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73、往生こいた ちょっと年齢の高い方は、困ったことがあって、それが解決したとき、 「往生しましたよ」 ということがあります。最近は聞かれなくなりましたが。 私たちの地方でも、お年寄りの方たちが 「ホント、往生こいたわ〜」 と笑って話をしていることがよくあります。やはり、若い人はあまり使いませんが、我々の年齢以上の、特にご老人などはよく使います。困ったことや大変なことでなくても、たとえば病院で長く待たされた時などでも 「待ち時間が長いで、往生こいたわ〜」 などと言います。 「こいた」というのは、方言ですね。標準語に直すと、「往生しました」という言葉になります。 こうした「往生しました、往生こいた」の意味は、「あの世に往生した」、と言っているのではありません。意味は 「大変な目にあって苦労した、疲れた、でも乗りきった」 という意味になります。決して、お葬式のときなどに浄土真宗系のお坊さんが言うような「故人は極楽へ往生されました」というときの「往生」の意味ではありません。まあ、元はそこから来ているのですけどね。 そう、「往生こいた」の「往生」は、本来は仏教の言葉なんですね。まあ、そのまんまですから、察しはつくとは思いますが。 本来の「往生」とはどういう意味なのか、久しぶりに仏教語大辞典を見てみましょう。 @生まれかわる。他の世界に生まれること。輪廻する。 A死後に地獄に生まれること。 Bこの世で死んで、後に善因によって三十三天・極楽浄土・兜率天などに往き生まれること。 C特に念仏の功徳によって、死後、阿弥陀仏の浄土である極楽世界に往き生まれること。 このように仏教語大辞典にはあります。皆さんがご存知の意味はCですよね。 初期経典では、「往生」といえば「輪廻する」ことだったようです。「他の世界へ往って生きる」という意味ですね。ちょっと驚いたのは、往生が特に極楽を対象にする以前に、「地獄」を対象にしていたことです。Aですね。これは雑阿含経(ぞうあごんきょう、初期仏教経典)に見られるそうですが、特に死んで地獄に行くことを「往生」と言っていたようです。今では正反対ですね。 さて、「往生」とは、本来は「往って生まれる」という意味です。「往く」というのはもともとは「前進する」ことを意味していたようですが、やがて死後の世界へいくことに、「往く」という字を当てたのですね。単なる「行く」のではなく、死後の世界へ「往く」のです。日本語(漢字)の奥ゆかしさがよく伝わりますね。 しかも、「往く」だけではありません。往った先で「生まれる」のです。「往って生まれる」のですよ。これが、仏教思想の根底にある輪廻の思想です。 元々はどこの世界・・・輪廻の世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の世界・・・に生まれ変わるかは特定せず、往生という言葉は使われていました。「往生する」といえば、「死んでどこかの世界に生まれ変わる」という意味だったのです。 ところが、大乗仏教が盛んになって、極楽思想が誕生した以降、「往生」は「よいところ」へ生まれ変わることを意味するようになったのです。初めは、天界が主流だったようですが、阿弥陀経の教えが広まると、阿弥陀如来の功徳が説かれるようになり、特に日本では「往生」と言えば「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ変わること」となったのです。そこから、死者に対して 「往生されました」 といえば、「亡くなった方は極楽へ往ったのだ」と解釈されるようになったのですね。 さてさて「往生こいた」です。 そう言っている本人は死んでいません。 「ホント、往生しましたわ〜」 と笑って言うことが多いですね。 おそらくは、元々は「往生しました。往生こいた」と笑って言うのは、 「死ぬような目にあったけど、何とか乗り切って、今は安泰です」 という意味で使っているのでしょう。 「一度は死ぬような苦しみだったけど、何とか乗り切って今は極楽気分になれました」 という状況を一言で 「往生しましたわ」 と表現したのでしょう。これで意味が通じたのですね。ですから、その言葉を聞いたほうは、 「そうですか、大変な目に遭われたのですね。でも今はお幸せそうでなによりです」 となるのでしょう。 そう、「往生しました」と言えるのは、幸せなんですね。 死ぬような目、死ぬほどつらいこと、そうした災難や禍に出遭って、それを何とか乗り切った時、「往生しました」と言えるのです。一度は死んだけど極楽へ生まれ変わることができた、のです。それは幸せなことですよね。 それほど深い意味が「往生しました」にはあったのです。 ま、しかし、今では、簡単に皆さん「往生しました」と言っているようでして。お年寄りなどは、頻繁に「往生しました」と笑って言っているのですから、もう何度も極楽へ生まれ変わっているんですね、きっと。 それなのに「ナンマンダブ」と唱えて「死んだら極楽へ行けますように」などと祈るのは欲が深すぎ?かも知れませんよ。そんなこと思わなくても、日頃、言葉を正しくし、文句や不平不満を言わず、「有り難い」と思っていれば極楽へ往けるのにね。むしろ、そっちの方が大切だと思うのですが。 あ、ちなみに、某国の政治家たちは、さっさと「往生」したほうがいいかも知れません。あまり民衆を苦しめるのはよくないですからね。一度死んで生まれ変わる(議員さんの場合は選挙にあたりますな)ほうがいいでしょう。 ぜひとも早く「往生」して欲しいですね。 と書いていて、「往生」すべきは政治家以外にも多数いる、と気がつきました。なにも、本当に死ななくてもいいのですから「往生」は。 「今までの自分を捨て去って、新たなる自分に生まれ変わる」 それも「往生」なのでしょう。 ですから、悩みを抱えている皆さんは、早く「往生」してくださいね。で、笑って 「往生こいたわ〜」 と言えるといいですね。 合掌。 74、冥加と冥利 皆さんは「冥加金(みょうがきん)」というお金をご存知でしょうか。企業などから政治家などに渡す怪しいお金のことを表す時に「冥加金」などと言ったような気がしますが・・・。昔は、雑税の一種に「冥加金」というのがあったそうです。しかし、もともとは功徳を積むために寺社に布施するお金のことを「冥加金」といいました。この冥加金、これ自体も仏教関係の言葉なのですが、そもそもは「冥加(みょうが)」という言葉から派生したことばです。冥加という仏教語があるのです。 さらにもう一つ。この冥加に似た言葉で「冥利(みょうり)」という言葉があります。ご存知でしょうか。時代劇や演劇、落語などで 「男冥利に尽きるぜぇ」 などというセリフを聞いたことはないでしょうか。意味は、「男として有り難いことだぜぇ」というような意味ですね。若い方はあまり知らないかな・・・・。この「冥利」も実は仏教語なのです。 「冥加」と「冥利」。今回は、このよく似た言葉についてお話しいたします。 お馴染みの仏教語大辞典で、まずは「冥加」について見てみましょう。 @冥応(みょうおう)・冥益(みょうえき)・冥感(みょうかん)に同じ。顕加(けんが)の対。仏・菩薩から人知れぬ冥々のうちに加護を受けること。 A仏の冥加を請い、または感謝の意から寺院などに納入する金銭。 とあります。 @の冥応も冥益も冥感も、意味は同じで、「仏・菩薩がひそかに衆生の能力に応じて利益を垂れること」です。 ここで大事なのは、「ひそかに」というところです。 「冥」とは、本来は暗闇や無知のことで、迷いを表す言葉ですが、下に別の字がつくと、その字の意味によっては「ひそかな」という意味が出てきます。 ですので、冥加(冥応・冥益・冥感)の場合は、仏様や菩薩から受ける、知らず知らずの恩恵のことを示す言葉となるのです。 これに対して、明らかに恩恵を受けることが「顕加」ですね。 Aの意味は、御利益を求めて寄付したり布施したりするお金のことです。 さて、次に「冥利」を見てみましょう。 @神仏が知らず知らずのうちに与える利益。 A善業の報いとして受ける利益。 B一般に幸福の意味にも用いる。 とあります。冥加とほとんど同じですね。ちなみにBが「男冥利に尽きる」と言った場合に使われる冥利の意味です。 私たちは、知らない間に多くの人々にお世話になっています。みなさんが毎日食べている食べ物は、いったいどれくらいの人の手を渡ってきているのでしょうか。生産者がいて、運搬する人がいて、仲買人がいて、小売業者がいて、初めて私たちの手に渡りますよね。加工品だと、これに加工業者の手が加わります。 もちろん、それはボランティアではなく仕事で行っていることですが、だからといって、世話になっていない、わけではありません。食べ物だけではありません。着るものも、生活用品も、娯楽品も、みな多くの人々の手を経て、私たちの元に届くのです。知らず知らずのうちに、多くの人々の世話になっているのです。また、多くの人の世話もしているのですよ。知らず知らずのうちに、多くの人々の役に立っているのです。 随分前に新聞のコラム欄で読んだことがある話です。松下幸之助さんが、まだ現役でいらしたころ、新入社員の面接をされたそうです。松下さんが、新入社員に質問します。 「あなたはどうしてこの会社には入れましたか?」 「はい、ある程度の大学を出て、それなりの成績を収め、入社試験に合格ができたからです」 「それだけですか?」 「はぁ・・・といわれましても・・・」 「では、質問を変えましょう。なぜ、学校へ行けたのですか?」 「はい、それは親にも経済力がありまして、私も勉強をしたからです」 「それだけですか?」 「は、はい・・・・」 「学校へ行けたのは、学校があったから、ではないですか?」 「あっ・・・はい、その通りです」 「学校は誰が建てましたか?」 「・・・・・社会の皆さんの税金です」 「その通り。それがわかれば、あなたがこの会社でなすことはわかるでしょう。社会の人々に恩返しをするために働きなさい」 とてもいい話だと思っています。今の企業に足りない姿勢なのではないかと、そう思っています。さすが経営の神様と称される松下幸之助さんですね(「皆さんの税金のおかげ」と答えられなかったら、いくら入社試験の成績がよくても面接で落ちたのでしょうねぇ、きっと・・・・)。 松下さんは、知らない間に受けている恩恵・・・冥加・・・をよく御存じだったのでしょう。私たちに恩恵を与えてくれるのは、神仏だけでなく、人々も・・・なのです。そして、人々だけでなく、知らない不思議な力・・・それは先祖の力かも知れないし、信仰の力かも知れませんが・・・によって、救われていることもあるのではないでしょうか。 あぁ、よかった、あの道を通らなくて・・・。 あぁ、よかった、何とか助かった、運がよかった・・・・。 こういう言葉を口にすることが私たちはしばしばあります。知らない間に、大きな恩恵を受けているのですよ。それに気付いたとき、ありがたいなぁ・・・と素直に言えるでしょう。そして、そう言えることが、幸せなのです。 親鸞上人が心より「南無阿弥陀仏」と唱えられて、有り難いと思った時こそが極楽である、といった言葉の意味は、こういうことを言うのだと思います。 さてさて、こそこそ隠れて冥加金を受け取っているような方たち。そんなものを受け取るから、本当の冥加を得られないのですよね。選挙になれば、多くの人々の恩恵を受けるくせに、選挙が終わったら知らん振り。それは、恩を仇で返すような・・・・。 冥加金など受け取らず、人々に冥加を与えるような、そんな人になって欲しいですね。人々がいるからこその、政治家なのですからね!。 合掌。 75、坊主 坊主という言葉は、皆さんよくご存知だと思います。知らない方はいませんよねぇ。「坊主」という漢字であることは知らない方がいるかもしれませんが・・・。まあ、いずれにせよ、「坊主=坊さん」ということはご存知だと思いますので、この言葉が仏教の言葉だということもわかると思います。ただし、坊主という言葉、どちらかというと、坊さんを蔑んだ言葉だと思っているのではないでしょうか。 まあ、諺や慣用句などに使う「坊主」は、ちょっと小馬鹿にした使い方をしますよね。あるいは、 「あの寺の坊主が・・・・」 というときは、そのあとに批判の言葉や悪口が続きます。いい意味で使われることはないですよね。 ところが、元々の坊主の意味はちょっと違っています。実は、昔の人々は尊敬の念を持って「坊主」という言葉を使っていたんですよ。 坊主とは、おなじみの仏教語大辞典によりますと 房主とも書く。 @一坊の主の意。寺坊の主僧(しゅそう)・住持をいう。大寺院には多くの坊(僧侶の居室・屋舎)があり、その坊の主をいう。もとは敬称であった。わが国では平安末期ごろから大僧は多く一坊を構え、坊号を称したので、世人はその坊を御坊(ごぼう)とよび、その大僧を坊主と称した。 A室町時代以降は転じて一般の僧侶の称呼となった。また僧形(そうぎょう、剃髪姿ていはつすがた)も坊主と呼び、今日では僧侶の貶称(へんしょう)とする。 B男児を、親しみ、また蔑んでいう語。昔男児の頭を剃る習慣があったのに由来する。 とあります。 「坊」とは、市街地の一部分を表す言葉だったそうですが、やがて大寺院の中の僧侶が住んでいるお堂のことを「坊」というようになりました。坊の字は「房」とも書きました。どちらでもいいのです。主には、「坊」だったようです。現代で言えば、塔頭寺院(たっちゅうじいん)のことになります。 (塔頭寺院とは、本山の敷地内にある寺院のこと。たとえば高野山では、高野山の山頂自体を本山金剛峯寺とみなし、その敷地内にある寺院を塔頭寺院とします。塔頭寺院は地方の寺院とは異なり、独立してはいるのですが本山直属の寺院とされます。ですので、管理は各塔頭寺院の住職なのですが、その住職の所属は本山勤務という形になります。ちょっとややこしいですね。地方寺院は各自で経営・・・独立採算制・・・をしなければなりませんが、塔頭寺院は本山から給料が出ます。基本的に自分で経営はしなくてもいい、ということですね。管理だけをすればいい、ということになります。) つまり、大きな寺の敷地内に、小さなお寺がたくさんあったのです。その寺のことを昔は「坊」と呼んだのです(いまでは「院」と称るところが多いようです。で、坊主と呼ばずに院主いんじゅ、院家いんげ、と称しています)。で、その各寺(坊)には住職さん(その坊の主)がいまして、その僧侶のことを坊主と呼んだのですよ。ですから、今でいう住職さんと意味的には変わらないですね。まあ、地方寺院の住職ではありませんが。これが@の意味です。 時代がくだると、僧侶の呼び方も坊の名前で呼んでいました。僧名で呼んだのではないのですね。たとえば、弁慶は(鎌倉時代の人ですが)、武蔵坊弁慶といいますよね。武蔵が坊の名前です。坊号といいます。僧名は弁慶ですね。他の人が弁慶を呼ぶときは「武蔵坊殿」と呼びかけたのです。「弁慶殿」ではなかったのですね。その当時は坊号で呼ぶことが流行ったのです。今で言えば、塔頭寺院の名称で呼ぶことになります。塔頭寺院は○○院となっていることが多いですから、その塔頭寺院の住職さんのことを「○○院さん」と呼ぶことになります。これは、僧侶の間ではごく普通に行われていることです。その寺の住職さんのことを住職さんの名前で呼ぶことは少なく、寺院名で呼ぶことが多いですね。よほど仲がいい坊さん同士でないと、僧名で呼びあったりはしないのが普通です。ですので、いわば現代でも坊号で呼んでいるわけです。 話を戻します。 坊号で呼び合うようになると、中には憎たらしい坊さんのことも坊号で悪口を言うようになります。たとえば、弁慶ならば 「武蔵坊のヤツ、偉そうにしやがって」 となるわけですね。で、武蔵坊は坊主でもありますから、本来ならば坊主殿なのですが、悪く言うときは「武蔵坊め、あのくそ坊主めが」となります。このように、坊主が蔑みの言葉へと変化していったのでしょう。「坊主殿」は消え去り、悪い言葉の「くそ坊主」だけが残ったのです。 しかし、坊主が悪い意味での坊主しか残らなかったのに対し、別の使い方で坊は残っていきます。「御坊」のほうですね。坊の主である僧侶のことを「坊主殿」とは別の呼び方である「御坊殿(ごぼうどの)」という呼び方が残っていくのです。これはやがて「お坊様」になります。「御坊・・・ごぼう」が「御坊・・・おぼう」になるのですね。 で、今日、「お坊さん」と称されるようになったのです。 「坊主」が蔑んだ言葉になったのに対し、「お坊さん」は親しみのある呼び方へとなっていったのです。もとは全く同じ意味の言葉だったんですけどね。 ちなみに、男の子のことを「ボウズ」と呼ぶのは、Bの意味で、坊主頭から来ているわけです。お坊さんは頭を剃るのが基本です。頭を丸刈りもしくは剃っていなければ僧侶ではなかったのです。で、坊主の頭=剃った頭なので、頭を丸刈りにした男の子がいれば「坊主」になるのですね。昔は、多くの男の子が丸刈りだったようです。そこから、男のことを坊主というようになり、今では丸刈りでなくても坊主と呼ばれるようになったのです。 というわけで、坊主は本来、お坊さんのことを貶して言った言葉ではなったのですよ。むしろ尊敬して「坊主」と呼んだのですね。 とはいえ、現代において、お坊さんに対して「坊主殿、坊主様」などという言い方はしません。もし、そんなことを言ったら・・・・びっくりするでしょうねぇ。怒るのかなぁ・・・。「ほう、そういう言い方をご存知なのですね」と言われれば、そのお坊さんは懐が深い方ではありますな。お坊さんの気質を試しことに使えるかも知れませんね。もちろん、お勧めはしませんが(というより、やらないでくださいね。怒られるのが当然でしょうから)。 ところで、坊主に関する言葉は多いですね。昔からお坊さんというのは世間から注目されていたのでしょう。 たとえば、三日坊主。何事も短時間しかもたない人のことを、バカにした意味で「三日坊主」といいますね。私などは「運動する。今日から歩く」とよく宣言しますが、続いたためしがありません。坊さんだけにまさしく三日坊主なのですが・・・・(否、一日坊主と言ったほうがいいかも知れませんが・・・)。この言葉は、お坊さんの修行が厳しいことから、簡単に坊さんになっても三日も続かないよ、という意味から生まれた言葉ですね。 逆の意味で使われる言葉に「坊主は三日やったら辞めらられない」という言葉もありますね。坊さんは、お経を読んでいるだけでお布施をもらうことができるため、楽な仕事であるから三日やったら辞められない・・・となるのです。 さてはて、三日坊主が正解なのか、三日やったら辞められないのが正解なのか・・・・。どう思いますか?。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なんて言葉もあります。袈裟は坊さんとは関係ないのですが、その坊さんが憎いと身に着けているものまで憎くなるということですが、気持ちはよくわかりますよね。皆さんも経験があると思います。嫌いな人がいると、その人の持ちモノや来ているもの自体が嫌いになってしまいますよね。それはよくある話です。しかし、なぜ坊主なのでしょうねぇ。「公家が憎けりゃ・・・・」でもよさそうなんですが。あるいは「武士が憎けりゃ・・・・」でもねぇ、いいのに。まあ、坊さんは言いやすかったのでしょうねぇ。庶民の立場からすると、公家や武士だと悪口は言いにくいでしょうし。坊さんならば、多少の悪口を言っても殴られたり殺されたりはしないでしょうからね。 坊主の花かんざし、という言葉もありますね。今では使わないかな。「似合わない」ことをたとえて言った言葉ですね。確かに坊主にかんざしは似合いませんよね。かんざしをさす髪の毛がないし。豚に真珠、猫に小判、坊さんにかんざし・・・・・。坊さんは猫や豚並みかっ!。悲しいですなぁ・・・。 坊主丸儲け。 よく言われますが、これは大きな誤解なんですよね。よく 「お坊さんは税金払ってないんでしょ」 「坊さんは税金がかからなくていい」 といわれますが、全くの誤解です。坊さんだって税金は払ってます。国民ですからね。義務でしょ、税金を払うのは。 確かに、宗教法人は公益法人であるため、土地や建物の固定資産税はかかりません。ただし、境内地となっている部分に関してだけです。個人所有の土地や境内地になっていない土地、あるいは他者に貸している土地に関しては固定資産税がかかります。たとえば、お寺さんで寺の土地で塾を経営していたり、貸し駐車場を経営していたり、飲食店などを経営していたりする場合は、その土地や建物には固定資産税はかかります。そういえば、いつだったかニュースで宗教法人が経営しているラブホテルが脱税であげられたとありましたが、あの場合ラブホテルの立っている土地、及びラブホテルの固定資産税は払う必要があります。 また、宗教法人は基本的に収益事業団体ではないので、宗教に関しての収入に対しては非課税です。一般の会社のように事業税はかかりません。ただし、別の事業を行った場合は、事業税がかかってきます。宗教に関すること以外の物品の販売、事業経営での収益に対しては税金がかかるのです。ですからニュースで流れたラブホテルを経営していた宗教法人もラブホテルでの収益に関しては事業税を払う必要があります。当然ですね。ラブホテルの経営は宗教とは関係のないことですからね。 宗教法人が優遇されているのは、宗教を行っている土地や建物に対する固定資産税の免除、宗教上での利益に対する事業税のみです。宗教に使用していない土地や建物に関しては固定資産税はかかりますし、宗教以外での収入に関しても事業税はかかるのですよ(事業税は一般の会社法人の事業税よりも若干安いですけどね)。 実は、お坊さんは給料制です。いわばサラリーマンと変わらないのです。住職とは社長でもありますし、社員でもありますし、雑用でもあります。個人経営者と同じですね。青色申告するか、源泉徴収をするか、なのです。したがって、給料に関しては、税金がかかるのですよ。ちゃんと税金は払っています。また、当然のことながら、一市民ですから県市民税も払っています。自動車に関しましても大本山の公用車を除きまして、自動車税や自動車取得税は払っています。 決して、坊主丸儲けではないのですよ。 坊主丸儲けの由来は、坊さんはお経を読んでお布施をもらうので元手がいらないから、収入すべて自分のものになる、といった誤解から生じた言葉です。実際には、衣代がかかりますし、御札や塔婆などの費用もかかりますし、線香やローソク代もバカになりません。護摩をたけば護摩木も要りますし、御供物代もかかります。掃除もしなければいけませんから、掃除道具にも費用が要ります。事務用品も必要です。最近では、エアコンを入れている寺院もあります。うちも入っています。電気代がかかります。パソコンだって必要です。なんだかんだと経費がかかってくるのですよ。決して「坊主丸儲け」ではないのです!!!!。 声を大にして言いたいですね!。 そのほかにも、客商売で一日中お客さんが来なくて収入がなかった場合などに「今日は坊主だった」といいますよね(地方によって違う言い方をする場合もあるようですが)。釣りに行って一匹も釣れないと「坊主」といいます。このように全然収入がない、得るものがないときに「坊主」ということもあります。これは、お坊さんに毛がないことから来ているようです。「つるつる頭には何もない」ことから、何も収益がないことを「坊主」と言ったのだそうです。どうも、坊主は悪い意味ばかりが目立つようで・・・。困ったものですねぇ。 とまあ、ボヤキになってしまいましたが、お坊さんは、どうも世間からは嘲笑される対象にされていたところがよくあるようです。そういうところから、「坊主」という響きが悪くなっていったこともあるのでしょうねぇ。 いかに、歴史上ダメな坊さんが多かったことか、坊主という言葉の過去の変遷を振り返るだけで、それがよくわかるっていうのは・・・・ある意味怖いですねぇ・・・。 あまり坊さんを苛めないでくださいね。真面目な坊さんもたくさんいるんですから・・・。 合掌。 76、一蓮托生 一蓮托生・・・・もうすでにお話しているものだと思っていましたが、まだでしたね。有名な仏教語なんですけど、すっかり忘れておりました。 一蓮托生という言葉は、皆さん聞いたことがあると思います。使ったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。まあ、あまりい意味では使われませんけどね。たいていは、悪い仲間が 「お前と俺は、一蓮托生だ。もう逃れられないんだぞ・・・・」 のように使いますよね。悪だくみをする仲間内で、立場の強い方が弱い方へ、やや脅迫めいた口調で言うのが定番ですね。 本当は、悪い意味じゃないんですけどねぇ・・・。どうも仏教の言葉は、悪い意味で使われることがよくあるようでして・・・・。清浄なるもの、高尚なるものを貶したくなるのは、人間の心理なのでしょうかねぇ・・・・。 まあ、それはいいとしまして、今回は「一蓮托生」についてお話します。 だいたいの意味はお分かりでしょう。しかし、それは本来の仏教語としての意味ではないと思います。ですので、いつものように仏教語大辞典で一蓮托生を調べてみましょう。 一蓮托生 @極楽浄土に往生して、ともに同じ蓮台に生まれること。 Aよきにつけ、あしきにつけ、グループをなして物事に協同で当たったり、運命をともにすること。 とあります。 ちなみに、一般的な国語辞典でも同じ事がかかれています。参考までに、「托生」だけを調べてみますと、 @生を任せ託すること。衆生が母胎に宿ること。 A極楽において蓮華に生を託すること。極楽に往生すること。 とあります。 「一蓮托生」という言葉は、もともとは、「倶舎論(くしゃろん)」という古い仏教論書に見られた「托生」という言葉が元になっています。この言葉を元に、日本において造られた仏教語ですね。いつの頃からか、誰がつくったのかは、不明です。おそらくは、念仏信仰が盛んになり、念仏衆たちによる一揆が起るようになったころではないかと思われます。仏様に運命を任せて生まれ変わるという意味の「托生」に極楽浄土をイメージして、蓮の花の文字を入れたのでしょう。 「みんな同じ蓮の花に生まれ変わるのだ!」 という思いですね。そこから、 「一つの蓮に生まれ変わる、一つの蓮に托生する」 となり、「一蓮托生」という言葉が生まれたのでしょう。一揆を起こした人たちの、強いつながりを意味していたのですね。そう思うと、悲しい言葉でもあります。 極楽浄土といえば、阿弥陀如来の西方浄土のこと、ですね。浄土は、いろいろありますが(それぞれの如来がそれぞれの浄土を持っている。釈迦如来の娑婆浄土、薬師如来の瑠璃光浄土、アシュク如来の妙喜浄土などなど・・・)、その中でも阿弥陀如来の極楽浄土は有名です。年をとってくると、誰もが、極楽へ生まれ変わりたい、と思うようですね。DNAのなせる技でしょうか?。日本の歴史が深く身体に刻み込まれているのでしょうね。 しかし、極楽という場所、ご存知の方はそんなにいないと思います。そりゃそうですよね。 「この間、ちょっと極楽へ行ってきたよ。よかったねぇ〜」 という人間は一人もいませんから。私たちは、仏典において、その極楽の様子を知るしかありません。 ということで、今回は、ちょっと極楽浄土を旅してみましょう。 極楽浄土がどんな場所か、まずはそれを紹介しましょう。 大地は宝石でできています。金銀・瑠璃・金剛石(ダイヤモンド)、メノウや真珠・・・・そういった宝石類でできあがっています。もちろん、誰もそれを削って持っていこうとする者はいません。豊富にあるし、極楽にはそんな悪人はいないのですから。 建物も宝石でできています。昔は、大きな宮殿(お寺のような・・・・)が建っていたようですが、今は近未来的な高層ビル群が建っているかも知れません。なんだか、そういうのは嫌ですが・・・。 まあ、理想的には、あまり大きな建物はないほうがいいですね。仏典には宮殿とあるだけですから、皆さんそれなりにイメージしてください。 で、宮殿の周りには大きな池があります。池の中も宝石で埋まっています。泥ではありません。宝石の上に清浄なる甘露水で池は満たされています。 その池には、大きな蓮の花が咲いています。極楽の蓮の華は、泥の中から咲かないのです。宝石の中から咲くんですねぇ。 で、蓮の花が開くと・・・・人が生まれてきます。極楽浄土に生まれ変わった人です。極楽に生まれ変わった人は、蓮の花の中から生まれてくるのです。 極楽では人には、性別がありません。男でもなく女でもなく、オカマでもオナベでもありません。性という概念はないのです。ですので、恋愛や性行為などもありません。好きとか嫌いとかの感情もないのです。すべては平等ですね。 そこで何をするかといえば、修行をします。阿弥陀如来の話を聞き、悟りを願うのです。悟りに向かって修行をするのです。 ちなみに、日々の生活には困りません。腹が減ったら好きな食べ物が好きなだけ食べられます。衣服も住まいも、すべて平等に得られます。望めば手に入るのです。お風呂の心配も要りません。いつも清潔でいられます。一説によると、食事はお互いに食べさせてあげる、という話もあります。 満たされるのは、衣食住だけです。TVはありません。車もありません。PCもありません。ジェット機やクルーザーもありません。必要ないのです。なぜなら、神通力があるからです。 神通力ですべての情報を得られます。飛ぶこともできます。池の中に潜ることもできます。なんでもできます。衣食住があれば、十分なのです。 恋愛もない、性行為もない、働く必要もない、モノもない・・・。することは、食べる・寝る・修行する・・・だけです。 こんな退屈?な世界が極楽なのですよ。 ということで、不平等で、貧しい人々が多くいた時代、武士たちの度重なる戦でボロボロにされた庶民がいた時代・・・。人々は、平和な極楽浄土へ生まれ変わることを望んだのです。それは当然のことでしょう。現実逃避、ではありますが、逃避するしかなかったのですからね。 でも、ただ逃避したわけではありません。一揆という反乱をおこしました。それができたのは、 「みんな一緒に極楽浄土に生まれかわることができるから」 という信念があったからでしょう。只黙って苦しんで死んでいくよりは、阿弥陀如来の救いを信じて、武士に立ち向かっていく・・・・という道を選んだのですね。 「みんな同じ一つの蓮に生まれ変わるのだ。次の生を極楽浄土へ託するのだ」 こうして「一蓮托生」という言葉は生まれたのです。その背景には、権力者の圧政に苦しんできた民の想いが籠っているのでしょう。 さてさて、権力者が腐っているのはいつの時代でも同じことで・・・・。彼らは、いつの時代も地獄へ行く仲間なのですな。すなわち、悪事の仲間・・・とも言えるでしょう。今日もあの国会議事堂の中で、あるいは高級料亭のなかで、 「お前と俺は一蓮托生・・・・。ひっひっひ。この国の権力を欲しいままにしようじゃないか」 と企んでいるのでしょうかねぇ。 もし、そうなら、それは「一蓮托生」ではく「一地獄托生」なんですけどねぇ。あ、「一釜托生」でもいいのかな?。地獄の猛火の釜が待っていますからねぇ。 合掌。 77、疑惑 世の中「疑惑」だらけ・・・・と思える今日この頃。 そういえば、「疑惑の銃弾」なんて記事の方もいましたが、あの方も疑惑を残したままこの世を去ってしまいました。最近では、あの清純派の方が疑惑まみれ・・・。まあ、疑惑どころじゃないんですが。もちろん、芸能界関係だけでなく、政治も官僚も企業も近所の若奥さんもそこらへんのダンナさんも・・・・疑惑を抱えているんじゃないかと疑惑の目を向けられることがあったりします。どんな疑惑かは想像にお任せいたしますが。 さて、この疑惑ですが、これも元をたどれば仏教とともに伝来した言葉です。経典や仏教論書に説かれている言葉ですね。いやはや、仏教の影響はホント大きいですね。 ということで今回は「疑惑」について疑いのないお話をいたします。 一般的には「疑惑」とは うたがい迷うこと。疑い、不信 という意味で使われます(新潮社 現代国語辞典)。まあ、これは疑いのないところですよね。疑惑とは、疑わしい、信じられない・・・ときに使う言葉でしょう。 で、その元となった仏教ではどうかと言いますと、おなじみの仏教語大辞典にはこのようにあります。 懸念 これだけです。あとは長い解説がつきます。その解説によりますと、 「仏典では疑とか疑懼(ぎく、疑い、おそれのこと)・疑団(ぎだん、修行の途中でわいてくる疑問)などという言葉がよく使われる。以下省略」 とあります。つまり、疑惑とは、「疑」のことであるのです。ちなみに「懸念」を調べてみますと、実は仏教語大辞典には載っていないのです。ところが国語辞典を引きますと、仏教語として「執着、執念」の意味があると記されているんですね。おそらくこれは、「係念(けねん)」の異字体なのでしょう。しかし、係念の意味は「思いかけること、浄土への想い」がそもそもの意味ですから、「執着」というのは誤用だと考えられます。つまり、仏教語の懸念(係念)も、現在使われている懸念と意味は同じ、ということになります。ですから、疑惑の項目に「懸念」とあるのは、「気がかかり」という意味になります。つまり、疑惑とは「気がかり」という意味になりますね。 しかし、事はそう簡単ではありません。実は、「疑惑」は「気がかり」という意味では使われないようです。否、そうではなくて「疑惑」という言葉は、主に「疑」、もしくは「疑団」の意味で使われるのです。ですから、仏教語大辞典で「疑」を調べますと @疑い、疑惑 と出てきます。こんなところに疑惑です。で、さらに意味を調べますと(省略して掲載) A真理について思い惑うこと B因果を疑うこと C仏の教えを疑うこと D浄土門においては阿弥陀如来の救済を信じられない弱い心のこと 以下省略 とあります。 つまり、疑惑は「疑」であり、それは仏陀の教えに対し、疑い戸惑うことなのです。もっと詳しく言うならば、 「仏教の修行をしているときに、本当にこの教えは正しいのだろうか」 と疑うことを言うのです。そして、これは「疑団」とも言われます。 ということで、仏教語での疑惑の意味は、現代使われている疑惑の意味とほぼ同じなのですが、仏教語の疑惑は、「仏教のことに関して疑うこと」と限定されているようです。それが、広く一般にも使われるようになったわけですね。にわかには信じられないぞ、という意味で。 お釈迦様の教えに対し、迷うことや信じられないという思いを持つことは、初期仏教教団では「好ましくないこと」とされていました。それは迷いであって、真理への道への妨げである、ということですね。「お釈迦様の教えを疑うことなく、すべて受け入れよ。それが正しい修行である」ということですね。 しかし、大乗仏教では・・・特に禅では・・・疑うことも是である、とされました。疑うことなくただ単に教えの通りにしてるのでは、成長がない、ということですね。そんなことは愚か者でもできる、ということです。そうではなくて、 「はたしてこれで悟りが得られるのだろうか」 と大いに悩むほうが、仏教を深く理解できるのだ、と大乗仏教では説きます。それはその通りだと私も思います。 たとえば、人の話を鵜呑みにすることは、危険なこと、でもありますよね。それが真実かどうかは検証してみるか裏付けをとらないとわかりません。わけのわからない新興宗教(カルト教団)などが起こす奇跡などは、たいてい裏工作があるものです。高度な奇術(マジック)を使った行為を「念力、神通力」という場合もあります。本当にそうなのか、検証してみないといけないでしょう。何でもかんでも簡単に信じてしまってはいけないのですよ。 そうした疑いをもって、何度も検証してみて、何度も事実かどうか確かめて、初めて理解が深まるというものです。理解が深まって初めて信じるに足ることになるのでしょう。疑うことは重要なことなのですよ。 お釈迦様は、自分の説いたことを 「よくよく観察してみなさい。一つでも当てはまらないことがあるかどうか、よく観察してみよ」 と説いています。疑え、ということですよね。それがいつの間にか、疑うことを許さないような教えへと変化した面があるのです。先ほど、大乗仏教では疑うことはよいと言いましたが、浄土門などは疑うことはタブーですからね。阿弥陀如来の導きを心から信じなければ浄土へ往生できません。疑うことが少しでもあれば、それは往生できないということの原因になります。 が、しかし、人は疑うものなのです。否、簡単に鵜呑みにしてしまう人もいますが、少なくとも一度は疑ったほうがよいのです。頭から信じちゃダメなんですよ。できれば、何でもかんでも、一度は疑ってかかったほうがいいのです。疑惑は大いに持つべきなのですね。 なぜなら、今の世の中、真実だと思っていたことが簡単にひっくり返されてしまいますからね。 経済は安定してきた→100年に一度の大不況 年金は安定してもらえる→とんだ年金制度で、それはもう信じられない状態 絶対大丈夫だと言われた大企業→大赤字で青色吐息 クリーンなイメージで売っていた政治家→献金問題でドロドロ 息子だと思って振り込んだ→なんと詐欺だった 清純派だと思っていた→私生活は薬まみれ? 手相を見ますよという親切→カルト教団へのお誘い 儲かりますよ→マルチ商法の詐欺集団 もうキリがありませんよね。そこらじゅうに疑惑が転がっています。厭な世の中ですよねぇ。 みなさん、うまい話には乗っちゃダメです。うまい話は絶対に疑いましょう。うまい話=疑惑にまみれた話、ということがよくわかりますから。 どこかの国の政治家たちが、選挙のたびにマニフェストなどという公約を出してますが、ホント疑惑まみれですよね。あんなの本当かどうか、ホント疑わしいです。よ〜っく、観察しないとねっ!。 合掌。 78、馬鹿 今回は、馬鹿な話です。いやいや、「馬鹿」の語源についての話です。バカにしないで読んでください。 馬鹿の語源と言えば、古代中国の故事によるという話が有名ですよね。幼い皇帝に家臣の一人が馬を指さし、 「国王、あれにいますのが、鹿です」 と教え、鹿を指さし 「そして、あれが馬です」 と教えた・・・・というような話ではなかったでしたか?。まあ、そんなような話がもとで、馬鹿という言葉が生まれたとか・・・。 が、もう一つ説があるんですね。それはインドの言葉が元である、という説です。インドの古代語であるサンスクリット語のある単語が語源である、という説もあるんですよ。というか、実はこちらの方が有力なんですよ。 サンスクリット語に「baka」という言葉があります。発音は「バカ」ですね。意味は「痴」です。愚かしい、ということですね。知恵が足りないとか。これ、そのままバカですよね。しかも意味もそのままです。 で、さらにもう一つ、「moha」という言葉があります。発音は「モハ」ですね。意味は「無知、迷い」です。 中国に仏教が伝わった時、お釈迦様の教えに目覚めない者を「バカ」、「モハ」と言いました。つまり、「愚かもの」という意味ですね。それだけでなく、「多くの人々はモハ(無知)である」というような言い方もしたことでしょう。この時に、「バカ」と「モハ」は混同されたようです。どちらも同じような意味ですからね。 仏教の経典には「愚か者」や「無知な人間」の話がよく出てきます。代表的な愚か者の話を簡単ですが、紹介しておきましょう。 ある人が旅をしていました。その旅は快適でした。ところが、ある時、その旅人はハラペコのライオンに追いかけられるという禍に見舞われてしまいます。旅人は、思いっきり走って逃げます。そりゃそうですよね。もう、逃げるしかありません。武器なんて持ってないし。慌てて走りますと、前方に井戸がありました。その井戸の横には木があって、うまい具合に木の枝が井戸の上に垂れさがっています。旅人は、その木の枝にぶら下がりますな。で、井戸の中に身を隠します。おかげで、ライオンからは逃げられました。とりあえず、井戸の中で次の方法を考えることにしたのです。 そんなとき、旅人の頭の上にしずくが垂れてきました。そのしずく、頭から流れて行って旅人の口にはいります。すると・・・・、それは蜂蜜だったのです。しかも、極上品。とても甘くて甘くて・・・・。旅人は、嬉しくなって口を開けて待ってます。少しでも木の枝をの登ろうものなら、ハラペコのライオンに見つかってしまいますからね。なので、旅人は口を開けて蜂蜜が垂れてくるのを待っていたのです。 が、しかし、なんと木の枝がだんだん下がっているんですね。あれっと思ってみてみると、ネズミが木の枝をかじっているのです。そのまま放置すれば、木の枝は切れてしまい、旅人は井戸の中に落ちてしまいます。まあ、井戸の底に落ちても水がなければ大丈夫かな、と旅人は思います。で、底の方を見ますと・・・・目が慣れてきて暗闇も見えるようになったんですね。なんと、底を見てびっくり!。井戸の底には、毒蛇がいっぱいだったのです。 さて、困りました。井戸の外にはハラペコのライオン、井戸の底には毒蛇。ぶら下がっている木の枝は今にも切れそう。体力もなくなってきます。そんな状態で旅人は何をしたか・・・・。 脱出を試みたのでもありません。助かる方法を考えたのでもありません。ただただ、口を開けて蜂蜜が落ちてくるのを待っていたのです。もうすぐ、自分の命が危ないというのに、目の前の甘さをとったのです。危ないこと、苦しいこと、ヤバイことは見なかったことにしよう、なかったことにしよう・・・・、とりあえず、蜂蜜でも舐めてよう、ま、なんとかなるさ・・・・・。 こうして、旅人は井戸に落ちて死んでしまったのです。人々は、「何と愚かな男だろう。叫ぶなりして助けを呼べばいいものを・・・・」、「別の木の枝に移るとか、気に登ってみるとかしてみればよかったのに、愚かなことよ」と噂しあったそうです。 仏典では、このような愚か者の話がよく出てきます。そうした話は「baka」な者の話とか、「moha」な者の話として、中国に紹介されたのですね。で、(ここからは想像ですが)中国人は 「そういえば、我が国にも愚か者の話がある。馬と鹿を間違えて教えた愚かな家臣の話だ」 と愚かな家臣の話を持ち出した(のではないかな?)のでしょう。で、 「馬と鹿を間違える・・・う〜んそれはバ・カ?。おぉ、そういえば、インドの偉いお坊さんも言っていた。愚か者のことをインドでは『バカ』とか『モハ』とかいうらしい。発音は同じだ。ならばこの漢字を当てよう。今後、愚か者のことは『馬鹿』ということにしよう」 な〜んてことがあったのではないかと・・・・想像するのですよ。こうして「馬鹿」という言葉が生まれたのではないかとね・・・。 一応、国語辞典には、馬鹿の語源として、サンスクリット語がもとになっているという説をとっています。仏教の伝来とともに、中国にこの言葉が入ってきた、ということですね。馬と鹿の文字は、おそらくは当て字であり、その当て字から中国の故事が生まれたのではないかと・・・・、という説もあるそうです。先ほどの私の想像とは逆ですね。(たぶん、こっちが正解でしょう。あとからコジツケタものでしょう。そういえば、こじつける・・・も故事つける、と書くそうですし・・・・) というわけで、馬鹿は実は仏教とともに漢字圏にもたらされた言葉なのですね。もとは、仏教語だったのです。 ところで、さきの話は、仏教の話でもよく紹介される話です。いろいろな禍を受けているのに、寿命が刻々と迫っているのに、人々は目の前の欲望にとらわれている、何と愚かなことか・・・・・、という話ですね。 「こんなことあるわけないじゃん。普通、気がつくでしょ」 とどなたも笑い飛ばすことでしょう。しかし、意外とこの愚か者の旅人と同じようなことをしているんですよ、我々は。 他人のことなど笑えないのが人間です。多くの人間は愚かものなんですよ。たとえば・・・。 家庭内が冷ややかになっていたり、お子さんに問題があって奥さんが悩んでいても、それを相談されるのが嫌で家に帰らないダンナって多いんじゃないですか。家に帰ることを避け(つまりは現状の問題に正面から立ち向かうことをしない)、ネオン瞬く夜の街のあま〜い女性の声にふらふらと・・・・・。で、飲んだくれて帰って、奥さんに軽蔑の眼で見られる、な〜んて話、よく聞きますよね。これなんか、あの旅人と全く同じですよね。現状の問題から目をそむけ、甘い蜂蜜の誘惑に負け、現実の問題を解決しようとしない・・・・。愚かものです。まさしく「baka」であり「moha」ですよね。 学校の給食費を払わずにパチンコに明け暮れている親もいます。働きもせず、ネットゲーム三昧のニートもいます。みんな同じですね。苦労を避け、努力をせず、やるべきことをやらずに、楽な方へ流れている・・・・。愚かものです。 と書いていると、あぁ、日本人は愚かものだな、と思ってしまいます。いいことばっかり言っている方へ票を入れ、あっという間に政権交代。この先、しっかり見張っていないと、彼らは以前と同じように、自分たちの利権に流れて行ってしまうのではないかな・・・・。数を得れば権力を手に入れます。権力を手にれれば、横暴になるのが人間ですからね。 愚かものにならないためには、しっかり彼らを見張って、やるべきことはやっているか、楽な方へは流れていないか、監視するべきでしょう。それを怠れば、我々も愚か者の仲間入りです。 目の前の欲望を満たすことだけを考えず、長い未来を見据え、行動すべきなのでしょうね。馬鹿と言われないためにも・・・・。 合掌。 79、四苦八苦 「もうホント、資金繰りで四苦八苦です・・・・・」 こんな言葉をあちこちで聞く昨今ですね。 ほんの何年か前までは 「四苦八苦ですよ」、「四苦八苦していますよ」 という言葉の中には、少なからず明るさがありました。笑いながら「四苦八苦しています」と言えたのです。 しかし、最近はどうもいけません。笑いながら「四苦八苦してる」などと言えないほど、みなさん「四苦八苦」していらっしゃるようですね。困ったものです。 昔から、「大変なんですよ」という状態のとき、「四苦八苦してます」と笑いながらいうことがよくあります。「結構、大変な状態で苦しいのですが、何とかやってます・・・・」という気持ちを込めて「四苦八苦」と言っていたんですね。 しかし、この言葉、よく見ると、「4つの苦しみ、8つの苦しみ」という字になっています。その字からいえば、笑って言える言葉なんかじゃないように思えますよね。苦しみの倍ですから。 それにしても、「四苦八苦」という言葉の「苦」とはいったいどんな「苦」なのでしょうか。今回は、そのことについてお話しましょう。なぜなら、「四苦八苦」は疑いの余地のない、バリバリの仏教語なんですから。 四苦八苦は、もともとは仏教の言葉です。漢数字からすると、「4つの苦しみ、8つの苦しみ」とありますから、合計「12の苦しみ」のように思えますが、そうではありません。これは、 「苦しみの中には、基本的な4つの苦しみと、生活する上で生じる4つの苦しみがあり、合わせて8つの苦しみが人間には存在している」 とお釈迦さまが説いたことから、「四苦八苦」という言葉が生まれたのです。「四苦四苦合わせて八苦」・・・では並びもしつこいし、語呂も悪いですからね。省略して「四苦八苦」となったのでしょう。意味は「四苦四苦合わせて八苦」ですが・・・・。 さて、その苦しみなのですが、具体的にお釈迦様はどのように説いたのでしょうか。 まずは、基本的な4つの苦しみからお話ししましょう。 これは、みなさんも聞いたことがあると思います。基本的な4つの苦しみとは、 「生・老・病・死」 のことです。順番からすると、「生」が先なのですが、これは一番最後に説明いたします。そのほうが分かりやすいですからね。 *「老」 老いることは苦しみである、とお釈迦様は説きました。これは誰しもわかることでしょう。老いれば、体力もなくなり、美しかった肌もガサガサになり、腰は曲がり、足はおぼつかなくなり、思うように体は動かなくなり、物覚えは悪くなり、反対に物忘れは激しくなり、目は見えなくなり、老人臭を放ち、周囲からは邪魔にされ・・・・。 ちーっともいいことなんかありゃしません。ジジイやババアになれば、苦しみが増えるのは当然でしょう。そう、老いることは苦しみなのです。 *「病」 病気が楽しいという人は一人もいないでしょう。苦しいに決まっています。誰もが病気にはなりたくないし、ましてや入院とか、不治の病とかなどは無縁でありたいと願うものです。まさに、病は苦しみなのです。 *「死」 死が楽しい、という方もいないですよね。死を望む方はいますが。しかし、それも苦しみの果てに、もう生きていたくない、生きるのがつらい、という思いから死を選択するのでしょう。決して、死は快楽ではないのです。できれば、死にたくはないですし、死を迎えるのは恐怖があります。誰もが避けたい・・・と心の奥で思っていることですよね。したがって、死は苦しみなのです。 *「生」 我々生きているものは、老いや病、死の苦しみを受けなければいけません。これらからは逃れられないことです。ではなぜ私たちは、そんな苦しみを受けなければいけないのでしょうか。それは、この世に生れて来たからです。この世に生れて来なければ、老いもないし、病もないし、死すらありません。すべての苦しみの元は、「生」なのです。そういった意味で、「生」は苦しみなのです。否、苦しみの原因と言っていいでしょう。生そのものが、苦なのです。まさに、生きることはつらい・・・・ということですね。 以上が基本的な4つの苦しみです。この苦しみからは、誰も逃れられません。しかし、苦しみというのは、これだけではありません。もう少し具体的な苦しみもあるのです。それが基本的な4つの苦しみとは別の4つの苦しみです。 *愛別離苦・・・あいべつりく 愛するものと別れることは苦しみである、という意味です。これも確かにそうですよね。愛しているのに、何らかの事情があって彼氏または彼女と別れなければいけない・・・それは苦しみでしょう。愛する人が亡くなってしまい、永遠の別れとなる・・・・これも苦しみでしょう。対象は人間だけではありません。ペットでもそうですね。否、むしろペットとの別れのほうが辛く苦しい・・・という方も増えているようです。あるご婦人が 「主人が亡くなった時は、悲しみもありましたが、むしろやれやれといった感じがしました。肩の荷が下りたような・・・。でも、ウチのワンちゃんが亡くなった時は・・・」 と泣いていらっしゃったこともあります。ペットロス症候群なんて言葉もあるくらいです。最近では、人との別れより、ペットとの別れのほうが苦しいようですね。 まあ、それはさておき、いずれにせよ、愛するものとの別れは辛く、苦しいものです。 あ、そうそう、これは何も生き物だけに限った事ではありません。愛着あるモノを手放さなければならない、という苦しみも含んでいます。なので、 愛別離苦=愛する人やペットとの別れ、愛着のあるモノを手放す・・・・それは辛く苦しいものである。 ということですね。 *怨憎会苦・・・おんぞうえく 嫌な相手、嫌いな他人、にくい相手、恨めしい人、と会うことは苦しみである、という意味です。人は、生きていくうえで、嫌な人間と出会わねばなりません。嫌いで嫌いで、もう厭で厭でたまらない・・・という相手と必ず出会うことがあるのです。それは、苦しいことですよね。そんな相手と同じ職場だったり、同じ教室だったりすると、その苦しみは計り知れませんよね。 憎く厭な相手は、何も他人とは限りません。身内の場合もあります。身内で争うこともよく耳にしますよね。むしろ、身内で嫌い合えば、他人よりも悲惨だったりします。他人は、縁を切れば済みますが、身内ではなかなかそういうわけにもいきませんし、血縁があると思うと、余計に憎くなったりしますから。 究極的なのは、自分が憎くて仕方がない、という場合ですよね。自分が大っ嫌いでいつも憎く思っている・・・といった場合、その苦しみは想像を超えるでしょう。 厭ですよねぇ、苦しいですよねぇ、そんな厭な相手と出会わねばならないなんて・・・・。 なお、対象は人間だけとは限りません。厭な仕事、ということもあります。もう厭で厭でたまらないんだけど、やらねばならない・・・・ということは、よくあることです。厭なこと、したくないことをしなければいけない、ということは苦しいことですよね。なので、 怨憎会苦=憎い人・厭な人、もしくは憎い自分・厭な自分、あるいは厭な仕事や出来事・嫌いな仕事や出来事と出会うことは、辛く苦しいことである。 ということですね。 *求不得苦・・・ぐふとくく 求めるものが得られないことは苦である、という意味です。これも確かにその通りです。欲しいものが手に入らないと、人はイライラしたりします。あきらめられればいいのですが、中には欲しい欲しいが高じて、精神に支障をきたしたり、法律に違反するようなことになったりする場合もあります。 もちろん、欲しいものはモノばかりではありません。人・・・であることもあります。欲しい人が手に入らない・・・それは辛く苦しいことでしょう。 望むモノ、望む人、望む状態・・・・そうしたものが手に入らないと、人は不安になったり、焦ったり、イライラしたり、あ〜っもう!と叫んだり・・・・、とかく辛く苦しいものです。自分の思うようにならないと、人は苦しむのですね。 なので、 求不得苦=欲しいモノや人、望む状態が得られない、思うようにならない、それは苦しいことである。 ということですね。 *五蘊盛苦・・・ごうんじょうく 五蘊とは人間を構成している5つの要素のことです。色(しき・肉体)・受(じゅ・感覚)・想(そう・感情)・行(ぎょう・活動)・識(しき・思考)のことですね。(詳しくは、お経の話の般若心経の解説にあります)。 その五蘊が盛んになることは苦である、という意味なのですが、わかるでしょうか?。 五蘊が盛んとは、簡単にいえば、肉体や感情をうまくコントロールできない状態のことを言います。 妙に興奮して抑えがたいとか、妙にイライラして抑えがたい、妙に陰々滅々として落ち着かない、妙にそわそわして厭な汗が出る、頭ではいけないとわかっているのに身体や心がうまくコントロールできない・・・・といった経験はないでしょうか?。男性なら、妙に興奮して寝られない・・・ということは経験あると思いますが。女性でも、なんだか理由は分からないのにイライラして落ち着かない、ということを経験したことがあるのではないでしょうか。 こうした、理由は分からないのに身体や心が不安定になる状態は、厭なものです。落ち着かないし、妙に焦ってイライラしますよね。これは一種の苦しみです。そう、人は身体や心がバランスを失うと、不安になり苦しくなるのです。これが五蘊盛苦なのです。なので、 五蘊盛苦=理由がはっきりしないで、身体や心が不安定な状態になることは、苦しみである。 ということですね。 以上が、生きていくうえで誰もが経験しなければならない苦しみです。基本的な4つの苦しみと合わせて、人は生まれてから死ぬまで、これら8つの苦しみと付き合っていかねばならないのです。それは、まさに苦、ですよね。 しかし、お釈迦様は、考え方一つで、その苦を超えられる、と説いたのです。それが、仏教の真理なのですよ。そういう意味では、仏教って、意外と簡単でしょ。 じゃあ、どうすればいいのか。少々乱暴に書きます。 「生れた以上、老いるのは仕方がないさ。老いて嫌われるのが厭なら、嫌われないような老い方をすればいいでしょ。楽しく明るいジジイやババアになればいい。しわが増えようが、腰が曲がろうが、目が見えなかろうが、気持ちだけは若々しく、楽しむようにすればいい。 病気になったって、仕方がないでしょ。誰だって病気になるんだから。なにも、そなんに病気を嫌うことはないでしょう。あぁ、やってきたな、と思いなさいよ。入院したらしたで、病院内で医者や看護師や患者と仲良くなればいいじゃん。病院生活を楽しもうぜ!、と思えばよろしい。 死ぬ時は死ぬんだから、何も恐れることはないでしょう。生まれた以上、みんな死ぬんだから、自分だけが死ぬわけじゃないんだから。みんなで三途の河を渡れば怖くないでしょうに。いくら抵抗したって、絶対に死はやってくるのだから、さっさとあきらめればよろしい。生にしがみつかないようにしたほうが、潔いいよね。 愛する人やペットと別れるのも、愛着のあるモノを手放すのも、仕方がないじゃないか。縁が終わったんだから。また、新しい縁ができるし、新しい愛する人ができるし、愛するペットができるし、愛着のあるモノができるしね。人間は欲が深いから、一つ失えば、一つ欲しくなるものさ。昔から出会いは別れの始め、ともいうしね。さっさと気持ちを切り替えましょ。 厭な奴なんてごまんといるし。自分だって嫌われているかもしれないし、恨まれているかもしれない。そんなのお互い様だよね。嫌いだろうが、厭だろうが、いる奴を消すわけにはいかないんだから、悩んでも仕方がなかろう。嫌いなら、自分も嫌われればいいや、と思えばいいじゃん。厭な仕事ばっかり、とかいうけど、仕事がないよりマシだよね。このご時世、仕事がなくて食べていけない・・・ことのほうが辛いでしょ。仕事なんぞ、お金のためさ。生きていくための手段なんだから、厭だろうが、好きだろうが、どうでもいいじゃないか。お金さえもらえればね。 欲しいモノが手に入らない、なんて・・・・そんなこと当たり前でしょ。大金持ちじゃないんだから。大金持ちだって、望むモノによっては手に入らないでしょうに。縁があれば手に入るし、縁がなければ手に入らないさ。無理して手に入れたって、死ぬ時は手放すんだしね。あの世には持っていけないさ。分相応に手に入るモノがあればいいじゃないか。 イライラする?。妙に興奮する?。男なら、パァ〜っと遊んで来ればいいだろ。女なら、友達と愚痴り合えばいいじゃないか。何か妙に不安でイライラする、落ち着かない、っていうのなら、一人で悩んでないで、さっさと誰かに相談することだね。 もう少し、気楽に生きなよ。こうじゃなきゃいけない、なんてことはないんだから。他人に多大な迷惑をかけたり、他人を悲しませたり、他人を苦しめたりしなきゃ、いいんだよ。法律に触れるような悪いことをしなきゃいいんだよ。ささやかな楽しみくらいいいじゃないか・・・・」 と生きていけばいいのです。なにも、厳しい修行の果てに悟りを得よう、などと考えなくてもいいのですよ。そこのところ、仏教を誤解している方も多いようですね。どちらかというと、仏教は「気楽な生き方」を説いているのですけどね。 ま、そんなことで、世の中不安だらけで、ち〜っとも庶民の暮らしは安楽にはありませんが、まあ、そこはそれ。適当に楽しみましょう。四苦八苦しないように、分相応の範囲内でね。 合掌。 80、百八 早いもので今年も終わりですね。まもなく大晦日を迎えます(まあ、その前に皆さんはクリスマスだの、年末バーゲンだの・・・・あぁ大掃除もありますが・・・・行事がいっぱいですけどね)。 そう、大晦日と言えば「紅白歌合戦」じゃないですよ、除夜の鐘、ですよね。除夜の鐘と言えば、「百八」ですね。百八回、鐘を突くのが日本の大晦日の伝統行事となっています。 ところでこの「百八」という数字、なぜに百八なのか御存じでしょうか?。今回は、百八の数字の秘密についてお話いたします。 「百八」といえば、真っ先に思いつくのが「煩悩の数」ではないでしょうか。百八煩悩ともいいますが、人間には「百八」の煩悩がある、という説ですね。そこから、除夜の鐘の数も百八回と決められたとか。新しい年を迎えるにあたり、煩悩すべてを消し去るために鐘を突く・・・・というのが、百八回鐘を突く理由だとか。 しかし、百八は何も除夜の鐘の数だけではありません。我々僧侶が持っている数珠の珠の数も、実は百八なのです。ですが、数珠は煩悩の数とは関係ありません。あぁ、これも一説によりますと・・・なのですが、数珠をするのは百八の煩悩をすり減らしているからだ、という話があります。しかし、これは後からのこじつけだと思われます。なぜなら、百八という数字は、ほかにもあるからです。 私たち真言宗の僧侶は、修行のとき御真言を百八回、あるいは1080回唱えることがあります。また、修行中には、百礼(ひゃくらい)行といいまして、百八回の礼拝をする行があります(これを一日3回行います。合計324回ですね)。 これは、煩悩の数だけ真言を唱えているわけでもないし、煩悩の数だけ礼拝をしているわけでもありません。ですが、百八回という固定された数字があるのです。 そうですね、どうやら先に数字があるようなのです。 実はこの百八回、仏教の専売特許ではありません(いや〜、こういう言い回し、古いですねぇ。若い方には通じないかも知れません。時代だなぁ・・・・)。もとは、仏教以前からあるインドの宗教にあるのです。 インド古来からの宗教とは、バラモン教のことです。4つのベーダという聖典やウパニシャッドという聖典がバラモン教にはあります。その聖典をもとに、さまざまな儀式や神々に祈る儀式を行い、古代インドの政治や生活に密着していた宗教ですね。カースト制度を生んだ元の教えでもあります。 さて、その聖典類の中に、 「この世で解脱を得たいのなら百八のウパニシャッドを読誦せよ」 とあります。また、数珠もすでにバラモン教でも説かれていて、数珠の珠の数を百八に指定してあるのです(数珠も仏教専門じゃなかったんですね。仏教はインド発生であることは皆さんよくご存知ですよね。ですから、仏教もバラモン教やその当時のインド人の習慣を多く取り入れているのです)。 ということで、百八という数字は、仏教誕生以前からインド人の間では広く伝わっていた数字だったのです。 では、その大元の意味は?、と問われると私にはわかりません。わかるのは、インドのバラモン教が源流である、ということだけですね。興味のある方は、古代インドの宗教を調べてみてください。百八の数字が現れた理由が分かるかもしれません(古代インドの神々の人数とか、神の名前が百八であるとか、ある女神が神になるための修行をした数とか、色々あるらしいですよ)。もし分かりましたら、私にも教えてください。 なので、大元の百八の誕生については横においておきます。仏教の百八の意味についてお話いたいましょう。 仏教の百八は、もともとインドで広く人々に浸透していた数字の百八を取り入れたのは事実でしょう。そこに色々と意味をこじつけたという面は否定できません。しかし、いくらこじつけであっても、うまくこじつけられたからこそ、百八という数字は生き残ったのでしょう。うまく意味が当てはまらなかったら、百八という数字は消え去っていたかもしれません。 では、どのように仏教では百八という数字に意味を持たせたのでしょうか?。 百八は煩悩の数、というの皆さんよくご存知ですよね。その根拠はどこにあるかと言いますと、これを計算した人がいるのです。だれかは知りません。昔の高僧でしょう。その高僧によりますと、 人間の感覚器官は「眼・耳・鼻・舌・身・意」の6つある。この6つの器官により人は様々な欲求を生むのである。欲求は悩みや苦しみを生む元である。つまりは、煩悩のもとである。 さて、その欲求には、好い欲求(他に悪影響を及ぼさない欲求)、悪い欲求(他に悪影響を及ぼす欲求)、どちらでもない欲求(生きていくうえで仕方がなく生じる欲求)の3種がある。すなわち欲求には、6×3=18の欲求があるのだ。 その18の欲求には生まれつきのものと生きていくうちに身についたものの2種類がある。すなわち18×2=36の欲求があるのだ。 これに現世・過去世・未来世の3種がある。すなわち、36×3=108となるのだ。 つまり、欲求の数は、前世・現世・来世の三世合わせて、108の数だけある。したがって、欲求の数、すなわち煩悩の数は108となるのである。 ということなのでそうです。これが一つの説です。 またの説には、このようなものがあります。 人間の煩悩のもとは6つの感覚器官によるものである。6つの感覚器官とは「眼・耳・鼻・舌・身・意」のことである。この感覚器官によってうける感覚には「楽」と「苦」と「どちらでもない」の3種がある。よって、6×3=18の感覚がある。 また、「好」・「悪」・「どちらでもない」の3種もある。したがって6×3=18となる。よって、さきの18種の感覚と合わせて36の感覚による煩悩が数えられるのだ。 さて、この36種の煩悩に前世・現世・来世の三世があるから36×3=108となる。したがって、煩悩の数は108となるのである。 唯識学の倶舎宗では別の説をとります。 真理を修行する過程において、人は真理を誤認することから生じる迷い(煩悩)がある。その迷いに88種類が数えられる。また、生まれながらに持っている煩悩のうち修行によって除く煩悩に10種類ある(これで合計98種類)。さらに、修行中まとわりつく煩悩が10種類ある。これらを合計すると108になるが、これが修行者の煩悩の数である。 と、このようにあります。 皆さん、苦労したようで・・・・。先に数字ありきだと、それに色々と合わせるが大変なようですな。それにしても、ぴったりうまくはまったものでして・・・。というか、唯識学などは、あてはめた、と言ったほうがいいのかもしれませんが・・・。 まあ、こうしたことから、百八という数字は、仏教においても特別な数字となったのです。おそらくは、それがもとで、真言の数や礼拝の数が決まっていったのでしょう。煩悩を少しでも減らすために、煩悩の数だけ御真言を唱えよう、煩悩の数だけ礼拝しよう、という気持ちが生まれたのでしょう。その気持ちが、実は大切なのですよね。 大事なことは、煩悩の数ではありません。煩悩の数がいくらたくさんあろうと、数が少なかろうと、そんなことは実際にはどうでもいいことなのですよ。本当に大切なことは、その煩悩といかにうまく付き合うか、なのですね。 いかに煩悩をコントロールするか、それが我々人間にとって重要なことなのです。欲望のままに生きていけば、必ず行き詰ってしまいます。否、欲望のままには生きられないのです。どこかで煩悩をコントロールし、妥協し、あきらめ、納得して生きていかねばならないのです。大事なのは、煩悩をうまく操る、欲望をうまくコントロールする、ことなのですよ。 さてはて、今年ももう終わりです。今年一年を振り返ってみて、皆さんはうまく煩悩をコントロールできたでしょうか?。自分の欲望をうまく操ることができたでしょうか?。 うまくできた方は引き続き来年もできるように、うまくできなかった方は来年こそはと願いを込めて、百八の除夜の鐘を撞きましょう。 来年も・・・来年こそは・・・・良い年でありますように・・・。合掌。 |
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