ばっくなんばー5


 20.媚 薬

「欲望は次から次へと湧いてくる。この欲望の渦からは逃れられないのか・・・」
シッダールタの頭の中は、このことでいっぱいになってしまっていた。そのため、周りから見ると、ぼうっとしているように見えるようになってしまっていたのだった。
(城の周りの警備が前よりも厳重になっている。父は私たち夫婦の間に子供ができないことで占い師を呼んだらしい。その占い師が何かほかの事を言ったのだろうか。おそらく、そうなのだろう。きっと、私が出家しようとしている、などと告げたのであろう。私はどうすればいいのだろうか。これでは、出家もできそうにないなぁ・・・。それにしても・・・。
こうして、城の中や城下を見回しても、みな欲望だらけだ。人々は、欲望に振り回されている。否、私も同じか・・・。この国の安泰も気になる。ヤショーダラーのことも気になる。しかし、この世のことをわずらわしく思うときもある。死を恐れることも、病を恐れることも、これも欲望なのか。出家を望むことも欲望なのか・・・・・。
あぁ、わからなくなってきた。私は、どうすればいいのか・・・・。)
シッダールタは、混乱していた。周りのものから声をかけられても、何も聞こえていなかった。

シッダールタは、また部屋に篭りがちになっていった。部屋からでるのは、庭の大木の下で瞑想をするときだけになってしまっていた。誰とも会話もせず、誰とも顔をあわせず、部屋から大木へ、大木から部屋へ・・・という毎日になってしまったのだった。当然ながら、ヤショーダラーと寝所を共にすることはなくなっていた。
「どうしたというのでしょうか、シッダールタ様は。このごろ、また部屋に篭るようになってしまった。あれほど、生き生きとしていたのに。思い切って、声をかけてみましょう。」
ヤショーダラーは、そう決意すると、シッダールタの部屋に行き声をかけてみた。
「王子様、シッダールタ様、いかがなされたのですか?。この頃、急に部屋に篭られるようになって・・・。皆さん、心配してます。ここを開けてください。中へ私を入れてください。」
部屋の中から声が聞こえてきた。
「ヤショーダラー、すまない。今しばらく一人にしておいてくれないか。考えがまとまったら、部屋を出るから。」
シッダールタの返事はそれだけだった・・・。

思い余ったヤショーダラーは、宰相に相談することにした。
「なんと、そんなことになっていたのですか。女官は、何も言ってなかった。順調に、極普通の夫婦生活をしていると言っておったのに・・・。それに、仕事のほうも何も支障なく進んでいるが・・・・。どうなっておるのだ。」
「女官は、私が口止めしていました。国王様に心配をかけてもいけないと思いまして。ただでさえ、なかなか妊娠しませんので、そのことでご心配をいただいてますから。シッダールタ様のお仕事は、官吏たちがうまくやっているようです。最終的な確認だけをシッダールタ様の部屋の前で伺っているようです。」
「そういうことでしたか。ヤショーダラー様もそれはそれは気苦労が多かったことでしょう。」
「いえ、私はいいのです。それよりも、このままでは世継ぎが・・・・。」
「そうですな。問題は、そこですな。何かいい方法でもないかのう・・・・。」
(宰相様、いい方法があるでしょ。私は知っているのよ、女官に聞いたんだから。昔、シッダールタ様に女性をあてがったとき、薬を使ったということをね。その薬を入れた飲み物で、シッダールタ様は大いに乱れたそうじゃない。一時は女性との快楽に溺れたそうじゃない。このままじゃ、シッダールタ様は絶対に私を抱こうとはしないわ。それじゃあ、王子の子を産むことはできない。それでは困るのよ。さぁ、宰相様、その媚薬を再び使うのよ。)
ヤショーダラーは、表面では悲劇の妻を演じてはいたが、内心は宰相が媚薬を使うと言い出すことを待っていたのであった。

しばらく考えていた宰相であったが、ふと顔を上げてつぶやいた。
「仕方がない・・・。あれを使うか・・・・。しかし、あれはなぁ・・・。使いすぎれば、毒にもなるから・・・。」
「えっ? なんですか?。あれって・・・なんですか?。」
「うっ、いや、その・・・・。う〜ん・・・。どうしたものか・・・・。」
その時、宰相の頭に、あの占い師の言葉がよぎった。
(そうか、占い師の言っていたことは、このことだったか。ヤショーダラーさまの妊娠には策略がいる、それを担当するのはわし・・・・。そういうことだったか。ならば、仕方がないのう・・・・。)
「宰相様、どうされたのですか?。」
「あぁ、いや・・・。ヤショーダラー様は知らないことだが、シッダールタ様が若かった頃、ちょっとした飲み物を使いましてな、その・・・。」
宰相は、過去に特殊な薬を使い、シッダールタを女性に夢中にさせたことを話した。ヤショーダラーは、神妙な顔をして、
「そうですか、そんなことが・・・。」
と答えていたが、心の中は、全く逆だった。
(そうよ、そのことよ。今回もそれを使えばいいじゃない。そんないい薬があるのなら、もっと早くに使えばよかったのよ。)
「今回もそれに頼るしかないかのう・・・。しかし、あの薬は使いすぎるといけないからなぁ・・・。」
「少しだけ、一回や二回ならばいいのではないですか?。」
「ふむ、そうじゃな・・・。では、ヤショーダラー様、これから私が言うことをよく聞いてくだされ。よろしいかな、これにはヤショーダラー様の協力が必要なんでな・・・。」
「はい、わかりました。私にできることでしたらなんでもいたします。王子様と私のため、いいえ、このカピラバストゥのためなのですから・・・。」
「おぉ、そうですそうです。この国のためです。いいですか、もうすぐシッダールタ様の誕生会がございます。その時がいい機会でしょう。これを逃すと、シッダールタ様が公の場に姿を見せることはなかなかありませんからな。この機会を逃さないように、しっかり準備しておきましょう・・・。」
こうして宰相とヤショーダラーは、シッダールタに媚薬を飲ませる計画を練ったのであった。そんなこととは全く知らないシッダールタは、自室で考えを巡らせていた。
(このままいつまでも部屋に引き篭もっているわけにも行かない。公務もある。ヤショーダラーも父も心配をするだろう。それに・・・。もうすぐあの嫌な誕生会だ。嫌ではあっても国全体で祝ってくれることだから、出席しないわけにはいかない・・・。それまでに、公務に戻るとするか・・・。しかし、ヤショーダラーとは寝所をともにするのは・・・・。出家の妨げになるようなことにはなりたくないしな・・・・。といっても・・・。いったい、どうすればいいのか・・・。)
来る日も来る日も、悩み苦しむシッダールタであった・・・。


 21.決 意

シッダールタの誕生会の日がやってきた。カピラバストゥは、城の中も外もお祭りでにぎわっていた。シッダールタは、毎年同様、城の上から集まった城下街の人々に手を振り挨拶をしたり、近隣諸国からの使者と順にあったりし、忙しい一日を過ごした。そしてその最後にあるのが、宮中での晩餐会であった。その晩餐会を前に、宰相とヤショーダラーがシッダールタに飲ませる媚薬について策を練っていた。
「ヤショーダラー様、いつ王子様に飲ませるおつもりですか?。」
「シッダールタ様は、お酒を飲まれません。かといって、初めから、果物の飲み物に薬を混ぜるわけにはいかないでしょう。晩餐会の終わりごろがいいのではないでしょうか・・・。」
「そうですな。では、あっさりした飲み物に混ぜておきましょう。」
こうして、二人の話はまとまり、後は晩餐会を待つだけであった・・・・。

晩餐会は、楽しげな様子であった。悩み沈んでいたシッダールタも、各国の同年代の使者たちと明るく話をしていた。その様子に国王も満足げであった。こうしてにぎやかな時は流れていったのであった。
「話はまだ尽きないと思いますが、時間も遅くなりました。最後に、ごゆっくりお休みいただけるように、爽やかなお飲み物を用意いたしました。どうぞ、お召し上がりください。」
皆に配られた飲み物は、爽やかな香りのする果物の飲み物だった。その中の一つだけ、シッダールタの分だけが、
秘薬入りではあったが、当然ながら気付くものはいなかったのであった・・・・。

その夜、シッダールタはいつになく明るく機嫌がよかった。そして、いつものように自室に戻ることなく、久しぶりにヤショーダラーと寝所をともにした。すべてヤショーダラーの思惑通りにいったのであった。
翌朝、ヤショーダラーの横で目覚めたシッダールタは、自分が自室に戻っていないことを不思議がり、夕べのことを思い返していた。
(なぜ、私はここで寝ているのだ。お酒は飲んでいなかったはずだが・・・・・。そういえば・・・・、夕べは久しぶりによくしゃべったようだ。夕べの晩餐会は、珍しく楽しいものであった。あんなに笑ったのは久しぶりだ・・・・。そのせいだろうか、ヤショーダラーとも楽しく話したように思う。そうか、そのまま、ここで・・・・。まあ、それもよかろう。私には、大いに収穫のあった晩餐会だったからな。そうだ、あのマガダ国からの使者はもう帰っただろうか。できれば、見送りをしたいものだ。)
シッダールタは、すぐさま起き上がり、支度を整えて、客殿へと向かった。

マガダ国からの使者は、今まさに帰ろうとしていたところであった。
「おやおや、これは王子様。わざわざお見送りに来てくださったのですか。お疲れでしょう、ゆっくり休んでくださればよろしいですのに。」
「いえいえ、夕べは大変参考になる話をしていただけました。いずれ時間を作り、マガダ国を訪れたく思っております。ビンビサーラ国王にもお目にかかりたいし、マガダ国にたくさんおられるという聖者にも会ってみたい。その時は、よろしくお願いいたします。」
「もちろんですとも。お互い、コーサラ国の手前、親交が結べませんでしたが、今後は仲良くやっていきたいものですな。では、いずれまた・・・・。」
こうして、マガダ国の使者は帰っていったのであった。

当時、シッダールタの種族である釈迦族の国カピラバストゥは、コーサラ国の支配下にあった。コーサラ国は強大であったため、釈迦族はコーサラ国の指示に逆らうことはできなかった。そのため、もう一つの大国であるマガダ国とは、ほとんど親交のない状態であったのだ。しかし、マガダ国の若き国王ビンビサーラは、年齢の近い釈迦族の王子シッダールタと、なんとしても親交を結びたいと願っていたのであった。そのために、今回のシッダールタの誕生を祝う晩餐会に使者を寄越したのである。
シッダールタは、その使者から、若き国王ビンビサーラの話や城下の様子を聞かされた。特にシッダールタの興味を引いたのは、マガダ国の城下町には、評判の高い聖者がおり、多くの弟子たちを抱えて精神的指導をしているということであった。シッダールタはこの話を聞き、ぜひともマガダ国を訪れたくなったのであった。

シッダールタは、ひとり考えに耽っていた。
(なんとしてもマガダ国を訪れたいものだ。しかし、私がマガダ国を訪れた、とわかれば、コーサラ国が黙ってはいないだろう。必ずや軍を派遣するに違いない。どうしたものか・・・。
マガダ国の聖者に会えば、私がかねてから疑問に思っていることが解決するかもしれない。できれば、弟子になりたいものだ。それには、やはり出家か。出家してこの国を出れば、コーサラ国もこの国を攻めはしないだろう。それしか方法はないかも知れない・・・。
出家することには、もう抵抗はない。王子の座、いずれ勤めねばならぬ国王の座を捨てることに抵抗はない。未練もない。この国は、私がいなくても平和にやっていけるに違いない。むしろ、コーサラ国に益々頼るようになるから、かえって安全ではないか。コーサラ国の庇護の下、平和に暮らしていけよう。
ヤショーダラーにはどうだろうか・・・。夕べは久しぶりにヤショーダラーを抱いてしまったようだ。晩餐会の雰囲気に酔っていたのだろうか・・・・・。
私自身はヤショーダラーには未練はない。彼女には、初めから私は出家するかも知れないと言ってある。しかし、彼女は私を許さないだろう。それが問題だな・・・。私をすんなりあきらめてくれればよいのだが。
そ、そうか!。私が出家すれば、当然父王は養子を迎えるに違いない。この国の将来のためにも。そうなれば、ヤショーダラーと結婚させることになるだろう。彼女は第一王妃のままでいられるわけだ。ならば、彼女は満足するに違いない。ヤショーダラーは、私でなくてもいいのだろう。王妃の座が自分のものになればいいのだ。
そうだ、これで私が出家することに何も問題はないはずだ。そうだ、何も問題はない。心配事の一つであった、出家後どうすればいいのかということも決まった。私は今こそ決意した。私がとるべき道はやはり出家なのだ!。あとは、その時期だけだ。いつ出家の機会が訪れるか・・・だ。それを見逃さないようにしなければ・・・・。
それと、出家の日までは警戒されることのないよう、普通に振舞っていたほうがいいだろう。普通の王子らしく。そう、昨日の晩餐会でのような様子でいればいいのだ。そうすれば、誰も私の出家を疑わないだろう・・・。)
出家を決意したシッダールタの目は、いつになく輝いていたのであった。

一方、そうとは知らないヤショーダラーは、上機嫌だった。ヤショーダラーは、シッダールタが朝目覚めたとき、大騒ぎし、また自室に閉じこもってしまうと思っていたのだ。ところが、いつになく機嫌がいいシッダールタに面食らっていたのだった。
(意外だったわ。シッダールタ様は私を抱いたことに驚き、衝撃を受け、また自室に引き篭もると思っていたのに。平気な顔をされている。それどころか、生き生きとしてるわ。まさか、そんなに夕べのことがよかったのかしら・・・。それとも、あの薬のせいかしら。きっとそうに違いないわ。きっと、まだ、薬の影響が残っているのね。そういうことなら、今夜は様子を見ることにして、薬は控えておいたほうがいいかもしれないわ。シッダールタ様が塞ぎ込みそうになったら、またあの薬を使えばいいのよ・・・。)
そう計画を練るヤショーダラーであったが、あの秘薬は二度と使われることはなかった。なぜなら、それ以来、シッダールタは、塞ぎ込んだり、自室に引き篭もることはなかったからである。それどころか、ヤショーダラーにも優しかったし、今までで最も王子らしいシッダールタだったのであった。

時は流れ、カピラバストゥにあのアシタ仙人が亡くなったとう噂が広まったのは、シッダールタの誕生会から三ヶ月ほど過ぎた頃のことであった。噂によるためか、城下はいつになく沈み込んでいたのだった・・・・。



 22.障 害

「もうすぐじゃ。もう間もなくあのお方が第一歩を踏み出す。尊い方になるための第一歩を・・・。はぁ〜、残念じゃ。私は罪深いのかのう・・・・。尊いお方の、その姿を見ることができぬ。そこまでは生きられぬ。」
ここは、シュメール山の奥深く。アシタ仙人とその弟子たちが修行をしている聖地である。アシタ仙人は数日前から体調を崩し、寝たきりであった。アシタ仙人の周りには、大勢の弟子たちが集まっていた。
「アシタ様、先ほどから何をボソボソとおしゃっているのでしょう。私たちにはよく聞こえないのですが・・・。」
「また、何かつぶやいておいでなのか。いったい何を言っているのだろうか。」
「うぅん。それがさっぱり聞き取れんのだ。このところ毎日、何かをつぶやいては、ため息をついたかと思うと、涙を流さている。ひょっとしたら・・・。」
「アシタ様は、死期を覚っておられると・・・?。」
「かも知れないなぁ・・・。」
弟子たちは、アシタ仙人の言葉を聞き取れずに思い悩んでいた。

それからさらに何日か過ぎ、季節は雨季に入った頃、アシタ仙人はおもむろに起き上がったのであった。
「せ、仙人様、お身体はもうよろしいのですか?。」
弟子たちは驚いてアシタ仙人の周りに集まってきた。アシタ仙人の身体は、がりがりにやせ細り、肋骨が浮き出ているほどであった。仙人は、結跏趺坐(けっかふざ)すると、か細い声で、しかし力強く語り始めたのであった。
「愚かな者たちよ。私の声が聞こえぬ愚か者どもよ。修行が足りぬ愚かな者たちよ。」
「は、はい、それは、私たち弟子のことでしょうか。」
「愚か者め。他に誰がいるというのじゃ。よいか、よく聞け。私の命はもう終わりじゃ。」
この言葉を聞いて、弟子たちはどよめいた。
「ま、まさか・・・。」
「私たちはどうすればいいのか。」
「し、静かにしないか。アシタ様の話はまだ終わっておらぬ。」
弟子たちが落ち着くのを待って、アシタ仙人は言葉を続けた。
「これから数年後、私が到達し得なかった世界に至るお方が現れる。尊いお方が現れるのじゃ。そのお方は伝説の仏陀じゃ。仏陀が世に現れるのじゃ。私は残念ながら仏陀にお会いすることはできぬ。よいか、お前たちはそのお方を探すのじゃ。そして、そのお方の弟子となるのじゃ。そうすれば、私をも超えることができるじゃろう。よいか、数年後じゃ。数年後に仏陀が現れる。そのお方を探すのじゃ・・・。」
「仙人様、それはどういうことでしょうか。仙人様!、仙人様!。」
アシタ仙人は、二度と話すことはなかった・・・。
弟子たちは、アシタ仙人の遺体をシュメール山中に埋めると、仙人の言葉に従い、数年後に現れると言う仏陀を探す旅に出たのであった・・・・。

アシタ仙人が亡くなったという噂は、カピラバストゥにも届いた。そのためか街はいつになく静かであった。喪に服す・・・というわけではないが、ただ誰もが騒いだりはしゃいだりすることを控えていたのであった。
仙人の訃報の噂は、シッダールタの耳にも入っていた。
(アシタ仙人が亡くなった。私が仏陀になるかも知れぬと予言したアシタ仙人が・・・。仙人ほどの方でも、死は避けることはできない。聞くところによれば、仙人は死を残念がっていたそうだ。涙を流されていたそうだ。死はそれほどまでに人を苦しめるものなのか・・・。
アシタ仙人が亡くなった。これは、一つの暗示なのかもしれない。そういえば、このところ、街も静かだし、そのためか城の警備も以前ほど厳重ではないようだ。これは・・・、仙人様がくださった好機なのかも知れない・・・。)
シッダールタは、その考えが正しいように思えてきたのであった。
(そうだ。今こそ実行すべき時だ。この機会を逃がしてはならない。幸い、最近の私の様子から、誰も私のことを疑っている者はいないようだ。よし、明日の晩に決行だ。こっそり準備しておこう。)
シッダールタは、はやる気持ちを抑えて、普段どおりに振舞うよう、かたく自分に言い聞かせるのであった。

翌日の晩のことである。シッダールタは、普段どおりヤショーダラーとともに過ごしていた。
「今日は何だか疲れたようだ。そろそろ休みたいのだが・・・。」
「あぁ、はい、そうですね。では、もう寝ましょうか。」
二人は寝室に入ると、いつものように寝入ったのであった。ただし、シッダールタだけは寝た振りであった。
2〜3時間が過ぎた頃、シッダールタは静かに起き上がった。そして、そうっと寝台を抜け出すと、こっそり自室に入り、用意してあったロープを自室の柱に縛り付け、片方を窓から外に投げたのであった。
「よし、これで外に出られるぞ。出家するのに荷物はいらぬであろう。この身このまま行けばいい。さて、出かけるとするか。」
シッダールタは、そう独り言をいうと、窓に乗りかかり、ロープを握ったのであった。

静かに、音を立てぬよう、ゆっくりとシッダールタはロープを伝って降りていった。
「よし、もうちょいだ。静かに、静かに・・・・。ほう・・・。降りられたぞ。さて、門兵が寝てればいいが。まあいい、何とかなるだろう。」
シッダールタは、周りに誰もいないことを確認してから、静かに城門のほうへと向かいかけた、が・・・。
まさに、その時であった。
「シッダールタ様、どこへ行かれるのですか。」
その声はヤショーダラーであった。シッダールタは驚いて辺りを見回した。
「上です。上の窓を見てください。」
シッダールタは、ヤショーダラーの言うように上を見てみた。窓にはヤショーダラーが立っている姿が見えた。
「いつ気が付いたのですか・・・。」
「偶然、目が覚めたのです。横を見たらシッダールタ様がいらっしゃらない。初めは小用を足しに行かれたのかと思いましたが、どうも嫌な予感がしたのです。それで、窓から外を見下ろしましたら、ちょうどシッダールタ様がロープから手を放されたところでしたわ。いったいどこへ行かれるおつもりでしたの?。」
ヤショーダラーの声は震えていたが、それを気取られないように落ち着いた口調で問いかけたのであった。
「ヤショーダラーよ、ちょうどよい機会だ。私の話を聞いてくれ。私はこのまま出家しようと思う。どうか止めないでくれ。黙って私を行かせてくれ。」
「やはりそうだったのですね。やはりシッダールタ様は私たちを捨てて、出家なさるおつもりなのですね。」
ヤショーダラーは泣き出していた。シッダールタは、ヤショーダラーの一言が気になって、恐る恐るきいてみたのであった。
「ヤショーダラー、今、私たちと言ったが、それは、ヤショーダラーと国王たちのこと・・・なのか・・・?。ま、まさか、それとも・・・・。」
「いいえ違います。あなたの子が、あなたの子がいるんです。私のこのお腹には、あなたの子がいるんですよ。もう三ヶ月になります。やはり気付いていなかったのですね。」
ヤショーダラーは、そういうと、大声で泣き出したのであった。
「な、泣かないでくれ、ヤショーダラー。すまなかった。私の子・・・・。三ヶ月になるのか。では・・・、そうか、あの時の、あの私の誕生会があった時の・・・。そうだったのか。私の子か! あぁぁ、なんてことだ。」
「シッダールタ様、あなたはそれでも出家なさるおつもりですか。私とこの子を捨てて! この城を出て行かれるのですか。」
「私の子・・・。あぁ、なんてことだ。ラーフラだ。あぁ、私にとってこれほどの障害はない。この手で私の子を抱きたい。私の子を育てたい。しかし・・・・。あぁぁ、何と言うことだ・・・。ラーフラだ、ラーフラができた。私の出家を阻む障害ができてしまったぁ〜。」
シッダールタはそう叫ぶと、その場に泣き崩れてしまったのであった。

騒ぎを聞きつけて門兵がやってきた。ヤショーダラーの侍女たちも集まってきた。多くのものが、シッダールタを取り囲んでいた。そこへ、知らせを聞いた宰相が駆けつけてきた。
「な、なんと言うことですか、シッダールタ王子。これはどういうことですか。事情を聞かせていただきますぞ。さあ、こちらへ来てください。」
宰相にそう言われ、兵士に支えられてシッダールタは立ち上がった。しかし、その姿は、まるで廃人のようであった。首を肩まで落とし、うつろな目をしていた。その目は何も見ていなかった。開かれているだけの目であった。ただ、口だけは動いていた。
「ラーフラができた、ラーフラができた・・・・。」
と・・・・。



 23.出 家

「なぜ、私はあんなひどいことを言ったのだろうか・・・。ラーフラ・・・障害か・・・。折角授かったわが子に対し、何と言うことを言ってしまったのか・・・・。」
シッダールタは、自室に篭り、一人つぶやいていた。部屋に幽閉された翌日の夜のことだった・・・・。

シッダールタは、城を出ることに失敗した翌朝、国王であるシュッドーダナ王の前で深く頭を垂れていた。
「どういうことだ、シッダールタ。」
「はい・・・。」
シッダールタは、下を向いたまま押し黙っていた。
「答えたくないか・・・・。まあ、わかっておるからよいが・・・・。出家しようとしたのであろう?。いったい何が不満なのじゃ。王子としての何が気に入らんのじゃ。聞けば、子供もできたというではないか。そんなめでたい時に、お前は何を考えておるのじゃ。・・・はぁ・・・・・。わからん。わしは、お前がわからん。はぁ・・・・。」
父王は、深くため息をついた。シッダールタは、それでも、下を向いたまま黙りこくっていたのであった。
「わしが何を言っても、お前は答えないのか・・・。もうよい。しばらく、自室に篭って頭を冷やすがよい。おい、衛兵!、王子を王子の部屋へ連れて行き、外に出られないよう、見張りをつけておけ。よいかシッダールタ、どんなことがあろうと、出家は許さんぞ。わかったな。よく、自分の立場を考えることだ。連れて行け!。」
父王は、衛兵に命じると、さっさとその場を立ち去ったのであった。シッダールタは、衛兵に抱えられるようにして、自分の部屋へと連れて行かれたのであった。

自分の部屋に閉じ込められた翌日の夜、シッダールタは一人考え込んでいた。
(これでは、幽閉だな・・・・。まさに監禁状態だ。しかし・・・・。私は、なぜあんなひどいことを言ってしまったのか・・・・。わが子に対し、ラーフラなどと・・・・。子ができたことが障害などと、なぜ言ってしまったのか・・・・。私は愚か者だ・・・。ひどい親だ・・・。ヤショーダラーも傷つけてしまった・・・・。
考えてみれば、子が生まれるならば、私にとっては好都合であったではないか。父には申し訳ないが、我が子を育ててもらって、私の変わりに世継ぎにして頂ければよいのだ。ヤショーダラーもそれで納得するであろう。王子の母親なのだから。
これでもう、王になる気などない私が、ここにいる必要はなくなったのだ。私が出家するための環境は整ったのだ。それで丸く収まるのだ。だが・・・・。
だが、どうやってここを出ればいいのだ。部屋の扉には二人の衛兵がついている。城の周りには絶えず見張りがいる。城門は頑丈な鍵がかかっている。しかも、聞くところによると、その鍵は少しでも触れれば大きな音が鳴るような仕組みになっていると言う。それでは触れることすらできない。どうすればここを出られると言うのか・・・・。
神よ、シュメールの神々よ、もし、本当にブッダの出現を望むのなら、どうか私をここから出して欲しい。何事もなく、私を出家させて欲しい。お願いだ、神よ!。)
そうやってシッダールタは、シュメールの神々に日々祈ったのであった。しかし、その願いは未だ届くことなく時は過ぎていった。

シッダールタが自室に幽閉されて7日目の夜を迎えた。その日もシッダールタは、神々に祈ってから眠りについた。その日の夜は、妙に静かであった。まるで、釈迦国すべてが深い眠りについているかのような静けさであった。
深夜、シッダールタは目覚めた。まるで、何者かに導かれるように、シッダールタは寝台から起き上がり、扉に近づいていった。扉を開けてみた。いつもは直立不動で立っている二人の衛兵は、だらしなく座り込んで眠りこけていた。シッダールタは、その衛兵を静かにまたぐと、そのまま階下へおりて行き、庭へと出た。途中、誰にも会うことなく・・・・。
ふと、庭の端に目をやると、馬小屋に明かりがともっていた。シッダールタは、馬小屋へと向かった。
「チャンダカ、こんな夜遅く何をやっているんだ?。」
シッダールタはチャンダカに声をかけた。チャンダカは、シッダールタ専用の白馬カンタカの世話をしている者であった。チャンダカは、王子に声を掛けられ驚いて、
「こ、これは王子様。王子様こそ、こんな夜中に・・・・・。」
と思わず大きな声を出してしまった。
「静かに、静かにしてくれ。それより、カンタカに乗れるか?。」
「はぁ、もちろん乗れますが・・・・。今日は変な日です。私は、なぜだかわからないのですが、今晩はカンタカのそばにいたくって・・・・。それで先ほどここにやってきたのです。」
「そうだったのか。ちょうどよかった。チャンダカ、カンタカを引いてくれ。」
「そ、そんな、王子様、こんな夜中にどこへ行かれるのですか。」
「いいから、馬を引いてくれ。行き先は、後で教える。ともかく、城から出るのだ。」
「お、王子様、まさか出家なさるおつもりで・・・・?。お噂は本当だったのですね。」
「私が出家したがっている、という噂だね。」
「はい、そうです。私も聞いております。」
「それは、噂じゃなく、本当のことなのだよ。そして、今日、出家するのだよ。だから、カンタカを引いてくれ。」
「そ、それは・・・・、いけません、いくら王子様の頼みと言えどもそれだけはきけないです。そんなことをしたら、国王様もヤショーダラー様も嘆き悲しみます。いいや、国中のものが悲しむでしょう。そんなお手伝いはできないです。」
「チャンダカ、頼むよ。お前だけが頼りなのだ。どうしても無理と言うのなら、カンタカを出してくれ。私ひとりで行こう。私は、私の馬に乗っていくんだ。誰にも気付かれずに・・・・。引き止めても無駄だよ。今夜から、シッダールタ王子は行方不明になるのだ。これは、シュメールの神々の導きでもあるのだ。」
チャンダカは、シッダールタの眼差しに押されていた。
「神々ですか・・・・。王子様、わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら、私が王子様の最後の姿を見送りましょう。そして、明日にでも王様に報告いたします。」
「おお、そうしてくれるか。感謝するよ、チャンダカ。それはいいのだが、城門をどうやって出ればいい?。あの鍵は触れると音がするようだが。」
「確かに、あの城門の鍵は触れると大きな音が鳴るような仕掛けがされてます。しかし、神々の導きならば、何とかなるはずではないでしょうか。私が今夜馬小屋に来ていたように・・・。」
「うん、それもそうだな。よし、では出発しようか。東の門へ行こう。」
シッダールタはそう言うと、愛馬カンタカにまたがり、チャンダカに綱を引かせ、東の城門へと向かったのであった。

東の門は、なぜか開いていた。まるで、閉め忘れたかのように、昼間の状態と同じように開いていたのであった。しかも、門番である衛兵は、ぐっすり眠りこけていた。
「この門番は、まったく役に立っておりませんな。門を閉め忘れた上に、すっかり眠りこけている。こんなことが国王様に知れたら、大変なことです。」
「チャンダカ、このことは王には言わないほうがよかろう。王に、どうやって城門を出たか、と聞かれたら、勝手に開いたのです、と答えればいい。それで大丈夫だ。誰も咎められることはない。」
「わかりました。そうお答えします。さて、門を出ましたが、どちらへ向かいますか。」
「ここのまま、東方面に行ってくれ。この先に、神聖なる森があるはずだ。夜明けまでには着くであろう。」
こうして、シッダールタは、堂々と城を出たのであった。そして、そのことに気付くものは誰一人としていなかったのである。

あたりが白々とし始めた頃、シッダールタとチャンダカは、森についた。
「この森は、昔、修行者がたくさんいたそうだ。私の出家生活の出発点には最適な場所だ。」
「はぁ・・・・。王子様、どうしてもこのまま出家なさるのですか。お城にはもうお戻りにはならないのでしょうか。」
シッダールタは、寝るときも身に着けている王子の印の首飾りを取って
「チャンダカ、この首飾りを城に持って帰ってくれ。そして、国王にこの首飾りを渡して、『王子は、今日、出家しました。もうシッダールタ王子はいません。覚りを得てブッダになるまでは、戻ることはありません。』と伝えてくれ。」
とチャンダカに託したのであった。さらにシッダールタは、
「修行者にはこんな長い髪は不要だ。」
と、持っていた剣で髪を切った。
「この髪と剣はヤショーダラーに渡してくれ。そして、私はもう死んだのだと思うように伝えてくれ。子供を大切に、とも伝えてくれ。」
「お、王子様・・・・・。そ、そんなことを・・・・。お、おぅおおぅぅぅ・・・。」
チャンダカは、泣き出していた。
「泣くな、チャンダカよ。今日はめでたい日なのだ。王子シッダールタは今日死んだのだ。そして、今日、修行者シッダールタは生まれた。今日からは、私は単なる修行者なのだ。さぁ、チャンダカ、もう日が昇ってしまった。城に戻ってくれ。私は、このままこの森を歩いていく。」
ついに、シッダールタの出家生活が始まったのであった・・・・。


 24.騒 然

シッダールタが城を出た翌朝のこと、城内は大変な騒ぎになっていた。朝、いつものようにヤショーダラーと侍女が、シッダールタの食事を部屋に運ぶと、そこには、開けはなれた扉の前に、ぐっすりと横たわる二人の兵士がいるだけだったのだ。
「どうしたというのです。あなたたちは何をしているのです。シッダールタ様は・・・。あぁ、王子様は・・・。」
あわててシッダールタのいた部屋に入ったヤショーダラーであったが、そこには誰一人いなかったのであった・・・・。

「シッダールタはまだ見つからんのか。いったいどこへ行ったというのだ。」
ヤショーダラーからの知らせを聞いて、国王シュッドーダナは烈火のごとく怒り狂っていた。
「おのれ〜、シッダールタめ。このワシを裏切りおって・・・・。あれほど出家は許さんといったのに。必ず、必ず、見つけ出してやる。よいか、ヤショーダラー、汝は何も心配しなくていい。身体を大事にして、立派な子を産んでくれ。シッダールタのことは、任せなさい。必ず見つけ出すから・・・・。」
シュッドーダナは、ヤショーダラーを部屋に引き取らせ、宰相からの報告を待つことにした。

その後、宰相のもとには、兵士から次々と報告が届いた。
「報告します。東の門が開いていました。他の門は開いていませんでしたので、おそらく王子はこの門から外へ出たのではないかと・・・。」
「なんじゃと、見張りはどうしたのじゃ。見張りがいたはずではないか。」
「はい。見張りは、二人とも倒れていました。眠ったように倒れていたのです。」
「ふむ・・・。王子の部屋の前の見張りと同じか・・・・。で、その見張りは何も覚えておらんのか。」
「はい、兵長が尋問したところ、何も覚えていないと・・・・。」
「やはりそうか。・・・・鍵は、門の鍵はどうしたのじゃ。あの鍵は特殊な鍵じゃ。そう簡単には開かないはずじゃが。」
「それが、不思議なことに門は開いていたようです。」
「開いていたじゃと・・・。それは閉め忘れたんじゃろ。」
「いいえ、門番はすべての門を夕刻に閉め、鍵をかけたそうです。このことは、その刻限の見張りの者が覚えておりました。ちゃんと確認もしたそうです。」
「ではなぜ門が開いていたのじゃ。」
「それはわかりません。不思議としかいいようがありません。」
そこに、もう一人の兵士が報告に飛び込んできた。
「報告いたします。チャンダカがいません。王子の愛馬カンタカも見当たりません。」
「なんと・・・・。ということは王子は、カンタカに乗って東の門から外へ出た・・・・ということじゃな。」
「はい、そう思われます。」
「そうか・・・。早速国王に報告いたすか・・・。」

宰相からの報告を聞き、国王はため息を漏らしていた。
「なんと不思議なことよ・・・・。シッダールタの部屋の見張りをしていた衛兵も、東門の見張りをしていた衛兵も、全く同じように眠りこけていたのか。否、気を失っていたといったほうがいいか。」
「はい、そのようです。どちらの衛兵も、気を失う前にとてもよい香りが漂ってきたと言っています。この世のものとは思えないような、それほどよい香りだったそうです。その香りをかいだとたん、意識がなくなったようですな。そこから、ヤショーダラー様に起こされるまでの記憶がないというのです。門の見張りも同じです。起こされるまでの記憶は全くないというのです。」
「この世のものとは思えぬ香りか・・・・・。まさかな・・・・・。そうじゃ、あの鍵どうなっていたのじゃ。」
「はい、鍵はしっかりかけたそうですが、なぜか開いていたのです。鍵がかかっていたことは、鍵当番の兵、それまでの見張りの兵、そして交代した、気を失っていた兵たちが、それぞれ確認したので間違いないです。このものたちは、自信を持って鍵はかけたと主張しています。それがなぜか、はずれていました。」
「これも不思議じゃな。あの鍵は、触れば大きな音がする仕組みになっておるぞ。特に夜中は静かだから、あの鍵を開けようとするなら、城内中にその音が響くはずじゃ。そんな音は聞こえなかったぞ。」
「はい、確かにそんな音は聞こえませんでした。しかし、壊れていたわけではありません。確認いたしました。」
「わからん・・・・。何もかもわからん。まあ、よい。それもチャンダカが帰って来るまでじゃ。どうやって城から出たかはこの際問題ではない。どこへ行ったかが問題なのだからな。」
「はい、その通りです。チャンダカが戻り次第、尋問いたします。」
「ふむ。そうじゃな。チャンダカが戻ったら、すぐにワシの前に連れてこい。ワシが直々に問いただす。」
こうして、国王たちは、チャンダカの帰りを待つことになったのであった。

王子がいなくなった・・・・という噂は、あっという間に城下へも広まっていった。城下町は、騒然としていた。どこへ行っても、王子が出家したと言う話で持ちきりであった。
王子の出家を責めるもの、門番や見張りの衛兵、一緒に行方不明となっているチャンダが悪いのだ、というものもいた。その中には、王子の出家を褒め称えるものもいたのだが、それはほんのわずかであった。多くのもは、王子が国を捨てたことを怒り、チャンダカや見張りの衛兵・門番を処刑せよ、と騒いでいたのであった。

その騒ぎのせいか、あたりが闇に包まれた頃、ようやくチャンダカは、王子の愛馬カンタカと、王子の装飾品・髪の毛・剣とともに城へ戻ってきた。チャンダカは、すぐに兵士に捕らえられ、国王の前へと連れて行かれた。そのチャンダカの姿を見て、ヤショーダラーが
「チャンダカ、どういうことなの!、場合によってはあなたを許しませんからね。どうなの!、チャンダカ!。」
と掴みかかっていったのであった。あわてて兵士がとめに入り、国王がヤショーダラーがなだめたのであった。
「ヤショーダラーよ、汝の気持ちはよくわかる。がしかし、ここは落ち着いて話を聞くことが大事じゃ。話を聞くのが辛いのであれば、自室に戻ってもよいぞ。」
「いいえ、国王様、私は大丈夫です。シッダールタ様がいなくなった状況を私は聞きたいのです。ここにいさせてください。」
「そうか、ならば、静かに聞くがよい。」
シュッドーダナは、ヤショーダラーにそいうと、早速チャンダカに問いただすのであった。
「チャンダカよ、これまでのことをわかりやすく説明してくれ。何のことかわかるな。」
「はい、わかっております。王子様からも国王様や王妃様、ヤショーダラー様にお伝えするようにと、仰せつかっています。」
「よし、では話してもらおうか。」
「その前に、これは王子様から国王様方にお渡しするように言われたものですので、お渡しいたします。まずは、国王様へ王子様の首飾りです。」
チャンダカは、持っていた袋から首飾りを出して、横にいた兵士に渡し、国王に渡してくれるように頼んだ。兵士は、すぐさま国王に首飾りを渡した。
「こ、これは、王子の印である首飾りではないか。それをシッダールタは、返すと言うのか。」
「はい。王子様は『今日、出家しました。もうシッダールタ王子はいません。覚りを得てブッダになるまでは、戻ることはありません、と伝えてくれ。』とおっしゃいました。で、その首飾りを・・・・。」
「なんと・・・。やはりそうであったか。覚りを得てブッダになるまで帰らないと、そう言ったんだな。」
「はいそうです。それから・・・。」
チャンダカは、袋から今度は、一束の髪の毛と剣を差し出した。
「それは、髪の毛と剣・・・・。王子の・・・・か・・・。」
「はい、これはヤショーダラー様へとのことです。それで、王子様は、『私はもう死んだのだと思ってくれ、子供を大切に』と・・・・・おぉ、おぅおぅ・・・・。」
チャンダカは、そこまで言うと、泣き崩れたのであった。チャンダカの言葉を聞いて、ヤショーダラーの顔からは表情が消えていった。しかし、気丈にも
「そんなことだと思いました。王子は私や子供よりも出家の道を選んだのです。私たちのことなど、どうでもいいのです。自分のことのほうが大事なのでしょう。そんなものは私はいりません。私は、このお腹の子を立派に育てて見せます。そして、この国を大きく栄えさせて見せます。シッダールタ王子の力など借りなくてもね。」
と、いい残すと、席を立ってしまったのであった。その姿を見て、
「ヤショーダラーには、かわいそうなことをした。こんなことなら・・・・。否、せめてシッダールタの子が残ったことだけが救いか・・・・。」
と、国王は嘆くのであった・・・。

それからチャンダカは、自分が何かに導かれるように馬小屋に行ったこと、その馬小屋へ王子がやってきたこと、王子が城を出たいと言ったこと、引き止めたのであったが王子の決意が固かったこと、城の門がなぜか開いていたこと、門を出て東へと向かったことなどを語った。そして、部屋の見張りの兵や門番に決して罰を与えないようにと王子が言っていたことを伝えた。見張りの兵や門番が眠っていたこと、門の鍵が開いていたことなどは、シュメールの神々によるものだということも伝えたのであった。国王は、
「そうか、神々の力によるものか・・・・。ならば、納得がいくものよ。そもそもあのアシタ仙人は、シッダールタが出家すると予言していた。その通りになっただけのことじゃな。それがシュメールの神々の意思なのであろう。」
と自分に言い聞かせるように言ったのであった。
「なるほど・・・・。そうですな。神々の導きならば、兵士たちが嗅いだこの世のものとは思えぬよい香りも説明がつくし、鍵のことも納得できますな。」
「あぁ、そういうことじゃ。こうなっては仕方がない。シッダールタの出家が神の意思によるものならば、わしらにできることは、シッダールタが無事にブッダになれるよう、神々の加護を仰ぐしかないであろう。それに、城下の人々を集め、シッダールタの出家が神の意思によるものだと、報告せねばならぬしのう。」
「その通りです、国王様。早速手配いたします。」
宰相は国王の気持ちを察し、早速、城下の人々への報告を兼ねた、神々へ祈りをささげる儀式を執り行う準備を始めたのであった。

神々への祈りの儀式は滞りなく行われた。こうして、シッダールタの出家は誰も責めなくなった。また、王子の出家に関わった門番や見張りの兵、チャンダカも罰を受けることはなかったのであった。城下のものは誰もがそのことを納得したのであった。ただ一人、ヤショーダラーを除いては・・・・・。
「私は決して許さない。神の意思であろうと、何であろうと、私は許さない。わが子が国王となるまでは、私はシッダールタ王子を恨み続けるわ。この子が王となるまでは、私がシッダールタ王子の代わりをするのよ。」
と、ヤショーダラーは固く誓うのであった。

そして、もう一人、別の意味で王子の出家を喜ぶものがいた。
「そろそろ、俺にも運が向いてきたな。この国を我が物にしてやる。国もヤショーダラーも俺のものだ。ふふふふ・・・。」
それはダイバダッタであった・・・・。



 25.布 施
シッダールタは、一人森を歩いていた。夜はすでに明け、辺りには朝の柔らかな日が差し込んでいた。
「さて、どうしたらいいかな。まずは、この髪をきれいに剃ったほうがいいな。それに、この服装も何とかしないと・・・・。」
当時、出家をした修行者の多くは、髪の毛を剃り落としていた。また、修行者は、下着と上着、そしてその上に肩から掛ける一枚の布(袈裟)だけという粗末な格好であった。もちろん、靴も履いてはいない。それが修行者の姿だったのである。
「私はまだ、この贅沢な絹でできた衣装を身にまとっている。金で飾った靴も履いている。髪も少しは切ったとはいえ、これでは長すぎる。まずは、これらを何とかしよう。この森をマガダ国方面に歩いていけば、何とかなるだろう・・・・。」
シッダールタは、すべてを成り行きに任すことにしたのであった。

どのくらい歩いたであろうか。シッダールタは森を抜け、小さな集落に至った。ちょうどその村では、小さな川沿いで一人の男が子供たちの髪を切っているところであった。シッダールタは、その様子を見て、その男に近付き声を掛けた。
「すみません、その子供たちの髪を切り終えましたら、私の髪を剃っていただきませんか。」
声を掛けられた男は、シッダールタのなりを見て、
「何か礼をくれるのならいいぜ。」
と言った。シッダールタは、お礼に金の飾りがついた靴を脱いで差し出した。男は、ニヤリとすると、
「すぐ済むから待ってな。」
というと、子供たちの散髪をさっさとすましてシッダールタの剃髪に取り掛かった。
「あんた、大商人の息子かい? いい身なりをしてるねぇ。なんでまた剃髪なんぞするんだい。」
「出家したんです。家を出ました。修行をしようと思いまして・・・・。」
「ふ〜ん、あんたがねぇ・・・。見たところ、あまり丈夫そうじゃないが・・・。まあ、俺は礼さえもらえればいいんだけどな。で、誰の弟子になるんだい?。」
「それは・・・。まだ、決めていません。すばらしい聖者さんはこの近くにいますか?。」
「近くじゃないが・・・。この先にバイシャリー国があるだろ。そこの都に有名な仙人がいるらしいぜ。丸2日ほど歩けばいけるだろ。しかし、その身なりじゃあな。もっと修行者らしい服装が必要だな。まあ、バイシャリーに行くまでには何とかなるだろうけどな・・・・。」
その男は、含みのあるような言い方をした。しかし、シッダールタはそのことは気に止めず、服装も手に入るのだと知り、バイシャリーの仙人を目指すことにした。

頭を剃ったシッダールタは、バイシャリーを目指して歩き出した。その日も暮れたころ、シッダールタは小さな泉のある森にいたり、そこで休むことにした。
夜中のことであった。シッダールタが休んでいると、そこにそっと忍び寄る者がいた。その男は、横になっているシッダールタに声を掛けた。
「おい、そこのお前、起きろ。金を持ってるか?。」
シッダールタが起き上がると、その男は驚いてシッダールタに言った。
「なんだお前、修行者か? 否、それにしてもいいものを着てるじゃねぇか。しかし、頭は剃っているし・・・。お前、何ものだ?。」
「あぁ、そうですね、私は修行者です。否、修行者になったばかりなのです。今日の昼頃に頭を剃りました。バイシャリー国の有名な仙人に弟子入りしようかと思っているんです。あなたは・・・?。もしや盗賊ですか?。」
シッダールタはあわてて起き上がって身構えたが、その男は「まあ待て待て」とニヤニヤしながら言うと、そこに座り込んで話し始めたのだった。
「なんだ、修行者になりてぇってヤツか。ふん、どうせ、家にいるのが嫌になったんだろう。働くのが嫌いなんだろ?。あぁあぁ、わかってるって。俺も昔はそうだったんだ。で、ある聖者に弟子入りしたんだが、働くことができねぇヤツに修行者の生活はできねぇ。怠け者にはできねぇことだ。厳しいぜぇ。ここいらにゃあ、一度は修行者となって、聖者に弟子入りしたが、あまりの厳しさに逃げ出してきたヤツがいっぱいいる。そいつらは、みんな盗賊になってるがな。はっはっは〜。俺もその一人だけどよ。はっはっは〜。で、どうするんだ? 本気で仙人に弟子入りするのか? それならいい仙人知ってるぜ。」
「本当ですか?。ぜひ教えてください。本気で修行したいんです。」
「へぇ〜、そうかい。じゃあな、この先のバイシャリー国の都にいるアーラーダカーラマ仙人を尋ねな。そいつがこの世で一番か二番の聖者だ。マガダ国の何とかという聖者といい勝負って所だな。昔は、アシタ仙人ってぇのがいたけど、あの仙人は滅多に弟子をとらねぇし、住んでる方向が逆だな。あの仙人はシュメール山のほうだったからな。ま、アーラーダカーラマのところに行けば、間違いはねぇよ。」
「ありがとうございます。助かりました。アーラーダカーラマ仙人ですね。明日、尋ねてみます。あぁ、そうそう、アシタ仙人ですが、亡くなられましたよ。」
「ほう、そうかい。ふ〜ん。まあ、そんなことはどうでもいいんだけどな。ところで・・・・。お前、いくらなんでもその格好じゃあ、弟子にはなれねぇぞ。身に着けているものが豪勢過ぎる。お前の家は、相当金持ちなんだな。ふっふっふ。どうだい。俺が着ているものと交換しねぇか。否なに、俺はもと修行者だろ。この格好もその時のままなんだよ。修行者は、俺みたいに下着、上着、それからこの袈裟だな、これだけを身に着けるんだ。知ってるか?。俺もな、いつまでもこんな格好してるわけにはいかねぇ。もう修行者じゃねぇからな。で、どうだ、交換してくれるよな。俺も助かるし、あんたも助かる。ま、別に嫌だって言うのなら、他に方法もあるしな・・・。」
男はそういうと、ニヤニヤしながら、腰に下げた剣をちらつかせた。しかし、シッダールタにとっては、こんないい話はない。断る理由はなかった。
「もちろん、喜んで交換させていただきます。私も、あなたが着ているような服装が欲しかったところです。ちょうどいい。交換しましょう。」
こうして、シッダールタは修行者崩れの盗賊らしき男と、身に着けているものを交換したのであった。
「ほう、お前さん、なかなか似合っているじゃねぇか。どっから見ても立派な修行者だ。それならこの先も安心だ。」
「どういうことなんですか?」
「さっきも言ったが、この先、バイシャリーまでの道のりには、修行者崩れの盗賊がいっぱいいる。しかし、そいつらは修行者には手は出さねぇ。そいつらも元修行者だ。ま、仲間意識っていうのかな。どっちにしても修行者は何も持ってねぇしな。襲ったところで盗る物もねぇ。でもな、こんな豪勢なものを着てりゃあ、すぐに襲われるぜ。下手すりゃ殺されちまう。あんた、運がよかったよ。今夜、俺と出会ってな。ここで修行者の服装を手に入れてなきゃ、明日は死体だ。ま、しかし、その姿なら、安心してバイシャリーまで行けるさ。そうそう、野宿するときは、火を焚いたほうがいいぜ。獣が襲ってくるといけねぇからな。」
「親切にありがとうございます。気をつけて行きます。」

男は、シッダールタが身に着けていた物を撫で回して見ていた。
「おう、気をつけて行きなよ。それにしても豪華な衣装だな。生地は絹だし、本物の金糸や銀糸、宝石類がついている。お前の家は、たいしたもんだな・・・。どこから来たんだ。」
男は欲が出たのであろう。あわよくば、この修行者になりたての男の実家に押し込み強盗に行こうとでも思ったようだった。シッダールタは、その様子に気付いて、事実に近いことを言った。
「私は、とある国の王族の一人なのです。ですから、商家ではありません。」
「な、なんだ、そうか。王族なのか・・・。いいのか?、王族の一人が出家なんぞしても。それにこの服、本当に交換してもよかったのか?。」
シッダールタが王族であると聞いて、男の態度が急に変わった。シッダールタは、それがおかしくて、笑いながら答えた。
「あぁ、大丈夫ですよ。王族であっても出家したいものはいるんですよ。安心してください。この服は、交換したものです。何の心配も要りません。」
「そうか・・・。ふ〜ん、まあ、ありがとうよ。おぉ、そうだ。これをやろう。火打石だ。」
男は、火打石をシッダールタに渡すと、これからは寝るときは必ず火をつけるように言い残し、去っていった。シッダールタは、こうして出家者の姿となったのである。シッダールタは、静かにシュメールの神々に感謝の祈りをささげたのであった。

翌日、シッダールタはバイシャリーに向かって、再び歩き出した。修行者の姿をしているため、食事には困らなかった。誰か彼か、食事を布施してくれるのである。しかも、シッダールタが食事を入れる托鉢用の鉢を持っていないとわかると、家にあった鉢を譲ってくれるものまでいたのであった。
「ありがたいことだ。私はまだ、何もしてはいないのに、誰の弟子になったわけでもないのに、修行者の姿をしていると言うだけで、このように布施をしてくださる人々がいる。こうした善意の人たちのためにも、必ずや覚りを得て仏陀になろう。そして、人々を安楽に導くのだ。人々から苦しみを取り除くのだ。そうだ。苦しんでいるのは私一人だけではないのだから。この世に生きている人々、この世で苦しんでいる人々のためにも、私は覚りを得よう、仏陀となろう・・・。」
新たに決意を固めるシッダールタであった・・・。


つづく。



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