えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー11

81、玄関
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
お正月ですね。皆さんのお宅の玄関には、正月のしめ飾りがあるのではないかと思います。
「私は一人暮らしなので、そういうものは飾りません」
という方もいらっしゃるかも知れません。あるいは、御家族の方と一緒でも、マンションだったりすると、しめ飾りを飾らない家庭も多いのかもしれませんね。昔は、正月のしめ飾りは当たり前・・・・だったのですが。そうした風習も時とともに廃れていってしまうのですね。ライフスタイルが違うから?、でしょうか。寂しい限りです。できれば、お正月くらい、昔の風習を守っていって欲しいですね。

さて、本来ならば、多くのご家庭には玄関にしめ飾りが見られるお正月です。我が家の玄関を見て、和装に身を固めたオヤジさんが、
「あぁ、いい正月だなぁ」
などと呟いていたのは昔の話。そんなころは、子供たちも凧揚げだの、はねつきだの、独楽まわしだので遊んだものです。古き良き時代・・・・ですね。
そうした時代を見つめ続けてきた玄関。一人暮らしの方など、思いだすのではないでしょうかねぇ・・・・。
この「玄関」という言葉、みなさんごく普通に使っていますが、これって実は仏教から来た言葉なのですよ。知ってました?。
拙著「仏教の言葉」を読んだ方は、もう知っていると思います。そちらには書いてありますから(そう、まだ読んでない方は、早速本屋さんに走りましょう!。で、注文しましょう。なお、買っていただくのは嬉しいのですが、本が売れても私の懐には一銭も入りません。なぜなら、今出版されている分の印税は、一昨年いただいているからです。余談でしたが・・・・)。
もう知っているよ、という方も、本には書いてないこともお話しするかもしれませんので、このまま読み進めてくださいね。

ということで、今回は「玄関」です。
お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
玄妙な道に入る関門の意。
@奥深い仏道への入り口。
A転じて公案をさしていう。
B禅門に入ること。
C禅寺の客殿に入ること。
D禅寺の書院の入口の式台のあるところ。
E普通の家にある正面の入口
とあります。Eは現代での意味です。@は禅の書である碧巌録に記されています。A〜Dまでは、室町時代までには成立していた意味です。
ということは、玄関とは、禅の言葉だったのですね。

禅語から一般的な言葉に転じた言葉は結構あります。今までにも紹介してきました。代表的な言葉には知事がありますよね。玄関もその一つなのです。
現代の意味の玄関になったのは、上のCDが普及してきたことによるものでしょう。禅寺のお堂ではなく、客殿などの入口を玄関といったのでしょうから、一般の人々が出入りしたことでしょう。そこから、武家のお屋敷の入口に使われるようになり、大きな商家でも使われるようになり、どんどん広まっていった・・・・と思われます。
しかし、そもそもは、玄関は「玄妙な関門」であり、その玄妙とは「仏道」を示しているのです。つまり玄関は@の意味が正しいのです。

昔、禅寺に入門することは難しいことだったそうです。中には、三日間、禅寺の門前で座禅をしていなければいけないとか、本堂の前で跪いていなければいけないとか・・・・。修行したいと思う気持ちが本心なのか試されたのです。
そうしたことから、禅寺への入門は「奥深い仏道への入口」を示す玄関と同一視されたのでしょう。禅寺に入門すること自体、「玄関に入る(奥深い仏道に入る)」とされたのでしょう。

今ではどんな家の入口も玄関となっています。奥深い仏道へ入る入口であった玄関が、どんなご家庭にもあるのです。まさか、玄関がない家はないでしょう。玄関と言える代物ではありません、という方もいるかもしれませんが、それは言い方であって、家の入口は玄関であることにはかわりはありません。どんな家にも玄関はあるのです。
ということは、本来の意味を適応すれば、どんな家にも仏道に入るための入口は用意されている・・・のです。それがたとえ小さなものであっても、あるいは立派な広いものであっても、玄関は玄関ですから、平等に仏道への入口は用意されているのですね。
そう考えれば、誰にでも仏道を知る機会はあるのだと言うことが理解できましょう。

我が家の玄関を見て、皆さんはどう思うのでしょうか。
「あぁ、帰りたくない・・・入りたくない・・・あの争い事がある家の中には・・・・」
と嘆きながら玄関をくぐるのでしょうか?。もしそうならば、それこそ
「修行に挑むぞ!。そのための玄関だ!」
と思って玄関を入っていけばいいでしょう。いい修行になるかもしれません。
「いや〜楽しい我が家に帰ってきた。早く玄関に入ろう」
と喜んで我が家に戻れるあなたは・・・・幸せですよね。修行の世界が楽しい方なのですから。
できれば、我が家の玄関は、厳しい修行への入口ではなく、楽しい修行への入口であって欲しいものです。

そういえば、今月は一月。一年の入口です。ならば、一年の玄関と言えなくもありません。
さて、今年一年はどうなるのでしょうか?。楽しい一年になるのか、己が試される厳しい一年になるのか・・・・。
玄関である今月、覚悟を決めて入っていきたいですね。
合掌。


82、正念(場)
ニュースで見ていたのですが、某政党の代表が正月のあいさつの中で、
「今年は我が党にとって正念場の年です」
などと言っていました。また、報道番組でも、
「今年は政権党にとって正念場の年となるでしょう」
と、当たり前のことを偉そうに力説している姿がよく見られました。
それを見ていて
「ふ〜ん、正念場ねぇ・・・。って正念っていえば仏教語じゃないか。いつから場がついたんだろうか。まあいいや、これ使えるじゃないか・・・・」
と思い付きまして、で、今回は正念場となったわけです。

正念という言葉はまぎれもなく仏教の言葉ですね。このHPの仏教講座でも登場しています。そう、八正道(はっしょうどう)の中の一つですね。
八正道とは、悟りに至るための修行法の一種です。簡単に説明しておきます(詳しくは「お気楽、仏教講座 バックナンバー2」を読んでください)。
@正見(しょうけん)・・・正しく見ること。自分の感情や意見、思いを入れず、ただあるがままを客観的に見る、ことです。
A正思惟(しょうしゆい)・・・正しく考えることです。正見した事柄をそのまま受け入れ思考するのです。そこには個人的な感情や思い、偏った考えは排除されます。あくまでも客観的思考です。
B正語・・・正しい言葉遣いですね。悪口を言わない、嘘をつかない、ごまかしや言い訳、陥れなどの二枚舌を使わない、ふざけた意味のない言葉を使わない、乱暴な言葉遣いをしない。優しく、慈悲のこもった言葉遣いをすることです。
C正業・・・正しい行いのことです。暴力を振るわない、折衝しない、盗まない、性において乱れない、ですね。最近では、このほかにもタバコのポイ捨てをしないとか、ゴミの不法投棄をしないとか、飲酒運転をしないとか、のように、その社会において法律に触れるような行いをしない、マナー違反をしない、ということも含まれますね。
D正命・・・自分の命を生かすことです。ただ無為にだらだらと過ごしたり、自暴自棄な日々を送ったり、ひきこもって社会と断絶した生き方をしたりしないで、自分のやるべきことをやる、あるいは自分がやれることをする、そして世間の一員であろうとすることです。命を無駄にしてはいけないのですね。
E正精進・・・しっかりと努力することです。途中であきらめない、投げ出さない、ということですね。
F正念・・・あとで詳しく説明します。
G正定・・・心を落ち着かせることです。心が何事にも動揺しないよう、沈着なる状態に保つことですね。
以上が、八正道です。

さて、説明を飛ばしました正念ですね。これは、簡単にいえば、正しい思いのことです。邪念や羨み、恨み、妬みなどの思いを排除して、正しく修行しようとする姿勢ですね。しかも、常にそうした邪念を排除し、仏道を修行しようと念じていることでもあるのです。大事なのは「常に」ということですね。常に邪念を排除し、まっすぐに修行をしようという心のことなのです。
これが大元の正念の意味です。大乗仏教になりますと、これに
「真実の思いに住すること、真実の姿を常に念ずること。現象にとらわれないで、深い真理を思念すること」
という意味が入ってきます。ちょっと難しいですね。つまりは、
「眼に見える現象世界にとらわれないで、一切は空である、すべての現象や存在に実体はない、という真理に心を委ねること」
とでもいいましょうか。これでも難しいですか?。もっと簡単にえば、「空の世界に心の状態を保つ」ことですね。いつも、
「一切は空である」
という思いを持つことです。そうすれば、何もかもが空であるがゆえに、執着心がなくなり、邪念も排除され、自ずと真理に入ることができる、ということになります。これが、大乗仏教でいうところの正念です。
さらに時代が下がり、浄土系の教えが流行り始めると、正念は別の意味を持ち始めます。それは
「常に阿弥陀如来を念ずること、一筋に阿弥陀如来の救済を信じ、疑わないこと」
です。浄土系の教えは、常に「念仏」に通じるのです。

ということで、正念は多くの意味を持つようになりましたが、基本は同じで「邪念を排除し、修行に専念する」ことなのですね。これが、世間の芸能にも使われるようになったのです。つまりは、能や歌舞伎ですね。
芸事は、邪念を持って修行はできません。周囲の者を妬んでいては、いい表現はできないでしょう。結局は、己との戦いなのです。己自身を磨きあげて、芸の道は上達していくのですね。つまり、いつも正念が重要なのです。
歌舞伎などで特に重要な場面がありますね。ここは大事なところだぞ、という場面です。クライマックスとでも言いましょうか。そういう場面のことを、誰が言ったか知りませんが
「ここは正念場なんだぞ」
と言ったのだそうです。意味は、
「ここは邪念を排除し、何も考えず、一心不乱に演じなければいけない場面だ、重要な場面なんだ」
ということでしょう。「正念が必要な場面」という意味ですね。こうして「正念場」という言葉が生まれたのだそうです。
つまり、正念場とは「正念が必要なくらい重要な場面」ということです。

さてさて、我が国の政権党の皆さま。今年は正念場だそうですね。ご本人もそう言ってますし、あちこちでそう言われております。確かにそうでしょう。実力が試される年でしょう。どこまでやれるのかな、本当に日本を変えられるのかな、と国民は見守っています。ですから、
「邪念を排除し、日本の将来のために働かなければならない」
わけですよね。まさしく「正念場」です。
なのに、なのに、平成22年の幕開けから、とんでもないことになっていますよね。邪念を排除しなきゃいけないのに、邪念の塊じゃあないですか。
あぁ・・・嘆かわしい。何が正念場かっ!。結局は、口先だけなんでしょうねぇ。だれか、正念場の本当の意味を教えてやったほうがいいんじゃないでしょうか。
あ、でもだめですね。政治家に正念を教えてしまうと、全員が排除されてしまいますからね。そうなると、日本は・・・。
せめて、私たちだけでも邪念を排除して生きたいですね。正念しましょう。
合掌。


83、妄想
みなさんは妄想しますか?。
いきなりで申し訳ございません。しかし、今回は「妄想」がテーマですので、ついつい質問してしまいました。
ちなみに、私は妄想します。いやいや、妄想癖があります。妄想でもしてなきゃやってられない・・・ってことはありませんが、妄想は楽しいものですよね。えっ?、何を妄想するかって?・・・・それは秘密です。まあ、いいじゃないですか、一人で楽しむ分には・・・・。
ま、それはいいとしまして、「妄想」、これも仏教がもとで世間に広まった言葉なんですよ。

本来は「もうぞう」と読みます。仏教語ではもちろん、日本語でも古くは「もうぞう」と読んでいました。いつから「もうそう」と読むようになったのかは私は知りません。御存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。
「妄想」といえば、現代では
あらぬこと、真実でないこと、根拠のないこと勝手に空想・夢想すること
ですよね。
「ああだったらいいな、こうだったらいいな」
などと言うところからスタートして、色々なストーりーをでっち上げていくのが妄想です。そういう意味からすると、SF作家はもちろん、漫画家や小説家などは妄想家と読んでも差し支えないのかもしれません。また、そうした作品を喜んで読んだり見たりしている人々も妄想家の一員なのでしょう。ならば、日本人の多くは・・・否、世界中の現代社会の人々の多くは、妄想好きなのかもしれません。世界中でアニメや漫画が流行っているのですからね。
でも、それは逆にいえば、現実世界に夢がないからではないかと思います。あまりにも現実世界が殺伐としているというか、非人情的というか、夢や希望が乏しいというか・・・・、そんな背景があるからこそ、妄想の産物である漫画などが流行るのではないでしょうか。そう思うとちょっと寂しい気もしますけどね。
まあ、しかし、妄想することによって現実世界と折り合いをつけているのならば、それはそれで大いに結構なことだと思います。漫画は確かに面白いですからね。
しかし、本来の意味の妄想は実はいけません。仏教でいう妄想はそんなに楽しいことではないのです。

仏教語としての妄想の意味は
@くわだてる、くよくよ考える
A誤った思い。誤った想念。(略)真実でないものを真実であると誤って考えること。迷妄の心。
B誤っていること。
Cないものをあるとする想い。
D誤った見解。真理に背いた虚妄不実の想念。迷い。正しくない考え。
なのです(仏教語大辞典より)。
現代使われている妄想はCの意味から生まれてきたのでしょう。ようは空想ですね。ないものをあるとした世界を楽しむことが現代の妄想の主たる意味ですよね。なので、大いに妄想してもらっていいのです。
が、仏教では「妄想はいかん」、といいます。それは、妄想は誤った考え方のことを意味しているからです。

簡単に言ってしまえば、妄想とは「疑心暗鬼」のことですね。ありもしないことをあるのだと思い込んで周囲に迷惑をかけたり、人を疑ったり、妙に怯えたり・・・・・。
たとえば、ありもしない被害に怯えたり、誰かに狙われていると疑ったり・・・被害妄想ですね・・・・。あるいは、誰かが私を陥れようとしていると考えたり、みんなが自分のことを嫌っているのではないかと疑ったり、夫が・女房が浮気をしているのではないかという思いにとらわれたり、あの人は悪い人だと誤解したり思いこんだり・・・・。
すべて根拠のない思いから勝手に作り上げてしまった姿・・・虚像・・・に怯えたり、怒ったり、憂いたりしている、それが仏教でいうところの妄想です。
また、真実の教えを聞きながら、それは真実ではないでのはないか、本当はもっと違う教えがあるのではないか、自分だけそれを伝えられていないのではないか、お釈迦様は出し惜しみしているのではないか・・・などと疑ったりすることも妄想です。
「そんなこと、普通は思わないよね・・・・」
と思うかも知れません。反対に
「あぁ、そういうことってよくある・・・・」
と思う方もいるかもしれません。私は後者の方です。案外、疑心暗鬼になることって多いんじゃないでしょうか。

一たび疑心暗鬼になってしまうと、人はそれにとらわれてしまいます。そして、さらに悪い状況を想像して、一人悩んでしまうことがよくあると思います。多いのは、
「会社内で(学校内で)、自分は嫌われているんじゃないだろうか」
「彼は(彼女は)、浮気をしているんじゃないだろうか」
と言ったことではないでしょうか。
一たびこうした思いにとらわれてしまうと、あらぬ方向に想像が働いてしまうことがよくあります。一度疑い始めたら、周囲の行動が、あるいは彼や彼女の行動が妙に怪しく思えてきたり、言葉が妙に重く感じたりするようになってしまいます。で、一人悶々と悩むことになるのですね。
実際はどうかと言うと、思っていることと事実は違っている場合がよくあるものです。
「嫌われているんじゃないだろうか」
と思っているのは自分だけで、周囲の者はそれほどその人に注目してはいない、のが現実なのです。
「浮気してるのかも?」
と思っているのはその人だけで、彼や彼女は案外そんなにモテないもので、浮気なんてことはそうそうないことなのです。現実はそんなものなのですね。

自分が思っているほど、周囲はあなたに期待もしていないし、注目もしていません。それはお互いさまです。どちらもお互いに意識していないのです。あなたが、周囲の人にそれほど思いを込めていないのと同様に、周囲の人もあなたに思いを込めてはいない、のです。そう思っていたほうが・・・・寂しいけれど・・・・現実的ですよね。妙な期待もしませんし。
案外、世間は冷たいものなのです。
案外、自分の彼氏や彼女はモテないものなのです。
そう思っていれば、妙な疑いを持たなくてもすみます。その方が気楽ですしね。深く思い入れをして、思い過ぎて根拠のない考えを持ち、嫉妬や妬み、羨み、怒りの心を持つよりも、気楽に付き合える方を選んだほうがいいのです。強い思い入れは、相手に重みや息苦しさを感じさせますしね。

根拠のないことをもとに、いろいろ考えるのはよくないことです。理由もなく推測だけで周囲の人を判断するのは、その人に対して失礼なことでしょう。一方的な情報や疑わしいというだけで黒と判断するのも(マスコミに多いのですが)、間違ったことだと思います。そうした根拠の希薄な思い込みが冤罪を生むのですね。
本来の妄想は恐ろしいものです。疑心暗鬼になり、孤立化し、孤独を生み、はたまた冤罪を生みだします。理由のない、根拠のない、真実の裏付けのない考えはやめた方がいいですね。
「なんとなくそんな感じがしたから」
で、物事を判断したり、考えを膨らませたり、想像をたくましくしたりしないほうがいいのです。いつの間にか、単なる冗談であった想像が勝手に一人歩きをし、誤った情報となり、他人を傷つけることにもなりかねません。
「あいつが疑わしい」
「あいつならやりかねない」
「あいつに違いない」
「やっぱりあいつだ」
という勝手な想像が間違った現実を創り上げてしまうのです。それが妄想なのです。いわば、妄想とは誤った想像の暴走とでもいえましょう。ですから、お釈迦様は
「妄想はいかん」
と教えたのです。

みなさんも会社で学校で、職場で、いろいろな人と関わることでしょう。しかし、そうした人たちのことをあれこれ詮索はしないほうがいいのです。相手のことを分析しないほうがいいのです。
「ああいうことをったということは・・・・」
「ああいう行動をとるということは・・・・」
などと想像をたくましくして根拠のない判断をしてはいけないのですね。

妄想は楽しくなくてはいけません。楽しい妄想なら大いに結構だと思います。ただ、それにとらわれてはいけません。好きな相手とこうなったらいいな、ああだったらいいな、で、このように話が進んで、こう展開して、で、こんな楽しいシーンがあって・・・・などと妄想するのは大いに結構なことだと思います。好きな相手だけでなくてもいいです。会社での、学校でのヒーローやヒロインでも結構です。絶対あり得ないような場面を想像して一人ニヤニヤしているのは自由です。しかし、それにとらわれ、ヒーローでもないのにヒーロー面したり、格好つけたり、怪しい行動をしたり、ストーカーになったりしてはいけませんよね。迷惑をかけるような妄想は絶対にしてはいけません。
あぁ、そういえば、去年すごくいいことばかりを並べて、財源不足なのは分かっているのにそれを隠して、素晴らしい世界が待っているかのような妄想を与えたあの党。彼らが言っていたことはすべて妄想で終わるのか、はたまた現実化するのか、難しいところに来ました。
「妄想した国民が悪い」
などと言わせないように、早く党首も妄想から目を覚まして現実をよく見て欲しいですね。現実は、妄想の世界よりもひどい状況になっているんですよ。
合掌。


84、決定
決定することは難しいですね。何かにつけて、はっきり決め、定めなければいけないというのは、その責任を負うということでもあります。どなたでも責任を負うのはあまり望ましいことではないので、ついつい決められず、先延ばしや他人に決めてもらう・・・ということもあったりします。そういう場合、「優柔不断」と言われるのは覚悟しなければいけません。
また、決定したことを実行するのも、これまた難しいことがあります。折角決めたことでも状況により実行に移せないとか、単に勇気がなくて実行できないとか、怠け心から実行に移せないとか、理由はいろいろあるのでしょうが、この場合も、「優柔不断」とか「情けない」とか「最低」とののしられることを覚悟しておいた方がいいですね。
何事も決定する、決定したことを実行するのは難しいものです。
さてさて、この「決定」ということば、いまではどなたでも使いますが、そもそもは経典にあった言葉で、「決定」と書いて「けつじょう」と読みます。そう、これも読み方を昔の読み方に戻せば、仏教語なんですよ。

現在使われている決定の意味は
「はっきりと決めること。はっきりと定まること」
という意味になりますよね。他には、国語辞典によりますと、
「裁判所の裁判行為で、判決・命令以外のもの。主に訴訟手続上の事項について裁判所が行うものを指す」
とあります。いわゆる裁判関係の書類に「決定事項」とあるものですね。
これが現代の決定の意味です。
では、仏教語の「決定・・・けつじょう」はどんな意味なのでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典をみてみましょう。これがたくさん意味があるんですよ・・・。

@必ず。必然的に。決まっていること。疑いないこと。
A定まったものであること。
B一方的なこと。確定的なこと。確定していること。
C実在していること。
D当を得ている。ポイントを得ている。
E性決定の意。種子に善・悪・無記の性が決まっていること。たとえば、種子が善ならば結果も善であり、混乱しないこと。
F決断安住して動かぬこと。阿弥陀仏の本願を信じて動かぬこと。
G正しい知識を得たこと。
H自然の定まり。運命が定まっていること。

とあります。決定という言葉に、これだけの意味があるのです。順に解説していきます。
本来の仏教語での決定は、もともと決まっていることを意味しています。人が決めるのではなく、自然に決まっていること、定まっていること、それが決定なのですね。
「誰が何と言おうとも、この世の終わりが来ようとも、初めから決まっていること」
というような意味です。それが決定の意味だったのです。
現代の決定は、自分が決める、もしくは他人が決めることを決定と言いますよね。人が決めること、決めたことを「決定」といいます。しかし、仏教では元より決まっていることが「決定」なのです。自然界の掟というか、宇宙のルールというか、人が介入できない決まりが「決定」の意味なのですね。これが@〜C、Hの意味となります。
現代の決定のように自分が、もしくは他人が決める、という意味を含んでいるのはFですね。阿弥陀仏信仰により、ゆるぎない信仰心をもつことを決定というのです。たとえば、
「私の心は阿弥陀如来の御心に従うと決定しております。私の身も心も決定しております」
といったように使います。この場合は、自分で「決定」するので、現代の決定と同じ意味でしょう。
そのほかにも似たような言葉に私たちが使う次第の中に「決定円満(けつじょうえんまん)」という祈願の言葉があります。意味は
「自分自身の菩提心(悟りを得ようと思う心。多くの人々を救おうという気持ち)が定まっていて揺るがず、悟りを円満に得られますように」
ということです。これも、Fの「決定」の意味と同じですね。

ちょっと難しいのは、Eでしょう。これも、初めから定まっているという意味と同じですから、@と同様なのですが、わかりにくいと思いますので、説明をしておきます。
まず「種子」ですね。これは仏教語では「しゅじ」と読みます。意味は種と同じで、もともと人間に備わっているもののことです。また、「性」は性別や性行為のことではありません。仏教でいう性とは、「性質」のことを意味します。いわゆる「さが」ですね。したがって、「性欲」といえば、仏教では「性質による欲望」という意味であり、性行為を求める欲望ではありませんのでご注意ください。読み方も「せいよく」ではなく「しょうよく」と読みます。
人間の性質には、善と悪と悪とそのどちらでもないもの(無記)がある、というのが仏教の教えです。仏教では、性善説でも性悪説でもなく、その両方、さらにはそのどちらでもないものがある、と説くのです。この点だけでも、仏教が儒教よりも優れている教えだとわかりますよね。余談ですが。
さて、善の心による善の行いは善の結果を生み、悪の心による悪の行いは悪の結果を生み、どちらでもない心で行うどちらでもない行いはどちらにも分類されない結果を生みます。これは因果応報として世間でも知られている仏教の教えですね。尤も、世間では多少誤解されているところもありますが(悪いことをすれば罰が当たる、善いことをすれば善いことが起きる・・・というような即物的な教えになっていますが、そういう意味では本来はありません。あぁ、そうでうね、因果応報もこのコーナーで解説しましょうか)。
ともかく、善い心に基づいて行った善い行為は善い結果を生み、悪い心に基づいて行った悪い行為は悪い結果を生むというのは、決定しているしていることであり、ゆるぎない真実なのです。仏教ではそう説きます。もちろん、あくまでも、罰が当たるとか、ラッキーが起きるとかそういう意味ではないですよ。誤解のないように。
こうした、原因と結果の関係は、元より決まっているということを決定というのですね。これがEの意味です。
分かりにくいかもしれないので、「因果応報」という仏教語で次回解説いたします。

まあ、このように、仏教語の決定とは、そもそも人間がいようがいまいが、元より決まっていることを指して決定と言ったのですね。それは人が決めることでも自分で決めることでもないのです。たとえば、最も端的にいえば、
「人はいつかは悟る時が来る。それが何年先、何億年先かは分からないが、すべての人間は悟ることができるのだ。これは決定していることである」
という使い方なのです(これは法華経に説くところの思想です)。人間の小さな知恵など及びもしないことに関して決定という言葉を使っているのですね。

さてさて、欲望の渦巻く人間界。ここでは、決定したことが簡単に覆され、別の決定をしたのにもかかわらず、実行不可能と見るや、元の決定に逆戻りをするという何ともふがいない決定が横行していますよね。えっ?、なんのことかって?。いやいや、皆さんよくご存じでしょ。フテンマという問題ですよ。前の政権が決めたことをひっくり返し(票のためにいいことばかり言って)、理想論を展開し、理想的な答えを出すと決定しておきながら、結局元の木阿弥か?、といった展開を見せてますよね。不転(ふてん)どころか、転がってばかり。どこに決定したことがあるのやら。
君たちの地獄行きは決定している・・・と閻魔様に怒られないようにしてほしいですよね。
合掌。


85、因果応報
前回予告しました通り、今回は「因果応報」についてお話をいたします。
因果応報という言葉は、誰もが使う言葉になっていますが、元々は仏教語です。お経に説かれた言葉ですね。まあ、それはなんとなくわかると思いますが。

現在使われている因果応報の意味は、
「悪いことをしたらバチが当たる」
と言う意味で使われることがほとんだと思います。たとえば、過去に悪事を働いた人が禍を被ったりすると冷たく
「因果応報だね」
と一言で片づけてしまう・・・・と言ったような使い方ですね。もっと軽く、友達同士の間で、いたずらなどをした者がこけたり怪我をしたりすると
「や〜いバチがあたった。因果応報だな」
などと使ったりします。因果応報の使い方は現代では「悪い結果」が起きた時に使うようになっています。
ところが、本来の意味は、そうではありません。否、もちろん悪い結果が起きた時にも因果応報は使いますが、よい結果がやってきた時にも使ったのです。つまり、結果がよかろうと悪かろうと、それには関係なく「因果応報」は使用されたのですよ。つまり、本来は、善悪の差などなく「因果応報」という言葉を使用したのですね。

そもそも「因果応報」とは「因果」と言う言葉と「応報」と言う言葉がくっついて出来ています。
「因果」と言う言葉の意味は、「原因と結果」ですね。「因」が「原因」のことで「果」が「結果」です。仏教ではすべての事象は、それが起きた(生まれた)原因が必ずあり、その原因に従って結果が生まれている、と説きます。すなわち、この世のあらゆる現象、事象、生命体、存在する物質も精神も出来事も、すべては原因があって、そうした存在があるのだ、と説いているのです。簡単にいえば
「何事も原因があって結果が生まれる」
ということですね。で、この言葉から
「因果関係」
「因果応報」
「因果を含める」
などと言う言葉が派生したのです。

「因果関係」という言葉は、裁判などでよくつかわれますよね。その事象には因果関係があるとかないとか・・・。たとえば医療裁判ではこの言葉が多く使われます。患者が亡くなった(あるいは障害が残ったなど)ことと医者の医療行為には因果関係があったとかなかったとか、が争われるのが主な医療裁判ですからね。起きてしまった結果に対し、原因は関係しているのかどうかを争うわけですね。ですから、この場合の因果関係も主に「悪い結果」に関して使う言葉となっています。
「因果を含める」もそうですね。原因と結果を説いて、あきらめさせることを「因果を含める」といいますが、この場合も悪い結果に関して使います。たとば、
「ああいうことをする奴だから、きっとバチが当たって世間にいられなくなる。悪い結果が起きることは目に見えている。だから、あの男のことはあきらめるべきだ」
などと、悪いことばかりしているから悪い結果を生むのであきらめなさい、というように、悪いことに関して使います。
「因果応報」も先に述べたように、悪い結果に関して使います。たとえば
「親の因果が子に報い」
などとね。これも因果応報のことですからね。

さて、話を戻します。因果応報ですが、これは「因果」と「応報」によってできている言葉ですね。「応報」とは「行為に応じた報い」のことです。「因果」は「原因と結果」と先に述べました。
で、二つをくっつけると、
「原因に応じて報いが結果としてやってくる」
という意味になります。もしくは、
「その原因に応じてその結果がくるのは当然の報いだ」
という意味になります。こちらの方が分かりやすいですか。
となると、多くは悪い意味の方が使いやすいことは確かです。悪いことばかりしているからその行為に応じてバチが当たる、それは当然の報いだ、と言う意味ですね。
が、本来は、因果と言うのは悪い意味だけではなりません。すべて事象の原因と結果なのです。ですから、善いことも因果関係があるのです。つまり、
「善い行いをすれば善い結果が生まれる」
ということです。これを因果応報に当てはめると、
「善い事をしたから、その行為に応じて善い結果が生まれたのは、当然の報いだ」
となるのです。善いことをして何かラッキーに恵まれたことも、実は「因果応報」なのですよ。すなわち、因果応報とは
「善悪に関係なく、なされた行為に応じて結果が生じる」
と言うのが本来の意味なんですね。ただ単に、
「善いことをしたら善い結果がうまれる、悪いことをしたら悪い結果が生まれる」
という単純な意味ではないのです。そこには、本来善悪という区別はないのですよ。

因果と言うのは、結果には必ず原因がる、と言う教えです。したがって、因果応報とは、
「原因に応じて結果が生まれる」
という意味になるのです。つまり、人間の行う様々な行為や心の持ちように応じて、結果が変化してくる、と言う意味なのですね。
たとえば、行為においては、悪いことをすれば悪い結果を生む・・・バチが当たる・・・と言うのは理解できましょう。まあ、中には、某国のお偉いさんのように隠し金や金に関して法律違反をしても何の罰も受けない人もいますが、実は何のバツも受けないわけではありません。まだ、罰がやってこない、だけです。いずれバチが当たる時が来るのですよ。それは、ひょっとしたらその人の死後かもしれません。つまり、子孫が苦しむ、と言うことですね。その人自身にバチが当たらないで、子孫が苦しむ・・・・親の因果が子に報い・・・と言うことになるかもしれないのです。
あるいは、善い行為に関して。いくら善行を行っても、ち〜っともいいことが起きない・・・と思っている方もたくさんいらしゃるでしょう。しかし、いいことが起きていないことはないと思います。案外気づかないだけで、知らないうちに難を逃れていることは結構よくある話ですからね。
先日も、あるおばあさんがバスを下りた途端、そのバスに車が猛スピードで突っ込んできたそうです。車は大破。乗っていた乗客の何人かは怪我をされたそうです。そのお婆さん、日ごろから信心深い方だったそうで。周りの人も、信心のおかげだねぇ、と言ってたそうです。また、怪我をされた方もほとんどが軽症だったそうです。きっと、強欲な悪人は一人も乗っていなかったのでしょう。なので、軽傷で済んだのでしょうね。
とまあ、日常において何らかのラッキーを貰っているかもしれません。ただ、それに気付かないで通り過ぎているだけかもしれません。
そりゃそうですよね。善いことには気づきにくいものです。悪いことは、自分にとって嫌なことですから、どうしても目立つし、気付きますよ。

しかし、因果の教えはこうした即物的なことばかりでなく、心の持ちようによっては、この世は極楽だよ、ということも教えているのですよ。それが本来の意味での因果応報でしょう。
たとえば、周囲の人々に優しく接すれば、周囲の人々も優しく接してくれるでしょう。優しい言葉で話しかければ、ひどい言葉は返ってきません。人を憎んだり、恨んだりしなければ、心は荒みませんから、不幸にはなりません。心の持ちように応じて、世の中の印象は変化していきます。すなわち、
「心を綺麗に、清浄にすれば、それに応じて世間も清浄になってくる」
のですよ。何事も「心の持ちよう」と言うわけですね。心においても「因果応報」なのです、否、むしろ、心こそ「因果応報」なのです。

即物的なことばかりに因果応報を使わないで、心のありようにも因果応報をあてはめて欲しいですね。心に余裕があれば、なにごとにも余裕が生まれてきます。心が焦ってしまえば、何事も見えてはきません。この国の人々は、どうも即物的なことを優先するようで、もう少し心・・・精神・・・に目を注いで欲しいですね。物質ばかりを追い求めないで、心の余裕、心豊か、ということを知って欲しいな、と思います。そうすれば、人気取りのため、票取りのため、いいことばかりを並べ立てておいて何も実行できないような政党に騙されることなどなかったのではないか、と思うのですがねぇ・・・・。
ま、それも因果応報・・・ですかねぇ。
合掌。


86.上座・下座
会議や宴会のときなどに、役職がある方には上座に座ってもらいます。いろいろ手配したり、雑用したりする社員は下座に座ります。この座る順序を間違えると上座に座る方々は大いに御立腹されますね。
「ただ役職が上というだけで実力もないくせに偉そうに上座に座りやがって・・・・」
という思いは別としまして、座る順序や序列には注意が必要なのが日本社会の仕組みですね。本当に面倒なことで・・・・。
私たち僧侶の世界は、こうした上下の順には大変厳しいものがあります。席順を間違えた日にゃあ・・・恐怖で顔が引きつりますな。まあ、一つや二つの順番の間違えなど、
「どうってことないよ〜」
と言ってくださる心の広い諸先輩もいらっしゃるからいいのですが、そんな心優しい方ばかりではありません。
「こういうことは厳格に行わねばいかん」
と、うるさい方々もいらっしゃるのです。席順には、本当に神経を使いますな。
尤も、こうしたことは宗教界だけではなく、伝統芸能などでも厳しく行われていることでしょう。古き伝統に生きる世界では、こうした序列は重要になってくるのですね。

とはいえ、目上に礼儀を払うのは、これはマナーとして世界共通でしょう。目上の方々に礼儀を尽くせぬ者は、礼儀知らずの恥知らず、になってしまいます。最近では、そういう礼儀知らずの者が増えてきてはいますが、これも嘆かわしいことで・・・。こういうことは、大人が教えていかないといけないんですけどねぇ。
ま、礼をつくしたくない、愚かな目上の大人が増えた、ということも大きな一因かもしれませんが・・・。

さてさて今回はそんな礼儀の話、上座・下座のお話です。
みなさんは、上座を「かみざ」、下座「しもざ」と読むのではないでしょうか。しかし、仏教ではこれを「じょうざ、げざ」と読むんです。
聞いたことはないでしょうか、このHPでもたびたび出てくる「上座部仏教」という言葉。これは「じょうざぶぶっきょう」と読み、「かみざぶぶっきょう」とは読まないんですね。
この上座(かみざ)・下座(しもざ)という呼び方は、もとは仏教の上座(じょうざ)・下座(げざ)から採用された言葉なんですねぇ。元は仏教語なんですね。

で、その意味は・・・といいますと、これはほぼ同じです。
カミザは偉い方が座る場所、シモザは下っ端が座る場所。カミザからシモザに向かって、その人の位が落ちていくわけですね。
仏教語のジョウザもゲザも同じ意味です。詳しくはお馴染みの仏教語大辞典で見てみましょう。
*上座
@上座(かみざ)に坐する人の意。僧に対する二人称の敬語。長老のこと。教団の中で修業を積んだ指導的地位にある人。徳の優れた修行僧。大徳、尊者、具寿などはその敬称。10年以上修行を積んだ僧侶の呼び名。一般に修行僧の敬称としても用いられる。
A「上座部」というときには、保守的な一派で、南アジア諸国に行われている仏教をいう。
B禅院の先輩で、法位の上の人に対する敬称。
Cまた禅林で、首座(しゅぞ)をつとめたことがない修行歴の浅い僧を言う。門下に対する敬称。
D年長で有徳であり、寺院内の僧侶を監督し、寺院の事務を司る役職の僧侶。
E曹洞宗における僧侶の階級の一つ。
以下省略
上座とは、本来は、修行を長くにわたって積み、指導者として認められた者の敬称だったのです。初期仏教においては、一定の悟りを得た修行僧が上座とされたのです。そうした修行僧は、長老とも呼ばれていました。そして、修行僧が集まることがあると、仏陀を中心に左右に分かれて座ったのです。それは、若い修行僧やまだ修行ができていない者は座ることができない場所だったのです。その場所を上座とも言ったわけです。
お釈迦様が涅槃に入られた後、数百年を経て仏教教団は庶民中心の仏教と、それまでの伝統を重んじる保守派とに分かれます。前者は大乗仏教と呼ばれ、後者は古くは小乗仏教と呼ばれ、近年では上座部仏教と呼ばれるようになりました。それは、保守派の僧侶が長老を中心としていたからです。つまり、上座の僧侶たちが保守派だったから、上座部仏教と呼ばれるようになったわけです。

このように、上座とは「徳のある修行僧」に対する敬称であったわけで、座る位置だけを示していたわけではありません。
また、現在でも僧侶の役職の位を示したり(B〜E)、宗派によっては、戒名の「居士」の代わりに「上座」をつける場合もあります。
いずれにせよ、上座は「格上の修行者」なのです。

*下座
@説法を終わって高座からおりること。
A上座の人に対して下位に座っている人をいう。
仏教語大辞典にはこのようにあるだけです。
@は法話するときの高座から下りることをいうのですが、あまり馴染みはありません。Aの方が主に使われる意味ですね。
我々僧侶の間では、下座といえば僧の位の低い人のことを指示して言います。また、一番下の位の僧侶だったりもします。
行の字をつけて「下座行(げざぎょう)」という言葉もあります。これは、一番下の位の者がやるような作業・・・・掃除や片付け・・・・のことです。「修行はまずは下座行から入る」ともいわれますし、「いくら地位が高くなっても下座行ができなければ・・・・」ともいわれることもあります。
確かに、僧侶の位が上がってくれば、威張ることは覚えても下座行は忘れてしまいますね。上座になればなるほどほど、下座行はできなく・・・・しなく・・・・なります。
しかし、昔から尊敬されるような僧侶は、いくら位が高くなっても下座行を進んでできる方が多かったようです。あるいは、修行僧とともに、下座行を一緒に行うとか・・・・。
「これは下座の者が行うことで、我々上座が行うべきではない」
などという差別をするような僧侶では、尊敬に値しないことは確かですよね。いくら位が上がっていっても、下座の者が行うことを抵抗なくできるようでなくては、真の僧侶とは言えないのかもしれません。

私も気をつけなければいけませんねぇ。尤も、うちの寺の場合、修行僧は私一人だけですので、下座も上座もないんですけどね。下座行も当然自分でやらねばなりません。しかし、いずれ、下の者ができた時、
「あ〜、面倒くせぇ〜、下座行、よろしくね」
などと言って、ゴロゴロしそうな気がして・・・・。
あ〜、やだやだ。そんな怠け者の僧侶・・・。えっ?、今でもそんな感じがする?。あちゃ〜、見抜かれたか!。いや〜、気をつけなければいけませんねぇ。自戒自戒。
合掌。


87.ナムサン!
時代劇などを見ていると、「しまった!」ということをしでかしたり、「危ないぞ」という状況になったときに、
「ナムサン!」
と叫んだりするシーンに出会いますよね。そういえば、アニメの「一休さん」(最近の若い方はこのアニメ知らないんだそうです。あの名作アニメの一休さんも過去のものになってしまったんですねぇ。時代を・・・いや歳を感じますなぁ・・・・)の主題歌でも「なむさんだぁ〜」という歌詞が出てきますよね。無理難題を押し付けられた一休さんが「あぁ、困ったぞ」という時に「なむさんだぁ〜」と嘆くんですね。
この「ナムサン!」本来は困った時に発する言葉ではないのですが、いつのころからか、そうした使われ方をしてきました。元々は、ちゃんとした仏教語なのですよ。今回はこの「ナムサン!」についてのお話です。

「ナムサン」
漢字で書くと「南無三」となります。「南無」はわかりますよね。南無阿弥陀仏や南無大師遍照金剛などの「南無」のことです。
「南無」は、サンスクリット語「namaナマ」の音写で、漢字には意味がありません。「南が無い」と書くんですが、これ自体には意味はないんですね。当て字なんです。
「ナマ」本来の意味は、「屈する」です。そこから、身体を折り曲げて挨拶をするという意味もあります。
インドに行くと、「ナマステ」とあいさつします。「こんにちは」の意味ですね。この「ナマステ」の語源が「ナマ」です。身体を屈するという動作が挨拶のために頭を下げる姿になり、「ナマステ」という語が生まれてきたのでしょう。
いずれにせよ、「南無」の本来の意味は、「ナマ」という言葉で、屈するなのです。

屈するには、身体を折り曲げるという意味だけでなく、従うという意味も含まれてきます。「屈服」ですね。南無はどちらかというと、単に屈するという意味ではなく、屈服する→従う、という意味になります。漢訳すると、
「帰依、帰命、帰礼、敬礼」
となります。帰依や帰命という言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。意味は、「従う、信じて従う」という意味になります。
つまり、「南無」は本来は「仏様に屈する、屈服する」という意味ですが、それは「従う」ことであり、さらには「信じて従う」という意味になっていくのです。
なので、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏に屈伏する、阿弥陀仏を信じて従う」という意味になりますし、南無大師遍照金剛は「お大師様を信じて従います」という意味になるのですね。
「南無阿弥陀仏」、「南無大師遍照金剛」と口先だけで唱えていてはいけませんよ。その教えに屈服するくらい、信じて突き従わないとね。

さてさて「南無三」です。「南無」はわかりました。では「三」は何でしょうか。
この「三」は「三宝」の略なんですね。本来は「南無三宝」という言葉であり、それが省略されて「南無三」となったのです。
「三宝」とは三つの宝のことです。仏教でいうところの三つの宝とは「仏、法、僧」です。「ぶっぽうそう」ですね。仏教では、「仏法僧」が最も尊い宝となるのです。
ちょっとまったぁ〜!、仏と法が尊い宝というのはわかる、んがっ、僧は尊い宝か?、むしろ腐っておろうがぁ!
という声が聞こえてきそうですが、僧も宝なんですよ。ごめんなさいねぇ・・・・。

お釈迦様の時代・・・・いや、今でもそうなのですが、出家するときに「三宝に帰依」しなければなりません。必ず、です。
「三宝に帰依する」・・・・すなわち、「仏、法、僧に帰依する」のですね。つまり、
「仏様に従い、仏様の教えに従い、僧に従う」のです。これを誓うんですね。仏教の修行は、まずここから始まるのです。イヤとか言ってられません。
「仏様に従う、教えに従う、それはいい、だけど僧に従うのはいや」
では話にならないんですね。スタートできないんです。
仏様・・・お釈迦様をはじめ、様々な如来や菩薩、明王ですね・・・は尊いものでしょう。確かに宝です。ですので、修行する上で、従うのは当然です。仏様に逆らっては修行はできませんからね。
教え・・・法・・・・もそうですね。お釈迦様が説いた、すなわち仏陀が説いた教えですから、尊いものに間違いはありません。確かに宝です。
では僧侶は?。僧侶がなぜ宝なのか・・・・。
僧侶は、仏様に従い、仏様の教えを学び、仏様の教えを実践している人間です。一般の方とはちょっと違います。僧侶がいなければ、仏様の教えがいかなるものか、どういった内容のものか、知ることができません。つまり、僧侶は仏様の教えをつたえるメッセンジャーであり、教えを解説する教師であり、実践者でもあるのです。
そう考えれば、僧侶も立派なものですし、尊敬に値するでしょ。なので、本来は、僧侶も宝なのですよ。あしからず・・・。
まあ、中には、尊敬に値しない、帰依できない僧侶もいるかもしれませんが、一応は僧侶も宝なんです。

さてさて「南無三宝」というのは、このように「三宝に帰依する」という意味なのですが、いつのころからか、祈願のために唱える言葉となっていったのです。南無阿弥陀仏や南無大師遍照金剛と同じですね。これらは、お参りするときや祈願のための参拝のときに唱えますよね。それと同じで、お参りの時に「南無三宝発菩提心(なむさんぼうほつぼだいしん)」(三宝に帰依し、修行する心を起こします、という意味)と唱えるようになったのですね。
「お寺に参るときには『南無三宝発菩提心』と唱えよ」
という習慣があったわけです。そうすれば、禍から逃れられるぞ、というような・・・・。
こう唱えれば、どこの寺へ行っても問題ないわけです。その寺がどんな宗派であれ、唱える文言に間違いはないのですね。おそらくは、とある坊さんと一般の方の間にこのようなやり取りがったのでしょう。
「和尚さん、お寺にお参りに行ったとき、どう唱えればいいのでしょうか」
「南無阿弥陀仏と唱えればよろしい」
「そのお寺は真言宗で、阿弥陀さんはおらんのです」
「ならば南無大師遍照金剛と唱えよ」
「じゃあ、他の寺の場合は?。本尊様が観音さんとか・・・・」
「南無観世音菩薩と唱えよ」
「ふ〜ん、じゃあ、その寺の本尊さんが何か分からない場合はどうすればいいので?」
「そうじゃのう・・・・あぁ、南無三宝と唱えればよいな」
「南無三宝・・・・ですか。あっ、なるほど!」
という感じですね。つまり、「南無三宝」はオールマイティな言葉なんですよ。

で、どこでも南無三宝と唱えるようになれば、それは呪文として成立していきます。そう唱えれば禍から逃れられる・・・みたいな。そこから、困ったことや禍に見舞われたことがあると、
「南無三宝」
と唱えるようになったのでしょう。「くわばらくわばら」と同じですね。
で、南無三宝では語呂が悪いので、「南無三」と省略されたのでしょう。そのほうが言いやすいですからね。

ナムサン!
そう叫びたいような禍や突発的な出来事に、あなたは出くわしていませんか?
えっ、毎日ナムサンだぁ〜?、なぜ?。
この国の政治が三流どころではなくなり、もはや地に落ちた感が否めない、だからナムサン?。
あぁ、そりゃあそうですねぇ。確かにナムサンですねぇ。ホント、お寺にお参りして、
「南無三宝、南無三宝、南無三宝」
と唱えたいくらいですよね。この国の禍の元である政治家と官僚を消し去って下さい・・・・とね!。
一休さんがいたら、どう言ったでしょうねぇ。そのトンチでこの国を救って欲しいですな。えっ、一休さんもお手上げで
「あ〜、ホント、ナムサンだぁ〜!」
と嘆く・・・・かも知れませんねぇ・・・・・。
合掌。


88.縁日
暑いですねぇ、今年は猛暑ですねぇ(これは7月23日の夜に書いています)。これも温暖化の影響ですかねぇ。
夏、といえば海・花火大会・お盆などが思い浮かびますが、そのほかに「お祭り」がありますよね。夏祭りです。
夏になると、各地の神社やお寺で夏祭りがあります。盆踊りは学校とか、地域の公園とかで行いますが、そもそもはお寺での施餓鬼の行事の後に行うものです。いつの間にか、盆踊りと施餓鬼の行事は切り離されてしまってますね。従って、盆踊りも夏祭りの一種ですが、これは本来、施餓鬼の延長で行われるもので、いわゆる夏祭りとはちょっと異なるものです。本来の夏祭りは、神社の御縁日の延長にあるものですね。おそらくは、盆踊りの習慣と神社やお寺の御縁日の習慣が相まって、夏の夜に祭りをするようになったのかな、と思います。あくまでも想像ですが・・・・。
さて、その夏祭りが行われる、御縁日ですが、今では市が出てお祭りのようになっていますが、もとはお寺の行事に関連しているんですよ。今回は、そのお話をいたします。

縁日とはどういう意味なのか、お馴染みの仏教語大辞典調べてみましょう。
「何ものかにゆかりのある日の意。有縁日の略で、仏門に入る因縁のある日、または神仏に何かの縁があって祭りや供養のある日。神仏に仮に命日を定めて、この日に参詣すれば功徳があると、一ヶ月に一日か数日を定めて縁日とし、市や見世物などが出て参詣者で賑わう。(中略)唐代・宋代以来のことで、日本では縁日と称して鎌倉時代ころからこの信仰の風が生じ、市が立つようになった。(以下略)」
となっています。
そもそも縁日とは、出家する日のことで、その日がその出家する人にとって「仏道修行と縁のある日」という意味なんですね。初期仏教時代は縁日とは、そのような意味を持っていたのです。
中国に仏教が伝わり、唐時代にもなると、お寺の維持のために参拝者を集めなければならないようになりました。人を集めるにはどうすればいいのか・・・・・?。
坊さん連中は、坊主頭を寄せ合って考えますな。当時、唐の首都は巨大な市場がありました。インドや中近東、ヨーロッパから多くの人々が集まり、各国の特産物を売っていたのです。世界で最も賑わった市場があったそうです。
で、お寺もこれを真似よう、ということになったのですね。しかし、単に市場をお寺の境内地に!と頼んでも、誰も参加しません。そこで、「本尊様の日」というのを各寺院で決めて、その日にお参りすると功徳があるぞ、と宣伝することにしたのです。そうすれば、物売りの人々も来てくれるだろう、物売りが来てくれれば、それを目当てに人も集まるだろう、人が集まれば物売りが増えるだろう・・・・。そうだ、そうだ、物売りたちからも、お寺への寄付金を貰おう、お互い持ちつ持たれつだよな、となったのですね。
となれば、まずは「本尊様の日」を決めなければなりません。仏様にゆかりのある日はないか、それが経典に書かれていないか、いわれとかを探しますな。勝手に決めるわけにはいきませんからね。

経典を見ていきますと、お釈迦様は4月8日が誕生日となっています。また2月15日が涅槃に入られた日で、現実の肉体を滅した日となっています。ここから、目出たい方をとろうということで、毎月8日はお釈迦様の日にしよう、となりました。
観音様の伝記のようなお経を見ますと、観世音菩薩は昔のとある国の妙善姫という王女が修行をして、この世での生を終えて観世音菩薩になった、とあります。それがある月の18日未明だった、とあります。となれば、毎月18日は観音様の日だな、となりますね。
このように経典を調べていきますと、何らかの縁のある日が記載されている場合があるんですね。こうして一ヶ月をそれぞれの仏様の縁日で埋めることができるんです。で、次のように決めたのです。よく御存知の仏様や縁日もありますし、全く知らない仏様もあることでしょう。これらは、唐代〜宋時代にかけて作られたものです。

1日・・・・・定光仏(じょうこうぶつ)        2日・・・灯明仏(とうみょうぶつ)
3日・・・・・多宝仏(たほうぶつ)    4日・・・阿シュク如来(あしゅくにょらい)
5日・・・・・弥勒菩薩(みろくぼさつ)  6日・・・二万灯明仏(にまんとうみょうぶつ)
7日・・・・・千手観音菩薩      8日・・・薬師如来(または釈迦如来)
9日・・・・・大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)
10日・・・日月灯明仏(にちがつとうみょうぶつ)
11日・・・歓喜仏(かんぎぶつ、歓喜天が悟りを得た姿)
12日・・・難勝仏(なんしょうぶつ)
13日・・・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
14日・・・普賢菩薩(ふげんぼさつ)
15日・・・阿弥陀如来
16日・・・陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)
17日・・・龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
18日・・・観世音菩薩
19日・・・日光菩薩(にっこうぼさつ)
20日・・・月光菩薩(がっこうぼさつ)
21日・・・無尽意菩薩(むじんにぼさつ)
22日・・・施無畏菩薩(せむいぼさつ)
23日・・・大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
24日・・・地蔵菩薩
25日・・・文殊菩薩
26日・・・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
27日・・・毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)
28日・・・不動明王
29日・・・薬王菩薩(やくおうぼさつ)
30日・・・釈迦如来

このようになっていますが、30日に釈迦如来の縁日をされる寺院は少ないですね。たいていは、8日に行います。このように決まった元は、唐代〜宋代にかけての中国でのことですが、内容を見て見ますと中国天台宗がリードして決めたかと思われます。また、日本には鎌倉時代に伝わったという説が有力です。
それは、鎌倉時代の覚禅(かくぜん)というお坊さんが記した「覚禅抄」(京都・東寺蔵)の中に仏様の姿ともに30日仏が納められているからです(「三十日秘仏」という図録)。
なお、旧暦ですので、31日はありません。
また、このほかに、各宗派の祖の命日を縁日とする場合があります。有名なのは、21日の弘法大師の日ですね。たとえば、京都・東寺では、毎月21日は弘法市が開かております。結構な人で賑わっています。21日の縁日は、弘法大師の方が有名ですよね。

明治以前は神仏集合でした。お寺と神社は現代のように分かれてはいませんでした。ですので、神社にも仏教の縁日は影響を与えます。寺院が一緒になっていないところは、独自に決めたのでしょう。また、寺と神社が一緒だったときは、主に寺の縁日に頼っていたのでしょうが、明治以降は、他の神社も縁日を決めていったのだと思います。毎月4日とか、7日とか、10日とか・・・・。
そういえば、私が子供のころの近所の天神様は、2日と7日が縁日で、二七の市(にしちのいち)が行われていました。なぜその日なのかは知りませんが・・・。
そうそう、各地に地名で残っているところもありますよね。四日市とか十日市とか・・・・。そのように、お寺や神社の門前市(縁日)が、地域名になっているところもあります。

このように縁日とは、そもそもお寺が参拝者を増やすために特定の日を決めたころから誕生したのですね。縁日にはお寺にお参りしよう!、ということだったのです。人が集まれば物売りも来る・・・という連鎖反応がおこり、市場が生まれ、祭りが生まれていったのですね。

さてさて、皆さんにも縁日があります。とても大切な縁日です。それはいつでしょうか?。
そう、それは誕生日ですね。誕生日は、あなたがこの世と縁を結んだ日でもあります。本当は、受胎の日の方がいいのでしょうが、まあ、それは正確にはわからないでしょうから、この世に生まれた日にしておきましょう。
この世に生まれた日=この世と縁ができた日。
まさしく誕生日はあなたにとっての縁日ですね。
さてさて、皆さん。近くの神社の御縁日や夏祭りなどにでかけて、この世に生まれた縁というものを感じてみるのもいいのではないでしょうか。
あなたの縁日、あなたの周りにいる人の縁日、あなたと周りにいる人と出会った、縁ができた日・・・縁日。そうした縁の不思議さに思いを巡らすのもいいもんだと思いますよ。新しい、夏祭りの楽しみ方ですよね。
合掌。


89.般若
般若・・・はんにゃと読みます。皆さんよくご存じだと思います。最近では漫才師のコンビ名にまでもなっていますね。発音が少々異なりますが。今、「はんにゃ」といって思い浮かぶことは?、と聞けば、その漫才師コンビのことが真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか?。昔は、「はんにゃ」と言えば、「般若の面」を思い浮かべる人が大半だったでしょう。
「いやいや、はんにゃとは、仏教語で般若・・・のことですよ。般若心経とかあるでしょ」
と言う方は少数派だったと思います。あ、今でもそういう方は少数派かな。
そう、般若・・・はんにゃ・・・は、まぎれもなく仏教語です。仏教の言葉から般若面になり、はんにゃという漫才師のコンビ名になったのですね。
あ、そういえば、イヤなことを思い出しました。高校時代の生徒指導の先生の名前が「般若」でしたねぇ。よく・・・ではないのですが、お世話になりましたな。あ〜、やだやだ。

さて、般若。まぎれもなく仏教語なんですが、これは元々はサンスクリット語の音写です。なので、漢字自体には意味はありません。
サンスクリット語と言いましたが、正確にはサンスクリット語ではなく、昔のインドの民衆の言葉であったプラークリット語の音写です。サンスクリット語ではプラジュニャーといい、プラークリット語ではパンニャーといいます(古代インドの言葉にはいろいろあります。サンスクリット語はバラモンや貴族階級が主に使用した言葉です。庶民はプラークリット語や経典が書かれ始めたころに成立したパーリ語が中心だったそうです)。
まあ、いずれにせよ、漢字自体には意味はないのですよ。外来語・・・ですね。
般若の本来の意味は、どういう意味かと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
<般若>
さとりを得る真実の智慧。さとりの智慧。真実を見る智慧の眼。存在のすべてを全体的に把握するにいたる。
とあります。意味は簡単なのです。「真実の智慧」という意味なのですから。

が、これが実は難しいんですね。智慧じゃないんですよ。真実の智慧なのですから。じゃあ、真実の智慧ってどんな智慧なの?って聞かれたら、答えに困ります。普通の智慧とどう違うの?と聞かれても説明ができないでしょう。
いや、説明はできるかもしれません。そう普通の智慧は、よく考えた結果、最適な方法を見つけるような、そんな考えのことを一般には智慧というのでしょう。ちなみに国語辞典で一般的な意味での智慧を調べますと
「物事の理非・善悪をさとり、判断・処理をよくなしうる心の働き。道理を察知・思慮して、うまく対処できる能力」
とあります。まあ、表現は難しいですが、言わんとしていることはわかりますよね。確かにそうだね、と思います。
では、真実の智慧とはどんな智慧なのでしょうか?。
これが言葉で説明しようとすると難しいんですね。否、表面上の説明はできますよ。真実の智慧なのですから、悟りを得た者の智慧、といえばいいのですから。でもそれがどんなものか、と問われれば、説明のしようがありません。悟ってませんから。あえていえば、そうですね、先ほどの一般的な意味での智慧の解釈を借りて説明してみましょう。
一般的な智慧の意味は、「物事の理非・善悪をさとり、判断・処理をよくなしうる心の働き」でした。真実の智慧は、この意味の「物事の理非・善悪をさとり」までのところを土台としているんですよ。で、そのあとの「判断・処理をよくなしうる」がないのです。悟った者は一切平等の世界にいますから、判断するとか、処理するとか、区別するとか、分別するとかがありません。物事の理非・善悪は悟ります。だからといって、その後何かをするわけではありません。一切平等、一切空の世界に心は存在しますので、判断や処理がないのです。
ここが一般的な智慧と真実の智慧の大きな違いといえば、わかりやすいでしょうか?。

いや、たぶん伝わっていないでしょうねぇ。般若の本当の意味を伝えようとして、高僧たちは般若経をまとめました。また、維摩経というお経を編纂しました。さらには、般若心経と言うお経も生まれました。しかし、どれを読んでも、どの経典を学んでも、般若の本当の意味、真実の智慧の本当の意味、その世界はわからないものなのです。否、言葉では表現できるかもしれませんが、じゃあそれはどんな世界か具体的に見せて、教えて、と言われれば、「無理」としか言いようがありません。それは、仏陀にならないとわからない世界なのです。
つまり、真実の智慧は仏陀にならないと、身につかない智慧なのですよ。

たとえば般若心経。簡単にこれを訳しますと、
「観自在菩薩が真実の智慧(般若)の完成(はらみった)について、深く深く瞑想をしていると、一切は空だということがわかった。・・・以下、空の説明・・・・。で、過去・現在・未来の諸々の仏陀は、みんな真実の智慧の完成によって「これ以上ない悟りの世界(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」に至ったのだ。だからこそ、真実の智慧の完成が大事なのだ。そのためにいい言葉・・・真言・・・がある。それは「ぎゃーてい、ぎゃーてい・・・・」
これが般若心経の内容です。少々乱暴ですが、ぶっちゃけた話、こんな内容なんですよ。般若心経は、真実の智慧を完成させるためのお経なのですが、その真実の智慧とは何か、と言うことに関しては説いていません。
「それは一切は空ということでしょ」
と反論される方もいらっしゃるでしょうが、よ〜っく般若心経を読んでみてください。どこに「真実の智慧とは、一切は空ということである」と書いてありますか?。書いてないでしょ。
「観自在菩薩が真実の智慧の完成について深く瞑想をしていた。そしたら、一切は空だとわかった」
とあるだけです。一切は空というのは、真実の智慧の完成の過程で気付いたこと、なんですね。もし、真実の智慧が「一切は空」ということならば、般若心経の後半の部分が変わってしまいます。ましてや、ぎゃーてい、ぎゃーていの部分はいらないでしょ。
「真実の智慧の完成とは、一切は空であると悟ることなのだ」
とい説けば終わることです。一切は空と悟れば、無上の悟りが得られるのだ、と説けばいいのです。それだけでは足りないから、そう書いていないのでしょう。「一切は空」というのは、真実の智慧の完成の中の一部にすぎないんですよ。真実の智慧を身につければ、一切は空ということわかる、ということなのです。あくまでも、「も」なのです。他にもあるんですね。それほど、真実の智慧とは深いことなのですよ。

いや〜、難しいですね、真実の智慧って。まあ、とりあえずは、その中に一切は空ということも含まれていることは分かったと思います。では、他には何が含まれるのか?、と言いますと、まあ、すべて、としか言いようがありません。
「一切は空、といえども現実は不空。現実世界も認めねばならない。だが、実体はない。この世界は仮の世界。真実の世界は精神世界であって、眼には見えない世界。悟った者だけがわかる世界。宇宙そのもの。宇宙の生命そのもの。現実は仮の世界であって、非現実が本来の世界・・・・・」
な〜んてことを言われたって、わからないでしょ。実際にその世界がどんな世界で、あなたに見えるの?と言われたらNOとしか言えません。だって、悟ってないですからね。言葉では言えても、それ以上はわからないんですよ。
それが真実の智慧なのです。般若の正体なのです。どうしても知りたければ、どうしても真実の智慧を身につけたければ、悟ってください。

般若の説明はこのくらいにして、般若にまつわる言葉やそこから派生した言葉について紹介しておきましょう。
@般若の面
能で使われますよね。あの鬼の面です。とても恐ろしい表情なのですが、なぜ般若の面と言うようになったのでしょうか?。般若の本来の意味からすると、あの面の表情は理解できないですよね。
私が聞いた話では、もともとは角など生えていなくて、般若を得ようと・・・・つまり悟りを得ようと・・・苦悩する表情を面にしたらしいです。本来は、悟りに向かって悩み苦しんでいる修行者の表情だったらしいのです。それがいつの間にか、苦悩する表情だけが残り、やがて嫉妬に狂う女の顔になたったり、怒りに燃える女の表現に使われるようになり、角も付け加えられたらしいです。そういう説がある、とのことです。で、名前だけが当初のまま伝わった、ということですね。
般若を得ようとすると苦悩せざるを得ないんですね。だったら悟りを得ようと思わなきゃいいのにね。悟ろう、悟ろうと思い悩んでいるから、悟れないんだと思いますよ。悟ろう、悟り、ということに囚われていては、悟れないでしょう。だから、鬼のようになってしまう・・・のかも知れませんね。

A般若会(はんにゃえ)
大般若会(だいはんにゃえ)というのが正式名です。大般若経典600巻を転読し、無病息災・身体健全・家内安全などを祈願する法会です。うちも今、大般若経典購入のため、寄付金を集めております。ぜひ、御協力のほどお願い申し上げます(ちゃっかり宣伝!)
なので、いずれ(平成25年の予定)、大般若会を行います。その際には、是非御参拝ください(宣伝その2)

B般若菩薩
般若・・・すなわち真実の智慧を象徴する菩薩のことです。般若菩薩に祈れば、般若・・・真実の智慧が身につくかもしれません。

C般若心
はんにゃしんと読みます。真実の智慧を完成したときの精神状態ですね。そのまんま・・・ですな。

D般若湯
はんにゃとう、と読みます。御存知の方はニヤっとしていることでしょう。そう、般若湯とは、いわゆる隠語です。坊さんの世界では、これはお酒のことを意味します。中国は宋代に始まったらしいです。日本では主に禅宗の僧侶の間で広まり、全宗派で通じるようになりました。
出家者は飲酒が禁止されています。そういえば、在家の五つの戒律でも飲酒は禁止されていますね。在家の五戒とは・・・殺生してはいけない、盗んではいけない、性に乱れてはいけない、嘘をついてはいけない、飲酒してはいけない・・・ですから。
仏教では、飲酒は絶対にいけないことなのですよ。
とはいえ、寒い冬の夜など、身体が冷えて眠れないこともあります。そこで、温かく眠れるようにと、熱燗を飲むようになったようです。そもそもは、そこからスタートですね。しかし、お酒を飲むのは憚られます。そこで、
「お酒ではない。般若のさゆ、じゃ」
となったのですね。お酒を飲んでるのじゃないですよ、仏様の智慧の水を温めたものを頂いているのです。智慧がつくように・・・と。ずるい方便ですな。
ま、以後、般若湯と言う名で、僧侶の間でも、堂々とお酒を飲むようになったのです。坊さんも人の子ですな。
ちなみにビールは「麦般若(むぎはんにゃ)」とか「般若麦」と言われてます。
他にもまだあるのですがこのくらいにしておきましょう。難しい話になりますからね。

そうそう、私の高校時代の生徒指導の般若先生(すごい苗字ですよね)。その名前の通り、般若の智慧が少しでもあれば、あんな生徒指導はしなかったんじゃないかな。杓子定規、校則通りのがっちがっちの指導じゃぁ、誰もついては来ないですからね。嫌われても仕方がないでしょう。もう少し、智慧があったらよかったのに、と偉そうに言いたくなってしまうのは、痛い目にあったから?。それはナイショです。
合掌。


90.無心
「うちの孫は金の無心ばかりして、困ったもんじゃ」
「またアイツが金の無心に来た」
という会話を聞いたことがあると思います。金品をたかることを「無心する」といいますよね。しかし、この言葉、よく考えるとおかしくありませんか?。なぜ、金品をたかることが「心を無にする」ことなのでしょうか?。
「心を無にする」といえば、なんだか仏教語のような感じがしますよね。あるいは、武道系の言葉・・・か。となると、それは本来、いい言葉だったんじゃないでしょうか?。
日常で見かける、耳にする言葉で、ふとこのような疑問に行きあたると、「あ、こんなところに仏教語らしき言葉が」と気付いたりするんですね。こういう気付きが大事なんでしょうね(と、脳科学の学者さんも言ってますよね)。
ということで、今回は「無心」です。無心も元は仏教語だったんですよ。

無心は、一般的には「金品をねだる」という時に使いますよね。一応、国語辞典で「無心」を調べてみましょう。
@心に邪念のないこと。無邪気。
A意図のないこと。
B図々しく金品をねだること。
C中心がないこと。
となっています。この中で、Cは数学用語だそうです。二次曲線のような、中心がないことを言うのだそうです。
さてさて、本来の無心は、心に邪念のないことでした。これは、そのまま仏教的な言葉につながっています。となれば、元をたどれば、無心が仏教語らしいということは、わかりますよね。で、いつもの仏教語大辞典の登場です。それによりますと、
@心のはたらきのないこと。
A無想定(むそうじょう)および滅尽定(めつじんじょう)に入った者。
B無心の者の意。
C一切の邪念をなくした心の状態。
D聖・凡を離れること。心識がないことではなく、心そのものが不可得であることをいう。
E本性を失った状態。乱心に同じ。
とあります。少々難しい内容もありますので、説明いたしましょう。

無心とは、そもそも般若経系の経典に多く出てくる言葉です。ですので、宗派的にいえば禅宗が主に用いる言葉でもありますね。つまり、「心が無である状態」のことです。これが@やAの意味になります。
禅では、心に何もない状態を理想とします。無ということにもこだわらない、と言う状態を求め座禅をするのですね。その状態は、言葉では表現のしようがない状態です。それをあえて、無とか空とかと言う言葉で表現したのです。そもそも禅定で到達し得る究極の状態は、言葉など越えてしまっているのですから、言葉による表現は無理なのです。それをあえて表現したのが「無心」となるわけです。
なお、Aの無想定は一切の心の活動作用を休めた状態、止めた状態です。滅尽定は一切の心の働きがすべて尽きてしまった状態のことです。無想定よりも滅尽定の方が、より深い境地ですね。なぜなら、無想定は、心の働きを止めたという意識が残っている状態ですからね。滅尽定は、それさえも無くしてしまった状態なのです。つまり、止めたとか止めないとか、あるとかないとか、そうした対立や働きを超えてしまった状態なのです。
この状態のことを別の表現で表したのが、Dですね。
Dは、悟りとか悟っていないとか、そうした状態を超えた状態のこと、と言う意味です。「心識がないことではない」というのは、「心の働きがないというのではなく、それを意識しない状態にある」という意味です。心の働きを意識するものではなく、かつ、心が働いていないのでもなく、かつ、心が働いていないことを意識するものでもない、そうした状態になれば、心そのものを獲得するとか、何かを得るとか、心を支配するとか、心をコントロールするとか、そういった状態から解放されるのですね。それが「心は不可得なり」なのです。
あぁ、難しいですね。「無心」とは、そのような(どのような?・・・解説できないですね)状態のことなのです。

以上のように「無心」とは、言葉では説明できないのですが、簡単に言えば、それは悟りの状態で、一切から解放された状態にあることは間違いはないでしょう(正確にいえば、これも間違った表現なのですが・・・)。
が、なぜか唯識学では、心の状態として、別の意味の無心をあげています。それが、仏教語大辞典の説明にあったEの意味です。Eは、唯識学の中に出てくる「無心」なのです。
唯識学とは、心の状態や意識を事細かく分析した学問です。一種の心理学ですね。で、その中に、心の状態の中に「無心」という「心が乱れた状態、本性を見失った状態」の心があると示しているんですね。つまり、人間が本来持っている正しい性質(本性)を失い、心が人間らしからぬように乱れてしまった状態を「無心」というのだそうです。簡単に言えば、「殿がご乱心だ!」という、アレです。

人間が、「善悪の判断、やっていいことかどうかの判断、その状況においてとっていい行動かどうかの判断」ができなくなった状態が乱心ですよね。唯識学では、それを「無心」と言ったのだそうです。
どうも、現代で使われている「無心」の意味は、この辺りにヒントがあるようですね。すなわち、乱心です。
金品をねだったり、たかったりすることは、決して褒められたことではありません。むしろ、嫌われること、敬遠されることですよね。
「また金の無心に来たのか!」
と怒鳴られたので、かっとなって祖父(祖母、父、母でもよい)を殺しました・・・・。
などという事件があったりもします。そんなことをできるなんて、心が乱れている、としか言いようがありません。正しいかどうかが判断できなくなっているんですね。ご乱心なのです。
この乱心した状態を意味する「無心」の方が、庶民に多く使われるようになったのでしょう。禅語としての「無心」は解釈が難しいですからね。

それともうひとつ。「無心」には「無邪気」という意味もあります。仏教語大辞典の意味のCがこれに当たります。一切の邪念を無くした状態、ですね。一切の邪念を無くした状態は「無邪気」な状態です。子供は、邪念がありませんから、「無邪気だ」といったのですが、本来「無邪気」は、「一切の邪気、邪念がない心の状態」を意味しているのです。
で、子供が親に金品をせびるとき、とても「無邪気」な時がありますよね。子供が小さいときなどは、邪念・・・悪気・・・がなく、本当に純粋に欲しいものがあるから親にせびります。つまり、「無邪気に」お金をせびる・・・「無心に」お金をせびる・・・となっていったのではないかとも推測されますね。無心にお金をせびることから、金品をたかることを「無心する」というようになったのではないかとも思われます。
大人になった子供が、年老いた親に金品を無心するのは、とても「無邪気」とはいえず、邪気だらけなんですけどね。

さてはて、とんでもなく不景気な昨今。就職もままならず、未だに親や祖父母に頼って生活をしている20代、30代、はては40代以上のオトナもいます。いつまでも親や祖父母に金品を無心して生きているんですね。養ってくれる人がいなくなったら、いったいどうするんでしょうねぇ。何でもいいから働けばいいのにね。
尤も、国だって、政治家だって、消費税を上げようなどと言って、国民にお金を無心していますからね。まったく、自分たちでなんとかしようとは思わないのでしょうか?。
そのうちに日本という国は、「無心国家」となってしまうのではないでしょうか?。いい加減、何党だ、党首は誰だ、派閥がどうの、といったくだらない争いを超越して、本来の意味の無心になって、国のことを考えて欲しいですよね。「無心するな!、無心になれ!、国を率いる者よ!」ですよね。
合掌。


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