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91.天邪鬼 これを仏教語としてよいものか、と迷いましたが、仏教にも関連しているので、とりあえず仏教語としてお話いたしましょう。 天邪鬼・・・あまのじゃく・・・です。誰もが御存知でしょう。 「あいつは、本当に天邪鬼だから」 などと言いますよね。あなたの周りにも一人や二人はいるんじゃないでしょうか、天邪鬼。やたらと、何事にも反対したり、まぜっかえしたり、逆らったり、わざわざ嫌われるようなことを言ったり・・・・。素直でない、意地の悪い、嫌みなヤツ、それが天邪鬼と言われる人ですよね。本当は素直になりたいのだけど、本当は仲間になりたいのだけど、ついつい意地を張ってしまって、逆らってみたくなる・・・。ちょっとかわいそうな、そんな人なんですね、天邪鬼な人って。 しかし、それは「天邪鬼な人」であって天邪鬼そのものではありません。今回は、天邪鬼そのものについての話です。本来の天邪鬼を追ってみましょう。 仏教語大辞典には天邪鬼とは次のように説いてあります。 @毘沙門天が腹部につけている鬼面の名。本名は河伯(かはく)面・河伯。ともに水神の名。 A後に毘沙門天が足下に踏む二鬼をあまのじゃくと名付けた。 B一般には人の意に逆らう邪鬼とされる。 Cわざと人の言行に逆らう人。 これを見て、ちょっと驚きました。私は、仏像の授業などで「毘沙門天が踏んでいるのは天邪鬼である」と習っていたのですが、なんとそれは後付けなんですねぇ。いや、驚きです。 で、もっと驚いたのは、もともとは毘沙門天が腰につけている鬼の面だというじゃないですか。いやはや、知りませんでしたねぇ。 毘沙門天は、確かに腰に鬼の面をぶら下げています。あるいは、腰帯に鬼の面をつけています。こうしたことは、他の仏像でもたまに見られます。たとえば、グンダリ明王は髑髏を下げていますし、深沙大将も腰に髑髏を下げています。なぜそのようなアクセサリーをつけているのかと言えば、それはいわば戦利品ですね。悪者、魔神、魔者を退治して、その髑髏を戦利品として身につけているわけですな。趣味が悪いと言えばそうなのですが、現代でも髑髏のTシャツを着たり、アクセサリーを身につけている若者(オジサンやオバサンもいますが)がいるでしょ。仏像が造られた時代にも、そうした意識があったのでしょうね。強く見せることが重要だったので、髑髏をぶら下げたり、鬼の面をぶら下げたりしたわけです。ちなみに、もともと、お面は生のデスマスクですからね。顔の皮をはいだモノが原型ですからね。おぉ怖い。 毘沙門天のぶら下げている鬼の面、この鬼の面が天邪鬼、だというのですな。つまり、天邪鬼の顔の皮なんですね。それを日干ししたモノ。おぉ、気味が悪い。ところで、さらに驚くことがここであるんですね。なんと、その鬼の面は、天邪鬼と言うけれども、本当は「河伯(かはく、かわはく)」だというんですね。 「河伯」ってご存知?。知っている人は知っています。なんと、「河伯」とは、「カッパ」のことなんですよ。いや〜、どこでどう間違ったのか。いや、どこかで混同されたのか・・・・。 おそらくは、毘沙門天の像が完成されたのは中国でのことでしょう。「河伯」とは中国の古い水神のことだそうですから、つまり、毘沙門天は、中国にもともといた水神である河伯を退治したのでしょう。で、戦利品として河伯の顔をはいで、面としたのですね。このあたりは、如何にも当時の中国らしいです。惨忍ですな。 で、そうした背景を持った毘沙門天像が日本に伝わりますな。もちろん、河伯の話も伝わります。水神「河伯」ですね。 日本には古来より川にはカッパが住むという伝説があります。これは実に全国各地にあります。多少名前や呼称は変っていても、おおよその姿形は同じで、やることも一緒。出会うと「相撲をしよう、一緒に遊ぼう」などと寄ってくるのですが、これが素直じゃない。みんなとケンカをしてしまう。逆らったり、意地をはったり、意地悪をしたり・・・。挙句の果てには、カッパの言うことを聞かないと「しりこだま」を抜かれたりします。悪いヤツなんですな。人間にとっては、怖い存在なんです。 おそらくは、中国の河伯と性格が似ていたんでしょうね。で、日本では河伯といえばカッパと同じ、となっていったのでしょう。 それにしても・・・・、そういうことならば・・・・・、毘沙門天が踏みつけているのは、天邪鬼なんだけども、実はカッパでもある、ということなんですね。しかし、河伯はカッパですが、天邪鬼はカッパではありません。どこかで別モノになっていったのでしょうね。 ところで、なぜ河伯が天邪鬼と呼ばれるようになったのか?。カッパでいいじゃないか、とも思いますよね。でも、天邪鬼と呼ばれるようになるには、理由があるんですよ。 河伯は、別名「あまんじゃく」ともいったそうです。字は「海若」と書いたそうです。「あまんじゃく」がやがて「あまのじゃく」となり、「天の邪鬼」と書くようになったのだそうです。 これが一説。 別の古い書物には、海の神で人の意に逆らう「天逆海(あまのざこ)」がモデルで天邪鬼になった、という説もあります。で、毘沙門天が踏みつけている河伯の名の海若(あまんじゃく)と混同されるようになり、毘沙門天が踏みつけているのは天邪鬼、となったわけですね。 いずれにせよ、神代の時代に出来上がった話ですね。当然ながら、こうした内容は中国の影響を受けています。 見事な神仏混交ですね。昔は、仏教も神道もごちゃ混ぜだったんですよ。さらに、ここに日本独自の民族性が絡んでくるから、大変ややこしい話になったり、独自の発展をすることになるんですな。 その証拠と言うか、例というか、なんと天邪鬼は、妖怪の中にもその名を連ねるのですよ。神から妖怪・・・・恐るべし存在感の天邪鬼ですね。 日本妖怪事典(村上健司編、角川書店)に、ちゃ〜んと「天邪鬼」の名があるんですね。そこには 「昔話や伝説の他、神話や仏教説話などにも登場する小鬼のような妖怪」 とあります。さらに 「寺門も仁王像や毘沙門天の像に踏みつけられている小鬼も天邪鬼とされる」 とあります。もっと詳しく知りたい方は、日本妖怪事典を読んでみてください。 さてさて、どっちが先か・・・・妖怪が先か神仏が先か・・・・それは今となってはわかりません。どっちが先でもいいのですが、おそらくは似たような存在が、妖怪にも神仏にもあったのでしょう。妖怪は日本古来の民話の中から生まれてますし、神仏の中の話も、その土地土地の伝説の影響を強く受けていることがよくあります。仏教の多くは、インドや中国の民話や伝説の影響を強く含んでいますからね。 ともあれ、天邪鬼は、実に興味深い存在で、インド・中国・日本の伝説をうまい具合に調和した存在でもあるのですね。仏教・神道・民話をつないでいる大事な存在なのです。 ということは、天邪鬼は、実は貴重で重要な存在であり、本当はとってもいいヤツだったりするんですな。 素直になれなくて、ついつい意地を張ってしまい、「天邪鬼だなぁ」と言われる人って、本当は寂しがり屋だったりするんですよね。本心はもっとかまって欲しいから、ついつい逆のことを言ってしまう、あるいは、恥ずかしがりやで照れ屋なんで、ついつい心にもないことを言ってしまったりするんですよね。ただ、素直になれないだけなんですな。 本当は、天邪鬼っていいヤツなんだ、っていうことは、みんな知っています。なので、意地を張らずに、照れたりしないで、恥ずかしがらないで、素直に言えばいいんですよね。 「寂しいから一緒にいたい」 ってね。 毘沙門天が踏みつけているのは、素直になれない、自分を出せない、その原因である「勇気のなさ」なんですよ。 合掌。 92.無事 今年も今月でもうおしまいですね。1年がたつのは早いものです。みなさんはこの1年、どのようでしたでしょうか?。無事に過ごせたでしょうか?。何事も禍なく、平平凡凡と過ごせたのならば、それは感謝した方がいいことなのでしょう。喜び事はなかったかもしれないけれど、禍もなかったのならば、それは喜ぶべきことなのでしょね。何にしろ、無事に1年を過ごせたのならば、それはありがたいことなのです。 と、私たちは、気軽に「無事」という言葉を使っているのですが、この「無事」という言葉には、深〜い深〜い意味が含まれているのですよ。あぁ、ただし、仏教語としてはね。 ということで、今回は「無事」のお話です。 無事と言えば、何事もなく、という意味ですよね。今さら細かいことを言わなくても、みなさんよくご存じだと思います。「何の禍もなく、何の不幸もなく、何の支障もなく」という意味で使います。あるいは、支障はあったけど、命は助かった、というようなときにも「無事」は使いますよね。たとえば、山で遭難して助かった時などには、 「一時はどうなるかと思いましたが、無事に救助されました」 なんて言いますよね。たとえ、怪我などをしていても、命が救われたならば、「無事に」と言っています。「無事」という言葉には、「命は助かっている」という意味もあるのですね。 しかし、仏教で言う「無事」は、その意味だけではないんです。他の意味があるんですよ。それももっと深い意味があるのです。 お馴染みの仏教語大辞典で無事を見てみましょう。 @なすべきわずらいがない。 A障りのないこと。ひっかりのないこと。生まれながらにして仏である人間には、求めるべき仏もなければ歩むべき道もないということ。 B仏道をきわめ尽くして、もはやなすべきことのないこと。 Cわざわいのないこと。 と、あります。なお、仏教では無事のことを「むじ」とも読みます。もちろん、「ぶじ」と読んでも間違いではありません。無事は「むじ・ぶじ」どちらで読んでもOKなのです。 一般的な意味で使う「無事」は、Cにあたりますね。 @は、ちょっと意味がよくわからないかもしれません。これは、「なすべき、煩わしいことがない」という意味であって、それはつまり「無くさねばならない悩まされるもの、煩わしいもの、煩悩・・・がない」という意味です。すなわち「悟りの状態」ですね。無事とは、悟った状態のことを言っているわけです。それを詳しく説明しているのがAでしょう。 Aは、特に禅宗で使われていた意味のようです。これがちょっと難しい内容なんですよね。皆さんもそう思いませんでしたか?。まあ、如何にも禅的な意味かな、とは思いますが。 人間というものは、本来悟った生き物なのです。人には如来になる要素があって、そもそも仏陀と変らないのです。ところが、いろいろな煩悩がまとわりついて、その本来の悟った状態を忘れてしまっているのですね。 で、その本来の悟った状態に戻れば、簡単に人は悟れるのですが、それは難しいんです。いろいろな妨害があるからです。その妨害に、人はついつい負けてしまうんです。そこで妨害に負けなければ悟りを得ることができるのに!、ということはしばしばあることなのですよ。すなわち、悟りを得ることは実は簡単なことで、人間の本来の状態にリセットすればいいだけのことなのです。 ということは、そもそも悟りを得ている人間にとって、仏様にすがるとか、救いを求めるというのはナンセンスな話ですよね。意味がないことです。仏にすがるって、本当は悟っているのに、そんな必要はないだろ、ということですよね。ならば、修行するべき道も当然ありませんよね。そもそも悟っているんですから。何も悟りを求めて修行する必要はないのです。ただ、今はその、そもそも悟っているということに気付いていないだけなのです。気付けば解決するんですから、修行など意味がありません。 簡単にえば、 「そもそも人は悟っているのに(心のうちに悟りを得ているのに)、外に向かって仏様にすがったり、修行を求めても意味がないだろう」 ということなのです。これがAの意味ですね。つまり、無事とは、「そもそも悟っているから、仏様にすがるものもなければ、修行する道もない」ということを意味しているのです。 一言でいえば、無事とは「無」ということなのですね。 人間は、いろいろとごちゃごちゃ考えて、勝手に悩み始めてしまい、勝手に苦しんでいることが多いのですよ。何も考えずに、ただ淡々と生きていけば、悩みなんてないんです。悩む必要なんてないんですね。 実際、私のところにいろいろな悩みを抱えて、いろいろな人が訪れますが、その大半は、悩む必要がないことで悩んでいる方、なんです。勝手に悩みを作っているというか、悩まなくてもいいことで悩んでいる方が多いんですよ。あえて悩みたいのかな、と思うくらいです。人は、好き好んで悩んでいるところがあるんですよね。 「そんなこと、放っておけばいいじゃないか」 なんて言うことは、実はたくさんあるんですよ。で、そうやって、放っておけばいい、関わらなければいい、考えなければいい、自然に任せればいい、と追っていけば、悩みは消えてしまうんですね。 「あぁ、そのまま流れのままに、淡々と生きていけばいいんだ」 と思えるようになったら、悟ったも同然です。苦のない世界に入れます。 で、思うんですね。 「な〜んだ、簡単じゃないか」 と。そう、簡単なことなんです。だって、人は本来悟りを得ているのですから。 「あ〜、何を言っているのか、さ〜っぱりわからん」 と思った方、正常です。わからなくていいんです。 「なるほど、そうか」 と思った方は、あとは簡単。淡々と生きるようにすればいいんですから。そうすれば、無事に無事の世界へ行けます。 大事なのは、考えすぎないこと。なるようにしかならない、なるようになっていく、と思うことですね。何事も、何があっても、すーっと済ませておけるようになればいいんです。そうなれば、「無事」になるのですよ。 「そこが難しいんです」 と言われそうですが、まあ、思い次第ですから、それもね。こだわらず、スーッと流せる、これが無事に過ごす方法なんですよね。 無事という言葉には、こうした意味があるんですよ。 さてさて、ちーっとも無事でない我が国。経済も、政治も、官僚も、ちーっとも無事ではありませんね。つまらないことにこだわって、つまらないことで悩んで、つまらない意地や見栄を張って、ちーっとも前に進んでいない。なんともはや、今年も無事には終わらないこの国に、いったいいつになたっら無事がやってくるのでしょうかねぇ。 満身創痍の日本は、もうイヤですね。早く、日本の無事な姿がみたいですね。 合掌。 93.まんじゅう 皆さま、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく願いたします。合掌。 お正月ですね。で、お正月らしい仏教関係の言葉はないかなと考えていましたところ、そうそう「まんじゅう」があるじゃないかと思いまして、今回の仏教語は「まんじゅう」にあいなりました。 「まんじゅう」のどこが仏教語なのか! と叱られそうですが・・・・あぁ、そうですね、正確には仏教語ではないですね。インド伝来の言葉、仏教とともに入ってきた言葉、と言った方がいいでしょうか。そのほうが正確ですね。 でもまあ、たまにはこういう言葉もいいんじゃないかな、と・・・・。正月ですし。そのあたりは、どうぞご勘弁を・・・。 拙著をお読みになった方は、もう御存知だと思います。はい、拙著にも書いてあります。「まんじゅう」の意味は。なので、「手抜き?」と思われるかも知れませんが、それもどうぞお許しのほどを・・・。年末年始、いろいろと忙しいものですから・・・・。 と、まあ、くだらない話はさておきまして、本題に入ります。 「まんじゅう」 漢字で書くと「饅頭」となるそうです。一般の説には、まんじゅうは中国の饅頭が日本に伝わって現在に至る・・・ということになっています。語源辞典などをみても、「まんじゅう」の語源は中国の饅頭にある、と書いてあるようですね。 そう、どこにも「まんじゅう」にインドが、仏教が、絡んであるとは書いてありません。ですので、「まんじゅう」の語源はインドにあるという説は、実はあまり支持されてはいないようです。 が、これを読めば、あなたも「まんじゅうインド伝来説」に賛同すること間違いなし!、でしょう。まんじゅうの本来の意味がわかるのですよ。 「まんじゅう」というのは、日本語的発音です。本来の発音は「まんじゅ」です。「まんじゅ」と声にだして読んでみてください。仏教関係の言葉で似たような発音をする言葉に思い至りませんか?。ほらほら、有名な菩薩の名前です。気がつきましたか?。 そう、「文殊菩薩」の名前です。「もんじゅ菩薩」の「もんじゅ」、「まんじゅ」に似ていると思いません?。 似ているも何も実は、語源が同じなのです。「もんじゅ」も「まんじゅ」も同じ語源、インドの言葉「マンジュ」にあるのです。 それは私が高野山大学で学んでいた時のことです。「般若心経秘鍵(ひけん)」という、お大師様が書かれた般若心経の秘密を説き明かした書があります。その授業のときでした。教授はホリカンさん(故人です。えー、申し訳ないのですが、正しい名前を忘れてしまいました。あだ名だけ思い出しました・・・。誠に失礼なのですが、御容赦ください)でした。 その「般若心経秘鍵」は「文殊の利剣はよく諸戯を絶つ」という言葉から始まります。ちなみに意味は、「文殊菩薩の鋭利な智慧は、くだらない議論や意味のない教えや言葉を切り捨てる」という意味ですね。文殊菩薩にかかれば、バカげた話など一刀両断、というわけです。 で、その文殊菩薩の話になり、ホリカンさんが言うには、 「文殊菩薩の文殊とは、インドはサンスクリット語の『マンジュ』のことだ。『マンジュ』とは本来の意味は『やわらかい』という意味だ。つまり文殊菩薩は『やわらかい智慧を持った菩薩』という意味になる。文殊菩薩は正しく言えば『マンジュシリーボーディーサットバ』という。『文殊師利菩薩』と漢字をあてる。意味は『やわらかい智慧を持った吉祥をもたらす菩薩』と意味だね。 そうそう、ちなみに世間で食べている『おまんじゅう』も語源は同じだ。あれは『やわらかい食べ物』という意味でサンスクリット語の『マンジュー』という言葉があてられたんだな。しかも本来は、目出たいとき、吉祥な時に食べるものだ。つまりは『マンジュー』は『シリー』な時に食べるものなのだ。わかりますか?。そう、文殊師利菩薩と同じだね。おまんじゅうは文殊師利菩薩と同じ名前なのだよ。みなさん、みなさんは、これからお坊さんになって、おまんじゅうを頂く機会が増えてくるでしょう。そういうとき、文殊菩薩の智慧を頂くのだ、と思っておまんじゅうを食べてください。そうすれば、少しは賢くなるでしょう」 ということだったのです。そう、おまんじゅうは文殊菩薩だったのです。 文殊菩薩の正式名は、文殊師利菩薩です。サンスクリット語の「マンジュシリーボーディーサットバ」を音写したものですね。意味はホリカンさんが教えてくれた通りです。 一方、おまんじゅうももともとの意味は「やわらかい食べ物」なんだそうです。マンジューという食べ物がインドにあったのですね。それが中国に渡り、饅頭になりました。いつしか、元の意味は忘れられ、発音だけが残ったのです。つまり、中国の饅頭(まんとう)も実は、サンスクリット語の音写だったわけです。元は、インドだったんですね。 それが、仏教伝来とともに日本に伝わったわけです。文殊菩薩とともにまんじゅうが日本に伝わったのです。語源は同じでも、全く違うものが、ね。 しかし、ここで大事なのは、ホリカンさんの教えですね。まんじゅうを頂くときは、文殊菩薩を頂くと思え・・・・。 いい言葉ですな。やわらかいまんじゅうを頂いて、 「あぁ、これで文殊菩薩の智慧も頂いているのだなぁ。少しは、頭を柔らかくしなきゃなぁ。柔らか頭で物事を考えなければなぁ。少しは賢くなったかしらん」 などと思うことが大事なのですな。ただ、ばかすかまんじゅうを食べればいいってもんじゃないのですよ。 お正月です。お餅もいいですが、極上のおまんじゅうもいいですよね。熱くてしぶ〜いお茶に、綺麗な色とりどりのおまんじゅう。最高ですね。 お正月気分を味わいながら、まんじゅうを一口。熱いお茶など飲んで、 「う〜ん、今年こそは文殊菩薩の智慧を頂いて、少しは柔軟性をもとうかな」 などと新年に思うのもいいのではないでしょうか。 文殊菩薩の智慧。それは、頑固に我を通さず、周囲のことにも気を配り、全体を眺めて最も良い方法を見出す智慧です。それが身につけば、あなたは周囲から頼りにされ、尊敬されること間違いなし。 それに、今年はウサギ年。ウサギ年の守り本尊は文殊菩薩です。いや〜、まんじゅうを頂くのに、こんなにふさわしい年はありませんね。 今年こそは、柔軟な思考を身につけて、人間関係も仕事も安楽に行きたいですね。 さぁ、みなさん、まんじゅうを食べて、文殊菩薩の智慧を身につけましょう。 特にカンさんとか、センゴクさんとか、オザワさんとか、そっちのほうの皆さん。国民のことをもっと理解でき、国民のために使うことができる智慧を身につけてくださいね。 えっ?、彼らがそういう智慧を身につけるには、まんじゅうが何億個も必要だって?。 そりゃあ、彼らはきっと言うだろうねぇ、「まんじゅうコワイ」って。 お粗末でした、ちゃんちゃん。 合掌。 94.説教 「説教してやってください」 うちのHPで新たに始めた「必殺!、説教人」に届くメールには、そう書かれています。もちろん、「説教して欲しいことがあったらメールをください」と書いてありますので、当然なんですが。 まあ、しかし、そのコーナー、説教ばかりの内容ですから、ウザイと言えばウザイかもしれません。説教される側からすれば、 「うるせぇんだよ、この説教じじいがぁ!」 となるかもしれません。関係なく読んでいる方には、「まったくその通り」という内容だとは思いますが・・・。 そういえば、昔は何かと説教をかますオジサンがいました。悪さをする子供たちに 「こらー、お前ら!、そんなことをしちゃいかん」 と怒鳴られ、説教が始まるんですね。これが結構長かったりするんですな。子供たちは途中から聞いちゃいません。それどころか、くすくす笑い出します。で、また「こらー、聞いとるのか」と怒鳴られます。あぁ、なつかしき昭和の説教ジジイですなぁ・・・・。 この「説教」ですが、「教えを説く」と書きます。そこからもわかるように、そもそも仏教語なんですね。それがいつの間にやら、くどくど怒る時に使う言葉になってしまいました。いつのまにやら、ありがたい言葉が、ウザイと言われる言葉になってしまったんですねぇ。困ったものです。 で、今回は、説教のそもそもの意味をみなさんに知ってもらおうと思います。 「また上司の説教が始まった・・・・」 今では、説教と言えばこのように、少々嘲るような意味合いで使いますよね。小馬鹿にしたような言い方をします。先ほどの説教ジジイもそうですね。決して説教をしてくれるありがたいオジサン、という意味では使っていません。どちらかというと、「うんざりだ」という思いを込めて使う言葉です。 しかし、そもそもは、「教えを説く」という意味です。どういう教えかと言えば、仏様の教え、仏教のことです。 お馴染みの仏教語大辞典(最近復刻されましたよね。流行っているんですかねぇ、仏教語。その割には、私の本、売れないんですよねぇ、悲)で、みてみましょう。 「説教」 説経とも書き、法説・法談・談義・唱導・勧化ともいう。教えや経典の内容を解説して人々を教化すること。 とあります。 説経とは、お経の内容を説き明かすことですね。それは仏教の教えを説くことです。つまり、説教ですね。ですから、本来は、説教でも説経でも同じでした。どちらを書いてもいいわけです。 法説とは、法を説き明かすことです。法とは教えのことですね。なので、教えを説くこと、すなわち説教です。 法談とは、法談義とも言います。法談・談義をあわせた言葉ですね。「説法談義」の略語です。仏教の内容を皆に優しく解き明かすことをいいます。解説と言うよりは、もっと身近に人々に教えを説くことです。座談会のようなもので仏教を説いている状況のことと思ってくださって結構です。ここから、仏教の講談などが生まれています。 もとは、唱導といい、5世紀ころの中国において法会の後に教えを説いたことに由来しています。そのころ、中国では仏教の行事の後、教えを説いたのですね。それ専門のお坊さんもいたそうで、そういうお坊さんのことを「唱導師」といったそうです。そこから、人々が集まったときに教えを説くことを談義・法談義などというようになったのだそうです。 ちなみに、法談義や唱導師は、仏教の講談を生みますが、そのほかに楽曲をつけるようにもなります。琵琶法師がそうですね。 勧化は教化(きょうげ)と同じ意味です。仏教の教えを人々に教え、仏教の考え方、生き方ができるように導くことをいいます。 説教は、もとは説法談義から始まったそうです。説法談義をして教化する・・・・がやがて説教へと変化していったようですね。説法談義も説法、法談義、法談・・・と省略されていってます。略すのが好きなんですね、中国や日本の漢字文化は。で、説教も説法談義から派生した言葉のようですな。 唱導師の役割は、今では「布教師」という職になっています。これはどの宗派にもあります。「布教師」さんとは、その宗派の僧侶で、特に布教の勉強をし、その資格を有した僧侶のことを言います。 ちなみに高野山真言宗にも布教師さんが多数います。布教師さんは、多くの場合、年に一度、自分の寺のある地域以外の地域に行って、布教活動をしなければいけないことになってます。布教師さんも大変です。全国、いろいろな地域に出かけて行って教えを説いてくるのですから、知識はもちろんのこと、人望も必要ですし、体力もいります。 ちなみに、私は布教師の資格はもっていません。なぜなら、とりたくなかったからです。布教師さんになると、言ってはいけない言葉が増えるんですね。自由に言葉を使うことができないんです。言いたいことが言えなくなるんですね。しかも、いろいろな地域に行かねばなりません。それは無理です。なので、布教師の資格を取ることはやめました。私が言いたいことを言わなくなったら・・・・私ではなくなりますからね。 今では、教えを説くという意味の言葉は、「布教」という言葉を使うことが主流です。「説教をする」とはあまり言わないですね。説教師という役もありません。説教と言うと、どうしても上から目線、という感じがしますし、偉そうな・・・という印象があるのも否定できませんよね。 でも、お坊さんって、ときどき在家の人から求められるんですよ。「説教してやってください」とね。 たとえば、親子で寺にやって来て、 「ちょっと御住職さん、うちの息子に説教してやってくださいよ。うちの子ときたら・・・・」 などと頼み込んでくるんですね。こういう光景は、昔も今も変わりませんな。最近では少なくなりましたが・・・。 御住職、親子の話を聞き、説教します。「そんなじゃあダメじゃ」とでも言うのか、教えを説くのかはわかりませんけどね。反対に、親の方が説教されることもありますな。「お前さんの育て方が悪いんじゃ」などとね。 いや、こういう光景は、ほほえましいですな。お寺はこのように、人々が集って、そこで和尚さんが教えを説いたり、説教したりするのがいいんですよね。それがお寺の本来の姿かな、と思います。 しかし、説教されなきゃいけない人物は、今の日本、たくさんいますな。もうたくさんい過ぎて、誰を説教すればいいのかわからないくらいです。まあ、個々の説教は「必殺!説教人」に任せて、ここでは大まかに説教しておきましょう。 貴方達ですよ、日本のかじ取りをしている、あなたたち。いい加減に民の生活のことを考えて行動せんかっ!。自分たちも血を流すことを覚悟せい!。民ばかりに苦を強いるな!、この愚か者がっ! そうやって小気味いい説教をしてくれる御老僧はいないものですかねぇ。昔の禅僧のようにね。そうすれば、少しはこの国もマシになりそうなんですがねぇ・・・・。 合掌。 95.所得 今月は確定申告の時期ですよね。もちろん、関係のない方もいらっしゃいますが、個人所得がある方は、確定申告しなければいけません。私も本の著作権料が・・・微々たるものなんですけどねぇ、はぁ・・・・あるので、申告いたします。貴重な税金、無駄に使って欲しくないですよえねぇ、あんな政治家のためなんかに・・・。 おっと、説教のコーナーではなかったですね。話を戻しましょう。 収入のことを所得ともいますよね。収入があれば、所得税を納めねばなりません。これは国民の義務です。所得があるのに、税金を納めないと脱税という犯罪になります。気をつけないといけません。 さて、この所得という言葉、元々は仏教語だったってご存知でしたか?。そうなんですよ、元は仏教の言葉だったんです。それが一般に取り入れられたんですね。 今回は、所得のお話です。 お馴染みの仏教語大辞典で所得についてみてみましょう。 @獲得。知覚。認識。 A所見・見解のこと。参禅学道によって得た仏法の要諦に関する所見。 B物事を二つに分けて、これを取り、かれを捨てる分別心。 とあります。 @は、そのままですね。所得とは認識の意味で用いていたようです。 Aは、禅で用いられたものです。参禅学道とは、禅寺に通い、あるいは住み込んで、座禅の修行を一心にすることですね。ともかく座禅をして悟りに向かう修行をすることです(言葉にすると正確ではありません。まあ、ともかく座禅すること、です)。その座禅の修行によって、仏教に関し重要なことを得ます。まあ、座禅に通っているうちに「あ、そうか」みたいな境地に至るんですね。で、その時の「あ、そうか」の内容の見解のことを所得といったのです。つまり、座禅をし続けて「あ、そうか」と至った境地、そのとき得た悟りの境地のことを所得と言うんですね。 Bは、善を取り悪を捨てる、と言う意味でもいいです。仏教の修行において、悟りを悟りを得るために「これを取り、かれを捨てる」ということですね。そうした分別する心のことです。本来、仏教は分別するな、と説きます。分別は差別につながるからですね。無分別に絶対的平等があり、悟りの境地があると説きます(あぁ、分別も元は仏教語ですね。じゃあ、次回は分別でいきましょうか。なので、分別・無分別の詳しいことは次回に・・・)。 Bは、その分別によって得たことを示すという意味で所得を使ったわけですね。所得とは、分別によって得たもの、と言う意味です。 日本では、おそらくはAの意味で用いられるのが主流だったと思います。つまり、禅語としての「所得」ですね。平安末期から鎌倉時代以降は禅は大いに発展しますし、武士の台頭により禅の信仰が広まりました。それにより、多くの禅語が民間に意味を変えて使用されることも増えたのです。おそらくは、所得もその一つなのでしょう。 般若心経に「無所得」という言葉が出てきます。般若心経は「空を説いたとお経」と言われています(実際はそれだけではないのですが。もっと重要なことが説かれているんですけどね。詳しくはお経の話の般若心経のページをご覧ください)。その空の境地においては、所得は無いのです。般若心経では「以無所得故」となっています。すなわち、「無所得を以てのゆえに」と言うことですね。つまり、 「何も得ることがないという境地にあるがゆえに」 となるのです。 禅において所得とは、座禅によって得られた境地と先ほど説明いたしました。座禅によって得た見解のことだ、と。しかし、実際には、座禅において得られる境地とは、無所得なのです。なぜなら、座禅を究めれば空の世界に至るからです。いや、空とか空でないとか、そうした区別のない境地に至るのです。それは、所得だとか無所得だとかの区別のない境地ですよね。 つまり、究極の「所得」とは即ち「無所得」でもあるのです。座禅において究極の境地に至ったら、それは所得であって所得でない、所得であって無所得である、という境地なのです。 あぁ、禅の悟りを言葉にするのって、ホント難しいですねぇ。こうであってこうでない、のですから・・・・。 難しい話なって恐縮です。ですが、内容は簡単です。究極の悟りの境地とは、得る所であるけど、そこは何も得るものがない所でもあるのです。つまり、その境地は、空を所得したわけですね。 が、所得したという認識があるうちは、本当の悟りではないのです。無所得を所得した、と言わねばいけないわけです(結局、わけわからないですな)。 とはいえ、究極の悟りに至る前までには、様々な所得があります。小さな「あ、そうか」ですね。それは、誰にでもあることであり、修行しなければ得られないものでもありません。 「あ、そうだったのか」 と思った瞬間、何かを所得しているのです。一つ、また一つ、そう思うたびに、人間は悟りに近付いているのですよ。歩みは鈍いですが・・・・。 しかし、それでも、ぼんやりしているよりは数段早いですね。ですから 「あ、そうか」、「そうだったのか」 と思うことは大事なんですね。 さて、みなさんは何を所得したのでしょうか?。去年1年間において、何を所得しましたか?。人間関係を要領よく生きる方法を所得したのでしょうか?。周囲に対する気配りを所得したのでしょうか?。信仰心を所得したのでしょうか?。 えっ?、何も所得はない?。ほう、無所得を所得された、それは素晴らしいですね。えっ、違う?。収入がない?。あ〜、それは大変だ。就職難ですからねぇ。そういう場合は、国のお偉いさんに言っていただいた方がいいですね。あなたたち、庶民の所得まで持っていって、庶民に無所得を得させようとしているのか!、その心は、如何なるものぞ!とね。 昔の禅僧ならば、将軍にそう言ったんでしょうが、今はねぇ、坊さんも自分の所得に大変ですから。残念なことです。反省・・・ですな。 合掌。 96.事業 前回、「次回は『分別』で」と書きましたが、もう「分別」はお話し終わっているんですね。すっかり忘れておりました。いや〜、面目ないですな。失礼いたしました。お詫び申し上げます。 では、本文へ・・・。合掌。 世の中不景気ですねぇ。就職はないし、モノは売れない。おまけに・・・言い方は不謹慎ですが・・・大震災の影響で、全体的に自粛ムードとなり、景気はさらに悪化。この先、モノが最も売れる東京でも計画停電の影響で、最悪の景気低迷が予測されます。商売屋さんも事業主さんも、皆さん困っていることでしょう。事業繁栄の祈願をしたいのでしょうが、その祈願料を払うお金すら惜しい・・・と言うくらい不景気になりそうです。いや〜、そうなると、私のところのような祈願をするためのお寺や神社は困ったことになってしまいますねぇ。不景気の悪循環に陥りそうです。なんとか、早く対策を立てて欲しいものですね。 事業と言えば、商売と並んで、仕事のことを言いますが、この事業、もとはお経にあった言葉だと、みなさんは御存知でしょうか?。そう、事業は仏教語なんですよ。尤も発音は違いますけどね。仏教語では「じごう」と読みます。 ということで、今回は、世の中の事業大繁栄を願いまして、仏教語の事業のお話をいたしましょう。 一般的に使う事業(じぎょう)の意味は、今さらですが、このようになっています。 @社会的な仕事 A経済的・生産的な業務。実業。 @は、慈善事業などいう言葉に使われる場合ですね。一般的な事業はAのほうですね。同様の言葉の商売は、モノを売る仕事ですね。モノを生産して手広く販売するのが事業になります。あるいは、公共事業などを請け負ったり、モノを造ったりする仕事を請け負うことを事業ともいいますね。説明しようとすると、難しいですね。 では、仏教語の事業(じごう)はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。 @はたらき。しぐさ。仕事。 Aなすべきこと。なすべき仕事。 B職業的活動。 C罪業をつくること。 となっています。 一般的な事業の意味は、Bから派生したのでしょう。お坊さんの仕事をこなすことを事業をするというようになり、それがお寺の仕事を「お寺の事業」と言うようになり、一般に普及していったと思われます。 本来は、仏の働き、仏様や菩薩のなすべき仕事は如何なるものか、という説明に使ったのです。つまり、「仏の事業とは何か」という仏教への問いですね。これが@Aの意味です。 経典に「仏は如何なる働きをするか」という問いがあったとします。そいう場合、原文の漢文では「如何仏事業」となるのです。すなわち、「仏の事業とは何か」ということですね。つまり、仏様は、事業をされていたのです。 もちろん、仏様が何かを生産したり、造ったり、販売していたわけではありません。本来の事業は「はたらき」と言うだけの意味ですから、内容的なことは意味をもっていません。単なる「はたらき」を示すだけです。 では、仏の事業とは何なのでしょうか? 仏様はどんな事業をされるのか?。どんなはたらきをされるのか?。 答えは簡単です。仏様は「衆生を慈悲の目でながめる」というはたらきをしているのです。で、菩薩に 「人々を救ってきなさい」 と命じるのですね。それが仏様のはたらき・・・仏様の事業です。 同様に、菩薩の事業があります。菩薩のはたらきですね。それは如何なるものでしょうか?。 菩薩のはたらきは、もっと直接的ですね。衆生救済ですから。すべての世界・・・・この世だけでなく六道輪廻する世界すべて・・・・で苦を味わっている者たち、苦しみに喘いでいる者たちの助けを呼ぶ声を聞いて、救いに来るのが菩薩のはたらき・・・事業・・・です。菩薩は、「我々の助けてください」という声に応じて、救いの手を差し伸べてくれるのです。 しかし、そうはいっても菩薩が直接手を差し伸べてくれるわけではありません。まれにそういう場合もあります。たとえば、 「助けて!」 と言った瞬間、大きな事故に巻き込まれるはずが、偶然にも怪我ひとつなく救われた・・・・というときですね。これはきっと、菩薩の救いの手なのでしょう。しかし、そうしたことは稀にしかないことです。話にはよく聞きますが、しょっちゅうあることではありません。 では、どのようにして菩薩は人々を救うのか。 それは、人を介して救うのです。人が菩薩の手先となって人を救うのです。多くの場合は、知らず知らずのうちに・・・ですね。知らない間に他人を救うことをしていた・・・・と言う場合があれば、それは救った人はきっと菩薩の手先となって働いた方なのでしょう。知らない間に菩薩の事業を手伝っていたわけです。 菩薩の事業を意識して手伝う仕事もあります。それが僧侶の仕事・・・僧侶の事業・・・ですね。僧侶の事業とは、菩薩の手先となってはたらくことなのです。菩薩は直接手を下せませんから、お坊さんが代わりにはたらくのです。いわば、坊さんは菩薩の事業の代理人、代行業者というわけですね。 ですので、お坊さんは、本来は無欲でなくてはりません。己の私腹を肥やすために事業を行ってはいけません。なんといっても菩薩の事業の代行業者なのですから、菩薩の気持ちをもって仕事をしなければなりませんね。 ところが、どうも昨今のお坊さん、一般で言うところの事業主になっている節がありますな。本来は、無欲で行うはずの事業が、一般的事業・・・利益追求をする事業・・・になってしまっている場合があるのです。いい例が「お葬式事業」です。 高額の戒名料、高額の導師料、高額の墓地永代使用料・・・・。もうこれは、本来のお寺の事業(じごう)・・・菩薩の事業の代行・・・ではなく、普通の事業(じぎょう)になってしまっていますね。適正ではなく、高額になってしまうと、それは「じごう」と読む事業ではなくなってしまうのです。 お寺の事業(じぎょう)は利益追求を目的とはしていません。営利目的ではないのですね。ですから、一般の会社とは区別され、税金も固定資産税が免除されているし、本来の仏教的業務による利潤には課税されないのです。お寺の事業(じぎょう)は菩薩の事業(じごう)、仏様の事業(じごう)の代行業だからなのです。どうも、このことをお坊さんは忘れがち・・・・ですよねぇ。特に大きなお寺さんは、ですね。 事業繁栄といかない最近の世の中。不安定で不景気で不安だらけの世の中です。そんな現世において、いまこそお坊さんが、世の中の好景気を願い、人々の生活の安定を願い、そして平和であるように無償で願い、祈り続けるべきなのでしょう。本来のお坊さんの事業を今こそすべきなのでしょうね。 そう、私たちには祈ることしかできないのですから・・・・。皆さまの健康と平穏な日々をお祈りいたします。 合掌。 97.智慧 人と動物の差は何か?。 などという質問の答えの一つに「人間には智慧がある」というものが、しばしばあげられることがあります。人間は考える智慧を持っている、ということなのでしょうが、まあ、動物の中にも智慧を持っている動物もいますし、意識しない自然の智慧のようなものがあって、外敵から身を守っていることもありますので、「人間には智慧がある」と威張れるようなことではないとは思いますけどね。 まあ、しかし、人間には智慧があることは事実です。そのおかげで、とんでもない過ちを犯すこともあるにはあるのですが・・・・。 さて、この智慧、元は仏教語です。以前、「般若」の項目でも触れましたが、智慧は般若の翻訳語でもあります。他も意味もありますけどね。また、智慧だけでは般若の本当の意味は言い表すことはできていません。ですが、智慧も深い意味がある仏教語なのです。般若との違いも理解していただきたいな、と思います。 なお、先に申し上げておきます。それは 「智慧と知恵は異なる」 ということです。 現代では、智慧も知恵も混同して使用されているようですが、本来は全く意味が違います。国語辞典を見ても、どちらの漢字も使用するように書いてありますが・・・むしろ、智慧は旧字で知恵が一般的なように書いてありますが、本来は別物です。元々は、智慧と知恵は分けて使っていたものです。ちなみに、知恵も仏教伝来の言葉です。元はね。なので、先に知恵の意味を明らかにしておきましょう。 知恵の本来の意味は、仏教語大辞典によりますと、 知恵は人からの恵みを知ること とあります。他人から惠みを受けていることを知る、という意味ですね。現在使われているような、頭を働かせる意味での知恵ではないのです。今使われている知恵の意味は、智慧から発展したものです。文字を智慧から知恵へと簡略化したために、本来の知恵の意味を失ってしまったわけです。大変残念なことです。本来の知恵の意味も、それはそれで大切なことでしょう。否、むしろ、本来の知恵の意味を現代人はよ〜っく知ったほうがいいでしょうね。 「我々は他者からの惠みによって生かされていることを知る」 これは大切なことです。このことを忘れてしまっては、人間はうぬぼれ屋の思い上がりの、醜い生き物になってしまうでしょう。ですので、知恵の意味を知ることも大切なのです。 で、本題の智慧にはいります。智慧のそもそもの意味は、仏教語大辞典によりますと @事物の実相を照らし、惑いを断って、さとりを完成するはたらき。物事を正しくとらえ、真理を見極める認識力。叡智。真実の智慧。 A智と慧。この場合には、慧は、さとりを導くもの、さとりにおいて現れるもの。智は、世の中に向かって発現するもの。差別・相対の世界においてはたらくものである。 B慈悲とともにある阿弥陀仏の智慧。 C通俗的には、かしこさ。 とあります。一般的な意味は、Cですね。賢さです。 般若の訳語としての智慧は@です。Aとあわせて、これが本来の智慧の意味でもあります。つまり、悟りを得るためのはたらき、ですね。 ものごと、世の中の現象を客観的にとらえ、なにごとにもとらわれることなく、あるがまま、そのままを観察し、その結果、様々な迷い・欲・心の作用から解放されるように、己を導くこと自体が「智慧」の本来の意味なのです。 で、般若は、その完成形ですね。悟りに導くのが智慧であり、完全なる悟りを得た段階が般若となるのです。なので、般若は真実の智慧という意味に訳されるのです。智慧は、そこに至るまでの導きおよび表現であるのです。それがAの意味です。 ちょっとわかりにくいですかねぇ。こういうとわかりやすいでしょう。 般若は結果です。真実の智慧という結果なのです。至ったところですね。智慧はそこに行くための手段です。導きなのですね。で、そこに至るまでに、周囲の者に対し、その都度表現します。般若に至るまでの過程において、 「ここまで進んだよ。これはこう考えたほうがいいよ」 というような表現をします。つまり、そのときそのときの状態ですね。で、智慧が深く深くなっていくと、般若に至るわけです。 今、我々は般若に至る過程にあります。様々な経験を重ね、いろいろな教えを学び、どんどん智慧をつけていくのです。智慧のつく度合いや智慧の深さは、人によって異なります。短絡的な考えしかできない浅智慧の者もいれば、ずっとずっと先を見越して深く考える智慧の深い人もいます。そこそこの智慧の人もいます。それは様々です。なぜなら、経験の差や性格の差、才能の差、器の差があるからです。しかし、差はあっても深く思考をするという習慣を身につければ、智慧は深まって行くものです。すなわち、悟りへと近付いていける、ということですね。大切なのは、短絡的に考えずに、深く考える、ということです。 物事を深く考えるとは、何ものにもとらわれず、先入観をもたず、平等に、客観的に、点ではなく流れで思考することです。ですから、思いつきの発言なんて言うのは、深く考えるということから、もっとも遠い所にありますよね。 思いつきや口先だけ、その場限りの言い逃れ、なんていうのは、智慧ではないのです。ですから、そういう発言をする者は、智慧者でもありませんね。 さてさて、今日本は大きな困難に立ち向かっています。震災後の処理ですね。財源がないのです。それだけではありません。原発事故の処理にも手こずっています。こちらもお金がたくさん必要ですし、その地域に住んでいた方たちへの対処も問題となってきます。そして、さらには、電力不足ですね。困った問題が山積です。 今、日本のリーダーたちが無い智慧を絞ってあーだこーだと議論をしています。そんな中で、足を引っ張ろうと企む連中もいます。その場限りの言い逃れで真実を隠そうなんて連中もいれば、先延ばしを考えている者もいるでしょう。中には、 「パチンコと自販機は止めればいい」 などと短絡的な、その場の思いつきとしか思えないような発言をする方もいます。ちょっと考えれば、無理な話だとわかるのにね。パチンコに関わる産業がどれだけあることか。パチンコをやめさせた場合、その背景あるパチンコ関連で働く人々の生活はどうなるのか?。自販機もそう。自販機関連で働く人たちはどうすればいいのか?。そこまで考えて発言しているんでしょうかねぇ。知事に当選したから浮かれているんじゃないかしらん?。節電も平等にやらないと、とんでもないことになりますからね。よくよく智慧を絞って欲しいですね。 私利私欲に走ってないで、皆が智慧を出し合って、よりよい状態にしようと考えないと、この困難を乗り切るのは・・・・大変なんじゃないかな、と思います。 そう思うと、私たちは、いろいろな惠みによって生かされているのだなぁ、と知ることができますね。智慧も大事ですが、知恵も忘れてはいけませんねぇ。 合掌。 98.融通 「そこのところをなんとか・・・ほんのちょっとだけでも融通してもらえないでしょうか?」 世の中不景気ですね。大きな震災もあって、さらには原発事故もあり、節電や自粛によって、益々景気は冷え込んできています。そうなると、小さな会社や飲食店などは、死活問題にまで発展してしまいます。そうです、資金繰りが悪化するんですね。となると、経営者は銀行へと駆けこみますな。銀行がダメならノンバンクへ、ノンバンクがダメなら、親戚や知り合い、同業者に取引先・・・・あちこち駆け回るはめに陥ります。で、冒頭のセリフですね。 「なんとか融通してもらえないでしょうか?」 もう、必死に頭を下げまくりです。で、 「いや〜、うちももういっぱいいっぱいで・・・。なんともならしまへんわぁ。堪忍しておくれやす」 などと断られることの方が多いようです。そうなれば最悪の場合 「くっそ〜、なんて融通のきかんヤツじゃ。あ〜、もう終わりじゃあ〜」 となりますな。融通してもらえなくて、融通のきかないヤツと呪うわけです。そりゃ、当然ですな。融通してくれなかったんですから、融通のきかないヤツに決まっているわけでして・・・。 とまあ、アホらしい話は横においておきまして、この「融通」、元は仏教の言葉なんですね。意味は、今とは全く異なります。 融通を一般の国語辞典で調べますと @滞りなくとおること A金品などを相互の間で流通させること。やりくり B臨機応変に事を処理すること とあります。まあ、みなさんよくご存じのことでしょう。これらの中でもよく使われるのがAとBですね。先に書いたお話の中で、お金を借りようとするときに使った「融通」がA、融通がきかないヤツと呪ったのがBの意味ですね。Bのようないい意味ではありませんが、ほとんど言いがかりなんですが、まあ、融通がきかないと言った場合は、言いがかり的、あるいは小馬鹿にしたような使い方が多いようですね。 ま、いずれにせよ、一般的によく使われる言葉ではあります。 ところが、この「融通」、仏教になると、もっと深い意味になってしまうんですね。というか、元々は、もっと深い意味があったのです。お馴染みの仏教語大辞典で「融通」を見てみましょう。 融通 異なった別々のものが融け合って、障りのないこと。両方が相まって完全となる。 相即相入に同じ。 とあります。というか、これだけです。えっ、意味がよくわからない?。まあ、そうでしょうねぇ・・・。では。 異なった別々のものとは、たとえば悟りと欲望。正反対のもですよね、悟りと欲望は。これがお互いに融け合って、一体化してしまうとします。するとどうなるでしょうか?。 それは、生きたままの仏陀・・・お釈迦様・・・となるのですよ。 仏陀は、本来完全なる悟りを得たので、欲望がありません。ですから、人々を救おうという欲もないのです。自らが得た境地を人々に説こうという欲もありません。完全なる悟りとは、そうしたものです。自分だけが真理の世界にいればいいのです。それ以上の欲もそれ以下の欲もないのです。真理を悟った瞬間に命がなくなってもいいのです。それが完全なる悟りの境地です。 教えを説く、人々を救う、という行為や考えは、欲に基づいています。欲がなければできません。否、欲があるからできることです。教えを説こうという欲、人々を救おうという欲、ですね。で、やがては、仏教の修行者団体である仏教教団が出来上がって行きます。それは、教えを説こう、人々を救おうという欲に従った行動に伴って出来上がったものです。欲がなければ、仏教教団もできなかったでしょう。 つまり、悟りと欲が融通されたとき、この世に生きて教えを説いたお釈迦様が生まれたのです。お釈迦様は、いったんすべての欲を超越し終えた後で、人々を救うという欲だけを取り戻したのですね。で、悟りとその欲を融合させたのです。そうして誕生したのが、生きた姿の仏陀なのですよ。 たとえば、我と無我。これも相対するものです。本来は決して交わることのない両極端の境地です。我が強いときは、「俺が俺が」という顔が飛び出してきます。無我となると、そうした顔がなくなり、生きているんだか死んでいるんだか、空気のようになってしまっています。 「俺が俺が」と我を飛び出させてくるのもうっとうしいですが、無我になってしまうと生きていてもいなくてもどうでもいい存在になり、忘れ去られてしまいます。これ、どちらも仏教の教えには背くものです。よく、仏教では無我になれ、といいますが、完全に無我になってしまったら、存在があってもなくてもいいものになってしまいます。仏教で説く「無我の境地」とは、実際には「我と無我が融通した状態」のことなのですよ。そうでなくては、存在がなくなってしまいますからね。 我を無くしつつ、無我にも偏らない。我と無我がうまく溶け合った状態。それが本来の無我なのです。つまり、「空」の状態ですね。空とは「有る」と「無い」が融通した状態ですからね。 融通とは、二つの極端、二つの異なることが、お互いに融け合って、一体化してしまい、全く別の状態に生まれ変わってしまうことなのです。 もう一つ、密教でお坊さんが印を結び真言を唱え心に仏をイメージするとき、そのとき、お坊さんは即身成仏しています。つまり、人である僧侶が、真理である仏となっているんですね。肉体を持っている人間が、仏と融通することにより、この身このままで仏となっているのです。本来の融通の意味はこうしたことなのですよ。 ちなみに、「相即相入に同じ」の「相即相入」とは、ちょっと難しいのですが、華厳教学にある「一と多の関係」のことです。一即多ですね。「一があって多があり、多があって一がある。而して、一は多であり、多は一である」という思想です。 まあ、簡単に言えば、生命というもの(多)があって一つの地球(一)が成り立っている、地球がなければ生命もない、生命と地球は一体である、という考え方ですね。これは、とても大事な考え方です。ここから発展して、実体と非実体、空と不空、有と無、といった相反する事柄はすべて、お互い無くしては成り立たないという思想が生まれます。こうした反する存在・現象はお互いに融合し、お互いに認めなかればならいものであり、その相反する存在や現象を一つに融け合ってしまった状態が本来の姿である、という思想です。 こうした考え方ができると、一切の差別はなくなります。争い事もなくなります。多があって一が成り立つ。他があって自分が成り立つ。どうですか?。仏教は、自分はもちろん、他も認め、自他の差を設けない思想なのですよ。だから、仏教には争いは起きないのです(歴史上、僧兵などが生まれた時代がありましたが、彼らは仏教をよく理解していなかった者です。本来、仏教思想に争いを生む要素はありません。もう一つ余談です。「鋼の錬金術師」という漫画が「一は全、全は一」というテーマで書かれています。この漫画を読んだとき、「おぉ、禅だ」と思いました。漫画も捨てたものではないですな。) 本来、融通というのは、すべての相反する事柄、存在、現象などが一体化し、融け合って、新しい存在を生んでいくことを言います。その新しい存在は、差別のない完全なるものなのです。融通の本当の意味は、こんなにも深いことだったのですよ。それが・・・・。 金のない者、金のある者。この対立する存在がお互いにうまく融け合って、金を行き来させれば、財産の偏りはないですよね。みな平等です。という発想をもった人がいたんでしょうねぇ。きっと、借金に困った人から相談を受けたお坊さんが思いついたのでしょう。たぶん、禅僧だと思います。一休さんに習ってトンチを利かせたんでしょうなぁ。 で、金を融通せよ・・・・となったのでしょう。金のない者、金のある者、お互いに融け合おうじゃないか、それは融通するといって、仏様の大事な教えじゃ、どうじゃ、お互い両極端の者どうし、融通し合え・・・みたいなことがあったのでしょうねぇ。そこから、お金のやり取りすることを融通するとなったのでしょう。 あるいは、智慧を働かせ、僧と俗や善と悪、我と無我をこだわらず、自由自在に生きた市井の僧侶たち、特に禅僧が至った境地である融通無碍の状態から、機転が利き臨機応変に対応できることを融通というようになったので、お金も自由に動かすことを融通するというようになったのかもしれません。 まあ、いずれにせよ、心や考え方が融通できるようになるのはいいことですね。 さてさて、我が国。 政治家と庶民、この二つはいつまでたっても一つにはなれませんなぁ。政治家は私利私欲に凝り固まり、日本や庶民のことなど忘れてしまっている。庶民は、深く物事を考えず、マスコミに踊らされて右往左往。自分の生活がよくなることしか見えませんな。 これでは本当はいけないんですね。政治家も庶民もお互いに融通しなきゃね。お互いに理解し合い、一体化し、そうして日本をよくしていこうと考えないとね。そのためには、まずは、それぞれの人間が、欲と理想とを融通させることが先決でしょう。我欲と全体の欲を融通させることも大事ですね。 おぉ、この国に足りないのは、融通だったのですな。もっと、お互いに融通し合いましょう。 というわけで私にも、融通してくれ!。何をって?。決まっているじゃないですか。あれですよ、あれ・・・。 合掌。 99.盆 盆・・・・と書けば、盆地・お盆・お盆・・・と連想されますが・・・って、お盆が二つになってしまいましたねぇ。そう、お盆には、意味が二つあります。発音が異なりますけどね。 モノを乗せて運ぶ平らな道具がお盆(オボン)で、平坦な発音ですな。 で、夏になるとやってくるのがお盆(オボン)。こちらは、「ぼ」にアクセントがありますな。 今回は、こちらのオボン・・・お盆・・・のお話です。 毎年夏になるとやってくる風物詩といえば、お盆です。正式に言えば盂蘭盆会(うらぼんえ)ですね。これを略してしまったのが「お盆」です。日本人は昔から言葉を略したがりますねぇ。盂蘭盆会と言えばいいものを「お盆」と短時間に言える方を選んでしまいます。せっかちな性格なんでしょうなぁ。 ま、それはいいとしまして、この盂蘭盆会・・・略してお盆・・・は、当然ながら仏教の言葉です。したがって、誰もがご存じとは思いますが、夏の行事である「お盆」は、疑いの余地もない仏教の行事です。決して町内会や学校の踊りの行事や祭りではありません。お盆と夏祭りをごちゃ混ぜにしてはいけないんですよ。本当はね。 今回は、このところをきっちりお話いたします。 盂蘭盆会・・・通称お盆・・・は、そもそも日本語ではありません。古代インドの言葉ですね。まあ、今でも通じますが。古代インドの言葉で「ウッラバンナー」という言葉があります。それを音写したのが盂蘭盆(うらぼん)ですね。で、その盂蘭盆の法会(ほうえ)なので盂蘭盆会(うらぼんえ)というようになったのですな。つまり、盂蘭盆会は盂蘭盆という集まり、行事という意味ですね。 では、盂蘭盆・・・ウッラバンナーとはどういう意味なのでしょうか?。 実は、この言葉、結構恐ろしい意味なんですよ。 古代インドの言葉、ウッラバンナーとは、「逆さにつるされている人の苦しみ」を表した言葉です。ちょっと意味がわかりにくいですよね。なので、想像してみてください。 あなたは足を縛られて木に吊るされています。その木はとても高く、手を伸ばしても地面には手は届きません。助けももちろんきません。腹筋で身体を持ちあげ、枝にしがみつこうとしても、そんな体力も筋肉もありません。ぶら下げられたまま、なすすべはないのです。さて、徐々に血が頭に下がってきました。この場合は、下がってくるんです。血が上るじゃないですね。頭がくらくらします。ボーっとしてきてやがて鼻血がでます。身体の内臓的なものも下がってきます。口から出てきそうですな。苦しいでしょう、これは。いや、堪えられないでしょうな。すべて白状するから許して、助けてと言いたいくらいでしょう。が、助けはきません。絶望とやがてやってくる死の恐怖と肉体的苦しみに苛まれています。そのときの、その苦しんでいる状況を「ウッラバンナー」というんですよ。 皆さんが、お盆お盆とはしゃいでいるその裏で、本当は怖い盂蘭盆会なんですな・・・・。 さて、何故こんな恐ろしい言葉が、仏教の行事になったのか?。もちろん、それには根拠があります。それは、 「仏説盂蘭盆経」というお経なのですよ。ちょっとそのお経に説かれていることをかいつまんで紹介いたしましょう。 お釈迦様のお弟子さんに神通力第一と言われた目連さんがおります。その目連さんにはとても優しいお母さんがいましたが、先だって亡くなってしまいました。目連さんは、悟りを得ていたので、母親の死は悲しいのですが、その現実を受け入れ、悲しみに泣きくれる様なことはありませんでした。生ある者は死あり、ということをよく理解していたのですね。しかし、その目連さんにも気になることがあります。それは、母親がどこに生まれ変わったか、ということでした。 目連さん、神通力を使って母親がどこに生まれ変わったか探してみますな。 「母はとても優しかったから、たぶん天界だろう」 そう思って天界を覗きますと・・・・母親らしき姿は見当たりませんな。 「まさか地獄?」 と思って今度は地獄で母親を探しますが、地獄にもいません。ホッとした目連さん、次に人間界を探しますな。赤ん坊として生まれ変わっているかもしれない、と思ったのですね。が、母親の生まれ変わりに当たる人間は、やはりいません。 「おかしい・・・母は悟りを得てはいなかったから、生まれ変わらないということはないはずだ・・・・」 そうですな。死んだ者は悟っていない限り、六道を輪廻しますな。否、人だけじゃありません。動物も虫も天界の神々だって、死を迎えたならば、悟りを得たものを除いてすべて六道を輪廻します。なので、目連さんの母親も、必ずどこかに生まれ変わっているはずなんですな。 目連さん焦りますな。戦いの世界である修羅界か?・・・ここにもいませんな。ひょっとして動物か?、虫か?・・・と思い畜生界を見てみますが、そこにもいません。 ここまで来て目連さん、愕然とします。残るはあと一つ。そう餓鬼界ですな。 「ま、まさか・・・あの優しい、美しい母親が・・・餓鬼界なんて・・・信じられない。何かの間違いでは・・・・」 と思い、餓鬼界を覗いてみますってぇと・・・果たしてそこに母親はいたんですな。 身長は60センチほど、頭は毛がまばら、目は飛び出し、口は大きく耳まで裂け、喉は針のように細い。歯などはほぼ抜け落ちた状態ですな。手足は骨と皮だけで、骸骨とあまり変わりがありません。さらに、身体のあちこちが腐敗していますな。そのくせ、腹だけはぷっくらと膨らんでおります。これが餓鬼の姿ですな。 そんな餓鬼たちの中に自分の母親を見つけてしまった目連さん。なんとか救おうとしますな。 餓鬼は、食事がとれません。なので、目連さん、神通力でもって哀れな姿の生まれ変わってしまった母親に食事を与えます。ところが、母親の口に食べ物を入れると、その食べ物は炎になってしまいますな。 「うぎゃ!」 あまりの熱さに母親の口や顔は焼けただれ、母親は転げまわって苦しみますな。やけどで顔の骨が露出してしまいます。こりゃ大変と、今度は目連さん、神通力で水を出します。で、その水を飲ませようとしますな。すると、またしてもその水は炎になってしまいます。目連さんのお母さん、さらに炎の攻撃を受け、のたうちまわりますな。助けようと思ってしたことが、母親をさらに苦しめてしまいました。目連さん、困ってしまいますな。で、お釈迦様に「なぜあの優しい母親が餓鬼に生まれ変わったのか、助けるにはどうしたらいいのか」と救いを求めます。困った時の神頼みならぬお釈迦様、ですな。お釈迦様、目連さんにいいます。 「汝の母親は、汝には優しかったが、ものすごく執着心が強く、他人にはケチだった。他人に施すということは一切しなかった。だから餓鬼に堕ちたのだ。汝の母を救う方法は一つしかない。今は雨季だから、このように精舎に籠っているが、雨季明けの15日には布薩(ふさつ・・・修行者の反省会。毎月1日・15日にあった)がある。雨季明けの布薩は特に大勢の修行者が集まる。これがチャンスだ。その日集まる修行者の食事を汝がすべて用意するのだ。汝が食事をかき集めてきて、布薩に集う修行者すべての食事を接待するのだ。そうすれば、汝の母親は餓鬼界から救われよう」 目連さん、お釈迦様の教えに従い、雨季で精舎に籠っている(これを雨安居・・・うあんご・・・といいます)間に、目連さんを擁護してくれている商人や貴族階級の人たちに、雨季明けの布薩の食事を用意してくれるよう、頼み込みますな。さらに、雨季が明けたら真っ先に托鉢に駆けだします。で、コーサラ国の首都シューラバスティ中を駆けずり回って食事を集めてきますな。 で、いよいよ布薩の日がやってきます。目連さん、集った修行僧に食事を施します。自分が集めた分、商人などに協力してもらった分で、なんとか賄いますな。その数、なんと数千人分。まあ、これは大げさですが、大量の食事を用意したのです。また、修行僧のみならず、精舎に集まってきた人々にも施しをしますな。 その夜のこと。布薩の会もそろそろ終わろうとしたころのこと。目連さんの母親がなんと、天界へと昇っていく姿が見られたんですな。目連さんの母親だけでなく、数え切れないほどの餓鬼が天人へと変化し、天へと昇って行くんですな。これ、すべて修行僧や人々に食事を施した功徳によるものですな。こうして、目連さんの母親が救われた・・・というのが、盂蘭盆経の説くところであります。 で、ウッラバンナーです。逆さ吊りの苦しみ・・・です。このお経のどこにそれが説かれているのか?。 実は、目連さんの母親の苦しみ・・・餓鬼の苦しみですな、これがウッラバンナーなんです。つまり、餓鬼の苦しさは、人間が逆さ吊りにされた状態に匹敵するものだ、というんですな。餓鬼は、口や喉を火で焼かれるのだからもっと苦しいだろう、と思うのですが、いやいやそれがどうして。逆さ吊りにされると、どうやら口や喉を火で焼かれるくらいに苦しいのだそうですよ。経験したことはないですが。それくらい苦しいのだそうです。というか、古代インドでは、逆さ吊りの刑罰があったようで、それは口や喉を火で焼かれるように苦しい、ことなんだそうです。 で、餓鬼の苦しみは、ウッラバンナーに匹敵するので、餓鬼を救うお経を盂蘭盆経というようになったわけですな。そこから、盂蘭盆会という法会が始まったわけです。これがお盆の起源ですな。 ちなみに、盆踊りですが、一説によると、目連さんの母親が昇天するのを目連さんが見て、あまりの嬉しさについつい踊り出してしまい、人々もこれにつられて踊り出してしまったことによる・・・・のだそうです。 また、別の説によれば、もともとあった神への祭祀の一つで、夏に行われる踊りなどが、雨季明けの15日に行われる盂蘭盆会と重なって盆踊りとなった・・・・そうです。どうもこちらの方が信ぴょう性はありますな。 それはともかく、盂蘭盆会は雨季明けの15日に行われるものなんですな。日本で言えば、梅雨が明けて初めての15日というわけです。旧暦の7月15日は、今でいえば、8月15日ころにあたりますな。現代の7月15日では、普通は梅雨明けしていませんからね。なので、お盆は本来は8月15日・・・・旧暦の7月15日・・・・に行う行事なのですよ。 さてさて、お盆=盂蘭盆会=餓鬼を救う、というつながりは御理解いただけたでしょうか?。で、ここで疑問です。 本来は、餓鬼を救う行事だった盂蘭盆会がなにゆえ先祖供養の日になったのか?。 それは、日本独特の仏教の発展が絡んでいるのですよ。 日本の庶民は、過去に何度も飢饉を迎えております。また、食えない人々は多数いました。それは、奈良に都があった以前から、戦後にまでみられた光景でした。飢饉のときなどは、餓死する者も大勢いたのですな。それはまさに餓鬼の姿そのものだったことでしょう。生きた餓鬼が目の前に存在していたのです。 そこで、お坊さんたちは、その餓死者を弔うためにも盂蘭盆会で、その餓死した者の供養を行ったようですな。そもそも盂蘭盆会は餓鬼に施しをする行事。ならば、餓鬼と同じように亡くなってしまった者たちの供養も、盂蘭盆会でできるのではないか、いやいやあの者たちも盂蘭盆会で必ずや天へと昇るであろう、ということですね。 こうして、目に見えない餓鬼だけでなく、餓死してしまった者の供養をも行うようになったわけです。 さらに、盂蘭盆会で施餓鬼をすれば、生きている者も徳が積める、寿命が延びるという話も流布します(もとは、アーナンダが餓鬼に施しをして寿命を延ばしたという故事に由来します)。そこから、一般の人々も盂蘭盆会に参加するようになります。そうした中、自分の先祖にも餓鬼になっている者がいるかもしれない、ということも重なってきます。で、先祖の供養のためにと盂蘭盆会に参加しますな。この時点で、盂蘭盆会は先祖供養に変化しております。 さらに、日本には古来より神々の祭りの行事という習慣がありますな。夏祭りもその一種です。夏になると、農業のお休みの時期になります。また、土木建築も休みになることがあります。そうなると、出稼ぎに行っていた者も故郷に戻ってきますな。故郷に戻って、地元の行事に参加するのですな。生きている者も故郷に戻るのですから、亡くなった先祖もきっと戻ってくるだろう、という思いが、習慣付きますな。習慣は、必然へと変化していきます。 年に一度の里帰りですから、お墓参りも当然しますな。お寺に行けば、盂蘭盆会の行事・・・先祖供養と盆踊り、神社に行けば夏祭り。やがて一つになってしまいます。もともと神社とお寺は一体化していましたからね、日本では。 こうして、日本独特の盂蘭盆会・・・・お盆の行事が誕生したわけです。 毎年お盆の時期になると、企業は休みなります。今年は節電の影響で夏休みが長いそうですが、そうでなくてもお盆の時期・・・8月15日前後・・・は、故郷に戻る人々で道は渋滞、電車は満員・・・という状態になります。夏の風物詩ですな。 しかし、何のために戻るのか、ということを今一度思い出して欲しいですな。習慣だから、昔からそういうことになっているから・・・・ということだけでなく、御先祖に御挨拶をするために戻るのだ、ということをしっかり認識して欲しいですね。 そして、お盆は盆踊りのためでなく、また同窓会を行うためでもなく、盂蘭盆会のためにあるのだ、ということを知って欲しいですね。 今年のお盆は、御先祖様に出会うために故郷に戻って欲しいものです。 合掌。 100.入道 の青い空に似合うもの・・・そう、それは入道雲ですよね。夏の青い空にもくもくと湧いてくるあの雲。いかにも夏らしい雲ですよね。あの入道雲がどんどん大きくなり、青空が鼠色になってきますと、ゴロゴロとカミナリが聞こえてきますな。ザーッと途端に雨が降り出します。たいていは夕方近くですね。なので夕立ともいいますな。夕立が来ますと、そのあとは涼しい風が・・・・。昼間のうだるような暑さが嘘のように引いていきますね。 夏ですなぁ・・・・。 あの入道雲、本当は積乱雲というのが正しいですね。通称入道雲。が、おそらくは入道雲という名称の方が古いでしょう。積乱雲というのは、後から付けた名前ですね。 でも、あのもくもくとした雲を何故入道雲というのでしょうか?。それは入道という言葉に由来しているようです。 入道とは、本来仏教語なのですが、どちらかというと妖怪の名前としての方が知られているのではないでしょうか。「大入道」という名前聞いたことがありませんか?。 ちょっと前に公開されていた妖怪映画「豆富小僧」(原作京極さんなのです!)にも「見越し入道」という妖怪が登場しています(豆富小僧の父親らしい)。昔から、妖怪映画や化けもの話、妖怪漫画などには「○○入道」はたいてい登場しています。 そのためか、入道というと、どちらかというと妖怪をイメージしています・・・って、それは私だけではないと思うのですが・・・・。入道っていうと、なんだかおどろおどろしい、もわもわとした大きな坊主頭の妖怪・・・って感じじゃないですか?。あるいは、なんだか悪い者って感じしません?。 が、それは大きな勘違いなんですな。入道の本来の意味は全く違いますからね。が、しかし、言葉には由来があります。大入道という妖怪の名前も、なぜに大入道というようになったか、その由来がありますな。入道雲も大入道も大元は、「入道」という仏教語なんですねぇ。 お馴染みの仏教語大辞典で「入道」をみてみますと 道に入る、の意。 @禅定に入ること。 A阿羅漢(あらかん)となること B仏道に入ること。出家剃髪すること。仏道修行のために出家すること。または剃髪して仏道に入った人をいう。 C日本では天皇や公卿が晩年になって落飾し、仏門に帰依すること、またその人らの敬称とした。貴人で新たに仏道に入った者。後に仏門に入った武家の称ともなった。また俗家にいるままで剃髪して袈裟をつけ、僧の形をしている人。 とあります。 @の意味はいいですね。A阿羅漢とは、悟りを得たもののことです。ただし、仏陀とは異なります。仏陀の弟子で、出家したもので、悟りを得た者のことを阿羅漢というのです。その悟りは、仏陀のように完全なる悟りではなく、一応悟って欲をコントロールできるようになった・・・程度の悟りですね。 @Aの意味での入道は、日本ではあまり使われません。日本で言う入道は、主にBCです。特にCですね。 有名な入道といえば、平清盛でしょう。清盛入道ともいいますね。清盛は、晩年、長生きをするため、我が世の春が長く続くために出家しました。そう、剃髪して仏道に入ったのです。そのことを入道といいますな。で、清盛は、単なる清盛ではなく、清盛入道になったのですね。一般人と違う、単なる平家の長ではなく、武家でもなく、入道なんですよ。ま、簡単に言ってしまえば、坊さんになったわけです。 (一説によると、清盛は命がなくなるのを恐れて出家したそうです。なぜ命がなくなると思ったのか・・・。それは、清盛の若い時に関わっています。清盛は、ダキニ天と約束をしました。天下を取らせてやる代わりに生き肝を渡すという約束です。清盛は、ダキニ天のお陰で天下を取りますな。平家にあらずんば人にあらず、などとエラソーなことまで言います。しかし、清盛は怖れていました。ダキニ天がいつ己の生き肝を取りに来るのか、ということを。生き肝を取られたら人間は死んでしまいますな。そりゃ怖い。で、仏道に縋るわけです。ダキニ天は仏教に帰依した神。仏教の守り神です。ならば、仏教に縋れば、己も守られるであろう・・・というわけですな。清盛、写経もします。有名な平家納経ですな。高野山にも曼荼羅を納めますな。有名な血曼荼羅です。曼荼羅の朱色には清盛の血が混じってます。で、さらには出家までしますな。が、しかし、約束は約束。誓いは誓い。取引は取引。ダキニ天は清盛の生き肝を頂きに来ます。哀れ清盛は狂い死に・・・・ですな・・・) 話がそれました。もどします。 日本では、入道と言えば、偉い人が出家して剃髪したことを意味しているんですよ。入道=出家者ですね。つまり、入道とは、元は身分の高い人だったお坊さんのことなのです。やがて、入道はすべてのお坊さんに対しても使われるようになったんですね。つまり、 「あいつは、入道だ」 といえば、 「あいつはお坊さんだ」 ということです。すなわち、入道はお坊さんのことなのですよ。 さて、妖怪の入道です。これは、その妖怪を見た人により、その名前が付いたのですね。具体的に言えば、ある人が山の中をあるいていたら、目の前に大きな大きな人が現れたんですな。その人は、お坊さんの格好をしていた。つまり、大きな入道ですね。で、大入道となったわけです。 見越し入道というのは、高い山々の上からお坊さんが見えたので、見越し入道という名前が付いたのです。山々の間に阿弥陀如来が見えれば見越し阿弥陀となるのと同じですね。 坊主じゃダメなのか、と思う方がいると思います。入道じゃなくても坊主でいいじゃないか、とね。実際、○○坊主という妖怪もいるじゃないか、とも思われるでしょう。 が、坊主じゃダメなんです。なぜダメか・・・。 坊主は貧乏くさいんですよ。高尚じゃないんですね。入道は、元は公卿や天皇や武家などの高貴なお方なのです。坊主は、破れ袈裟にボロボロの笠、って感じでしょ。入道は、立派な衣に立派な袈裟・・・なんですよ。座っている姿も堂々として立派ですな。坊主はどうも貧乏くさい。 つまり、堂々として、大きな体格、大きな感じがする場合は、入道になるんですね。反対に、貧乏くさく、惨めでやせっぽちという感じならば、坊主になるのです。 なので、夏の空にもくもくと湧くあの雲も入道雲と呼ばれるんですね。まるで、立派なお坊さんが座禅でもしているような姿に見えたのでしょうな。なので、入道雲なのです。入道という言葉には、大きな、立派な、堂々とした・・・というイメージが付いているんですね。 となれば、今の時代には入道はいないのでしょう。お坊さんは、態度はでかいかもしれませんが、立派ではないですな。立派な風に見えますが、その実は欲の塊だったりもします。 一方、真面目なお坊さんは、貧乏くさいですな。そりゃしょうがないですな。真面目だと金儲けは下手ですからね。なので、貧乏くさくなります まあ、貧乏くさくても、金がなくても、態度や精神だけは堂々としていたいですな。それが本当の入道なのでしょうからね。 そう、夏の空に大きく堂々と現れる、あの雲のようにね・・・・・。 合掌。 101.四天王 少年週刊漫画ジャンプに「トリコ」という漫画が連載されています。その中に、「美食家四天王」という言葉がしばしばでてきます。それを読んでおりまして 「おっ、まだ四天王って言葉、使うんだ」 と思いました。久しく聞かなかったですからね、四天王。今じゃあ、あまり聞かない言葉になってしまった・・・と思っていたのですが、まだ使うんですねぇ。 「○○四天王」 といえば、その世界で特に秀でた代表的な4人を表しています。たとえば、 「○○党の四天王と言えば、・・・氏、・・・氏、・・・氏、・・・氏だ」 のような使い方ですね。似たような言葉には「御三家」とか「三羽ガラス」(こちらは死語か?)というのもあります。まあ、代表的4人の人物を表すの使う言葉が「四天王」ですね。 この四天王、言うまでもなく仏教語ですな。もともとは、諸仏諸菩薩を守護する4人の神のことですね。なぜ4人かと言えば、その神は、四方に配置されるからですね。四方に立って、諸仏諸菩薩を守っているのですな。 四天王。 東には「持国天(じこくてん)」、南には「増長天(ぞうちょうてん)」、西には「広目天(こうもくてん)」、北には「多聞天(たもんてん、毘沙門天の別名)」。 この4名の天部の神が、天界から上の世界を守っております。彼らは、「下天(げてん)」という天界の一番下の世界にいるのです。つまり、天界への入口を守っているのです。 仏教では、天界は須弥山(しゅみせん)の上にある、としています。須弥山とはエベレストをモデルにした目には見えない山のことです。で、その須弥山の中腹より上のあたりに下天があります。ここで、四天王は見張りをしているわけです。ここが天界への入口になるからですね。 四天王は、何から天界を守っているのか・・・。それは、当然「魔」から、ですね。魔物が、天界に入ってこないように、天界の入口のガードを固めているのです。いわば、天界から上の世界へのガードマンですな。 この四天王が、天界への入口に立って、四方に睨みをきかせているので、天界から上には魔物が住んでいないのです。その資格もないのに、頑張って天界へ行こうと思っても、四天王が通してくれないわけです。 四天王には、このような働きがあるのです。 こうしたことから、お寺では・・・・特に密教寺院では・・・・本尊様を守護するために、本尊さんが安置されている壇(これを須弥壇・・・しゅみだん・・・といいます)の四方に四天王を配するところが多いですな。というか、本来は、四方に四天王を配置するべきなのです。本尊さんの守護のためにね。 本尊様は、衆生救済のために日夜働いております。また、本尊様は慈悲の塊です。ですから、魔物にもついつい憐みの心を抱き、救おうとしてしまいます。教え諭そうとします。ところが、全く聞き耳を持たないヤカラもいるのですな。それどころか、本尊様を害しようと狙う魔物もいるのですな。で、本尊様守護、ならびにお寺の守護のために、四方に四天王を配置して、睨みを利かせてもらうのです。いわば、用心棒・ガードマン・ウルトラ警備隊・・・なのですよ。なので、古いお寺には、四天王が四方にいらっしゃるのです。 大阪に四天王寺という有名なお寺がありますね。聖徳太子が建立したという寺です。 その昔、朝廷は物部氏の横暴や反乱に手を焼いておりました。で、聖徳太子が征伐に乗り出します。聖徳太子、誓いを立てますな。 「彼の逆賊・物部氏を成敗した暁には、四天王を祀った寺を建立いたします。四天王よ、何卒、我に力を与えたまえ」 まあ、言葉は正確ではありませんが、このようなことを誓ったのですな。で、見事、物部氏討伐に成功します。聖徳太子、約束通りにお寺を建立します。それが四天王寺ですね。 これより、四天王はメジャーになりますな。それ以前より、四天王は日本に伝わっていたのですが、聖徳太子が四天王寺を建立して以来、四天王の存在は重要な位置を占めるようになったのです。特に武運の守護神として。 さて、今回「四天王」を取り上げましたのは、実は拙寺にも四天王さんがやってきたんですね。すでに、掲示板「虚空庵」にて、写真を掲載しておりますので、ごらんになった方もいらっしゃるでしょう。なかなかよいできの四天王像です。 この四天王像がうちに来たのには、ちょっと不思議なエピソードがあります。 そもそも事の発端は、今年の5月13日のことでした。この日、私は久しぶりに高野山に参拝に行きました。丸一日暇だったので、久しぶりに高野山にでも行くか・・・と思い、一人車で参拝に出かけたんですね。 で、いつものように、奥之院を参拝し、いつものようにそばを食べ、いつものように仏具屋さん兼お土産屋さんによりました。いつも、ここでくつろいでから伽藍の参拝に向かうのです。 で、そのお店でいつもの場所に座ってふと横を見ると、仏像の入ったショウ―ケースに四天王像が並んでいたんですな。思わず一目惚れ。 「これはいい、これはいい四天王像だ、うちの本尊様の左右に配置したらぴったりのサイズだ!・・・・是非、欲しい」 お店の奥様や他の皆さんにしゃべりまくりですな。が、やはりそれなりにお値段がします。なので 「欲しいけど・・・・今は買えない・・・・ちょっと待ってくださいな、できれば年内、待ってくださいな・・・」 と懇願してきました。 で、寺に戻りまして、その数日後のこと。私はよく寺に参拝にこられるある方に 「いい仏像があってね、四天王なんだけど、買ってくれない?。値段は・・・するんだけど・・・」 と冗談ぽく言ってみたんですな。するとその方 「いいっすよ。じゃあ、あぶく銭が入ったら、その仏像、奉納しますよ」 と快諾。というか、その方も仏像が好きなので、「お金があたっら奉納しますよ」という気持ちだったのですな。で、その日、寺を出る際に観音様に 「仏像が奉納できるように、あぶく銭をください」 と祈願していったんですね。同様に、弁天様にも手を合わせていらっしゃいました。 すると、その2週間ほど後のこと・・・・。その方から、「あぶく銭が入りそうなんですよ」と連絡があったんですね。 どうやら、とある商談で余分に儲けられるヒントを得たのだそうです。で、そのヒントを生かし、よく考え商談を進めたところ、その商談はすんなり成立。7月の末には、入金されるとのことだったのです。なんと、その金額が、税務処理やもろもろの手数料などを引きますと、四天王像の値段とほぼ同額。 もうびっくり。驚かない方がおかしいですよねぇ。なんという進み具合。あまりにもスピードが速すぎて、驚きの連続ですな。まさか、まさか、こんなに早くとは・・・・ですよね。 で、8月6日、その方とともに、高野山へ四天王像を受け取りにいってきたのですよ。まさか、お盆までに拙寺に四天王が鎮座ましますなどとは、5月の時点では夢にも思いませんでしたな。もうびっくりです。 もし5月に高野山に行っていなかったら、もし「四天王像買って」などど図々しいことを言わなかったなら、もしその方がヒントを活かさなかったなら・・・・四天王像は、うちには来ていなかったでしょう。 これはまるで「仕組まれたかのような縁」を感じずにはいられませんでした。縁があれば、こんなにもすんなりと、障害もなく、仏様はやってくるんですねぇ。驚きです。感動です。本当に、きっと、これは観音様が、お大師様が、仕組んだことなのでしょう。全く、不思議なこともあるものです。 そうそう、もう一つ不思議なことが・・・・。 私は、何度も車で高野山に行っています。なので、道は迷うことはありません。ありませんが・・・・。 8月6日。奈良県にて、高野山へ行くいつもの道を走っていたのですが、どこでどう間違えたのか、全く違うところへ出てしまいました。で、ともかく戻ろうとナビに従って走ったのですが、ナビが案内した道は、聖徳太子の小道だったのです。 その小道は、聖徳太子ゆかりのお寺や史跡などが点在する地域の道だったのです。本当ならば、歩いて散策するための道なのでしょう。また、その地域をあげて聖徳太子をリスペクトしているようで、至るところに聖徳太子の看板などがありました。交通安全と書かれた、ランドセルをしょった聖徳太子がいたりもしました。そこらじゅう、聖徳太子尽くしの町だったのです。 四天王を迎えるにあたり、聖徳太子に御挨拶を・・・・ということだったのかもしれません。 まあ、しかし、四天王がいらっしゃったということは、ガードマンが必要なくらい、厄介なものがやってくる、魔物がやってくる・・・ということなのでしょうねぇ、きっと。今まで以上の魔物がやってくる、ということなのでしょうなぁ。いやいやいやいや、それはちょっと大変かも。いやはや、気を引き締めないといけませんな。責任重大です。はい、ボサーっとしていないで、修行に励みます。我が精神も鍛えないとね、頑張ります。 合掌。 |
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