えっ?!

こんなところに仏教語!

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120.睡眠
春眠暁を覚えず。
春ですねぇ。もう毎日眠気が抜けないですな。本当に春は眠たいですね。
睡眠は、大変大事な行為ですね。ちゃんと睡眠時間を取っていないと、健康にも影響します。また、睡眠不足は、身体に悪いばかりでなく、仕事にも差し障りが出るでしょうし、運転をされる方などは、大きな事故につながりかねません。睡眠は、人間にとって大変重要な行いなのですね。
ところが、そんな大事な睡眠なのですが、仏教では、睡眠の扱いが悪いんですな。睡眠を悪者扱いしているようなところがあるのです。今回は、仏教の睡眠についてお話しいたしたいと思います。

仏教では、睡眠のことを「すいめん」と読みます。変な読み方ですね。意味は、当然のことながら「眠ること」なのですが、ちょっとニュアンスが一般の睡眠とは異なります。簡単に言えば、「眠ること」ではなく、「居眠りをすること」なのです。居眠りですね。つまり、ちゃんと眠るのではなく、「うとうと眠ってしまう」ことを言うのですな。
仏教語大辞典では、このように解説しております(難解な部分は省略してあります)。
@うとうと居眠りをすること
A心をくらます心作用。心の鈍重さ。睡は、意識がぼんやりして刺激反応の起こらぬこと。眠は、眼・耳・鼻・舌・身が働かないこと。
B迷うこと
C眠ること
Cについては、日本での使用例であり、本来の仏教語での使用はありません。ですので、仏教語の意味としては、@〜Bとなります。

そもそも仏教では、睡眠は「意識がはっきりしていない状態」(Aの意味ですね)のことを言います。これは、仏道修行にとっては、大問題ですな。ぼんやりしていては、修行になりません。つまり、仏教の修行においては、睡眠はダメなのです。
とはいえ、眠るな、という意味ではありません。仏教でいう睡眠は、修行中についうっかり寝てしまうことを意味しているのですよ。私たちが一般的に言う「睡眠」とは意味が違うのですね。
たとえば、授業中に先生の話が子守唄に聞こえて寝てしまった・・・ということはないでしょうか?。私などは、しょっちゅうありましたが・・・。このように大事な時に「つい寝てしまった」、「うとうとしてしまった」ということを仏教では「睡眠(すいめん)」というのですね。これは、当然注意されますし、怒られたりしますな。

お釈迦様の弟子にアヌルッダという方がおります。この方、盲目でした。しかし、生まれつきの盲目ではありません。それには理由があります。
ある日のこと、お釈迦様が教えを弟子たちに説いていました。ぽかぽか陽気の過ごしやすい昼下がりのことでした。お釈迦様が説く教えを、みんなしっかりと聞いています。そんな中、一人の修行僧がコックリコックリ居眠りをしてしまいました。それはアヌルッダでした。お釈迦様もそれに気付きます。周りにいた修行僧も彼をつついて起こそうとしますな。でも、彼は起きません。結跏趺坐(座禅を組んだ状態)をしたまま、コックリコックリしています。お釈迦様は
「まあ、よいではないか。放っておきなさい」
と言って、話を進めました。
お釈迦様の法話が終わり、弟子たちもそれぞれの場所に戻り自分の修行を始めました。その時になって、アヌルッダも目を覚まします。きっと、「あっ、ヤバイ、寝ちまった・・・」と本人も思ったことでしょう。「注意される・・・」とも。まあ、その通りで、アヌルッダ、お釈迦様に呼び出されますな。
「大事な教えの時に居眠りをするとは・・・。汝は何のために出家したのだ?。出家した時の志を忘れているのではないか?。しっかり身を入れて修行に励みなさい」
このように注意されたアヌルッダ、大いに反省しますな。否、反省し過ぎてしまいます。というのも、彼は
「今後絶対寝ないと誓います。私は、悟りを得るまで寝ません!」
と宣言し、それを実行しますな。悟るまで寝ない、眠らないという行を始めてしまったのです。
これは、完全に苦行ですな。お釈迦様は苦行を禁止していました。そこで、アヌルッダに眠るように進言しますが、「今は眠るときではありません」とお釈迦様の進言すら拒否しますな。やがて、眼が見えなくなり、その代わりに心の目が開きますな。そう、眼が見えなくなったと同時に、彼は悟りを得たのです。
このように、睡眠は、仏教においては、敵なのです。したがって、人間の基本的欲望である「睡眠欲」は、「凡人がただただ惰眠をむさぼること」として、嫌悪されるべき欲望なのですよ。

誤解をしないでくださいね。仏教では「眠ってはいけない」と説いているのではありませんよ。惰眠を貪るな」と説いているのです。その惰眠とは、修行中のような大事な時に寝てしまうこと、を意味しているのです。

皆さんは、木魚をご存知ですよね。そう、お坊さんがお経の時に「ポクポク」と叩いている木製のアレです。真言宗では、あまり叩くことはありませんが、お坊さんと言えば、木魚を叩いているイメージがありますよね。あれ、なぜ「木魚」というか、ご存知でしょうか?
「木」はわかりますよね。木製ですからね、アレは。でも、どうして「魚」なのか?
昔は、魚は眠らないと言われていました。確かに、魚はまぶたを閉じません。ですから、寝ない・・・と思われていたのでしょう。また、じーっとしていても、ちょっとした振動などで、すぐに動き出しますよね。そうしたことからも、「魚は寝ない」と信じられていたようです。
お経を読んでいると、眠たくなります。あれって、読んでいるお坊さんでも眠たくなるのですな。きっと、昔のお坊さんもそうだったのでしょう。で、「魚を見習って眠るな!」という意味を込めて木魚が考案されたらしいのですな。お経中に、「ポクポク」音がなれば、寝ないだろう、ということですな。まあ、余計に眠たくなる・・・とも思うのですが、昔の人はそうは思わなかったのですね。
もともとは、頭蓋骨に魚の絵を描いたらしいのですが、頭蓋骨を使うのもねぇ・・・ということで、木製で頭蓋骨風に造り、魚の彫を施したのだそうです。ま、それはいいのですが、あの木魚は、お経中の「居眠り防止」のためのものだったのですよ。

授業中に、あるいは会議中に居眠りをしてしまうあなた。特にこの時期は、ついついウトウトしてしまいますよね。つまらない授業も、上司のくだらない話もいい子守唄に聞こえますな。この時の睡魔と闘うのは、本当につらいものです。まさしく睡魔・・・睡眠の悪魔・・・ですな。
私も春は特に眠たいですな。どちらかというと、睡眠時間を長くとらないと身体に応えるタイプなので、ちょっと睡眠不足をすると、この時期は眠気が襲ってきますなぁ。いや、ちょっと時間があったら、いくらでも寝てしまいそうですな。もちろん、お経中に眠ることはありませんけどね。
しかし、お釈迦様のように怒りたくなるのは、国会議員さんの居眠りですね。いくらつまらない答弁だといっても、議員さんが審議中に眠っちゃあいけないでしょう。しかも、国民が見守る前で堂々と眠っちゃあだめですよね。
「何のために国会議員になったのだ?。国民のため、この国をよくするために国会議員になったのであろう?、それが居眠りをするとは・・・。少しはアヌルッダ尊者を見習え!」
と怒りたくもなりますよね。
「この国がよくなるまでは、絶対に睡眠はとらない!」
と宣言するような国会議員は・・・・いませんよねぇ。いたら、怖いですな。

春です。春眠暁を覚えず。ま、それもいいと思います。寝不足をして、とんでもない事態を引き起こすよりは、しっかり睡眠をとり、バッチリ目覚めて、すっきりした頭で仕事や勉強に励みたいですからね。
合掌。


121.是非
「是非、お願いいたします」
とお願いをする方は、世の中にたくさんいらっしゃることでしょう。私も法会(ほうえ)の案内などを作るときは、
「万障お繰り合わせのうえ、是非ご参拝のほど、よろしくお願い申し上げます」
などと書きます。こんな堅苦しい文章ではなく、日常でも軽い口調で使ったりしますよね。たとえば、
「今度、遊びに行くね」
「うん、是非来てくださいよぉ」
みたいな感じで。
しかし、よくよく「是非」という言葉を考えてみると、なんだか妙じゃないですか?。「是に非ず」と書いてあるんですよ。「是に非ず」ってことは、否定的な感じがしません?。ですが、お願いなどするときに「是非に」などと使います。
「是非」は、本来は「是」と「非」と分けて使用されていたようです。これも、元は仏教語、とくには禅の言葉だったのですな。今回は、この是非・・・是と非・・・について、お話しいたします。

まずは、「是非」を仏教語大辞典でみてみましょう。
@対立する二つのものの一方に執着すること。
A善いと悪いの区別。正しいか、間違っているかということ。
Bいさかい、賛否の議論。
もともとの「是非」も現代の意味とは、異なっています。本来的な使用は、@ですな。
@は、たとえば、仏教教団内で二つのグループがいさかいを起こしたとします。で、仲裁に入った者が、片方をひいきしたとします。そこにお釈迦様が現れて、「これこれ、公平に見なきゃいけないじゃないか。君は、片方に肩入れしているよ」と注意したとします。これを一言で言ったのが、
「汝、是非なり」
なのですよ。「ひいきしちゃあだめだよ、公平に、平等に判断しなさい。君、偏っているよ」ということを、一言で済ませることができるのですな。すごい言葉ですよね。
たとえば、偏見を持っている人には「君、是非だね」と言えるわけです。まあ、そんなことを言っても通じませんけどね、現代では。
Aは、「是」が善であり、正ですね。「非」が悪であり、間違いとなります。「是非を問う」という場合がこの意味に当たりますね。Bも同様ですな。「これは是か非か?」と問う場合が、Bの意味になります。ABの使用は、現代でも大丈夫ですね。

そもそも「是非」は、「是」と「非」からできている言葉です。正反対の意味の言葉をくっつけて単語にしたわけですな。この「是」と「非」は、主に中国の禅宗で使用されていたようです。それがそのまま日本に伝わっています。また、経典を漢訳するときに、「是」や「非」を使用しました。「是」は主に「これ」と言う意味で、あるいは、「肯定」や「正しいです」と言う意味で使用したり、漢訳の際に使ったりしています。「非」は当然ながら「あらず」の意味ですね。
一応、「是」と「非」の意味を仏教語大辞典で確認しておきましょう(難解な部分は省略しました)。
*「是」
@「・・・それは・・・」と、主語をもう一度代名詞で言いなおしたもの。
A正しい。適切。正しく妥当であろうとすること。
Bこれだといって示すこと。
C
1、「是也」は、文尾において、・・・というわけである、の意。
2、「是非也」は、文尾において、・・・というのは正しくない、の意。
3、「為是」は、まさにそうである、の意。
4、「是以」「以是」は、その結果、の意。
5、「是之謂」は、それは次のようによばれる、の意
6、「是猶」は、あたかも・・・のようである、の意。
7、「是用」は、4に同じ。
8、「是謂」は、5に同じ。
9、「豈是」は、「不是」に同じで、それは・・・でない、の意。もしくは、・・・であるのか、の意。
10、「是非」は、それは・・・でない、の意。
と、まあ、このようになっているのですが、Cは、仏典の漢訳における「是」の使用例です。「是」が、このように使用されていたら、このような意味である、という決まり事ですな。
本来の「是」の意味は、Aですね。「我是」といえば、「私は正しい」の意味になりますな。単に「是」といえば、「はいそうです」とか「それは正しいです」とかの意味になります。肯定の意味ですね。

*「非」
@「ひす」「そしる」とよむ。排斥する。否定する。反対する。
A甲と非甲とのどちらでもないこと。
Bつみ、とが。あやまり。
「非」の方は、これだけの意味しかありません。主に「非」と言えば、「いいえ」の意味で使われています。たとえば、何か問われて「非」と答えれば、それは「いいえ」とか「NO」の意味になります。
Aは、よく問答で出てくる使われ方ですね。「Aにあらず、Aでないにあらず」、「Aではない、Aでないということでもない」という使われ方ですね。
たとえば「非空非非空」といえば、「空に非ず、空でないことに非ず(空ではない、空ではないということでもない)」となります。「非一非非一」と言えば、「一に非ず、一でないことに非ず(一でもなく、一でないこともない)」となりますな(この「非一非非一」は、主に「一乗(法華経や涅槃経の教え)」のことを示す場合が多いです。この世は一であるかどうか、という禅問答にもあるかもしれません)。
余談ですが、「非愛」と書けば「愛に非ず」なので「やさしくない、荒々しい」の意味になりますが、「非悪」と書くと、なぜか「悪い行為」という意味になるのですな。「悪に非ず」とはならないんですねぇ。ここが不思議なところです。まあ、余談ですが・・・。

さて、「是」と「非」の意味は、お分かりいただけたでしょうか。ちょっと問答形式でその使用例をご紹介しましょう。
師「悟りは修行で得られるか?」
弟子「是」(はい、そうです。悟りは修行で得られます)
師「悟りは修行で得られないか?」
弟子「是」(はい、そうです。悟りは修行で得られません)
師「悟りは修行で得られるといい、また得られないという。その是非、如何(それはどちらが正しいのだ)?」
弟子「非得非非得(ひうひひう)也」(得られるに非ず、得られないに非ず)
師「是也」(よろしい)
と、まあ、こんな感じですね。ちょっとわかりにくいので、解説しましょう。
師が
「悟りは修行で得られるのか?」
と弟子に聞いてきたので、弟子が「得られます」と答えたのですな。そこで師は、
「悟りは修行では得られないのか?」
と再度質問してきたので、弟子はそれに対し「はい、悟りは修行では得られません」と答えたのですな。
ここでもし、「悟りは修行で得られますよ、修行で得られないことはありません」と答えたならば、きっと師に「じゃあ、お前はなぜ悟りを得ていない?。修行をしていないのか?」と問い詰められていたでしょう。なので、弟子は「修行をしても悟りを得られるわけではない」と答えるしかないのですな。
すると師は
「さっき、悟りは修行で得られるといったじゃないか。それなのに、今度は悟りは修行では得られないという。矛盾しているだろ。どっちが正しいのだ」
と問い詰めたわけです。当然、突っ込みますな。矛盾していますからね。すると弟子は、
「悟りは修行で得られることもあるし、修行をしても得られないこともある。どちらも正しいのです」
と答えたのですな。で、師は、「よろしい、合格じゃ」と言ったわけです。この弟子は、「悟り」と「修行」の関係をよく理解していた、ということですね。
ということで、「是」と「非」の使用例がわかっていただけたのではないかと思います。まあ、ちょっと難しいですけどね。

ちなみに、「是非、お願いいたします」という場合の「是非」は、「いい悪いは関係なく、お願いしますよ」という意味ですな。まあ、言ってみれば「あなたの都合など関係なく、お願いしますよ」という意味なのですな。実に厚かましいお願いの仕方なのですよ、本当はね。
そう思えば、あぁ、なるほど、と思うことがありますよね。そう、選挙の時のお願いですな。候補者の方が、
「是非、是非、私にあなたの清き一票を!」
と叫んでいますな。本当にうるさいのですが、あれは
「あなたの都合などどうでもいいのです。私が悪い人間であろうが、よい人間であろうが、そんなことはどうでもいいから、票をくれ!」
という意味だったのでしょうねぇ。そういうことなら、納得できますな。本当は、「是非」を問うのが選挙なんですけどねぇ。「是非」の使い方には、要注意ですな。
合掌。


122.大丈夫
昔・・・私がまだかわいらしい幼子のころのこと(うっざい言い方ですみません)・・・TV番組で「仮面の忍者 赤影参上」という特撮番組がありました。そう赤影さんです。ご存知の方も多いと思いますが、その中で青影さんという忍者がいました。まだ少年でしたね。その青影さんが、ピンチになりますと
「大丈夫」
といって、手を広げ鼻に親指をあてるシーンがありました。子供たちは、何かあるごとに「大丈夫」といって、青影さんのマネをしましたな。別に大丈夫でなくても、大丈夫という場面でなくても、「大丈夫」と言ってマネをしたものです。
この大丈夫、いまでは、「問題ない、平気です」という意味合いで使うことが多いですが、仏教ではまったく意味が違います。ちなみに、丈夫も意味が異なりますな。仏教語の「大丈夫」と「丈夫」は、現代私たちが使っているそれの意味とは全く異なるんですよ。
今回は、この大丈夫と丈夫について、お話をしたいと思います。

まずは、一般的な国語辞典で「大丈夫」を調べてみましょう。
@大いに健康であるさま。
A危なげのないさま。確かであるさま。
となっています。ちなみに、「大丈夫」を「だいじょうぶ」と読まずに「だいじょうふ」と読めば、「立派な男子」という意味になります。「夫」の読み方が「ぶ」か「ふ」で意味が変わるんですね。まあ、「だいじょうふ」と読むようなことは、まずないですけどね。

では、「丈夫」はどうでしょうか?。
@病気に侵されないこと
Aこわれにくいこと。堅固なこと。
となっています。
まあ、「大丈夫」も「丈夫」も、国語辞典に書いてある意味に特に疑問も何もないですね。全くその通りです。

ではでは、仏教語としての「大丈夫」と「丈夫」を見てみましょう。おなじみの仏教語大辞典です。
まずは、「大丈夫」からです。
@偉大な人をいう。菩薩をさす場合もある。
Aアートマンのこと。
解説は後にしまして、次に「丈夫」を見てみましょう。
@男のこと。
A正道を直進して退転しない者。勇気ある者。
B世界原因としてのプルシャ。ヴェーダ聖典などに説く世界創造者。
C夫のこと。
Dきみ。呼びかけの語。
となっています。どうですか、現代の「大丈夫」、「丈夫」と意味が全く異なるでしょ。

ちょっとわからない語があるので、先にそれを解説しておきましょう。まずは、「大丈夫」Aの「アートマン」ですね。
「アートマン」とは、正義の味方の名前とかではありません。「我」のことです。「我、己、自分」ですね。それをサンスクリット語で「アートマン」というのですな。
次に、「丈夫」Bの「プルシャ」ですね。「プルシャ」とは、インドの哲学で「最初の人間」のことですな。あるいは、「世界の根本物質」とでも言いましょうか。ここでは、この世界を創った「人物」という意味ですね。インド哲学では、世界は、ある一人の人物が創ったとされているそうです。

さて、如何でしょうか?。現在の「大丈夫」、「丈夫」の意味とずいぶん異なりますよね。「丈夫」から「大丈夫」が派生たのでしょうが、そもそも「丈夫」は、特別な存在者のことを意味したようですね。そこから、正道を歩み、修行をする男性を示した言葉へと発展したようです。つまり、「この世を創った創造主のような修行をするもの、あるいはそうした修行者」という意味だったのでしょう。そこからさらに、「そういう人はきっと心身ともに健康であり、しっかりしているであろう」ということから、「丈夫」が「堅固、健康」という意味に発展したのではないかと思います。確かに、この世を創造するような人物は、心が捻じ曲がってはいないでしょうし、身体だって健康で堅固でしょう。
そうした「丈夫」のさらに上を行くのが「大丈夫」なのですから、「大丈夫」は「単なる正道を歩む修行者」だけではなく、「もっと偉大な修行者」となりますから「菩薩」を示すことにもなるのですな。

また、インド哲学に「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想があります。これは、「我と宇宙は一つである」という意味です。この思想が仏教に取り入れられ、密教の「仏と自分が唯一無二になる。入我我入、仏と我は不二一体」という思想が生まれるんですね。つまり、「我も宇宙も一つ(梵我一如)=我も仏様も一つ(不二一体)」ということですな。
「丈夫」は宇宙の創造主のことでした。それがさらに発展し、「大丈夫」になると、宇宙の創造主と自分は一体だ、という思想になります。つまり、これ「梵我一如」ですな。したがって、「大丈夫」は、「創造主=我」ということになります。そこから、「大丈夫」の意味でAのアートマンを示すことが出てくるのですね。

宇宙の創造主と自分が一緒・・・・そりゃ、大変ですな。というか、自分が宇宙の創造主くらいになれば、これはもう絶対安心ですな。大いに健康でしょうし、まったく危ないことはないでしょう。なにせ、宇宙の創造主と自分は同じなのですから。こんな堅固なことはありません。なにがあっても平気ですな。
ということで、現代の「大丈夫」の意味になってくるのです。つまり、現代の「大丈夫」の意味、「危なげないさま、確かであるさま」は、そもそもは「宇宙の創造主と自分は同じなのだから絶対安心」という思想から生まれたわけですね。
ということは、「大丈夫」といえば、「宇宙の創造主と自分は一緒なんだから絶対安心だよ」というくらい「安心」できる状態なのですよ。軽く、「大丈夫、大丈夫」なんて言ってますが、とんでもなく大きな意味だったんですねぇ。これじゃあ、下手に「大丈夫」なんて言えませんな。

さて、世の中、アベノミクスなるものが闊歩しております。それを提唱している当の御本人は、「大丈夫です。日本はこの先、豊かになります」などとおっしゃっていますな。「大丈夫」を連呼しております。
しかし、その「大丈夫」は、本当に大丈夫なのでしょうかねぇ。一度聞いてみたいですな。
「宇宙の創造主とあなたと一緒というくらい、つまり、あなたが神のような存在であるから絶対安心、という意味で大丈夫と言っているのでしょうか?。それとも、口先だけの軽い大丈夫なのでしょうか?」
とね。
現代語の「大丈夫」程度の「大丈夫」ならば、あまり安心はできないし、信頼できませんなぁ。せめて、
「いやいや、私は神の如き、この宇宙を創造した者の如きの働きをしますから、安心して下さい。真実の大丈夫ですよ」
と言って欲しいものですな。ま、無理ですか、それは・・・。
合掌。


123.修羅場
「修羅場」・・・もちろん、私はそんな経験はありませんが、話にはよく聞きます。ここを読んでいる方の中にも、ひょっとしたらおぞましい修羅場を経験してきた方がいらっしゃるかもしれません。また、昔から、ドラマや映画、小説には頻繁に登場するシーンですよね。なので、普通に
「それ、修羅場だよね」
などと使っている方もいらっしゃることでしょう。よく知れ渡った言葉ですね。
この修羅場、正確には仏教語ではありません。おそらくは、これは日本で作られた造語でしょう。いつ誰が造ったのかは知りません。ですが、一部に仏教語が含まれています。そう、「修羅」ですね。これは、まぎれもなく仏教の言葉です。ということで、今回は、修羅場についてお話しいたします。

修羅場、といえば、皆さんはきっと、
「男女のもつれなどでの、激しい争いのシーン」
を思い浮かべるのではないでしょうか?。たとえば、夫が不倫をしていて、それが奥さんにバレ、奥さんが相手の女のところに夫がいるときに乗り込み、
「この泥棒猫が!、お前なんか、許さない、キーッ!」
などと叫んで、取っ組み合いのケンカが始まる・・・あまりにもベタ過ぎなのですが、よくある話なんですよね、これが。まさしく安物のドラマや三文芝居、受けない小説・・・によく出てくるシーンなのですが、現実でもよくある話なのです。
そもそも「修羅場」は、一般的な辞書によりますと、
「激しい戦闘や闘争の場面」
のことでした。激しい戦争や、そうした戦争での惨劇の後などの状態を示すときにも用いられますね。皆さん、それはよくご存知だと思います。

さて、この修羅場、どうしてそのような意味の言葉になったのか。それは、「修羅」という言葉から生まれたからなのです。修羅の場所、ということなのでしょうね。
修羅とは、本来は「阿修羅(あしゅら)」のことです。阿修羅の「阿」を略したのですな。
阿修羅といえば、これも皆さんよくご存知でしょう。一時、阿修羅像が公開されたとき、大ブームを巻き起こしましたからね。阿修羅ファンが急増しました。「仏像ガール」などという女性も現れ、仏像ブームへと発展しましたな。それも今では、どこへやら・・・。人の心の移り変わりは激しいですねぇ。あの阿修羅ブームはどうなってしまったのか、仏像ガールはどこへいってしまったのか、はなはだ疑問に思いますな。

ま、それはいいとしまして、阿修羅と言えば、一般的には「戦いの神」とされていますな。ま、これ誤解なんですが、それは後でお話しします。
阿修羅、修羅・・・は、仏教では「争いの世界」を示す言葉ですね。阿修羅界、修羅道などと言います。六道輪廻の世界では、下から4番目・・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天・・・ですな。人間界の下にあたります。
この修羅の世界、いつも激しい戦闘や戦争をしている世界です。怒りの世界でもありますな。ですので、この世界に生まれ変わると、いつも激しい戦争をし続けなければなりません。
こんな話があります。
関ヶ原の合戦の跡地に行くと、今でも西軍と東軍が戦っている・・・のだそうです。見える人には見えるのですな。遠くの山にぼんやりと、切りあっている姿があるのだそうです。いまだに修羅の世界から抜け切れていないのですな。もう400年以上時が流れているというのに、いまだに戦っているのですな。これ、修羅の世界です。
生きているときに、人と喧嘩ばかりしたり、争ったりしたり、怒ってばかりいたり、何かと人に因縁を吹っかけて争いごとに巻き込んだり、たかったり、いじめたりしている者は、修羅の世界へ行くことになりますな。ま、程度が激しければ、地獄へ行って、餓鬼へ行って、畜生を経て、修羅の世界、となりますけどね。そうすると、修羅の世界へ行けるのは、何万年先になるのでしょうか?。恐ろしいですな。悪いことはできません。
いずれにせよ、修羅の世界・・・修羅道・・・とは、そうした争いの世界のことなのですな。ですので、昔からヤクザの世界のことを修羅道とも言いますな。昔のヤクザ映画や任侠ものの映画などには、「修羅道」とか「修羅」の文字がタイトルやサブタイトルについていることが多々ありますな。あるいは、セリフの中で
「俺たちゃあ、修羅の世界に生きるもんじゃけん」
などという言い回しも出てきますな。つまり、一般的に「修羅」と言えば、「激しい争いの世界」という意味が定着していたのですな。
そこから、「激しい争いの場」、「まさに今、激しい争いが行われている場面」を表す言葉として、「修羅場」が生まれたのでしょう。仏教語が形を変えて、一般的な言葉として定着したのですな。
こんな言葉として日本で使われるなんて、阿修羅天も、想像していなかったでしょうねぇ・・・。

修羅とは、阿修羅のこと、と先ほど書きました。では、阿修羅とは?。
阿修羅とは、実は元は天部の神様だったのですよ。そう、古代インドの神様ですな。サンスクリット語では「アスラ」といいます。
元々は、善神でした。正義を司るいい神様だったのです。ところが、インドラ神である帝釈天に執拗に戦いを挑み、それを止めなかったため、善神から海底の世界へ落とされてしまったのですな。阿修羅の世界は、海の底、海底深くにあります。
この話は、あちこちに書いてありますので、もう皆さん「よく知ってるよ〜」と思われるかもしれません。ですので、簡単に書いておきます(いろいろ説がありますが、最も知れわたったものを書きます)。
ある日、帝釈天が空中を飛んでいると、お花畑にとても美しい女性がいました。女好きの帝釈天、これを見逃すはずがありません。さっとお花畑に降りてきますと、その女性をナンパし、その場で押し倒し、関係を結び、自分の城へ連れて帰ります。で、今までいた妃や妾を退け、その女性を第一妃にします。ナンパされた女性も、もともと帝釈天のことが好きで、妃の一人なりたい、と望んでいたので、夢がかなったことになります。帝釈天も満足、その女性もウキウキですな。二人はラブラブな仲になります。
ところが、これが気に入らない者がおりました。それは、その女性の父親・阿修羅です。
「おのれ、帝釈天め、うちの大事な娘をかどわかしやがって!」
と怒り心頭。もう絶対許さない、と帝釈天に戦争を仕掛けますな。「娘を返せ、この野郎!」という理由で宣戦布告をしたのです。
そもそも阿修羅は、自分の娘を帝釈天と結婚させる予定でした。娘もそれを望んでいたことを知っていましたし、帝釈天の嫁ならば・・・とも思っていたのです。ですから、結果的には、帝釈天の嫁になったのですから、「まあ、いいか」で済ませばよかったのですが、なにせ「正義の神」ですから、阿修羅は。筋の通らないことが許せないのですな。正義は、それにこだわると、時に狭量となります。結果はともかく、現状はどうでもよく、とにかく筋を通せ、とこだわってしまうのですな。また「俺の顔に泥を塗りやがって!」という思いもありますな。正義感が強いと、融通が利かない・・・こういう話はよくありますね。あまりにも激しく正義を貫けば、それが悪となる場合もあるのですな。阿修羅がそうなってしまったんですねぇ。
こうして阿修羅は帝釈天に戦争を仕掛けますな。しかし、帝釈天、何といっても神々の帝王です。阿修羅なんぞが、戦いを挑んできても屁でもないですな。自分は戦いには出ないで、兵士にやらせても勝てますな。戦争を仕掛けてくる義理の父親の前で、二人でラブラブですな。これがまた、阿修羅の怒りを増大させますな。
ま、しかし、いくら戦いを挑んでも阿修羅は勝てません。最初は面白そうに見ていた他の神々も、いい加減に飽きてきますな。で、
「阿修羅もさ、もういい加減に戦争やめたら?。あんたの娘だって、すっごく幸せになっているじゃない。あの浮気者の帝釈天が、あんたの娘だけ可愛がっているんだから、もう戦いなんてやめなよ」
と止めに入りますな。しかし、阿修羅は、そんな言葉は聞き入れません。
「いんや、許せん。娘が今、幸せだろうがなんだろうが、俺はあいつが許せなんだよ。もともと、俺はあのチャラチャラした帝釈天が大っ嫌いだったんだ。あんな浮気者で、女にだらしがないヤツが神々の帝王ってのが許せないんだよ。とにかく、あんなヤツ、やっつけてやるんだ。それまで、俺は戦いをやめないぞ」
阿修羅の怒りは収まりませんな。他の神々、それでも阿修羅をなだめます。
「でもさ、帝釈天がやられちゃったら・・・まあ、ないとは思うけど・・・あんたの娘だって、不幸になっちゃうよ」
「そんなことはどうでもいいんだ。ともかく、俺は帝釈天が許せないんだ!」
こんな阿修羅に、神々は見切りをつけますな。
「もう、あいつダメだ。あそこまで行くと、もう神じゃないね」
ということで、神々が話し合った結果、阿修羅は神々の世界・・・天界・・・から追放され、「頭を冷やせ」という意味で、海底に鎮められてしまうのですな。しかし、海底に沈んでも、阿修羅の怒りは冷めず、いまだにカッカ怒っているのです。で、帝釈天に戦いを挑もうとしているのですな。哀れなものですな。
こうしたことことから、阿修羅は、戦いの世界そのものになったのです。

ちなみに、あのブームを巻き起こした阿修羅像は、若いころの阿修羅ですな。つまり、まだ正義の神のころの阿修羅像です。「いかに人々の心に正義を植え付けようか・・・。人々の心は悪に満ちているからなぁ・・・」と悩んでいる姿が、あの像なのですな(だと私は思っています。説はいろいろありますが・・・)。

しかし、正義も、それにこだわってしまうと、怖ろしいですな。正義正義と声高に叫んでも、そのうちに元の正義の意味が失われてしまう場合もあります。あるいは、一方にとっては正義であっても、立場が変われば、もう一方にとっては迷惑な話、ということもあります。宗教戦争がこれに当てはまりますな。片方の宗教にとっては正義なこと、正しいことであっても、一方の宗教にとってみれば、正義でもなんでもない、むしろ悪である、ということは、しばしばあることです。自分にとっての正義が他人にも通用する、というのは大きな勘違いですな。
正義は、悪いことではありません。しかし、それにこだわって、相手の立場や、その状況を理解せず、ただただ正義を振りかざすのは、大きな間違いでしょう。そこを理解しないと、阿修羅はいつまでも海底の底ですな。
いつか、阿修羅が自分の愚かさに気が付く日が来るのでしょうか?。そして穏やかに、正義を説く日がくるのでしょうか・・・・?。そうなるといいのですけどね。
合掌。


124.施設
夏ですね。世間では、学校は夏休みに入っています。ご家族で、あるいは友達同士でいろいろな施設を利用して、夏を満喫するのでしょうなぁ。プールに海に旅行に・・・大いに楽しんでいただきたいものです。
そうした旅行やレジャーでは、行った先での施設の善し悪しが気分に大きく影響をしますな。宿泊施設が掃除が行き届いていないとか、壊れているとかだと、せっかくの楽しみもがっかりしてしまいます。ましてや、幽霊が出た・・・な〜んてことになったら・・・。ま、それはそれでいい思い出になりますかねぇ。
「○○の宿泊施設で幽霊となう」
なんて、ツイッターとかでつぶやいたりして。ま、そんな大それた人はいませんよね、いくらなんでも。
さて、この施設ですが、一般的には「しせつ」と読みますな。しかし、仏教語では「せせつ」と読みます。そう、仏教の世界でも施設という言葉は存在しているんですね。今回は、仏教語の施設についてお話しいたします。

現在、我々が使用している「施設」は、「しせつ」と読みます。意味は・・・皆さんよくご存知だと思いますが・・・一応示しておきますと、
@ある目的のために、建物などの設備を準備すること。また、その設備。
A特に、児童養護施設・老人施設など、福祉関係の建物や組織。
と、国語辞典にはありますな。
一方、仏教の方では、「施設」を「せせつ」と読みますな。いや、これでは説明不足でして、奈良仏教時代は「せせつ」と読み、京都に都が移ってからは「しせつ」と読んだようです。しかし、仏教語としては、「せせつ」と読むのが主流のようですな。
意味は、現代の施設の意味とは異なります。おなじみの仏教語大辞典によりますと、
@想定すること。
A実在はしないが、何ものかを設定すること。安立、建立、発起の意。
B省略
C教えの立て方。論じ方。
D仮定。
E禅僧が修行僧を導くために設けるさまざまな方法・手段のこと。・・・中略・・・特殊なものをいう。
えー、説明が難しくなりそうな内容は、特に影響はないので省略いたしました。

仏教語大辞典を見てもわかりますように、仏教語での「施設」は、想定すること、が主な意味なのです。つまり、実際には存在していないが、「仮にこういうものがあって・・・」とか「たとえばこういうものを想定したとして」とか、仮の話やたとえ話のことを「施設」と言ったのですね。
お釈迦様は、教えを説くときに、よく「仮にこうだとしたら・・・」という話をされました。あるいは、「たとえば、こうだったとしたら」などとたとえ話も多用しました。それは、仏教の教えを直接話すと、難しい場合が多く、理解が困難だったからです。なので、方便として、たとえ話や仮の話をして、仏教の教えをわかりやすく説明したわけです。その方法、やり方を「施設」と読んだのですね。たとえば
「シャーリープトラよ、そのようなことは難しすぎて民衆には理解できないであろう。施設をもって説くがよい」
というように使用したわけです。このように言われたシャーリープトラは、たとえ話などをして、わかりやく教えを説いたのですな。
これが、@ACDの意味です。ちなみに、Bは、密教系のことに関することで、えー説明をすると益々わかりにくくなると思われるので、省略しました。
Eは、禅宗に関しての意味ですな。禅では、弟子に教えを説くのに、いろいろな方法を使います。紙や筆を買ってこさせ、
「これじゃあダメだ、買い直して来い」
などと言って、何度もお使いに出し、最終的に
「まだわからんのか!」
などと罵声を浴びせ、「実はな・・・・」などと教えを説く場合があったりします。あるいは、昔の禅僧などは、わけのわからない問答を吹っかけてみたり、
「わしの悟りはこうじゃ!」
などと言って相手を殴ったり、張り倒したりする場合もあったのですな。
こうした特殊な問答や、導きのことを禅で「施設」とよんだそうです。たとえば師が
「う〜ん、あいつにもそろそろ施設による導きが必要じゃな」
と思えば、弟子に対し、特殊な手段による教えを施すわけですな。これを施設といったのです。これがEの意味ですね。

つまり、仏教での「施設」とは、「実際にあるもの」ではなく、「仮定のもの」や「手段、方法」のことを意味しているのです。現在使われている「施設」とは、まったく異なるどころか、ある意味正反対の内容になりますな。現在の「施設」は「実際にあるもの」を意味していますからね。いったい、いつから意味が変わってきてしまったのでしょうか?

と、疑問形で書きましたが、そもそも「施設(せせつ)」と「施設(しせつ)」が、関連しているかどうかもわかりません。仏教語の「施設」が、一般的な「施設」になったのかどうか、それはわからないのですね。仏教語での「施設」は、鎌倉時代にはまだ使われていたようですが、それ以降は、ちょっと不明ですな。真言宗では、現代では「施設」という言葉は、もっぱら設備のこととして使いますな。つまり、現代語の「施設」ですね。仏教語の「施設」は使いません。
禅宗ではどうなのでしょうか?。私自身は、禅宗のお坊さんが「せせつ」と言っているのを聞いたことはありません。まあ、禅宗のお坊さんと親しいわけではないので、本を読んだりした場合のみでの話ですが・・・。

現代語の「施設」は、「設備を施す」という意味から生まれた言葉でしょう。たとえば、福祉施設ならば、「福祉のために施される設備」という意味になりますからね。公共のために施される設備だから、「施設」となるのでしょう。つまり、施設という言葉は、仏教語の「施設(せせつ)」からの転用ではないように思います。意味が異なりすぎますし、仏教語としての「施設」は、あまり使用しないように思いますからね。それほどメジャーな仏教語ではない、と思えるのですな。なので、仏教語の「施設」と現代語の「施設」とは、関連はないのではないか・・・と思うのですよ。
このあたりのこと、もしご存知の方がいましたら、教えていただきたいです。

さて、世の中には施設はいっぱいありますな。一時期は、箱モノ行政などと称しまして、使わない施設、必要のない施設を大量に建てましたな。おかげで、行政のお金はピンチなったりしました。
確かに、地方が潤うには、公共事業は必要ですな。特に田舎は都会のように、道路も住民が利用する設備も充実していませんからねぇ。いろいろな意味で施設が必要であることは確かです。
しかし、たくさん建てればいいというものではありません。同じような施設がいくつもあっても仕方がないし、市民が利用もしないような施設は無駄でしょう。
ここはひとつ、施設を造る前にですな、「施設(せせつ)」してみてはどうでしょうか?。そう、「仮にこの施設を造るとしたら・・・・」という仮の話をまず立ててからですね・・・・えっ?、ちゃんとやってる?、計画の段階で、仮の設定をしている?・・・・。ほう、それなのにこの有様ですか・・・。それはそれは、なんといったらいいのか・・・。
あのですな、想定が甘すぎるんじゃありませんか?。そう「施設(しせつ)」に対する「施設(せせつ)」が甘すぎるんですよね、行政は。もう少し、想定を厳しくしないと。弟子を導く師がしっかり「施設(せせつ)」するように、行政の皆さんもよ〜っく「施設(せせつ)」を考えて「施設」を造ってほしいですな。
えっ?、「施設」が多すぎ?、わけがわからない・・・。こりゃまた失礼いたしました。
合掌。


125.ダルマ
「だ〜るまさん、だ〜るまさん、に〜らめっこしましょ、笑〜ったら負けよ、あっぷっぷ」
「だるまさんがころんだ・・・」
と、昔から、子供たちに親しまれてきたダルマさん。知らない方はいないと思います。選挙の時にも使いますよね。先々月の選挙でも当選者の皆さんは、ダルマさんに目を入れていましたね。選挙ではお馴染みの光景です。
さて、あのダルマさんですが、モデルがあります。もちろん、それも皆さんよくご存知でしょう。そう、達磨大師ですよね。
今回は、達磨大師とダルマさんについてお話しいたしましょう。

達磨大師といえば、禅宗の開祖とされております。禅宗は、古くは、達磨宗などとも呼ばれておりました。
達磨大師、もとはインドの僧侶ですね。ボーディーダルマといいます。音写して菩提達磨、と書きます。
達磨さん、南インドのとある国の第三王子の生まれですな。年代は詳しくはわかっておりませんが、西暦400年代中頃〜後半でしょう。亡くなったのは、西暦530年ころらしいですな。中国は、魏の時代です。
さて、達磨さん、王子様ですから、いいところのお坊ちゃまです。ですので、本名はきっと違っていたと思います。いきなり仏教臭い名前は付けないでしょうからね。ボーディーダルマ、というのは、「悟りと法」という意味です。「ボーディ」は「悟り」ですな。「ダルマ」は「法・・・教え」ですね。仏教そのものの名前ですから、これはおそらくは出家名でしょう。
さて、王子様、幼少のころより仏法に興味を持ちます。で、その仏教の中に、言葉では伝えられない教えがある、ということに気づきますな。それを求めて達磨さん、出家をします。で、修行をすること9年、教えとは別に伝わっている心を以て伝える教えを悟りますな。これが、禅です。そして、心を以て伝える教えのことを「以心伝心」による教え、と言いますな。または、「教外別伝」とも言いますな。あわせて「教外別伝 以心伝心」といいます。「言葉による以外の教えがあり、それは心を以て伝えるものだ」ということですな。

さて、達磨大師の9年間の修行は、「面壁九年(めんぺきくねん)」と言われておりますな。達磨さん、カンフーで有名な少林寺のある山中の洞窟に入り、洞窟の壁に向かって座禅すること九年・・・はっとして悟りを得たわけですな。
この姿が、中国の宋時代に水墨画で描かれるようになりますな。カッと目を見開いた、睨み付けるようなお顔の達磨大師ですな。眉毛が長くて、目が大きくて、口をへの字にまげて・・・・という顔をしています。手足は衣の中に隠れておりますな。当然です。座禅している姿ですからね。手も足も見えてはおりません。
この姿の達磨大師の水墨画は、日本でも流行ります。室町時代に水墨画が流行するのですが、画僧は好んで達磨大師の像を描きましたな。今も残っておりまして、重要文化財に指定されている達磨大師像もあります。京都の禅寺あたりでは、襖に描かれているところもありますな。
そうなんです。絵画の達磨大師は、あの縁起物のダルマさんの姿ではないのですな。

いつごろからあの縁起物のダルマさんが誕生したのか?。
正確にはわかっていないそうです。達磨人形発祥の寺も、日本のあちこちにあるそうです。あの七転び八起きのダルマ人形、登場したのは江戸中期だそうです。初めは、どうも子供のおもちゃだったようですな。目も入っていたようです。これが人気が出まして、手足をはやした姿で描かれるようになり、妖怪の仲間にも入れられますな。妖怪ダルマですね。滑稽ダルマとも言ったそうです。江戸の後期のことです。子供に大人気だったそうですな。着物の柄にまでなっています。江戸後期のお子さんたちの人気キャラだったわけです。
それがいつ頃のことか、大人の間でも流行るようになりますな。眼を片目だけ入れたダルマ大師の人形に祈願をし、祈願が叶ったらもう片方の目を入れる、という祈願法が生まれてきます。変な言い方ですが、
「片目だと不自由でしょう。もう片方の目を入れて欲しかったら、私の願いを叶えてくださいな」
と祈願したようですね。ちょっと、ひどい祈願方法ですが、まあ、これが流行するのですな、禅寺を中心にして。ま、おそらくは江戸時代のことでしょう。江戸っぽい洒落のつもりだったのでしょうな。
なお、あの姿も洒落でしょう。壁に向かって九年も座禅していたら、手も足も無くなってしまうだろう・・・。というのは、後付けで、あれは座禅をしている姿を形にしただけなんですな。手足がないわけではありません。見えていないだけです。それを洒落で、「手も足もない」とか「手も足も出ない」とかいうようになったのでしょうな。
菩提達磨さん、まさか日本でこんな形でもてはやされるとは、夢にも持っていなかったでしょうな。今、もし、達磨さんの声が聞こえるなら、なんといっているでしょうかねぇ。案外、笑って終わりかもしれませんね。禅者とはそういうものですからね。一切のこだわりを超越していますから。

さて、達磨大師としての・・・ダルマさんではなく・・・エピソードを少々。
インドから中国に入った達磨大師、当時の国王武帝に面会しますな。武帝、インドから来た高僧だというので、質問をします。
「ボディーダルマよ、仏法とはいかなるものか」
達磨大師、即答しますな。
「善いことをして、悪いことをしない、それが仏法です」
武帝は、その答えにムカつきますな。で、
「そんなことは三歳児でも知っておるわ!」
と怒鳴りますな。しかし、達磨大師、平然としております。そして
「知ってはいるが、行うは難しいですな」
と言いますな。武帝、ぐうの音も出ません。これを漢文にまとめたのが
「諸善奉行 諸悪莫作(しょぜんぶぎょう しょあくまくさ)」
ですな。禅僧が書にしたりしますね。意味は「善いことをして、悪いことをしない」ですな。これ、仏教の基本です。大事なことですが、実行は難しいですね。

もう一つ。これも武帝とのやり取りです。同じ日であったかどうかは知りません。おそらくは、前の続きだと思われます。一本取られたので、やり返そうとしたのでしょうな。
武帝が言います。
「朕は、王に即位してより今日まで、多くの寺院を造り、経巻を書写し、僧尼を厚くもてなしてきた。これらの行為にはいかなる功徳があるか」
自慢げな武帝に対し、達磨大師、また即答しますな。
「無功徳!」
とね。功徳はありませんよ、と言ったわけです。自慢した国王に対し。とても失礼な対応ですな。しかし、僧侶です。嘘はつけません。なので、平然と「無功徳」と言ったのですな。
その真意は、皆さんはお気づきでしょう。功徳のために布施をしたのでは、その布施の意味がなくなりますよ、と達磨大師は言っているのですな。真の布施とは、見返りを求めない、布施そのものが目的の布施ですな。
「これだけのことをしたから、当然、その見返りの功徳がたくさんあるだろう」
などという、さもしい気持ちで布施をしても何もならない、ということを達磨大師は言っているのですな。布施の目的は、あくまでも布施です。見返りや功徳を求めての布施は、布施ではありません。目的が下心満載では、功徳などないですよ、という意味なのですな。
いや〜、耳が痛いですよねぇ。誰だって、功徳を求めて布施をしますからね。もちろん、私も、です。徳積みだからこそ、賽銭を入れたり、寄付をしたり、ってするわけですからね。見返りを求めない、というのは難しいですな。
しかし、人間は浅ましいもので、見返りを求めて、あるいは下心をもって寄付したり、布施したりしていると、何か困ったことがあった時や病気になどなった時に
「あんなに寄付したり、布施したりしたのに、どうしてこんな目に遭わなかいけないんだ?」
と言いますよね。でもね、これは逆恨みです。自分の身に起こることは、過去からの因縁であったり、日頃自分が行っていることの報いだったりします。原因や責任は自分にあるのですな。でも、人は
「あんなに寄付したのに、あんなに布施したのに、あんなにお参りしたのに・・・」
などというのですな。本来は、そこに因果関係はないんですけどね。ま、気持ちはわかりますけどね。

功徳というものは、意識しないでも自然に身についていくものです。布施や寄付やよいことをしていればね。功徳を積むため、と意識しなくてもいいのです。いや、むしろ意識しない方がいいのでしょう。自然に任せる、それがいいのです。武帝だって、功徳のことを気にせずに、寺院を造ったり、写経をしたり、僧尼をもてなしたりしていたなら、自然に功徳はあったのですよ。
「どうだ、すごいだろ、俺って徳を積んでるぜ!」
なんて自慢するから「無」になってしまうのですな。そんなことを自慢せずに、こっそりと布施するなり、寄付するなりしていればよかったのですな。いわゆる陰徳というものですな。

さて、十月五日は達磨忌です。禅宗では、達磨さんの法会が行われますな。
「自分は、功徳があるやなしや」
「自分は、善いことをし悪いことをしていないか」
そんなことを考えながら、達磨さんをお参りしてもいいかもしれませんね。
合掌。


126.悪口
悪口・・・あまりいいことではありませんね。人の悪口を言うのは、否、聞くのもよくないです。しかし、ついつい言ってしまうのが悪口・・・でもあります。悪気がなく、つい言ってしまう、そういうこともありますね。
でも、やっぱり悪口はよくありませんな。
この「悪口」という言葉、仏教では「わるぐち」とはいいません。「あくく(あっく)」と読みます。今回は、「悪口」・・・「わるぐち」と「あっく」のお話です。

悪口の意味は、今さら言われなくても皆さんよくご存知でしょう。きっと、言ったこともあるし、言われたこともあると思います。
「私は、人の悪口などいったことがない」
という方に、私はあったことがありません。そういう方は、自分では悪口を言ったつもりはないのですが、「それ悪口でしょ」ということがあったりしますからね。そういう方は、たいていは
「悪口を言ってるんじゃないよ。批判をしているだけだ」
などと屁理屈をこねたりしますな。批判と悪口の区別がよくわかっていないような場合が多いですね。批判は正しい見解から行われるもの、悪口は感情的に悪く言うこと、ですからね。本来は、まったく異なるものなのです。批判と悪口・・・その境界線があやふやな方も結構いるようで・・・。ま、いずれにせよ、悪口を言う姿は、あまりいいものではないですな。醜いものです。言っている本人は気付いていないかもしれませんけどねぇ。

さて、仏教では「悪口」は、「あくく(あっく)」と読みます。意味も今使われている「悪口」とは、少々異なります。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
*人を悩ますことば。粗悪なる言葉。麁悪語(そあくご)。あらあらしいことば。必ずしも「わるくち」ではない。他人をそしる悪口は両舌という。
とあります。
つまり、仏教でいう「悪口」は、本来は荒々しい言葉、乱暴な言葉遣い、他人をイライラさせるような乱暴なしゃべり方、を意味していたのですね。で、他人を悪く言う言葉は「両舌」にあたるのですな。元々はね。それが、いつの時代からか、悪口(あくく)は、他人をそしる悪口(わるぐち)となり、両舌は他人を騙す二枚舌を意味するようになったのです。

出家者、在家者、共通の戒律に「十善戒(じゅうぜんかい)」という戒律があります。菩薩戒とも言われるこの戒律は、「人が人であるための戒め」です。この戒律が守れないようでは人ではない、と言われる戒律ですな。それは、
@殺生しない A盗まない B性において淫らにならない、浮気しない C嘘をつかない Dふざけた言葉を使わない E悪口を言わない F二枚舌を使わない G貪らない Hやたら怒らない、妬まない、羨まない、恨まない I正しいものの見方をする、正しく考える
というものです。
@「殺生しない」は、まあほとんどの方が守れるものですね。害虫を殺してしまうのは仕方がないことです。この場合は、「今度はもっといいものに生まれ変わりましょう」と願ってやってください。「如是畜生発菩提心(にょぜちくしょうほつぼだいしん・・・悟りに向かう心を起こしなさい)」と、唱えるのもいいです。
A「盗まない」も守れますよね。まさか、このHPを読んでいる方で泥棒はいないでしょう。ちなみに、盗み見、盗み聞き、も盗むことに含まれますので、ご注意ください。
また、万引きが止められない・・・という方は、一種の病気(心の病)なので、専門家に診てもらいましょう。
B性において淫らにならない、浮気をしない、というのは、近頃では難しいですかねぇ。不倫だの、出会い系だの、まあ、乱れておりますなぁ。夫婦間で乱れるのはご自由にどうぞ、と思うのですが、出会い系で知り合って浮気を繰り返す、というのは、いけませんな。浮気をする方は、この「浮気をしてはいけない」という戒律を破っているだけではないですね。嘘をつきますし、時間を盗みますし、奥さんや旦那の目を盗みます。他の戒めも犯していますな。罪深いです。まあ、来世は地獄ですなぁ。
Cうそをつかない。人を騙すのはいけませんね。「オレオレ詐欺」(最近はかなり巧妙になっているようですね)なんかをする者は、ロクな死に方しませんな。悪銭は身に付きませんしね。いずれ、不幸がやってきますな。人を騙せば、いずれ自分が騙されますしね。
人を救うウソは構いません。まあ、そういう機会は少ないですけどね。
Dふざけた言葉を使わないとは、その場に相応しくない言葉遣いを慎め、と思ってくださって結構です。最近では、会議中でもふざけた言葉遣いをする若者がいるそうですな。上司に使う言葉じゃないだろう、という言い回しをする若者もいるようで。日本語が壊れつつありますな。敬語も少しは覚えて欲しいですねぇ。
いや、この場において、この言葉遣いはよくないな、くらい気が付いてほしいですね。いったい、どんな教育を受けてきたのか、いったいどんな頭なのか、頭悪いの?と思ってしまいますな。残念な人、と思われたくなければ、せめてその場に相応しい言葉遣いをして欲しいですね。
E悪口をいわない、それは当然でしょう。聞いていていい気分はしませんよね。他人のことなどどうでもいいのに、それをわざわざ、あーだこーだいうのはねぇ・・・。悪口を言う人は、神様にでもなった気分なのですかねぇ。それとも寂しいのでしょうか?。悪口ばかり言っていると嫌われますよね。他人のことは触れないのが一番ですな。
F二枚舌を使わない、というのは、ちょっとわかりにくいですね。例をあげましょう。
幼稚園の周辺でママ友たちが輪になっておしゃべりをしていますな。そのうちに、一人が「あ、そろそろ帰らなきゃ」などと言って帰っていきます。するとその途端、その帰った人の悪口が始まりますな。
別の日、今度は違う人が先に帰りますな。するとその途端、「昨日、あの人、あなたの悪口言っていたのよ。ひどいわよねぇ」などと吹聴しますな。これが二枚舌ですな。
従って、二枚舌には、「悪口」と「うそ」が含まれますな。罪深いですよねぇ。
先のママ友の話。これ、実際によくある話ですな。恐ろしいですねぇ、ママ友って。ま、他でもあるのでしょうけど。
G貪らない、というのは、満足を知らない、とも言い換えられます。もっとわかりやすく言えば、「がめつい」とか、「どケチ」とか、ですね。自分だけため込んで、知らない振りをしているようなものですな。
よく、イベントなどで「無料でお配りしています」とか「無料で食べられます」などいうことがありますよね。あれに早朝から並んでいるような方、ご注意ください。貪欲もそこそこにした方がいいと思います。
また、デパ地下の試食で、やたら食べまくっている方、あまりいい姿ではありませんよね。貪るのもいい加減にしないと、来世はブタですな。宮崎さんの映画「千と千尋・・・」の冒頭のシーンのようになりますな。お気を付け下さいね。
H無闇に怒ったり、妬んだり、羨んだり、恨んだり・・・・。陰気くさいですな。他人と自分を比較して、自分が劣っていると思ったならば、妬むよりも、羨むよりも、努力することが大切ですな。他人を羨ましいと思うのなら、その人のようになるよう努力すればいいのです。妬んでも、羨んでも一文の得にもなりませんな。むしろ、暗いヤツ、と嫌われるだけです。妬んで生きても、人生暗いだけですね。妬むよりも、自分の道を見つけて努力した方が、明るい未来が開けるというものです。
やたらイライラして、すぐ怒る人もいますが、そういう人って自分は偉いと思っているのでしょうね。まあ、傍から見れば、「何様のつもり?」と言いたいくらいですな。オジサンなどで、やたら外で威張っている人などは、きっと家に帰ると小さくなっているんだろうな、などと同情してしまいますな。家でたまったうっぷんを外で晴らそうと、イライラしているのかな、と思ったりします。哀れですな。ま、惨めなので、あまりイライラしない方がいいですね。
Iこうした@〜Hのことを守りましょう、気をつけましょうと言ったりすると、「大きなお世話だ、好きなように生きるから、放っておいてくれ」などという方もいますな。そういう方は、世の中のことが見えていないのでしょう。愚かしいですね。
世の中の常識的なことや、その場で相応しい行為かどうかがわからない人っていますよね。そんなことやっていいかどうかちょっと考えればわかりそうなのに・・・ということをやってしまう人っていますよね。ひところ流行ったアホな投稿写真もそうですな。ちょっと考えれば、やっちゃダメだろってことくらいわかるだろうに、その場のノリでやってしまう・・・。なんと、愚かなことか。
他人のアドバイスに耳を傾けようとしない人や、不適切な行動や言葉をとってしまう人って、本当に愚かしいと思います。もう少し、考えることを身に着けたほうがいいですよね。

これらが十善戒と言われるものです。読んでみると、「人が人であるための戒め」と言われるのも過言ではない、と思えませんか?。この十善戒ができない人を客観的に、外から見ていると、「あぁ、みっともないなぁ・・・」と思えてきます。人間らしい、という言葉が、虚しくなってきますな。人間としての品格が落ちてきているのでしょうかねぇ。
あまり厳格になるのもよくないとは思います。あまりにも堅苦しくなっては、息が詰まってしまいますからね。少しは余裕がないといけませんな。ある程度は緩くてもいいとは思います。が、緩すぎはいけませんな。

最近では、面白ければいいじゃないか、視聴率が取れればいいじゃないか的な考えで、ヤラセだの打ち合わせ通りの演出だのでTV番組はできているようで・・・。品格が本当の落ちているなぁ、と思いますね。過剰な演出、視聴者が期待する以上の過激な演出、ヤラセ・・・。うんざりですな。まあ、もともとTV番組なんぞ、報道も含めて「創られたもの」ですからね。そう思って見ていれば、どうということはないのですが、マスコミは少しは自覚して欲しいですな。影響力が大きいということね。
あまり悪い言葉遣いをしていると、それがどんどん浸透していきますな。新聞や報道番組でも、それは悪口なの批判なの非難なの?、という内容がしばしば見受けられますな。マスコミの皆さんは、もう少し「正しい日本語」を学んでほしいですな。「日本語を乱しているのは、マスコミじゃないか」と批判されないようにご注意していただきたいですね。
ま、いずれにせよ、他人の悪口は、慎んだ方が賢明ですな。沈黙は金・・・なのですよ。
合掌。


127.おっさん
当然のことながら、仏教語に「おっさん」はありません。でも、今回の仏教語(改)の言葉は「おっさん」です。いったいどういうこと?、と思われるでしょうが、まあ、ちょっと聞いてくださいな。
「おっさん」といえば、「おじさん」のことですよね、一般的には。まあ、中年のオヤジは、皆「おっさん」ですな。かくいう私も「おっさん」です。
この「おっさん」の語源を皆さんはご存知でしょうか?。
「そりゃ、決まっていますよ、『おじさん』でしょ。『おじさん』が詰まって『おっさん』になったのでしょう」
と多くの方は思うでしょう。まあ、たぶん、それは正解なのでしょう。が、しかし、もう一つ「おっさん」の語源に仏教語が関わっている、という説があるんですね。ご存知でしたでしょうか?
関西に行くと・・・東海地区の田舎の方でもそうなのですが・・・和尚さんのことを「おっ様」と呼ぶ地域があります。「おっ様」とは、「和尚様」のことです。「和尚様」が詰まって「おっ様」になったのですな。ちょっと言ってみてください。
「和尚様、和尚様、和尚様、和尚様、和尚様、和尚様、和尚様、和尚様、和尚様・・・おっ様」
となりませんか?。
同様に、
「和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん、和尚さん」
と言い続けていると「おっさん」になりませんか?。
そう、「おっさん」の語源として、「和尚さんが詰まっておっさんになった」という説があるんですよ。つまり、仏教語の「和尚さん」が「おっさん」の語源になっている、というんですな。
確かに、関西や東海地区の田舎のおじさんの中には、和尚さんのことを「おっさん」という方がいらっしゃるんですよ。この場合の「おっさん」はアクセントが、「お」にあります。「おっさん」です。平坦な発音の「おっさん」ではありません。
案外、「おっさん」=「和尚さん」説は有力かもしれませんね。

ところで、和尚さんというのは、皆さんお寺の住職さんのことや、お坊さん全般のことをさして言いますよね。ごく普通に「お寺の和尚さん」と言った感じで使うと思います。でも、この「和尚」という言葉、これ、もとは日本語ではありません。実は、インドのサンスクリット語の俗系の言葉を音写したものなんですな。
サンスクリット語でウパダャーヤの俗語を音写したらしいのですな。いったいどうすれば「おしょう」という発音に聞こえるのか不思議なのですが、俗語系の発音はなまっているそうなので、ウパダャーヤが「オジャーヤ」みたいに聞こえたのかもしれませんな。ま、遥か昔のことなので、正確なところはわかりませんが、和尚は元はサンスクリット語を音写した言葉であることは間違いありません。
では、その意味は?、というと、おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
@もとバラモン教で、親しく教えてくれる師をウパダャーヤ(原文はローマ字表記)とよんだのを仏教が取り入れた。
A弟子をとる資格のある者。弟子に具足戒を授ける師。受戒の時の師。法臘(ほうろう)十歳以上で、有徳・有智・持戒・多聞であることを要す。戒和尚(かいわじょう)・戒和上(かいわじょう)ともいう。
B禅門では修行歴十年以上の僧を和尚という。
C大僧正
Dわが国では平安時代以来、大衆の師たる高徳の僧の尊称。天台宗では「かしょう」、禅宗・浄土宗では「おしょう」とよぶが、法相宗・真言宗・律宗などでは「わじょう」とよぶ。律宗だけが和上と書く。日本では古く官名として大和尚位があったが、後世では弟子が師を尊称して用いる。
E一般には、一応の修行を終えた僧の呼称。
F尼僧を和尚とよぶことがある。たとえば、鎌倉の東慶寺の天秀尼などの場合。
とあります。

もともとは、バラモン教の先生のことだったようですね。それを仏教も取り入れ、師のことをウパダャーヤ・・・すなわち和尚と呼んだのですな。
Aについては、ちょっと解説がいりますね。
具足戒は、僧が守るべき戒律のことです。僧侶が250戒、尼僧が348戒の戒律のことですね。この基本的な戒律のことを具足戒といいます。
法臘(ほうろう)とは、出家してからの年数のことを言います。法臘10歳とは、出家してから10年たっているということですな。ちなみに私は法臘30歳ですな。
戒を授けることができる・・・つまり弟子を取れる・・・資格を持っている和尚さんのことを戒和尚といいますな。
Cは、僧階のことです。僧侶の階級ですな。その最上位が大僧正です。
Fについて。これは特別ですね。尼僧さんは、和尚さんとは呼ばれません。どんなに頑張っても和尚さん、和尚(わじょう)とは呼ばれませんな。残念なことなのですが、和尚さん、和尚(わじょう)と呼ばれるのは、僧侶のみです。だから、おっさん・・・なのでしょうけど。

さて、世の中には、数多くの和尚さんが存在しておりますな。しかし、本来、和尚と呼ばれる資格がある僧侶は、「有徳・有智・持戒・多聞」でなければならないようですね。つまり、「徳があって、智慧があって、戒律を守っており、よく仏法を聞く者(多聞)」でなければならないのです。
う〜ん、となると、本当に和尚と呼べる和尚さんはいるのかどうか・・・・。はなはだ疑問だったりもします。いやはや、まず自分もダメですな。徳はそんなに言うほどないでしょ、智慧は・・・悪知恵ならありそうですが・・・。戒律は守っていませんな。威張って言うことではありませんが。多聞は、そうですね、昔はよく仏教書も読んでましたが、最近は読まないですねぇ。高僧の話を聞きに行く機会も少なくなりましたし・・・。
一応、弟子をとることができる資格はもっていますし、出家して10年以上はたっていますから、その点は大丈夫ですな。
といっても、「有徳・有智・持戒・多聞」をさらに兼ね備えた僧侶など、そうそういるものではありませんし・・・。となると、多くのお坊さんは、和尚様、和尚さんではなくて、単なる「おっさん」なのかも知れませんねぇ。
いえいえ、単なる「おっさん」にならないためにも、修行に励まないといけませんな。
今年も残り少ないですからね。反省しましょう。
合掌。


128.喝采
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。喜び多き年となることをお祈りいたします。
さて、昨年もいろいろありました。喜び事もあれば、嫌なことも辛いことも苦しいこともありましたね。まあ、どちらかと言えば・・・どなたにでも言えることでしょうけど・・・辛いことや苦しいことの方が多いのではないかと思います。まあ、これも致し方がないことですよね。普段、平穏無事に過ごせていることの方が稀なのですから。あぁ、今年も無事に過ごせたね、何事もなく良かったね・・・というのは、本当に奇跡的で稀なことなのです。そういう1年を過ごせた方は、これも御先祖のお陰、神仏の御加護と感謝していただくのがよいかと思います。平穏無事な人生、これは拍手喝采ものなのですよ。
さて、この「喝采」、その大元を尋ねれば、これも仏教語につながっているんですね。「喝采」という言葉の先祖は、仏教語なのですな。それも皆さんよくご存知の仏教語です。「喝采」という文字から気が付きませんか?。そう、「喝采」の御先祖は、禅でよく使う「喝」なのですよ。今回は、その「喝」についてお話しいたしましょう。

「喝」は、皆さんよくご存知ですよね。座禅などをしていると、後ろから「喝!」と言われ方を叩かれたりしますな。「喝を入れる」などという言葉もあります。「このヨワッチイこいつに、喝を入れてやってくださいよぉ」などと頼まれるお坊さんもいますね。皆さん「喝」についてはよくご存知でしょうが、一応おなじみの仏教語辞典でその意味を確認しておきましょう。
*修行者を策励するために発せられる音。また、その音を発すること。叱咤する叫び声で、唐代以降の禅僧が用い、参禅の人を導くのに用いた。古来禅門では、次の場合にこの声を発する。
@ことばでは表現しえない心のはたらきを表すとき。
A修行者をしかりとばし、どなりつけるとき。大喝・一喝・喝破などの語も現れた。
となっております。

本来、喝というのは、修行者を叱ったり、激励するために用いたわけですな。本来は「かーっつ」と言ったわけではないようです。「かー」だけとか、「あー」という声だけだったこともあったようですな。要は、「こらー!」という代わりに使った叫び声のことで、それが次第に「かーっつ」に統一されていったのではないかと思います。
座禅の時に喝を入れらるのも、注意をしているのですね。あれは、「心が揺らいでいるぞ、注意せよ」という意味なのですな。ほんのちょっとの心の揺らぎが、身体に現れてくるのです。で、「おいおい、注意しなさい。心を止めよ」となるのです。そういう意味で、警策で叩かれるのですな。案外、叩かれた本人は「なんで?」と思っているかもしれませんね。まあ、たいていの場合、警策で叩かれたとたんに、そのとき何を考えていたのか忘れてしまいますな。警策で肩をトントンとされたとたんにすべて吹っ飛びますな。で、一瞬無になっているのですが、そのあとすぐに「なんで?」とか「あー、いけなかった」とかに心は動いてしまいますな。本当は、警策で叩かれた瞬間の無の状態を保たねばいけないのですが、そう簡単ではありませんね。しかし、たまには座禅などして、喝を入れられるのもいいのかもしれません。心がすっきりするのではないkと思いますよ。

「コイツに喝を入れてください」という場合は、「コイツを勇気づけてくれ、励ましてくれ」という意味でしょう。一発元気づけてやってくださいよ、という意味ですな。
ごちゃごちゃくだらないことを言っている時や、あーでもないこーでもないと悩んでいるときなどに「一喝」されると、一瞬にしてシーンとしますな。昔は、一喝してくれる怖いオジサンがいたんですけどねぇ。最近では見かけませんな。お坊さんでも一喝できるようなお坊さんは、あまりいないようですねぇ。

ちなみに表題の「喝采」は、元々は「喝彩」という字を書いていたようです。意味は同じ、「褒め称えること」ですな。「喝」が彩り華やかになると「褒め称える」という意味になる、というのは面白いですね。みんなで喝を入れると、それは褒めていることになっていくのでしょうか。
たとえば、弟子の一人が悟りを得た時に、「おぉ、よくやった」という意味で、他の修行者たちが歓声の声をあげたのかもしれませんね。「やー」とか「おー」とか「ぐわー」とかね。沢山の「喝」が降り注がれるわけです。で、そこから喝彩なる言葉が生まれたのかもしれませんね。

さて、新年です。今年は消費税も上がり、家計にも大きな影響を与えますな。経済状況もどうなるか、誠に不透明でもあります。中国との関係も不穏ですな。まあ、彼の国は自己中でマナーというものを知らないですからね。傍若無人の者は、一般常識が通じませんからやりにくい相手ではありますな。東京都知事もどうなることやら。誰が都知事になったにせよ、平穏無事な首都にして欲しいですな。
さてさて、世の中、問題は山積みですな。家庭内も経済的にどうなることやら・・・。ま、政治も経済も家庭も「喝」を入れて張り切って頑張りましょう。
そうそう、受験生の皆さん、あるいは受験生をお持ちの皆さん、もう少しですからね。頑張って乗り切りましょう。では、新年の始まりに気合を込めて
     喝!
合掌。


129.失念
年を取ってきますと、物忘れが多くなります。私も結構、物忘れをいたします。たとえば、本堂へ御札を取りに行ったはずが、本堂へ行きますと違うことが目につき、それを処理している間に最初の目的・・・御札を取りに来た・・・をすっかり失念いたしておりますな。そのまま事務所に戻って、「あっ、御札を取りに行ったんだっけ」てなことになります。で、もう一度、本堂へ足を運ぶ羽目になるのですな。「まあ、いい運動になった」などと自分をごまかしながら苦笑いを浮かべるのですな。あぁ、年を取るのは本当に嫌ですよねぇ。
失念・・・物事を忘れることですな。うっかり忘れてしまうことです。実は、この失念、仏教語なのですな。元の意味は少々異なります。今回は、仏教語の失念についてのお話です。

まずは、おなじみの仏教語大辞典で「失念」を調べてみましょう。
@飲酒のために、ぼうっとして自制心を失うこと。
A(省略)心を散乱させ対象をはっきり記憶させない心の作用。そこなわれた記憶。忘却させる心作用。けがれた記憶。
となっております。
そう、失念とは、そもそもは酔っぱらって自制心をなくしてしまうことを意味していたのですな。そこから、心が乱れて記憶が曖昧になってしまうことや、記憶を損なうこと、忘れることを意味するようになるのです。ただし、忘れること、そのものを意味しているのではなく、忘れさせる心の作用を意味しております。つまり、失念とは、「記憶をさせないほどの乱れた心」というのが本来の意味ですな。心の作用の方がメインなのです。

飲酒(ちなみに仏教では「いんしゅ」とは読みません。「おんじゅ」と読みます)をすると、自制心が効かなくなくなります。酒を飲んだうえでの失敗談は、まあ、多くの方が経験していることでしょう。かくいう私も学生のころは恥ずかしいことをいろいろとしました。まあ、犯罪になるようなことはしませんでしたけど、周囲は迷惑を被ったことは確かです。当の本人は全く記憶がなく、「えーっ、そんなことしたっけ?」てなもんで、いやはやこの場をお借りしてお詫び申し上げます。そう、酔っていて記憶にないんですな。
よくニュースなどで「容疑者は、酔っていて記憶にないと言っています」などというコメントを聞きます。たとえば、痴漢や盗撮で捕まったりした者がよく言うセリフですな。
酒に酔うと確かに自制心が失われますな。ついつい気が大きくなったりもします。日頃のうっぷんが爆発してしまう方もいます。その延長で犯罪を犯したりする者も出てきますな。そういえば、随分前になるのですが、電車の中で酔った女性が若い部下の男性に絡んでいるのを目撃しました。その女性は、「○○ちゃん、大好き〜」と言って、その部下の男性に抱きついていました。抱きつくだけではなく、無理やりキスを迫ってましたな。大きな声で、恥ずかしくもなく・・・。まあ、本人は恥ずかしくないでしょう。酔ってますから。完全に仏教語でいう「失念」状態ですな。抱きつかれている部下は、もう大変ですね。なだめたりすかしたり、勘弁してくださいよと謝ったり・・・・。それでも、女性は部下の抵抗に屈することなく果敢にアタックしてました。結構ないい年をしたオバサンでしたけどねぇ。日ごろ、その部下のことが好きで好きでたまらない気持を押し隠していたのでしょうな。酒の力で自制心を失ってしまったのですな。
まあ、この程度なら、笑い話で済みますな。まあ、週明けの会社で恥ずかしい思いをする羽目にはなるのでしょうが、犯罪にはなりません。迷惑なだけですな。まあ、恥ずかしさのあまり、ご本人は会社を辞めるかもしれませんが、自業自得ですな。きっと、もう深酒はしないことでしょう。

しかし、被害者が出てしまうと、これは笑い話では終わりません。飲酒運転による事故で人を死なせてしまった、飲酒の果てにケンカをして相手を殺してしまった、痴漢をした、盗撮をした、強姦をした・・・・。こうなると、「酔っていたのでわかりません」では済まない話です。
特に飲酒運転での事故は、絶対にいけませんな。相手があることは、自業自得で終わることではないですからね。被害に遭われた方の悲しみは癒されることはないでしょう。あまりにも大きな罪ですな。お酒を飲んだら絶対に運転はしてはいけないですね。
最近では、酔ってスマホをいじりながらホームから転落、なんて話も聞きます。ただでさえスマホをいじっておりますと、周囲に気配りができなくなるようですな。私はスマホではないのでよくわかりませんが(あんなモノには変える気はありません。ガラケーで十分ですな)、画面に夢中になってしまうのだそうで。すっかり自制心が効かなくなるようですな。スマホで失念状態です。このスマホ失念には、スマホのゲームによる失念もあるようですな。ゲームに夢中になって我を忘れてしまう、約束を忘れてしまう、記憶が曖昧になってしまう、人の話を聞いていない・・・などなど。あるいは、ゲームにお金がかかりすぎてとんでもない金額を請求されてしまうとか・・・。スマホ失念ですな。
思うに、今の人々は、スマホをちゃんと使っていないんじゃないですかねぇ。スマホを使いこなしているのではなく、スマホに使われている、と言ったほうがいいように思うのですが。ゲームがしたいのなら、専用のゲーム機を持った方がいいと思うんですけどね。スマホでゲームしていると、肝心な伝達事項ができなくなるんじゃないでしょうかねぇ。ま、余計なお世話かもしれませんけどね。でも、失念するまで、自制心を失うまでスマホに夢中になるのはどうかと思いますな。

いろいろな事情で記憶が損なわれてしまう方も多いようですな。前の東京都知事もその一人で。こうしたいろいろな事情でとても大事なことを失念してしまう人は、政治の世界には多いようですな。まったく都合のいい話ですが、都合のいい物忘れは、政治の世界だけではありませんからね。我々も日常において、たまに失念することはありますからな。あまり他人のことはとやかく言えませんな。まあ、金銭的に美味しい思いをするのが気にいりませんが、政治にはそうしたことはつきものでしょう。クリーンだけでは政治はできませんからね。都合のいい失念は、大なり小なり使ってしまうのが人間なのでしょうなぁ。だって、人間は心を散乱させやすい生き物ですからね。心を散乱させていると記憶が曖昧になってしまいますから。まさしく本来の意味の失念ですな。

世の中には、いろいろな失念がはびこっています。しかし、どの失念も元は心が乱れているせいです。自制心が損なわれているのですな。心をしっかり持って、落ち着いていれば、記憶が曖昧になることはないのでしょう。やるべきことも「これをやらねば」と心に刻み込めば、忘れることはないのかもしれません。ま、年齢による記憶能力の衰えは別なのでしょうけどね。そういう場合は、マメにメモを取り、自分のいる場所に張っておくことですね。それでも忘れることは多くなっていくのですが・・・。まあ、その時は潔くあきらめましょう。
あぁ、そうそう、自然に忘れてしまうのも仕方がないですな。過去の話や古い話などはすっかり忘れてしまうことがありますな。時間とともに記憶はあいまいになっていくものです。私など、小学校や中学、高校の友人の名前などすっかり忘れていますな。校歌も忘れていますな。もう歌えません。つまらないことだけは案外覚えていたりするんですけどね。
しかし、妙にはっきりくっきり覚えているのも怪しいですな。よほど印象的なこととか、よほど刺激的だったとか、過激な内容だったとか、秘密めいたことだったとか、そういうことなら覚えているのかもしれませんが、大したことではないことは忘れてしまいますな。つまり、忘れているということは、大したことではない、ということでもあります。

何もかも覚えていては、頭がパンクしますな。そんなに人間の記憶の容量は大きくないのかも知れません。どうでもいいことはさっさと忘れてしまったほうがいいでしょうな。失念することも、また大切なことでしょう。ただし、心を乱さないように、飲酒により自制心を失わないようにしなくてはいけませんな。本来の失念の意味だけは、それだけは決して失念してはいけませんね。
合掌。


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