ばっくなんばー6


 26.失 意


カピラバストゥの城を出て3日ほどがたった頃、シッダールタはバイシャリー国の都についていた。
「さて、アーラーダカーラーマ仙人のところへ行って、教えを請うことにしよう。」
シッダールタは、早速アーラーダカーラーマ仙人のところに向かい弟子入りを申し込んだ。
「そうか、ワシの弟子にな・・・。ふむ、見たところ、なかなか素質があるようだ。よいか、ワシの教えは、空(くう)じゃ。この世界は一切が空、ということを悟るのじゃ。この世が空であると悟れば、何も悩むことはない。一切は空なのだからな。さぁ、空であることを瞑想するがいい。」
そういわれてシッダールタは、一人静かに瞑想し始めた。それは、日が沈んでも続いていた。

翌日のことである。シッダールタは、アーラーダカーラーマ仙人に告げた。
「仙人、空を悟りました。」
他の弟子たちの間から、そんな馬鹿な・・・と言う声が漏れ聞こえてきた。
「な、なんじゃと。ワシが長年かかって悟ったことを、おまえはたった一晩で悟ったというのか。」
「はい、そうです。」
アーラーダカーラーマ仙人は、シッダールタの眼をじいっと見つめた。
「うぬぬぬ・・・。どうやら本当のようだな。そうか・・・・。お前は、ワシを超えるのかも知れんなぁ・・・。」
仙人の言葉を聞いて、再び弟子たちから驚きの声があがった。この後、弟子たちは、仙人とシッダールタの会話の間に驚きの声や唸り声をあげ続けることになるのだった。

「どうじゃ、ワシと一緒にこの大勢の弟子を率いてはみないか。」
「それはお断りします。」
「なぜじゃ。お前は、今日から師になるのだぞ。それも弟子入りして、たった一日で。こんな名誉なことはないであろう。」
「空を悟ったところで、私の悩みが解決できたわけではないからです。世界の一切は空、では、完全な真理とはいえないのです。」
「ど、どういう意味じゃ。ワシの教えに不備な点があるというのか。」
「はい。アーラーダカーラーマ仙人様は、空を悟られた優れた仙人ですからあえて言います。空では不完全なのです。」
「なんじゃと・・・。」
「確かに世界の一切のものは空でしょう。すべてはいずれ滅ぶものであるし、そういう意味ではそのものには実体はない。ですから、一切は空であることは正しい。」
「そうじゃ、そうじゃ。この世の存在に実体はない。すべては無へと導かれる。であるから、一切は空じゃ。」
「ならば、空であると悟った瞬間に、それは空になるのではないですか?。一切が空であるなら、空であると悟ったことも空でなければならないはずです。でないと、空であると悟ったことに矛盾が生じてしまいます。空はあくまでも空。どこまでいっても空でなければならない。となれば、空と悟ったということは空ではなくなってしまうと言うことでしょう。」
「うっ、そ、そうか・・・。確かに、空であると悟れば、その時点で空と悟ったことも空になる。空だと悟ったと思った瞬間に、空ではなくなっているわけだな。むむむむ・・・。そ、そうか・・・。確かにそうじゃな。」
「それに、です。空とは言いますが、実際には、この肉体もこの大地も、私もあなたも存在しています。空だからといって殴ったりしてもいいわけではありません。ここに矛盾が生じます。」
「空ではあるが、不空であると・・・・。なるほど、空ではあるが、現時点では空ではない。実体はないが仮の姿は存在している。空ではあるが不空であるということを矛盾なく説明することができなければ、それは不完全じゃな。」
「そうです。さらに、空であることを悟ったとしても、私の悩みである、なぜ人は生まれ、年をとり、病にかかり、死するのか、なぜ、様々な苦しみを受けなければならないのか、なぜ身分が違って生まれてくるのか、などといった疑問には答えてはくれません。確かに空であると瞑想している間は、その空の中に溶け込んでしまい、この上ない平安を得られるのですが、根本的な解決にはなっていません。ということは、これは真理ではないのです。真理ならば、すべての疑問に答えてくれなければならないからです。」
「わ、わかった。お前が求めていることは・・・・どうやら、ワシには届かないところのようじゃ。ワシのもとにいても仕方があるまい。好きな所へ行くがよい。しかし、お前の疑問に答えてくれる者は、いないであろうな・・・・。」
「では、申し訳ないですが、失礼致します。」
「もし、お前がお前の疑問に答えられる真理に行き当たったら、ワシに教えてくれないか。よろしく頼むぞ。」
「はい、わかりました。私が真理に行き着いた時には、真っ先にその真理を説きに来ます。それまで、ぜひお元気で・・・。」
こうしてシッダールタは、たった一日でアーラーダカーラーマ仙人のもとを、失意とともに去ることになったのであった。

弟子たちは、この二人の会話にあっけにとられていた。その弟子を見て、仙人は言った。
「皆のもの、シッダールタの話を聞いて理解できたものは、彼についていくがいい。彼が新しい師となってくれるであろう。理解できぬものは・・・・、そうじゃな、少しでも近づけるように、まずは空を悟ることじゃ。さぁ、理解できたものはおらぬか。」
弟子たちは誰一人立とうとするものはいなかった。みな、恥ずかしそうに下を向くばかりであった。
「そうか、そうだろうな・・・。一人くらいいてもよさそうなものじゃが・・・。まあよいわ。さて、我等は我等なりに瞑想しようか。」
アーラーダカーラーマ仙人は、苦笑いしながら、弟子たちに声を掛けたのだった。

シッダールタはマガダ国を目指した。
「やはり大国のマガダ国へ行くほうがいいだろうな。確か、あの盗賊もマガダ国には有名な仙人がいるといっていた。私の誕生会に来ていたマガダ国の使者も、マガダ国には多くの修行者がいるといっていた。マガダ国へ向かってみよう・・・。」
シッダールタは、再び歩き出したのであった。

3日ほど後、シッダールタは、マガダ国の都ラージャグリハ(王舎城)に到着していた。その都は、カピラバストゥの比ではなかった。行きかう人の数も違えば、建物の数も大きさも比べ物にはならなかった。バイシャリー国の都は、まだ小国の都らしく、カピラバストゥと同じようなものだった。しかし、この地は・・・・巨大都市だったのである。
「これは・・・。大きな都だ。若いときに訪れたコーサラ国の都に匹敵するくらいだな。ここなら、すばらしい師と出会えるかも知れぬ。どの師がよいのか、聞いてみよう・・・。」
シッダールタは、街の中で托鉢をしながら、評判のよい仙人について訪ね歩いた。情報はすぐに得られた。どの家でも、マガダ国一の仙人は「ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人だ」と言う答えだった。シッダールタは、その言葉に従って、ウドゥラカラーマプトラ仙人のもとを訪れることにしたのだった。

その日の午後のこと、シッダールタはウドゥラカ・ラーマプトラ仙人に弟子入りを願い出た。
「ふむ・・・。ワシの弟子になりたいと言うのか。見ての通り、ワシには大勢の弟子がいる。一人一人指導することは、なかなかに難しい。これらの弟子たちも、未だワシの境地に達したものはおらぬから、ワシの代わりに指導することができぬのじゃ。それでもよければ、弟子になることを許そう。」
「はい、それでも構いません。ぜひ、教えを与えてください。」
シッダールタは、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人に頼んだ。
「よろしい。ワシの教えは、唯一つ。非想非非想じゃ。どうじゃ、わかるか。想わざる、想わざるにあらず・・・じゃ。その境地、おぬしにわかるかな。まあ、よく瞑想することじゃ。」
シッダールタは、早速、大勢の弟子たちが瞑想している末席に座り、静かに瞑想を始めた。
「非想非非想・・・・。想わざる、想わざるにあらず・・・・。」

日が沈みかけた頃、シッダールタはおもむろに立ち上がり、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人のもとに行って
「仙人、非想非非想の境地を得ました。」
と告げたのだった。
「な、なに〜?。たった半日で・・・か。ま、まさか。おぬし・・・・。」
ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人は、シッダールタの眼を穴があくほど見つめた。
「な、なるほど。真実、ワシの境地に至ったようじゃな。よし、その境地を述べてみよ。皆のものも聞くがよい。」
「非想非非想・・・・。まずはこの世の現象に関し、すべてを想わざることです。この世の現象すべてに対し思考しなければ、世界で起こる現象すべてにこだわることはなくなります。こだわりがなければ悩むこともなくなります。すべてに対し想わないのだから、そこには悩みと言う思考すらないのです。ただし、その時点では、想わない、という思考が残ってしまいます。想わないはずなのに、想わないという思考がある、というのは矛盾します。そこで、さらに想わないことも想わないという境地に達すれば、想わないということも想わなくなる。言葉の上では、単に想わないことを想わない、となるので、もっと突っ込めば、想わないことを想わないことも想わない・・・・と、永遠に言葉を重ねるだけですが、思考上はそうではありません。想わない、思考しないという思考すら消し去れば、非非想に至るのです。そうすれば、この世での現象すべてに左右されることはなくなり、何の不安もなくなり、堅固たる境地を得られるのです。」
「おぉ、すばらしい。確かに、おぬしはワシの境地に達しておる。どうじゃ、ワシとともに、弟子たちを導いていかぬか。」
「残念ですが、それはお断りします。なぜなら、仙人の教えである非想非非想では、私の疑問には答えが出ないからです。」
「おぬしの疑問じゃと?。それはなんじゃ。」
「はい。私は、人はなぜ生まれるのか、なぜ老いるのか、なぜ病気に罹るのか、なぜ死するのか、なぜ人に生まれるのか、なぜ動物や他の生き物に生まれるのか、なぜ身分は生じるのか、なぜ苦しみを受けるのか、なぜこんなにも生きていくうえで差が生じるのか・・・・、それについての答えを求めているのです。非想非非想では、思考を消し去るだけですから、疑問自体は消えてしまうし、悩むこともなくなるのですが、それは無くなったというだけで解決にはなってません。私は、答えを求めているのです。疑問を消し去ることを求めているのではありません。」
「な、なんと・・・・。そのような疑問に対する答えなぞ、ないのではないか。・・・・否、伝説のブッダになれば・・・。ブッダはすべての真実を知るものじゃ。すべての疑問にも答えることができる聖者じゃ。もしも、ブッダになることができれば・・・・。」
「では、私はブッダを目指します。」
「しかし、ブッダは伝説じゃ。おぬし・・・・。」
ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人は、シッダールタをじいっと見つめた。
「なれる・・・のかも知れぬ。おぬしなら、伝説のブッダになれるかもしれぬ・・・。しかし、道は険しいぞ。志半ばで死することもあるぞ。それでもよいのか?。」
「覚りのためなら・・・・。」
「そうか、では、ここにいる必要はない。おぬしはおぬしの道を行くがよい。」
そうシッダールタに告げると、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人は、多くの弟子たちに向かって言った。
「このシッダールタの話を聞いて理解できたものはいるか。もし、いるのなら彼についていくがよい。そういうものは立ち上がれ。」
弟子たちは誰も反応しなかった。
「どうやら、ワシの弟子におぬしの境地にまで達したものはいないようじゃ。では、気をつけていくのじゃぞ。もし、ブッダになれたなら、ワシを導いておくれ。たのんだぞ・・・。」
「仙人もお元気で。では、これで失礼します。」
こうして、シッダールタは、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人のもとを去ったのであった。

「ここでもだめだったか・・・・。仕方がない。一人で修行するしかないのか。人に頼っていてはいけないのであろう。さて、この先どうすればいいのか・・・。」
シッダールタは、重い失意を抱えながら、ひとりとぼとぼと歩いて行った。その先には、マガダ国の都の郊外にあるパーンダバ山が見えていた。


 27.友 情

シッダールタは、パーンダバ山の中腹の洞窟に一人いた。アーラーダカーラーマ仙人やウドゥラカ・ラーマプトラ仙人の教えでは結局何も解決せず、とりあえず一人で修行することに決めたのであった。シッダールタは、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人の元を去った後、この洞窟を見つけたのである。
「ここは静かだ。ここで一人で瞑想するしかないのだろうか・・・・。」
こうして、パーンダバ山の洞窟での生活が始まったのであった。

シッダールタは、午前中はラージャグリハの街で托鉢をし、午後からは洞窟の中で瞑想をする、という一日を過ごしていた。幸いにも近くに山水も流れており、何事においても不自由はなかった。
シッダールタの噂は、すぐに街に広がっていった。街の人々は、シッダルタの姿を見て、
「ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人をやり込めた立派な修行だ」
「ひょっとしたら天界の神の生まれ変わりかも知れない」
「歩く姿が神々しいから、神の使いだ」
「大切にしないと、罰が当たる」
などと、噂しあっていたのであった。

ある日の朝のこと、マガダ国のビンビサーラ王の一行が、鹿狩りに向かうため、ラージャグリハの街を行進していった。その時のことであった。外を眺めていたビンビサーラ王が突然叫んだ。
「おい、馬車を止めろ。」
そして、側近に聞いたのだった。
「あの托鉢をしている修行者誰だ。」
「あぁ、あの修行者ですか。何でも街の噂では、最近この街にやってきた修行者らしいです。噂ではありますが、ウドゥラカ・ラーマプトラ仙人をも説き伏せてしまったとか、天人の使いのものだとか・・・・。」
「なんと、あのウドゥラカ・ラーマプトラ仙人をか・・・。う〜ん、天の使いなぁ・・・。あの相といい、あの姿といい、それはあり得ることかもしれないな。あの修行者には、王者の風格があるし。もしや、伝説の転輪聖王かも・・・・・。いや、まさか・・・・。おい、あの修行者がどこに住んでいるか確かめよ。よいな。今すぐだ。鹿狩りは中止だ。城に帰るぞ。」
ビンビサーラの一行は、鹿狩りを中止して、城に戻ってしまったのであった。

その日の昼過ぎ、ビンビサーラ王の元に知らせが届いた。
「ご報告いたします。王様のお探しの修行者は、パーンダバ山中腹の洞窟に、一人で寝起きしていることがわかりました。午前中は街で托鉢、午後からは、毎日、洞窟の中で一人で瞑想をしているそうです。」
「そうか。よし・・・・。おい、これからパーンダバ山に向かうぞ。馬車の用意を!。」
こうして、ビンビサーラ王は、シッダールタがいるパーンダバ山に向かったのであった。

再び、ビンビサーラ王の一行がラージャグリハの街を通り過ぎていった。しかし、その一行は、鹿狩りの行われる野山の方向ではなく、パーンダバ山に向かっていたのであった。
パーンダバ山の麓に着いた一行は、国王の乗る輿を用意し始めたが、ビンビサーラ王はそれを止めたのだった。
「輿は要らぬ。私ひとりで向かう。お前等はここで待っておれ。」
「そ、それは危険です。足元も不安ですし、もしものことがあったなら・・・。」
「ばか者。私は、修行者に会いに行くのだ。輿に乗ってなど、そんな失礼なことができるか。よく見ろ。毎日、その修行者が歩いているためだろう。ちゃんと、道がついているではないか。」
たしかに、そこには道筋がついていた。それは、シッダールタが毎日、洞窟と街を往復するためにできた道であった。
「この道をたどっていけば、その修行者に会えるに違いない。おい、この剣を持って待っておれ。こんなものは不要だからな。おい、その布を取れ。修行者には、布は大切なものだ。これを持っていく。私が帰って来るまで、ここで待っておれ。よいな。」
こう言い残して、ビンビサーラ王は、洞窟へと向かったのであった。

「修行者よ。瞑想中に邪魔をして申し訳がない。ぜひ、お会いしたくて、こうして参ったのだ。話をさせて頂いてもよいであろうか。」
「あなたは・・・・。言葉遣い、身なりからして、この国の王子様でしょうか。」
「いや、私はビンビサーラ王です。この国の国王です。」
「あなたが・・・。お噂は聞き及んでいます。若き善王ビンビサーラの名は、遠くの小国にも聞こえていますよ。で、その国王様が私に何の用でしょうか。」
「あなたの姿を見て、私はすぐに思い至った。あなたには、国王の風格がある。ぜひ、わがマガダ国の宰相として、いや、私に代わって国王となってはくれまいか。」
「なんということを。一国の、この大国の国王が口にしてはならぬ言葉です。そのようなことは、お口になさらないほうがよいかと思いますが。」
「いや、あなたこそ、王者だ。いやいや、あなたなら、あの伝説の転輪聖王になれる。その相を持っていらっしゃる。かつて、私は聞いたことがあるのだ。あなたのような相を持ったものは、伝説の転輪聖王であると。お願いだ。このマガダ国を統治してもらえまいか。」
「なぜ、そのようなことを・・・。あなたは、まだ若いではありませんか。それに、あなたこそ王者の風格が備わっている。マガダ国は平和で繁栄しているではありませんか。国民も明るい顔をしている。これは、善政の証拠でしょう。何が不安なのでしょうか。」
シッダールタの一言に、ビンビサーラ王は、しばらく黙り込んでいたが、厳しい眼をすると、心のうちを吐露し始めたのであった。

「・・・・・確かに、国は繁栄している。しかし、それは私の力ではない。民衆の力なのだ。私は何もしていない。それどころか、私は他国からの脅威、他国との外交に疲れているのだ。迷っているのだ。私はまだ若いうちに国王になってしまった。父王が早くに亡くなってしまったからなのだが、そのために私にはわからないことだらけなのだ。周りの大臣たちは、善人ばかりなので私を多いに助けてはくれる。しかし、私の考えとはどうも合わない部分があるのだ。それは・・・・。
それは、一つには身分のことだ。大臣たちは伝統を重んじる。しかし、私は、身分よりも実力を重視したいのだ。これからの世は、実力が問題になる。無能な身分の高いものよりも、身分は低いが有能なものを登用したいのだ。しかし、大臣たちは・・・・。それに、伝統を無視した政治をすれば、他国との摩擦も生じやすいかも知れぬ。どうすればよいのか・・・・。王というものは、毎日毎日迷いの中にある。苦悩ばかりだ。気の休まることなどない。
どうか、お願いだ。私の代わりに国王になってもらえないなら、せめて私とともにこの国を治めてはくれないだろうか。いや、私の相談役でもかまわない。お願いだ。私を助けて欲しいのだ・・・・。」

シッダールタは、悲しそうな眼をして、ビンビサーラに話しかけた。
「国王よ。その願いは、今はかなえることはできない。私には私の目的があるのだから。」
「あなたの目的・・・・。」
「ここから、北のほうにカピラバストゥという釈迦族が治める小さな国がある。確か、今年の春、マガダ国からも使者の方が来られたはずです。私は、その国の者なのです。」
「えぇ?、では、も、もしや・・・・。あなたは、ひょっとして釈迦国の・・・・?」
「そうです。私は、釈迦国の王子、シッダールタです。いや、元王子ですね。私は釈迦国を捨ててきたのです。国だけじゃない、親も妻も、そして子も・・・・すべて捨ててきたのです。その者が今更、国を統治するなど・・・・。あり得ないことです。」
「なぜ・・・・。なぜ国を捨ててまで、このような生活を送っているのですか・・・。釈迦国は豊かで平和な国であったはず。それこそ、理想の国家と思っていたが・・・・。」
「あなたに悩みがあるように、私にも悩みがあるのですよ。その悩みを解決するには、出家以外の道はなかったのです。」
「それは、どんな・・・・。」
「私の悩みは、人はなぜ生まれ、老い、病にかかり、苦しみ、そして死んでいくのか。身分はなぜ生じるのか、なぜ人には幸不幸の差があるのか、苦しみの原因はなんなのか、それを見つけたいのです。」
「そ、それは・・・・。そんな深い悩みには答えはないのではないですか?・・・・・あ、いや、かつて聞いたことがある。真理を覚ってブッダになれば、すべての疑問に答えが出せると・・・。ま、まさか、あなたはそれを目指して?」
「そうです。私はブッダを目指しています。私の悩みに答えることができるのがブッダしかいないのなら、そしてそのブッダが、この世にはいないのなら、私がブッダを目指すしか仕方がないでしょう。もし、私よりも早くにブッダが現れたなら、それは幸いなのですが。」
「な、なんと・・・・。そうとも知らず、私はなんと失礼な願いをしてしまったことか・・・・。それに比べれば私の悩みなど小さなものだ。恥ずかしい限りだ・・・。」
「いや、そうではないですよ。人の悩みに大小などありません。あなたの悩みは、深いものだと思います。今は、私はあなたの力にはなれませんが、いつか、あなたの悩みを和らげることができるかもしれません。私の修行が完成すれば・・・の話ですが。」
「おぉ、そうか。そうですね。もし、あなたがブッダになったなら、ぜひこのマガダ国へいらしてください。そして、私の悩みを解決してください。約束しましたよ。お願いですよ。」
「はい、約束しましょう。私が覚りを得てブッダになったなら、必ずこの地に来て、ビンビサーラ王、あなたの悩みを安らぎに導きましょう。」
「おぉ、なんとありがたいことだ。そうだ。修行に専念できるように、毎日ここへ食事を運びましょう。そうすれば、托鉢に出る時間が修行に当てられる。いい考えではないでしょうか?。」
「国王よ、その申し出はありがたいのですが、私はここを出て行くつもりです。」
「な、なんと・・・・。それでは、私は、もうあなたに会えないのですか?・・・・ここでは、修行はできない・・・そういうことですか?。」
「はい、ここは街に近すぎます。托鉢には便利なのですが、瞑想には不向きでしょう。それに、街で話を聞いたのです。多くの修行者が集まっているところがあると。そこには、たいそうな聖者もいるらしいと。」
「それは、どこなのですか?。ここから遠いのでしょうか。」
「そうですね、この先のウルベーラーです。」
「そ、そこは・・・・噂に聞く苦行林・・・では・・・。」
「はい、このような生ぬるい生活をしていては覚りは得られないのかも知れません。一度、苦行林に行って、修行をしてこようと思うのです。」
「しかし、あの地は、死者も多く出るとか・・・・。死んでしまっては、何にもならないでしょう。」
「大丈夫です。私は死なない。必ず、ブッダとなってこの地に戻ってきます。約束しますよ。」

ビンビサーラ国王は、シッダールタと固く約束をかわして、パーンダバ山を降り、城へ帰って行ったのであった。ビンビサーラも、シッダールタも、お互い年が近い上に、身分的にも同じであったため、心に通じるものがあったようであった。シッダールタには、ビンビサーラの悩みがよく理解できた。二人の間には、静かな友情が芽生えたのであった。


 28.苦 行

ビンビサーラ国王と会った翌日、シッダールタはネーランジャラー河にそって、ウルベーラー村を目指して歩いていた。歩きながら、シッダールタは修行について考えていた。
(たとえば、生の木と乾いていない牛糞を水溜りの上に置き、火をつけようとしても無理なことだ。修行者の気持ちが、修行に対して真剣でなく、徹底してなく、欲望の水に浸っていては、到底修行は完成しない。
また、生の木と乾いていない牛糞を乾いた地面に置き、火をつけようとした場合、これは困難なことである。しかし、木や牛糞は乾いた地にある。だから、やがて火はつくだろう。だが、それには時間が必要だ。つまり、いくら欲望の地を離れ、修行に専念しても、修行者の気持ちが生半可であっては、覚りを得るには時間がかかり、下手をすると修行者は死んでしまう。
では、乾いた木と乾いた牛糞を乾いた地に置き、火をつけようとしたらどうだろう。火はすぐにつくに違いない。修行も同じだ。修行者の気持ちが徹底していて、真剣で、欲望を離れ、修行に相応しい地にあれば、覚りを得ることはできるであろう。
ウルベーラー・・・・。そこは苦行の地だ。修行するには相応しい地である。あとは、己の精神、気持ちの問題だな。
覚りのためには、何をも恐れてはならない。苦行・・・やるしかないのだ・・・。)
シッダールタは、苦行をすることに、決意を新たにするのであった。

しばらく進むと、ウルベーラーの村に着いた。
「苦行林はこの先ですか。」
シッダールタは、村の老人に尋ねた。
「あぁ、この先じゃ。あんた苦行林に入るのかね。その身体でもつのかねぇ・・・・。そうじゃ、そこの鉢を持っていきなされ。托鉢用の鉢がないと困るじゃろ。」
「はい、ありがとうございます。・・・・では、この鉢を頂いてきます。それでは・・・。」
シッダールタは、粗末な鉢を一つ持って、苦行林へと向かっていった。

村からほんの少し歩いたところ、ネーランジャラー河からもそんなに離れていないところにその森林はあった。シッダールタは森林の奥へと入っていった。
「誰だ、あれは・・・。ふ〜む、なかなかいい面構えをしてるな。」
森林の奥、少し広場になっているところに、修行者が五人、かたまっていた。
「ほう・・。新しい修行者だな。ちょっと、試してやるか。」
「そうだな。ここの決まりも教えなきゃいけないしな。お〜い、君〜。君だよ。こっちへこないか。」
その修行者はシッダールタに声をかけた。
「君は、ここに来るのは初めてかい?。」
「えぇ、初めてですけど。あなたたちは・・・・。」
「我々は、ここで修行をしている者だ。ふ〜ん、なかなか修行してきたようだな。しかし、華奢だな。ここの修行は厳しいんだが、耐えられるかねぇ・・・。」
「どうやら、あちこちの仙人や聖者のもとで修行したようだな。だが、満足できなかった・・・・。そうだろ。」
「はい、そうですが・・・・。わかりますか。」
「コーンダンニャは、ほんの少しだけど神通力があるんだよ。」
「アッサジ、ほんの少しは余分だ。そうだ、自己紹介をしておこう。まあ、ここへ座るがいい。私はコーンダンニャという。この五人の中では、最年長だ。」
コーンダンニャに続いて、他の四人がそれぞれ自己紹介をした。
「私はバッパといいます。よろしく。」
「私は、バッティアです。」
「私は、マハーナーマといいます。」
「私は、アッサジと申します。この中では最年少です。」
「私は、シッダールタと申します。29歳になりました。よろしくお願いいたします。」
シッダールタは、五人に名乗った。
「シッダールタとやら。ここに来たからには、覚悟はできておるだろうな。ここでの修行は、単なる瞑想ではない。はっきり言って、苦しみの伴うものだ。苦行だな。この地のことを人々は苦行林という。」
「はい。その噂を聞いてここに来たのです。覚悟はできております。」
「そうかそうか、ならばよい。では、ここでの決まりごとだけ教えておこう。ここでは、食事は托鉢以外はしてはならない。水は、この森のいたるところに湧き水があるから、それを自由に使ってよい。沐浴は、池かネーランジャラー河へ行けばよい。食事時間は、午前中のみだ。午後からの食事は厳禁だ。あとは、そうそう、当たり前のことだが、女性と関わりあってはいけない。ここからウルベーラーの村は近い。たまにだが・・・・。否、ほんのたまにだが、この苦行林を抜け出して、村の女性の元に通ってしまう修行者がいる。そういうものは、ここから追放する。君も気をつけるがいい。見たところ、華奢ではあるが、う〜ん、なんというか、女性の気を引きそうな、そういう要素があるからな。くれぐれも女性には気をつけるように。
この決まりを守れるというのなら、シッダールタ、君をここへ迎えよう。」
「もちろん守ります。規則には従います。」
「そうか、よし。では、みんな、この者を仲間に迎えようではないか。」
コーンダンニャの言葉に他の四人はうなずいたのであった。

「ところで・・・」
バッパがシッダールタに質問をした。
「君は、何を目指してるんだい?。神通力を身につけるのかい?。それとも帝釈天になりたいのか?。」
「いや、私は、そういうものを目指しているわけではありません。私には悩み・・・疑問ですね・・・それがありまして、その答えを求めているんです。」
「ほう、疑問ですか。それはどんな疑問なのでしょうか。」
マハーマーナが尋ねた。
「私の疑問は・・・・。人はなぜ生まれ、老い、あるいは病にかかり、そして死を迎えるのか。人の幸・不幸はなぜおこり得るのか。身分の違いはなぜあるのか。世の中の様々な苦しみはなぜおこるのか。それを超えることはできないのか、ということです。私は、長年そのことに対する答えを求めてきました。」
このシッダールタの言葉に、五人の修行者は驚いたのであった。
「おいおい、その答えを出せるのは、伝説の聖者、究極の聖者であるブッダだけだぞ。君は、それを目指すというのか?。」
「ブッダでなければ、その答えがわからないのなら、そして、今ブッダが存在しないというのなら、私がなるしかない、そう思ってます。」
「ハ〜ッハッハッハ、こいつはいい。たいしたもんだ。」
コーンダンニャは、大笑いしていった。
「まあ、ブッダになれるかどうかは別にして、ブッダを目指すのはいいんじゃないか。目標は大きいほうがいいからな。それに、君の疑問に答えるには、ここはちょうどいいかも知れぬ。ここには苦しみがいっぱいだからな。」
「ハッハッハ、それは言えてるな。苦しみを超越するための修行は、ここではうってつけだ。」
「そうだな・・・。どうだ、シッダールタ、ここでどんな修行がされているか、ちょっと見てくるかい?。ブッダになろうというのなら、他の連中がやっているような苦行より、さらに苦しい修行をしなきゃいけないだろう。参考に見回るといいよ。」
「そうですね。私には苦行のしかたがわかりません。他の方の苦行を見て参考にするのはいい案ですね。」
「そうか。じゃあ、見てくるがいい。さぁ、我々も話はもう終わりだ。それぞれ苦行に専念しようか。」
シッダールタは、五人に礼を言うと、その場を立ち去り、苦行林のさらに奥へと入っていった。その後姿を見て、バッティアがつぶやいた。
「ブッダだってさ。はっ!、大きいことを言ったよな。」
「いいじゃないか。ま、いつまで耐えられるか、見ものだよ。」
「ははは。すぐに逃げ出すさ。俺たちが、少し揉んでやればな。」
「そうでしょうか。私は、あの方になにか不思議なものを感じますが・・・。」
「アッサジ、お前もか。お前も少し神通力がついたかな。」
「じゃあ、コーンダンニャさんも?。」
「あぁ、彼はどうも違う。普通の修行者とは、どこか違う。言葉ではうまく言い表せないが・・・・。ま、ともかく面倒を見てやろう。ひょっとすると・・・・。まさかな、そんわけないか。さ、修行しよう。新入りに抜かれないようにな。」
コーンダンニャは、そういうと荊(イバラ)を敷いた上に、痛そうな顔をしながら座るのであった。

一方、シッダールタは、苦行者の姿に驚いていた。片足で立ちっぱなしの者、天をにらみ続ける者、牛糞の中に寝転ぶ者、木にぶら下がり続ける者、石をひざの上に載せて座る者、荊(イバラ)のトゲの上に座り瞑想する者、身体中に針を刺す者、それはそれは様々であった。
「こ、これは・・・・。これはすごいな。これだけのことをしても覚りは得られないのか。ブッダにはなれないのか・・・。ということは、これではダメだということだ。この修行者たちと同じ事をしていてはブッダにはなれないんだ。さらに苦しい行か・・・。やるしかないか・・・・。」
シッダールタは、苦行を目の当たりにして、さらに決意を固くするのであった。



 29.焦 燥

翌日の早朝のことだった。シッダールタが沐浴を終え、昨日のうちに確保した修行場所に戻ると、
「シッダールタさん、これを使うといいですよ。」
そういって、アッサジが茨の束を持ってきていた。
「これを敷いて、この上に結跏趺坐するのが、ここでの修行の基本です。これができないようでは、他の苦行に耐えられません。」
アッサジは、微笑みながらシッダールタにそういうと、茨の束を大きな木の下に置いた。
「ありがとうございます。助かります。では、さっそく座ってみます。」
シッダールタは、茨の上にゆっくりと座った。茨の棘は容赦なくシッダールタのふくらはぎや腿、臀部に突き刺さった。その苦痛に耐えながら、シッダールタは茨の上で結跏趺坐した。
「いや〜、すごい。シッダールタさん、あなたは只者ではないですよ。」
アッサジは、シッダールタの様子を見て驚いた。
「普通の修行者は・・・私もなんですが・・・、いきなり結跏趺坐できなかったんです。いくらそれが基本だといわれても、みんな棘の痛さに飛び上がって、転がってしまうんですよ。いきなり茨の上で結跏趺坐できるとは・・・。すごい。これを聞いたら、みんなもびっくりするだろうな。」
「あぁ、そうだったんですか。な、なんとか座れたみたいですね。でも、これだけでは苦行になりませんよね。」
「えぇ、まあ、そうですが、いきなり厳しい行は・・・。順に慣れていったほうがいいんじゃないでしょうか。」
「そうですか?。実は、昨日、たくさんの修行者たちの苦行を見て考えたのです。彼等と同じ事をしていては、とうていブッダになることなどできない、と。それで、私なりに修行法を考えました。今からそれを実行しようと思います。」
そういうとシッダールタは、大きく息を吸い込んだ。そして、息を止めたのだった・・・・。

心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。心臓が早く動き出す。冷や汗が脇から、頭から流れてきた。耳鳴りがして、目がくらくらしだした。
(苦しい・・・。息がしたい・・・。)
そう思いながらも、シッダールタは息を止め続けた。目を閉じて、シッダールタは耐えた。耐え続けた。どれほど時間がたったであろう、それは長くもあり、短くもあったようにシッダールタには感じられた。
ゆっくりと息を吐き出す。ゆっくり、ゆっくり、できるだけ長く、身体中にある空気を搾り出すように息を吐き出した。
吐き出した瞬間、シッダールタは倒れた。

「気がつきましたか。いきなり、無呼吸の行をするんだから・・・。それは無謀でしょう。」
アッサジの声だった。
「いやいや、なかなか見所があるぞ。驚いたよ。」
これは、コーンダンニャの声だ。
「あぁ、私はいったい・・・・。」
「息を止める行をして、気絶したんですよ。もう大丈夫ですよ。ゆっくり起き上がってください。」
そういわれて、シッダールタは、ゆっくりと身体を起こした。
「いやいや、おぬしには驚かされるのう。茨の上に初めから座れたそうじゃないか。しかも、いきなり上級の苦行である無呼吸の行・・・息を止める行のことだな・・・それを始めるとは。」
「あぁ、そうなんですか。あの行は、上級の苦行だったんですか・・・・・。それで、私は、どのくらい息を止めて、どのくらい気絶していたのでしょうか。」
「息を止めていたのは・・・・。結構長かったですよ。おそらく、300を数えるくらいです。気絶していたのは、私がコーンダンニャを呼びに行って、ここへ戻って・・・。そうですね、そんなに長い間じゃないですよ。」
「そうですか。ありがとうございます。次からは、気絶する前に息をするようにします。」
「おいおい、まだやるのか。はっはっは。大したもんだ。」

シッダールタは、この無呼吸の行をしばらく続けた。数ヶ月の後には、呼吸の出し入れが自由にできるようになった。無呼吸の間も普通の生活や瞑想ができるようになっていたのだった。それでも、シッダールタが求める境地には達し得なかった。
シッダールタは、茨の種類も変えてみた。より棘の鋭く、長い茨に座ることにしたのだ。その状態で無呼吸の行を行った。しかし、いくら日にちが過ぎようと、自らが求める境地は得られなかった。
(無呼吸の行ではダメだ。何がいいか・・・。いや、いっそのこと、あらゆる苦行を手当たりしだいやってみようか・・・。うん、それがいい。)
そう決心したシッダールタは、それ以降、あらゆる苦行を徹底的に実行していったのであった。立ち続けの行、石乗せの行、毒沼に沈む行、全身を茨で包み込む行、茨の中に飛び込む行などなど・・・。どの苦行も、その苦行の最中に瞑想できる状態になるまで続けたのであった。それは、シッダールタが、この苦行林を訪れてから六年近くにも及んでいた。
しかし、それでもシッダールタは、自らが望む境地には、達することはできなった。シッダールタは焦り始めていた。
(こんな行ではダメだ。何一ついい結果を生むことはなかった。こんな修行では、まだ、生ぬるいということだ。究極の苦行をしなければもっと上の境地には到達できないだろう。究極の苦行・・・。それは、死をも意識せざるを得ない修行であるべきだ。となると、あれしかないように思える・・・・。明日、コーンダンニャに相談してみようか・・・。)
シッダールタの頭の中には、一つの苦行が浮かんでいたのであった。

翌日のこと、シッダールタはコーンダンニャに相談をした。シッダールタの話を聞いたコーンダンニャは、
「何をそんなに焦っているのだ。時間はたっぷりある。もう一度、今まで行った苦行をやり直すという手もあるぞ。何も死を意識した苦行などする必要はなかろう。」
と、シッダールタをなだめた。
「いや、それでは無理なのです。今まで行った苦行では、もうすでに何の苦痛も感じなくなってしまったし、その苦行を行いながら、安定した境地に達することができてしまっているのです。私が求めるのは、その上なのです。今までの苦行では、それを得られません。」
「なんと・・・・。そんなところまで達していたのか・・・。では、今までの苦行はすでにもう苦行ではないと・・・。」
「そうなのです。もう苦行ではありません。もちろん、快楽でもありませんが。何の感覚もない状態なのです。これでは、何をやっているのかわからないのです。朝起きて、沐浴して、托鉢して、食事して、苦行して・・・・が、当たり前の生活になってしまっている。苦行が苦行でなくなっているんです。」
「シッダールタ、おぬしの頭の中には、その究極の苦行が何であるか、もう決まっているのだな。」
「えぇ、決まっています。究極の苦行・・・それは、断食です。」
「断食?・・・・。食を断つというのか?。」
「そうです。それしかありません。覚りを得るまで、断食をし続けます。」
「おいおい、それはダメだ。それはやっちゃあいかん。断食など、未だかつてやったものはおらんよ。そんなことをしたら、覚る前に死んでしまう。ダメだ、ダメだ。それは反対だ。他の方法を考えよう。」
「いや、他はないのです。命をさらさなければ、真の苦行とはいえないでしょう。ひょっとしたら死んでしまうかもしれない、いや、このまま行ったら確実に死ぬぞ、という状態に己を置かなければ、究極の境地は得られないでしょう。」
「究極の境地を得るには、己も究極の境地に追い込むべき・・・というのか。」
「そうです。言っちゃ悪いですが、ここでの苦行は、ぬるま湯のように思えるんです。苦行のための苦行のような。苦行をすることが目的になって、こんな苦行をしているぞ、どうだ、と周りに見せているような、そんな気がするんです。そして、その苦行は絶対安全な苦行である、そう思えるんです。」
「な、なるほど・・・。確かに、今やここも馴れ合いになってしまっているかも知れん。それは、否定はできないな・・・・。」
コーンダンニャは、しばらく考え込んでいた。シッダールタは、コーンダンニャが口を開くまで待っていた。

「わかった。どうせいくら反対してもおぬしは実行するんだろうし。ならば、なにも反対することはなかろう。ただし・・。」
「ただし?。」
「完全に食を断ってはならん。一日、鉢に一杯の水と胡麻つぶを数粒取ることだ。それ以外の食事は断つ。そういう条件なら、協力しよう。」
「一日、鉢一杯の水と、胡麻を数粒・・・・。わかりました。その条件で行に入ります。」
「よし、水と胡麻は、我々が用意しよう。おぬしは座っておればいい。」
「ありがとう、コーンダンニャ。」
「いや、いいんだ。我々は、おぬしのように苦行を苦行と感じなくなってしまうほどの境地には達しておらん。この六年近くの間に、おぬしに抜かれてしまった。おぬしの言うとおりだ。我々は、苦行という楽な生活を送っていたに過ぎん。死の恐れのない、単なる苦行ごっこに甘んじていたのだ。いつの間にか、本来の苦行の意味を見失っていた。それを指摘してくれたおぬしは・・・、やはりすばらしい修行者だ。俺は、おぬしに賭けてみたくなったんだ。おぬしなら、ひょっとしたら、ブッダ・・・いや、そこまでいかなくても、神々を超える境地に達することができるかも知れん。いや、おそらく可能だろう。俺はそれが見てみたいんだ。みんなにも、協力するように俺から言っておこう。」
「ありがとう、本当に感謝するよ、コーンダンニャ。」

こうして、シッダールタの究極の苦行である断食が始まったのである。


 30.断 食

シッダールタは、いよいよ断食の行に入ることとなった。
「いいか、シッダールタ、これからは、毎日、この水一杯と胡麻を数粒、お前が結跏趺坐している前においておく。必ず午前中に食べるのだぞ。それとな、初めの何日かは、排泄物が出るはずだ。そういう間は、まだ立つことができるだろうから、沐浴をするといい。そのうちに動けなくなるだろうからな。」
「コーンダンニャは、断食をした修行者を見たことがあるのですか?。」
シッダールタは、茨の座を整えながら、尋ねた。
「あぁ、今までに二人ほど見たことがある・・・。」
コーンダンニャは、暗い顔をして答えた。
「その者たちは、どうなったのでしょうか。」
「断食した季節が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか・・・・。いずれにしても、死んだよ。」
「どのくらい生きていられましたか?。」
「どのくらいだったろうか・・・。10日かな・・・。いや・・・。15日くらいか・・・。もう、忘れたよ。」
「そうですか・・・。わかりました。では、私は、それよりは長く生きることにしましょう。」
そう言って微笑むシッダールタにコーンダンニャは、目をむいて怒り出した。
「馬鹿なことをいうな。初めから死ぬことを考えるな。いいか、危ないようだったら、断食を止めるからな。いいな。これで終わりということはないのだ。今回、覚りを得られなかったら、一度休んで、また断食すればいいのだから。」
「あぁ、そうするよ。ありがとう、コーンダンニャ。」
「さて、準備も整った。さぁ、始めてくれ。一応、毎日夕方には様子を見に来るからな。俺がこれなくても、他のヤツが見に来るよ。まあ、誰にも邪魔はさせないから安心して瞑想に耽るがいい。じゃあ、頑張れよ。」
コーンダンニャは、そういうと、その場を去っていったのであった。

「いよいよ断食の行か。さて今日の食事を頂くとするか。」
シッダールタは、そうつぶやくと、数粒の胡麻を口にいれた。ゆっくり口の中で、小さな数粒の胡麻を咀嚼した。そして、水を一口飲んだのであった。この後、毎日これだけの食事で過ごすこととなるのであった。
一日が過ぎた。
(あぁ、空腹だ。ただただ空腹だ。それだけだ。それだけしか、頭には浮かばない。あぁ、コーンダンニャが様子を見に来た。)
「大丈夫か、シッダールタ。」
「あぁ、大丈夫だよ。まだ、一日だし。」
シッダールタがそう答えると、コーンダンニャは、帰って行った。
翌日、シッダールタは、排便のために座を立った。用を足した後、池の水で沐浴をし、再び茨の座に結跏趺坐したのだった。そして、胡麻を数粒、ゆっくり食べ、水を一口だけ飲むのであった。
来る日も、来る日もその繰り返しであった。

断食を始めて1週間が過ぎた。
(空腹感は、もう感じなくなった。しかし、いつまで排便が続くのか・・・。人間の体内には、いったいどれだけの汚物が詰まっているのだ。たった数粒の胡麻でも排泄物があるのだろうか。いっそのこと、何も食べない方がいいのではないか・・・。)
その日の夕方、コーンダンニャが来たので、シッダールタは相談することにした。
「コーンダンニャ、いまだに排泄しに行かなきゃならない。どうも、私の身体には、まだまだ、汚物がつまっているようだ。いっそのこと、それがきれいに排出されるまで、何も食べない方がいいのではないだろうか。」
「馬鹿なことをいうな。おそらく、もうすぐ何も排泄されなくなる。胡麻の数粒など、クソにもならない。水の一杯など、汗で流れてしまう。今まで出ていたのは、断食に入るまでに溜まっていたものだ。これからは、もう何もでないだろう。だから、胡麻と水だけは取ることだ。わかったな。」
「そうか・・・。じゃあ、そうしてみよう。」

さらに1週間が過ぎた。そのころには、もうシッダールタは、座から立ち上がることはなかった。コーンダンニャの言った通り、シッダールタの身体からは、何も排泄されなくなったのだ。
「どうだ、シッダールタ。調子はいいか。」
様子を見に来たコーンダンニャに、シッダールタは微笑んで、小声で答えた。
「あぁ、とてもいい気分だ。」
その言葉を聞き、不安げな表情を押し隠すように、コーンダンニャは下を向き、シッダールタの方を振り返らずに帰って行った。

さらに1週間が過ぎた。断食を始めてから、もうすでに21日間が過ぎていたのだ。それでも、まだ、シッダールタの腕は動いた。口も動いた。ゆっくり胡麻を食べ、水を飲むことはできた。
(あぁ、とてもいい気分だ。清々しい。安楽だ。何の不安もない。このままで居られたなら、さぞ幸福であろう。・・・・しかし、いまだに真理は見えてこない・・・。まだだ、まだ足りないのだ・・・。)
夕方、コーンダンニャが様子を見に来た。コーンダンニャがシッダールタの様子を見に来るのは久しぶりであった。
「すまんな、シッダールタ。このところ、他のものに任せっきりで・・・。どうだ。ふむ。顔色もよさそうだな。もう21日がたったよ。今までで、一番長く断食をしている。やはり、お前さんはたいしたものだ。あぁ、何も答えなくてもいい。答えるのも億劫だろう。ほう、それにしても、ちゃんと食事はしているようだな。胡麻も水もなくなっている。いいことだ。こんなわずかでも、食事はとらなきゃいけない。死んでしまっては、ないもならないからな。じゃあ、また、来るよ。おぉ、そうそう、止めるときはいつでも止めるというんだぞ。下手な意地は張っちゃあいかん。いいな。素直にそういうのだ。わかったな。」
コーンダンニャは、不安そうではあったが、優しく微笑んで、その場を去っていった。

断食を始めて、ついに4週間が過ぎた。シッダールタの身体は、ガリガリにやせこけ、目はくぼみ、頬の肉は落ち、首筋が立ち、肋骨が透けて見えるくらいであり、腹と背中はほんのわずかの隙間を作っているだけであった。
手足も今や骨に皮がくっついている・・・という状態であった。
その様子を見て、コーンダンニャが言った。
「おい、シッダールタ。もう止めた方がいいんじゃないか。それじゃあ、動けないだろう。みたころ、胡麻も食べていないようだし。水も・・・・。少しは飲んでいるのか?。いや、もう無理だろう。もう中止させるぞ。いいな?。」
その言葉を聞き、シッダールタはゆっくり首を横に振ったのであった。そして、ささやくような声であったが、力強くコーンダンニャ言ったのであった。
「断食は・・・・続ける。コーンダンニャ・・・これから1週間、何も入らぬ。・・・・1週間後まで様子も見に来るな。・・・もう少し、もう少しでわかりそうなのだ。人が来ると、それが・・・真理が逃げてしまう。・・・・だから、1週間、誰にも来させないでくれ。たのむ・・・・。」
まるで干からびた何かの生き物がささやいていたようであったが、その姿からは鬼気迫るものが感じられた。コーンダンニャは、シッダールタの気持ちが十分理解できた。
「あぁ、わかった。みんなに言っておこう。これから1週間、誰もシッダールタには近付くな、と。この周辺にも誰も来させないでおこう。安心して瞑想するがいい。真理を・・・・真理を掴んだときは、俺たちも導いてくれ。頼むぞ、シッダールタ。」
こうして、断食を始めて29日目からは、シッダールタは何も口にしなくなったのであった。

そして、1週間後・・・・。
コーンダンニャをはじめ、アッサジやバッパ、マハーナーマ、バッティアの五人が、シッダールタの様子を見に来たのであった。コーンダンニャは、小声で皆のものに言った。
「いいか、静かに近付くんだぞ。驚かすようなことはいかん。ひょっとしたら、シッダールタは真理に到達したかもしれんし、まだかもしれん。いいか、俺がまず声を掛けるからな。」
「あぁ、わかったよ。」
ついてきた他の者は、コーンダンニャの言葉に、ささやくように答えた。
コーンダンニャは、ゆっくりシッダールタの耳元に口を近づけて言った。
「シッダールタ、大丈夫か。大丈夫なら、ゆっくりでいい、首を動かすなり、なんでもいいから、合図をくれ。」
その言葉に、シッダールタは、わずかではあったが、ゆっくり首を縦に振ったのであった。
「おぉ、大丈夫だな。そうかそうか・・・。どうだ、シッダールタ、真理には到達したか?。」
シッダールタは、声を出して答えた。
「ま、まだ・・・だ。まだ、だめだ。・・・・わかりかけたが・・・・逃げた。・・・・もう・・・少し、・・・・もう少し・・・・」
シッダールタの言葉が途切れた。
「もう少し・・・なんだ?。何がもう少しなんだ?。」
「時間を、あと少し・・・・。あと、あと・・・」
「後どれくらいの時間が必要なのだ?。」
「・・・・あと、1週間・・・・あれば・・・。わ・・か・・る・・・・。」
「おぉ、そうか、あと1週間だな。よし、もう1週間待とう。1週間後を楽しみに待っているよ。」
「・・・あぁ・・・、そう・・・してくれ・・・。」

コーンダンニャは、シッダールタの言葉をアッサジたちに伝えた。こうして、彼等は、もう1週間、シッダールタの瞑想を邪魔しないことにしたのであった。


つづく。



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