ばっくなんばー18

73.祇園精舎
「恐怖心は消えたようだな、スダッタ」
「はい、もう怖くありません。恐怖の原因がわかったのですから」
「よろしい。では、汝に教えを説こう」
こうして仏陀は、スダッタに在家の守るべき道を示した。それは、仏陀と仏陀の教えと修行僧に帰依すること、殺生しないこと・盗みをしないこと・性に乱れないこと・嘘をつかないこと・酒を飲まないことの五つの戒めを守ること、布施を行い、よく耐えしのび、怠ることなく努力し、心を落ち着ける時間をとり、よく考えるよう心掛けることを説いた。それらは、在家が苦しみから解放されるための方法であった。
こうした教えは、スダッタの心の中にすぐにしみ込んでいった。
「仏陀様、今私が聞いた教えをこれ以降、よく守ります。私は仏陀に帰依し、仏陀の教えに帰依し、仏陀の教えを守る修行僧に帰依します」
そういってスダッタは、再び仏陀を礼拝したのだった。そしてさらに
「仏陀様、明日食事の接待をしたいのですが、お弟子の方々とご一緒に来ていただけないでしょうか」
と、早速食事の接待を申し出たのだった。これに対し仏陀は沈黙で答えた。これは、承諾した、という意味である。
「ありがとうございます。では、早速、義兄のもとに帰り、この話をしてきます。明日が待ち遠しいです」
そういうと、スダッタは三度仏陀を礼拝し、その場を立ち去ったのだった。

義兄のもとに戻ったスダッタは、墓地での出来事を話した。義兄は、
「スダッタよ、旅先で接待はできるのかい」
と尋ねてきた。
「そのことだが義兄さん、この場所を借りたいのですが、よろしいですか」
「場所は貸してもよいが・・・。旅先で資金がないのではないか?。もし、なんだったら、その仏陀様の食事の御招待、私が引き受けようか」
「いやいや義兄さん、義兄さんは昨日も接待されたじゃないですか。私にも功徳を積まさせてくださいよ。資金なら大丈夫です。商売用にたっぷりと持ってきていますから。さぁ、早速準備に取り掛かろう」
コーサラ国のスダッタが仏陀を招待する、という噂はすぐにラージャグリハの街中に広まった。それは国王の耳にまで届いた。
「なんと、コーサラ国の商人に世尊の接待をとられたのか?。それはいかん。譲ってもらおう」
ビンビサーラ王は、そういってスダッタに仏陀の接待を譲ってくれるよう頼んだが、スダッタはこれを頑なに断ったのだった。
「皆さんは、いつでも仏陀様をご招待できるではありませんか。私はコーサラ国の人間です。この機会を逃すと、次はいつになるかわかりません。お願いですから、私に接待をさせて下さい」
その言葉に、ラージャグリハの者たちは、接待を譲ってもらうことをあきらめたのだった。

翌日の朝、食事の準備は滞りなく進み、あとは仏陀と弟子たちが到着するのを待つだけだった。やがて、仏陀とその弟子たち十数名がやってきた。
「仏陀様、ようこそおいで下さいました。さぁ、どうぞこちらへ」
仏陀たちは、設けられた座についた。一緒に来た弟子のシャーリープトラが言った。
「仏陀様のことは、今後、世尊とお呼びいただければ結構です」
「わかりました。では、世尊、どうぞお食事を召し上がってください」
こうしてスダッタの接待は行われたのである。
食事が終わって、スダッタは仏陀の前にひれ伏し、言った。
「世尊、お願いがあります。ぜひ、コーサラ国へもいらしてください。できれば、秋の雨安居はぜひコーサラ国でお過ごしください。ラージャグリハの竹林精舎に負けない、精舎をご用意させていただきます」
仏陀は、スダッタの申し出にうなずいた。
「あぁ、ありがとうございます。早速、コーサラ国へ戻り、精舎の準備に取り掛かります」
スダッタは、大喜びであった。
仏陀たちも戻り、商用もすませたスダッタは
「義兄さん、いろいろ世話になりました。慌ただしいですが、すぐに帰ります」
と挨拶をし、コーサラ国へと帰って行ったのだった。ラージャグリハからコーサラ国の首都シューラバスティーまでは一か月ほどかかる。その間の帰りの道々、スダッタは知り合いに
「今度の秋の雨安居前に仏陀様がここを通られる。みんな迎え入れる準備を今からしておくといい」
と触れて回ったのだった。スダッタは、友人も多く、信頼もあったので、この言葉はすぐに広まっていった。そのため、ラージャグリハとシューラバスティーを結ぶ道は、益々発展し、安全な道へと変貌していったのだった。

シューラバスティーに戻ったスダッタは、精舎にふさわしい場所を探しまわった。
「う〜む、街から遠すぎてもいけないし、近すぎてもいけない。托鉢に便利な場所で、しかも静かで水が豊富でないとならない。できれば川か泉が欲しい。猛獣がいてもいけないし、毒蛇やサソリなども怖い。う〜む、難しいなぁ。なかなかふさわしい土地がないぞ・・・・」
そんなとき、ふと目に入った土地があった。
「あれは・・・確か、ジェータ王子の林園だったのではないかな・・・。おぉそうだ。ジェータ王子の土地だ。そうか、ならばジェータ王子に頼もう」
早速スダッタは宮城に行きジェータ王子に願い出たのだった。
「ジェータ王子、あの林園を私に譲ってもらえませんか。ぜひ、私に売ってください」
「スダッタ、いったいどうしたというのだ。いまさら林園などいらぬであろう」
「いや、必要なのです。ちょうどいい土地なのです。売ってください」
「だめだ、あの林園は私のお気に入りの場所なのだ。売るわけにはいかん」
「そこをなんとか・・・。私はあの土地に仏陀様を迎える精舎を建てたいのです」
「仏陀か精舎か何だか知らないが、だめだ。たとえ、あの林園いっぱいに黄金を敷き詰めたとしても、売るわけにはいかんよ。帰ってくれ」
「仕方がないですな。今の会話を裁判所の大臣に報告し、裁定を下していただきます」
そういうとスダッタは、王子の部屋を出ていき、裁判担当の大臣のもとに行った。大臣に王子とのやり取りを話したところ、大臣は
「王子はその土地の金額を決めた。その金額とは、土地いっぱいに黄金を敷き詰めること、である。したがって、一度金額を決めた以上、もしスダッタが土地いっぱいに黄金を敷き詰めたならば、ジェータ王子はスダッタにその土地を売らねばならない」
と判断したのだった。喜んだスダッタは、すぐに自宅に戻り、使用人に命じて、家中の黄金を集めたのだった。
「よし、それを持ってジェータ王子の林園に行くぞ」
スダッタは、持ち込んだ黄金を林園に敷き始めた。ところが自宅にあったすべての黄金を以てしても、敷き詰めることができたのは、林園のほんの入り口付近だけだったのである。スダッタはショックのあまり、その場にへたりこんでしまった。
「私の家にはたったこれだけしか黄金がないのか。たったこれだけか・・・・。こんな少ない黄金のために私は毎日あくせく働いていたのか・・・・・。なんと虚しいことだ・・・・。今まで、私は金持ちだ、コーサラ国一の長者だ、と威張ってきたが・・・・・。これではこの土地に黄金を敷き詰めるのは程遠いな・・・。よし、商売も売ろう。誰か私の商売を買ってくれる者はいるかな。そうだ、自宅も売ろう。他にある土地も売ろう。無一文になってもこの土地を黄金で敷き詰めて見せよう。何もかも売れるものは売ってしまおう」
スダッタは、そういって力強く立ち上がると、
「早速、売る手続きをしよう」
と叫び、自宅へと向かおうとしたのだった。その時である。スダッタの行く手をジェータ王子が阻んだ。
「スダッタ、もういい。あなたの熱意には負けたよ。まさか、本当に黄金を敷き詰めるとは・・・・。しかし、いったいこの土地をどうしようというのだ」
「ジェータ王子、先ほども言いましたが、仏陀様ですよ、仏陀様がコーサラ国に来られた時の精舎を私は造りたいのです」
「仏陀?。本当に仏陀なのか?。さっきは腹が立っていたので、ちゃんと聞いていなかったが、うその話ではないのだな。本当に仏陀なのだな」
「本当に仏陀様です。この世に仏陀様が現れたのですよ。今度の秋の雨安居にはコーサラ国へ来られると約束してくださったのです。ですから、それまでに私は精舎を建立しようとしていたのです」
「そうだったのか・・・・。そういうことなら・・・・。スダッタよ、もう黄金は敷き詰めなくてもよい」
「ど、どういうことですか。ここを売ることはやはりダメだと・・・・」
「いや、違う。この土地はお前に譲ろう。その入り口付近しか敷き詰められなかった黄金で、この土地すべてを譲ろう」
「ほ、本当ですか。それはありがたい・・・」
「あ〜、いや、待て待て。その黄金を敷き詰めた、入り口付近のわずかな土地は、私の物としよう」
「ど、どういうことですか」
「その部分は、私から仏陀へ寄付したいのだ。その入り口付近は、このジェータからの寄付だ。それから、お前から受け取った黄金で私は門を建立しよう。他の精舎などは、スダッタ、お前に任せよう」
「ジェータ王子、ありがとうございます」
スダッタは、深々とジェータ王子に頭を下げたのだった。

その後、大急ぎで巨大な精舎が建立されていった。僧坊はもちろん、食堂、瞑想室、修行場所、沐浴所など、必要な設備はすべて整えていた。これは後のことであるが、この精舎は大変過ごしやすい精舎だったので、仏陀は30回の雨安居のうち19回をこの精舎で過ごしたと言われている。
また、この精舎は、後々「祇園精舎」と呼ばれるようになる。これはスダッタとジェータ王子の名前に由来している。
スダッタは、それが本名であったが、人々からは「アナータ・ピンタダ」と呼ばれていた。「アナータ」とは「身寄りのない人々、孤独な人々」という意味であり、「ピンタダ(ピンディカともいう)」とは「食べ物を与えるもの」という意味である。すなわち「アナータ・ピンタダ」とは「孤独な人々に食べ物を与えるもの」という意味である。スダッタは、よく貧しい人々や身寄りのない人々に施しをしていたので、こう呼ばれていたのである。これを漢訳すると「給孤独(ぎっこどく)」となる。
また、スダッタと一緒に精舎を寄付したジェータ王子は漢訳で「祇多(ぎた)、祇樹(ぎじゅ)」と書く。このスダッタとジェータ王子が寄付した精舎は「ジェータ・アナータ・ピンタダ・ヴィハーラ」と呼ばれた。これを漢訳したものが
「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」
である。これを省略して「祇園精舎」となったのである。
仏陀は、この精舎で多くの教えを説いた。それは数多くの経典に残されていることからも知れるのである。


74.父王からの使者
「また使者は帰ってこないのか・・・・。いったいどういうことなのだ・・・」
シュッドーダナ王は、側近の大臣の報告に苦い顔をした。
「これで何人目だ?」
「はぁ、もう3名ほど・・・・」
「ラージャグリハでの我が子の活躍を聞いて、使者を息子のもとに送っているというのに・・・・。シッダールタがこの城を出て6年ほどがたった・・・。そして、シッダールタは、今や仏陀と呼ばれている。シッダールタの望みはかなったはずだ。なのになぜ、故郷に戻ってこない・・・・」
「はぁ・・・それはわかりかねます・・・」
「仕方がないのう、使者が戻ってこないのだから・・・。せめて連絡でもしてくれればよいのだが・・・・」
「はい、こうなれば大臣の一人、カールダーインを使者として送るのがよいかと・・・・」
「カールダーインか・・・あれは少々お調子者のところがあるが・・・・大丈夫なのか?」
「ほかに適任者が・・・」
「確かにそうだな。ふむ、よし、カールダーインを使者としてラージャグリハへ送ろう。カールダーインをここへ呼べ」
シュッドーダナ王の前に跪いたカールダーインに王が言った。
「よいかカールダーイン。必ず連絡をよこすこと。これまでの使者がどうなったのか、シッダールタがどういう状況か、このカピラバストゥに戻る気はあるのか、ないのなら一度でいいから戻るように説得せよ、わかったな」
「はい、わかりました。必ず、王のお言葉をシッダールタ様にお伝えいたします」
こうしてカールダーインは、シッダールタ・・・今は仏陀・・・の元へと馬を走らせたのであった。

スダッタ長者がラージャグリハで、仏陀を食事に招待したその日、カピラバストゥから使者が訪れた。
「シッダールタ様・・・・あいや、今は仏陀となられていらっしゃるようですが・・・その仏陀様にお会いしたいのですが」
その申し出に応対したのはシャーリープトラであった。
「いったいどのような御用件で・・・・」
「仏陀様の父王、シュッドーダナ王からのお言葉を預かっております」
「そういうことですか。少々お待ち下さい」
シャーリープトラからの報告に仏陀は、その使者を連れてくるように告げた。
「遠くからよく来られた。シュッドーダナ王は元気かな」
「はい、お元気です。が、国王はシッダー・・・いや仏陀様がカピラバストゥへ戻られることを望んでおります」
「なにゆえ、そのような望みを持っているのか」
「それは・・・親としての情愛ではないかと・・・・」
「私がどこにいようとも情は通じるものではないか。私はこの竹林精舎にいるが、その心はこの地上すべてに存在している。如来は、宇宙とともにある。地理的にどこにいようとも同じことだ。遠くもなければ近くもない。ここにいるがここにはいない」
「はぁ・・・しかし、そのお声をそばで聞きたいのであり、お姿を拝見したいのであり・・・・」
「声に実体があるか?。声を取り出して持って帰ることができようか。できまい・・・。そのような不確実なものを欲しているというのか。それは迷いのもとである。もとより声も肉体もないものだ。そんなものを求めてなんになる」
「しかし、それが親子の愛情というものでして・・・」
「愛情があれば苦から逃れらるというのか。愛情があれば死は訪れないのか。愛情があれば覚ることができるであろうか。いや、むしろ愛情は邪魔なものである。執着心からは覚りは生まれない。執着心は苦は生むが、安楽は生まないのだ。私の肉体や声に執着して安楽が生まれるだろうか。出会えば、また別れがやってこよう。その時の苦しみに耐えられるであろうか。出会いは別れを生むのだ。ならばあえて出会う必要もなかろう。苦を生むことはないのだ」
「た、たしかに・・・・」
「よいか、この世は無常である。生あるものはやがては死を迎える。王であろうとなかろうと、死は必ずやってこよう。この死から逃れるには、この世に生れないようにするしかないのだ。それには、輪廻から解脱する必要がある。輪廻から解脱するには、一切の執着を断たねばならない。私はすでに一切の執着を断ったのだ。したがって、カピラバストゥに対して何の思いもない。それよりも汝らはもっと大事なことがあろう」
「大事なこと・・・ですか」
「この世の苦しみから解放されることだ」
「あぁ・・・・」
「さぁ、ここで修業するがよい。ならば、一切の苦から解放されよう」
仏陀の話を聞いたカピラバストゥからの使者は、そのまま出家してしまったのであった。
半月後にやってきた使者も同様であった。その半月後にやってきた使者も同じであった。シュッドーダナ王が送った使者は、みな出家してしまったのであった。

それから半月ほどたったある日のこと、仏陀はすべての弟子たちを集め宣言した。
「旅に出ることにした。布教の旅だ。スダッタ長者との約束もある。コーサラ国のシューラバスティーを目指しながら、布教の旅に出るのだ。ここに残って修行するのもよい、私について旅に出るのもよい。それはそれぞれが考えて決めることだ」
コーンダンニャが質問をした。
「いつご出発の予定でしょうか」
「ふむ、準備が整い次第だ。できればこの一週間の内に旅立とうと思っている」
仏陀のこの言葉に弟子たちはざわついた。
「静かに、静かにしなさい」
コーンダンニャが皆に注意をした。
「各長老は、明日托鉢後にここに集まってください。それまでに、それぞれの長老が指導をしている弟子たちの意向を聞いておいてください。その上でここに残るか、世尊とともに旅をするか決めたいと思います。私が思うに、すべての長老が世尊についていかないほうがいいと思います。この地に残って精舎を守るものも必要でしょう。また、旅は危険も伴います。年齢的なこともあるでしょう。よく考えていただきたい」
コーンダンニャの指示に皆はうなずき、各長老が弟子たちをまとめ始め、それぞれの修行場所に帰っていった。

次の日の朝のことである。カピラバストゥから新たな使者がやってきた。それはカールダーイン大臣だった。彼は、すぐさま仏陀の前に通された。
「お久しぶりです。シッダールタ様・・・あぁ、今は世尊と皆さん呼んでおられるようですね。では、私も世尊とお呼びいたします。御健康そうでなによりです」
「久しぶりです、カールダーイン、国は変わりはありませんか」
「シュッドーダナ王は、随分と年をとられました。世尊が城を出られてから6・7年しかたっていないというのに・・・・」
「生まれた以上、年はとるものです。また精神的苦痛は誰にでもあり、避けられるものではありません。そうした苦痛からは逃げられないものです。ならば、むしろ、受け入れてしまったほうがいいのです。現実をしっかり見つめ、この世は苦の世界であるということを認識し、その中で安楽を得るように暮したほうがよいのです。そのためには、なにゆえこの世に生まれ出でたか、その原因は何かということを深く考察する必要があるのです。その先に、安楽な境地があるのですから」
「なるほど・・・・。わかりました。私もぜひ心の安楽を得たいと思います」
「ならば出家するがいい。出家し、ともに修行に励もうではないか」
仏陀の言葉に、カールダーインも出家することとなった。しかし、さすがにカールダーインは大臣だけのことはあって、
「出家をする前に、このことをカピラバストゥに報告したいのですが・・・・」
と申し出たのである。
「出家のことを・・・かね?」
「そうです。今までにやってきた使者も出家したことを国王に報告したいと思います。なぜならば、国では心配をしております。使者が途中で獣にでも食べられたのではないか、強盗にでもあったのではないか、不慮の事故で命を落としたのではないかと、心配しているのです」
「そうであったか。よろしい、では報告をするがよい」
カールダーインは、カピラバストゥを出るときに供の者を二人連れてきていた。彼は竹林精舎をいったん出ると、外に待たせてあったその二人の従者に自分の出家と今まで来た使者の出家を伝えた。そして、
「一週間以内に世尊・・・シッダールタ王子のことだ・・・は、旅に出る。コーサラ国のシューラバスティーを目指すようだ。シューラバスティーとカピラバストゥは近い。それまでに何とか説得して世尊をカピラバストゥに導く。だから、慌てず待っているように伝えること。よいな」
と従者に言い含めたのであった。
このことは、もちろん仏陀はお見通しであった。
(どうしても私をカピラバストゥへ連れて行きたいようだ。仕方がなかろう、これも因縁であろう。その時が来たら自然に道はできよう・・・・・)
仏陀はそのように考えていた。

翌日のこと、ビンビサーラ国王が精舎に駆け込んできた。
「せ、世尊、旅に出るというのは本当ですか」
「ビンビサーラ王、何を慌てているのですか。いつも沈着冷静な国王がどうしたというのです」
「落ち着いてなどいられません。世尊、旅に出るというのは本当ですか」
「えぇ、本当です。布教の旅に出ようと思っています」
「なぜ・・・・。この精舎に不満足なのですか。足りないものがあったら言って下さい。すぐに用意いたします。ですから、どうかどこへも行かないでいただきたい・・・・」
「国王よ、そういうわけにはいかないのです。如来はできる限り多くの者を救わねばなりません。でなければ、初めから教えを説いてはいません。教えを説いた以上、真実の教えを広めねばなりません。それが如来の使命なのです」
仏陀の言葉にビンビサーラ王は反論できなかった。
「ご安心ください。また再び戻ってきます。いや、この地とコーサラ国の間を何度も往復することとなるでしょう。そうして教えを広めていくのです」
「わかりました。必ず、また戻ってきてください」
「もちろんです。それにすべての弟子たちが旅に出るわけではありません。長老も多く残ることとなるでしょう。迷いが生じたときは、残っている長老に相談されるがよいでしょう」
「それはありがたい。世尊が不在の時は、長老の方に指導を仰ぎます。どうかお身体に気をつけて、無理をなさらなぬようにしてください・・・・」
ビンビサーラ王は、旅に必要な布や薬などを準備する約束をして帰っていたのだった。

国王が帰っていったあと、コーンダンニャが仏陀のところにやってきた。
「世尊、一緒に旅に出るもの、ここに残るものが決まりました」
コーンダンニャの報告に仏陀はうなずいた。
「世尊と一緒に旅に出るものは、シャーリープトラが率いる弟子たち100名、モッガラーナが指導している弟子たち100名、マハーカッサパが導いている弟子たち100名、これが主な弟子たちで、そのほかに50名ほどの者が一緒に旅をするとのことです。あぁ、ビンドーラも一緒に行くそうです」
「コーンダンニャ、あなたは行かないのですか」
「はい、私も年齢的に旅は・・・。ここで静かに過ごしていたいと思っております。また、あまり大勢で動かないほうがいいかとも思います。もし、世尊が出られた後で旅に出たくなるものがいましたら、そのときは世尊のあとを追うように指示いたします」
「ふむ。コーンダンニャがここに残ってくれるのは心強いものである。安心して旅に出られるというものだ。わかった。初期の長老たちをはじめ、高齢の長老が導いている弟子たちは残していくことにしよう。では、早速、旅にでる準備を始めよう。明日には出発することにする」
こうして、仏陀は350人ほどの弟子を引き連れて旅に出ることになったのであった。竹林精舎に残ったのは、1000名ほどである。すでにカッサパ三兄弟は多くの弟子を引き連れウルベーラの森に帰っている。それは、仏陀の教えが各地に広がっていくことを示していた。

翌日の朝のことである。
「弟子たちよ、さぁ、出発する」
という仏陀の声により、仏陀が率いる教団の弟子たちが大移動を始めたのであった。


75.ヴァイシャリー
「弟子たちよ、さぁ、出発する。まず目指すは、ヴァイシャリーの街だ」
仏陀の宣言により、350人ほどの弟子たちは、ヴァイシャリーの街を目指し一斉に北へと移動を始めたのだった。ガンジス川を渡り、数日をかけてゆっくりと、托鉢をしながらの旅であった。
ヴァイシャリーの街は、もともと信仰心が篤く、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラの出身地でもあります。この街の人々は、どの宗教者やどんな聖者に対しても、丁重にもてなす民族でした。仏陀がバイシャリーに到着したころも、無宗派の大聖堂が建立されている最中でした。人々は、富む者はもちろんのこと、貧しい者たちもできる限りの布施をしていたのだった。

「この街の人々には、布施行が浸透している。人々は、篤い信仰心を持っている」
仏陀は、ヴァイシャリーの街に入ってそう言った。
「あなた方は・・・ひょっとして・・・あぁ、スダッタ長者がおっしゃってた仏陀様でしょうか?」
そう声をかけてきたのは、ヴァイシャリーの街の長者であった。
「はい、そうです。私たちは仏陀を聖者と仰ぐ出家者です。全員で350名ほどいます」
シャーリープトラが答えた。
「スダッタ長者から伺っていますよ。これはありがたい。今日は、なんと幸運なのだろうか。仏陀に出会えるなんて!」
その長者は、天を仰いで喜びをあらわにした。
「しかし、よく世尊・・・仏陀の一行であるお分かりになりましたね」
ピンドーラがその長者に尋ねた。
「いやいや、以前にスダッタ長者から話を聞いたのですよ。いずれ近いうちに必ず仏陀様の一行がこの地を訪れる。その時は、接待をお願いしますよ、とね。その日を私は今日か、明日かと待ち続けていたんですよ。それに・・・仏陀様は、スダッタ長者のおっしゃる通りのお姿だった。ひときわ光り輝いていらっしゃる。このように光り輝いていらっしゃる聖者は、仏陀様のほかには存在しないでしょう」
その長者は、大きな声でそう言った。
その声につられるように大勢の人が、仏陀一行の周りに集まり始めた。人々は口々に
「おい、仏陀だって・・・」
「あぁ、スダッタ長者が大騒ぎしていた、あの仏陀か・・・」
「本当にやってきたんだな。スダッタ長者の言ったとおりだ」
「あの長者はウソは言わないさ。立派な人だから。それにしても、何て清浄なんだろう・・・・」
「あぁ、こうして見ているだけで心が洗われるようだ」
とささやきながら仏陀一行を取り囲んだのだった。
「ここにいては、人々が集まり過ぎてしまう。如何ですか、私の屋敷うちのマンゴー園に滞在されては。あそこならば、水も豊富に有りますし、街にも程良く近い。できれば、旅などに出られないで、ずっと滞在して欲しいくらいなんですがな・・・。あぁ、それではスダッタ長者に怒られてしまう。あっはっは・・・」
長者のその言葉に、仏陀たち一行は、その長者の持つマンゴー園に向かったのだった。その長者の名は、ヴィマラキールティといった。後に維摩居士として知られる長者である。

仏陀は、ヴィマラキールティのマンゴー園をたいそう気に入ったようだった。ヴァイシャリーの街を訪れるたびに、必ずこのマンゴー園に滞在したのだった。
仏陀の周りには、ヴィマラキールティ長者をはじめ、街の有力者や商人、近所の人々、あらゆる階級の人々が集っていた。
「世尊・・・・そうお呼びしてよろしいですかな・・・・はい、ではそのようにお呼びさせていただきます。世尊、人々のためにどうかお話を、教えをしていただきたいのですが・・・・」
「よろしい。このヴァイシャリーの街は大変豊かである。街は繁栄し、人々は明るく毎日を過ごしている。あらゆる階級の人々が、豊かにすごしている。それはなぜだかわかるであろうか」
仏陀の問いに、首を傾げるもの、ぽかんとしているもの、唸って考えるものなど、様々な反応を示した。
「このヴァイシャリーの街の人々が、明るく楽しく過ごせるのは、布施行を怠らないからである。布施行は、最も基本的で重要な行であるが、最も人々が実行するのが難しい行でもある。なぜなら、人は物惜しみをするからである。
いい食べ物をたくさん貰った。そういう場合、多くの人々はもらったものを隠す。自分たち仲間、家族だけで摂取しようとする。お金を手に入れた。たくさん手に入れた。そういうとき、人々は手にしたお金を我がものだけにしようとする。そして、手にしたことを隠すのだ。物惜しみをする心は、欲望の現れである。その欲望は、瞬く間に身体や心をむしばみ、争いへと導くのだ。争えば人々の心は荒む。人々の心が荒めば世間が荒む。世間が荒めば国が荒む。国が荒めば・・・・やがては滅ぶであろう。
人々よ、物惜しみをしてはならぬ。物惜しみは、己の欲望の現れであり、我執の現れである。我に執着すれば輪廻から逃れられることはない。苦しみから逃れられることはない。
ヴァイシャリーの人々よ、引き続き布施行に励むがよい。物惜しみをせず、心を施す行に励むがよい。汝らの心は安穏の日々を過ごすであろう」
仏陀の教えに、そこに集ったヴァイシャリーの人々は、みな希望を胸に抱いたのだった。

それから、仏陀はこの世の無常を説き、我にこだわることの愚かさを説き、この世が苦の世界であること、人々は生老病死の苦や愛するものと別れねばならない苦、嫌な相手・憎い相手と会わねばならない苦・思うように手に入らない苦・心と体の不調和による苦を説き、悟りを得ることができればそうした苦から解放されることを説き、その方法が出家し、正しい道を歩むことであることを説いた。
人々は、このまま布施行に励み、在家の五つの戒律を受け、在家での修行を行うことを誓ったのであった。

翌日のこと、仏陀の前には多くの若者が集っていた。その若者たちは、みな出家を望んだものたちだった。その数は数百名に及んだ。
「出家することは喜ばしい。修行することは喜ばしい。しかし、親の許可を得るように・・・・」
仏陀の言葉に、若者たちは親の許可を受けるべく、それぞれの自宅に戻った。そして、再びやってきた若者は、150名ほどの人数であった。
「集え、修行者よ。ともに静寂なる境地を目指そうではないか」
こうして、仏陀の一行は350人ほどの集団から、500人ほどに膨れ上がったのであった。

数日後のこと。仏陀たち一行は、コーサラ国を目指して旅立つこととなった。
「もっとここにいて欲しいのですが・・・・これも欲ですなぁ・・・。いやはや、私は在家のまま覚りを得ることを望みます」
「ヴィマラキールティ、あなたは、もうすでに至っているではありませんか。いずれ、私の弟子たちもあなたにお世話になることでしょう」
仏陀の言葉に、ヴィマラキールティはにこりと微笑んで、
「世尊・・・どうかお身体にお気をつけて旅を続けてください。私も折りを見て、コーサラ国を訪れたいと思います」
と告げたのであった。仏陀は無言でほほ笑むと、
「さぁ、出発だ。布教の旅に出よう」
と大勢の弟子たちに声をかけたのであった。

仏陀たち一行は、西北に進路をとった。クシナガラなどの小さな町をいくつか過ぎていった。どの町でも人々は、仏陀たちを喜んで迎え入れた。それは、スダッタ長者がコーサラ国へ帰る道中通った町で、仏陀の話をしていったからであった。スダッタ長者は、どの町にも信頼があった。特に貧しい村での信頼は絶大であった。そのことにより、仏陀は、歓迎されたのである。そして、仏陀は多くの教えを説いた。訪れたすべての町や村、富める街も貧しい村でも、平等に分け隔てなく、教えを説いたのであった。
その結果、どの町でも在家の信者が増えたし、また出家をする若者もいた。仏陀の故郷であるカピラバストゥの手前に至るころには、弟子の数は700名ほどに膨れ上がっていたのだった。

カピラバストゥに程近い村に仏陀たち一行が滞在した時の、夜中のことである。カールダーインは、こっそり弟子の集団が寝ている場所を抜け出し、村の境界まで来ていた。
「いよいよだ。近いうちに必ずシッダールタ様をカピラバストゥまでお連れする。この村に滞在するのもあと2〜3日のことだろう・・・・」
と伝えたのだった。


76.カピラバストゥ
カールダーインの伝言を聞いた使者は、早速カピラバストゥに戻り、国王に伝えた。
「ほう、カールダーインからの伝言か。なになに・・・なんと、2〜3日中にシッダールタをこのカピラバストゥへ連れてくるだと!。それが本当なら・・・・いや、カールダーインのことだ。嘘は言うまい・・・。よし、シッダールタを迎える準備をするのだ。早くしろ!」
シュッドーダナ王の命令により、その日からシッダールタ・・・・仏陀・・・・を歓迎する準備がはじめられた。城内に入るのは、約700名の修行僧たちである。沐浴の準備、便所や寝所の用意、もちろん、食事の用意もしなければならない。それらをどこに造るのか、早速検討に入ったのだった。しかし、場所はなかなか決まらなかった。
また、国王には最も重大な用件があった。それは、シッダールタを還俗させることである。
「なんとかこの機会にシッダールタに王位を継承せねば・・・・。何かよい方法はないか・・・・」
国王は宰相に尋ねた。
「たとえば、こう説得されては如何でしょう。これほど大勢の弟子もできた。自らも覚りを得た。これ以上何をやることがあろう。何もないであろう。ならば、この国を平和に導いてはくれぬか・・・と」
「ふむ・・・、そう話すしかないであろうな・・・・。よし、おりを見て、話を切り出そう」
国王は、なんとしてもシッダールタに王位を継承したかったのである。

一方、シッダールタの妻ヤショーダラはどうであったろうか。彼女は、王位継承者の第一候補が未だ夫のシッダールタにあることが気に入らなかった。
「なんとか王位を息子のラーフラに譲らせなければ。私はそのために今までここで生きてきたのよ。もし、シッダールタがラーフラに王位を譲らなかったら・・・・。きっと、王位はシッダールタの異母弟のナンダに行くに違いない。そうなれば、私の立場はどうなるというの。これまで国にも帰らず、執拗なダイバダッタの誘いも断ってきたのよ。ふん、あの不気味なダイバダッタめ、私に取り入り、国王の座を狙っていたようだ。絶対に渡すものか。そんなことをしたら、ラーフラがかわいそうだ。シッダールタの血をひくたった一人の息子ラーフラ。お前は、シッダールタから王位を譲ってもらうのよ。そして、私は国王の母になるの。あはははは・・・・」

ダイバダッタはどうであったか・・・・。
「おい、ダイバダッタ、シッダールタが戻ってくるそうじゃないか」
「ふん、そのようだな。仏陀になったとか。仏陀になったなら、王位の座に興味はないはず。ならば・・・・」
「おそらくは、息子のラーフラに譲ることになるだろう。どうするのだダイバダッタ。だから言ったじゃないか、さっさとラーフラの命を奪っておけばよかったと・・・・」
「あぁ、そうかもしれない。だがな、そんなことをしてみろ。すぐに俺たちが疑われる。王位をねらっている者の第一候補はこのダイバダッタだからな。それに、ラーフラが死んでも、何てことはない。王位はあの腑抜けのナンダへ行くからな。だから、もっと賢いやり方をしなきゃないけないんだ」
「それが、あのわがままなヤショーダラを落とすことか?」
「はっ、あれは道具だ。まあ、それも一つの方法でもあるが・・・・。まあ、見てろ。おそらく、シッダールタはラーフラに王位を譲らない」
「えっ?、どういうことだ」
「いいか、仏陀といえば伝説の聖者だ。王位などに興味はないのだ。じゃあ、それを息子に譲るか?。そんなことにも興味はない。仏陀にとって、この国など取るに足らないものだ。だから、おそらくは息子も・・・・。その時が狙い目だ。あとは腑抜けのナンダをどうするかだ・・・・。そうえいば、ナンダの結婚式が近いはず。ふ〜む、いやひょっとしたら・・・・」
ダイバダッタは一人ニヤニヤほくそ笑んでいたのであった。

それぞれの思惑は渦巻いていた。そんなこととは少しも知らない・・・・いや、予測していたのかもしれない仏陀は、未だカピラバストゥに近い村で滞在をしていた。この地にきて、すでに3日たっている。カールダーインの約束の日が過ぎようとしていた。
カールダーインは焦っていた。国王に約束した手前、何としても仏陀をカピラバストゥまで連れて行かねばならない。ついにカールダーインは仏陀の説得に向かったのだった。
「お願いです世尊。故郷のカピラバストゥは目の前です。なぜ、このような村に滞在しているのですか。一日も早くカピラバストゥに行きましょう」
「カールダーイン、汝の心の中はわかっている。どうして私をカピラバストゥに向かわせたいのか、ということが。なにも私はカピラバストゥに寄りたくないわけではない。仏陀である私にとって、そこがどんな国であろうが、招き入れてくれる国ならば足を向けよう。しかし、仮にカピラバストゥの城内に入ったとしても、私は宮殿に行くことはなかろう。この約700人の弟子たちとともに過ごすことができる場所があれば、城内に入ってもよい。汝の思いとは裏腹であるが、それでもよいのか」
仏陀の言葉にカールダーインは考えた。
(城内に入っても宮殿には入らないか・・・・。しかし、城内に入ってしまえばこっちのもの、ともいえる。懐かしさに気が変わるかもしれない。宮殿内を覗いてみたくなるかもしれない。それが人間だ。思い出が詰まった場所には、足を踏み入れたくなるものだ。ならば、ここは条件をのんでとにかく城内に入ってもらおう。それにはこの700人の修行者を収容する施設がいる。どこがよいか・・・・・、あぁ、そうだ・・・・)
「わかりました世尊。では・・・・世尊は覚えておいででしょうか?。城下町から少し離れたところにニグローダの樹林があったことを」
「カールダーイン、その場所ならよく覚えている。泉が湧き、日影が多く過ごしやすい樹林だ」
「そこを精舎としてはいかがでしょう。あそこなら、この人数でも収容できます」
「よろしい。では、ニグローダ樹林に滞在することにしよう」
「では、早速、樹林に精舎を建てさせます」
「大仰な設備は必要ない。修行者は林野でも滞在できるものだ」
「心得ております」
カールダーインはそういうと、早速仏陀の前を辞し、使者に伝言を託した。
使者の伝言を聞き、シュッドーダナ王は、すぐさまニグローダ樹林に必要な設備を造り始めた。
その翌日のこと、仏陀たち一行は、カピラバストゥを目指して出発したのだった。

城内に入った仏陀たち一行は、真っ直ぐニグローダ樹林に向かった。カールダーインは内心焦っていた。
(シッダールタ王子だけは宮殿にお連れすると言ってしまった・・・。それはちょっと無理だったようだな・・・・。あぁ、いったい聖者とはなにを考えているのだ。思い出とか感傷とか、懐かしむとか、そういった感情はないのか・・・・。普通ならばいくらなんでも、父母の元を黙って通り過ぎることはないだろう。一体仏陀とは・・・・)
「カールダーインさん。仏陀の御心は通常の人には計り知れないものですよ」
そう声をかけたのはシャーリープトラであった。彼は続けた。
「あなたは、あなたの思考で物事を考えますね」
「も、もちろんです。あなただってそうでしょう」
「その思考は誰でも同じものでしょうか?。あなたの思考と私の思考は、はたして同じでしょうか?」
「ど、どういうことだね?」
「自分の物差しで他人は計れない、ということですよ。あなたが考えている内容よりも、はるか深く仏陀は思考されているのです。あなたの思考の及ばないほど深くね。ですから、仏陀の御心を知ることなど到底できないのですよ。あなたと同じ考え方をしてはいないのです。あなたと同じ考えであろう、などというのは、仏陀に対して失礼なことですよ」
「あぁ・・・、そ、そういうことか・・・。私は・・・私の考えだけで世尊の心を推し量っていた・・・。あぁ、なんと愚かなことを・・・・。そうですな。まさしく、考え方は人それぞれですし、考えの深さも人それぞれです。私の考え方が正しいわけではないし、誰しもが私と同じ考えをするわけではないですね・・・・」
カールダーインは、己の浅はかな智慧で仏陀の行動を予測したことを大いに恥じたのだった。とはいえ、カールダーインの悩みは解消されてはいなかった。それは仏陀をいかにして宮殿に連れていくか、である。
「それは無理なことですよ。考えることではありません」
シャーリープトラは、カールダーインが何も言わないのにそう答えたのだった。
「シャ、シャーリープトラ尊者・・・、私はまだ何も・・・・」
「神通力くらい私でも使えます。まあ、それはいいとして、あなたはなにも悩む必要はありませんよ。自然に任せておけばいいのではないでしょうか。なるようになりますから・・・」
そういうと、シャーリープトラはカールダーインを一人取り残し、さっさとニグローダ樹林へと向かっていったのだった。カールダーインはその場にたたずんでいた。
(といっても・・・、さてどうやって報告しようか・・・・。とりあえず、ニグローダ樹林に入りました、と伝えるか・・・・)
彼は振り返り、そばにいた使いの者にその旨を伝えた。使者はそれをすぐに国王に報告したのだった。

翌日のこと、仏陀たち修行者は、いつもと同じ朝を迎えた。ニグローダ樹林の中には大きな泉があり、こんこんと水が湧きでていた。その泉の水は小さな川となって流れていた。そのおかげで誰もが沐浴に不自由することなく、また大小便の用にも不自由することはなかったのである。その樹林は大変過ごしやすい場所であったのだ。
沐浴をすませると修行者たちは、街へ托鉢に出掛けていった。王子であったシッダールタ・・・仏陀・・・も例外ではない。仏陀は、いつものように無表情で托鉢に出ていた。しかし、仏陀に立たれた家は驚きである。
「あぁ、こ、これは王子様ではありませんか!、そ、そんな恰好で・・・・あぁ、それにしても変わらないです。た、托鉢ですか?。そ、そんな・・・うちには王子様のお口に合うような食べ物などなにもありませんよ。困ったわ・・・・どうしましょう・・・・」
あちこちの家々で困った、どうしようという声が聞こえてきたのである。しかし、王子に何も与えないわけにもいかない。市民たちは困り果てていた。
そこへ、カピラバストゥ随一の商人が現れた。
「シッダールタ・・・いいや、仏陀様、どうぞ私の屋敷へお越しください。ここで托鉢されては市民の皆さんが困惑されます」
仏陀はその商人のあとについていった。そこで托鉢の鉢を満たしたのだった。
「明日からもきっと街では大騒ぎでしょう。どうか毎日でも結構ですからここにお越しください。そして尊い教えをお聞かせ下さい。いや、なに・・・、スダッタ長者からお聞きしたのですよ。ひょっとしたら、カピラバストゥにもよるかもしれない、と聞いておりましたから・・・・」
彼は、スダッタ長者の仲間だったのである。

一方、ニグローダ樹林には精舎を建立するための職人たちがやってきていた。そこへ様子を見にきたシュッドーダナ王もやってきた。その道中のことである。国王は、我が子シッダールタが鉢を持って家々を回る姿を見てしまったのだった。
「あぁ、嘆かわしいことだ。我が子は王子であるのに食を乞う者へと落ちぶれてしまっていた・・・・。何と嘆かわしい・・・。その上、こんな森の中で野宿をしている。宮殿のやわらかなベッドで眠っていたあの王子が・・・・。考えられん。これは我が家の恥だ。あぁ、腹ただしい!。シッダールタが戻ってきたら問い詰めてやろう。お前は我が家の恥だとな!。ええい、これもそれもカールダーインが悪い。あやつは最後の詰めがいつも甘いのだ。我が子に恥をかかせおって。とっ捕まえて罰を与えてやろう」
シュッドーダナ王の怒りは頂点に達していたのだった。


77.怒れる国王
「カールダーイン、カールダーインはどこだ。カールダーインをここへ呼べ。今すぐ連れて来い!」
托鉢するシッダールタ(仏陀)の姿を見てしまったシュッドーダナ王は、すぐさまニグローダ樹林から宮殿に戻ってきた。王の怒りは頂点に達していた。宮殿に帰るなり、大声でカールダーインを呼びつけたのだ。
「おおそれながら・・・・カールダーインは、出家をしておりますので、今は樹林におりますが・・・・」
怒れる王を気遣いながら宰相が恐る恐る答えた。
「あぁぁぁぁ、なんということか、いまいましい。シッダールタめ、カールダーインまでも出家させおって・・・・。そうだ、使いの者がいたな。その者に、カールダーインが今すぐ宮殿にくるように伝言を持たせよ。馬を使えば早いであろう。伝言を伝えたら、樹林の外で待ってカールダーインと一緒に戻ってこさせるのだ。わかったか。わかったなら、さっさとせい」
王の言葉に宰相以下、家臣たちはすぐさま動いたのだった。

一方、樹林では托鉢を終えた修行僧たちが食事をしているところだった。
「カールダーイン様、世尊がお呼びです」
弟子のひとりが、カールダーインを呼びに来たのだった。カールダーインはすぐさま仏陀の前に行った。
「世尊、ご用でしょうか」
「カールダーイン、間もなく王の使いの者が来るであろう。その者は、汝を宮殿に連れて帰ってこいという王の伝言を携えている。しかも、その使いの者は汝が一緒に帰らねば、処刑をされてしまうであろう。殺生は避けねばならぬ。本来ならば、出家者は馬には乗ってはならないが、今回だけは特別に許可しよう。他の修行者にもそのことは伝えおく。カールダーイン、宮殿に戻って王に伝えるがよい。
『シッダールタはもはやこの世に存在しない。姿かたちはシッダールタのように見えるが、それは本質ではない。真の姿は仏陀である。仏陀に話があるのなら、このニグローダ樹林に来られるがよい』
と」
「そ、それは・・・・」
カールダーインは慌てた。自分の思惑とは全く異なる言葉だったからだ。カールダーインは、なんとか機会をうかがい、なし崩しに仏陀を宮殿に連れていくつもりだったのだ。その切っ掛けを模索中であった。もちろん、仏陀はカールダーインの考えを見抜いていた。
「カールダーイン、私は決して宮殿内には入らない。用があるなら、用がある者がこちらを訪れるのが礼儀ではいかな。私は宮殿には何の用もないのだよ」
仏陀の言葉に愕然としたカールダーインは
「わ、わかりました・・・・。世尊のお言葉、国王に伝えます・・・・・」
と、震えながら答えたのだった。

間もなく、仏陀の言葉通り、国王の使いの者がニグローダ樹林にやってきた。修行僧たちは、仏陀から話を聞いていたため、すぐさまカールダーインに使いの者が来たことを伝えた。
樹林の中を進むカールダーインは気が重かった。宮殿に戻りたくなかった彼は、樹林の一番奥でうずくまっていた。しかし、国王の呼び出しを無視するわけにもいかない。
「さて困ったものだ・・・・仏陀の言葉をどう伝えるか・・・・」
とぼとぼと歩くカールダーインにシャーリプトラが声をかけた。
「なにも付け加えず、また、なにも漏らさず。ありのまま、そのままを伝えるのがよいのではないでしょうか」
「シャーリプトラ尊者・・・。あぁ、そうですね。その通りですね。ありがとうございます」
シャーリープトラの言葉に、カールダーインは救われた気分になった。
「よし、帰るとするか」
と気合を入れると、力強くカールダーインは樹林を宮殿に向かって出発したのだった。

「帰って来たかカールダーイン。お前に聞きたいことがある」
「はい、なんなりと・・・・」
シュッドーダナ王は、早速カールダーインに問いただした。
「シッダールタは、なぜ托鉢をするのだ。すぐさま、あんなみっともないことはやめさせろ。シッダールタは王子だぞ。食事はわしが用意する。毎日、ここで食べればいいのだ。一人で来ることに問題があるなら、側近を数名連れてくればよい。いや、もっと大勢でもいいぞ。宮殿の大広間を使えば、何百人も収容できるからな。カールダーイン、明日からシッダールタをここへ連れてくるように。わかったな!」
カールダーインは、国王の怒りにひるみそうであったが、腹に力を入れ、大声で
「お言葉ですが、国王の御命令とは言え、そのお言葉には従えません」
と答えたのだった。
「な、なんだと!、どういうことだ!。返答次第では・・・・」
国王の言葉を遮って、カールダーインは叫んだ。
「シッダールタ様の・・・・いや、仏陀様のお言葉を伝えます」
「なに、シッダールタの・・・・・。シッダールタは何と言っているのだ」
「はい、仏陀様は・・・・」
カールダーインは、あえて仏陀と言ったのだった。
「仏陀様は、
『シッダールタはもはやこの世に存在しない。姿かたちはシッダールタのように見えるが、それは本質ではない。真の姿は仏陀である。仏陀に話があるのなら、このニグローダ樹林に来られるがよい』
と伝えよ、と。そしてさらに、
『私は決して宮殿内には入らない。用があるなら、用がある者がこちらを訪れるのが礼儀ではいかな。私は宮殿には何の用もないのだ』
ともおっしゃってました。ですから、仏陀様はここへは来られません。国王にお話があるのでしたら、国王自ら、ニグローダ樹林に向かわれることです」
仏陀の言葉を伝え終わったカールダーインは、すっかり力が抜けてしまい、その場で倒れてしまったのだった。そんなカールダーインに気付きもせず、国王は衝撃の強さにしばし呆けていた。
「な、なんと・・・・このわしに用があるなら来いというのか・・・・・」
宰相も家臣も、周りにいた者は何も言えなかった。玉座には呆けている国王、その下には倒れ込んでいるカールダーイン。宮殿内は時間が止まったようになっていた。しかし・・・・。
急に国王が座から立ち上がった。
「馬車だ、馬車を用意せい。来いというのなら行ってやる。すぐさま馬車を用意せよ」
そう叫ぶと、玉座の階段を駆け下り、倒れ込んでいるカールダーインを蹴飛ばし、宮殿の外へと出ていったのだった。

仏陀たちが滞在しているニグローダ樹林は、日中の強い日差しもニグローダの樹林が遮って、涼しい風が流れていた。修行者たちは、それぞれ食事も終え、口をすすぎ、それぞれ修行に入っていた。瞑想をする者、長老に教えを聞く者、教えをブツブツと唱える者など、様々であった。
仏陀は、泉の近くで瞑想をしていた。ふと顔をあげると、そばにいた若い修行僧に
「間もなくこの国の国王が怒りに満ちてやってこよう。その怒りはすさまじいものであるが、汝らはひるむことはない。なんの恐れも抱かず、怒れる国王をここへ通すがよい。何も危険はない。如何なる怒りも、ここに辿り着いたときには、鎮まるものなのだから」
と伝えたのだった。そして、近くにいたシャーリープトラに呼びかけた。
「シャーリープトラよ、汝に国王の案内をお願いしよう」
「世尊、お任せ下さい」
シャーリープトラはそういうと、静かに立ち上がり、ニグローダ樹林の入口に向かったのだった。
しばらくして、馬車が近付く大きな音がした。その音は、ニグローダ樹林の前で止まったようだった。馬車の音が消えたかと思ったとたん、今度は大きな声が聞こえてきたのだった。
「シッダールタ、シッダールタはどこだ。国王が来たぞ。お前の言葉に従って、親であるわしが来てやったのだ。さぁ、どこだ。さっさと出て来い!」
叫んでいたのはシュッドーダナ国王その人だったのだ。
「国王様」
そう声をかけたのはシャーリープトラであった。
「な、なんじゃ、お前は」
「修行僧です。ここで仏陀様のもとで修行をしております」
「えぇい、お前などに用はない。わしが用があるのはシッダールタだ。わざわざ国王である、いや、親であるわしが来てやったのだ。まったく、親を呼びつけるとは・・・・。あぁ、嘆かわしい。シッダールタはどこだ。お前、知っておるのだろう」
「いいえ、知りません。シッダールタなどという方はここにはおりません」
「な、何を!。ふざけるのもいい加減にしろ!」
「ふざけてはいません。あぁ・・・そういえば・・・」
「そういえば・・・・何だ?」
「元シッダールタという方はいらっしゃいますが・・・・」
「あぁ、お前、知らないんだな。そうか、ここではシッダールタと言ってもわからんのか」
「はい、わかりません」
「ええい、いまいましい。こんなことならカールダーインを連れてくるのだった・・・・。で、その元シッダールタはどこにいる」
「はぁ・・・、私も自信がないのですが・・・・。はたしてその方が元シッダールタと名乗っていたのかどうか・・・・」
「ええい、じれったい。そんなことはどうでもいいから、その元シッダールタと思われる者のところへ案内しろ」
「はぁ、わかりました。しかし、もし違っていたら、その時はお許しください。あ、ひょっとして罰を受けるのでしょうか」
「お前には関係のないことだ。もし、間違っていたとしても罰など与えん。いいから、早く案内しろ」
「かしこまりました。では、私の後に続いてください」
そういうと、シャーリープトラは向きを変え、ニグローダ樹林の中へと入っていったのだった。シュッドーダナ王は、しぶしぶシャーリープトラの後ろをついていった。そのあとを数名の家臣がぞろぞろと歩いていったのだった。
シャーリープトラはゆっくりと歩いていた。
「国王様、このニグローダ樹林はとても快適です。涼しくて過ごしやすいです。このような樹林を修行場として提供くださり、まことにありがとうございます。修行者を代表して御礼申し上げます」
「ほう、そ、そんなに過ごしやすいか。それはよかった」
「はい、おかげで修行も進み、多くの者が悟りの境地に至りました」
「そ、そんなものかな・・・・」
「そんなものです。修行する環境は重要ですからね」
「ところで、君たち修行者は、毎日あのように托鉢をするのかね」
「はい、それが決まりですから。食事は午前中のみ、托鉢で得た食事のみを口にします。午後からは、蓄えてある寄進された果物や水で水分を取っています。それだけで十分身体は維持できるのです。修行者にとって食事も修行ですから。この身体が維持できればそれでいいのですよ」
「ほう・・・そんなものかねぇ・・・・。そうした決まり事は誰が決めたのだ」
「もちろん仏陀様です。私達は、世尊とお呼びしています」
「世尊?・・・どういう意味だ」
「この世で最も尊い方、という意味です。仏陀は伝説の聖者です。仏陀に直接お会いすることは古来より稀なことと伝わっております。私たちは大変幸福です。何億劫という長い年月を経ないと仏陀に会うことはできないのですから」
「そ、そうなのか・・・・。まあ、確かに仏陀は伝説の聖者だが・・・・」
「さぁ、そろそろつきます。この奥に座って瞑想されている方が、元シッダールタと呼ばれていた方です。今は世尊と皆から尊称されています」
シャーリプトラが示したほうは、ぼんやりと光り輝いていた。
「あの光輝いているほうなのか」
シュッドーダナ王の問いかけにシャーリープトラは、微笑みながらうなずいたのであった。


78.喜びに沸く
シュッドーダナ王は、光り輝いている方を見た。
「あ、あれは・・・・人なのか?」
「さぁ、どうぞ、あの方は、国王がお会いしたいと望んでいる方ですから」
シュッドーダナ王は、恐る恐る、その光に近付いて行った。自然と頭が下がっていく。腰が低くなった。知らない間に国王はその光り輝いている人の前で跪いていた。
「お、お前が・・・・否、あなたがシッダールタなのか・・・・なのですか?」
「何も恐れることはない、国王よ。楽に座って私を見るがいい」
そう言われ、シュッドーダナ王は座り直し、改めて光り輝く人を見つめた。すると、その光は次第に弱まっていった。光の中から現れたその顔を見て
「あぁ、シッダールタ・・・・。シッダールタではないか。会いたかった・・・・。しかし、今のはいったい・・・・」
とつぶやいていた。
「シッダールタ・・・・そんな名前は過去のものである。この世で仮につけられた名に過ぎぬ。私は真理に目覚めた者、仏陀である」
「そ、そんな・・・何を・・・・おまえ・・・・」
「汝はここへ何をしに来たのか」
その言葉に鎮まっていた国王の怒りが再び湧きあがってきた。
「な、なんだ、その言い方は・・・・。仮にもお前は我が子、我が息子ではないか。息子が親に対する態度か?」
「この世に仮の姿として誕生せざるを得なかったため、汝らの子として生まれたが、それはあくまでも仮の姿である。真の親は汝ではない」
「な、なんということを!。きさま〜・・・・・仮であろうが、なかろうが、親子に相違ないだろう。お前が城を出るまで、何不自由なく暮らしたではないか。それを・・・・・」
「それに関しては感謝しよう。仏陀を育てた恩、そして徳は大きなものであろう。その徳は、天界への誕生が約束されよう」
「そんなことを言っているのではない!・・・・・あぁ、なんということだ・・・・。あぁ、わかった。お前がそういうのなら、それでもいい。そもそも我が誇り高き釈迦族に、こんなみすぼらしい格好をした者はおらぬ。ましてや他人の家を巡り歩き、食を乞うなどというみっともない真似をする者などおらぬ。お前は釈迦族の恥だ。我が家系の恥だ!」
「我が家系?。私にとって我が家系とは、諸仏のことである。私は7番目の仏陀である。我が家系とは、諸仏の教えを守っていく者のことである」
「な、なんということを・・・・・」
「私には多くの子がいる。ここで修業をしている者、マガダ国で修業をしている者、その他の地で修業をしている者、それらすべて我が子である。我が家系の者である。釈迦牟尼仏陀の家系とは我が弟子たちのことである。汝の家系の者ではない。したがって、食を乞おうが、林野で生活をしようが、汝ら釈迦族には関わりのないことだ」
仏陀のこの言葉を聞いて、国王は愕然としてしまいました。そして、振り絞るような声で
「お、お前は・・・・お前は、もうシッダールタではないのだな・・・・」
とつぶやいたのです。
「その通り。私は、シッダールタでも釈迦族のものでもない。仏陀である」
「あぁ、そうだ。思い出した・・・・。お前が生まれたとき、アシタ仙人は予言をしたのだった。『この子が国にとどまれば転輪聖王(てんりんじょうおう)となり世界を統一するであろう、出家をすれば伝説の聖者・仏陀となるであろう』と・・・・・。あれは本当だったのだ。ならば、できれば転輪聖王になって欲しかった・・・・・。しかし、もはやそれも無理なようだ。わかった。シッダールタは死んだと思うことにしょう。そなたは仏陀、伝説の聖者なのだから・・・・」
「国王よ、理解してくれてよかった。シッダールタは死んだ・・・。それでよいのだ。私は仏陀なのだから」
そうして、シュッドーダナ王は仏陀に対し、一礼をすると、ゆっくりと立ち上がって、仏陀に背を向けた。が、振り返り
「そうだ・・・。せめて宮中の庭でもいいから来てはもらえないだろうか。宮殿内に入れとは言わない。せめて、宮中の中に来てほしいのだ。その願いは聞き入れてはもらえないのだろうか」
と悲しい顔をして頼んだのだった。
「よろしい。では、三日後、宮中に向かいましょう」
仏陀は、そう答えたのだった。

仏陀のところを辞したシュッドーダナ王をシャーリープトラが待っていた。
「如何でしたか?。国王が探していたシッダールタさんでしたか?」
「いいや・・・・。シッダールタではなかった。シッダールタは死んだ・・・そうだ。もういい、それでいいのだ」
「そうでしたか。では、出口までご一緒いたしましょう」
「いや、道はわかるから一人で行く」
「そうですか、ではこれにて・・・」
シャーリープトラは去っていくシュッドーダナ王の背に一礼をした。ふと、シュッドーダナ王が立ち止まり、振り返った。
「そうだ・・・。ここでの生活で何か不自由はないか。もしあれば何なりといってくれ」
「ありがとうございます。とりあえず不自由はありませんが・・・・、世尊が自由に托鉢できるようにしていただければ、それが一番ありがたいでしょうか。どの家を回っても、王子に食を与えるなんて・・・という状態です。世尊はもはや王子ではなく仏陀である、仏陀も修行者と同様に托鉢によって食を得る、どんな食事でも構わないから、托鉢に協力するように・・・と言っていただければ、それが最もありがたいと思いますが・・・・」
「托鉢か・・・・。頭ではわかってはいるのだが・・・・、どうもあの姿は見ていられん・・・・。いいや、いかんいかん、いかんのだな・・・・。わかった。それは約束しよう。世尊が自由に托鉢できるようにしておこう」
そう言うと、シュッドーダナ王は足早にニグローダ樹林を抜けていったのだった。

宮殿に戻ると、シュッドーダナ王はすぐにカールダーインを呼びつけた。倒れ伏してしまっていたカールダーインは、宮中の者の手で看護され、何とか回復していた。
「お呼びですか」
恐る恐るそう尋ねたカールダーインだったか、国王の顔を見るやほっとしたのだった。国王の顔は怒りに満ちてはいなかった。むしろ、悲しげな顔に見えたのだ。
(やれやれ、どうやら怒りは鎮まったようだ。多少、衝撃はあったのだろうな・・・。仕方がない、我が子が仏陀になられたのだから、その心痛は・・・・・。しかし、それも時とともに喜びに変わるのではないだろうか。王子が国王よりも上である伝説の聖者・仏陀になられたのだからな。国民も驚き、喜ぶに違いないのだ。それを見れば国王だって・・・・)
カールダーインは、国王の表情にそう思うのだった。
「カールダーイン、わしはニグローダ樹林に行って来たぞ。はぁ・・・、まあ、行って来てよかった。お前には、無理難題を随分言ったようだ。あのシッダー・・・いいや、仏陀をよくぞここまで引き連れてきてくれた。感謝する」
「いえ、私は私のできることをしたまでで・・・・」
「ところでカールダーイン、ちょっと聞きたいのだが、仏陀が街で自由に托鉢ができるようにするにはどうしたらよいか」
「仏陀が街で自由に托鉢を・・・・。国王様、では世尊が托鉢をされることをお許しになるので・・・・」
「許すも許さぬもないであろう・・・・。仏陀なのだから仕方があるまい。修行者たちにはできるだけの協力をすると約束もしているからな」
「それはとても善いことです。では早速、そのようなお触れを出せばいかと・・・・」
「具体的には?」
「今、伝説の聖者・仏陀がこのカピラバストゥに滞在されている。仏陀はかつてのシッダールタ王子であるが、現在は仏陀である。したがって、王子として接してはならない。仏陀として敬うようにすること。なお、仏陀を始め、修行者はお昼までに托鉢をする。仏陀といえども例外ではない。仏陀は托鉢によって食を得るのである。街の者はその托鉢に協力するようにせよ。ただし、豪華な食事を用意してはいけない。人々が普段口にしている食事でよろしい。豪華な食事はむしろ修行者には失礼である。誇り高き釈迦族から、伝説の聖者・仏陀が誕生したことを誇りに思うがよい・・・・・、このようなお触れでよろしいのではないかと思いますが・・・・」
「うむ、わかった。では、そのように触れ書きをしよう」
こうして、カピラバストゥの人々に、仏陀がニグローダ樹林に滞在していること、仏陀はかつては王子であったが現在は王子ではなく一修行者と同じであること、托鉢に協力すること、食事は普段通りのものにすることなどが、街の人々に伝えられたのだった。
これで、王子が托鉢に来ても誰もが納得するようになった。また、自分たちの街から伝説の仏陀が誕生したことで、人々は大賑わいとなったのである。国王がニグローダ樹林に行った翌日には、誰もがニグローダ樹林を訪れ、仏陀に対し礼拝したのであった。ニグローダ樹林には、長い行列ができていた。

そうした街の人々の様子を聞いて、国王は喜びが湧いてきたのだった。それはカールダーインの予測通りであった。国王は上機嫌で言った。
「さすが仏陀だな。街の誰もが礼拝に出掛けているようだ。しかも、我が一族から仏陀が誕生したということで街は大賑わいだ。よかった・・・・よかった・・・・。これでこの国も安泰だな。あぁ、そうだ。そうなると、次の王を決めなければいけないな。さて・・・・、シッダールタの子、ラーフラはまだ6歳で幼いしな・・・・。となると、やはりナンダしかないな」
ナンダとは、シッダールタ・・・仏陀・・・の異母弟にあたる。シュッドーダナ王は、シッダールタを産んで亡くなったマーヤーの妹であるマハープラジャーパティーを妃に迎えていた。彼女が産んだ子がナンダである。したがって、王位継承権はナンダにもあったのだ。そのナンダは、結婚式を間近に控えていた。
「ナンダは聡明だ。国民からも信頼されている。間もなく妃も迎える。ナンダが国王になることに何の障害もない。そしてその後、ラーフラに引き継げばよいのだ。よし、結婚式の後、王位継承者としてナンダを指名することを発表しよう」
国王は、その旨を宰相に伝えた。

街は喜びに沸いていた。いずれ国王になるであろうと予測されるナンダの結婚式が近い。自分の国から誕生した仏陀が街に滞在している。めでたいことが二重にもなった、と街の人々は騒いでいた。しかも、明後日には仏陀が街を通り抜け、宮中にやってくるという。街は騒然としていた。翌日には、あらゆる道路は掃き清められ、数々の花で飾られた。街全体がお祭り騒ぎの中、いよいよ仏陀たち一行が宮中に入る日がやってきた。
宮中の広い庭には、たくさんの食事が用意された。仏陀たちの接待のためだ。庭はこの三日間で整備され、余分なものはすべて排除され、数百人にも及ぶ仏陀たち修行者が食事できるように用意されたのだった。

早朝のこと。ニグローダ樹林から仏陀を先頭に多くの修行たちが並んで出てきた。彼らは一言も発することなく、静々と街中を通り抜けていった。その姿は誰も彼も神々しく、光り輝いていた。人々は、誰もが家の外に出て、静かに仏陀たち一行を見守っていたのだった。そして、その一行の後を何人かの若者がついてきていたのだった。
つづく。


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