えっ?!

こんなところに仏教語!

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165.不安定
世の中、トランプ大統領の話題でもちきりですね。TVでトランプ大統領を見ない日はありませんな。まあ、何といってもアメリカの大統領ですからね、その影響力は大きいですな。しかも、政治経験のない大統領です。前代未聞の経済人の大統領です。アメリカ国民ならずとも、世界中が不安の中にいることでしょう。だから、あちこちで大騒ぎとなっているのですね。多くの政治家や経済人、ジャーナリストなどが、世界はもっと不安定になってしまうのではないか・・・と心配しているのですな。そうなれば、人々の心も不安定になりやすいです。すると、さらに世の中が不安定に・・・という悪循環に陥りやすいですな。ホント、不安定な世の中にはなって欲しくないですな。
ところで、この不安定、仏教では「ふあんじょう」と読みますな。一般の言葉と読み方が違っております。意味はというと・・・今回は、この不安定について語りましょう。

まずは、国語辞典(三省堂 新明解)で現代の「不安定」の意味を押さえておきましょう。
不安定―物事が安定し(落ち着か)なくて危なっかしい様子。
まあ、そうですな。不安定は、危なっかしい状態でしょう。
では、仏教語の不安定(ふあんじょう)はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
不安定―心が不安で動揺していること。

仏教語の不安定は、心のことに限っての言葉です。心が不安な状態を言いますな。そもそも「不安」自体が、心の問題を表した言葉ですよね。それは、現代の不安も仏教語の不安も同じです。
ただし、仏教語の不安の場合、心の問題だけでなく、身体の不調も「不安」と言っていたようです。つまり、心身共に調子が悪い状態、心か身体かどちらかの調子が悪い時、「不安」といったのですな。これが現代語になると、心の状態がよくない場合のみを「不安」というようになりました。身体の方はどこかに置き忘れられてしまったようです。
ところが、「不安定」になると、仏教語は心の状態を表す言葉なのですが、現代語はバランスが悪いことを表す意味が増えていますな。「心が不安定な状態、精神が不安定」とも言いますから、心のバランスが悪い状態を表現する使い方は残っていますな。
ちなにみに、仏教語には「安定」という言葉はありません。安定の代わりというか、安定を表す言葉としては、「安諦(あんたい)」という言葉があります。これは、現代語の「安泰」とは意味が異なりますな。
「安諦」は、心が落ち着いて安らかなことを意味しております。「安泰」は、国家や君主の身が危機を乗り越えて、無事であること(新明解より)を意味しております。読みは同じでも漢字と意味が異なりますな。

今年はどうも雲行きが怪しいようでして・・・。なんだか、不安を抱える方が多いようですな。その中心が、あのトランプ大統領ですな。トランプさんのツイート一つで大騒ぎですな。大人が、それも大物の人たちが、右往左往しております。各国の首脳の皆さんも不安でしょうな。あまり不安がると、その国の人々も不安になります。人々が不安になれば、まあ、財布のヒモは固くなりますな。不安な時は、お金が頼りになりますからね。そうなると、経済は動きません。トランプさんの思惑も外れてしまいます。自分の国だけで経済が動いているわけではないですからね。世界の人々の購買意欲で世界の経済は動いているのです。自分の国を安定させたいのなら、世界の人々が購買意欲を持つような言葉を発し、行動をしなきゃいけないんですけどね。今のままだと、不安定になるように仕向けている、としか思えませんな。

今年は、どうも不安定な気がします。世の中がアンバランスになり、迷いの中に入りそうな気がするんですよね。世の中が不安定になっても、自分の意志や気持ち、心が不安定にならないようにしたいですな。つまり、世の中が不安定でも、不安定(ふあんじょう)にならないように心がけたいですね。
合掌。



166.是非
まだ年あけて2か月なのに、今年は早くからいろいろなことが起きております。まあ、去年から引き継いでいることも多々ありますけどね。是非とも早く解決してほしいですな。また、是非を問うことは、ちゃんと話しあって、人々にわかるようにしてほしいですね。
ということで、いろいろな場面で使う「是非」という言葉。これについて今回は語っていこうと思います。実は、「是非」はもともとは仏教の言葉なんですね。まあ、特に禅でよく使われたようですな。では、是非について、お話いたしましょう。

一般的には、初めに書いたように「是非、・・・してほしいです」とか「是非、お願いいたします」などという使い方をしますよね。「どうか、お願いいたします」のような使い方です。この場合は、「是非」=「どうか」になっておりますな。また、別の使い方としては、「是非を問う」というように、「いいか悪いかを問う」という使い方をします。この場合は、「是非」=「よいか悪いか、善悪」ということになります。
一般的な国語辞典によりますと「是非」は、このようになっています。
@いいか悪いか(について、あれこれ論じること)
Aだれが、どのように論じようと、自分としては その事の事実を希望することを表す。
(新明解 国語辞典より)
「是非を問う」という場合は、@の意味ですね。「是非お願いします」という場合は、Aになります。これが、現代の「是非」の使い方ですな。
では、仏教語の「是非」の意味はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典で見てみましょう。
@対立する二つのものの一方に執着すること。
A善いと悪いとの区別。正しいか、まちがっているかということ。
Bいさかい。
となっております。若干、異なっていますね。Aが「是非を問う」という場合の意味になりますが、@Bは、ちょっと異なっていますな。

仏教語の「是非」は、主に@での使用が多かったようですな。特に初期の頃ですが。例えば、何か対立している論者がいたとします。その片方に肩入れしたり、片方に味方したりして、公平にその論者たちの意見を聞かない場合、それは「是非」になります。「平等、公平、中立」ではない、という意味ですね。
こんな例があります。お釈迦様時代の修行者は、皆托鉢で食事を得ていましたが、基本的に托鉢する家は平等に回ることになっていました。ところが、マハーカーシャパは、特に貧しい家を選んで托鉢していました。それは、貧しい家に生まれたのは、前世において布施をしなかったから、来世は貧しい家に生まれないように布施をさせるようにしていたためです。来世に裕福な家に生まれることができるよう、今世において布施という徳積みをさせようとしたわけです。しかし、これは平等・公平・中立という立場とは違いますね。貧しい家・裕福な家があるならば、その両方から平等に托鉢すべきなのです。しかし、マハーカーシャパは、貧しい家にのみ、執着していました。つまり、これが「是非」になるのです。

片方の意見、片方の見解、片方の行動のみに肩入れしたり、味方したり、執着したりするのはどうなのか?、ということになります。それは、仏教の精神からしたらよくないことではないか?、ということです。片方に執着し平等に扱わない、公平に考えない、中立な立場を維持しない・・・これは、仏教の教えではないですな。
つまり、片方に執着する・肩入れする・味方するという「是非」という行為は、善であるか悪であるか、という問題になったのですな。そこから「是非の善悪を問う」となったのでしょう。そのうちに、善悪が抜け落ちて「是非を問う」となったのでしょう。こうしたところから、Aの意味が生まれたのだと私は推測します。

そもそも、「是」は肯定です。「非」は否定ですな。「是」と言えば、「受け入れた」ことですし、「非」といえば「拒否したこと」になりますね。「是」は「YES」で「非」は「NO」ですな。YESなのかNOなのか、というのが「是非」でもあります。相反する言葉がくっついてできた言葉ですな。なので、そこからBの意味も生まれてくるのでしょう。「是」と「非」は、相反する言葉ですので、争っている姿でもあるわけです。つまり、「いさかい」ですな。もっとも、「いさかい」として使うことはたいへん少ないと思いますけどね。多くは、Aの意味で使ったようですな。たとえば、
「そのこと、是非いかん(そのことの善悪はどうなのか?)」、「汝の是非を問う(あなたの善悪を問う)」
といったようにね。
まあ、これが仏教語としての主な使用例ですな。

では、どこから「是非お願いします」というに、「どうか・・・してください」というような使用が生まれたのでしょうか?。おそらくは、
「善いも悪いもなく、お願い致しますよ」
のような使い方から生まれたのでしょうね。つまり、
「あなたの都合や状況もわかりますが、そうした都合のいい悪いもなく、どうか・・・してください。お願いいたしますよ」
「あなたの思いもあることでしょう。ですが、その是も非もなく、そこのところ、何とかお願いいたします」
という言い方から「是非にお願いいたします」という言い方が生まれたのでしょうな。つまり、仏教語のAの意味から「是非、お願いいたします」という言い方が誕生したのでしょう。「善いも悪いもなく」、「正しい間違っているは、この際問わないで」、という意味での「是非」ですな。
ですから「是非、・・・・お願いいたします」といった場合は、本来その言葉の裏には
「あなたの都合なんてどうでもいい、それが善であろうが悪であろうがどうでもいい、とにかく協力してくれ」
という、強い主張があるのです。そう思うと、気軽に「是非」とは言えなくなるし、「是非に」とお願いされたら、ちょっと恐いですな。

本来、「是非、お願いいたします」という言葉には、強い思いが入っていたわけです。「是もなく非もなく」ということですからね。いつの間にか、「善悪を問う」言葉だった「是非」が、「善も悪も無く」という意味になってしまっているのです。言葉って怖いですね。一応、「是非を問う」という場合には、本来の意味の「善悪」とか「正しいか間違っているか」という意味は残っております。しかし、「是非お願い」となると、全く逆の意味になってしまうところが、言葉の不思議なところなんですな。

いやいや、このことを知ったら、次から「是非お願いします」と言われたら、ちょっと引いてしまいますな。
「こっちの都合は考えないんだな、こっちの都合はどうでもいいんだな」
と勘ぐってしまいますな。いや〜、ますます嫌な人間になりそうですな。きっと、自分が「是非お願いしますよ」というときは、自分の都合だけで物事を頼んでいるのだな、ということになりますよね。
そういえば、振り返ってみれば「ぜひ、お願いいたします」と言ったときは、自分の都合優先でしたねぇ。法会のご案内でも
「万障お繰り合わせのうえ、是非、御参拝ください」
という文は、考えてみれば随分勝手な文章ですよね。知らないうちに、私たちは、図々しいことを言っているのですな。
時々、自分の発する言葉を気を付けてみないといけませんな。言ってよかったのか悪かったのか、言い方は間違っていなかったか、正しい意見だったか・・・・。
自分が発する言葉の是非を問うべきですね。
合掌。


167.居士    
最近では、亡くなった方に戒名をつけないことが増えて来たとか・・・。まあ、一部のお寺さんで、高額の戒名料をふんだくる(失礼)ことがあるそうで、そうなると遺族の方も「戒名にねぇ、そんなお金を・・・」となり、「戒名なしで・・・」ということにもなるわけですな。まあ、高額な戒名料を取るお寺さんは、自業自得ですな。しかし、それが良心的なお寺さんにも影響するから困ったものです。「居士とか大姉はつけないでくださいね。高いんでしょ」なんてね。檀家寺のご住職の皆さんも、考えなきゃいけない時が来ましたよね。
ところで、この「居士」、皆さんは戒名に付けるもの、と思っていらっしゃることでしょう。でも、本来は違うんですよ。今回は、その違いについてお話いたしましょう。

まずは、現代の「居士」について、おさえておきましょう。一般的な国語辞典(新明解 国語辞典)では
@(俗人で)仏門に入っている男子。
A男子の「法名」の下につける称号。
とあります。また、このほかにも「一言居士」のように「〇〇居士」という使い方もありますな。ちなみに、「一言居士」は、
何にでも自分の意見を一つ言ってみなくては気のすまないたちの人。
のことです(新冥界国語辞典より)。まあ、何でも口をはさんでくる人ですな。ちょっとうっとうしい人のことですね。

では、仏教語の本来の「居士」の意味はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典でみてみましょう。
@家に居する士の意。言語gaha-pati(パーリー語)は直訳すると、「家の主」となる。家に居る(在家の)男子の意。また資産者。インドでは商工業に従事していた富豪をいう。資産者で、当時一つの階級をなしていた。バラモン教の四姓制度にあてはめると、第三の階級としてのヴァイシャに相当するが、仏教が盛んであった時代の諸都市においては、むしろ資産者(居士)である者が一つの有力な階級と考えられていた。財貨を積んで家業に従事し、財産の豊かな者。
Aシナでは学徳が高くて士官していない人、すなわち処士と同義。日本の文筆家にはこれにならって自称する人が少なくない。「向居士」
B在家の男子であって仏教に帰依した者。仏教に帰依した在家の男子。男子の仏教信者。在俗信者(男性)。在家の男子で、仏教を信じて戒を受けた者のこと。
C男子の法名の下につける称。昔は成人で、地位ある者に与えた。
とあります。現代語での「居士」の意味は、仏教語のBCにあたります。「一言居士」は、Aの意味を嫌みで使ったものでしょう。

さて、そもそもは「居士」は、「家の主」のことですね。現代風に言えば、「世帯主」にあたりますな。もし、世帯主が女性であれば「大姉」になるのでしょう。
ですが、仏教で「居士」といえば、仏教教団を支えたお金持ちの人たち・・・資産家・・・のことですね。いわば、仏教教団のスポンサーの人たちのことを「居士」と言ったのです。有名な居士は、「維摩居士」でしょう。維摩居士は、ヴァイシャリーという商業都市において莫大な資産を持っていた仏教信者と言われておりますな。なお、彼は、仏教教団だけではなく、他の宗教に関しても援助をしていたようですし、社会事業に対しても多額の寄付を行っていたそうです。
他に居士と言えば、スダッタ長者があたるでしょう。まあ、スダッタ居士とは言いませんけどね。スダッタ長者も資産家で商業主でした。あの祇園精舎を寄付した在家の信者ですな。

仏教がインドで盛んだったころは、資産家の商業主たちが一つの勢力を持っていたのですよ。今でいう、経団連のようなものですな。もっとも、経団連よりも国に対して強かったし、社会事業や慈善事業にも大きく貢献していましたけどね。日本の資産家勢力は、そのへん今一つですなぁ。もう少し、社会事業や慈善事業に力を入れてもいいと思うんですけどねぇ。ま、余談ですが・・・。
いずれにしても、そのような資産家の人たちのことを「居士」と称したのですな。

その影響が、法名や戒名をつける際に残っております。
一応、仏教信者の方に戒名なり法名なりをつける時は、一般的な信者さん・信徒さんにたいしては「信士・信女」をつけますな。信士は男性で信女は女性ですな。
同じ檀家さんでも、檀家総代を勤めたとか、お寺に多額に寄付をしたとか、お寺の行事に積極的に協力したとかいう檀家さんに対しては「居士・大姉」をつけます。つまり、お寺への貢献度が高い人には「居士・大姉」をつけるのですよ。それは、資産家で仏教教団に協力した人たちを「居士」と称していたインドの習慣の名残なのです。なので、金額の高い戒名・法名には「居士」や「大姉」が付いているのです。まあ、あまり良いとは言えない習慣ですなぁ。

維摩居士なら戒名の金額が高い人に「居士号」をつけるという習慣に何というでしょうなぁ。あぁ、ちなみに維摩居士の場合、確かに資産家で居士なのですが、一言居士の意味も含んでいますな。維摩経が漢訳された時に、中国では「徳が高くて士官していない人」の意味も込めて「維摩居士」と呼んだと思いますな。なにせ、維摩居士、一言居士そのものですからねぇ。もし、機会があったら「維摩経」の現代語訳本を読まれるといいです。お釈迦様の弟子が、しかも高弟と言われている弟子たちが、ことごとく説教されてしまうんですからね。今でいうと、ことごとく論破されるのですよ。これが痛快ですな。

わが国にも維摩居士のような人が欲しいですな。そこら辺のお坊さんなんて到底かないませんな。名僧・高僧の方もどうでしょうか?。今この国に名僧・高僧と言われる方がどれほどいるかは知りませんけどね。まあ、いたとしても、皆さんきっと論破されるでしょうな。いやそれどころか、
「何やってるんだ、この国の僧侶たちは。もっとちゃんと修行せんかい!」
と怒鳴られるか、あるいは呆れられるか、でしょうなぁ。嘆き悲しむかも知れません。
維摩居士のような方がいらしたら、この国の宗教も政治も経済も文化も、すごく向上すること間違いなし、と思いますなぁ。
しかし、そういう自分も維摩居士に言わせれば、
「ふん、駆け出しのひよっこめが、偉そうにのう。修行が足らんぞ」
と言われるのが落ちでしょう。

在家信者の居士と言えども侮るなかれ。案外、身近に維摩居士のような人がいるかもしれませんな。周囲からの忠告には素直に耳を傾けるべきですね。たとえ、大きなお寺の住職であってもね。
合掌。


168.種子
   
もうすっかり春ですねぇ。というか、きっと、いきなり暑くなったりするんでしょうねぇ。ここ数年、季節がちょっとずれているというか、極端に変わり過ぎるというか、不安定な感じがしますな。こう季節が不安定だと、種子をまく時期も難しいでしょうね。先の天候や気温をよく見て種子をまかないと、まいたはいいけど枯らしてしまった、芽が出なかった・・・なんてことにもなりかねませんな。農家の方や、園芸を趣味となさっている方は、気を遣う季節ですねぇ。
ところで、普通は種子は「たね、しゅし」と読みますね。まあ、簡単に「種」と書く場合もあります。ですが、仏教では、「たね」とは読みませんな。宗派にもよりますが、仏教では「しゅじ」と読みます。「しゅし」、「しゅうじ」とも読むようです。まあ、真言宗の僧は「種子」と書けば「しゅじ」と読みますな。読めない僧侶は勉強不足ですな。
今回は、この「種子」についてお話いたします。

一般の種子の意味は省きます。いいですよね、「タネ」のことですからね。まあ、厳密にいえば、種子と種はちょっと違うのかもしれませんが、まあ「タネ」ですよ。植物のタネのことですな。その辺は、こまかいことは言いっこなしということで、ご了承ください。
では、仏教語の「種子」はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと・・・ちょっと長いので、大事なところだけ抜き書きいたします。
南都(法相宗など)では「しゅじ」または「しゅうじ」とよみ、北嶺(天台宗)・曹洞宗などでは「しゅし」とよむ。
今日一般の仏教学者は唯識説のときは「しゅうじ」とよみ、密教の梵字を意味するときには「しゅじ」とよむ。
@たね。穀物の種子。また譬喩的意味にも用いる。
A何ものかを生ずる可能性。
B唯識説において、ダルマを生ずる可能性をいう。草木の種子の別異によって種々なる芽が生ずるように、アーラヤ識は種々なる諸法の因であると考えられる点で、これを種子にたとえていう。現に存在している事物の勢力をとどめ、再び事物が存在することを可能にする原因。唯識思想においては第八識であるアーラヤ識の中に存在する成果の功能(結果を生ずる可能力)。
Cひそんでいる本性。
D余力
E種性のこと
F「しゅじ」とよみ種字とも書く。密教において象徴的意義をもつものとして解せられた一つ一つの文字。仏や菩薩、ないし種々の事がらを標示するサンスクリット文字のことをいう。仏・菩薩の各尊を一字で標示した梵字。サンスクリットの文字の一つ一つに哲学的意味を含ませて、その一つ一つの文字がいずれか一つの仏または菩薩を象徴すると解せられるようになった。たとえば、金剛界の大日如来の種子をヴァン、胎蔵の大日如来の種子をアとする。

長くてすみません。意味がよくわからない内容のものもあると思います。
まずは読み方ですが、宗派によって異なりますな。ですが、「種子」という言葉を使うのは、多くは真言宗でしょう。他派はあまり使わないんじゃないかと思います。真言宗の場合、Fにもあるように、仏様や菩薩、神々をサンスクリット語文字一字を使って表現するからです。御札にもその寺々の本尊様の種子を書きますな。たいてい真言宗の御寺院さんの出す御札には、一番最初に梵字が書かれておりますな。
不動明王の御札ならば、「カーン」もしくは「カーンマン」と読む梵字が書かれております。観音様の御札ならば「サ」の梵字が書かれておりますな。あぁ、千手観音さんだと「キリク」になります。阿弥陀如来さんも「キリク」ですな。お釈迦様なら「バク」、お地蔵さんなら「カ」ですな。虚空蔵菩薩さんは「タラーク」ですね。
このように、仏様・菩薩様・神様にはそれぞれ、イニシャル的に梵字が決まっております。たまに同じ梵字を使う仏様もあります。「ウン字」などは、明王系の仏様や神様に使うことが多いですな。
で、梵字だけで表現した曼荼羅もありますな。これを「種子曼荼羅(しゅじまんだら))と言います。
最も知られている種子は「ア」でしょう。阿字観という瞑想をするときに、阿字を眺めて行いますな。皆さんも聞いたことがあるかと思います。
なぜ、わざわざ種子を決めたかというと、象徴ですな。Fにあるように仏様、菩薩様、神様の象徴・シンボルとして種子を決めたわけです。一文字で、仏様のすべてを表しているわけです。なので、種子である梵字は、単なる文字ではないのですよ。そこには、多くの意味が含まれておりますな。それを読み取るには・・・修行が必要です。

さて、それは密教でのお話。一般的には、仏教では種子といえば、ABの意味になりますな。つまり、人間が持っている何らかの可能性や原因となるもと、のことですな。
Bは、難しい説明が書かれていますが、簡単にいえば、深い潜在意識(アーラヤ識)の中に、悟りを得る元を持っている、その元のことを植物の種にたとえて「種子」という、ということです。また、ほかにも、原因と結果という概念において、原因となるもののことを「種子」と言ったのです。
さらに、種子にいろいろ種類があるように、また出来のいい種と出来の悪い種があるように、人間にもその人に応じて、早く悟れるものや遅く悟る者や、いいところまで行くけど悟れない者や、全く悟りとは縁遠い者があるわけです。また、悪い種をもって生まれた者もいますな。それがBの意味ですな。

そもそもお釈迦様は、「よい種をまきなさい、悪い種をまくな」と説いておりますな。なお、種と書きましたが、これは種子と書いても同じです。意味は、「いいことをして悪いことはするな」という意味ですね。なぜなら、よい種をまけばいい結果が生まれるし、悪い種をまけば悪い結果が生まれるからです。善因善果・悪因悪果ですな。これは仏教の基本ですね。
また、人は生まれつき、様々な種を持っております。いい種もあれば悪い種もありますな。その種は、「性格・性質」と言い換えてもいいですね。つまり、人は生まれつき「いい性格・性質、悪い性格・性質」を持っているわけです。ですから、子供のころからお手伝いをしたがる子もいれば、邪魔をして気を引こうとする子供もいるように、自然にその性格や性質が現れております。親は、その子のよい種・・・よい性質・性格・・・を見極め、伸ばしてあげるといいのです。ですが、悪い環境・・・親がなっていない・・・の家庭に育ってしまうと、生まれつきある悪い種が多く育ってしまいやすくなりますな。親は、気を付けなくていけませんね。
しかし、親のせいばかりとも言えませんな。成長するにつれ、自分自身で生まれつきあるよい種を伸ばし、悪い種は伸ばさないようにしよう、芽が出てしまったものは刈り取るようにしよう、と心がければ、悪の道に入るようなことにはなりませんな。それは、自分で気を付ければいいことでもあります。

善い種をまき、悪い種をまくな・・・。
まさにその通りですね。普段から気をつけねばいけないことです。ちょっとしたことでもいいので、よい種をまき続けたいですな。
さて、みなさんは、どんなよい種をまき続けるのでしょうか?。
合掌。


169.同行

そろそろ梅雨の季節ですね。梅雨を嫌意いという方は多いと思いますが、私はそんなに嫌いじゃありません。まあ、確かに毎日毎日じとじと降る雨は陰鬱な気分にもなりますが、そぼ降る雨に濡れた新緑は、案外美しいものです。増水で危険にならない程度の小雨の森や川、山あいは緑が一層映えていいものなんですけどね。
また、梅雨の合間の晴れ間もきれいですな。写真が趣味の方にとっては、いいシャッターチャンスなのではないでしょうか。ちょっとした休みに、仲間と連れあって緑の中に出かけるのもいいですな。そんな機会があったら、「同行したい」と積極的に申し出てみるのもいいでしょう。梅雨だからといって、引きこもっていてはもったいないですね。まあ、人のことは言えませんが。私は引きこもり系ですので・・・。
さて、「同行」ですが、皆さんは「どうこう」と読むと思います。それが当たり前ですね。ですが、仏教語では「どうぎょう」と読みますな。禅宗では「どうあん」と読むのが本当だそうです。仏教語は読みが難しいところがありますね。今回は、この「同行」についてお話いたします。

まずは、現代語の「同行」について、国語辞典(新明解 国語辞典)で一応意味を押さえておきましょう。
誰かに一緒についていくこと
大変、あっさりしておりますな。単純明快です。まさにその通りですな。「同行します」なんて言いますからね。
では、仏教語の「同行」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@同一時に存在すること
A心を同じくして、ともに仏道を修める者。道を同じくして法を求める友。禅宗では「どうあん」と読む。
B真宗では門徒・信徒をさして同行とよぶ。『歎異抄』で、親鸞は相弟子の人たちを御同朋とよぶ。
C信仰を同じくする者。
とあります。仏教語の「同行」は、あっさりしておりませんな。

A〜Cは、基本的に意味は同じですね。一緒に修行する者、同じ信仰の者、そういう人たちのことを「同行」と呼んだのですな。悟りや救いを求めて、一緒に信仰をする人たちや、一緒に修行する仲間のことですな。頼もしい仲間たちですね。そうした仲間がいるからこそ、修行にも励むことができますし、信仰も深まるのでしょうな。
確かに、私たち真言宗の修行(四度加行)も、一人ではかなりきついですな。集団(15人〜20人程度)で行うから、修行が満了できるのかもしれません。あれを一人でやれと言われると、くじけそうになりますな。たまにですが、集団でも心が折れてしまい、途中でリタイヤする者もいますからね。それほどきつい修行です。確かに、仲間がいるということは心強いですな。同様に、仕事でも学校でも、仲間がいたほうが心強いものです。まあ、友人などいらない本があればいい、という方もいますが、そういう方にとっては「本」が「同行者」なのでしょうな。それはそれで、心強いのでしょう。いずれにせよ、「同行」する者、あるいは物があることは心の支えになりますよね。

さて、@ですが、同一時に存在するというのは、同じ時間に存在している者すべてを意味しております。つまり、全世界の存在そのもののことですな。人間だけじゃなく、山や川の自然も、動物たちも虫も細菌も、そこら辺の石ころも、何でもかんでも同じ時間に存在する者すべてが「同行(どうぎょう)」なのです。すなわち、みな同じ、みんな生きている、ということですな。ここが、仏教の広いところです。仏教では、同じ時間に存在する者、物、すべてを認めているわけですね。みんな「同行者」なのです。みんな「仲間」なのですな。
こうした考えを持てば、差別もなくるだろうし、イジメもなくなりますな。すべての存在を認めているのですから。どんな生き物も存在しているのだ、と認識するのですから。こうした思考は、世界の平和につながりますな。
「世界に平和をもたらす宗教は、仏教以外にない」
と、どなたか知りませんが、偉い方がおっしゃったことがあるそうです。まさにその通りだと思いますな。一切の差別なく、悪を捨て善に生きる・・・。まさに理想的な考えでしょう。一切の存在を認めるのですから、他を侵攻することはありません。戦争なんてありませんな。ケンカもないですな。みんなのんびりと安楽な世界を生きられるのです。それが仏教ですな。ま、現実は厳しいですけどね。

四国八十八か所霊場巡りをする方は、背中に「同行二人」と書かれた白い法被を着られますな。これは「お大師様と一緒に霊場巡りをしている」ということですね。歩いて四国を巡る方は、そりゃもう大変でしょう。途中でくじけそうになるかもしれません。そんな時に
「あぁ、お大師様と一緒に巡っているんだ。すぐそばにお大師様がいて、励ましてくれるんだ」
と思えば、辛い行脚も最後までやり通せることでしょう。なんせ、仲間がお大師様ですからね。こんな心強いことはありませんな。

どうせ仲間をもつなら、同行者を必要とするなら、それは本当に頼りになれる人を選択したほうがいいでしょうな。頼りない同行者や悪に染まった同行者ならば、むしろいらないですよね。足手まといになります。特に悪の同行者ならば、それは切り捨てるべきでしょう。自分も悪に染まらないうちにね。お互いによくなろう、強くなろう、向上しよう、頑張ろう、という同行者でないと、同行する意味がないですな。どこかの国の国会のように、国をよくしようという志は、与党も野党も同じはずなのに(そう信じたいですな)、足の引っ張り合いだけの論戦や重箱の隅をつつくような論戦ばかりを挑む野党なんぞは、同行者としては失格でしょうな。日本をよくしようと思う同行者ならば、もう少し実のある論戦をしていただきたいですな。どうでもいいことをギャーギャー騒ぎ立てるだけなんて、いい大人がみっともないですよねぇ。真の同行者であることを心掛けてほしいですね。
合掌。


170.世間
「はぁ、本当に世間知らずだねぇ」
などと若いころはよく言われたものです。今は、若い人たちに
「世間を知らないねぇ」
という立場ですな。こんなことを言えるようになったのは、年を取った証拠でもあります。とはいえ、実際にどの程度世間を知っているのか・・・と自ら問うてみれば、案外、世間知らずなところもあったりするものでしょう。世間は狭いようで広いですからねぇ。
さて、この世間、仏教語ではちょいと意味が異なりますな。一般の世間よりも意味が多いんです。今回は、この世間について、世間知らずの不束者ですが、お話をいたしましょう。

まずは、一般で使われる世間の意味を押さえておきましょう。国語辞典(新明解国語辞典)には
自分と共に世界を形作る、一般の人びと。
となっておりますな。つまり、世間とは簡単に言えば「自分の周りの人たち」のことなんですよ。それは、ご近所だったり、友人関係だったり、会社の中の人間関係だったり、学校内での人間関係だったりするわけですな。いずれにせよ、自分と関わっている周囲の人たち及び関わっていないけど共に生きている人たち、のことが世間の本当の意味ですな。
ちょいとお待ちくださいな。というと、世間知らずっていうのは、自分の周りの人間関係がよくわかっていないってことになりますが、それだと一般に使われている「世間知らず」とは、ちょいとにゅあんすが違うんじゃあございませんか? 
さてはてどうなんでしょうかねぇ。ちなみに国語辞典では「世間知らず」のことを
実社会の事情に暗いこと
とありますな。この意味だと、世間を「実社会」としておりますな。「人びと」から「実社会」に拡大されております。

まあ、社会は人々が形作っているわけですからね。世間は「自分と共に世界を形作る、一般の人びと」なのですから、ともに世界を作っているという意味も含んでおりますな。なので、世間=実社会としても問題はないですな。ちょいと拡大解釈したのでしょうな。
と思いきや、実は仏教語の世間は「実社会」という意味に近いんです。ちなみに、新明解国語辞典には、世間の意味の次にカッコつきで
仏教語としては人間社会の意
と書いてあります。果たして仏教語では世間はどういう意味になっているのでしょうか?

お馴染みの仏教語大辞典によりますと、これが長いんですな。難しすぎると判断したことは省略します。
@世は遷流、間は中の意。うつり流れてとどまらない現象世界をいう。世界に同じ。
A自然環境としての世界。器世間。
B世の中。
C世の人々。
Dこの世。
E世の中の生きとし生けるもの。衆生世間。衆生。
F迷える輪廻のありさま。汚れた俗世間。迷いの世界。
G無常遷流の存在一切をいう。
H省略
I天上に対していう。
J出世間に対していう。有漏のこと。世の中、世俗。
K世の中のならわし。
L省略

たくさんあるでしょ。省略したHですが、唯識論になりますので、説明が難しくなるので省略しました。またLは、天台宗のみの解釈なので、省略しました。
さてはて、仏教語の世間は、一言でいえば、
「移り変わり流れていく無常の中で生きている人々及び社会」
となるでしょう。ちなみに、出家者の世界は、この社会には入らないんですな。それがJの意味です。出家者は世間を脱出している存在です。ですので、我々僧侶は、世間とは関係ない存在なのですよ、本当はね。実際には、世間とどっぷり関わっておりますが・・・。まあしかし、気持ち的には、世間と切り離れておりますな、一応ね。私たち僧侶は、世間を解脱したものですからね。突っ込みはナシでお願いいたします。
Iは、神々のことですな。神々は、人間社会と異なっております。なので、神々に対して、人間社会を表す言葉として世間と言いますな。ちなみに、天皇陛下も世間とは切り離されております。世間のお方ではないのです。かつては現人神と言われた存在ですからね。
Jの有漏(うろう)ですが、まあ世の人々のことですな。俗世間及び俗世間の人々、出家者以外のことを有漏と言います。ま、細かくはここでは言いません。言い出すと小難しくなりますので。

ということで、仏教語の「世間」の意味は分かっていただけたでしょうか? 現代語の「世間」よりも、その意味はたくさんありますな。今、私たちが使う世間は、どちらかというと仏教語の意味に近いですな。
世間知らずも然り、世間体もそうですな。世間を気にするといえば、ご近所の人の目を気にしたり、ご近所の習わしを気にしたり・・・となりますな。現代の国語辞典の「世間」の解釈では、間に合っていないように思いますね。

さて、大人になっても世間知らずの方はたくさんいるようで・・・。いや、大人になって頑固になって、自分の世間だけで生きている人は、案外多いものです。そういう方は、他の人となかなかうまくやっていけませんな。他者と衝突すること、はなはだしくなりますな。大人になれば、世間知が身につき、賢くふるまえそうなんですが、そんな大人ばかりではありません。大人げない大人が世間にはたくさんいるのです。
その代表が、国会とかいう世界に生息しておりますな。あの世界に生きている人たちは、どうも我々一般ピープルの世間と世間が違うようですな。最近では、言語も違っているんじゃないかと思うほど、彼らの言っていることはよくわからんですな。追及する方も訳が分からないし、追及される方もよくわかりません。どっちもどっちで、同じ穴の狢・・・ならぬ、同じ世間の狢でしょうかねぇ。
私たちも、アノ世間に暮らす狢たち騙されないようにしないといけませんな。それには、世間知を身に付け、世間に長けた人にならないといけません。おっと、ちょいとやり過ぎて世間ずれしちゃあいけませんな。お気を付けください。
合掌。


171.抑止
一体いつになったら、あの国は落ち着くんでしょうかねぇ。今のままでは、周辺の国に脅威を与えるだけで、正常な国同士の付き合いはできないんですけどね。暴力では、平和は得られないのですが、あの国のトップはそんなこと理解できないんでしょうなぁ。もちろん、あの国というのは北の国ことです。軍事力を抑止してくれないと、周辺国は安心できませんね。アメリカが抑止力になっている・・・というのは、本当は危険ですな。自国の軍事は自国で抑止しないと意味がありません。でないと、かつての日本のように暴走しかねませんな。怖い話です。
さて、この「抑止」ですが、仏教語にもあります。ただし、読み方が違いますな。仏教語では「おくし」と読みます。今回は、この「抑止」についてお話をしたいと思います。

まずは、現在使われている「抑止」の意味を確認しておきましょう。国語辞典(新明解国語辞典)によりますと、「抑止」は
そうさせないようにおさえること
と、あります。まあ、何と単純明快、余りにも簡単な説明ですな。まあ、その通りなのでいいのですが、なんだかちょっと寂しいですな。
では、仏教語の「抑止(おくし)」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典を見てみましょう。
@悪事を抑え止めて戒めること。
A方便の教えだけを説いて、真実の教えを抑えること。
@の意味は、現在使われている「抑止」の意味と同じですね。まあ、「戒めること」が余分についておりますが・・・。
仏教の場合は、「抑える」だけでなく、「戒める」が含まれてきますな。抑えるだけではダメなんですね。ちゃんと戒めないと。戒めるとは、単に「叱る」だけでなく、「なぜ、抑えなければいけないのか」という理由を理解させることにありますな。そこがわからなければ、いくら注意したり叱ったりしても、再び過ちを繰り返すことがあります。しかし、ちゃんと「なぜいけないのか」ということを理解させておけば、過ちを犯す確率は減りますな。ゼロになるとは言いません、注意するだけ叱るだけよりは、随分ましだ、ということです。「戒める」には、そういう意味も含まれておりますな。ですので、仏教語の「抑止」のほうが、ちょっと意味が深いですね。
Aは、仏教で説く教えでも、表面上の教えやその場限りの教え・・・こうした教えを方便の教えと言います・・・を説くことがあります。とりあえず、真実を伝えるのは止めておいて、今必要な教えを説いておこう、時が来たら、機が熟したら、本当のことを伝えよう・・・ということですな。いきなり真実を伝えても混乱を起こすだけで、かえってよくない場合もあります。恨まれたりすることもありますな。そういう場合は、方便として、表面上の教えや当たり障りのない教え、その場だけの教え、とりあえずの教え・・・といった教えを説くことも必要なのです。で、相手が成長し、理解力を持ち、自分の感情をコントロールできるようになったら、真実を伝えることにするのですな。そのほうが、親切な場合もあるのですよ。そのように、真実を伝えることを抑える場合も「抑止」を使うのですな。まあ、こういう使い方は少なかったと思いますが・・・。いずれにしても、「抑止」とは、悪事を抑え止めることですね。ついでに、戒めることもできれば尚いいですな。

しかし、きれいごとばかり言っていても通じないこともありますな。仏教では、悪事をさせないように
「悪人は地獄に落ちるぞ、どんなことをしても救われないぞ、救いはないのだぞ」
などと教えることがあります。まあ、一種の脅しですな。このように、「悪人は絶対救われないから悪事を犯してはいけない」と説くことを「抑止門」と言いますな。
また、悪事をしても、「深く反省し二度としないと約束し、償う心持てば救われるよ」と説くこともあります。「善人も救われるけど、悪人も救われるよ」という教えですな。有名な親鸞さんの言葉にもありますな。
「善人は極楽へ往生する。でも悪人だって往生するよ(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)」
このように、仏様・菩薩様の慈悲をもって、善悪不二の精神で救おうという教えを「摂受門(摂取門)」といいます。大乗仏教は、どちらかと言えば摂受門になります。というか、仏教は片一方の教えだけでなく、状況に応じた教えを要しているのですよ。そこが仏教の深いところですな。

「悪いことしたら地獄に落ちる、罰が当たる、救われないぞ」
と教えて悪事をなさないのなら、こんな簡単なことはありませんな。しかし、人間はそんなに単純な生き物ではありません。わかっていてもやってしまう場合もありますし、はずみで・・・ということもありますな。たまたま魔が差した、ということだってあります。悲しい生き物なのですな、人間は。
「抑止門」で正しく生きられるようになる人の方が多いと思いますが、そうでない人もいるのです。その「そうでない人」は、仏様は救ってくれないのか、と言われるとそうではありません。「抑止門」で救われない人でも、救われる教えがあるのですよ。悲しい生き方しかできない人間だって救われる教えがあるのです。ただ、抑え込んですべてOKという単純なことばかりではないのですな。

かの国のトップだって、アメリカがやいのやいの言って抑え込めばいい、という単純な話ではないでしょう。頭から抑えつけ、「ダメだぞ、そんなことでは地獄行きだぞ」と言っても、彼の国のトップの方は、聞く耳を持たないでしょうな。相手の立場もある程度は考えないといけないのでしょうな。
「抑止門」でいい場合もあれば、「摂受門」でないとダメな場合もあるのでしょう。とはいえ、本来は、自国のトップの方が、抑止力を持たないといけないことなんですけどね。他国から抑えつけられるんじゃなくてね。

国だけじゃありませんな。暴力行為や、暴言、犯罪などは、本来は他者から抑えつけられることではありません。自分で自分を抑止しないといけませんな。最近では、ある程度地位や立場のある方が、痴漢や盗撮などというくだらない事件を起こして捕まっていますな。ものすごくみじめで恥ずかしい犯罪だと思うのですが、同時に「なぜその行動を止められなかったのか」とも思いますな。自分の欲望や感情、行動を抑止する力があれば、そんな犯罪はやらかさないのに、と思いますな。
言葉もそうですね。言わなくてもいいことや言ってはいけないことを口にしてしまう・・・。どうして抑えがきかないのか。なぜ、抑止できないのか・・・。その結果、非難轟々の嵐に見舞われるのですな。ま、自業自得・身から出た錆なんでしょうけどね。でも、自分に対する抑止力があれば、そんなことにはならなかったのですよ。

抑止・・・これは他者に対して使う場合が多いですが、実は自分自身に向けて使ったほうがいい言葉ですな。感情や欲望、怒り、恨み、羨み、言葉、行動を間違った方向に進まないように抑え止めて、さらに自分を戒める・・・・それが大事なのでしょう。
自分に対する抑止力、これを強くしていかないといけませんな。
合掌。


171.遠縁
ある日のこと、弁護士さんから郵便が届いたのそうです。弁護士から郵便が届くなんてことは滅多にあることではないので、その人はびっくり仰天。あわててうちの寺に相談に来ました。
封を開けると、なんと遠縁の方が亡くなり、その相続のことでの問い合わせでした。
「こんな親戚がいたなんて・・・いや〜、記憶にないなぁ・・・でも親戚なんですよね?」
親戚なのでしょう。でなければ、相続の手続きの問い合わせなんて届くわけはありませんから。
そのかた、親戚に尋ねたそうです。こういう人がいたのかと。すると、年老いた親戚の方が、そういえばうちにも手紙が来ていた・・・と教えてくれたそうです。それでその遠縁の方のことが分かったそうです。
こんなことがたまにあるのだそうです。遠縁の方が突然やってきた、遠縁だった人が亡くなって、その人の身内がなくて遺体を引き取りに行くことになった・・・・などなど、自分が知らない縁というのがあるものなのですな。
遠縁・・・仏教語では、「おんえん」と読みます。今回は、遠縁の今と仏教語の違いについてお話いたします。

一応、現代使われている遠縁(とおえん)について、その意味を抑えておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
遠い血縁
とありました。まあ何ともあっさりした解説。まあ、その通りなんですけどね。でも、もう少し肉付けがあってもいいかな・・・と思いますな。全く知らなかった遠い親戚、とかね。ま、いずれにせよ、遠縁とは、遠い血縁のことですな。忘れ去られた血縁と言ってもいいでしょう。

仏教語の遠縁(おんえん)は、その意味がちと違いますな。おなじみの仏教語大辞典で意味を見てみましょう。
@間接的な縁
Aいまだ仏道の修行をあまり実践していない未熟の衆生が、遠い将来においてさとりを得るための外縁となるもの。
仏教語ではこのような意味になりますな。
ちなみに遠い子孫のことは、「遠裔(おんえい)」というのだそうです。遠い末裔ですな。やがて、その遠い末裔は、遠縁の親類になるのでしょうね。現代語の遠縁の意味に近付いていますな。ま、しかし、本来の意味は上記のように異なっております。

「遠縁(おんえん)」の@の意味は、間接的なつながりのことですね。友達の友達、とか言ったものです。親戚の親戚とかね。知り合いの知り合いとか・・・。まあ、間接的な縁はたまにありますな。いや、話題の中ではよく登場しますな。
「あのさ、友達の友達の話なんだけどね・・・」
なんて始まりでちょっとした秘密が暴露されたりしますな。「友達の友達って、誰やねん!」と突っ込みたいところですな。そんな間接的な縁の人の話なんてどうでもいいですからね。
ちなみに、芸能人などは、一般の人にとっては縁もゆかりもない人たちでしょう。そんな芸能人の話題でよく盛り上がれるもんですな、と私などは思いますな。芸能人や芸人が不倫しようがどうしようが、どうでもいいことなのにね。間接的な縁すらない人の行動をよくチェックできますな。ましてや、それを見聞きした人々の中には、その人が出ている番組のTV局やスポンサーに抗議をするとか・・・。まったく、関係のない人が何を言っているんでしょうかねぇ。不倫問題など、当事者の問題ですからね。他人がどうのこうのいうことじゃないでしょうに。と、私は思いますな。抗議の電話などする人の気持ちがわかりませんな。よほどヒマなんですかねぇ。それとも、やることがないんですかねぇ。
すみません、話がそれました。戻します。

Aが遠縁の主流ですな。今世において、まだ修行できていない者が、遠い将来・・・何度も生まれ変わって・・・悟りを得るための、その「縁」・・・きっかけ・・・となる縁のことを意味しているのですな。
悟りは、特に禅などでは、ちょっとしたきっかけで得ることがあります。「あっ、そうかわかった!」という悟りですな。たとえば、木から葉っぱが落ちるのを見て
「あぁ、そうか・・・世の中は無常なのだ」
と悟ったとします。この時の「葉っぱが木から落ちる」というのが悟りのきっかけであり、悟りを得るための「外縁」にあたりますな。
つまり、遠縁(おんえん)とは、今はそのきっかけがないのですが・・・あったとしても気が付かないのですな、修行が未熟だから・・・、遠い将来、何度も生まれ変わって修行が進めば、そのきっかけである縁に気付くようになるのです。そして、悟りを得られるのですな。「あっ、わかった」とね。

ちなみに、禅では、そうした悟りに大小があるのだそうです。ちょっとした「わっ、わかった」は小悟、「おぉそうか、そうだったのか、なるほどすべてが分かったぞ」というのが大悟というのだそうです。
ということは、一般の人でも日常において「小悟」はあることですな。それが勉強であっても、仕事のことであっても、家事であっても
「あっ、そうかわかった!」
という瞬間はあることですからね。ということは、みなさん、小さな悟りは経験しているのですな。未熟かも知れませんが。もっとも、修行者ではないのですから、それで十分なんですけどね。

しかし、今は修行者ではなくても、遠い将来、この先何度も生まれ変わるうちに出家者となり、修行をするかもしれません。その時に、何かのきっかけで悟りを得ることもあるかも知れませんな。もし、そうなったら
「あぁ、あのきっかけが遠縁(おんえん)なのだな、ここまでくるまで、まさしく遠かったなぁ」
としみじみと思うのもいいかもしれませんな。

遠い縁・・・忘れ去られた縁ではあるかも知れませんが、ふとしたきっかけでそれに出会ったならば、
「そんな縁もあったんだねぇ」
と祖先をたどってみるのもいいですね。先祖の流れ、多くの先祖の人々、そんな関りが浮かんでくることでしょう。
今年のお盆は終わってしまいましたので、来年のお盆には、故郷に戻って遠い遠い先祖に想いを馳せるのもいいでしょうなぁ。自分の原点はどこにあったのだろうか・・・とね。
あるいは、お子さんと一緒に、家系図なんぞを作って夏休みの宿題にしてもいいですな。今年は間に合いませんけど・・・。
遠くなっても縁は縁ですね。いい縁ならば、大切にしたいですな。
合掌。


172.シャカリキ
新聞や本を読んでいるとき、ごくたまに「あれ?、これ仏教語?」というような言葉に出会うことがあります。それは、今まで自分は全く知らなかった、気付かなかった仏教語臭い言葉ですね。
で、そんな言葉に出会ったとき、お馴染みの仏教語大辞典で調べてみます。しかし、たいていそうした言葉は、仏教語大辞典には載っていないのですよ。つまり、正式な仏教語ではないということです。
正式な仏教語ではない・・・というのは、お経や高僧の論文(論書といいます。大乗起信論が有名です)には載っていない、ということですな。お経や論書にはない言葉、ということです。つまり、日本でいつの時代かはわからないが、仏教にのっとって作られた言葉・・・仏教的造語・・・なのです。今回は、その仏教的造語である「シャカリキ」についてお話いたします。

シャカリキ・・・漢字で書くと「釈迦力」と書くのだそうです。江戸時代にはすでに使われていたそうです。その言葉に出会ったのは、宮部さんの最新刊の「この世の春」です。その中に登場したのですな「釈迦力」が。
意味は皆さんご存知でしょう。簡単に言えば、
「周囲に目もくれることなく、必死に取り組むこと」
ですな。まあ、「一生懸命」のさらにパワーアップしたバージョン、もしくは「一生懸命」を下品に実行したバージョン、ですな。メチャクチャ頑張っている様、と言ってもいいですね。「シャカリキになって取り組む」なんて使いますが、今は滅多に使わないですな。久しぶりに聞いた気がしますよ「シャカリキ」。
それくらい使われなくなっている言葉ですが、「釈迦力」と書いてあったのには驚きでしたね。
「ありゃ、これ仏教語だったの・・・」
てなもんです。で、仏教語大辞典で意味を調べたら出てこない。ネットで調べたら、
「シャカリキ、漢字で書くと『釈迦力』。お釈迦様が人々を必死になって救ってくださる、その力のことをいう。釈迦の人々を救う力をまねて、一生懸命に取り組むことを『釈迦力になってやる』というようになった、らしい」
というようなことが書いてありました。これを書いていた方も、あくまでも「らしい」ということでした。いつの時代から使われたのか、その当時から「釈迦力」と書いたのか、不明なのだそうです。江戸時代中期にはすでにあったということですから、それ以前から使われていたのでしょう。
おそらく、想像するに、きっとどこかのお坊さんが、
「一生懸命やりなさい。そう、お釈迦様が、人々を救うのに、必死になって取り組んでいらっしゃるであろう。それくらい、お前たちも必死になってやりなさい。お釈迦様の力のようにな」
とでも説教したのではないでしょうか。そこから、「釈迦力になる」などという言葉に発展したのではないでしょうか、と推察されますな。あくまでも推察です。想像ですな。

まあ、しかし、その当時の人々が、「シャカリキ(釈迦力)になって働く」と言っていたことは事実ですな。ということは、お釈迦様の力は大変なものである、と信じられていた、ということでしょう。お釈迦様は、人々を救うために必死になって働いていらっしゃる、という意識が人々にあったわけですな。そうでなければ、一般に「シャカリキ(釈迦力)」という言葉が広まるはずはありませんからね。純粋に仏教が信じられていたころに作られた言葉ですな。今じゃあ、「ヘンッ」と笑い飛ばされてしまうかもしれませんね。

さて、最近、シャカリキになったことはあるか?と考えてみました。いや〜、ありませんなぁ。もちろん、仕事はしっかりといたします。お経も手抜きはしませんな。お祓いだって、しっかり仕事致します。でないと、こっちがヤバいですからね。ですが、シャカリキになってやることはありませんな。
というか、「シャカリキ」には、今ではちょっと悪いイメージが付きまとうように思うのですよ。
「そこまでやらなくても・・・。そんなにシャカリキになってやらなくても・・・」
というイメージですな。ちょっとやり過ぎじゃないか、という印象が付きまとうのですな。
「シャカリキ」という言葉が生まれた当時は、「お釈迦様にならって・・・」というイメージだったのでしょうが、それがいつの間にか、ちょっとマイナスなイメージが付きまとうようになってしまったようです。
だからなのか、最近では使われなくなりました。もっとも、シャカリキになってやる人も、やることも無くなってきたのかもしれませんが・・・。

いつの時代からか、必死に取り組むこと、一生懸命に取り組むこと、なりふり構わず取り組むこと・・・が、ダサい・カッコ悪いと思われるようになってしまったのですな。本当は、そんなことはないんですけどねぇ・・・。
必死に取り組む、一生懸命に取り組む・・・それはダサくもないし、カッコ悪いことでもありません。むしろ、見ていて頼もしいですよね。きっと、一生懸命取り組んでも、必死に取り組んでも結果が出ない者たちが、クサッていじけて言って笑ったんでしょうな。
「そんなに必死にやって、ダサくない?」
とね。自分のダメさを弱さを隠すために、必死に取り組んでいる人や一生懸命に取り組んでいる人を嘲笑したのでしょう。でないと、自分がみじめになってしまうから、負けた自分がみじめになるから・・・。

シャカリキになってできるのは、若いうちだけだと思います。年をとればとるほど、そんなに一生懸命に取り組めなくなりますな。気力も体力も伴いません。持久力もなければ、気持ちも入りませんな。若者だけの特権なのですよ、シャカリキは。ならば、シャカリキにならないのは、ちょっともったいないですな。何かに一生懸命になる、何かに必死になって取り組む、そういう経験ができるのは、若いうちだけなのです。その特権を利用しないのは、もったいないですよね。年を取ってくると、そういう若い人の気力や体力が、羨ましくもあります。
「あぁ、若いころにもっとシャカリキになってやっておけばよかった・・・」
ということを思わないように、若い人は何かに「シャカリキ」になって欲しいですね。

「シャカリキ」・・・「釈迦力」と書くと、なんだか奇跡が起きそうな気がします。
そうですね、年を取った方たちは、シャカリキに生きることにしましょう。なんせ「釈迦力」ですから。お釈迦様のお力がいただけるかも知れません。お釈迦様に手を合わせ、一生懸命に生きる、シャカリキに生きる・・・を心掛けてもいいですな。
「お釈迦様、その釈迦力をどうぞ私に与えてください」
と祈りながら・・・。
合掌。


173.破邪顕正
昔のTV時代劇で、そうですね裁きモノ・・・大岡越前とか遠山の金さんなど・・・を見ていますと、お白州の向こうの座敷の上の方に「破邪顕正」と書かれた横額がかかっていることがあります。最近の時代劇でもかかっているのかどうかは知りません。最近の時代劇は見ないですからね。あぁ、必殺は見ますが・・・。でも、野際さんが亡くなってしまったからどうなるのやら。
ま、そんなことはどうでもいいのですが、この「破邪顕正」、実は仏教の言葉なのですよ。まあ、意味は字を見ていただければわかると思います。が、おそらく皆さんが想像している意味と、仏教語での「破邪顕正」の意味は若干異なるようなのです。今回は、そのあたりをお話ししたいと思います。

一応、現代語というか、時代劇のお白州シーンで出てくる「破邪顕正」の意味をおさえて置きます。いつも使っている新明解国語辞典には、「破邪」は載っているのですが、「破邪顕正」がありませんでした。なので、ネットで拾ってみました。それによりますと
「誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること。不正を破って、正義を明らかにすること。▽仏教語。「破邪」は邪道・邪説を打ち破ること。「正」は「せい」とも読む」
とありました。現代語の方の「破邪顕正」はこれで大丈夫ですね。皆さんが思っていた通りの意味だと思います。まさに、お白州にふさわしい言葉ですね。現代の裁判所に書いておいてもいいくらいですな。検察には書いてあるんでしたっけ?、そんなような話を聞いたことがあります。

しかし、仏教語の方の意味は、ちょいと違うんですなぁ、これが。単なる「邪道・邪説を打ち破ること」ではないのですよ。そこで、お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
「誤った見解、とらわれを打ち破り、正しい道理をあらわすこと。三論宗の根本となる教義で、邪を捨てて別の正をあらわすというのではなく、破せられた邪はその考え方を変えること(とらわれの心を破すること)によって、そのまま正になりうる性格を持つということ。破邪即顕正である」
とあります。よく読めばわかると思いますが、ただ単に「邪説や邪道を打ち破ること」ではないのですな。もっと深い意味があります。それを表現したのが「破邪即顕正」です。「即・・・すなわち」が入っているのですよ。

破邪とは、ただ単に間違った見解や説を打ち破ることだけではないのですな。つまり、今風に言えば論破するだけではないのです。論破した後が問題なのですよ。
人は、論破されるとたいていの場合、不貞腐れます。「うぅぅ、くっそ〜」と悔しがりますな。言い負かされたわけですから、それは自分自身を否定されたことになります。そうなれば、そこには、「悔しい、うるさい、恨んでやる」ような気持ちしか残りません。なかなか
「あぁ、私が間違っていた、深く反省します」
な〜んてことにはならないのですよ。人間、そのように簡単に反省し、出直すなんてことは難しいのですな。だから、再犯があるわけです。
三論宗の説く「破邪顕正」とは、ただ単に論破するのではなく、その考えを持った心の方に着目しているのです。つまり、そのような間違った考えを持ってしまった「とらわれの心」を正すことが、本来の「破邪顕正」なのです。

間違った考えを打ち破り、否定し、で、正しいのはこっちだよ、この考え方なんだよ・・・と示しても、人はそうそう簡単に受け入れられるものではありませんな。本来正すべきは、「どうしてそうした間違った考え方を持ってしまったのか」というところなのです。
「あなたは、なぜ、そのような間違った考えにとらわれてしまったのですか?」
ということを追求しないといけないのですな。
かつてのオウム真理教にとらわれてしまった方、つまり洗脳されてしまった方たちに
「そんな宗教は間違っている、邪道だ」
なんて否定してかかっても、彼らは受け入れませんでしたよね。そう簡単には洗脳は解けないものです。そうではなく
「なぜ、あなたはその宗教に入ったのか、信じたのか?。どの教えに共感したのか、なぜ、その教えにとらわれてしまったのか?」
ということを問いかけねば、洗脳は解けませんよね。根本的な原因を破らねば、本当の「破邪」にはならないのです。

間違ったことをした人に「間違っているよ、正しいのこれ」と示すのは簡単です。しかし、そんな表面上のことだけでは、ダメなのですな。なぜ、間違ったのか、なぜ、それにとらわれてしまったのか、そこが大事なのです。仏教の破邪顕正は、それを説いているのですよ。だから、
「破邪はすなわち顕正・・・邪にとらわれた心を破るは、すなわち正しい道を顕すことである」
となるのです。破るべきは、とらわれの心なのです。
ちなみに三論宗は、大乗仏教が起こり始めたころの宗派です。そこから、法相宗へと発展します。奈良時代の仏教が三論宗や法相宗でした。大乗仏教の祖とも言えますな。

さて、選挙も終わりました。国民に選ばれた政治家たちは、果たしてとらわれの心を持たないで、正しい道を示すことができるのでしょうか?。また、彼らにとっての「正しい道」とは何なのか、それも知りたいですな。選挙に通るために簡単に志を変えてしまった方たちに、是非とも聞いてみたいですな。
「あなたにとって邪道とは何ですか?、正しい道とは何ですか?、破邪顕正できますか?」
とね。合掌。


174.本心
人間の本心というのは、よくわかりませんね。口で言っていることと心で思っていることが異なる、というのはよくある話ですな。特に女性の方は、口と心とは裏腹のことがよくあるようで・・・。
「そんなこと言ってるんじゃないの!」
なんて怒られたことがある男性は多いんじゃないでしょうか?。彼女が言ったとおりにしたら、「違う」と怒られた・・・。男性は一度くらいは経験があると思います。
男性でも女性でも初めから本心を語ってくれればトラブルにならないこともありますよね。しかし、本心はなかなか外に出せないし、出しにくいというのも本当ですな。
さて、この本心。現代の本心と仏教語の本心とは違いがあるのでしょうか?。何となくありそうな気がしますが、どうなんでしょうね。

現代語の本心を一応押さえておきましょう。国語辞典(新明解国語辞典)によりますと、
@本来の正しい心
Aその人の本当の心
とあります。よく使うのはAのほうでしょうな。「本心はどうなんだ」なんていう使い方ですな。
では、仏教語の本心はどうなんでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@日常の健全な心のはたらき
A真如。心性
B本分。本来の心。自己の本性。
現代語と同じ意味としてはBがあそれにあたりますな。Bは現代語のAの意味と同じですね。その人の本来の心、本当の心、という意味です。
Aの「真如」とは簡単に言えば「ありのまま、ありのままのすがた」という意味です。心のあるがままの姿、ですな。そういう意味では、真如は本心と同じとなりますね。本心も、本来の心のあるがままの姿ですから。
「心性(しんしょう)」とは「不変なる心の本性、本体」のことですが、これにはちょっと説明が要りますね。
仏教では、というか大乗仏教、主に密教では、心は本来清浄である、と説きます。人間の心は本来決して汚れてはいないのです。本当の心は清いのですな。これを「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」と言います。本当は清い心なのですが、いろいろな欲や環境によって、汚れが着いてしまっているのですね。だから、その汚れを落としてしまえば本来の清浄なる心が現れ、悟ることができる、と説くのです。本来の心は美しいのですよ。
つまり、心性=心の本性・本体は、清浄なのですな。この清浄なる心が本心である、ということなのです。人間の本心は清浄なのです、という意味がAですね。

@の日常の健全な心の働き、とはどういうことなのでしょうか?。健全な働きって、ちょっと抽象的というか、大雑把ですよね。しかし、仏教でいう健全な心とは、十善戒を守ることになります。つまり、殺生をしない(暴力を振るわないことも含む)、盗まない(盗み聞き、盗み見も含む)、性において淫らにならない(浮気しない、不倫しない、性に溺れない)、ウソをつかない、ふざけた言葉遣いをしない、悪口を言わない、二枚舌を使わない、欲にとらわれない・貪欲にならない、怒らない・妬まない・恨まない・羨まない・拗ねない・いじけない・意地を張らない、よく考え他者のアドバイスに耳を貸し素直に生きる・・・、ということですね。十善戒を守ることが健全な心の働きとなるのです。
ということで、仏教でいう本心とは、十善戒を守る心であり、本来清浄である心であり、自分のありのままの清浄なる姿、清浄なる本性のことなのです。つまり、仏教でいう本心とは、「人間が本来持っている清浄なる心」ということですな。これが本心なのです。

本来は清浄な心を持っているのですが、いつの間にかそれを忘れてしまうのですな。赤ちゃんは、純粋ですよね。生きることのみ追及しています。乳を飲む、寝る、排便排尿をする、ただそれだけです。そのほかの欲はないですな。それが、成長するにつれ、欲張ることを覚え、欲しいものを手に入れようとし、妬んだり、憎んだり、恨んだり、怒ったり、羨んだり、悪口を言ったり、ふざけた言葉遣いをするようになり、たまにウソをつくようになるのですな。本来の清浄な心を忘れてしまうのです。いや、忘れるのではなく、本来の清浄なる心に、欲望・邪心・汚れ・・・が付着していくのです。そうして、大人になるのですな。
付着した汚れが多ければ多いほど、イヤな人間・悪い人間・嫌われる人間になりますな。汚れが少なければ少ないほど、尊敬される人間になっていきます。
が、しかし、今の世の中は、汚れが付着しているほうが過ごしやすいのですな。困ったことに・・・。過ごしやすいけど、そういう人は晩年が不幸ですな。汚れた心に自分が押しつぶされてしまうのですよ。

年齢を経て大人になったのなら、少しは自分の本来の心・・・清浄な心を見つめるべきなのではないかと思いますな。いや、大人にならなくても、若いうちでも、自分の心は清浄なんだ、ということを知って欲しいですね。それを知れば、ちょっと運転が下手なドライバーに当たっても煽るようなことはしない、ちょっとしたことでイラつき暴力をふるうということも無くなるでしょう。
特に日本をリードしていく人たちは、本心を知るべきでしょうね。批判ばかりしていないで、本当は日本をどうしたいのか、よくしたいのか、よくするためにはどうしたらいいのか、ということを本気で考える人になって欲しいですよね。本来の清浄な心を知って欲しいですな。

いやいや、多くの人が、本来の清浄なる心・・・本心・・・を取り戻してほしいですね。あ、自分も含めてですが・・・。それには謙虚になって、自分を振り返ることでしょうな。人間の本心は、美しいものなのですよ。
合掌。


175.開
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
1年の初めということで、今回の言葉は「開」を選びました。「開・・・かい、ひらく」ですね。今年の始まりにはいい言葉かな、と思いまして。と言っても、「開」が仏教語、ということではありません。仏教語での「開」と一般に使われている「開」とちょっと意味が異なるので、その話をしたいと思います。

一般に使われている「開」は、当然のことながら「開く」という意味ですよね。その他には「はじめる、あける、きりひらく、ひらける」など言う意味もあります。これから出発するぞー的な意味もあり、明るい言葉だと言えますな。
一方、仏教語の「開」と言いますと、お馴染みの仏教語辞典によりますと
@ひらく、詳しく述べる
A開除。差別の謬見を切り開いて去ること。ものの障害が除かれて見えること。
B仮の教えであることをうち明ける。あばく。うち明ける。許す。遮(しゃ)の対。
C設ける
D特別に立てる
E分類する
とあります。結構、たくさんの意味があるのですね。

@は、そのまま「開く」ですな。もう一つの「詳しく述べる」は、教えに関して師が弟子に、あるは在家の人々に、またはその他に「詳しく教えを述べる」ということでしょう。まあ、単に「詳しく話す」という意味もありますが。
Aは、間違った教えや見解・差別を除く、という意味です。間違った見解や一切の差別を取り除けば、障害がなくなり、正しいものの見方ができる、ということですね。差別しているうちは、真実は見えないのですよ。
Bは、一つには「今までの教えは仮の教えですよ、これからが本物の教えですよ」と示すことを意味しております。大乗経典にはよく登場するシーンですね。お釈迦様が、「今まで説いてきたことは仮の教えだ。これからが真実の教えなのだ」というシーンが大乗経典では多く見られますな。
あばく、と言うのは、ウソを言っている者に対してそのウソをあばく、ということです。打ち明ける、許す、遮もその仲間ですな。これは反省会である布薩の時に「開」を使用したということなのでしょうね。たとえば、
「汝の罪を開せよ」
などと言ったのでしょうかねぇ。
ちなみに、「遮」とは、「禁止する、否定する」という意味です。そういえば、禅ではその昔、「危ないぞ、やってはダメだぞ、それは違うぞ」と言うときに「遮」と一喝したそうです。たとえば、弟子が何か間違ったことを言ったとします。すると、師が「遮!」といったのでしょうな。
Cは、法話の席を設ける時などに使ったのだと思われます。たとえば、
「明日、師の法話がある。その席を開せよ」
などと言った感じでしょう。
DもCと似たような意味ですね。特別の法話の席などを設ける、立てるというときに使ったのでしょうな。
Eは、開示の意味にも通じますな。いろいろなことを開示して分類するということです。

以上、仏教語の「開」には、いろいろな意味があります。しかし、主な意味は、やはり@Aでしょう。つまり、「詳しく述べる」ということですね。
教えにしろ、自分の犯した罪にしろ、「開」することが重要なのですな。教えならば、詳しく民衆に述べるべきですし、自分が犯した罪ならば、それを仲間の僧侶に開示すべきでしょう。いずれにせよ、「詳しく述べる」ことが大事なのですよ。詳しく述べるということは、すなわち「知識を開く、知恵を開く、心を開く」ことでもありますな。

最近、コミュニケーションがうまく取れない、という人が増えて来たそうですね。そりゃそうだな、と私は思います。スマホが出る前まではメール、スマホが出てからはLINEがコミュニケーションの主流になっていますな。それでは、人と人とのコミュニケーションは取れないでしょう。上っ面な言葉のやり取り、単純な言葉の流れでは、確かなコミュニケーションはが取れるわけがありません。人と人とのやり取りは、もっと言葉を使い、自分の思いを開示しないといけませんな。そうでなければ、上っ面の、単なる知っている人、程度の付き合いしかできませんよね。人と付き合っていくには、その人に面と向かって、直接言葉で自分の気持ちを伝えようとしないと、いつまでも自分を理解してもらえませんな。ちゃんと言葉を尽くして詳しく述べないと、真意は伝わらないものです。いや、それでもなかなか伝わらないものなのです。つまり、
「心を開示しないと、真意は伝わらない」
ということなのですよ。

いくら言葉を発しても、その言葉が内容のない言葉ならば、心を開いていない言葉ならば、その人の真意は伝わらないでしょう。まあ、伝えたくないのなら、心を開く必要はないですけどね。
また、だんまりもいけませんな。黙って知らない顔で通す、と言うのが有効なこともありますが、自分を知って欲しい、自分の思っていることを伝えたい、と言うときは、言葉を使わないといけませんね。何か主張したいときは、黙って座す、というのは、いい手段とは思えませんな。

他人に理解をしてほしい、周囲の人に自分のことをわかって欲しい、と思うときは、黙っていてはいけません。心を開いて、自分の思いを詳しく述べる必要がありますね。黙って突っ張っていれば、それは孤立を招くでしょう。孤立してもいいことはありませんな。人は一人で生きていけませんからね。
さて、年の初めです。今年は、あなたは誰かに心を開くことはあるのでしょうか?。素直に心を開き、自分の思いを詳しく述べ、いいコミュニケーションをとって欲しいですね。特に、新たに社会に出る方々、新しい職場、新しい学校など新規の環境に行かれる方は、早めに「開」を実践してほしいですな。
合掌。


176.消息
手紙を書くことがなくなりました。手紙をもらうことも少なくなりました。そりゃ、そうですよね。長文ならばメールで、ちょっとしたことならLINEで・・・。皆さんもそうなのではないでしょうか。あ、もっとも、私はLINEは使いませんけどね。未だにガラケーなので。もっぱらメールです。
手紙、と言うようになったのはいつからなのでしょうか?。昔は、消息と言ったように思いますが。よく時代劇などで「消息はあったか」などと言うセリフを聞きます。
私たちが持っている次第・・・作法がかいてある特殊な経本・・・には、時々「消息あり」などと書いてあることがあります。初めはいったいなんだろうと思いました。「消息あり?、手紙があること?」なんて思ったりもしましたが、違うんですね、これが。
今回は、その「消息」についてお話ししたいと思います。

国語辞典(新明解)には、「消息」の意味をこのように書いてあります。
@どのように暮らしているか
A現在どのような発展(衰退)状態にあるか。
現在の状況がどうなのか、ということが「消息」の意味ですね。例えば、行方不明の方があったりすると、ニュースで「行方不明者の消息はいまだ不明です」などと言っておりますな。つまり、行方不明の方の現在の状況はわかりません、ということですね。
このように「消息」とは、「現在の状況」のことなのです。

一方、仏教語の「消息」はどうでしょうか?。おなじみの仏教語大辞典によりますと、
@生活のありさま。自己の所見、所疑などを口頭で表し示すこと。
Aたより、手紙。
とあります。ありました、手紙と言う意味。やはり、消息は手紙だったのです。でも、現代では使われてもいないし、その意味もなくなっていますな。もはや、時代劇でしか聞かれませんね、手紙としての消息と言う言葉は・・・・。
今でも使われている消息の意味は、@の生活のありさま、ですね。生活の状況と言う意味で使われていたのが、現在の状況に発展していったのですね。まあ、現代語の方でも@のどのように暮らしているか、と言うのは、生活のありさまのことですからね。ここは、まったく同じ意味です。異なるのは、そのあとですな。

@の自己の所見、所疑などを口頭で表し示すこと・・・これが我々が使うお次第に書いてある「消息あり」の意味ですな。つまり、その消息あり、と書いてある部分に関しては、別に「師の所見、所疑があるから口頭で説明してもらえ」ということなのです。
次第の通りに作法をしていけばいいのですが、その部分・・・「消息あり」と書かれた部分は、別の作法や意味があるから師に聞け、ということなのですよ。何か別の見解がある、ということですな。あるいは、疑問点がある、ということなのです。

歴史のある作法・・・仏教にしろ、お茶やお花にしろ、伝統工芸などにしろ・・・は、遥か昔から長い間伝えられてきたものです。我々の作法は、弘法大師以来ですね。長年、師と弟子の間で伝えられてきたものです。そうしたものですが、時にいろいろな変化が生じたりします。いつの間にか欠落していたり、ちょっと作法が変わったり・・・。人によってちょっとやり方が違うことが生まれたりもします。
大きな見解の相違となれば、ケンカ別れとかして別派が生まれますな。仏教にしろ、お茶やお花にしろ、派がいくつも別れております。見解の相違や意見の食い違いが大きくなると、派閥も生まれます。さらにそれが発展すれば、お互い「袂を分かつ」ことにもなりますな。分裂ですね。
しかし、小さな見解の相違などは、「この部分はこういう意見もあるよ、こういう作法もあるよ」程度でおさまりますな。だから、「師に聞きなさい」ということで終わりますな。聞いたほうも「へぇ、そう言う意見もあるのか」で終わりますな。仏教の「消息」とは、そうした小さな意見の違いを示す、と言う意味もあるのですよ。

現在の状況だけでなく、意見の違いもあるから聞いてみなさい、と言う意味もあるのですな。さらに、手紙と言う意味もあります。
昔の友達の消息が知りたい・・・。そう思う方もいるかもしれません。手紙を書いてみようかしら、などと思うかもしれません。懐かしいな、どうしているのだろうか・・・などという感傷ですな。昔の友人の消息を知るために消息を書くのは・・・まあ、いいかもしれませんな。
ですが、私はその心に「消息あり」と書きたいですね。その消息とは、
「やめておきなさい。思い出は思い出だからこそ美しいものです。昔の友人の消息など知らないほうがいいこともあります。相手だって迷惑かもしれません。大きなお世話になってしまうかもしれません。美しい思い出が汚されるかもしれません。余計なことは考えず、あなたはあなたの生活を充実したほうがいいですよ」
ということですな。知らなくてもいい消息もあります。知ってはいけない消息だってあるでしょう。まあ、あまり過去をほじくるのはやめておいたほうがいいですな。
「あいつ、今頃何してるんだろうか?」
などと思うのは勝手ですが、それを実行されると迷惑な場合もあるのですよ。
合掌。


177.所得
確定申告の季節ですね。税金が少しでも戻ってくるなら、ありがたいことですな。それにしても、確定申告の方式がみんなネットになってしまったんですね。去年までは、書類が送ってきたのですが・・・。私はアナログ派なので、書面のほうがいいんですけどねぇ。なんだかネットで申告するのはねぇ・・・と思ってしまいます。
所得があったら税金を納めねばならない、税金を納めるのは国民の義務である・・・。わかっております。憲法にも記されておりますな。ですが、まあ、誰もが思うことですが、税金ってできれば納めたくないですよね。いや、納めるのはいいんですが、ちゃんと使ってほしいですよね。どうも怪しいことに使われているような気がしますな。特に政治家。税金の行方をもっとはっきりしてほしいですな。
ところで、税金を払った人は所得があったことになりますが、この「所得」と言う言葉、仏教語では現在の所得と意味が異なります。今回は、その所得の違いをお話いたします。

まずは、一般的な所得の意味を確認しておきましょう。新明解国語辞典によりますと
利益としてとらえられる収入
とあります。まあ、利益があった収入ですな。いろいろな経費や借金なんぞを取り除いたあとの利益ですね。それが収入とみなされ、税金が掛けられるのですな。みなさん、よくご存じのことですね。
では、仏教語の「所得」はどうでしょうか。おなじみの仏教語大辞典によりますと
@獲得。知覚。認識。
A所見・見解のこと。参禅学道によって得た仏法の要諦に関する所見。
B物事を二つに分けて、これを取り、かれを捨てる分別心。
とあります。ちなみに「所得法」となりますと、「さとった法」と言う意味になります。
とまあ、このように現在の所得とは全く意味が異なるのですよ。

仏教での所得は、収入のことではなく、仏法・・・つまり教えですね・・・について、得たことが所得になるのですね。いかに教えを獲得したか(獲得はぎゃくとくと読む場合もあります)、いかに認識したか、どれほど理解したか、ということですね。なので、所得法になると「さとった法・・・つまり、さとった教え」になるのですな。
Bについて。本来、仏教は無分別を説きます。分別はいかん、ということです。すなわち、差別はダメ、ってことですな。すべては平等である、と言う立場に立たねばなりません。一切無差別ですね。
ですが、時代が下って大乗仏教が起きますと、それぞれ教えの差が出てきます。宗派の誕生ですね。宗派によって教えの違いが生じてきます。ある宗派は戒律を重視し、ある宗派は極楽を望むことを説き、ある宗派は瞑想や座禅による悟りを目指し・・・というようにそれぞれの道ができていきます。
その中で、どれを取り、どれを捨てるか、という分別が生まれてきますな。本来は、そんなものはありません。すべて仏教です。宗派なんぞは人が造ったものですね。ですが、人間は分けるのが好きなんですな。どれを取ってどれを捨てるか、ということをやるんですね。まあ、これがBの意味ですな。分けてしまう分別心を所得と言ったのですな。もっとも、この意味ではあまり使われてはいないようですが・・・。

仏教での所得とは、収入のことではありません。どれだけ教えを得たか、ということになります。仏教にとって、大切なことはお金よりも教えなのですな。
ですが、まあ、昔から言われていることですが、所得の多い坊さんがいますよね。あ、この場合の所得はお金のことですよ。高額な戒名料、高額な葬式代、高額な寄付金・・・。檀家の寄付金で、本堂を修繕する・建て直す・・・それはいいでしょう。ですが、庫裡・・・住職家族の住居・・・を建てる、高級車に乗る、ゴルフ三昧に夜の街の徘徊・・・。いったいいくら収入があるの?、それって、檀家のお金じゃないの?と問いたくなりますな。
本来の意味の所得が一体どれだけそうしたお坊さんにあるのでしょうか?。どれだけ仏教を理解し、悟りを得たのか?。聞いてみたいですよね。さも偉そうに説教をするけど、本当にわかって言ってるの?と聞きたいですな。
かたや所得(収入)の少ないお坊さんもいます。貧しくとも一生懸命に檀家さんやら信者さんのために働いているお坊さんもいますな。そう言うお坊さんの方が多いんですけどね。でも、金持ち、金満家の坊さんが目立つんですよねぇ。真面目なお坊さんにはいい迷惑ですな。
金満坊主なんて批判されないように、お坊さんは本来の所得を増やすべきでしょう。どれだけ仏法を理解したか、どれだけ悟ったか・・・。その所得を増やすことが僧侶の勤めですな。

ちなみに、お坊さんも税金は納めております。勘違いされている方が多いと思いますが、お坊さんも給料です。源泉徴収されますな。税金がかからないのは、土地や建物ですね。つまり、固定資産税はかかりません。また、法人税もありません。ただし、宗教以外のことを事業としてやっていると法人税がかかりますし、固定資産税もかかってくる場合があります。たとえば、駐車場経営とか、土地を貸したり建物を貸したりとか、宿泊所経営とか、貸しホール経営とか、ですね。驚くのは、ラブホや風俗店を経営しているお寺があることですな。実際にあるんだそうですよ。びっくりですね。その寺の住職の見解を疑いますよ。まさに所得を疑いますな。でも、法律には違反してません。一応、何を経営してもいいことになっております。あぁ、そういえば、幼稚園をやっているお寺は多いですな。これはいいことでしょう。幼いころから手を合わせることを教えるのはいいですね。
とまあ、お坊さんも税金は納めておりますな。坊主丸儲けではありません。固定資産税・法人税がかからないというだけですね。ま、それだけでもありがたいのですが。

そう、固定資産税がかかっていないということは、お寺の建物・・・本堂や庫裡・・・は、個人のものではないのですな。あくまでも宗教法人のものです。ですが、現状は、多くのお寺が世襲制をとっており、住職の家族で仕切っておりますな。まあ、いわば公共の建物を私物化しているようなものです。
もっとも、住職と言う仕事柄、常にお寺にいるのが基本です。いつ亡くなった・・・という連絡があるかわからないですからね。なので、お寺に住まわざるを得ないですな。となれば、自然と庫裡が住職家族の居場所となりますな。で、世襲となれば、その一家で代々続けていくことになります。個人のもののようになってしまいますね。
でも、修繕や建て替えの時は、檀家の寄付なんですよねぇ。自分のお金で立て替えしないんですよねぇ。こういうところが、庶民のやっかみを買うところなのでしょうな。で、高級車を乗り回されたりしたら、そりゃあ腹も立ちますわな。
なので、私は世襲が嫌いなのです。寺は個人のものじゃありませんからね。ま、それはお坊さん個人個人の考え方の問題ですし、個人の自由だとは思いますけどね。まあ、少しは慎んだほうがよかろうかと、そうは思いますな。
話が脱線してしまいましたが、お坊さんは、本来の所得を増やすべきでしょうな。日ごろの反省を込めて、そう思いますな。
合掌。


178.交通
最近、煽り運転して事故につながる、あるいは暴行事件になるようなことが起きていますね。運転をしているとイラつくことはあると思いますが、自分一人の道ではないということを自覚してほしいですな。
昔は、交通戦争などと言われ、交通事故で亡くなる方が大変多かったですな。近頃は交通事故で亡くなられる方は年々減ってきてはいるようです。しかし、ゼロになったわけではありませんな。交通事故の犠牲者は、なくなったわけではありませんな。運転をされる方は、くれぐれも気を付けて運転をしてほしいですね。最近では、サポートカーなる車も登場し、安全性は高まっていますな。しかし、結局のところは、車を扱う人間の問題になってきます。イライラせず、交通ルールを守って運転しないといけませんね。
ところで、仏教語では交通は、全く意味が違ってきます。お釈迦様がいらした当時も、馬車や荷車による交通事故はありました。荷車なんかに人が轢かれてしまうこともあったようです。しかし、そうした事故のことを交通事故とは言いません。なぜなら、交通とは、まったく別の意味だからです。今回は、仏教語の交通についてお話いたします。

現在使われている交通については、その意味を確認するまでもありませんな。しかし、念のために新明解国語辞典によりますと
人や乗り物が道路や線路などを通って、行ったり来たりすること。
とあります。うまく説明してありますよね。ホント、国語辞典って説明がすごいですな。
さて、では仏教語の交通はどうなんでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと、何と驚きです、こんな意味が書いてありました。
@お互いに行きかうこと
A男女の交わりをなすこと。
びっくりでしょ。まさか男女の交わりとは!、ですよね。
ちなみに、仏教語では「交通」は「こうつう」とは読みません。「きょうつう」と読みます。

そもそも「交(きょう)」自体が男女の交わりを意味しています。通は、主に神通力系の意味が多く、一応「通じる」と言う意味がりますので、それと「交」がくっついて、男女の交わりと言う意味になったのでしょう。
なお、「通」については、以前に説明してありますので、そこを参考にしてください。もっとも、江戸時代には不倫のことを「密通」と称していましたな。なので、「通」自体にも、日本では「男女の交わり」の意味も多少はあったのでしょう。ちなみに、江戸時代は不倫は「不義密通」と言いまして、不倫した男女を重ねて真っ二つに切るという処罰だったそうですな。これを「不義密通はたたんで四つ」などと言います。男女を重ねて切れば、身体が四つになる、ということですね。恐ろしいですな。今、そんな処罰があったら、そこらじゅう、4分割された男女の死体だらけですな。

それにしても、仏教語の「交通」を現代に適用したら、「交通手段」なんてとんでもない言葉になってしまいますね。「男女の交わりのための手段」ですからね。
しかし、好きな相手と会いたい、と思うのは、誰でも同じ思いですな。お互い好きになれば、「交通(きょうつう)」したい、と思うのは、それは当然のことでしょう。お互い独身同士ならば、それは悪いことではありませんな。まあ、たまにロクでもない相手を好きになって・・・と言う場合はありますけどね。で、後先考えず、その場の流れで「交通(きょうつう)」してしまったら子供ができてしまって・・・なんてこともありますな。この場合は、あまり喜ばしいことではありませんな。まさしく「交通(きょうつう)事故」ですね。こんな言葉は仏教語にはありませんが・・・。

結婚していても異性を好きになることはあるでしょう。それは人間である以上、仕方がないことかな、と思います。しかし、好きになるのはいいけど、それ以上の関係は、そこはわきまえないといけませんな。間違っても「交通(きょうつう)」してはダメですね。下手すりゃ「交通事故」を起こしますな。お互いの配偶者にバレた日にゃあ、事故ではすみませんな。大きなもめ事に発展してしまいます。それこそ「交通戦争」になることもあるでしょう。
いやいや、今も昔も現代語も仏教語も「交通」には、怖いものがありますな。一つ間違えば、大きな事故につながってしまいます。事故にならないよう、交通には気を付けたいですな。
合掌。


179.律儀
官僚と言えば、堅苦しい人・真面目な人・仕事熱心な人・融通がきかなさそう・・・というイメージがあると思うのですが、あんなにくだけた人もいたのですね。官僚の役職の人は、下品なことなんぞ言わないと思っていたのですが、まあなんとお下品な。案外、お堅い職業の人のほうが下品なのかもしれませんな。坊さんもそうですが・・・。まあ、なかなか律儀な人は少なくなったのかもしれませんねぇ。
律儀は、一般には「りちぎ」と読みますが、これが仏教語となると「りつぎ」と読みますな。今回は、この「律儀」に関しまして、律儀に語っていこうかと思います。

まずは、一般的な「律儀(りちぎ)」の意味を確認しておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
まじめ一方で、融通がきかないと思われるほど、自分の信条に忠実な様子
とあります。まあ、そのままですな。で、「律儀な人」と言えば、真面目で堅苦しい人、というイメージですね。まるでお役人、官僚、と言った感じですな。外見上ですが・・・。
では、仏教語の「律儀(りつぎ)」はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
抑制する、防止する、などを意味する動詞。(中略)悪を抑制するものを意味し、善行のことをいう。身を制すること(以下略)。
とあります。律儀は動詞だったんですね。抑えるとか、防止するという意味だったんですねぇ。そこから、自分自身の行動を抑制し、悪いことをしないで善いことをする、と言う意味になったのですな。
ここでは略しましたが、もとはジャイナ教の言葉だったそうです。それを仏教も取り入れたのだそうです。

ジャイナ教といえば、戒律は仏教よりも厳しかったようです。まずは、衣装を身に付けないですね。真っ裸です。なので裸形の集団とも言われていたようですな。ちょっと嫌われていた面もあったようです。で、食事は接待が多かったようですが、肉や乳製品は口にしなかったそうです。いつも裸で肉や乳製品を口にしないで修行していたわけです。まあ、律儀ですな。決まりごとに律儀であることがジャイナ教の一つの修行だったのでしょう。ちなみに裸形は、一切の執着から離れる、ということを意味しております。肉や乳製品を口にしないのは、完全な菜食主義ですね。まあ、それもこだわりなんですけどね。

仏教はちょっと違いますな。律儀と言う言葉は取り入れましたが、裸形ではありません。むしろ、お釈迦様は「裸でウロウロするのは下品で、醜い、汚い」と言っております。なので、仏教修行者は絶えず清潔にしていること、裸を見せない、上品にふるまうことを徹底していましたな。なので、民衆からも人気があったのです。ジャイナ教の修行者は、不潔だったのでしょう。まあ、そりゃそうですよね、あんなものをぶら下げたまま、家の中に入ってこられちゃあ、ちょっとねぇ・・・ドン引きですわ。せめてお盆で隠して欲しいですな。
実際、若いお嫁さんとかお嬢さんがいる家庭にも入り込んできて、その一物を見せつけて喜んでいた・・・などと言う話も伝わっておりますな。戒律は厳しいのかも知れませんが、中身がそれじゃあねぇ、嫌われるでしょう。やっぱり、隠すべきところは隠さないとねぇ。見たくはないですな。

「律儀」はジャイナ教の言葉だったかもしれませんが、「律儀」を実践していたのは、ライバル宗教の仏教の修行者だったと言うのは、皮肉なことですな。ジャイナ教の修行者は、律儀を唱えながらその意味を理解していなかったのでしょうかねぇ。まあ、自己の抑制がうまくできないでは、修行者としては尊敬されませんな。

そう思うとジャイナ教の修行者、なんだかどこかの官僚だった人に似ていますな。もし、今ジャイナ教の修行者がいたら、思いっきりセクハラですな。まあ、わいせつ罪でも逮捕ですが・・・。彼の官僚の方も自己の抑制ができていなかったのでしょうな。悪の心を抑制し、善行をしていれば官僚のトップを辞めずにすんだし、恥もかかずにすんだのにねぇ。律儀でなかったことにより、大恥をかきましたな。スケベ官僚ですね。

せめてそう言う立場にある人、律儀な姿を見せていなければいけない人は、そのまま律儀であってほしいですね。地金のスケベさを出したいなら、そう言う店に行けばよろしいですな。ちゃんと立場と場所と状況をよく考えて欲しいものです。いくら相手の記者が美人で魅力的だからといって、言っていいことと悪いことがありますな。ましてや、エロイことを言って相手も喜んでいるなんて思うのは、男のエゴですな。相手は、本心では嫌がっていることもあるのです。言われたくない言葉があっても顔に出さないでご機嫌を取っていることもありますからね。

自分の欲望を抑制し、相手に不快を与えないようにする・・・。ちょっと気が緩むと、そんなことはすぐに忘れてしまいそうですな。絶えず律儀でいるというのは難しいことかもしれません。もともとそういう人ならばいいのでしょうけどね。まあ、そんな堅苦しい人は、周囲からちょっと敬遠されることもありますしね。なかなか加減が難しいですな。
それでも、やはり自分の立場や相手の立場、その時の状況などによっては、律儀であらねばならないこともあるでしょう。気を抜くことも必要ですが、職場や職業上の相手と話す時であれば、律儀であるべきでしょうね。
あぁ、そう言う自分も気を付けないといけないですな。結構、セクハラ的発言をしているかもしれません。まあ、あまり律儀すぎても話が通じないこともありますが、あまりくだけすぎても誤解を招きますな。その線引きが難しいですね。
しかし、僧侶たる立場上、いつも律儀あらねばならないでしょうね。ちょっと息苦しいですけどね、気をつけましょう。
合掌。



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