えっ?!

こんなところに仏教語!

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141.愛蔵
人によっては、愛蔵品というものを持っている方がいます。かくいう私も本が愛蔵品となっています。蔵書とも言いますな。この愛蔵書は、絶対に他人に貸しません。きっちりと保管してあります。私はよく本を読むのですが、蔵書にする本は単行本です。文庫本は、蔵書にする本と古本屋さん行きの本とに分けられます。まあ、大半の本は残る組なのですが、たまに古本屋行きが出てくるのですな。こうして、文庫本も蔵書となります。愛蔵品ですな。本棚に並んだお気に入りの本がきれいに並べられているのを見て、私はほくそ笑むのですな。あぁ、ちなみに、コミックに関しても同じですな。気に入ったコミックは、蔵書となっております。最近、愛蔵書が増えてきて、少々困っている次第ですな。ま、部屋が狭くなっても本の置き場所の方が大事なので、苦痛ではないですけどね。
さて、この「愛蔵」という言葉。これは、仏教語では少々違う意味になりますな。今回は、この「愛蔵」についてお話しいたしましょう。

一般的には「愛蔵」といえば、大切にとっておくことを意味していますよね。一応、念のために国語辞典でみて見ますと
愛着を抱き、大切に保存すること
となっていますな。その大切にされ保存されるものは、様々ですな。本であったり、お酒であったり、人形であったり、レコードやCDであったり、鞄であったり、靴であったり、ミニカーのようなおもちゃであったり、それはもう人によっていろいろあることでしょう。愛蔵の品、といえば、多くの人が何か一種類くらいは持っていると思います。
ということで、愛蔵という言葉は、そんなに悪い響きを持った言葉ではないですね。むしろ、「ほう、そうなんですか」と言う印象を聞いた者に与える言葉です。悪い言葉ではないですな。

ところが、仏教の「愛蔵」は違うのですな。あまりいい響きを持った言葉ではありません。まずは、おなじみの仏教語大辞典で、その意味を確認しておきましょう。「愛蔵」とは
@滞ること。執着すること。
Aとどまるもの。身体の中にとどめられたもの。
とあります。
仏教で滞るといえば、修行のことでしょう。修行が滞ることは、よくあることですな。一生懸命に修行に励んでいるのに、ちっとも悟りが得られない。いいところまで来ているのに、あと一歩が進まない・・・。修行僧にはよくあることですな。修行が滞っているのです。そういう状態のことを「愛蔵」というのですな。たとえば、迷っている弟子がいたら、師がその弟子に対して
「汝、愛蔵しておるぞ」
などと使ったのでしょうな。

そもそも仏教では、「愛」自体、否定をしておりますな。「愛」は執着です。執着を持つことは、悟りへの妨げになります。キリスト教で言うところの「愛」は、仏教では「慈悲」に当たりますな。「慈悲」はいいのですが、「愛」は執着なので、仏教ではダメなのですよ。いわゆる、すべての人々へ仏様が灌ぐ愛情は、それは「慈悲」なのです。菩薩の心も人々への愛ではなく、「慈悲」なのです。仏教では、「愛」と「慈悲」は違うのですよ。
で、「愛」は執着のことですから、それを「蔵」にため込んではいけないのですな。「愛蔵」とは、執着の心を心や身体の「蔵」にため込んでいる状態を言うのです。だから、「愛蔵」は、執着そのものの意味にもなりますな。単なる執着よりもため込んでいる分、よくありませんな。つまり、Aの意味は、「執着を身の中に留めている」という意味なのですね。執着心をため込んでいる、という意味になります。

このように仏教でいう「愛蔵」は、実は悟りを妨げるよくない言葉なのですな。それは、執着心の塊、ため込まれた執着心のことなのです。この「執着をもち、ため込むこと」という意味が、そのままいい方へ転用されたのが、現代語の「愛蔵」でしょう。現代語の「愛蔵」も、意味的には同じですからね。「愛着して保存する」のですから。ただ、使われかたが、いい意味での使われ方になっているのですな。
といっても、愛着も執着と同じで、本当はいいことではありませんな。愛着すれば、別れが来たとき辛いですからね。いくら大事な品物、愛蔵品であっても、あの世に持って行けるわけでもありません。執着するのは、よくありませんな。それは執念となって、魂が彷徨うもととなります。
たとえば、それはそれは大切な品を残して亡くなったとしますな。その亡くなった人は、その大切な品のことが気なってしまいますな。
「私が大事にしていたあの品は、いったいどうなるのだろう。子供たちが大切にしてくれるだろうか?、孫たちが大切にして引き継いでくれるだろうか・・・」
その亡くなった人にとって大切だった品物が、残った子供や孫が大切に思うかどうかは、これはわかりませんな。多くの場合、
「なんでこんなものをたくさんの残したのかねぇ。こんなものを残すくらいなら、お金を残してくれればよかったのに」などと言われてしまいますな。で、その大切だった品も、捨てられたり、売られたりして、分散してしまいますな。亡くなった人は、それこそ浮かばれない・・・かも知れません。

でも、そんなものです。自分にとっては大事なものでも、他人にとっては無価値・・・なんてことはよくあります。いくら愛蔵品であっても、それに興味がなければ「ただのモノ」にすぎません。「愛蔵品の一つをあげよう」と上司からもらったはいいが、どう処分していいか困ってしまった・・・なんて話もありますな。
所詮、愛蔵品は、個人の執着の品なのですよ。

私も愛蔵の本を持っております。私が死んだら、私はすべて古本屋に売ってしまえばいい、と言ってあります。本を大切に引き継いでほしい・・・などと、執着は残しません。死んだのなら・・・いや、死が近付いてきたら、執着の蔵は空っぽにしておくべきでしょう。たとえ、生きているうちにものを処分できなくても、残されたもので処分していいよ、と思って死んでいかないといけませんな。
執着の蔵は、いつかは空っぽにすべきなのです。そのほうが、きれいでしょう。もし、あなたに愛蔵の品があるのなら、いつ自分が死んでもいいように、その処分法を周りの人に伝えておくといいですな。執着を蔵に残さないようにね・・・・。
合掌。


142.不審
物騒な世の中です。ついに日本もテロの対象国となってしまいました。まあ、欧米に協力しているのですから、遅かれ早かれテロの対象国になり得たのでしょうけど・・・。ま、そんなわけで、特に都会にいる不審人物は目を付けられますな。挙動不審な人は、すぐに職務質問をされるようになってきました。ま、挙動不審なのがいけないのですが、人見知りの激しい人や普段外に出ない私のようなものは、街中に出てくるとついつい不審な態度をとってしまいがちなんですよねぇ。困ったものです・・・。
ところでこの「不審」、仏教にも同じ言葉があります。が、まったく意味が異なっております。驚くほどに異なっております。なので、仏教語の「不審」と現代の言葉の「不審」とは、何も関連性がないのかもしれません、あるいはあるのかもしれませんが・・・。ですが、その違いが面白いので今回は「不審」について語ろうと思います。

一般的な「不審」は、あらためて言わなくてもその意味は分かると思いますが、念のために国語辞典を見ておきましょう。
不審
@何か隠された(悪事につながる)事情がそこに在ることを感じさせる様子。
A現前の状態(事情)にどこか心の引っかかる点が有り、疑念を消し難い様子。
とあります(新解明国語辞典より)。いつも思うのですが、国語辞典の解説は、本当にわかりやすいですな。警察の方が、とある人を見て「不審人物」と断定する背景には、Aがあるのでしょうな。
「どうもあの人物怪しいぞ、なんか引っかかるぞ、う〜ん、この疑念を消すことはできない。よし、職務質問しよう」
となるのでしょうな。かくしてその人物は「不審人物」と言われるようになるのです。まあ、そういう心情から不審者と断定しているのでしょうから、そう思われないように堂々としていないといけませんな。背中を丸め、コソコソ隅っこを歩く・・・かつてのオタクの悪いイメージのような・・・そんな態度では不審がられても仕方がないですな。

で、問題の仏教語の「不審」です。お馴染みの仏教語大辞典を見てみましょう。
@「ごきげんいかがですか」という挨拶のことば。
Aありがとう。感謝する。
B納得しないことを質問すること。
と、あります。どうですか?。ちょっとびっくりしません?

「不審」があいさつの言葉なのですよ。これは特に禅宗での意味になりますが、それにしてもちょっと変ですよね。お坊さんとお坊さんが出会ったら
「やあ、不審」
「ふむふむ、不審」
と言ったのでしょうか?。あるいは、何か贈り物をされて、そのお礼にお坊さんが
「この度は結構なものを頂き、まことに不審です」
とでも言ったのでしょうか?。もしかしたら、手紙の冒頭にあいさつ代わりに「不審」と書いたのかもしれません。または、御礼状に「この度の御誠意、まことに不審」とでも書いたのかもしれませんね。
ま、そこのところはよくわからないのですが、@Aの意味は、そういうことになるのでしょう。これが仏教語の「不審」なのです。
Bは、ちょっと理解できると思います。納得いかないので「それは不審」と言ったのでしょう。たとえば、お坊さん同士で問答などをしていて、その答えに納得がいかなかった場合、
「いやいや、ちょっと待ちなさい。今の公案の答えとしては、如何にも不審。納得がいきませんな」
とでも言ったのでしょう。こういう言い回しならば、時代劇にでも出てきそうですし、我々にも意味が通じますよね。あるいは、質問をすることなので、法話の時などに何か疑問に思って手をあげて
「は〜い、不審、不審」
とでも言ったのかもしれません。いずれにせよ、現代語の「不審」とは、ちょっとかけ離れているのです。まあ、Bが近いかな、と言ったところですね。

これは想像です。推察まではいかないですな。おそらくは、お寺関係でBの意味で「不審」を使っていて、それが武家や一般人に「怪しい者に質問をする」という意味に広がっていったのでしょう。時代劇で出てきそうじゃないですか、
「それは不審じゃ」
なんていうセリフ。もとは、修行僧が師に対して「不審です」と言っては、教えのわからないことを質問していた、というのが始まりなのかもしれません。あるいは、師が弟子に「不審がある者は質問をしなさい」と言っていたのをお寺に来ていた武士や一般の人が聞いて、広めていったのかも知れませんね。あるいは、全く関係ないのかもしれませんが・・・・。
しかし、いずれにせよ、「不審」とは、心のどこかに引っかかりがあって、質問しなきゃいけないぞ、という気分のことをさすようですな。ある人物を見て、「あ、こいつおかしいぞ、質問してみたいなぁ」と思うから、不審人物として職務質問をするのでしょう。つまり、「なんか引っかかるぞ、質問しなきゃ」というの心の状態が「不審」なのでしょうな。この点は、現代語の「不審」も仏教語の「不審」も共通するところですね。その関係性はわかりませんが・・・・。

仏教語と現代語の「不審」についての関係はよくわかりませんが、お互いに「疑問に思う」が含まれていることは確かですな。現代語の不審も「疑問に思う」ことから始まっていますよね。仏教語も「疑問に思い質問をする」ことが「不審」です。ここは、両者に共通する意味合いでしょう。ということは、やはりどこかでつながっているのかもしれません。
う〜ん、そう考えてくると、ますます不審ですな。どうもすっきりしなくて心に引っかかります。どなたかにその関連性について質問したくなりますな。おぉ、そうか、なるほど、「不審」という言葉自体、「不審」ですな。なるほど、「不審」と書くと、如何にも「不審」な感じがしますな。そうか「不審」、おぬしが一番「不審」だったんだ!。
おあとがよろしいようで・・・。
合掌。


143.時機
春ですねぇ。ついこの間まで雪が降っていましたが、桜が美しい季節になりました。ですが、桜の花の命も短いですな。まだ咲いているからいいや・・・と思っているうちに散ってしまいます。チャンスを逃してしまうと、あの美しい姿を見ることができませんね。時機を逃がしてはいけませんな。
ちょっと油断していると逃がしてしまうのがチャンス・・・時機ですな。いいかな、大丈夫かな、と思っているうちに通り過ぎてしまうのもチャンスですね。優柔不断でいると、大事な出世の時機を逃がしてしまうこともあるものです。「ここがチャンス、時機到来だ」と思ったら、積極的に行動しないといけませんな。
さて、この時機ですが、仏教の言葉にもあるんですね。仏教語にも「時機」があるのです。ただ、仏教語の「時機」は、一般で使用する「時機」よりも、ちょっと意味が深いんですな。今回は、仏教語の「時機」について、お話しいたしましょう。

とりあえず、一般的な「時機」について、皆さんご存知かとは思いますが、その意味を確認しておきましょう。国語辞典によりますと
何かをするのに、遅からず早からず、ちょうどよい時。
とあります。チャンスともいいますな。しかし、チャンスというと、なんだか軽い感じがしますな。「時機到来」というと、ちょっと重々しいですな。「いよいよ時機がやってきたな」というのと「いよいよチャンスがやってきたな」というのでは、なんだか重みが違います。意味は同じなんですけどね。ま、それはいいとしまして、一般的な「時機」については問題ないですね。
では、仏教語の「時機」ですな。おなじみの仏教語大辞典によりますと
時と機。すなわち教えに相応する時と人々の能力をいう。時節と衆生の機根・素質。時代と人間。
とあります。どうですか?。現代の「時機」とちょっと違っていますよね。

仏教語の「時機」は「時」と「機」に分かれるのです。二つの意味を兼ね合わせて「時機」という言葉を作っています。つまり、「時機」といえば、単に時を示すのではなく、「時と能力」を意味しているのですな。
仏教語の「時」は、これは時(とき)を表しております。時間ですな。タイミング、という意味もあります。
「機」というのは、仏教語では、「能力、素質」といった意味になります。「機根」といえば、「元々もっている能力、元々もっている理解力、元々もっている素質」という意味になります。「根」は、「もともと、生まれつき」という意味ですな。
仏教では、教えを説く場合、その教えを説いていい時であるのか、その教えを聞くものにその教えを理解する能力は備わっているか、を注意しなければいけない、とされますな。
お祝いの席で暗い話をしてはいけないように、葬儀の席でさらに悲しみのどん底に落とすような話をしてはいけないように、教えを説くにしても、その話をしていい時なのかどうか、ということが大事になってきます。
「今、そんな教えを説かれても・・・」
なんて言われては、教えを説く意味がありませんな。ですから、教えを説くにしても「時」を選ばねばなりません。
しかし、「時」だけではいけませんな。その教えを聞く人たちが、その教えを聞いて理解できるかどうか、ということを判断しなければなりません。
「確かに今、この教えを説くには絶好の時だ。しかし、聞いているものたちが、まだその教えを受け入れるだけの心構えもできていなければ、理解力も伴っていない。それでは、いくらいい教えを説いても意味がないのだ」
ということですね。よく、
「あの時はわからなかったけど、今なら理解できる」
なんてことがありますよね。特に子供の時に注意されたことなどは、大人になって初めて理解できる、ということがあります。これは、注意した側が「時機」を誤ったのですな。もっと、わかりやすい、理解しやすい注意の仕方、その時に合わせた注意の仕方をするべきなのでしょうね、本当は。難しいことなのですが・・・・。

仏教は、お釈迦様が説いた教えです。これは誰でもご存知です。お釈迦様は、教えを説くとき、相手の能力に大変注意をしました。相手の理解力、職業、性格、性質などにあわせて、相手がわかるように教えを説いていったのです。これを「対機説法」と言います。「相手に対して、その能力に応じて法を説く」という意味ですな。そうでないと、いくらいい話を聞かせても、理解されませんからね。理解されないのでは、どんないい話も無意味になってしまいます。

人に教えを説くとき、あるいは、人に何かを伝えるとき、それには「時」と「機」が大事ですな。その話をしていい時なのか、相手は聞く耳を持っているのか、理解力はあるのか・・・。それがそろって、初めて相手に真意が伝わるのでしょう。いくら御高説をのたまわっても、相手に聞く気がない(時がきていない)、理解力がない(機が備わっていない)、というのなら、その話をする時機ではない、となりますな。
だから、お釈迦様は、簡単な教えから始まって、次第に難しい教えへと進んでいったのですな。そうでないと、誰も理解してくれませんからね。ま、それでも、すべて理解されたわけではないのですから、人に教えるというのは、難しいことですな。

さて、この季節、新入生や新社会人がたくさんデビューしますな。新入生に対しては、先輩や先生がいろいろと指導をすることでしょう。新社会人は、先輩や指導者が、これまた会社のルールや社会人の基本から教えることになるのでしょうな。指導する方は大変です。それぞれの能力、理解力、やる気などを十分見極めなければいけませんな。でないと、ちゃんと指導したつもりが
「入社していきなりパワハラを受けた!」
なんてことにもなりかねません。
この仕事を教えていいのか、この指導をしていいのか、その時なのか、相手の能力はどうか、理解力はあるか・・・など、ちゃんと「時機」を見ないといけませんな。

何事も「時機」・・・「時」と「相手の能力」・・・は大事ですな。なので、お大師さんは「般若心経秘鍵」の中でこのように説いております。
「我、時を待ち人を待つ」
と。般若心経の深い意味を説いていい時とそれを理解してくれる人を待っているのだ、ということですね。これは、何事にも通じることだと思います。
他人に教えや何かを伝えるときは、どんな場合でも「時」と「理解力」、この二つがそろって、真意が伝わるのでしょう。これを忘れてはいけませんな。でないと、相手に理解されることはありませんな。
はたして、今回のお話し、話していい時機だったのかどうか・・・・。時は大丈夫、これを読んでいる皆さんの理解力も大丈夫でしょう。私が言い足りない部分まで補って読んでくれていることでしょうからね。なので、この話をする時機は間違ってはいませんね。
合掌。


144.イロハ
最近、娘さんに「いろは」という名前を付ける親御さんがいると知りました。まあ、名前としてはかわいいかな、と思いますが、意味は分かっているのかしらん?、などと要らぬ心配などをしてしまいますな。そういえば、あの伊達正宗の長女が「いろは」という名前だったそうですな。「いろは姫」ですね。
「いろは」といえば、「物事の最初」というような意味がありますな。「しょうがねぇ、この仕事のイロハを教えてやろうか」などと使いますね。ま、多くの場合は、「いろは」と言えば、そのように使っていると思います。
まあ、たぶん、皆さんご存知だと思うのですが、この「いろは」、元は「いろは歌」です。ご存知ですよね。でも、その内容は皆さんご存知でしょうか?。この「いろは歌」、仏教の教えを歌っているんですよ。一説には、弘法大師作、とも伝えられております。今回は、そんなイロハにまつわるお話です。

「いろは」の意味をとりあえず押さえておきましょう。国語辞典によりますと
いろは歌の最初の三字の意。ローマ字のアルファベット、ABCに相当。
@いろは歌の配列。
Aいろは歌で代表される四十七文字のかなの称。
B学問・芸事の初歩。
とあります。よく使うのは、Bですね。
さて、ここで出てくる「いろは歌」。皆さんすべて言えますか?。参考までに書いておきましょう。

いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす

ですね。同じ文字は使ってありません。最後に「ん」を付ける場合もありますな。
さて、ひらがなで書いてあると、その意味は分かりにくいですな。ですので、これを漢字まじりで書いてみましょう。

色は匂えど 散りぬるを 我が世 誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日 越えて 浅き夢見し 酔いもせず

となります。意味は・・・たまには仏教語大辞典を使わないでおきましょう。というか、仏教語大辞典に載っていないんですよ。なので、自己流解説です。
「色鮮やかで匂いたつような花でも やがて散ってしまう。この世で誰が永遠でいられよう。このはかなき現世を超越し、幻のような夢も見ることなく、現世に酔ったりはすまい」
となりますな。
最初の一文「色は匂えど 散りぬるを 我が世 誰ぞ 常ならむ」は言うまでもなく、諸行無常を表しております。
「有為」とは、ちょっと難しい仏教語なのですが、簡単に言えば、「因縁によって起きる一切の事物・事象」のことですな。ま、この世のすべて、と言ってもいいでしょう。なので、「有為の奥山」というのは、「迷い多きこの現世」を「道に迷いそうなくらい深い山」に喩えて言っているわけです。ですから「有為の奥山」とは、「迷いや悩み苦しみ多きこの世」というわけですね。
で、それを仏教により超越してですね、そうすれば、この迷い多き現世、欲望多き現世に、つまらない夢を見ることもなく、酔わされることもない、ということですな。つまり、
「この世は無常である。誰もが永遠ではない。迷いや悩み、苦しみが多いこの世界を仏様の教えを通じて、乗り越えていこうではないか。そすうれば、つまらない夢やつまらない欲望に酔うこともないであろう。迷いや悩み、苦しみは消えていくのである」
というような意味になりますな。これを難しく言うと
「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」
となります。意味は「諸行は無常であり、これは生滅の法である。この生と滅を超えたところに、真実の安楽がある」ですね。
どうですか?、皆さんご存知でしたか?。なかなか意味が深いでしょ。

さて、このいろは歌、作者は実は不明です。一説には「弘法大師空海作」となっています。昔の本にそう書かれているんですな。また、高野山でもそう伝わっております。お大師様の作である、という伝承があるのですよ。ただし、それは伝承であって、学問上のことではありません。学問上では、一応、作者不明となっております。
しかし、同じ文字を使わず、しかも仏教の基本の意味を込めて歌を作るという離れ業を誰ができたのでしょうか?。なかなか難しいですよ、これ。そんなことができるのは、やはり天才弘法大師空海しかいないじゃないか、と思いますよね。ま、真相はわかりませんが、大変高度な智慧がないと「いろは歌」はできないというのは事実ですな。
高野山真言宗では、いろは歌は「宗歌」となっています。宗派の歌ですな。ですので、曲が付いておりまして、毎朝山内放送で流れますな。もちろん、私も歌えます。大変、厳かな重々しい歌ですな(ちょっと陰気くさい暗い歌、ともいいますが・・・)。
ま、歌の印象は置いときまして、大事なのはその内容ですね。

この季節(五月)になりますと、五月病というおかしな病が巷に流行しますな。まあ、最近では、年中五月病が蔓延しているとも言えなくもないですが、やはりこの時期は多いのではないでしょうか?
新入生、新入社員、転勤、移転、部署替えなどなど、新しいこと・不慣れなことに四苦八苦する方も増えていることでしょう。新しい人間関係に悩む方も多いと思います。この季節ならではの悩みがありますよね。新しいこと、新しい関係というのは、なかなか厄介なものです。
しかし、焦ったり、背伸びをしたりする必要はありませんな。この季節は初心者が多いのですから。まだ、仕事のイロハを習っている時です。今の時期だと、イロハのイの字程度のレベルでしょう。焦る必要はないし、答えを出すときではないですな。早い見切りはいけませんよ。

いろは歌のように、諸行は無常です。今華やいでいるあの人も、今勢いのいいあの上司も、いつかは下っていくものです。ということは、今底辺にいてもがいている人だって、今苦労して悩んでいる人だって、コツコツとゆっくりでいいから進んでいけば、活躍できる時はきますな。誰だって、辛い時期はあったのですから、あきらめてはいけませんね。
いずれにせよ、この世は深い深い山のような世界です。道に迷うこともあれば、登りに疲れることもあるし、急な下り坂だってあるし、落ちそうな崖を行かねばならないときだってあるでしょう。反対に、ゆっくりのんびり快適に進むときもあるものです。誰もが先の見えない深い山奥を歩くような人生です。みんな条件は同じですな。誰一人、有為の奥山からは出られません。
と、悟ってしまえば、案外この世は楽な世界なのですな。みんな同じ迷い人、と思えば、気楽なもんです。あなたも私も皆同じ、皆平等、と知ることができれば、力も湧いてきましょう。

何かに行き詰ったら、いろは歌なんぞを思い出してはいかがでしょうか?。悩みももやもやも、流れていくと思いますよ。浅き夢見し酔いもせず・・・ですな。
合掌。


145.許可
世の中、何かを始めようとすると、許可が必要になることが多々あります。役所に出かけて、多くの書類を書き、あーだこーだと言われながら、やっと許可を得る・・・なんてこと、よくありますよね。その間、役所の人の嫌な態度にイライラする・・・なんて話もよく耳にしますな。しかし、無許可ではできないことってたくさんありますからね。嫌でも許可を取らないと、後々困ることにもなります。
ところで、この「許可」ですが、これも元は仏教語ですな。今回は、この「許可」についてお話をいたします。

「許可」は、一般的には「きょか」と読みますが、仏教では多くの場合「こか」と読みますな。そもそもは、そのように読んだのです。
意味ですが、一般的な「許可」の意味は、国語辞典によりますと
相手の願っていることをしてもよいと許すこと。聞き届けること。
とあります(新明解国語辞典)。
では、仏教語の「許可」はどうでしょう。おなじみの仏教語大辞典によりますと
承認すること
とあります。まあ、意味はほぼ同じですな。

仏教の場合、お釈迦様時代からそうなのですが、許しがないと出家ができませんでした。そりゃそうですな。しかし、仏教教団ができたころは、出家希望者は誰でも出家できたのです。ところが、問題が起きました。出家者の中に子供も含まれていたのですな。子供が勝手に出家希望をしてしまうのです。お釈迦様は、たとえ子供であっても出家希望者は出家させたのですな。まあ、本人が希望しているから、という理由ですな。しかし、そうなると親は困ります。親として見れば、勝手に出家させた、となりますな。当然ながら、親とお釈迦様の間で、ちょっと問題が起こります。そこで、子供の出家希望者は、親の許可が必要になりました。さらに、出家する前に、長老に従い小僧(沙弥といいます)を経て、その長老の許可がなければ正式に出家できない、という決まりもできています。まあ、子供の場合、家が嫌で家出同然で出家して、さらに修行が辛くて逃げだす・・・なんてことがあったのでしょうな。そこで、まずは親の許可を取って、さらに小僧として様子を見ようとなったのでしょう。
そのうちに大人の出家にも、長老の許可が必要になってきますな。誰でも彼でも出家させると、犯罪者も出家してきて捕縛を逃れようとしたりしますし、素質のない者や元々の性根が悪い者まで出家してきて、教団を混乱に陥れたり、他の出家者に対して迷惑を与えるようになってしまう、ということが起きてきたのですな。そこで、長老の許可が必要になる、という決まりができます。で、その出家者は許可を与えてくれた長老の弟子になりますな。
つまり、長老は、その出家の許可を与えた弟子の責任者になる、ということです。

この仕組みは、現代でも続いています。私にも師がいて、その師の許可がないと出家はできませんな。その師は「師僧」といいまして、生涯ついて回りますな。たとえば、
「あんたは誰の弟子や?、ほうあの僧正さんの弟子かいな。その割には出来が悪いなぁ・・・」
などと言われることもあるのですよ。
さらに、加行という修行に入りますと、伝授のたびに「許可」が必要になります。まあ、これは修行をしていけばいただけるものですが、もしもその修行をサボったりすれば、許可はいただけませんな。許可がいただけないと、次の修行の段階に進めません。当然と言えば当然ですな。修行をサボっているような弟子に、いろいろな伝授の許可は与えられませんよね。そんな弟子の責任は持てませんな。

許可を与える、ということは、その許可を授けた側は、許可を与えた者に対して責任を負う、という意味にもなります。「やることを許した」ということですから、当然、許した側は責任を負いますな。
「あんたがやってもいいって言ったんじゃないか。あんたが許可したんだろ」
ということですね。そう考えれば、許可を与える側は慎重にならざるをえませんよね。簡単に何でもホイホイ許可を与えていたら、とんでもないことになりそうですな。許可を得るのに手続きが必要な理由もよくわかります。

一番身近な許可といえば、運転免許証でしょう。これは「車を運転してよい」という「許可」を国からもらっているわけです。ですから、運転免許を得るには、自動車学校へ行き、運転の練習をし、試験を受けてやっと手に入れる、という手続きが必要になりますな。運転免許証を与えたという責任が国側にはありますからね。なので、国側は、許可を与えたという責任を果たすために違法運転をする者に対しては、厳しく当たらねばなりませんな。
ですが、最近、本当に運転免許持っているのか?、と思えるくらいヘタクソな運転をする方が増えてきたように思います。たとえば、右折する際のウインカー。本来は、右折ラインがある場合は、右折ラインに入る前にウインカーを出すべきですな。ウインカーは、車がどっちへ行くかを周囲の車に示すためにあるものですからね。ところが最近は、右折ラインに入ってから、しかも、信号で止まってからウインカーを出す車が多いですな。これでは、ウインカーの意味がありません。右折ラインに入っている以上、右折するのでしょうからね。ま、こんなのは序の口ですな。ひどい場合は、ウインカーすら出さずに車線変更しますからね。
他にも、年配者に多いのですが、トンネルでライトをつけないとか、ね。これも困りますな。トンネルのライトは、周囲の車に対して自分の車の存在を示しているのですが、どうもその意味が解っていないようですな。ライトをつけない車がトンネル内いますと、その車の存在感がありませんな。これは危険です。
折角、手に入れた免許証です。国から許可を与えられているのですから、もう少しその意味を考えて欲しいですな。

そうそう、そういえば、今年の春には統一地方選挙がありましたな。選挙を勝ち抜いて議員さんになった方、あなた方は、市民から議員になってもよい、という許可を得たのです。そのことを忘れて欲しくないですね。人々の許可を得て議員になったのだ、ということを忘れなければ、どこかの議員さんのように、本会議をすっぽかしたり、号泣会見で恥をかいたりはしませんな。
また、国民も市民も、自分たちが許可を与えたのだ、という自覚を持ってほしいですね。その議員は、自分たちが選んだのだ、責任は自分たちにもある、という自覚ですね。その自覚があれば、自分たちが選んだ議員が悪さをすれば、声を大にして反対を唱えられますな。
「そんなことをするために、あなたたちに権力を許したのではない。そんなことのために議員の許可を与えたのではない」
とね。許可を与えた側も責任があるという自覚が必要ですな。

いや〜、そう思うと、僧侶として許可を与えられている私ですから、それに恥じぬように修行をしなければいけませんな。仏様から許可を得ているのですから、怠ってはいけませんねぇ。許可を与えられているという自覚をもたないといけませんなぁ。冷や汗冷や汗、他人のことは言えませんね。
合掌。


146.空想と虚空
子供のころにいろいろなことを空想したことがあります。これは、私だけでなく、皆さんにも経験のあることだと思います。空想しない子供はいないでしょう。誰もが、「こうだったらいいな」、「ああだったらいいな」、「こんなことができたらいいな」、「あんなことができたらいいな」などと空想を楽しんだことだと思います。そうした子供達の空想の代表が「ドラえもん」でしょう。あのマンガは、子供たち誰もが抱いた夢や空想の結晶でしょうね。空想の世界は、大人になっても楽しいものですね。
ところで、空想という言葉は、仏教にもある言葉です。しかし、意味は現在使われている「空想」とはちょっと違うんですね。いや、ちょっとどころか全く異なっています。今回は、その違いについてお話しいたします。

まず一般的な「空想」の意味をおさえておきましょう。国語辞典(新明解 国語辞典)によりますと
現実からかけ離れている(実行することができない)ことを想像すること
とあります。その通りですよね。空想というのは、現実ではあり得ないことやできそうにないことを想像することですよね。
では、仏教語の「空想」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典によりますと
虚空をおもうこと
とだけあります。えーーーーーっ、なんのこっちゃねん!、と言いたいところですが、本当にこれだけなんです。そう、虚空を思うことが、仏教でいう「空想」なのですな。

では、その虚空とはなんでしょうか?。一応、国語辞典を見てみますと
よるべき何物も無い地上の空間。(広義では大空をも指す)
とあります。
では、仏教語の虚空はどうでしょうか?。仏教では一般的には宇宙のこととも言われていますが、こちらも一応、仏教語大辞典で見てみましょう。
@空間の意。おおぞら。空中。虚・空ともに無の別称である。虚にして形質がなく、空であり、その存在が他のものに障害とならないがゆえに、虚空と名づけると解する。・・・中略・・・仏教では「〜はなお虚空のごとし」のように、よく無限・遍満を表す場合のたとえに用いられる。
A何もないこと。無に同じ。
B空間とエーテルと両意義を有するような自然界の原理。
C物の存在の存する場としての空間の意。
D虚空無為のこと。それは因縁によってつくられることもなく、もともと障害を離れていることは虚空のごとくであるから、虚空無為という
E法身のこと。
ちょっと小難しくなりましたが、言いたいことは同じで、簡単に言えば「何の妨げも無い空間」のことになります。が、それだけではありません。一つ重要なことがあります。それは
「虚空とは、因縁に関わらず存在し得る空間」
のことです。
仏教では、この世の存在はすべて因縁によって生じている、と説きます。存在するための原因があって、何らかの縁が加わり、そのものをこの世界に誕生させている、というのが、この世の存在です。つまり、どんな生きものも物質もそれが存在する原因があって、その原因になんらかの要素や力が加わり(これが縁)その存在を成立させているわけです。地球も、石も川も海も大地も生き物もすべて、原因があってその原因に何かの要素が加わって存在しているのですな。原因のない存在はないわけです。
ところが、虚空は違うのです。虚空はそうした条件から離れているのですな。自然界の原理ですから、「あるべくしてある空間」という意味になるのです。また、それは因縁によって存在しているものではありませんから、無であり空であります。

宇宙はビッグバンによって存在し始めた・・・と物理学では説いていますね。今ではそれが定説になっています。巨大な爆発が起きて宇宙が生まれた・・・というのですね。じゃあ、大爆発が起きる前はなんだったのでしょうか?。爆発が起きるということは、爆発が起きるだけのスペースが必要になりますよね。空間が必要になります。空間のないところで大爆発が起きて空間が生まれたとするならば、たとえば、紙切れの中で爆発が起きてその紙が膨らむということになります。が、厳密に言えば、紙切れの中にも空間は存在しますな。あのペラペラの中にも空間は存在しているのです。
無からビッグバンが起きて宇宙ができた・・・ならば、それは無という空間の中での大爆発、という意味にもなりますな。無は虚空でもありますから、宇宙は虚空の中から生まれた、とも言えます。
すなわち、虚空は宇宙が誕生する前から、何の原因も無くただただ存在していた、のです。初めから「あった」のですな。これが仏教の宇宙観でもあります。2千5百年も前に、こんなところまで達していたのですよ、仏教は。すごいですなぁ。

それからもう一つ。Eの法身です。「ほっしん」と読みます。これは姿形をもたない真理そのものとしての如来のことです。大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ)のことですね。大毘盧遮那仏は姿形を持ちませんが、真理を説いています。まあ、そのものが真理なのですから説いているというのは厳密には異なります。真理を垂れ流していると言ったほうがわかりやすいですかね。もちろん、真理そのものですから、その存在原因はありません。真理は原因無くある、ものですからね。だからこそ真理なのですから。
で、その真理そのものが姿形を取ると応身(おうじん)になります。ただし、この姿形は現実の肉体ではありません。映像のようなもの、と言ったほうがわかりやすいですか。人々の求めに応じて姿形を空間に表したのが応身ですな。代表的な応身に阿弥陀如来がありますな。阿弥陀如来は実際に存在した如来ではありません。真理が人々の求めに応じて表した姿です。その他にも薬師如来などもありますね。現実に存在した如来・・・つまりお釈迦様ですな・・・を報身(ほっしん)といいます。真理そのものを伝える役割を担い、現実に存在した如来のことですな。これが、法身・応身・報身ですな。
脱線しましたが、法身がでたついでに説明をしておきました。

さて、空想は、仏教では虚空を思うことでした。仏教での空想は、非現実的なことをあれこれ想像することではなく、虚空・・・すなわち真理・・・を思うことだったのです。初めから存在している真理。この空間に絶えず流れている真理。それを思うことが空想なんですね。それは、真理を瞑想することでもあります。
この宇宙空間を見て、あるいは現実世界の空間を見て、その中に無・空を感じ、真理を見極める・・・それが空想なんですよ。あんなことができたらいいな、こんなことができたらいいな、という空想とは大きく異なっているのですな。

さてさて、我々は辛い時や嫌な時、ピンチになったときなどに「あぁ、自分にもドラえもんがいたらなぁ」などと思うことがあります。いやいや、大人だってそう思うことがあるでしょう。そんなことはない、なんていう方もいるかもしれませんが、それはそれで「こうなってくれればいいのに」なんて夢想したりしませんか?。淡い期待を抱いて想像することはあるでしょう。現実逃避は、誰にでも経験があることだと思いますよ。
そんな時、ただ単に現実逃避を空想するのではなく、しっかりと現実を見つめて、その中から真理を見出すように心がけてみませんか?。「ああだったらいいな」、「こうだったらいいな」ではなく、現実の状況をしっかり受け入れ、その現実に対してどう対処するべきか・・・何が真理なのか・・・それを思うことも大切でしょう。現実逃避するのではなく、冷静に虚空を見つめ、真理を見い出す・・・。ピンチの時、困ったとき、壁にぶつかった時・・・そうした時に必要なことは、一般の空想ではなく仏教的空想なのでしょう。

夏になります。夜風が心地よい季節です。夏の夜空をながめ、虚空を感じるのもいいかもしれませんね。ひょっとしたら、UFOなんぞが現れて、宇宙人が降りてきて、
「すべての苦しみを克服できる道具」
なんてものをプレゼントしてくれるかもしれませんよ。
合掌。


147.一流
世の中には「一流」と言われる方たちが多数います。一流芸能人、一流職人、一流選手などなど・・・。まあ、その方たちが本当に一流かどうかはさておいて、そう呼ばれている人が存在する、と言うことは確かですな。世の中には多数の一流人間がいるんですねぇ。
仏教にも「一流」があります。ですが、一流の僧侶、などとは言いませんね。仏教の「一流」は、一般の「一流」とは意味が異なっているんですよ。どちらが先の「一流」なのかは不明ですが、今回は一般の「一流」と仏教語の「一流」についてお話しいたします。

皆さん一般の「一流」の意味はよくご存知でしょうが、念のために確認しておきましょう。国語辞典(新明解)によりますと
@その社会でのランクが最高で、押しも押されもしない地位(を占めているもの)
A(遊芸・武芸などの)一つの流派
となっております。よく知られているのは@のほうですね。ま、この解説のような人でなくても「一流」を使う場合もありますが、そこは大目に見てください。
Aの方は、普段気が付かないでしょうし、一般の方はあまり使わないのではないかと思います。ですが、「一流」にはAの意味もあるのですな。

では、仏教語の「一流」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典によりますと
@同一の部類のもの
A異なった一派の流儀
となっております。つまり、仏教語の「一流」は、一つの「くくり、グループ」を意味しているのです。@はそのままですね。一つのグループ、と言う意味ですな。Aも様々な流派がある中での一つの流派・・・と言う意味ですな。ですので、Aは一般の「一流」のAと通じますな。というか、同じ意味ですね。
ところが、仏教語の「一流」は@の意味ではあまり使用しません。主に使うのはAの方ですな。そこが一般の「一流」とは異なるところですね。

日本の仏教には様々な宗派が存在しています。日本の・・・と断ったのは、他の仏教国では派閥はあるかもしれませんが、主に「上座部仏教・・・初期仏教」で固まっています。寺院による派閥などは存在しているかもしれません。ですが、日本の仏教のように多数の宗派が存在している・・・というのはないですね。チベット密教も、宗派といるよりは流派と言ったほうがいいでしょう。おおむねチベット密教でまとまっていますな。いろいろな宗派・・・真言宗・天台宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・華厳宗・法相宗など、大まかに分けてもこれだけありますな。これがさらに多くの派や流に分かれていくんですね。たとえば、真言宗だけでも18本山に分かれますな。それだけ派が存在しているのです。これだけ分かれてしまうと、流儀もそれぞれの宗派によって分かれてしまうことでしょう。

真言宗の場合、有名な流派は「中院流」と「三宝院流」ですね。私たち高野山真言宗は「中院流」です。「中院流」に従って、様々な伝授を受けるのですな。流派が違えば当然のことながら、作法も異なります。私は中院流の伝授を受けておりますので、三宝院流の作法はさっぱりわかりませんな。中には、両方の流派の伝授を受け、研究や勉強したりする熱心な僧侶もおりますが、私は中院流だけで十分です。それすらすべて満足にできていないでしょうからね。

高野山真言宗の場合、中院流に従って得度を受け、受戒を受け、四度加行という修行をし、伝法灌頂を受け、そして正式な僧侶となりますな。で、ここで終わってもいいのですが、多くの場合、伝法灌頂を受けたあと「一流伝授」を受けます。私は初めてこの「一流伝授」と言う言葉を聞いたとき、
「おぉ、一流の僧侶になるための伝授があるのだ」
と恥ずかしながら勘違いをいたしました。イヤ、今思い出しただけでも恥ずかしい限りですな。
全然意味が違います。「一流伝授」とは「一つの流派の伝授」と言う意味ですな。高野山真言宗は「中院流」と言う流派ですので、「一流伝授」は「中院流の作法の伝授」と言うことになります。一流の僧侶になるための伝授ではありませんな。あぁ、もっとも、この伝授を受けていないと、その先はないことは事実です。本当に重要な伝授ですので、ある意味、一流の僧侶になるための伝授でもあります。授かった作法を日夜修法し続ければ、あるいは一流の僧侶になれるかもしれませんからね。そういう意味では、「一流伝授」を受けていないと「一流の真言宗僧侶」にはなれない・・・とも言えそうですな。いいかえれば、
「一つの流派を極めし者は、その流派での一流の者となれる」
と言うことですな。これは、どんな場合でも通じることでしょう。

職人ならば理解しやすいですね。あるいは伝統芸能や武道・武芸もそうですね。その流派、先輩の手筋や教え、伝統を学んで、それを極めていけば「一流」と呼ばれる者になれることでしょう。一つの流儀・流派を学び、修行し努力し自らを鍛えていく・・・。やがてそれが実を結び「一流」と呼ばれる存在になるのでしょう。一流になるには、努力と長い年月が不可欠ですね。

世の中にはたくさんの一流の人がいます。職人さんの中には、世界に誇れる職人技を持った一流の職人さんがたくさんいます。最近では、日本のサービス・・・おもてなし・・・が世界中で話題になっていますな。一流の接客として・・・。スポーツ界でも世界で大活躍している一流の選手がたくさんいますね。ここ最近はようやく世界に追い付いてきた・・・という感もありますな。
そういえば、昔から「経済は一流、政治は三流」と言われておりましたが、こちらの方はどうなんでしょうか?。最近は、経済もいつの間にか一流ではなくなっている感じはしますよね。かつて「一番じゃなきゃダメなのか、二番じゃダメなのか」と言った政治家の方もいますが、まあ、一番でなくても「一流」でなくてはいけないでしょう。「一流」を目指せば、自然に一番になっていきますな。その辺を理解できないようでは、やっぱり二流政党と言われても仕方がないですね。

日本は、世界に誇れる「一流」がたくさん存在しています。が、どうも政治の方は一流とはいかないようで・・・。あいかわらずですなぁ。どんな分野の世界でも・・・職人さんでも芸能でも伝統工芸でも経済でも政治でも・・・一流を目指して欲しいですね。あぁ、政治の分野はダメかも・・・・。なんせ一流を伝授してくれる「一流を極めた政治家」がいませんからねぇ。だれか、一流を極めて欲しいですな。
合掌。


148.能力
夏になると、心霊ものや超常現象もの、超能力ものなどのTV番組が、昔は花盛りでした。最近は、こう言った番組あまり見ないですね。ま、あまりにもうそ臭いというか、胡散臭いですから、視聴率も上がらないのでしょうな。クダラナイね、と笑って済ませるにはいいかもしれませんが・・・。
そんな中でも、いまだに超能力は、人気があるようですね。コミックでも超能力や特殊能力を扱ったものは多いですし、超能力や特殊能力があったらいいなと思っている方、それがあるんじゃないかと思い込んでいる中二病の方もいるようで・・・。ま、そんな能力、現実にはないんですけどね。簡単に信じ込まないようにして欲しいですな。
さて、この「能力」という言葉、仏教語にもあるんですよ。ですが、一般の「能力」と仏教語の「能力」は、その意味が全く異なっているんです。その差と言ったら、笑えるくらいですな。で、今回は、ちょっとおもしろそうだったので「能力」についてお話しいたします。

まずは、一般の「能力」の意味について確認しておきましょう。新明解国語辞典によりますと
@特定の仕事を為し遂げることが出来るかどうかという観点から見た、その人(物)の総合的な力。
A(法律で)完全に私権を行使出来る資格。
となっております。Aは社会生活を営めるかどうか、その力があるかどうか、という意味での能力ですね。一般には@の意味で使っております。

さて、では仏教語の「能力」はどうでしょうか?。あぁ、注意しておくことがありました。仏教語では「能力」は「のうりょく」とは読みません。「のうりき」と読みます。読み方も違うんですね。
で、その意味はというと、おなじみの仏教語大辞典によりますと
寺に仕えて力仕事などをする男。寺男。
のことなのですよ。「えっ?」と思いませんでしたか?。まさか〜って感じですよね。そう、仏教語での「能力」とは、お寺の掃除や片付けなどをする「寺男」のことだったんです。

今では、「寺男」などとはあまり言わなくなりましたが、昔はお寺にはたいてい、お寺の雑務・・・掃除、草むしり、マキ割り、風呂焚き、ちょっとした修繕・・・などを担当する人がいたのですよ。お寺に住み込んで、そうした雑務をこなす人のことを「寺男」といったのですな。僧侶ではありません。ですのでお経は読めませんな。お坊さんのようなことはできないのです。あくまでも雑用係です。
今では、お寺の雑用自体が少なくなっていますな。マキ割りなんてのはありませんね。風呂焚きもないです。掃除はお寺の奥さんや小僧さん(息子さん)や職員、もしくは檀家さんが行いますな。草むしりも同じですね。最近では、いい除草剤がありますので、草むしりもあまりしなくてもよくなりました。
寺男・・・は、男ですな。寺女はありません。あぁ、尼寺の場合は寺女はあったかもしれませんが・・・。なぜ寺男なのかと言えば、明治以前は坊さんは結婚できませんでしたからね。また、結構戒律も厳しく、女性との肉体関係が発覚すると「女犯(にょぼん)」の罪で処罰を受けますな。最悪、首と胴体が離れたそうです。なので、お寺の雑用をこなすのは、男性ですな。それも案外、年を取った方が多かったようです。中には、お寺で拾われた子供がそのまま寺男になった・・・という場合もありますな。
尼寺でも、力仕事は女性には無理なので年を取った男性が行ったようです。住み込みじゃないけど寺男がいたわけですね。
今では、もうすっかり寺男は見られなくなりましたねぇ・・・・。ということで、仏教語での「能力」とは「寺男」のことだったのですよ。

仏教語の「能力」と一般の「能力」に関係があるのかどうかは、定かではありません。一般の「能力」が仏教語の「能力」から広まったのかどうか、それもわかりません。全く関わりがないかも知れませんし、あるいは、仏教から一般に広まったのかもしれません。もしそうならば・・・。ちょっと、想像力をたくましくして考えてみましょう。
寺の雑用をこなす寺男にも、もちろん出来がいい悪いはあったことでしょう。テキパキ雑用をこなしていく寺男もいれば、門前の小僧でちょっとした教えくらいは説けた寺男もいたかもしれません。逆に、全くできの悪い寺男もいたでしょうな。マキを割らせれば怪我をする、風呂を焚かせりゃ熱湯になる、草むしりさせりゃ花まで抜いてしまう・・・・な〜んていうちょっとどんくさい寺男もいたのだろうと思います。そんなとき
「あの能力(のうりき)は、なかなか優秀だなぁ。能力(のうりき)として、仕事をこなしていく力がある」
「この寺の能力(のうりき)はダメだな。仕事をこなす力がない」
などと言われたことでしょう。おそらくは、できの悪い寺男・・・能力(のうりき)・・・は少なかったでしょうから、「あの能力(のうりき)はできがいい、力がある」という言葉の方が多かったと思います。周りで聞いていた一般の民衆は、「能力(のうりき)は仕事をこなす力がある人のことを言うのだ」と思ったかもしれません。そこから、仕事をこなせる人を「能力がある」と言ったのかもしれません。
あるいは・・・・。
「この寺には、いい能力(のうりき)がいるなぁ。羨ましいなぁ」
「いやいや、貴寺の寺男もなかなかの能力(のうりき)ではないですか」
などと言う会話を耳にした民衆が、「いい寺男には能力(のうりき)がある」と聞き違え、仕事ができる者を「能力」がある、と言うようになったのかもしれません。
他にもいろいろ想像できるかもしれませんが、いずれにせよ、仏教語の「能力」と一般の「能力」についての関係性は、不明ですな。

さて、皆さんもちょっと想像力をたくましくして、「能力」について考えてみてください。いい意見がありましたら、教えてくださいね。ひょっとしたら思いもかけない「能力」が発見できるかもしれませんよ。自分の中に眠っていた「能力」を発見できるかもしれません。案外、特殊能力だったりして・・・・。
いろいろと想像力をたくましくすることは、能力を発見できるきっかけになるかも知れませんね。
合掌。


149.時薬
辛いことや悲しいことが起きたとき、あるいは心に深く傷を負ったとき、時の積み重ねは、そうした辛さ・悲しさ・心の傷などを癒してくれます。時がたつにつれ、辛さは薄れ、悲しみは忘れることが出来るようになり、心の傷は・・・奥深くまでは無理かもしれませんが・・・次第に消えていきます。時が薬となって辛さや悲しみ・傷を治してくれるのです。人はこのことを「時薬(ときぐすり)だよ」と言います。
大きな病気をして、日常生活に復帰するにも「時薬」は有効ですね。栄養を取り、十分な睡眠を取り、適度な運動をするうちに次第に身体は復活していきます。そうした時を過ごすことにより、身体が元に戻ろうとするのです。時も薬となって働くのです。「時薬」は、副作用のない良い薬ですね。
この「時薬」、実は仏教の言葉にもあります。が、仏教では「ときぐすり」とは読みません。「じやく」と読みます。意味も全く異なります。今回は、仏教語の「時薬・・・じやく」と一般の言葉の「時薬・・・ときぐすり」についてお話します。

実は、恥ずかしながら、私は「時薬・・・じやく」という仏教語を知りませんでした。「時薬」と書けば、「ときぐすり」だと思っていましたし、それは仏教語ではないと思っていました。まあ、確かに「ときぐすり」は仏教語ではありません。しかも、そんなに古い言葉ではないようです。
私が「時薬」に「じやく」と「ときぐすり」があるのを知ったのは、畠中恵さんの著書「ときぐすり」によります。この小説は畠中さんの「まんまこと」シリーズの最新文庫本です。最近、NHKでドラマ化もされていたようです。内容は、ほのぼのとした江戸ものです。ファンタジーっぽいですが、一応ミステリーの要素もあります。癒し系の大変読みやすい作品です。
その中に、「時薬」を「ときぐすり」と読み間違えてしまった・・・という話が出てくるのです。その話の登場人物は、「時薬」を「ときぐすり」と読み、「なるほど、時がたてば辛いことも癒える。時は薬になるのだ」と勘違いするのですな。しかし、「時薬」は「じやく」と読むのだ、意味はお坊さんの食事(午前中にすます食事)のことを言うのだ、と教えられるのですな。私もその登場人物と同じ、そこで初めて知ったのです。で、おなじみの仏教語大辞典であわてて調べてみました。すると・・・。
時薬・・・午前中に食べるべき食事
とありました。

お坊さん・・・出家者は、本来は午前中しか食事をしていけないことになっています。元々は、その食事は托鉢によって得るものでした。午後からは、水分と少量の果物のみはとってもよいことになっていました。戒律の一つですね。
そもそも、出家者において食事は薬のようなものです。身体を維持するためにとる、健康を保つためにとるものであって、味わうものではありません。ですから、おいしいとかまずいとかという感覚は持ってはいけないですし、感想も述べてはいけないのですな。あくまでも身体を維持するために仕方がなく口にするものなのです。そうした意味から、食事は薬と同じ、ということになるのです。で、「時薬」と呼ばれるようになったのでしょう。
この考え方は、やがて「薬膳料理」を生むことになります。ここまでくると、多分に中国思想が入ってきますな。中国ではもともと「食事は薬」という思想がありますからね。仏教の食事に対する思想と、中国の食事に対する思想が融合して「薬膳料理」は誕生するのですな。これは、主に禅宗で盛んになります。

現代では、お坊さんも夕食をとるようになりました。というか、戦国時代にはすでにお坊さんも夕食をとっておりますし、お酒も飲んでおりますな。おそらくは、もっと古くから・・・平安時代が終わるころには、お坊さんはすでに夕食を食べていたのかもしれませんね。
真言宗の修行である加行(けぎょう)の最中は、夕食は食べてはいけないことになっていたようです。現代では希望をすれば、夕食を抜くことが出来ます。基本的に三食食べることになっていますな。朝食と昼食は、修行のための食事なので食事前に読経などの作法があります。が、夕食は本来は「無い」食事ですので読経等の作法はありません。
三食食べるのは、身体を維持するためです。三食の生活に慣れている人は、いきなり二食(あぁ、そうそう、食は「しょく」と読まずに「じき」と読みます。ですので二食は「にじき」と読みます)にするのは、身体に無理があります。貧血を起こしたりする人もいますな。あまり健康的とは言えません。なので、三食取るように勧められますな。
ですが、私が修行したころは、結構多くの修行者が夕食を抜いていました。私も夕食は抜きでしたね。お陰で、体重はかなり落ちます。貧血気味にもなりました。体重は、2週間で7sほど落ちました。その後、体重は安定しますな。貧血もなくなります。体重は、一度落ちて増え始める方もいたようで・・・。不思議なもので、身体はなじむのですな。

何もせずに、一日中ボーっと座っているだけ、寝ているだけ、というのなら夕食を抜くのは構わないでしょう。しかし、普通に働いているならば、午前中だけの食事では、身体は健康を維持できませんよね。最近では、一日一食がいい、なんてことも言われているようですが、「腹が減って死にそう」と思うくらいなら、三食取ったほうがいいでしょう。無理なダイエットは、身体に毒ですな。むしろ三食しっかり取って、ちゃんと働き、適度な運動をしていれば、そんなに体重は増えないと思うんですけどねぇ。それで太る人は、一回の食事の量が多いんじゃないかと思います。カロリーオーバーですな。食べすぎです。たくさん食べたなら、それだけ身体を動かさないといけませんな。シンクロナイズドスイミングの選手は、成人男性の三倍くらいの食事を食べますが、絶対に太りませんからね。運動量がすごく大きいのでしょう。ですから、太り過ぎでダイエットを・・・という方は、食べるのを減らすのが無理なら、運動量を増やすことでしょうな。本当は、「食事は薬」と理解して、少量の食事を心掛けるべきでしょう。
まあ、修行僧のように「おいしい、まずいは言わない」なんてことは申しません。さすがにまずい食事は嫌ですからね。どうせなら、おいしいものを食べたいですな。そう、おいしいものを少量、身体を維持するためだけの分量を食べる・・・これが理想でしょう。

太り過ぎには「ときぐすり」はありませんな。時が来れば痩せる・・・なんてことはない話です。いくら時を経ても、痩せる努力をしないとダイエットは成功しませんよね。
秋ですからねぇ、食べすぎないようにしたいですな。ダイエットには、「時薬・・・ときぐすり」ではなく「時薬・・・じやく」が有効ですね。
合掌。


150.一心不乱
今年も余すところあと二か月となりましたねぇ。受験生の皆さんにとっては、正念場ですな。まさにラストスパートって感じでしょう。もうほか事なんぞにかまっていられないくらいですよね。受験勉強に集中!という季節ですな。そう、まさに「一心不乱」に勉強に打ち込んでいることと思います。よそに気を取られず、集中することは大事ですからね。
さて、この「一心不乱」、もとは仏教語です。今回は、久しぶりに仏教語が一般に転用された言葉を取り上げてみます。

一心不乱の一般的な意味について、いまさら意味を確認するまでもないのですが、一応、国語辞典でおさらいをしておきましょう。
一心不乱・・・一つのことに集中して雑念が起こらないこと
ま、その通りですね。意味的には、いい意味でつかわれる言葉なのですが、イメージ的にはちょっと怖いような、鬼気迫る・・・という感じもしますな。一心不乱に行う・・・のは、いいことなのでしょうが、ちょっとそこには狂気じみた様子も無きにしも非ずで・・・。そんなイメージを持った言葉でもありますな。
では、仏教語の「一心不乱」はどうでしょうか?。おなじみの仏教語大辞典で確認してみましょう。
一心不乱
@仏などを念じて心の散乱動揺しないこと
A念仏を修するときに、心を散乱させずに、至誠心の心をもって弥陀の名号を称えること
B現代シナの仏教徒によると、真如を念ずること
とあります。一つずつ詳しく解説しましょう。
@について。一心に仏様や極楽浄土を想像して、その姿に集中し、仏様と一体化する、あるいは、極楽浄土にいるかのような境地に至ることです。いわば、集中して瞑想することですね。
仏様と一体化する・・・という瞑想は、真言宗の場合は「入我我入(にゅうががにゅう)」と言いまして、大変重要な瞑想法です。ほかの宗派でもこうした瞑想法は行うようですね。ま、禅宗の場合、座禅は心を無にするという修行法なので、異なりますけどね。
ともかく、一心不乱とは、本来は「仏様や浄土を瞑想し、心が乱れない状態」を意味していたのですな。これがまず第一です。
Aこれはまさに、一心に「南無阿弥陀仏」と唱えること、を意味しています。浄土真宗が説くところですな。かつて、戦国時代には、「一心不乱」に「南無阿弥陀仏」と唱えて一揆をおこしたこともありました。一向一揆と言われる一揆ですね。あの織田信長も随分この一向一揆には手を焼きました。(浄土真宗と名乗るようになったのは、明治以降です。当時は一向宗ですね)。命も惜しまず、一心不乱に名号を称えながら突っ込んでくる人たちは、自分自身は恐怖を感じませんから、相手にはものすごい恐怖を与えるものです。死を恐れなくなった人々は、異常な力を発揮しますからね。今でいうジハードですな。一向一揆では、天魔である信長を倒せば極楽浄土に行けると信じて、一揆をおこしましたからね。その信心は、まさに誠心誠意であり、ほんのひとかけらの疑いもないものですな。人間、そこまで信じ切って、一心不乱になれば、ものすごい力を発揮するのです。
ここから、一般にも一心不乱という言葉が広がっていったのでしょう。一生懸命に一つのことに集中して他を顧みない者がいると、「まるで一向一揆の一心不乱な者たちのようだ」と例えられたのでしょうな。つまり、戦国時代の一向一揆から「一心不乱」は一般に広まっていった、というわけですな。

さて、Bなのですが、この仏教語大辞典が出版されたのは昭和56年のことです。そのころは「シナ」という表現は問題視されていませんでした。現代では「シナ」という表現はNGですな。中国は「チャイナ」です。
中村元先生が編纂していたころ、中国の仏教徒たち(少数ながらも仏教者はいたんですよ)は、「一心不乱」の意味は、「真如を念ずること」と解釈していたのですな。真如とは真理のことですね。覚りと言ってもいいでしょう。ようは、深い深い瞑想ですな。中国仏教では、一心不乱は「覚りについての瞑想」という意味だったようです。

仏教語も一般も「一心不乱」の意味は、「一点に集中して他に心を奪われない、動揺しないこと」と解釈していいでしょう。ただ、仏教語の場合、一向一揆の狂気じみたイメージがありますな。それが現代にも残っているのか、私なんぞは「一心不乱に・・・」なんて言うと、「髪の毛を振り乱し、ちょっと狂気じみて、目をらんらんと輝かし・・・」なんてイメージしてしまいますな。皆さんはどうなんでしょうか?。一心不乱・・・と聞いて、そんなイメージを持ちませんか?。本当は、そんなイメージはない言葉なんですけどね。

受験生の皆さん、残り時間は少ないですな。一心不乱に勉強に励むのはいいことです。いいことですが、髪の毛振り乱し、他の誰の意見も聞かず、我武者羅に突き進むのはよくないですな。どこかにすこしの余裕がないと、案外視野が狭くなり、大事なことを見落とす・・・ということもあるように思います。
一心不乱・・・いいことなんですが、視野が狭くなるような一心不乱は良くないですね。そこまで余裕をなくすと、家族への態度も悪くなりますしね。ほんのちょっとでいいから、心を緩めることも大事でしょう。
一心不乱に信長に向かって行っても、結局信長に屈してしまい、信仰を失った者たちも大勢いますな。一心不乱もいいですが、狂信的にならないように注意したいですね。
ほんのちょっとの余裕が、いざというときに役に立つものなんですよ。
合掌。



151.伝法
江戸ものの小説や芝居などを見ていると、時々
「伝法な口調で言った」、「口調を伝法な言い方に変えた」
という表現が出てくることがあります。初めてこの「伝法な口調」という表現に出くわしたときは、「どんな口調が伝法なのか」、「伝法ってなんだ?」と思いました。そう、もうはるか昔ですね。中学の時だったか、高校生だったか・・・。
いま、「伝法」といえば「法を伝えることかい?」って思ってしまうのですが、もちろん本や芝居に登場する「伝法な口調」の意味は分かっております。
それにしても、なぜ「法を伝える」という意味の「伝法」が、「伝法な口調」の伝法になってしまったのでしょうか?。今回は、そのあたりを中心に「伝法」についてお話したします。

皆さんは、「伝法な口調」というのが、どんな口調なのかをご存知でしょうか?。「伝法な言い回し」という言い方もありますね。時代劇や時代小説では、ちょっと悪い連中・・・いわゆるゴロツキ・・・が使う言い回しですな。江戸っ子弁の悪い言葉です。例えばこんな感じですな。
「でやんでぇ、このやろう。てめぇ、何もんだい?。おいおいおい、おれっちに逆らうたぁ、いい度胸してんじゃねぇか。やってやろうか?」
時代劇やドラマでは、ゴロツキが発するおなじみの言い回しですな。こういう乱暴な江戸っ子弁を「伝法な口調、伝法な言葉、伝法な言い回し」というのです。
しかし、これは勘違いしてしまいそうですね。「法を伝える」ときに、乱暴な口調で伝えたのか、と誤解を受けてしまいそうですな。
「伝法の際は、あんなべらんめぇ口調で伝えるんだ」
と思わないでくださいね。伝法な口調、伝法な言い回しと、仏教でいう「伝法」とは、全く異なるのですから。困ったものですな。

なぜ、乱暴な江戸っ子弁が「伝法な口調」と言われるようになったのか?。それは江戸時代に遡ります。
東京浅草は浅草寺に「伝法院」というお寺があります。それは、浅草寺の本坊のことです。もともとは、「観音院、智楽院」と呼ばれていたそうですが、元禄時代以降「伝法院」と称されるようになったそうです。本坊というのは、住職さんが住むお堂のことですね。住居や客間などを備えております。本堂は、行事の中心になるお堂ですね。本坊は、居住用のお堂なので、本堂とは違います。
つまり、浅草寺の住職さんの住まいであり、お客さんたちがそこに集って話をしたり、相談事をしたりしたお堂のことですな。
伝法院は、浅草寺にしかないお堂の呼称ではありません。本山級の寺には、伝法院と名のつくお堂がある寺もあります。そうした場合、その伝法院が本坊になっているかどうかは決まっておりません。ほかの用途の場合もあります。まあ、多くの場合、伝法院と名がつけば、法を伝授するための儀式に使うお堂、という場合が多いですね。余談ですが・・・。
話を戻します。浅草寺に伝法院というお堂があるのです。このお堂は現在もあります。仲見世の通りに幼稚園がありますが、その奥に伝法院があります。

江戸時代のこと、浅草寺の周りには見世物小屋や屋台、売店がたくさんありました。現在でも仲見世通りは、いろいろなお店でにぎわっておりますね。仲見世通りは浅草寺の境内地内ですな。なので、管理は浅草寺がしておりました(現在は詳しいことは知りませんが、境内地であることは確かです)。江戸時代は、浅草寺の伝法院の僧侶たちが管理をしていたのだそうです。
そうした伝法院にも寺男はおりますな。寺男とは、寺の掃除や雑用をこなしている使用人ですね。使用人なので、身分は低いほうですな。ま、下男と同じですからね。その下男である伝法院の寺男らは、結構威張っていたのだそうです。虎の威を借る狐ですな。
「俺のバックにゃあ伝法院の住職様がついているからな」
てなもんでしょう。彼らは結構、乱暴な口調で仲見世の店主や屋台のおやじ、見世物小屋の興行主、さらにはそこにやってくるお客さんや参拝者に対して態度が悪かったのだそうです。それはそれは乱暴な口調で威張っていたのですな。その口調がいつの間にか
「伝法な口調」
と呼ばれるようになったのです。きっと、乱暴な口調でいじめられたりした店主たちが、
「ほらほらやってきた。あの連中、伝法院の寺男のくせして、すっごい威張っているんだ。しゃべり方も乱暴でね。『おい、てめぇら、わかっているのか?、誰のおかげで儲けさせてもらっているんでぇ。わかっているなら、ちーっとばかしよこしな』っていつもたかるんだよねぇ。困ったものだ」
「ああいう乱暴な口調や態度には困ったものだ。伝法院の連中は、下品でいけないね」
と会話しているうちに、乱暴な言い回しや口調が「伝法な口調、言い回し」になったのでしょう。つまり、元は伝法院の寺男たちの言葉遣いが乱暴だったことから始まったのですな。

仏教では当然のことながら「伝法」とは「法を伝えること」です。「法」とは教えのことですな。高野山真言宗のばあい、「伝法」と聞けば、真っ先に思い浮かぶのが「伝法灌頂」でしょう。これは、一通りの修行を終え、最後に受ける灌頂ですね。この伝法灌頂を受けて初めて、「阿闍梨」になれるのです。
ちなみに、灌頂にはそのほかに
「結縁(けちえん)灌頂」・・・在家の方が仏様と縁を結ぶための灌頂。
「持明(じみょう)灌頂」・・・密教の修行をしてもいいよ、という許可がもらえる灌頂。この灌頂を受けても阿闍梨にはなれない。
「学修(がくしゅ)灌頂」・・・伝法灌頂を受けたもの(阿闍梨になっている僧侶)で、さらに学問を学び、所定の行を受けたものが、所定の年数を経て受けられる灌頂。この灌頂を受けると「大阿闍梨」の位となる。
などがあります。そのほかにもありますが、専門的すぎるので割愛します。
いずれにしても、本来は「伝法」といえば、重要な意味だったのですよ。まあ、今でも重要な意味なんですけどね。
それが、伝法院の寺男の態度が悪かったおかげで、「伝法」が「悪い言葉」として使われるようになってしまったのですよ。伝法院の寺男たちも罪なことをしたものですなぁ。

しかし、世の中をよ〜く見まわしてみますと、伝法院の寺男たちのような連中は多々おりますな。そう、虎の威を借りる狐たちですな。よく聞く話では、「議員さん秘書」ですな。議員さん以上に威張っている、なんて話も耳にしますな。まあ、威張っていないと、やっていけないってこともあるのでしょうが、過ぎるといけませんなぁ。「あんたが偉いんじゃない」と言いたくなる方もいらっしゃることでしょう。
ほかにも、チンピラが親分の名前を出して威張るとかね。よくある話ですな。昔は不良の間では、「俺はあいつとダチなんだぜ」などといえば、みんなビビるなんてことがありましたな。そいつ自身は、全然強くないのに威張っているんですな。まさに虎の威を借りる狐ですな。
ちょっとした会社の経営者の息子とかもそうですね。「うちの親父はすげぇんだぜ」なんて威張っているバカ息子がいますな。「お前の実力はどうなんだ」と問いかけたいですな。そういうバカ息子は会社を潰したりするんでしょうね、きっと。
あぁ、大きな寺の息子なんかも威張っている人がいますね。その寺の住職が結構な権力者だったり、本山に顔がきくようだったりすると、その息子も威張っていることが往々にしてありますな。まさに伝法院の寺男と同じですな。
おっと、そうなると、坊さんのほとんどが同じな穴のむじなですな。みんな仏様の威を借りていますからね。坊さんが威張っていられるのも仏様の御威光があるからでしょう。これを忘れてはいけませんなぁ・・・。

「虎の威を借りる狐」は、本当にみっともないですね。親が偉かろうが、偉い人の使用人だろうが、偉いのは本人じゃありません。それを忘れて、威張ってみても実力は知れていますな、メッキはすぐにはがれてしまいます。それよりも、謙虚な態度でいれば、周りから尊敬されるでしょうに・・・。
「虎の威を借りる狐」は、決して虎にはなれませんからね。狐にならぬよう、虎になれるように精進したいですな。
合掌


152.喫茶
コーヒーのいい香りが漂ってくると、「あぁ、一杯飲みたいなぁ」と思ってしまいます。美味しいコーヒーを飲みながら、ジャズの流れる中、どろどろとした人間模様を描く文庫本なんぞを読む・・・。至福の時ですな。といっても、私は外には出かけないので、寺の中でコーヒーを飲んでいるのですが・・・。ま、無類のコーヒー好き、というわけではないので、これで十分なんですけどね。もし、近くに(歩いて2〜3分のところに)、美味しいコーヒーを飲ませてくれる小さな喫茶店でもあれば、通うかもしれませんが・・・。最近のコーヒーショップではねぇ、落ち着きませんな。
さて、この喫茶店の「喫茶」ですが、これは禅語だということを皆さんはご存知でしょうか?。結構、有名な禅語なんですけどね。今回は、この「喫茶」についてお話いたします。

「喫茶」は、本来は「喫茶去(きっさこ)」と言います。禅宗のお寺や茶席などに「喫茶去」と書かれている軸が掛かっていることがあります。禅宗のお坊さんは達筆な方が多いようですね。見事な字で書かれていますな。
「喫茶去」の意味は、「さぁさぁ、お茶でもどうぞ」という意味です。「喫茶」で「お茶をどうぞ」という意味ですな。「去」は強調の言葉なんだそうです。強くお茶を勧めているわけですな。
この言葉、実は仏教語大辞典(縮刷版、東京書籍 昭和56年)には掲載されていないんですね。その代わりと言っては何ですが、「喫飯来(きっぱんらい)」という言葉は載っています。意味は
「さぁ、来て飯を食べていきなさい」
ということですな。この言葉は「碧巌録」にあるのだそうです。

「喫茶去」のほうはと言いますと、これにも元の話があります。唐時代の禅僧で趙州禅師という高僧がいました。あるとき趙州禅師が居たお寺の住職が、禅師が訪れる人に茶をふるまっているのを見ますな。禅師、訪ねてきた人に
「以前、ここへは来たことがあるかな?」
と問います。その人は
「あります」
と答えます。すると禅師
「そうかい、そうかい、ではまあ、茶でも飲んでいきなさい」
と茶に誘う。まあ、知り合いの人だからお茶を飲んでいけ、と言ってるのだろうとその住職は納得しますな。
別の日に別の人が禅師のもとにやってきますな。住職、またそれを見ています。禅師、来客に尋ねますな。
「以前にここへ来たことがありますかいの?」
「いいえ、初めてきました」
「おぉ、そうかいそうかい。では、茶でも飲んでいきなさい」
住職、これを見て「おや?、あれ〜?」と思いますな。初めての人に対しても、そうじゃない人にも禅師は同じ対応をしているのです。「茶を飲んでいきなさい(喫茶去)」と。で、それからよく見ていると、禅師は誰かれなく「喫茶去」と言っているのですな。ここで、ピンときました。ま、ちょっとした覚りですな。
そう、趙州禅師、会ったことがある人でも初対面の人でも、年寄りでも若くても、男でも女でも、金持ちそうでも貧しそうでも、誰彼なしに「喫茶去」と言っているのです。そこには、一切の差別がないのですな。
趙州禅師、訪ねてきた人すべてに「茶でも飲んでいきなさい」と言っているのです。それは、
「まあ、一服して、気持ちを落ち着けなさい。心砕いて話をしてみなさい」
という意味でもあるのですな。

お茶を飲むと、なんだかホッとします。特に寒い日などは、温かいうまいお茶を飲むと、すさんだ心も癒されますな。禅師のもとを訪れる人は、まあ中には単に用事で来る人もいるでしょうか、何かしら心に抱えている方が多かったのでしょうな。もっとも、単に用事で来る人でも、「お茶でもどうぞ」と言われれば、心安らぎますけどね。きっと、禅師のいた場所は、心温まる、落ち着いた安穏なところだったのでしょう。それは、一種の極楽浄土だったのでしょうね。
「喫茶去」にしても「喫飯来」にしても、おもてなしの心の表れだったのでしょうな。昔の中国の禅僧は、そうしたおもてなしの心を持っていたのでしょう。ゆっくり茶でも飲んでいきなさい、ゆっくりご飯でも食べていきなさい・・・。やさしく微笑みながら、お茶や食事を勧める・・・。おもてなしの原点ですね。今はもう見られない光景ですな。

そもそも、お茶は頭をスッキリさせる薬でもあったそうです。薬の一種として日本に伝わっておりますな。確かにお茶は眠気覚ましにもいいですな。口臭を防ぐにも効果があったそうです。そのせいなのか、大きな法会の前には、必ずお茶とお茶菓子が出ますな。まあ、おもてなしの意味もあるのでしょうが、それだけでなく眠気を防いだり、口臭を防いだりするためのお茶でもあるのかな、と私は思ったりします。
あの濃い抹茶なんぞは、本当においしいですよね。苦手な方が多いようですが、私は大好きですな。口の中も気分もスッキリします。
中国から伝わった文化は、日本に大きく影響していますな。それを日本人は、日本独自の文化に昇華させています。ここが日本人のすごいところであるし、日本の文化のすごいところなのでしょうな。

お正月です。ゆっくり茶などをのんで、おいしい日本の和菓子なぞを召し上がって、ちょっとくつろいでみてはどうでしょうか?。あくせくせずに、目の前の金儲けなんぞ忘れて、コーヒーではなくてちょっと茶でもどうですか?。
その辺のコーヒーショップで飲むコーヒーなんぞ、そんなに美味しくもないし(失礼)、落ち着かないでしょう。お寺の客殿なんぞでお抹茶を出しているところもあります。いやいや、家でもいいでしょう。急須にちょっと高めのお茶を入れて、お茶菓子なんぞとともに、ゆったりとした時間を過ごすのもいいなんじゃないでしょうか?
せめてお正月の三が日くらいはね。ゆっくりしましょうよ。訪ねてきた人に
「喫茶去(きっさこ)」
なんて言ってみたいでしょ。
合掌。


153.愛
皆さんは、「愛」という言葉が実は日本語ではない、という説をご存知でしょうか?。恥ずかしながら私も知りませんでした。そんなこと知らなくても恥ではない、と思う方もいらっしゃることでしょう。しかし、仏教者は、愛が日本語ではないということは知っておかねばならないと思います。それは、仏教の基本的な教えでもあるからです。今回は、その「愛」についてお話ししたします。

実は、愛という言葉、サンスクリット語の音写なのですよ。aiそのままなんです。愛は当て字ですね。ほかにも「翳、藹、哀」などが当てられたりするそうです(仏教語大辞典より)。私は全く知りませんでした。愛がサンスクリット語の音写だったとは・・・。単なる当て字だったとは・・・。お坊さんでも知らない人のほうが多いんじゃないかと思います・・・と言い訳しておりますな。
サンスクリット語は、日本語の50音とほぼ同じですな。というか、日本語の50音はサンスクリット語の50音表を元に作ってありますからね。同じで当たり前なんですよ。なので、サンスクリット語を音写した言葉が日本語には多く含まれているのですな。
ai・・・あい・・・は、50音の始まりでもありますから、すべてはそこから始まるという意味で、後の「阿字(あじ)」の思想にも発展しますな。すべては「阿」から生まれ、「吽(うん、ん)」で終わるのです。すべてが「阿」に含まれる、という意味も持ちます。このことをちょっと言い換えれば、みな「あい」から生まれた、とも言えますよね。「阿」というべきところを「い」もついでにくっつけて「あい」と言ってもいいじゃないか、と思いますな。すると、すべてのものは「阿」から生まれる・・・は、すべてのものは「あい」から生まれる・・・ともいえるわけで。こういうと、いかにもって感じがしますが、意味が混乱するのでやはり良くないでしょうな。なぜなら、仏教では「あい・・・愛」は、歓迎されない言葉ですからね。

一般的な「愛」の意味は、国語辞典によりますと
個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重して行きたいと願う、人間本来の暖かな心情。
とあります(新明解国語辞典)。
仏教ではどうかと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典では、
@aiの音写。以下省略(言葉の意味とはちょっと違うので省略しました)
A欲すること。願い。愛好すること。
B愛執。執着すること。愛着すること。
C広くは、煩悩を意味し、狭くは、貪欲と同じに用いられる。渇愛とも漢訳される。渇きに喩えられる盲目的な衝動。妄執。渇きに似た激しい欲望。満足するまでやまない激しい欲望。
D省略(意味的に関係のないことなので)
E自分のものと執着したもの。
F所有
G「愛す」という動詞的用法。愛好する。
H(男女の)愛。性愛。性的本能の衝動。愛擁して離れがたく思う男女の愛。愛縛から生ずる愛情。愛欲。
I妻が夫を愛すること。
J子に対する愛。
K喜ぶこと。心の喜ぶこと。修すべき一つの特性とみられている。
L好ましいこと
M愛情をもって扱うこと。
N慈悲に同じ
O汚れのない信。
P敬に対することば。
Q衆人を愛すること。
R思惑。情意的なものであるので愛という。
S高い理想を追求すること。
?やさしいことば。
?「うつくし」と読む。
とあります。が、しかし、仏教でいう「愛」とは、ABCEFHがほとんどです。それは、一言でいえば、「執着」になります。

一般的な愛の意味は、仏教では「慈悲」に当たります。「いつくしむ心」ですね。ですが、一般的な「愛」の意味も、どうも現実とはそぐわないように思います。どちらかというと、現実の「愛」の意味は、仏教語大辞典に説くCやHに当たるのではないでしょうか?。特にHが世間でささやかれている「愛」の意味なのではないかと思いますね。

仏教にとって、「愛」は邪魔な存在なのです。本能的な性衝動であり、所有欲であり、執着が「愛」の正体なのですな。一般に
「私はあなたのことを愛しているんだ」
という言葉を別の言葉で言い換えたら、
「私は、あなたと性的行為がしたいのだ。私はあなたを所有したいのだ。あなたに執着している。ほかの人には渡したくないのだ。私のものになって欲しい、大切にするから・・・」
という意味になるでしょう。これは、仏教的な見方をすれば、「煩悩のかたまり」になりますな。
親が子供に対して
「あなたのことを愛しているのよ。大切に思っているの。だから将来のことを考えて、あなたに勉強をしなさい、というのよ」
というのは、まさしく親が子供を愛情で縛っている・・・愛縛・・・になりますな。本当に子どものためを思うなら、子供とよく話し合い、子供とともに将来のことを考え指導していく、というのが親の立場でしょう。親の一方的な考えを「愛情だ」と称して押し付けるのは、自分の執着心を「愛」という言葉にすり替えているにすぎませんよね。
このように、本来「愛」とは、個人的な欲求なのです。

人は自己満足のために行動しています。自分が満足することを望む生き物なのですね。
「あなたのため」
と言いつつ、実はそれは自分のためなのですな。「あなたのためにやっている自分に満足している」のです。
「あなたを愛している」
と言いつつ、それは「愛されること」を望んでいるのだし、相手を所有することを望んでいるのですよ。自分のために、相手を所有したいのですな。だから、浮気をすると怒るのです。
本当に相手のためを思い、相手のことを大切に考え、「あなたのために生きる」というのなら、「あなた」が自由にふるまっても文句は出ないはずなのです。仏教語の「愛」ではない「愛」は、無償のものであり、相手のことを思う気持ちなのですから、自分の心情を挟んではいけませんよね。自分の心情や感情を出す場合は、仏教語としての「愛」になりますな。
つまり、人間の持っている「愛」は、本当は仏教語の「愛」のほうなのです。すなわち「愛欲」ですな。国語辞典の説明の「愛」は、理想的な「愛」なのですね。それは、キリスト教的「愛」と言えばいいでしょうか。仏教では「慈悲」に当たる言葉です。

「愛」は、本来美しいものでしょう。しかし、一歩間違うと醜いものになってしまいます。どちらかといえば、美しい愛は少なく、醜い愛が巷にはあふれておりますな。多くの愛が、「所有欲」であり「肉体的欲求」であり「執着」なのです。
しかし、そんな中でも、相手のことを大切に思う心もあります。夫婦間での気遣いもそうです。親子間での心配や頼る気持ちもそうでしょう。相手を気遣い、相手を大切に思う心、それが本当の愛なのでしょうね。
愛することは大切なことです。ですが、仏教的な意味の「愛」にならないで欲しいですね。できれば、「慈愛」と言える「愛」になって欲しいですな。相手を慈しむ愛情を育てる・・・それが大切なことなのではないでしょうか。
仏教的な「愛」の意味の「愛」にとらわれないようにご注意ください。
合掌。


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