ばっくなんばー2


 6、快 楽

シッダールタ専用の遊戯室が出来上がったのは、シッダールタが15歳の秋のことであった。
シュッドーダナ王は、完成したばかりの遊戯室にシッダールタを呼び出した。
「シッダールタ。お前ももう15歳だ。そろそろ、王子として、妃を娶る準備をせねばならん。少しは、女性に慣れておかないといけない。これも国王になるための心得と言うものだ。
この部屋は、お前専用の遊戯室だ。いつでも女官が数名いる。好きな時にここに来て、自由に戯れるがよい。よいか、これもお前の将来のためなのだぞ。わかったな。」
「父上・・・・。私は・・・・・。」
「なんじゃ。何か不服でもあるのか。まあ、いい。わからないことがあれば、宰相に聞くがいい。大いに楽しめ。はっはっはっは・・・・・。」
国王は、そう言い残すと、笑いながら遊戯室から出て行ってしまった。残されたシッダールタは、考え込んでしまっていた。
『私のためにこのような特別室を造るとは・・・・。どうすればいいのだ。私は結婚など考えていないのに・・・・。こんな部屋が造られるなんて・・・・。造る前にわかっていれば、止めることもできたかもしれなかったのに・・・。瞑想ばかりしていたのは、失敗であったか・・・。もう少し、城内のことも知っておかなければいけなかった。しかし・・・・。どうすればいいのだ。折角、造られたこの部屋を全く使わないわけにはいかないだろうし・・・・。どうすれば・・・。』
「シッダールタ様。何かお悩みでも・・・・・。」
宰相がゆっくりとシッダールタに近付き、声を掛けてきた。
「あぁ、これは宰相殿。いや、この部屋を・・・・・。私は、どうすればいいのでしょうか。私は、結婚など考えていません。ですから、そのための準備など・・・・。」
「王子様。王子様はまだお若い。ですから、結婚をしないなどというんですな。そんな先のことなど考えないで、ここはとりあえず、国王の意志に従われたらどうですか。折角、このような部屋を造っていただいたのです。全く使用しないで放っておくのは、よろしくないのではないでしょうか。何、女官たちと話をしていればいいのですよ。それでも、この部屋を使っていることには、変わりはないでしょう。」
「そうか。そうだな。ありがとう。そうだ、女官たちと話をしていればいいのだ。ありがとう、助かりましたよ。」
「いえいえ。また、困ったことがあれば、私にご相談ください。女官たちよ、王子の話し相手をしなさい。食べ物や飲み物も用意してな。それでは、王子様、私はこれで失礼致します。ごゆっくりお過ごしください。」
「シッダールタ様ぁ〜、さあ、こちらへどうぞ。私たちとお話いたしましょう。」
宰相の助言に従い、シッダールタは、女官たちと話をすることにした。女官たちは、シッダールタを取り囲み、楽しげに語らい始めたのであった。

それから、冬が過ぎ、また春が巡り、シッダールタ王子は、16歳になった。その頃の王子は、幾分明るくなり、城の中を見回ったりして、城の中で働く人々とも語らうようになっていた。しかし、瞑想だけは、毎日欠かさず行っていた。
「王子は、すっかり明るくなったな。」
「あぁ、子供の頃は、なんだか陰気だし、身体が弱い方だったが、今じゃ、すっかり明るくなられた。王子様らしさが出てきたよ。」
「そうだねぇ。まあまだ、身体は細くて、弱そうに見えるけどね。もう少し、健康そうになれば、言うことないのにねぇ。あんなふうに木の下で座ってばかりないで、武術でもすれば身体が鍛えられるのにねぇ。」
「あぁ、そうだそうだ・・・・・。」
城で働く人々は、シッダールタ王子のことをそう噂し合っていた。

「宰相よ。汝の考えはよかったようだ。シッダールタも明るくなった。これも女官たちと語らい合うようになってからだ。礼を言うぞ。」
「いえいえ、国王様。まだまだ、これからです。まだ、王子は、女官たちと話をしているだけです。」
「あぁ、わかっておる。これから、どうするつもりじゃ?。」
「はい。女官たちに聞きますと、王子様は、まだ女性にたいしてあまり興味がなさそうです。話し相手、という程度にしか思っていないようです。しかし、王子も16歳。そろそろ色気づいても来る頃でしょう。まあ、このままもう少し様子を見るつもりですが・・・・・。」
「ふむ・・・・。そうだな。まあよい。このことは、汝と女官たちに任せる。しっかりと頼むぞ。男らしい王子になってくれればよいが・・・・。」
「それと、いずれ嫁を・・・・ですな。」

宰相と女官たちは、もう少し王子の様子を見ることした。しかし、王子は、何ヶ月たっても、女官たちの誘惑する素振りに少しも反応を見せなかった。
城内の見回り、勉強、瞑想、女官との語らい・・・・・。こうした日々が、さらに一年続いた。

「どうだ、王子の様子は。あれから、一年たっておる。もう17歳じゃ。お前達に言い寄ってくることはないか。」
「それが・・・・。王子様は、全く女性に関心がないのでしょうか。私たちが色目を使ったり、それとなく触れてみたりしても、何の反応も示さないんですよ。どうすればいいでしょうか。」
「う〜む・・・・・。仕方がない。あれを使うか・・・・。」
「宰相様。あれって・・・・・。」
「いやいや。そういえば、王子はお酒に弱かったようだな。」
「えぇ、果樹酒などは、一杯も飲まないうちに、酔ってしまいます。ですから、ほとんど飲まないようにしています。」
「そうか・・・・。今日の飲み物はワシが作ろう。後でもっていく。それを飲ませるがいい。」
「はい、わかりました。」

シッダールタ王子も迷っていた。
『女性達との語らいは、確かに楽しい。時間を忘れてしまう。時には触れてみたいとも思う・・・・。しかし・・・・。それでいいのだろうか。あぁ・・・・。私はおかしくなりそうだ。今にもあの女官たちの胸に飛び込んでしまいそうだ。いったい、どうすればいいのだろうか・・・・・。』

その日の夜のことだった。シッダールタは、迷いながらも、足は遊戯室へと向っていた。
「ようこそ、シッダールタ王子様。さあ、どうぞこちらへ。」
女官たちの黄色い声と甘い香りが、シッダールタを遊戯室の奥へと誘った。シッダールタは、少し躊躇したが、ゆっくりと奥へ進んでいった。
「さぁ、どうぞ。何かお飲みになりますか。」
「あ、あぁ。では、いただきましょう・・・・。ありがとう。」
女官は、宰相が作ってきた飲み物を渡した。それは、果樹酒の一種だったが、あまり強いお酒ではなく、爽やかな口当たりのものだった。
「あぁ、これは、おいしいですね。」
それからしばらくあとのことだった。遊戯室からは、楽しそうな女官たちの声とシッダールタの声が聞こえてきた。
「王子様、こちらですわよ。」
「ほらほら、王子様、私はこっちですよ。」
「はははは・・・・。待ってください。どっちですか。今度は捕まえますよ。」
目隠しした王子が、笑いながら女官たちを追いまわしていた。女官を捕まえ、抱きつく王子・・・・・。その日の王子は、いつもの真面目な王子ではなく、大いに乱れたのであった。

翌日の朝、自室のベットで目覚めた王子は、苦悶していた。
『とんでもないことをしてしまった。しかし・・・・。あんなに楽しかったことは、今まで一度もなかった。何もかも忘れることができるような・・・・。あぁ、どうすればいいんだ。こんなことでいいのだろうか・・・・。』
その日一日、シッダールタの頭の中は、女官たちの声や姿でいっぱいであった。何をするにも、昨夜の遊戯室のことが思い出される。あの美しい姿、甘い声、やわらかな身体・・・・。何も手につかなかった。城内の人々と話しても上の空だった。勉学にも身が入らなかった。瞑想すれば、女性達の姿が現れた。怪しい誘惑がシッダールタを捕まえて離さなかったのである。
日が落ちると、シッダールタは、そそくさと遊戯室へと向った。迷いはあったが、誘惑には勝てなかったのである。
「王子様。今夜も楽しみましょう。まずは、お飲み物をどうぞ・・・・。」
「あ、ありがとう。」
そして、その日の夜もシッダールタ王子は、快楽に身をゆだねてしまったのであった。それは、次の日も、その次の日も続いていった。

「どうじゃ、王子の様子は。」
「はい。宰相様の飲み物を飲ませてから、王子様は随分変わりました。もうすっかり、私たちの虜ですわ。でも、あの飲み物・・・・・。何か薬でも・・・・?。」
「心配はいらん。そうか、ならば、もうそろそろ、それも不要じゃな。酒だけで充分だろう。王子も男じゃな。ふっふっふ・・・・。まあ、この調子でやってくれ。女性の良さがわかればいいんじゃ。王子が結婚する気になればいいんじゃ。そのように仕向けていってくれ。」
「はい、わかりました。私たちにお任せください。」

こうして、シッダールタは、宰相と女官たちの甘い誘惑に嵌まり、快楽の世界に囚われてしまったのであった。


 7、不 浄

シッダールタ王子が、宰相と女官の罠にはまり、快楽の世界に溺れてしまってから、一年が過ぎようとしていた。しかし、さすがに1年もの間、毎日のように快楽に溺れていたわけではなかった。王子自身、ペースをつかむことができるようになったのである。国王となるための勉学も充分していたし、瞑想も毎日続けていた。そして、次第に、女官たちと過ごす時間は、少なくなっており、再び、考え込む時間が増えていたのだった。しかし、それは、まだ、宰相たちの気付かない範囲ではあったのだが・・・・。

「どうですか、国王様。シッダールタ王子は、すっかり男になりましたぞ。この頃は顔色もよくなり、閉じこもらなくなりました。この分ならば、もうそろそろ結婚も大丈夫ではないでしょうか。」
「おぉ、よくやった。宰相、そなたの策は、見事だった。シッダールタは、すっかり大人じゃ。そうだな、シッダールタも、もう18歳だからな。小国ではあるが、近隣の国々から婚姻の申し入れもある。シッダールタが望むのなら、何人、妃を持っても構わぬからな。」
「そうですな。多くの妃をお持ちになって、たくさんの御子を産んでいただくのが、この国の発展につながると言うものです。シッダールタ王子ならば、それもできますでしょう。」
「そうだな。よし、では、結婚の準備を始めてくれぬか。」
「はい、わかりました。早速、王子の意志を確認し、そのあと、各国に親書を送りましょう。」
「そちに、すべてを任せる。頼んだぞ。」
こうして、シッダールタ王子の結婚の話が、進められることとなったのである。

ある日のこと、宰相が王子の相手をしている女官を呼び寄せた。
「どうじゃ、王子は。そなたたちの虜になったか。」
「えぇ、王子様は、随分変わられました。今ではすっかり私たちの扱いも慣れて参りました。」
「そうか、ならば、結婚もさせられそうじゃな。」
「はぁ・・・。それが・・・・・。」
「なんだ、どうした。何か心配事でもあるのか。」
「はい。最近、王子様がこの遊戯室に来る日が少なくなってきているんです。それに、こちらに来られても、あまり楽しそうではありません。私たちに全く触れないことも多くなってきています。それで、先日、王子様に聞いてみたのです。『最近、ここへあまり来なくなりましたが、何かお悩み事でもございますか』と。」
「王子は、何と・・・・・。」
「えぇ、王子様は
 『この遊戯室に来て、あなたたちと戯れるのは確かに楽しい。だが・・・・。それは、一時的なのだ。ほんの一時だけ、楽しいのだ。自室に戻れば、現実は否が上でもやってくる。どんなにそなた達と戯れようとも、この世が変わるわけでもなく、私は私であることにも変わりはない。農民達の苦労がなくなるわけでもなく、働くものが皆、裕福になるわけでも無い。私の心の底にある・・・・・あぁ、こんな話をしても仕方がない。いずれにせよ、快楽は、ほんの一時的に楽しいだけのものなのだよ。』
とおっしゃっていました。何かに、悩んでいるような、そんな顔つきでしたわ。」
「そうか・・・・。また、王子の悪い癖がでてきよったか。そういえば、最近はお酒も飲まれないのか。」
「えぇ、お飲みになりません。もっぱら、果物を搾ったものだけ飲まれます。お酒を飲むと、頭が痛くなるそうで・・・。それに、初めは気持ちいいのだそうですが、そのうちに気持ちが悪くなり、嘔吐することもあるそうで・・・。それで、お酒は避けられております。」
「そうか。最近は、そんな調子だったのか。ワシとしたことが、油断しておったな。まぁ、いい。また、あれを使うか・・・。今度、王子が遊戯室に来られたら、すぐにワシに知らせろ。いいな。これはな、この国の将来がかかった大事なことなのだ。よいな。」
「はい、わかりました。宰相様にすぐ連絡を致します。私たちも、あのような王子様を見るのは・・・・。以前のように、楽しくしていただきたいですから。」
宰相は、王子の最近の様子を知り、密かに策を練るのであった。

ある日の夜のこと、シッダールタ王子が何日ぶりかに遊戯室にやってきた。
「あら、王子様。ようこそ、いらっしゃいました。いつもお待ちしておりましたのに、この頃はあまり来られなくて、どうされたのかと思ってましたわ。」
「あぁ、いや、ちょっと寄ってみただけだ。座ってもいいかな。」
「えぇ、どうぞ。さぁ、こちらへ。」
女官は、シッダールタを座らせた。その間に、別の女官が宰相に報告に行った。
「宰相様。シッダールタ王子が今遊戯室に来られました。」
「そうか、ちょっと待っておれ。よしよし。よし、これを持っていけ。大丈夫じゃ、お酒ではない。単に果物を搾ったものだ。ちょっと元気になる薬が入っているだけだから、安心してそれを飲ませるがよい。」
「はい、わかりました。」
女官は、宰相から果物の飲み物を受け取り、遊戯室に戻った。

遊戯室では、シッダールタ王子が女官たちに囲まれて、談笑していた。そこへ宰相の作った飲み物が差し出された。
「王子様、どうぞお飲み物を。大丈夫です。お酒ではございませんわ。安心なさってお飲みください。」
「あぁ、そうですか。お酒ではないのですね。では、いただきます。」
それから、しばらくの後、遊戯室には、久しぶりに王子と女官が戯れる声が響いていた。その様子を覗き見ていた宰相も
「これならば安心じゃ。しばらく、この飲み物を使うとしよう。そうすれば、王子も余計なことを考えんですむであろう。」
と安心し、自室に引き上げていったのだった。

その日の王子は、久しぶりに乱れた。女官たちと大いに戯れ、抱き合ったりもした。そして、そのまま遊戯室で王子も女官も寝入ってしまったのであった。

その夜中のことである。シッダールタ王子は、ふっと目が覚めた。
「ここは・・・・。あぁ、そうか。遊戯室か。あのまま寝入ってしまったんだな。今日は、なぜあんなに気分がよかったのだろう・・・。まぁ、いい。さて、自室に戻るとしようか。」
王子は、横で寝ていた女官の一人の手をどけ、上半身だけ起き上がった。
「何だか、頭がくらくらするが・・・・。うん、何か聞こえる・・・。いったいなんだ?。」
それは、イビキであり、歯軋りであり、寝言であった。王子は、あわてて周りを見回した。そこには、女官たちの乱れた寝姿があったのだった。その姿を見て、王子は、勢いよく立ち上がった。
「あぁ、何ていうことだ。さっきまで、あんなに美しかった女官たちが・・・・。
イビキをかき、歯軋りをし、寝言を言っている。あぁ、中には、放屁するものまで・・・・・。
あの甘い香りはどこへいったんだ。今や汗のにおいなのか、何のにおいなのかわからなくなっている・・・。
化粧も衣装も乱れている。何と醜いことだ。あぁ、大きな口をあけ、よだれをたらして寝ている。何とみっともないことだ。何と醜い姿で寝ているのだ。あんなに大きく股を開いて寝なくてもよいものを・・・・。
こ、これが、先程まで私が戯れていた女官なのか。こ、これが・・・・。気が付かなかった。女性は・・・・否、女性だけではない。人間はこんな醜い姿を持っているんだ。そうか、私自身もそうなんだ。いくら美しく着飾っても、いくら美しく化粧しても、その実体は、こんなにも醜いものなのだ・・・・・・。うっ、うっ・・・うげ、うげぇ〜。」
王子は、その場で激しく嘔吐した。そして、
「我は醜い、我は汚い。我は醜い、我は汚い・・・・・。」
と何かにとり憑かれたように繰り返しながら、重い身体を引きずるように、遊戯室を後にしたのだった。

翌朝、王子は自室に閉じこもったままであった。王子の部屋のドアの前には、女官たちが集まっていた。
「王子様、どうされたのですか。ここをあけてください。王子様。お体が悪いのですか。王子様!。」
女官たちは、そう叫んで、王子の部屋のドアを叩いていた。そこに、女官に呼ばれた宰相が血相を変えて駆けつけた。
「どうしたと言うのだ。どういうことなのだ。誰か説明しろ。」
「はい、昨夜は、王子様も私たちも大変楽しく過ごしました。王子様もいつになく上機嫌で、以前のように私たちと戯れていたのです。そして、王子様は、そのまま遊戯室で私たちとともに寝入ってしまいました。ところが、どうやら王子様は、夜中に目覚めたらしく、私たちが朝起きた時には、姿が見えませんでした。しかも、嘔吐されたあとがありまして・・・。おそらく王子様が嘔吐されたと思い、心配になり部屋を訪れましたら・・・・・。」
「王子から返事がないのか。」
「はい、先程から何度も呼んでいるのですが・・・・。もしや、お身体でも壊されたのではないかと・・・・。」
「何と・・・・。返事は全くないのか。まさか・・・。王子、私です。宰相です。返事をして下され。お身体が悪いのでしたら、すぐに医者をお呼びします。王子!。」
宰相がそう叫ぶと、中から物音が聞こえてきた。どうやら、王子がドアに近付いて来るようだった。
しばらくして、王子の元気のない声がドア越しに流れてきた。

「宰相殿、何も心配は要りません。身体が悪いのではないのです。女官の皆さんにもご心配をおかけして申し訳ないです。あぁ、遊戯室を汚してしまって・・・・。許してください。それから、そっとしておいてくださいませんか。お願いですから。」
「何をおっしゃっているんですか、王子。いったいどういうことなのですか。ちゃんと説明してくだされ。そうでないと、国王様はじめ、皆さん心配なさります。カピラバストゥの城下の人々が皆心配されますぞ。」
「宰相殿・・・・・。それを言われると私もつらい。はぁ・・・・・。今しばらく、放っておいてくださいませんか。気持ちの整理がつきましたら、部屋を出てお話しいたしますので・・・・。」
宰相は、イライラしだし、語気が荒くなりだした。
「王子、何を子供みたいなことを・・・・。王子も、もう18歳ですぞ。そろそろ、結婚もしなければならぬ年齢です。訳のわからぬことで部屋にこもるなど、それが、王子のなさることですか。さぁ、出てきてください。」
「私は、結婚などしません。女性は、もうたくさんだ。否、そうではない。あんな快楽に身をゆだねていた私が愚かだったのだ。」
「どういうことなのですか。昨夜、何があったのですか。」
「あぁ、昨夜のことですか・・・・・。私は、驚いてしまった。我々がこんなにも不浄であることに、私は幻滅してしまったのです。」
「な、何のことですか。女官たちが何か粗相でもやらかしたのですか。それならば、女官たちを罰しますぞ。」
「いいや、女官たちは、何も粗相などしていません。罰することは何もしていません。ただ・・・・。」
「ただ?。」
「彼女達の寝姿に、私は驚き、その実体を知ってしまっただけなのですよ。」
「どういうことなのですか。ワシには全くわかりませんぞ。」
「私は、夜中に目が覚めた。周りを見回すと、そこには、乱れた寝姿の女官たちがいた。ある者は歯軋りをし、ある者は口をあけ、くさい息を吐きながらイビキをかいていた。ある者は、寝言をいい、ある者はよだれを垂れていた。大きく股を開き、尻を掻き、放屁していた・・・・。その寝姿を見て、私は気付いてしまったのです。私たちは、本当は汚らわしいものなんじゃないかと。不浄なるものなんだと。外見は美しく着飾り、化粧し、甘い香りを漂わせ、美しい衣装を身にまとっているが、その中味は、不浄なる肉体なんですよ。この身体の中には、汚物が詰まっている。くさい臭いの空気も詰まっている。食べたものはドロドロになって腹の中に入っている。一皮めくれば血が出て、汁が出てくる。鼻水は出る、よだれは出る。肌には垢がたまってくる。
どんなに美男・美女であろうとも、みな同じなのだ。人間は、汚物の詰まった袋にしか過ぎない。一皮めくれば、皆骨なのだ。そんな、不浄な肉体に溺れていた私はいったい何なのだ。私が抱いていたあの女性達は・・・。否、私のような汚物の詰まった者に抱かれた女性達の方が不幸か・・・・。」
「シッダールタ様。私たちは、少しも王子様が不浄だとは思っていませんわ。また、楽しく戯れましょうよ。」
「不浄でないと思うのでしたら、今から、不浄と思いなさい。私たち人間は、否、生き物は、美しくは無い。皆、汚物をその肉体に詰めている存在なのだ。」
「しかし、王子。その不浄なる身体から、あなたは生まれてきたのですぞ。不浄であっても、我々は子孫を繁栄させねばなりません。生命を生み出すことも不浄なのですか。」
ドアの向うからは何の返答もなかった。沈黙が流れた。
しばらくして、いきなりドアが開いた。そこには、蒼ざめたシッダールタ王子が立っていた。
「だから、悩んでいるのです・・・・・。私はどうすればいいのか・・・・・。」


 8.策 略

シッダールタ王子が自室にこもって、すでに一週間が過ぎていた。この間、王子は食事もとらず、誰とも会おうとしなかった。扉の外から話し掛けても、全く返事は無かった。たとえ、国王の呼びかけであっても・・・。
この事態に、国王も困り果てていた。
「どうなっとるのだ、シッダールタは。宰相、そなた、任せろと言ったな。この事態は、どういうことなのだ。」
「は、はぁ・・・・。私たちも最善をつくしてはおりますが・・・・・。王子様は、一向に部屋から出てこられません。」
「まったく・・・・。シッダールタにも困ったものじゃ。そろそろ結婚を、と考えていたのだが、あれじゃあ、どこの国も嫁など寄越さないだろう。このままでは、この国の将来も危ういものだ。どうすればよいのか・・・・。我が子ながら、あれにはがっかりじゃ。期待しすぎたのか・・・・。何が、転輪聖王だ。あれでは、ただの国王にもなれぬ。はぁ・・・・。ため息しか出てこぬ・・・。」
「こ、国王様。もう少し、もう少し時間を下さい。只今、いろいろと調べさせております。必ずや王子様に嫁を取らせますゆえ。何卒、もう少しの時間を・・・・・。」
「ふん、何か良い考えがあるのか。策を練りすぎて、今回のことのようにならねばよいが。まあ、いい。汝に任せよう。しかし、これが最後だ。」
「は、はあ・・・。では、もう少し、お待ちください。そう、王子様が20歳を迎える前には、婚姻の儀を済ませて見せましょう。」
「20歳になるまで・・・・か。あと、2年ほどあるな・・・・・。わかった。それまで待とう。それ以上は、ないぞ。」
「はい、わかりました。私にお任せください。」
宰相にはどんな考えがあるのか、国王にはわからなかったが、シッダールタ王子の婚姻については、宰相に任せることにしたのだった。

一方、シッダールタ王子は、自室で考え込んでいた。この1週間、頭の中は同じことの繰り返しだったが、ようやく一つの結論に至ろうとしていた。
『確かに、男性にとって女性は魅力的だ。女性にとっても男性は心引くものがあるだろう。それはわかる。そうして、お互い心寄せ合って、愛を育み、子をなしていく。それは、正しい行いに違いない。生命の誕生は、必要なことなのだから。しかし・・・・。
人は、快楽のために異性を求めることがあるのではないか。それはどうなのだろう。正しいと言えるのか。人は、何のために快楽を求めるのか。快楽に溺れている時は、この世にある嫌なことは、忘れられる。これは、確かだ。現実の嫌なことから逃れることができよう。
私もそうだった。女官たちと戯れている時は、嫌なことはすっかり忘れていた。苦しみは忘れることができた・・・・。何も考えなくてよかった。楽しい時間だった。

だが・・・・・。その快楽から目覚めてみればどうだ。悩みは何も解決していない。苦しみは苦しみのままだ。少しも癒されていない。ほんの一時だけじゃないか。女官と別れ、自室に戻れば、またあの考えが頭を巡ってくる。
なぜ、あの農耕祭の時の牛は苦しんでまで働かなければならないのか。なぜ、農民達は、あれほど働いても暮らしが楽にならないのか。なぜ、私のように王族に生まれるものがいて、武家に生まれるものがいて、バラモンに生まれるものがいて、農民に生まれるものがいて、商家に生まれるものがいるのか。いや、なぜ、奴隷階級に生まれるものが出てくるのか。同じ命のはずなのに・・・・・。

なぜ、私のように身体の弱いものが生まれるのか。なぜ、私のようにウサギを狩ったり、武道や争いを好まぬものが、王家に生まれてこなければならなかったのか。こんなに弱い私が、国王になどなれるのか。私には、他に行く道があるのではないだろうか・・・・。私は王子に相応しいのだろうか。

私は、何のために生まれてきたのだろう・・・・・。何をすればよいのだろうか・・・・・。

男女の交わりは、子を産むためにはなくてはならないことであろう。人間は、確かに不浄なるものである。しかし、子をなすことは、決して不浄な行為ではない。それは、自然なことなのだから。
しかし、それが快楽のためであったら・・・・。現実から逃げるための行為であるなら・・・・・。そうだ、その時は、不浄と言えるのではないか。いや、夫婦がお互いに愛し合う行為は、不浄ではない。
あぁ・・・。わからない。不浄なのか、不浄でないのか・・・・。
ただ、これだけはいえる。いくら快楽を求めてみても、いくら快楽の中に身を置いてみても、悩みが解決するわけではない。現実は何も変わらない。現実の問題をほんの一時、忘れるだけだ。快楽の後には、再び悩みが襲ってくる。以前よりも増して・・・・。逃げようとすればするほど、苦しみは増大する。快楽では、苦しみを超えることはできない。一時的な逃避では何もならないのだ。
そうだ、それだけは確実だ・・・・・。

私には、将来の国王は、国の民を抱えることは・・・・・負担だ。しかし・・・・。
しかし、他の行く道は、今は求めないほうがよいのかもしれない。今は、王子であることのほうが大事なのかもしれない。自ずと道は見えてくるのかもしれない。それまでは、王子であらねばならない。それが、私の・・・・・。今は、それしかないんだ・・・・。』
王子は、一週間ぶりに立ち上がった。

「王子様が部屋を出られました。」
その知らせは、すぐに宰相や国王に知らされた。王子は、自室を出て、すぐに国王のもとに向った。
王子は、国王の前にひざまずいて、これまでのことを謝った。
「父上、ご心配をかけました。」
「ふん、もうよいのか。もう、部屋にこもらなくてよいのか。」
「はい。申し訳ございませんでした。今日より、また、勉学に励みます。王子としての仕事も再開します。」
「わかった・・・・。もう、何も聞かないでおこう。詮索しても仕方がないことだ。行くがよい。」
「はい。ありがとうございます。では・・・・。」
王子は、立ちあがり、国王の部屋を退出しようとした。その王子の背中に向って、国王が問いかけた。
「おぉ、そうだ。あの遊戯室はどうする。あのままでよいのか。」
「いえ・・・・。あの部屋は、私はもう利用しません。何か他のことにでも使用してください。折角、私のために作っていただいたのに、申し訳ございません。」
「そうか・・・・。まあ、あのまま放っておくか・・・・。そんなところに立ってないで、さっさと行くがよい。」
「はい。失礼します・・・・。」
国王の部屋を出て、シッダールタは小さくつぶやいた。
「簡単には許してもらえぬか。当然だな・・・・。あの部屋は、もう見たくはないが・・・・。仕方がない。これは、私に与えられた罰なのであろう。」

宰相はというと、シッダールタ王子の結婚のために策略を練っているところだった。
「何かわかったか。」
宰相の配下の者が、シッダールタ王子について調べたことの報告に来ていた。
「はい。王子は、修練所時代、何かとダイバダッタと争っていたようです。」
「ほう、あのダイバダッタと。あの者は、武術や剣術、弓矢に長けているそうだが。」
「はい。何かと、王子と競争していたようです。成績は、いつも王子の方が上でした。ただし、実際の狩りだけは、ダイバダッタが勝ったようです。」
「あぁ、王子は、狩りには出なかったからな・・・。あのダイバダッタは、非常なところがあるからな。血を好むようなところがある。」
「はい、そのようで。現在も、よく狩りに出かけているようです。女性にも目がないようで・・・・。」
「そうかそうか。しかし、修練所時代は、武術でも剣術でも弓矢でも、王子に勝ったことはないのだな。」
「はい。いつも負けていました。しかし、最近は、王子の振る舞いを見て、自分こそが次代の国王に相応しいと、吹聴しているようです。」
「あぁ、噂は聞いておる。嫌な若者じゃ。しかし・・・・。これは、使えるな。うまく行けば一石二鳥じゃ。ふっふっふ。よしよし、よくわかった。休んでよいぞ。」
宰相は、一人、にやにや笑っているのであった・・・・。



 9.陰 謀

その日、宰相は、カピラバストゥの城外で、隣国のコーリヤ族の国王の遣いと会っていた。
「どうじゃ、そちらの国王様と姫の意向は。」
「はっ、姫様には、宰相様のお話、喜んでお引き受け致します、とのことです。国王様は、それで首尾よく行くのか、ご心配をされていましたが。」
「そうか、そうか。姫様がご承知いただいているのはありがたい。コーリヤの国王へは、シュッドーダナ王から書簡を送ろう。すべてお任せあれ、ご安心召され、という書簡をな。姫様にも、よしなにお伝えくだされ。」
「はい。わかりました。」
こうして、密かに、宰相は、隣国コーリヤ族の姫とシッダールタ王子の婚儀の策を勧めていたのであった。

シッダールタ王子の19歳の誕生を祝う祭りの日、国王から重大な発表があるとのことで、城の王室には、王家の親族が集まっていた。
「親族の皆様には、よくぞこの場に集まってくれた。今日は、王子の誕生を祝ってくれてありがとう。心より礼を申す。さて、王子も19歳を迎えた。皆さんもそうだが、城下の者も、そろそろ王子の婚儀が気になるところであろう。王子には、早く妃を迎えたいと思っている。それが、国の安泰になるのだからな。しかし、どうもこのシッダールタは、その気がないらしい。そうじゃな。」
そう言われた王子は、顔を伏せるしかなかった。

「しかも、親族の皆さんも聞き及んでいると思うが、どうもシッダールタは、身体も弱いし、神経も細い。本当に国王に相応しいかどうか、皆さんもご心配なところがあろう。そこでじゃ、ここは一つ、ある競技を開催しようと思うておる。これは、シッダールタにとってもこの国にとってもよいことじゃ。」
「競技とな。それは、どういうことじゃ。」
「宰相、汝から説明してもらおうか。」
シュッドーダナ国王は、宰相に競技の説明をさせた。
「はい、この競技は、簡単に言えば、姫と将来の国王の座とを得るための競技です。」
「な、なんと・・・。それはどういうことなのじゃ。」
「将来の国王の座は、そこのシッダールタ王子に決まっておるではないか。」
そこに集まっていた親族達は、一様にざわめいていた。当のシッダールタ王子は、俯いたままで、その表情はわからなかった。宰相は、かまわず競技の内容について説明を始めた。

「競技は、簡単です。弓の的当てと剣術です。弓の的あては点数で競います。剣術は対戦です。予選が、弓の的当てです。成績のよかった者が、本線の剣術戦に進みます。対戦の仕方は、勝ち抜き戦で行います。剣術の戦いは、3本勝負です。2本取った者が勝ちです。
先ほども申し上げたように、優勝者には、隣国コーリヤ族のヤショーダラー姫と将来の国王の座、即ち王子の座を与えます。」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ。そんな競技、本当にしていいのか。もし、王子が負けたらどうするのだ。」
「そうだ、そうだ。そんなことが許されるのか。国王、それでいいのですか。」

シュッドーダナ国王は、周りが静かになるのを待ってから話し始めた。
「静かにして、聞いてくれ。これは、わしが望んだことなのじゃ。確かに、わしも国王の座はシッダールタに継いでもらいたい。しかし、今のシッダールタでは・・・・。」
「しかし、王子さまがご誕生された時、預言者が声を揃えて、シッダールタ様が転輪聖王になると告げられたではないですか。それならば、今更将来の国王の座を競技の対象にしなくても・・・・。」
「いやいや、そこなのじゃ。果たして預言者の言うことは、真実なのか?。本当に当っているのか。当っているのなら、どんな競技をしたところで、ここにいるシッダールタが勝利を得るであろう。それこそ、予言どおりだ。
それにな、国民も、シッダールタの奇行というか、おかしな行動のことを噂で知っているようじゃ。それで、この国の将来も心配しているようだし、コーサラ国にもそのうち噂は聞こえていくことだろう。そうなれば、シッダールタが王座についた途端、この国に攻め入るに違いない。コーサラ国が攻めてくれば、このカピラバストゥは、簡単に滅ぼされてしまう。わしは、それが心配なのだ。」
「コーリヤ族の王もこの案に賛成しているのか。姫も納得されているのか。」

これには、宰相が答えた。
「もちろん、王も姫も賛成されております。姫様に至っては、なかなかに面白い話であると・・・。」
「ほう、それは気丈な姫様じゃナ。」
「なるほど、国王の心配はよくわかりました。この競技を行えば、我が国にも強い若者がいることも世に伝わりましょう。それに、その優勝者が王子となり、将来の国王となるならば、国民も安心でしょう。しかし、王子様は、それでよろしいのですかな?。この話を承知しておられるのですな?。」

シュッドーダナ国王が答えた。
「もちろん、シッダールタは、承知している。それにじゃ、何も、シッダールタが負けると決まったわけではない。王子の座を守りたければ、優勝すればいいだけのことだからな。」
「ハッハッハ・・・。その通りですな。シッダールタ王子が優勝すれば、いいだけのことです。」
「ご親族の皆様、ご承知いただけるでしょうか。反対の方はいらっしゃいませんか。」
「賛成じゃ。なかなか面白そうじゃ。」
「私も賛成です。」
そこに集まった親族の者たちは、全員が宰相の案に賛成したのであった。
「では、競技は一ヵ月後に開催いたします。そうそう、参加資格は、王族の血縁者のみ、とさせて頂きます。」
「質問じゃ。わしには息子がおらん。娘の婿でも参加していいのか。そして、その場合、コーリヤの姫は、第二婦人となるのか。」
「もちろん、婿殿が参加されても結構です。その場合、ヤショーダラー姫は第二婦人の座に着いてもらいます。姫も納得しております。」
「わしも質問じゃ。参加は、孫でもよいのじゃな。結縁者ならばいいのじゃな。」
「はい、そうです。もっと言えば、ご養子でも構いません。養子縁組された者の参加も認めます。よろしいかな。では、1ヶ月後に・・・。」

こうして、親族会は散会し、一ヵ月後には、王子の座とコーリヤのヤショーダラー姫を賭けた競技が開催されることとなった。このことは、すぐに城下町にも伝えられた。街は、この競技のことで大騒ぎとなったのであった。


「ダイバダッタよ、お前、競技に出るんだろ。」
「もちろんさ。優勝は俺に間違いないね。ふふふふ。これは面白い。いよいよ、この俺にも運が向いてきたかな。ふふふふ。はははは・・・・。」
「あぁ、そうだよな。お前は強いからね。でも、修練所時代は、一度もシッダールタには勝ってないよな。」
「うるさいな。お前、何年前の話をしてるんだ。あれから何年たったと思っているんだ。その間、俺は狩りにも行っているし、剣術も毎日練習している。マッ昼間から木の下で居眠りしたり、女を抱いたショックで引きこもっているどこかのひ弱な野郎とは大違いなんだよ。」
「そりゃ、言えてるよ。ま、お前が優勝候補だな。」
「当たり前だ。ふん、それにいざとなりゃ・・・・。くくくく。これでアイツも終りだ。」
ダイバダッタは、舌なめずりをして、ニヤニヤ笑っていた。その目は、異様に光っているのだった。

「婿殿、婿殿はおるか・・・。おぉ、婿殿。汝も、競技にでよ。よいか。」
「は、しかし、私は・・・・。どうも弓も剣も苦手でして。聞くところによりますと、シッダールタ王子は、剣術も弓も修練所始まって以来の優秀な成績を修められたとか。とても私には・・・・・。」
「何を馬鹿な事を言っておるのじゃ。そんなことは、何とでもなる。」
「は?。と言いますと・・・。」
「ふん、馬鹿正直なヤツじゃの。頭は使うもんじゃ。ふっふっふ。娘よ、お前の夫が第二夫人を持っても構わぬな。」
「もちろんです、父上。王子の座に着くんですもの、それぐらいは、構いませんことよ。でも、恥をさらすようなことだけは、やめてくださいね。」
「それは、大丈夫じゃ。手はちゃんと打っておく。ふぁっふぁっふぁっふぁあ〜。これで、わしも国王の後見人となれるしのう。」

「よいか、屈強の剣士を探すんじゃ。国中をくまなくな。いいか、期限は三週間じゃ。わかったな。わかったらさっさと行ってこい。」
「はい、すぐにでも探してまいります。」

こうして、親族の間には、王子の座を目指して、皆が様々な陰謀をめぐらせていた。そんな中、シッダールタ王子は、迷っていた。
「さて、どうしたものか・・・・。困ったことになった。私が出なければ、きっと優勝は、あのダイバダッタであろう・・・・。あの者は・・・。あの者だけには、勝たせたくはないな・・・。彼は、非常だからな。国王には相応しくないであろう。さて、どうしたものか・・・・。
私自身は、結婚もしたくはないし、王子の座もどうでもいいのだが・・・・。とはいえ、ダイバダッタが王子になるとなると、それも問題であろうし・・・。
それに、どの親族も汚い手を使ってくるに違いないであろうし・・・・。醜い争いになるのは必至だな。あぁ、そんな光景は見たくないな。こんなことになるなんて・・・・。これも、私がしっかりしないからだろうか。元はといえば、私のこの態度がいけないのだろう。でも、実際に、国王になどなりたくはないのだし・・・・。
ダイバダッタか・・・・。彼には困ったものだ。彼も当然、陰謀をめぐらすに違いないだろうな。となると・・・・。やはり、優勝はダイバダッタか・・・。
それはいけないな。彼が王子の座に着けば、益々我が物顔に振る舞うに違いない。いずれ、コーサラ国に攻め入るという愚考をやりかねない男だ。かといって、私が競技に参加するのは・・・。今更、中止にもできないだろうし。困った・・・。争いごとを避ける方法は、ないものか・・・・。」

このシッダールタの迷いは、国王も心配していることだった。
「本当に、シッダールタは、競技に参加するのか。宰相よ、これは本当にうまく行くのか。」
「大丈夫です、国王様。私めに考えがあります。シッダールタ様は、必ず競技に参加致します。」
「競技に出ただけではダメなんだぞ。わかっておるな。」
「もちろんです。それも大丈夫です。対戦はこちらで組み合わせますしな。王子様も本気になれば、なかなかお強いようですし。まあ、任せて下され。」
「他の者も、何かと企んでおるようじゃ。そっちの方は大丈夫なのか。」
「もうすでに、親族の方々の周りには、見張りをつけております。彼らの行動は、すべて私のところに伝わっております。」
「そいつらが裏切るようなことはないのか。」
「ちゃんと手は打ってあります。決して裏切りません。有能な者ばかりです。こちらは王家です。資金も豊富にありますので。ご安心下さい。ご親族の方々の不穏な動きは、すべて把握しておりますから。」
「もっとも心配なのはダイバダッタじゃ。あやつが優勝するようなことがあれば・・・・。」
「わかっております。そうならないように手は打ちます。今度のことは、コーリヤの国王の協力も得ておりますゆえ、ご安心下さい。」
「わかった。そちを信じるとしよう。うまくやってくれ・・・・。」
「はい。お任せください。」
宰相の顔には、自信の程がうかがえたのであった。

そんなある日のこと、シッダールタは、お供を数人連れ、城下の草原に散歩に出ていた。その場所は、シッダールタが気に入っている場所であった。その草原には、大きな樹が一本あった。その下で物思いに耽るのが、シッダールタの気晴らしになっていたのだった。
その日もシッダールタは、樹の根元に腰を下ろし、考え込んでいた。その時であった。一人の美しい女性がシッダールタに近付いてきたのだ。その女性は、樹の根元に座りこんでいるシッダールタに声をかけた。
「あなたがシッダールタ王子様ですね。」
その声は、気品に溢れ、力強く響く声であった。


 10.結 婚

「えぇ、私は、確かにシッダールタですが・・・・。あなたは・・・。もしや・・・・。」
「はい、お察しの通り、私は、コーリヤ王の娘、ヤショーダラーです。初めまして。」
「初めまして・・・・。その・・・コーリヤの姫様が、私に何か用でもあるのですか?。」
「えぇ・・・その、競技会のことで・・・・。先日、王子様もご存知のダイバダッタ様が、私に手紙を寄越したのです。」
シッダールタは、ダイバダッタの名前を聞いて、眉をひそめた。
「王子様もダイバダッタ様のことは気になるのでしょうか。」
「あの者は・・・・。どうも好戦的で・・・・。」
「そのようでいらっしゃいますわね。手紙にもそのようなことが書かれておりました。気になりませんか?。」
「大体察しはつきます・・・・・。ご用と言うのは、そのことですか?。」
「王子様は、競技会のことを真剣に考えていらっしゃるのでしょうか。王子の座とこの私がかかっているのですよ。やる気がおありなのでしょうか。当然出場されるのでしょう?。」
「もちろん出場します。出場するからには、全力をつくします。」
「王子様、ぜひ勝って下さい。私は、あのダイバダッタ様の妻になるくらいなら、死を選びます。ダイバダッタ様は、どんな手を使ってでも王子様に勝つつもりです。王子様もそれに備えてください。」
「勝負は時の運です。神が味方になったほうが勝利を得るでしょう。私は、全力をつくすのみ。裏でどのような企みがあるのかは、私の知らぬことです。それに・・・・。」
しばしの沈黙が流れた・・・・。

「それに・・・なんですか?。」
「それに、ここではっきり言っておきますが、もし私が競技会で優勝したとしても、あなたを妻として迎え入れることは無いでしょう。私は、結婚をするつもりは無いのです。」
「な、何ですって・・・・?。それでは・・・・。」
「宰相殿とあなたの父、コーリヤの王がどのような話をされたのかは、私は知りません。しかし、私は結婚をするつもりはないのですよ。申し訳ないですが・・・・。」
「そ、そんなこと・・・・。」
ヤショーダラー姫は、しばらく呆然としていたが、口をきりりと結んで、
「それでも結構です。シッダールタ様、ぜひ優勝してください。それでは、競技会でまたお会いしましょう。」
と言い残すと、駆け出していったのであった。後に残ったシッダールタは、その後姿を見つめ
「何と、気丈な姫なのだ。競技会の賭けの対象になるくらいだからな・・・・。」
と、微笑みながら一人つぶやくのであった。


日は流れて、いよいよ競技会の日がやってきた。競技場には、城下の人々が大勢集まってきていた。王族の者やコーリヤの王、ヤショーダラー姫も競技場の特別席に座っていた。
宰相が、競技の開会を宣言した。
「これより、王子の座とコーリヤのヤショーダラー姫を賭けた競技会を開催いたします。参加者は、総勢9名です。競技方法は、弓の的当てと剣術です。弓の的あては点数で競います。剣術は対戦です。予選が、弓の的当てです。成績のよかった者4名が、本線の剣術戦に進みます。対戦の仕方は、予選の1位対3位、2位対4位で勝ち抜き戦を行ない、各勝者で決勝戦を行ないます。剣術の戦いは、3本勝負です。2本取った者が勝ちです。では、国王様、競技の始まりを宣言してください。」
「城下の人々よ、よくぞ集まってくれました。今日の競技で、我等シャカ族の未来も決まってくることであろう。誰が王子の座に着こうと、強き者がその座に着くことは間違いはない。優勝者には、私の横の、この王子の座に即座に座ってもらう。そして、その横にコーリヤの姫ヤショーダラーに座っていただく。
さぁ、競技に参加するものよ。正々堂々と、全力をつくして戦ってもらいたい。幸運を祈る。それでは、競技を始めよ!」
こうして王子の座とヤショーダラー姫を賭けた競技が始まったのである。

予選は弓による的当てであった。多くの予想通り、1位はシッダールタ王子、2位はダイバダッタであった。王の親族の者の参加もあったが、この二人には敵うものではなかった。この様子を見て、シュッドーダナ王と宰相がにこやかに話をしていた。
「うまく行っているようだな。」
「はい、順当なところでしょう。弓矢による的当ては、なかなか不正がしにくいですから。」
「しかし、どこから邪魔者が出てくるかわからん。飲み物や食べ物にも注意せよ。毒が盛られていることもある。特に、決勝戦の前じゃ。大方の予想通り、シッダールタとダイバダッタの戦いになるであろう。あのダイバダッタは、勝つためには手段を選ばん男だ。よく注意せよ。」
「はい。飲食物はもちろんのこと、競技場の内外も警備に当たらせています。おそらく、決勝戦中にシッダールタ王子を狙ってくるでしょう。」

競技場では、いよいよ本線が始まっていた。シッダールタの相手は、重臣の婿にあたる者であった。戦いは簡単に終わってしまった。あっという間に、シッダールタが2本ともとってしまったのだった。
「見事じゃな、シッダールタよ。ふっふっふ。」
国王はご機嫌であった。一方、ダイバダッタも簡単に勝利を収めていた。決勝戦は、予想通り、シッダールタとダイバダッタの戦いになった。
その間に、競技の邪魔をしようとした者が捕まり始めていた。シッダールタ用の飲食物に薬を入れようとした者や、武器を持ってうろついていた者が何人か捕縛されたのであった。その者たちは、誰に頼まれたかは口を割らなかった。それどころか、捕縛された全員が、持っていた毒を飲んで、自殺を図ってしまったのである。宰相は、ダイバダッタの手が、少しずつではあるが、国に広がりつつあることを畏れ、シッダールタの勝利を願った。ここで、シッダールタが勝利を得れば、再び、王子としての信頼を回復することができるからだ。すべては、国の安泰のためであった。

いよいよ決勝戦が始まった。
「シッダールタ、久しぶりだな。お前と剣を交えるのは。今回は、俺の勝ちだ。ひ弱なお前に、将来の国王は無理だ。ふっふっふっふ・・・・。」
これに対し、シッダールタは終始無言であった。
「ふん。怖くて、何もいえぬか。じゃあ、いくぞ!」
ダイバダッタが切り込んできた。しかし、あっさりとそれは避けられ、次の瞬間、ダイバダッタの剣は中を舞っていた。あっという間の出来事であった。
「勝者、シッダールタ。」
1本目は、簡単にシッダールタが勝利を得た。続いて、2本目が始まった。
ダイバダッタが切り込んだ。シッダールタは、それを避け、一歩退いた。そして、シッダールタが前に踏み込もうとした瞬間、シュッと言う音がしたのであった。それは、吹き矢であった。吹き矢が会場からシッダールタめがけ、吹かれたのであった。
瞬時、シッダールタは、それを剣で除けた。そこへ、ダイバダッタの剣がシッダールタの鎧を突いたのであった。
「それまで!。勝者、ダイバダッタ。」
会場の観客や国王、宰相らには、なぜシッダールタが負けたのか理解できなかった。吹き矢には、誰も気付いていなかったのである。
「今の動き、変ではなかったか。どう思う。」
国王は、宰相に問うた。宰相も、不審げであった。
「はい、シッダールタ様は、何かを剣で除けられたような・・・・。もしや・・・。」
「うん、わしにもそう見えたが。まさか、会場から何か投げたのか?」
「はい、早速調べさせます。」
宰相は、そう言うと、すぐに兵士に会場を調べるように命じたのであった。


「汚いぞ、ダイバダッタ。」
「何のことだ。負け惜しみか。ふん!、まだ1本あるじゃないか。ま、それも俺の勝ちだけどな。くっくっく。今度は、除けられるかな。たっぷりと毒が塗ってあるかもな。あはははは・・・。」

3本目の試合が始まった。シッダールタもダイバダッタも、お互いに距離を置いて、相手の出方を待っていた。ダイバダッタは、余裕の表情であった。そして・・・。
ダイバダッタとシッダールタが同時に踏み込んだ。お互いに巧みに相手の攻撃をかわしたり受けたりしていた。勝負は、なかなかつかなかった。
『くっそう、何をしている。吹き矢はどうなっているんだ。何も直接当てなくてもいいんだ。このシッダールタに隙さえ作らせればいいんだ。早く撃て!』
ダイバダッタは、心の中で叫んでいた。しかし、一向に吹き矢の飛んでくる気配はなかった。シッダールタが、
「吹き矢は、飛んでこないようだな。ダイバダッタよ。」
と言うと、あっという間に、ダイバダッタの剣をはじき、さらにもう一撃、ダイバダッタの剣に入れたのだった。
剣は、ぽっきりと折れてしまった。
「それまで。剣は折れた。勝者シッダールタ。2対1で、優勝は、シッダールタ王子である。」
こうして、シッダールタは、相手を傷つける事無く、勝利を得たのであった。

会場は、大歓声に沸きかえっていた。
国王が、立ち上がり、歓声が止むのを待って、競技場のシッダールタに声をかけた。
「シッダールタよ、よくやった。さあ、ここへきて、この王子の座につくがよい。皆のもの、シッダールタを迎えよ。」
この声で、会場は再びの大歓声となった。

その裏では、吹き矢を持った男が捕縛されていた。しかし、やはり他の捕縛者同様、毒を飲んで死んでしまったのであった。兵士からこの報告を聞いた宰相は、
「もうよい。シッダールタ様が勝利を得たのだ。これで、ダイバダッタに付いていた者も寝返るじゃろう。めでたしめでたしじゃ。さ、最後の仕上げと参りますかな。」
と言うと、シッダールタが座った王子の席の横に並び、シッダールタに
「王子様、おめでとうございます。お疲れのところとは存じますが、これより、結婚の儀を始めます。もう少し、ご辛抱をお願い致します。」
と微笑みながら告げたのであった。
「な、何だって?。この場で婚儀を行なうと言うのですか?。そ、そんな・・・そんなことは、聞いていませんよ。」
「この場で婚儀をしない、とも言ってませんでしたが。そうではないですか、王子。」
シッダールタは、困り果てた顔をしていたが、何もいえなかった。

そんな王子を無視して、宰相は会場に向って大声で話し始めた。
「会場の皆さん。やはり、この国の王子はシッダールタ様であることが、これでよくおわかりいただけたと思います。さて、これより、お約束通り、優勝者であるシッダールタ様には、コーリヤの姫ヤショーダラー様が嫁ぐことになります。折角こうして、城下の皆様がお集まりいただいておりますので、この場で、シッダールタ王子とヤショーダラー姫の婚姻の儀式を致したいと思いますが、如何でしょうか。」
宰相が、会場にそう告げると、会場は大喝采の渦となった。こうして、王子の座とヤショーダラー姫を賭けた競技の会場は、シッダールタ王子とヤショーダラー姫の婚儀の会場へと変わっていったのであった。そして、そのまま城下はお祭りになってしまったのであった。


婚姻の儀が滞りなく終り、城に戻った国王と宰相が話をしていた。
「宰相よ、よくやった。まさか、競技のあとにすぐ婚姻の儀式を行なうとは、シッダールタも気付かなかったようだな。万事うまく行って、よかった。今回は、汝の策が大当たりであったな。」
「いえいえ。シッダールタ様が強かったのがよかったのですよ。試合に負けていたら、元も子もないですから。いや、しかし、いざとなればシッダールタ様は強いお方だ。それに・・・。」
「それに?」
「はい。競技のあとに、すぐに結婚の儀を行なった方がよいのではないか、と提案したのは、実はヤショーダラー姫なのです。」
「なんじゃと。それは、本当か。」
「はい。何でも、姫は競技前に、シッダールタ様と会われたようでして・・・・。その時に、シッダールタ様は、たとえ競技で優勝したとしても結婚する気はない、とおっしゃったらしいのです。」
「ほう。それで、競技後に、いきなり結婚の儀を済ませてしまおうと、そういうことだったのか。」
「はい。あのヤショーダラー姫も大したお方です。なかなか頭の回転が速い。しっかりしておられますなぁ。」
「うんうん。シッダールタには、あれぐらい気丈な姫の方がよいであろう。うまく、シッダールタを支えてくれよう。」
これで、釈迦族も安泰だと、国王と宰相は安堵するのであった・・・・。

一方、シッダールタとヤショーダラーは、城の中の一室で話をしていた。
「今回のことを計画したのは、あなたですね、ヤショーダラー姫。」
「なんのことでしょうか。でも、優勝したのがダイバダッタでなくて、本当によかったですわ。もし、あの方が優勝していたら、私は今ごろこの世にいませんでしたわ。ありがとうございます。」
「もう、済んでしまったことだから仕方がないですが、先日も言った通り、私には結婚する気がありません。それは、婚姻の儀をを済ませた今でも変わりはない。ですから、今後、あなたに触れることはないでしょう。悪いことは言わない。国に帰られたほうがよいでしょう。」
「いいえ。私は、もうあなたの妻です。妃です。どんなことがあろうとも、私は国に帰るつもりはありません。シッダールタ様が私に触れる気もない、とおっしゃるのなら、その気を変えてさしあげましょう。何年かかっても・・・・。」
「はぁ・・・。気丈なお方だ。そこまで言うのでしたら、好きにされるがよい。今日は、疲れました。私は休まさせて頂きます。それでは・・・。」
「どこへいかれるのですか?。」
「もちろん、自分の部屋ですよ。今まで使っていた。」
「その部屋は、もうございませんことよ。ここが、二人の仮の部屋だそうです。新居は、これより建てていただけるそうです。聞いていらっしゃいませんでしたの?。」
シッダールタは、また、ヤショーダラー姫と宰相に先に手を打たれたことを知ったのであった。
こうして、シッダールタ王子とヤショーダラー姫の生活は始まったのである。





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