えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー20

180.奈落
最近は、歌舞伎も変わってきていてアニメ作品なども歌舞伎にしているようですね。まあ、私は歌舞伎は見ないので、詳しいことは知りません。その伝統も歌舞伎がどんなものかもよく知りません。知りませんが、歌舞伎役者さんがTVに出たり、いろいろと宣伝していることは見かけます。そうしたものを見ると、素人なりにも・・・知らないくせに・・・あぁ、歌舞伎も変わってきているんだな、などと思います。
よく知らない歌舞伎ですが、舞台に仕掛けがあることは知っています。舞台が持ち上ったり、下に落ちたりするようですね。その舞台の下を「奈落」と言うそうで。たまに、その奈落に落ちてケガをしたりする役者さんもいるそうで。ケガをするくらい深い床下なんだな、という感想しかないのですが、まあ奈落とは言い得て妙だな、とも思いますな。舞台の床下を奈落と名付けた方のセンスは、ある意味大したもんだな、と思いますな。
この「奈落」、実は仏教語ですな。ご存知の方も多いでしょう。今回は、この奈落についてお話いたします。

一応、念のために「奈落」を国語辞典で確認しておきます。新明解国語辞典によりますと
@「地獄」の意味の梵語の音訳。
A劇場の舞台の床下。
とあります。関連として「奈落の底」という言葉の意味も載っております。
二度と脱出出来ない、深い地獄の世界。
とありますな。奈落の底は、そうですね、昔の映画・・・時代劇やギャング映画などで「奈落の底へ突き落してやる」などと言うセリフに使われておりますな。最近では聞きませんねぇ。まあ、時代がかったセリフになりますな。

新明解国語辞典にもありますように、「奈落」は仏教語ですな。まあ、これでもいいのですが、一応、念のためにお馴染みの仏教語大辞典でも確認しておきましょう。
narakaの音写。地獄。那落迦の転訛。
仏教語大辞典ではこのようになっておりますな。つまり、元はnarakaというサンスクリット語の音写で、本来は「那落迦(ならか)」と書き、称していたものです。それが、いつの間にやら「奈落」になまってしまったのですね。意味は、地獄です。
奈落になまったのは、意外に古く、鎌倉時代には「那落迦」よりも「奈落」が主流になっていたようです。まあ、ナラカと発音するよりもナラクと発音したほうが、日本人には言いやすいですから、奈落が主流になっていったのでしょう。

それにしても、なぜ舞台の床下を奈落と呼ぶようになったのでしょうか?。意味を知っていれば「縁起でもない」と言われそうなんですけどね。
一般的には、深く暗いところだから、と言う理由から奈落と呼ぶようになったそうですが、別の理由もあるのだそうです。
舞台の奈落は、通常、花道の下にあるのだそうです。歌舞伎で通るあの花道ですな。あの下にあって、床が沈んだりせり上がったりする舞台装置にもなっておりますな。もちろん、舞台下の通路にもなっております。床下に沈んだ役者さんが、床下の通路を走って反対側に出てくる・・・なんていうシーンにも使われますな。
その花道の下の奈落ですが、昔から時折事故があったそうです。役者さんが落っこちたり、挟まれたりしたんだそうですね。なぜ、そんな事故が起きるのか・・・。まあ、人々はいろいろと勘繰るのですな。
「表舞台の花道を通る役者を妬んで、その嫉妬心が凝り固まり事故が起きるのだ」
「誰かが主役を取りたくて事故を起こしたのだ。嫉妬のせいだ」
などと噂も出るようになるのですな。まあ、それは仕方がないですね。なんせ、事故にあうのは主役の役者んさんです。人気役者さんですからね。嫉妬はされるものです。

人間の嫉妬は恐ろしいですからね。嫉妬による殺人とか、刃傷沙汰は昔から・・・いや、昔の方が・・・取り沙汰されていますな。江戸時代の物語なんぞは、嫉妬に燃える男女の物語とか、心中ものとかが人気でしたからね。歌舞伎の演目もそうしたものが多かったことでしょう。江戸時代の人の方が、現代人よりも嫉妬に敏感であり、身近に感じていたかもしれません。そして、その嫉妬の行く末は不幸な結末である、ということもよく知っていたのではないでしょうか?。
嫉妬の果ては地獄行き・・・。
江戸時代の人たちは、それをよく知っていたのではないかと思いますな。現代人よりもね。だから、花道の下で起きる事故も「嫉妬によるのではないか」と疑ったりもしますな。で、その行きつく先は「地獄」です。つまりは「奈落」ですな。そうした背景があり、劇場の舞台下を「奈落」と呼ぶようになった・・・という説もあるのだそうです。この説は、ちょっと怖いですね。しかし、歌舞伎らしいと言えば歌舞伎らしいとも言えますな。まあ、そこには、いろいろな嫉妬が渦巻いていたでしょうからね。

嫉妬は恐ろしいものです。本人は気が付いていないけど、知らないうちに嫉妬していた・・・ということもあります。根も葉もないうわさ話の出どころなんぞは、嫉妬心から生まれるものですからね。
誰かがある人のことを気に入らなくて、その人が困るような噂話を勝手に作って流してしまう・・・。
こうしたことは、日常でよくある話ですな。まあ、よくあってはいけないことなんですが・・・。で、気に入らないというのは、その思いの根底には、嫉妬心があるのですよ。妬み、ですね。
「あいつばかりいい思いをしやがって」
「何であの子ばかりひいきされるの」
こうした嫉妬心が元で、くだらないウソの噂話やいじめが始まるのですな。

人が人を蹴落とそうとするときや攻撃するときは、その根底には嫉妬心がありますな。本人は、気付いていないこともあります。イジメていた本人に
「嫉妬からそういうことをするんでしょ?」
と尋ねると
「嫉妬?、何であんな奴に嫉妬なんかするの?。そんなわけないでしょ」
と答えが返ってくることが多いですな。ですが、それは本人が気が付いていないだけです。本人は、きっと気に入らないからイジメた、と言うでしょうが、その気に入らないが、実は嫉妬から来る思いなのですな。どこかで嫉妬しているからこそ、気に入らないのですよ。嫉妬とは、そのように隠れてしまうこともあるのです。ですから、気が付かないうちにイジメやつまらないウソの噂話を流したりするという行為に走るのですな。
他人のことをとやかく注意したりからかったりするのも、嫉妬心が元ですね。どこかでその人のことを嫉妬しているからこそ、その人のことが気になるのです。気になるからイジルのですな。それは、嫉妬心が元なのですよ。

嫉妬は恐ろしいです。知らない間に自分の心を蝕んでいきますな。
「なんであいつばかりいい思いをするのか」
「なんであの子ばかりひいきされるの」
などと言う思いが心に存在し始めたら要注意ですな。それが大きくならないように、心掛けないといけません。でないと、嫉妬に心を奪われてしまいますな。
そうなってしまったら・・・。行きつく先は奈落ですね。そう、地獄です。死んでから落ちるのではなく、生きているうちに落ちてしまいますな。
いつもいつも相手への嫉妬でイライラし、「あんであいつばかりが・・・」などと苦しい思いをし続けることになります。それは、もう地獄でしょう。嫉妬心が強いと、生きていくのは辛いですね。いつもマイナス思考になり、自分がみじめになり、自信がなくなっていきますな。しかも、友人もできにくいですね。周りに理解者はいなくなっていきます。つまり、孤独ですな。
嫉妬心が強く、その嫉妬心に支配されてしまいますと、孤独と言う地獄しかないのですよ。奈落の底に沈んでしまいますな。生きているうちに・・・。

劇場の舞台下、歌舞伎の花道の下を奈落と呼んだのは、まさに言い得て妙、と言えるでしょう。嫉妬の渦巻く世界で、その嫉妬にとらわれてしまえば、奈落に落ちていくのです。
ひょっとしたら、奈落の底に落ちないよう、嫉妬の心を持たないよう、あえて舞台下の深くて暗い闇のことを「奈落」と呼んだのかも知れませんね。ここに落ちないように注意しろよ、という警告の意味で。

嫉妬心は、あなたの中にも潜んでいるかもしれません。他人を妬まないように注意してくださいね。もし「なんであいつばかり」とか「なんであの子ばかり」という思いが浮かんだら・・・それは嫉妬心の始まりです。つまりは、奈落の底への入り口に差し掛かったということです。
入り口から滑り落ちないよう、どうぞご用心くださいね。
合掌。


181.凶暴
このところ、凶悪な事件が多いような気がします。ナイフで人をさすとか、ナタで切りつけるとか・・・。一つそうした事件が報道されると、次から次へと似たような事件が報道されるんですよね。あれって、伝染するものなのですかねぇ。TVニュース見て、俺も真似しよ、とか思うんですかねぇ。逮捕された、ってニュースなんですけどね。自分は捕まらない、とか思うんですかねぇ。もしそうなら、浅はかなことですなぁ。
しかし、最近の人間って、ちょっと凶暴化しているんですかねぇ。殺人事件までとは言わないまでも、煽り運転とかもありますし、妙なクレーマーなんぞも増えているようで・・・。皆さん、イライラしているんですかねぇ。それで凶暴化?ですか?。困ったものですなぁ。
ところで、「凶暴」という言葉、仏教語ではちょっと意味が違っておりますな。まあ、基本的には同じなのでしょうが、少々限定されております。今回は、そのあたりをお話ししていきます。

一応、念のために「凶暴」の一般的な意味をおさえて置きましょう。新明解国語辞典によりますと、凶暴とは
非常に乱暴で、人殺しなど平気でする様子。
とありますな。まあ、その通りですね。関係のない女性をネットで集めた男たちで誘拐し殺害し埋めてしまう・・・なんてことができてしまう者は、やはり凶暴ですな。新幹線の中でナタを振り回し他者に危害を加える、殺してしまう・・・凶暴ですな。結構な高齢者でも、刺したり首を絞めたり・・・なんて凶暴な行為をする人もいますからね。安心して世の中歩けませんな。いつ、凶暴化した人間に出会うかわからないですからね。家に引きこもっていたほうが安全かも知れませんな。

一方、仏教語の「凶暴」ですね。こちらをお馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
末世の人びとが争い闘うこと。
とあります。ちょっと違いますよね。「末世」限定です。しかも、人々が争い闘うこと、なんですな。個人的に荒々しくなるわけではありません。もっと人間全体的な意味合いになってきます。仏教語の凶暴は、個人的な凶暴ではないんですよ。
ちなみに、個人的な凶暴・・・現代語の凶暴・・・の場合は、仏教語では「兇暴」の文字を使います。こちらが「暴力を使いあらあらしい者」という意味になりますな。

さて、問題はこの「末世」ですね。「末世」とはいつなのか、です。仏教語大辞典によりますと
末の世。後の時代。末代。末法の時代。仏法の衰えた世。つまり、現代、その当時をいう。
とあります。まぁ、ちょっとよくわからないですよね。ここで大事なのは、「末法の時代」です。末世とは「末法の時代である」のです。
仏教では、お釈迦様が涅槃に入ってから(亡くなってから)、正しい教えが千年(五百年という説もある)しか続かない、と説いています。この間のことを「正法」と言います。で、次の千年は、まあ何とかそれらしい教えが残っている時代ですな。この時代は、修行をする者はいるけど、悟りを得る者がいなくなるんですね。一応、正法に似た教えを実践はしているので、この千年を「像法」といいます。
お釈迦様が滅して2千年も過ぎてしまうと「末法」の時代に入るのです。この「末法」の時代は、仏教は教えは残っているけど、それを実践する者もなく、悟りを得ようなんて思う者もなく、修行もせず、悟りの証もなく、やがて仏法も滅して救いがたい世の中になる・・・と説いているのです。末法が過ぎて滅法になっていくんですな。ちなみに、末法の時代は1万年続くのだそうです。その後、滅法の時代ですね。

お釈迦様が入滅したのは、今から約2千5百年前のことですな。ですから、およそ5百年前から末法の時代に入っております。5百年前というと、西暦で1500年代ですね。戦国時代ですな。世の中は乱れに乱れている時代ですね。比叡山の焼き討ちがあったのが1571年ですな。当時の比叡山の僧侶は、修行なんぞはそっちのけで、僧兵となっていましたな。武士のごとくふるまっていたわけです。それだけではありませんな。なんと酒池肉林の世界があったそうです。比叡山の坊さんが酒池肉林ですよ。さらには、大名のような権力をかざしていた時代でもありますな。世の中を平定しようとした信長に逆らって・・・いろいろな既得権益が奪われますからね・・・信長打倒を各大名にあおったりもしましたな。ま、それで信長が激怒し、比叡山焼き討ちへと流れていくのですけどね。
まさしく、末法の世ですね。坊さんが修行を忘れ、権力をかざし、肉を食らい、女性を抱いていた時代です。そんなころから末世になっているのですな。なので、人々が争い闘う時代であっても仕方がなかったのかもしれませんね。
ちなみに、歴史的には、平安後期に末法の世に入った、と信じられていたようです。そのように当時の僧侶が吹聴したのですな。これは、お釈迦様の入滅の年代が紀元前949年だという説が信じられていたからです。その当時は、お釈迦様は、紀元前約千年くらいに入滅したという説だったのですよ。なので、平安後期が末法の時代の始まりとなりますな。

戦国時代以来、今は末法の世の中です。ま、その間に江戸時代という比較的平和な時代を挟んでおりますが、その後、幕末の動乱を経て、明治時代以降は戦争の時代ですね。富国強兵などと言って、植民地政策に日本も突入していきますな。人々が争い闘う時代ですね。
戦国時代という戦争の時代を経て江戸時代という平穏な時代へと流れていきました。明治時代以降の戦争の時代を経て、今は一応平和な時代ですな。ま、薄氷の上の平和かもしれませんが、とりあえずは平和ですね。
江戸時代でも、当然、凶悪な人もいたでしょうし、凶暴な人もいたでしょう。なんせ、侍が刀を差して歩いていた時代ですから、殺傷事件なんてのも日常的にはあったことでしょう。ただ、多くの人々が争い闘っている時代ではないですな。
現代も多くの人々が争い闘っている時代ではありません。ですが、殺傷事件や殺人事件は、毎日のようにニュースで報道されていますね。日常茶飯事・・・とまでは言いたくないですが、よくある話となっております。

末法の時代だから仕方がない・・・というのは、言い訳ですな。これは、仏教の言い訳だと私は思います。「末法の世の中だから、人々が荒れても仕方ない」と言った時点で、負けておりますな。末法思想は、そのまま放置すれば「仏教の敗北」となるでしょう。
末法の世の中であるからこそ、僧侶は、正しい仏教を説くべきなのですな。正しい修行をして、すこしでも荒れた心を和ませるような教えを説いていくのが、現代の僧侶の勤めなのでしょう。それを忘れている僧侶がいかに多いことか・・・。
末世、末法の世にこそ、真の僧侶であるべきなのですな。凶暴な時代にならぬよう、今の平和が真の平和になるよう、願いたいですね。
合掌。


182.行儀
「行儀が悪い」と叱られた方はたくさんいるのではないでしょうか?。最近の若い方は叱られたことはないですかねぇ?。私たち世代は、例えば、肘をついて食事をしたりすると親や祖父・祖母などから「行儀が悪い」と怒られたと思います。どのあたりの世代までが「行儀が悪い」と叱られたのでしょうか?
そういえば、TV番組の食事のシーンで、帽子をかぶったまま食事をしている場面を目にします。私はこれがダメでして「なんて行儀の悪い」と思ってしまうんですな。食事の際は帽子を取るのが当たり前と思っていたのですが、どうやら最近はそうではないようです。帽子をかぶったままの食事には、違和感を覚えますな。でも、あれって本当は行儀が悪いですよね?。そう思う方は、古い世代の方ですかねぇ・・・。
ところで、この「行儀」ですが、この言葉、実は仏教語なんですな。仏教の言葉が一般化したものです。今回は、行儀の語源についてお話いたしましょう。

とりあえず、現代の「行儀」の意味について抑えておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
礼儀にかなっているかどうかの観点から見た、日常的な動作や対人態度。
とあります。つまり、礼儀正しい立ち振る舞いのことですな。行儀がいいと言えば、礼儀にかなった立ち振る舞いですし、行儀が悪いと言えば、礼儀正しくないのですな。つまり、行儀が悪いのは、失礼なのです。
一人で食事をしているならいいですが、誰かと一緒に食事をした場合、肘をついて食事をしていれば、そりゃ失礼というか、みっともないですな。礼儀はなっていないですね。

では、元の行儀・・・仏教語の行儀ですね・・・はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@行為の規則。行為の仕方。ふるまい。威儀。
A仏事の方式・作法。行事の儀式。
B浄土宗では、尋常・別時・臨終の三種行儀があるとする。
Cやり方。方針。
?一般にたちいふるまいの作法。
とあります。結構、いろいろな意味があるのですね。

おそらくは、@の意味での「行儀」の使われ方が、一般にも使われるようになったのでしょう。そもそも、各宗派において、儀式の際に「行儀がいい」とか「行儀が悪い」などと言っていたのでしょうね。上の@とAをあわせて使ったのですな。そうした儀式の光景を人々も見ていたのでしょう。有力な信者ならば、儀式の練習や裏側も見たかもしれません。そこで先輩僧から「行儀が悪い」などと注意を受ける若い僧がいたのでしょうな。で、それが次第に一般に広まり、人々もその立ち振る舞いに対して「行儀がいい」「行儀が悪い」と言うようになったのでしょう。

ちなみに、私たち周辺では、儀式の際、出来栄えが悪くても「行儀が悪い」などとは言わないですねぇ。私は聞いたことがありません。高野山本山では、ひょっとすると儀式の練習の際に「行儀が悪い」などという言葉があるのかもしれません。私なんぞは、本山の儀式に参加できるような身分ではないので、そのあたりはわかりませんな。ともかく、私の周辺、仲間寺との行事やイベントごとでは、練習の際「行儀が悪いっすねぇ」ということは言わないし、終わっあとの反省会でも「あそこは行儀が悪かったな」などということもありませんな。きっと、かつてはそう言ったのでしょうね。もともと仏教語だったのに、仏教側では使用しなくなり、一般での使用の方が多くなった・・・という言葉ですな。
もっとも、他宗派のことは知りません。よその宗派では、今でも儀式等の際に使っているかもしれませんな。
なお、Bは、普通の時・特別な時・臨終の時の立ち振る舞いのことですね。通常の行儀があれば、特別な時の行儀もあり、死に望む際の行儀もある、ということですね。まあ、修行者たるもの、どんなときにもしっかりした落ち着いた立ち振る舞いをしなければいけませんな。
また、@の威儀については、バックナンバー3の「威張る」を参考にしてください。そこに詳しく書いてあります。

最近では、「行儀が悪い」という言葉もあまり聞かなくなってきましたな。「マナーが悪い」ということが多くなったのではないでしょうか?。
「そりゃ、マナーが悪いよ」、「マナー違反だ」
などというようになったのではないかと思いますな。いつの間にか、「行儀」が「マナー」にとってかわられたようですな。行儀とマナーでは、ニュアンス的に、若干違うような気もしますけどね。マナーは公共の場での立ち振る舞い、行儀はその人自身の立ち振る舞い、なのだと思いますが、まあ、細かいことはいいでしょう。個人的に立ち振る舞いがしっかりしていないと、公共の場での立ち振る舞いもよくないことになりますからね。
それでも、昔のような・・・私たちが子供のころのような、昭和40年代のころのような・・・行儀に対するうるささは、無くなってきたのではないかと思いますな。冒頭にも書きましたが、私が子供のころは、帽子をかぶったまま食事なんぞをしたら張り倒されましたからね。で、そのまま食事抜きですな。もちろん、そんな教育の仕方はいけませんけどね。
そういえば、とある座敷の食堂で、片足を立てて・・・立膝で・・・食事をしている若い女性を見たことがあります。まあ、何と行儀の悪い、と思いましたが、その若い女性の目の前には、ご両親ですかねぇ、年配の方が座っておりましたな。行儀が悪い、と叱ることはないのでしょうな。なんだか、ちょっと寂しいですね。こうして、きれいな立ち振る舞いの古き良き日本の行儀作法が消えていくんですねぇ。
ま、時代は変わっていきます。言葉も変われば、行儀もマナーも変わっていくのでしょう。古いと言われる人間は、そこに違和感を覚えるのでしょうが、それも仕方がないことなのかもしれませんね。その時代その時代の生き方があるのでしょうから。

帽子をかぶったまま食事をしている人を見ても、「行儀が悪いなぁ」などとは思わないようにしましょう。それも時代の流れなのでしょうから。
合掌。


182.チクショウ!
随分前に日本髪を結い、振袖を着て「チャンチャンカチャンチャカ」などと歌いながら、語りをして最後に「チックショウ〜!!」と叫ぶ芸人さんがいたことを覚えているでしょうか?。元はいい年をしたオッサンですな。そのオッサンが白塗りの化粧をして女形で登場していました。一時、結構売れてましたよね。まあ、一発屋の部類ですね。その人が最後に「チックショウ〜」と叫んでしまいたが、「チクショウ」って意外と結構使いますよね。普段でも「あっ、コンチクショウ」なんて言っている人がいますよね。男女を問わず。そう、女性でも「チクショウ!」って言いますからね。
まあ、きれいな言葉ではありませんな。でも、何かちょっと失敗したとき、ちょっとうまくいかなかったとき、思うようにならなかった時などに、ついつい「チクショウ」って言ってませんか?。
「そんな言葉、私は言ったことがない」
なんていう人はいないですよね。誰でも、一度は言ったことがあると思います。今回は、その汚い言葉の「チクショウ!」についてお話しします。

「チクショウ」の言い方もいろいろありますよね。「コンチクショウ」と言ったり「チクショウメ」と言ったり、二つを合わせて「コンチクショウメ」と言ったり・・・。まあ、どれも同じですけどね。「コンチョクショウ」は「このチクショウ」から来てますし、「チクショウメ」の「メ」は強調でしょう。二つ合わせたのは「このチクショウめ、このチクショウめが」という言い方が元ですね。独り言でつぶやくときは、「あ、チクショウ」ですが、誰かに対して、何かに対していう時は「コンチクショウ」あるいは「コンチクショウメ」、コンチクショウメが」になるのでしょうな。いずれにしても「チクショウ」なのです。で、この「チクショウ」は、「畜生」ですな。そう、動物の畜生です。いや、元は「畜生道」の畜生ですね。

「畜生」とは、現代では「動物」のことを言いますな。まあ、見下げた言い方ですけどね。家畜にしても「畜生」といえば、その家畜を見下げている言い方になりますな。しかし、家畜ももとは「家で飼っている畜生、家にいる畜生」の略語ですからね。家畜はいいけど、畜生はダメと言うのは、なんだか変ですが、まあ、印象ですかかねぇ。畜生のもとの意味がいけませんからね。
「畜生」は、元は仏教語ですな。仏教語大辞典によりますと
六趣・十界の一つ。性が愚鈍で世人にたくわえ養われるもの。牛・馬などの哺乳動物。また鳥や魚なども含めていう。生前に悪行の多い者は、死後、畜生に生まれるといわれる。性質が愚癡で、貪欲・淫欲だけをもち、父母・兄弟の別なく害し合い、苦多く、楽の少ないいきもの。けだもの。動物。
とあります。

六趣とは六道のことですね。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの世界のことです。生きとし生けるものは、死後、この六種類のどこかに生まれ変わりますな。畜生・・・つまり動物の世界は、その生まれ変わりの世界でもあるのです。従って、死後に動物に生まれかわることもありますな。逆に動物から人間界へ・・・と言う場合もあります。六道の中でどこにどう生まれかわるかは、生き方次第ですね。
畜生道に生まれ変わる者は、まず第一に愚鈍であるのだどうです。愚鈍で、自分では稼げなくて養ってもらうしかない者、なんですが、これは障碍者のことを言っているわけではありません。健常者のこと、です。誤解があるといけないので、仏教語大辞典の内容を現代の人にもわかりやすく書き直しましょう。

畜生道に生まれ変わる者は、働けるのに働かない者であり、愚かで愚痴ばかりを言っていて、貪欲であり、性欲過多であり、家族ともめ事ばかり起こしている者です。こういう者は、苦労は多く、楽は少ないですな。こういう者が、死後、畜生道に生まれかわるのです。
おいおい、こっれて「働いたら負け」なんてうそぶいて、ネットやゲームばかりして、家族に食事の用意をさせ、文句ばかり垂れ、「こうなったのもお前が悪い、親が悪い、社会が悪い」などと怒りまくり、自慰行為だけはせっせとやっている、引きこもりのニート君じゃないですか。まあ、女性の場合もあるでしょうけど。
あぁ、哀れですな、引きこもりのニートさん。文句ばかり言って、働かないで養ってもらう人生を送っていると、それは動物と一緒と言うことですな。彼ら・彼女らは、一生懸命働いている人たちを「社畜」などとバカにしていますが、引きこもりのニートも同じですね。いや、社畜よりひどいですな。社畜と言われながらも、彼ら・彼女らは働ていますからね。社会貢献しています。家に引きこもって働かないニートよりは全然上位の存在ですな。生きながら畜生道に落ちるとは・・・恐ろしいことですね。

地獄・餓鬼・畜生は、生まれかわる世界の中でも「三悪道」と言われるくらい、苦しい世界です。畜生と言いますが、何も動物に生まれ変わるとは限りません。虫かもしれません。つまり、ハエやゴキブリになる可能性だってあるのです。家族に迷惑ばかりかけ、家族から忌み嫌われていると、死後はゴキブリの可能性十分ですな。嫌ですよねえ、生まれ変わりがゴキブリなんて・・・。そいえば、仏典の中にフンコロガシに生まれ変わったお姫様の話がありますな。あまりの傲慢さ贅沢、我がまま、自分勝手の果てが、死後、フンコロガシですよ。動物のフン・・・クソですな・・・をいつも転がしている存在ですよ、フンコロガシって。そんなものに生まれ変わりたくないですよね。

「チクショウ!」と愚痴るというかつぶやくのもいいですが、他人に対してはやめておいたほうがいいですな。自分が何か失敗して、「あっ、チクショウ。あぁ、もう・・・」と言うのはいいかもしれませんが、他人に対して「このチクショウめが」とか「コンチクショウが」と罵声を浴びせるようなことはやめておいた方が賢明ですな。そういうことをいう本人が畜生になることもあるかも知れません。
親や兄弟、否、他人も含めて、あまり愚痴ばかり言ったり、罵声を浴びせるようなことはよくありませんな。ましてや、周囲の者に依存ばかりして、ヤシナッテクレ〜なんて言っている引きこもりのニートは、畜生道まっしぐらでしょう。
社畜、大いに結構じゃないですか。生きながらに畜生道に落ちている者よりは優れていますよ。社畜になんてなりたくないよ〜、なんて言っている者こそ、社畜の人たちから「コンチクショウメガ」と言われてもいいでしょうな。社畜にすらなれない者がなにを言うか、とね。
私は、たとえ社畜と言われようが、大いに結構だと思うし、誇りに思っていいと思いますな。一生懸命に働いている人たちがいてこその、この世界なのです。働く人たちがいるからこそ、この世界は成り立っているのです。
引きこもりのニートが、ポテチを食べられるのだって、一生懸命に働いている人たちがいてのことでしょう。社畜とバカにすることなかれ。生きながらに畜生道に落ちておることを恥と知るがいいですな。このチクショウめが。
合掌。


183.影響
人は、生きていくうえで様々な人や物から影響を受けます。全く何の影響も受けない人はいないでしょう。その影響は、学校の先生だったり、親だったり、友達だったり、あるいは音楽や絵画と言ったものからもあるでしょう。そういえば、私なんぞは、中学の時、夜中にラジオを聞いていて、そのDJがしゃべる内容や、音楽・・・特にロックですな・・・なんぞの影響を受けましたな。クソ生意気なことを言い、部屋にロックンローラーのポスターを張り、大きな音でロックをガンガン鳴らしていましたな。今思えば、子供だったなぁ・・・と思いますね。
影響は、一生残るものもあるし、一時的に終わるものもありますね。いい影響ならば、一生残ってもいいですが、悪い影響を受けて、それが一生残ってしまうとなると、それは問題ですね。影響にも良し悪しがありますな。
さて、この「影響」と言う言葉、語源は仏教語なんだそうです。今回は、この「影響」についてお話いたしましょう。

まずは先に仏教語の「影響」について、お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。おっと、肝心なことを言い忘れました。仏教語では、「影響」は「えいきょう」とは読みません。「ようこう」と読みます。お間違えの無きよう、お願いします。では、その意味を・・・。
影と響きのこと。心があるとかないとかいうことにたとえていう。
とあります。いや〜、これではよく意味が分かりませんね。ともかく、「影響」とは「影や響きのこと」なのですな。とりあえず、これはこれで置いておいて、現代での影響の意味を国語辞典で見てみましょう。新明解国語辞典によりますと、
【影が形に従い、響きが音に応じる意】力や作用が大きく(強く)て、関係する他のものまで変化が及ぶこと。また、その結果。【狭義では、感化の意にも用いられる】
とあります。こちらの【】の中は、仏教語大辞典とほぼ同じですね。若干、国語辞典の方がわかりやすいかな、と思いますな。ただ、意味合い的にはちょっと違うような気もしますね。

仏教語の方は、あるとかないとか、そういう問題のようですな。影があるのかないのか、響きがあるのかないのか、という意味の方が強いと思います。心が場合によってはあるように、影も場合によってはあるし、響きもあるのでしょう。しかし、その実体はと言うと、どうなのでしょうか?
心の実体は?。あるのかないのか・・・。ある、と言えますか?。ないと言えますか?。あるけどない、ないけどある。それはまるで、影のようであり、音の響きのようでもありますな。
影はあるのでしょうか?、ないのでしょうか?。影はありますよね。太陽や光によって影はできます。しかし、その影を掴むことはできないですよね?。影を取り出せ、と言われれば、それは無理なことですな。じゃあ、影はないじゃないか・・・。とも言えます。あるけどない、のですな。
音の響きはどうでしょうか?。音は確かに聞こえます。耳が健常者の方ならば。でも、その音の響きは実際にあるのでしょうか?。響きは、空気の振動ですよね。音とは、空気の振動によって生まれています。ですから、空気が振動すれば、音は出ます。響きますな。じゃあ、その空気の振動を取り出してみよ、と言われれば、機械を使えばその振動を見ることはできるかもしれませんが、取り出す、掴む、ということはできないですよね。響きも、あるけどない、ものですな。
つまり、それは「空」ということですね。般若心経ですな。一切は、空なのです。あるけどない、ないけどある、のですよ。まあ、実際には感じることも見ることもできるけど、その実体はない、ということですね。空とは影や響きのようなものです。
これが、仏教語の「影響」の意味ですね。

では、一般の「影響」はどうでしょうか。もともとは、影か形に従い、響きが音に応じる、と言う意味でした。つまり、形によって影は変わるし、音によって響きも変わる、ということですな。影は形の影響を受けているわけですな。響きも同じですね。影も響きも本来は「無い」ものであるけど、形や音に応じて変化していることはあるのですな。そこから、影や響きは、何らかの変化をもたらすもの・・・となったわけですね。で、他に感化を及ぼす、という意味になったのでしょう。

元は無いものですが、それが何かしら自分に変化を与える・・・それが影響ですね。友達の考え方や、偉人の生き方、先生の思考、親の生活習慣など、それらは本来目に見えないものです。まあ、生活習慣などは見えますが、それは知らない間に子供のしみついていきますな。きっと、子供は家の生活習慣は当たり前と思って育ちますからね。だから、我が家だけのルールなんてのも生まれてきますな。生活習慣も、その家その家で異なるものであり、固定されたものではありませんな。そういう意味では、決まっていないものですから、実体はない、といっていいでしょう。
いずれにせよ、人は実体のないものに影響を受けながら生きているのです。

あなたはどんな事やどんなものに影響を受けてきたのでしょうか?。また、これから先、何に影響を受けながら生きていくのでしょうか?
その影響を与えるものが、とても良いもの・・・平和的な思想だったり、穏やかな生き方だったり、いい音楽、いい絵画や美術品だったり、様々あるでしょう。特に、美術品やいい音楽を聴くことは、心にいい影響を与えるのではないかと思いますな。そういえば、赤ちゃんには、モーツァルトの曲を聞かせるといいそうですね。ロックなどの激しい音楽は、あまり良い影響を与えないそうです。ロックは、もう少し成長してからですね。

ともかく、悪い影響だけは避けたいですな。友達だからと言って、悪い仲間になる必要はないですな。悪い仲間の影響なんぞは、避けたほうが賢明です。むしろ、そうした仲間には、自分がいい影響を振りまくくらいになったほうがいいですね。それが無理なら、さっさと縁を切るべきでしょう。

私たちは、普段、気が付かないうちに、いろいろな者から影響を受けて生活しています。意識しての場合もあるし、無意識のうちにの場合もあります。いずれにせよ、たまには自分を振り返ってみるべきですね。
「あれ、なんでこんな考え方したんだろう」
「あれ、いつの間にか、ファッションが変わっていないかい?」
「いったい、誰の?何の?影響を受けたのかしら?」
そう振り返ってみることも大事だと思います。
簡単に影響を受けない自分を作るのも大切ですからね。そう、影響なんてあってないようなものなのですから、まずはしっかりと自分を作っていきましょう。
合掌。


184.秘密
秘密と言えば、我々世代は「ひみつのアッコちゃん」と思い浮かべるのではないでしょうか?。そんなことはないですかね? それよりも「えっ?、知ってるの?」などと冷や汗が出てきますか? 
秘密は何かと言えば・・・ 誰にも言えないこと・・・まあ、誰にも言えないことだから、秘密なんですけどね。しかし、人はその秘密を言いたくなるのですな。そうして、秘密は漏洩するのです。ま、昔から人の口に戸は立てられぬ、と言いますからね。
さて、仏教語にも「秘密」と言う言葉があります。むしろ、こちらが先ですかね? 今回は、その「秘密」についてお話ししましょう。

一般で秘密の意味は、まあ皆さんよくご存じでしょう。ですが、一応、国語辞典で確認しておきます。新明解国語辞典によりますと、秘密とは、
隠して人に知らせたり見せたりしないこと。
とあります。その通りですな。
一方、仏教語の「秘密」は、どうかと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
@容易に人に知られない奥義・奥旨。深遠。凡夫にはわからぬこと。
また、仏が直接に明示して説かず、ある隠された意味をもって説くこと。
はなはだ奥深く微妙なので衆生にはわからないこと。
仏が非器(教えを受ける資格のない者)に対して説かないこと。
A大日如来の教え。密教。
B四教の一つ。自分一人だけが仏の教えを聞いていると思わせること。同じ教えを聞きながら了解のしかたが異なり、それをお互いに知らせぬような説き方。
とあります。たくさん意味がありますね。順に解説しましょう。

@の意味は分かりますよね。多いので、順に話しましょう。
容易に人にしられない・・・は、いわゆる、秘密の教えですね。奥義です。ちょっとやそっとの人には教えられないこと、ですな。相当、修行を積んだ者にだけ教えられること、です。
で、その教えとは、仏陀が直接的に教えたものではなく、何かの暗示で教えた内容ですな。暗示なので、普通の修行者にはわかりません。尊者と言われた弟子でもわかる者とわからぬ者がいたことでしょう。その暗示的な教えに密教があるのです。それについては後ほど話します。
また、奥深く微妙な教えなので・・・これを奥義と言うのですな・・・一般の人にはわからない教えなのですな。ですから、その教えを受けるだけの器を持った者にしか説かない教えなのです。
これが仏教語の「秘密」の意味ですね。

A大日如来の教えは、大日経などに説かれているのですが、これが容易にわからないのです。大乗仏典は、多くの一般の人々にわかりやすく仏教を説いたものです。なので、一般の人にも比較的わかりやすい教えです。また、優しい教えから順に難しい教えに向かって行くこともできます。それが大乗経典ですね。
ところが、密教経典は、大乗経典を極めた者でも理解が難しいのです。例えば、日蓮さんは、密教を学ぼうとして高野山にしばらく滞在していたのですが、密教はわからないと言って下山していますな。あの日蓮さんですら理解できなかったのです。というか、日蓮さんの性格・考え方では密教はわからないと思いますけどね。同じく、最澄さんも密教を理解できなかった方ですな。性格的に、日蓮さんに似ていますからね。というか日蓮さんが、最澄さんに似ているんですね。
密教は、@の非器の者には理解できないに当てはまります。密教が理解できる器として、基本的に視野が広いことが要求されますな。最澄さんや日蓮さんのように、「これだけ!」という性格の人には、まず理解不能でしょう。様々な考え、様々な生き方、様々な現象、様々な人々・・・そうしたものを受け入れる器がないと、密教は理解できません。これが基本ですね。そうでない人には、教えられないのですよ。なので、秘密の教えになるのです。秘密の仏教・・・それが密教ですね。

Bは天台宗の教えです。四教とは、天台宗独特の分類法で、お釈迦様の教えを内容・形式によって、
?三蔵教(小乗) ?通教(諸大乗経の通説) ?別教(小乗には通じない大乗特有の教え) ?円教(完全な教え。華厳の教え)と分類します。
また、教えの理解の状態を頓・漸・秘密・不定と四種に分類します。
初めの方の分類は、よくある分類です。小乗に始まって大乗に至り、最後は理解に難しい教えに至る(天台ではそれが華厳経の教えになります)ということです。
もう一つの方は、素早く理解するか(頓)、順に次第に理解す悟るか(漸)、自分一人だけが仏の教えを理解していると周囲に思わせるか(密)、揺るがない理解をしているか(不定)
ということです。(と書きましたが、天台の教えは詳しく知りません。間違っていたら訂正してください)

いずれにしても、仏教語の秘密の意味jは、「隠して人に知らせたり見せたりしないこと」という、現代語の秘密の意味ほど単純ではないようですね。仏教語には、
「それを示しても、話しても、理解できないから、隠しておこう」
と言う意味合いが強いですな。単純に隠しているわけではないのです。その隠している内容を理解できるものが現れたら、そのとき開示しようということですね。一般人の秘密とは、内容の深さが違いますな。一般人の秘密と言えば、浮気しているとか、ヘソクリがあるとか、と言う程度でしょう。まあ、大きなものになれば犯罪がらみの秘密もあるかも知れませんけどね。仏教語の秘密とは大きく異なりますな。

仏教の教えの中の秘密の教え・・・密教は、奥が深いものです。深遠なのですよ。だから、密教を学んだという真言宗系のお坊さんでも、密教を本当に理解している人は、少ないでしょうなぁ。という私自身も、完全に密教を理解しているかと問われれば、NOと言いますね。まだまだ、奥が深く、修行が必要ですな。

もし、あなたが何か秘密を抱えているなら、知人には話さないほうがいいですよ。
「大丈夫、絶対誰にも言わなから」
と言う言葉はあてにはなりませんな。人の秘密や約束なんぞ、軽いものです。簡単にばれますし、裏切られますな。でも、その秘密、やっぱり誰かに話したくなりますよね。一人で抱えるのは大変です。
もし、誰かに秘密を話したくなったら、お寺に行って仏様に話しましょう。聞いてくれるだけですけど、ひょっとしたら、何かの暗示をくれるかもしれません。それを読み取れる器が、あなたにあるといいですね。
あ、ちなみに、私の場合は、守秘義務があるので、秘密漏洩はありません。ご安心ください。
合掌。


185.小僧
「○○小僧」と言う言葉は、古くからありますよね。妖怪好きの私は、小僧と言えば「豆腐小僧」ですな。そう、京極さんの小説にも登場する小僧です。他には、「袖引き小僧」なんていう小僧もいます。
まあ、普通に思い浮かぶのは「腕白小僧」とか「いたずら小僧」とかでしょうか。最近では、小僧と言えば「小僧寿し」を思い浮かべる方もいると思います。でも、最近あまり見ないようになりましたね。人気が落ちたのでしょうか?。まあ、回転寿司が流行っていますからね。寿司のお弁当では苦戦するのかもしれませんな。ということで、今回は「小僧」のお話をいたします。

とりあえず、一般の小僧の意味を調べてみましょう。新明解国語辞典によりますと、「小僧」とは
@修行中の、年若い僧。
A商店などに見習い奉公している若者。
B未経験なくせに生意気な若者や、いたずらばかりして手に負えない子供をたしなめる気持ちで言う言葉。
となっております。現代で一般的に使うのは、Bでしょうな。「いたずら小僧」や「腕白小僧」のほかにも「鼻たれ小僧」なんて言いますよね。案外「○○小僧」は、知らないうちに言っているのかもしれませんな。
江戸時代は、商店で働いている子供、奉公している子供ですな、そういう子供は、まあだいたい「小僧さん」と呼ばれていますな。「ちょっとそこの小僧さん」なんて感じで言われていたのでしょう。江戸時代は、小僧と言えば、奉公している子供のことが最初に浮かぶのではないかと思いますな。

さて、佛教語での小僧はどうなのでしょうか。新明解国語辞典の@に当たるとは思うのですが、そこのところを仏教語大辞典で調べてみましょう。
@雛僧。仏道に入ったが、修行年月の浅い者。少年の僧。
A「しょうそう」と読む。卑下の称にも用いる。この場合、古くは小僧の称よりも、小師・貧道の名が広く用いられたらしい。
B商家の雇人や年少者を「小僧」とよぶのは転用。
とあります。
本来は、雛の僧・・・つまり幼い僧のことを言ったようです。とはいえ、お釈迦様時代は、親の許可がないと出家できませんでしたし、親に捨てられた子供を預かることは滅多にありませんでした。
日本の場合、古くは親を亡くした子供や親に捨てられた子供などは、寺が預かることが多々ありました。寺で食事を絶える代わりに、寺の雑用をそうした子供たちにさせていたのですね。一種の孤児院ですな。
そうした子供や幼い僧侶・・・本格的な僧侶ではありません・・・を小僧と呼んだのですね。

一方、小僧と言う言葉で、相手を小馬鹿にすることもあったようですな。その際は、「しょうそう」と呼んでいたらしいようですね。古来、お坊さんどうしが出会うと、相手に問答やら問いかけをしますな。相手の力量を図るためですね。で、その問答や問いかけに答えられれないと、「このしょうそうめが、エラそうな態度を取りやがって」などと卑下されたのでしょう。まあ、多くは、この場合「貧道」が使われていたらしいです。「この貧道めが」と言う感じですかね。現在では、お坊さんどうしが問答をしあう、なんてことはないですけどね。
ただ、今でも御老僧から見れば、多くの僧侶が「小僧」ではありますな。修行ができていない僧侶、と言う意味での「小僧」です。まあ、中には卑下して「小僧め」と言う方もいるかもしれませんけどね。そういうことを言う御老僧がいたら、その御老僧自身が卑下されると思うのですが、まあ、本人は気が付かないでしょうな。御老僧となっても小僧の心を捨ててはいかんですな。私もある御老僧にそうした話を聞いたことがります。
「年を取って偉ろうなっても、下座行(げざぎょう、掃除など小僧さんがやる仕事)は、やるようにせにゃいかんのう。下座行ができんような老僧は、単に年を取った僧じゃ。そうならんように気を付けよ」
などと言われたものです。小僧ではなくなっても、いつまでも小僧の気持ちを持たないといけませんな。

この仏教語のAの意味が、現代も残っていますね。例えば、古い人間が使う「小僧のくせに」という言葉になるのかもしれませんな。昔の人・・・特に職人さんなど・・・は、「小僧のくせに生意気言うんじゃねぇ」なんてことをよく言ったもんです。これが、現代語の小僧のBの意味になるのでしょう。「○○小僧」とののしる言葉になっていくのですな。仏教語のAの意味が、現代語のBの意味に残っているのです。
なお、現代語のAの小僧さんの意味は、佛教語の小僧さんから生まれたようですな。お寺小僧さんのように、商店で下働きをしている子供を寺に倣って小僧さんと呼ぶようになったのでしょう。仏教の言葉は、結構世間に影響するようですな。

さて、あなたは小僧ですか?。まだまだ、やることが多く、出来上がっていませんか?。もし、そうなら、まだ小僧の段階ですね。もう大丈夫、どんなことでも任せろ、というようになったら、一人前ですかね。
でも、一人前になっても、威張らず、他人を小馬鹿にせず、謙虚でいたいですな。
いつも、見習い小僧の頃を心に持っていたほうがいいですね。小僧の気持ちを忘れないようにしたいですな。下働きもできる一人前になるのが理想ですね。
合掌。


186.思想
明けましておめでとうございます。今年も仏教語のウンチクを垂れていきます。よろしくお願いいたします。あ、ウンチクはウンチクで、ウンチで止めないでくださいね。まあ、垂れ流すものとしては同じですが・・・。
すみません、正月早々、汚い話をしてしまいました。どうぞ、流してください。

ところで、あなたは、何か思想がありますか?。思想家でしょうか?。例えば動物保護団体の思想に属しているとか、菜食主義の思想を持っているとか、社会的思想に興味があるとか・・・。何らかの思想を持っている人は、結構いますよね。誰かの思想に影響されて生きているとか。私たち僧侶は、当然ながらお釈迦様の思想に影響を受けて生きております。すべてじゃないですけどね。まあ、お釈迦様の思想に沿った生き方、生活をしておりますな。
今回は、その思想の意味について、現代語の思想と仏教語の思想と比較してみようかと思います。実は、この「思想」という言葉も、もとは仏教語なんですよ。

現在使われている思想は、新明解国語によりますと、
その人の生活(行動)を規定し、統一する所の人生観・社会観・政治観などの統合されたもの
とあります。新明解国語にしては、ちょっとわかりにくい説明ですが、まあ、説明が難しい言葉でもありますからね。
要は、どういう考え方を持っているか、どういう生き方をしているかということですな。ひとそれぞれ、生き方や考え方が違いますから、思想も違います。が、大体のところで一致しているから、国が安定しているのですな。これが極端な思想に発展しますと、菜食主義とか捕鯨保護団体の考え方とか、動物愛護団体の考え方とか、婦人の地位向上団体の考え方とか・・・になっていきますな。そうした思想のもと、その思想を持った人たちは、ちょっと偏った考え方をしてしまいます。もっと極端になると、テロとか起きてしまいますね。テロ集団には、テロ集団の思想があるんですな。
いずれにせよ、思想とは、考え方・生き方というものですね。なので、深い思想を持っている人は少数だと思います。

さて、佛教語の思想はと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
@心に思うこと。
A思の想の意味で、想は像を意味する。表象作用のことで、想の異訳。
B思い起こすこと。
C思い悩む。思いまどうこと。
とあります。
@は、わかりますね。心に思ったこと、思っていることです。これは、よくわかります。
BCもわかると思います。いろいろ思い起こすことや、悩んだり、迷ったり、戸惑ったりすることですな。そうしたことも思想の意味に含まれます。そこまではいいのですが、わかりにくいのはAでしょう。ですが、このAが本当の思想の意味になりますな。

まずは、「思(し)」です。思とは何か、ということを知らないといけません。
思とは、
@心の動機づけの作用。心がある方面に動機づけられること。志向。意志の発動。思うという精神上の動作。インド一般では、意志作用をも含める。心を動かす働き。以下略。
A心の造作。意のはたらきと解せられる。志向。思考。以下略。
B推論すること。批判。以下略。
C略
?思惑。
E分別に同じ。
F考えること。
とあります。小難しいこと、あまり関係のないことは省略させていただきました。
さて、思とは、簡単に言えば考えたり、こうしようとしたり、こういう考え方をしようとしたりする心の働きですな。脳の志向、思考のことです。いろいろ考え込んだり、推論したり、ハッとひらめいたり、よしそうしようと思ったりすることです。
で、この思を像として表現したのが想ですね。なので、表象作用というのですな。なので、思想とは、心に思ったことを表現すること、となるのです。これが思想のAの意味になります。

思ったこと、考えたこと、それを行動に移すことが思想なのです。菜食主義の人は、
「肉や魚を食べないで、野菜や果物だけを食べて生きていこう」
と考えたわけです。それを実行して初めて、菜食主義の思想家、となるのですな。いくら考えても、思ってみても行動に移さなければ思想は完成しないのですよ。
仏教的生き方をしたいな、お釈迦様のようになりたいな、と思ってもみても、それは思うだけで、「思」の段階にとどまっているわけです。仏教的生き方という行動に出て、初めて思想となるわけですな。

思想とは、思っているだけではだめで、その思いを行動に移すこと、というのが本来の意味ですな。
そう、あなたも、
「ああしたい、こうしたい、ああなればいい、こうなればいい」
と思い悩んでいるだけではダメなのです。それは「思」という段階にとどまっている、ということなのですよ。行動に移して初めて、あなたの思いは完成に向かうのです。

新しい年です。「今年こそは」と思うこともあるでしょう。そう言う方は、今年こそは、と思っているだけでなく、今年こそは行動に移すぞ、と思い、実際に行動してください。そうすれば、あなたも立派な思想家になるのですよ。
今年こそは!を実現してくださいね。
合掌。



187.思惑
人の思いは、いろいろありまして、予測することもその一つですね。予測というよりは「こうあってほしい」と思ったり「こうしたい」と思い行動に出たりします。まあ、それが人ですね。自分の思いを通したくなるのが人ってもんですな。
人それぞれにいろいろな思いがあるでしょう。いろいろな思惑がありますな。いい思惑もあれば、悪だくみもあります。思惑っていうと、あまり良い響きではありませんな。ちょっと暗いイメージが付きまとうことのように感じます。
今回は、その思惑についてお話いたしましょう。この言葉も、仏教語にあるんですよ。

まずは、現代使われている思惑について、新明解国語辞典で確認してみます。
@局面の展開についての、自己中心的な期待(見込み)
A(相場で)将来の騰貴を予想すること
とあります。
主に一般的に使われるのは、@のほうでしょう。まあ、いわば、自分勝手な考えや「こうしたい」、「こうなればいい」という思いですな。ちょっと、悪だくみ的なイメージがありますね。特に政治がらみだと、ダークな感じがします。
とある政治家が「その人の思惑によって、議員が動かされている」とか「政治的思惑が絡んでいる」などと報道されると、その裏の悪だくみが見えてきそうですよね。思惑は、主にそう言った場面で使われることが多い言葉ですな。

では、仏教語の思惑はどうでしょうか。ちなみに仏教語では「おもわく」とは読まずに、「しわく」と読みます。読み方も違うんですよ。で、その意味は、お馴染みの仏教語大辞典によりますと
迷事の惑。事(現象)に迷う惑であって八十一品ある。修惑。感覚的・肉体的な迷い。情意的な惑。漸断である。
とあります。ちょっと難しい言葉も入っていますね。仏教語辞典でみてみますと、
まず、修惑とは、正しい修行によってなくすことができる煩悩、生まれながらに備わっている煩悩のことです。思惑と同じ意味ともあります。
また、漸断ですが、これは煩悩をだんだん無くしていくという意味です。
思惑(しわく)に八十一品あるというのは、煩悩の中で思惑に入る煩悩が81種類ある、ということですね。
つまり、思惑というのは、そもそもは煩悩のことなのです。

一般に煩悩の数は108あると言いますな。除夜の鐘で108回鐘をつくのは、108の煩悩と別れる、消し去るという意味ですな。その中の81種類を思惑というのです。81種類といっても、それはもともと人に備わっている、根源的な煩悩になりますので、まあ、煩悩=思惑(しわく)と思ってもいいでしょうね(81種類を説明するのが面倒であるという思惑(おもわく)が働いております)。

何かと悪だくみをして、その思惑(おもわく)でもって人を支配しようとする者もいますな。しかし、それは煩悩の現れそのものでしょう。煩悩が働いて悪だくみをする、ということですね。政治などには、時折みられることですな。
ということは、政治家なんぞ煩悩そのものであるのかもしれません。いや、ある意味、煩悩があるからこそ、煩悩が強いからこそ、政治家になれるのでしょうな。煩悩が無くては、政治なんぞできないのでしょう。
ただ、その煩悩が悪い思惑となって世の中や人を支配するのだけは御免被りたいですな。そこは、煩悩を抑えていただかないとね。最近では、パワハラだのセクハラだので煩悩丸出しの方も見られますが、慎んでいただきたいですな。

思惑(おもわく)が、思惑(しわく)にならないように、気をつけたいですね。どうせ思惑(おもわく)をもつなら、いい思惑(おもわく)にして欲しいですね。将来をいい方向に導くような思惑(おもわく)なら大いに結構なことです。決して思惑(しわく)にならないようにして欲しいですな。
それにしても思惑(おもわく)なのか思惑(しわく)なのか、ややこしいですな。
合掌。


188.がらんどう(伽藍堂)
家の中や建物の中に入った時、そこになにもなく空間が広がっていると、
「なんだ、がらんどうじゃないか」
と言うかと思います。この「がらんどう」漢字で書くと「伽藍堂」と書きます。これは「伽藍」と「堂」に分けられます。
「伽藍」といえば、知っている方もいるかと思いますが、大きな寺院の諸堂が集まったところを総称して「伽藍」と言いますな。例えば、高野山でも「伽藍」と呼ばれる場所があります。そこには大塔があり、金堂があり、御影堂があり、経蔵、西塔、東塔、集会所、高野明神などなど、いろいろなお堂が建っておりますな。決して、「何もない」わけではありません。伽藍と言えば、たくさんのお堂が建っている場所です。
なのになぜ、「伽藍堂」となると「何もない空間」を表す言葉になるのでしょうか? 今回は、そのあたりを探っていきます。

まず、正しく「がらんどう」の意味をおさえて置きましょう。新明解国語によりますと
中がからになっていること
とありますが、注釈として・・・「がらんと」の変化、「がらんど」の長呼・・・とあります。ちなみに、「がらんと」は、
「そこに有るべきものが無くて、広さばかりが感じられることを表す」
とあります。また注釈として・・・「から」の強調形「がら」の変化・・・とあります。なお、「から」は「からっぽ」の「から」のことです。
つまり、「からっぽ」の「から」の強調形「がら」が何らかの理由により「がらんと」に変化し、それがいつからか「がらんどう」と言われるようになった、ということですな。
ということは、一般で使っている「がらんどう」は、「伽藍堂」とは関係ないのでしょうか? 

とりあえず、まずは「伽藍堂」をお馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
@伽藍神をまつる堂。
A俗に、内部が空虚である部屋をいう。
とあります。
Aが「がらんどう」と同じ意味になりますね。ということは、一応、「がらんどう」も仏教語として扱っているということですね。
なお、@の「伽藍神」ですが、これは伽藍や寺院を守護する神のことです。仏教語大辞典によれば、仏教守護の神としてあげられるのは、インド系と日本系の神があるのとことです。まとめておきましょう。
インド系・・・帝釈天、毘沙門天、韋駄天など
日本系・・・白山権現、三輪明神、八幡神など
ほかに、音楽や美の神を祀る場合もあります。また、稲荷明神(ダキニ天)や弁財天、大黒天を祀るところもあります。
さらに、各本山級の寺院は、独自の伽藍の神を祀ることがあります。高野山の高野明神、比叡山の山王神社・日枝神社、興福寺の春日大社などがその例です。
伽藍堂は、もともとは、このような伽藍の守護神を祀るためのお堂だったのです。

さて、「がらんどう」はもともとは、「から、からっぽ」を語源とする言葉でした。いっぽう、仏教語の「伽藍堂」は、「伽藍の神を祀るお堂」という意味でした。それがいつの間にか、混同されるようになったのです。
おそらくは、伽藍堂に入った者が、
「なんだ、中身がないじゃないか、からっぽじゃないか」
などと言ったのでしょう。じっさい、神を祀るお堂というのは、お寺のように荘厳具(天蓋とか、幡とか上からぶら下がっているものなど)があまりありません。御社があって、お供え台があって塩と米、榊などが備えてあるだけで、何もないような状態です。
そうした状態が、そもそも中身のないことを言った「がらんどう」と重なって「がんらんどう」を「伽藍堂」と書くようになったのでしょう。そして、意味も一緒になっていったのでしょう。
今では、「がらんどう」と言えば「伽藍堂」であり、中身がないことを意味しております。初めは違った意味で使用していた同じ発音の言葉が、一緒になってしまい、同じ意味を持つようになっていったのですね。しかも、漢字もあてるようになっていった・・・。本来の「がらんどう」に「伽藍堂」を当てたわけです。元はひらがなで書く言葉だったのですが・・・。
いやはや、日本語は難しいですな。

今回は、ちょっと豆知識的な感じなりました。ボーっと読んでないで、「ほう、そうだったのか」と読んでくださいね。でないと
「ボーと生きてんじゃないよ!」
と叱られますな。頭の中も「がらんどう」にならないよう、ご注意ください。
合掌。


189.飛車
去年のことですが、将棋がブームになりました。藤井総太君の活躍で、普段将棋を見ない人も将棋に注目しました。今でも、藤井君が挑戦する将棋は、ワイドショーなどで話題にされますね。将棋のことなどあまり知らないオバサン達も藤井君が登場すると、ギャーギャー騒ぎ立てますな。相変わらず、単純な日本人ですね。
さて、将棋のことはあまり知りませんが、それでも子供の頃にちょこっとだけやったことはあります。その将棋の駒の中に「飛車」がありますな。素人は、この飛車がすごく魅力的に感じますな。なんせ、縦横自由に動けます。他の駒のように一歩一歩動くわけじゃありません。ビューンと飛んでいくって感じで動かせます(こういう表現が、素人丸出しですね)。頼りがいがり、強そうなんです。
この飛車ですが、縦横自由に動く、まさに飛ぶ車という感じがしますが、この「飛車」、お経にも出てくるんですね。今回は、その飛車の話をいたします。

一般の飛車と言えば、将棋の駒の一つですな。新明解国語辞典にも
縦・横の直線方向にいくらでも自由に進退できるこま。成ると竜王になる。
とあります。
一方、仏教語の飛車はといいますと、お馴染みの仏教語辞典によりますと
風に乗じ、空中を飛行するという車。『撰集百縁経』では「羽宝之車」につくる。
とあります。

仏教語の飛車は、風に乗って飛ぶ車のことなのですな。自分では飛ばないのでしょうかねぇ。ともかく、風に任せて飛ぶ車のようですな。まるで凧のような感じですね。で、『撰集百縁経』というお経によると、宝の羽があるようですな。宝物でできた羽なのでしょう。それがついている車、ということです。
おそらくは、鳥が風に乗って漂っている姿から想像されたものなのかな、と思いますね。鳥は、風に乗って高く飛びますし、空中にとどまることもします。そこから想像されたのではないかと思います。

この飛車という言葉を見た時、「天界の車かな?」と思ったのですが、天界の住人は自由に空を飛べますからね。車は必要ないですね。ほら、天女だって飛んでいるでしょ?。車には乗ってませんな。天界の住人は、空を飛ぶ車なんぞ、必要ないんですよ。
ま、百歩譲って、「たまには自分で飛ばないで車にでも乗りたいな」と思うかもしれません。そう言えば、帝釈天だって阿修羅との戦いのとき、車のようなものに乗っている姿で描かれますな。ひょっとしたら、帝釈天は飛車に乗っていたのかもしれませんな。
いずれにせよ、飛車は、現実世界の車ではありませんね。

人間は古来より、空を飛びたかったのでしょう。鳥のように自由に空を飛びたいと願ったのでしょうね。それは、今でも続いていますな。背中にボンベのようなものをしょって、空中を飛ぶ人もいるようです。タケコプターに代表されるように、人は自由に空を飛びたいものなのですな。
なぜ、そう思うのか・・・。それだけ、人は縛られているという意識が、心の深いところにあるのでしょう。自由になりたいという意識が、どこかに潜んでいるのでしょう。確かに、誰でも一度は「あぁ、もう、自由になりたい!」と思うことはあるのではないでしょうか。いろいろなこと、いろいろな煩わしいことから、解放されたいんですよ、人間は。それは、はるか昔から変わらないことなのでしょうな。だから、飛車などという車を想像したのでしょうね。飛車に乗って別の世界へ飛んでいきたい、と願ったのかもしれません。今も昔も人々は、何かに縛られているのですな。なんだか、そう思うと、悲しいやら虚しいやらでやるせないですね。

ちなみに、将棋の飛車と仏教語の飛車の関連性は、わかりません。ひょっとしたら、経典から取って「飛車」と名付けたのかもしれませんし、そうではないかもしれません。将棋ができたころ、「空には飛車という車があって、それに乗れるとどこか別の世界へ行けるんだよ。でも、その飛車は誰も見たことがないんだそうだ」などという話があったのかもしれませんね。

将棋の駒の飛車は、最後は竜の王になります。単なる飛ぶ車ではなく、竜の王者になるのです。それは、空の覇者なのです。宝の羽を持った車は、やがて竜の王者・空の覇者になるのですな。なんだか、おとぎ話ぽくて、夢がありますよね。
これからも、藤井君が活躍すると、TVでそれが紹介されるでしょう。駒の動きの解説もされるかもしれません。そんな時、飛車に注目してみてください。そして、飛車に乗った気分になるのもいいと思いますな。ほんの少しでも、心を自由にさせて、空高く飛んでみるのもいいんじゃないでしょうか?。
いろいろなものから解放されるかもしれませんよ。
合掌。


190.火災
火事とケンカは江戸の華、などと言われるように昔から日本は火事が多いですね。江戸の街がほとんど焼失したという火事もあったそうで。火事は恐ろしいですね。そういえば、最近は全く言われなくなったのですが、私たちが子供のころは、怖いものと言えば「地震カミナリ火事オヤジ」と言われていたものです。今でも、地震やカミナリ、火事は恐ろしいですが、オヤジはね、ATMなんて言われるような時代ですから、怖いものから外れていますな。情けない話とは思いますが、それも時代の流れなんでしょうな。
季節的に、火災の心配はあまりない時期になってきました。火事のもとになるような物を使う季節ではありませんからね。ま、油断はできませんが・・・。
ところで、火災と言えば、火事による災害ですが、仏教語はどうやら違うようです。今回は、火災にまつわるお話をいたします。

まずは、一般的な国語辞典で火災の意味をおさえておきましょう。
火事。火事のわざわい。
とあります。まあ、そりゃそうですな。わざわざ確認するまでもない、と思われるでしょうが、一応念のためです。
では、仏教語の火災はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@外界における火の要素が激動すること。
A宇宙破壊の時(壊劫)の終わりに起こる大三災の一つ。この劫が尽きる時、人はみな悪業をなし、天は雨を降らさず、大地から火が起こってすべてのものを焼き尽くすという。
とあります。なんだか、とんでもない話になっているようで・・・。ちょっと、驚きですな。

どうやら火災とは、この世界が終わるときの現象のようですね。当然ながら、いずれはこの世界は終わってしまいます。諸行無常ですからね。いずれは地球も滅びますな。その時に起きる現象の一つに火災がある、というのですな。他にも二つの現象が起きるのだそうです。で、あわせて「三大の災い」とか「三災」などと言います。
三災とは、詳しく説くと長〜くなってしまいますので、ちょっと略しますが、三災には大小があり、小の災いは「火災・水災・兵災」で、大の災いは「火災・水災・風災」のことを言います。
小の災いは、まだこの世があるうちの災いですな。それには、火災と水害と兵隊による災い・・・戦争ですな・・・があると言います。まあ、これはわかりますね。実際にあることだし、あったことですから。ここで問題なのは、大の災いですな。火災と言えば、仏教では、この大の災いの一つの火災を意味しているのですよ。

大の災いとは、この世が滅ぶときに起きる災いこのとです。火と水と風による自然災害が起き、地球は滅ぶのです。まずは、すべてを焼く尽くすような火災が7回起きるのだそうです。そのあと水害が1回あり、すべてが流されるのです。で、これが7回繰り返されるんですな。そのあと、また7回火災があり、最後に1回風による災害があり、地球上には何もなくなるのだそうです。
恐ろしいことを考えたものですな。しかし、そんな馬鹿な・・・などと笑ってはいらえませんな。先ほども言いましたように、いずれは地球も滅ぶ時が来るのです。現代の予想では、地球が消滅するのは50億年後あたりらしいですな。これは、地球がなくなる予想です。そうなる前に、地球上では様々な自然現象による災害が起きるはずです。
約50億年先のころ、否、50億年まで待たないでも、ですが、いずれ太陽が若干膨張する時が来るのだそうです。太陽のような星は、末期になるといずれ爆発するのですな。その前に、膨張が始まるのだそうです。少しでかくなるんですね。太陽がほんのちょっと、今よりも大きくなると、当然地球にも影響が出ます。それもかなり大きな影響ですな。だいたい、太陽の黒点が増えるだけで電磁波が乱れると言われるくらいですから、太陽が少しでも大きくなったら、そりゃもう、地球は燃えそうになりますな。気温が急上昇するでしょう。温暖化どころの騒ぎではありませんな。自然発生による火災があちこちで起きるでしょう。雨も降らなくなるかもしれません。いや、気象の乱れが生じ、大型の台風が次々とやってくるかも知れません。火災、水害、台風の害・・・まさに三大の災いですな。今は、それが小の三災であるわけです。これがいずれ、大の三災へと移行していくのですな。
ものすごいことを予測したものです、仏教は。

そんな先の話、そんな時は自分は死んでいるし、私は知らないよ・・・と思うかもしれません。ですが、そんな甘い話ではありませんな。人は生まれかわります。生まれ変わって生まれ変わって生まれ変わって、たまたま地球が滅亡するときに出会うかもしれません。人として出会うのか、動物としてなのか、昆虫なのか・・・それはわかりませんが、まあ、どなたも生まれ変わって、地球最後の日を見るのだな、と思いますな。
もし、そんな状況に出会いたくないと思うならば、悟りを得て六道輪廻から解脱するしかありませんな。で、遥か菩薩界から地球が滅んでいくのを見ながら、諸行無常だなぁ、と感じるのです。そう、諸行無常なのですよ、すべては。

ただでさえ、火災や水害、台風による災害は毎年起きております。地震だってあります。自然災害はどうしようもないですね。避けられることではありません。もっとも、火災の場合は、人が原因の場合が多いですが・・・。
災いはいつ起きるかわかりません。普段からそれに備えておくべきでしょうな。これからは、集中豪雨がやってくる季節ですね。毎年、大きな被害が出ております。どうか皆さん、お気を付けください。他人事、と思わず、いつか自分のところにもやってくるものだと思ってくださいね。
まあ、まだ、地球が滅ぶようなことはおきませんけどね。でも、災いは、いつ降ってくるかわかりませんから、ご注意ください。
合掌。


191.無性
最近、無性に腹が立った、ということはあるでしょうか? 私の場合は、そこまで腹が立つことは、ありません。そこまで怒るような出来事もありませんし、世の中の出来事に対しても、そこまで怒ることはないですな。バカげている!、と思うことはありますけどね。たとえば、「戦争をしないと取り返せない」なんて最低の発言をした議員とかですね。愚か者でバカげている、とは思いますが、無性に腹が立つ、まではないですなぁ。まあ、当事者は、きっとあの議員に対して無性に腹が立ったとは思いますけどね。
さて、今回は、この「無性」について現代の無性と仏教語の無性を比較してお話していきます。

まずは、現代使われている「無性」の意味をおさえておきましょう。お馴染みの新明解国語辞典によりますと
その感じ(気持)が強まって、どうしても抑えることが出来ない様子。むやみに。やたらに。
とあります。どうしても抑えられないほど感情が高ぶった時に使う言葉ですね。無性に腹が立つ、とか無性に眠たいとか、ですな。
一方、仏教語の「無性」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
@無自性に同じ。自性のないこと。
A実在しないもの。存在しないこと。実体のないこと。
B執着すべきものの存在しないこと。
C無仏性の略。仏性の無い者の意。無性有性・無性種姓。いかに努力してもさとりを開いて仏となることの不可能な者。また三乗に及ばない者。
とあります。なんだか難しそうですな。

@の「無自性」とは本性を持たないことで、実体がないことを意味しています。あらゆるものは因縁によって生じるため、そのもの固有の実体は存在しないということです。つまり、「無」とか「空」といったことですな。この世のすべてのものは、そのものの実体を持っていません。たまたま、因縁によって原子が寄り集まってできているにすぎないのです。なので、固有の実体を示せ、と言われても原子が出てくるだけですな。しかも、その原子ですら、物質が寄り集まった状態です。結局のところ、どんどん細かく追及していっても、実体は出てこないのでしょう。それを、無自性・・・「無性」と言ったのです。
いや、しかし、科学が発展していない時代において、そこまで物質を分析していたとは、恐るべき仏教学ですな。というか、そのベースはインド哲学ですが・・・。恐るべきは、当時のインド人ですな。まあ、0(ゼロ)を発見したのもインド人ですしね。ゼロは空ですからね。「あるのではないし、ないわけでもない」のがゼロですから。
ということで、Bの意味が出てきますな。実体がなければ、それに執着する意味はないですね。実体のないものに対して執着しても無意味ですな。いったい何に執着しているの?、となってしまいます。
そう、人が執着するものは、仮に集まってできたものに対してです。いわば、原子が寄り集まってできたものに執着しているのですな。いくら美しい女性であっても、いくら素敵なイケメンであっても、それは仮の姿であって、実体はありませんな。よくよくみれば、単なる原子の集まりにすぎないのですよ。それなのに、そんなものに人は執着するのです。そう思うと、なんだか虚しいですね。でも、執着してしまうんですなぁ・・・。
Cの「無性有性・無性種姓」とは、唯識学でいうところの「仏性を持たない有情(生けるもの)」のことです。唯識では、仏性を持たない者がいる、という考え方をしていたようですね。後の大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性」を説きますな。涅槃経がその代表ですね。生きとし生けるものは、必ず仏性を持っている、と説くのが大乗仏教です。しかし、唯識のように初期経典では、仏性を持たない者もいる、と説いていたようですな。仏性の無い者は、いくら修行をしても悟りを得ることはできません。そもそも仏性・・・悟りの元・・・がないのですから、悟ることはできないのです。おそらく、初期経典がまとめられたころは、悟りを得られない修行者がたくさんいたのでしょう。もちろん、お釈迦様がいらした頃も、悟りを得られない修行者はたくさんいました。そういう者に対して、初期経典では仏性の無い者=無性、と呼んだのですね。

しかし、大乗仏教が起こりますと、仏性の無い者=無性の者はいない、と説くようになります。一切衆生悉有仏性ですな。ではなぜ、悟れないのか?
それは、煩悩が強すぎるからです。我欲が深すぎるのです。だから、世の中のいろいろな事象に囚われて、真実を見抜けないのです。真実に至らないのですな。また、いくらいい教えを聞いても、我欲や煩悩に邪魔をされて耳に入らないのです。真実を教えられても、理解しようとしないのですね。
たとえば、犬も衆生の一員ですな。ならば、犬にも仏性はあるはずです。しかし、犬は悟れないでしょう。悟った犬など聞いたことがありませんね。じゃあ、なぜ、犬は悟れないのか? 仏性はあるのに?・・・。
これは有名な禅問答なのですが、まあ、答えはいろいろでしょう。まともに答えても大丈夫ですし、はぐらかしてもOKです。犬の真似をしてその場を去る、もいいですな。
まともに答えれば、犬は人の言葉を理解できないし、字も読めない。瞑想も座禅もできない。つまり、修行ができないわけです。だから、仏性を目覚めさせる機会がない、なので悟れないのですな。
仏性とは、悟りの元・悟りの種です。修行は、その種に水や肥料をあげることですね。で、仏性の発芽を促すわけです。一たび仏性が目覚めれば、あっと言う間に悟るかも知れませんし、徐々に悟りに近付くのかもしれません。大事なことは、仏性を発芽させることなのです。発芽しないで終わっていまえば、無性と同じことになってしまいますな。

皆さんの中にも仏性はあります。もうすでに発芽している方も多いことでしょう。それを大きく育てていくのです。それは、マナーを守り、社会のルールを守り、正しい言動で過ごし、深い信仰心をもつことですね。その仏性が発芽していれば、戦争をしようなんて言う発想は生まれませんな。彼は、無性なんでしょうねぇ。まだまだ、未熟なんですな。
とはいえ、いくら仏性が発芽していて、信仰心があっても
「無性に腹が立つ、あのヤロウ、やっつけてやる」
なんて言っていてはいけません。それでは、せっかくの仏性も汚れてしまいますな。仏性が汚れれば、無性へ逆戻り・・・ということもあります。
無性に腹を立てて、無性になってしまう・・・では、いけませんよね。それでは、どこかの誰かと一緒になってしまいますな。
合掌。


192.シッペ(返し)
手ひどいしっぺ返しを食らったことありますか? 最近では、しっぺ返しと言っても通じないんですかねぇ。近頃の若い人たちは、私たちが若いころから使っていた言葉を使わないようですから、しっぺ返し、といっても通じませんかねぇ。
しっぺ返しは、簡単に言えば「手ひどいお返し」のことですね。「反逆にあう」でもいいでしょう。国語辞典によりますと、しっぺ返しは
「(同じようにひどいやり方で)すぐさま仕返しをすること」
とあります。つまり、まずは相手が自分に、ひどい仕打ちをするのですな。で、すぐさま同レベルのヒドイ仕返しをすることですな。しっぺ返しを受ける・・・といえば、反逆に合うことだし、しっぺ返しをしてやった・・・といえば、やり返してやった、となります。ただ単に仕返しをした、仕返しをされただけでは、思いの深さが伝わらないので、しっぺ返し、と言うのでしょう。しっぺは、それほど痛いもの、なんですね。

と、ここで、そもそも「しっぺ」とは何か、となりますな。そこを知らないと話になりません。
「しっぺ」とは、略語です。もとは「しっぺい」ですね。病気の「疾病」ではありません。発音は同じですが。
「しっぺい」とは、禅の修行に使う道具のことですな。そう、仏教の言葉なのです。そこから一般にも広がり、「しっぺ」となったのです。

もとの「しっぺい」とは、漢字で書くと「竹箆」となります。で、それは何かと言いますと、お馴染みの仏教語大辞典に詳しくあります。
道場の指導者が日常用いる弓形の竹の棒。割竹を「ヘ」の字形にし、籐を巻き、漆を塗った40〜50センチのもので、禅宗で師家が参禅者を指導するとき用いる。それを持って修行僧を打って、驚かせて本性のさとりを目覚めさせる。
これを読むと、「あぁ、あれか・・・」とたいていの方は思うのではないでしょうか。そう、よくTVで見かけますよね。座禅をしているお坊さんが、後ろから(前からの場合もあります)肩を竹の棒で叩かれていますな。で、座禅をしているお坊さんは、合掌して御礼をしますな。その時に使っている、あの棒が「しっぺい」なんですよ。

修行僧が座禅をして打たれる、あれが一般庶民にも広がったんですね。だけど、禅僧のようなあの竹の棒を一般人は持っていません。で、どうしたか。まさか、竹を切ってきて、それで叩く、なんてことはしないでしょう。まあ、私は子供の頃、竹製の定規で叩かれたことがありますが、普通の家には竹の棒なんぞないですな。なので、竹の代わりを指でします。
人差し指と中指を立てます。仏教で言うと、剣印という印にしますな。で、その立てた指二本で、例えば悪さをした子供の腕や手首をピシャっと打つのですな。これがしっぺですね。
指二本を立てたのが、禅僧が持つ「しっぺい」の替わりですね。で、それで悪さをした者を打つのです。本来ならば、指二本を立てたものを「しっぺい」と呼ぶべきところですが、これが「しっぺ」となり、さらに悪さをした者を打つこと自体を「しっぺ」と言うようになりました。「しっぺしてやる」などといって、親が子供に怒るのですな。今では見られませんが、昭和の時代はそれがよく見られました。日常茶飯事ですな。
で、そのお返しをすると「しっぺ返し」になるのです。もちろん、子供が親に返すわけもなく、これは大人同士での会話の中で生まれたものでしょう。ひょっとしたら、「子供に反撃にあった。しっぺをお返しされた」なんてことがあったかもしれませんけどね。
当然、お坊さんの世界ではしっぺ返しはないと思います。修行僧が師に、しっぺいで叩かれたと言って反逆した、復讐した、なんて話は聞かないですからね。しっぺいで師を叩き返した・・・禅僧ならあるかも知れませんが・・・という話は私は聞いたことがありません。ひょっとしたら、あったかもしれません。まあ、禅宗ですからね。昔はあったのかもしれませんなぁ。

親が子供にしっぺの仕返しを受けたのか、はたまた師が弟子にしっぺいでお返しされたのか、それはわかりません。わかりませんが、仕返しをされた側は、油断していたことだけは確かでしょう。そう、油断していたのです。しっぺにしろ、しっぺいにしろ、注意した側は、「教えてやった、注意してやった、指導してやった」という思いがあります。当然、上から目線ですな。懲らしめてやった、と言う気持ちもあるでしょう。そう言う思いがあるから、まさか仕返しされるとは、ゆめゆめ思っていませんよね。
「これでアイツもよくわかっただろう。反省しているだろう」
などと思っていますな。ところが、世の中、怒られて殊勝に反省するような人ばかりではありませんな。仕返ししてやる、復讐してやる、と恨む者もいるのです。自分で悪いことをしておきながら。自分が至らない、できが悪いにもかかわらず。ま、世の中、そういう者もいますな。案外、多いかもしれません。
注意したほうは油断。注意されたほうは恨み。油断していると仕返しを受けるものなのですよ。上から目線でふんぞり返っていると、足元がおろそかになりますな。

油断大敵。力が強いからと言って、油断していると手ひどいしっぺ返しを食らうこともあります。おっと、参議院選挙ですな。野党が頼りない、出来が悪いからと言って、油断してなめてかかっていると、人々から手痛いしっぺ返しを食らうこともありますな。あまり、威張り散らしていると、とんでもない伏兵が現れてしっぺ返しを食らうなんてことは、よくある話ですね。何事も油断しないほうがいいですな。特に大勢議員を抱えている場合、身内からひどいしっぺ返しを食らうこともありますからね。何事も用心用心。
あ、私も皆さまも同じですよ。くれぐれもしっぺ返しを食らわないように、上から目線は慎みましょうね。
合掌。


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