えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー16

130.雪隠
雪隠(せっちん)といって「あぁ」とわかる人は少ないでしょうねぇ。この漢字を読める人も少ないのではないかとも思います。もはや死語ですな。今では、誰も言わないし、使わない言葉の一つかと思います。こうして、言葉も死んでいくのですね。
ま、それはともかく、「雪隠」について今回は話をいたします。なぜなら、雪隠も仏教から来た言葉だからです。
まず、雪隠について説明をしなければいけませんね。ご存知ない方も多いと思いますので。
雪隠とは、トイレのことです。雪隠の意味については、仏教語の雪隠も一般的な雪隠も同じです。どちらも「トイレ、便所、厠」のことです。問題は、その語源ですね。

とある国語辞典によりますと、雪隠とは
*「せついん」の変化。「便所」の意の老人語。
とあります。老人の言葉として解説してあるのには驚きました。ま、いずれにせよ、トイレの意味であることは確かです。ただ、語源については触れていません。
他の辞書では、
*(雪竇禅師(せっとうぜんし、せっちょうぜんし)が、浙江の雪竇山霊隠寺で厠の掃除をつかさどったという故事から)便所のこと、かわや。不浄。
とあります。この辞書は、語源について少し触れていますな。

さて、では仏教語の雪隠はどうかと言いますと、おなじみの仏教語大辞典で見てみましょう。
*せついん(本来は、こう読む)
せっちんとも読む。厠、便所をいう。その語源に関し
1、雪峰義存禅師が常に浄頭をつとめて大悟したという故事から
2、雪竇禅師が雪隠寺の浄頭の職にあって便所の掃除をしていたという故事から
3、西浄(せいちん)の音の転じたもの
一般には、3の説が採用されている。
とあります。少し解説をしましょう。
まあ、禅師の名前はいいですね。私も詳しくは知りません。そのような禅師がいらしたのだそうです。で、その両名とも、浄頭という役職をしていたのですな。この役職は掃除係の班長さんとでも言えばわかりやすいでしょう。とくにトイレの掃除係ですな。トイレの掃除係は、意外に高い位の禅僧が引き受けるのですよ。禅寺においては、掃除は重要な修行です。まあ、禅寺でなくてもそうなのですが、普通は掃除は小僧が行うものです。特にトイレはね。ですが、禅寺では、今は知りませんが、昔は高僧がトイレ掃除をしたのだそうです。ま、「下座行ができぬ者は、大成せぬ」といわれるらしいので、下座行・・・掃除などの下働き・・・は重要な修行なのですね。
で、両禅師もトイレ掃除をせっせとやっていたのですな。するとある日、「あ、わかった!」という瞬間がやってきたのです。大悟したのですな。その故事にちなんで、トイレのことを「雪隠、せついん」というようになったのだそうです。これが、1、2の説ですな。
3の西浄は、西側のトイレのことを言います。これも禅寺からの言葉ですね。有名なトイレの言葉に「東司」があります。これは東側のトイレの意味ですな。元々、トイレは東の僧坊、西の僧坊にそれぞれありました。さらに、修行僧が使用するトイレとは別に、ちょっと位の上の人が使用するトイレがあったそうです。これを東浄・西浄と言ったのだそうです。
東側のトイレは東司という言葉が残り、西側のトイレは西浄(せいちん)が残ったというわけですな。これが3ですね。
で、雪隠の語源は、西浄(せいちん)からきているというのが有力だと、仏教語大辞典は書いております。
さてはて、いずれが正しいのかよくわかりませんが、1や2の説の方がいいなぁ、と思うのは私だけではないと思います。

人は、偉いと言われる人間や成功をおさめるためには、下積みが必要です。いきなり社長になれるわけでもないし、いきなり人の上に立つ人間になれるわけでもありません。ましてや職人の世界は親方になるまで並大抵の修行ではダメでしょう。せっせ、せっせと下積み生活、修行を行わねば、上には行けないのです。どんな世界でも同じですな。
しかし、上に立つようになると、長い下積み生活や修行時代のことを忘れがちになりますな。で、威張り腐るようになる。こうなると人はダメですね。人としての大事なものを失ってしまうように思います。
威張って、偉そうにして、でかい態度で世間に相対する・・・。醜いですな。上に立つようになると、誰も注意をしてくれないから、自分の態度が悪いことに気が付かないんですね。
先ほども書きましたが、仏教の世界には「下座行ができなければ大成はしない」という言葉があります。いくら御老僧になっても、いくら位が上になっても、下座行をサボるようになっては僧侶はオシマイですな。すすんで便所掃除ができなくては、僧侶としてはダメなのです。エラそうな態度で威張って、小僧やお手伝いの人に
「便所掃除をやっとけ」
などと言っていては、本当はいけないのですよ。できれば、進んで自分で便所掃除をしないとね。

トイレは、最も汚れる場所、不潔な場所です。そこを綺麗に清潔にすることは、とても大切なことであり、徳が積めることでもあります。運をつかむ方法として、昔から「出世したいならその家の主がトイレを掃除せよ」というものがあります。それは徳を積むと同時に、下積みが大事、修行が大事ということを身につけているのですな。そしてそれをいつまでも続けることによって、下積みの苦労した時代、修行した時代を忘れないようにするのです。トイレを磨くことによって、己を磨いているんですな。それができるからこそ、出世もできるのだし、人としても尊敬される人物になれるのでしょう。

最近は、座って小用をたす男性が増えたそうですな。立って小用をしないのだそうです。その理由は、トイレを汚して、奥様や母親から怒られるからだそうです。実は、これはとても残念なことなのでそうです。男は、立ちションによって、男であることを誇示しているのだそうです。座って小用をたすようになると、男としての迫力や責任感が減退するらしいですな。つまり、男らしさがなくなってくるらしいのです。そう言われると、なるほど、最近の男は大人しいですね。頼りないと言いますか。それは、ひょっとしたら、座って小用をたすことによるのかもしれませんねぇ。本当かどうかは知りませんが・・・。
いすれにせよ、男性諸氏、奥様に「あー、またトイレを汚している!。いい加減にして!」と言われる前に、自分の小便の始末は自分でつけておきましょう。たまには、奥様に代わり、トイレ掃除をしっかりしましょう。トイレを汚さない習慣やトイレ掃除をする習慣が身につけば、出世は間違いないし、金運もアップ、社交運もアップしますし、周囲からも尊敬されるようになりますよ。モテモテになるかもしれませんなぁ・・・。
合掌。


131.なんじゃもんじゃ
「なんじゃもんじゃ」・・・一度は聞いたことがあると思います。で、それはいったい何?と尋ねられると、「う〜ん、わからない」、「知らない」という方が多いのではないでしょうか?。まあ、最近では、「お店の名前」、「韓流ドラマ?」という方も多いかもしれません。
ちょっと物知りの方でしたら、「あぁ、それって木の名前でしょ」と答えてくれるでしょう。そうなのです、「なんじゃもんじゃ」は、木の名前なんですね。
そもそもは、よくわからない木に対して「なんじゃもんじゃ」という名前を付けたらしいですね。何の木かよくわからないから
「なんじゃこれは、どんなもんじゃ??」
ということから、らしいのです。そのような木の多くは、神社にあったり、村の大木だったりして、御神木扱いされてますな。そのためか、そうした木は神事や卜占などにも使われたりしたそうです。
ですが、「なんじゃもんじゃ」という言葉の起源は、実はよくわかっていないのだそうです、一般的にはね。
しかし、ここに一つの説があります。「なんじゃもんじゃ」は、元は仏教の言葉である、という説です。

「なんじゃもんじゃ」は、漢字で書けます。「難者問者」です。「なんじゃ、もんじゃ」です。つまり、「なんじゃもんじゃ」は、「難者(なんじゃ)」と「問者(もんじゃ)」をあわせた言葉、なのですな。そもそもは、二つの言葉だったのです。
「難者(なんじゃ)」とは、どういう意味でしょうか。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
*論議の時に、質問を発する人。問者に同じ。
とあります。つまり、「難者」とは、「質問者」のことだったのです。しかも、「問者」も同じ意味。まあ、こっちはわかりやすいですけどね。
ということは、「難者問者・・・なんじゃもんじゃ」とは、「質問者、質問者」という意味になりますね。「質問者の皆さん」でもいいでしょう。
そうえいえば、名僧や高僧が記した仏教書などには、「難者のいわく」などという言葉が出てきます。お大師さんの「般若心経秘鍵」にも「難者のいわく、もししからば・・・・」という一文が出てきますな。意味は、「質問者が言う、もしそうであるなら・・・」ということですな。

そもそも「難」という言葉が、仏教語と一般の言葉では、意味が異なっているんですよ。一般の言葉の「難」の意味は、
@災い。災難。
A非難すべき所。欠点。
Bむずかしいこと。困難。
とありますが(新明解国語辞典)、仏教語の「難」は
@論難。非難。難詰。異議。異論。
A討論すること。論議すること。
B誤った非難。
C難点。
D困難であること。
E難解だとしている。
F難所。
G雑染(ぞうぜん・・・善・悪・無記の三つの性質を兼ねている。貪などをいう)に同じ。
H遅鈍。ぐずぐず。
Iはばかる
と、まあ、たくさんの意味があるのですな。でも、災難、というような意味は、近いところでCDFくらいでしょうか。そのものズバリの「災難」という意味は、ないのですな。
つまり、「難」の主な意味とは、「議論の際に異論を唱えること」であったり「非難すること」であったり「論議そのもも」だったりするのです。

仏教語の「難」とは、このような意味だったので、「難」を使った熟語も現代語とは、微妙に異なる言葉があります。
*「難解」・・・仏教語では「なんげ」と読みます。意味は「理解しがたいこと」。現代語は、「内容や表現形式がむずかしくて、理解・解答が困難なこと。
このあたりは、まあ似ていますな。
*「難所」・・・僧房を建てるのに障りのある場所。仏道修行の至難なところ。仏道修行の障害となるところ。現代語は、けわしくて、容易に通れないところ。
これなどは、まったく・・・とまでは言いませんが、大いに異なりますな。ちなみに、僧房とはお寺のことで、お寺を立ててはいけない場所というのは、@蟻塚、A猛獣のすみか、B淫女のいる場所、C酒店のある場所、となっています(盛り場にあるお寺は、本当はダメなんですねぇ)。
*「難破」・・・「なんじやぶる」の意味で、非難し、論破すること、というのが仏教語ですな。説破も同じですね。現代語では、船が暴風雨などにあって壊れてしまい、航行できなくなること、です。これは、全く意味が異なっていますね。ネット上では「論破したった」なんて言葉が流れていますが、「難破したった」という人はいませんな。
*「難問」・・・現代語の意味は言うまでもありませんな。仏教語の意味は「非難すること」、「論詰すること」、です。まあ、「非難して責めること」ですな。これも意味が異なります。まあ、難しい問題から、「どうしたんだ?、解けないのか?、ダメだなぁ・・・」と詰られているように思った場合は、仏教語の「難問」の意味に取れなくもないですな。確かに、受験勉強の時、難しい問題が出てきて解けないと、問題から責められているような錯覚を感じることもありますからね。
まあ、このように、現代語の「難」と仏教語の「難」は異なっているのですよ。なので、必然的に「難」を使った熟語の意味も微妙に異なることがあるのです。もちろん、「難行」のように同じ意味の言葉もありますけどね。

さて、今の世の中、困ったことが多く、いろいろなところで「難問」が山積みになっていますな。もちろん、日本だけに限ったことではありません。世界中、どこへ行っても「難問」だらけ・・・ですな。
しかし、ちょっと視点を変えれば、「難問」も案外すらすらと解けるものです。ちょっと視点を変える、考え方を変える、立場を変える・・・ということをすれば、難しいことも何とかなる可能性が出てくるものです。
「あー、もう、わけがわからない。どうすりゃいいの!」
「こんなことになってしまったら、もう対処のしようがないじゃないか。困ったことだ・・・」
などと嘆くのはわからないでもありませんが、そうした「困難」や「難問」も、視野を広く持てば道が見えてくるというものです。じっくり落ち着いて考え、難しい問題も「難破」してください。
「なんじゃ〜これは、どういうもんじゃのう」などと、のんびりすっとぼけるのも一つの方法かもしれません。わからないもの、正体不明なものは「なんじゃもんじゃ」でいいじゃないですか、とりあえずは・・・。
合掌。


132.葛藤
人生において、葛藤することは多くあると思います。こうすべきか・ああすべきか、こちらを取るか・あちらを取るか・・・・。生きていく上において、人は様々な岐路に立たされ、思い悩み、苦しみ、葛藤するのです。まあ、生きているからこそ、葛藤するともいえますな。
この「葛藤」、仏教語にも「葛藤」という言葉があります。というより、仏教語の「葛藤」が一般に転用されたのだと思いますが・・・ということは葛藤の語源は仏教にある・・・意味がちょっと違うのですよ。一般の葛藤と、仏教語の葛藤の意味が異なるのです。今回は、その葛藤についてお話しいたします。

先ずは、一般的な国語辞典(新明解国語辞典)によりますと、「葛藤」とは
(からみあったカズラやフジの意)愛憎や人を殺すか助けるかなど対蹠的な心理状態が、その時どきにしのぎを削って表面にでようとしてせめぎ合うこと。
とあります。まあ、わかりますよね。AとすべきかBとすべきか思い悩み、苦しむことです。いわゆる「死ぬべきか生きるべきか、それが問題だ」に代表されますな。ま、ここまでの葛藤はないにしても、皆さんも一度や二度は葛藤されたことがあると思うので、「葛藤」の意味はよくわかると思います。

では、仏教語の「葛藤」はどうでしょう。先に言いますが、仏教語の「葛藤」といいましても、この言葉は禅語と言ったほうがいいでしょう。仏教一般というよりも、主に禅の中での言葉ですね。
おなじみの仏教語大辞典によりますと、「葛藤」とは
@つたかずらの意。葛も藤もともにつる草で、からみついて、もつれて解けないことを喩えていう。
A葛や藤のつるが錯綜するように文字言語の煩わしさをいった語。文字にこだわって、語句に束縛されることに喩える。理屈をこねまわすこと。教えの煩わしいことをしりぞけていう語。
B文字言句のこと。また公案をもいう。経論文字の上の議論の尽きないことをいう。
C俗に入り組んだこと。こみ入ったこと。すじみちが紛糾錯雑して解説しがたいこと。
とあります。
一般の葛藤は、仏教語の@から派生したものだと思いますが、他の意味も影響していたと思います。否、むしろ、禅において葛藤という言葉はよく使われていたのですから、禅語としての意味から一般に広まっていったのでしょう。禅は、武家や商人たちの間で大いに流行りましたからね。武士や商人がこぞって参禅したのです。
しかし、なかなか禅の境地に達することができませんな。無にはなれないのです。そこで公案に走る者もいますな。しかし、公案も理屈では解けません。あれは閃きが大事です。「あっ、そうか」という閃きですな。禅は難しいのですよ。

いくら参禅しても、なかなか無の境地には達することができません。そこであーでもないこーでもない、といろいろ理屈をこねまわしはじめますな。というか、初めはきっとちっとも悟れないから言い訳をしたのでしょうな。
「いや、この境地にまでは達することができたのだが、そこから先がなぁ・・・。どうもよくわからん。実際、心は静かになるのだ。うん、確かに心は静かなのだ。その先とはどういうものなのだ?」
「ふむ、そうじゃのう、静かな心になるとだな、じーっとさらに禅をしているとだな、先の方に池が見えてくるのだな。その池が鏡のごとくなんだよ。そうそれが『明鏡止水』の境地だな。それは、この世のすべてを映し出すのだ。己の心の内も映し出す。しかし、その映し出されたものに動揺してはならない。あくまでも『止水』だ。波は立ててはいけないのだ。わかるかい?。俺はね、その境地までいったんだ」
「なんのなんの。明鏡止水は、そうじゃない。その鏡には何も映らないのが本当だ。どこまでも澄んでいるのだが、その深さはわからない。透き通っているようで水の底は見えない。たとえ石を投げても波は立たず、ちゃぽんなどという音もせず、スーッと吸い込まれるように石が沈んでいく。それが明鏡止水なんだよ。お前さんのは、まだまだだ。明鏡止水もどきだな」
「なにを〜!」
などと禅の境地にいろいろ理屈をつけますな。そうやってそれぞれの境地について議論を始めますな。お互いに自慢し合ったりもします。しかし、本来禅で得られる境地は言語道断ですな。不立文字です。言葉や文字であらわすことができない世界、それが禅による悟りです。このようにお互いの境地を理屈っぽく説明していると
「この戯けものめが!。お前らの禅なんぞ葛藤禅じゃ。もう一回、座り直せ!」
などと喝が飛びますな。
理屈をこねまわしている禅のことを「葛藤禅」といいます。これは主に、公案に明け暮れている僧を卑下した言った言葉ですな。公案による禅では悟れないよ、それは「葛藤禅」だ。禅の境地はひたすら座ることにある、ということですね。

さて、葛藤禅だ!、などと批判されますと、どうしていいかわからなくなるものもいますな。しょせん人間は言葉なくしては伝えられないのだ、ということですね。以心伝心なんて無理だよ〜、言葉は必要だよ〜、誰か禅の深い境地を解説してくれよ〜、などと悩むものもたくさんいたことでしょう。
迷いから解放されるために参禅したのに、さらに別の迷いにとらわれてしまう・・・。座禅をしていると、よくある話ですよね。
迷いから解放されるために行った禅で、さらに迷ってしまう。複雑に心の中が絡み合ってしまう。う〜ん、どうしたらいいんだ、う〜ん・・・などと思い悩み始めますな。禅を止めれば解放されるのか、禅を続けることによって解放さるのか・・・・。迷いの森に入ってしまいますな。これ、まさに「葛藤」ですよね。
禅の境地に達したいけど達することができない、思い悩み、言葉にその境地を求めてしまう・・・、あぁ、煩わしい・・・。まさに葛藤ですな。こういうところから、現代で使用する葛藤の意味が広まっていったのではないかと、私は推察するのですが、果たしてどうなのでしょうかねぇ。

禅とは、ただひたすら座り、心静かにすることですよね。俗世間の一切の煩わしさから解放されるのが、禅の境地です。しかし、そこにはなかなか至ることができないのですな。ちゃんと道場で座っているときは、そういう気持ちになれても、普段の生活に戻るとちーっとも静かな心にはなれない。動揺したり、イライラしたり、焦ってみたり、ワクワクしたり、ドキドキしたり、緊張したり、溜息ついたり、冷や汗流したり・・・人間は、多種多様に心を変化させますな。
「あれ、おかしい、座禅で平常心を手に入れたと思ったのに・・・」
などと悩んだりもします。「あー、結局、役に立ってないや」などと嘆くこともあるでしょう。ここで、理屈こねたり、自分で自分に言い訳を始めたりすると、本当に禅での経験が無駄になってしまいますな。
「禅は理屈ではない」
これを忘れてはいけません。理屈で理解できるものではないのです。しかも、一度座禅をして得られた境地であっても、すぐに逃げて行ってしまうこともあります。日常生活で応用することなど、なかなか難しいこともあります。
しかし、思い悩むことがあったり、葛藤するようなことがあったりしたときは、やはり座禅や瞑想はいいですね。心静かにして、落ち着いてみる。冷静になってみる。何も考えるなとはいいません。あれこれ考えてもいいでしょう。きっと、そのうち静かになりますからね。

葛藤することは誰にでもあります。思い煩い、悩み苦しみ、どうすればいいのかと迷い・・・。そういう葛藤は、どなたも経験することでしょう。しかし、その葛藤が人間性に厚みを持たせることも、また事実ではないでしょうか?。実際、葛藤のない人生なんて、本当はつまらないかもしれません。悩みのない人生は、どなたも憧れるかもしれませんが、悩みのない人間は、悩んでいる人の気持ちが理解できませんからね。人は悩んで大きくなるものなのです。お釈迦様だって、悩んだからこそ、悟りを得たのですからね。悩まずにそのままだったら、小さな国の王にすぎなかったでしょう。いろいろ悩むことによって、仏陀となったのです。
悩むのはいや、葛藤するのは苦しい、などと言っていないで、大いに悩みましょう。大いに葛藤しましょう。それがあなたの人間性を育てているのですから。
合掌。


133.殊勝
「ふん、なかなか殊勝な心がけだな」
と言われたことはあるでしょうか?。まあ、ドラマや映画の中ではよく聞くセリフですが、一般的にはあまり言われないセリフかもしれません。職種によっては、上司から言われることもあるかもしれませんが・・・。
このセリフの場合、意味は「なかなかいい心がけだな、お前も随分反省したんだな。そう言う謙虚な気持ちが大事なんだよ」という上から目線の思いがたっぷり含まれておりますな。もしくは、嫌味がたっぷり含くまれております。悪人面の役者さんが、さも偉そうに言うと様になっていますな。
「殊勝」は、本来いい意味の言葉なのですが、それを言う人の立場によっては、その言葉の奥には別の意味が見え隠れしますな。なかなか意味深な言葉でもあります。
この「殊勝」、仏教語の「殊勝」となると、また意味が異なってきますな。元々は、仏教語から一般に広まったと思われますが、意味合いが次第に変化しております。今回は、この「殊勝」について、考察していきたいと思います。

先ずは、一般的な意味の「殊勝」について、確認をしておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
(年齢や経歴の割に)りっぱな所が有り、ほめるに値する様子。
とあります。使用例は冒頭に書いた通りですな。元来、いい意味で使用されますな。

では、仏教語の「殊勝」はどうなのでしょうか?。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
@すぐれていること。並びなくすぐれた、の意。
A多くの中ですぐれている。
Bさとり、またはさとりの境地。
とあります。
なんだ、そんなに意味が変わらないじゃないか、と思われるでしょう。しかし、一般の「殊勝」と仏教語の「殊勝」は、その「殊勝」の度合いが異なるのですよ。

一般の「殊勝」は、せいぜい「いい心がけ、謙虚な態度、なかなか立派だなと褒められる態度」のことでしょう。これは、誰にでもできる心持ちなのですよ。どなたでも、ちょっと反省し、「一から出直すぞ」とか「石にの上にも三年で頑張るぞ」とか「申し訳ございません。おっしゃる通りです。あなたに従います」などと言えば、
「ふむ、なかなか殊勝な心がけだな。今後ともその気持ちを忘れないことだ。あっはっは」
などと言われますな。そういわれると、たいていは少々屈辱感があったりしますな。まあ、そういう状況で使用されることが多いのですが、一応、どなたでも「殊勝」にはなれるのです。
ところが、仏教語の「殊勝」は、そう簡単にはなれません。この「殊勝」は、そんじょそこらの立派な態度やほめるに値する様子ではないのですな。それは「並はずれて」なくてはいけませんし、「並ぶものがない」という状況でなくてはいけませんし、「ものすごく勝れて」なくてはいけないのです。だから、「さとりの境地」の意味が含まれてくるのですな。

「殊勝」は、そのまま解釈すれば「殊に勝れている」となります。「殊」とは、「比較、相違」を表す言葉ですな。比較し、相違をよく見てみると、並々ならぬ勝れている・・・・。それが「殊勝」なのですな。
たとえば、祈願をするにも欲のための祈願・・・お金が儲かりますように、事業が繁栄しますように、結婚できますように、就職できますようにというような、個人の願いや欲望の祈願・・・ではなく、「悟りを得て、多くの人々を救える菩薩になれるよう祈願します」なんていう大きな祈願をすると、「おお、それはそれは殊勝願であるな」と仏様から言わるのですな。つまり、個人を越えたとてつもなく大きな祈願だと「殊勝」な祈願だと言われるのです。まあ、本気でそんな祈願をする人は滅多にいないでしょうけどね。私なんぞは捻くれておりますので、そんな祈願をしている人がいたら「まった〜、偽善臭いよねぇ〜。あぁ、イヤだイヤだ、本音の祈願をしなよ〜」などと言ってしまいますな。「そういう祈願をして周りから褒められたいんじゃないの」とか「そう言う祈願をする自分に酔ってるんじゃないの」などと思ってしまいます。あぁ、いつから素直に人の言葉が聞けない人間になってしまったのか・・・。
まあ、それはいいとしまして、仏教語の「殊勝」は、レベルが高いのですな。殊勝レベルが、高いのです。ちょっと反省して、「出直します、頑張ります」では、「殊勝な心がけだ」などと言ってもらえないのですよ。

そもそもは、「殊勝」は、仏様に対して使った言葉ですな。人並み外れて勝れた智慧があり、多くの人々を救う立場にある仏様・菩薩様、あるいは仏弟子たちに対して、敬意を込めて「殊勝な方々」と表現したのです。上司や上役の人から、褒めてもらう時に使う言葉ではないですな。
なので、「殊勝な仏様・・・殊勝佛」とか「殊勝な教え・・・殊勝法」などという言葉もあるのです。帝釈天の住まいは「殊勝殿(しゅしょうでん)」と呼ばれていますな。「この上なく、並々ならぬ勝れた宮殿」という意味ですな。現代の殊勝の意味で言えば、人々が「ふん、立派な住まいだな、なかなか殊勝な宮殿だ」と上から目線で名付けたことになってしまいますな。しかし、本来の意味で言えば、尊敬や畏敬の念を持ち、人々は「殊勝殿」と呼んだのですな。

もうお分かりでしょう。仏教語の「殊勝」は、尊敬や敬意、畏敬の念を感じ以て、並はずれた力や智慧を有する立派な方に対して使用した言葉なのですな。ところが、現代では、「殊勝だな」といえば、上から下に向かって「褒めてやる」という上から目線で使う言葉になっているのですよ。立場が逆ですな。しかも、本来の「殊勝」は、そんじょそこらの「謙虚な気持ち、態度」程度では使われない言葉だったのです。殊勝のレベルが違うんですな。
いつの間にか、「殊勝」は、並はずれて勝れた者への言葉から、ちょっと反省し謙虚になった者への言葉へ、身を落としてしまったわけです。

とは言いましても、殊勝な心がけ、は大切ですな。たとえ、小さな殊勝であっても、謙虚さというものは大事です。それは、自分の立場がいくら上の方に行ったとしても、ですな。
どこかの国の威張り腐った大統領や首相ではなく、謙虚な態度を示す大統領や首相のほうが、やっぱり尊敬されるでしょう。会社の上司の場合もそうですね。いつまでも、謙虚さを忘れず、威張り散らしていない上司は、部下からも人気があります。人間、謙虚さを忘れてしまったら、あとは落ちるばかりですな。
我が国の首相はどうなんでしょうねぇ。「殊勝な首相」なのでしょうか・・・ねぇ・・・?。
(言うと思ったでしょ。「殊勝な首相」。期待に応えて使いました。あしからず・・・)
合掌。



134.選択
今回は、特に仏教語というわけではありません。一般の言葉です。しかし、その言葉が仏教では、読み方が変わるので、取り上げてみました。意味もあまり変わりませんが、その対応が一般と仏教では異なるということはあります。意味がよくわからない?。すみません。これから話をします。

選択・・・もちろん、意味は、「選ぶこと」です。それがいいと思って、ある中から一つを選ぶことですね。選択する、といいます。一般では、「せんたく」と読みますが、仏教では・・・というよりこの言葉は浄土系の宗派でしか使わないので、その宗派ではと言ったほうがいいですね・・・浄土宗では「せんちゃく」、浄土真宗では「せんじゃく」と読みます。意味は、「不要なものを捨て、正しいものを選び取ること」です。まあ、同じですね。「よいもの」と「正しいもの」が違いますね。が、この違いは大きいのですよ。

人生は、選択に満ち溢れています。いつも人は選択に迫られています。朝起きて、もうあと5分寝るか、すぐに起きるかの選択がやってきますな。まあ、やってこない人もいますが・・・。朝ご飯を食べるべきかコーヒーのみで済ますか、これも選択ですな。えっ?、いつも決まっている?。まあ、それはそれでいいことですな。さて、何を着ていこうか、選択ですね。えっ?、これも決まっている?。あぁ、でも、遊びに行くときは、あれこれ着る物を迷うでしょ?。選択肢はたくさんありますからね。ま、私のように選択肢がない場合は、迷わないでしょうけど、普通の生活をしている方は、おしゃれ位するでしょ。そこに選択が生まれますな。
考えてみてください。あなただって、ここまで来るのに選択をしてきたのではありませんか?。どの学校へ行こうか、どの塾を選ぼうか、どの友達と遊ぼうか、どの高校を、どの大学を、あるいは就職を・・・、選んできたのではないですか?。
もっと身近では、食べ物屋さんに入った時、定食AセットにしようかBセットにしようか、はたまた違うメニューから選ぼうか、などと迷うことあるでしょ。
そう、普段はなかなか気が付かないけど、人はいたるところで選択をしているのですよ。

その選択をしているとき、人は「これだ、これがいい」と思って選びますな。わざわざ悪いほう、嫌なほうを選ぶへそ曲がりの人はいませんな。みなさん、良かれ思って選びます。が、意外に
「しまった、失敗した、あっちの方が正解だった」
ということがりますよね。ないですか?。全部正解?。そんなことはないでしょう。迷ったがあげく選んだ方が大失敗、ということはよくあることだと思いますよ。たとえば・・・。
ある女性の方です。複数の男性から求婚されていました。モテモテの女性だったんですね。
「もう、どうしようかしら。誰を選んだらいいかわからない。こういう時は、年収と外見で選ぼうっと」
などと自分が良かれと思った相手を選びます。選ばれた男性は、大喜びですな。
ところが時は流れて数年後。
「あぁ、もう、選択ミスだったわ。ふん、何さ、アイツ。年収はよかったけど、仕事仕事でち〜っとも私の相手をしてくれない。しかも、威張ってばかりいて、ちっとも家庭的じゃない。あぁ〜あ、噂によると、私が捨てたアイツ、すっごくいい家庭を作っているらしい。休みの日は家族でバーベキュー、時々いまだに二人でデートしているっていうし。あぁ〜あ、絶対選択ミスだったわぁ・・・」
こんな話よく聞きますよね。えっ?、お宅もそうだって?、おや、結婚前はスレンダーだった奥さんが結婚後、見事に太ったって?、それも選択ミスですかねぇ・・・。えっ?、奥さんが結婚前は優しくて家庭的そうに見えたのに実は全然家庭的じゃなかったって?・・・まあ、そう言う選択ミスもありますよねぇ。
ここだ!、と選んだ会社がブラックだった、ということもありますよね。コイツだ!と選んだ新入社員が全く使えないヤツだった、ということもあります。
このように、いたるところで選択する場面に人は出くわしますな。その選択も人生を左右することから、あっちゃーで済む程度の選択まで、いろいろあります。しかし、いつでも自分の選択が正解、ということは少ないですな。むしろ、選択ミスのほうが多いようにも思えます。

「こんなはずじゃなかった。あっちを選べばよかった」
「あっちが正解だったか」
ということはよくあります。人はそのたびに悔しがり、後悔しますな。「なんで、あの時、あっちを選ばなかったんだろう」とね。
仕方がないじゃないですか。その選択をした時は、そっちの方がよく見えたのですから。そっちが正解だと思って選んだのですから。でも、そういう時、こういう人もいるんですよ。
「お前のせいだ」
「あんたのせいだ」
とね。「あの時、こっちを選んだのは、お前がこっちがいいよ、と言ったからだ」などと、他人のせいにする人がいるんですよ。嫌な人ですよねぇ、こういう人って。
選択は、最終的には自分で決めたことです。周りからいろいろ意見はあったかもしれません、アドバイスがあったかもしれません、半ば強制的に選択させらたかも知れません。しかし、最後の決断は、自分でしたことです。自分以外の誰の責任でもありませんな。そこのところを間違ってはいけませんね。選択は自分でしているのです。

しかも、「あっちの方がよかった」と思うかもしれませんが、それも当てにはなりません。自分が捨てたほうもよくないかもしれないじゃないですか。たとえば、迷ったあげく選択をして結婚相手を選んだ場合でも、他の人だったら幸せになったかどうか、今よりもいい生活になったかどうか、はわからないですよね。
「自分が捨てた男は、今は幸せにやっている。あっちを選んでおけばよかった」
と悔しがったとしても、その男性は、今の結婚相手だからこそ幸せなのかもしれません。その男を捨てた女性とだったらうまくいってないかもしれないでしょう。捨てたほうが、今よりもいいとは限らないのです。もしかしたら、今よりも悪いかもしれないですね。

人生は、同時に別の道を歩くことはできません。選択に迫られた場合、一つしか選ぶことはできないのです。二つ以上の道を同時に経験することはできないのですよ。
ならば、自分が選んだ道が常にベストである、と思わなければやってられませんな。あっちの方がよかったかも、なんて迷っていたら、いつも決断が鈍ってしまいます。
「今自分が選んだ道がベストなのだ。他はない」
と思うことです。
実は、仏教の選択の意味は、ここにあります。ただ単に正しい道を選ぶ、という意味だけではありません。自分が選んだ道ならば、それが正しいと信じて、突き進む。後悔はしない。それが仏教の選択ですな。
たとえば、数多くある仏教の教えから法然さんや親鸞さんは阿弥陀如来の教えを選択しました。親鸞さんに至っては、法然さんという師を選択しました。法然さんも親鸞さんも、どんなに厳しい批判を受けようと、どんなに厳しい道であろうと、どんなに迫害を受けようとも、阿弥陀如来の教えを選んだことを後悔していないし、その道を捨ててもいません。親鸞さんは、
「たとえ法然上人(阿弥陀如来)にたぶらかさて地獄へ落ちようとも、私は法然上人(阿弥陀如来)を信じて従う」
とまで宣言しています。これが仏教の選択ですね。

一般の選択と仏教の選択は、その選択に対する覚悟が違うのですな。「これが正しい道だ。自分の進む道はこれだ」と決めたなら、後悔することなくまっすぐ進む。もし、途中で間違いに気が付いたら、修正すればいい・・・。これが仏教の選択なのです。軽い選択ではないのですな。そこには、信念があるのです。

人生は選択だらけです。小さなことから、自分の人生を左右すること、果ては国の将来を左右することまで選択はあります。簡単に選択しないで、じっくり考えて選択しなければいけないこともあります。しかし、どんな選択であろうと、決して後悔はしないことです。自分が選んだ道は、その時は正しいと思った道なのだ、自分で選んだのだから他人の責任ではない、後始末も責任もすべて自分にある・・・。そう言う覚悟が必要なのですな。
何でもかんでも簡単に選択して、そのあげく、「あんたのせいだ」などと他人のせいにしないことです。選択は、人生において、結構大きなことなのですよ。
合掌。



135.悲願
夏ですねぇ。暑い日が続きます。夏の風物詩と言えば、たくさんありますが、代表的なものは甲子園でしょうか?。そう、高校野球ですね。暑い中、必死に練習し、予選を戦っております。勝っても負けても、あの一生懸命さは、称賛に値しますなぁ。
野球少年にとっては、甲子園出場は悲願でしょう。悲願達成!、などと甲子園出場が決まった高校には、大きな垂れ幕がはってあったりしますな。
さて、この悲願ですが、これは実は仏教語なのですな。仏教語から一般に広まった言葉です。今回は、その悲願についてお話しいたしましょう。

まずは、一般的な「悲願」の意味を確認しておきましょう。一般的には、「悲願」は
ぜひやり遂げたいと考える有意義な計画のこと、
となります。「どうしても叶えたい大きな目標」と言ってもいいでしょう。まあ、このような意味で用いられますな。
ちなみに、国語辞典を引きますと、「悲願」は、仏教語として紹介されております。新明解国語辞典によりますと、
(「悲」は衆生の苦を取り除く意)(仏教で)仏や菩薩の大慈悲から出た、衆生済度の誓願。
とあります。まさに、そのものずばりですな。ここから派生して、一般にも広まった、ということですな。

さて、本家本元の仏教語大辞典ではどうなっているでしょうか。
@佛・菩薩が大慈悲心によって起こす誓願。大悲願力の略。慈悲の本願。慈悲にもとづく誓願。慈悲の願い。救いの願い。慈しみの願い。
A転じて一般に物事を成就したいと悲壮な願いを立てる場合に用いる。現代一般の用例では、是非とも達成しようとする悲壮な願いをいう。
と、このようになっております。一般の辞書よりも親切な解説ですな。

そもそも「悲願」とは、仏様や菩薩様が、衆生を救いたい、という願いのことですな。菩薩は、本来ならば如来(仏様のこと)になることができるのですが、
「すべての衆生を救いとるまでは、如来にならない」
という誓いを立てております。つまり、これが菩薩の悲願ですな。菩薩は、この地球上にいるすべての生命体が救われる・・・悟りを得る・・・まで、如来にはならないのです。これは、とてつもなく大きな悲願です。ですから、大悲願というのですな。その代表的な菩薩が観音様・・・観世音菩薩です。観音様は、悲願の象徴ですな。なので、観音様のことを
「大慈大悲観世音菩薩(だいじだいひかんぜおんぼさつ)」
と称するのです。
もちろん、他の菩薩・・・お地蔵さんや文殊菩薩、普賢菩薩、虚空蔵菩薩、弥勒菩薩、勢至菩薩など、すべての菩薩も「一切の衆生を救うまでは如来にはならない」という誓願を立てております。大きな悲願を持っておりますな。ただ、昔から、観音様は、その象徴として人気を集めていたのです。

それは、観音様の容姿によるところが大きいのでしょう。また、観音経に説くところの影響もあるのでしょう。観音経には、
「観世音菩薩の名を呼んで救いを求めるものがあれば、観世音菩薩は大悲心をおこして、必ずその者を救う」
と説かれています。そのため、多くの人々が、昔から観音様に救いを求めたのですな。
また、その容姿が人気を集めたのですな。それは優しい女性のような姿であり、慈愛にあふれた母親のような姿をしています。ですから、「慈母観音」という観音様も登場しておりますな。すさんだ心の者や、疲れ切ってしまった者にとっては、観音様のあの御尊顔は、それを拝しただけでも救われるものですな。
観音様の救いに関しては、多くの昔話がありますな。わらしべ長者の話も観音様の救いの話です。インドでは、ガネーシャを救った話もありますな。
父親の大自在天に悪行三昧を怒られ、首をはねられたガネーシャ。あわてた母親がそばにいた象の頭をくっつけてしまいました(諸説あり。最初に出会った生き物の頭をつけろいう命令であった、など)。そのため、頭が象で身体が人間という化け物ができてしまったのです。ガネーシャは、これがめちゃくちゃショックだったのです。で、湖のほとりに立ち、入水自殺しようとします。そこへ「ちょっと待ってください」と現れたのが、自分と同じ頭が象で身体が人間という女性でした。ガネーシャは驚きますな。自分と全く同じ姿をした異性がいたことに。その女性は
「私もこのような姿のため、誰にも相手にされません。あなたと同じように死のうかと思っていました。ですが、私と同じ姿をしたあなたを見て、心が変わりました。さぁ、あなたも死ぬことなどやめて、こちらに来てください」
と言って、両手を広げますな。そう、ガネーシャを抱きしめようと待っているのです。ガネーシャ、湖の中から戻ってきて、彼女に抱かれますな。二人はハグします。こうして、死のうとしていたガネーシャは、救われたのです。
実は、この女性のガネーシャ、観音様の変化身です。「死にたくない、でも死ぬしかない。こんな醜い姿では生きていられない・・・」と嘆き悲しんだガネーシャを哀れんで、彼を救いに来たのですな。彼を救うには、彼と同じ姿にならなければならないでしょう。そんな醜い姿はあなただけではないのですよ・・・と。
この救いによって、ガネーシャは、魔神から善神へと変身しております。そう、聖天さんですな。歓喜天ともいいます。その御姿は、頭が象で身体が人間である二人が抱き合っている姿をしております。
これが観音様の救い・・・悲願なのです。

菩薩は、人を救うことが仕事です。いや、仕事どころではありません。悲願なのです。ですから、私たちは、菩薩に救いを求めるべきなのです。菩薩の悲願達成のために、大いに菩薩に救いを求めるべきなのですな。ただし、間違った望みや願いはいけません。これはダメです。そんな願いをしても、菩薩は救ってはくれません。正しい願いじゃないとダメですな。よこしまな願いをいくらしても、それは届かないですねぇ。
もし、今あなたが心に何か憂いがあって、救われたいと望むなら、大いに菩薩に祈ることです。もし、今あなたが何かに疲れてしまって、生きていくのも苦しいと思っているのなら、大いに菩薩に祈ることです。
「こんな人間を救うのが菩薩の仕事、悲願なのでしょ?。だったら、こんなに苦しんでいる私をどうか救ってください。お願いします」
と願うべきなのです。そのように願って救われたならば、その人はきっと菩薩が本当にいることを信じるでしょう。また、もともと信じていた人は、益々信仰を深めるでしょう。つまり、人々に仏教が浸透するということですな。それが、菩薩の狙いであり、悲願なのですな。

悩み苦しんでいるあなた、生きていくことに疲れ気味のあなた、大いに救いを求めましょう。菩薩が悲願を達成するために協力しましょう。大いに救いを願って、救われて、仏様の教えを信じましょう。
菩薩もあなたが救いを求める声を待っているのですよ。
合掌。



136.非情と無情
世の中には、情に薄い人間がいます。情け容赦ないというか、冷たいというか、冷血というか・・・。元々そうなのか、あるいは、心を鬼にして非情な振る舞いをしているのか・・・。ときどき、「こんな仕打ちをするのは、あなたのためを思ってのことなのだ」と言い訳めいたことを言う人もいますが、果たしてその真相はどうなのでしょうか?。ま、確かに、時には非情も必要ですが、あまりにも非情すぎるのはどうかと思いますな。
また、「無情にも、そんな仕打ちをうけるとは・・・」ということもありますな。「無情」も「非情」と同じように使われますが、感覚的に「無情」より「非情」の方がキツイ感じがしますな。まだ、「無情」の方が優しい?感じがします。
そんな「非情」と「無情」ですが、元々は仏教語ですな。仏教の言葉が一般に広がって意味もちょっと変わっていったというパターンですな。今回は、その「非情」と「無情」についてお話しいたしましょう。

今さら言うまでもないのですが、一応「非情」と「無情」の意味を押さえておきましょう。国語辞典(新明解)によりますと「非情」は、
喜怒哀楽の感情によって代表される人間らしさを一切拒絶する様子。
(仏教では、その代表的存在としての木石を指す)
とあります。丁寧に、仏教語での意味も添えてありますな。では「無情」はと言いますと
@思いやりのない様子。
A人間らしい感情がない様子
とあります。「非情」に比べると、ちょっと柔らかい表現になっていますよね。「非情」は、人間らしさを一切拒絶する、ですからね。「無情」は、なんとなく「ボーっとした感じ」がします。そんな違いが感じられますが、意味は同じですな。

では、仏教語の「非情」と「無情」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典によりますと
「非情」
@精神のないもの。精神をもたない自然界の物体。草木土石など、情(精神作用)のないもの。有情の対。
A精神ある生きものではないもの。地獄の獄卒などをいう。
とあります。では「無情」は
精神作用のないもの、のこと。
と、まあ、あっさりしていますな。

ちなみに、「非情」に出てきた反対語の「有情」は
@生命をもって存在するもの。生きもの。生あるもの。感情や意識を有するもの。古くは衆生と漢訳し、玄奘以降の新訳では有情と漢訳する。情は心の意。一切の生類の総称。無感覚な草木・山河を非情とか無情とかいうのに対していう。
A存在主体。ほぼ霊魂に同じ。
B人びと。
C有仏性の意。仏性のある者。
とあります。これが一番意味が多いですな。ともかく、有情とは、生命体のことを言いますな。ということは、死体は有情ではなく非情、もしくは無情となります。死体は物質ですからね。なので、有情の意味に「霊魂」という概念が出てくるのですな。

仏教語の「非情」も「無情」も、意味は共通しています。というか、「非情」に「無情」が含まれている、という感じですな。いずれにしても、「精神をもたない、非生命体」のことですな。
ちなみに、草木は精神をもたない、感情をもたない、とされていますが、近年の研究によると、草木も切られる直前や切られたときに、異常電流が流れるそうです。だからと言って、意思があるとは言いませんが、草木は一応生命体でもあるので、ひょっとすると何らかの精神性があるのかもしれません。
あぁ、よく木を切ると禍がある・・・ということがありますが、あれは木そのものの意志によるのではなく、木に宿った念・・・これを木の神と言います・・・が、禍をなすわけです。また、石においても、昔の石塔などを無闇に動かすと禍がおこることがありますが、これも石に宿っていた念や魂、あるいは、その石の下に封印されていた念や魂によるもので、石そのもの意志によって禍を起こしているのではありません。石は物質そのものです。

現代では、一般的に非情な者は非難されますな。無情な者も非難されます。思いやりのない人間、冷淡な人間、人間らしい感情がない人間は、非難され、批判され、嫌われますな。ところが、仏教では正反対です。仏教では、「非情であれ、無情であれ」と説きますな。
誤解のないように申し添えておきます。お釈迦様は、他人に対して冷淡になれ、冷たくなれ、思いやりを持つな、と説いたのではありません。決してそうではありません。誤解しないでください。お釈迦様が説かれたのは、
「情にとらわれるな」
ということです。

人は、愛情に惑わされます。愛情が深ければ深いほど、その対象にとらわれ、心を奪われてしまいますな。たとえば、あまりにも愛情が深すぎて、ストーカーに変貌してしまう、ということもあります。あれは、一方的な愛情が深く、その愛情にとらわれ、正常な思考ができなくなり、自分の愛情を押し付け、相手の人を我が物してしまおう、という心の働きによるものです。愛情は、人を狂わせるのですな。
ストーカーまでに至らなくても、愛情は人を狂わします。フラれれば、悩み苦しみますし、愛が成就すれば離れたくなくなります。親子の愛情も同じですね。子に対する愛情にこだわり、とらわれてしまえば、親は子を手放したくない、自分の思うように育てたい、と望み、その通りにならないと虐待などをしてしまいますな。
よく聞く話なのですが、親の介護のため仕事を辞めてしまう息子さんがいます。行政の手助けを借りればいいのに、あるいは施設へ入所させればいいのに、
「そんなかわいそうなことはできない。親の面倒は子が見るべきだ」
と、頑なに手助けを拒否する方がいます。これ、親に対する「情」にとらわれているのですな。いずれ、金銭的に行き詰れば、共倒れです。あるいは、精神的に行き詰っても共倒れですな。気が付いたときには、親も子も遺体で見つかった・・・ということにもなりかねません。ニュースで耳にすることもありますよね。

「情にとらわれるな、非情であれ、無情であれ」
というのは、「情にとらわれることによって、周りともども不幸になってしまってはいけない」という意味なのです。また、情にとらわれれば、客観的かつ平等に状況を見ることができなくなります。学校の先生が、情にとらわれれば、生徒をひいきしてしまう、と言うことが起きますよね。よくあることですが。お釈迦様は、こういうことが起きないように、「非情であれ」と説くのですな。

思いやりの心はなくしてはいけません。また、感情もある程度は必要です。しかし、思いやりが過ぎて、大きなお世話になったり、思いやりの押し付けになってしまっては、本末転倒ですな。また、感情も程度が過ぎれば、周囲の人はドン引きでしょう。思いやりも、感情もほどほどに抑えられなければ、厄介なものになってしまうのです。
そう、情は、ほどほどにしないと、厄介な問題を引き起こすこともあるのですよ。頼まれたから仕方がなくお金を貸してしまった、頼まれたから仕方がなく会員になってしまった、友人に頼まれたから、親しい人に頼まれたから・・・・みんな、情がもとで起きるトラブルですね。
夫や妻以外の相手に情がわいてしまい、不倫関係になった。とても切り捨てられない相手になってしまった。妻や夫と別れる気はないが、不倫相手とも別れる気はない。ばれなければいいけど・・・。と不安な毎日を過ごしている方も「情」とらわれてしまった方ですな。
オレオレ詐欺もそうですね。情があるから騙されるのだし、騙す方は親や祖父母の「情」に訴えかけて騙すのですな。人間らしからぬ、性質の悪い連中ですが、騙される方も「情」にとらわれないよう、普段から心得ておくべきですな。たとえば、お孫さん(のフリをした人)から連絡があり、「助けて欲しい」と言われても、即座に
「自分のしたことなのだから、まずは自分で処理をすべきでしょう。その上で、さらに問題があるというのなら、その時に相談に乗りましょう」
と言えるくらいの冷静さを持っていて欲しいですね。「自己責任でしょ」と言えるようにね。それは、「ひどい、情はないのか?」と非難されるものであはりません。むしろ、「その通り」と絶賛されるべき心得です。最近の祖父母や親は、子や孫に甘すぎですな。だから付け込まれるのです。愛情と過保護は違いますな。
普段から情にとらわれないようにしていれば、オレオレ詐欺なんぞには騙されません。情にとらわれているからいけないのです。

時には、非情も無情も必要なのですよ。情を取っ払って、客観的なおかつ平等に見て、考えることが必要でしょう。時には、非情に切り捨てなければいけないこともあるのです。関係のない人は「ひどい、あくどい、情はないのか、それでも人間か」と批判し、非難しますが、そうしなければならないこともあるのです。それは、当事者が一番わかっていることだし、当事者が最も苦しんでいることでしょう。関係のない第三者が、とやかく言うことではないですな。

情は大切です。思いやりや自分の感情を持ち、表に出すことは、それはそれでとても大事なことです。しかし、それも過ぎてはいけないし、とらわれてしまえば、別の不幸を呼び寄せてしまうでしょう。
情は大切ですが、とらわれてはいけません。また、時には、非情にも無情にもなることが必要な場合もある、ということを忘れないで欲しいですね。そして、非情になった・無情になったという人を安易に非難しないことです。他人にはわからない事情があるのですから。
合掌。



137.初心
「初心、忘れるべからず」といいます。確かに、初心というものは大事ですな。なぜならば、純粋だからです。きっと、あの議員だって、初心は立派だったことでしょう(そう信じたい)。まさか、初めから税金で贅沢をしようとか、遊んでやろうとか思ってはいなかったことでしょう(そう信じたい!)。それがいつの間にか、時がたつにつれ、初心の志を忘れ、「まあいいか、これくらい。みつからないし」と悪魔に魂を売ってしまったのでしょうな。ま、そんな人はいっぱいいるようですが、怖いですね、初心を忘れるということは。
さて、この初心ですが、これも元は仏教語ですな。今回は、初心に戻って「初心」についてお話をしたしましょう。

いつものごとく、先ずは仏教語大辞典で「初心」について調べてみましょう。
@さとりの最初の心。初発心の略で、初めてさとりを求める心を発すこと。
A初位。
B十信のうちの第一の位である信心の位をいう。
C初住。十住の最初としての初発心住。
D参禅学道に日の浅い初学者。修行の浅い人。
E初めの決心。
とあります。これを見てすぐにわかると思いますが、現在使われている「初心」は、Eですね。
このEについては、碧巌録(禅における重要な論書)に「初心忘るべからず」という一句が出てくるのだそうです。また、華厳経には「初発心の時、便ち正覚を成ず」という句があり、Eの意味はこれらの句に由来するものです。つまり、修行に入ったばかりのころの気持ち、初めて出家した時の気持ち、悟りを得ようと決心した時の気持ちを忘れてはいけない、ということですな。ここから現在の意味での「初心」が生まれたわけです。

なお、Bの十信とCの十住ですが、これはどちらも菩薩の修行の段階に関することです。菩薩の修行の段階には、52段階あるそうです。まあ、唯識学ではそうなっているのですな。で、その初めの10段階、第1位から第10位までを信に関する位とし、十信としています。修行は信じるということから始まりますから、その信心の深さを10段階に分けているのですな。浅い信心から深い信心まで10段階あるわけです。
で、そのあとの第11位から第20位までが空に関する段階ですな。空の理解力と言いますか、空の状態になる段階と言いますか、まあ空に関してその状態を10の段階に分けているのです。空の理解や状態の深さを10に分けているのですな。まるで、ベストヒットの順位みたいですな。
唯識学とは、このように菩薩の位だの、悟りの段階だのということを分類している学問です。まあ、本来の仏教からすればバカバカしいことですな。もちろん、唯識の中には「おぉ」ということもあります。特に、心の段階・意識の段階などの分類は優れものですな。はるか2千年以上も昔に意識と無意識、さらにその奥の無意識下で存在する意識に言及しているのですからね。西洋の心理学なんぞ・・・といったとろでしょうな。
しかし、他の分類は、まあ、あまり役には立たないことばかりのように思いますな。煩悩の数だの(108の煩悩はここから生まれた)、悟りの段階だの、修行の段階だの、どうでもいいことばかりですね。もっとも、意識だの無意識だの、無無意識だの、そんなこともどうでもいいことなのですが・・・。

本来の「初心」の意味は、@です。「初発心」ですね。初めて悟りを求めようと思った時の気持ちです。修行は、「悟りを得たい」という気持ちがなければできません。いやいや修行しても、なにも身につかないでしょう。作法は覚えられます。しかし、その本質・・・修行の意味・・・は理解できないでしょう。昨今の世襲でお坊さんになる場合、
「仕方がないから後を継ぐか、修行に行くか・・・」
という気持ちでは、まあ悟りは得られないですな。ただでさえ、悟りは得難いものなのに、初めの発心がなければ、悟りなんてほど遠いでしょう。となると、お坊さんではなく「葬式屋」、という批判を受けても仕方がないですね。僧侶は、「悟りを得たい」という気持ちを持って修行に臨まないと、その修行の意味が半減してしまいます。せめて、僧侶の資格を取るための規定の修行は「跡継ぎだから仕方がなくやった」けど、そのあとの僧侶としての生活を続けるうちに「あぁ、悟りを得たいな」という気持ちを起こして欲しいですね。この気持・・・初発心=初心・・・が、僧侶としては大変に重要なのですから。

仏教は、実はその歴史において、大きく変貌したことがあります。先ほどの分類もそうだし、儀式的なこともそうだし、特に日本の仏教においては、葬式仏教化してしまい、その仏教の本質を忘れてしまったのではないか、と思われることも多々存在しています。
いつのころからか、坊さんは修行を怠り、葬式だけに明け暮れ、高い戒名を取り、贅沢な生活をしてしまっている・・・ようになってきました。まあ、それは日本に存在する全寺院から見れば、ほんの一部にすぎないのでしょう。多くの御寺院さんは、真面目に暮らしていると思います。しかし、たとえ一部とはいえ、贅沢三昧に溺れている坊さんがいないわけではありません。だから、最近では「葬式など必要ない」とか「戒名はいらない」とか「お墓はいらない」とか言われるようになったのでしょう。まあ、その批判も仕方がないのかな、と思います。
確かに、お墓はいりませんな。あれは不要です。戒名だって、長い戒名なんぞ要りませんな。戒名は二文字のみですからね。葬式は、派手な飾り壇のある葬式なんぞ不必要ですな。本来は、御本尊と灯明・華・お香があればいいだけですからね。あんな豪勢な祭壇とか、遺影とか不必要なのですよ。それは確かです。しかし、葬式はやったほうがいいし(死者をあの世へ送るための作法として必要なのですよ)、戒名もあったほうがいいです(お釈迦様の弟子という証ですから)。ただ、派手にする必要はないし、質素で十分ですな。
しかも、本来は、葬式を通じて仏教の教えである「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦」などを教えねばなりませんな。そのためのお葬式でもあるのですから。人は生まれた以上、誰もが死を迎える、日頃からそれを忘れてはならぬ、この世は苦の世界だが、お釈迦様の教えを学んで心を安定させれば、その苦もなくなり、生きたまま平穏な状態(涅槃)に入れるのだ・・・そう説くチャンスがお葬式なのです。

あぁ、そう考えると、初心に帰るべきは、我らお坊さんなのですな。そして、檀家の皆さんも、何のためのお葬式かということを初めに戻って理解することが大切でしょう。そういうことを菩提寺の住職に尋ねることも大切ですな。それが、檀家の役目でもあります。檀家さんも、初心に帰って、住職を甘やかさないようにしないといけませんな。

世の中には、初心に帰らねばならない人が何と多いことか・・・。政治家しかり、宗教家しかり、そしてマスコミも・・・ですな。嘘やねつ造の記事を書いて知らんぷりをしていた大手の新聞社もありますが、そもそもマスコミや新聞社の役割は何たるかを初心に戻って考えて欲しいですな。そうしないと、いつまでたっても「マスゴミ」と呼ばれる始末ですし、芸人さんからも「ゲスな連中だ」と言われるでしょう。マスコミの関係者も初心に戻って欲しいですね。
さて、皆さんはどうでしょうか?。「あぁ、あの時の純粋な気持ちに戻ってみないとな」と思うことはあるでしょうか?。
今夜あたり、冷え切った夫婦関係を改善すべく、夫を妻を初めて好きになったころに戻ってみてはいかがでしょうか?。新婚のころのときめきを、あのころの純粋な愛情を・・・初心に戻ってみてはどうでしょう?
えっ?、今さら無理?。あまりにも外見が変わり過ぎたって・・・・。あぁ、なるほど・・・そりゃ・・・まあなんというか・・・。お気の毒ですが、まあ気持ちだけは・・・いやいや無理は申しません。ですが、外見が変わったのはお互い様ですし、諸行無常ですからねぇ・・・。
秋の夜長、「あの頃は若かったなぁ・・・」と初々しいころを思い出すのもいいんではないでしょうかねぇ。何事も「初心忘るべからず」ですな・・・・。
合掌。



138.便利
世の中に携帯電話が普及して、随分と便利になったことがあります。特に待ち合わせの時など、こんなに便利なものはない、と思ったくらいです。私が学生の頃などは、待ち合わせ時間は、しっかり伝えておかねばなりませんでした。緊急で時間に間に合わない・・・という場合は、連絡がつかなくて困ったもです。そういえば、待ち合わせをしていて、2時間も待った・・・ということもありました。今なら、携帯電話のメールやスマホのラインで「ちょっと遅れる。待ってて・・・」とか「遅れるから先に行って・・・」などと、すぐに連絡が付きますな。本当に、便利な世の中になったものです。
ところで、この「便利」、仏教語では全く違う意味になるのですよ。現在使っている「便利」が仏教語から一般に普及したとは到底思えないような意味なのですな。いや、仏教語から一般に広まった、ということはないと思います。仏教語の「便利」と現代の「便利」は、おそらく全く関係がないと思います。それほど、かけ離れた意味なのですよ。そこが面白いので、今回取り上げた次第です。

さて、一般の「便利」の意味と言えば、まあ今さらなんですが、一応、国語辞典で調べてみましょう。
@それを使う(そこに在る)ことによって、何かが都合よく(楽に)行われる様子。
A重宝
とあります。そうですね。最近では「便利グッズ」などと称して、それがあることによって作業などがはかどったり楽になったりする商品を売ってますな。確かに、そうしたものの中には「便利だ」と思わせるものが多々あります。
あらためて身の回りの物を眺めてみますれば、私が子供のころにはなかった便利なものがたくさんありますな。携帯電話はもちろんのこと、パソコン、録画装置、電子レンジもそうですな。普通の電話は、それがない家庭もありましたが、今のような電話ではなくダイヤル式の黒電話ですな。、もちろん、FAXなんぞついていませんし、相手の電話番号なぞ表示されませんし、子機なんてありませんな。なので、友達との秘密の電話をするときは大変でしたな。電子辞書なんてのもありませんでしたから、重い辞書を持って学校へ行く、ということもありました。自転車にしたって、電動サイクルなんぞないですな。こうして身の周りを見回すだけで、便利な世の中になった・・・と半世紀も生きているオッサンとしては、そう思うことが多くなったのですよ。

と、「便利な世の中になったものだ」とジジ臭いことを言っている場合ではありませんな。忘れてませんよ、そう、仏教語の「便利」です。
おなじみの仏教語大辞典によりますと、意味は簡単ですな
大小便のこと。糞尿の排泄。
なのですよ。ね、まったく意味が違うでしょ。仏教語でいう「便利」とは、大便や小便・・・人間の排泄物・・・のことをいったのですよ。

たとえば、修行僧が修行中におもむろに立ちますな。師である尊者が言います。
「汝、修行中にいずこへ参る?」
立ちあがった修行僧が言いますな。
「便利に・・・」
と、まあこういうことですな。
で、便利を済ませる場所、ということで「便所」という言葉が生まれますな。便所は、これは仏教語から一般へ広まった言葉と思われます。

確かに便利という言葉の意味は、仏教語の便利と一般に使っている便利では程遠い意味です。しかし、「便を済ます」、「用便に・・・」という意味では、仏教語の「便利」がもとになっているようですな。まあ、最近の方は、「ちょっと用便に」などと言わず、「ちょっとお手洗いに」、「ちょっとトイレに」と言いますけどね。でも、昔は「用便に・・・」と言ったものです。そういえば、今でも「便意をもようしてきた」と言いますよね。確かに、排泄物のことを「便」と表現することはありますな。
なぜ、排泄物のこと・・・ウンチや尿・・・を大便・小便というかといえば、仏教語でそれらのことを「便利」と呼んでいたからなのですな。お坊さんが、
「ちょっと便利に」
と言って席を外し、トイレに行ったので、それが一般に広まったのですな。そのうちに「便利」の「利」が取れて、「便」のみになり、大きいほうか小さいほうかの区別をするようになり、大便・小便という言葉が生まれたのでしょう。
こんなところで、仏教語が生きているんですねぇ。

ちなみに、大便を表す「ウンコ」ですが、これも一説によると仏教語なのですよ。仏教語というよりは、真言ですな。
トイレの仏様にウスサマ明王という明王様がいらっしゃいます。昔々、山野を歩き回っていた修行者たちは、大便をするとき、必ずこのウスサマ明王のご真言を唱えてから用を足したのですな。その真言は
「オン クロダノウ ウンジャク」
です。これを3回〜7回唱えますな。しかし、便意をもようしているのですから、ゆっくり唱えることは無理です。ゆっくり唱えていれば、漏らしてしまいますな。早口で唱えます。さてどうなりますか?。皆さんも、早口でこのご真言を唱えてみてください。
オン クロダノウ ウンジャク、オン クロダノウ ウンジャク、オン クロダノウ ウンジャク・・・・
そのうちに「オンコ、オンコ、オンコ・・・」と聞こえてきませんか?
野山で、山道で、あるいは民家の便所を借りて、修行者が大便をする前にご真言を唱えてから大便をする様子を民衆が見聞きしていたのですな。民衆は、それを真似するようになるんですね。
「エライ行者さんは、大便をする前にウンコ、ウンコ、ウンコと3回唱えてからしている。きっと、そうするといいことがあるのだ」
まあ、そう思ったのでしょうな。そこから、大便のことを「ウンコ」と呼ぶようになったとか・・・・。という説があるんですよ。

最近のトイレは本当に便利で、個室に入りますと、まず電気と換気扇が自動でスイッチオンしますな。しかも、便座のふたが自動で上がります。センサーがついているのですな。しかも、し終わると自動で流してくれます。流し忘れなどという恥ずかしいことがありませんな。音楽まで流れるトイレもありますな。お尻を洗ってくれるのは、もはや当たり前になってきてますな。まあ、もっとも、よそのトイレでお尻を洗う気にはなりませんけどね。自分の家のノズルもきれいに掃除してあるトイレじゃなきゃ、お尻は洗えませんな。
しかし、あまりにも便利に慣れ過ぎてしまうと、かえって失敗しますな。自動で流れるトイレに慣れてしまいますと。流し忘れてしまう・・・ということもしばしばあるようで・・・・。
そういえば、トイレは、ほとんどが洋式になってしまいましたね。最近の若い女性の方は、和式のトイレで用を足したことがない・・・という方もいらっしゃるようで・・・。世の中、変わりましたなぁ。

さてさて、便利なものがあふれている社会は、まあ、快適なのではありますが、その便利さに慣れてしまって、大事なものをなくすこともありますな。特に携帯電話が普及してきて以来、人と人のコミュニケ―ションの取り方が、ヘタクソになりましたねぇ。
「メールなら言えるんですけど、面と向かっては・・・・」
なんてことを大の大人が言うんですからね。また、メールやラインによって、日本語は乱れてきてますな。敬語もどんどんなくなっていくような気がします。上司も先生も目上も、みんなタメ口ですからね。言葉が軽くなってしまうのでしょうなぁ・・・。

便利さもいいですが、それに慣れ過ぎて、大事なものを失わないようにしたいですな。便利グッズはあくまでもモノです。モノは使うものであって、使われるものではなりませんな。便利なモノに振り回されて、大事なことを失わないようにご注意くださいね。
と、この項を書き終えましたので、便利へ行ってきます・・・・。
合掌。



139.不信
師走ですなぁ。何かとセカセカする季節です。特にそんなに気忙しくする必要などないのですが、どうも師走になると、みなさん忙しくなりますよね。
そんな気忙しいさなかに選挙ですな。内閣不信任案が出たわけでもなく、何かこじれた問題があるわけでもなく、衆議院が解散してしまいましたな。何も年末に選挙なんて・・・と思った方も多いでしょう。なんだか、ますます政治不信に陥りそうですねぇ。
さてこの「不信」ですが、まあ漢字から言っても、元は仏教の言葉かなぁ、と思われそうですな。そう、「不信」は仏教語なんですな。今回は、その「不信」についてのお話です。

先ずは、一般的に使われている「不信」の意味から確認しておきましょう。
@約束を守らないこと
A信用できないという感じを持つこと
B信仰心がないこと
とあります。
まあ、多くの場合、Aの意味で「不信」を使いますね。「人間不信」がいい例でしょう。「不信感を抱く」という時もAの意味ですね。「政治不信」は@とAの意味が入り混じっているのかもしれませんね。約束を守らないのが政治ですから。
ま、これが一般の「不信」の意味ですな。では、仏教語の「不信」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
@信じないこと
Aアビダルマでは心作用のうちの大煩悩地法の一つ。心の清らかでないこと。信の反対。
B唯識説では信のないこと。実有(じつう)・有徳(うとく)・有能であることに対する不信解(ふしんげ)・無澄浄・無願望
C大乗を信じないこと
D信頼しないこと
E無信心。心きよからず、仏法を求めないこと
F疑心。仏の本願を疑う心と自心の行を疑う心との二種があげられる
とあります。ちょっと専門的すぎてわからないこともありますので、簡単に説明しましょう。

@は大丈夫ですね。信じないこと、そのままです。問題はABですな。
アビダルマとは、初期仏教の教学の一種ですな。その教学では、「不信」というのは、基本的煩悩の一つで「心の清らかでないこと」を意味するのだというのですよ。簡単に言えば、「不信」=「心が清らかでない状態」というわけですな。で、この「心が清らかでない」というのは、基本的煩悩だ、というのですな。
Bは、やはり仏教学の一つの唯識学の説ですな。唯識学では「不信」を「信がないこと」と解釈しているのです。もう少し詳しく言うと、「信じない(不信解)」、「耐え忍ばない(不澄浄)」、「怠惰である(無願望)」ということになるのです。もう少し具体的に言うと、唯識の不信の意味は
「大変素晴らしい教え・・・仏教・・・に触れても、全く信じようともせず、耐え忍ぶとか何かを願って努力するとかしない、汚れた心のこと」
という解釈ですね。
ABは、いずれも「仏教を信じない汚れた心」を意味していると理解してください。従って、CEと同じ意味となります。
Dはわかりますね。これは、現代の「不信」の意味に最も近いですな。
Fは、ABと同じ意味と、もう一つ「自分自身の修行がちゃんとできているかどうかと疑う心」のことだと解釈しています。自分に対する「不信」ですな。「自己不信」です。
こうしてみると、仏教の「不信」とは、仏教の教えを信じようとせず、勝手気ままに振る舞い、怠け者であり、何の目標ももたない者の心、ということになりますな。まあ、仏教を信じる信じないは別として、「勝手気ままな振る舞いをし、何も目標も持たず怠けている者」は、いますよね。そういう者の「心」のことを仏教では「不信」といったのですな。
もし、あなたの周りに「我が儘放題、勝手気まま、何の目標も持たず怠けている」という者がいたら、
「あなたの心は不信ですね」
と言えるわけですな。

一般の不信は、仏教語の@Dから広まっていったのでしょう。しかし、初めのころは「汚れた人間」という皮肉が込められていたのかもしれませんな。
「汝、不信なり」
と言われれば、そこには単に「信用できない」という意味だけでなく「お前の心は汚れている」という嫌味もあったのではないでしょうか?。まあ、想像しかできないのですけれど。
いずれにせよ「不信」という言葉使う時は、その言葉の底に、相手に対する「汚らわしい心」を見ているように思いますな。

世の中を見ておりますと、人としてどうか?、と思うようなことをしでかす人がいますな。幼児虐待などはいい例です。幼い子供を平気で虐待するような親をニュースで見ていると、いやはや本当に人間不信に陥りますな。また、不信感を抱かせるような人物にたまに会うことがありますね。ま、政治家などは不信感だらけですが・・・。
なるほど、不信感を抱いたり、人間不信に陥ったりする場合、その対象者は、汚れた人物ですな。幼い子供を虐待する親も、政治家もクリーンではありません。どこか心が汚れ、ゆがんでいますな。ということは、現在使っている「不信」の中にも本来の意味がちゃんと生きているんですね。
ということは、政治不信なんて言われている昨今は、政治家は汚いぞ、という意味を含んでいるわけですな。そもそも政治不信になるのは、政治がゆがんでいるせいですからね。

師走の中の選挙。不信な政治家を見分けて、信のある政治家・政党に票を入れてくださいね。えっ?、そんな政治家も政党もない?。なんとまあ、この国は「不信」だらけですなぁ・・・・。
合掌。



140.資生(堂)
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
と、表題について。新年早々、化粧品会社の宣伝か?、と思われるようですが、別に私は化粧品会社の回し者ではありません。宣伝なんぞするつもりもありません。ただ、たまたまCMをみて、「おや、こんなところに仏教語じゃないか」と思ったので、取り上げた次第です。
ということで、今回は「資生(堂)」という言葉についてお話をいたします。といいましても、お話するのは「資生」についてですな。「堂」は、お堂のことですので、これについては詳しく話す必要はないでしょう。
ともかく、「資生堂」の「資生」は、仏教語なのですな。

「資生堂」の「資生」は、「しせい」と読みますが、本来は「ししょう」と読みます。が、理趣経では「しせい」と読みますな。そう、理趣経にもこの言葉は出てくるのですな。ちなみに、一般のお経は呉音で読みますが、理趣経は漢音で読みます。ですので、発音が異なるのですな。まあ、大雑把に言えば、仏教読みと密教読みがあるわけです。
さて、その意味ですが、おなじみの仏教語大辞典よりますと
@生活に役立つこと。生活に役立つ物。人の生活を助ける衣食住のための道具。必需品、資産。
A生活。生活を享受すること。
B自分の精力をつけるために肉食すること。
と、あります。

化粧品の資生堂は、@の意味でつけられた名前なのでしょうな。人々の生活に役立つ物を提供しましょう、という会社なのでしょう。それで資生という言葉を社名にしたのでしょうな。
理趣経では、「資生施」(理趣経読みでは「しせいせ」、仏教語読みでは「ししょうせ」)という言葉で登場します。どういう意味かと言いますと
「生活に役立つ物、生活必需品を施すこと」
という意味ですな。
人々が安楽に暮らすためには、生活必需品が欠かせません。あるいは、それだけでなくある程度の資産があれば、人々は安楽に暮らせますな。衣食住が足りて初めて人は安楽に生きていけるのです。明日の食べるものがない、寝る場所がない、着る物がない・・・などと心配していては、生活が安定しませんし、生活が安定しなければ、不安になってしまいますな。中には、犯罪に走るものも出てきましょう。衣食住が安定しなければ、人の心も安定しないのですよ。
人々の心を安定させるためには、衣食住を安定させねばなりません。また、そのためにはお金が必要です。できれば、さらなる安定のために資産もあるとなおいいですな。

菩薩は、人々を救うことが仕事ですな。人々を救うということは、人々の心を安楽に導く、安定させることですな。安心を与えると言ってもいいです。
よく、「貧しくとも心が清ければいい」とか、「貧しくても心を安定させることはできるのだ」とか、「貧しくても耐え忍び、生きていくことが大事なのだ」と説かれますが、それは理想論ですな。偽善的です。一般の人々には、そんな話は通じませんな。
「そんなこと言ったって、食べ物が無きゃ生きていけないじゃないか」
「子供を養うことだってできない」
「貧しいというのは、心も貧しくしてしまう。不安な生活を強いられる」
というのが現実でしょう。
密教は、現実を重視する教えです。ですから、現世利益を説くのですな。

菩薩は、人々を救うのが仕事です。ならば、人々が願うのなら、「資生施」をしようではないか、という菩薩もいらっしゃるのですな。つまり、人々が願うのなら、衣食住が足りるようにしようではないか、ということですな。しかし、願ったらご飯が降ってくる、着る物が与えられる、家が手に入る、という事ではありません。それだったら、誰しも願うだけで、働きませんよね。では、どうするのか・・・。
人々が衣食住の充実を願うのなら、その願いが叶うように、まずは仕事を与えよう、仕事が忙しくなるようにしてあげよう、稼げるようにしてあげよう、金銭がたくさん得られるようにしてあげよう・・・、だから、一生懸命働きなさい、働いて資生を増やすがよい・・・・。
ということなのですな。理趣経にはそう説かれているんですよ。

寝転がっていたって資生は増えませんな。衣食住は充実しません。ましてや、資産など増やせもしないし、造ることすらできませんな。働いてナンボなのですよ。ますは仕事ですな。
しかし、仕事をしてもなかなか給料は増えないし、出世もままなりませんな。そこで、菩薩が手助けをしましょう、とおっしゃっているのです。
「願いなさい、資生が増えるように願いなさい、そうすれば、そうなるように手助けしてあげましょう」
とね。
ただし、きっと仕事はハードになるでしょうな。でも、耐えられないほどではないでしょう。忙しくなり、収入も増えていき、衣食住が充実していく・・・。やがて、貯金も増え、資産を持つことができる・・・。そういうものなのです。
実際、世の中見てください。事業に成功し、大きな資産を持ち、高額な年収を得ている人たちは、忙しいですな。一般のサラリーマンのように気楽ではないです。責任は重大だし、あちこち飛び回っていますな。若いころから、智慧と頑張りで築き上げてきた結果が、今の高収入でしょう。まあ、中には、アホなボンボンもいるでしょうけど、そういうものはいずれ隠居させられますな。金はあっても仕事がない、やることがない、という者になってしまいますな。こういうものは、例外的なものですな。普通は、そこまで登りつめるには、並大抵の努力ではないのですよ。真似できないくらい、大変なのですな。

しかし、もし、それを望むのなら、真剣に菩薩に祈ることですな。いや、そこまで行かなくても、もう少し収入が増えて欲しいな、と思う人も願ってもいいですな。衣食住に満足してこそ、安楽が得られるのですから。
では、どの菩薩に祈ればいいのでしょうか・・・。それは、理趣経で「資生施」を説いている虚空蔵菩薩に祈るのですよ。虚空蔵菩薩は、虚空に・・・宇宙に・・・智慧と財の蔵を持っている菩薩ですからね。ぜひぜひ、その蔵を開けてもらってですな、衣食住が充実するように、金銭と智慧を施してください、と祈るのですな。
そして、衣食住が充実してきたら・・・してくる前でもいいのですが・・・、他の人々の衣食住が満たされるように、小さな施しでいいから協力することですね。そう、ちょっとした寄付金ですな。他人の衣食住への布施をすることも大事なことですな。

さて、今年の景気はどうなのか知りませんが、資生を充実させるためには、せっせと働かなければいけませんな。どうか、虚空蔵菩薩様、資生が充実しますように・・・、と祈るのもいいですね。ただし、忙しさに耐えてくださいね。
合掌。


バックナンバー17へ


今月のこんなところに仏教語へ戻る    表紙へ