ばっくなんばー7
31.追 放 コーンダンニャ達が、もう1週間シッダールタの様子を見ることに決めた翌日のことだった。シッダールタの苦しみは、極限にまで達していた。 (はぁ・・・・、く、苦しい・・・。なぜ、こんなに苦しまなければならないのか・・・。いつまで続くのか・・・。わからない。なんのためにこんなに苦しまなければならないのか・・・・そうか、もうこの苦しみは続かないのだろう・・・・。おそらく、もうすぐ私は死を迎える・・・・・。ついに覚ることはできなかった・・・・・・・。 あぁ、そうだ、わかった。この間逃げていったものがわかった・・・。そうだ、苦行では覚りは得られないのだ。得られるのは、ただ、苦しみに耐える、ということだけなのだ。覚るどころか、死んでしまえば、もう終わりなのだ。それが答えだったんだ・・・・。) シッダールタの長い、長い回想は終わった・・・・。二人の姉妹に、シッダールタは微笑みながら言った。 「そう思っていたときに、君たちがここへ来たのだよ。ありがとう。本当に君たちのおかげで私は生きながらえることができた。この1週間で私は生き返った。本当にありがとう。それに、この五日間は、毎日、私の長い話に付き合ってくれてありがとう。」 「いえ、話を聞きたがったのは、私たちの方ですから。それに、この五日間でシッダールタ様は、見違えるように回復されました。それが、私たちにも嬉しくて・・・・。」 二人の姉妹の姉が、顔を赤らめながら言ったのだった。 「本当に感謝している。毎日、蜂蜜をもってここへ通ってくれた君たちには、本当に感謝している。しかし、それも今日で終わりだ。」 「えっ?、どういうことなのですか。」 「今日の夕刻には、コーンダンニャがここへやってこよう。そうすれば、私はここを追放されることになる。」 シッダールタの言葉に姉妹は、驚いた。 「なぜですか。どうしてここを追放されるのですか。」 「それは、私がコーンダンニャたちとの約束を破ったからだよ。君たちに迷惑は掛けたくない。だから、もうここを去った方がいい。申し訳ないのだが、その方がいいのだよ。君たちに嫌な思いはさせたくないから・・・。」 「約束を破った・・・・?。あぁ、シッダールタ様は、まだ断食をなさっていることになっているのですね。1週間後に見に来て欲しい、とコーンダンニャ様に伝えられているのですから・・・・今日が、その1週間目なのですね。」 「そういうことなのですよ。私は、コーンダンニャたちとの約束を破り、断食をやめてしまった。それに、女性と会話をしてはいけないという決まりも破ってしまった。そのことで、私はここを出ることになる。追放されるのだよ。しかし、コーンダンニャの怒りは、それだけでは済まないだろう。きっと、君たちも怒られることになる。」 「ここの決まり・・・?、女性と話してはいけないことが、ここの決まりなのですか?。」 「そうですよ。修行者は、托鉢の食を女性から受けるのはよいのですが、会話はしてはいけない、接触してはいけないことになっているのです。それが、ここの決まりのうちの一つです。」 「でも・・・。コーンダンニャ様とは、たまに話をしますけど・・・・。あの方は、いいのかしら・・・、ねぇ、お姉様。」 「そうですわね。蜂蜜を差し入れたり、果物をお持ちしたときなど、時々お話いたします。少々怖いところもありますが、お話は上手な方ですわ。」 その言葉に、シッダールタは失望感を感じた。 「そんなものですか・・・・。普段、皆には厳しいことを言ってますが、自分は・・・・。やはり、苦行では覚りは得られないし、この苦行林の行く末も怪しいものですね・・・・。まあ、追放される私には、関係のないことですが。」 シッダールタは、苦笑混じりにそういった。 「そういうことなのです。ですから、帰られた方がいい。」 しかし、姉妹は、 「いえ、帰りません。シッダールタ様が、ここを追放されるのをやめさせます。もし、シッダールタ様が追放されるなら、コーンダンニャ様も同じですから。」 とキッパリ言うのだった。しかし、シッダールタは、 「いや、そうではないのだよ。私は、追放されなくとも、ここを出て行きたいのです。ここを出て、一人で修行をしたいのです。あなたたちに今までのことを語ったことで、覚りを得るための修行法がなんとなくつかめそうなのです。ですから、事を荒立てずに、私はここを去りたいのですよ。」 「そういうことだったのですか。わかりました。シッダールタ様に迷惑を掛けてもいけませんし、それでは、私たちは帰ることにします。そうしましょう。」 姉妹は、お互いにうなずき合った。 「私の身勝手を聞いてくれて、本当にありがとう。感謝します。」 二人の姉妹は、シッダールタに別れを告げると、コーンダンニャたちに見つからないように家に帰るために立ちあがった。しかし、それは遅かった。 「おい、お前たち、ここで何をしてるんだ。うん?、シッダールタ・・・・、お前・・・・。どういうことなんだ、これは。」 コーンダンニャの声が姉妹の後ろから響いてきたのだった。姉妹があわてて振り返ると、コーンダンニャが二人に近付きつつあった。その姿を見て、シッダールタは、座ったままコーンダンニャ声を掛けた。 「コーンダンニャ、すまない。断食はもうやめたんだよ。」 コーンダンニャは、シッダールタを睨みつけると、 「なんだと、どういうことなんだ。なぜ、やめたんだ・・・・。もしかして覚ったのか?。」 と疑わしそうな顔で聞いたのだった。 「覚った・・・・。そうだな、まあ、これも一つの覚りではあるな。あぁ、覚ったよ。」 「な、なんだと、本当か?。で、何をどう覚ったんだ。」 コーンダンニャは、勢いよく聞いてきた。シッダールタは、静かに 「そうだな。苦行では覚れないということを覚ったよ。」 と答えたのであった。それを聞いたコーンダンニャは、爆発した。 「なんだと〜!。お前、この、バカモノ!。それで、なんだ、この女たちと戯れていたのか!。み、見損なったぞ!。」 「いや、彼女たちは関係ない。弱っていた私に蜂蜜の飲み物を差し入れてくれただけだ。ただ、それだけだよ。」 「え〜い、うるさい。言い訳はたくさんだ。いいか、動くなよ。みんなを呼ぶからな。シッダールタ、お前の処遇は、もう決まっている。わかってるな。」 「あぁ、わかってる。なんとでもしてくれればいい。私は、罰は受けるし、ここを立ち去る決意もしている。」 シッダールタは、そういうと静かに目を閉じたのだった。 コーンダンニャの呼びかけに、仲間の他の四人が集まってきた。シッダールタを前に、コーンダンニャたち五人は、シッダールタへの罰を如何にするか話し合った。最終処分は、苦行林の追放であったが、その前に罰を与えるべきだ、という結論が出た。 「ムチで百回打つ、というのはどうだ。」 「シッダールタは、苦行でそれを難なくこなしている。だから罰にはならない。」 「この苦行林の清掃はどうだ。みんなの糞尿が溜まっているからな。」 「それも、なんどもやっているよ、あいつは。そんな罰を与えても喜ぶだけだ。」 「石を乗せること一ヶ月というのは?。」 「それ以上の石乗せの行をしているよ。」 五人は考え込んでしまった。シッダールタは、ありとあらゆる苦行をしていたので、どんな罰も罰にはならないのだった。その時であった。五人の会話に我慢の限界が切れてしまった姉妹の妹が、シッダールタの願いを忘れ、 「もうさっきから聞いていれば、あなたたちは!。なぜ、シッダールタさまが罰を受けねばならないのですか。何も悪いことをしてないのに。」 と叫んでしまったのだった。 「何を言うのですか。シッダールタは、あなたたち女性と会話をしていたというではないですか。それだけで罰則になりますよ。」 アッサジが怒って言い返した。 「あら、会話をして罰則になるのなら、あなたも罰を受けるべきですよね。今、会話されたもの。」 「今のは、会話という・・・、あっ。」 「アッサジ、お前はバカか。引っ掛けに乗りおって・・・。」 コーンダンニャが、ムスッとしていった。それを見て姉妹は、大きな声で言ったのだった。 「コーンダンニャ様も同じですわよね。よく、私たちとお話しますからね。ねぇ、コーンダンニャ様。」 「なに?、どういうことなのだ、コーンダンニャ。お前、いつの間に・・・。」 「う、うるさい。そんなことは知らん。それは、今はどうでもいいことだ。」 「そういうわけには行かないだろ。この姉妹の女性とお話をしている・・・、それは、シッダールタがその女性たちと会話をした、それ以前の話であろう。しかも、よく話をするのだろ?。」 「それは問題だな。罰を与えるべきだな。じゃなきゃ、シッダールタにも罰を与えることはできなくなるぞ。平等ではなくなるからな・・・。さて、どうする・・・・?。」 五人は、困ってしまった。シッダールタには罰を与えたいが、長年友人であったコーンダンニャには、あまりひどい罰は与えたくない。どうしていいかわからなくなった五人は、黙り込んでしまった。 アッサジがその沈黙を破った。 「ねぇ、こういうのはどうですか。シッダールタは苦行をやりつくしているから、いい罰がない。だから、ここはもう追放というだけでいいのではないでしょうか。これ以上、シッダールタを責めても仕方がないと思います。本人も、この苦行林を出て行くつもりのようですし・・・・。考えてみれば、決まりを破った行為は、女性と会話をした、というだけのことですよね。ただ、それが、断食を中断してのことだったから、みんなの怒りが大きいんだと思うんです。女性と会話をしたことが問題なら、コーンダンニャも同罪になってしまいます。それなら、コーンダンニャも追放しますか?。そういうわけには行かないでしょ。だから、ここは、シッダールタには、何も罰を与えず、ただここを出て行ってもらう、ということでいいじゃないでしょうか。その代わりといってはなんだけど、コーンダンニャには罰はなし、というのはどうでしょう。これで、みんな納得できるんじゃないでしょうか。」 アッサジの提案に、コーンダンニャは涙を流した。 「アッサジ、ありがとうよ。しかし・・・。シッダールタが追放なら、ほぼ同罪である俺が罰無し、というのはいかんだろう。だから・・・。そうだな、まだ俺はみなの糞尿を片付ける行をしていない。だから、一ヶ月、それをすることにするよ。」 「否、シッダールタは、自分で出て行きたいといっているんだろ。じゃあ、それは罰じゃないじゃないか。それなら、コーンダンニャも罰を受ける必要はなかろう。」 「そうじゃない、バッパ。そうじゃないんだよ。俺はな、自分のけじめをつけるためにも罰を受けたいんだ。それに・・・。」 「それに?。」 「それにな、苦行では覚れないという、シッダールタを見返しもしたい。だから、俺は、罰則を受ける。いや、そうじゃないな。進んで苦行をしようと思うのだ。」 「そうだったのか。シッダールタはそんなことを・・・。じゃあ、ちょうどいいじゃないか。苦行では覚れないという者がこの苦行林にいても仕方がなかろう。さっさと出て行ってもらおうじゃないか。」 バッパのこの意見に、他のみんなも頷くのであった。こうして、皆の意見はまとまったのだった。コーンダンニャは、シッダールタの方を向いて、静かに告げた。 「そういうことだ、シッダールタ。お前にはここを出て行ってもらう。追放だ。今すぐに。それと、お嬢さんたち。」 続いて二人の姉妹に向き直って言った。 「君たちも、もう苦行林には来ないことだ。下手な誤解を生んでもいかんしな。そういうことだ。いいかね、これで・・・。」 姉妹は、ちょっと淋しそうな顔をしたが、コーンダンニャの言葉に頷くと、その場を去っていったのであった。 「シッダールタよ。短い間だったが、お前ほど苦行をしたものはいなかった。そのお前が、苦行では覚れない、というのだから、それはその通りなのかもしれない。しかし、俺達は、まだあきらめていない。いつの日か、苦行で覚りを得て、お前の目の前に現れてやる。それまで、二度と会わないからな。いいな、シッダールタ。」 コーンダンニャは、そういうと、涙を流したのであった。 「ありがとう、コーンダンニャ。君たちの恩は忘れないよ。最後まで迷惑を掛けて済まなかった。一人で静かにここを去るつもりをしていたのだが、コーンダンニャを巻き込んでしまった。すまないことをした。」 「いや、いいんだ、シッダールタ。我々も、気が緩んでいたのだから。出直しには丁度いいんだ。」 コーンダンニャは、そういうと、にっこりと笑ったのだった。シッダールタも微笑みながら、答えた。 「みんな、道はお互い違う方向へ進むけれど、目的は一緒です。いつの日か、覚りを得たら、また会うこともあるでしょう。それまで、みんな身体を大事にして下さい。では、私は、これで・・・・。」 シッダールタはそういうと、一人静かに、しかし、力強い足取りで、苦行林を出て行ったのであった。 32.流 れ 苦行林を追放されたシッダールタは、苦行林の近くの森で一夜を明かした。夜明けとともに、シッダールタは、ネーランジャラー河で沐浴をした。ネーランジャラー河の流れは、苦行林でのことを洗い流してくれるかのようであった。 「さて、これからどこへ行こうか・・・。」 河から上がったシッダールタは、川岸に座わり、一人つぶやいた。目の前のネーランジャラー河は、何事もなく、ただゆったりと流れている。 「そうだ。とりあえず、この河にそって歩いていこうか。この川の流れのように、ただ流れていってみようか。そうすれば、きっと何か見つかるだろう。私が修行をするに相応しい場所が、きっとあるだろう・・・・。」 そう言うと、シッダールタはゆっくりと立ち上がった。そして、河沿いの道を川の流れる方向へ、ゆっくりと歩き始めたのであった。 しばらく歩くと、一軒の小さな家が見えてきた。シッダールタがその家に近付くと、家の中から娘が一人、鉢を抱えて出てきた。 「先ほどから、お待ちいたしておりました。これを・・・。」 娘は、そういうとシッダールタに鉢を差し出した。その鉢の中には、乳粥が満ちていた。その乳粥からは、蜂蜜の甘い香りが漂ってきた。 「どうぞ、お召し上がりください。」 「あなたは・・・・?。」 「私はこの家の娘で、スジャーターと申します。あなた様が河に沿ってこちらに向かって歩いてくる姿が見えましたので、施しをしたいと思いまして・・・。いつも、父から『修行者には施しをしなさい』と言われておりますから。それが幸福になる方法だ、と・・・・。」 「そうだったのですか。この乳粥は、私にとってこの上ない施しです。これにより、私は体力も戻り、覚りへの修行が続けられるでしょう。ありがとうございます。スジャーター、あなたに幸あることを祈ります。」 そう言うと、シッダールタは乳粥がたっぷり入った鉢を受け取り、スジャーターに一礼をして、歩き始めた。 「あ、ちょっと、お待ちください。」 シッダールタの後姿にスジャーターが声を掛けた。シッダールタは、振り返った。 「何か・・・?。」 「あの、あなた様は、どこから来られたのですか?。そして、どこへ行かれるのですか?。」 シッダールタは、スジャーターの顔を静かに見つめた。そして、 「私は、どこから来たのでもなく、どこへも行かない。また、このネーランジャラー河の如く、元より流れ来て、大いなるところへ行く・・・・のです。」 と答えると、スジャーターに背を向け、再び歩き始めたのであった。スジャーターは、シッダールタの言葉を反芻していた。 「わかりました。あなた様は・・・・。」 スジャーターが、顔を上げたとき、シッダールタの姿は、もう見えなかった・・・。 シッダールタは、鉢を抱えて静かに歩いていた。川沿いに大きな一本の木が見えている。 「あぁ、なんと大きな木だ。あの木はピッパラ樹だな。そういえば、子供の頃、城内の庭の大きな木の下で瞑想をしたなぁ・・・。そうだ、あの木も確かピッパラ樹だったような・・・・。うん、そうだ、あの大樹の下こそが、瞑想をするに相応しい場所だ。」 その大きなピッパラ樹の下は、柔らかな草で覆われていた。シッダールタは、河の流れが見えるところに結跏趺坐すると、ゆっくりとスジャーターから施された乳粥を食べた。その乳粥は、シッダールタに、内から湧き出てくるような活力を与えるものだった。 食事をしながら、シッダールタは考えていた。 (不思議な娘だった。どこから来てどこへ行くのかと、私に尋ねた。そうだな・・・、人はどこから来てどこへ行くのだろうか・・・。) ネーランジャラー河の流れに眼を移した。 (河は何事もなく流れる。そこに岩や倒木などがあっても、するりと抜けて流れていく。逆らうことなく、素直に流れていく。何も引っ掛かることなく、流れていく。この河の水はどこから来るのか。そして、どこへ流れていくのか・・・。河の水は、その水源より湧き出て、大海へと流れていく。人も同じなのかもしれない。元より生まれ出で、大いなる世界へと戻っていくのかもしれぬ。ならば、河の水の如く、素直に流れていけばいいのかもしれないな。何もこだわらず、何も引っ掛からず、ただ流れ行く・・・。そうか、そうだな。それでいいのだ。自然の流れに任せ、素直に瞑想してみよう。それが、覚りへの修行になるに違いない。あの娘の言葉のおかげだな・・・。) シッダールタは、乳粥を施してくれたスジャーターに感謝したのだった。 食事を終え、シッダールタは、ネーランジャラー河で鉢を洗い、口をすすいだ。そして、ピッパラ樹の下に戻ると、その木の周りをゆっくりと歩き回った。 「あんた、修行者かね。」 木の周りを歩いているシッダールタに声を掛けたものがいた。それは、草を抱えた老人で、河沿いの道にたたずんでいた。 「はい、そうですが。」 「何をしてるんだね。」 「いえ、立派な木だなぁと思しまして。それで、この木の下に座って修行をしようかと思いまして、長く座れる場所を探していたのです。」 「ふ〜ん・・・。そうだ、なら、あんたこの草を敷くといい。今、畑の草を刈ってきたところなんじゃ。そこに座って修行するなら、草を敷いた方がいいじゃろ。河沿いで湿気るからのう。」 そういうと、その男はシッダールタに近付いてきて、草を渡したのだった。その草は、パサパサとした草だった。 「この草は、よく湿気を逃がす草じゃ。これを敷いて座れば、地面の湿気も気にならぬ。」 「ありがとうございます。助かります。この草を敷けば、長く瞑想し続けられます。」 シッダールタはそう言うと、草を一抱え受け取った。 「何を求めて修行されるのかは知らんが、あんたの希望が成就するとよいのう・・・。」 そういうと、その老人は微笑んで去っていった。 (ありがたいことだ。これで長く瞑想が続けられる。やはり、この場所は、修行するには相応しい場所なのだろう。自然に修行しやすい状況が整っていく。これが流れ・・・というものなのだろうか。ありがたいことだ・・・・。) シッダールタは、ネーランジャラー河に面した場所に草を敷いた。 「ここが一番いいな。陽もよくあたる。太陽が昇り、輝き、そして沈んでいく・・・、そのすべてを見渡すことができる。河の流れも感じられる。これほど瞑想するに相応しい場所はないだろう。ここが始まりの場所だ。」 そうつぶやくと、シッダールタは、草の上に結跏趺坐した。そして、スジャーターから受け取った鉢・・・・今はからになっている鉢・・・・を足元に伏せた。 「さぁ、これから私は覚りを得るために深い瞑想に入る。すべての煩悩を消し去り、覚りの境地を得るまでは、私はこの場所を動かないぞ。」 決意を固めたシッダールタは、静かに瞑想を始めた。 しばらくすると、風の音も、河の音も、鳥のさえずりも、何も聞こえなくなった。眼はうっすらと開いているが、何も眼には入ってこなかった。 すべては鎮まり、すべては止まっていたかのようであった。そこは明るくもなく、暗くもなく、暑くもなく、寒くもなく、楽でもなく、苦痛でもない世界であった。沈黙以外何もなかった・・・・。 その時、ふいにその沈黙を破るものが現れた。そのものは、叫びながらシッダールタへ駆け寄ってきたのだった。 「おぉ〜じさま〜、おぉ〜じさま〜、あぁぁぁ、やっと見つかった〜。探しましたよぅ、王子様。王子様、た、大変です。大変なことが起こったのです。お城が、カピラバストゥのお城が・・・・・。」 その男は、瞑想するシッダールタのそばに駆け寄ると、涙ながらに、そう訴えたのであった・・・。 33.誘 惑 シッダールタが瞑想をしているところに駆け込んできたものは、カピラバストゥからの使者だと名乗った。 「シッダールタ様、早くお城にお戻りください。お城が大変なんです。あのダイバダッタが兵士を大勢引き連れて城に攻め込んできたのです。シッダールタ様の父であらせられますシュッドーダナ国王も捕らえられ、牢獄へと・・・・・。そ、それにヤショーダラー妃も、ダイバダッタの手に落ちてしまいました・・・・。シッダールタ様、ぜひ、ぜひにお戻りください。ダイバダッタからお城を取り戻してください。お願いです、王子様、王子様、何かおっしゃってください!。」 その使者は、そう叫ぶとシッダールタの足元に泣き崩れたのであった。 シッダールタは、黙ってその話を聞いていたが、しばらくして、ゆっくりとした口調でその使者に告げたのであった。 「私は、覚りを得るために国を捨て、父母を捨て、妻子を捨てたものです。覚りを得るまでは、ここを動くことはありません。それに、国が滅ぶのは世の常です。この世の中は、すべて移り変わっていくのです。同じ状態が続くものではありません。カピラバストゥもいつまでも同じであるわけはないでしょう。父王の時代が過ぎれば、次の時代が来る。それがダイバダッタの支配であろうと、コーサラ国の支配であろうと、構わないではないですか。その支配もやがては終わりを告げるでしょう。永遠に変わらぬことなどありません。すべては移ろい行くものなのです。それが自然の流れなのです。さぁ、帰られるがよい。国の人々には、それが世の常である、と伝えるがよい。ダイバダッタの支配が嫌ならば、他の国に流れるもよし。ただ、無益な争いだけは避けるようにすればよいではないか、そう伝えなさい。あるいは、あなただけ、私と一緒に覚りを求めるため、ここで修行されますか?。」 このシッダールタの言葉を聞いたとたん、泣き縋っていた使者は、跡形もなく消えてしまったのであった。 「魔物であったか・・・・。迷いを与えようとしたか・・・・。あるいは、私の心の奥底に、国を思う気持ちがわずかにあったのか・・・。ならば、それは今捨て去った・・・。」 シッダールタはそういうと、ほんのちょっと微笑むと、また静かに瞑想し始めたのであった。 時は流れた。日は沈み、また昇り、また沈んだ・・・。その夜のこと。静けさを破る甘い声がシッダールタの耳に響いてきた。 「シッダールタ様、こちらにおいででしたか。探しましたわ。あれからどこへ行かれたのかと・・・・。さぁ、こんなところにいないで、私の寝所に参りましょう。夜風は身体によくはありませんことよ。」 その声は、この世の女性ではありえないほど、甘く、優しく、温かな声であった。 「まあ、眼を閉じているのね。うふふふ。私の身体を見るのが怖いのね。あなたは弱いお方だわ。私の身体を見れば心が奪われてしまう。それを知っているから、眼を閉じているのね。じゃあ、これならどう?。」 そういうと、その女性はシッダールタの背後から抱きついてきた。腕を背後から胸へと回し、乳房を背に押し付け、頬を摺り寄せてきたのだ。 もし、その場面を見ることができるものがいたとしたら、それは異常な光景だったに違いない。星の輝く夜空のもと、一本の大木のしたで、結跏趺坐した修行者に、この世のものとは思えぬほどの美女が絡みついているのである。それも上半身裸で・・・・・。並みの男性ならば、簡単に誘惑されたであろう・・・・。しかし、シッダールタは動かなかった。 「こんなに優しく抱いてあげているのに、冷たい方ね。じゃあ、これならどうかしら・・・。」 その女性は、シッダールタの耳に優しく息を吹きかけた。そして、耳から頬へ、首へと愛撫し始めたのであった。 「やめるがよい。いくら誘惑しようとしても無駄だ。私は動かぬ。」 シッダールタが静かに言った。 女性は、顔を上げて耳元にささやいた。 「あら、やっと口を利いてくれたわね。それにしても、つれないお言葉・・・。それに、まだ、私のこの美貌を見てくれてないわ。怖いのでしょう?。私のこの身体を見たら、欲しくてたまらなくなるからでしょう?。」 「いや、汝の身体を見ても、私は心を動かされない。その証拠に私は先程から汝を見ている。」 「うそ!、そんなはずはないわ。」 そういうと、その女性はシッダールタの正面にまわり、なまめかしい姿で座ったのであった。 「ほら、やっぱり、シッダールタ様は私の身体を見ていな・・・。あっ・・・。」 シッダールタは、しっかりと眼を開いていた。 「先程から、汝のことは見ている。すべてを見ている。私は、汝の醜い姿を見ているのだよ。」 「醜い?。私のどこが醜いのよ!。」 「外見は確かに美しいであろう。しかし、その身体の中はどうか。一皮めくれば、血が流れ、肉は飛び出す。その乳房も中身は血と肉、脂の塊に過ぎぬ。そのしなやかな腹の中にも臓器があり、その中は糞尿ばかりが詰まっている。その美しい顔の下も骸骨があるだけだ。どんな女性も、いや男性も、一皮めくれば、血と肉と骨ばかりだ。そんなものが美しいかね?。」 「ふん!、そうは言うけど、私にはそんな血や肉や骨なんか、見えやしないわ。私には、立派な姿のシッダールタ様しか見えないのよ。素敵な姿をしたシッダールタ様しか見えないのよ。」 「では、真実の眼を開いて見るがいい。この私の姿も、顔も形も、やがては滅ぶものだ。時を経れば、皺が増え、衰え始める。やがては悪臭も放つであろう。目ヤニもでるであろう。よだれも垂れるであろう。そう・・・・。今だって、鼻水は出る、肌には垢が溜まる、小さな小さなゴミもついていることであろう。先程、汝は私の耳から首筋へと愛撫したが、口を洗った方がいいのではないか。たくさんの垢が汝の口に入ったに違いない。 汝も同じだ。いくら美貌を誇ろうが、やがては衰えていくものだ。そうすれば、その美しい顔もしわくちゃの醜い老婆になるだけであろう。歯は抜け、髪も白く抜け落ち、目やにをつけ、眼は濁り、口や身体から悪臭を放ち、自慢の乳房も垂れ、腰は曲がり、糞尿を垂れ流していることであろう。いや、今だって、汗は流れるし、よだれも垂れる。口からは悪臭を放つ。そんなものに魅力など感じぬ。 さぁ、去るがよい。私は、汝には誘惑されぬ。」 「まあ、悔しい。じゃあ、これならどう?。シッダールタ様だって、王子の頃には女を抱いたでしょ?。思い出した?。」 その女性はそういうと、全裸になってシッダールタの前に立ったのであった。 その女性は、 「さあ、抱いて。よく見て、思い出しなさい。あの快楽に耽ってた日々を。さぁ、私を抱いていいのよ・・・。」 と言いながら、股を広げてシッダールタの前で寝転がったのだ。 「いくら私を誘惑しようとしても無駄だと言うのがわからぬのか。いい加減にしなさい。そんな姿で一人で寝転がっていても恥ずかしいだけだ。よいか、快楽では何の解決にもならぬ。そんなものは虚しいだけだ。快楽に耽っているときだけは、悩みや苦しみも忘れられるだろうが、それは忘れているだけで、消え去ったわけではないのだ。しかも快楽は永遠に続くものではない。快楽があれば、その後に苦しみが来るのだ。人の欲望に際限はないから、次々と快楽を求めるだろう。しかし、どんな場合でも限りはあるものだ。快楽もやがては尽きるものなのだよ。それが尽きれば、次に来るのは苦しみしかないであろう。快楽を貪ったあとの苦しみは、他の苦しみよりも余計に苦しいものであろう。快楽は、苦しみを倍増させる猛毒なのだよ。」 シッダールタの話の途中から、その女性は、起き上がって泣き始めていた。いつの間にか、衣服も纏っていた。 「確かに、おっしゃるとおりです。快楽は、その時は楽しいのですが・・・・。結局は、虚しいだけ。何も心を埋めてはくれない。あなたのおっしゃるとおりです。あぁ、私はなんて恥ずかしいことを・・・・。私の負けです・・・・。」 そういうと、その女性はどこかへ消えてしまったのであった・・・・。 「あぁ、まだ、私の心の底に女性や快楽を求める気持ちがあったのか。欲望があったのか・・・。もし、そうであるなら、今、それは捨て去った。あるいは、魔物が私の覚りを邪魔しようとして現れたのであろうか。ならば、悪魔よ、去るがよい。私は負けぬ。それとも、神が私を試されたのか・・・・。いずれにしても、そんな誘惑には私は負けぬ。なぜならば、この世は移り変わるものであり、永遠はないのだし、この世は本来、苦の世界であり、楽な世界ではないのだ、ということを私は知っているからだ。すべては常ではない。常でないがゆえに、この世のものに心を奪われてはいけないのだ。執着してはいけないのだ。この世のあらゆる物事に執着するから苦を招くのだ。この河の流れのように、移ろい行くままに身を任せ、執着を捨て去れば、苦もなくなるであろう・・・・。おぉ、そうか、そうだ。そうに違いない。」 シッダールタは、そこまで思考すると、また深い瞑想に入ったのであった。 覚りは近付きつつあった。しかし、それを喜ばぬものが確かに存在していたのだった。それは悪魔と呼ばれる者たちだった・・・・。 34.魔 王 善があれば悪がある。光があれば影がある。正があれば邪がある・・・・。 ならば、神々が存在するならば、それに対する魔物も存在するであろう。また、神々が住まう天界があるならば、魔物が住まう魔界も存在しよう。ここは、その魔界である・・・・。 「魔王パーピマン様、シッダールタは、すべての誘惑を排除しました。」 「あぁ、わかっておる!。おのれ、シッダールタ!。わしの娘の誘惑までも退けよった。ううぅ〜ん、いかん、まずい、まずいぞ。このままではシッダールタが覚りを得てしまう。ブッダになってしまうではないか。そうなれば・・・・。そうなれば、この魔界も滅ぶことになろう。何かいい手はないか。なんとしてもシッダールタの覚りを邪魔せねばならぬ。」 魔王パーピマンは荒れていた。当然のことである。ブッダがこの世に現れれば、魔界は破滅に追いやられる可能性があると、そう伝えられているからであった。 「神々は、この魔界には手出しはできぬ。我々の力は、神に匹敵するものだからな。神々もこの魔界を恐れているのだ。しかし、ブッダはそうではない。神々をも超える存在だ。ということは、この魔界をも越える存在になるのだ。しかも、ブッダは完全なる善だ。悪の入り込む隙間がない。わしは、そう聞いておる。」 「パーピマン様は、ブッダに会われたことは・・・。」 「ない。前にブッダが現れたのは、はるか遠い昔だ。今の神々が生まれる、ということは、このわしが生まれるはるか昔に存在したと伝えられている。その時、魔界は滅んだとも伝えられているのだ。わしは、すでに何千年と生きておるが、ブッダには一度も会ったことはないのだ。まあ、それは神々も同じだがな。だからこそ、神々はブッダの誕生を望んでいる。神々の連中も救われたいからな。しかし、なんとしてもそれは阻止せねばならぬ。ブッダを誕生させてはならぬのだ。何かいい手はないか・・・・。」 魔王パーピマンは、シッダールタの様子を魔界から眺めながら、考え込んでいた。 そのころ、シッダールタは、確実に覚りに近づいていた。 「この世は、常に流れている。一時として同じ状態ではない。すべては移り変わっているのだ。そうだ、それは確かなことだ。この世に永遠などということはないのだ。だからこそ、生まれた以上、老いるのは当たり前なのである。やがて死を迎えるのは自然の成り行きなのだ。ならば、その死を恐れることはない。川が流れるように、時の流れに身を任せ、自然に老い、自然に死を迎えればよいのである。 しかし、人々は死を恐れる。それはなぜか・・・・。それは、この世に執着があるからであろう。この世のものに愛着があるからだろう。愛着・・・。そうだ愛着だ。人は、己の生に愛着し、己の周りのものに愛着する。そして、それら愛着するものが手から離れようとするとき、苦を味わうのだ。苦しみ悩むのだ。しかし、この世は無常である。従って、愛着せるものもやがては滅んだり、手から離れていくのは当然であろう。永遠に手元にあるということなどないのだ。愛着あるものが離れていったり滅んでいったりするのが早いか、己が死を迎えるのが早いかだけである。そこを理解すれば、愛着するものが離れようとしても、苦しみ悩むことはない。そう、何も苦しむことはないのだ。 では、愛着に相対するものはどうだろうか・・・・。」 「パーピマン様。この上は、魔王様自らがシッダールタの邪魔をされたほうがよろしいのでは・・・・。」 パーピマンの側近の魔性の者が提案した。 「うむ。わしもそう思っていたところだ。娘も息子もあてにならん。魔物と呼ばれるお前らもな。どいつもこいつもあてにはならん。仕方がない。わしが行こう。」 魔王パーピマンは、己の存在をかけて、シッダールタの覚りを邪魔するために立ち上がったのであった。 「シッダールタ、シッダールタ、ご機嫌はいかがかな。」 シッダールタの心の中に声が響いてきた。その声は、シッダールタの心の中に柔らかく進入してきたのだった。 「・・・・・・・。」 「無視しなくてもいいじゃないか。わしの声が聞こえているのはわかっている。しばし、わしの話を聞いてくれんかな。わしは魔界の王、パーピマンという。名前くらいは聞いたことがあろう。」 「・・・・・・・。」 「ふん、何も答えぬのか。わしが恐ろしいのか?。まあ、恐ろしいだろうな。わしは、死を操るからな。死神といわれる者もわしの配下のものだ。死は怖いだろう、シッダールタよ。」 「魔王とやら、消え去るがいい。私は、汝らの存在など信じてはいない。」 「愚かなシッダールタよ。いいか、この世はすべて対になっている。男がいれば女がいる。太陽があれば月がある。光があれば闇がある。苦厄があれば快楽がある。幸福があれば不幸がある。善があれば悪もある。正があれば邪もあるのだ。ならば、神があれば魔もあるのは当然のことであろう。」 「何が言いたいのだ。」 「いやいや、そのように対になっているのが世の中なのだ、ということが言いたいのだよ。それが真実なのだ、とな。だから、神がいれば我々魔もいるのだよ。」 「それがどうしたのだ。」 「冷たいな、シッダールタ。あははは、そうかそうか。お前は神を信じていないな。神などこの世にいないと、そう思っているだろう。神がいないから、魔もいない、そういうことだな。何もかもお見通しだぞ、シッダールタ。」 「神の存在や魔の存在など、今の私にとってはどうでもいいことだ。私には覚りしかない。」 「そんなことを言っていいのか?。お前がここで瞑想していられるのも神々のおかげだろう?。」 「なんのことだ。」 「忘れたのか。カピラバストゥを出られたのは誰のおかげだと思う?。なぜ門番は眠らされていたのだ?。なぜ門は開いていた?。」 「・・・・・それが神々の手によるというのなら、私は今、感謝しよう。神々のおかげでここにいられることを感謝しよう。しかし、それと私の覚りとは関係はないし、パーピマンよ、あなたとも関係はなかろう。」 「くそ忌々しい神々め。わしが寝ている隙にカピラバストゥの門を開けよって・・・。まあ、そんなことはどうでもいい。そうだ、シッダールタ、お前の言うとおりだ。大事なのは、お前が覚るかどうかだ。」 「そうだパーピマン。大事なことは、私が覚れるかどうかなのだよ。」 「ふん、ようやく話しがあったな。じゃあ、先ほどの話だ。この世の真実というものだ。それを教えてやろう。」 「教えてもらう必要はない。それは私自身で得るものであるから。」 「まあまあ、遠慮するな、シッダールタ。」 パーピマンはそこまでいうと、シッダールタの前にその姿を現したのであった。 「わしの姿を見るのは初めてか、シッダールタ。まがまがしいだろ。この姿が魔というものよ。お前の心の中にも住んでいるだろう・・・・。」 「・・・・・・・。」 「答えられぬか。まあ、よい。そんなことはな。それよりも、先ほどの話だ。この世の真実のな。」 パーピマンは耳まで避けた口をゆがめながらにやついていた。 「よいかシッダールタ、先ほどもいったが、この世は対になっているのが真実だ。男がいれば女がいる。太陽があれば月がある。光があれば闇がある。苦厄があれば快楽がある。幸福があれば不幸がある。善があれば悪もある。正があれば邪もある。清があれば濁もある。それがこの世だ。ならば、苦しみがあるから快楽があるのは当然だろう。それでいいではないか。そうは思わないか。お前は、苦行という苦しみを十分に味わった。六年間もな。もういいだろう。あとは、快楽を味わったらどうだ。お前ならば、どこの国でも王になれるだろう。そうすれば、金や名声、女も自由に得られるぞ。どうだ。この世の快楽を楽しんではみないか。そのほうが幸せであろう。」 魔王パーピマンの声は、甘くシッダールタの心の中に流れ込んできたのであった。 35.対 話 「魔王よ、パーピマンよ。私はすでに国王の地位などというものには、興味はない。富も名声も女性も快楽も、すべてにおいて興味がないのだ。もちろん、苦行にも興味はない。私が興味があるのは、覚りだけなのだよ。」 シッダールタの答えに、パーピマンは顔を引きつらせた。 「そ、そうか、興味がないのか。では、仕方がないな・・・。」 しかし、パーピマンはその程度では引き下がらなかった。 「覚りねぇ・・・。ふん、そうはいうが、シッダールタよ、覚りとは何かわかっておるのかな?。」 「覚るということは、この世の真実を知ることだ。この世のすべてを知ることだ。それ以外にない。私は、そこに至るつもりだ。」 「真実ならば、先ほど教えてあげたではないか。わしがいったことが、この世の真実よ。すべては、対になって存在しているのだ、とな。」 「果たしてそうだろうか?。すべては対になっているのだろうか。その中間はないのだろうか?。どう思うパーピマンよ。」 「中間などというものはない。すべては、対になっているのだ。それから外れるものはない。そうだろ?、シッダールタ。」 「そうかな。では聞くが、今の汝は生か死か?。いずれであろうか?。」 「生に決まっておろう。」 「ほう、汝はこの世に誕生したてなのかな?。」 「いや、そうではないが、今、生きている。だから、生だ。」 「では、生は長い時間なのか?。」 「そうだな。生き続けているからな。」 「では問うが、生に対する死は、長い時間なのか?。」 「いや、死は一瞬だろう。長く死を続ける、ということはないからな。」 「ならば、それは生に対する死としては、成り立たないのではないか?。」 「なんだと?。どういうことだ。」 「生は長い時間を保有するといい、しかし、死は一瞬だという。ならば、生と死は対にはならぬであろう。生に対し死は、あまりにも短すぎるではないか。生と死が一対というのならば、それは平等でなくてはならぬ。そうではないかな?、パーピマンよ。」 「う、うぅぅ・・・む。ま、そうかも知れぬがな・・・・。」 パーピマンは、下を向いて口ごもってしまった。さらにシッダールタは問いかけた。 「よいかな、パーピマンよ、もう一つ汝に聞く。鋭利な刃物は善であるか、悪であるか、どちらだね?。」 パーピマンは考えた。下手に答えれば、シッダールタに追及されるに決まっているからだ。 (クソ!、忌々しいシッダールタめ。そんなことわかるわけなかろう。善でも悪でもないわ。待て待て、よく考えるんだ。鋭利な刃物は善か悪か・・・・。そ、それは・・・。) 「それは・・・・。そんなことはわかるものか。善にでもなれば悪にでもなる。使い方次第だ。」 そういうと、パーピマンは横を向いた。シッダールタは、パーピマンの顔を見つめ、 「ふっふっふ、わかっているではないか。」 と一言いい、口をつぐんだ。パーピマンも、どう対応していいのかわからなくなり、 (クッソ〜、何が言いたいのだ、シッダールタは。いったい何を考えている・・・・。) と考え込んでしまった。 しばらくして、シッダールタが話し始めた。 「パーピマン、汝は先ほど、この世のすべては対になっている、と言った。それが真実だと。この世は対になっているのが真実であると、そう言った。しかし、実際はどうであろうか。本当に対になって存在しているであろうか。」 シッダールタの問いにパーピマンは横を向いて何も答えなかった。それにはかまわず、シッダールタは話を続けた。 「確かに生に対し死はある。しかし、その中間はどうなる。存在し続けている状態は、何と対を成すのだ。物質は何と対を成すのだ。木に対するものはなんだ。水に対するものはなんだ。鋭利な刃物は善なのか悪なのか?。どちらに属するのだ。 この世はすべて対になっている、それが真実だ・・・・。こういう考えには、誰もがよく陥るものなのだよ。世の中を見ていると、対になっている、と思えてくる。しかし、実際にはそうではない。この世のことは、そんなに簡単に割り切れるものではない。 善にも悪にも属さないものもある。正でもあり邪でもあるものもある。男の中に女性の部分もあるであろうし、女の中にも男性的なものがあろう。朝と夜の間には昼があろう。苦行の中にも安楽はあろう。安楽の中にも苦は存在しよう。だいたい、生命そのものが清濁混在から生まれたものであろう。この世は、対であるなどと、そんなに簡単に片付けられるものではないのだよ。そんな極端な状態ではないのだ。もっと曖昧で混沌としているものなのだ。もっと流動的なものなのだよ。 それに・・・だ。そもそも、そうした善であるとか悪であるとか、正であるとか邪であるとか、生であるとか死であるとかいった区別は人がつけるものだ。人がいなければ、そんな区別はない。元よりそんな区別など存在しないのだよ。そうではないかな、パーピマンよ。」 パーピマンは、横を向いたまま何も反応を示さなかった。シッダールタはさらに続けた。 「さあ、汝が唱えた真実は、こんなに簡単にほころんでしまった。ほころびがあるものは、真実とはいわない。真実は、誰が考えても、どこから見ても、いつの時代も、存在するものすべてに、存在しないことに対しても、一切において普遍でなくてはならぬ。平等でなくてはならぬ。それが真実であろう・・・。」 パーピマンが、ようやく口を開いた。 「あぁ、確かにそうだな。わしが言ったことは真実ではない。忌々しいシッダールタめ、初めからわかっていたくせに、わしをからかいおって・・・。」 「その通りだ、パーピマンよ。初めからわかっていた。からかってはいないが・・・。しかし、汝が真実を知っているならば、汝が悪魔であるはずがないであろう。汝の話は、初めから矛盾しているのだよ。」 魔王パーピマンの顔色が変わった。怒りに赤黒く変色したのだ。 「わかっていながら、わしを弄んだな。許さん、許さんぞ、シッダールタ。わしをコケにしおって。悪魔の、魔物の恐ろしさを思い知らせてくれよう!。」 そういうと、パーピマンは、さらに恐ろしげな姿へと変貌していった。 「さぁ、わしの言うことを聞くがいい。わしが吹きかける毒の息は、お前の心を蝕むだろう。お前の心に悪の種を植え付け、育てていくのだ。お前は悪の限りを尽くしたくなる。どうだ、悪行をしたくなっただろう。さぁ、立て。立って欲望の赴くままに動くのだ。金を奪え、邪魔をするやつは殺せ。女を犯せ。お前ならできる。欲望のまま突き進むのだ〜!。」 パーピマンは呪いの言葉を叫んだ。 しかし、シッダールタは動じなかった。 「パーピマン、無駄だ。私の心には隙はない。そんな欲望は、さらさらないのだよ。いくら私の煩悩を呼び起こそうとしても、それは無理なのだ。私には効かない。」 「うぅぅむむむむ。ではこれならどうだ。」 そういうと、パーピマンはシッダールタの首に手を巻きつけた。首を絞めようというのだ。 「どうだ、死ぬのは怖いだろ。死は恐怖だろ。このままお前の首を絞めてもいいのだぞ。さぁ、どうする。助けを請え。助けてくれと叫ぶがいい。さぁ、シッダールタ、助けを求めよ!。」 「首を絞めたければ締めるがいい。好きにすればよい。私は死を恐れぬ。私には何の恐怖もない。もはや、私は生に対する執着はない。だから、恐怖はないのだよ。」 「いいのか、そんなことを言って。このまま覚りを得ずに死んでもいいのだな。心残りではないのか?。あっはっは〜。」 「心残りではない。このまま覚りを得ずに死んでしまってもそれは仕方がなかろう。私の徳がなかっただけだ。次の機会に覚りを得ればよい。私には何の執着もないのだよ。覚りに対する執着さえないのだ。執着がない、ということすらない。だから何の恐怖もないのだ。わかったかね、パーピマン。首を絞めたければ締めるがいい。」 しかし、パーピマンは、シッダールタの首を締めることはなかった。できなかったのだ。 「おのれ〜、シッダールタ。このままで済むと思うなよ。いいか、これからいつもお前に付きまとって、お前の邪魔をしてやる。隙あらば恐怖を植えつけてやる。煩悩の種を撒いてやる。迷いの世界へ引きずり込んでやる。ふっふっふ。油断するなよ、シッダールタ。いつも気を張っていろよ。わしは絶えずお前を狙っているからな。今日のところは去ってやる。あ〜はっはっは。」 不気味な笑いを残し、魔王パーピマンは去っていった。 静寂が残った。その静寂の中、シッダールタは一つの光明を見つめて、つぶやいていた。 「そうか・・・。そうだったのか・・・・。」 と・・・・。 36.証 明 「そうか、そうだ・・・。いや、冷静になって考えてみよう。」 シッダールタは、大きく深呼吸をした。 「この世の中は、常に変化している。一時として同じ状態のものはない。常に変化しているのだ。そういう意味では、この世の中に永遠のものは無い。すべては流れているのだ。それは間違いの無いことだ。すべては常に一定ではない。 であるから、この世に生まれた以上、老いるのは当然で、やがて死を迎えるのも当然なことなのだ。 では、なぜ老いることを厭い、死を恐怖と感じるのか。なぜ、老いの苦・死の苦を味わなければならないのか・・・。 それは、老いたくない、死にたくないからだ。つまり、生に対する執着心があるからだ。 確かに・・・。 私も苦行中には、覚りを得るまで死にたくは無い、と思っていた。死んではならない、と思っていた。覚りを得ぬまま、死を迎えることに焦りや恐怖を覚えていた。それは、覚りに対する執着と、今死んではならないという生への執着があったからだ。だから、私は迷い、悩み、苦しんだのだ・・・・。 しかし、先ほどはどうだ。悪魔パーピマンに首を絞められたとき、心穏やかであったではないか。何の恐怖も感じなかった。それはなぜか・・・・。 それは、覚りに対する執着が無かったからだ。生に対する執着も無かったからだ。あの時、私は落ち着いていた。心が静寂であった。いや、何もかもが静寂であった・・・・。 よし、もう少し深く思惟してみよう・・・・。」 こうして、シッダールタは深い瞑想に入っていったのである。 ネーランジャラー河のほとりの大木の下で瞑想を始めて七日目の夜明けを迎えようとしていた。月は西に沈み、明けの明星が東の空に輝いていた。シッダールタは、一つの真実に行き当たっていた。 (この世は常に流れている。常に変化している。この世に誕生した生命、物質、いやこの大地や自然すら、すべては死に向かっているのだ。滅びに向かっているのだ。永遠のものなど一つも無い。 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻で感じるもの、舌で感じるもの、身体で感じるもの、意識で感じるもの、すべてが永遠のものではない。 であるから、それに執着しても意味の無いことなのだ。たとえば、手に入れたと思っても、それはやがて手の中から消え行くであろう。あるいは、自分が先に消えるであろう。 つまり、手に入れたと思っても、それは一時的に手の中にある、というだけのことなのだ・・・。ところが、人はその一時的に手にあるモノに執着をする。それが苦しみを生む原因であろう。 それに・・・。 それに、すべては、やがて滅んでしまうものなのだから、そのものに本質的実体は無いといってよい。つまりは、すべては仮の姿なのだ。この私も私が感じるすべてのものも、仮の姿に過ぎないのだ。 人は、そうした実体の無いものに執着している。手に入れたい、手放したくない、関りあいたい、関りあいたくない、自由にしたい、思うようにしたい、と欲求を起こしているのだ。 だから悩むのだ。苦しむのだ。迷うのだ。つまり・・・。) シッダールタは呼吸を整えた。 (つまり・・・・。 人は、この世のもの、目で見えるもの、耳で感じるもの、鼻で感じるもの、舌で感じるもの、身体で感じるもの、意識で感じるものに対して、執着を持っている。欲を持っている。その欲とは・・・。 生きたい、老いたくない、病気になりたくない、死にたくない、別れたくない、手放したくない、手に入れたい、我が物にしたい、いやな事はしたくない、いやな人とも会いたくない、精神的にも肉体的にも心地よくいたい・・・・。 集約すれば、人の欲望はそうしたことになっていくであろう。 こうした欲求に執着するが故に人は苦しむのだ。その執着が迷いの元なのだ。苦しみの元なのだ。 ならば、その執着をなくせば、苦がなくなるであろう。つまりは、欲を無くせばいいのだ。そうすれば苦は無くなる。 しかし、人は欲を無くそうとはしない。執着心を捨てようとはしない。それはなぜか。 それは、欲が苦しみの元であることを知らないからだ。すべての苦しみの元が欲であることを知らないからだ。だから、苦しみ迷うのだ。) シッダールタの目が輝いた・・・・。 (では、欲を捨てる、執着心を捨てるにはどうすればよいか。それには・・・。 この世が常に一定でない、常に変化している、滅びに向かっている、ということを理解することだ。 それがわかれば、この世の存在するものすべてが、仮の姿、実体の無いものだとわかる。 つまりは、この世の存在すべてが空であるといってよい。すなわち、一切が空であるのだ。これを理解すれば・・・。 一切に対して、執着心が無くなる。つまりは、欲望がなくなるのだ。 欲望が無くなれば、迷い、苦しむことは無くなる。 そうだ、一切は空である。この世の存在、現象に対して、迷い・悩み・苦しむのは、一切は空であるということを知らぬからだ。それを知ろうとしない愚かさがいけないのだ。 わかった!。まさに今、理解した!。すべての元凶は、この世の存在が仮のものに過ぎないのに、その現象や存在に執着し、欲望を持ってしまうという愚かさから始まっているのだ。 おぉ、ついに至った。この世の苦しみの元をついに知ることができた。そして、その元を断つことができた。もはや私に一切の欲望・執着心はない。欲望や執着心が無いから、何の恐怖も苦しみも無い。何の迷いも無い・・・。) いつの間にか、シッダールタは立ち上がって叫んでいた。 「ついに至った。とうとう至ったのだ。ついに真実に至った!。ついに覚ったのだ!。」 そのとき、明星はかつて無い輝きを放ち、シッダールタに向かって、一直線に光明をさし与えたのであった。 そのころ、魔界では魔物たちがあわてていた。 「パ、パーピマン様、シッダールタが、覚りを得てしまいました!。」 「騒ぐな、わかっておる。すぐさまシッダールタの元へ向かうぞ。」 魔王パーピマンは焦っていた。しかし、彼には秘策があった。 (ふん、もう一度、迷いの世界へ突き落としてやる。覚りだと・・・・、そう簡単に得られてたまるか!。待っていろ、シッダールタ。) 一方、天界では、神々がシッダールタの元へ駆けつける準備をしていた。神々は、帝釈天の周りに集まっていたのである。 「帝釈天様、魔王パーピマンが再び大菩薩・シッダールタ様の元へ行こうとしてます。妨害いたしますか?。」 神々の王である帝釈天に尋ねたのは、神々の住まう天界を守護する四天王の一人、毘沙門天であった。 「いや、待て。大菩薩様が本当に覚られたのなら、ご自分で何とかなさるであろう。我々は、そのあとで礼拝に向かおう。」 帝釈天の言葉に、天界の神々は、しばらく様子を見ることにしたのだった。 日が昇り始めた。朝日を浴び、シッダールタは輝いていた。その顔には自信があふれていた。 「ついに覚った。私にもはや迷いは無い・・・。」 シッダールタは、そうつぶやくと、再びピッパラ樹の元に座り、瞑想を始めようとしていた。自分が覚った内容をもう一度、考察しようとしたのだった。そのとき・・・、 「それはどうかな、シッダールタ。」 不意に恐ろしげな声が聞こえてきた。 「パーピマンか、いったい何をしにきたのだ。」 「お前に尋ねたいことがあってな。」 「ほう・・・。私に答えられることなら答えよう。」 「お前は今、覚ったといったな。」 「その通りだ、パーピマン。私は今、覚りを得た。」 「ということは、お前はブッダになった、ということだな。」 「その通りだ、パーピマン。」 「果たして、本当にブッダになったのかな?。」 「何がいいたいのだ?。」 (ふっふっふ、引っ掛かったな、シッダールタ。その言葉を待っていたんだ。くっくっく・・・。) パーピマンは、ニヤニヤしながら、ゆっくりとシッダールタに尋ねたのだった。 「シッダールタ、お前は自分でブッダになったといったが、お前が本当にブッダになったかどうかは、わからないだろう。誰がそれを証明するのだ?。神か?。まさかな・・・。神はブッダのはるか下だ。神にお前がブッダがどうか判断はできぬ。とすれば、誰がお前がブッダになったことを証明するのだ。誰も証明できなければ、お前がブッダになったかどうかは、わからないであろう。覚ってもいないのに、覚った、ブッダになったといったって、わからないものな。さぁ、どうなんだ。誰が、お前がブッダになったと証明するのだ?。カッカッカ〜。」 パーピマンは、勝ち誇ったように笑い声をあげたのだった。 この様子を見ていた天界の神々は慌てふためいていた。 「そうだ、パーピマンの言うとおりだ。誰が大菩薩様が覚りを得たと証明するのだ。ブッダとなった証とはいったいどんなものなのだ。ご存知でしょうか、帝釈天様。」 「それは・・・・。私にもわからぬ。以前にブッダ様が出現されたときは、私はまだ生まれていなかったから。もうはるか昔の話だ。」 「では、どうするのだろう。誰が証明するのだろう・・・。」 「いったい誰が?。」 「誰が・・・・、誰が証明するのだ・・・。」 帝釈天の周りに集まった神々は、みな不安そうな顔をして、口々に 「誰が証明するのだ・・・・。」 とつぶやくばかりであった。 「静かに!。静かにして様子を見ていよう。大菩薩様が本当にブッダとして目覚めていらっしゃったなら、必ずこの状況を打開されるはずだ。信じて待つことだ。」 帝釈天は、そういって周りの神々を鎮め、天界から様子を見守ることにしたのであった。 「さぁ、さぁ、どうするシッダールタ。ふん、今頃、天界でもあわてているだろうな。誰がシッダールタがブッダになったことを証明するのか、みんなわからぬだろうからな。クックック。さぁ、どうするシッダールタ。答えられなければ、今ここで、お前を取り殺してやろう。大ウソつき者として、わしが裁いてやる!。あ〜っはっはっは・・・・。」 パーピマンの不気味な笑い声だけが聞こえていた・・・。 つづく。 |