ばっくなんばー10
45.阿羅漢 「第六の正しき道、それは、正しく努力することである。正しく努力するとはどういうことか。それは、今まで私が説いてきたこと、正しくものを見ること、正しく考えること、正しい言葉を使うこと、正しい行動をすること、正しい生活を送ることを、忘れずに実践することである。また、あなたたちには、これより様々な誘惑が訪れる。悪魔が耳元でささやくことであろう。『これぐらいは大丈夫さ・・・』と。しかし、その悪魔の誘惑に耳を貸さず、怠りなく正しき道をまもること、これが重要であるのだ。このことを正しき努力というのである。汝ら怠ること無かれ、迷いや誘惑に負けることなかれ、正しく勇気を持って突き進むが善い。それが正しい努力というものだ。これを正精進という。」 「わかりました。私たちは怠らぬよう、覚りを得るために、たゆまぬ努力をいたします。」 コーンダンニャがそう答えると、一人アッサジがつぶやいた。 「そういえば、今までもそうでした。疲れてくると、まあいいや、明日で・・・。という気持ちをよく起こしていました。特に僕はよく怠けていたように思います。これくらいはいいか、ま、明日にしよう・・・・。それが僕の心の中の口癖だったように思います。うん、明日から、いや、今日から僕は怠け者を辞めます。怠ることなく、迷うことなく、努力していきます。覚りを得るために!。」 「そうだアッサジ、その心が何よりも大事だ。覚りを得るために怠けることなく努力し続けよう、どんな困難があってもへこたれることなく努力しよう、というその気持ちが大切なんだよ。その気持ちがあれば、覚りを得ることはできるであろう。そう、その覚りを得たい、覚りを得るために努力をし続けようという決意のことを、発菩提心(ほつぼだいしん)という。その気持ちを忘れてはならない。」 仏陀のその言葉に、五人はゆるみ気味であった気持ちを引き締めたのであった。 「続いて、第七の正しき道を示そう。それは、正しく念じることである。正しく念じるとはどういうことであるか。それは邪念を持たぬと言うことである。邪念とは、疑いの心である。この道で本当にいいのだろうか、仏陀の説くところは本当に正しいのだろうか、仏陀の教えは間違ってはいないだろうか、という疑いを持たぬことである。そして、さらには、悪意のある考えをおこすな、ということである。悪意とは、他人を恨んだり、羨んだり、妬んだりすることである。また、自分の責任であるのに自らの非を認めようとせず、他者へ責任を転嫁することである。自らの責任を認めず、他者を非難する・・・・それは正しい念ではない。すべては自己責任である、自分の至らなさである、自分の徳のなさであると認識することが、正しく念じることである。これを正念という。」 この言葉を聞いて、コーンダンニャは、 「あぁ、それはよくあることです。世間でもよく聞きますし、我々もついついそのような邪念を持ってしまいます。アイツさえいなきゃもっとはかどるのにとか、アイツがヘマをするから、アイツが足を引っ張っているんだ、などと思ってしまうことはよくあります。悪いことは、みな他人の責任、自分は悪くはない・・・・そう考えてしまうことはよくあることです。あぁ、私たちは、如何に正しくない念を持っていたことか・・・・。今日より私たちは、すべての事柄は自己の責任であり、自己の至らなさであり、自己の徳のなさであると認めるように念じます。また、それを説かれた世尊の言葉を決して疑うことはありません。我らは正しく念じます。」 と誓うのであった。この誓いに他の四人もうなずきあったのであった。 「汝ら、今の誓いを忘れずに、正しく念じることである。」 仏陀の言葉を聞く五人のものは、さらに真剣な眼差しとなったのであった。 「さて、最後の正しき道である。第八の正しき道とは、正しく禅定をすることである。正しく禅定をするとはどういうことであるか。それは、たえず冷静で何事にも動揺しない心を持つことである。これがなくては、他の正しき道は実践できないと言ってもよい。まずは、落ち着き、冷静になることである。そのためには、絶えず心静かにしていなければならない。森の奥深くの誰もが訪れたことがないような静かな静かな冷たい湖の湖面のように、何一つ波立たないよう心静かにすること・・・・それが正しき禅定である。なんの執着もなく、静かでどこまでも透き通った心を持つための瞑想、それが正しき禅定である。心が少しでも騒いでいれば、他の七つの正しき道も実践することは困難になってしまうであろう。正しく禅定ができるもの、この者こそが覚りに近いものである。この正しき禅定の実践を正定という。」 「あぁ、世尊のおっしゃるとおりです。私たちは、世尊の覚りへ至る道を聞く前、心が騒いでおりました。世尊の説かれた真実にやや興奮気味でした。ですから、世尊は落ち着くように指導された。まさしくそれが、この正定だったのですね。心落ち着かねば、金言も耳には入りません。心が騒いでいれば、世尊の言葉も聞き漏らすことがありましょう。あるいは、聞き間違いをすることもありましょう。心が落ち着いていること・・・・それはすべてにおいて基本なのですね。」 マハーナーマの言葉に、他の四人もなるほど・・・とうなずきあっていた。 「まさにその通りなのだよ。私が覚りに至る道を説き明かす前に、汝らに呼吸を整えよ、といったのは、正しく禅定ができていなかったからなのだ。正しく禅定ができていなければ、それは心が騒いでいる状態だ。それでは、私の言葉はすべては届くことはないであろう。だからこそ、まずは心を落ち着けよ、といったのだ。正しき禅定は、いつでも行わねばならない。心を静かにすること、それは修行の根本なのだよ。」 「わかりました。さっそく正しき禅定をして、心を落ち着け、他の七つの正しき道・・・正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・・・を実践いたします。」 「覚りへの道は汝らの手元にある。早速、身を清め、実践に入るがよい。」 仏陀の言葉に、皆は力強くうなずくのであった。 仏陀の言葉どおり、五人の修行者・・・コーンダンニャ、アッサジ、バッティア、マハーナーマ、バッパ・・・は、髪を剃り落とし、髭も剃り落とした。そして、近くの泉で沐浴をし、清潔な衣を身につけた。 「おぉ、なんだか生まれ変わった気分だ。とても清々しい。こんな気持ちになったのは初めてだ。」 コーンダンニャが、そうつぶやいた。その姿を見てバッパが 「コーンダンニャ・・・だよな。そんな立派な姿の君を見たことがない。いや、見違えたよ。」 と驚いた声を出した。それは、何もコーンダンニャだけではなかった。 「いや、みんなもそうだよ。今までの姿がウソのようだ。みんな清々しい顔をしている。」 「あぁ、顔や姿だけじゃない。気分も清々しい。なんというか・・・、髪を落とし、沐浴をしたことによって、身体の穢れだけではなく、心の穢れも落ちたような、そんな気分だ。それが顔の表情に出ているのだろう。」 マハーナーマがそういうと、他のものも「そうだな、その通りだ」とうなずくのであった。 「じゃあ、さっそく禅定に入ってみよう。正しく禅定することが第一だからな。」 コーンダンニャの言葉に、みなはそれぞれ適度に離れ、禅定に入ったのであった。あるものは泉のそば、あるものは大きな木の下、あるものは周りが広く見渡せる小高い丘・・・・。それぞれ気に入った場所で禅定に入ったのであった。 仏陀から覚りを得るための実践方法・・・八正道・・・を授けられてから、数日後のことである。コーンダンニャたち五人は、それぞれ自分の気に入った場所で八正道を実践していた。 コーンダンニャは、泉のそばで一人静かに仏陀の言葉を思い出していた。 (俺たちは、今まで間違った修行をしていた。むやみやたらに身体を傷つけていた。苦行こそが覚りへの道だと信じていた。しかし、そうではなかった。世尊のおっしゃるとおりだ。覚りは苦行では得られない。また、逆に快楽でも得られない。覚りとは、そうした肉体的なことを元としていては得られないものなのだ。身体を痛めつけたり、身体で快楽を味わったり、そうしたことは覚りとは遠いところにあるのだ。世尊の言葉からすると、覚りとはこの世の中を正しく認識することから生まれるのだろう。 たとえば、この世は苦の世界である。確かにその通りだ。この現実世界は苦の世界であることを認め、受け入れること、これがまず重要だ。そしてその苦は欲望から生まれる。いや、正しくは欲望に執着することから生まれる。その欲に対する執着心を消してしまえば・・・・おぉ、苦はなくなるのではないか。そうだ、苦を消し去るには、欲に執着する心を消し去ればいいのだ・・・・。) コーンダンニャの瞑想を仏陀は、静かに見守っていた。 (コーンダンニャが悟りに近付いている。彼らは、私と同じ覚りには至れない。その覚りは、悟りでしかない。彼らが至れるのは・・・覚りではなく悟りまでである。これは仕方がないことだ。如来には到達できないことは、仕方がないことだ。しかし、そうはいっても、彼らも輪廻からは解脱できる。それが大切なことであろう。まずは、多くのものを輪廻から解脱させることだ・・・・。おぉ、コーンダンニャは、私の教えを素直に心に刻み込んだ。ついに、彼は預流果(よるが)に至った。他のものはどうであろうか・・・。) 仏陀は、神通力で修行者の悟りの段階を見てみたのであった。 悟りへの道のりには段階がある。それは四向四果(しこうしか)といわれる。第一段階は仏陀の言葉を疑いなく受け入れることであり、預流果(よるが)と呼ばれる。第二段階は、一度は悟りの境地に達するがすぐに戻ってしまうと言う状態のことで、一来果(いちらいが)という。第三段階は、たびたび悟りの境地を得るが、安定はしていない状態で頻来果(ひんらいか)という。第四段階は、安定して悟りの境地にいられる状態で、阿羅漢果(あらかんか)という。第四段階の阿羅漢となって、初めて悟りを得た状態といえるのであり、輪廻から解脱したといえるのである。第三段階までは悟ってはいない状態である。 コーンダンニャは、徐々にではあるが、確実に悟りに近付いていた。 (あぁ、そうだ、わかった。この世は諸行無常である、ということの本当の意味がわかった。わかった!、今まさにわかったぞ!。世尊の言われたことの意味がわかった!。) コーンダンニャがそう思った瞬間、 (あぁ、あぁ、あ・・・・えっと・・・なんだ?。今、確かにわかったよな・・・・。あれあれ・・・忘れてしまった!。あぁ、折角至ったと思ったのに!。なんということだ・・・。いや、くじけてはいけない。正しく努力せねば。もう一度、もう一度、あの境地に至るぞ。) それからしばらくしてからである。コーンダンニャは、頻来果にいた。 (う〜ん、どうも安定しない。瞑想をしているときは、あのすばらしい境地に至ることができるのだが、普段の生活をしているときは、どうも・・・・。世尊に尋ねたら、どんなときでも一定して静かな境地でなくてはならない・・・とおっしゃていた。ふむ・・・。もう少しだな。) コーンダンニャは、深い瞑想の状態にあった。それは沐浴中のことであった。そして、托鉢中も深い瞑想状態と同じ境地にいた。仲間と八正道について確認しあっている最中もそうであった。 仏陀が、皆のものを集めた。 「皆に知らせておきたいことがある。」 集まった五人の修行者は何事かと顔を見合わせていた。しかし、コーンダンニャのみはソワソワした様子もなく、一人静かな状態であった。 「よく聞きなさい。コーンダンニャが悟りを得た。彼は、阿羅漢果を得たのだ。」 仏陀の言葉に四人の修行者は、「おぉ」と感嘆の声を上げた。しかし、当のコーンダンニャは静かなものだった。顔色一つ変えずに、ゆっくりと静かに頭を下げるのみであった。 「コーンダンニャは悟った。これは喜ばしいことである。コーンダンニャ、これよりは、他のものを指導するがよい。」 「わかりました世尊。これよりは、自分の修行も怠ることなく、他の修行者の悟りの手伝いもします。」 そういうコーンダンニャの姿は、輝いて見えるのであった。 その後、数日を経て、他の四人も次々と阿羅漢果となった。こうして、五人の修行者は、すべて悟りを得たのであった。 そんなころのことである。バーラーナシーの街の富豪の息子ヤシャは、迷いの中にいた。 「あぁ、この世はなんて虚しいんだ。この心の虚しさはいったいなんなんだ・・・・。はぁ、誰でもいい、この虚しさの原因を教えてくれ・・・。」 窓の外を見つめ、そうつぶやくヤシャの声は、仏陀に届いていたのであった・・・・。 46.ヤシャ ヤシャは、バーラーナシー一の大富豪の息子であった。仕事は、執事を始め、多くの使用人が行っていたので、ヤシャ自体は何もやることはなかった。金銭の管理、新しい事業などは父親が行っていて、ヤシャはたまに父親に付き合う程度であった。ヤシャの仕事と言えば、他の大富豪の息子たちと遊ぶことだったのである。 「なぁ、虚しくないか、毎日毎日、女をはべらせ、山海の珍味を食い、酒を飲み、大騒ぎをする・・・・。こんなことでいいのか?。」 「どうしたのだヤシャ。お前らしくもない。いつもは率先して騒ぐじゃないか。それなのに、今日は何なのだ?。」 「あぁ、いや、何だか虚しくてな・・・。こんな毎日でいいのだろうか、と・・・。」 「いいんじゃないのか。別に金に困ることでもないし。特にヤシャの家なんて、仕事もせずに毎日こんなバカ騒ぎをしても、あと千年くらいは平気だろ。何も悩むことなんてないだろう。」 「そういうことじゃないんだ。金のことじゃない。いや、そうじゃないな・・・・。いくら金があっても、この虚しさは埋められない、そういうことなんだよ。」 「わかんねぇなぁ、何を言ってるのかサッパリわからねぇ。」 「ヤシャ、お前な、単なる気の迷いだよ。あぁ、ひょっとして、最近、結婚したばかりだから、こんな女遊びしてちゃ女房に悪いと思ってるんじゃないのか。」 「あぁ、そういうことか、遠慮してるのか。」 友人たちのからかいは、ヤシャをさしおいてどんどん進んでいった。ヤシャには、その友人たちの声が遠くに聞こえた。ヤシャの心は言っていた (そんなんじゃない、そういうことじゃないんだ・・・。はぁ・・・・。) と。 「おいおい、もうよそうぜ、ヤシャが黙り込んでしまった。」 「あははは、悪い悪い。悪い冗談だ。すまん。あぁ、そういえば、ヤシャよ、本当に今日のお前は元気がないな。」 「顔色も悪いぞ。」 「お前、病気なんじゃないのか?。一度医者に診てもらえよ。」 「いや、医者は必要ない。身体の調子は悪くないんだ・・・。うん、もういいよ。放っておいてくれ。大丈夫だから。」 そういうと、ヤシャは、彼に寄りかかっていた半裸の女性を押しのけ、そそくさと外へ出て行ったのであった。 外に出ると、太陽がまぶしかった。 「こんな昼間から・・・酒飲んで女と戯れていいのだろうか。くだらない・・・。虚しい・・・。金なんていくらあっても不幸だ。あぁ、わずらわしい。この虚しさ、この煩わしさは、なんなのだ。なぜこんな気持ちになるのだ。」 「どうしたのだヤシャ。お前、いったい・・・。」 追いかけてきた友人がそう言ったが、ヤシャの思いつめた顔を見て、言葉が出なくなってしまった。 「うるさい!。放っておいてくれといったろ。」 「あぁ、わ、わかった・・・。じゃあな、また・・・。」 友人は、そういうと店の中へと戻っていった。そこへヤシャをこの店まで乗せてきた馬車が迎えに来た 「お、お待たせいたしました、お坊ちゃま。今日は、いつもよりずいぶんお早いお帰りで・・・。」 馭者は、怒られると思ってびくびくしていたが、ヤシャは何も言わず静かに馬車に乗り込んだ。 「そ、それでは、出発します。ご自宅でよろしいでしょうか?。」 馭者の問いかけに、ヤシャは答えなかった。しかたがなく、馭者は馬車を自宅へと向かわせた。ところが、その途中、突然に 「おい、河の方へ向かってくれ。ガンジス河のほうだ。」 とヤシャは命じたのであった。馭者は、へい、と返事をすると、馬車をガンジス河方面に向かわせたのだった。 その途中、馬車は鹿野苑のそばを通っていった。何気なく外を見ていたヤシャは、 「あれは・・・。お、おい、止まれ!。」 と叫んだ。 「おい、あそこは何というところだ。」 ヤシャは鹿野苑を指差して馭者にきいた。 「へい、確かあそこは・・・、鹿野苑と言うところです。修行者が修行をしているところと聞いてます。中には立派な修行者もいるのでしょうが、たかりや盗みをするような修行者崩れもいるそうです。あまりお近づきにならない方がよろしいかと・・・・。」 馭者の最後の方の言葉は、ヤシャには届いていなかった。なぜなら、鹿野苑の中でひときわ輝いている人物を見つけてしまい、その姿に魅入ってしまったからだった。その人物は、五人の修行者に囲まれていた。遠目ではあったが、修行者に囲まれているその人物が、他の修行者とは全く違うことがよくわかった。 そのとき、修行者に囲まれているその人物が、ヤシャのほうを見たようだった。一瞬ヤシャと目が合ったように思えた。 「あっ、あぁ・・・。」 それはほんの一瞬であった。いや、実際に目が合ったかどうかは、ヤシャにはわからなかった。しかし、ヤシャには確かに目が合ったように思えた。なぜかヤシャはうろたえた。 「おい、家に帰る。河はもういい。」 ヤシャは、馭者にそう告げた。 (確かに目が合った。確かに、私を見て、微笑んだような・・・。間違いない。私を見て微笑んだのだ。ほんの一瞬であったが。あの方は・・・きっと聖者だ。私の心を見透かしたに違いない。) 自宅に帰っても、ヤシャの目には、あの聖者らしき人物の微笑が映っていた。それはいつまでも続いていた。何をしていても、あの修行者の姿が思い出されるのだ。 (あの修行者は、きっと聖者だ。間違いないだろう。あぁ、私もあのような方になりたいものだ。こんな虚しい生活から脱出して、心安らかなる生活をしたいものだ。なんとかして、あの方のそばにいけないものだろうか・・・。) 毎日、そんなことばかり考えているヤシャは、傍目からは元気がない、覇気がないように見えた。特に新妻はそんなヤシャを心配していた。 「あなた、この頃はどうされたのですか?。元気がなく塞ぎ込んでばかりいます。ご友人の方たちとも遊びに行かれないようですが・・・・。何かあったのでしょうか?。私は心配です。」 「あぁ、私のことなら大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだ。別に友人と揉めたわけじゃないよ。心配しなくても大丈夫だ。」 そういうと、ヤシャは新妻をそっと抱いたのであった。 (あぁ、私は何をしているんだ。周りの人間に心配や迷惑ばかりかけている。しっかりしなくては・・・。迷うな、悩むな・・・。あの修行者のことは忘れろ。自分の立場をわきまえろ。) ヤシャは、そう自分に言い聞かせるのであった。 それからしばらく、ヤシャは精力的に動き回った。父親と共に国王や大臣に会いに行ったり、使用人に任せてある貿易商や店舗などを視察しまわった。しかし、ヤシャの急変した態度に、父親は喜ぶどころか困惑していたのだった。 (ヤシャのやつ、いったいどうしたというのだ。来なくてもいい、否、むしろ来るな、と言っている場所にも顔を出すと言う。何かあったのか?。) そんなある日のこと、ヤシャはその日も無理やり父親に同行して、バーラーナシーの街中を馬車で移動していた。 「ほう、あの修行者は何と立派な姿をしておるのじゃ。珍しいのう、あんな修行者がいたとは。これは早速、お布施をしなくてはいかん。あの修行者どこで修行しているのだろうか。」 父親がそういうので、ヤシャも外を見てみた。そこにはあのときの修行者が立っていたのだった。 「お、お父様がおっしゃっているのは、あの修行者の方ですか?。」 「うん?、おぉ、そうじゃ。ヤシャよ、お前にもわかるか、あの方の立派さが。わしはあんな修行者にはあったことがない。ひょっとすると、悟っていらっしゃるのかもしれんな。」 「あ、あの方が・・・・。」 それからと言うもの、ヤシャは再び塞ぎ込んでしまった。その日、ヤシャは父親と共に自宅に戻るとすぐに自室にこもってしまったのだ。 (やはり聖者だったんだ。悟っているかもしれない?。・・・・それなら、私のこの苦悩の原因もご存知かもしれない。あの方なら、私のこの虚しさを取り除いてくれるかもしれない。私は、あの方の元を訪れたい。しかし・・・・、もし、そのまま・・・・・、いや、それはできない。私は、この家の跡取りだ。けど、こんな家なんて・・・。私がいなくても回っていく、何の変化もなく、なんの苦もなく、放っておいても成り立っていく、こんな家なんて・・・・。しかし、それでも私は・・・。立場が・・・・・。) ヤシャは、悩んだ。毎日、悩んだ。そして悩んで悩んで悩んだ挙句・・・・、荒れた。金持ちの跡取りによくあるように・・・。 「どうしたのじゃ、ヤシャのやつは。ついこの間まで、わしの仕事に無理やり付き合っていたと思ったら、急に塞ぎ込んでしまった。そうかと思ったら、今度は遊びまくっている。毎日毎日、酒と女に明け暮れておる。アレは一体どうなったんじゃ。」 父親もあきれ果てるほど、ヤシャは遊びまくっていた。ヤシャのことはヤシャ専任の執事に任せてあったので、父親はその執事にヤシャの様子をきいてみた。その執事は落ち着いた様子で答えた。 「一緒に遊んでおられる方は、いつもの方々です。ご心配要らないのではないでしょうか。お若いころは、あのように荒れることもありましょう。本格的にお仕事をされるようになれば、落ち着かれるでしょう。若いころの病気のようなものでしょう。ついこの間まで、塞ぎ込んでいらっしゃったころは、顔色も悪く、元気も覇気もなく、それこそ心配致しましたが、あのようにご友人の方々と遊んでいらっしゃる今は、生き生きとしていらっしゃいます。大変お元気で何よりです。」 「そうか、それならばよいのだが・・・・。」 ヤシャ付きの執事の言葉に、父親もひとまず安心したのであった。しかし、実際には、ヤシャの心は、ただ虚しいだけで、その虚しさを忘れるために快楽をむさぼっていただけであった。 (毎日毎日、酒と女を喰らっている・・・・。しかし、こんなことでは、少しも心は晴れない。私の心に住み着いた、あの方は出て行かない。あぁ、くっそ〜。あの方を私の心から、追い出さなくては、私は・・・・私は・・・・。) ヤシャの苦悩は限界に近付いていた。 その晩もヤシャは、大勢の女性と友人たち、珍しい食べ物や酒に囲まれていた。 「しかしヤシャよ、安心したぞ。あのころは、本当に心配たんだぞ。真っ青な顔して飛び出していったからな。いやぁ、よかった、いつものお前に戻って。さぁ、今夜も楽しもうぜ!。あはははは。ほら、こんな美女、ほかにいないぜ。おっ、こっちの女も美しい。おぉ、これはいい。今夜は、美しい女ばかりじゃないか。これじゃあ、身体が持たないぜ!。あははは。」 友人のその言葉に、ヤシャも狂ったように酒を飲み、女を抱いたのであった。 ヤシャは快楽をむさぼった。目を閉じれば、あの聖者の姿を思い出してしまう。気を抜いたら、あの聖者を思い出してしまう。あの聖者のもとへ駆け出してしまう。それは、ヤシャにとっては、一種の恐怖であった。何もかも捨ててしまい、あの聖者のもとで修行をする。それは、ヤシャにとってすばらしく魅力的な考えであったのだ。あの聖者のもとで修行ができたら、どんなに幸せか・・・・。しかし、自分の立場を考えれば、それはできないことであった。 (何もかも捨てるなんて・・・。私はよくても、周りが納得しないであろう。私はすべてを捨てたいのだが・・・。) すべてを捨て、あの聖者のもとへ行く・・・・。その思いにとらわれないようにヤシャは、快楽を貪った。ややもすれば、鹿野苑に向かって駆け出しそうになっている自分を抑えるために。ヤシャは、次から次へと女を変え、快楽を貪ったのであった・・・・。 「う、ううん、いつの間にか寝てしまったようだ。今は・・・・あぁ、まだ真夜中か・・・・。なんだ、明かりも点けっぱなしじゃないか・・・・。うん?、なんだこれは、重いし・・・・汗臭いぞ・・・。」 ふと見ると、女の身体が、自分の身体の上にのっていた。ヤシャは、女たちに埋もれて眠ってしまったのだった。ヤシャは、自分の上に被さっていた女の身体をどけ起き上がった。そして周りを見渡して叫びそうになり、あわてて口を押さえた。 「な、なんということだ。これが・・・ほんのさっきまで、私が抱いた女か!。お、おぞましい。」 そこには、だらしのない姿で眠りこけている女たちや友人たちがいた。またを大きく開き、よだれをたらし眠りこけている女や男たち。歯軋りをするもの、寝言を言うもの、食べたものを吐き出し、そこに身体を埋めて眠るもの、小便を漏らしているものもいた。男も女も醜い姿をさらけ出していた。ヤシャは、恐怖した。そこに混じっている自分の姿を想像し、恐れおののいた。 (じ、自分も同じなのか!。こんなに醜いのか!。お、俺は・・・・こんなにも醜いものだったのか!。) 「う、うわぁ〜、うわぁ〜!!!!。」 ヤシャは叫びながら駆け出して行ったのであった。 47.堅固 真夜中に屋敷から駆け出してしまったヤシャは、ふらふらとどことも知れず歩いていた。 「思わず駆け出してしまったが・・・・、ここはどこだ。随分、走ってきたように思うが・・・。暗くてよくわからないな・・・。」 ふと、先のほうを見ると、一箇所だけぼんやりと明かりが見えた。 「あれは・・・。民家だろうか。こんな真夜中に、明かりがともっている。そんなに遠くではないな。まずは、あそこへ行ってみるか。まあ、どんな家でもいいや、とにかく、水を、水をいっぱいもらおう・・・。」 そういうと、ヤシャは、明かりの方へと歩き出したのだった。ともかく、猛烈にのどが渇いていたのである。たとえその家が、奴隷階級の家であろうと構わない、とヤシャは思っていた。のどの渇きには耐え切れなかったのだ。自然とヤシャの足は、速くなっていった。 ヤシャは次第にその明かりに近付いていった。近付くにつれ、その明かりが家から漏れるものではないことがわかってきた。 「えっ、どういうことだ・・・・。あの光は、家から漏れているわけじゃないぞ。・・・・ここはどこだ?。あの光はなんだ?。こ、これは・・・、危険かもしれない。」 ヤシャは、一通りの護身術は身につけていた。大富豪の子息だったので、いつ暴漢に襲われるかもしれないからだ。ヤシャは、その怪しい光を見つめ、自然と身構えたのだった。いつでも攻撃できるような体制をとりながら、そろそろと光に近付いていった。 「な、なんだろう・・・。まるで人が座っているような形に光り輝いている。おかしい。近く付くにつれ、光が増したようだ。何が光っているんだ?。」 そのときであった。その光が突然声を発した。 「恐れることはない。こちらへ来て座るがよい。ヤシャよ、ここには汝が欲している甘露の水がある。」 その声は、重々しくもあったが、ヤシャの心に優しく響いてきたのであった。 「あ、あなただったのですね。あなた自身が光り輝いていたのですね。」 それは、鹿野苑で見かけて以来、ヤシャの心に住み着いてしまった聖者であった。 「すると、ここは鹿野苑・・・・なのですね。」 「そうだヤシャよ。よくここへ来た。汝が来るのを私は待っていたのだよ。さぁ、まずは水を飲むがよい。」 そういうと、その聖者は鉢をヤシャに手渡した。ヤシャは、それを飲み干すと 「な、なんてうまいんだ。こんなおいしい水を飲んだことは、いままでで一度もない・・・。」 とつぶやいていた。 「その水は、悟ったもののために天界の神々が潅いでくれた甘露水なのだよ。この水を飲めるのは、悟りを得たものだけだ。ヤシャよ、あなたは運がよかった。」 「じゃ、じゃあ、あなたは悟っている・・・・のですか?。」 「ヤシャよ、よく聞くがよい。私は仏陀である。覚りを得て、すべての恐怖や苦を乗り越え、真実に至ったものなのだ。今、ここ鹿野苑で五人の弟子を導いている。ヤシャよ、汝も迷っているのであろう。」 「ぶ、仏陀・・・。あの伝説の聖者、仏陀だったのですか。ま、まさか、仏陀に出会えるなんて・・・。そうだ、そう、私はとても運がいい。・・・・そうなんです。仏陀様、私は迷っています。」 そういうと、ヤシャは、日頃迷い悩んでいることをすべて仏陀に打ち明けたのであった。 「私は迷っています。悩んでいます。今のままいいのだろうか、と・・・。 お金は腐るほどあります。生活する上で何の不自由もありません。しかし、私の心は満たされたことがありません。私がどれだけ贅沢をしてお金を使おうと、両親は何にも言わないのです。そりゃあそうでしょう。黙っていてもお金はいくらでも入ってくる。私がいくら使っても、少しも減らない。でも・・・・。いくらお金があっても、死んでしまえば同じです。使うことはできなくなる。 いや、違います。そうじゃない。いくらお金を使っても、どんな快楽に浸ろうとも、満足できないんですよ。虚しいんです。なにをやっても虚しいんです・・・・。 仕事に顔を出しても、私は邪魔者です。いや、父親すら必要ないのではないでしょうか。勝手に回っているんです。もはや、我々一家の手に仕事はありません。放っておいてもお金はどんどん入ってくるんです。私にはやることがない。遊ぶことしかやることがないんです。 遊んで、遊んで・・・、結婚をし、あるいは、さらに妾をもち、たくさん子をなし、そして朽ちていく・・・・。私は、子を成すためだけの存在なのでしょうか?。虚しい、何もかも虚しい。いくら財産があっても、この虚しさは埋まらない。いくらお金があっても、生きている存在感は買うことができないんです。 いくら財産があっても・・・、死んだら終わりです。そんなもの、生活できるほどのお金があればいいんですよ。余分には・・・、いらないんですよ。 女も・・・醜いだけだ。いくらきれいに着飾ってみても、そんなのは幻影だ。一皮向けば、みんな同じです。汗臭く、よだれも垂れれば、歯軋りもする。屁もすれば、ゲップもする。もう、うんざりだ。いくら快楽を求めても、私の心は満たされなった。 こんな存在感のない生活には、もううんざりなんです。私はいてもいなくても、何の意味もない存在なのです。親の跡を継がなきゃとか、我が家を絶えさせてはいけないとか・・・、そう悩んだこともあります。でも、そんなためだけの存在なんですか?。私は、そんなためだけにこの世に生まれてきたのですか?。そうであるなら、私は、牛や豚となんら変わることはない。同じですよ。 子をなし、家を継いで行くためだけの存在・・・・。そのためだけの存在なんて・・・・。私は受け入れられない。そのためにこの世に生まれてきただけなんて・・・・。そんな私は、とても惨めです。私は、そんな惨めな存在なのでしょうか?。」 ヤシャは、一気に自分の思いを吐き出した。そして、泣き崩れたのであった。 仏陀の前で泣くずれているヤシャを、仏陀は優しく見つめた。そして、 「ヤシャよ、汝は、子をなし、家を継ぐためだけの存在ではないのだよ。そのためだけに生まれてきたのではないのだよ。ヤシャよ、汝には汝のやるべきことがあるのだ。」 と声をかけた。 「そ、それは本当ですか?。本当に私にやるべきことがあるのですか?。それはいったい、いったいなんなのですか?。」 「ヤシャよ、もう気付いているのではないかな?。自分の進むべき道、それが何であるのか・・・。」 その言葉に、ヤシャは考え込んだ。 「私が進めべき道・・・・。」 「そう、汝が進むべき道。」 「それは・・・・、私が今望んでいることでいいのでしょうか?。」 「それを口にしてみてはどうかね。勇気を持って・・・。」 「えぇ・・・、あぁ、でも・・・、それは・・・、きっと父が許さない・・・・。」 「そうですか?。まあ、そのことは、後回しでいいでしょう。いいから、汝が思っていることを言葉にしてみなさい。」 仏陀の言葉に、ヤシャは心を決め、勇気を振り絞って、自分の望みを口にしてみた。 「はい、私は、仏陀様のもとで、真理を追究したいです。出家して私も悟りを得たいのです。この虚しさから解放されるには、それしかない、そう私は思っています。」 「その思いは、堅固なものであろうか?。」 「はい、とても堅固なものです。私の出家の望みは、金剛石のように堅固なものです。ただ、一つだけ心配なのは・・・。」 「父親が出家を許さない・・・・ということだね。」 「はい、私は出家を望んでいるのですが、父は反対するでしょう。それにどう対処していけばいいのでしょうか?。」 「それについては、心配する必要はない。ただし、それには条件があるのだよ。」 「条件ですか?。それはいったい・・・・。」 「それは、汝の決意だ。どんな困難が身に迫ってこようとも、どんな困難に出遭おうとも、真理を求めるという決意が揺るがないのならば、汝の父親が反対しようが心配する必要はない。問題は、汝自身の決意だけなのだ。」 「私の決意は揺るぎません。どんな困難があろうとも、私は出家して、真理を追究します。」 「それは、本当に堅固なものなのだね?。金剛石よりも堅固であろうか?。」 「はい、私の出家の決意は金剛石よりも堅固です。そして不変です。」 「よろしい・・・。その決意こそが汝を幸福へと導くものなのだ。真理を求めたいという揺るぎない決意、金剛石よりも固い決意、これを持つことこそが、汝を真理へと導くのだよ。 さぁ、来たれ真理を追求せしものよ。汝は、いま我が弟子となった。今日より、共に真理を追究しようではないか。」 「ありがとうございます。」 そういって頭を下げたヤシャの瞳は、希望に輝いていた。先ほどまでの不安は、一欠けらもなかったのである。 仏陀の教えは、真夜中であるにも関らず、早速始まったのであった。 「ヤシャよ、早速、汝に真理への教えを説こう。心の準備はよいか?。」 「はい、仏陀様、大丈夫です。ぜひ、お教えください。」 そういうと、ヤシャは大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着けたのであった。 「よいか、ヤシャ、まずは、『この世は苦の世界である』ということが真理であることを考察しなさい。」 「この世は苦の世界である・・・ですか?。」 「そうだ、老いることは苦しみだ。誰もが老いることを厭う。老いれば、身体の自由は利かなくなるし、邪魔者にされることもあろう。思考能力も劣ってくる。老いたくないのに、命あるものは老いなければならぬ。それは明らかに苦しみであろう。わかるかね、ヤシャよ。」 「はい、わかります。確かに老いは苦しみです。仏陀様の言われるように・・・・。」 こうして、仏陀の教えは、続いたのであった・・・・。 48.家の血 夜が明けると共に、ヤシャの心にも朝日がさしはじめた。 「そう、そうだったのか。わかりました。あぁ、なんと私は愚かだったのだ。私が今あるのにも因があり、こうしてここに存在するのも縁があるからなのですね。そして、仏陀様の元でこのまま修行すれば、輪廻から解き放たれるのですね。私は今、一切の執着から解放されました。」 ヤシャは、そういって仏陀の足元にひれ伏した。 「ヤシャよ、よくぞ至った。今それを忘れぬよう、怠りなく修行しなさい。さぁ、夜が明けた。間もなく、汝の仲間が起きてくるであろう。」 「私の仲間・・・ですか?。」 そうヤシャが仏陀に問いかけたそのとき、あちこちから声が聞こえてきた。 「おはようございます、世尊。おや、世尊、そちらの方は?。」 そう聞いてきたのは、アッサジであった。 「皆にも紹介しておこう。今日、出家したヤシャだ。」 仏陀は、五人の修行者にヤシャを紹介した。五人の修行者は、コーンダンニャからそれぞれ自己紹介をした。そして仏陀はコーンダンニャに言った。 「コーンダンニャよ、ヤシャにいろいろ教えてあげなさい。ヤシャよ、彼らはもう阿羅漢に達している。特にコーンダンニャは、よく指導してくれることであろう。」 コーンダンニャもヤシャもそれぞれにうなずいた。 「さぁ、ヤシャよ。こちらに来なさい。共に修行に励もう。まずは、朝の沐浴からだ。」 コーンダンニャは、そういうと他の仲間と共に、ヤシャを連れ立って、河に向かったのであった。こうして、ヤシャの修行者としての日々が始まったのである。 一方、ヤシャの家では大騒ぎになっていた。朝になってもヤシャが起きてこない。屋敷中を探しても、ヤシャの姿がどこにもない。家中のものだけでなく、昨夜一緒に騒いでいた友人たちも協力して、ヤシャを探し回っていたのだが、彼の姿はどこにもなかったのである。 「ヤシャは・・・、息子は・・・、どこに消えたのだ・・・。これだけ探しても見当たらないのだ。これは・・・攫われたのだはないか。・・・そうだ、国王に言って、兵隊を頼もう・・・。」 父親は、国王に頼むべく、執事に馬車を用意させた。すると、執事が 「馭者の一人が、もしかしたら・・・といっておりますが・・。」 と父親に告げた。父親は、その馭者を早速呼び寄せた。馭者は、ヤシャがガンジス河のそばの鹿野苑付近にいったこと、そこでぼんやり修行者たちを眺めていたような様子だったこと、を報告したのだった。 「なんで、もっと早く言わないのだ!。よし、鹿野苑へ向かうぞ。」 ヤシャの父親と執事、召使、そしてヤシャの友人たちも鹿野苑へ向かったのであった。 「ここか、ここなんだな?。」 ヤシャの父親が、馭者に確認した。 「は、はい・・・。たぶん、あのあたりかと・・・。あぁ、あの修行者です。あの修行者をじっと見ていました。」 馭者が指差した方には、父親も托鉢しているところ見たことがある立派な聖者の姿があった。 「あぁ、あの聖者か・・・。あのときの・・・。なるほど、ヤシャが引かれるのも無理はない。よし、あの聖者にヤシャのことを尋ねてみよう。きっと、息子はここにいるのだろうから。」 父親はそういうと、唇を引き締めて立派な姿をしている聖者に向かっていった。 「修行中のところ申し訳ないのですが、ちょっと尋ねたいことがあるのです。よろしいですか?。」 「あなたの息子、ヤシャのことですか?。」 「な、なんであんたが!。・・・・やっぱりここへ来たのか?。ヤシャはここへ来たんだな。息子を出してくれ。あれは、うちの大事な跡取りなんだ。ここにいるんだろう。さぁ、息子を返してくれ。」 「まあ、落ち着いてください。大丈夫です、息子さんはここにおりますよ。ただ、今はここにいません。」 「な、なんだと?。何を言ってる。誤魔化そうとしているな。聖者らしい姿をしているから、下手に出ているんだが・・・。」 「あわてないでください。とにかく座りなさい。ヤシャは、托鉢に出ているのです。もうすぐ戻ってくるでしょう。」 「な、なに〜?、た、托鉢だと〜、うちのヤシャが、物乞いをしているのか?。なんと、惨めな・・・・。」 「そうでしょうか?。私たち修行者は、誰もが托鉢をしていますよ。それが惨めでしょうか?。」 「い、いや・・・、その、あなたたちは違うでしょう。そ、それは修行だから、別に惨めでもなんでもないでしょう。しかし・・・。」 「しかし?。」 「そう、ヤシャは、その・・・托鉢などしたことがないし・・・・、いや、そんな必要などない暮らしをしているんです。物乞いなど・・・・、そんなことをしなくても食べ物など腐るほどあるのだし・・・。だから・・・。」 「だから?。」 「えぇ・・・と、その、ヤシャにそんな修行の必要はないんですよ。そう、そう、ヤシャはうちの大事な跡取りだ。息子は、家業と家名を継いで行くものなのだ。だから、そんな修行などするわけがない。先だっても、精力的に仕事に関っていた。それなのに、修行なんて・・・、そんなことがあるわけがない。」 父親は、そう言い切ったが、額には大量に汗が流れていた。 (わからん・・・。ヤシャのやつ、本気で出家など考えているのだろうか?。いやいや、そんなことは・・・。しかし、この間の、この修行者を見る目は・・・、あれは羨望のまなざしだった。・・・いや、そうであったとしても、そんなのは一時の気の迷いだ。そうに違いない。よく説得すれば・・・。) 「そう、うまくいきますか?。あとでヤシャに確認するがいいでしょう。」 父親は驚いた。 「い、今、何を?。わ、私の心を読んだのか?。あんたは・・・あんたは、本当に聖者なのか?。」 「まあ、そのことはあとでわかるでしょう・・・。それよりも、ヤシャが戻るまで、少し話をしましょう。ちょうどいい、そちらで眺めている皆さんも、もっと近くにお座りなさい。」 修行者・・・仏陀・・・と父親のやり取りを、心配そうに離れて眺めていた執事や召使、馭者、ヤシャの友人たちは、互いに顔を見合わせて、不審な表情を浮かべつつ、ヤシャの父親の後ろを取り囲むようにして座ったのだった。 「落ち着いたようですね。では、少し話をしましょう。お父上、あなたはヤシャが大事な一人息子だと言う。そして、そのヤシャを返してくれ、という。そうですね?。」 「あぁ、その通りだ。」 「ヤシャは、あなたのものですか?。」 仏陀の質問に、父親は目を丸くした。 「うん?、どういう意味だ?。」 「そのままの意味です。もう一度言いましょう。ヤシャは、あなたのものですか?。あなたの所有物ですか?。」 「う、うぅぅぅん、それは・・・。」 (なんと答えようか?。そうだと言えば、それはおかしい、と来るだろう。違うと言えば、なら手放していいじゃないか、というだろう。どうやって答えれば、一番得か・・・。) 「損得で物事を判断すると、間違いを起こしますよ。ヤシャは人であって、モノではない。」 (ま、まただ・・・。また見透かされた・・・。この修行者は、相当な神通力を持っているようだ。ならば、ここは・・・。) 父親は意を決して答えた。 「もちろん、ヤシャはヤシャだ。私のものではない。しかし、我が家のものではある。我が家を継いで行くという責任を負ったものである。」 周りから「おぉ・・。」と言う声が聞こえた。周りに座っている者たちも、心配していたのだ。 「家を継ぐだけの存在なのですか?。それなら、何もヤシャでなくても構わないのではないですか?。」 周りの人々がうなずいた。 「ま、まあ、そうだが・・・。しかし、他人では・・・。それに・・・。」 「それに?。」 「いや、その・・・。血が絶えるというのは、我が家の伝統が絶えるということでもある。その血を絶やさぬためにもヤシャでなくてはならぬのだ。」 「同じ血でなくては、あなたの家は守れないのでしょうか?。ならば、他の家から嫁をもらうこともいけないのではないでしょうか?。それとも嫁は別ですか?。」 「そ、それは・・・。血縁での婚姻は、呪われると言われているし・・・。それはいかんでしょう。」 「じゃあ、血が混じってもいいわけですね。」 「しかし、半分は我が系統の血が混じっている。」 「果たしてそうですかな?。初代の血は、二代目には半分になっている。三代目では4分の1です。4代目では8分の1ですね。あなたは、初代から数えて何代目ですか?。」 「わ、私は・・・・じゅ、十六代目だが・・・。」 「ならば、初代の血なんて薄いものですね。ただ、家を継いでいる、というだけですね。そんなことなら、ヤシャでなくてもできることでしょう。ここで、他人の血が混じっても、大差はない。」 「ま、まあ、そうだが・・・・。」 「そんな血の継承には、なんの意味もない。血は薄まるものですよ。」 周りにいたものも 「そうか、そういわれれば、そうだな・・・。嫁をもらうたびに、血は薄まるんだ・・・。」 とささやきあっていた。 「そうです。そんな頼りないものに、あなたたちは縋っているんですよ。血統なんて、次第に薄まるに決まっているでしょう。あなたは、そんなことに気付かない方ではありませんよね。」 「ま、まあ・・・。しかし、代々家を継いで行くということは、大事なことでして・・・。」 「それはそうでしょう。絶やさぬようにするのは、よいことです。しかし、それは何もヤシャでなくてもいいのではないですか?、といっているだけです。」 「た、確かに・・・そうではあるが・・・。」 「何をこだわっているのでしょうか?。では、もう一つ聞きましょう。あなたは、なんの疑問も感じないで、ただ家を継いで来たのですか?。」 「わ、私は・・・・。」 父親の額には汗が光っていた。 「ぎ、疑問を感じたことはなかった・・・・といえば、ウソになる。しかし、義務感が・・・。この家の長男に生まれたのだという義務感があったのだ。跡を継ぐべきなのだ、継がねばならぬ、そう期待されている・・・。そう思ったらあきらめるしかないだろう。・・・・できれば、次男に生まれたかった。弟などは、自由に気ままに生きている。財産を分け与えてもらい、自分の好きな道を選んでいる。なんと羨ましいことか・・・。なのに私は・・・・・。とはいえ、商売は使用人任せ。好きなことをしてもいい身分にはなった。金の出入りだけに目を光らせていればいいだけにはなった。だから、好きなことをできる立場にはなったのだが・・・・。」 「それでも虚しさは埋まらない・・・のでしょう?。」 「先ほどから、私の考えを見透かされているようですな。いったいあなたは?。」 「それは、ヤシャからお聞きなさい。それよりも、あなたは、今、どう思っているのか?。」 「は、はい、虚しさは埋まりません。私は、やることがないんですよ。だからこそ、ヤシャだけが私の楽しみだったのです。なのに、そのヤシャが・・・。」 「お金がいくらっても、財産がいかほどあっても、あなたの自由になるものはどれだけあるのでしょう?。自分の心すら支配できない。自分自身すら、気持ちを誤魔化さなければ生きてはいけない。なのに、自分ではないヤシャが、自由になると思いますか?。」 「そ、それは・・・。しかし、他に・・・・。確かに、私も虚しい日々を若いときは過ごした。しかし、あきらめるしかなったんです。」 「同じことを大事なヤシャに望むのですか?。ヤシャが嫌がっていることをあなたは望むのでしょうか?。」 「そ、それは・・・。 そのときであった。仏陀と父親のやり取りを見守っていた者たちの後ろから、声をかけるものがあった。 「父さん、もういいよ。よくわかった。父さんの気持ちはよくわかったよ。世尊、大丈夫です。私から話をします。」 そこには、托鉢から帰った、剃髪をし袈裟をつけたヤシャの姿があった。 つづく。 |