えっ?!

こんなところに仏教語!

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193.無法
日本は、長く戦争がなく、とりあえず平和が続いております。もちろん、悲惨な事件はありますが、それでも、内戦が続いているどこかの国のような無法状態ではありませんね。一応、秩序が保たれております。まあ、たまにその秩序を破るとんでもない者が現れますが、無法状態ではありません。
しかし、イラン周辺の海域では、日本も巻き込まれる可能性が出てきましたな。やんちゃな大統領が、また吠えておりまして、日本も無視できないかもしれません。最悪、また戦争か?ってことにもなりかねませんね。危険がいっぱいです。無法状態にならなければいいのですけどね。
さて、この「無法」ですが、字からして何となく元は仏教語かなと想像がつくかと思います。今回は、この仏教語クサイ「無法」についてお話いたします。

とりあえず、現代語での「無法」の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
法や社会秩序が無視されたり 常軌を逸したり している様子。
この場合の「法」は、「法律」のことですね。当然のことですが。法律を無視し、秩序を乱し、常軌を逸してしまうと無法になるのです。さしずめ、京アニの事件を起こした容疑者は、無法を作り出した無法者ですね。法律も秩序も常軌もない、とんでもない無法者ですな。無法とは、そう言う意味ですね。
では、仏教語の「無法」はどうでしょうか。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
➀ものが存在しないこと。
②あわれでないこと。
③法のないこと。でたらめな行為。たとえば、無法者。
とあります。現代で使われている無法と同じなのは、③ですね。ただし、③にある「法」は、本来は「教え」のことですな。教えがないでたらめな行為、教えに合致しないでたらめな行為を「無法」といい、それをしてしまう者を「無法者」としたのです。その「法」が「教え」から一般的なルール・・・法律・・・に広がったのですね。が、これは、そもそもの「無法」の意味ではありませんね。そもそもは、①です。

「法」とは、「教え」の事でもありますが、「法」は、「存在するもの」のことでもあります。こういうところが仏教語のややこしいところですな。「そもそも」とか「そう言う意味もある」と言うのが多いんですね。しかも、「そもそも」とたどると、さらに「そもそも」が出てきてしまう。どこまで「そもそも」があるのだ、と突っ込みたくもなりますな。
ま、そういうことで、「法」には、そもそも「存在」の意味もあったのですよ。で、「無法」は、「存在しない、ものが存在しない」と言う意味になるのですね。正確に言うと「存在するものが存在しないこと」となるのです。あぁ、ややこしい。簡単にえば、「あらゆる物質が存在しないこと」ですな。

あらゆる物質が存在しないのなら、それはもう「無」の状態ですね。ということは、対象物がない、ということです。ということは、「あわれ」という感情も起きないですね。何もないのですから。なので、あわれでないこと、と言う意味が生じます。
もう一つ。法・・・教えがないのが「無法」です。それは「教え」を守る気がないということですな。「教え」でなくてもいいです。法律でもいい。無法とは、法律を守る気がないということでもあります。そんな状態は、哀れではありません。教えを守らない、教えがない、法律を守らない、法律がない、それは、哀れむどころの状態ではないですな。哀れではありません。
法を守ろうとしているのに、教えを守ろうとしているのに、それがついつい欲に駆られて守れない、破る気がないのに破ってしまった、その事で大いに苦しんでいる・・・それは、哀れですな。無法は、これとは真逆なことです。
おそろしいですよね。哀れと思われないというのは。悲しいことですな、哀れんでもらえない、ということは。そう思うと、決して無法者になってはいけないと思いますな。

京アニの事件を起こした容疑者。まさに「無法者」でしょう。法律もなければ、秩序もない、ましてや宗教的教えなんぞは欠片も持っていなかったことでしょう。だからこそ、あのような無法な行為をしでかしてしまったのですね。そう思うと、あの容疑者に対して哀れむ気持ちなんぞ起きませんな。あまりにも身勝手な無法者です。「哀れではない者」なのです。
誰にも「哀れな者」と思われない、誰もが憎んでしまう者・・・無法者・・・そんな存在になっては絶対にダメですね。
秩序を乱すような、人々を苦しめる様な、そんな存在にだけは、なってはいけません。我々も、世界の人々も、あらゆる国の権力者も、平和と秩序を保って欲しいですね。
合掌。


194.妙
最近、妙だなぁ・・・と思うことはありますか? この夏の気象も妙と言えば妙でしたね。梅雨が長く梅雨が明けたと思ったら猛暑がやってきて、で梅雨のような長雨。妙な夏ですな。確かに、季節は妙な具合になってきましたよね。春と秋が短く、夏と冬が長くなってきたのだそうです。
季節も妙な具合になってきてますが、この間の選挙では、妙な人・妙な政党が通ってしまいましたね。妙なことにならなきゃいいんですが・・・。
ところで、この「妙」ですが、元は仏教語なんです。まあ、字からしても仏教臭いなと思いますよね。正真正銘、間違いなく仏教語ですな。今回は、この「妙」についてお話いたします。

まずは、普通に使われている「妙」の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
①まねることが出来ないほどすぐれていること。
②解明出来ない何かが有って、引っかかる様子。
とあります。多く使われるのは、解明できないって言うほど重要ではないけど、②のほうですね。妙な人、妙な季節などは、②の方の意味ですね。
①は、絶妙とか妙案とか妙手とかいった述語で使われることが多いんじゃないでしょうか。「すばらしい」という意味ですな。決して、「妙な人」は「素晴らしい人」と言う意味ではありませんね。このあたりの意味合いは、まあ、何となくわかりますな。

さて、では仏教語の「妙」ですが、お馴染みの仏教語大辞典でみてみましょう。
①思いはかることができないこと。絶対でくらべるものがないこと。非常にすぐれていること。われわれの考えを超えていること。感覚でとらえられないこと。最上の。最高の。こよなき。
②劣の対。けがれのない善のこと。
③十六行相の一つ。
④尊敬、崇拝すべき者。
⑤みごとに。
⑥隠された本質。
このように仏教語大辞典には載っております。
①は、現代使われている「妙」の意味の①②を合わせたものですね。
思いはかることができない=解明できない
非常にすぐれている=まねることができないほどすぐれている
ということですね。つまり、現代語の「妙」は、仏教語の①の意味と同じ、ということです。仏教語の「妙」の1の意味だけが、一般民衆に広まっていったのですね。

②は、偽善でない善のことです。「妙なる行為」といえば、「偽善でない、汚れのない善行」となるのです。
③については後で話します。
④は聖者に対して「妙なるひと」と言ったのでしょう。根本的には、①の意味と同じですね。人がはかり知ることができないほどの人、と言う意味で、そのような人を「妙」と言ったのだと思われます。
⑤も①と同じですな。⑥は、仏教語と言うよりは、道教での言葉なのだそうです。老子の著書にこの意味で出てくるのだそうです。なので、まあ、重視する必要はないですな。
問題は、③です。これ、難しいんです。

仏教の教えの基本に四諦八正道と言うのがあります。八正道は、正しく生きる実践方法ですね。四諦は、考え方です。妙はこの四諦に関わっているんです。
この世は苦の世界である・・・これが苦諦(くたい)
苦には原因がある・・・・・・・・・これが集諦(じったい)
苦の原因を滅ぼす・・・・・・・・これが滅諦(めったい)
それには方法がある・・・・・・これが道諦(どうたい)
以上で、苦集滅道と言う言葉になりますな。般若心経にも出てきます。これを四つの真理・・・四諦といいます。
で、この四つの真理を理解するために、アプローチの仕方があるんです。その仕方は、四諦それぞれに
四種類あります。つまり四つの真理×四つのアプローチで、16となります。なので、16行相といいます。具体的には、
*苦諦を理解するために
諸法は消滅するので非常である
逼迫の性質があるので苦である
自己のための絶対的根拠ではないので空である
常住で唯一なる本体的存在ではないから非我である
以上を観じるのです。

*集諦を理解するために
一切の惑業は
苦果を生ずる因である
苦果を現ぜしめる集である
苦果を相続させる生である
苦果を成立させる縁である
と観じるのです。

*滅諦を理解するために、滅諦とは
肉体的縛が尽きた滅である
煩悩の攪乱なき静である
一切の過患のない妙である
諸厄難を脱した離である
と観じるのです。

*道諦を理解するために、道諦とは
滅に入る道である
正理にかなう如である
ニルヴァーナにおもむかせる行である
生死を超えしめる出である
と観じます。
これが16行相です。このうちの滅諦を理解するための方法の中に「妙」が出てきていますね。つまり、滅は、「妙」なのです。意味わかりませんか?、わかりませんよね。

妙には、尊敬すべき者、崇拝すべき者と言う意味がありました。④ですね。四諦の滅は、悟ることです。涅槃を得た状態のことですね。覚者でもあります。なので、「滅」は「妙」なのです。④の意味のままですね。覚者は崇拝されますからね。妙なのですよ。
まあ、いずれにしても「妙」とは、我々人間が到達できない、想像もつかない、考えも及ばない、そんな状態のことを言うのですな。それは、仏教語でも現代語でも同じなのです。ただし、現代語の妙は、「変だ」と言う意味も含まれてきていますけどね。本来の意味は、「変だ」は含まれていません。大元の仏教語の「妙」は、優れたとか善とかいった、プラスの意味だけですね。「怪しい」、「おかしい」、「変だ」、「異常だ」の意味を込めた「妙」は、現代だけでしか使われませんな。

さてさて、妙な人はこの世に多々おります。この場合の妙は、あまりよろしくない、ちょっと怪しい・・・の方の妙ですな。「ちょっと変だ」的意味の妙です。そうした妙な人間の仲間には入りたくはないですな。しかし、妙な人間が結構もてはやされたりするのが現実です。困ったものですな。冷静にみて、よく考えて、本当に正しいのかどうか、本来の意味の「妙な人=尊敬できる人」なのか、確認してからもてはやして欲しいですね。ただ単に変だからって話題にしてはいけませんな。そんなことをすると、妙な人に妙な手口で騙されてしまいますからね。
妙な人、妙な話には十分ご注意くださいませ。
合掌。


195.執事
私がアキバをうろついていたのは、もうかれこれ10年前ですね。うろついていたと言っても、年に2回のことですが・・・。知り合いの坊さんがメイド好きでして、それに付き合っていたのです。なので、メイドカフェにも出入りしておりました。まあ、オタクですな。さすがに今ではもう行きません。アキバにも行ってませんね。用事がありませんからね。
そういえば、あの頃は、男性のオタはメイドカフェ、女性のオタは執事カフェに行くのが定番でした。池袋に有名な執事カフェがありまして、連日予約で満杯だったそうです。今でもあるのでしょうか?。興味がなくなったので、そっち方面のことはすっかりわからなくなりましたね。
執事というと、洋装でスラっとした男性が「お帰りなさいませ、お嬢様」なんて言っているイメージがあるかと思いますが、実はこの「執事」、仏教語の一つなんですよ。なので、執事は本来洋装ではありませんな。
今回は、その「執事」についてお話いたします。執事の本来の姿を紹介いたしますね。

執事の一般的なイメージは、何となく皆さん想像できると思います。が、イメージだけではあやふやなので、正しい意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
身分・地位のある人のそばに居て、事務のさしずをしたり、実際に事を運んだりする人。
とありますな。何となく、イメージ通りかな、と思います。まあ、「家に執事がいます」と言えば、きっとその家は、高い身分だったり、大金持ちだったりするはずですよね。でなきゃ、執事なんて必要ないですからね。で、執事さんは、その家の主人の様々な雑用を使用人に指図をして、こなしていくのですな。簡単に言えば、雑用仕切り役、とでも言いましょうか。
これが、小説やドラマになると、お嬢様やお坊ちゃまの子守り役・指導役になったりしますね。「お坊ちゃま、いけません」とか「お嬢様、これはこうされたほうが」なんて感じですな。
いずれにせよ、執事さんは、身分や地位のある方、大金持ちの方、専用の仕切り役ですな。みなさんも、そのあたり異論はないと思います。

では、本来の執事、仏教語の執事はどうなのでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
①比丘にかわって金銭授受などのことを扱う人。
②寺院の事務を司る役僧の名。禅寺では知事という。
とあります。
①の比丘とは、修行僧のことです。ビクといいます。尼僧さんは、ビクニと言います。比丘尼と書きますな。ここでは、「比丘にかわって」とありますが、比丘尼も含みます。
お釈迦様がいらした頃、出家者は、比丘・比丘尼に関わらず、お金を所持してはいけないことになっていました。そいう決まりになっていたんです。中国に仏教が伝わりますと、インドでは普通に行われていた托鉢による食事が、やりにくくなるのです。中国にはそういう風習がないのですな。で、僧侶が托鉢に出ますと、生の米や野菜をいただくことになります。僧侶は、寺に持ち帰り、そうした托鉢で得た食料品を使って調理をする必要が出てきました。それには、様々な道具や材料が必要になります。包丁だって入ります。まな板だって入ります。お皿などの器もいります。そうしたものをすべて寄付で賄えるうちは良かったのですが、そのうちに寄付する方も、面倒なので「お金で」となってきますよね。
しかし、出家者はお金を扱ってはいけません。これは困った問題ですな。戒律通りの生活をしようとすると、出家者以外でお金を扱える人間を寺に置かねばなりません。そうして生まれたのが「執事」なのです。
ですから、本来は、執事は出家者ではありません。在家の者で、寺の財政を扱う人が執事だったのですな。

時代がさらに下ると、在家の執事を置くのも困難というか、やりにくくなってきます。なぜなら、生活が違うからです。在家が寺で暮らすとなると、出家者と在家の生活がマッチしませんよね。出家者は修行がありますが、在家はありません。出家者は戒律が厳しいですが、在家はゆるゆるです。最も困るのは、出家者は結婚できませんが、在家はできるということです。つまり、寺の中で夫婦が暮らすことも出てきてしまうわけですな。これは出家者にとってはとても迷惑な話です。
じゃあ、通いで財務を取り仕切ってもらえば、という話になりますな。しかし、これも問題が生じるのです。通いの執事さん、真面目な人ならいいですが、中にはそうじゃない人もいるのですな。寺のお金を盗んで消えてしまう・・・そんな執事さんも現れるのです。まあ、大きなお寺ともなりますと、たくさんの寄付金があることでしょう。そのお金に誘惑され・・・なんてことになってしまったんですね。
で、止む無く、お坊さんで管理をしようとなったわけです。それが②の意味ですな。

出家者仲間で、役割を決めるようになったのです。金銭管理は・・・、食べ物関係は・・・、行事は・・・、と役職名をつけていったんですな。そのなかで金銭を扱う役職名を「執事」としたのです。金銭を扱うとは、金銭の出入りの事務も扱うことになります。なので、その他のいろいろな事務仕事も扱うようになっていきますな。ちなみに料理関係は典座、お客さん相手は知客、などという役職名になっておりますな。
つまり、執事は、お寺の金銭授受関係や事務関係の仕事をする役職名なのですな。ですから「お嬢様」とか「お坊ちゃま」とかは言わないですね。事件の解決もしません。いや、ひょっとしたら、解決はしたかも知れませんけどね。

今では、執事のいるお寺と言えば、本山級のお寺ですな。一般の寺院には執事さんはいませんね。強いて言えば、奥さんですかね。あぁ、ここでも戒律違反ですな。今では・・・というか明治政府の命令で・・・僧侶は結婚をしてもいいことになっておりますな。なので、たいていのお寺さんには奥さんが存在しております。で、お寺さんの多くは、奥さんが金銭の事務を扱っているようですな。そうでないところもありますけどね。住職自ら金銭の事務仕事をしている寺もあります。そういう寺は、住職兼執事ですな。
ウチなんかもそうですね。住職兼執事兼小僧、ですな。まあ、小さな寺はどこもそうでしょう。住職も事務仕事も雑用も一人でこなしていきますな。まあ、できないことはないですからね。
つまり、小さな寺の住職は、一人で何役もこなしていくのですよ。ある時は住職の顔をし、ある時は事務仕事をし、ある時は庭の手入れに寺の修繕、ある時は掃除をこなし、ある時は外に出て外交も行う。何でも屋ですな。
若いうちはいいのです。これがこなせるのですな。ですが、年齢がねぇ・・・。年々辛くなってくるのですよ。あぁ、若い弟子が欲しいですな。今、うちの寺には執事が必要です。切実な願いですな。
合掌。


196.帽子
最近、朝晩はめっきり寒くなりました。日中は暖かいのですが。そういえば、今年は結構いつまでも暑かったのですね。でも、もう秋です。間もなく木枯らしが吹いて冬がやってきますな。
お坊さんは、この時期になりますと、頭が寒いですな。なんせ髪の毛がないですからね。髪の毛のあるお坊さんもいるようですが、あれは坊さんではないですな。有髪で僧侶の格好・・・衣・・・を着ている姿は、どうもいけませんな。まあ、個人的見解ですが・・・。
坊主頭も長いので、寒さには慣れているのですが、それでも冷たい風が吹くと首筋が寒いですね。しかし、帽子をかぶるわけにはいきません。帽子をかぶった坊さんなんぞ、見たことがないですな。でも、我々お坊さんは、帽子をつけるんですよ。帽子は被らないけど、帽子は身に着けています。えっ?、意味が分からない? そうですね、我々お坊さんの帽子は、一般の帽子とは異なるんですよ。帽子だけど、帽子じゃない。今回は、そんな話をいたします。

簡単に言えば、お坊さんの帽子は、マフラーです。襟巻、ですな。今は「襟巻」なんて言わないですよね。若い方は「なにそれ?」じゃないでしょうか。古い言葉が通じなくなっていますな。ま、それは良いとして、そう、お坊さんの帽子というのは、マフラーなんですな。
宗派によって、一枚布・・・マフラーと同じようなもの・・・を使う場合と、輪っかになっているものを使う場合があります。高野山真言宗は、一枚布のもの、マフラー形式です。
この帽子の素材は決まっております。絹ですな。羽二重です。なので、「羽二重帽子」という場合もあります。色は、白で無地です。柄物や色が派手なものなんぞは使いませんな。真っ白で無地、そう決まっております。なお、高野山真言宗では、特別な修行(学会がくえ)に入るお坊さんは、ちりめんの薄緑色の帽子を使います。この時の帽子は、特別ですな。

さて、この帽子・・・宗派によっては「もうす」という宗派もあるそうですが、一般には「ぼうし」です・・・頭に被るものではありません。あ、まあ、真冬の寒い時の外出時は、頭からすっぽりかぶって歩く、ということもありますが、通常、マフラーとして使います。マフラーとして使うのに、襟巻とは言いません。あくまでも帽子です。まあ、頭からすっぽりかぶって歩く姿から、帽子というようになったのかもしれません。なぜ、帽子というのかは、私は知りません。でも、帽子と言います。
この帽子、役割は防寒具です。なんせお坊さんは首筋が寒いのです。最近のお寺さんは、ストーブや暖房用品が置いてあるところが多いですが・・・うちの寺もあります。エアコンもあります・・・昔は暖房なんぞありませんでした。あっても火鉢ですね。ですが、それも本堂にはありませんな。本堂は寒いところ、というのが普通です。私も高野山にいたころ、冬の朝のお勤めには震えましたな。もう寒くて寒くて。暖房なんてありませんからね。しかも、小僧は帽子ををつけてはいけないんですよ。高野山の場合、帽子をつけていいのは、詳しくは言いませんが、ある程度、修行を積んだ僧侶のみですな。ま、若い者は寒くても耐えられますからね。

この帽子、お導師様は夏でも着けます。お導師様だけは、年中着用しなければなりません。いくら暑くても、です。また、特別な法衣の場合、お導師さん以外のお坊さんも着用が義務付けられる場合もあります。クソ暑い夏でも、です。お導師さんは大変ですな。冷房の効いていない本堂で、重たい金襴の袈裟・・・衲衣(のうえ)・・・を着用し、さらに帽子まで首に巻かなければなりません。熱中症になりそうですな。でも、修行ができているので大丈夫なんですよ。お導師さんが熱中症で倒れた、なんて話は聞きませんからね。一応、地方(本山級のお寺でない場合は)では、「まあ暑いから帽子なしでいいか」というようなことが度々あります。特別な場合を除いて、ですが・・・。

ちなみに筋肉の中で僧帽筋という筋肉がありますよね。僧侶の帽子状の筋肉、ということなのですが、この場合の僧侶の帽子とは、お坊さんの帽子ではないそうです。この場合の僧侶とは、キリスト教の僧侶のことで、帽子とはマントのことなのだそうです。つまり、僧帽筋の名前の由来は、日本の僧侶の帽子ではなく、キリスト教の僧侶・・・神父さん・・・が着用したマントの位置から来ているのだそうです。昔は、キリスト教の神父さんや牧師さんも僧侶と言ったのですな。チェスのビショップを僧と訳していますよね。もうごちゃまぜですな。西洋も東洋もない、宗教者はみんな僧侶になっております。なので、間違いやすいのです。私も僧帽筋の名前の由来は、てっきり我々が着けている帽子かと思っておりました。紛らわしいですな。

さて、秋になるとお坊さんがお経を読むとき、白いマフラーをつけて読むようになります。そんな姿を見て
「あ、帽子を着けるんですね。それ羽二重ですか?」
なんて声をかけてみてください。
「おや、よく知ってるね」
という返事がきっとあると思います。そんなことがきっかけでお坊さんと仲良くなることもあるかも知れません。敷居が高い、とっつきにくい、話しかけにくい、なんて思っていないで、ちょっとしたきっかけで話しかけてみて、親しくなって欲しいと思いますな。そうしたところから、仏教に近付いてもいいのではないかと思いますな。
合掌。


197.無上
IT業界では、さらに上を目指し、大きな経営統合がありましたね。海外の大きな業界に負けないよう上を目指すのだ、ということのようですな。まあ、大変ですね、上を目指すのは。いったいどこまで行くのやら、と思います。もちろん、上を目指すというのは悪いことではありませんな。受験生は、少しでも上の学校を目指し、勉強に励みます。いいことですな。まあ、そればっかりになってはいけないかな、とは思いますが、どんなことにしろ・・・学業やスポーツ・仕事などなど・・・上を目指して励むことは、悪いことではありません。むしろ、頑張って欲しいですな。この上なき高みを目指すのはいいことだと思います。
この上なき・・・無上ですね・・・この「無上」、今回は「無上」についてお話いたしましょう。

一般的に「無上」は、この上ない、という意味でしょう。まあしかし、一応確認はしておきましょうね。新明解国語辞典によりますと「無上」とは
この上もないこと。最上。
とあります。思っていた通りですね。当たり前ですな。では、仏教語の「無上」はどうでしょうか?。
お馴染みの仏教語大辞典によりますと「無上」とは
①解脱のこと。
②仏の智慧。
③はるか。
④仏が七つの点で最もすぐれていること。→七無上
⑤見・聞・得・戒・供・念のこの上なきこと。
⑥より以上のもののない。最高の。至高。最高。
とあります。一つずつ解説いたします。

①は、わかりますよね。無上とは解脱のことなのです。まあ、この上ないことですから、解脱となりますね。輪廻から解脱した状態は最高の状態ですからね。
②もいいでしょう。仏陀の智慧のこと、という意味ですな。覚った者=覚者・仏陀の智慧は、最高ですからね。それ以上の智慧はありません。なので無上なのです。
③はちょっと抽象的ですが、まあ、遥か彼方、という意味ですな。手の届かない、ずーっと向こう、と言った感じでしょうか。
④は説明が要りますね。仏陀は、七つの点で最もすぐれているのです。その七つの無上とは、
身無上、道無上、正無上、智無上、神力無上、断障無上、住無上
のことです。
身無上とは、仏の身が三十二相で飾られていることです。三十二相とは、仏陀の身体的特徴ですね。解脱者は、一般人とは異なる32の身体的特徴を持っているのです。これが無い者は、解脱者とは言わないですな。ちなみに32相ですが、全部書くと大変なので代表的なことだけ書きます。頭のてっぺんに肉がついている(肉けい)、すべての体毛が右回り、眉間に白い毛がある(白毫)、瞳が紺碧でまつげが長い、歯が40本ある、舌が細く長い、手が長くひざ下まである、男根が身体の中に隠れている、手足の指の間に水かきがあるなどなど・・・。まあ、もしこのような身体の特徴を持っていたら、すぐに修行をしてください。必ずや解脱者となるでしょう。一つや二つではダメですよ。32の異形な相がないとね、ダメです。

道無上とは、如来の利他の行いが、最もすぐれていること、です。つまり、最もすぐれた利他行をするということです。最もすぐれた利他行とは、裏のない利他、汚れのない利他、純粋たる利他のことです。下心のある利他はダメですな。
正無上とは、如来の行いが優れていること、です。つまり、非の打ち所のない行いをする、ということですね。
智無上とは・・・ちょっと難しいので、簡単に書きます。最上の智慧を完成していること、です。これ以上の智慧が無い智慧のことです。
神力無上とは、最上の神通力を完成していること、です。どんな者も仏陀の神通力には及ばないですな。
断障無上とは、煩悩等による障害を断じていること、です。ちょっと省略しましたが、概ねこの意味です。
住無上とは、如来はこの世でも天界でも宇宙でも住する場所があること、です。どこにでも遍在しているのが如来です。そういう意味ですな。
と、まあ、こういう分類は、あまり意味がないのですが、ともかく仏陀・如来が一番すぐれている、と言いたかっただけですね。権威付けですな。バカバカしいのですが、佛教学にはこういうバカバカしい分類や分析があるのですよ。本来の仏教とはちょっとずれているんですけどね。

⑤も④と似たようなことです。見る・聞く・得る・持戒・供養・念で、如来が最もすぐれている、無上なんだよ、ということですな。
⑥が現在使われている無上と同じ意味ですね。この上なき、最高の、という意味ですな。
参考までに、仏教は、実践と学問に分かれてきますが、学問はやたら分類だの分析だのが好きですね。唯識学がその代表ですね。唯識は、心をかなり細かく分類・分析していますな。西洋の心理学よりも深いと思いますよ。修行のためには、実践と学問の両方が必要ですな。ただし、学問はある程度で十分ですね。細かいマニアックなことなことまで知る必要がないですね。知らなくていいことも多々あります。実際、悟りには必要のない仏教学はたくさんありますからね。

さて、無上です。まあ、この上なきことなのですが、そこにはなかなか至れませんな。無上の領域は、ほど遠いですね。かつて「我は解脱者である」などと吹聴したカルト教団の教祖がいましたが・・・まあ、今でも自分を解脱者と言っている新興宗教の教祖は多々いるようですけどね・・・それはウソですな。解脱者・・・つまり無上な人ですね、この上なき人です。そんな人が、犯罪を犯すはずがないですな。いや、無上の人は、欲がないですから、儲けようなんて思わないですな。ほぼ白紙のようなページの本なんぞ出版しませんし、映画も作りませんな。そもそも、自分を解脱者とか最高の人間とか、無上なる者とか、自分で言わないでしょう。そう言っていいのは、本当に解脱したものだけですね。で、そういう人は、誰もがそう認めるでしょうし、欲のからんだ行動などしませんな。欲があるうちは解脱者ではありませんね。無上ではないのですよ。

自分で自分のことを「最高」と思っちゃダメですよね。「オレ、最高!」なんて言っている者は、最低ですな。無上なる者は、決して自分のことを「無上である」などとは言わないし、そうも思わないでしょう。自分で自分のことを無上だ、最高だ、と思った時点で沈んでいくでしょうね。
今が頂点、と思った瞬間、落ちていくのです。自惚れは恐ろしいですな。決して、無上だ、などと思わないことですね。その域に達する者は、真の解脱者だけなのですよ。
合掌。


198.往来
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
お正月も随分様変わりしまして、普段とあまり変わりがないですね。大型店やモールにたくさんの人が集まっているというだけで、お正月という感じではないですな。と、そう思っているのは昭和育ちの人たちなのでしょうね。最近の方は、昔のお正月なんぞ知りませんから、お正月と言えばショッピングセンターでお買い物がお正月なんでしょうね。かつてのように、往来を行く着物姿の人たちを見ることも少なくなりました。ま、これが平成・令和のお正月なんでしょうな。
「往来」などという言葉も最近では使わないですね。「往来を行く人々が・・・」と、たまにニュースで聞く程度でしょうか。あ、ちなみに「バックオーライ」の「オーライ」と「往来」は違いますな。皆さんご存知だと思いますが、念のために。「バックオーライ」の「オーライ」は「all right」のことですね。意味は「差し支えないです」ですな。
では、「往来」は?・・・今回は、この「往来」についてお話いたします。「往来」も仏教語にあるんですよ。

新明解国語辞典によりますと「往来」とは
①ゆきき。
②道路。通り。
③生活に必要な物の名を手紙文の中で列挙した、昔の教科書。
とあります。
①は「行ったり来たり」の意味ですね。②は、ニュースなどで言う「往来を行く人々・・・」は、「道路、通り」のことですな。①の方は、あまり使われませんな。「往来する」というより「行き来する」と言いますよね。往来の方は、ちょっと古臭い言い方のような気がします。というか、昔の言い回しなのでしょうな。
③はよくわかりません。どうやら昔の書物や教科書に「〇〇往来」というのがあったそうです。また、遠方から調達したものや輸入品を「往来物」と言ったりしたそうです。舶来物・・・と言うのは昔よく聞きましたが、「これは往来物だ」と言うのは聞きませんよね。ずいぶん昔の言い回しなのかもしれませんな。ひょっとしたら、古い映画やTVドラマなんかに出てくるかもしれません。
最近は使われなくなった「往来」ですが、主な意味は②の道路や通りですな。辛うじて、この意味では使われていますね。

では、仏教語の「往来」はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと
①生まれかわり、輪廻すること。
②過去と未来。
③ゆきき。実際のありさま。
とあります。現代の「往来」の意味に通じているのは、③ですね。それ以外は、現代の「往来」には関係していませんな。
そもそも「往」は「行くこと」ですが、仏教では「あの世へ行く、浄土へ行く」ことを意味していますな。「往く」と書いて「亡くなった」という意味となりますね。今でも弔辞などで亡くなったことを「あの世へ往かれました」と言いますね。その際に「いく」という字に「往く」や「逝く」をあてますな。できれば「往く」のほうがいいと思いますな。「往く」は「浄土におもむく」という意味がありますからね。
人は亡くなって「あの世へいく」ことになりますが、何かに生まれ変わります。仏教ではそう説きますな。人だけでなく、生命のあるものはすべて生まれ変わります。輪廻しますね。それを「往来」とも言うのです。これが①ですね。別の世界と人間界を「ゆきき」するのが輪廻ですから「往来」となるのですね。
そこから②の意味が生まれますな。生まれ変わりは、過去でもあり、未来でもあります。過去は前世、未来は来世ですね。過去の生があり、現在の生があり、未来の生がある、それが生まれ変わり・輪廻ですな。なので、輪廻を意味する「往来」に過去と未来の意味が生まれたのでしょう。ということは、①②は同じような意味になりますね。

さて、私たちは誰もが輪廻しております。仏教ではそう説きますな。まあ、実際そうなのですよ。生まれ変わっています。誰にも前世がありますな。そして来世もあります。
よく、前世を知りたい、という方がいますが、知ってどうなるのかな、と私は思います。まあ、知りようもないですけどね。あぁ、巷にいらっしゃる「前世を見ます」的な占い師というか霊能者というのは胡散臭いですな。だって「あなたの前世は〇〇です」と言われてもねぇ、証拠もないし証明しようもないし。何とでも言えますな。いい加減なことを言っているとしか思えませんな。まあ、実際そうなのでしょうけど。

お釈迦様は、
「現世を見れば(よく観察すれば)、前世も来世もわかる」
と説いていますな。たとえば、現在、お金に苦労している人は前世で貪ったのだろうな、ということです。現在、裕福な人は前世で貧しいながらもたくさんの人を助けてきたのだろうな、ということですね。現在、人間関係で苦労している人は、前世で多くの人に迷惑をかけてきたのだろうな、ということですね。
つまり、現在の自分の姿をよくよく観察して、その原因は前世にあるのだ、すべて身から出た錆だ、自分の責任だ、と知りなさい、と教えているのですね。
同時に、この世で悪いことをすれば来世は罰を受けることになる、この世で善いことをすれば来世で安楽な生き方ができる、とも教えているのですよ。
苦労は前世の自分の行いの報い、現世の自分の行いが来世に反映する、それを知りなさい、ということですな。

前世を知っても意味はないですが、現世の姿を省みて前世を考察し、現世で悪いことをしないようにするのはいいことですね。また、来世を考えて、現世で善い行いをするというのもいいことですね。
ニートで引きこもっていると来世はアリになってしまいますよ。今年こそは、部屋から脱出して、来世にアリにならないよう働く、そういうことが大事なのですよ。
来世を予測して、現世を正しく生きる。それが大事なのです。そうして、この世と浄土を「往来」したいですな。
合掌。


199.痛(つう)
ちょっと前、2~3年前でしょうかねぇ、「痛い人」と言う表現をよく耳にしました。少々他人と変わったことをしたり、多少ずれている方のことを「あの人ちょっと痛いよね」とか「痛い人だよね」なんていってましたよね。そういえば、アニメのキャラクターを描いた車を「痛車(いたしゃ)」なんて言ってました。最近でも痛車は見ますが、痛車とは言わないのですかねぇ。あまり耳にはしなくなりました。「ちょっと変」、「ちょっとずれている」、「ちょっとおかしい」と言うのを「痛い」と表現するのも、まあ変ではありますけどね。いずれにせよ、こうした言葉はしばらくすると消えていくのですな。痛いは、本来の痛いに戻っていくのでしょう。
ちなにみに、仏教語では「痛い」は「いたい」ではなく、「痛(つう)」と表現しています。今回は、その「痛」についてお話いたします。

「痛い」の一般的な意味は大丈夫でしょう。一応、新明解国語辞典で「つう」を調べますと
①いたい、いたむ
②非常に
となっております。①は当然ですね。②は、「痛快」とか「痛切」と言った言葉ですね。「すごく」と言う意味での使用です。この二つの意味をあわせて「痛い人」と言う表現が生まれたのかもしれませんね。

さて、仏教語の「痛(つう)」ですが、お馴染みの仏教語大辞典によりますと
①苦しみ。
②悩み。
③いたみ。生理的な苦痛。
④感受のこと。感覚。受と訳すのがふつうである。十二因縁のうちの第七。
とあります。一つ一つ解説いたしましょう。

①はわかると思います。痛いのは苦しいですからね。ただ、この場合は、どちらかというと心の苦しみのことを言ってます。たとえば、
「楽を失えば悩む。これを痛(つう)という」
と解説してますな。つまり、悩んで苦しんでいることを「痛」と言うのです。ということで②の意味が分かると思います。
①②ともに、心の苦しみ・痛みのことなのですな。たとえば、とあるお経には「内心痛(ないしんつう)」と書かれています。これは心の悩みのことですな。
で、心の痛みだけでなく、肉体的な痛みも意味しますな。これが③です。これは、現代と同様の意味ですね。「肉体的ないたみ」のことですね。
問題は、④ですね。

十二因縁はみなさんご存知でしょうか? 簡単に説明しておきましょう。
十二因縁とは、人間の苦しみや悩みがいかにして成立するかを順序だてて解説したものです。仏教の基本的な考え方ですね。
①無明→②行→③識→④名色→⑤六処→⑥触→⑦受→⑧愛→⑨取→⑩有→⑪生→⑫老死
となっています。順番に前のものが後のものを成立させる条件となっています。前のものが消滅すると後のものも消滅します。そいう関係になっています。
無明(愚かさ)があるから、行(物事を形成する力)がある。
物事を形成していくから、認識や識別が生まれる。
認識や識別があるから、名称や形態、精神と物質と言った区別が生まれる。
区別があるから、眼耳鼻舌身意・・・見る・聞く・嗅ぐ・味わう・身体・心・・・という感覚が生まれる。
感覚があるから、接触(眼耳鼻舌身意と対象との接触のこと)が生まれる。
接触があるから、受という感受作用が生まれる。
感受作用があるから、愛と言う衝動・欲望・妄執が生まれる。
衝動・欲望・妄執があるから、執着が生まれる。
執着があるから、生存が生まれる。
生存があるから、生・・・生まれる・・・が生まれる。
生まれるから、老死が生まれる。
ということです。逆に前の項目がなければ・・・とたどっていけば、生も老死もなくなります。つまり、この世で我々が苦しむのは、この世に生まれたからだ、生まれなければ苦しみも悩みも生まれないということを、わかりにくく、ややこしく説明したのが十二因縁ですな。
簡単に言えば、悟ってないからこの世に生まれたのだ、この世に生まれたから、悩み苦しむのだ。悩み苦しみたくなければ、この世に生まれなければいい、そのためには悟ればいい、悟るには、愚かさを消滅させればいい・・・ということなのです。

長い解説をしましたが、「痛」の意味の中の④のことです。④は、「痛」は「受」である、と言ってますな。十二因縁の中の第7の「受」ですね。感受作用のことです。いろいろなものを見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味わってみたり、触れてみたり、思ってみたりすると、辛いことが生まれてくるのですよ。見たくないものを見て苦しむ、聞きたくないことを聞いて苦しむ、臭いにおいをかいで苦しむ、不味いものを食べて苦しむ、触れてみて欲望が生まれて苦しむ、そうしたことがあると悩むし苦しむ・・・のですな。なので、感受することは「痛」なのです。感受が無ければ、苦は生まれないのですよ。感受そのものが、苦しみなのですな。

きっと、ゴーンさんも苦しかったのでしょう。
このままではマズい、有罪になる可能性が高い、ヤバイヤバイ・・・。
奥さんにも会いたい、触れあいたい、チューだってしたい、それ以上もしたい、愛し合いたい・・・。
おぉ・・・苦しいよぉ・・・・!!
この苦しみから解放されるには?・・・この苦しみの原因は?・・・。
日本にいるからじゃん!、じゃあ、逃げれば助かるじゃん、じゃあ逃げよう・・・。
という因縁的思考だったのでしょうな。まあ、方向性が間違っていますが。自分のやったことは棚に置き、ですが。
まあ、心が痛かったのでしょうねぇ。絶えられなかったのでしょうねぇ。案外、弱い人間だったのですな。金はあるが、精神的にめちゃくちゃ弱い人だったのですね。なんとも哀れな人ですな。いや、ある意味、本当に「痛い人」だったのでしょうね。だからと言って、許されることではありませんけどね。

心の苦しみは誰にでもあります。そりゃ、生きている以上、いろいろな苦しみはあるでしょう。でも、そこから逃げてはいけませんな。逃げるのではなくて、
「なぜ苦しいのか、苦しみの原因は何か」
ということをよく考察して、その原因を取り除くことが大事ですな。
ゴーンさんも、「耐え忍ぶ」、「時を待つ」と言う心を持っていたら、逃げなくてもよかったんですけどね。逃げちゃダメですよね。逃げるより対処です。
同様に、いくら苦しくても、自殺はダメですね。死ぬよりも、原因を突き止め、取り除くことが大事です。命は大切ですから。世の中、苦しみばかりじゃありません。楽だってあるのです。それを求めましょう。
合掌。


200.快楽
まあ、世の中大変ですな。TVをつければコロナコロナで大騒ぎですね。どこへ行ってもコロナウィルスの話題にマスクがない、ばかりです。かといって、出かけるのをやめているかというと、そうでもないようで。まあ、私も気にせず、ボルダリングジムには行ってますからね。ジムも人がいないわけでもないですし。皆さん、通常通り来てますな。どなたも自分は平気、という感覚なのか、このあたりは平気、ということなのか、まったく気にしていないのか・・・。しかし、コロナがどうあれ、楽しみをやめるというのは、ちょっとねぇ・・・。楽しいことまで慎みたくはないですよね。

世の人から楽しみ・・・快楽・・・を奪ってしまったら、そりゃ大反発でしょうな。コロナが怖いからと言って、何もせず、誰とも会わず、引きこもりっていうのもどうかと思いますよね。ま、どんなときにも楽しみや快楽は必要ですな。ですが、こういう時は、俗的快楽ではなく、できれば仏教的快楽を求めて欲しいですな。ということで、今回は仏教的快楽についてお話いたします。

快楽と言えば、一般的にはあまりいい印象の言葉ではないですよね。快楽に溺れるなんて言いますな。一応、念のためにちゃんとした意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと、
生きていることの楽しさを感じさせる感覚の満足感
とあります。ちょっとわかりにくいですな。例として「人生の快楽」とあげています。まあ、本来は「楽しい、楽しくて満足!」と言った感じが快楽なんですが、世間では「快楽」というとちょっと下ネタ系の意味を含んだ使い方が多いようですね。本来の意味からちょっとずれていっているように思いますな。まあ、快楽という言葉自体、あまり使いませんからね。快楽に溺れる、快楽を味わう・・・。ちょっと何だか陰湿というか、卑猥感があるというか、明るいイメージの漢字なのに使われ方は、ちょっと暗いというかイケナイ言葉みたいなイメージですよね。快楽=イケナイこと、のような印象を受けます。

ところが、仏教語の快楽は違います。まあ、読み方も違いますけどね。仏教語では「かいらく」と読まず「けらく」と読みますな。そして、すべての人々が「快楽」になるよう、祈願もしますな。「諸人快楽」という言葉です。なので、仏教語の快楽はいい意味なんですよ。お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
①たのしみ。安楽。宗教的なたのしみを含めていう。精神的な快楽は仏教でも承認している。
②物質的なたのしみ。
③「愉快だ」という声。
④永遠(とわ)のたのしみ。浄土のたのしみ。
⑤心地よい喜び。
とあります。まあ、一言で言えば、精神が安定していて何の不安もない状態のことですな。それを「快楽(けらく)」というのです。俗物的楽しみを言うのではないのですよ。

①ですが、宗教的なたのしみとは、精神が安楽で何の不安もなく、憂いがないことです。
お釈迦様の弟子で、いつも「あぁ、楽しい。あぁ、楽しい」とつぶやいている人がいました。で、それを聞いていた他の修行僧が、「あれはよくないんじゃないのか。修行を楽しんでいるなんて、不謹慎だ」と文句を言ったんですね。まあ、修行中などに近くで「あぁ、楽しい。あぁ、楽しい」なんてつぶやかれたら、うっとうしいですな。特に悟りに至っていない修行僧は、そんな言葉を聞くとイラっとするんじゃないかと思います。そりゃ、文句も言いたくなりますよね。で、もめ事になります。それがお釈迦様の耳に入りますな。お釈迦様は、
「悟りの境地に至れば、何の不安もなくなり、憂いもなくなり、安楽になる。これは楽しいものなのだ。だから、彼の者は、ついつい『あぁ、楽しい』とつぶやいてしまうのだよ」
と説いていますな。だから、まあ、うっとうしいかもしれないが、悟りの境地は楽しい世界だ、という意味で聞くと言い、ということですな。つまり、これが④の意味でもあるのですね。
ちなみに、私の修行中のことですが、伝授の大阿闍梨様は
「本来、修行というものは楽しいものだ。苦しいと思ったら止めてしまえ」
とおっしゃっておりました。修行は快楽(けらく)なのですよ。

仏教でいう快楽(けらく)とは、いつどんなときでも、心が安定していて、何の不安や憂いもないことをいうのです。そういう状態でいると、安楽なんですよ。楽しいのです。不安がないというのは、楽しいことなのですよ。快い楽しさ、なんですな。覚ることができれば、いつでもこの状態なんです。いつも快楽なんですな。
また、別の言い方に「法楽」という言葉もあります。「法を楽しむ」ですね。「法」は教えです。つまり、教えを楽しむのですな。そもそも、教えは楽しいものなのですよ。なぜなら、教えを聞けば心が安定するからですね。仏様の教えを自分で唱え、その意味を知り、深く考察すれば、心は安定し、不安や憂いが無くなる・・・すると楽しくなるんですね。ついつい、ニヤッとしてしまうくらい楽しいでのですよ。

快楽を求めてはいけない・・・などと言いますが、仏教では逆ですな。快楽を求めよ、が正解です。ただし、その快楽とは、快楽(かいらく)ではなく、快楽(けらく)でなければなりません。俗物的な快楽、性的な快楽、そうした快楽ではなく、心の安定や不安のない世界、憂いのない世界、そうした意味での快楽を求めるべきなのですな。
とはいえ、俗物的な快楽でも、心は安定しますよね。趣味に没頭しているとき、自分の好きなことをやっているとき、そうした時は、我を忘れているのではありませんか?。何の不安もなく、恐れもなく、憂いもない状態ではありませんか?。それは、悟りの境地と似通っているのだと思いますよ。趣味に没頭しているとき、その時、悟りの状態と同じ状態になっているのです。
ならば、趣味に没頭していない時でも、不安や恐れや憂いがなくなれば、それはもう悟りと同じ・・・なのでしょう。それを目指すのが、修行なのでしょうね。

コロナウィルスが流行っています。不安なことだと思います。だけど、まあ、かかってしまったら、それはその時だと思って、少しは楽しく過ごすべきだと思いますな。不安だ、怖い、嫌だ、と言って引きこもっているわけにはいきませんしね。引きこもっていたって、罹るかもしれないですし。
それよりも、そんな不安を持たずに楽しく過ごしましょうよ。そのほうがストレスもたまりません。ストレスが溜まらなければ、免疫力もアップします。免疫力がアップすれば、コロナなんて怖くないですな。
大いに快楽(けらく)を求めてください。そして、私たち僧侶は、いつも「諸人快楽」を願っております。
合掌。


201.奉行
奉行と言えば我々世代は「北町奉行 遠山左衛門府様 御出座~」(これであってましたっけ?)をすぐに思い出します。あるいは「南町奉行 大岡越前」ですかねぇ。最近の方は、奉行と言えば会計ソフトの方を思い浮かべるかもしれません。言葉によって思い浮かべる事で年齢や世代がわかってしまいますな。まあ、いいんですけどね。いずれにしても、「奉行」といえば時代劇ですね。会計ソフトのCMだって歌舞伎ですからね。奉行=江戸時代って感じがしますよね。
ところで、仏教語にも「奉行」という言葉があります。こちらは皆さんがよく知っている「奉行」の意味とは違いますな。今回は、その「奉行」の違いについてお話いたします。

まずは、一般に知られている「奉行」の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
江戸幕府の職制の一つ。行政(司法)の各面における最高責任者で、老中に直属した。
とあります。例として、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・普請奉行があげられています。なお、町奉行は、北と南に分かれます。時代劇や時代小説が好きな方はよくご存じだと思います。ただし、奉行の制度は江戸時代だけですね。ちなみに、皆さんがよくご存じなのは、町奉行・・・北町奉行・南町奉行・・・でしょう。ここは、まあいわば裁判所ですな。遠山の金さんも大岡越前も町奉行で、現代の裁判長に当たりますな。
寺や神社は、寺社奉行の管轄ですね。

さて、仏教語の「奉行」はどうでしょうか? お馴染みの仏教語大辞典によりますと
①実行すること。仏教を奉じて修行をすること。善または誓願を実行すること。
②貴人にさし上げること。
③旨を奉じて行う。
とあります。意味は、大変簡単ですね。仏教の教えを実行することが「奉行」なのです。
なぜ、「奉り行う」というのでしょうか? それは、「仏教」が「尊い教えだから」という意識から、「奉り行う」となったのでしょう。
たとえば、お寺を建立するとします。そのために資金を集めなければなりません。その役を僧侶が受け持つ時、「歓喜奉行」などというのだそうです。「喜んで奉り行います」ということですね。お寺を建立するための資金集めは、まあ大事な役割でしょう。その役に当たるとなれば、「喜んでさせていただきます」となりますな。これは、主に③に当たるのですが、①でも②でも、「奉行」は「自分が下で相手が上、実行すべきことが尊い」場合に使う言葉のようですな。つまり、どんな仕事でも大事な仕事の任にあたれば、「歓喜奉行」なのですな。そこには、謙虚に仕事を行う、という気持ちが込められているのです。
同様に、仏道の修行も「喜んでさせていただきます」という気持ちでやらなければいけないわけです。大事な仕事も「喜んでさせていただきます」であり、修行も「喜んで修行いたします」なのです。そして、目上の人、大事な人に何かを渡す時も「喜んで差し上げる」のですな。つまり、仏教語の「奉行」は、「謙虚な気持ちで実行する」という意味が込められているのです。

ちなみに、我々が大きな法会(ほうえ)をするときは、「会奉行(えぶぎょう)」という役の仕事があります。この会奉行さんは、法会の仕切り役ですな。いわば、ディレクターです。法会の段取りや配役、席次、配列などなど、法会に関すること一切を仕切りますな。結構、大変な役です。法会に参列するお坊さんが集まる集会所(しゅえしょ)には、前もって席次の札を用意しておきますな。法会によっては特別な衣を使うこともあり、その衣を準備しておく仕事もありますな。で、全員席に着きますと、法会の段取りや配役を会奉行は述べるのです。
「ご披露申します。今般(本日)の法会は・・・・のため(を記念し)・・・」
と始まりますな。で、それぞれの役割を「**は〇〇寺(院)様」などと読み上げます。で、最後に質問を受けて「列(れつ)」と発して全員立ち上がり本堂へと進んでいきます。そして、法会が始まるのですが、会奉行さんは、途中そそうのないように見守っていないといけません。で、法会が終わり集会所に戻って挨拶をし、「御衣帯(ごえたい)をお解きになり・・・」と言って役割が終わります。まあ、大変な役ですな、会奉行さん。法会がうまくいくも失敗するも、すべて会奉行にかかっておりますな。
なお、この場合の「奉行」は、仏教語の「奉行」の意味もありますし、江戸時代の「奉行」の意味もあります。つまり
「仏教の法会の仕切りを喜んで務めさせていただきます」
「法会の責任者を担当いたします」
ですね。前者が仏教語の奉行で、後者が江戸時代の奉行ですな。あわせて、
「この法会の責任者を喜んでさせていただくという役」
となりますな。そういう意味が「会奉行」にはあるのですよ。

さてさて、現代の司法や行政の責任者の皆さん。つまり、現代のお奉行様たちは、「単なる責任者ですよ。しかもこの時期だけね」なんて気持ちで責任者をやってませんよね?。もしそうなら、仏教語の「奉行」の意味を学んでほしいですね。
司法や行政だけでなく、どんな仕事であれ、その仕事の責任者となったのなら、責任者たる自覚を持って欲しいですな。人任せやいい加減、自己本位ではなく、謙虚な態度で実行してほしいですね。
仕事の長を受けたのなら、その人はその仕事の「奉行」なのです。お奉行様なのですよ。単に威張るのではなく、自惚れるのではなく、
「その仕事の長、謹んでさせていただきます。喜んでお引き受けいたします」
という気持ちで行ってほしいですな。
大事な仕事をまかされた、抜擢された、大事な役割の任に当たった・・・というのは、まあ、出世したということであり、当の本人は嬉しいことでしょうけどね、そこで責任ということや謙虚さを忘れないで欲しいですな。遠山の金さんや大岡越前のような奉行ならばいいのですが、
「わしのいうことが聞けんのかぁ」
的な奉行=リーダーでは、お話になりませんからね。ま、世の中、ダメな威張りん坊奉行の方が多いようですが・・・。
困ったものですな。謙虚であることは、大事なことですよねぇ。
合掌。


202.どっこいしょ
立ち上がる時とか何かちょっと重い物を持つ時とか、ついつい「よっこいしょ」と言ってしまいます。「よっこらしょ」、「よいしょ」、「よっこいしょ」・・・言い方はその時々で変わります。「よっ」だけの時もありますね。いちいち、そう声をかけないと動けないわけではありませんが、ついつい出てしまいますな。まあ、「よっこいしょーいち」は言わないからまだマシですけどね。
この「よっこいしょ」は、もとは「どっこいしょ」だそうです。「どっこいしょ」が、しだいに「よっこいしょ」になって、さらに「よいしょ」に簡略化されていったのだそうです。そのほかの言い方「よっこらしょ」も同じですな。「よっ」に至っては、「よっこいしょ」の「こいしょ」が省略された言い方ですね。当然ながら、「よっこいしょーいち」はダジャレですけどね。
ではでは、元の「どっこいしょ」の語源は何でしょうか?。諸説あるそうですが、最も有力な説は、元は仏教語の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」なんだそうです。今回は、そんな話をいたします。

ということで、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を何度も言ってみてください。
「ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう・・・ろっこんしょ・・・ろっこんしょ・・・どっこいしょ・・・」
ってなりませんか?。ならないまでも似てませんか?「どっこいしょ」と「ろっこんしょうじょう」と。
その昔、まあ、今でもかもしれませんが、富士山に登る人たちは、白半纏を羽織り、杖を突き、
「六根清浄」
と唱えながら登ったのだそうです。まあ、これが富士山登山の正式なスタイルだったのですな。
初めは緩やかな昇りですから「六根清浄」も軽やかに言えますよね。息切れだってしません。が、次第に登りに疲れてきたり、急な登りだったりすると、「六根清浄」も言いにくくなります。「ろっこんしょうじょう」と言えなくなるのですな。
「ろっこんしょう・・・ろっこんしょう・・・ろっこんしょ・・・」
と言った感じで、「しょうじょう」が息切れして言えなくなっているんですね。多くの人が同じ状態になります。みんな「ろっこんしょ、ろっこんしょ、ろっこんしょ」と言って登っているのです。それは、
「どっこいしょ、どっこいしょ。どっこいしょ・・・」
と言いながら山を登っているように聞こえたのですな。こうして、ちょっと力がいる作業をするとき「どっこいしょ」と掛け声をするようになったのです。
まあ、これが「どっこいしょ」の語源の説明ですな。

で、もとの「六根清浄」です。これは仏教の言葉ですね。仏教語です。この言葉は、「六根」と「清浄」からできています。「六根が清浄である」ということですな。
「六根」とは、「眼耳鼻舌身意」の六つの感覚器官のことです。眼と耳と鼻と舌と身体と意識(心)ですね。
これらが清浄である、というのが「六根清浄」ですな。
「眼耳鼻舌身意」が清浄であるとは、どういうことなのでしょうか?

「眼が清浄である」というのは「視覚による差別がない」ということです。つまり、イケメン・ブサメン、美人・ブス、ヤセ・デブ・・・といった、見た目での差別を一切行わない、それが「眼が清浄」ということですね。ブサイクだから嫌い、イケメンじゃなきゃ嫌だ、ではダメなのですな。見た目がかわいい子や美人がいいな、ブスはイヤダ、デブは嫌い・・・はいけないのですよ。見た目での差別は清浄ではないのです。まあ、難しいことですけどね。
「耳が清浄である」というのは「聞こえてくる音を差別しない」ということです。まあ、簡単に言えば「あの人の話は聞くけど、この人の話は聞かない」という差別をしない、ということですね。人は、甘い言葉や誉め言葉は聞きますが、小言は聞きません。「聞こえません」なんて無視してしまうことがよくありますよね。こうした差別がない、誰の言葉であろうとも、どんな言葉であろうとも、ちゃんと話を聞く、というのが「耳が清浄」ということですな。これも難しいことだと思います。
「鼻が清浄である」というのは、「匂いで差別しない」ということです。臭いのはイヤ、いい匂いはOK、はダメ、ということですね。臭いからトイレの掃除は嫌だ・・・はダメなんですよ。臭くても、いい匂いでも平等に掃除しましょう、とならなきゃいけないのです。「あの人、臭いから嫌い」もダメですね。匂いで差別してはいけないのです。いやはや、これも難しいことですな。
「舌が清浄である」とは「味で差別しない」ということですね。マズい・おいしい、の差別なく、何でもありがたくいただく、ということですな。ということは、美食家は「舌が清浄」から最も遠いところにいますね。でも、マズいものは、できれば食べたくないですよね。舌が清浄も難しいですね。
「身体が清浄」とは、身体による罪を犯さない、ということです。身体による罪とは、「暴力・殺生、盗み、浮気」ですね。これは一番できやすいことではありませんか?。まあ、あまり暴力は振るいませんよね。最近はDVなんて問題も増えてはきましたが・・・。盗みも少ないでしょう。気をつけないといけないのは、浮気ですな。不倫です。もっとも犯しやすい罪ですかねぇ。しかし、多くの人が「身体が清浄」はできているのではないかと思います。
「意識(心)が清浄」とは、「心で思うことが清浄である」ということですね。つまり、「不当な怒り・妬み・うらやみ・うらみ・そねみ・さげすみ・・・」といった歪んだ心がない、歪んだ感情がない、ということですな。すぐにキレてしまう人は「心が清浄」ではないですね。他人の不幸を喜んでしまう、他人の不幸は蜜の味、メシウマ、なんて言っている人は、「心が清浄」ではありませんね。まあ、多くの方が、心は清浄でしょうけど、完璧に清浄だ、とは言えないかもしれません。どこかで羨む気持ちを持っていたり、恨んでいたり、妬んでいたりするのが人間ですからね。絶対、「心は清浄です」とは言い切れないのではないかと思いますな。
このように、六つの感覚器官が清浄であることが「六根清浄」なのです。

さて、富士山に登るとき、「六根清浄」と唱えながら登ったのは、富士山が霊峰だからです。富士山は、清浄で神が住まう山だからですな。その山に登っていく、というのは、清浄なる神の領域に入る、ということです。だから、
「私の六根は清浄です」
と唱えながら登ったのでしょう。そして、もう一つ、神聖なる場所であるからこそ、
「私の六根が清浄でありますように、六根を清浄にしてください」
という願いを込めて登ったのでしょう。
富士山を登り終えた人々の笑顔が美しいのは、皆誰しもが六根清浄となったから・・・なのでしょうね。ただし、下界に戻ると六根はあっという間に汚れてしまうのでしょうけど・・・。悲しいですな。持続は難しいです。

さて、いつまで自粛が続くのかわからない今日この頃。あまりの長い自粛で、六根も腐ってきてしまいそうですな。もうそろそろ、美しい景色が見たい・心地よい音楽が聴きたい・いい香りがするところへ行きたい・おいしいものが食べたい・身体を動かしたい・すっきりしたきもちになりた~い・・・とおもっているのではないでしょうか?。修行者ではないのですから、引きこもりにも限界はありますな。
少なくとも、身体がなまらないようにはしたいですね。自粛が解けたら、妙にポッチャリしてました・・・にならないように注意しないといけませんね。ちょっと動くにも
「どっこいしょ」
と言わなきゃ動けないようになってしまってはダメですね。少しは、身体を動かし、健康を維持しないとね。
自粛が解けたら、「なんか老けたねぇ」と言われないよう、自主トレをしましょう。六根が腐らないように頑張りましょうね。
合掌。


203.入門
ボルダリングを始めたころに、入門書を買って読みました。皆さんも、何か新しいことを始める際に、その入門書を読むことはよくあることだと思います。しかし、この入門書って、よくわからないんですよね。
ボルダリングもいろいろな専門用語があるのですが、入門書にはそうした専門用語の解説ももちろん掲載されています。が、覚えられないんですよねぇ。「へ~、そうなんだ。ほう、そうか・・・」とは思うのですが、覚えららえないんです。ですが、実際、ジムに行って「その言葉ってどういう意味ですか?」と聞いて、教えてもらうと覚えるんですよ。入門書よりも実践ですよねぇ。
ところで、「入門」という字でもわかると思いますが、「入門」は仏教語です。今回は、その「入門」についてお話いたします。

皆さんわかっているとは思いますが、現在使われている「入門」の意味をおさえておきましょう。新明解国語辞典によりますと
⑴①門から中にはいること。
 ②先生について、その弟子となること。
 ③学び始めること。
⑵初心者のための手引きとなる本。
とあります。入門書は、⑵のほうですね。
しかし、①は、まあ当たり前と言えば当たり前で・・・。こういうところが、国語辞典の面白いところ、と私は思うのですが、皆さんはどうですかねぇ。一般には、②③の意味で使うことが多いですね。①で使う方は少ないと思いますな。

では、仏教語の「入門」はどうでしょうか?。お馴染みの仏教語大辞典によりますと、
①入り来る門。
②弟子入り。師の門に入って弟子となること。師の僧のもとで剃髪して、その弟子となり、仏道修行に入ること。
③教理のうちで、自分みずからがさとりを開く部門。
④初歩の人のための書物や手引き。
とあります。
①は、現代語の「入門」と同じような意味に思われますが、ちょっと違います。現代語は「門から中にはいる」です。門から入ること限定ですね。というか、実際にある門から中にはいるという、物理的行動の意味ですな。仏教語の場合は、「入り来る門」です。実際にある門ではなく、「弟子入り」を意味しています。もちろん、物理的な行動・・・門に入る・・・という意味もありますが、精神的な意味の方が色濃いですね。「そこにある門、あなたが入り来る門、それは仏門である」という意味ですね。

②は、そのまんま、ですね。まさに入門の意味そのまま、です。似たような言葉に「入道」があります。まあ、ほぼ同じ意味ですね。出家者になるのが入道ですから。
③は、いろいろある仏教の教えの中で、自分で悟らねばならない教えのことを意味しています。教えられるのではなく、自分で気付き、自分で「あぁ、そうだったのか」という部門のことですな。
④は入門書のことですね。昔から入門書はあったのですな。

物事は何でもそうだと思うのですが、字面だけ追っていては本当の理解はできません。実際にやってみないと分からない、というところはたくさんあると思います。今では、ネットの世界でも仏教のことがたくさん書かれています。仏教語の解説やお経の現代語訳などがたくさん流れています。私のHPでもお経の解説を載せております。しかし、そうした解説を読んでいても結局はわからないんですよね。実際の仏教とは違うのですな。
確かに知識としてはすごいな、と思うことはたくさんあります。ネットは便利で、いろいろなことが調べられるし、妙に仏教に詳しい方もいます。「えっ、そんなことまで知ってるの?」ということにも出会います。それが、案外お坊さんじゃなくて、研究者でもなくて、一般の方だったりするんですよね。よく知ってるな・・・と思いますな。
が、知っているだけなんですよね。じゃあ、実際に仏教のその知識を生活に役立てられているのか、というとそうでもないですな。「実際の修行」と「知識だけ」というのは違うのですよ。

「事相(じそう)と教相(きょうそう)は、車の両輪の如し」
という言葉があります。事相とは実践、実際の修行のことですね。教相は教え、教理のことです。修行も大事です。しかし、教えをわかっていないとダメですね。逆に教えはわかっているけど、実際の修行はできていない、でも困りますな。教えもよく理解している、修行もできている、そうでないとバランスが悪いですね。

知識だけの人を「頭でっかち」と揶揄することがよくありますよね。「あいつは物事をよく知ってるけど、実際はな・・・。理屈だけなんだよな。口だけ」という場合ですね。こういう方は、現場では浮いてしまいますね。孤立化しやすいです。まあ、学者さんや研究者には、こういう方が多いですね。
「研究はすごい、でも実際にはねぇ・・・」
そういう話はたまに耳にしますな。

コロナ騒動で、最近よく思います。専門者会議の方は、そりゃもうそっちの世界では第一人者でしょう。言っていることは間違っていない、正しいのでしょうな。でも・・・。
でも、実際の生活とはかけ離れているのですな。実際が伴わないのです。「そんなの無理」ということが出てきてしまうのですな。知識と実践・・・その両立は難しいですな。

入門書でボルダリングを学んでみたのですが、結局はジムで練習する方がよくわかりますな。やはり、入門するには、書物ではなく、実際にその門をくぐることが大事ですね。研究者の方には、世の中の庶民の暮らしにぜひ入門して欲しいですな。きっと、研究者さんの知らない世界が見られると思うのですけどね。あ、日本のかじ取りをしている方々にも現場を学んでほしいですな。字面だけじゃなくてね。
「一般人の暮し入門書」なんてものがあったら、ぜひ読んでみて欲しいですな。で、実際のはどうかな、と現場を見て欲しいものです。
合掌。



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