えっ?!

こんなところに仏教語!

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154.隠密
時代劇や時代物のドラマ、時代小説には「隠密」なる存在の人がよく登場します。隠密同心などはその代表でしょう。よくよく考えてみれば、遠山の金さんも暴れん坊将軍も隠密ですよね。普段は身分を隠して市井の中でウロウロしておりますな。で、事件を探ったりしております。隠密同心は、そのままですな。町の一般人のふりをして事件を調べる役ですな。まあ、いわばスパイです。このような隠れて街中で生活していた役人・・・公儀隠密というそうですな・・・は、実際にいたらしいですね。紙屑屋(紙屑回収業者)が多かったらしいです。ま、そのほかの職業もあったとは思いますが・・・。
さて、この「隠密」ですが、仏教語にもあるんですね。むしろ、仏教語の「隠密」のほうが古いと思います。今回は、この「隠密」について、こっそりお話いたします。

まずは、現代語の隠密をおさえておきましょう。国語辞典(新明解 国語辞典)によりますと
@江戸時代における幕府や藩の密偵の称。
A物事を人に気付かれないように、ひそかにする様子。
@は隠密同心系のことですよね。江戸時代は、御庭番なる存在があって、江戸幕府は各藩にスパイを送り、藩は藩で藩内の各地にスパイを張り巡らしていた・・・そうですな。昔からスパイは必要だったわけです。Aは「秘密裏に行う」ことでしょう。「隠密に進める」・・・なんて言い回しはあまりしないですけどね。まあ、会社内などで悪だくみをする者たちが「ここは隠密で・・・」なんて言うかもしれませんが、ドラマの中だけなんじゃないかと思いますな。実際にこんなセリフ言ったら笑っちゃいますよね。
ま、現代語の隠密の意味は問題ないと思います。

次に仏教語の隠密をみておきましょう。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
仏の教えの本意が文の裏面に隠されたことをいう。顕了に対する。
とあります。つまり、仏教の本当の教えは、経文の表現そのままにあるのではなく、その裏(奥)にあるのだ、ということですね。経文の文には、表面には顕れていない隠れた奥深い教えがある、ということなのです。言い換えれば、これは密教ですな。

お大師様は、仏教には顕と密がある、と説きますな。顕教(けんぎょう)とは、真言密教以外の教えで、まあ、一般向けと言いますか、経文のそのままの教えですな。密教は、経文に隠された深い教えです。仏様の言葉そのままを使う(真言や陀羅尼のこと)も、意味が分からなくても修行によってその深い内容が次第に分かってくるのですな。密教の修行をすれば、ほかの経文も、「おやおやこれは密教じゃないか」とわかってくるのですよ。普通のお経の中に深い教えを見出すことができるようになれば、本物の密教行者ですな。
なので、お大師様は、般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)の中で、
「顕密は人にあり」
と説いておりますな。経文で顕密が分かれるわけではない、人の理解力や思考力によって分かれるのだ、ということですな。

世の中の現象を見て、それが何を意味するのかを深く読み取ること・・・それが隠密の能力ですな。現実に起きていることは、実際には、いろいろな意味を持っているのです。それを読み取れるかどうか、どこまで深く読み取れるか・・・で、人間の思考力の深さが変わってきますね。ただぼんやりと世の中の出来事が過ぎ去っていくのを眺めている・・・だけでは、思考力は深まりませんな。

世の中の出来事・・・特に人間関係には、隠密がいっぱいですね。表面ではいい顔をしていても、腹の中は真っ黒・・・ってことはよくあることです。口と腹は違うということですな。人間関係においては、相手の隠された部分をいかに早く正確に読み取るか、で関係はうまくいきますな。人間関係をうまくやろうと思えば、相手の表面だけを見るのではなく、隠密(隠された部分)をさぐる必要があるわけです。交渉事なんぞもそうですね。いかに相手の心理を読み取るか・・・。これは社会で戦っていくには必要不可欠なことですな。

言葉の裏を読む・・・これは、日本人の得意とするところでしょう。海外の人は、ストレートにものを言いますが、日本人は曖昧な表現を得意とし、言葉の裏を読み取れよ、という習慣がありますからね。だから日本語の表現はグレーゾーンな表現が多いですな。しかし、最近の若い方たちは、どうも言葉の裏を読み取る、ということが苦手なようですな。これも学校の教育の方針によるのでしょうが、果たしてなんでもストレートに表現し、ストレートに理解するのがいいことなのかどうか・・・。腹を読む、腹を探る、言葉の裏を読み取る・・・ということができないと、結局は世界でもやりにくいのではないかと思うんですけどねぇ。
「はっきり言ってもらえなければわかりません。言葉の裏を読み取れって・・・おかしくないですか?」
若い人からは、こう言われそうですな。ですが、文章だって同じですからね。小説を読んで、その文章に書いてあるそのままを読んでいては、小説なんて面白くないんじゃないかと思うのですよ。小説の登場人物の、そのときの心理状態や腹の底をいろいうろ想像するから、小説って面白いのでしょう。書いてあるそのままを「ああ、そうなんだ、ふーん」じゃあ、つまらないと思いますな。あぁ、だから本を読む人が減ってきたのですかねぇ。登場人物の心理が読めないんですな。隠密を読み取れないのです。そりゃ、つまらないでしょうな。

腹を探る、腹を読む、なんていうと、悪いことのように聞こえますが、表面に現れていないことを知ることは大事なことですな。相手が言葉の裏に何を隠しているのか、それを知らなければ、交渉事なんぞできません。隠密を知らなければ、社会では苦労しますな。
世の中には、表面だけの理解で済む場合は少ないのです。そこから何を読み取るか、何を意味しているのか探る、それが大事なのですね。
世の中は、隠密にあふれているのですよ。ボーっとしていると、いいように騙されてしまいますからね、ご注意ください。
合掌。


155.懺悔
1年の4分の1しか終わっていないのに、世の中では懺悔をしなければならないような事柄がたくさん起こりました。あちこちで頭を下げるシーンが多々見られましたね。こんな状態がもし続くとしたら、今年の終わりのころには、懺悔の嵐・・・となるのでしょうか?。謝罪のシーンなどは、もうこれで終わりにしてほしいですな。
世界のどの宗教にも懺悔はつきものでしょう。懺悔のない宗教はありません。いや、宗教に限らず、人は懺悔するものですな。生きていくうえで、人は「あぁ、しまった、あんなことをしてしまった・・・」と悔いることはよくある話です。懺悔のない人生を送ることができるならば、そんな幸せなことはないでしょう。懺悔は、人の人生について回るものかな、と思います。
さて、この懺悔ですが、仏教では「さんげ」と読みます。今回は、この懺悔についてお話いたします。

まずは、懺悔の意味をおさえておきましょう。国語辞典によりますと、
過去の罪過を(神仏の前で)悔い改めること。(キリスト教では、神父・牧師に対して告白する意に用いられる)
とあります。皆さん、よくご存じのことでしょう。
では、仏教語の懺悔(さんげ)はどうでしょうか?。おなじみの仏教語大辞典では、ちょっと長いのですが(少し省略してあります)、このように解説されております。
懺はクシャマの音写で、ゆるしを請うこと。悔はクシャマの意訳で、くやむこと。人に罪のゆるしを請うこと。
犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。
原始仏教では、比丘は自分の犯した罪を釈尊または長老比丘に告白して裁きを受けることになっていた。比丘は半月ごとに集まってウポーサタ(布薩)という儀式を行い、戒律の箇条が読み上げられるにつれて、罪があるときは自分で申し出たのである。その際、他の比丘の罪をあげ、譴責(けんせき)する比丘は次のような注意を守らなければならなかった。
@時に応じて語る
A真実をもってする
B柔軟に語る
C利益のために語る
D慈心をもって語る
懺悔が「告げること(ディサーナ)」ともよばれたのは、たとえ自発的にせよ、懺悔が自己のすべてを比丘たちの前にさらけ出すことであったからであるが、それには細心の配慮がなされていたわけである。
大乗仏教では、自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、帰投し、摂受されて罪の恐れから解放されるという形のものとなった。その究極は「無罪相懺悔」とよばれるもので、罪の意識が全くなくなった状態に入ることが目的とされるようになった。日本では、薬師如来・吉祥天などの像に向かって懺悔する薬師悔過(けか)・吉祥天悔過が広く行われた。

内容は大体わかると思いますが、一応解説をいたします。
仏教での懺悔とは、「自ら犯した罪を悔い、そのことに関して許しを請うこと」というのが、基本的な意味です。ですので、一般的な懺悔と同じ意味ですね。ただ、仏教の場合、もともとは、許しを与えるのは、神ではなく、お釈迦様であったり、覚りを得た長老でありました。また、キリスト教の場合は、こっそり告白することが多いですが、初期仏教の場合は、月に2回の布薩の日(多くは1日・15日)に他の修行者の前で告白することになっていました。なので、こっそり罪を告白することはできないのですよ。
たとえば、布薩の日ではなく、その間の日にお釈迦様や長老から罪を犯したとして注意を受けたことがあった場合も、布薩の日に他の修行僧のまで報告しなければなりませんでした。つまり、修行者の罪は、すべて公にされていたのです。しかし、これはあくまでも出家者の場合、です。在家のかたは関係ないですね。

大乗仏教では、悔過(けか)の作法なるものがあります。多くの場合、出家し、修行に入る前に僧侶となるための戒律を授かります。およそ、男性は250戒、女性は350戒です。で、その戒律を受ける際に、悔過を行います。過去の罪を悔い改める・・・なので悔過(けか)といいます・・・のです。それを行ってから。戒律を受け、正式に修行をしてもよいという許可を得るのですな。
この悔過の作法は、一人ひとり「私はこういう罪を犯しました」と告白するものではありません。「お前はこのような罪を犯しているんだぞ、懺悔せよ」というような内容です。まあ、仏教の戒律から照らしていけば、多くの罪を犯しているので、修行の前にそれを懺悔するのは当然のことですよね。
しかし、戒律を授かっても、それを100%守れるわけではありません。時代にそぐわないものもあります。最も代表的な戒律違反は、結婚ですな。今のお坊さんは妻帯しております。今では当たり前になっておりますが、明治時代に妻帯の命令が明治政府からなされるまでは、坊さんは妻帯は禁止されておりました。一向宗(現在の浄土真宗)を除いては。今では、結婚をしている坊さんは、まず妻帯していることを懺悔しなければいけませんな。ま、そのほかにも多く戒律違反をしているので、懺悔することはたくさんあります。

しかし、それもいずれは、無へと向かいます。罪の意識はあるけれどもそれにはこだわらない世界へと入っていきますな。罪・罪でない、という境界もない、という世界に入っていくのです。それが「無罪相懺悔」というものです。そうした境地は、一切の対立のない世界ですね。罪とか罪でないとか、罪を犯したとか犯していないとか、悔いるとか悔いないとか、そうした対立した世界を超えた世界へと入っていくのですな。それが理想です。ま、どんなに修行してもそんな境地に入るのは難しいのですが・・・。
罪は日々犯している、いけないこと言う意識もある、悔い改めなければという思いもある・・・。しかし、それを忘れているわけでもないけど、そこになんのこだわりもなく、ただただあるがままに自然に過ごせるようになる。そうなったとき、罪を犯すことは完全になくなってしまうのでしょう。罪とか罪でないとかの境界がなくなった時、本当に罪を犯さなくなるのでしょうね、きっと。しかし、そんな世界は、ほど遠いので、今日も朝から懺悔の言葉を吐くのですな。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
懺悔文(さんげもん)といいます。意味は、
「私がこの世界が始まる頃より、貪りや妬み恨み瞋りなどや愚かさという煩悩により、身体と言葉と心で作るところの様々な罪とがをすべてことごとく、ここに懺悔いたします」
ということです。
人が犯す罪には、すべて原因があります。その原因は、突き詰めれば、欲であり妬みや羨み恨み瞋りなどであり、さらにはそうした自分に気が付かない愚かさにあるのですな。そんな愚かな人間は、身体で言葉で心で罪を犯しているわけです。懺悔するのもいいのですが、本当は、そこのところに気が付かなければいけないのでしょう。
欲しい欲しいと思う欲、手に入れたいと思う欲、寝たいさぼりたい楽をしたいなどという欲。周囲を羨み、妬み、恨み、瞋り、威張りくさるという心の闇。そうした行動を起こしてしまう自分、そうした闇を抱えている自分に気付かない、あるいは気付いても認めようとしない自分、そんな愚かな自分がいる。本当は、これを知らなければいけないのです。そうすれば、犯す罪も減ってくるでしょうし、謝罪することも減ってくるのでしょう。

思えば、不倫をしでかした芸能人だって議員だって、欲に負けたからでしょう。欲を抑えきれなかったから懺悔する羽目になったのですな。国会の審議中にスマホを見たり本を読んだりあくびをしたりしている議員だって、「あぁ、つまんない、真面目にやってられるか、どうでもいいことだしぃ」みたいな気持ちだったからそんな態度になったのでしょう。これすなわち、愚かさですよね。自分の立場を理解していない愚かさ故の行動でしょう。あの市会議員だって、あの野球選手だって、あの芸能人だって、偉そうに説教を垂れている五体不満足の文化人だって、みんな欲に負けてしまったのです。そんな行動をすればどうなるか、ということが想像できずに、罪を犯してしまったのですな。で、人々の前で懺悔することになるのです。愚かしいことだと思いませんか・・・。

人は、日々罪を犯します。それはほんの些細な罪でしょう。でも、仏教では、ほんの些細な罪でも懺悔します。本当は、懺悔などしないでいいような生活ができれば理想なのですが、そうもいきません。ならば、少しでも懺悔しなくていいように、自分の立場や欲や心の中を知るべきでしょう。いや、決して自惚れることなく、己は愚かなのだということを知っていれば、懺悔からは遠ざかるのではないかと思います。
懺悔をしなくていい日々を過ごしたいですね。
合掌。


156.中道
最近はあまり聞かなくなりましたよね「中道政治」という言葉。よく公○党などが、「わが党は中道政治を貫いており・・・」なんて言ってたと思います。最近は、「リベラル」のほうがよく耳にしますな。こうして、昭和の言葉がまた一つ消えていくのでしょうな。
昭和の言葉・・・と言いましたが、「中道」そのものは、仏教語ですね。政治用語ではありません。「中道政治」となって、政治用語となります。そう、今回は、もともとは仏教語であった(今でも仏教語ですが)「中道」について、お話いたします。

まずは、一般的な意味での「中道」をおさえておきましょう。国語辞典(三省堂 新明解)によりますと
@極端に走らず、穏当なこと。(中道政治、中道路線)
A何かが完成する以前の段階。中途。
とあります。
まあ、中道そのものの意味は、こうなるのでしょうな。しかし、中道政治となると、若干意味が異なってきますね。中道政治は、「右翼でもなく左翼でもない、どちらにも偏らない中間派」という意味になります。まあ、右翼でもなく左翼でもなく穏当なところ・・・と言えばそうなるのでしょう。どちらにも偏らない政治なので、たまに「中途半端、どっちつかず」などと揶揄されることもあるようで・・・。まあ、中道には、「道半ば」というような意味もありますので、中途半端な政治、と言われても言葉的には間違ってはいないですな。ですが、一般的な「中道」の意味としては、@のほうが主流ですね。まあ、最近は耳にしませんけどね・・・。

さて、本家本元の仏教語の「中道」の意味はと言いますと、お馴染みの仏教語辞典によりますと
二つのものの対立を離れていること。断・常の二見、あるいは有無の二辺を離れた不偏にして中正なる道をいう。
@原始仏教においては、主として不苦不楽の中道を意味していた。苦行と快楽との両極端を排斥したのである。
AB省略。
ABは専門的すぎるので省略しました。その内容を分かりやすく説明しようとすれば、@の前の説明文の内容と同じになりますので、掲載をやめたのです。といっても、@の前の説明文も意味不明でしょう。なので、解説いたします。

中道とは、二つの対立を離れていることを意味します。たとえば、断・常の二見(だん・じょうのにけん)や有無の二辺を離れるということです。断・常の二見、有無の二辺とは、次のような意味です。

*断・常の二見とは、断見と常見の二つの思想のことです。
断見・・・因果の教えを認めず、この世の生は一度きりで輪廻しないとする考え。自己は断滅する(自分の生命はこの世の一回限りで断たれ、滅するという思想)
常見・・・人は死んでも我は残り、輪廻転生し、永久に不滅であるとする思想。我が魂は、身体が滅んでも永久に不滅である、ということ。
つまり、断見は、「死んだらそれで終わり、地獄とか天国とかないし。バチなんて当たらないよ〜。死んだら終わりさ」という考え方ですな。常見は「いいや、死んでも俺は俺で続くんだぜ。魂は永遠に続くんだ。だから、悪いことをすれば地獄に行くんだよ。いいことをすれば、天界へ行ける。だから、いいことをして生きていけば、俺は永遠の命を天界で過ごせるんだよ」という考え方ですな。ま、どっちも極端ではあります。

*有無の二辺・・・この世は有(永遠に存在している、存在の実態がある)であるという説と、この世は無(この世は永遠ではない、存在に実体はない、この世に存在するものは何もない)であるという説。空と不空と置き換えてもよい。

このように仏教が生まれたころのインドの思想には、極端な思想を説く宗教家がいたのですな。この世での生は一代限りだし、一切の存在は無であるから、何をしてもいいのだ、他人の物を盗んでもいいのだ、どんなに好き勝手をしてもかまわないんだ、という思想もあれば、命は永遠に続くものだし、自分という我は永遠に続くものであり、またこの世に存在するものはすべて所有があるのだから、悪いことはせずいいことをして、地獄に落ちるようなことにならないよう、永遠を生きるのだ、という思想もあったのですな。どちらも極端だったのです。片方は無を説き、もう片方は有を説いたのですな。

仏教は、その両方を採用し、また両方を採用しない、そのどちらにも偏らない思想を持っております。例えば、輪廻はするけど我が続くのではない、としますな。生まれ変わってしまえば、前世の記憶はないし前世の自分ではなくなっておりますから、我が続いているとは説きません。しかし、生はこの世で終わり、輪廻なんてしない、とは説きません。この世にはいろいろなものが存在してはいますが、それは実体がなくいずれは滅ぶものであり、永遠に存在する物ではない、つまり有ではない、と説きますが、無であるわけではなく、現実として存在はしていると認めます。有という存在は認めるが、実体はないのだから無であることも認める、という立場ですな。一切は空であるが、現実問題として存在はしているのだから不空でもある、ということです。
すなわち、仏教は一切の対立から離れ、その中間をいくわけです。どちらにも偏らないのですな。

もともと、中道という思想は、修行の方法において説かれた考え方です。お釈迦様が修行をしていた当時、インドの修行者は、極端な修行に走っていました。いわゆる苦行ですね。苦行をすれば悟れる、聖者になれるという思想が蔓延していたのです。お釈迦様自身も6年にわたり苦行をしております。で、その結果、苦行では悟れない、と悟ったのですな。
苦行のほかに、あまり知られていませんが、快楽の行というものがあります。これは楽しいことばかりするということなのですが、具体的には飲んで食って性行為にふけって・・・という修行ですな。お釈迦様は、王子時代、ふかふかのベッドで休み、最高級品の衣装を身に付け、最高級の食材で作った料理を食べ、侍女が身のまわりのすべてを世話し、たまには乱痴気騒ぎで乱れに乱れ・・・という生活をしていました。まあ、快楽を味わっていたわけです。それでも、「人はなぜ死ぬのか、人はなぜ生まれるのか」という悩みから解放されませんな。好き勝手なことをしても、悶々とした苦悩からは解放されなかったのです。そこで、出家して苦行に入ったのですな。でも、悟れなかった。求める答えは得られなかったのですな。
で、苦行を離れ、また快楽も離れた境地に至り、静かに瞑想していた結果、覚りに至ったのですな。そこから、
「覚りを得るには、苦行でもなく快楽でもなく、そのどちらでもない中間の道を歩むべきである」
と説くようになったのです。つまり、これが中道ですね。

修行は、怠けてもダメ、やりすぎてもダメなのです。それを説いた話があります。ある弟子が、極端に厳しい修行をしていたのです。托鉢を終え、食事を済ますと、体を休めることなく教えを聞き、瞑想をし、清掃活動などを一手に引き受け、せっせせっせと体を動かしていたのですな。他人の作業までも代わりに引き受け、仕事をこなしていたのです。またある時は、断食なども繰り返し行っていました。また、一方である弟子は、托鉢もいかず他の修行者が得た食事を横取りしたりもらったりして食事を済ませ、そのあとはゴロゴロと寝るばかりで、作業も人任せ、毎日だらだらと過ごしていました。お釈迦様は、その両者を呼びました。厳しい修行を自らに課していた修行者は、出家する以前は琴を弾くことが得意な者でした。そこで
「琴を弾くとき、いい音を出そうと思ったら、弦はゆるめがいいのか、ピンと張ったほうがいいのか、どちらであるか?」
と尋ねたのです。琴を弾くことが得意だった厳しい修行者は
「琴の弦は強からず、弱からず・・・で張るのがいい音のもとです。強く張りすぎれば弦は切れます。弱く張ってしまえば、琴を弾くことはできません」
と答えますな。その答えを聞いたお釈迦様
「修行も同じだ。厳しすぎてもいけないし、怠けすぎてもいけない。わかるね?」
と説いて微笑んだのですな。
何事も極端はダメなのですよ。

日本人は働きすぎだ、と昔から言われておりますな。なるほど、日本人は勤勉です。よく働きますな。しかし、家庭も顧みず、朝早くから夜遅くまで働くのは、いかがなものかな、と思います。ちょっと極端すぎやしませんか、とね。少しは、緩んで怠けてもいいのではないかと思いますな。また、怠けすぎて、ニートになってもいけませんな。毎日家でゴロゴロ、パソコンの前で座りっぱなしでなにもしない・・・。それもいけませんな。働けるのに働かない、働いたら負け・・・なんて言っているのは、緩みすぎて音の出ない弦と同じですな。働きすぎも極端だし、働かないのも極端です。その中間を行くべきですな。
昔から、よく学びよく遊び・・・と子供達には説いたものです。大人だって、よく働きよく遊び・・・でいいんじゃないでしょうか?。残業残業でなくてもいいじゃないですか。仕事帰りに上司に付き合わなくてもいいじゃないですか。早めに仕事を切り上げて、家族サービスしてもいいし、自分の時間を楽しんでもいいじゃないですか。
「上司の誘いを断るとは!」
と目くじら立てて怒ることはないと思いますな。何も酒の席でコミュニケーションをとる必要もないでしょう。酒がなくてはコミュニケーションが取れないというなら、それはコミュニケーション下手ということになりますな。酒がなくても、酒の席じゃなくても、普段からコミュニケーションをとるようにすればいいと思うんですけどね。酒がないとできない・・・というのならば、人間関係において不器用ですな、と言われても仕方がないでしょう。極端なことは言わないほうが、いい上司と思われますな。

最近、マスコミも極端だな、と思うことがあります。ちょっと失言すると、ものすごくしつこく激しく叱責しますな。上げ足を取るのが激しすぎるような・・・。失言する方もするほうですけどね。そんな極端なことを言ったら叩かれるぞ、と気が付かないのでしょうか?。自分の立場に溺れているのでしょうな、きっと。言葉尻を捕まえて、極端な話にすり替えるということもあったりします。話の前後をカットして、一部の言葉を取り上げて、極端に責めるといううこともしますな。もう少し冷静になれないものかと思いますな。

冷静になって、それぞれの言い分をよく聞けば、極端な考え方なのかどうかということがよくわかりますな。偏った考え方をしていないか、極端ではないか・・・という判断は、まず相手の主張を冷静に客観的に聞くことから生まれますな。
また、自分は極端に走っていないか、偏った考え方をしていないか、ということを判断するには、周囲の意見によく耳を傾けることですな。周囲の人に相談しないといけませんよね。

極端な考え方は、極端な結果しかもたらしません。我が思想がすべてとか、自分の考えが絶対正しい・・・なんて極端なことを言っていると、いずれは孤立してしましますな。極端を離れ、中間を生きていくことが最も正しい道なのです。それは、どっちつかずでもなく、中途半端でもなく、優柔不断でもありません。中道という確固たる道なのですよ。
合掌。


157.円(圓)
円と言えば、日本のお金の単位ですよね。明治時代から、日本の通貨は円です。それまでは「両」が使われていました。明治維新が起き、新政府になってから「1両=1円」として、円へ移行したのだそうです。
この「円」という言葉、数学では○ですよね。数学の問題では、円は図形として登場しますよね。円周率なんて言葉もありますな。実は、仏教でも「円」という言葉を使いますな。ご存知の方も多いことでしょう。今回は、仏教語の「円」と一般の「円」についてお話ししたいと思います。

まずは、一般的な「円」の意味をおさえておきましょう。国語辞典(新明解 国語辞典)によりますと
<1>@(幾何学で)?一平面内で、定点から等距離にある点全体の成す閉曲線。(この定点を「円の中心」と呼ぶ)。?一平面内で「円」に囲まれた部分。円板。
A「円」に形・性状が類似したもの。(くだけた表現では「丸マル」という)
B明治以降の通貨の単位。銭の百倍。
<2>(造語)@角がないこと
A(もと、完全の意)欠ける所が無いこと
とあります。つまり、「円」とは、もともとは図形の円のことだったのですな。それがなぜ通貨の単位になったかというと、通貨が円形だったからでしょう。
明治政府が通貨の単位を円に決めた時、中国など東南アジアでは香港銀貨(ドル)が使用されていたそうです。で、それに倣って日本も新しい通貨を造りにあたり、江戸時代の小判型の通貨や長方形の通貨を改め、円形の通貨を使用することになったのだそうです。で、単位を「円」にしたのだとか・・・。実のところ、発音は違いますが中国の通貨の単位「元」も韓国の通貨の単位「ウォン」も、もとは円形の意味で、「円」と同じなのだそうです。中国の場合は、「圓」が難しすぎるという理由で「元」に変えたのだそうです。つまり、中国や韓国を始め、東南アジア諸国では通貨は円形をしていたのですね。明治になるまでの日本が特殊だったようですよ。まあ、いわゆる鎖国状態でしたからね。
また、円の形から、角がないことを示したり、円満とかいう言葉も生まれております。

さて、仏教語の「円(圓)」です。おなじみの仏教語大辞典によりますと
「円は」叡山では「えんな」とよむ。
@満月のごとくまるいこと。
A円教のこと。円融・円満の教え。天台の教え。
B円満。円頓。完全なるもの。
C慧光(光統律師)の三種教(斬・頓・円)の教判によると「華厳経」をさしていう。
とあります。
そもそもは、丸いこと、円満の意味ですね。そこから、完全である、という意味として「円」を用いるようになります。それが、A以下です。なお、AもBも意味は同じです。
Aの円教とは、落語家の名前ではなく「完全なる教え」という意味です。仏教のうちで、最も完全なる真理を説いた教えという意味です。宗派によって異なりますが、中国天台宗では「法華経」が円教であるとします。Cの北魏の慧光という僧侶が説いたところでは、「華厳経」が円教になります。当然のことながら、真言宗は密教が円教ですし、天台宗では天台密教が円教ですね。真宗は本願一乗の教えを円教としますな。ま、どの宗派も自分のところの教えが完全だと主張するのは当たり前ですよね。

教判という言葉が出てきましたが、これは仏教の教えの内容を難易度や深さによって分けることを言います。大きく分けるとCにあるような漸・頓・円となりますな。
「漸」とは、次第に悟りに至る教えです。これは主に初期仏教経典の教えを示しています。言わゆる小乗仏教のことですね。「頓」とは、すぐに悟る教えです。頓悟(とんご)とも言いますな。次第に悟るのではなく、一気に悟るための教えですね。なので、高度な教えです。「円」とは先ほど示したように、完全なる教えのことです。覚りそのものを説いた教えなので、非常に難解ですな。教判は、ほかにもお釈迦様の生涯の時の流れに応じて振り分けるものもあります。代表的な教判は、五時教判と言います。ごくごく簡単に説明しておきます。
五時教判→1華厳時、お釈迦様が悟った内容そのものを説いた。2鹿苑時、小乗の教え。3方等時、大乗の教え。4般若時、般若・空の教え。5法華涅槃時。大乗の中でも究極的な教え。
余談ですが、参考までに・・・。

さて、円です。完全なる丸、円かなること、それはその形状から、悟りを意味することもあります。円満覚者といいますな。完全なる覚りを得た者、すなわち如来を意味します。円は角がなく、均一で閉じています。どこにも欠けるところがありません。だからこそ、悟りの意味で用いられるのですな。人として、円満になれば、それは悟った者のことでなのですよ。
よく御祈願で、「家庭円満」、「如意円満」という言葉を用います。「家庭円満」はいいですよね。家庭内に何事も問題なく、平和で仲良くやっていけるように・・・という意味ですな。実際は、いろいろ問題があって、夫婦でもめたり、親子でもめたり、嫁姑でもめたりしますな。だからこそ、「家庭円満」と祈願するのですね。そもそも「家庭円満」ならば、そのような祈願をする必要はありませんからね。まあ、予防のため、ということもありますが・・・。いつ何時、家庭の平和が崩れるかわかりませんからね、今の世の中・・・。
「如意円満」とは、「自分の意のままに、思うようになって欲しい」という願いが込められております。意のままに円満に進んで下さい、という意味ですな。まあ、そんなことはあり得ないですな。が、あり得ないからこそ、人は願うのでしょう。できるだけ自分の思うようになって欲しい、と願うのは、人間の基本的欲望ですよね。
他にも、夫婦仲のよろしくない方は「夫婦円満」、交際中のカップルの方は「交際円満」と願いますな。会社内がうまくいくように、ということでしたら「社内円満」という祈願もあります。いずれにせよ、「円満」とは、平和で何事もない状態の意味ですね。それを願うということは、世の中、いろいろな障害や邪魔がある、ということなのですな。
そう、この世は思うようにいかないのです。

思うようにいかない世の中を、自分の思うようにしようとすれば、必ず無理が生じますな。無理が生じるということは、どこかがへこんだり、出っ張ったり、あるいは欠けたりする、ということですな。いびつになっていきます。ゆがんでしまうということですね。それは円ではありません。円形が崩れた形ですな。
自分の感情をうまくコントロールできず、怒ったり、妬んだり、羨んだり、恨んだり・・・すれば、これも心が円ではなくなりますね。ま〜るい心が、ぐにゃぐにゃの心になってしまいます。人間の心は、本当は、本来は円なのでしょうが、いろいろな感情や欲望で簡単にその形状を変えてしまいますな。ちょっと怒れば、円からトゲが出てきます。ちょっとイライラすれば、針のようなトゲが出てくることでしょう。傷つけば、円がへこんだり、円に亀裂が入ったりもしますな。恨めば輝いていた円もどす黒くなり、気持ちの悪い形状へと変化していくことでしょう。
逆に穏やかな心持って、いつもにこやかにしていれば、その心はキラキラと輝くま〜るい円になりますな。
さて、あなたの心はどんな形状をし、どんな色しているのでしょうか?
合掌。


158.塔
最近は、大都市の再開発が活発なようです。東京はもちろんのこと、大阪や名古屋も中心地には高いビルが次々と建設されています。バブルのころやバブルがはじけたあとなどは、高層ビルのことを「バブルの塔」なんて言ってましたよね。バベルの塔をもじっていったわけですな。テナントの入り手のいなくなったバブルの塔なんぞは、幽霊ビルともいわれてましたね。
昔から、人々は高い塔を建築したかったようですな。奈良は法隆寺の五重の塔に代表されるように、古来、人々は高い塔を築いてきたのです。きっと、少しでも天に近付きたいのでしょうな、人間は。こうした傾向は、世界各国共通のようです。
さて、この「塔」ですが、その語源をご存知でしょうか?。実はこれ、インドの言葉、サンスクリット語に由来しているんですね。元は日本語ではありませんな。今回は、その「塔」についてお話いたします。

とりあえず、まず「塔」の意味を押さえておきましょう。国語辞典(新明解 国語辞典)によりますと
(梵語「そとば」の表記「卒塔婆」の圧縮形)
@供養・報恩のため、また霊地であることを表すための高層建築
A高くそびえ立つ(装飾的)建築物
とあります。現代で使われるのはAのほうですね。ですが、国語辞典にもあるように、元は梵語、すなわちサンスクリット語ですな。それはつまり、仏教とともに伝来した言葉、仏教語なんですね。
で、そもそもは最初のカッコ内の意味が元です。@の意味は、あとから生まれたものですね。と言いましたが、実は、カッコ内の意味も元ではありません。それも派生した言葉ですな。本来は、ちょっと違っております。そこのところは、仏教語大辞典で見てみましょう。

お馴染みの仏教語大辞典によりますと、「塔」とは
音がパーリ語のトゥーパ、サンスクリット語ストゥーパの音を写し、また字がストゥーパの意義を示している。
わが国で五重塔などとよばれるものは、インドのストゥーパの上部が発展して大きくなり、他方、基盤の覆鉢形の部分が小さくなって、隠れてしまったものである。
とあります。ここで、ストゥーパがきっとよくわからないと思いますので、これも仏教語大辞典でみてみましょう。
「ストゥーパ」とは
卒塔婆(卒都婆)などと音写。古代インドで土饅頭型に土を盛り上げてつくった墓。大きな塚。仏や聖者の記念の印として、その所持品・遺骨・遺髪・牙(歯)などを埋めて土地を盛り、周囲をレンガでかためて構築された。仏教のみならず、ジャイナ教でもつくられた。塔ともいう。シナ・日本の塔はその変形である。
とあります。つまり、塔とは本来はお墓だったわけです。

インドでは、一般の庶民が亡くなると、木を井形に組んでその上に遺体を乗せ、火を放ち川に流します。これがインドでの一般庶民の葬儀ですね。組んだ木に乗せられ燃やされながら川に流されるの遺体は、まだマシな方ですな。ちょっと貧しい家庭だと、遺体はそのまま川に流しますな。あるいは、山に捨てて鳥のエサにしますな。これを鳥葬といいます。チベットでは今でも行われているそうです。
身分の高い人・・・たとえば王族や聖者と呼ばれる人は、お墓を作ってもらえます。もちろん、仏陀もそうですね。
どういうお墓かといいますと、二段重ねの土饅頭ですな。お椀を伏せた形で、それが二段重ねになっております。上の方が小さいですな。で、中には、仏陀、偉大な人、聖者、国王などの骨や遺品、遺髪、爪、歯などを入れます。お墓に遺骨を納める・・・日本と同様ですな。

ちなみに、お釈迦様も土饅頭型のお墓がつくられています。仏陀ですから、当然ですね。お釈迦様が大涅槃に入った後(つまり亡くなった後)、その遺体は木を組んだ上に乗せられました。あとは火をつけるだけ。王族や聖者の葬儀の仕方ですね。ところが、高弟のマハーカッサパがやってくるまで火はつきませんでした。彼がやってきたのは、お釈迦様が大涅槃に入った一週間後。つまり、お釈迦様のご遺体は、一週間、腐らずきれいな状態だったそうです。
マハーカッサパは、お釈迦様のご遺体と対面し、火を放ちますな。ご遺体はきれいに燃えて、あとには米粒のような骨が残ったそうです。これが仏舎利ですね。この仏舎利は、お釈迦様に縁の深かった八か国に分けられますな。このことは、火葬にされる前に決められたことです。遺骨がもらえない国は、お釈迦様の髪の毛、爪、歯が火葬前に分け与えられました。
こうして、お釈迦様の骨や遺髪、爪、歯などを受け取った各国の王は、それらを納めるためにお墓を作りますな。それが、ストゥーパです。今では、もう残ってはいませんけどね。お釈迦様の涅槃後200年ほどしてインドを統一したアショーカ王によって、お釈迦様の遺骨や遺髪、爪、所持品などが集められたのですな。つまり、アショーカ王はストゥーパを発掘したのです。で、アショーカ王は、集めた遺骨などをインド中に埋めなおしますな。で、塔を遺骨などを埋めたところに建てます。その数8千ともいわれておりますな。
それも、今ではほとんど残っておりません。壊されてしまっていますな。が、お釈迦様の骨、舎利は仏教とともに中国に伝わっております。中国でも、お釈迦様の骨を納めるためにストゥーパを作りますな。しかし、それはインドのストゥーパとは全く異なるものになったのです。

中国で作られたお釈迦様の遺骨を納めるストゥーパは、いわゆる二重の塔・・・多宝塔・・・と呼ばれる形のものでした。2段重ねの土饅頭が、二階建ての建物になったわけです。やがてそれは、高くした方が目立つだろう、ということで、三重塔となり、五重塔となったのですな。つまり、ここで仏教を説いていますよ、ここはお釈迦様の遺骨を伝える本物の寺院ですよ、と宣伝するための塔なのですな。いわば、広告塔なのです。
本来は、多宝塔にしろ、三重塔にしろ、五重塔にしろ、お釈迦様の遺骨を納めねばなりません。あるいは、遺髪か爪か歯を納めるべきなのですな。なにしろ、元はストゥーパというお墓なのですから。しかし、お釈迦様の遺骨は、そうそうたくさんあるものではありません。ちなみに、いま日本に伝わっているお釈迦様の遺骨をすべて集めると、お釈迦様はゴジラくらいの大きさになってしまうそうです。あぁ、だからと言って、お釈迦様の遺骨がすべて偽物、というわけではないですよ。仏舎利は、増えるのだそうです。
日本に現存するすべての塔・・・多宝塔、三重塔、五重塔など・・・に、必ず仏舎利があるとは限りません。別になくてもいいのです。お釈迦様の遺品は、骨でなくてもいいのです。いや、そうしたものにこだわってはいけないでしょう。大事なのは教えなのですから。
つまり、多宝塔にしろ、三重塔にしろ、五重塔にしろ、その中には教えが詰まっていなければいけないのですな。空っぽではいけないのですよ。

おそらく、皆さんがそうした塔の中に入ってみると、きっと
「あぁ、空気が違うな」
「あぁ、なんだか心が洗われるような気がする」
と思うのではないでしょうか?。なんか落ち着く、神秘的だ・・・とね。そう感じる方は多いのではないかと思います。それは、すなわち、お釈迦様の教えが生きている証拠ですな。塔に入ったとたん、お釈迦様が説いている教えを皆さんは肌で、心で感じているのでしょう。塔の中で、お釈迦様は生き続けているのです。
もし、何も感じない塔があったならば、そこにはお釈迦様の意志は何も伝わってはいない、ということですな。教えは納められていない、ということです。仏教の信念がその塔にはないのですな。そんな塔ならば、不必要ですね。もっとも、塔を造っても、そこにお釈迦様の教えを入れるのは、その塔を預かったお坊さんですけどね。たとえ、仏舎利を納めたとしても、その塔を守るお坊さんがダメならば、塔は意味をなさないものになってしまいますな。大事なのは、そこを守る人にあるのでしょう。

日本の中心地、東京は新宿にそびえ立つ都庁という塔。あの中には、どんな思想が詰まっているのでしょうかねぇ。せこくてケチな塔の守り人が管理していたから、本物ではなく偽物の思想が詰まっていたのではないでしょうかねぇ。その管理者に仕えていた部下はたまったものじゃありませんな。また、その塔を仰ぎ見ていた人々は、裏切られた気分でしょうね。
さて、次のあの塔の管理者、守り人はどんな人になるのでしょうか?。中身のない、人気だけの、いい加減な人だけは勘弁してほしいですな。一応、日本の中心地の塔ですからね。その塔を管理するのですから、その意味を深く考えてほしいですな。

ストゥーパから派生した卒塔婆についても書こうと思ったのですが、長くなってしまいますので、それは次回にいたします。なので、次回は「卒塔婆」で決定です。ご了承ください。
合掌。


159.卒塔婆
前回、「塔」の語源についてお話いたしました。「塔」とは、元はサンスクリット語のストゥーパが音写され、卒塔婆となり、その略式形が「塔」である、と解説いたしました。また、そもそもストゥーパとは、聖者や国王の墓のことであり、骨を安置する場所であったのです。ですので、仏教における「塔」は、そこに仏舎利を納めるのが本来であります。さらに、ストゥーパは、饅頭を二段重ねた形をしており、それを模倣したのが二重塔(多宝塔)なのです。それが仏教のシンボルとしての役目を担うようになり、次第に三重塔、五重塔へと変貌していったのですね。つまり、シンボルタワーとしての役目を担ったわけです。これが、ストゥーパから「塔」への変遷です。
ストゥーパには、もう一つの変遷があります。それが今回お話しする「卒塔婆」です。そう、ストゥーパを音写したそのままの卒塔婆です。卒塔婆は、ストゥーパ本来の意味を持たず、別の意味を担うようになっていくのですな。

ストゥーパとは、本来は聖者や国王のお墓です。お墓ですから、遺骨を納める場所ですね。なので、ストゥーパを起源に持つ「塔」・・・多宝塔・三重塔・五重塔・・・が、仏舎利を納める場所として建築されたのですな。
ところが、皆さんも聞いたことがある「卒塔婆」・・・略して「塔婆」・・・は、遺骨を納めるものではありません。たいていは、卒塔婆は板ですから遺骨を納めることはできませんね。卒塔婆は、お墓の後ろとかに立てるものです。あるいは、小型の卒塔婆・・・経木塔婆・・・などは、川や水辺に立てたり、流したりします。
本来、遺骨を納めるためのストゥーパである「卒塔婆」が何故、板になったのでしょうか?。
実は、卒塔婆は、日本独自で進化したストゥーパなのですよ。

さて、お馴染みの仏教語大辞典では「卒塔婆」はどのように解説されているのでしょうか?
「卒塔婆」・・・サンスクリット語のストゥーパの音写。
@もと古代インドで、土饅頭型に盛り上げた墓のこと。
A釈尊の滅後は、単なる墳墓ではなく、記念物の性格を帯びるようになった。マウリヤ王朝時代には特に多数の塔が建設され、仏の遺骨・所持品・遺髪などを埋めた上に煉瓦で構築された。この塔を中心に新しい仏教運動がおこり、大乗仏教にまで発展した。
Bシナ・日本でも金堂とならんで重要な建築物として造立された。仏舎利を奉納し、寺院の象徴となっている。
C細長い板に塔の形の切込みをつけ、死者の追善のために墓側に立てる板塔婆を卒塔婆・塔婆とよび、建築物を単に塔と呼んで区別する。

@ABが前回お話しした「塔」のことですね。で、今回はCになります。同じストゥーパでも、意味が二つに分かれてしまったのです。本来、聖者・・・仏陀・・・の遺骨を納める場所であったストゥーパは「塔」となり、ストゥーパを音写した「卒塔婆」は、本来の意味を「塔」に譲って、違う意味の言葉になってしまったのですな。

さて、板の塔婆が誕生した理由ですが、これは死者を埋葬する・・・土葬にする・・・ことによるものです。
日本では、昔は、死者の多くは土葬にされていました。最近ではほぼ土葬の地域はありませんが、今でも土葬を守っているところもあります。一般的には火葬なんですけどね。
土葬の場合、土に穴を掘って棺桶を入れるわけですが、その上にすぐにお墓を造るわけにはいきません。土葬は、土に埋めた棺桶の上に盛り土をします。棺桶は日数が立ちますと、腐ってきます。腐ってくると棺桶の蓋も当然落ちてしまいます。そのために棺桶の上に盛り土をするのですな。棺桶の蓋が腐って盛り土も棺桶の中に入ります。遺族はその上にさらに土を被せますな。で、また日数をおいて土が固まるのを待ちます。土が固くなって、ようやくお墓を建てることができますな。土が柔らかいうちにお墓を立てると、お墓がその重みで傾いてしまいますからね。また、土を足などで踏み固めるわけにもいきませんよね。だから、自然に棺桶を埋めた土が固くなるのを待つのですな。
その際、死者をどこに埋めたかわからなくなってはいけませんよね。ここに死者が埋まっています、という目印が必要です。その目印に木で塔を建てました。それが、板塔婆の始まりでしょう。
一般的には、土葬の上に立てる塔は、正方形の柱で、上の方が五輪塔になっております。五輪塔の形をしているのは、それが宇宙そのものを表しているからです。つまり、五輪塔は悟りの世界、永遠の世界を表しているから、死者がそうした世界へ行けるようにという願いを込めて五輪塔にしてあるのですな。これは、塔婆が板状になっても引き継がれていますね。板塔婆も、上の方は五輪塔の形にカットされております。
つまり、木の塔婆は、そもそもは柱の形をしており、土葬にされた死者の目印であり、仮のお墓なのですよ。正式なお墓が建立されるまでの間の仮のお墓ですな。

貴族や有力者、お金持ちは、早めにお墓が建てられますよね。ですが、一般庶民は、なかなかお墓は建てられません。結構、高価なものですからね。なので、いつまでも木製の塔婆のまま・・・という場合もありますな。そして、そのまま子孫がいなくなってしまった・・・という場合もあります。
さらには、もっと貧しい人々は、そこら辺に埋められた、ということもあります。村のはずれに大きな穴を掘り、そこに遺体を放り込まれた・・・ということもあったでしょう。それだと、お墓どころではないし、柱状の塔婆すら建てられないこともあります。
せめて亡き人の供養のために、その証が欲しい・・・。
そう思った人々は多かったのではないかと思います。貧しいがゆえに、満足な供養もできない、お墓はもちろんのこと、塔すら建てられない・・・・。ならばせめて、板に亡き人の名を記し、供養してほしい・・・そう思うのは人情ってものでしょう。
おそらくは、こうしたことから板の塔婆が生まれてきたのでしょうね。

今では、板の卒塔婆・・・塔婆・・・は、年忌供養(法事)の際に、お墓の後ろに立てらることがよくあります。しかし、これも地方によって異なっています。関東ではこうした習慣が多いようですが、地方に行くと、塔婆を立てかける場所がないお墓もありますな。塔婆を建てる習慣がないのです。お墓の前で法事をする地域もあれば、自宅やお寺で法事をする地域もありますな。両方で・・・という地域もあります。多くの場合は、自宅やお寺、式場などで法事を行いますな。その際、塔婆を建てる習慣のある地域では、その塔婆を立てかけご供養のお経を上げますな。塔婆を立てない地域では、それに代わる塔婆・・・経木塔婆といわれる小さな(30センチくらい)塔婆を使って供養する場合もあります。あるいは、全くそうしたものを使わず、仏壇の前で読経するだけ・・・という場合もありますな。そのあたりは、宗派や住職さんの考え方にもよりますな。ですが、できれば、経木塔婆でいいから、塔婆はあったほうがいいかな、と私は思います。

塔婆の役割とは、供養をした証ですね。ちゃんとその人のためにご供養いたしましたよ、という証ですな。それを焚き上げたり、川や海に流したりして、あの世にいる亡き方へ届けるのですな。いわば、亡くなった方へのお手紙のようなものです。
また、供養や法事に参列している方、ご遺族の方も、塔婆があれば、それを御墓の前に建てたり、焚き上げてもらったり、川に流したりすることにより、供養や法事を身近に感じることができるのではないかと思います。
私の寺でも供養の際、水に溶ける塔婆を使うことがあります。木製の塔婆は、川に流すと残ってしまい、環境破壊にもつながるらしいので、水に溶けて後に残らない塔婆をうちの寺では使っています。
供養をされた方がよくこうおっしゃいます。
「塔婆を川に流すと、なんだか自分の心も洗い流されたような、そんな感じがします。それに、あぁ、供養が届いているんだな、と実感できます」
これは、大変いいことだな、と私は思います。ご供養という行為を実感できることは、大切なのではないでしょうか?。ただ、お経を聞いて、「足がしびれた、まだ終わらないのか、長いなぁ・・・」などと思うような法事や供養では、ちょっと残念に思いますな。ほんの少しでも供養が実感できる・・・。それは仏教を身近に感じるという意味でも大切だと思いますな。

さて、お盆の月です。亡き人のため、ご先祖のために、どうかご供養をしてあげてください。ご先祖も、1年に一度のお祭りなので、遺族の方、家族の方のご供養を待ち望んでいることでしょう。そして、その時は、できれば塔婆を書いてもらうといいですね。亡き方を偲んで・・・・。
合掌。


160.中元
季節外れですみません。もう終わってしまったお中元の話を今更?、と思われるかもしれませんが、どうぞご勘弁をお願いいたします。
お中元とお歳暮は、1年の行事でも外せないものになっておりますね。失礼にならないよう、忘れてはいけない慣習ですな。まあ、ほとんどが社交辞令化しておりますけど。どちらかと言えば、お中元もお歳暮も仕方がないから出す・・・というのが本音でしょうね。できればやめたい、と多くの人が思っているのではないかと思います。今回は、そんな「お中元」についてお話しいたします。

お中元、と言いますが、これは丁寧な言い方をしただけで、言葉自体は「中元」が正しいですね。今では、お世話になった方へ夏の贈り物をする行事ですが、本来は違います。元は、中国の暦に関する習慣が日本に伝わり、それが変化していったものなのです。
中国の古い歴の習慣では、1月15日を上元、10月15日を下元としてお祝いをしたそうです。で、7月15日を中元と言い、この日は一日中火を燃やすという儀式を行ったそうです。なぜそのような儀式を行ったかというと、7月15日の中元は、中国の冥府の王が人々の善悪を判断するという信仰があったのだそうです。そのため、自らの罪を滅するという意味で火を燃やしたのそうです。中国には、そういう儀式が古くから7月15日に行われていたのですな。
そこに仏教の盂蘭盆会が中国に伝わります。仏教の盂蘭盆会では、7月15日に餓鬼を救うため、お供えをし施餓鬼の作法を行いますな。現代のお盆のもとになった行事ですね。盂蘭盆経によれば、餓鬼を救うと寿命が延びる、とありますな。アーナンダが餓鬼に「お前の寿命は三日後に尽きる」と言われ、お釈迦様に相談したところ、「7月15日には多くの僧が集まり反省会を行う。その際、その僧たちの食事を接待せよ。そうすれば、その功徳により餓鬼は救われ、お前の寿命も延びるであろう」とお釈迦様に教えられますな。アーナンダはお釈迦様の言うとおりにしました。その結果、三日後に死ぬはずであったアーナンダは、なんと120歳の長寿となったのです。
同時に、高弟の目連の母親が餓鬼に堕ちているのを救うため、目連さんが7月15日の反省会に集まった10万の僧たちに食事の接待をしますな。そのおかげで目連さんの母親は餓鬼道から救われ天界に生まれ変わります。
この二つのエピソードが起源となって、仏教では7月15日には施餓鬼・盂蘭盆会の行事が行われるようになったのですな。
これが中国に伝わります。中国にはもともと7月15日の「中元」の行事がありました。それと仏教の施餓鬼・盂蘭盆会が合体しますな。合体し、融合します。すると・・・。
中国で、7月15日は、先祖の霊を祀って、墓参りをしたり、僧侶を呼んでお経をあげてもらったり、施餓鬼の作法をして先祖の徳を積み、長寿を願ったりする行事へと変貌しますな。それが日本にも伝わります。「中元」の仏教行事として。
つまり、「中元」とは、元は中国の民衆の行事だったのですな。それが仏教の施餓鬼・盂蘭盆の行事と交わり、仏教行事として完成します。すなわち、「中元」とは、本来は現代でいうお盆の行事を示していたのです。

日本でも室町時代以前は、「中元」といえば、現代のお盆のように先祖を祀り、墓参りをしたりお寺参りをしたりしたのです。お寺に行けば、施餓鬼や盂蘭盆の読経も行っており、それを参拝したのですな。
ところが、室町時代のある時期・・・きっと世の中が安定し比較的裕福だったころ・・・から、仏教行事と中元の行事を分けるようになったのです。おそらく、身分の高い人の中に、中国の故事に精通していた人がいたのでしょう。そうした御身分の方々の間に、「中元」も「上元」や「下元」と同じように、生きていることを祝おうではないか・・・という習慣が生まれてきますな。お互いの屋敷を行き来して、「おう、生きておったのう」と喜び合おうではないか、という社交行事を行うようになったのですな。仏教の行事・・・施餓鬼・盂蘭盆会・・・は、坊主に任せておけばよい、ということなのでしょうな、きっと。
で、お互いの屋敷を行き来するのに手ぶらではダメでしょう、ということになりますな。平和で豊かな時代は、身分の高い方々は、そんな楽しみをしたのですな。まあ、ほかにやることもありませんしね。手土産をもって騒ぎたいわけですよ。なので、あっという間にこうした習慣は広まっていきますな。身分の高い方々だけでなく、大きな商家にも広まるのですな。
すると、当然のことながら、庶民にも伝わりますな。手土産は質素でもいいのです。とにかく、7月15日は「中元」という「生きていることを喜び合おう」という行事をしようじゃないか、となりますな。
そう、これが現代のお中元の習慣の起源ですね。

室町時代も不安定な時期に入りますと、そんな「中元」を楽しむ・・・なんてことはできなくなりますな。が、戦国時代を経て、江戸時代となり、世の中も安定してくると、こうした行事は復活するものなのです。なんせ、少ない楽しみのうちの一つなのですからね。で、武家同士や商家と武家の間で、手土産を持参し「生きていることを喜ぶ」という「中元」の儀式が復活しますな。
初めは、ほんとに質素な手土産だったことでしょう。しかし、そうしたことはだんだんエスカレートしますな。やがて、手土産も豪華になったり、「こっちの人のところへ行ったら、あっちの人へもいかねばならん」ということが起きてきますな。世話になった人への挨拶もしたほうがいいだろう、ともなります。だんだん、訪れる相手が増えていくのですな。しかし、身体は一つ。なので、御遣いを出しますな。挨拶状なんぞをつけて、贈り物をするわけです。はい、こうして現代のお中元の習慣となるわけですね。江戸時代に復活し、エスカレートした習慣が現代にまで伝わっているのです。

さて、忘れ去られてしまったお盆の行事。これは、これでお盆の行事として残っておりますな。地方に行けば、都会に出た人たちが里帰りをし、先祖を祀り、お墓参りをし、お坊さんにお経をあげてもらう・・・という昔ながらの行事が行われおりますな。そこまでやらなくても、「盆踊り」という形で残っている場合もあります。もっとも、都会では、最近では「うるさい、騒音公害だ」などと嫌われている地域もあるようですが、それも寂しい限りですな。「うるさい」などと言ってないで、一緒に踊りの輪に入ればいいのに、と思います。否、踊らなくても、お盆に帰ってきている先祖が踊りに参加しているかもしれないから見るだけでもいいのに、と思いますな。

それにしても「中元」という言葉、ちょっと変わった運命を背負った言葉ですよね。運命とは言いすぎかもしれませんが・・・。初めは、自分たちの善悪を判断される日であり、そのために自分の罪を滅するため火を燃やしたという儀式でした。それが、仏教の施餓鬼・盂蘭盆会の行事と合体し、施餓鬼・盂蘭盆会が主流になっていきます。中国では、その後どうなったかは知りませんが、日本に伝わった「中元」の行事は、初めは施餓鬼や盂蘭盆会であり、先祖を祀り、お墓参りや寺参りをするという行事でした。それが、もとの「中元」とは正反対の「生きていることを喜ぶ」という儀式になってしまったのです。それは「上元」や「下元」の行事でしょ!、ということなのですが、本家の「上元」や「下元」は残っていないのですからね。あぁ、「上元」は1月15日の小正月という祝い事に変わって、生き残っておりますな。
祝い事として残った「中元」も、いつしか世話になった人へ贈り物を送るという社交の習慣へと変貌しますな。まあ、なんと忙しい言葉でしょうか。コロコロ意味が変わってしまったのですよ。
中国の滅罪の習慣→仏教行事→日本での社交の行事→贈り物を送る習慣
言葉は生き物ですねぇ。

さて、夏も終わりまして、お盆で浮かれた先祖の皆さんもあの世へ帰って行きました。次は、おちついて彼岸の供養を待っている状態ですな。
お盆をすっかり忘れて先祖のご供養を怠ってしまった方は、お彼岸はしっかりご供養してあげてくださいね。お盆をしっかり先祖のために過ごした方も、お彼岸は極楽浄土を想いながら、御先祖のご供養をしてあげてください。
昔から続く行事は、大切にしたいですな。
合掌。


161.不覚
この「こんなところに仏教語」を書き始めて結構な年数になります。最近では、どんな言葉にしようか悩む月が多くなってきました。一般に使われている仏教語と言っても、そうそうたくさんあるわけではありませんからね。探し出すのも一苦労です。
が、しかし、なんと不覚にもこんな言葉を私は見落としていました。そう、それは「不覚」です。今まで紹介した仏教語一覧を見ても、ないではないですか。なんと、不覚にも私は「不覚」を見落としていたのです。
ということで、今回は「不覚」についてお話しします。

まずは、一般の国語辞典で「不覚」の意味を確認していきましょう。「新明解 国語辞典」によりますと、「不覚」とは
@心構えが不十分なため失敗すること
A無意識
とあります。よく「不覚にも涙を流してしまった」というセリフを耳にしますが、この場合はAの意味ですね。無意識に涙を流していた、ということですな。私が「不覚」という言葉を見落としていたのも、Aの意味ですね。自分では、もう語ったつもりでいましたから、無意識のうちに、もう書いたつもりになっていたのです。
@の意味は、勝負事などで使いますよね。「不覚にも一本取られた」とか「不覚にも負けてしまった」とか。相手をなめていて、十分な心の準備を怠っていると「不覚にもやられてしまう」のですな。

では、仏教語の「不覚」の意味はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@さとらないこと
A心の本性に対する迷妄、迷い。真如の法が本来、平等一味・無差別であることをそのままに覚知することができない迷妄。・・・中略・・・。本覚に対していう。
B道理のわからないこと。
C前後不覚。無意識の状態。覚悟がしっかりしていないこと。
とあります。
@は、そのまんまですね。不覚ですから、そのまま「覚らない」という意味になりますな。これは、当たり前の話です。Bも同じ意味ですね。道理が分からない=理解できない=覚れない・・・ということですからね。@とBは、ほぼ同じ意味ですな。
Cは、現代で使われている「不覚」と同じでしょう。Cが元になったわけですな。「不覚にも」=「無意識のうちに」ということですね。また、「不覚にも一本取られた」は、「覚悟ができていなかった、準備ができていなかった」ということに通じます。
さて、問題はAですな。

Aは、まあ、あからさまに言ってしまえば、「覚らない」ことと同じです。それをもう少し詳しく説明してるのですよ。つまり、「人は本来、覚れるはずなのに覚らない」ということなのですな。
「本覚」とは、「人間は生まれついたまま、覚っている」ことであり、「本来、人間に備わっている覚り」のことです。これは「仏の本来の覚り」と同じです。つまり、「人はもともと覚りを得ている、覚りをもっている」ということですな。しかし、人はちーっとも覚れません。覚りにほど遠いところにいますな。それはなぜか?。それは、迷妄があるからですな。だから、覚れない。「不覚」になるのです。これがAの意味ですね。

人は、本当は覚りを得ているのですが、様々な欲望や汚れで見えなくなっているのです。その欲望や汚れを落としていけば、覚っている自分に気付くのですな。そのもともとある覚りのことを「本覚」といい、迷いや欲望、汚れで覚りが見えなくなっている状態を「不覚」というのですな。
たとえば、新品の電球を想像してみてください。新品のうちは光り輝いていますな。ところが、使っているうちにホコリにまみれ、汚れていきますな。すると、光も暗くなってしまいます。そのまま汚れたままにしておけば、光は暗くなる一方でしょう。しかし、その汚れた電球も一生懸命に掃除をして磨けば、また新品同様の光を得られることでしょう。人間の覚りも、これと同じなのですよ。生まれたての時は、汚れなんてないから覚った状態と変わらないのに、成長するにつれ、欲望を覚え、迷い悩み、苦しみ、憎んだり恨んだり羨んだりして、心がどんどん汚れていくのですな。赤ちゃんの時の純真無垢な心は、どこかへ行ってしまうのです。
いや、どこかに行ってしまったわけではないのですよ。迷いだの苦しみだの欲望だの、恨みや羨み、憎しみ、悲しみ、辛さなどという汚れに埋もれてしまっているだけなのですな。「不覚」の状態ですね。
その心の汚れを掘り進んでいけば、純真無垢なきれいな心が現れるのです。これが「本覚」を見つけた時、ですな。

覚りは、外にあるのではありません。外に見つけようとしても見つかりませんな。覚りは、自分の中にあるのです。自分の中から探さないと、覚りには至れませんな。しかも、誰もが生まれつき持っているはずなのです。だから、一生懸命に自分の中を探していけば、きっと見つかるはずんですよね。つまり、誰でも本当は覚ことができるのです。
ただ、探すのが大変で、困難なのです。探しているうちに、「僕と一緒に踊りませんか?」などと井上陽水さんが、歌って誘ってくるのですよ(若い方は知らないですよねぇ、きっと・・・)。で、いろいろな楽しいこと、快楽にかまけて探すのをやめてしまうのですな。
で、ある時、ふと気づくんです。「あ、こんなことをしている場合じゃない。覚りを探さなきゃ」とね。でも、その時には、もう疲れ果ててしまっているのですな。結局、まあいいか・・・とあきらめてしまうのです。
でもね、あきらめてはいけませんね。人は死ぬまで生きていますから、その間に「本覚」を探して欲しいですな。で、ぜひ、それを見つけて欲しいですね。案外、死に近づいたときに、いろいろな汚れが落ちて「本覚」が見つかるかも知れません。まあ、できれば、もっと早くに見つけたいですけどね。

人は、何事もスタート時は「美しく、清浄」なものなのですよ。初心は、みんなきれいでやる気満々なのですな。しかし、世の中の様々な困難や怨念や毒気や憎しみなどにさらされて、初心の「美しさ、清浄さ」を失くしていってしまうのですな。それは「本覚」を忘れ「不覚」になるのと同じですな。そして、それは世の中の「汚れ・欲望」に負けたことになるのです。
願わくば、最後まであきらめないで、少しずつでもいいから「汚れ・欲望」を洗い落とし、周囲の汚れ・欲望・憎しみ・困難・怨念などに負けないで、初心を貫いてほしいですな。それは、「不覚」から脱出し、「本覚」へ向かうことになるのですよ。それが、本当の修行ですな。

みんな誰もが「本覚」なのです。本来、覚りを持っているのです。それに目覚めることが大切なのでしょうね。
合掌。


162.本性
本性という言葉は、あまりいい意味で使われることではありません。たとえば、
「ついに本性を現したな」
「お前の本性を見た気がする」
などというように、普段隠している「悪意」のようなものを知った時などに「本性」という言葉は登場しますよね。しかし、この「本性」という言葉、本来はそんなに悪い意味で使われるような言葉ではなかったのですよ。元は、仏教語ですしね。今回は、そのあたりのことを探っていきたいと思います。

まずは、現在使われている「本性」の意味を押さえておきましょう。国語辞典(三省堂 新明解)によりますと
@ふだんは隠れていて見えない、生まれつきの性質。
Aはっきりした意識の状態。正気。
とあります。よく使うのは@のほうですね。Aの方は、正気を使う方が多いでしょう。そう、「本性」は、普段は表に出ていないのです。で、そういう普段は表に出ていない性質は、たいていは「悪い部分」が多いでしょう。意地悪だとか、嫌みだとか、見下す態度とか・・・・。そこには「悪意」が混ざっておりますな。
そりゃそうですね。悪い心というものは、普段は見せないものです。誰にも知られないように、こっそりと出すものですな。たまたまそれが見られたり、知られたりすると、
「あいつの本性を見てしまった」
などと言われるのですな。これが現代で使われる「本性」ですね。

では、仏教語の「本性」はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@常住不変な絶対の真実性。生まれついたままのもの。本来固有の性。本来の姿。本体。
A(省略)根源的根本原質。
B(省略)万有の本性をいう。
Cうまれつき。
とあります。省略したのは、とある哲学派の名前です。その哲学派について説明するのが面倒なので(関係もないですし)、省略しました。
仏教語では、現代の「本性」よりも、ちょっと意味が深い感じがします。単なる生まれ持った性質ではなく、本来的な不変であり絶対的である真実がそこに含まれています。これが@の意味ですな。Aも同じですね。根源的かつ根本の性質です。Bは、すべての存在の本性のこと、という意味ですな。Cは、単純に「うまれつき」という意味ですね。そのままです。

さて、人間の性質というか、性格というか・・・心と言ったほうがいいでしょうか、あるいは意識とでも言いましょうか・・・それは普段は表面上の部分が出ているにすぎません。心あるいは意識、性質・・・でも何でもいいでしょう、言い方はどれでもいいのですが、まあ、心に統一しておきましょうか・・・は、深い深いものなのです。たとえば、バームクーヘンや玉ねぎを想像してください。バームクーヘンや玉ねぎは、幾層にもなっていますよね。人間の心もそれと同じですな。幾層にもなっているのです。
普段は、一番上の表面の心しか外に出ていません。たまに、一皮めくった心が出てくることがあります。それが、普段見せない姿・・・ですね。普段はしないような親切をしたとか、普段はしないような意地悪をしたとか・・・。自分では気が付いているけど、普段は見せないようにしている姿、心、心情・・・それは善意であったり悪意であったりする・・・は、心の表面を一皮めくったところにありますな。それを見せた時、
「本性を見た」
と言われるのですね。現代で使う本性は、このあたりのことですな。

もう少しめくってみると、自分では気が付いていないけど、他人から指摘される自分というものが潜んでいますな。自分では気が付いていないけど、他人から指摘されることは、ままありますよね。
「あなたって、こういうところあるよね」
と言わると、たいていは否定しますな。なんせ、自分では気が付いていませんから、周りの人から指摘をされると戸惑いますし、そういう指摘にはたいていは「悪意」がくっついていますからね、否定したくなります。自分では気が付いていない、自分の嫌な部分・・・。それは、自分の心を何枚かめくったところに潜んでいるのですな。しかし、それも自分の心ではあるのですから、指摘をされたなら否定せずに受け入れてみて、自分の心を自分でめくってみて知ることも大切ですね。

さて、玉ねぎをめくるように、自分の心をどんどんめくっていきましょう。自分では気が付いていないけど、ちょいちょい顔を出すのは、無意識にやってしまうことに多いでしょう。意識しないで出てくる自分ですな。これは、自分では気が付かないけど周囲は気が付くという性質ですな。
その無意識をもう一つめくってみると、潜在意識が現れますな。無意識のさらに奥、ですな。これも普段は自分で気が付いていません。しかし、潜在意識は周囲の人も気が付きませんな。たとえば、自分も周りの人も誰も自分自身にストレスがあるなどと感じていなかったけど、ストレス性の病気になってしまった、ということはよくありますよね。自分でも気づいていない、周囲も気づいていない・・・。でも、自分の心や体は気付いていた・・・。それが潜在意識ですな。この潜在意識は、自分でも他人でも気が付かないうちに、その人を操っている意識です。それは、誰の心にも潜んでいるものですな。

さて、どんどん心をめくっていきましょう。潜在意識のさらに奥は、なかなか踏み込めない領域です。どうやってその領域に踏む混んでいくのか・・・。それは瞑想や座禅しかありません。瞑想や座禅をしていると、ふと違う心を垣間見る時があります。そう「違う心」としか表現のしようのない「心」を知るのですな。それは潜在意識の奥に潜んでいるのです。
その「違う心」をさらに進んでいきましょう。そうすると、ふと何もない領域に入ると思います。そろそろ玉ねぎの芯に近付きました。そう、仏教語の「本性」に近付いてきたのです。
その「何もない」領域をさらに進むと、「あ、そうだったのか・・・」という領域に達するのです。それが「覚り」ですな。そして、それは人間の根源的な根本の本性でもあるのです。そのことを「本覚」とも言いますな。

仏教語でいう「本性」は、人間の根源的であり、根本の心です。それは覚りですな。前回にも言いましたが、それは「本覚」ということなのです。つまり、人間は本来覚っているわけですな。その本来覚っているということが、人間の本性なのですよ。そして、それは覚りなので、常住であり、不変であり、真理であるのです。人間の心の芯は、覚りなのですよ。

あなたの心をどんどんめくってみてください。玉ねぎをむくように・・・。自分では気付いているけど、認めたくない自分に出会ったら、素直にそれを認めてください。それを認めることによって、さらに奥の自分に気付くことでしょう。そこには、とても澄んだ心の自分がいるかもしれません。本当は、弱い弱い自分がいるかもしれません。ストレスなんて全くないと強がっている自分がいるかもしれません。それを全部、認めてください。みんな自分なのだと・・・。
弱い自分、イヤナ自分、強がっている自分、意外と親切な自分、意地悪な自分、真面目な自分、堅苦しい自分、奔放になりたい自分、大胆な自分、すさんだ自分・・・・。
いろいろな自分があることでしょう。それを深く深く見つめ、認めてください。受け入れて下さい。そうすると、ちょっとだけ本性(本覚)に近付くことができます。
なぜならば、覚りとは
「如実知自心・・・実のごとく自分の心を知る」
ことですから。自分のすべてを知ったなら、それは自分の本性にたどり着いたことになるのですよ。他人から
「お前の本性を見た」
といわれるような本性は、まだまだ本性ではありません。ですから、もしそういわれたら
「私の本性はそんなものではない。わはははは」
と答えましょう。で、深く深く自分を掘り下げていってくださいね。本当の本性にたどり着くまで。
合掌。


163.本質
物事の本質を見極めるのは難しいことです。本質を見極めずに、安易に手を出すと痛い目に遭いますよね。ましてや人間の、その人の本質を見抜くのは、困難を極めますな。人の本質は本当にわかりにくいものです。相手の本質が分かれば、人間関係ももう少しうまくいくのではないかと思うのですが・・・。
この本質ですが、仏教では「ほんぜつ」と読みます。一般的に使われる本質と、仏教語の「本質(ほんぜつ)」では、ちょっと異なるのですが、その奥を探っていくと・・・。今回は、一般の「本質」と仏教語の「本質」について語っていきます。

まずは、一般的に使われる「本質」の意味を確認しておきましょう。国語辞典(三省堂 新明解)によりますと、
そのものの特徴となっていて、それ抜きには、その存在は考えられない、大事な性質・要素。
となっています。まあ、その通りですよね。本質とは、大事な性質であり、要素ですな。
では、仏教語の「本質(ほんぜつ)」は、どうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
影像(ようぞう)の対。
@事物それ自体。鏡に物を映すもとの実体。
A唯識説において、心・心所が心のうちにもろもろの対象を変現する影像(相分)のよりどころとなるものをいう。
とあります。@はたぶんわかると思いますが、Aはよくわからないですよね。

まずは、「影像(ようぞう)の対」に関してです。影像とは、簡単に言えば、映した姿のことです。例えば仏像ですね。これは影像です。本体ではありませんから。本体は見えませんね。本当の仏様の姿は、見ることはできないのです。そこで、古来から伝わる説にのっとって、仏様の姿を絵画や像で表すのですな。それが影像です。各宗派の祖師の姿などは、「御影(みえい)」とも言いますな。
つまり、仏教でいう「本質」とは、本体を映した姿と対をなすもの、映した姿の本体、のこととなるのですな。これを仏像等から解釈を広げますと、@になるのですね。一切のすべての事物の本体、ということです。鏡に映った姿ではなく、本体そのもの、ということですね。これは、現代語の「本質」の意味と同じですね。
問題はAでして・・・。唯識は心を仏教の教えに基づいて分析した学問です。唯識学とか唯識説とか言いますな。フロイトが心理学を確立するはるか以前に、仏教では心理学を構築していたのですよ。それも、フロイトなんぞよりも、はるかに細かく分析していたのですな。仏教は、最も古い心理学でもあり、精神学でもありますからね。
さて、その唯識説によりますと、「本質」とは、心にいろいろ思い浮かべたり、思ったりする・・・つまりは心の働きすべて・・・事の元となった事象、ということです。えっ?、よくわからないですか?

人間は、いろいろ考えたり、思ったり、感動したり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりしますよね。その中でも、考える以外のことは、普通の人は「脳ではなく心で」と感じるのではないでしょうか?。考える・・・というと、頭を使っていると誰もがそう思うと思います。しかし、感情的な事柄・・・泣いたり、笑ったり、悩んだり、哀しんだり、怒ったり・・・は、頭ではなく、心で感じること、と理解すると思うのですよ。つまり、感情的なことは「心の働き」と人間は捉えるわけですね。本当は、頭の中、脳の働きなんですけどね。でも、人は、感情的なことは心の働きと感じるのです。
感情が働くとき、その元となったことが必ずありますよね。映画を見て笑ったとか、本を読んで感動したとか、恋愛に敗れて悩んでしまったとか哀しんだとか・・・感情の働きの原因が必ずあります。原因なくして結果はありませんからね。
心の働きは本質ではありませんよね。それは働きです。心が何かに触発されて働いたわけです。心が働いた働いた原因があるのです。その原因となった元の事象自体が「本質」となるのですな。
これがAの意味ですね。しかし、さらに奥があります。

なぜ、心が働くのか?。そう考えたのですよ、昔の仏教学者は。で、奥深く探っていったのですな。すると、心には、深層心理なる無意識の心の働きがあることに気付いたわけです。それも浅い深層心理から深い深層心理があることにも気付いたのですな。そこで、さらに考えたわけです。
「心の本体はどこにあるのか」
と。
心は、世間のいろいろなものに反応し、それを心に映して、感動したり、思ったり、考えたり、喜怒哀楽したりするわけですね。だから、心は映した側なので、それは本質ではないわけです。心は、世間の事象の鏡、というわけですよね。なので、心の働きの「本質」は、事象側にある、という結論に至ったわけです。
でも、鏡は働きはしません。映すだけです。しかし、心は働きます。となると、心は単なる鏡ではない、となりますよね。心に映した事象自体は、本質です。しかし、働いた心の本質はいったいどこにあるのか・・・?。

唯識の仏教学者・・・当時の僧侶ですけどね・・・は、考えました。心の本質はどこにあるのか、と。
そして、一つの結論に至るのです。それは、
「無意識のうちに心は働く。つまり、心の本質は無意識にある」
でした。
心はいろいろな事象を映します。その時点では、鏡と同じですね。しかし、心は、映した事象に反応して働き始めます。それは、意識して働き始めるわけではありません。人は、「感動してやろう」と思って感動するわけではないですよね。笑ってやろう、悩んでやろう、と意識して悩んだり笑ったりするわけではありません。意識せずに、感動したり笑ったり悩んだりするのです。そう、意識せずに・・・。
意識せずに・・・ということは、無意識に、ということになります。人は無意識のうちに感動したり、笑ったり、悩んだりするわけです。
心の働きを起こすその本質は、心の働きの原因ですから、その原因には、世間のいろいろな事象のほかに、「無意識」があるのです。
心は、世間のいろいろな事象や現象を映します。すると、心は無意識のうちにその事象や現象に反応し、働き始めます。つまり、心が働き始めるその原因は、世間のいろいろな事象や現象であると同時に、心の無意識も原因となっている、ということですね。
すなわち、心の働きの本質は、世間のいろいろな事象や現象であると同時に、心の奥の無意識も原因であるのです。

仏教でいう深層心理の代表に「阿頼耶識(あらやしき)」というものがあります。さらに奥の無意識もあと二つあるのですが、それは一般の人が気が付かない領域です。つまり、覚らないと分からない領域ですね。一般の人は、阿頼耶識が最奥の深層心理です。そう思っていただいていいでしょう。つまり、
人間の最奥の無意識=阿頼耶識
ということですね。すなわち、人間の心の本質は、阿頼耶識となるのですな。これが、唯識学の結論です。

物事の本質は、そのもの自体にあります。起きてしまった現象、事象の本質は、その起きた現象・事象の原因にあるのでしょう。何が原因でそうなったか、を深く考察していけば、その現象や事象の本質に行き当たります。
人間の場合は、心にあります。なぜそう思ったのか、なぜ感動したのか、なぜ怒ったのか、なぜ嫌な気分になったのか・・・その「なぜ」という原因を探っていけば本質に行き当たります。
しかし、その原因には、外からのものと内からのものがあるのです。外的要因と、その外的要因に対してどう感じたか、という内的要因ですね。その二つを掴まないと、本質は見抜けませんな。

嫌な思いをした、苦しんだ、悩んだなど、いろいろなイヤなことはあると思います。その原因は、多くの人は外に求めることでしょう。虐められた、意地悪された、脅された、ふられた・・・だから、あいつらが悪い、と。
それは確かにそうです。嫌な思いの本質は、嫌な思いをさせた物事や人にあるでしょう。しかし、自分の心の働きの中にも原因があるのです。いじめに対してどう思ったか、どう対処したか。意地悪に対してどう思ったか、どう考えどう対処したか・・・。難しいことかもしれませんが、内なる要因もあることは事実です。
人間は生きていくうえでいろいろな感情を持ちます。嫌な思いもするでしょう。辛い思いもするでしょう。悲しい想いもするでしょう。その思いの本質は、外からの事象や現象、出来事にあります。しかし、心の中の本質にも目を向けてほしいですね。案外、とらえ方ひとつで、イヤなことも、辛いことも、悲しいことも、流すことができるかもしれません。
物事の本質を見極めるときには、心の本質ものぞいてみてほしいですね。
合掌。


164.過度
同じ言葉でも、現代使われている言葉と仏教での言葉では、全く違う意味の言葉があります。元は仏教・・・お経に載っている言葉・・・から来ているのかどうかはわかりませんが、全く同じ文字を書くのに、意味が全然違うんですよね。そういう仏教語・現代語が存在しております。今回は、その一つである「過度」についてお話いたします。

現在使われている「過度」といえば、「行き過ぎ」という意味でしょう。一応、念のために国語辞典(三省堂 新明解)で調べてみますと、
望ましい程度を超すこと
とあります。まあ、そのままですな。やり過ぎ、行き過ぎ、飲み過ぎ、〇〇し過ぎ・・・というときに、使う言葉ですな。どちらかというと、注意するような場合に用います。「過度の飲酒はいかんですよ」、「過度の叱責はダメです」とかね。まあ、やり過ぎっていうのは、何にしてもよくないですな。加減が重要です。

では、仏教語の「過度」はどうでしょうか。読みも現代と全く同じです。たまに仏教語と現代語で、表記は同じだけど読みが違う、ということがありますが、「過度」は表記も読みも同じですな。違うのは意味だけです。では、その意味をお馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
@水流を渡ること
Aわたる。救う。わたりこえる。のりわたること。苦しみをのりこえること。
これが、仏教語の「過度」の意味です。どうですか?、今の「過度」と全く意味が異なっているでしょ。どこでどうなって、まったく意味が異なってしまったのか、はたまた初めから関連性などなかったのか・・・。そこのところは、よくわかりません。とりあえず、仏教語の「過度」についてもう少し解説をしましょう。

仏教語の「過度」は、もともとは「わたる」だったようです。インドは、結構川が多い国ですな。大きな河もあれば、小さな川もあります。お釈迦様も、よく川を渡っておりますな。神通力でガンジス河を飛び越えた・・・なんていう嘘くさい話も初期の経典には載っております。
河(川)を渡る・・・という行為は、しばしば、迷いの世界から覚りの世界へ至ることの例えに用いられますな。彼岸と此岸ですね。彼岸が「悟りの世界」、此岸が「迷いの世界」です。その間には、大きな河が流れております。その河は時折、氾濫しますな。流れが急になったりもします。その河を渡らなければ、覚りの世界・・・彼岸にはいけませんな。河を渡るには、橋か船なんですが、細くてやわな橋では、途中で折れてしまうかも知れませんな。橋ならば、幅が広く頑丈な橋がいいでしょう。船で渡る場合は、やはり小さな船では転覆してしまうかもしれません。ましてや泥の船ではダメですな。できれば、大きな頑丈な船がいいでしょう。
此岸から彼岸に至るために、激しい流れの河を渡る・・・河は激しい煩悩のことですね。欲望の流れです。その欲望の河を渡る橋や船とは、教えのことですね。仏法のことです。細いやわな橋や小さな船は、初期仏教経典のような出家主義的な教え(小乗仏教)のことです。幅が広くて頑丈な大きな橋や大きな頑丈な船は、大乗仏教の教えですね。すなわち、大乗仏教の教えによってこそ、煩悩の河を渡ることができ、彼岸に至れるのですな。そういう表現が、仏教にはあるのです。そこから、Aの意味が生まれてくるのです。

Aは、救う、ということを意味しております。あるいは、苦しみを乗り越える、ということですね。それはすなわち、彼岸に至る、ということですな。つまり、「過度」とは、彼岸に至ること、救われること、覚りに至ること、を意味しているのです。なので、例えば「過度生死」というような使われ方をします。意味は、「生死を乗り越える」ということですが、生死を乗り越えるということは、つまり「輪廻から解脱する」という意味ですな。ということは、「覚る、彼岸に至る」ということになります。つまり、仏教語の「過度」とは、苦の世界を乗り越える・・・彼岸に至る・・・ということなのです。こちらが大事な意味ですな。

今では「過度」になれば、怒られたり叱責されたり恥をかいたりしますな。しかし、仏教語での過度ならば、全く怒られませんし、恥もかきません。むしろ、褒めたたえられますな。どうせやり過ぎるなら、修行をやり過ぎたほうがいいですね。
近頃、世間を見ておりますと、どうもやり過ぎの方が多いように思えますな。ついついやり過ぎて生徒を殴ってしまう先生とか、選手に暴力をふるってしまうコーチとか、預かった子供たちを殴ってしまう胡散臭い坊さんとか、未成年にワイセツな行為をしてしまうオッサンとか・・・。基地の建設反対はいいですが、過度の反対行為はいけませんな。やり過ぎは、みっともないですね。
そういえば、野党の党首でやたら吠えている女性の方がいますが、過度に吠えると周囲はかえってドン引きしますな。あまり、何でもかんでもギャーギャー反対を叫び過ぎないほうがいいでよね。加減が大事ですな。いずれにしても、やり過ぎはいけません。過度は慎まないとだめですよね。しかし、人間の欲望は、ついついエスカレートして、やり過ぎてしまうようですな。いつの間にか、欲望を抑えきれずやり過ぎてしまうのでしょう。いやはや危険ですな。十分に気を付けないといけません。自覚を持たないといけませんな。

どうせやり過ぎの過度になるなら、彼岸に至る過度にしてほしいですな。こちらは、やり過ぎなんてことはありませんからね。大いに、あちらの世界・・・覚りの世界・彼岸・・・に渡って欲しいものです。俗世でいえば、大いに国民のために・・・自分たちの名誉や欲望のためでなく・・・やり過ぎるくらいに活躍してほしいですな。どうか安楽、安定、安心の世の中にして、人々を苦しみから救ってほしいですな。
そう、今年こそは、何事も「過度」(やり過ぎ)にならないよう、「過度」(救い)を大いにしたいですな。
合掌。


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