ばっくなんばー9
40.中 道 「ほ、本当に・・・本当に真理に至ったのか?、あ、あ、いや、至ったのですか?。」 コーンダンニャは、しどろもどろだった。アッサジが続いて仏陀に尋ねた。 「し、真理に至ったのですね。でも・・・、どうやって?。何か特別な苦行をしたのですか?。それとも、よき師にめぐりあったのですか?。」 「私は真理に至った。それは、苦行をしたわけでもなく、誰かに師事したわけでもない。私は一人で煩悩に打ち勝ち、すべてを知ったのだ。真理に目覚めたのだ。」 「師もなく、苦行もなく・・・・?。まさか、そんなことが・・・できる・・・のか?。」 「できるのだよ。」 「どうやって・・・・、どうやれば、その真理に至れるのですか・・・。」 「私がその世界に導こう。私が、真理に至る道を説こう。その上で修行すれば、必ずあなたたちも真理に至ることができるだろう。」 「我々でも真理に至れるのですか。」 「もちろん至れる。」 自信に満ち溢れた仏陀の言葉に五人の苦行者は、 「真理、真理の世界・・・・至れるのか・・・。」 とつぶやくと、しばし呆然とするのであった。 ふとコーンダンニャが顔を上げ、仏陀に問いかけた。 「あの〜、こんなことを聞いていいのかどうかわかりませんが・・・・。」 「なんでも聞くがいい。必要なことならば答えよう。」 「はぁ・・・。あの、真理の世界とは、どんな世界なのですか?。」 「ふむ。真理の世界だね。いいだろう。真理の世界を説くとしよう。」 仏陀は、そういうと五人の顔を順に眺めた。 「真理の世界は、すばらしい世界だ。そこは広大であり、永遠であり、安楽であり、自我が生きており、清らかであり、智慧に満ち満ちている世界である。そこにはもちろん苦などというものはない。あるのは、如来の智慧のみだ。そう、真理の世界とは、如来の智慧の世界でもあるのだ。真理の世界、それは宇宙でもある。宇宙の中には、数多くの如来が存在し、数多くの如来の世界があり、数多くの命の営みがある。 しかし、その宇宙は小さく、我が心中にあり、すべての営みが我が心中で流れていく。それは水が流れるが如く、ただ滔々と過ぎていく。生まれ生まれ生まれ、そして死に死に死んでいく。それはすべて我が心中の真理の中で営まれる。 しかし、また宇宙は広大で、その中に真理はあり、我もまた宇宙に溶け込む。すべての生命はその活動を宇宙の中で営む。宇宙は宇宙を包み込み、真理を飲み込む。つまり、真理は真理を包み込み、そして真理として流れていくのだ。私もその中で流れていく。いや、すべての命が流れていくのだ。 それが真理の世界なのだ・・・・。 宇宙で起きるあらゆる現象は、すべて宇宙の意思であり、それは真理の意思でもある。すべての営みは真理の意思なのだ。真理に至るということは、その真理の意思を知ることでもある。真理の意思を知ることが、真理の世界に至るということなのだよ。そして真理の世界に至ったならば、この世から汚濁や煩悩は消え去り、世界は輝かしい世界へと変貌し、生命は光り輝くものとなるのだ。」 仏陀の言葉に、誰も反応しなかった。ただ、口をぼんやりとあけて放心するばかりであった。 「あ、あの、申し訳ないのですが・・・その、なにを言っているのか、よくわからないのですが・・・・。その如来というのは、なんでしょうか。宇宙と真理というのは・・・・あぁ、わからない。わからないです。」 コーンダンニャは、そういうと他の四人の顔を見て 「お、お前たちはわかったか?。わかったなら、俺に教えてくれ。それとも、俺がバカなのか?。」 そう聞いてみた。他の四人は誰も返事をしなかった。ただただ、首を横に振るばかりであった。 「えぇっとシッダー・・・あいや、仏陀・・・様か?・・・。そのもっとわかりやすく説明していただけないでしょうか・・・。」 コーンダンニャたちの反応に (そうか・・・・。さまざまな修行をしていた彼らでさえ、この程度のことが理解できないのか。ということは、もっと私の精神を下げなければいけない。もっと、衆生に受け入れられるような内容にしなければいけない。) と仏陀は考え込んだのであった。仏陀は、目を閉じ、その場で瞑想を始めた。 仏陀の瞑想は、ほんの短時間のものであった。瞑想から現実世界へと戻った仏陀は、静かに話し始めた。 「よろしい。もう少しわかりやすく話をしよう。まずは、私への呼びかけの言葉を決めるといい。私は仏陀である。然るに『友よ』とか『シッダールタ』などと呼びかけてはならない。他の呼びかけの言葉を決めるがよかろう。その方があなたたちも質問がしやすいであろう。」 「た、確かにそうです。我々も、先ほどから何と声を掛けていいのか迷っていたところです。そうですね、それがいいですね。」 コーンダンニャはそういうと、他の四人とともに話し合いを始めた。しばらく話し合いは続いたが、「よし、それだ」という声で話し合いは終わったようだった。そして、コーンダンニャが、仏陀の前に進み出た。 「世尊(せそん)・・・。世尊とお呼びすることに致しました。仏陀は、この世でもっとも尊いお方ですから。それでよろしいでしょうか。」 「それでよろしい。では、今後、私に話しかけるときは、そのように呼ぶがいい。では、あらためてあなたたちに私の覚った真理の話を始めよう。」 仏陀がそういうと、コーンダンニャたちは、姿勢を正したのであった。 「まずは、私が真理に至った経過・・・道を教えよう。私は王子の頃、この世にある生・老・病・死はなぜあるのか、その苦しみや恐怖からは逃れられないのか、という悩みを持った。そして、その悩みを解決するために王子としてできるさまざまな行為を試みた。それは主に快楽的なことであった。しかし、快楽では私の悩みは解消されなかった。快楽は、その時は楽しくもあり、さまざまな苦悩を忘れさせるのだが、快楽が終わると、私の疑問は解決をされたわけではないので、再び苦悩の日々が始まるのだ。 そして、あなたたちも知るように、私は国を捨て、苦行の道へと入っていった。私はありとあらゆる苦行を試みた。しかし、それは苦しいだけであって、私に光明を与えるものではなかった。 そこで私は知ったのだ。快楽でも苦行でも、私の苦悩を解決することはできないのだ、と。そこで、あなたたちと決別し、私は一人静かに瞑想を始めた。私は自然と一体となり、自然に溶け込み、深く瞑想することによって真理に至ったのだよ。 つまり、快楽でも苦行でもない道、どちらにも偏らない道、中道を歩むことが、まずは大事なことなのだ。極端な思考、行動を離れること。それが第一にしなければいけないことである。 また、私には師はいない。強いて言えば、自然そのものが師であろう。自然をよく観察し、自然の流れを理解し、深く瞑想すれば、必ずや真理に至るであろう。 さぁ、あなたたちが行っていた苦行を捨てられるか。苦行と決別し、中道を歩むことを誓えるか。」 そう問われたコーンダンニャたちは、互いに顔を見合わせた。そして 「せ、世尊よ。世尊のおっしゃるとおりに私たちが苦行をやめ、苦にも楽にも偏らない瞑想を行えば、覚りを得られるのですね。」 「そうだ。必ず覚りに至れる。私があなたたちを導こう。」 「わかりました。私たちは苦行を捨てます。今ここで、苦行をやめます。そうだな、みんな。」 コーンダンニャの言葉に、他の四人もうなずいたのであった。 「よろしい。苦行を捨てたのなら、次にすることは、この現実世界をよく観察し、理解することだ。いいかな、よく聞くがよい。まずは、この世界は『苦の世界である』ということを認識することだ。 この世は、苦の世界である。この世に生まれたものは必ず老いる。老いは苦しみだ。老いれば身体は弱る。思うように動かなくなる。思考も鈍る。言葉を発することもままならない。醜くもなれば、体臭も強くなる。邪魔にされる、嫌われる・・・。このように老いは苦しみなのだ。 この世に生まれたものは、病に苦しむ。病は苦である。その病が身体的であっても精神的であっても、苦であるのだ。 そして、この世に生まれたものは必ず死を経験する。死は誰にとっても恐怖であり、避けたいと思うことであろう。然るに死は苦しみである。 つまり、この世に生まれたものは、老・病・死の苦を必ず経験するのだ。すなわち、この世は生老病死の四つの苦の世界なのだ。 さらに人々は、次の四つの苦しみを経験する。 一つは、この世に生あるものには、愛するものと必ず別れねばならぬという苦しみがある。これは、相手が人だけではない。飼育している動物でもそうだ。大事にしているモノでもそうだ。愛情を潅いだ人、動物、モノなどと、必ず別れが訪れるのだ。それは間違いなく苦しみであるのだ。すなわち、この世に生あるものは愛するものと別れる苦しみを経験するのだよ。 一つは、この世に生あるものには、憎む相手・嫌な相手と必ず出会うという苦しみがある。誰もが、自分にとって有利な相手だけに出会うということはない。自分にとって嫌な相手、悩ましい相手、苦しみを与える相手、憎い相手と出会うことがあるのだ。これは、対人だけではない。嫌な事柄、悩ましい事柄、苦しい事柄とも言い換えることができる。すなわち、この世に生あるものは嫌な相手や事柄・憎い相手に会わねばならぬという苦しみを経験するのだよ。 一つは、この世に生あるものには、望むものが手に入らないという苦しみがある。いくら求めても、その求めるものが手に入らない、欲しいものが手に入らない、望む相手と結ばれない、望むようにならない、それは苦しみである。すなわち、この世に生あるものは求めるものが手に入らないという苦しみを経験するのだ。 一つは、この世に生あるものには、精神と身体の調和が崩れるという苦しみがある。誰もが、気持ちと身体がうまく働かないことがあるものだ。心ではいけないと思っても身体が勝手に動いてしまう。どうしようもなく抑えきれない衝動に出会う。理由もなく悶々としたり、身体が燃え滾ってしまうこともある。それは、心と身体の調和が崩れているのだ。すなわち、この世に生あるものは心と身体の調和が取れないという苦しみを経験するのだ。 このように、この現実世界には、基本的な四つの苦しみと、生きていく上で経験する四つの苦しみがあるのだ。この世に生きるものは、常にこの四苦八苦に悩まされているのだよ。 さぁ、ここまで、理解できたであろうか。」 仏陀は、コーンダンニャたちに問いかけたのであった。 41.苦 界 「どうだね、私の言ったことが理解できるかな?。このように、この世は苦の世界なのだ。これは真理である。」 仏陀は、そういうとコーンダンニャたちの顔を眺めた。コーンダンニャたちの顔つきは、真理の世界そのものの話をしたときの、唖然とした顔つきとは異なっていた。仏陀の言葉を聞き入れ、よく考えている、といった顔つきであった。 コーンダンニャたちは、懸命に仏陀の言葉を考察していた。 (なるほどなるほど・・・・・。確かに、この世は苦の世界かもしれない。生まれてきた以上、死を経験する。死は恐怖だ。恐怖を感じることは苦しみだ。うん、確かに死は苦しみだな。 老いはどうだろう。仏陀の言われたとおり、老いもまた苦しみに違いない。そういえば、俺も年齢とともに無理がきかなくなってきた。この頃じゃあ、重いものは持てなくなってきたものなぁ・・・。これが老いか。そうだなぁ。老いは、人を醜くもする。世の人々は、老いを受け入れるのが怖いから、化粧をしたり、シワ伸ばしをしたり、香油を塗り込んだり、若さを保つものを食べたり、そりゃ忙しいものだ。それは、老いに対する恐怖から来る行為だろう。そうだ、確かに老いは苦しみなのだ。) (う〜ん、仏陀の言葉は、真実なのだろうか・・・。病は苦しみだよな。それは決まっている。こうして考えると、死や老い、病の苦しみは、この世に生まれてきたことが原因だな。うんうん、そうだ。つまり、この世に生まれたから、老病死の苦しみを経験しなきゃいけないんだ。ということは、生まれ・・・生自体も苦しみであるのだな。おぉ、そうか、生老病死の苦は、誰もが経験するのだ。あ、なるほど!。わかったぞ。) (愛するものと別れるのは苦しい。それが生き物でなくてもだ。あぁ、そういえば、あの苦行林を離れるときはつらかったなぁ。あの場所には愛着があった。コーンダンニャやアッサジは、ケチがついたからといって、あさっり修行場所を移動することを決めたが、俺はつらかったなぁ・・・・。愛着があったものなぁ・・・・。あぁ、そういうことか。愛するということは、愛着なんだ。それがあるから、苦しみを感じるんだな・・・。) (う〜ん、嫌な相手となぁ・・・、そりゃあ会うこともあるよな。それは・・・嫌だよな。苦しいことだな。あんなやつとは会いたくなかった、と思って苦しみ悩むことは・・・、うん、あるある。嫌な相手とばかり会うんで、それが苦しくって俺は苦行の世界に飛び込んだのだ。人間関係がつらくって・・・・。だが、つらさは形は変わったけど、なくなったわけではない。俺の求めていた安楽は・・・・結局得られなかった。人間関係が嫌で、安楽を求め修行しているのだが、いまだ安楽は得られない。苦しみばかりだ・・・・。あぁ、そうか、嫌な相手と出会うのは苦であり、求めるものが得られないのも苦であるのだ。とかくこの世は苦ばかり・・・・なのか。それが真実なのか・・・・。) (心と体の調和か・・・。あぁそうだな。こんなに苦行しても、無性に体が燃え盛ることがある。抑えきれない欲望を感じることがある。なぜかソワソワ、イライラして、抑えきれぬときがある。理由はまったくないのに・・・。気持ちが不安定になるのだな・・・。そうか、それは誰もが感じていたことなんだ。この世に生まれた以上、老病死の苦を経験し、愛するものと別れる苦を経験し、嫌な相手と出会う苦を経験し、求めるものが得られない苦を経験し、心と体の調和が崩れる苦を経験する・・・・。そうか、この世は、苦の世界であるのだ・・・・。しかし・・・。) 五人はそれぞれ、仏陀の言葉を吟味していた。ふと、アッサジが顔を上げて仏陀に尋ねた。 「でも世尊。お言葉ですが、楽しいこともあるのではないでしょうか?。この世は苦の世界であるとおっしゃいましたが、楽しいことも多々あると思うのですが・・・。」 仏陀は、その言葉を聞いて微笑んで答えた。 「ほう、どんな楽しみがあるというのだね、アッサジよ。」 「えぇ、たとえば、楽しい出会いもあります。私はコーンダンニャたちと出会ったことを喜んでいます。同じ修行ができてとても楽しいです。」 「しかし、その楽しい出会いは、いずれ別れるときの始まりであるのだよ。そうではないかな?。」 仏陀は優しく答えた。その言葉にバッティアが受け答えた。 「そうだよ、アッサジ。出会いは別れの始まりだ。その出会いが、自分にとってよりいい出会いであればあるほど、別れは苦しいものじゃないかな。そうですよね、世尊。」 「そうだ、その通りだ。バッティアはわかってきている。」 「あぁ、そうか・・・・。出会いは別れの始まりですねぇ・・・。うんそうだ。じゃあ、いい人との出会いも結局は苦の始まりなんですね。」 「じゃあ、これはどうでしょうか、世尊。」 今度はバッパが質問をした。 「その・・・、男女の交わりです。あれは、快楽でしょ。快楽が存在しているのではないでしょうか?。」 それに仏陀が答えた。 「そう、その瞬間は楽しいことであろう。確かに、快楽を味わっている。しかし、その男女の関係が終わったらどうであろうか?。あとに残るのは、そのときの満足だけで、再びまた欲望にさいなまれるのではないかな。再び男女の交わりを求めるようになるであろう。ところが、いずれ老いがやってきて欲望に身体がついていかなくなるであろう。そうなれば、結局は苦へと戻っていくのだよ。 それに、確かに男女の交わりをしている最中は快楽であろうが、そうであっても根本的な苦しみは何も解決はしない。男女の交わりが終わった瞬間、現実に引き戻されるのだよ。もし、快楽を得続けようと思うのなら、男女の交わりを続けなくてはならぬ。そんなことは不可能であろう。結局は、なんの安楽も得られていないのと同じだ。苦の世界から抜けてはいない。」 「では、自分にとって楽しいことをし続けていたらどうでしょうか?。私は苦行が大好きです。ここでこうして苦行をしてると快楽なのです。ですから、苦行をし続けていれば苦を経験しなくてもいいのではないでしょうか。」 バッパの言葉を受けて、マハーナーマがそれに賛同した。 「そうですね。たとえば、私は読書が好きだ。ヴェーダなどの聖典を読むのはとても楽しい。それを読み続けていられたら、こんな楽なことはないですよ。ということは、この世は苦の世界だけではない、ということになりませんか?。」 このように五人の修行者からは、次々と質問が出てきたのだ。それを聞き、仏陀は喜んだ。 (このものたちは、私の話を聞いて真剣に考えてくれる。この様子なら、私の至った真理の世界の入り口には、やがて到達するであろう。あぁ、善きことだ、善きことだ・・・・。) 仏陀が皆の質問に答える前に、コーンダンニャが答えた。 「いやいや、ダメだよ。それじゃあ、この世は苦の世界である、といった世尊の言葉を崩すことはできない。よく世尊の言葉を考えてみろよ。たとえばバッパ、苦行が好きだといったが、老いたらその苦行もできなくなるんだ。老いて体がいうことをきかなくなってみろ。石を足の上に載せることもできなくなるんだぞ。つまり、老いれば自分の求めていることができなくなるのだ。となれば、それは苦へとつながる。老いは苦を生むのだ。すなわち、老いは苦なのだ。結局、一時的には快楽を得ても、苦からは逃れていない。同じように、マハーナーマよ、老いれば聖典だって読めなくなる。それに自分の読みたい聖典が手にはいらなかったらどうする。結局は、手に入れられないという苦しみを味わうだけだ。すなわち、苦の呪縛からは逃れられないのだ。俺は、何度も考察してみたよ。しかし、やっぱり無理だった。この世は苦の世界である、というのは絶対的な真理なんだよ。」 コーンダンニャのこの言葉に仏陀は目を輝かせた。 「そうだ、その通りだコーンダンニャ。あなたは、一歩覚りに近付いた!。」 仏陀のこの言葉に、皆が驚いた。なかでも一番驚いたのはコーンダンニャ自身であった。 「えっ、ほ、本当ですか?。覚りに近付いているのですか?。」 「そうだよ、コーンダンニャ。この世は苦の世界である、ということが真理として受け止められたなら、それは覚りへの第一歩を踏み出したことなのだ。この世が苦の世界であるという認識が得られなければ、次の段階へは進めない。私が次に説くことは、理解できないのだよ。」 「そ、そうなのですか・・・。では、この世は苦の世界である、という理解は、世尊の教え、すなわち覚りにいたるための基本なのですね。」 「そうだ、そうなのだよ、コーンダンニャ。このことが理解できぬようでは、先へは進めない。さぁ、他のものも、『この世は苦の世界である』ということをよく考察してみるがいい。」 この言葉に、コーンダンニャ以外のものたちは、彼に追いつこうと、必死で仏陀の言葉を考えて見たのであった。 「世尊、世尊よ。俺は・・・いや私は、世尊の教えがもっと聞きたい・・・です。どうか、私を覚りへと導いてください。」 コーンダンニャは、姿勢を正して、深く頭を下げるのであった。 「コーンダンニャ、汝はすでにもう私の弟子である。私の言葉をよく聞き、瞑想するがいい。そうすれば、必ずや真理の世界に至るであろう。」 その近くでバッティアが叫んだ。 「わかった、わかったぞ。そうだ、この世は苦界だ。苦の世界なんだ。間違いない。どんな快楽を持ち込もうとも、この世のものは苦を免れないのだ。」 続いてマハーナーマ、バッパ、アッサジも次々と顔を上げて 「わかった。確かに、この世は苦界なんだ。それはゆるぎない真理なのだ。」 と叫んだのであった。 「来たれ修行者よ。汝らは、今私の弟子となった。この世が苦の世界であると認識したものたちよ、さぁ、覚りに向かって歩もうではないか。」 仏陀の言葉に、皆の顔が輝きだしたのであった。そして、仏陀は、彼らに次の真理を説き始めたのであった。 「さぁ、では次の段階に進もう。この世が苦の世界であると認識したあなたたちは、苦の原因を知ることが大事である。苦の原因とは何か、わかるかね?。」 こうして、仏陀の教えが始まったのである。 42.執 着 「苦の原因・・・ですか?。」 コーンダンニャたちは、怪訝そうな顔をした。 「苦に原因なんて・・・あるのだろうか?。」 その様子を見て仏陀は言った。 「この世に原因のないことはありません。どんな現象・事象にも、すべて原因があります。物事は、原因なくしては起こりえないし、活動し得ないのですよ。ですので、苦にも必ず原因というものがあるのです。苦の元、ですね。それはなにか、よく考えてみなさい。」 仏陀にそう教えられ、五人の修行者は、苦の原因について考え始めたのだった。 (苦の原因ねぇ・・・。そうだな、ちょっと具体例をあげて考えてみようか。まずは、老いだ。世の人々は老いを嫌がる。老いるのは嫌だ、いつまでも若々しくありたい、そう願っている。が、しかし、生きている以上、老いるのは仕方がない。老いたくないのに老いなければいけないから、老いは苦なのだ。望まないことをさせられるのだから、それは苦しみなのだ。あ、そうか、待てよ・・・・。望まないことをさせられる、それが苦しみの元じゃないか?。むむむ、そうだ、そうだ、ちょっと待てよ、整理してみよう。 いいか・・・、老いは苦である。なぜなら、老いたくないからだ。老いたくないのに老いてしまうから、苦なのだ。ということは、老いは苦である、という真理の原因は、老いたくない、という願い・・・願望にあるわけだな。そうそう、ということは、願望・・・つまり、こうありたいという欲望なんだな。そうか!。苦の元は、欲なのか!。) 「わかりましたした、世尊。」 そう手を上げて叫んだのは、コーンダンニャであった。 「ほう、わかったかね。では、いってみなさい。苦の原因とはなにかな?。」 「苦の原因とは、欲望です。欲があるから苦があるのです。」 「そうだ、その通りだ、コーンダンニャ。よくぞそこまで至った。」 この答えに、マハーナーマが質問をした。 「苦の原因は欲、とコーンダンニャはいうが、本当にそうなのだろうか?。よく私はわからないのだが・・・。説明をしてくれないか。」 「コーンダンニャ、皆に教えてあげなさい。」 仏陀は、そう優しく告げた。コーンダンニャは、仏陀に促され、皆に苦の原因は欲である、という結論に至った経緯を話しだした。 「例をあげて考えてみればいいのだ。たとえば、老いだ。老いは苦である、というのはわかるよな。」 他の四人がうなずいた。 「じゃあ、なぜ老いは苦なのだ?。わかるか?。私はそこを考えてみたんだよ。」 その問いかけに、バッパが答えた。 「そりゃ、老いは苦だよ。身体が弱るし、醜くなるし・・・・。力仕事もできなくなる。」 「みんなから相手にされなくなるし、嫌われる。」 アッサジが口を挟んだ。 「そうそう、老いるということは、少しもいいことはない。だから苦であるんだ。そうだろ?。」 「おいおい、そうじゃないだろう。そこでとどまるから、苦の原因がわからなくなるんだ。もう一歩進めて考えてみろよ。」 「もう一歩進めて?。どういうことだ?。」 「老いれば身体が弱くなるから苦しい。これはいい。確かにそうだ。じゃあ、なぜ、身体が弱ると苦しいのだ?。」 「そりゃあ・・・、思うように身体を動かせないし、若い頃のように身体が自由にできないからだろ。」 「そうそう、老いれば身体を自由にできないんだな。身体を自由にしたい、と思うのはどういうことだ?。」 ここまでコーンダンニャが説明をしたとき、アッサジが叫んだ。 「あ、わかった!。わかったよ、コーンダンニャ。それって、願い、というか願望なんでしょ?。」 「そうだ、アッサジ。その通りだよ。」 「どういうことだ?。」 それまで黙っていたバッティアがぼんやりとした表情で聞いた。それにアッサジが答えた。 「願望だよ、バッティア。誰だって老いたくないだろ。だけど老いはやってくる。みんな年はとるんだ。本当は、年はとりたくないんだけどね。そこなんだよ。その、本当は年をとりたくない、というのは望み、つまり願望だろ。それは欲望でもあるわけなんだ。」 「あぁ、そうか、そういう意味か。わかった。そうだな、身体を自由に動かしたい、シワを増やしたくない、醜くなりたくない、嫌われたくない、そういう思いはすべて願望、つまり欲だと、そういうことだな。」 「そうだ、バッパ。ようやくわかったな。マハーナーマやバッティアはどうなんだ?。」 コーンダンニャは、他の二人に尋ねた。 「もちろんわかたっよ、今、他の苦についても当てはめて考えていたんだ。それによると、確かに苦しみの原因は欲にあるということが、よくわかったよ。」 「あぁ、俺もわかった。苦の原因は欲だ。」 マハーナーマもバッティアも、苦の原因は欲だ、ということを理解したようだった。 この様子を仏陀は、優しげな顔をしてながめていた。 「世尊、みんな苦の原因は欲である、ということがわかったようです。」 「よく理解した。そこでだ、もう少し掘り下げてみよう。苦の原因は確かに欲である。しかし、単に欲だけであろうか?。欲があるから苦しむのだろうか?。欲なら誰にでもある。仏陀である私にもある。」 「えっ?、世尊でも欲があるのですか?。」 「もちろんある。たとえば、腹がすけば何か食べたい、と思う。これは欲であろう。疲れてくれば休みたい、横になりたい、そう思う。これも欲であろう。身体が汗や埃で汚れてくれば、沐浴をしたいと思う。これも欲だろう。しかし、私は苦しんではいない。わかるかね?。欲はあるのに苦しんではいない。ならば、欲は苦しみの原因とは言い切れないのではないか?。」 仏陀にそういわれ、皆は頭を抱え込んでしまった。ようやく苦の原因に至ったのに、また振り出しである。 「覚りを得た仏陀にも欲はある。なのに苦しんではいない・・・。ということは、苦の原因は欲ではないのか・・・?。」 「いやいや、そうではないよ、コーンダンニャ。欲は苦の原因になりうることは間違いないのだよ。先ほど、汝が言った通りだ。だが、もう一歩至っていない。つまり、苦の原因は欲である、という答えでは不十分なのだよ。」 仏陀の言葉を受け、 「苦の原因は欲である、というのは間違いではない。だが、もう一歩至っていない・・・か。」 マハーナーマがそうつぶやいた。 「世尊にも欲はある。・・・・・う〜ん、欲の種類が違う、のかなぁ・・・。」 「どういうことだ、アッサジ。」 コーンダンニャがアッサジの独り言に引っ掛かった。 「うん?、いや、世尊と我々凡人とは、欲の種類が違うのかな、って・・・。まあ、そんなことはないよね。僕たちだって、腹がすいたと思うし、疲れたら寝たいと思う。汚れたら沐浴したいと思うしなぁ・・・。欲は同じだよな・・・・。」 「そうか・・・。う〜ん、ちょっと待てよ、もう少しだ、ここまで出掛かっているんだが・・・。もう少しでわかりそうなんだがな。・・・欲の種類・・・か。」 「いや、だから欲の種類は同じだろ。」 バッティアが、コーンダンニャに突っ込んだ。 「いや、そこだよ、そこ・・・・。仏陀と我々とどこが違うのか、ということだよ。欲の種類は同じなのに、仏陀には苦はない。我々には苦はある。なぜだ・・・・。」 「あぁ、なるほど・・・・。そこがわかれば、苦の原因もわかるんだな。」 「種類が違うのではなく、欲に対する思いが違うんじゃないか?。」 バッパが、ぼそりとつぶやいた。 「思い?。・・・・・あぁ、それだ!。欲に対する思いだ。さっき、俺は願望といった。欲というよりも願望といったほうがあっていたんだ。」 「願望?。」 「そうだよ。願望だよ。つまりだ、欲に対する強い思いだよ。仏陀にも欲はあるが、その欲は願望というほどのものではないのだ。」 「あぁ、なるほど。思い入れか?。」 「そうか。つまり、欲に対する執着心だな。」 「そうだ、そうなんだ。つまり、欲にこだわるかどうかが問題なんだ。」 そこまで話し合いが進んだとき、コーンダンニャが立ち上がって、大きく両手を広げた。 「待て待て、勢いで進むな。ここでよく考えよう。いいか。仏陀にも欲はある。しかし、我々の欲とは違う。どこが違うのかといえば・・・。」 「その欲にこだわっているかどうか。」 「そうだ。たとえば、腹がすく。何か食べたいなと思う。仏陀もここまでは思う。ここでだ、食べ物がなかったとしよう。普通、腹が減っても食べ物がなければ苦しむ。食いたい、何か食べたい、と欲にさいなまれる。もう食べたい一心だな。それだけ空腹にこだわっているのだ。これは苦しみだ。仏陀は、苦しまないといっているのだから、そこまで執着しない、ということだろう。空腹であっても、そのまま過ごせる・・・・。そこが違うんだ。」 「つまりだ、苦しみの原因は、欲にこだわる、執着する、ということだな。」 「そういうことだよ。老いるのが苦だと感じるのは、老いたくない、という欲にこだわるからだ。老いたくないと執着するからだよ。」 「世尊、わかりました。苦の原因は欲に執着するからです。」 コーンダンニャが、みんなを代表して答えを出した。 「よく至った。その通りだ!。苦の原因とは、欲に対する執着なのだ。たとえば、老いは苦である、という原因は老いたくない、とこだわる気持ちがあるから、老いが苦になるのだね。老いてもいい、老いるのは当然だ、と思っていれば老いは苦ではなくなる。同じように他の苦についても考えてごらん。」 「病は苦である、ということの原因は病になりたくない、健康でいたい、とこだわるからですね。病気になるのは当たり前だ、病気になってもいいじゃないか、と病気を受け入れてしまえば、苦ではなくなるのですね。」 コーンダンニャが答えた。 「死もそうですね。死にたくない、と思うから死が苦しみになるのですね。生まれた以上、死ぬのは当然である、と死を受け入れてしまえば、死は苦ではなくなるのですね。」 アッサジが答えた。 「会いたくない人と会うのは苦である、ということの原因は、嫌な相手と会いたくない、絶対嫌だ、会いたくない・・・・と思い続けているから苦しみになってしまうのです。嫌な相手と会うこともあるものだ、と理解していれば・・・嫌な相手でも受け入れてしまえば、苦ではなくなる。」 バッパが答えた。 「別れたくない者、手放したくないものと別れるのは苦であるという原因は、人や持ち物に愛着・・・手放したくない・別れたくないという深い愛情があるからなんだ。そうだ、愛という執着がいけないんだ。会えば別れがある、手に入れれば手放すこともある、と思えば・・・・苦しむことはないんだ。」 マハーナーマが答えた。 「欲しいものが手に入らない・・・・、それは苦である。その原因は、そうだな、それこそ願望、欲に執着する心がいけないんだ。欲しいものが何でも手に入ることはない、手に入らないこともある、と思っていれば苦しむことはない。」 バッティアが答えた。 「身体と心の不安定な関係もそうだな。身体や心というものは不可思議なものだ。調子が悪くなることもある、と理解して、静かに過ごしていれば苦しむこともない・・・・よな。こうして理解すれば、この世に生まれて苦しいということも、生まれたことに執着するからだ。生まれた以上、苦を味わうのは当然だ、と苦を受け入れてしまえば、何のことはない。苦しみはなくなる。こういうことですよね、世尊。」 コーンダンニャが再び答えた。 「そうだ、その通りだよ。苦の原因は何かに執着するからなのだ。執着心がすべての苦の原因なのだよ。では、もう一つ汝らに聞く。なぜ執着するのだろうか?。わかるかね?。」 仏陀は、みんなの顔を見回して尋ねた。五人の修行者は、また難しい顔をする羽目になったのだった。 43.無 明 「なぜ執着するか・・・・ですか?。」 コーンダンニャたちは、またまた困った顔をする羽目になった。 「あぁ、折角苦の原因にたどり着いたのに、今度はその苦の原因の原因か・・・・。なぜ執着するのか、か・・・。そんなこと、なぜといわれても・・・・。」 ようやく苦の原因が執着心であることにたどり着いたコーンダンニャたちであったが、さらにその原因を?と聞かれ、疲れ果ててしまったようだった。そんな彼らを見て仏陀は優しくいった。 「うぅ〜ん、難しいかな?。ちょっと汝らも疲れているようだ。これは苦行ではない。少々休むがいい。考えを休めることも大事なことだ。働き続けていては、いずれ倒れてしまうものだからね。」 「えっ?、休んでいいのですか?。でも、それでは悟りには至れないのではないでしょうか?。」 仏陀の思わぬ言葉にアッサジが驚いて聞き返した。 「いや、いいのだよアッサジ。休むことも大切なのだ。汝らは、先ほどより、考えをめぐらせている。今まで無かった考え方をしている。これはことのほか疲れることであろう。疲れきった頭でいくら考えても、いい考えは浮かばない。そんな状態でいくら瞑想しても、私の教えは入っていかないだろう。そういう時は、休む方がよいのだよ。ゆっくりと休んで、それから再び瞑想すればよいのだ。」 この言葉を聞いて、コーダンニャは仏陀がかつて苦行をしていたときのことを思い出した。究極の苦行であった断食をしていたときのことである。あの時、今ここにいる仏陀は苦行では覚れないということを覚った、といった。それは確かにその通りであった。コーンダンニャたちは、いくら苦行をしても覚りは得られなかったのだ。疲れ果てた肉体、疲れきった精神では、何も得られなかったのだ。修行は苦しみであってはならない、快楽であってもならない。苦でもなく、楽でもない、どちらにも偏らない状態でなければ正しい道は得られない。仏陀は確かにそう言った。コーンダンニャは、今この言葉の真の意味を知ったのであった。 「世尊のおっしゃるとおりだ。我々は、ちょっと疲れている。いや、相当疲れている。今まで聞いたことも無い教えを聞き、それを理解しようとして一生懸命に考えてきた。ちょっと限界かもしれないよ。そんな状態では、世尊の教えを理解することはできないだろう。ここは少し休憩を取ろうではないか。それに先ほどから座りっぱなしだ。少しは歩かないとな。」 「あぁ、そうだな。俺もちょっとぼんやりしだしたよ。これじゃあ、頭が働かない。そうだな・・・、果物でもとってこよう。」 バッパは、そういって立ち上がると、バッティアを誘って森の方へと歩き出した。それをきっかけにそれぞれ伸びをしたり、ぶらぶらと散歩をしたり、水を汲みに行ったりしだしたのだった。 (これでいいのだ。この程度の進み具合でないと、私の至った境地の入り口にも至れないだろう。一日で苦の原因を理解できたところまで来れただけでもよい方だ)。 仏陀は、コーンダンニャたちの姿を眺めながら、一人微笑んでいたのであった。 「さぁて、休憩も取ったし、のども潤った。では、考えてみるとしよう。なぜ人は執着するのか。」 コーンダンニャが他の四人に問いかけた。 「う〜ん、それは・・・・。う〜ん・・・・。」 「おいおい、うなってばかりじゃあ、答えは出ないぞ。」 「そんなこというがコーンダンニャ、お前はわかるのか。」 「う〜ん、そうだな・・・。う〜ん。」 「なんだ、結局うなっているじゃないか。この愚か者が!。」 「な、なんだとマハーナーマ、よくもいったな!。愚か者とは・・・・なんだ・・・・。うん?。」 「どうしたんだコーンダンニャ。さっき食べた果物にあたったのか?。」 「いや、違う。愚か者・・・だ。愚か者だよ。愚か者って、考えが及ばないもの、気付かないもの、ぼんくら、バカなヤツ・・・ってことだよな。」 「そうだ、その通りだ。執着の原因は、と聞かれ、その答えに気付かない我々のようなバカモノのことだな。・・・・あっ、そうか。ひょっとして・・・。」 「バッパも気付いたか。そうだよ。なぜ執着するのか・・・・。」 「あぁ、そういうことか。」 「そうだ。みんな気付いたか?。」 コーンダンニャの問いかけに、皆がうなずいた。 「じゃあ、いっせいに答えを言おうか。なぜ、執着するのか。それは・・・せ〜の!。」 「愚か者だからだ!。」 五人は一斉に叫んだ。その様子を見ていた仏陀は、微笑んで静かにった。 「そうだ、その通りだ。よくわかったね。」 「はい、わかりました。わかりましたよ。」 「では、これまでのことをまとめてみなさい。」 「はい、まとめてみます。苦の原因は、自ら抱く願い・欲求に執着するからです。なぜ執着するのかというと、この世は苦の世界である、という真理を知らないからです。つまり、苦しみが自らの欲求に執着するところから生まれる、という真実を知らないことが、そもそもの間違いなのです。苦しみが、自分の欲求に対する執着心だと知れば、欲求に執着することは無くなり、苦しみは遠ざかっていくでしょう。ですから、苦の原因は執着心であり、その執着心が起こるのは、苦の原因を知らないという愚かさにあるのです。大元は、自らの愚かさにあるのです。」 コーンダンニャが、皆を代表して苦の原因についてまとめたのだった。 「そうだ、その通りだ。よくぞ至った。苦の原因は、さまざまな欲望に対して執着心を起こすことにある。物質に対しても、精神的な事柄に対しても、人は執着心を起こすものだ。ではなぜ執着してしまうのかといえば、執着が苦の原因になりうるということを知らないからなのだ。執着が苦の原因になると知れば、執着しないようにと自らを制御するであろう。つまりは、苦の原因は執着心にある、という真理を知らない愚かさがすべての元凶なのだよ。すなわち、一切の苦しみの原因は、愚かさ・・・・真理を知らない愚かさ、真理を知ろうとしない愚かさ、真理に気付かない愚かさにあるのだ。こうした自らの愚かさを認めようとせず、苦しみにさいなまれ、煩悩の渦に巻き込まれているものには明るい未来は無い。そのようなものは暗闇を手探りで歩いているようなものなのだよ。」 「暗闇を手探りで・・・・。俺たちもそういう愚か者だったんだな。光の無いところで手探りでうろうろしていただけだったんだ。」 「そうだね。しかし、今は違いますよ、コーンダンニャ。今は、私たちにも光が差しています。世尊が説いてくださる教えという光が。」 「アッサジ、いいことをいうじゃないか。そうだな、我々には光が差している。覚りへと導く光だ。」 「そうだ、そのとおりだよ。私の教えは、汝らを覚りの世界へと導く智慧の光なのだ。この智慧の光をたどっていけば、必ずや覚りにいたることができよう。汝らは、光のない世界、無明の世界より脱出したのだよ。」 「そうか、そうだな。我々は暗闇の世界から脱出したのだな。あぁ、よかった・・・。あのまま苦行を続けていても、何も気付かずに愚かなままで終わったに違いない。・・・・しかし、まだ我々は覚ったわけではない。まだ、真理に至ったわけではない。ほんの少しかじった程度だ。そうですよね、世尊。」 「そうだ、バッティアの言うとおりだ。汝らは、ほんの入り口に立ったに過ぎない。しかし、この世は苦の世界であるということを理解し、苦の原因が執着にあり、その元が愚かさ・無明にあることを知った。ならば、あとは、その無明を消し去りすれば、執着は消え、苦も消えるのだ。そうすれば心静かな境地に至ることができるのだよ。」 「それには、どうすればいいのですか。どんな方法で修行すればいいのでしょうか。」 「そうです。その方法を解き明かしてください。私たちは、この世界が苦の世界であることを理解しました。このことに関して微塵も疑いを持っていません。また、その苦の原因が執着心にあることにも至りました。そして、その執着心は真理を知らない愚かさから生まれることも知りました。ならば、私たちは、その愚かさを消し去り、執着心から解放されたいです。執着心をなくすためには、どうすればいいのか知りたいのです。どうか世尊よ、その方法を教えてください。」 コーンダンニャたち五人の修行者は、口々にそう叫ぶと、順に仏陀の前に両手を投げ出し、額を仏陀の足につけ礼拝したのであった。 「汝らの決意は、よくわかった。ここまで汝らは真剣に考え、真理を理解しようとした。その気持ちがあるならば、汝らは必ずや覚りに至れるであろう。 では、これより覚りにいたる方法を解き明かそう。よく聞くがよい・・・・。」 このようにして仏陀は、 この世が苦の世界であるという認識(苦)、 苦の原因が欲に対する執着心にあるという認識(集)、 その執着心を滅すれば覚りに至れるのだという認識(滅)、 を教えたのであった。そして、いよいよ、 その執着心を消し、無明という愚かさから抜け出る方法(道) を説き始めたのであった。 44.正 道 コーンダンニャたちは、いよいよ覚りに至れる方法を教えてもらえるということで、興奮気味であった。それを見て仏陀は 「覚りに至る方法は、とんでもない神通力を使ったり、激しい修行をしたりするものではない。大変静かで、落ち着いたものである。だから、あなたたちは心静かに聴かねばならない。さぁ、呼吸を整えよ。心を落ち着かせるがよい。」 と諭した。 「あぁ、世尊は、すべてを見抜かれている。私たちは、興奮気味でした。こんな状態では、世尊の言葉を聞き漏らすこともあるでしょう。あるいは、聞き違えることもありましょう。世尊のおっしゃるとおりです。私たちは、まず呼吸を整え、心を鎮めます。」 そういうと、コーンダンニャたちは、鼻からゆっくり長く息を吸い込み、全身の不浄なるものが外に出されるよう瞑想しながら、ゆっくり生きを吐き出しだ。そうしているうちに、彼らはまったく波立っていない池のように、静かで落ち着いた心になっていったのである。その様子を見て、仏陀は静かで、それでいて力強い声で話を始めた。その声によって五人の心は掻き乱されることは決してなかった。 「覚りに至るには、あなたたちは正しい道を歩まねばならぬ。正しい道とは、苦行にも快楽にも偏らない、あるいは、どんな思想にも偏らない、平等な道である。その正しき道は、八つある。 まず第一は、正しく見ること。これは、すべてをありのままに見る、ということである。偏った見方をしてはいけない、どちらか一方だけしか見ないのではなく全体を見る、自分の欲目で見たり、願望を持った眼で見たりしてはいけない、そのものの本質を見る、ということである。人は、こうであって欲しいという思いでものを見るため真実の姿は見えてこない。欲に目がくらんでそのものの真実の姿を見失うのだ。また、外見に誤魔化され、そのものの本質を見ないことがよくあるのだ。そうして、人々は、真実の姿を見失ったり、見ようとしなかったりするのだよ。まずは、ありのまま、真実の姿そのままを見ることなのだ。それがあなたたちがすべき第一のことである。これを正見という。」 「まず私たちがしなければならないことは、すべてに対し、ありのままを見る、ことなのですね。」 「真実の姿を見る・・・ことなのですね。」 「そうだ、あなたたちは、真実の姿を見なければいけない。存在するもの、すべてをあるがままに見ることなのだよ。これは、大変難しいことなのだ。あなたたちにできるかな?。」 仏陀は、優しく問いかけた。 「もちろんですとも、世尊。我々は、すべての存在をあるがままに見るように修行したします。」 その答えを聞いて、仏陀は優しく微笑んだ。 「よろしい。では、第二の正しき道を説こう。それは、正しく考える・・・・正しく思惟することである。正しく思惟するとはどういうことであるか・・・・。それは、正しく見たものを素直に受け入れ、どんな思想にも左右されずに考察することである。あらゆる存在をありのままに見ることができても、ただ見ただけでは何もならない。その見たものを素直に受け入れ、そのものについて、ありのままに考察することなのだ。そこには、こうであって欲しい、こうであるといいな、などという欲や願望が含まれてはいけない。自分の偏った思いを挿入してはいけないのだ。あるがままに見たら、あるがまま受け入れ、あるがままに考察することである。 人は、自らの真実の姿を見ようとしない。多くは他からの指摘によって気付かされる。他人から指摘され、初めて己の真実の姿に気付くのだ。ところが、多くのものは、それを素直に受け入れない。他からの指摘は余計なお世話になるのだ。その指摘によっては、腹を立てたり、落ち込んだり、無視したり、様々な反応を示す。しかし、どれも正しい反応ではない。正しい反応とは、指摘を受けた事柄に対し、素直に見つめ、素直に考察することなのだ。己の真実の姿を見ようとし、そして考察する。これは、己のことだけではなく、すべての存在について応用させねばならない。 すなわち、あなたたちはすべての存在に対し正しく見たならば、それを素直に受け入れ、その見たままの姿を何ものにも偏らず考察することである。これを正思惟という。理解できたであろうか?。」 仏陀の問いかけに、アッサジが答えた。 「はい、世尊。正直にいいまして、大変難しいことだと思います。私たちは、ついつい自分の願望や欲望をはさんで、物事を考えてしまいます。こうであって欲しい、こうであったらいいな・・・・などと、つい希望的観測をしてしまいがちです。これでは、正しい思惟にはなりません。正しい思惟とは、大変難しいことです。」 「アッサジよ。よく気付いた。自分に偏った考え方がある、ということを素直に認めること、それがこの正思惟の第一歩なのだよ。 皆のものもよく聞きなさい。あなたたちは、まず己の心をよく見ることです。己の心が如何なるものか、よく見るのです。そして、己の心をよく見極めたら、それを素直に認め、よく考察することです。何がよくて何がいけないのか・・・。アッサジのように、己に偏った思考があることを素直に認めることです。そうすれば、偏った思考を捨てることができるでしょう。」 「世尊、私にも偏った思考があります。それは欲に目がくらんでいるからでしょう。私は、これより己の真実を見て、己の誤った思考を、なんの偏りもない正しい思考に切り替えるよう努力いたします。」 マハーナーマの宣言に、他のものも口々に同様の宣言をした。 「よろしい。では、第三の正しき道を示そう。それは、正しい言葉を使うことである。正しい言葉を使うとはどういうことであるか。それは真実を語ることであり、余計なことは語らぬことである。すなわち、語るべき真実は語ってよいが、いくら真実であっても語ってはいけないことは語らないことなのだ。何かを語るときは、真実以外は語ってはならぬ。うそをついたり、悪口を言ったり、ふざけた言葉を使ったり、乱暴な物言いをしたり、騙すようなことを言ってはならない。また、いくら真実であっても、語っていいことでなければ黙して語らず、を貫くのだ。 言葉は恐ろしいものである。言葉一つで傷つけたり、命を奪ったりすることもある。真実以外は口にしない、また、真実であっても語るべきでないことは沈黙を守ることだ。これが正しい言葉を使うこと、すなわち正語である。」 「世尊、これなら簡単にできそうです。今からでもすぐに可能です。」 コーンダンニャが、勢いよく答えた。それに対し、バッパが指摘した。 「そうかなコーンダンニャ。君は、いつも口数が多いように思う。正しい言葉遣いに関しては、君が一番努力を要するのではないか?。君はいつもよくしゃべるからね。」 この指摘に、他のものもうなずいた。 「そ、そなんなことはないだろう。俺、いや、私はそんなにしゃべらないよ。」 コーンダンニャのあわてた物言いに、バッティアがぼそりとつぶやいた。 「他人からの指摘は、素直に受け入れてみて、よく己を見つめるべきだよ、コーンダンニャ。」 その言葉に、コーンダンニャは、一瞬固まった。 「そ、そうだ。バッティアの言うとおりだ。そうだな、これからは気をつけるよ・・・・。」 コーンダンニャは、そういうと萎れてしまったのだった。 「コーンダンニャ、そんなに落ち込むことはない。これから気をつければいいことだ。それにバッティア、よくぞ言った。それこそまさに正しき言葉である。よいかな皆もの、必要なことは語ってもよいが、必要ではないことは語るべきでない。また、語るときはその言葉は真実でなくてはならない。ウソ・悪口・ふざけた言葉・二枚舌・噂話などの無駄話は慎むようにすることだ。」 仏陀の言葉に、みんな口を慎むことを心に誓ったのだった。 「さて、第四の正しき道である。それは、正しい行動をすることである。正しい行動とは、他の命を奪わないこと、暴力を振るわないこと、他のものを盗まないこと、盗み見や盗み聞きをしないこと、異性や同性に対し淫らな行為をしないこと、また、淫らな想像をしないこと、である。これを正業という。」 「これこそ、基本中の基本です。我々は修行者ですから、暴力は振るいません。他のものを盗んだりもしません。ましてや淫らな行為など、することは決してありません。」 コーンダンニャの言葉に、仏陀は 「果たして、そうであろうか?。」 と疑問を投げかけた。それをきっかけに、五人の修行者は、 「そんなことはしないよな・・・。」 「あぁ、今までそんなことはしなかった。」 「世尊は、疑っているのであろうか。」 とささやきあった。 「わからぬようであるな。では、教えてあげよう。かつて、あなたたちが苦行をしていたとき、その苦行を怠ったものに罰則を与えなかったであろうか?。」 「あっ、そうだ・・・。ムチ打ちの罰を与えたりしました・・・。」 「それは・・・確かに暴力だ。」 「そうだね。それは、まぎれもなく暴力なのだよ。あなたたちは、暴力行為をしていた。つい最近までそうだったのではないかね?。ということは、これからも、私の教えに従わなかった修行者に対し、罰を与えることをしないだろうか?。」 仏陀のこの言葉に、みなの者は、下を向いて小さくなってしまった。 「よく思い出してみるがよい。自分以外のものがどのような修業をしているのか、覗き見をしたことはないであろうか?。他の修行者たちが話し合っていることに対し、聞き耳を立てていたことはないであろうか?。托鉢などの最中、村々の娘に邪まな思いを抱かなかったろうか?。今までの己の行動、すべてが正しきものであっただろうか?。今後も、正しく行動できるであろうか?。」 「世尊、よくわかりました。私たちは、今まで、正しき行動をしていた、と自信を持っていえません。今後は、正しき行動をするよう、努力いたします。」 「そうだ、その気持ちが大事なのだ。今後は、正しき行動を心がけることである。」 「次に第五の正しき道を示そう。それは、正しい生活を営むことである。正しい生活とはどういうことか。それは、一切の無駄を省き、欲を制御し、他の正しき道を妨げなく修行できるようにする生活である。それには、規律正しい生活を心がけねばならない。これを正命という。」 「具体的にはどうすればいいのでしょうか?。」 「それには、一定の決まりを設ける必要がある。これを戒律と名づけよう。では、あなたたちに合った生活の仕方を教えよう。これらは、すべて戒律として覚えておく必要がある。 まず、日の出と共に起床せよ。臥具は自ら片付けておくこと。起床したなら、口を漱ぎ、沐浴をせよ。沐浴できぬときは、顔を洗うこと。そうして絶えず清潔を心がけることだ。そのためには、頭髪や髭は剃っておくこと。頭髪があればノミやダニがわくし、不潔になる。髭も食べ物をとるとき、髭に付着して不潔感を与える。外見も心も清潔を忘れてはならぬ。 沐浴が終わったら、清潔な衣を身につけよ。身につけるものは、下衣、中衣、袈裟である。この三つの衣以外は身につけてはならぬ。身辺を清潔にし、掃除・片付けが終わったならば、托鉢に出よ。食事は、すべて托鉢でまかなうこと。なお、食事は午前中で済ます。午後からは、果物や水分を取ることはよい。托鉢以外に、修行場を出てはならぬ。どうしても出なければいけないときは、皆と私の許可を得ることだ。 食事は、皆で集まって話をしながらとってはいけない。木の下など、静かに食事ができるところを選び、一人で食事をすること。 食事が終わったら、午後からは瞑想をせよ。また、瞑想ばかりでは身体によくない。一定の瞑想が終わったら、木の周りを歩いたり、修行場を歩いたりすること。瞑想の時間は個人個人に合わせればよい。 日が沈むのにあわせ、就寝せよ。ここには、灯すべき火はない。夜、長く起きていても修行にはならない。あなたたち修行者は、夜は早く寝るにこしたことはない。 また、沐浴についてであるが、毎朝するように。さらには、排便後にもするようにせよ。清潔は、生活の基本である。絶えず清潔を心がけ、身の回りをきれいにしておくことだ。我らに必要なものは、三つの衣と托鉢用の鉢のみである。それ以外は、所持してはならぬ。 生活するうえで、不自由なこと、困ったことがあった場合、修行者仲間で話し合って対処せよ。必要ならば、決まり事である戒律を増やしてもよいし、なくしてもよい。最終的に、我々修行者にとって必要な決まりか、不必要な決まりかは、私が判断しよう。さて、何か質問はあるかね?。」 「わかりました。ほぼ今までの生活と変わりはないようですので、私たちにもにも無理なく過ごすことができます。」 「増えたことといえば、所持品は三つの衣と鉢だけ、ということと、沐浴をすること、剃髪と髭を剃ること、です。あぁ、私には、髭も髪もあります。早速、両方とも剃り落とします。」 「そうだバッティア。前から思っていたのだが、そのボサボサの髪と髭は、あまりにも不潔だ。それと、毎日沐浴をしろよ。」 コーンダンニャは、先ほどのお返しなのか、バッティアに指示をした。 「バッティアだけではない。皆のものも清潔を心がけることだけは決して忘れないように。清潔は生活の基本である。このことを忘れてはならぬ。心も身体もいつも清潔にしておくことだ。」 「はい、世尊、よく心得ておきます。」 五人の修行者は、力強く返事をしたのであった。そして、 「では、明日から正しい生活を実践いたします。」 と誓ったのであった。仏陀は、 「そう、まだ残りの正しき道を説かねばならぬ。それが終わったら、明日より正しき修行ができるよう、今日から準備しておくがよい。では、続きを話そう。続いて、第六の正しき道である。」 仏陀の話は続いたのであった・・・・。 |