ばっくなんばー1


 1、序 章

『はぁ・・・く、苦しい・・・・。なぜ、こんなに苦しまなければならないのか・・・・。いつまで続くのか・・・。
そうか、もうこの苦しみは続かないのだろう。おそらく、もうすぐ私は死を迎える・・・・。
ついに覚ることはできなかったか。苦行では覚りを得ることはできなかった・・・・。
得られたのは、ただ、苦しみに耐える、ということだけだったんだ・・・・。』

「お姉さま、こんなに奥の方に入ってきてもいいのでしょうか。」
「そうねぇ。でも、お父様は、確かに言いましたわ。とても尊い方が苦行林の奥の方で苦行をされている、その方に施しをするとよい、って。」
「それは、私も聞いていました。でも・・・・。コーンダニャ様が・・・・。」
「あぁ、コーンダニャ様ね。あの方は、いつも『苦行林の奥には入ってはならぬゥ』って、怖い顔をして睨みますからね。でも、私はコーンダニャ様よりお父様を信じますわ。」
「それは私もそうなんですけど。コーンダニャ様に見つかったら・・・・。私怖い。」
「大丈夫ですよ。天の神々様が私たちを見守ってくれます。悪いことをしようとしてるんじゃないですもの。」
「そうですわね。でも、尊いお方って、どんな方なのかしら。噂に聞く、シッダールタ様のようなお方でしょうか。」
「だといいですわね。夢にまで見る、シッダールタ様のようなお方なら・・・・。」


今から約2500年前のことである。インドの北東、ネーランジャラー河の付近にウルベーラーという村があった。その村は、各国から修行者が集まる村として有名だった。修行者たちは、覚りを得るために過酷な修行、苦行に励んでいた。やがて、人々は、その地を「苦行林(くぎょうりん)」と呼び習わすようになっていた。その苦行林の奥深くのことである。一人の修行者が、誰もやったことがないほどの苦行に挑戦していたのだった。しかし、その苦行者は、今にも息が絶えようとしていた。


『もうこの道は捨てなければいけない・・・・・。しかし、今のわたしにはそれすらできそうにない。身体がうごかない・・・。すでに死王がそこまでやってきているようだ・・・・。
あぁ・・・声が聞こえる。天女の声だろうか、それとも悪魔の娘であろうか・・・。ついに迎えがきたようだ・・・。』

「お姉さま、あれをご覧下さい。あの木の下にいるのは・・・・何でしょう?。」
「あらまあ、大変。あれはきっと、苦行されている方よ。生きているかしら。」
「まるで、木の一部になっているようですわ。カサカサになってしまっています。」
二人の娘は、木の下で座禅を組んでいる修行者・・・・それはすでにミイラのようであった・・・・を見つけたのであった。
「大丈夫、まだ息をしている。ちょっとだけしかしてないけど・・・・。大丈夫ですか。いま、蜂蜜をさしあげますからね。」
娘達は、持ってきた蜂蜜を水で溶き、二つの器に分けた。一つの器の蜂蜜は、身体に塗りこむためのものである。
「君達は・・・・・ハァハァ・・・・・天女であろうか・・・・・。わたしを・・・・・・死の世界へと・・・・・・導きに来た・・・・・・のであろうか・・・・・・。」
「いいえ、わたし達は、ウルベーラーの村のものですよ。待ってください。今、蜂蜜を口に・・・・。」
「お姉さま、この蜂蜜は身体にお塗りしてよろしいのですね。」
「えぇ、そうよ。身体に塗ってあげて。さぁ、お口を開けてください。」
その干からびた苦行者・・・まさに干からびていた!・・・は口を開け、注がれた蜂蜜を力を振り絞って飲み込んだのだった。
「あり・・・・・が・・・・・とう・・・・・。生き・・・・・・返る・・・・・よ・・・・。」
身体に塗りこんだ蜂蜜は、見る見るうちに、そのかさついた肌に染み込んでいった。しかし、肌は潤うまでは行かず、ややつやが戻った程度だった。二人が持ってきた蜂蜜は、あっという間になくなってしまった。
「あ・・り・・・がと・・・・う。ずい・・・ぶん・・楽になった・・・・。」
「あまり話されない方がいいですわ。今日は、このまま、横になられて休まれたほうがいいでしょう。また、明日、蜂蜜をお持ちいたします。さあ、横になってください。」
娘達は、随分苦労して、その苦行者を横にしてあげた。
「あぁ・・・・・・、楽だ・・・・・。横に・・・・・・なったのは・・・・・・何年ぶりだろう・・・・・。ありがとう・・・・・。」
「まあ、何て大変な苦行をされていたのでしょう。そんな激しい苦行をされた方は初めて聞きました。ゆっくりお休みくださいね。それでは、また、明日来ますから。」
こうして、死に直面していたその苦行者はその一命を取り留めたのである。

翌日のことだった。昨日よりもたくさんの蜂蜜を持って、二人の娘が、苦行林の奥深くまで再びやってきていた。そして、前日と同様に、一つの器の蜂蜜はゆっくりと口に注いであげ、もう一つの器の蜂蜜は苦行者のかさついた肌に塗りこめていった。昨日と比べると、随分肌のつやも戻り、苦行者も元気になったようだった。
「ありがとう・・・・・。君達のお陰で・・・・・随分楽になったよ・・・・・・・・。生き返ったようだ。」
「随分、元気になられましたね。よかったですわ。でも、まだ、起き上がってはいけません。今日も横になっていてください。また明日来ますね。それでは・・・。」
娘達は、翌日も蜂蜜を持ってくることを約束をして帰っていった。

三日目のことだった。朝早くから二人の娘が苦行林の奥深く、あの苦行者のもとにやってきたときである。二人の娘は驚いてしまった。何と、あの苦行者が立ち上がって、ゆっくり木の周りを歩いているではないか。その上、その歩いている姿は、痩せてガリガリではあったが、雄々しく立派であり、神々しいものであったのだ。いや、美しくもあったのである。
「あ、あの・・・起き上がってよろしいのですか?。」
「あぁ、もう大丈夫です。少し動かないと、と思ってね・・・・。ありがとう。」
「よかったですわ。それにしても、そのお姿は・・・・なんて立派なのでしょう。あなたのようなお方が、なぜこの苦行林へ?。しかも、あんなに激しい苦行を・・・・。何を求めていらっしゃるのでしょうか。」
その苦行者は、二人の娘の前に静かに座った。そして
「あなた達には、とても感謝いたしております。本当にありがとう。今日は、私の話を致しましょう。」
「お話しなどされても大丈夫なのでしょうか?。お身体に触りませんか?。」
娘はそう心配したのだが、その苦行者はそれには答えず、話を始めたのだった。

「ここから北西へ馬で一昼夜走った所に小さな国があります。コーサラ国の属国で、カピラバストゥという名の城が建っています。そこは、優秀な民族で知られたシャカ族が支配しています。私は、そこから来ました・・・。」
「えっ?、では、あなた様は・・・・、シッダールタ王子・・・さま・・・?」
「ええ、そうです。私は、カピラバストゥの王子、シッダールタなのです。」
「何ゆえ、王子様がこのような苦行林で、これほど激しい苦行をされていたのでしょうか。」
「それは、もちろん、覚りを得るためです。私が今日に至るまでをお話しいたしましょう。
私が生まれたのは、35年ほど前のことです。それは、ルンビニー園でした・・・・・。」
こうして、苦行者シッダールタは、ここまでに至る道のりを語り始めたのである・・・・。



 2、誕 生

「アシタ様、どこかへ出かけられるのですか?。」
「あぁ、尊いお方が・・・・、私が到達し得なかったところへいかれるお方が、誕生するのじゃ。その方のご尊顔を拝しにな・・・・、行ってくる。お前達も、いずれその方の教えを聞くことになるじゃろう。」
「尊いお方のご尊顔を・・・?。その方は、アシタ様よりも尊い方なのですか?。」
「もちろんじゃ。天の上にも天の下にもその方のほかに尊い方は現れんじゃろう・・・。」
「しかし、アシタ様は少しも嬉しそうではありませんが・・・・。」
アシタ仙人はそれには答えず、ただ「行ってくる」と告げて出発したのであった・・・。
ここはヒマラヤの山中、預言者アシタ仙人と弟子達が修行に励んでいる洞窟の中である。アシタ仙人は、尊いお方の顔を拝しに行くといいつつも、少しも嬉しそうな顔ではなかった。むしろ、寂しそうな表情さえ見て取れたのであった。それが、弟子達には理解できなかったのである・・・・・。


今から約2500年前の北インドは、豊かな流れのガンジス河に沿って、コーサラ国とマガダ国の二大国家が君臨していた。その二大国家の中には、小さな国がいくつもあった。シャカ族が納めるカピラバストゥもコーサラ国内にある、小さな国であった。城の名前は、カピラ城といい、シュッドーダナ王が善政を行い、豊かで平和な国家を繁栄させていた。

いつもは静かなカピラ城でったが、その日は特別であった。王妃マーヤーが出産のために実家であるデーバダハ国への帰り支度を急いでいたのだ。まだ夜は明けていなかったが、城の中はあわただしかった。
「マーヤーよ、もう用意はできたのか。どうか無事に立派な子を産んでくれよ。お父上にもよろしく伝えておくれ。」
「国王様、ご心配なさらぬように。女官も多くついて来てくれますし、医者も一緒に来てくれますから。」
「王様、王妃様、車の用意ができました。間もなく夜も明けます。」
「おう、そうか、わかった。・・・・・・さぁ、行ってくるがよい。気をつけてな。・・・・・・・おい!、夜明けとともに出発じゃ!」
城の前には、黄金で作られた乗り物が用意されていた。カピラ城からデーバダハの城までの道は、美しく整えられ、小石一つ落ちていないほどであった。沿道には色とりどりの花が飾られていた。
夜が明け、清々しい朝日を浴びながら、黄金の車は静かに動き出した。大勢の家来が車の前後を守り、女官が王妃の周りについていた。

「出発してより、随分参りました。ここは花園になっています。少々休憩を取られてはどうでしょうか。」
王妃を乗せた車は、カピラ城とデーバダハの城とのちょうど中ほどにあるルンビニー園に差し掛かっていた。このルンビニー園は、大きな公園になっており、色とりどりの花が数多く咲いていた。美しい泉もあり、休憩するにはちょうどいい場所であった。付き添いの女官の提案にマーヤー妃は微笑んで答えた。
「そうですね。わたくしも少し休憩したいと思っていたところです。汗もかきました。沐浴の用意はできますか。」
「はい、わかりました。・・・・衛兵、ルンビニー園で休憩です。妃様は沐浴をされますので、衛兵の方は外で待っていてください。お世話は私たちがしますので。」
「はっ、わかりました。皆の者、ルンビニーにて休憩。王妃は沐浴される。兵隊は外を護衛せよ。」

マーヤーは、車から降り、女官たちが泉の周りに作った囲いの中で静かに沐浴した。沐浴から出ると、侍女達がマーヤーの身体に香を塗りこめた。花は美しく咲き乱れ、綺麗な色をした小鳥は囀り、暖かな風が頬をなで、辺りには芳香が漂っていた。なんとも美しく、また平和でのどかな光景あった。誰もがその平和さに眠気を覚え始めた、そんな時である。
「あっ・・・・あっ・・・、お腹かが・・・・。」
マーヤーがにわかに産気づいたのであった。

ルンビニー園の花は、季節を問わず、すべての花が咲き乱れ、数多くの小鳥達が舞い降り、泉はその清楚さをさらに増し、どこからともなく漂ってきた素晴らしい香りがあたりを包み始めていた。そして、日の光とは異なる、柔らかで温かで優しげな、それでいて輝かしい光があたりを満たし始めていたのであった。その光がさらに強さを増した時・・・。
「おぉ・・・、何と立派な男の子、王子様のご誕生です!。」
付き添ってきた医者が喜びのあまり、大きな声で叫んだのであった。その声は、ルンビニー園の中はもちろん、外を守る衛兵にも聞こえたのであった。
「王子様が誕生された!。バンザーイ、バンザーイ。王子様ご誕生おめでとう!。」
女官も侍女も衛兵達も、我を忘れて皆喜びに叫んでいた。ルンビニー園は、いまや歓喜の声でいっぱいであった。
マーヤーも喜びで満ち溢れていたのであった・・・・・。

「御子が誕生されたのでは、実家に帰る必要もありません。このままカピラ城へ帰りましょう。」
沐浴を終え、すっかり身支度の整ったマーヤー妃は、実家へ帰らずカピラ城へと戻ることを女官に伝えた。女官たちは、とりあえず実家へ帰ったほうがいいのではないか、と勧めたのであったが、マーヤーはカピラ城へ帰ると言い張ったのである。
「いいえ、カピラ城へ帰りましょう。早く国王に王子の顔を見せてあげたいですから。」
「わかりました。では、カピラ城と御実家へ伝令を出しましょう。・・・・衛兵、伝令を。王妃はこれよりカピラ城へ帰る。ご実家のデーバダハ国には行かないので、その旨伝えるように。そして、帰り支度をしてください。」
「カピラ城へ帰られるのですか。はっ!、わかりました。早速準備を致します。」

マーヤー妃の一行がカピラ城へ戻るよりも早く、伝令により国中に王子誕生の吉報は伝わっていた。妃の一行が通る道は、カピラバストゥの人々で埋め尽くされていた。
「王子様誕生おめでとう。」
妃の一行が通っていくと、人々は口々に、王子誕生のお祝いの言葉を叫び、色とりどりの花を投げかけていた。今や国中がお祭り騒ぎとなっていた。
「おぉ。帰ってきたか。お前も無事で何よりだ。どれどれ、王子の顔を見せてくれ。」
城に着くと、国王が妃の帰りを出迎えてくれていた。妃が到着すると、ねぎらいの言葉を投げかけ、王子をすぐさま抱き上げたのであった。
「マーヤーよ、よくやった。よく頑張った。立派な王子だ。お前は、ゆっくり休むがよい。そうだ、早速名前を考えなくては。うーん、どんな名前がいいだろうか。」
シュッドーダナ王は、王子をベッドに寝かせると、満面に笑みを浮かべながら、そそくさと自室に戻っていった。

二日後のことである。国王シュッドーダナがマーヤー妃の休んでいる枕もとへとやってきた。
「良い名前を思いついたぞ。マーヤーよ、聞いてくれるか。」
「王様、どうぞおしゃって下さい。」
「ゴータマシッダールタはどうだ。ゴータマは最も優れた牛、即ち牛の王を意味する。牛は神の化身だからな。だから、ゴータマは言わば神の王ということだ。シッダールタはすべてを成し遂げる、という意味だ。どうだ、いい名前だろう。」
「えぇ、とても素敵ですわ。意味も素晴らしいです。この子がその名前の通り、立派に育ってくれることを願っています。」
「マーヤー・・・・。やはり、顔色がまだよくないようだ・・・・。ゆっくり休むがよい。王子のことは乳母が面倒を見ておる。お前は何も心配せずに休むがいい。おぉ、そうだ、明日、預言者を六人呼んでいる。王子の未来を占ってもらうのだ。その時にお前の体調も占ってもらおう。」
「ありがとうございます。では、少し休まさせて頂きます。」
マーヤーは、王子の出産以来、体調がすぐれず、カピラ城に帰ってきてからも、ほとんど寝て過ごしていたのだった。

翌日のこと、カピラ城の街の中を一人の仙人が厳しい顔をして歩いていた。
「あっ、あれはアシタ仙人様じゃないか?」
「まさか・・・・。アシタ仙人がこんな街中にいるわけがない。今ごろはシュメール(現在のヒマラヤ)の山の中さ。」
「しかし、噂に聞いている姿格好だぞ。それに、なんか・・・・光が身体を覆うっているような・・・・。そんな方は、アシタ仙人くらしかいないだろう。」
「あぁ、そういえば、今日は王子様の未来を占うため、預言者がお城に呼ばれているらしいから。」
「じゃあ、アシタ仙人も呼ばれたんだな・・・・。」
「それにしても、方向が違うじゃないか。あっちにはお城はないぞ。向うは川があるだけだ。」
「それに、占いの儀式なら、もう始まっているよ。」
「なんだ、そうなのか。じゃあ、あれはアシタ仙人じゃないんだ。つまらないことで油を売っちまった。はぁ、仕事に戻るか。」
街の人たちは、ぶつぶつ文句を言いながら、それぞれ散っていったのだった。

そのころ、城中では、街の人々が噂をしていたように、6人の預言者が呼ばれ、王子の未来を占う神事が行われていた。
「どうじゃ、シッダールタ王子の未来はわかったか?。」
「はい、王様。私からまずお答えします。シッダールタ王子様は、大変健やかに成長され、伝説の王者『転輪聖王(てんりんじょうおう)』となられるでしょう。」
一人の預言者が占いの結果を述べた。
「な、なんと!。あの伝説の王、『転輪聖王』となるのか。それは本当か。お世辞ではないであろうな。」
「お世辞ではありません。王子は必ずや転輪聖王となられるでしょう。」
他の預言者がそう答えた。
「そうか、他の者はどうじゃ。そういう結果だったのか。」
「はい、同じ結果が出ました。王子は間違いなく、転輪聖王となられます。」
「私の占いでも、そういう結果です。」
預言者の占いはすべて同じ結果であった。
「そうか、そうか。よくわかった。預言者のそなた達がそういうのなら、王子は転輪聖王となれるのであろう。よくわかった。大切に育てることにしよう。」
こうして、預言者の神事は終わったのであった。シュッドーダナ王は、預言者たちの言葉に大いに満足していた。王は、預言者たちに多くの金を与えた。そうして、6人の預言者たちは、それぞれ城を立ち去っていったのである。その預言者達と入れ違いに一人の仙人が城の中に入ってきた。その仙人は誰も案内をつけず、しかし、誰に呼び止められることもなく、堂々とお城の中、王との謁見の間に入っていったのである。


 3、別 れ

城中の謁見の間では、国王シュッドーダナが、シッダールタ王子の眠るベッドを覗き込んでいた。
「そうかそうか、お前は転輪聖王(てんりんじょうおう)となるか。伝説の王者、転輪聖王か。これで、このカピラバストゥも安泰だな。釈迦族のこの国も、もっと強大になるな。今から楽しみじゃ。」
「国王様、大変喜ばしいお告げでございました。王子様が、転輪聖王となられるときまで、私も長生きがしたいものです。」
「おぉ、そうじゃ、そうじゃ、宰相よ。それまで、この国をしっかり守るのだ。頼んだぞ。」
「はい。もちろんですとも。私にお任せ下さい。軍の強化もしておりますゆえ、なかなかコーサラも攻めては来れませんでしょう。」
国王と宰相は、カピラバストゥの未来の話に花を咲かせていたのである。その時、急にベッドで寝ている王子が微笑みだしたのであった。
「ほら、見ろ。王子も笑っている。この子も、この国の未来がわかっているのだな。ハッハッハ。よい子じゃ、よい子じゃ。預言者達が来ているときは、ぐずっておったのに・・・・・。」
国王も宰相も大喜びで王子を覗き込んでいた、その時であった。

「おい、待て。キサマ、どこから入ってきた!。待て、止まれ!。ここは、謁見の間であるぞ!。」
謁見の間の扉の横に控えていた衛兵が大声で、勝手に入ってきた老人を呼び止めながら、部屋に入ってきた。その老人はそれには構わず、
「いやいや、そうではありませんぞ、国王様。王子は、どうやら私を歓迎してくださっているようです。」
と国王に微笑みかけたのであった。その声のした方を振り返って、国王も宰相も驚いたのであった。その人は、滅多なことでは人里には下りてこないアシタ仙人だったのである。
「いや、これは、アシタ仙人様ではありませんか。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。おい、お前ら、下がらんか。このお方は、あのアシタ仙人様だ。」
「は、これは失礼いたしました。」
「申し訳ございませんでした、仙人様。しかし、いったいなぜ、お城に・・・・。」
「いやいや、よいです。案内も付けず勝手に入ってきた私が悪いのですから。実は、王子が誕生されたと聞き及びましてな。それで、一刻も早く、その王子様のお姿を拝見したかったのです。ご無礼をお許しくだされ。」
「何と、それは、ありがたいことです。ささ、早くこちらへ来てくだされ。どうぞ、王子を見てやって下さい。ちょうど先程、6人の預言者に王子の未来を占ってもらったところです。どうでしょうか、アシタ仙人。彼らは、この王子は転輪聖王になると言っておりましたが・・・・。」
「どれ・・・。おぉ、神々しいお姿じゃ・・・・。」
アシタ仙人は、シッダールタ王子を抱き上げ、頭上高く掲げあげのだった。
「おぉ、王子が・・・・・、あんなに微笑んでいる。それに光に包まれている。こんな事は、今までなかった。何ということだ・・・・。」
アシタ仙人は、王子をベットに下ろした。しかし、その目には涙が溢れていたのだった。
「アシタ様、如何なされた。まさか、王子に不吉なことでも・・・・?。」
アシタ仙人の流した涙を見て、王は不安そうに尋ねた。
「あぁ、いやいや、これは失礼をした。不吉なことなど何一つない。ただ・・・・。」
「ただ・・・・。」
「王子が尊いお方になられたとき、私は生きてはおるまい。それが残念で・・・・・。」
「尊いお方・・・・?。王子は転輪聖王になるのでは・・・・?」
「そう、このままお城に留まれば、武力を使わずに世界を征服してしまうことができる伝説の王、転輪聖王になるであろう。しかし・・・・・。王子は、お城に留まることはないであろう。王子は、城に留まることなく、必ず出家をされ、伝説の聖者、ブッダとなられるであろう。そのお姿を私は、拝見することができない。その教えをお聞きすることができない。なんと私は罪深いことか。ブッダが現れる前に、この世を去らねばならぬとは・・・・。」
「何と・・・・。この子がブッダになると・・・・いま、そうおっしゃったのですか・・・・。」
「えぇ、そうです。このお方は、天の上にも天の下にもただ一人尊いお方、ブッダとなられるのです。」
「まさか・・・・。伝説の王者ではなく、伝説の聖者になると・・・・。」
「大切に育てられるがよい。・・・・・いや、自然に任されるがよかろう。普通の王子として育てられる方がよいであろう。さて、私の用事はもう終えました。また、山に戻ります。」
「ち、ちょっとお待ちください。それは、出家をすれば・・・ということなのですね?。城に留まればいいのではないのですか。城に留まればブッダにはならない、と解釈してもよろしいのですな。」
「ふっふっふ・・・。すべてはもう決まっておることじゃ。極普通の王子として育てられるがよかろう。では、私はこれで・・・・。」
アシタ仙人は、そう告げると、部屋を出ようとした。国王は慌てて、
「あぁ、お待ちください。今、黄金をお持ちします。仙人様、お受け取りください。」
とアシタ仙人を引きとめたが、仙人は
「私には、そんなものは必要ありません。お気遣いなく・・・・。」
とだけ答えて、部屋を出て行こうとしたのであった。が、ふと、扉を開ける手を止め、シュッドーダナ王の方を振り返った。
「言い忘れておりましたが、お妃様は・・・・・、残念ですが、もうこの世にはいらっしゃいません。すでに都率天(とそつてん)に行かれております。あと4日・・・・。それでは・・・・。」
「あぁ、待ってくれ。それは、マーヤーのことか?。この世にはいないとは、どういうことだ。都率天に行っているとはどういうことだ。あと4日に何があるというのじゃ。わかりやすく教えてくれ。アシタ仙人様!。」
アシタ仙人は、それには答えず、もう二度と振り返ることもなく、城の外へと出て行ったのであった。

「宰相、どう思うか。」
アシタ仙人が出て行った謁見の間には、シュッドーダナ王と宰相だけが残っていた。王子のベットも乳母のもとに運ばれていた。
「はぁ・・・・。王子様は極普通に育てられよ、とアシタ仙人はおっしゃった。それでいいのではないでしょうか。」
「それで、出家はしなくなると・・・・そういうことだと思うか。仙人は、すべてはもう決まっている、とも言っていたぞ。」
「しかし、他の6人の預言者は、王子は転輪聖王になると、皆言っておりましたぞ。1対6・・・・。一人の言うことが正しいか、6人の言うことが正しいのか・・・・。」
「だが、アシタ仙人様だぞ。他の預言者とは格が違う。」
「もちろん、そうですが・・・・。しかし、今からそんな心配をされても、仕方がないのではないでしょうか。心配なさらずに、王子には私たちがしっかり教育いたしますゆえ。国王になることがどんなに大事なことであるかをお知りになれば、王子も出家などということは、考えますまい。それに・・・・。」
「それに?」
「王子もお妃様を迎え入れれば、また、お子を持てば、出家などということは、取りやめるに違いがありません。」
「おぉ、そうだな。汝の言う通りだ。妃を迎え、子を産めば、王子も城は離れられないだろう。そうだな。それがいい。それに、城から出られないように、見張りを強化すればいいのだ。そう、王子が成長するにつれ、城の警備を強化するぞ。そうすれば、出家などということは、あきらめるだろう。そうだ、それがいい・・・・。」
「そうです、王様。そうすれば、王子も城からは出られないでしょう。しかし、お妃さまのことは・・・・。」
「それは仕方があるまい。他の6人の預言者もあまりいいことは言わなかった。言葉は濁しておったが、あの様子では、難しいのだろう。アシタ仙人の言葉を信じるのなら、マーヤーは、天界に生まれ変わるようだ。それならば何も言うことはあるまい。ただ、苦しまずに安楽に行ってくれればよい・・・・・。一応、覚悟はしておこう・・・・。」
「国王様・・・・・・。」


アシタ仙人が城を訪れてから4日目、王子が誕生して1週間目の夜明けが来ようとしていた時であった。
「王様、国王様・・・・・。」
「う、うぅ・・・・ん・・・・・。」
「王様、私は、もう行かねばなりません。私の役目は、もう終えました。短い間でしたが、ありがとうございました。シッダールタのこと、よろしくお願い致します。あの子の世話は、私の妹マハープラジャーパティーがしてくれるでしょう。あの子の幸せを第一にお考え下さいね。では、私は、そろそろ参ります。」
「う、うぅ・・・ん。マーヤー、ど、どこへ行くのだ。私をおいて、王子をおいて、どこへ・・・・。」
「ご安心下さい。私は、都率天にいます。いつでも、ここから見守っております。どうか、ご安心を・・・。」
「マーヤー、マーヤー、待ってくれ!。」
そう叫んで、シュッドーダナ王は目覚めた。
「ゆ、夢?。・・・夢だったのか・・・・・・・。ま、待てよ。今日は何日だ。夜が明けると・・・・・。そうか、王子が生まれて7日目、アシタ仙人が訪れてから4日目だ。い、いかん。マーヤーだ。マーヤーは大丈夫か。」
王は、慌てて起き上がり、女官を呼び出し、
「医者を呼べ。今すぐだ。すぐにマーヤーの寝室にくるように伝えろ。静かに早く。騒ぐではないぞ。」
と言いつけると、自分自身もマーヤーの寝室に急いだのであった。

国王は、妃マーヤーの横たわるベッドのそばにたたずみ、そっとマーヤーの手を取った。その手は、まだ温かであった。すぐに、数名の女官と医者も部屋に入ってきた。窓の外は、徐々に明るくなってきていた。夜明けがやってきたのである。
「国王様、如何なされましたか。」
「夜が明ける。マーヤーよ、本当にお別れなのか。本当にお前は行ってしまうのか・・・・。」
朝の光が、窓のカーテン越しにマーヤーのベットまで届いた。マーヤーは、微笑みながら、息を静かにはきだした。そして、そのままもう二度と息を吸うことはなかったのである。
「国王様・・・。お妃様は・・・・。」
「あぁ、わかっておる。宰相に知らせてくれ。それから、マーヤーの実家の国王に知らせてくれ。手配を頼む。しばらく、一人にしておいてくれ・・・・・。」
妃マーヤーは、アシタ仙人の予言どおり、この世を去ったのである。


 4、王 子

シュッドーダナ王の妃、マーヤーは、王子シッダールタを産んで、一週間でこの世を去ってしまった。遺体は荼毘にふされ、カピラバストゥは、喪に服すことになった。シッダールタ王子は、マーヤーの夢のお告げ通り、妹のマハープラジャーパティーが面倒を見ることになった。
1ヵ月後、シュッドーダナ王は、マハープラジャーパティーを妃に迎えたのであった。こうして、王子は、マハープラジャーパティーを母として育っていったのである。
しかし、シッダールタは、どちらかというと、気難しい子供であった。あまり外では遊びたがらず、いつも物思いに耽っているような、そんな子供であった。また、身体もあまり丈夫ではなく、よく腹痛をおこしたり、下痢をしたり、食べたものを吐き戻したりする、そんなひ弱なところがあったのである。
それでも、シッダールタは、大病することなく、すくすくと育ち、八歳になる年を迎えていたのであった。

カピラバストゥでは、王族の子供たちは、八歳になる年から城を出て、学問と武術を習うために修練所に行くことになっている。その修練所で、4年間王族として身につけなければならないことを学ぶのだ。これは、王子であっても同じである。シッダールタも王族の子として、修練所に向わねばならないのであった。
今日は、修練所に向う、出立の日であった。
「シッダールタよ、お前もこの春で八歳になる。いよいよ、母の元を離れ、城を出て、修練所に向う日が来たのだ。今日からは、ビシュバーミトラ先生に学問を習い、クシャンティデーバ先生に武術を習うのだ。十二歳になるまで、しっかり王子としての学問と武術を身につけてくるがよい。」
「はい、父上様。今日より、修練所に参ります。母上、しばらくお別れですが、私は大丈夫です。ご心配なきように・・・。では、行って参ります。」
「シッダールタ、身体に気をつけて学んでくるのですよ。王子として相応しい子になっておくれ。」
こうしてシッダールタは、修練所に向ったのである。

修練所では、シッダールタや他の王族の子供たちを前に、ビシュバーミトラ先生とクシャンティデーバ先生の話が続いていた。話を聞いているなかには、デーバダッタの姿もあった。デーバダッタは、シッダールタの従兄弟であった。
「よろしいですかな。あなたたちは、王族として、学問も武術も身につけねばなりません。平和な時には学問が必要ですし、いざ、非常時には・・・・例えば、コーサラの軍勢が押し寄せてきた時には、勇敢に戦わねばなりません。特に、シッダールタ王子には、戦いの指揮をとってもらわなければなりませんので、王子がひ弱なことでは、軍隊に示しがつきませんからな。しっかり、武術を身につけてくだされ。」
「ふん、こんなひ弱な王子に、武術は無理さ!。カピラバストゥの平和は、俺が守ってやるさ。このデーバダッタ様がね。」
そこにいた全員が笑い出した。他の王族の子供たちも、
「確かに、シッダールタ王子じゃね・・・・。いつも木の下に座って寝ているだけだからね。」
と、言い出す始末だった。
「なかなか、勇敢だな、デーバダッタ。その心意気で、王子や国王、妃様を守りなさい。では、授業に入る。まずは、剣術じゃ。」
『けっ!、何で俺が王子たちを守らなきゃいけないんだ!。あんな弱虫を!』
こうして、学問と武術の授業が始まったのであるが、ひ弱といわれた当の王子は、
『学問はいいのだけど、武術は・・・。いやだなぁ。なぜ、武術などを身につけねばならないのだろう。なぜ、人は、お互いに傷つけあわねばならないのだろう。他人を傷つける、命を奪ってしまう法を身につけるのは、あまり気が進まないなぁ・・・。』
と、内心そう思っているのであった。

修練所での2年間が過ぎた。学問では、常にシッダールタ王子が一番の成績を修めていた。それどころか、ビシュバーミトラ先生に
「王子には、何も教えることはございません。それどころか、私のほうが教えていただきたいくらいです。」
と言わせるほどであり、先生に代わり、シッダールタがみなに教えることもあったくらいであった。
しかも、王子は、期待されていなかった武術でも、成績はいつも一番であった。
「なぜだ!。学問は仕方がないにしても、なぜ、武術で・・・・・。あんなひ弱なのに!。」
「でもさ、デーバダッタ。実践はどうかと思うぜ。授業では一番でも、実際の獲物狩りになりゃ、一番にはなれないさ。これからは、野外での実践訓練がほとんどだろ。」
「ふん、当たり前だ。なんなら、俺が、王子を射抜いてやってもいいけどな。」
「おい、それは、まずいぞ。いくらなんでも、相手は王子だぞ。」
「冗談だよ・・・・。ふっふっふ・・・・。」
「なんか、デーバダッタって・・・。いや、何でもない・・・・・。」

「さて、武術の授業は、今年からは、実践にはいる。今日は野ウサギを獲る。準備をして、庭に集合せよ。」
『野ウサギを狩るって・・・・。いったいどうすればいいのだ。罪も無い動物の命を奪うなんて私にはできない・・・。どうしよう・・・・。』
「うん?。どうしましたか、シッダールタ王子。顔色がすぐれませんが。今日は、実践での王子の腕を見せていただきますぞ。授業では、弓矢はいつも一番でしたからな。弓矢だけじゃない、剣術でも、みんな王子にはかないませんでしたからな。そうそう、剣術も、明日からは、本物の剣を持って練習します。腕前を見せていただきますぞ。」
「先生、私は狩りには参加したくありません。どうしても行かなきゃいけないのでしょうか。」
「王子・・・・。そんな我が儘を言っては困りますな。王子の腕なら、ウサギもたくさん取れるでしょう。さぁ、行きますよ。」
こうして、イヤイヤながら、ウサギ狩りに出かけたシッダールタであったが、気分は悪くなる一方であった。

「さぁ、成績優秀の王子様の腕を見せてもらおうじゃないか。まさか、動かない的しか撃てないんじゃないでしょう?。早く、ウサギを撃って下さいよ。」
「デーバダッタよ。君は、ウサギの命を奪おうとしているのだよ。なんとも思わないのか?。」
「何を言ってるんですか。これが戦場ならば、撃たなきゃ撃たれるんですよ。相手はウサギじゃないですか。王子ができないのなら、私がやりましょう。そこで見ていてください。」
「やめなさい、デーバダッタよ。撃ってはいけない。無益な殺生はよくない。」
デーバダッタは、ウサギを撃つことを止める王子を無視して、弓を打ちまくるのであった。デーバダッタの放った弓矢は、次々とウサギを射抜いていった。その射抜かれたウサギを見て、シッダールタは、戻してしまった。
「あーあ、情けないな。ウサギの死体を見て、吐いてるよ。こんなのが王子だとは・・・。おい、みんな、もっと奥へ行くぞ。誰が一番多くウサギを取るか、競争だ!。」
デーバダッタは、そういうと、王子を残して、さっさと野原を奥へと進んでいったのであった。

「何ということだ・・・・。先程まで、あんなに元気よく野を駆け巡っていたのに、今は、もう動かない。なぜ、人は狩りなどするのだろうか。なぜ、争わねばならないのだろうか。ウサギは、なぜ殺されなければいけなかったのか・・・・。死んでしまった、ウサギはどうなるのであろうか・・・。」
王子は、誰もいなくなった野原に一人たたずむのであった。

狩りが終わり、みなが修練所に戻ってきた。ウサギを最も多く獲ったのはデーバダッタであった。
「よくやった、デーバダッタ。今日は、このウサギをみんなで焼いて食べることにしよう。これだけたくさんあれば、みんなに行き渡るでしょう。ウサギを獲れなかった者にも行き渡りますよ。おや、王子の姿がありませんが。どなたか知っている方はいませんか。」
「シッダールタなら、死んだウサギを見て、宿舎に帰っていきましたよ。」
「今ごろ、気絶してるさ!。はっはっはっは・・・・。」
「なんですと!。よろしい、私が見てきましょう。みなは、ウサギを焼けるように準備しておくように。」

シッダールタ王子は、狩りの授業を途中で放棄して、宿舎に戻ってきていた。一人部屋に閉じこもって、静かに瞑想をしていたのである。
「王子、入りますよ。・・・・・・今日は、どうされたのですか。顔色もすぐれないようですが・・・。」
「先生・・・・。今後、私は狩りの授業には出ません。」
「なんと!。王子たるものが、そのようなことを申されてはいけませんな。狩りは重要な授業です。いずれ国王となられる方が、狩りの一つもできないようでは、国が治まりませんぞ。」
「では、聞くが、狩りと国を治めるのと、どのような関係があるのですか。古来、王族は、狩りを嗜み、剣術を身につけ、戦争を幾度となくしてきました。そうして、国土を広め、民衆を武力で押さえつけ、国家を築いてきました。しかし、そういう国が、いつまで続くのでしょうか。武力で国土を広めたり、国を治めても、やがては、他の武力で滅ぼされてしまいます。武力を以ってして、国は治まりませんよ。攻撃すれば、恨みを買い、仕返しをされるだけです。攻撃した国に仕返しをされなくても、別の国が攻めてくるでしょう。そして、国は滅ぶのです。」
「そうならないように、武術を身につけるのですよ。敵が攻めてきても防げるように武術を身につけるのです。狩りは、そのための基礎訓練です。」
「防げないくらい強大な武力で攻められたらどうするのです。実際に、今、コーサラ国が本気で攻めてきたら、このカピラバストゥは、ひとたまりも無いのではないですか。」
「いや・・・まあ・・・、確かにそうですが・・・・。だからといって、武力を持たなければ、国はすぐに滅んでしまいます。たとえ、弱小とは言えども、ある程度の武力は、国としては必要なのですよ。」
「現在では、そうかもしれません。しかし、武力ではなく、平和な手段で国を治め、他の国とも付き合っていかねばならないのではないでしょうか。国を滅ぼしたくないのなら、争わないのが一番いいのです。智慧は武力に勝ります・・・・。いずれにせよ、私は狩りには出ません。狩りによって得られた食べ物もいりません。みなさんも、無益な殺生は、やめられたほうがいい。」
「そうですか。そこまでおっしゃるのなら・・・・。しかし、授業には出てもらいます。たとえ王子といえども、授業を休むわけには、参りませんからな。見学で結構ですし、獲物も食べる必要はありません。しかし、授業には出ていただきますぞ。」
こういわれて、王子は仕方がなく、うなずくのであった。
王子の部屋を出たクシャンティデーバ先生は、
『あの王子ではダメだ。武力より智慧が勝っていると思っているようでは・・・。いくら学問にすぐれていても、狩りの一つもできないようでは・・・・。カピラバストゥももう終わりだな。あぁ・・・デーバダッタがいるな。あの子なら、この国を守ってくれるだろう・・・・。』
と王子に対し、見切りをつけてしまったのであった。

これ以後、王子は狩りの授業には参加せず、狩場の野原の木の下で瞑想に耽るようになったのである。その姿を見て、デーバダッタたちは、笑っていたのであった。そんなデーバダッタたちの嘲笑も意に介せず、シッダールタの心は、大空を飛び交う鳥たちのように、自由な境地を楽しんでいたのである。


月日は流れ、修練所での4年間を終え、シッダールタ王子は、無事城に帰ってきた。城の者たちは誰もが、シッダールタ王子の帰りを心から喜んでくれていた。しかし、国王だけは別であった。シュッドーダナ王は、厳しい顔をして、
「シッダールタをここへ連れてこい。今すぐにだ!。」
と、帰ってきたばかりのシッダールタを国王の部屋に呼びつけたのであった・・・・。



  5、瞑 想
「シッダールタ。お前は、狩りの授業を受けなかったそうじゃないか。それは、どういうことなんだ。説明しなさい。」
シュッドーダナ王は、厳しい口調でシッダールタに問いただした。
「はい、父上。確かに私は、狩りの授業にはでませんでした。」
「お前、それでも王子か。王子にとって、狩りの授業がどれほど大切なのか、わからないのか。」
「はい、私には、狩りの授業が大切な理由がわかりません。弓矢を使えるように訓練するのなら、何もウサギや鳥を撃つ必要は無く、的をあてる練習をすればよいことです。弓矢の訓練の為に、無駄な殺生はできません。」
「よいか、シッダールタ。ひとたび戦争になったら、どうするのだ。相手は的ではないのだぞ。動き回るものだ。しかも、敵方も矢を放ってくるのだ。少しでも、実践に近付くように、動き回る動物を矢で撃つのだ。そんなことも理解できんのか。それとも、そういうことは、王がやらずに部下がやることだ、と思っているのか。」
「確かに戦争に備えて訓練する必要はあるのかもしれません。しかし、戦争にならないように努力することが大切なのではないでしょうか。私は、王子として、戦争をしない国を目指しています。」
「何をなまいきなことを・・・・・。コーサラ国がいつ攻めてくるのか、わからない状況にあるのだぞ。」
その時であった、宰相が国王に耳打ちしたのである。
「国王様。王子は、転輪聖王となるお方。転輪聖王は、武力を使わず国を治めることができる伝説の王です。王子には、その片鱗が表れているのではないでしょうか。」
「なるほど、そういことか・・・・。そういうことなら、シッダールタが狩りを嫌がるのも無理はないかも知れぬ。ふん、しばらく様子を見るとしようか。」
「それがよいかと思います。」
「よし、わかった、シッダールタ。お前の言いたいことはよくわかった。もうよい。さがっていいぞ。・・・・・あぁ、そうだ。もうすぐ農耕祭がある。お前もそれに出席するように。」
「農耕祭ですか・・・・。はい、わかりました。」
シッダールタは、やや暗い顔をして、自分の部屋に下がっていったのである。

農耕祭の日がやってきた。農耕祭は、その年の耕作始めの祭りであった。農民達は、その日、一斉に畑を牛に鋤をつけて耕し、農作物の種をまくのである。シュッドーダナ王は、毎年、この農耕祭に参加し、祭祀とともに豊作を祈ったのである。畑の周りでは、城の音楽隊が明るい音楽を奏でており、様々な山海の珍味が用意され、お祭りムード一色になっていた。
「今年も農作物の豊作を祈る。では、耕し始めよ!。」
「おぉぉぉー。」
シュッドーダナ王の掛け声とともに、牛たちが畑を耕し始めた。
「どうだ、シッダールタ。こうして、畑を耕し、人々が食べる野菜を作るのだ。みんなしっかり働いておる。この国の民は、みな働き者だ。国がしっかり成り立っていくためには、食料が豊富でなくてはならないからな。カピラバストゥは、河があり、きれいな水があり、豊かな土地がある。これは、財産だ。この財産を狙って他の国がいつ攻めてくるかわからん。今の平和を保つのが、国王の仕事だ。わかるか、シッダールタ。」
「はい、わかります。」
「そうか・・・。ならばよい。しっかり見ておくのだぞ。」
「国王様、王子様、お食事とお飲み物を用意いたしました。さぁ、どうぞ。」
「おぉ、待っておった。さぁ、シッダールタ、お前も食べるがいい。」
食事を勧められたシッダールタ王子であったが、その時、シッダールタはそんな気分ではなかった。彼は、農耕祭の様子を見て、気が滅入っていたのである。

『畑が耕されていく・・・・。父は、この国の者は働き者だ、と言っていたが、働いているのは、牛たちだ。可愛そうに・・・・。牛たちは、鞭を打たれ、重い鋤を引っ張っている。鞭で打たれたところが腫れ上がって来ている・・・・。もっとゆっくり耕せばいいのに・・・・。
あぁ、耕された土からミミズが出てきた。他にもこまかい虫が、いろいろいるんだ。土の中には、あんなに生き物がいるんだな。あっ、虫が牛に踏まれた・・・。土の中にいれば、踏み潰されることなど無かったのに。あっ、鳥達が降りてきた。あぁ、虫をついばみに来たんだ。虫の一生って・・・・。鳥達も、何も仲間同士で争ってまで虫を獲ることは無いのに。
この炎天下で、農民達も疲れてきているようだ。先程から、水一滴飲んでいない。牛もそうだ。鋤を取り付けているところの皮膚が破れてしまっている。血が流れている・・・・・。
あぁ・・・、嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・・・。畑では、農民が苦しみ、牛が苦しみ、鳥が争いながら虫をついばんでいる。それなのに、私たちは・・・・。日影に座って、山海の珍味を食べ、果物の飲み物をたっぷり飲み、無駄な話に耽り、笑いあっているだけだ・・・・・・。これが、現実なのか・・・・。』
「どうした、シッダールタ、顔色が悪いぞ。」
「えぇ、はい。父上、申し訳ないですが、向うにある、あの木陰で休んでいていいでしょうか・・・。」
「ふむ。相変わらず、身体が弱いようだな。もっと滋養のつく食べ物を食べさせたほうがいいのかもしれん。まあ、よい、休んでいなさい。誰か、王子を頼む。」
王子は、立ち上がり、ふらつきながら、女官に助けられ、木陰で休むこととなった。
「あぁ、もういいです。放って置いてください。大丈夫です。この木の下に座っていれば、気分も治るでしょう。ありがとう。」
シッダールタは、女官にそう言うと、大きな木の下で座りなおしたのであった。その場でシッダールタは、静かに呼吸を整え、目を閉じたのであった。

『先程、私が見たものは現実だ。農民はあれだけ働いても、生活は豊かとはいえない。牛も血を流しながら働かなければ命を長らえることはできない。鳥は仲間同士で争って虫を奪っていたが、何も争っているのは鳥達だけではない。人々だって争っている。実際、コーサラ国は、この豊かなカピラバストゥを狙っていると言うし・・・・。一体世の中は、どうなっているのだろう。
王族である私は、貧しさとは縁はなく、豊かな生活をしている。欲しいものは、たいていのものは手に入る。食べ物に困ることは無い。汗を流し、血を流し、働くことも無い。
この貧富の差はなんだ・・・・。なぜ、彼らは農民に生まれ、なぜ牛に生まれ、なぜ虫に生まれ、なぜ鳥に生まれてきたのか。なぜ、私は王族に生まれたのか。なぜ生まれが異なるんだ。
その理由は、必ずあるはずだ。私はそれを見つけたいのだ。
狩りの的にされたウサギは、恐怖に慄いただろう。矢で射られた鳥は、苦しかったであろう。重い鋤を血を流しながら引いている牛は、さぞ苦しいだろう。辛いだろう。その牛に鞭を打っている農民達も、さぞ苦しいことであろう。鳥に食べられてしまった虫たちもさぞ苦しかったであろう。
その苦しみから逃れる方法は無いものなのか。私は、それを見つけたいのだ・・・・。
世の中には、苦があり、そして楽もある。身分があり、その身分によって苦楽の差も大きい。貧富の差もそれぞれだ。そうなった理由を私は見つけたいのだ・・・・・。』
シッダールタの心は、次第に落ち着き、澄み渡っていった。それとともに、シッダールタは、さらに深い瞑想に入っていったのである。

西に日が傾き、その年の農耕祭も無事終わりを迎えたのであった。しかし、シッダールタは、農耕祭の王族の席には戻ってきてはいなかった。
「おい、誰か、王子を呼んできなさい。たぶん、あの木の下にいるだろう。」
家来の一人が、そう言われ、王子を迎えに行った。
「王子様。農耕祭は終わりましたよ。王子さまぁー。」
家来は、木の下に座っている王子を遠目に見つけると、大声で呼びかけた。しかし、王子に反応はまったくなかった。家来は、だんだん、近付いていき、王子のすぐそばまで来て、驚いてしまった。
「お、王子さ・・・・ま・・・。」
家来は、そういうと、その場で瞑想している王子の前で、ひれ伏してしまったのである。
シッダールタは、木の下で目を半分閉じた状態で、ただ静かに座っていたのだった。家来が近付いても微動だにしなかった。呼吸をしているのか、していないのか・・・。生きているのか、死んでいるのか・・・・。
その姿は神々しく、家来も思わず、その前にひれ伏してしまったのだろう。

いつまで待っても、シッダールタ王子と、王子を迎えに行った家来が帰ってこないので、他の家来や女官が、何人かで王子を迎えにきた。そして、木の下に瞑想する王子と、その前でひれ伏している家来を見つけて、不思議に思ったのであった。王子は、遠目でも、光に包まれたように見えた。それは、まさに不思議な光景だった。
「王子さまー!、王子さまー!」
大勢の家来や女官の大きな掛け声で、シッダールタは気付いた。
「あぁ、私は・・・・・。そうか、この木の下で座っていたんだな。よい時間を過ごせた。」
「お、王子様、気付かれましたか。よかった・・・。お身体は、大丈夫ですか。」
王子の前でひれ伏していた家来が尋ねた。他の家来達も口々に
「王子様、農耕祭が終わりました。帰りますので、こちらにお越しください。」
と大きな声を掛けていた。
「そうですか。あなたは、私を迎えに来たのですね。ありがとう。身体は大丈夫です。帰りましょう。」
こうして、王子は、城に戻っていったのである。

この日をさかいに、王子は、城内の大きな木を選んで、その木の下で瞑想する日が増えた。暇さえあれば、シッダールタは、大きな木の下に行き、静かに座っていたのだ。毎日のようにその光景は見られた。
国王達もその様子を見て、やめるように注意してはいたが、王子は瞑想をやめることはなかった。国王達は、仕方がないので、そのうちやめるだろうと思って放っておくことにした。しかし、シッダールタの瞑想はいつまでも続いていたのだった。
「シッダールタは、大丈夫だろうか。木の下で座ってばかりおる。毎日毎日、暇さえあれば、ああして座っておる。あれを始めて、もう3年になるぞ。まるで若さが無い。あんなことで、大丈夫だろうか。」
「国王様、私にいい考えがあります。」
「おぉ、何か名案があるのか。」
「はい、シッダールタ様も、もう青年です。そろそろ、女官たちと遊ばせては如何でしょうか。」
「おぉ、そうだな。女か・・・・・。それはいいかも知れない。そうだ。女官たちと遊べる部屋を造ろう。うん、それがいい。よし、すぐさま、工事に取り掛からせろ。」
「はい、わかりました。では、早速、王子様用の遊びの部屋を造りましょう。これで、王子様も男らしくなりましょう。」
こうして、シッダールタ用の遊興部屋が造られることとなったのであった。
そんなことは、全く知らない王子は、今日も城の庭の大木の下で瞑想に耽っていたのであった・・・・。






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