のお参りのことです。決して、仕返しのことではありません。

神仏に御祈願をすることはよくあると思います。たとえば、季節がら、神社や仏閣に「合格祈願」をされた方がたくさんいますよね。有名な神社やお寺には、「合格成就 ○○大学!」と書かれた絵馬がたくさん掛けてあります。毎年、ニュースでやっていますよね。みなさんも経験がありますか?。
で、その結果、見事希望大学なり希望高校や中学に入学したとします(最近じゃあ、中学も受験が多くなりましたからねぇ・・・)。
「やった〜、よかった〜。受かった〜」
と大喜びですね。これも毎年ニュースで見られるシーンです。
しかし、合格した皆さん、祈願したこと忘れてませんか?。ちゃんとお礼のお参りは行きましたか?。行ってないですよねぇ・・・・。
そうなんです。合格祈願がかないました。確かに、神社やお寺に祈願しました。でも、それは縁起担ぎだし、その時に絵馬のお金は払っているし・・・、なんでお礼に行かなきゃいけないの?。合格したのは、まあ、運もあるかもしれないけど、実力だし。運も実力のうちっていうし・・・。で、何でお礼参りに行かなきゃいけないの?、しつこいようだけど・・・・。
となるんですよね。まあ、こう言ってもらえるだけマシかも知れませんが。多くの場合は、
「あぁ、そんなこともあったわねぇ」
「忘れてた」
で終わりなんですよね・・・・。

なにも、合格祈願だけではありません。祈願は様々です。
「子供が授かりますように・・・」
「就職できますように・・・」
「病気が治りますように・・・」
などなど、人はいろいろなことを祈願していきます。が、その祈願が叶ったあかつきには、はたしてお礼に行くのでしょうか?。
もちろん、ちゃ〜んとお礼参りをする方もあります。多くないですけどね。でも、いないわけじゃありません。でも、あまりないですけどね。

随分前の話です。うちの寺は檀家寺ではなく、信者寺ですので、祈願される方が多いです。そんな中、こう言うことを言う方がいます。
「ワシの病気が治ったら、寺くらい造ってやる」
「私の祈願がかなったら、ド〜ンと寄付しますよ」
「この事業がうまく行ったら、お礼はたんまりともってきますよ。ですので、どうかうまくいきますように御祈願してください」
景気のいい話ばかりなんですよねぇ・・・。
が、しかし、実際に祈願がかなって、病気が治って、事業がうまく行って、宣言通りにされた方は皆無なんですよねぇ・・・。まあ、初めっからあてにはしていませんけどね。
あぁ、そうそう、よくあるのが
「宝くじが当たったら半分寄付しますから」
これです。こう言うことを言う人に限って、当たることはないので、
「あら、そう」
と聞き流していますけどね。ま、実際、当たったら半分どころか、十分の一も寄付しないでしょうし・・・。それが現実ですよね。

勘違いしないでいただきたいのは、「お礼をして欲しい」と言っているのではないですよ。お礼参りにきなさい、と言っているのではありません。初めからあてにはしていないので、そんなことはどうでもいいのです。
私が言いたいのは、気持ちの問題、心の問題ですね。

人間は、欲の生き物です。実際に祈願がかなったら、それまでの苦労は忘れるものです。いや、神仏に祈ったことなど忘れて、全部自分のおかげ、自分の力、と思ってしまうところがあります。周囲の人々の協力があってこそ、助言をしてくれる人があってこそ、そして、一生懸命努力した結果、祈願がかなうのです。神仏への祈りは、そうした苦しい時に精神を支えるために行うのが祈願でしょう。
「神仏にお願いもしたから、大丈夫だ。神や仏様が見守っていてくれる」
と、己を鼓舞するための祈願でしょう。単に祈願だけで願いがかなうなら、誰も努力はしません。寝て待っていればいいのですからね。
だから、お礼参りなど、本来はしなくてもいいのです。
精神が支えられた、心がぽっきり折れなくて済んだ、神仏に祈願したおかげで、苦しい時を乗り越えられた・・・・。
そういう気持ちが大切なのではないでしょうか。そういう気持ちがあれば、何も足を運んでお礼参りしなくても、機会があったら・・・でいいのでしょう。大切なのは、気持ちです。

お礼参りという言葉が生まれたころの時代は、「感謝」が深く生活に根付いていたのでしょう。祈願が叶ったのは、皆さんのおかげ、自分の力だけじゃなく・・・。そして、神仏の御加護があったから・・・・。
こうした謙虚な気持ちが大切なのでしょう。何でもかんでも「オレ様の実力さ」という驕りの心は、人間をダメにします。

受験生の皆さん、あるいは就職活動にいそしんだ皆さん、皆さんの願いはかなったでしょうか?。
かなった方には、「おめでとうございます」という言葉を捧げましょう。
かなわなかった方には、「またチャンスはあります。あきらめないでください」という言葉をかけましょう。
しかし、願いがかなった方は、それは自分の力だけではなく、周囲の協力があったればこその成就であることを忘れないでください。決して、自分だけの力、とは思わないでください。
かなわなかった方には、もう一度出直し、周囲の協力を仰ぎ、力不足を補いながら、再度挑戦してください。神仏に祈るのもいいと思います。きっと、あなたの心の支えとなってくれることでしょう。
謙虚さを忘れないでくださいね。

さて、お国のお偉いさん方。あなたたちが国会議員でいられるのは、国民あってのこと。国民にそっぽ向き、私利私欲に走れば、痛いしっぺ返しがありますよ。そろそろ、国民に対し「お礼参り」をしないと、国民から「お礼参り」されますよ。お気を付け下さいね。合掌。


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