えっ?!

こんなところに仏教語!

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110.自業自得
今回は、明らかに仏教語だろうという言葉に戻ります。まあ、ゆるやかにいろいろな言葉を拾っていきます。

「自業自得」・・・若い方でも、普段何気なく使っている言葉ではないでしょうか。「それって、自業自得じゃん」みたいに。いつどこで覚えたのか、明確にはわからないのですが、いつの間にか覚えて使っている言葉ですよね。これは、明らかに元は仏教語なんですよ。仏教の言葉ですね。こういう言葉が、日本人の中に根付いているということは、本来仏教が日本人の生活に根付いている証拠なのです。あまり、仏教を嫌わないで欲しいですな。あ、嫌われているのは、坊さんか。で、仏教がどこかオカルト的なこと、あるいは儀式的な金もうけの手段として誤解されているのですね。まあ、これも坊さんの責任で、まさしく自業自得ですな。
ということで、今回は自業自得についてお話ししましょう。

自業自得と言えば、冒頭にも書いたように、どちらかというと悪い意味で使われることが多いですね。同じような意味を表す言葉として、「身から出た錆」というのもあります。どちらも、
「そのような悪い結果があなたにやってきたのも、元々はあなたの責任でしょ」
という意味で使われる言葉ですね。簡単に言えば、「自分が悪いんじゃん」という意味ですな。どこか、相手を小ばかにしたような言い回しですね。
しかし、本来の「自業自得」は、悪い意味だけの言葉ではありません。いい意味も含んでいたのです。

「自業自得」をおなじみの仏教語大辞典で見てみますと、
@自ら業をつくって自らその果報を受けること。自らつくった善悪の業によって自ら苦楽の果報を受けること。よきにつけ、悪しきにつけ、自分が行った行為の報いを自分が受けること。一般的には特に悪業の報いである苦しみをわが身に受ける場合を言う。
A自分のしでかしたことだから、悪い報いを得てもやむを得ない、ということ。
とあります。
Aのほうが、一般的な意味で使われる「自業自得」ですね。ですが、@を見てもわかるように、本来は、善いことも自業自得と言っていたのです。たとえば、
「善いことをしたから善い結果が生まれたのだ。あの時、善行をしたから、今、楽ができるのだ」
という場合も、「自業自得だね」と言ったのです。が、いつの間にか、Aだけが「自業自得」の意味として使われるようになってしまいました。

「業」の項目でも述べましたが、本来「業」とは「行為」を示す言葉です。行為に善いことも悪いこともそうでないこともあるように、「業」にも「善いこと、悪いこと、そうでないこと」があります。しかし、「業」というと「悪いこと」だけを意味するようになってしまいました。なぜそうなったのか。
本来、自業自得の「業」は、現世のことではなく、前世のことを示します。前世での行為が現世にいろいろな結果をもたらしていると考えるのが、仏教の基本ですから、自業自得も「前世で行った善いこと、悪いことの報いがこの世に現れた」と理解することが正しいのです。本来は、「前世の行為の報いが現世にやってきた」という意味なのです。

ということは、「善い結果が今やってきた、この世で大変楽して生きていける」のも、本当は「前世での善い行いの結果」と受け取るのが正しい理解なのですね。しかし、人々はそうは考えません。今、成功しているのは「自分の実力だ」、「自分が努力してきたから、今の成功があるのだ」、「苦労してきたから、その苦労が実ったのだ」と考えます。たとえ、それが親から引き継いだものであったとしても、「前世の善行の報いだ」とは考えません。「この家に生まれたのも、親の財産を受け継いだのも、まあ、俺の運がいいからかな」と思うだけでしょう。「なぜ運がいいのか」までは考えませんし、問いませんな。まあ、善いことは全部自分の実力・・・と思いたがるのが人間というものでしょう。
それは、すなわち、善いことに関しては自業自得ではない、ということになります。前世での善行の報いではなく、現世での自分の実力、ということですな。こういうことで、善いことで自業自得とは言わないようになったようですね。
しかし、まあ、「自分の実力」というのも本当は自業自得ではありますな。現世での自分の努力が実を結んで善い結果をもたらした、というのも現世における自業自得です。ですから、善いことに「自業自得」という言葉は使ってはいませんが、「これも俺の実力さ」と言った時点で、「現世での自業自得さ」と言っているのと同じですね。
ですが、いずれにしても、善いことで「自業自得」というのは、なんだか自慢しているようで、嫌な感じではあります。昔から、自慢する者は嫌われるので、自分によいことやラッキーが起きても、「自分の実力だ」、「いい意味での自業自得だ」などというのは、控えるものです。日本は、謙虚な態度が美徳ですから、善いことが起きても胸を張って自慢するような者は、周囲から白い目で見られるのです。こうしたことからも、善いことに自業自得は使わないということもあるでしょう。謙虚な日本人気質ですね。

悪いことに自業自得を使うのは、これは使いやすい言い方でもありますからね。前世において悪いことをしたために今世で悪い結果になったという使い方をすれば、言い逃れができて便利ですな。たとえば、事業に失敗したという悪い結果も「自分の経営の仕方が下手で事業に失敗したのではなく、前世で行った悪い行いの報いが今来たのだ」といえば、自分の責任ではなくなりますからね。
「わしが打った手に問題はない。間違ってはいなかった。それなのに、このような悪い結果になったのは、前世での報いとしか言いようがない」
なんて言い訳をしてですね、自分の責任を自分の前世になすりつけるのは、昔はよくあったことなのでしょう。ま、それで自分自身も慰められますしね。
たとえば、本当に全く自分の身に覚えがなく、突然の不幸がやってきたときなどは、前世のからの因縁としか言いようがない、という意味で「これも自業自得なのか・・・」と納得したのでしょう。

しかし、それもいつの間にか、現世で悪いことをしたから悪い結果が生まれたのだろう、と周囲の人が指摘するために「自業自得」を使うようになったようですね。自己反省で「これもそれも自業自得です」などという場合もありますが、多くは「それって自業自得でしょ」と周囲から指摘されるときに使う言葉となっています。周りからそのように言われて、初めて「うぅぅ、そうだよねぇ・・・」と納得するわけですな。

人間は、上手くいかないことがあると、それを自分以外の何かのせいにしたがるものです。
「アイツが悪い」、「あれがいけない」、「運が悪かったのだ」、「あのとき君がああいったから」、「世の中の社会情勢がいけないのだ」、「急激な円高のせいで・・・・」、「不景気がいけないのだ・・・・」、「政治家が無能だから・・・」などなど・・・。
言い訳は、いっぱいありますな。誰もが言い訳をするものですな。「自分が悪いんです」と素直に言う人は、少数派ですなぁ。また、「こんなに私が嫌われるのも、私が美しいからなのね」とか「こんなにいじめられるのは、俺に実力があるからだな」とかなんて言ったりすると、ドン引きですな。あきれ返ります。
ですが、仏教的に言えば、どんな場合であっても、すべて自業自得なんですけどね。

仏教では、自分に起きた現象は、すべて自分の行いの報いによる、と説きます。その行為は、前世現世を問わず、ですね。前世の行いであっても、現世の行いでもあっても、悪いことをすれば悪い結果を生むのだ、と説くのが仏教の基本です。つまり、自業自得は仏教の基本ですね。それは、たとえ他人に裏切られた結果であろうと、他人に蹴落とされた結果であろうと、他人に騙された結果であろうと、同じです。すべて自業自得なのです。
たとえば、あなたが友人の裏切りによってとんでもない借金を背負わされたとします。そうした場合、あなた自身も、周囲の人も、誰もが「あの友人が悪い。あなたを裏切るなんて最低だ。人間として許せない」というでしょう。しかし、本来の仏教的な考え方をすれば、
「そうなったのは、あなた自身が悪いからだ。あなたが前世において、あの友人を苦しめたから、現世でその報いを受けているだけなのだ」
となるのですね。これが、もともとの仏教の考え方です。
しかし、この考え方は、一つ間違うととんでもないことになります。犯罪者が許されてしまいますな。「前世でひどい目にあわされているから、お前がこの世で苦しむのも仕方がないな。だから、ひどい目にあわせたほうは無罪。お前も文句を言うな」なんてことになりかねないです。

お釈迦様や、神通力を持っていたお釈迦様の弟子がたくさんいたころは、自業自得的考え方はよかったのでしょう。「どうしてこんな目にあわなければいけないのか」ということに対し、ちゃんと納得のいく説明をお釈迦様たちはしてくれたでしょうからね。神通力でもって、前世を見させてくれたことでしょうから、ひどい目にあったほうもあわせたほうも、納得がいったことでしょう。しかし、現代において、「それは前世の因縁だよ」と言われても、「はいそうですか」とは言えないですよね。たとえ、筋道の通った説明をされても、「えー、なんだか、納得いかないなぁ」というのが本当のところでしょう。

現代使われている自業自得は、前世のことは考慮していないですね。現世において、「自分のやった悪い行為の報いがやってきた」というような意味で使っています。たとえば、受験に落ちたのも「さぼっていたからでしょ。自業自得じゃない」というようにね。まあ、いわば「バチがあたった」的な使い方ですな。
でも、私はそれでいいのだと思っています。むしろ、そのほうがいいのだと思っています。仏教本来の難しい因果関係の話もなく、前世だの現世だのという話もなく、「この世で行った悪い行為の結果が悪いこととなってやってくる、自業自得はあるのだ」という意識があればいいのだと思います。「悪いことをすれば必ず悪い報いがやってくる」という意識を忘れないことが大切だと思うのです。自業自得はあるのだ、ということをしっかり心に刻み込んで欲しいものです。
日本人の誰しもが、自業自得はある、と認識していれば、犯罪だって減るでしょうし、悪いことをして平気でいられる人も減るでしょう。バチがあたる、自業自得はある、と心から信じられているような社会の方が、犯罪は少ないはずです。

でも、自業自得は嘘ではありません。本当です。あなたが行った行為は、あなたに戻ってきます。善いことも悪いことも、あなたに必ず返ってきます。こんなことくらい平気だろう・・・などというのは、甘いですよ。もし、あなたが、何か悪いことをしてしまったのなら、覚悟をしておいた方がいいですね。必ず、その報いは自分に戻ってきますからね。その報いを避けたい・・・・というのは、無理な話です。防ぐこともできません。ただ、カバーすることはできます。それは、してしまった悪いこと以上に善いことをすることです。そうすれば、悪い結果以上に善いことがあなたに起きるでしょう。禍転じて福となる・・・こともあり得ますからね。
さあ、せっせと善行をしてください。私も・・・あぁ、たくさんしなきゃいけない・・・かもねぇ・・・。
合掌。


111.魔
悪魔、魔物、魔性、魔がさす、通り魔・・・「魔」という文字は、案外よく目にする文字です。もちろん、あまり目にしたくはない文字ですし、目にしない方がいい文字でもあります。できれば「魔」という文字はない方が、本当はいいのでしょう。
この「魔」という文字、一説によると仏教経典を漢訳するときに、造られた文字なのだそうです。つまり、仏教の教えを伝えるために必要に応じて造られたわけです。ということは、「魔」はまさしく仏教語だったのですね。今回は、この「魔」についてお話ししましょう。

そもそも「魔」のもとは、お釈迦様が悟りを得るのを邪魔した悪魔パーピマンのことを示しています。あるいは、死王である閻魔(ヤマ)のことを示しています。仏典では、「マーラ」と言われています。「マーラ」とは、サンスクリット語で「死を司る悪魔」を意味しています。ですので、翻訳する場合は「死王」とするのが正しい意味になります。
しかし、マーラの働きはそれだけではありません。様々な邪魔や誘惑もマーラの働きです。怠惰や貪欲さ、淫欲、快楽への誘いもマーラの仕事ですし、同時に死への恐怖、死への誘いもマーラの仕事です。
こうしたマーラの働きを説明する際に、それに適した文字が中国にはなかったのですね。マーラを表す適切な文字がなかったのです。
中国では、死者のことは「鬼」で表現しました。また、死者がよみがえり悪さをするものを「鬼」と表現しました。つまり、「鬼」とは、死者あるいは蘇った死者(ゾンビ)のことを意味していたのですね。「鬼」は、マーラに近いようですが、かといってマーラの意味を的確に表しているかというとそうでもありません。「鬼」は、どちらかというと幽霊に近い存在です。マーラは幽霊ではありません。人々を悪い道に誘惑するものです。「鬼」とは違いますな。
さて、サンスクリット語で書かれた経典を翻訳するお坊さんは困ってしまいました。とりあえず、マーラ」は「摩羅」と当て字をしておこう、ということになりました。しかし、音写はあくまでも音写です。意味は通じません。どうもマーラを説明するには、「摩羅」ではインパクトに欠けるというか、ピーンとこないんですね。そう思ったのですよ、当時の高僧の皆さんは。そこで、ないなら造っちゃえ、ということで、「マ」と発音する新しい文字を造ることにしたのですな。
発音は「マ」。意味合いは、「鬼」的な感じで、「鬼」ではない存在・・・。ならば、「摩」と「鬼」を合体させよう、ということで「魔」の文字が生まれたということらしいのです。

これはすごい発明というか、発案ですよね。画期的です。「魔」という文字のインパクトは、相当なものですな。つくったお坊さんたちも、「これはいい、これはすごい」と思ったことでしょう。この「魔」という文字の存在のお陰で、その後に「悪魔、魔物、魔性、魔女、魔力、魔術・・・・」などなど、次々と新しい言葉が生まれていったのですな。ま、いずれも「怪しい印象」を与える言葉なのですが・・・。
それはいいとしまして、この「魔」の文字を造ったおかげで、悟りに至る過程において起きうる、様々な現象も説明しやすくなったのですね。
たとえば、悟りへの修行をしているときに心に湧き出るいろいろな誘惑・・・怠け心、淫欲、睡眠欲、慢心、勘違い・・・は、すべて悪魔によるもの、と説明すると、大変わかりやすくなりますね。お釈迦様が、悟りを開こうとしていた時に、様々な誘惑が襲ってきます。それを仏教経典では、悪魔パーピマンがお釈迦様の悟りを邪魔しに来た、と説いています。これは、読み方を変えれば(というか、それは比喩でしょ、と読めば)、自分の中にある「名誉欲(国王になれるぞという誘惑)」、「怠惰(もう十分やったじゃないか、もういいだろう休めよという誘惑)」、「淫欲(こんなつらいことしているよりも女を抱いて楽しもうぜという誘惑)」などという自分の欲望を魔王の誘惑として、比喩で語っているのですね。このように、比喩で説明すれば大変わかりやすくなるのです。
「悟りに向かうとき、魔王が様々な誘惑をしてくるぞよ」
と言われていれば、その時が来たら「あぁ、魔王が来た。この魔王に勝たなければ!」と思うこともできるでしょう。「魔」という文字は、大変便利な文字なのです。

さてさて、仏典ではマーラという悪魔がいろいろ人々に邪魔を働きかけてきます。あるいは、お釈迦様やお釈迦様の弟子にも、いろいろな誘惑や邪魔を仕掛けてきます。たとえば、お釈迦様の晩年のことです。悪魔パーピマンはお釈迦様に
「もういいだろう、もう布教の旅も終えたらどうだ。疲れているだろう。肉体もぼろぼろじゃないか。もう休めよ、もうそろそろ死ぬ時だぞ。ほら、そこの家で休め、そしてそのまま横になるのだ・・・・」
と絶えず囁きかけているのです。そのたびにお釈迦様は
「自分の死は自分で決める」
と魔王に宣言してします。で、クシナガラの地で、接待してくれた家で出された毒キノコ料理を見て
「魔王パーピマンよ。最後の時が来た。私の旅もこれで終わるだろう」
と魔王に言います。
これらは、本当に悪魔がいて、お釈迦様を誘惑しているのではなく、自分自身の心の会話を魔王を使ってたとえ話で語っているのですね。お釈迦様も、晩年は少々気が弱っていたのでしょう。休みたい、もういいかな、という弱気の心が時々顔を出していたのですね。でも、そのたびにそのような弱気な心に打ち勝ってきたのですな。で、クシナガラで自分の寿命を覚ったのですね。
すなわち、「魔」とは、外に存在するものではなく、自分の中に存在しているものなのですよ。

そう、悪魔はいつも我々に囁いています。
「もういいだろ、休めよ、そんなに働かなくてもいいじゃないか」
「もっと、もっとと思えばいい。名誉も金もすべて手に入れろ」
「あんな邪魔なヤツ、排除してしまえ」
「いい女じゃないか。抱いてしまえよ。大丈夫、バレやしないさ」
「遊びてぇ、浮気してぇ、仕事したくねぇ」
「大丈夫さ、ばれやしない。少しくらい悪いことをしても、平気だよ」
もう、しょっちゅう囁きかけてきますよね。この内なる悪魔の囁きに負けてしまった者は、惨めな人生を歩むことになるのですな。悪魔の囁きに打ち勝ってきた者は、やはり勝利を手にすることができるのです。
怖いのは「これくらい大丈夫だろう」という悪魔です。その小さな油断、囁きにとらわれてしまうと、悪魔の罠にはまってしまうのですな。
「一回くらいの誤魔化しは平気だろう。ばれなきゃいいさ」
「一回くらい、浮気しても大丈夫だろう」
「一回くらい、アイツを陥れても・・・まあ、俺がやったとはばれないだろう」
「一回くらい、借金しても大丈夫だろう。なに、すぐに返せばいいことだし」
などなど・・・。この「一回くらい」が実に危ないのです。ここが悪魔的罠なのですな。「一回くらい」は、たいていバレないものなのです。自分自身でも警戒していますからね。慎重に悪魔の誘惑を実行しているのですから、バレにくいのですな。
で、一回が成功してしまうと、「2回目」へ踏み込んでしまいます。「2回目」も成功してしまうと、もうあとは泥沼ですな。まんまと悪魔の罠にはまり、転落への道を歩むことになるのですな。怖いですねぇ。ついつい「一回くらい」と思ってしまいますからね。一回だからいい、ということはないのですな。一度、悪い道に踏み込んでしまえば、あとは何回でもできてしまうようになるのが人間の弱いところなのですな。恐ろしいことです。「一回くらい」という悪魔の誘惑は、遠ざけるべきでしょうなぁ。

ちなみに1。
魔王パーピマンですが、これは第六天界の他化自在天(たけじざいてん)のことです。魔王ですが、第六番目の天界の王ですな。インドでは、魔王という神も存在しているのです。一応、神なのですよ。他化自在天は、天魔とか外道とか呼ばれています。「第六天魔外道・他化自在天」と言われることが多いですな。他化自在天は、人々が快楽におぼれているときの満足感をエネルギーとしています。ですので、人々が淫欲に溺れさせるのが仕事ですな。まあ、しかし、お釈迦様が悟りを開いたことにより、魔王パーピマンは、大人しくなりますな。
なお、他化自在天は大自在天と間違われることが多いですが、全く別の神です。ですが、大自在天も悪魔系ですな。こちらも、人々が快楽や淫欲にふけるのが大好き、という神です。大自在天は、降三世明王に降伏(ごうぶく)させられていますな。
インド人自体、快楽や淫欲が好きだったのでしょうねぇ、きっと。インドの古い経典であるベーダの中のカーマスートラには、男女の交わりの仕方がいろいろ説かれているそうです。究極の快楽・淫欲が説かれているらしいですからね。古代インド人は、男女の交わりが大好きだったのでしょう。なので、
淫欲を司る神の存在を認めたのでしょうねぇ。

ちなみに2。
マーラとは、悪魔のことですが、これ日本語に音写されているって知ってますか?。男性器のことを俗称で「マラ」と言いますが、これは実は「マーラ」のことなのです。つまり、「悪魔」ですな。自分の思い通りに制御できなくて、暴れようとする男性器は、男にとって「悪魔」のようなものだったのでしょう。特に、修行僧にとっては、悪魔そのものだったのでしょう。なので、男性器のことを「マラ」と呼ぶようになったのですな。ま、男性の方なら、納得できると思います。

話を戻します。
悪魔は、いつでもどこで囁きかけています。どうか、ご注意ください。悪魔の囁きに少しでも耳を傾けると、下手をすると脱出できないところまで落ちてしまいます。どうか、心を強く持って、悪魔の囁きを排除してくださいね。
あぁ、私も気をつけねば。ゲームという悪魔が手招きしていますからねぇ。ほら、今も・・・。「こっちに来て、コントローラーを握ってみてはどうだい?」と、囁いているんですよぉ・・・。あぁ、恐ろしい・・・。
合掌。


112.慚愧
「慚愧の念に堪えられない・・・」
今ではこのようなセリフを言う人は、まずいないでしょう。たまに・・・ごくたまに新聞などで見られる程度でしょうか。ま、政治家などが格好つけて言う場合がありますけどね。「慚愧の念を感じます」などと。そのようなことを言われても多くの人が「どういう意味?」てなものでしょう。あ、その前に、政治家の言葉など耳に入らないですかねぇ。
ま、それはいいのですが、この「慚愧」という言葉、実は仏教語なのです。元は、お経の中の言葉なんですよ。私もつい最近まで知らなかったんですけどね。全く恥ずかしい限りで、慚愧の念を感じます。

そもそも「慚愧」の意味を知っておいた方がいいですね。あまり使わない言葉ですし、正確な意味を知っている方も多くはないのではないかと思います。私も、説明しろ、と言われれば、あ〜ちょっと待って、となりますから。
ごく一般的な国語辞典によりますと、「慚愧」とは
心に、深く恥ずかしく思うこと。恥じること。
という意味です。深く恥ずかしい、と思うことが「慚愧」なのです。ですから、「慚愧の念を感じる」といえば、「恥ずかしいと思う、その思いを感じています」ということになりますね。くどい言い回しですな。本来は、
「慚愧しています」
という言い方でいいのです。「深く恥じ入っています、深く恥ずかしく思っています」となりますから。しかし、「慚愧しています」というと、あまり重々しく感じないですね。「慚愧の念を禁じ得ない」などと言ったほうが、「慚愧」という言葉自体に似合っているように思います。なんとも日本語は難しいですねぇ。
ま、いずれにせよ、「慚愧」とは「深く恥ずかしく思うこと」という意味なのですな。

さて、では元々の仏教語ではどのような意味になるのでしょうか。おなじみの仏教語大辞典で見てみましょう。その前に、仏教では「慚愧」を「ざんぎ」と読みます。現代では「ざんき」と読みます。ご注意ください。
「慚愧・・・ざんぎ」
@恥じ入ること。罪を恥じること。罪のはじらい。慚と愧。さまざまな解釈がある。
(1)慚は、自ら罪をつくらないこと。愧は、他に教えて罪をつくらせないようにすること。
(2)慚は、心に自らの罪を恥じること。愧は、自らの罪を人に告白して恥じ、罪の許しを請うこと。または、他に比べて自らの劣った点を自覚してひけめを感ずること。
(3)慚は、人に対して恥じること。愧は、天に対して恥じること。
(4)慚は、他人の徳を敬うこと。愧は、自らの罪に対する恐れ。
(5)慚は、自らを観察することによって自らの過失を恥じること。愧は、他人を観察することによって自らの過失を恥じること。
ABは省略(ABを略したのは、「このように漢訳した」と書かれているためと、典拠が不明である、という理由からです)。

大まかな意味は、現代使われている「慚愧」と同じですね。自分の罪を恥じること、です。ちょっと異なるのは、仏教では慚愧を「慚」と「愧」に分けて考えている点です。これは、もともとの経典で、「慚」と「愧」に分けて説明してあるからです。言語も違います。「慚愧」という単語ではなく、「慚」(=hirimana)と「愧」(=ott?pin)ですね。この言葉が見られるのは、阿含経です。初期経典ですね。
経典には、様々な論書があります。初期経典には初期経典の論書=解説書があるのですな。その中で最も有名な論書と言えば「?舎論(くしゃろん)」でしょう。「慚愧」という言葉は、どうやらその?舎論で登場するようですね。
阿含経は、初期経典で、生きたお釈迦様を知ることができる経典ですね。お釈迦様を始め、仏教教団はどうあったのか、お釈迦様は日々どのようなことを説いていたのか、ということがよくわかるお経です。初期経典なので、読誦することはありません。仏教の基本的思想を知ることのできるお経です。
その中で、祇園精舎を建立したスダッタ長者の娘スバッターが、ムシーラ長者の元へ嫁に行った時のエピソードがあります。簡単に紹介いたします。

ある日のことムシーラ長者がスダッタ長者の元を訪ねます。そこでスダッタ長者の娘スバッターと久しぶりに会います。ムシーラは美しく清楚でしっかり者に成長したスバッターを気に入り、息子の嫁にと願い出ます。しかし、スダッタ長者もスバッターも、その申し出を拒否します。理由はムシーラの家が仏教信者ではなく、外道(バラモン教やジャイナ教など)を信仰していたからです。しかし、ムシーラ長者は引き下がりません。そこで、スダッタ長者はお釈迦様に相談に行きます。お釈迦様は
「スバッターは、間違った教えを信じている者をその間違いに気が付かせ、正しい教えの道へ導くことができるでしょう」
と言い、結婚を勧めます。その言葉に従い、スバッターはムシーラ長者の息子に嫁ぐのです。
スバッターが、ムシーラ家で過ごし始めたある日のこと。ムシーラ家にバラモンが数人やってきます。食事の接待をすることになっていたのです。ところが、そのバラモンは裸でした(正確にはバラモンではなく、ジャイナ教の修行者のことでしょう。初期経典は、仏教以外の宗教の修行者をバラモンと総称することがたまにあるようです。また一説によればこの者たちはバラモンであり、法衣を着けていたにもかかわらず、心がないためにスバッターに裸だと言われた、ということにもなっています)。裸のバラモンに驚いたスバッターは、挨拶することすら拒否します。ムシーラは、
「失礼ではないか。この方たちは裸ではない。目には見えぬが法衣を着けていらっしゃる。さぁ、ご挨拶を」と促しますが、スバッターは
「法衣を身に着けているということは、出家し、戒を受け、常に自らを恥じる気持ちをもって自分を正し、そうして修行に励んでいらっしゃることでしょう。しかし、この方たちを見ますと、少しも恥じらいというものがなく、とても出家した人とは思えません。世尊はこうおっしゃいました。『世の一般の人たちから尊ばれるということは、自分がまだ不完全であることを恥ずかしおもう心・・・慚の心がなくてはなりません。また、同様に、他の人にもそのような心を持たせて罪を作らせないようにすること・・・愧の心がなくてはならないのです。もしも、この二つの心がなければ、それは畜生と同じでしょう。この二つの心をもって正しく真実の理を求める人こそ尊ばれるに値する人なのです』と。ところが、この方たちは、この二つの心を持ち合わせてはおりません。ですから、挨拶などできません」
このあと、ムシーラ長者と夫の組とスバッターは、少々言い合いをしますが、バラモンたちは「バカにしおって」と憤慨しながらも、ガツガツと食事をし、酒を飲み、散々食べ散らかして帰っていくのです。
この時点で、ムシーラ長者たちにもバラモンに対し???という気持ちがわいてきます。で、ムシーラが一人考え込んでおりますと、別のバラモン(スダッタ長者の友人)がやってきて、お釈迦様の弟子が優れているという話をします。ムシーラ長者、そうした弟子たちに会いたくなりますな。そのバラモンに「その弟子たちに会わせて欲しい」と願うと、「スバッターならば可能でしょう」と教えてくれますな。そこでスバッターに頼み、お釈迦様の弟子たちに次々と会います。スバッターから紹介され、教えの解説までされますな。そして、最後にお釈迦様が登場しますな。こうして、ムシーラは誰が尊い聖者か、ということを知り、仏教の信者になるのです・・・。
これが、「慚」と「愧」という言葉が出てくるお話です。

この話によりますと、慚愧の意味は、仏教語大辞典の@の(1)に相当します。つまり、「自らの罪を恥じ、自ら罪を作らない、人に罪を作らせない」という意味になります。すなわち、慚愧とは、
「自らの罪を恥じ、自ら罪を作ることなく、また他の人に罪をつくらせないようにすること」
というのが、本来の意味だったのですね。現代の「慚愧」には、「他の人に罪をつくらせないようにすること」という意味が欠落しているのです。いつの間にか、なくなってしまったのですね。
さらに、「罪を作らない」という意味もなくなり、「深く恥じ入ること」という意味だけが残ったのです。

最近では、深く恥じ入らなければいけないようなことをしている政治家や東電のエライサンもいますが(まあ、そのほかにも多々いますが)、誰も「慚愧の念」をを表明しませんな。自覚がありません。彼らは、裸のバラモンと同じですな。国民の貴重なお金、税金を散々食い散らかしていく裸のバラモンです。ということは、彼らは尊ばれるような者たちではない、ということですな。そういう方たちが、国のトップにいるというのは、不幸なことですよねぇ。
しかし、本当に思いますねぇ。あの方たち、「恥を知れ、恥を!」とね。
合掌。


113.修行
「修行が足らん!」
と、叱咤されることは、お坊さんの世界でもあまりなくなったように思います。武道の方は、いかがなものでしょうか?。今でも「修行が足らない」と怒鳴られることはあるのでしょうかねぇ。
「修行」という言葉は、みなさんも知っていることとは思いますが、元は仏教語です。「仏道修行」のことですね。今回は、この「修行」についてお話しいたします。

修行、といえば、皆さん滝に打たれたり、厳しい山道を駆け登ったり、断食したり・・・と、過酷な行為をすることを思い浮かべるのではないかと思いますが、本来の仏道には、それほど厳しい修行はありません。そもそも、滝に打たれる・・・などということは、元々の仏教にはありませんな。また、お釈迦様は、厳しい過酷な修行・・・苦行・・・を禁止していました。苦行をしても、悟りは得られないことがわかっていたからです。肉体を痛める行為は、忍耐力はつくかもしれませんが、悟りとは無縁ですね。ですから、苦行は禁止していたのです。
では、仏教本来の修行とは、どんなことだったのでしょうか?。

仏教本来の修行とは、仏教語大辞典によりますと
@実践すること。行うこと。
A努力すること。
B難行。
Cヨーガにいそしむこと。
D持戒のこと。
とあります。
本来、お釈迦様がいらしたころの仏教は、出家が基本でした。ですので、仏道修行と言えば、出家社会の中・・・仏教教団の中・・・で生活をすること、それがそのまま修行だったわけです。
つまり、朝起きて臥具(がぐ)を片付け、沐浴をし、托鉢に出かけ、精舎に戻り食事をし、片付けや清掃をし、午後からは瞑想をする。日が沈めば、精舎の中の部屋(房・・・ぼう)に入り、瞑想する。あるいは、寝る。およそ、これが出家者の生活です。
ということで、この生活を実践することが、本来の「修行」なのです。@、C、Dがこれに相当します。ヨーガとは、瑜伽(ゆが)と音写され、瞑想のことですね。ちなみに禅は「禅那(ぜんな)」という言葉の略です。もとの言葉は、サンスクリット語の「ドュヤーナ」、パーリー語の「ジャナー」で、禅那はこれを音写したものですね。瞑想と禅は微妙に違いますので、ご注意ください。つまり、ヨーガとドュヤーナは、微妙に異なるのですよ。
まあ、それはいいとしまして、本来、修行とは「仏教教団内で生活をし、悟りに向かって努力すること」だったのです。

しかし、大乗仏教が起こりますと、修行内容にも変化が起きます。出家者は必ずしも仏教教団内で集団生活を送らなくてもよい、ことになるからです。大乗仏教が起こる以前は、悟ったものは別として、悟りを得ていない者は教団内で修行をしなければなりませんでした。必ず、どこかの精舎に所属し、出家者の戒律を守り生活をするのです。しかし、大乗仏教は、そのことにはこだわりません。悟っていてもいなくても、人々を救うためならば、精舎を出て旅をしたり、在家の中に混ざって生活をしてもよいことになります。尤も、在家の中にいても戒律は守らなければいけませんけどね。
仏教が中国に入り、仏教に中国色が混入してきますと、修行の形態に変化が生じます。宗派もいろいろ誕生してきましたので、その宗派独自の修行法も確立されていくわけです。中には、難行や苦行を取り入れる宗派も出てきました。といっても、山中にて断食をしながら瞑想や禅をするという修行です。達磨大師の「面壁九年」の修行は有名ですよね。このように、宗派によって修行のスタイルは変化していくのです。

現在、修行と言えば、最初にも書きましたが、座禅や滝行、厳しい山々をめぐることなどがあげられるのではないでしょうか。座禅は、禅宗の影響で、江戸時代に武家社会で大いに流行ったので、そうした影響もあるのでしょう。また、雪の中、裸足で冷たい本堂を掃除する小僧さん・・・というイメージもあるのではないでしょうか。これらも、禅宗の影響ですね。特に、永平寺の厳しい修行などは有名ですね。永平寺への観光が盛んになり、そうした厳しい修行のイメージが一般に広まっていったのではないかと思います。
滝行は、本来の仏教修行にはありません。あれは、中国か日本で生まれた修行でしょう。もとは、沐浴の代わりだったのではないかと思います。滝行が広まったのは、TVの影響でしょうか。滝の修行をするのは、主に山岳宗教系・・・修験者ですね・・・でしょう。山々を巡る修行も修験者系の修行ですね。それは、役行者以来の伝統となっています。
どうも、日本人のイメージですと、修行と言えば、こうした座禅とか、修験者系の修行が一般的になっているように思います。私たちも時々ですが、
「滝とかに打たれるんですか?」
「断食とかして座禅するのですか?」
と聞かれることがありますが、真言宗の修行では、滝も断食も修行の科目には入っていません。まあ、任意ですな、それらは。やりたい人はやる、ということです。

先ほど、宗派によって修行は異なると言いました。禅宗は主に座禅や問答ですね。密教系の宗派・・・真言宗や天台宗・・・は、加行(けぎょう)と呼ばれる修行があります。内容は、天台と真言では異なります。どちらが厳しいかと言えば、天台宗ですね。修行の年数も長いようですし。
天台宗のことは詳しく知りませんので、真言宗の修行について、詳しくは紹介できませんので簡単に紹介しておきます。
真言宗の修行は、加行と呼ばれます。期間は、約100日です、内容は、主に、十八道、金剛界、胎蔵法、護摩の四つに分かれています。ですので、「四度加行」と呼ばれています。
詳しく解説してある本も出ていますが、加行は師について伝授を受けて行う修行です。市販の本を読んでできるものではありません。というか、加行の内容を一般人向けの本にしてしまうことは、実は大きな罪です。密教は、秘密の修行があるがゆえに、密教・・・秘密仏教・・・なのですから、簡単にその内容を明かすことは教えに反することなのです。本来は、弟子の資質を見極め、密教の教えを理解できるかどうかを判断してから、伝授が行われるものです。現在では、そこまで問うことはありませんが、師について伝授を受けなければ、認められません。いくら、本で知識を得ても、実践が伴わねば、どうしようもないことですし。
と、まあ、そういうことで、真言宗の修行の内容は、四つの修行に分かれている、ということだけしかお話しすることはできません。なお、修行の目的は、当然ながら悟りを得ることです。その手段として、金剛界法、胎蔵法の修行方法があるのです。この修行法(我々は供養法とよんでいます)は、仏様を供養し、その功徳で仏様と自分と一体化・・・不二一体・・・をする、という内容になっています。また、その作法の中には、祈願もできるようになっています。仏様を供養し、功徳を積み、祈願をし、なおかつ仏様と一体化する・・・・。そういう作法を学ぶことが、真言宗の修行ですね。本当に仏様と一体化できるかどうかは、その作法の仕方を学んだあと、各個人の修行によります。つまり、四度加行は、いわば免許を受けるための修行のようなものですね。自動車学校と変わりはないわけです。四度加行を行って、悟り得るわけではないのですよ(もちろん、それで悟りを得る人もいるかもしれませんが・・・)。
そのほかに、阿字観・月輪観といった瞑想は、一応指導を受けてから個人で行います。また、求聞持法のような特殊な修行も特別伝授を受けてから行います。いずれも、絶対やらなければいけない、という修行ではありません。真言宗の場合、基本の修行は四度加行ですね。四度加行を受け、伝法灌頂を受け、それで僧侶の資格を得ます。しかし、本当の修行は、そこから始まるのですよ。

修行、修行といいますが、もっとも大事な修行は、「俗世間にいながらも俗に染まらず」ということでしょう。また、「人々を救う」という菩薩行でしょう。この二点を忘れては、修行どころではありませんね。
「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだいげけしゅじょう)」
といいますが、「悟りを求めることを忘れず、また人々を救うことも怠らず」という、これが最も重要な修行なのです。
ということは、僧侶は、日々の生活そのものが、実は修行なのですよ。それは、お釈迦様時代と形は変われど、本質は同じ、ということですな。
現代、お坊さんはほぼ俗世間に交わって生活をしています。家族を持ち、休みもとって、レジャーに出かけたりもします。お坊さん同士が集まって、居酒屋さんに行ったりすることもあります。あるいは、友人と出かけたりもします。飲みに行ったり・・・ということもありましょう。しかし、そういった場合でも、お坊さんはどこか冷めていないといけません。いつも自分を客観視できなくてはいけないのです。そういた俗世間の中にいて、俗世間に染まりきってしまわず(染まったふりをしているわけです)、こだわりを捨て、何物にもとらわれず、いつも解放されていなければいけないのです。そのように俗世間に溶け込みながらも、一線を引いているからこそ、人々の悩みにも応えられるのでしょうし、人々を導くこともできるのでしょう。そして、そのように努めることが、実は修行なのですな。

修行とは、こうだという形があるものではありません。滝にあたっていればいい、というものではありません。座禅をしていればいい、というものでもありません。それは、自分の精神を磨くための方便に過ぎないのです。最も大事な修行は、自分は何にも染まらず、なおかつ人々を導くように努める・・・ということなのです。そして、それは大変難しいこと・・・なのです。甘くはありません。さらに、その修行には終わりはないのです。
よく、出家をしたい、という方がいますが、修行とはこのようなものだ、と理解してから考えたほうがいいと思います。安易な考えで出家を望めば、結局中途半端に終わってしまうでしょうし、出家の意味がなくなってしまうでしょう。特にこれだけは心得ていた方がいいと思います。
「出家して修行するよりも、俗世間で働いていた方が断然楽です」
合掌。


114.愛
今回は、仏教語ではありません。誰もがご存知の言葉「愛」についてお話しいたします。
「愛」という言葉は、どちらかと言えばいい意味で使われる言葉ですよね。「愛することは素晴らしい」、「人を愛することはいいことだ」、「人は愛なくしては生きられない」、「愛こそすべて」、「愛をください」・・・などなど、古来より愛に関する言葉は、たくさんありますし、そのいずれもが愛することを推奨するような言葉ですよね。まあ、なんにせよ、愛することは大切なことです。
ところが、仏教では、これが全く逆なんです。「愛はダメ!」というのが仏教なのですな。今回は、仏教の愛に対する見解をお話しいたします。

そもそも仏教では、愛することに対し、否定的な態度をとっています。「愛は苦しみを生む根源」と考えられています。初期経典の「法句経」には、
「愛より憂いは生じ、愛より怖れは生じる」
と説かれています。愛は、苦しみの元なんですね。
愛することを考えてみてください。人が人を愛すると、どういう心の状態になるでしょうか?。
楽しい、うきうきする、なんだかニヤニヤしてしまう、世界が明るく見える、心地よい・・・など、快い状態になりますよね。しかし、果たしてそれだけでしょうか?。いいことばかりでしょうか?。
相手が誰かにとられてしまわないか心配、相手が今何をやっているのか気になる、嫌われはしないだろうか・・・などという不安も生まれてきますよね。

たとえば、デートをしました。楽しい時間を過ごして家に帰ってきます。早速、メールで「今日は楽しかったね」などと連絡を取ります。が、何らかの原因でメールの返事が返ってきません。そうなると、メールを送った側は不安に陥りますね。「今日のデートで何かいけないことをしたのだろうか?」、「嫌われたのだろうか?」、「別の異性と連絡を取っているとか?」、「楽しくなかったのだろうか?」、「こんなメールしてうっとうしいとか思ってるのだろうか?」・・・不安が胸いっぱいに広がってきますな。まあ、そのあと期待通りの返信があれば、ホッとしてまたラブラブな時を過ごすのでしょうが、そうでない場合は、これまた大変ですな。
「実は、今日のデートで終わりにしよう」なんて返信が来てしまった日には、悲しみのどん底に落ちてしまいます。「なんで、どうして、何が悪かったの、いきなりそれはないじゃない」などとメールを送る人もいるかもしれません。悲しみのあまり、泣きわめく人もいるかもしれません。しつこく相手の家に押しかける人もいるかも知れません。その後は、まあ、人によりけりですが、ケンカへと発展する場合もあるでしょうし、一人寂しくヤケ酒を・・・という方もいましょう。いずれにせよ、二人の間で、愛が成立しなかった場合は、そこにあるのは悲しみや苦しみしかないのですな。まさしく
「愛より憂いが生じる」
ですね。

異性だけでなく、子供に対する愛情でも同じことが言えましょう。大事に、愛情を注いで育てた子供であっても、いずれは独立し、親の元を去る時が来ます。いくら親が「いかないでくれ、捨てないでくれ」と言っても、それは聞き入れられませんよね。親の愛情も虚しく、子供は去って行きます。これも愛より苦しみが生じていますな。
また、親の言うことを聞き入れ、ずーっと親元にいたとした場合はどうでしょうか。親子ともども愛情に包まれ、仲睦まじく生活していたとします。それはそれは楽しい日々を過ごし、満足を得られていたとします。しかし、いずれ親は年を取ります。父親か母親か、どちらかがまず亡くなります。親一人と子供が残されますな。やがて、残った親も亡くなります。あの親子楽しく過ごした日々はもう取り戻すことはできません。気が付けば、子供だけです。そんなころは、年齢もいってますので、いまさら結婚も無理でしょう。親は親で、愛する子供から離れて死んでしまうことに大きな恐怖と不安を感じていたことでしょう。子供は子供で親がいなくなるという淋しさに恐怖を感じるでしょう。まさしく「愛より怖れが生じ」ですね。

このような話・・・異性の話、親子の話・・・は、実際によくある話ですよね。特に親子間の異常な愛情は、悲劇を生みます。異性での「くっついた、別れた」という話は、勝手にやってくれ〜って感じですが、親子間は、そんな簡単には終わりません。一人取り残されたお子さんは、親と一緒に暮らした家で独りぼっちで過ごすことになります。そこには孤独しかありませんね。愛は時に残酷なのです。まさしく、お釈迦様が説かれた通りですね。愛は、苦しみを生む元なのです。

先ほどの「法句経」の一文には続きがあります。
「愛を超えし人には憂いはなし。かくていずこにか怖れあらん」
愛を超越した人には憂いはない。憂いがないから、どこにも恐れはない・・・ということですね。すなわち、愛することをやめなさい、ということですね。仏教は、愛することを否定するのです。
愛は、その愛の対象物が人であれ、物であれ、何であっても、執着心を生みます。執着心は、仏教では最も遠ざけねばならない心の状態です。なにに対しても、執着してしまうと、それにこだわり、考えが先に進まないからです。心が何かにとらわれた状態に陥ると、人は世界が狭くなってしまいます。周囲の声も届かず、他のものに目移りすることもなく、ただそれだけに集中してしまうのです。これは、とても危険な状態ですね。執着心は、正常な人を狂わせてしまうのです。だからこそ、仏教では愛を否定するのですな。

では、仏教には、キリスト教のような人々を愛するという考え方はないのか、と思われる方がいるかもしれません。そんなことはないです。仏教にもキリスト教における無償の愛にあたる言葉があります。それは「慈悲」です。
愛は、自己・血族や親族に対する愛情であり、他者に対する友情であり、はたまた性欲であり、それらは、執着心のことである、と仏教では説きます。ですから、愛はない方がいい、というのですね。そして、愛ではなく、慈悲を持て、と説くのです。
慈悲は、無縁の大悲とも言われており、「私が」、「だれに」、「どれだけのことを」という気持ちを持たないことが条件となっています。つまり、「誰が誰に対してどのような行為をして救ったとしてもいいではないか。大事なのは、救ったということであって、誰がとか、誰にとか、どれくらい、などということではない」ということですね。対象や行為の量、実行者は問わない場合において、慈悲という愛が成立するのですな。

仏教で慈悲と言えば、仏様が私たちを救ってくださること、とも解釈されます。まあ、まさにキリスト教の神の愛と同様の考え方ですね。ですが、大きく異なることがあります。それは、仏教の場合、「誰が」は、ないのです。仏様側は、どの仏様であっても構わないのです。観音様じゃなきゃダメとか、お地蔵様じゃなきゃダメとか、薬師如来じゃなきゃダメとか、阿弥陀さんじゃなきゃダメといった区別がないのです。また、この教えじゃなきゃ救われないとかもありません。そして、救う対象は「衆生」であって、人だけではありません。この世に生あるものすべてです。さらに、「どのくらい」ということもありません。その対象者にとってベストと思われる程度に救います。なので、個人個人、救いに差が生じますな。
つまり、仏教では救う側すら限定はされないのです。それが慈悲なのですよ。

仏教では、愛は執着心の元として、否定されてきました。ところが、密教になると、否定だけではなくなってきます。むしろ、肯定するようにもなってきます。
いくら「愛は苦しみの元ですよ、愛を乗り越えましょう」と説いても、人は愛なくしては生きてはいけません。異性を愛することは、本能ですし、種の保存・存続の意味もあります。なかなか、そのような本能を乗り越えるのは難しいことですよね。
そこで、乗り越えるのが難しいなら、いっそのこと認めてしまえ、という考えが生まれます。これが密教ですな。密教は、まず現実を認めてしまいましょう、というところからスタートしますからね。

人が人を愛するその心情は、果たして汚れているものなのでしょうか?。人が人を愛し、その相手と仲良くなり、手をつなぎたい、一緒にいたい、キスしたい、Hしたい・・・と思うその気持ちは、果たして汚れているのでしょうか?。好きな相手に注目されたいがために、着飾ったり、いいところを見せようとしたりすることは、果たして汚れた行為でしょうか?。
もし、こうしたことを汚れている、という人がいたら、その人は、生命体であることすら汚れている、ということになります。その人自身、汚れているということになります。
人を愛する、その心情は、実はとても清浄なのではないでしょうか?。愛すること自体は、とても美しいことだと、そうは思いませんか?。
実際、仏教が否定したのは、執着心であって、愛そのものではありません。愛から執着心が生まれ、その執着心が苦しみを生むのです。ならば、執着しないようにすれば、愛もまたよし、となるでしょう。愛そのものを否定しているのではないのですな。
実は、愛は、本来は美しいものなのです。ただ、そこにこだわるから悩みや苦しみが生まれるのです。しかし、それが人間の性であることも、またこれ事実ですよね。人間は、なかなかそれを乗り越えられないのです。
乗り越えられないなら、いっそ認めてしまえ・・・。密教はそういう考え方です。しかも、人が人を愛することそれ自体は、とても清浄であり、汚れた行為ではありません。それは、菩薩が衆生を救おうという気持ちと基本的には同じです。ただ、範囲が狭いだけですね。菩薩は広いけど、人間は狭い、その違いがあるだけです。
愛そのものは、菩薩の心情と同じであるなら、愛は清浄であり、人が人を愛し、いつくしみ、大切に思うことは、考えようによっては小さな菩薩である、と言えるでしょう。大きな菩薩は、その愛の範囲が広いだけで、小さな菩薩は一点集中しているだけなのですね。

このように考えれば、愛は否定すべきものではなく、むしろ歓迎されるべき行為となるでしょう。実際、愛情のない世界は、あまりにもギスギスした世界であることは、容易に想像できますよね。
最近、「傷つくのが嫌だから、人を愛さない」とか「他人に愛情をささげたくない」という人がいると聞きます。淋しい限りですよね。まあ、本来の仏教的に言えば、愛さない方がいいのかもしれませんが、それはちょっと自分勝手すぎるようにも思います。もっとも、本当に悟りを得るためならば、「愛を遮断する」ということもありでしょうけど。
しかし、悟りを目的とせず、ただ自分が傷つくのが嫌だから、愛を他人の捧げるのが嫌だから、という理由だけで他人を愛することをやめてしまうのは、どうかと思いますね。
「人を愛することは、菩薩と同じ」
人を愛することは、傷つくことももちろんありますが、喜びも大きいですよね。

人生、楽しいこともあれば辛いこともあります。それをすぐ近くで支えてくれる人がいたならば、それはとても幸せなことなのではないでしょうか。お互いに支えあう・・・それは、お互いが菩薩の働きをしているのと同じでしょう。小さな菩薩が集まって、やがて大きな菩薩へとつながっていく。小さな愛から、大きな愛へ発展していく。それが密教で説く、愛の最終的な形なのでしょう。だからこそ、密教ではあえて「愛」を認めたのです。
個人的に執着する愛から始まって、相手を慈しみ大切に思う気持ちへとなり、家族を守る心となり、そして多くの人々の幸せを願うような愛へと発展していく。それが理想的な愛の形なのでしょう。
争いごとのない世界へ・・・。仏教の目指す世界観です。その元は、人々の小さな愛です。
合掌。


115.面影
「あの人の面影が・・・・この子にしっかりと残っているんです・・・」
なんてセリフがドラマで流れてくることがありますよね。こういう場面は、お涙ちょうだいのシーンですな。あるいは
「母の面影が・・・頭から離れなくて・・・」
などという場合もありますね。これも主に悲しいシーンだったりします。
そう、「面影」と言えば、どちらかと言えば暗いイメージがありますよね。まあ、死者や別れた人の顔などことを思い出したり、誰かの顔に重ねたりする場合に使う言葉ですからね。どうしても、悲しみや暗いイメージは付きまといますな。
しかし、そもそもの「面影」の意味はちょっと異なるんですね。この言葉、元は仏教語です。今回は、この「面影」についてお話しいたします。

まずは、一般的な国語辞典で「面影」の意味を確認しておきましょう。
面影とは。
@顔つき、顔かたち
A記憶の中にある、その人や物の姿や状態。
まあ、大体意味は分かりますよね。堅苦しい表現だとわかりにくいのですが、簡単にいえば「記憶に残っている顔や姿」のことですね。冒頭のセリフがいい例です。「お孫さんの顔に祖父母の面影がある」なんて使い方もしますな。
ところが、仏教語の面影は、このような意味ではないんですね。もっと仏教仏教しているというか、ちょっと難しい内容の言葉なんです。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
面影・・・仮のあらわれ
実はこれだけなんです。面影の本来の意味は、「仮のあらわれ」なのです。

「仮のあらわれ」といわれれば、「あぁ、なるほど、だから今で使う面影の意味になるのか」と納得していただけるのではないでしょうか?。
たとえば、「お孫さんに祖父の面影がある」といえば、それは「お孫さんに祖父の仮のあらわれがある」ということになりますね。あるいは、記憶の中の誰かの面影は、その人の記憶の中の仮のあらわれですから、「面影」となるのです。
人は、誰かの姿形や顔に、親しかった人の仮の姿や仮の顔かたちを重ねて思い浮かべることをします。そうして、懐かしんだりするのですな。その記憶を重ねるということは、「仮のあらわれ」を見ているわけですよね。つまり、その相手に「面影」を見ているわけです。
こうしたことから、現代の面影の意味が生まれたようですね。まあ、面影もいわば幻ですからね。仮の姿なのですな。
が、話はこれで終わりではありません。「仮のあらわれ」は、記憶の中の姿や顔かたちを意味するためにあった言葉では、実はないのです。もっと難しい意味があるのです。現代で使う面影の意味は、表面の意味だけを取って使っているにすぎません。「仮のあらわれ」にはもっと深い意味があるのです。

唯識系の論書には、面影のことを
「面影とは、体用ともに無きをいう」
と説いています。えー、意味は分かりませんよね。どういうことかと言いますと、
「面影とは、実際に目に見える姿形も、その内容も、無であることをいう」
という意味です。つまり、面影とは、
「仮の姿であり、この世の一切の存在は、姿形もその内容もないものなのだ、空なのだ」
ということなのです。だからこそ、面影とは「仮のあらわれ」なのです。

この世に存在するすべての物質、現象、事象は、すべて実態があるものではありません。たまたま縁があってこの世に存在する物であり、たまたま縁があって現象が生まれただけであり、事象が起きただけなのです。その真の姿は「無い」のです。
たとえば、ある物質・・・コップでもいいです・・・の実体を取り出せ、といわれても困ってしまいます。コップの実体とはなんでしょうか?。原料であるガラスでしょうか?。ガラスを作っている元素でしょうか?。では、その元素は何からできてるのでしょうか?。さて、コップの実体とは・・・?。
わかりませんよね。それを仏教では、「仮の姿を取っている」と解釈するのです。
では、コップの意味は?。水を入れるもの?、水以外はいれてはいけないの?、他のものも入れますよね?。入れるだけじゃないですな。使い方は様々です。では、コップの意味は?。どんな使い方をしてもいいのなら、意味は限定はできません。存在意義すら確定はできませんよね。代わりはいくらでもあるのですから。コップの存在意義はなくてもいいのです。
こうしたことをこの世の中の物質、現象、事象等に当てはめていくと、すべて存在があやふやになってしまいますな。たまたま、そこにある、というだけです。これを「仮の存在」と仏教ではとらえるのです。
つまり、我々が見ているものは、すべて「仮の存在」の「仮の姿」になるわけです。すなわち、私たちは「仮のあらわれ」を見ているわけです。
そう、私たちは、面影しか見ていないのですよ。

私たちは、一切の真実の姿を見ているわけではないのです。真実が仮の姿を取っている、その仮の存在を見ているにすぎないのですよ。真実は、その仮の姿の向こうにあるのですな。つまり、この世に存在する物質や現象、事象等をみて、「これらはすべて仮の姿、仮のあらわれ、面影にしか過ぎない」と悟ることが、重要なのですね。
とかろが、我々は、真の姿を見ようとせず(悟ろうとせず)、仮のあらわれである面影にこだわったり、とらわれたりしているわけです。
あなたが、追っかけているアイドル・・・AKBの誰それさん・・・も、単なる面影であって、真の姿ではないのですよ。真の姿は、空なのです。だから、追っかけることは意味のないことになるのですな。幻である面影を追っかけても虚しいだけですからね。
おなじように、愛しいあの人も、仲の良い夫婦も、みんな幻・・・面影ですな。実体はありません。空です。
みんな、面影にとらわれているのですねぇ・・・。

さてはて、この国の中枢は、面影そのものですな。いるのかいないのか、存在しているのかいないのか、全くわかりません。ちっとも国民のために働かないから、実体がないようなものですな。幻の国会です。そう、あの永田町にあるのは、そこにいる人たちは、面影にしか過ぎないのでしょうねぇ。この国は、ついに幻の国となってしまうようですなぁ・・・。
合掌。


116.鬼
鬼・・・と言えば、皆さんご存知だと思います。知らない人はいないでしょう。角が生えていて、怖い顔をして、真っ赤な身体もしくは青黒い身体で、裸で虎の毛皮のパンツ?をはいている、あのお方です。決して、お宅の奥さんじゃありませんよ。まあ、鬼のように怖いかもしれませんが・・・。
そう、鬼と言えば、架空の人物?で、恐ろしい人(人なのか?)のことですが、そもそもこの鬼の概念は、日本にはなかったそうです。よく、鬼の元は中国である、と言われていますが、どうもその源流があるらしいのですね。それがどうやらインドなのだそうです。インドから仏教が伝わると同時に、中国にも鬼の概念が入り、それが元々あった中国の怖い生物(怪物?)と重なって、現代の鬼のイメージが生まれたらしいのですね。
ですので、今でいう鬼の姿は中国産ですな。が、その源はインドで、その姿は今と異なるというわけです。今回は、仏教語というわけではないのですが、仏教とともに日本に伝わった言葉ということで「鬼」についてお話しいたします。

インドでの鬼の意味をまずは紹介いたしましょう。おなじみの仏教語大辞典でみてみます。
鬼、サンスクリット語で「preta(プレータ)」。
@古代インド一般に死者の霊をいう。プレータとは、逝きし者の意。
A死者の霊の観念が仏教に取り入れられて餓鬼となった。死者の霊は飢えていて、供物を待つと考えられたからである。六道の一つとされた。餓鬼の物語を綴った経典である『餓鬼事』もつくられた。
B特に大乗仏教の経典では、餓鬼のほかにヤクシャ(夜叉)、ラークシャサ(羅刹)などの凶暴な精霊をすべて鬼と称している。
C地獄の獄卒。その形の恐るべきことから、俗にオニと称している。地獄の世界には牛頭(ごず)・馬頭(めず)や青鬼・赤鬼がある。
D人間世界には、顔が怪奇で、目・髪・手の指・爪・眼光などが異常なものもあり、美男美女に化けているものもある。
これが、「鬼」の意味です。

「鬼」と漢訳された「プレータ」ですが、中国でもそもそも「鬼」は「死者の霊」のことだったそうです。あるいは、「死者そのもの」を意味していたようですね。つまり、インド語の「プレータ」と中国語の「鬼」は同じ意味だったわけです。これが、@の意味ですね。この時点では、プレータにも鬼にも、仏教的要素は全くありません。宗教的要素はなかったわけですな。
インドでは、六道輪廻の思想がありました。仏教が誕生する以前からこの思想はありました。その六道輪廻の世界に餓鬼という世界があります。餓鬼は、生前に物惜しみをしたり、欲張りであったり、自己中心的でガツガツしていたりする者が堕ちる世界です。その世界は、絶えず飢えている世界です。食べたくても食べられない、飲みたくても飲めない、いつも腹をすかせ、身体はやせ細り、喉は針のようになっています。腹は膨れ上がり、口だけが大きく裂けている・・・そんな姿をしています。餓鬼の世界は飢えの世界なのですね。
プレータという死者を表す言葉は、やがて「飢える魂」という意味も持つようになります。なぜなら、死者は飲み食いできないだろうから、です。そこで、「飢餓の世界に生きる死者の霊」という意味で、「飢餓の世界のプレータ(鬼)」という言葉が生まれたのでしょう。これが縮まって「餓鬼」という言葉が生まれたわけです。餓鬼という言葉が先にあったのではなく、飢える魂の存在が餓鬼という言葉を生んだわけです。そこから、餓鬼の世界の思想ができあがったわけです。

大乗仏教が興り始めると、インドの庶民に悪神として恐れられ信仰されていたヤクシャやラークシャサが、仏教に取り入れられるようになります。この両神は、悪い神・・・日本で言えば疫病神のようなもの・・・で、庶民の間でも魔神として祀られていた神ですね。いわゆる土着信仰だったわけです。仏教は、様々な神や信仰を取り入れて発展していった宗教です。仏教そのものに柔軟性があるのです。思想の幅や奥行きが広いのですな。で、土着宗教で信仰されてたいたヤクシャやラークシャサも仏教に取り入れ、お釈迦様(仏陀)に屈服させられ悪い神から仏教守護の神へと変貌させられるのです。ヤクシャは夜叉となり、お釈迦様の守護や使い走りなどの役目を負います。やがて、金剛夜叉となり、明王の位も得るようになります(金剛夜叉明王)。ラークシャサは、羅刹という悪神のまま取り入れられ、鬼の代表のようになります。ここから「悪鬼羅刹(あっきらせつ)」という言葉も生まれますね。極悪非道の者を「悪鬼羅刹のようなヤツ」というようになります。このころから、いわゆる「鬼」のイメージが出来上がってくるのです。

ヤクシャやラークシャサが仏教に取り入れられ始めたころから、現代の鬼の原型が出来上がってくるのです。なぜならば、ヤクシャはお釈迦様の使いとしてあの世の番人を務めるようになるからです。そして、そこから地獄の番人へと昇格?していきます。こうして、ヤクシャの姿が鬼の姿となっていくのですな。それと同時にラークシャサは、羅刹として人を食らう悪魔として大乗仏教経典に登場してきます。羅刹は人の肉に飢えていますな。飢えている者は皆「鬼」です。ですから、羅刹も「鬼」となったわけですね。ラークシャサの姿も鬼の姿に反映されます。従って、最初の鬼の姿は、おどろおどろしい魔物の姿だったようですな。角が生え、口が耳まで裂け、顔は人間的ではなくオオカミ的であり、黒々としており、衣装は下半身だけ身に着けており、爪は鋭く・・・といった感じですな。これで尻尾があれば、西洋の悪魔と変わらないですね。鬼の当初の姿は、ヤクシャやラークシャサのような魔神の姿だったわけです。

こうした思想が仏教とともに中国に入ります。中国には道教の思想がありまして、死者が苦しむ世界と理想郷の思想がありますね。ここに仏教の六道輪廻の思想が入り込みます。死者が苦しむ世界は地獄の世界と重なりますな。理想郷は極楽浄土や天界に影響しますな。中国に仏教が入り始めたのは、大乗仏教が興り始めたかその前かくらいでしょう。お互いに影響しあいますな。特に仏教は他国の宗教も取り入れて仏教的思想に塗り替えてしまうという恐るべき性質を備えていますから、瞬く間に中国思想を取り入れ、仏教的思想に変換し、要らないものは捨ててしまいますな。こういうことがあるので、大乗仏教経典には、中国的思想が含まれているのです。地獄の獄卒の姿もその一つですね。
鬼はヤクシャやラークシャサのような魔神的姿だったのですが、中国思想が入り込み、大乗仏教が発展しますと、現代の鬼の姿へと変貌していくのです。
つまり、現在、皆さんがイメージする鬼の姿は、インドの土着宗教や古代インドの習慣などが仏教に取り入れられ、さらには大乗仏教が始まるとともに入り込んできた中国思想を混ぜ込んで、生まれた姿なのですな。こうして、角が生え、赤鬼・青鬼となり、虎の毛皮のパンツをはいた筋肉隆々の鬼が誕生したのです。これが日本に伝わったわけですね。仏教とともに。

なお、日本にも鬼にあたる存在があったそうです。大男で、赤ら顔、赤く変色した身体を持ち、異様な髪形をし、異常に力持ちで時には暴れる者が存在したそうです。それは、一説によると、日本に流れてきた「異人」さん、つまり外国の人だったのではないか、ということらしいです。外国の・・・特に白人種の人・・・は、大男だったでしょうし、力持ちだったでしょう。言葉も通じませんし、眼の色だって違います。白人の人は、日に焼けると赤くただれたようになる場合があります。日焼けのひどい状態ですね。そういう姿を見て、当時の日本人が怖れ「鬼」としたのではないか、という説があるのだそうです。真偽のほどはわかりませんが・・・。
まあ、しかし、仏教とともに入ってきた「鬼」をすんなり受け入れることができ、絵画などで描くこともできたわけですから、受け皿はあったのでしょう。「鬼」ではないが、それに似た存在はあったのでしょうね。日本に仏教が入る前は、日本だって土着の宗教・・・古神道がありましたから、おそらくは悪神・・・鬼・・・にあたる存在もあったことでしょう。そう考えるのが自然ですからね。

鬼・・・本来は、死者の魂のことでした。それが、時代を経て恐ろしい存在となっていったわけです。その背景には、おそらくは、地獄のような生活を強いられた者たちがいたでしょうし、鬼のように庶民を苦しめた存在もあったことでしょう。そうした背景がなければ、思想は生まれてきませんからね。
ということは、鬼は、実際にいた人間だったのでしょう。庶民に恐ろしいことをし、庶民を苦しめた人が鬼になったのでしょう。つまり、鬼は、人だったのでしょうな。

そう、鬼は、人なのです。いや、鬼的要素が人の中に潜んでいるのです。鬼的要素とは、「怒り」であり、「意地悪」であり、「反抗」であり、「イライラ」であり、「悪意」であり、そして「他を苦しめようとする心」でしょう。それが「鬼」の正体なのです。つまり、外に鬼が存在するのではなく、自分の中に鬼は存在しているのですね。そしてそれは、人を本当の鬼にしてしまうことにもありましょう。心の鬼が、その人自身を鬼にしてしまうのですね。
いつもイライラして周囲に八つ当たりしていたり、我が強く他人にいつも当り散らしていたり、頑固で周りの意見を聞かず常に反抗していたり、面白くなくて周囲の者をいじめたり、悪意を持って他人に接するようになったりする者は、他人を苦しめる鬼になっていくのです。そう、鬼は自らの心から生まれ、己を蝕んでいき、鬼の姿へとなっていくのですね。
鬼は、恐ろしいです。誰の心にも存在しています。気を付けないと、普段は小さな鬼でも、大きな鬼に変化してしまうことがあります。そうならないためには、頑固に自分に固執せず、周囲と穏やかな関係を保つことでしょう。自分にこだわり過ぎ、我を張りすぎると、ニコニコしたえびす顔の人だって、鬼へと変貌してしまうのですよ。
皆さんも・・・自分もですが・・・心の中に潜む鬼を育てないように、過ごしてくださいね。
合掌。


117.お祓い
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さて、新年と言えば、初詣でしょうか。皆さんは、もうお済みでしょうか、初詣。初詣は、たいていの場合は、神社に参拝いたしますね。お寺という場合もありますが。で、本堂ないし本殿に向かい、お賽銭を投げ、手を合わせますね。神社では拍掌(はくしょう)いたしますな。お寺の場合は、合掌です。そうして、1年の無事安泰を願うわけですね。中には、1年が無事で過ごせますようにと、「お祓い」を受ける方もいます。これは、神社でもお寺でも受けられますね。お祓いを受けると、気分もすっきりして、ありがたい気持ちになりますな。
お正月でなくても、お祓いを受ける方もいます。厄祓いもそうですが、家のお祓い、というのもありますな。地鎮祭は土地のお祓いですね。特別なお祓いになりますと、霊的なもの・・・いわゆる憑きもの・・・を排除するためのお祓いもありますね。
いろいろなお祓いがありますが、お祓いというものは、「禍や禍の元となるものを除去して清浄にする」という意味があります。厄祓いはその厄を除去するのですし、地鎮祭は土地の悪い因縁や禍の元となるようなものを排除するための儀式ですな。家のお祓いもそうですね。憑きもののお祓いは、まさに「禍を除去する」ものです。いずれにせよ、お祓いは「禍を除去して清浄にし、リセットする」ことなのです。

ところで、この「お祓い、祓う」という言葉、これは仏教でも神道でも使いますね。では、その語源は?と問われますと、釈然としません。よくわからないんですね。まあ、何もかも語源がわかる・・・とは限りませんからね、仕方がないことでしょう。
ですが、実は、仏教の言葉で、というかサンスクリット語でこの「祓う」に発音も意味も似た言葉があるのです。もしかしたら、「祓う」という言葉の語源は、その言葉ではないか・・・と、私はひそかに思っております。もちろん、全く違うかもしれません。ですから・・・。
今回は、全く根拠のない話をします。あくまでも、私見です。私の想像です。そうなんじゃないかなぁ・・・というお話です。ま、たまにはこういう言葉もいいんじゃないかと思いまして・・・。ですので、気楽に読んでみてください。

私が「祓う」の元ではないかと思っているサンスクリット語の言葉は、「パーラジカ」という言葉です。なんだ、ちっとも似てないじゃないか・・・とお思いでしょう。ですが、このパーラジカ、お経が漢訳されたときに、そのまま音写されました。その音写された言葉が「ハーラーイ」もしくは「ハライ」です。漢字で書きますと「波羅夷」となります。音写ですので、漢字は当て字です。漢字の意味はありません。しかし、発音は「ハライ」です。この時点で、「祓い」に似てますよね。まあ、音は一緒ですな。
さて、肝心の意味なのですが、この「パーラジカ」・・・音写後「ハーラーイ、ハライ」・・・は、「仏教教団で最も罪の重い戒律で、これを犯した者は教団から追放される」という戒律のことなのです。この戒律のことを特別に「波羅夷罪(はらいざい)」といいます。
どんな戒律か紹介しておきましょう。
@人を殺すこと。また人を使って他者を殺すこと。
殺人ですね。他人に殺人を頼むこともダメですね。これを犯した修行者は、教団を追放されるのです。
Aものを盗むこと。また人を使ってものを盗ませること。
泥棒ですな。他人に泥棒をさせるのもダメですね。これを犯した修行者は、教団を追放されます。
B性行為をすること。または修行者に性行為をさせること。
これもやってしまうと教団追放になります(現代のお坊さんは、ほとんど追放されますな・・・)。
C大きなウソ・・・悟ってもいないのに悟ったという虚言・・・をいうこと。
悟ったかどうかは、自分で決めることではないのです。お釈迦様、もしくは自分の師が決めることです。にもかかわらず、「自分は悟りを得た」とうそをつく者は、教団を追放されるのです。
基本的には、この4つの戒律が波羅夷罪なのですが、のちに追加があります。
Dお酒を飲まないこと。または人に飲ませないこと。
お酒もダメですね。他人に強要することもダメです。お酒を飲めば、教団追放です。まあ、現代では多くのお坊さんが、教団追放となるでしょう。
E何が罪であり、その罪の因縁はなんであるかということを説かないこと、あるいは誤った教えを説くこと。
正しい教えを説かない修行者は、教団追放になる、ということですね。
F自分を褒め称え、他人を誹謗中傷すること。
一般にはよく見かける人種ですな。自分のことは褒め称えながら、他人は誹謗中傷し、けなし、ひどい仕打ちをするという行為ですね。これを仏教教団内で行ったら、教団追放となります。一般社会にも適応したいくらいですな。あっ、そうなると、政治家はほとんど追放か・・・。
G法を惜しむこと。
法を惜しむとは、教えを説くことをケチることを言います。教えだけでなく、他人に対してケチでなんでも惜しむものも含まれます。教えを請われたならば、ちゃんと教え導くことが修行者の務めですな。これを怠れば、教団追放になるのは仕方がないですねぇ。
H怒り、妬み、ひがみ、自分の罪を認めないこと。
なんでも他人のせいにして、怒ってばかりいるとか、イライラして周囲に八つ当たりをしたり、暴力行為に及ぶとか、ひがんでちっとも修行しないとか、妬んでばかりいるとかして修行を怠るものは、自分の罪を認め悔い改めないと教団追放になりますな。自分の罪を認め、改心します・・・という修行者は追放にはなりません。
I三宝を誹謗中傷すること。
仏教の修行者にもかかわらず、お釈迦様や仏様、教え、修行僧たち・・・佛・法・僧のことを三宝といいます・・・を誹謗中傷する者は、教団追放となります。これは、当然ですね。仏教の修行者でありながら、その教えを説いた仏様、教えそのもの、先輩の僧を誹謗中傷してしまったら、それは根本から成り立ちませんよね。そんな者は、仏教の修行者である必要はないのですから、さっさと追い出されますよね。

さて、以上ような行為をした者は、仏教教団を追放されることになるのです。これを波羅夷罪というわけですね。つまり、仏教教団において、その規律を乱すようなもの、教団自体を陥れるような行為をするもの、教団に害をなすものは、追放する、ということですね。そうした害をなすものは、排除するのです。除去するのですな。
すなわち、波羅夷(ハライ)とは、仏教教団において、「害をなす修行者を追い出す、排除する」ことなのですね。
さてさて、ここで気が付かれたでしょうか?。そう、「お祓い」です。これは、「禍を排除する」ことでした。一方、波羅夷罪は、仏教教団にとっての禍となる修行者を排除することですね。どうですか?、意味は同じでしょ?。
「お祓い」と「波羅夷(ハライ)」。言葉の音も同じで、意味も似たような内容です。もちろん、単なる偶然かもしれません。偶然、似たような言葉が存在していたのかもしれません。
しかし、日本語の多くは、中国から入ってきた言葉が多いでしょう。その言葉は、インドが語源の言葉も多く含まれています。日本には、仏教とともに多くの言葉が渡来してきました。祓いもその中の一つかもしれないのですよ。もちろん、単なる偶然の一致かも知れませんけどね。

今回の言葉「祓い」は、その語源が仏教語であると確定しているわけではありません。今回書いた内容は、あくまでも私の意見です。公に認められている意見でもありません。しかし、インドの言葉と日本語が似ていることがたまにあるのは事実です。その中には、インドの言葉が源流のものもあるでしょうし、偶然の一致もあることでしょう。そうであったとしても、言葉は不思議なものだと思いますし、世界を流れているのだなぁ、と思います。言葉は、世界を旅して、いろいろなところを巡って戻ってきているのかもしれません。

正月早々、私の勝手な想像・・・妄想・・・にお付き合い下さいまして、ありがとうございます。変な妄想により、禍があるといけませんので、どうかこの後は「お祓い」を受けてくださるよう、お勧めいたします。
合掌。


118.習俗
「習俗」という言葉は、一般的にはあまり使いません。社会風潮に関する記事とか論文とかにしか出てこない言葉でしょう。あまり普段の生活で使うことではありませんね。
しかし、今回はあえてこの言葉を取り上げました。なぜならば、一般の「習俗」と仏教語の「習俗」では、大きく意味が異なりますし、また仏教語の「習俗」の意味がとても重要だからです。
このような理由から、今回は耳慣れない「習俗」についてお話しいたします。

現代の言葉の「習俗」の意味は、「社会様式や習慣、風俗」を表しています。なお、ここでいう「風俗」とは、いわゆる「性風俗」のことではなく、一般市民における「習慣や風習」のことを意味しています。「社会風習」ということですね。いつの間にか、「風俗」といえば、「性風俗」を表す言葉のようになってしまってますが、「風俗」の本来の意味は、社会風習のことですね。まあ、性風俗も含んでいますが・・・。ま、そうした、一般市民の生活習慣やスタイルをまとめて「風俗」というのですね。誤解なきよう、お願いいたします。

さて、仏教語の「習俗」の意味は、「世俗に染まること」です。
出家者は、俗世間と縁を切ります。出家とは、俗世間と縁を切り、集団生活を行う仏教教団に所属することを意味します。ですから、出家者は、俗世間とは縁のない生活を送ることになるのですね。お釈迦様がいらした時代や初期仏教(上座部仏教)の時代は、それが当然のことでした。ということは、「習俗」といえば、悪いこと、やってはならぬことだったのです。
どうです、同じ「習俗」でも、仏教語と現代語では大きく異なるでしょ。

そもそも「習」の意味が、仏教語と現代語では異なっているんですね。一般に「習」とえいば「繰り返し真似をして身に着けていくこと」です。まあ、学ぶことでもあるわけです。ですから、「学習」という言葉があるわけでして。
ところが、仏教の「習」は、まったく意味が違います。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
@また習気ともいう。煩悩の残りの気をいう。煩悩の臭み、残っている臭み。なごり。
A四諦の第二。苦しみの成立。集諦。
B因または縁に同じ。原因。
C縁、原因。
D実行すること。
E心に願い続けること。
F修行。
G誤った習慣性。
となっています。現代語の「習」の意味がどこにも見当たりません。強いて言えば、DEでしょうか。

「習」とは、そもそも煩悩の最終的な残りの部分を言ったようです。修行をして、煩悩を克服し、あるいはよくコントロールできるようになった者でも、完全に煩悩を克服しておらず、ほんの少しの残りかすを持っている場合、「習」がある・・・というような言い方をしたようですな。なので、「煩悩の臭み」というわけです。ちょっと下品なたとえをするならば、大便をしたあとの残り香のようなものですな。身体から不要な大便を出しても(=煩悩を克服した)、残り香(習)があるぞ、ということですな。その残り香によって、大便をしたことがバレてしまうわけです。つまり、「習」があることにより、完全な煩悩克服になっていない、というわけなのです。いやはや、出家者の修行は厳しいですな。

大乗仏教においては、実はそこまで言及することはありませんね。大乗仏教は、菩薩の教えです。誰もが菩薩になれるのだ、という教えが中心となっています。誰でも人を救うことができる、それはすなわち誰でも菩薩になれるということだ、それがお釈迦様が本当に説きたかったことだ、在家でも出家でも関係ないのだ・・・これが大乗仏教の基本ですな。つまり、俗世間において生活をしていても、他者を救うことができるのであり、それはとりもなおさず菩薩と同じなのだ、ということなのですね。ですので、俗と非俗の差がそれほど厳しくはありません。ですが、一応、出家者は基本的には戒律を守るべきである、とされていました。
ところが、明治の初めに明治政府により「坊さんも結婚をしなさい」という命令を出されて以来、坊さんの俗化が進みますな。一つ壁が崩れると、総崩れになってしまう・・・というように、一つ戒律が守られなくなると、多くの戒律が無効化されてしまうようになるのですな。まあ、戒律の中には、「なんでこんなことが?」というような戒律もありますから、総崩れになっても仕方がない部分もあるのですけどね・・・。
というわけで、坊さんは結婚をするようになります。つまり、坊さんも出家後に性交渉をしてもよい、ということになりますな。ならば、まあ、嫁だけじゃなくてもいいじゃないか・・・という意見も生まれてきますな。「どうせやっちゃんたんだから、同じだろう」的な考え方ですね。こうして、坊さんの世俗化はどんどん進み、現代にいたるのですな。

確かに、坊さんは俗化しました。しかし、多くの坊さんが「それでも我らは俗人とは違うのだ」という自覚を持っています。全員とは言いません。あくまでも、「多くの坊さん」です。いや、そんな自覚を持っている坊さんは少ないと思うぞ、という意見もあるかと思いますが、そこはちょっと横に置いてですね・・・まあ、坊さんは、俗人とは違うという自覚を持っている、のですな。ま、髪の毛を剃らない坊さんは知りませんが、多くの坊さんは剃髪をすることにより、自覚が生まれますからね。ですので、意外に「俗世間にはいるが、俗人とは違う」と思っているのですよ。
だからといって、清廉潔白な生活をしているか、といえば、それは嘘になるでしょう。もちろん、そういう清廉潔白な生活をしているお坊さんもいます。が、大半は、ごく普通の男性と同じような生活をしているのではないでしょうか。たとえば・・・。
たまには酒を飲みにいったりもするでしょう。女性が接待するような店にも行くでしょう。もちろん奥さんもいますから、性交渉もしますな。ですので、中には性風俗を利用するお坊さんもいると思います。
でも、一般男性とは異なるのですよ。どこが違うのか・・・。それはこだわりがない、ということでしょう。

俗世間にいて、俗的な生活をしていても、実は俗に染まってはいないのです。どっぷり俗人ではない、俗に染まっていない、それが坊さんの姿なのですな。これは、決して言い訳ではありません。言い訳ではないのですが、言い訳に聞こえると思います。これは、坊さんになってみないとわからない部分かも知れません。彼らは(まあ、私もたまに飲みに行ったりしますが)、決して俗に染まってはいないのですな。どこか冷めているのです。冷静なのですね。なんというか、遊んでいても、客観的なのですな。いつも冷静な自分がいるのですよ。変な言い方かも知れませんが、「身体は俗にあるが、心は俗に非ず」という感じでしょうか。

現代のお坊さんのもっとも厳しい修行は、滝に打たれることでもなく、断食してお経を読み続けることでもなく、過酷な行をすることでもありません。最も厳しい修行は、「俗世間の中に生きて俗に染まらず」ということですね。俗世間の中にいて、俗な生活をしていても、決して俗に染まってはいない・・・。そういう状態に自分自身を保つこと、それが最も難しい修行なのではないでしょうか。つまり、「習俗」してはいけない、ということですな。

あまりにも清廉潔白なお坊さんでは、とっつきにくいし、あまりにも俗人では信用ができない。俗のこともよくわかっており、認めてくれるが、自分自身は俗には染まっていない・・・・。
それが、現代に求められる理想の坊さん像なのではないでしょうか。
俗にあって俗に非ず・・・。
習俗しないように気を付けたいものです。
合掌。


119.引導を渡す
「そろそろあの者に引導を渡したほうがよいのう」
「さようですな、お代官様」
「むっふっふっふ」
などというセリフが、時代劇にはよく出てきました。まあ、最近では時代劇が受けないので、TVでもあまり見かけなくなりましたけどね。とても残念なことですな。
時代劇だけでなく、現代のドラマや映画の中にも「引導を渡す」という言葉は、たまに聞くことができます。相手に対して
「もうお前は終わりだよ」
という最後通告を言うときなどに使われますね。国語辞典で調べれば、「引導を渡す」とは
「最後の決意を宣告してあきらめさせる」
などと出てきます。あからさまに言ってしまえば、「もうあなたは用無しだよ」ということですね。
当然のことながら、この「引導を渡す」とは、仏教語です。今回は、この「引導を渡す」について、うんちくを述べていきます。

そもそも「引導を渡す」とは、葬式で亡くなった方にお坊さんが
「亡くなった方に引導を渡しました」
と言ったことから、転用されました。「引導を渡しました」という言葉を聞いた側・・・遺族や列席者・・・は、その時に「引導を渡す」の意味を「この世での生の終わりを告げる。生きることをあきらめさせる」という意味に解釈したのでしょう。本来は、「引導を渡す」の意味はちょっと異なるのですけどね。まあ、お葬式という儀式の際に、何の説明もなしに「引導を渡しました」と言われれば、「あぁ、亡くなった人をあの世に送ったのだな」と解釈されるのは当然のことでしょう。そこから、さらに転じて
「最後通告をすること。最後の決断を言い渡し、あきらめさせること」
へと解釈されるようになったのでしょう。つまり、葬式で使われた言葉が、一般に転用されたわけですね。
が、しかし、本来の「引導を渡す」はちょっと意味が異なるのです。それを知るには、「引導」の意味をまずは知らねばなりませんね。

「引導」とはどういう意味か?。おなじみの仏教語大辞典で見てみましょう。
@誘引開導の意。人々を導いて仏の教えに引き入れること。正しい道に引き導くこと。
A死者の手を取り浄土に迎えとること。臨終来迎。
B転じて、葬儀の際、導師の僧が死者に法語を与えて、涅槃常住の世界に行くべきことを教示することをいい、宗派によって、その法語・作法を異にする(以下、省略。省略部分は、後に解説します)
となっております。
「引導」の本来の意味は、@ですね。お釈迦様の正しい教え・・・仏教・・・に「誘い引き入れ、悟りを開くように導くこと」なのです。つまり、生きている人々に対して行われていたわけです。死んでからでは悟りは得られませんからね。ですから、
「引導せよ」
と言われれば、
「生きている人々に対し、その人たちを仏教に引き入れるよう、教えを説くこと」
になるのですな。まあ、俗っぽく言えば、「仏教に勧誘してきなさい」ということですね。
Aは、日本独特でしょう。浄土系の教えが流行した時・・・平安後期〜鎌倉期・・・に、阿弥陀様が死者をお迎えに来るという思想が、主に公家の間で広まりました。多くの公家たちは、阿弥陀如来が観世音菩薩・勢至菩薩、多くの天女を伴って、極楽浄土に導くという様子を掛け軸や屏風にしました。自分にいよいよ死がやってきそうになった時や亡くなった時に、こうした掛け軸や屏風を枕元に飾ったのですな。死を迎える前ならば、その絵画の様子を見て、死への恐怖を乗り越えたのでしょうね。こうした絵画のことを「阿弥陀来迎図」などと称しています。その最たる例が、「平等院鳳凰堂」でしょう。あそこは、浄土そのものを再現した寺ですからね。
ま、こうして、死者は極楽浄土へ「引導される」と信じたのですな。
さて、Bです。これが現代の「引導を渡す」の意味につながる解釈ですね。では、それを詳しく説明いたしましょう。

Bは、「死者に悟りの世界へ行くよう教える」という意味ですね。ここにある「法語」とは、宗派によって異なります。ですが、主には「この世の無常などの教えを説き、戒律を授け、出家させる」ことが主流です。出家させて、「悟りに向かって修行しなさい」という儀式を葬儀の時に行うわけです。その儀式そのものを「引導を渡す」という言葉に置き換えることができるのですな。つまり、いろいろな作法・・・出家作法など・・・を一言で済ませたわけです。
「悟りに向かって修行しなさい」という言葉は、そのまま「仏教に従って、悟りを得るように修行せよ」と導いているのですから、「引導」の意味の@に相当しますね。従って、葬式の際、お坊さんはちゃんと引導してるのですな。適当にゴニョゴニョしているわけでもなく、無意味なことをしているわけでもないのですよ。葬式は、ちゃんと意味があって行っているのですよ。
さて、このことには根拠があります。Bの意味を示した時に省略した内容がそれです。それは「増壱阿含経」という初期経典にある逸話が葬式の引導の根拠となっているのです。それをごくごく簡単に紹介しておきましょう。

お釈迦様の弟子に大愛道比丘という修行僧がいました。この弟子、若くして亡くなってしまいます。本来ならば、お釈迦様は修行僧が修行の途中で亡くなった際は、「その辺に埋めておけ」とか「燃やしてしまえ」とか「川に流せ」などというのですが、この時は、ちょっと違っていました。お釈迦様、大愛道比丘の遺体を前に、修行僧たちに
「人生は無常である、その道理を悟って、涅槃常住の世界へ入るのだ」
と説いたのですね。
この逸話がもととなって、中国では修行僧が亡くなった際には、その遺体を前にして教えを説くという儀式が行われるようになったのだそうです。これが、後に一般人にも広まっていったのですな。こうして、人が亡くなった際には、その亡くなった人を前にして、教えを説くという儀式が定着していったのですな。これが葬式の原型ですね。この亡くなった人を前に教えを説くことが、法語と言われるものです。で、その行為が引導を渡す、と言われるようになったのですな。つまり、「引導を渡す」とは、
「亡くなった者の遺体を前にして、この世の無常と悟った後は静かで永遠であるという教えを説くこと」
ということが、本来の意味なのですな。
ただし、お釈迦様は、亡くなった大愛道比丘に教えを説いたのではありません。本当はね。亡くなった者に教えを説いても仕方がないだろう、というのがお釈迦様なのです。いや、仏陀なのです。お釈迦様が言いたかったのは、修行者に大愛道比丘の遺体を見せ、
「ほれこのように、昨日まで・・・いや、つい先ほどまで元気だったものでも、死を迎えるのだ。この世は無常であり、死は誰も逃れられないのだ。そのことをしっかり認識せよ。教えを学べ。そうすれば、悟りを得ることができよう。悟りが得られれば、肉体の死は迎えるが、精神の死はない。涅槃は常住なのだよ。さぁ、修行僧よ、常住の世界を求めて、大いに修行するのだ」
と、修行僧に教えを説いたのですよ。亡くなった大愛道比丘に教えを説いたのではありませんね。なぜなら、修行は生きている間に行うものだからです。生きている間に悟らねば、悟るチャンスをなくすからですね。
そのところを後の坊さんたちは、勘違いしたのですな。いや、坊さんが勘違いしたのではないでしょう。勘違いしたのは、人々のほうでしょうね。
中国で修行僧が亡くなった際に行った儀式も、本来は生きている修行者たちに向けて行われた行為だったのだと思います。そうでないと、意味のない儀式になりますからね。しかし、やがて時が流れ、時代が変わり、人が変われば、儀式の意味も変化してしまうのでしょうな。まさしく諸行無常ですな。いつの間にか、修行僧に対して行われていた儀式も形骸化し、さらには一般の人々の間でも広がっていき、そのうちに本来の意味は失われ、生きている者たちに向けられていた教えは、死者へと向けられてしまったのでしょうね。そうして、現代の葬式が出来上がっていったのでしょう。
亡くなった者の遺体を示して「ほらこうなるぞ、だから悟りなさい」と修行者に対し教えを説いていたことが、亡くなった人そのものへ「人生は常ならず、涅槃は常住じゃ。あの世にって悟ってきなされ」と伝えるようになったわけです。つまり、引導の対象が変わってしまったのですな。

お葬式は、仏教の本当の教えを説くよい機会です。ですので、昔は「通夜説法」などと称して、お通夜の時などに、仏様の教えを説いたものです。そこで説かれる内容は、仏教の基本の教えである・・・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・・・だったのですな。つまり、亡くなった方を前にして、
「死は逃れらない、この世は常に移り変わっている、そうした世界に我などないのだ、この世はあやふやなものなのだ、だからこそ、修行をして悟りを得るようにするのだ。涅槃の世界は、たいへん静かで、心が安定しており、そして無常ではないのだよ。悟りを得られれば、常住の世界に行けるのですよ」
と遺族に説いていたのですな。いや、本来はそうするべきなのです。本来、引導すべきは遺族なのですから。
まあ、しかし、下手に説法なんぞすれば、
「こんな時に縁起でもない!」
と怒られてしまいますな。それほど、僧侶の立場は弱くなり、人々は聞く耳を持たなくなったのでしょうなぁ。悲しいことですね。

さて、世の中には、引導を渡さねばならないような人もいます。もちろん、生きている方で、です。偽の宗教家しかり、経済界に君臨する老害の者もしかり、核兵器の実験を繰り返し世界に脅威を与えるマッドな指導者もしかり、関係のない人々を巻き込むテロリストしかり・・・・。まあ、世の中には引導しなければいけない人々はたくさんいますなぁ。
えっ?、あなたの家にもいるって?。あぁ、なるほど、口うるさい身勝手な老人ね。まあ、そういう老人は、いずれお坊さんが引導を渡してくれますから、しばらく待ってください。
えっ?、引導は生きているうちに渡すものだといったじゃないかって?、えぇ、まあそうなんですが・・・。そういう老人には何を言っても通じませんからねぇ。ま、死んでからでも遅くはないでしょう。それも引導を渡すことですからね。
合掌。


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