ばっくなんばー20
ダイバダッタとアーナンダの二人は、ヒマラヤ山中に入って行った。夜は明け、あたりは太陽の日が差していた。二人は黙ってヒマラヤ山を登って行った。 しばらく歩くと、村が見えてきた。小さな貧しい村である。ダイバダッタが鶏に餌をやっている村人に尋ねた。 「このあたりにお釈迦様の弟子でバツヤヒッタ尊者という方がいらっしゃると聞いてきたのですが、ご存じありませんか」 「おぉ・・・聖者様のことじゃな?。そのお方なら、ほれあそこの小屋に住んでいらっしゃる。なかなか立派なお方じゃ。欲もなく、いつも深く瞑想をしていらっしゃる。わしらにも欲を慎み、貧しくともコツコツ生きていれば苦しみから抜け出られると説いてくださる。ありがたいことじゃ・・・・」 「あぁ、そうですか・・・そうですね、ありがたいですね。えっと・・・あの小屋ですね。わかりました、行ってみます」 ダイバダッタとアーナンダは、その村人に礼を述べると、村人が教えてくれた山小屋を目指して、再び山を登り始めた。目指す小屋は、村からやや離れたところにあった。 「結構きついね、この山道は・・・・。息が切れるよ」 「相変わらず情けないな兄さんは・・・・。ここでの生活は大丈夫かい?」 「えっ・・・ここで生活することになるのか?」 「たぶんね。そんなに長くはないと思うけど・・・・。いきなりあの小屋に行って、出家させてください、はいどうぞ、というわけにはいかないんじゃないかな。しばらくは、ここで寝食を共にすることになると思うよ。嫌なら今のうちなら引き返せる。日のあるうちにカピラバストゥへ帰ることもできる。どうするんだい、兄さん」 「も、もちろん・・・・はぁはぁ・・・・もちろん、ここに残るさ。今さら帰るなんて・・・・」 「そうかい、わかった」 ダイバダッタは、アーナンダをみじめな者を見るような目で見つめたのだった。 険しい山道を歩き、ようやく村人が教えてくれた山小屋に辿り着いた。扉を開き、 「お釈迦様のお弟子のバツヤヒッタ尊者様はいらっしゃいますか」 ダイバダッタが声をかけた。 「ほう、このわしを訪ねてくるとは・・・・珍しいことじゃのう。どなたじゃな?」 「はい、私たちはバツヤヒッタ尊者の噂を聞きまして、カピラバストゥからやってきました。私がダイバダッタ、隣りいるのは兄のアーナンダです。私たちは、ぜひ出家したくてここに来ました」 「ほう・・・出家を・・・・。それは善い心掛けじゃ。しかし、なぜわざわざこんな山奥まで・・・・。出家したいのなら、ラージャグリハへ向かえば世尊にお目にかかることができよう。そっちのほうが便利ではないか。それとも・・・カピラバストゥからは、ここの方が近いのか?。いや、近くとも、ここでの修行はつらいしのう・・・・。なぜ、こんな辺鄙なところがいいのじゃ?」 バツヤヒッタ尊者の問いにアーナンダが 「はい、お釈迦様に出家を願いでたのですが・・・」 と答えようとした。あわててダイバダッタが小声で言った。 「兄さん、余計なことを言わなくていい・・・・」 幸いアーナンダの言葉は、もそもそしていたせいか、バツヤヒッタ尊者の耳には届かなかった。ほっと一息つき、ダイバダッタが横目でアーナンダを睨んだ後、話し始めた。 「いえ、このような山の中だから修行になると思いまして・・・。私たちは、まだ心が弱く、ラージャグリハのような街中で修業をするのは・・・・自信がないのです。このような辺鄙なところでしばらく修行を積んで、心が揺らがないようになったら街に出てもいいかと・・・・。もちろん、ここでの修行を続けてもいいでしょうし。いずれにしても、いきなり街中の大きな精舎で修業するのは、私たちはあわないのではないかと思いまして、それでバツヤヒッタ尊者の噂を聞きまして、ここに来たのです」 「ふむふむ、なかなかよい心掛けじゃ。確かに、出家したばかりのころは、街中での修行はつらいものがあろう。ある程度、こうした辺鄙な場所で修業をしてから街に出たほうが気持ちも安定しよう。わしもそのほうがいいように思うのう。わし自身もそうであったからのう・・・。街中はわしにはあわぬ。ここは心静かにしていられるからのう。ふむ、よくわかった。では、ここで修業することを許可しよう」 「本当ですか。有り難いお言葉です。では、戒を授けて下さるのでしょうか」 「あぁ、出家作法をせよ、というのじゃな・・・・。そうじゃな、まずはここでの生活ができるかどうか、それを見極めてからじゃな。出家させて、すぐに山を降りてしまったら・・・・それも困ることじゃ。わしはこのとおり何のとりえもないが、お釈迦様の直弟子じゃ。人を見る眼だけは持っておるつもりじゃ。まずはお主らの心を見させてもらおうかのう」 バツヤヒッタ尊者は、そういうと二人に問いかけるような目をして見つめたのだった。 「わかりました。もちろん、それが順序だと思います。私たちもいきなり受戒してください、などと厚かましいことは申しません。まずは、ここでいろいろな修行をさせていただきます。兄さんもそう思ってますよね」 ダイバダッタに突然そう問われ、アーナンダは、しどろもどろになりながらも 「は、はい・・・もちろんです」 と、もそもそと答えたのだった。 こうして、アーナンダとダイバダッタの山小屋での修行生活が始まったのだった。 一方、コーサラ国へ向かった仏陀一行は、順調に歩みを進めていた。カピラバストゥからコーサラ国は遠くなく、3日間ほどの行程で行ける。旅は順調に進んでいた。が、しかし、ナンダだけがいやいや足を進めているようだったのだ。 「ナンダ、もっとしっかり背筋を伸ばして歩きなさい。王家の出の者が恥ずかしいであろう」 仏陀は、義理の弟をそう叱咤したが 「そんなことを言われても・・・・。あぁ、私はカピラバストゥに帰りたい・・・・。あの美しい妻の元に・・・・あぁ、悲しい・・・」 と言ってはメソメソと泣きだすのであった。仏陀は仕方がなく、それ以上は何も言わなかった。他の高弟たちも、世尊には何かお考えがあるのだろう、と何も口出しするようなことはなかった。 カピラバストゥを出発して四日目の早朝のこと、仏陀たち一行はコーサラ国の城門をくぐった。城門のところには、スダッタ長者が出迎えでいた。 「お待ちしておりましたぞ、仏陀様。さぁ、ようこそコーサラ国へ。ささ、どうぞどうぞ。おやおや、またお弟子さんが増えましたなぁ。すばらしいことです」 「スダッタ長者、元気そうでなによりです。道中、あなたのおかげで苦労なく旅ができました」 「いえいえ、仕事仲間に声を掛けただけです。皆さん、仏陀様の教えが聞きたい、とそう言ってましたから。私どもの街でも皆仏陀様の到着を待っていましたよ。ここから、首都のシューラバスティーまでは、それほど遠くはありません。お約束の通り、精舎もご用意させていただきました。そちらは、シューラバスティーに近くなく、かといって遠くなく、快適な場所です」 スダッタは、仏陀とともに歩きながら、道々精舎がどのようにしてできたかを説明した。 「国王のプラセーナジット王の皇子でジェータ太子のご協力を得て作り上げた精舎です。今日は、このまま精舎に向います。そこで食事の接待をさせていただきます。また、午後からは、プラセーナジット王も来られます。国王は、まあ、この国の習慣ですが、多くの聖者を庇護しております。国は当然のことながらバラモンの教えに則って様々儀式を行いますが、国王自身は、あまりバラモン教には熱心ではありません。日頃から、真実の教えを求めていらっしゃるようです。そこで、私が仏陀様のお話をしたら、ぜひお会いしたいと・・・・。それで午後から精舎を訪ねてくるとのことです」 仏陀は、黙ってこれを聞いていたのだった。 スダッタとジェータ太子が建立した精舎は快適な建物であった。教えを説くための講堂には屋根がついていた。住居は過ごしやすく、風通しもよく、木陰は爽やかであり、湧き出る泉は清浄だった。 「如何でしょうか。快適に修行ができましょうか?」 「ここは過ごしやすい。ここで多くの教えを説くことができるであろう」 仏陀は、そう答えたのであった。その言葉通り、仏陀は多くの時間をこの精舎・・・祇園精舎・・・で過ごすこととなるのであった。 スダッタの用意した食事は千二百人ほどの修行者を十分に賄うことができた。食事をとり、それぞれの修行者が戒律に則って片付けをし、午後の修行の準備に取り掛かっていた。そのとき、多数の馬車が精舎の外に到着したのだった。 仏陀と弟子たちは、講堂に移っていた。仏陀を中心に左右に悟りを得た長老たちが控えた。まだ悟りを得ていない弟子たちは、仏陀や長老の正面に座った。二の字の形である。コーサラ国王の到着を聞いて、悟りを得ていない弟子たちが左右に分かれた。その分かれた部分、仏陀の正面にコーサラ国が座るのだ。 馬車から下りた国王が講堂に向かって歩いてきた。周囲に多くの近衛兵を連れている。その姿は、巨漢でった。大きなおなかを揺らしながら、コーサラ国王は仏陀の正面に至った。そして、慣習のとおり、五体倒地して仏陀を礼拝したのだった。 「ようこそコーサラ国へ。スダッタ長者からかねがね噂は聞き及んでいます。否、スダッタ長者だけでなく、仏陀がこの世に現れたという噂は、このコーサラ国にも広まっております。今日、私は仏陀様にお目にかかれて感動しております。なるほど、噂通りお身体が光輝いていらっしゃる。威厳がある。えもいわれぬ神々しさが漂っていらっしゃる。他の聖者にはない、気品と清浄さが備わっていらっしゃる。あぁ、いやはやこのような聖者には初めてお会いしました。どうか私にこの世の真理をお説きください」 プラセーナジット王は、仏陀にそう懇願したのだった。 「国王よ、教えを説こう。しかし、その前に精舎内には武器を持ち込まないでいただきたい。ここは安全です。何も危険はない。近衛兵は精舎の外に待たせたほうがよろしかろう。兵士にも話を聞かせたいのでしたら、彼らの武器は一か所に集めるといいでしょう」 「おぉ、これは失礼いたしました。なるほど、この場所に兵士は似合いません。お前たち、下がってよい。もし、一緒に話が聞きたいのであれば、武器を集めて馬車に乗せておけ。もちろん、馬車を見張るようにしろ。周辺の住民に迷惑にならぬように」 プラセーナジット王は、仏陀の言葉に素直に従ったのであった。 「国王よ、早速の対応、感謝しよう。これほど大きな国を管理し、平和を保つには大きな苦労がともなうことであろう。その気苦労は、計り知れないものであろう。上に立つ者は、絶えず孤独である。いつも大きな選択に迫られている。判断を誤れば、多くの国民を不幸にしてしまうという恐怖にさらされている。また、いつ他国から攻められるかわからぬ。毎日が不安の日々であろう。国王としての苦しみは、大きなものである」 「な、なんと・・・・。私の日々の苦しみを理解して下さった聖者は、初めてです。今までどんな聖者も自分の教えを説くだけで、私の苦しみを理解はしてくれなかった。何と言うことだ・・・・。今日、初めて私の苦しみを理解して下さる方に出会えた。これほどの喜びは今まで味わったことがなかった」 プラセーナジット王は涙を流して喜んだのであった。 「ナンダよ、今の言葉を聞いたであろうか。国を治めるということは、それほど苦しいことなのだよ」 仏陀は、毎日嘆いているナンダに声をかけたのであった。 「く、国を治めることは難しいことくらい知っています。私が嘆いているのは・・・・あぁ、こんな生活もういやだ・・・カピラバストゥに帰りたい。妻に・・・妻に会いたい・・・・」 コーサラ国王の面前でも、お構いなくメソメソ泣いているナンダを見て、プラセーナジット王は驚いた。 「あ、あの・・・この方は・・・・」 「あぁ、この者はナンダというものです。カピラバストゥの次の国王になる予定だったのですが、つい先日、出家させたのです」 「む、無理やりにですか・・・・」 仏陀の言葉にプラセーナジット王は言葉に詰まった。 「国王よ、国を治めることは容易ではない。そのことは国王はよくわかっておられる。そうですね?」 「えぇ、そうです。眠れぬ夜が幾度となくあります。安眠できないのです。また、多くのことを考えなければなりません。祭祀をしても、神々に祈る儀式をしても心休まることはありません。いつも不安にさいなまれています。そのせいかどうかはわかりませんが、ついつい食べ過ぎてしまうのです。おかげでこのような体型になってしまいました」 プラセーナジット王は、膨れ上がった大きなお腹を突き出した。 「このナンダは、神経が細い。気に病む性格です。カピラバストゥは小さな国で、釈迦族でまとまっているようですが、必ずしもそうとは言えません。コーサラ国王を前にして言うのもなんですが、いつも大国の侵略に恐怖していなければなりません。そうした状況において、このナンダではとても国を治めるだけの体力も気力も続かないでしょう」 仏陀の言葉にプラセーナジット王は、ナンダを観察してみた。 (こ、この男は・・・先ほどから、大勢の前で臆面もなくメソメソ泣いている。しかも、妻に会いたいと泣いている・・・。なんと情けないことか。この国の王である私を目の前にしても泣きやまぬとは・・・・。これは・・・まるで子供だ。身体は大人だが、精神は子供だ・・・。これでは、とても国を治めることはできまい・・・・。さすがは仏陀。もし、この者がカピラバストゥの国王になっていたら・・・・滅ぶまでに時間はかからないだろう。否、内部から崩壊することもあり得る。それで無理やりに出家させたか・・・・。すばらしい、先を見通している) 「仏陀様・・・世尊とお呼びすればいいですかな。・・・そうですか、では世尊とお呼びいたします。世尊、まさしくその通りでしょう。この者では国は治まりますまい。とても国王としての生活は続かないでしょう。いやはや、世尊はすべてを見通されている・・・。さすが、伝説の聖者・仏陀様ですな・・・。これからも、ここに来てよろしいでしょうか」 「国王よ、もちろんです。しかし、私はいつまでもここに滞在するわけではありません。マガダ国へも、さらには大きな国以外にも出かけるつもりです。もっとも、私がいなくとも、悟りを得た弟子たちは滞在しております。相談されたいとき、教えを聞きたくなったときは、どうぞこの精舎へお越しください。国王だけではありません。法を聞きたいと望む者は、この精舎に来るがよいのです」 仏陀の言葉に、プラセーナジット王は感激し、仏陀を礼拝したのであった。 「今日は、とてもいい日でありました。私の心中を理解して下さる方にお会いできて・・・。これで安心して職に励むことができます」 そう言い残して、国王は祇園精舎を後にしたのであった。その後ろ姿を見送った後、スダッタ長者が言った。 「明日は、我が家にて接待の御用意がしてあります。ぜひとも、皆さんで・・・・えぇ、この精舎にいらっしゃる全員でお越し下さい」 仏陀は、これに無言で答えた。無言は、承知した、という意味である。 「いつまでも修行の邪魔をしてはいけませんので、私はこれにて失礼いたします」 こうしてスダッタも祇園精舎を後にしたのであった。精舎には、仏陀と修行僧のみが残った。 「さぁ、皆のもの、いつものように修行を始めよ。怠ってはならぬ」 仏陀の声が響き、出家者たちはそれぞれの長老に率いられ、広い精舎のなか、修行に散って行ったのだった。 「ナンダ・・・。いつまでメソメソ泣いているのだ」 出家者たちが、それぞれの修行に入った後、仏陀はいつになく厳しい声でナンダに呼びかけた。 「だって・・・だって・・・・。あの美しい妻と・・・・もう二度と会えないとなると・・・・。悲しくて悲しくて・・・・」 「ふむ・・・そうか、仕方がない・・・・」 仏陀はナンダを眺めると、厳しい顔をして言った。 「ナンダ、ついてきなさい。さぁ、立ち上がって・・・」 ナンダは、座り込んで泣いていたのだが、しぶしぶ立ち上がって、仏陀のあとについた。仏陀は、シャーリープトラのところに行くと、 「少々・・・といってもほんの短時間だが、精舎を留守にする。私がいない間、他の長老たちと協力して、精舎をまとめておくれ」 と声をかけた。シャーリープトラは、なにも問い返すことなく 「はい、わかりました」 とだけ答えた。仏陀は、小さくうなずくとナンダを木陰に連れて行ったのだった。そして、 「さぁ、ナンダ、こちらに来て、私に掴まるがよい」 と、ナンダを自分の腕につかまらせたのだった。次の瞬間・・・二人の姿は消えていたのだった・・・・。 「こ、ここは・・・、さ、寒い・・・」 ナンダは、両腕で自分を抱えた。二人は、ヒマラヤ山の中腹、森の近くに立っていた。 これは、神通力である。一瞬にして移動をする神通力・・・今でいうテレポーテーション・・・で、天足通(てんそくつう)という。仏典には、しばしば仏陀が神通力を使い、様々な地域に瞬時に移動をする場面が出てくる。実際、本当にこのような神通力があったのか、それともナンダを催眠術のようなものをかけて幻覚を見せていたのか、それは定かではないが、伝説の聖者である仏陀はあらゆる神通力を使えるというのが定説であるので、にわかには信じられないかも知れないが、ここではそのまま仏典の話を採用していく。こうした物語には奇跡はつきものなのである・・・・。 「ここはヒマラヤ山中だ。ちょうど彼らも来ているころか・・・・。流れは止められぬ、止めてはいけない流れもある・・・すべては流れている・・・・」 仏陀のつぶやきは、ナンダには聞こえていなかった。尤もたとえ聞こえていたとしても意味がわからなかったであろう。ナンダは、 「寒い、寒い、寒い・・・・帰りたい、城に帰りたい・・・・」 と泣き続けていたのだった。 「こ、ここでどうしろと・・・・まさか、僕をここに置いて行くなんて・・・・そんな、それはやだ。死んでしまいますよぉ」 「ナンダ、汝に見せたいものがある。さぁ、来なさい」 仏陀はそういうと、近くの森に入って行った。ナンダは仕方がなくついて行く。その森には、焼けた跡が見られた。仏陀が森を見回すと、一匹の猿が近くまでやってきた。その猿の顔には、大きなヤケドのあとがあった。 「ナンダよ、この猿はメス猿だが、この猿と汝の妻になる予定だった娘とどちらが美しい?」 仏陀はナンダの顔を見て尋ねた。 「うっ・・・・、な、なんだこの猿は・・・・。僕の妻の方が美しいに決まっているでしょ。く、比べるまでもない!」 「そうか・・・・。では、さぁ、ナンダ、もう一度、私の腕に掴まるのだ」 仏陀にそう言われ、ナンダは再び仏陀の腕にしがみついた。次の瞬間、仏陀とナンダの姿は、ヒマラヤ山中から消えていたのだった。 「こ、ここは・・・・なんて暖かくて気持ちがいいところなんだ・・・・あぁ、いい香りが漂う。あぁ、大きな城が見える。あんなすばらしい宮殿は見たことがないぞ。光り輝いている・・・あぁ、まばゆい・・・。なんて美しいんだ。なんて素敵な場所なんだ・・・・」 「ここは天界の一つ、帝釈天の住む世界だ」 「た、帝釈天?・・・・そんなところまで・・・・・」 ナンダは、あっけにとられていた。瞬時に移動できることも驚きであったが、まさか神々の王である帝釈天の住まう世界に来ることができるとは・・・・。 「さて、あの城へ行こう」 仏陀はそういうと、ナンダの手を取り、瞬時に帝釈天の宮殿のひと部屋に降り立った。 「お待ちしておりました、世尊」 そこには帝釈天が待っていた。帝釈天は、仏陀に近付くと、五体投地し、仏陀の足に額をつけた。 「世尊にお越しいただくとは、こんな幸せなことはありません」 「帝釈天よ、怠らず修行に励んでいますか?。衆生は、迷いの中に生きています。正しい導きを行ってください」 「はい、世尊、怠らず衆生のために修行いたします。・・・・ところで、今日は・・・・」 「ここにいるのはナンダという新発(しんほつ・・・出家したばかりの者)なのだが、出家前に結婚を約束した女性がいるのだ。ナンダは、その女性に未練があり、修行に励めないのだ」 「なるほど・・・そういうことですか・・・・。少々お待ち下さい」 帝釈天はそういうと、後ろに控えていた女官に何かごそごそと伝えた。女官は、うなずくと部屋を出ていった。 ナンダは、仏陀と帝釈天のやり取りを見て、驚くどころではなかった。口をあんぐり開けたまま、ただただ呆然としていたのだった。だから、帝釈天の呼びかけにもしばらく気がつかなかった。 「ナンダさん、ナンダさん・・・・」 何度目の呼びかけであろうか、ようやくナンダが帝釈天の声に反応した。 「どうしたのですか、先ほどから呆然としていますが。あぁ、どうぞ、おかけください。今、お飲み物もご用意いたします」 ナンダは、口をパクパクさせた後、ようやく声を発した。 「こ、ここは・・・・な、なんと・・・素晴らしいのか・・・。それに・・・・世尊は・・・・た、帝釈天様よりも・・・・」 「世尊は、仏陀となられた方です。仏陀は、天界をも超え、輪廻から解脱された方です。一切の真理を覚られた方です。我々神々も仏陀様が現れることを長く待っていました。我々も仏陀様の説かれる真理が聞きたいのです。我々も導かれたいのです。救われたいのですよ」 「そ、そうだった・・・・のですか」 「あなたも悟りを得られれば、神々が讃えてくれますよ」 「はぁ・・・・。しかし、私に悟りなど・・・・毎日が苦しいのに・・・・・」 帝釈天とナンダが話をしていると、女官たちがお茶を運んできた。その姿を見てナンダはまたまた驚いたのだった。そして、思わず 「美しい・・・・なんて美しいのだ・・・」 とつぶやいていたのだった。 「ナンダさん、この女官たち、美しいでしょう。この天界に住めば毎日のように、こうした美しい女官を見ることができるのです。いや、それどころか、妻にすることもできるのですよ」 帝釈天は、そういって女官の一人の肩を抱いたのだった。ナンダは、女官の美しさに見惚れて、それ以外は何も目に入らないようだった。 女官たちがお茶を運び終わり、部屋を出ていってもナンダは部屋の出入口を名残惜しそうに眺めていた。 「ナンダ、・・・・ナンダ・・・・」 仏陀が呼びかけた。何度目の呼びかけだろうか、ようやくナンダは反応した。 「あ、あ、あ、すみません」 「ナンダよ、今の女官は美しかったか」 仏陀は尋ねた。ナンダは、すかさず元気よく、明るい声で答えた。 「そりゃもう、美しいどころではないです。あんな綺麗な顔は見たことがありません。身体も・・・・あぁ、なんてすばらしい身体つきなんだ・・・。あんな美しい女性を毎日見られる帝釈天様がうらやましい・・・・」 「しかし、汝の妻も美しかったのであろう?」 「と、とんでもありません。私の妻など、ここの女官に比べたら・・・・そう、あのヒマラヤ山中で見た顔にヤケドを負った雌ザルのようなものです。比べ物にならない!」 「そうか。では、ナンダに聞くが、本当に毎日、あの美しい女官が見たいか?」 「見たいです。見たいどころか・・・・手に入れたい・・・・」 「その方法があるのだが・・・・それを聞くか?」 仏陀の言葉にナンダは、仏陀の顔をまじまじと見てしまった。その目はいつになく真剣であった。 「本当ですか?。このような天界に来ることができる方法があるのですか?。教えて下さい。お願いです。世尊!、ぜひ教えてください。あのような女性に会えるのなら、あんな美しい女性を手に入れることができるなら・・・・私は何でもします」 「そうか。では教えてあげよう。それは、私のもとで修業することだ。そうすれば、毎日のようにここにも来れるようになる」 「あっ!・・・そうか!・・・・神通力が身につけばいいんですね!」 「それがわかれば、ここにいる用事はなくなった。帝釈天よ、感謝する」 「いえいえ何の・・・。これで修行者が一人増えました。私も徳が積めたというものです」 深々と頭を下げた帝釈天を後にし、仏陀とナンダは祇園精舎に戻ったのだった。 「さぁ、ナンダ、約束だ。修行に励むのだ」 仏陀の言葉にナンダは 「はい、わかりました。教えを私に説いて下さい」 と力強く答えたのであった。 この様子を長老たちは、にこやかに眺め、まだ悟りを得ていない修行者たちは、驚きの目で眺めていたのだった。 85.マッリカー すっかり態度の変わったナンダに、他の出家者たちは驚いていた。 「いったい何があったのだ。あの泣き虫のナンダが、修行をするといいだした」 「世尊は、いったいナンダに何をしたのだろうか」 まだ悟りを得ていない修行者たちは、お互いに噂しあった。そのうちにそれは「ナンダだけ贔屓されている」という不満へと変わっていった。 初めは各長老たちが修行者たちを抑えてはいたが、不満はどうにもおさまるものでなくなってきたのだ。誰もが、変わったナンダの姿に驚き、仏陀から特別に指導してもらったことに嫉妬し、不平不満が爆発寸前までに達したのだった。仏陀は、そのことを知ってはいたが、自ら手だてをしようとはしなかった。各長老が説明をすればいいことであって、仏陀が話をするまでもないと考えていたようであった。しかし、長老と言っても、仏陀のもとでの修行者としては、まだ日も浅い。うまく説明できるものではなかったようである。それは智慧者のシャーリープトラですらであった。 やがてシャーリープトラやマハーカッサパ、モッガラーナなどの長老たちが仏陀の前に進み出て懇願した。 「未だ悟りを得ていない修行者たちが、ナンダのことで不平不満を訴えております。私たちの力では彼らを納得させることができません。どうか世尊のお考えを説き示して下さい」 仏陀は、無言でうなずいた。 祇園精舎の中心、すべての修行者が集うことができるほど広く大きな講堂に、その時修行をしていたすべての弟子たちが集った。 「修行者よ、あなたたちはナンダが急に修行に励み始めたことを不思議に思っていよう。また、私が個人的に始動したことに対し、嫉妬の炎を燃やしている者もいよう。しかし、それは愚かなことなのだ。 修行には、あなたたちにあった方法がある。それは個人個人異なってもいよう。全く同じ修行法を行っていいものでもない。自分の素質にあった修行法があるのだ。 私の話を聞き、即座に悟りのきっかけをつかむ者いよう。何度か教えを聞き、悟りのきっかけをつかむ者もいよう。何度も教えを聞き、それを瞑想しながら吟味して悟りのきっかけをつかむ者もいよう。何度も教えを聞いたうえで、葉が木から落ちるのを見て悟りのきっかけをつかむ者もいよう。教えを聞き、木々の間を散策しながら悟りのきっかけをつかむ者もいよう。あるいは沐浴中に、あるいは托鉢中に、あるいは食事中に、あるいは睡魔に襲われたところを注意されたときに、あるいは石に躓き転んだときに、あるいは他の修行者が注意されたのを見たときに、あるいは病の人を見たときに、あるいは老人を見たときに、あるいは死者を見たときに、あるいは神通力で救われたときに、あるいは神通力を身につけたいという欲から、あるいは名声が欲しいという欲から、あるいはすべてに絶望したときに・・・・・人々は悟りへの切っ掛けをつかむものなのだ。その切っ掛けにより、自分自身の修行法を見つけ出すものなのだよ。 私はナンダにその切っ掛けを与えたに過ぎない。まだ悟りを得ていないナンダ以外の修行者たちよ、あなたたちは、すでにその切っ掛けをつかんでいる。今さら、切っ掛けを与えられる状態にはない。ナンダは、ようやくあなたたちに並んだのだ。 悟りへの道は一つではない。あなたたちそれぞれにあった方法により、修行するがよい。それを長老たちは指導してくれるであろう。長老たちは、すでに悟りを得た者たちだ。すでに阿羅漢(あらかん)に達した者たちだ。彼らを信頼し、教えを請い、修行に励むがよい」 仏陀の言葉に修行者たちは納得し、ナンダに対して抱いた感情を恥ずかしく思うのであった。 祇園精舎での滞在は長くなった。この精舎は大変修行がしやすく、また専念もできた。信者も増え、多くの市民が精舎を訪れるようになっていた。また、托鉢中の仏陀のでしたちを礼拝する者も次第に増えていった。 ある日のこと、いつものように仏陀は托鉢をしていた。そのとき、仏陀に声をかけた女性がいた。もちろん、彼女はその時の托鉢僧が仏陀とは知らなかった。その女性は、丁寧に仏陀を礼拝し、尋ねた。 「あの・・・托鉢中に申し訳ないのですが・・・」 「なんでしょうか」 「私は人に使われる身です。ですから、食事を施そうにも施すことができません。毎日、朝早くからこうして雇い主が経営する花園に向かわねばならないのです。私たちのように托鉢をする修行者に食事を施すことができない者たちは、救われることはないのでしょうか。バラモンの儀式をすることもできず、修行僧に施しをすることもできない者は救われることはないのでしょうか」 「あなたには施しをするものがなにもありませんか?」 「私には・・・・あぁ、花ならば施すことができます。私は花園で働いています。そこで花を少しいただくことがあります。その花ならば、施すことはできます。でも・・・・花など施しにはなりませんでしょう。以前、ある聖者に花を持っていったら、こんなもの!と突き返されましたし・・・・」 「祇園精舎に滞在する仏陀の教えを修行する者たちは、それが清浄なるものであるならばどんな施しでも受け取るであろう」 「清浄なるもの?ですか?」 「清浄でない施し物とは、施すために盗んだものや施すために殺生したものです。そうしたもの以外は、彼らは受けとりますし、それは功徳になるのです」 「花を施すことも功徳になるのですね」 「もちろん、大きな功徳になるでしょう」 「他にも私たちには・・・・あぁ、労働をお施すこともできます。精舎を掃除したり・・・・。それも功徳になりますか」 「功徳になります」 「そうだ、布ならば・・・・新しい布は無理ですが、使い古しの布なら少しは用意できます。そうしたものも施してよいのでしょうか」 「布は大変貴重です。修行僧にとってありがたいものです。よき功徳になるでしょう」 「ありがとうございます。私たちにも施すことができるものはたくさんあるのですね。これで安心できます。機会があれば花をお持ちします。祇園精舎・・・・ですね」 仏陀は無言でうなずくと、その場を去って行った。その女性は、去りゆく仏陀の後ろ姿をじっと見つめていた。 「なんと神々しい、立派な後ろ姿であろう。ぼんやりと光り輝いているのは・・・・。祇園精舎とおっしゃっていた。あぁ、そういえば祇園精舎って、あのスダッタ長者が仏陀のために造られた精舎とか・・・。もしかして、今の方が仏陀なのだろうか。まさか・・・仏陀自ら托鉢なんてされるわけがない。ならば、そこにいる修行者はみな光輝いて、あのように立派なのだろうか・・・・。それもありえないだろうし・・・・。しかし、あのスダッタ長者が毎日熱心に礼拝するというのだから・・・・。あぁ、いけない、仕事に遅れるわ・・・」 そういうと、その女性は走り出したのだった。 「遅いじゃないかマッリカー」 花園を経営する雇い主がマッリカーを注意した。 「お前さんが遅れるなんて珍しいな」 「はい、すみません。今朝、托鉢する立派な修行僧の方にお会いしまして・・・」 「修行僧?。ほう、それはひょっとしてあのスダッタ長者が信仰している仏陀の教えじゃないのか?。どこから来たと言っていた?」 「たぶんそうだと思います。祇園精舎にいると言ってました」 「ならば間違いないな。祇園精舎で修行しているものは、仏陀の教えを学び悟りを得るのだという。彼らへの施しは、バラモンの神々への施しよりも功徳があるそうだ。まあ、本当かどうかは知らないが・・・・。それでお前さんは何か施しをしたのか?」 「いえ、ここへ来る途中でしたので何も・・・・」 「そうか、それは残念だったな」 「あの・・・・それでお願いがあるのですが・・・・」 「願い?、なんだ?」 「今日、働いた分の給金をお花で頂けないでしょうか?」 「なんだ、お金じゃなくていいのか?」 「はい。ぜひお花で・・・」 「いったいどうするのだ?」 「祇園精舎に持っていこうと思いまして・・・・」 「花をか?。あはははは。そんなもの修行者は要らんだろう。お金の方がいいのではないか?」 「あぁ・・・でも、お金は受け取らないとか聞いたことがあります。それに、今朝あった方はお花でもいいと・・・」 「ふ〜ん、そうなのかねぇ。まあいいけどね。私の方は花でいいのなら助かるしな。よし、今日働いた分は、花で払ってやろう」 「ありがとうございます」 マッリカーは喜んで仕事に取り掛かったのだった。 その日、マッリカーは約束通り、働いた分の給金を花でもらった。それは、たくさんの花ではなかった。両手で抱えられるほどの花の量だった。しかし、とてもよい香りがしたのだった。 マッリカーは、花を抱えて祇園精舎へ急いだ。 「あの、この花を・・・・仏陀様に・・・・」 祇園精舎の入口のところで掃除をしていた若い修行者にマッリカーは声をかけた。 「あぁ、お花ですね。はい、どうぞこちらへ」 若い修行僧は、マッリカーを伴って精舎の奥へとはいっていった。そこには、朝出会った托鉢僧が座っていた。 「あっ、あなた様は・・・」 「こちらの方が仏陀世尊です」 仏陀は無言でほほ笑んだ。 「今朝は大変失礼をしました。私・・・・あの・・・・」 「よいのだ、マッリカー」 名前を呼ばれたマッリカーは、ますます驚き、声が出なかった。 「施しとは、心を施すことなのだ。心こめて施されたものならば、それは食べ物であろうと、布であろうと、花であろうと尊いものなのだ。汝の清浄なる願いを込めてその花を施すがいい」 「あ、ありがとうございます。わ、私は・・・・いまの平穏な日々が続けばいいと思っています。でも、もし叶うならば、ほんの少しでいいですから楽しい喜び事があればと・・・・。いえいえ、多くは望みません」 そういうと、マッリカーは花を差し出したのだった。その花は、すぐに二つの瓶に入れられ、仏陀が座っている場所の左右に供えられたのだった。 「花は美しい。花は美しく咲こうとしないからこそ美しい。欲を持たぬからこそ、美しく咲くことができるのだ。分不相応に美しく見せようとか、美しく着飾ろうとすれば、それは多大なる苦しみを生むであろう。老いに逆らい、無理をしてでも若さを保とうとすれば、それは苦しみを生むであろう。すべては流れ行く。生まれたものはやがて老い、枯れ果てて死を迎えるのだ。花はそれを我らに教えてくれる。美しく咲ける時期は短い。ぼやぼやしていると、あっという間に死を向かえるであろう。汝ら、為すべき時に為せ。怠らず、機会を逃さず、美しく咲く花のように願を成就せよ」 仏陀の言葉は、マッリカーの心に沁み入った。それは、深く深くマッリカーの心へと入って行ったのだった。 「このままでも救われるのでしょうか」 「もちろん救われよう。出家しなければ救われない、ということはないのだよ。迷えばまたここに来ればいい。教えを聞き、心を堅固にすればよいのだ。出家者のみが救われるのではないのだよ」 マッリカーは仏陀の言葉に大きくうなずくと、仏陀を礼拝し精舎を後にしたのであった。 その後、マッリカーは仕事の帰りに、頻繁に精舎に寄るようになった。仕事が忙しく、時間のないときは精舎の入り口で礼拝をし、それから帰宅したりもしたのだった。 そんなある日のこと。マッリカーに一大転機が訪れたのだった。 86.転機 それはマッリカーが、いつものように花園で働いていたある日の午後のことだった。その花園に大柄な男性が馬に乗ってやってきた。その男は、馬から降りると 「すまぬ。少し休ませてくれないか」 とマッリカーに声をかけた。その大柄な男は、きらびやかな宝飾品を身につけた、いかにも身分の高そうな人であった。マッリカーは驚いたものの、失礼があってはいけないと思い、その男性を丁重に扱った。 「ようこそおいで下さいました。どうぞ、ごゆっくりお休みください。さぁ、どうぞ、こちらにおかけください」 マッリカーは、綺麗な布を持って、その男性を花園の中の木陰になっている涼しげな長椅子に案内した。そして、長椅子にやわらかでひんやりとした布を敷き、その男性を座らせた。 「只今、足をすすぐ水を持ってまいります」 「おぉ、それはありがたい。足を冷やしたかったところだ」 マッリカーは、大きな蓮の葉に水を入れて、その男性の足元に置いた。 「う〜ん、これは気持ちがよい。冷たくて気持ちがいい・・・・」 続いてマッリカーは、新しい蓮の葉に入れた水を差し出して言った。 「どうぞ、お顔をお洗いください」 「おぉ、すまぬ。汗を流したかったところだ」 その男性は、気持ち良さそうに顔を洗った。横から、真新しい布が差し出された。 「あぁ、いい気持ちだ」 男が顔を拭いていると、 「どうぞお飲みください」 とマッリカーが美しいコップを差し出した。コップには、よく冷えた水が満たされていた。 「あぁ、なんとうまいのだ。ちょうどノドがカラカラだったのだ。あぁ、うまい・・・・・」 男は満足そうに水を飲み干した。 「横になりますか」 マッリカーはその男に尋ねた。 「そうだな、そうするか」 男は長椅子に横になると、マッリカーに尋ねた。 「とても冷たくて清らかな水だったが、微妙に冷たさが違っていた。どういうことなのかな?」 「はい、足を洗う水は冷た過ぎては体に毒です。適度にぬるくなくてはいけないと思い、下の池の水を持ってまいりました。顔を洗う水は、冷たいほうが気持ちがよいと思い、あの木陰から湧き出る水を持ってまいりました。飲み水は、やはり冷え過ぎていてはいけませんし、新鮮でやわらかな水でないといけないと思い、あちらの湧水を汲んで、ほんの少し時間をおきました」 「おぉ、なんとすばらしい。よく気がつく娘だ。すまぬが、手足を揉んではくれぬか」 マッリカーがその男の手足を揉み始めると、やがて寝息が聞こえ始めた。マッリカーは、柔らかくて軽い布をその男の上にそっと掛けたのだった。 しばらくすると数名の男たちが馬に乗ってその花園にやってきた。どの男たちも兵士のような姿をしていた。その中の一人がマッリカーに声をかけた。 「おい、そこの娘、大柄で高貴な方をこのあたりで見かけなかったか・・・・。あ、その馬は!」 「そのお方でしたら、あちらの木陰で休まれていますが・・・・」 男たちは馬を下りると、どやどやと花園の中に入ってきた。そして 「あぁ、国王様!。このようなところで休まれたいたのですか!」 と大声でまくし立てのだった。なんと、大柄な男性は、国王だったのだ。この花園のある国の国王といえば、プラセーナジット王である。マッリカーは目を丸くして驚いた。 「まあ、国王様だったのですか」 そして、すぐさまに跪いたのだった。 「まったく・・・・人が気持よく寝ているところを・・・なんと無粋な・・・・」 プラセーナジット王は、ムスッとして起き上った。 「す、すみません・・・しかし、こんなところを他国の者に狙われでもしたら」 「バカモノ!、誰が花園に襲撃に来るというのか。もはや、このコーサラ国に楯つくようなものはおらぬ。まったく、少しは休ませてくれ・・・・・。それに引き換え、娘、汝はよく気がつく。なかなかできた娘だ。この花園の持ち主は誰だ」 「は、はい、ヤジュニャダッタさまです」 「その者に雇われているのだな」 「はい、そうです」 「よし、今すぐヤジュニャダッタをここへ連れてまいれ」 国王は、兵士の一人にそう命じた。 兵士がヤジュニャダッタを連れてくると、彼は 「これはこれは国王様。ようこそおいで下さいました」 と国王にいうと、小声でマッリカーに 「国王が来ていらっしゃるなら、早く言わんか!」 と言った。そして 「申し訳ございません。至らないものでして・・・・。あの・・・この娘が何か失礼なことでもしでかしたのでしょうか?」 「いやいや、そうではない。ヤジュニャダッタよ、この娘は汝が雇っているのか」 「はい、そうでございます」 「ふむ、そうか。ヤジュニャダッタよ、この娘を私のそばで仕えさせたいのだが・・・・どうだ?」 「お、王様・・・・この娘は身分の低いものです。このような娘をそばになどとは・・・・・、もっと高貴な娘がいますが・・・」 「身分などどうでもよい。大事なのは、私の気持ちをよく察してくれるかどうかなのだ。この娘は、私が望むことを、黙っていてもやってくれた。私はこういう娘を望んでいるのだ。もちろん、それ相応のお礼はする。お前も大事な働き手を失うことになるからな」 「はい、確かにこのマッリカーはよく気がつく娘でして。しかし、私どもは国王様がお望みとならば、喜んでこのマッリカーを差し出します」 「そうか、承諾してくれるか。マッリカー、汝も異存はないな」 そう国王に尋ねられたマッリカーは、まるで夢のような話にぼんやりとしていた。 「あ、は、はい・・・・私でよろしければ・・・・でも私のようなものに勤まるでしょうか」 「なに、心配ない。よし、では、今日の内に迎えの馬車を来させよう。そうだな、それまでに・・・・おい、お前」 国王は、兵士の一人を呼びつけた。 「すぐに城に戻って、侍女とこれだけのものを持ってこい。ヤジュニャダッタよ、汝の自宅を貸してもらうぞ」 「はい、それはもう喜んで・・・。どうぞお使いください」 「よし、では、マッリカーよ、迎えの馬車が来るまでにヤジュニャダッタの屋敷で準備をして待っておれ」 そういうとプラセーナジット王は、花園を去っていったのだった。 しばらくすると、侍女数名と美しい衣装や貴金属がヤジュニャダッタの屋敷に運ばれてきた。一緒に、国王の家来もついてきていて、ヤジュニャダッタに莫大な礼金を渡したのだった。ヤジュニャダッタは、内心ではマッリカーに屋敷を使わせるのは嫌だったのだが、莫大な礼金を受け取ると、大喜びで屋敷を開け放した。 マッリカーは、侍女たちの手で、丁寧に洗い清められ、香油を塗られ、美しい衣装を着せられ、宝飾品で飾られたのだった。やがて、迎えの馬車がやってきた。マッリカーは侍女に付き添われ、それに乗り込んだ。向かうのは宮殿である。 マッリカーが宮殿に入ると、同じような娘が100名ほどいた。マッリカーは、彼女たちに交じって、宮殿内で王家に関する様々な教養や作法を学ぶのであった。彼女たちは、いわば花嫁候補だったのである。 プラセーナジット国王には、すでに第一夫人がいた。今、花嫁修業をさせられている娘たちは、第二夫人候補であった。プラセーナジット王の第一夫人は、他国の王家の出であったため、気位が高かった。また、すでに後継ぎであるジェータ太子を生んでいたので、国王との間は、冷やかなものになっていたのである。プラセーナジット王は、第一夫人の扱いに疲れていた。ジェータ太子も青年になっていたので、第二夫人を設けようと思っていたところだったのだ。 100名ほどの娘たちは、様々な教育を受けたが、マッリカーはその中でも抜きんでていた。彼女はたった半月ほどで、すべての教養を身につけてしまったのだ。誰もマッリカーにかなうものはいなかった。報告を受けた国王は 「ふむ、やはりそうか・・・・。私の目に狂いはなかったな」 と満足そうであった。そして、国王はマッリカーを第二夫人として正式に迎えたのであった。そのことで他の花嫁候補がマッリカーを妬むようなことはなかった。誰もが、マッリカーには一目置いていたのだ。 こうして、マッリカーは、花園で働く娘から、国王夫人になったのである。 宮殿で暮らし始めてすぐのこと。マッリカーは開け放たれた窓から祇園精舎の方を眺めていた。 「どうしたのだマッリカー」 「はい、あちらの方向に祇園精舎があります」 「あぁ、そうだな。そこが何か・・・・」 「はい、私がこうして国王様の第二夫人になれたのも、きっと祇園精舎で修業をしている出家者の皆さんに、花をお供えした功徳なのではないかと・・・・そう思いまして・・・・」 「ほう、そうだったのか。お前はお釈迦様を知っているのか?」 「はい、何度も礼拝させていただきました。世尊は、いつも教えを説いてくださいます。生き方を教えてくださいます」 「あぁ、そうだな・・・世尊は立派なかただ。そういえば、あの時以来、私も御無沙汰しているなぁ・・・。どうだ、これから祇園精舎に行ってみるか」 「よろしいのですか?。とても嬉しく思います」 「あぁ、いいとも、よし、でかけよう」 こうして二人は祇園精舎へと向かったのだった。 プラセーナジット王とマッリカーは、数名の家来と侍女を従え、祇園精舎に入っていった。 「これはプラセーナジット王、お久しぶりですね。おや、そちらの方は・・・・よく花を供えてくださった方ですね」 仏陀は、プラセーナジット王とマッリカーを迎えたのだった。 「世尊、御無沙汰しております。この度、この娘を第二夫人として迎えました。この娘は、なんでもよくこちらへ礼拝しに来ていたとか・・・・」 「はい、よく来られました。花園で働いていたということで、よく花をお供えしてくれました」 マッリカーは、恭しく仏陀を礼拝すると 「世尊、私は何の徳のおかげなのか、わかりませんが、花園で働く身分から、コーサラ国の第二夫人になってしまいました」 「それは、あなたが毎日のように花をこの精舎に備え、正しい教えを聞き、それを実践していたからです。その善因により、今の結果を得たのですよ。しかし、第二夫人という結果は、それが因となり別の結果を生むことでしょう。決してその立場に流されず、己を見失わず、贅沢におぼれることなく、正しき道を歩んでください」 「はい、そう自戒しております。自己を省みるように・・・・と。今日は、そのことに関してお尋ねしたいことがあります」 「なんなりと聞くがよい」 「お釈迦様、女の幸せとは一体どのようなものなのでしょうか?。この世にはまず身分の違いがあります。財産がある家に生まれたお嬢様、貧しい家に生まれた娘、その差は大きなものです。また、容姿の良し悪しもあります。身体つきの良し悪しもあります。さらには、性格や才能の違いがあります。この世の中を見ていますと、贅沢な環境にあっても不幸な女性もいますし、貧しくとも幸せな女性もいます。私は花園で働いていた時は不幸ではありませんでした。もちろん、今も不幸ではありません。以前も今もとても幸せです。お釈迦様、女性の幸せとはいったいなんなのでしょう?」 マッリカーは真剣な眼差しを仏陀に向けたのだった。 つづく。 |