ばっくなんばー17

ある日の昼下がり、仏陀は一人の青年を竹林精舎に連れてきた。
「皆に紹介しておこう。カッサパ族のピッパリという者だ。」
「ピッパリと申します。今日からこの竹林精舎で皆さんと一緒に修行させていただきます。よろしくお願いいたします。」
そう挨拶した青年は、わずかに光り輝いているように見えた。
「このところ、午後から私が竹林精舎をあけていたのは、彼を指導していたからだ。見てわかるように彼はすでに阿羅漢に達している。」
その言葉に、悟りを得ていた長老たちは静かにうなずき、まだ悟りを得ていない修行者は羨望のまなざしで見たのだった。
「彼を今後、どう呼べばいいのでしょうか。」
コーンダンニャが仏陀に尋ねた。
「そう、彼はカッサパ・・・いや、それではカッサパ三兄弟と同じなる・・・、ならば・・・。」
その時、ウルベーラカッサパが
「世尊、それでしたらその方をマハーカッサパとお呼びになられてはいかがでしょうかな。」
と進言したのだった。ウルベーラカッサパは、彼の青年の力量を見抜いていたのだ。
「その方は、我々とは比べようのないほどの悟りの域に達しておられる。悟りも浅深がありますからなぁ。他の長老方も見抜いておられよう。そのお方はカッサパ族の中でも偉大な方じゃ。ですから、世尊、マハーカッサパと呼ばさせてください。」
その言葉に世尊は
「よいであろう。よくぞこの者の境地に気付いた。では、以後、この者をマハーカッサパと呼ぶこととする。」
こうして、やがて頭陀第一(ずだだいいち・・・最も己に厳しい修行をする者)と称されたマハーカッサパ(漢訳名、大迦葉・・・だいかしょう)が修行者の一員となったのであった。

仏教教団は、竹林精舎を中心とし、益々発展してきた。午前中は、ラージャグリハの街を托鉢する仏陀の弟子たちが多く見られた。人々は、仏陀の弟子が托鉢に現れると進んで食べ物を鉢に入れるようになっていた。
しかし、街の人々と仏陀や弟子たちが接するのは、その托鉢の時のみであった。街の人々が竹林精舎へ行くこともなければ、托鉢をしている修行者に話しかけることもなかった。そのことが、市民の間で不満になっていた。
「なんだかねぇ、ちょっと物足りないねぇ。他の聖者のところは、その教えを私ら一般の市民にも聞かせてくれるのに、仏陀様のところは出家者だけしか相手にしないんだからねぇ。」
「あぁ、究極の悟りを得ることが仏陀さんところの目標だそうだからな。それには出家しないとダメらしい。一般の生活をしていたら悟りは得られないんだそうな。」
「へぇ〜、そういうものなのか。あんた詳しいねぇ、どこで聞いたんだい。」
「あぁ、王宮でな仏陀とその弟子・・・高弟だな・・・、彼らの接待があったんだよ。食事の御招待だ。先日の朝のこった。」
「あぁ、あんた植木職人だから王宮の庭にいたんだね。そこで見たのかい?。仏陀さんたちを。」
「おう、見たよ。托鉢の時とは違って、なんだか神々しく見えたねぇ。ちょっと光り輝いているような、そんな感じだった。でもって、話し声が聞こえたから、聞いていたんだ。」
「なぁ、王宮の・・・っていうか、国王の招待なら受けるのか、仏陀は・・・。」
「あ、そうか、そりゃあ、おかしいね。身分で贔屓かい?。」
「いや、そういうわけじゃないらしいよ。国王のビンビサーラ王は、なんでも仏陀さんの古くからのお知り合いだそうだ。」
「いや、そういうことじゃなくて、庶民には話をしないのか、ってことだ。庶民は、仏陀を招待するような金はねえ。場所もねえ。だから招待もできねえ。それで、庶民には話もしないのか、ってことを聞いているんだ。」
「あぁ、そういうことか・・・。どうなんだろうねぇ。・・・そういえば、誰一人、仏陀と弟子を招待しようっていう人はいないなぁ。大富豪の商人ならできそうなのにな。」
「しちゃいけない、と思ってるんじゃないの。なんだか、いつも立派な振る舞いで、隙がないっていうか、話しかけちゃいけないっていうか、親しみにくいっていうか、近寄りがたいっていうか・・・。」
「なじまないんだよな。な〜んか、お高くとまってるって感じもするんだ。我々は違うんだぞーみたいな。」
「う〜ん、宮廷で見た仏陀さんたちは、そんなことはなかったけどなぁ・・・。優しいお顔をされていたんだが・・・。」
「いずれにせよ、我々庶民は、仏陀の声は聞けないんだよ・・・・。」
このような批判がラージャグリハの街のあちこちで聞かれるようになっていた。しかし、托鉢をしている修行者たちの耳には決してこの批判は入ることはなかった。なぜなら、こうした話は、托鉢が終わったあとになされていたからだった。午後になって、市場に買い物や仕事で、あるいは遊びに出てきた人々の間で話されていたからである。しかし、市民の「仏陀の話が聞きたい、教えが聞きたい」という思いは、日に日に強くなっていったのであった。

「ビンビサーラ王様、ちょっとお耳に入れたいことが・・・。」
国王の側近がその話を持ち込んだのは、国王が仏陀たちを食事の接待に招待して一週間ほどたったころのことである。
「なんじゃ。」
「はい、今、ラージャグリハの街では、仏陀は国王を贔屓にしている、といううわさ話でもちきりです。」
「なんだと?。詳しく申せ。」
「はい、仏陀だといっているが、実は悟ってないんじゃないかと。なぜなら、国王の接待を受け、贅沢な食べ物を食べているからだ、我々庶民のことなど気にかけないで、国王のことばかり気にしている、それは贅沢な食事にありつけるからだ・・・と、このような噂です。」
「な、なんだと!。どこの誰だ、そんな噂話を流しているのは!。」
ビンビサーラ王は怒りだした。
「お腹立ちはごもっともですが、噂をしているのは誰というわけではなく、街のあちこちで聞かれるのです。しかし、そのもとは、『仏陀の話が聞きたい』ということのようです。」
「なんだと?・・・・あぁ、そういうことか・・・・。なるほど。わしが世尊を食事に招待して世尊の話を聞いているからか・・・。そうかそうか、街の人々も世尊の話を聞きたいのだな。そうか、そういうことか。その不満が妙な噂話なっているのだな。よし、わかった。そういうことなら、わしに考えがある。おい、馬車の用意をしろ。すぐに出かける。」
そう叫ぶと、ビンビサーラ王は玉座から立ち上がったのだった。

ビンビサーラ王は、馬車を竹林精舎へと走らせた。精舎へ着くや否や
「世尊はおいでかっ!。いますぐお目通りを願いたい。」
と叫んで精舎の中へ入っていった。
「どうされましたか国王よ。いつも冷静な国王が、何をあわてていらっしゃるのでしょうか。」
仏陀が大きな木の下で座っていた。その姿は、堂々たるものであった。
「これは世尊。お騒がせいたしました。実は、街で聞いた話をお知らせしたくて参上しました。」
「街で・・・・。どのような話でしょうか?。」
仏陀に促され、ビンビサーラ王は家来たちが街で聞いてきた噂話を伝えた。そして
「これは提案なのですが、世尊が率いる仏教教団でも、庶民に教えを伝える集まりの会などを催してはどうかと思うのです。いかがでしょうか、世尊。庶民も世尊の話を聞きたがっているのです。」
「ふむ・・・そうですか。」
そう言ったなり、仏陀は考え込んだ。
(在家の人々に私が至った悟りの境地の話をしても理解することは難しいだろう。しかし、簡単な教えから入っていけば、理解できるものもいるのではないか。様々な方便を使い、人々を導くことも重要である。よろしい・・・)
「わかりました。教えを説きましょう。」
「おぉ、説いてくださるか。では、それはいつされますか?。」
「つい先だって、私たち修行者が反省をする日を決めました。その日は、托鉢には出ないで、ここにすべての修行者が集い、守るべき決まり事を守っているかどうか検討し合うことにしたのです。それを布薩会といいます。その日の午後からならば、すべての修行者も集まっていることですし、話がしやすいでしょう。ですので、布薩会のある日の午後から法話会をいたしましょう。それは、毎月1日と15日に行います。」
「しかし、それでは、その日は修行者の皆さんは食事がとれませんが・・・・。よろしいのですか?。」
「月に二日の断食など、どの修行者も気にはしません。」
「ふむ・・・まあ、そうなのでしょうが・・・・。あぁ、ではこうしましょう。その布薩会の食事は、私が用意しましょう。ここへ運ばせます。なに、もし残るようなことがあれば、午後から来られる人々に施せばいいのです。貧しく食事も満足にとれない方々にも食事がいきわたるように、余分に用意しましょう。それがいい、そうしましょう。」
ビンビサーラ王の申し出に仏陀は沈黙で答えた。沈黙はすなわち了承の意味であった。
「世尊の御許しも出た。では、街の人々にも知らせましょう。きっと、大勢の人々が詰まることでしょう。」
「ビンビサーラ王よ、食事は贅沢になりすぎぬよう、量もあまり多すぎぬよう注意してください。初めから贅沢に過ぎればそのあとが続きません。長く続けるためには、派手すぎず、贅沢にならず、質素で一般的な食事にするべきでしょう。我々修行者は食べなくても大丈夫です。できれば布薩会の時の食事は、話を聞きに来られる人々へ施されるほうがよいでしょう。」
「わかりました。街中の人々が普段食べているような食事を用意いたします。お任せ下さい。」
そういってビンビサーラ王は、その場を立ち去ったのであった。

翌日、ラージャグリハの街中のいたるところに知らせの立て札がたった。そこには
『今月より、毎月1日と15日、午後より竹林精舎にて仏陀の教えを聞くことができる』
立札に書いてあったのは、それだけであった。余分なことは一切書いてなかったし、強制的に参加させるようなことも書いてなかった。ビンビサーラ王は仏陀の気持ちをよく理解できていたのである。
「よいか、仏陀は自らの教えを強制することはしない。また、自らの教えのみを聞け、などということも言わない。仏陀の教えを聞く聞かないは、自由に選択すればいいのだ。それが世尊の教えであるのだ。食事の施しのことも書くな。食事で人々を釣るようなことはしてはならない。」
ビンビサーラ王は、仏陀のよき理解者であったのである。

その月の15日、初めての布薩会が行われた。竹林精舎のほぼ中央、最も広い場所にすべての修行者が集まってきていた。その数は二千人を超えるものとなっていた。
「いつの間にかこんなに増えていたんだな。」
コーンダンニャが多くの修行者たちを見てそう言った。
「シャーリープトラとモッガラーナが、500人の修行者を連れてきましたが、そのあとも何人か出家してきた者がいますからね。随分と増えたものです。」
アッサジがそう答え、
「さて、どのように座らせますか。このようにバラバラに座っていては話にもなりません。どうしましょう。」
「それについては世尊から指示がある。」
コーンダンニャはそういうと、修行者が集まっている広場の中央に進み出た。
「ちょっと静かにして下さい。その場で座っていただきたい。・・・・ふむ、よく聞いてください。これより座る場所を決めます。これについては世尊より指示がありました。
さて、この広場は奥にあのような一段高い舞台があります。普段、世尊が皆さんに教えを説くときに座る場所です。で、いつもは、世尊に向き合って、舞台を見るような形で皆さんに座ってもらっていますが、今日の布薩会では異なった座り方になります。
まず、世尊はいつものように舞台中央の台座に座っていただきます。そしてその右横は私が座ります。左横はアッサジ、私の横はバッティア、アッサジの横はマハーナーマ、バッティアの横はバッパ、マハーナーマの横はヤシャ、バッパの横はウルベーラカッサパ、ヤシャの横はガヤーカッサパ・・・。」
「コーンダンニャ長老、わかりましたよ。出家順に座るのですな。で、輪になっていけばいいのですな。」
長老の一人が言った。
「はい、そういうことです。ただし、シャーリープトラ尊者、モッガラーナ尊者、マハーカッサパ尊者は、世尊の前に並んで座ってください。」
その言葉に一瞬ざわついたが、すぐに収まった。誰もが、その三人の悟りの境地が勝れていることを知っているからである。
すべての修行者が静かに、争うことなく自分が座るべき場所に座った。こうして、修行者による大きな輪ができあがったのだ。全員が座り、落ち着いたところで仏陀が話し始めた。
「修行者よ、よく集まった。誰一人として休むことなくこの座に集うたこと、喜ばしいことである。さて、修行者よ、今日は自らの行いを反省する会である。これより、守るべき決まり戒律を一つ一ついう。それをよく聞き、自らの行いを振り返るがよい。もし、違反している者がいたならば、自ら申し出よ。隠していても悪事は露見するものだ。では、アッサジ戒律をすべて述べよ。」
仏陀にそう言われ、アッサジは戒律を一つ一つ空んじた。
そして、すべての戒律が告げられた。
「違反をしたことがある者は、自ら進み出て懺悔するがよい。」
仏陀がそういうと一人の修行者が手を挙げた。
「世尊、ここに集う修行者よ、私は横になってはいけない時刻に横になりました。どうしても腹が痛く、我慢できませんでした。ここに懺悔します。」
それを聞いて仏陀が皆に問うた。
「この者は罪を犯したか、皆で判断せよ。」
しばらく沈黙が流れた。そして
「この者は罪を犯してはいません。なぜなら、腹痛という仕方がない理由があったからです。座して耐えられない腹痛ならば、横になっても仕方がないでしょう。周囲の者でそれに気付いた者はいないのでしょうか。」
「その通りです。この者は罪を犯してはいません。病気は仕方がありません。むしろ、周囲の者が気付かなかったことのほうが問題です。」
といった意見が出されたのである。こうして罪か否かが決められるのだった。このことに関しては、
「長老は自らが率いている修行者の様子をよく見ているように。また、体調が悪い者は長老に遠慮なく申し出ること。」
という細則が決められたのだった。他にも、何人かの者が手を挙げ、戒律に触れていないかどうかを問うたのだった。
続いて、自ら罪を告白することが終わり、長老からの注意がいくつか出された。それは、修行を怠らないように、ということが多かった。初めての布薩会は順調に進んでいった。そして、仏陀から言葉があった。
「善いことだ、大変善いことである。このように、自ら己の行為を振り返ることができるのは、大変善いことである。今後も怠りなきよう、続けるがよい。さて、この後、ビンビサーラ王から食事の施しが少しある。節度をわきまえ、食べすぎぬように注意しなさい。もちろん、断食をするのもよい。それは各自で決めるがよい。そのあと、片付けが終わったら、街の人々が教えを聞きに来る。修行者よ、あなたたちは両端に横一列に並んで座り、中央を広く開け、人々を迎えるがよい。」
この言葉に、誰もが静かにうなずいたのであった。こうして、初めての布薩会は無事に終わった。残るは午後からの法話会であった。


69.初説法
その日の午後のこと、竹林精舎は多くの人々が集まってきていた。皆の関心事は、
「いったい仏陀はどんな話をされるのだろうか。」
ということであった。中には初めて仏陀の姿を見る者もいた。
「あ、あの方が仏陀か・・・。本当に仏陀なのかい?。」
「よくみるがいい、身体全体が光り輝いているだろ。あれが仏陀である何よりの証拠だよ。」
「そういえば、他の聖者と呼ばれている人には、あんな輝きはないなぁ・・・。」
人々は、仏陀の姿を見て、小声で話し合っていたのだった。そうした声で、竹林精舎はざわついていた。
「皆さん、お静かにしてください。どうか、お座りください。これより仏陀様のお話があります。」
コーンダンニャが大きな声で皆に鎮まるよう促した。が、会場ではそこかしこで小競り合いが始まっていた。
「どういうことなのじゃ?。」
ウルベーラカッサパ長老が会場の人々を見渡した。なんと、人々は身分の違いがあるといって、座る場所を争っていたのだった。
「おい、お前はスードラだろう。スードラがなんでこんなところにいるのだ。お前らには仏陀の話を聞く資格はないのだ。」
「臭いぞ臭いぞ。お前らのような奴隷は、働いていればいいのだ。何をしに来たのだ。さっさと立ち去れ!。」
「おい、そこの修行僧、階級別に席を設けてはくれんかな。これではわしらが座る場所がない。」
「他の聖者たちのところでは、階級別に席が設けてあるぞ。ここはどうなっているんだ。」
会場に集った人々は、口々に勝手なことを言い出した。
「この精舎内では身分の差はありません。みな平等です。バラモンもクシャトリアもスードラもバイシャも、人は人です。裕福な者も貧しき者もなんの差もありません。その場で座ってください。隣にどんな身分の者が座ろうとも、ここでは関係ありません。」
コーンダンニャが大きな声でそういったが、人々は聞いていないようだった。
「神通力で鎮めましょうか?。」
モッガラーナがそう提案したが、
「いや、よい。鎮まるときが来れば鎮まる。」
と仏陀が言った。そして、中央に座すると、瞑想に入ったのだった。
身分の違いを訴える人々、静かに瞑想する仏陀。他の弟子たちも仏陀に従い、静かに瞑想し始めたのであった。

会場は不平不満を垂れるものでいっぱいだった。バラモン階級の者や裕福な商人達が、奴隷階級のものを締め出そうとしていたのである。その時であった。
「いい加減にせぬか!。」
と叫んだものがいた。ビンビサーラ王であった。
「身分身分とうるさい連中だ。そんなものに仏陀の話を聞く資格はない。よいか、仏陀の前にはみな平等なのだ。その証拠に、国王であるこの私もみなと同じ場所、同じ位置に座している。それが不服ならば、ここから立ち去るがよい。」
その言葉に人々の口は閉じたのであった。
会場は、次第に静まり返っていった。そして、その時を待ちかねたように仏陀が話し始めたのであった。
「ここに集う人々よ、よく来られた。ビンビサーラ王の言葉のとおりである。ここに身分の差はない。それが不服な者は立ち去っていただいて結構だ。納得できる者のみがその場に座するがよい。」
先ほどまで不平不満を垂れていた者たちは、不服そうな顔をしてはいたが、国王の手前、誰も文句を言わず、その場に座したのであった。
人々が皆座り、落ち着いた。その全体を見渡してから、仏陀は話を続けた。
「私は仏陀である。この世の真理を悟り、目覚めたものとなった。しかし、あなた方の中には、それを信じないものも多数いることであろう。」
そこまで仏陀が話したとき、集まった人々の中から大きな声が響いた。
「あぁ、そうだ。仏陀だというが、その証拠をここで見せてみろ。お前は本当にあの伝説の聖者、仏陀なのか?。いい加減なことを言っているだけじゃないのか!。」
先ほど大きな声で身分の差を主張したバラモンデある。その声に触発されたのか、会場のあちこちで
「そうだよな。本当に仏陀なのか、その証拠を見せてもらいたいよな。」
「仏陀だ仏陀だ、と言われても証明できなきゃな、意味がない。」
「仏陀だというのだから、その証拠が何かあるんじゃないのか、これからそれを出すのだろう。」
などという声が聞こえ始めたのだった。どの声の主もバラモン階級か裕福そうな商人であった。身分の差別を封じ込まれた不満を仏陀にぶつけたのであろう。
その声にあわて始める弟子もいた。しかし、シャーリープトラ、モッガラーナ、マハーカッサパやコーンダンニャたち長老は少しも慌てず、黙していた。
「何を黙っているんだ。早く証拠を見せろ!。」
「よろしい。仏陀が仏陀である証拠をお見せいたしましょう。」
その言葉に、会場は静かになったのだった。

「私は仏陀である。その証拠をお見せしよう。」
そういうと仏陀の全身は光り輝き始めた。やがてその光は身体全体を包み込み、もはやまばゆいばかりの光の固まりとなっていた。
「おぉ、す、すごい・・・。こんな光を発することができるのは仏陀だけだろう。」
「いや、これはすごい。さすがに伝説の聖者だ。」
人々は、驚嘆の声を上げた。しかし、中には、
「何か仕掛けがあるに違いない。座っている下あたりが怪しいんじゃないか?。下から光るように仕組んであるんじゃないか。」
と疑う声も聞かれた。すると、その声に応ずるかのように仏陀の身体は宙に浮いた。
「あぁ、う、浮いているぞ。空中に浮かんでいる・・・。」
「あんなことができる聖者は今まで見たことがない。」
「あぁ、まさしく仏陀だ。仏陀に間違いない。」
「いや、後ろから釣ってあるんだろう。細い糸で釣り上げているんだよ、きっと。」
どこまでも疑う声は上がっていた。仏陀は宙から降りてきた。そして、光も弱めた。
「では、これでどうであろうか。」
そういうと、右手の中指でそっと大地に触れた。そのとたん、地面が揺れ始めたのだった。
「あぁ、じ、地震だ。」
「な、なんだこの地震は。へんな揺れ方をするぞ。」
「あぁ、こんなに揺れて家は大丈夫かしら〜。」
「でも、なんだかこの地震、少しもこわくない。」
「あぁ、むしろ心地いいような気がする。」
「家は大丈夫さ。この揺れなら壊れないよ。」
しばらくすると揺れは収まった。
「仏陀は、このように思いのまま地震を起こすことができる。仏陀が仏陀である証拠は大地が示すのだ。しかも、この地震は善人には心地よく感じ、悪人には恐怖に感じる、そういう地震なのだ。
さて、私が仏陀である証拠がまだ必要だろうか?。」
仏陀のその問いに誰もが沈黙した。そして、
「申し訳ございませんでした。」
と一人の男が立ち上がり、胸の前で合掌して頭を下げたのだった。
「私はラージャグリハに住まうバラモンです。このところ街の誰もが仏陀が現れたという噂話ばかりしており、面白くありませんでした。そこでいつかその仏陀の鼻を明かしてやろうと決めていたのです。本当に申し訳ありませんでした。」
「自ら己の罪を告白することは善いことである。多くの者は己の罪や不徳を隠そうとする。その中において自らの罪を明らかにし懺悔する者は得難い人物である。それができる汝は、その点において聖者と呼ばれよう。」
仏陀の言葉に、そのバラモンは額を大地につけ仏陀に詫びたのであった。その姿を見て、同じように仏陀をののしった者たちはひっそりと合掌をして頭を下げていたのだった。
「ここに集う人々よ。汝らは雀のように朝から晩までうわさ話に興じているが、推測や憶測で物事を判断してはならない。そのことが相手を苦しめることもあるし、また不利益を与えることもあろう。事実を確認してから口にするがよい。」
その言葉に竹林精舎は静まり返ったのだった。

「さて、人々よ。仏陀が汝ら在家の者に教えることは、徳を積むことである。そのためには汝らは、仏陀と仏陀の教えと教えを守り修行する僧を敬うことである。仏陀と仏陀の教え、その教えを守る修行僧は三種の宝物である。すなわち、この三宝を敬うことが、汝らの徳積みの第一歩なのだ。それが汝ら在家の修行なのである。
仏陀と仏陀の教え、その教えを守り修行する僧たちを敬うとは具体的にどうすればいいのであろうか。
一つには布施をすることである。仏陀や修行僧たちが托鉢をした時、その托鉢に応じ食を施すことである。また、修行僧の袈裟ように布を施すことである。また、夜を過ごすための燈明の油を施すことである。我ら修行僧が欲するものは数少ない。日々の食、布、油・・・・それだけあればことが足りる。これらを無理なく、己のできる範囲で施すこと、それが徳積みである。
そして一つには、戒を守ることにある。汝ら在家の者が守るべき戒とはいかなるものか。まずは殺生を慎むことである。むやみに暴力を振るわない、他者を傷つけないことである。次に盗まないことである。他者のものを盗ってはならぬ。次には性において乱れないことである。快楽からは何も得られぬ。快楽に耽るは苦を招くもととなる。それを知って快楽に耽らないことだ。次に守るべきは嘘をつかないことである。汝ら口にする言葉は真実であれ。嘘偽りを口にするは罪多きことなりと知るがよい。そして最後に飲酒を慎むことである。汝ら在家の者は事あるごとに飲酒するが、飲酒は自らを制御する理性を失わせる。飲酒は本能を露わにさせ、失態を招くもとである。己を制御するためにも飲酒は慎むがよい。これら五つの戒めを守り布施を心掛ければ、この世の苦から離れ、天界へと生じることができよう。
人々よ、この世は苦の世界である。苦しみ多き世界である。いかなる苦が汝らにやってくるのか・・・。それは老いであり、病であり、死である。これら老病死の苦からは、誰も逃れられることができない。この苦は身分を問わず誰にでも平等にやってくるものなのだ。バラモンにも王族階級の者にも、商人にも農民にも工業職人にも奴隷階級にもその奴隷階級にも入らないものにも、身分を問わず等しくやってくるものなのだ。誰も死王ヤマから逃げることができない。そうして、輪廻の中で苦しみを味わうのだ。
ならば、輪廻の中でも最上の天界へ生まれるがよい。そのためには、先ほど説いた五つの戒めと布施をし徳を積むことである。罪を犯せば死王ヤマは汝らに迫るであろう。
輪廻を解脱したいと望む者があるならば、我らとともに修行することである。悟りを得れば輪廻から解脱できよう。」
あたりはしんと鎮まっていた。しばらくして、一人の女性が尋ねた。
「あの・・・・。私は酒も飲みません、日々つつましく生活しています。貧乏ですが、生きていくには何とかなっています。でも何も立派なことはできません。托鉢に来られた修行僧の方にもほんの少ししか施しができません。しかも毎日はとてもとても無理です。布を施したくてもボロボロのの使い古しの布しかありません。油はうちが欲しいくらいです。それでも次の世は天界に生まれ変わることはできるのでしょうか。」
その質問に仏陀はやさしく微笑んで答えた。
「もちろんだ。施しの量の多い少ないに関わりはない。裕福な家庭にとって鉢いっぱいの食は、自らの生活に何の支障もきたさないであろう。しかし、貧しき家にとって鉢いっぱいの食は得がたき食料である。なれば、鉢いっぱいの食を施す必要はない。できる範囲で施しをすればよいのだ。裕福なるものと貧しきものでは、物の価値が自ずと変わろう。できる範囲でする施しでよいのである。無理をするよりも、長く続けることのほうが重要であろう。大切なのは、施しの心である。清浄なる施しこそが徳を積むことになるのだ。」
「清浄なる施しとはどういう施しをいうのでしょうか。」
「それは、なにも利益を求めないで施すことである。ただ、鉢に食を入れる、ただ布を施す、ただ油を施す・・・。そこに利益を求めない施しこそが清浄なる施しなのだ。これだけ施しをしたからこれだけの利益があるであろう、自分には施した分だけのよいことが返ってくるという目的を持って施すのは不浄なる施しである。徳は、清浄なる施しをすれば自然に備わるものである。」
「そういうことなら、私ら貧しいものにでもできます。布もボロでもよいのでしょうか。」
「かまいません。我らが身につけている袈裟は、ボロ布を縫い合わせたものです。これらの布は、新しいものは一つもありません。すべて使い古しなのですよ。そして、袈裟として耐えられなくなった布は、小さく切って雑巾にしています。雑巾として耐えられなくなった布は、さらに細かく切って泥と混ぜ、壁土に使用しています。我らには無駄はありません。ですから、ボロ布でも構わないのです。」
「じゃあ、私ら身分の低いものでも救われるのですね。」
別の女性が尋ねた。その女性は見るからに貧しそうで、おそらくは奴隷階級にも属さない身分のものと思われた。
「初めにビンビサーラ王がおっしゃたように、ここでは身分の差別がありません。ということは、真理の前には身分の差というものはないのです。真理の前にはみな平等なのですよ。したがって、どんな身分の者も救われるのです。」
その身分低き者は、仏陀の言葉に涙を流して喜んだ。
「あぁ、生きる希望がわいた・・・。次の世こそは、奴隷から解放されるように願い、私にできる施しをいたします。」
と。
その姿を見て、身分の差を主張していた者は己の心の醜さを知ったのであった。

こうして初の法話会は何の障害もなく無事に終わったのであった。ビンビサーラ王からは、ささやかな食事の施しもあった。あまり満足に食事のとれない貧しきものたちは、それらを分け合って食べたのであった。
竹林精舎を去る人々の顔は、明るく輝いていたのであった。


70.別れ
竹林精舎での初めての法話会は大盛況に終わった。
「いい話だったなぁ。」
「あぁ、明日からちゃんと規律正しい生活を送るようにしようかな。」
「お前は、まず酒をやめないとな。」
「それが一番厳しい。あははは。」
集まった人々は、誰もが喜んで明るい顔をして帰っていったのだった。しかも
「明日からは、托鉢の時に声をかけてみよう。」
「今度、村のみんなで協力して食事にご招待しようじゃないか。その時は、下働きの者も手を休めて仏陀の話を聞かせてあげよう。」
「それはいいことだな。仏陀の前では皆平等だからな。それはいい考えだ。」
などと、仲間内で話し合っている声が聞かれたのだった。
それからというもの、ラージャグリハの人々は、ますます仏陀の弟子たちに親切になっていた。他の宗派の修行者たちよりも多めに食事を与えたり、他の宗派の者には与えないが仏陀の弟子たちには食事の施しをしたりした。
また、竹林精舎へボロ布や新しい布、燈明の油、出家生活に必要な針や糸なども寄付されたのだ。
こうしたことが面白くない他の宗派の修行者も当然ながら増えてきた。そんな中、あるバラモンが妙な噂をまき散らしていた。
「仏陀仏陀と威張っているが、なに、あれはウルベーラカッサパの力で仏陀の振りをしているんだ。ウルベーラカッサパが竹林精舎にいるのを俺は見たぞ。あのカッサパ三兄弟の長老だ。あのカッサパが、あんな若造の弟子のはずがなかろう。きっと、あの若造はカッサパの弱みかなんかを握ってカッサパを脅し、カッサパの神通力を利用して仏陀の振りをしてるんだ。みんな、騙されるなよ!。」
そのバラモンは、ラージャグリハのあちこちでその噂をばらまいていた。

次の布薩会のときであった。集まった弟子たちの中から、ラージャグリハで流れている噂の話がでた。
「最近のことですが、ラージャグリハで妙な噂を耳にしました。」
「それはわしたちの事かな?。」
若い修行僧の意見にウルベーラカッサパが答えた。
「わしが世尊に弱みを握られ、神通力によって世尊を仏陀にしている・・・という噂じゃな。」
カッサパの言葉に若い修行僧は下を向き、小声で
「は、はい・・・いや、私はそのような噂を耳にした・・・ということだけを・・・その報告したほうがよいかと・・・。」
「君を責めているのではないよ。確認しているだけだ。カッサパ長老のいった通りの噂かね?。」
コーンダンニャが聞いた。若い修行僧は、
「は、はい、そうです。カッサパ長老のおっしゃった通りです。」
「ふむ・・・・いかがいたしましょうか、皆さん。」
コーンダンニャは、集まった修行僧たちに問いかけた。
「私は、このまま捨ておけばいいと思います。ラージャグリハの人々も、その噂が根も葉もないものと気づくでしょう。」
そう答えたのは、シャーリープトラだった。多くの修行僧がうなずいていた。ただ、カッサパ長老だけが
「いや、それではいけない。そんな噂は早めに消したほうがよい。なに、簡単なことじゃ。今日の法話会の時に、わしがいつも世尊に行っている通りの礼拝をすればよいだけのことじゃ。」
「あぁ、なるほど。私たちは世尊を毎日礼拝していますからね。その様子を法話会に来られた方々に見せればいいのですね。」
「そういうことじゃ。それにしてもわしらカッサパ兄弟は、いつまでたっても世尊に迷惑を掛ける・・・・。考えものじゃのう・・・。」
ウルベーラカッサパの声は、最後のほうは消え入るような声だった。
布薩会は、他に反省すべき戒律違反もなく、皆が真面目に修行に取り組んでいることが報告され、だれも懺悔することなく終わった。その様子をただ黙して聞いていた仏陀が最後に言った。
「今日の布薩会は大変よかった。誰も罪を犯さず、規律正しい生活をしていることは、喜ばしいことだ。こうした日々が続くことを心掛けてください。」
仏陀の言葉はそれだけで、カッサパの件は何一つ触れなかった。

その日の午後、半月ぶりの2回目の法話会があった。その日も多くの人々が集い、身分の差別なく精舎の広場に座ったのだった。しかし、人々は、小声で噂しあっていた。
「あぁ、あれがウルベーラカッサパね。なるほど・・・貫禄があるわ。仏陀よりだいぶ高齢のようだし。カッサパ長老のほうが仏陀のように見えなくもないわね。」
「本当だ。さすが、あの有名なカッサパ尊者だ。あのカッサパが弟子になるとはなぁ・・・、信じられん。前回の時はまったく気がつかなかったが・・・・。」
そうした話声はあちこちから聞かれたのだった。
多くの修行者が広場の周囲を輪になって座っていた。正面の一段高いところに、長老たちが横一列に座った。さらに一段高くなった場所・・・高座・・・に仏陀が座った。
コーンダンニャ長老が
「皆さん、これより仏陀の法話をおこないます。その前に、前回お話ししたように三宝を敬うことをお教えいたしましょう。といいますのは、私たち修行者も・・・・長老をはじめ若い修行者も・・・・みな三宝を敬っています。毎日毎日、三宝を敬うことから始めるのです。」
といった。そして、コーンダンニャ長老が仏陀の前に進み出て五体倒地という礼拝をし、額を仏陀の足につけた。
「帰依三宝発菩提心」
そう唱えながら、三度礼拝したのである。
長老たちは、コーンダンニャに続いて順に礼拝をしていった。誰もが同じように三度ずつ礼拝し、仏陀の足に額を付けたのだった。
コーンダンニャが
「本来はすべての弟子が仏陀世尊をこのように礼拝するのですが、今日はお話の時間が無くなってはいけないので、長老の礼拝だけにします。」
といって、仏陀の後ろに下がっていった。

「皆さん、よくお集まりいただいた。話をしよう。
この世は常に流れている。何一つとして同じ所にとどまっているものはない。常に変化しているのだ。命ある者は刻一刻と年をとり、死へと向かっている。命なき物質であっても、刻一刻と滅びへ向かっているのだ。また、街で流れている噂であっても、人々が口にする話題であっても、同じことが永遠に語られることはない。噂はすぐに消えるものであるし、真実でない話は消えてなくなるものである。したがって、流れていくものにこだわりを持ってはいけない。こだわれば、愛着がわく。愛着がわけば、執着となる。執着となれば苦しみとなる。苦しみとなれば、思い煩うことになる。
なにものにもこだわることなく、執着を起こさねば、争うこともなかろう、嫌な思いをすることもなかろう、悩み苦しむこともなかろう。こだわることなく流れに任すがよい。
たとえば、つまらない悪口、批判、非難、うわさ話など、気にせず流すがよいのだ。気にするからこだわる。こだわるから余計に気になる。気になれば、怒りがわく。こだわれば悪口を言ったものを怨む。
悪口も批判も非難も噂も、正しい行いをし、正しい言葉を発していれば自然に消えていくものだ。何も疾しいことがないのならば、堂々としていればいいのだ。
悪口も批判も非難も噂話も永遠に語られることはない。それが真実でないならば、すぐに消えてなくなるものなのだ。真実であったならば、懺悔すれば消えてなくなるものである。
世は常に流れている。年をとることを恐れるな。それは平等に訪れるものだ。死を恐れるな。必ず誰にでもやってくるものだ。逃れるすべはないのだ。病を恐れるな。どんな身分の者も病になる可能性があるのだ。
この世に生まれた以上、老・病・死の苦しみからは逃れられない。ならば、それを受け入れ、恐れることを止めればいいのである。すべては無常なのだから・・・。」
この話を聞いた人々は、つまらないうわさ話に耳を傾けたことを恥じた。そして、その噂が嘘であることを確信したのであった。

帰りの道々、人々は噂話の出所について話をしていた。
「誰だ、仏陀よりカッサパが上だとか言ったのは・・・。」
「バラモンだ。」
「そうそう、そもそもあのバラモンだよ。変な噂をばらまいていたのは。」
「あぁ、私もバラモンから聞いたわ。ちょっと小太りのバラモンだろ。」
「そうそう、そのバラモンだ。よ〜っし、みんなでとっちめてやろうか。」
「そうだな、やっちまおう。」
「やめないか。そんなことをしても仏陀は喜ばないぞ。むしろ、嘆かれる。こだわるな、って言われたろう。」
「あ、そうか。そう言えばそうだな。」
「それに、暴力は罪になる。徳がなくなるよ。」
「あんなバラモンのために、自分たちの徳がなくなるのは損だな。このまま知らぬふりをしているか。」
「そうだ、それがいい。」
ラージャグリハの人々は、噂をばらまいたバラモンに対し、何の罰も与えないことにした。そして、そのバラモンがどんな噂をしようとも、相手にしないことにした。
翌日、また小太りのバラモンがラージャグリハの街に出て来て、噂話を始めた。
「ねぇねぇ、聞いたかい。仏陀って・・・・・ちょ、ちょっと立ち止まって話を聞けよ!。な、なんだ、今日は・・・・。一体どうしたというんだ。俺はバラモンだぞ。ちっ、仕方がない、あっちへ行こう。」
そのバラモンは、他の場所で噂話をし始めた。しかし、そこでも誰も相手にしなかったのだ。
結局、どこへ行っても誰もバラモンの噂話に耳を傾ける者はいなかった。
「ちっ、何なんだ、今日は・・・・。みんな冷たいじゃないか。どうかしちゃったのか?。おい、聞いているのか?。俺様はバラモンだぞ。」
ついにそのバラモンは、怒り始めたのだった。その時だ。
「尊敬されるのは、真実を語る者だけだ。」
と街のあちこちから声が聞こえてきた。
「立派なものは、真実を語るものだ。」
「嘘や噂話をばらまくものは、掃除したほうがいい。」
「嘘つきは、徳が無くなる。今度生まれ変わるときは、牛糞の中にいるウジ虫だ。」
誰が言っているのかはわからなかったが、街のあちこちの家の中から、その声は聞こえてきた。その声を聞いて、バラモンは恥ずかしくなってきた。
「あ、あぁ、そう、そうだね。そうだな。そうに違いない。さ、私もしっかりバラモンの勉強をしなきゃ。家に帰ろう。祭司のもとで修業をしよう・・・・。」
と言って、去っていったのだった。ラージャグリハの人々の間には、仏陀の教えが徐々に浸透していったのだった。

一方、仏陀の前にはウルベーラカッサパはじめ、カッサパ兄弟が神妙な顔をして座っていた。
「世尊、折り入って相談がございます。」
「言ってみなさい。」
「私たち三兄弟、ウルベーラの森に帰ろうかと思っております。このままこの精舎で修行をしておりますと、この先も世尊に迷惑をかけることになるでしょう。私たちのインチキを知っているものもいますでしょう。また、私達が大金を巻き上げた被害者の方もいます。どこでそのような者と出会うかわかりません。もしそうなれば、また世尊や他の長老、修行者の皆さんに迷惑をかけることになります。ですので、ウルベーラの森で、ひっそりと修行したいのです。
幸い、私一人だけでなく、弟たちもついてきてくれると言っております。高齢の私一人だけではありません。どうか、私達がウルベーラの森に戻ることをお許しください。」
「お願いします。」
弟たちもそろって仏陀に願い出たのだった。
「そろそろそのような申し出があると思っていました。人にはそれぞれ修行がしやすい場所があります。あなたたちには、あのウルベーラの森があっているのでしょう。いいでしょう。ウルベーラの森に帰られるがよい。もうあなたたちの心には迷いも汚れもありませんから、何の心配もしておりません。
ですので、あなたたち兄弟に教えを請いたい、指導を願いたい、と思っている弟子がいましたら、連れて行ってあげなさい。」
仏陀は、カッサパ達の願いを許可したのだった。しかも、弟子をひきつれてよいとまでいったのだった。
「世尊、ありがとうございます。ウルベーラの森に戻っても世尊のことは毎日礼拝いたします。弟子たちにも日課にさせます。あのウルベーラの森にて静かに修行いたします。」
こうして、ウルベーラカッサパら三兄弟はもといたウルベーラの森に帰ることになったのだった。

出発の当日、カッサパ三兄弟は、世尊に別れを告げた。
「世尊、私たちをお導き頂き、ありがとうございます。これよりは、私たちで修業に励みます。また、私たちについてくる弟子たちをよく指導し、世尊の教えを伝えていきます。もし、お近くにお越しの際には、立ち寄りください。世尊、みなさん、お元気で・・・。」
「カッサパよ。元気で過ごされよ。よく修行に励むがよい。」
仏陀はそう言ってカッサパ三兄弟と彼らについていくことになった数百人の弟子たちを見送ったのだった。長い付き合いであったコーンダンニャたち古くからの長老は、別れの悲しみをこらえていた。
「すべては無常なり。出会いがあれば別れがあるのだ。」
と。

翌日、竹林精舎は何事もなく朝を迎えた。修行者の数は減ったが、それだけのことで、修行者の生活は何も変わることなく、始まるのだ。その日も、いつもと変わることなく、修行僧が托鉢に出かけた。
ラージャグリハの街では、仏陀の弟子は大歓迎されている。誰もが、修行僧の鉢に・・・量の多い少ないはあるが・・・喜んで食べ物を入れてくれた。
その様子を見ていた一人の男がいた。
「いいなぁ・・・腹が減ったなぁ・・・。そうか、修行僧になれば毎日腹いっぱい食べられるんだな・・・。いいなぁ・・・。あぁ、腹が減った・・・。」
その男は、修行僧がたくさんの食べ物を手に入れたことを羨ましそうに眺めていたのだった。


71.大食漢
その男は空腹でふらふらだった。
「あぁ、腹が減ったなぁ・・・。いいなぁ、あの修行僧。あんなに食べ物を頂いている。どうしようかなぁ・・・。俺も修行僧になろうかな・・・・」
その男は、いつの間にか托鉢をしたいた修行者のあとをついて歩いていた。修行者は、托鉢のときにはキョロキョロしてはいけない決まりになっていたので、自分の後ろを変な男がついてくるのも構わず、真っ直ぐに歩き続けた。やがて、修行者は竹林精舎へとはいっていった。
精舎に入り、自分がいつも座る場所に落ちついてから、後をついてきた男に修行者は言った。
「君は何の用があって、私のあとをついてきたのですか」
男は答えた。
「あ、あの〜、腹が減って・・・・。その鉢の中の食べ物につられて・・・・ここまで来てしまいました」
修行者は呆れた。
「な、なんと・・・。この食事が目当てでしたか・・・・。まあよいでしょう。さぁ、そんなところに立ってないで、ここに座って食べるがよい」
「いいのですか?。あ、ありがとうございます」
そういうと、その男はガツガツと鉢の中の食べ物を食べ始めた。そして、ほんの少しの時間で鉢の中はからになってしまったのだった。
「あ、全部食べてしまった・・・・。す、すみません。あなたの分を残さなかった・・・・。あぁ、どうしよう・・・」
「いえいえ、いいのですよ。私は何も食べなくても大丈夫ですから」
「えっ、そうなんですか。よかった・・・・」
「あなた、まだ食べ足りないのでしょう?」
「あははは、わかりますか。はい、この鉢の大きさなら、あと三杯はいけます」
その男は図々しくも笑いながら言ったのだった。そこへ別の修行者がやってきた。
「どうしたのですかヤシャ。新しい弟子ですか」
「あぁ、マハーナーマさん、そうではありません。この方は、お腹が空いていて、托鉢をしていた私についてここまで来てしまったのですよ」
「なんと、托鉢の食べ物につられてこの精舎に足を踏み入れたと・・・。なんとまあ、このような縁もあるのですな」
「そのようです。あぁ、マハーナーマさん、食事は全部食べてしまいましたか?。どうやら、彼はまだ足りないようなのです」
「そうですか、それなら私の分を食べるがよい。さぁどうぞ」
そういってマハーナーマは鉢をさしだした。その中には、托鉢で得た食事がいっぱい入っていた。
「ラージャグリハの人たちは、みなこぞって布施をしたがるようになりました。毎日、食べきれないほどの食事になってしまいます。これでは食べ残すことになり、食事が無駄になってしまいます。一度、長老方で話し合っていただかないと・・・・」
「そうですね。世尊にも相談してみましょう」
マハーナーマとヤシャの話など耳にも入らず、その男は鉢の中の食べ物をすべてたいらげていた。
「あっ、また全部食べてしまった。申し訳ないです。あなたの分を残さなかった・・・・」
「大丈夫ですよ。初めから残るとは思っていません。それにしてもよく食べますねぇ」
「はぁ・・・。もう何日も飲まず食わずだったので・・・・」
男が身の上話を始めそうだったので、ヤシャはそれを止めた。
「とりあえず、世尊のところへ行きましょう」
「世尊?ですか」
「はい、仏陀です。私たちは仏陀の指導を受けている修行者です。あなた、毎日こんなにたくさん食事ができるのなら、修行者になってもいい、と思っているのでしょう?」
心の中を見透かされたその男は、恐縮して頭を下げた。
「はい、まさにその通りです」
「おかしな男だ・・・・」
ヤシャとマハーナーマは、呆れて男を眺めていた。

仏陀の前にその男は座っていた。両脇にはヤシャとマハーナーマも座っていた。
「ふむ、托鉢をしているヤシャをみて、汝は羨ましいと思ったのだな」
「はい、その通りです。あんなにたくさんの食べ物が貰えるのなら、修行者になるのも悪くはない、と思ったのです」
「それで、ヤシャのあとについてきたのだな」
「はい、その通りです」
「ふむ・・・。まず、戒律通りの振る舞いをしたヤシャは立派である。よくぞ後ろを振り向いたり、話しかけたりしなかった。ヤシャの対応はこの上ないものであった」
仏陀は、まずヤシャの対応を褒めた。
「また、空腹に苦しんでいるこの者に、自らの食事をすべて差し出したヤシャとマハーナーマの対応もよろしい。食に執着しない、二人の心は見事である」
ヤシャとマハーナーマは、合掌し仏陀を礼拝した。
「さて、汝の話を聞こうか」
仏陀は、男に尋ねた。
「はい、私はコーサンビー国の大臣の家に生まれました。バラモンの出身です。バラモンの経典はすべて学んだのですが、もっと学ぶことがあるだろうと思い、マガダ国のラージャグリハを目指して旅にでました。しかし、用意した食べ物は二日でなくなってしまったのです」
「いったいどれだけ用意したのですか」
マハーナーマが尋ねた。
「はい、自分では半月分の食料を持って出たつもりだったのですが・・・・」
「な、なんとそれが二日で・・・・それは食べ過ぎではないのかね」
「いったいどのような食べ物を用意したのだね」
今度はヤシャ尋ねた。
「はい、持ち運びに便利で日にちが長持ちするピンダを大量に袋に詰めてきたのですが・・・・」
ピンダとは、団子状に丸めた食べ物のことを言う。旅の携帯食にはちょうど良いものであった。
「それを・・・半月分をたった二日で・・・・。そのあとはどうしたのだね」
「そのあとは・・・お金があるうちは食料を買ったり、食堂で食べたりしたのですが・・・・。お金もなくなり、あとは飲まず食わずで歩いていました」
「そんなときにヤシャに出会ったのだね。よくわかった。さて、汝はこれからどうするのだ」
仏陀は、その男に尋ねた。
「はい・・・。もし許していただけるのでしたら、出家したいのです。その・・・・不純な動機だけではありません。こちらの方たちのような立派な振る舞いが身に就けば・・・と思うのです。私は大食漢です。そんな私が自分の食事をすべて他の修行者にさし出せるようになりたいのです。ですから、どうか出家を許して下さい」
その男はそういうと、五体投地して仏陀を礼拝したのだった。

「わかりました。あなたの出家を許しましょう。あなたは、これからはピンドーラと名乗るがよい」
「ピンドーラ・・・・」
「そうだ、団子のピンダを持つものだ。なぜこの名前がついたのかわかるかね」
「は、それは・・・・・」
「戒めだ。大食に対しての戒めなのだ。汝は、その大食漢を直さねばならぬ。暴飲暴食の癖を克服するように、あえてピンドーラと名付けた。よいか、今日から暴飲暴食することなく、食事に執着せぬよう、修行に励むがよい」
そういって仏陀は、彼が守るべき戒律を授けた。そして、
「ヤシャ、ピンドーラの指導をお願いします」
と、ピンドーラをヤシャに預けたのだった。

翌日から毎日托鉢に出るようになったピンドーラであったが、彼は不満そうであった。
「ヤシャ尊者」
「なんだね、ピンドーラ」
「こんなことを言ってはいけないのでしょうが・・・・」
「どうしたのだ、何でも言ってみなさい。言わねばわからぬであろう」
「はい。托鉢の鉢なのですが・・・」
「鉢がどうしたのだ」
「私には小さすぎるのです」
「あぁ、そういうことか・・・。しかし、暴飲暴食を慎むようにと言われているではないか」
「はぁ・・・・。その、この鉢では暴飲暴食どころか、私の腹の半分にもなりません。せめて、この倍の大きさがないと、私は元気がでないのです。瞑想中も腹が鳴って仕方がないのです。昨日も私の腹の虫が騒いで、とんだ恥をかきました」
確かにそうなのだった。ピンドーラは、午後の瞑想になると、決まって腹が鳴ったのだった。それもとても大きな音だったのだ。その音を聞いた周囲の修行者は笑ってしまい、とても修行どころではなくなってしまったのだ。そんなことが、毎日のように続いていた。
「耐えしのぶことはできぬのか」
ヤシャは尋ねた。
「はい、耐えしのべるのでしたら、鉢のことを相談することはありません・・・・」
「それもそうだな・・・・わかった。そういうことならば、倍の大きさの鉢を使うがよい。世尊には私から話しておこう」
「ありがとうございます」
ピンドーラは、早速、木を彫って、大きな鉢を作ったのだった。それは、今までの鉢の倍以上はある大きさだった。翌日から、彼はその鉢を持って托鉢に出たのであった。それからというもの、ピンドーラの腹はなることはなくなったのだった。

「すべての修行者よ、集まるがよい」
仏陀がふいにすべての修行者を集合させた。修行者は、静かに精舎の中心の広場に集い、座った。
「皆も知っていると思うが、そろそろ雨季が近付いている。この雨季をいかに過ごすのが適切か、皆で決めてほしい」
仏陀の言葉にシャーリープトラが発言した。
「私が以前いた修行場では、雨季の間は一か所に篭って、外は出歩きませんでした」
長老にはなっていない修行者から質問が出た。
「それはなぜですか」
「はい、雨季には草花が新しい芽を出します。その芽には多くの虫たちが集まってきます。もし、雨季に私たち修行者が出歩けば、その草花の新芽も踏みつぶすことになります。そうすれば・・・・」
「あぁ、新芽もその新芽に集う虫たちも殺してしまうことになるのですね」
「そういうことです。それは殺生の罪を犯すことになります」
「では、どうすればいいのですか」
「食料をため込んで、この精舎に篭るのがよいのではないかな」
バッパが答えた。それに呼応して、あちこちから様々な提案がなされた。
「ふむ、それがいいですね。それには、まずラージャグリハの人々にご協力願わないといけません」
「保存のきく食料を布施していただかないと」
「食料だけではない。布も油も必要だ」
「集めた食糧や布、油などはどこに保管するのだ」
「保管庫を整理して使えばいいのではないでしょうか。あそこは、もともと布や油、薬品が保管されています」
「そうだな。少々手狭だが・・・・少し広くしていただくか」
「そうですね。そうしましょう」
「管理はどうする」
「各長老のもと、交替で行えばよろしいかと・・・・」
「今の当番制と同じですね」
こうして、雨季には精舎に篭ることとなった。雨季は約一か月続く。その間、修行者は一歩も外を出ることはないのだ。
修行僧のやり取りを聞いていた仏陀だったが、
「よろしい。ビンビサーラ王にも相談をして、食糧や生活用品の保管庫を大きくしていただこう。また、ラージャグリハの街の人々に協力していただき、保存食を集めることにしよう。なお、雨季は35日間ほど続く。食料や生活用品は、分け合ってなるべく節約して使うようにすること。食糧や生活用品の持ち出しには、必ず管理者の許可を得ること。特に大食漢のピンドーラ、空腹だからと言って保管庫の食品を食べ尽くさないように、よく自制せよ。雨季の間、精舎に篭ることを今後雨安居(うあんご)と呼ぶ。自制心を保つにはよい修行となるであろう」
仏陀の言葉に、みな修行に励む決意を新たにした。特にピンドーラは、自制心を身につけることをひそかに誓ったのだった。

その数日後には、保管庫は大きくなり、保存食が次々と運ばれていった。また、寝具や医薬品、油に布なども保管庫に収められた。空には雨雲が張り出し、もう間もなく雨季は始まろうとしていた。


72.スダッタ
雨季にはいった。雨が毎日、降り続いていた。修行者たちは、雨がしのげる精舎に篭り、長老の指導のもと、瞑想に励んでいた。身体を動かすことも極端に少なくなるため、精舎の中を右回りにあるいている者もいた。
長期間、同じ所に集団で閉じこもっていると、些細なことから争うこともでてきた。多くは、保管庫からの日用品や食料の持ち出しに関してだった。誰が多くて誰が少ない、誰それは頻繁に出入りしている・・・など、中傷がなされたのであった。特にピンドーラは、大食漢で知られていたため、証拠もないのに食料の持ち出しを咎められていた。
「ピンドーラ、また食べているのか。いい加減にしてくれないと、他の者の食料がなくなってしまう。お前の食べる分はもうないぞ」
「ピンドーラ、それ何回目の食事だ?。自分ばかり食べていると、餓鬼になるぞ」
ピンドーラに対する、根拠なき中傷は毎日のように口にされた。それを見かねたヤシャは
「君たち、ピンドーラが食べ過ぎている証拠でもあるのかい?。根拠がないのに中傷することは、私が許しませんよ。あなたたちを指導している長老にも抗議をいたします。ピンドーラ、君は反論しないのかい」
「はぁ・・・。仕方がないです。私は大食漢であることが知られていますから・・・」
「おぉ、ピンドーラ、争いに加わらない態度はよろしい。それでこそ、修行になる。他人の悪口を言っている彼らとは大違いだ。その調子で修業に励んでくれ」
ヤシャは、ピンドーラを励ましながら指導をしていた。その様子を仏陀は静かに見守っていた。

実際、ピンドーラは、毎日の空腹によく耐えていた。通常の半分も食べていなかったのである。彼の腹の虫はいつも鳴いていた。
「あぁ、腹が減った・・・・。ここに来れば、たらふく食べられるはずだったのに・・・。いやいや、そんなことを言っていてはいけない。私はこの試練に耐えねばいけないのだ。そして、悟りを得るのだ。それに、動かないから、そんなに食べなくても何とかなるものだ。よ〜し、がんばるぞ」
ピンドーラのその謙虚な修行態度は、そのうちに誰もが知るところとなった。雨安居も終わりに近付いていたある日のこと。ヤシャの教えにピンドーラは、ふと顔をあげた。その顔は、光り輝いていた。
「あぁ、そうか、わかりました。なるほど、そうだったのですか。ついにわかりました」
「おぉ、ピンドーラが悟った。さぁ、仏陀の御前に行って、君の悟りを話すのだ」
ヤシャとともにピンドーラは仏陀の前に座った。
「ピンドーラ、よく頑張った。この雨安居にもよく耐えている。自分を制御することができるようになったかね」
「はい、世尊。わかりました。私は、ついに世尊の御教えを理解いたしました。わかったのです。もはや、私には迷いはありません」
「ふむ、ピンドーラが悟った。ピンドーラが悟った」
仏陀は、ピンドーラを褒め称えた。

ピンドーラは、悟りと同時に神通力も得ることができた。それは強力なものであった。特に仲間の病を治すことに関しては長けていたのであった。弟子たちの中では、その神通力の強さは、モッガラーナに次いでのものであった。
彼は、腹痛で苦しんでいたり、頭痛で苦しんでいたりする修行者をその神通力でよく治した。性格が少々お調子者のところがあったので、頼まれると軽く引き受けてしまうのであった。たまに、ヤシャが見かねて
「神通力を使うのはよいが、あまり軽く引く受けないほうがいい。君は便利屋ではないのだから。それに、一度悟ったからと言って、それで修行が終わったということではないのだ。瞑想は、いつも行わねばならない。人の心は弱いものだ。いつ悪魔が囁きかけるかわからないのだからね。注意したまえよ」
「長老、ありがとうございます。もちろん、自らの修行は怠りません。しかし、病人を放っておくわけにもいきません。私にできることでしたら・・・・とつい手を貸してしまいたくなるのです」
「一応、医薬品もそろっているのだ。薬で治らない場合のみに神通力を使うがよいのではないか」
「はぁ・・・、では、そういたします」
ピンドーラのすぐれた神通力と性格の軽さが、後に彼に災いをもたらすのであるが、それはまだまだ先の話であった。しかし、このころから、ピンドーラの神通力をすぐに使いたがる癖は、始まっていたのである。仏陀は、その時はまだ何も注意はしなかった。ヤシャの指導が正しいものであったからである。

そうこうするうちに、雨季も明けたのだった。
「修行者たちよ、雨季は終わった。不自由な中、よく耐えしのんだ。この間に悟りを得た者が数名いたことは、喜ばしいことである。明日より、通常の修行に戻る。とはいえ、普段通り、規則正しい生活を送るように。籠っていた反動で心浮かれないよう、自らをよく制御するがよい」
仏陀の言葉は、雨季が終わったことで気が緩みそうであった修行者に効果的であった。そうして、彼らの通常の修行が始まったのである。

当時のインドは、マガダ国とコーサラ国という二つの大きな国が勢力を誇っていた。その両大国の周辺には仏陀の出身国であるカピラバストゥなどの小国がいくつか存在していた。しかし、それら小国は、マガダ国かコーサラ国につき従っている属国であった。
商業の中心は、マガダ国の首都ラージャグリハとコーサラ国の首都シューラバスティーであった。この両都市には大富豪が多く住んでいた。
コーサラ国の大富豪スダッタは、マガダ国の大富豪の長者の妹を嫁にしていた。商用でマガダ国へ寄るときは、決まって義兄のもとを訪ねた。義兄は、スダッタの訪問を喜び、いつも最高のもてなしをしてくれるのだった。しかし、その日はいつもと違っていた。みんなせわしなく動き、スダッタのことなど眼にも入っていなかったのである。
「ちょ、ちょっと、今日は一体どうしたというのです。義兄さん、何かあったのですか?。義姉さん、何をそんなに慌てているのですか?。食事の用意など、女中に任せておけばいいではありませんか」
「あぁ、朝早くからなんだいスダッタ。今日は忙しいのだ。またの日にしてくれないか」
「ちょっと、邪魔よ、スダッタさん。そんなところでぼんやりしてないで、ほら、この皿を運んでくださいな」
「皿を運べ?・・・ってどういうことなのですか。どなたかとんでもない方でもやってくる・・・まさか、ビンビサーラ王がやってくるのですか?」
「あ〜、違う違う。そんなもんじゃない。国王ごときでわしが動くか!。さぁ、そこをどいてくれ」
「じゃあ、一体誰が来るのですか?」
スダッタは、大声をだして尋ねた。その声に忙しく動いていた皆が一瞬立ち止まってスダッタを見た。次の瞬間、誰もがまた忙しく動く始めたのだった。てきぱきと指図をしながら、義兄は大声でいった。
「仏陀だよ。仏陀様が来られるのだ。もうすぐ、20人ほどの悟りを得た長老の方々を引き連れ、仏陀様がここに来られるのだ。だから、邪魔しないでくれ」
「な、なんと?、なんと言いました義兄さん。仏陀ですか?」
「そう仏陀だ」
「仏陀・・・なのですか?」
「そうだ、仏陀だ。あぁ、そこ、テーブルにはこれを敷いてくれ」
「仏陀が来られるのですか?」
「あぁ、そうだと言ってるだろ。仏陀だよ」
「仏陀・・・・。マガダ国には仏陀がおいでか?。仏陀とは伝説の聖者。この頃はその話さえ聞かなくなっている。若いものや子供など、仏陀という言葉すら知らないだろう。・・・義兄さん。私も仏陀にお目にかかりたいのですが」
「あぁ、今日はだめだ。今日は私が接待する日なのだ。私たちがその教えを聞く日なのだ。この日をどれほど待ち続けたか・・・・。その喜びは私たちだけのものだ。君は別の日に・・・・そうだ、明日の朝にでもお会いしに行けばいい」
「そ、そんな・・・・。しかし、仕方がないか。仏陀への接待なのだからな・・・。私は部外者だし、一文も出してはいないからな・・・・。わかりました。私は明日にでも出直します。ところで、どこへ行けば仏陀にお目にかかれるのですか?」
「ラージャグリハ郊外の竹林精舎だ。そこにいらっしゃらない場合は・・・・知らん。さぁ、帰ってくれ」
そう言われてスダッタは仕方がなく、数名の使用人とともに義兄のもとを去り、ラージャグリハの街へと出て行った。
「ふむ、とりあえず、今日の宿を探そう。いつもなら義兄さんのところで泊めてもらえるのだが・・・・あの様子じゃあ無理だろう。まあいい、昨日の夜にシューラバスティーを出発したせいか、使用人たちも疲れている。休ませておこう」
そう思い、ラージャグリハで一番の宿に入ったのであった。
スダッタは、深く眠った。一度、夕食に起きたが、再び眠りに入った。ところが、どうしたわけか、夜中に目が覚めてしまった。あたりはまだまだ暗く、夜明けまでには程遠いようであった。仕方がないので、もう一度寝ようとした。しかし・・・今度は眠れなかった。
「そうだな、沐浴でもして、身を清めよう。なんせ仏陀にお会いするのだからな」
そういって、スダッタは沐浴を始めた。丁寧に体を洗い、汗を落とし、高価な香油を身体に塗った。真新しい衣装に身を包み、
「さて、どうしようか・・・、外はまだ暗いし・・・」
部屋を出ようとしたが、あまりの暗さに足がすくんでしまった。その時である。どこからともなく声が聞こえてきた。
「怯えるな。その一歩を踏みだすことは、あらゆる財宝よりも価値があり尊いことだ。前に進め、勇気を出して進むのだ。退くな。私が案内しよう」
声がそう告げると、少し先に灯りが見えた。
「あの灯りについて来い、ということか・・・」
スダッタは、灯りの方に向かって歩き出した。しかし、しばらく行くと、ふっと灯りは消えたのだった。
「あぁ、消えてしまった。どっちへ行けばいい?」
スダッタは恐ろしくなって足がすくんだ。すると
「こっちだ。こっちへ行くのだ」
という声とともに灯りが見えたのだった。そうしたことを三回ほど繰り返すと、いつの間にかスダッタは、さびしい墓地に佇んでいた。ぼんやり朝日がさしかけてきたのか、あたりがうっすらと明るくなってきた。
「な、なんだ、こ、ここは墓地じゃないか・・・。お恐ろしいところへ来てしまった・・・。騙されたんだ。魔物に騙されたんだ。どうしよう、く、食われるのかな・・・」
恐ろしさで身を震わせながら廻りを眺めると、誰かが座っていた。その者は、まだ薄暗い中、なぜか光り輝いて見えた。
「あ、あ、あ・・・」
スダッタの声は、言葉にならなった。
「何を恐れているのか。スダッタよ。さぁ、こちらに来るがよい。私に会いに来たのであろう」
その声は、恐怖におびえていたスダッタを安心させるには十分な響きを持っていた。
「あなた様は・・・仏陀様・・・」
そう言ってスダッタは、結跏趺坐している仏陀の足もとにひれ伏したのだった。
「よく来た、スダッタ。何をおびえているのだ」
「こ、ここは墓地ですから・・・。その・・・骨が埋まっているので・・・」
「骨が怖いのか」
そう言って仏陀は、傍らに落ちていた骨のかけらを掌に載せて見せた。
「これが怖いのか?」
「い、いえ・・・、怖くはありません。そんな程度でしたら、大丈夫です」
「ならば、これが多くなったら怖いのか」
「う〜ん、いや、そうでもないです。骨が増えても怖くはありません。あぁ、きっと、死体が怖いのです」
「死体が怖いのか・・・。ならば、これは怖いか」
そういって仏陀が見せたのは、虫の死骸だった。
「虫は怖くはありません。人じゃないですから」
「人の死骸も虫の死骸も同じであろう。大きさが違うだけだ」
「いや〜、人の死骸は怖いというか・・・気持ちが悪いというか・・・・」
「スダッタよ、汝が恐れているのは死骸でもなく、骨でもない、汝が恐れているのは『死』そのものであろう。死骸を見て、死を想像するから怖いのだ。この場で自分に死が訪れたらどうしようかと、汝は恐れているのだ。よいかスダッタ、この虫の死骸も人の死骸も同じなのだ。こんなものは、使い捨てられた貝殻のようなものである。何も恐れることはない。これを見たからと言って、汝に死が訪れることはない」
その言葉に、スダッタの心の中から恐怖がすべて去っていったのであった。
つづく。


バックナンバー18へ


お釈迦様物語今月号へもどる         表紙へ