ばっくなんばー22

89.失われていくもの
コーサンビー国のウデーナ王には多くの才能が備わっており、遠くの国にもその名が知れ渡っていた。たとえば、ウデーナ王が山中の象に向かって呪文を唱えると、象たちは次々と国王のもとに集まり、大人しく命令に従った。また、王は琴の名人で、王が琴を弾けば国中の鳥や獣が庭園に集まり、静かに音色を聞いていた。そのほかにも、人々に演説をすれば、民衆はうっとりとその声に聞き惚れた。また、智慧もあり勇敢だったので、小国ながらコーサラ国やマガダ国からも一目置かれていたのだった。しかし、その優れた王も、迷うことがあるのである。このところウデーナ王は気がすっきり晴れず、もやもやしていたのであった。そこで、女性を集め、酒盛りをしていたのである。

ウデーナ王の妃は言った。
「国王様、このところ何かお悩みのようです。一度、仏陀様のところにいかれたらどうですか?」
「あぁ?、うぅん・・・・。そうだな・・・。しかし、本当に仏陀がこの国に入ったのかどうかもわからぬ。それに、あの空中を飛んでいたものが仏陀の弟子なのかも判断がつかぬ。・・・・もう一度、あの者がここに来てくれればいいのだが・・・・・」
ウデーナ王は、沈痛な面持ちでそうつぶやいた。妃は、その顔をやさしく眺めていた。そして、
「きっと、その方は来ますよ」
と微笑んだのである。

その日の午後のことだった。ウデーナ王は、城の裏手の森を、供も連れず散策していた。
「おや、あそこに見えるのは・・・・あの空中を飛んでいた修行者じゃないか?」
ウデーナ王は、道の先のほうにある大木の下に座っている修行者を見つけたのだ。
「ふむ、間違いない。よし、話を聞いてみよう」
王は、駆け足で修行者に近づいて行った。しかし、王がその大木に近づくと、修行者の姿は消えていた。
「おや、おかしいな。さっきまで座っていたはずなのに・・・・、いったいどこへ・・・」
国王はあたりを見回した。すると、その修行者は、先ほどまで自分が歩いていた付近の木の枝に立っていた。
「い、いつの間に・・・・。いったいどういうことだ・・・・」
国王は駈け出した。しかし、また国王は修行者の姿を見失ったのである。
「えぇい、くっそ〜、いったいどこへ消えたのだ」
国王は周囲を見回した。何度も振り返り、左右を見、そしてまた振り返ったのだった。が、修行者の姿はどこにもなかった。
「どこをお探しですか?、ウデーナ王・・・・」
「お、お前は・・・・いったい誰なのだ。わしをからかっているのか!」
「いいえ、からかってなどおりません。ウデーナ王、見よう見てやろうしていては見えないのです。心を落ち着け、静かな心で見るとはなしに見るのです。そうすれば、私の姿を見つけられるでしょう。怒りの心を持っていては、見えるものも見えませんよ」
「うぬぬぬ、何をわけのわからんことを・・・・・」
とウデーナ王は、怒りを露わにしたが、実際に修行者の声は聞こえていても姿は見えなかった。怒る相手がいないのである。そのことは、国王をさらにイライラさせた。
「国王よ、あなたが望んだから私はこうしてやってきたのですよ。あなたは、今朝がた妃におっしゃったでしょう。もう一度、あの者が来てくれないだろうか・・・と」
「た、確かにそうだ。確かにわしはそう願った。しかし、姿が見えぬのでは、話にはならぬ。からかっているとしか思えぬではないか」
「「いいえ、からかってなどいません。さぁ、心を落ち着けて・・・。森の動物たちに琴を奏でるときのような気持ちで、静かにしてください。さぁ、目を閉じて・・・・・」
ウデーナ王は、その声に素直に従ってみた。確かに、怒っていても仕方がない、と思ったのだ。
「だいぶ落ち着いてきましたね。さぁ、ゆっくりと目を開いてください。私はここにおります」
言われるままにゆっくりと目を開いてい見た。すると・・・・目の前の大木の上にその修行者は座っていたのだった。
「お久しぶりです、国王様」
ビンドーラは、木の上で立ち上がり、そのまますぅーっと下りてきた。そして、国王の前に立つとそう言ったのだった。

国王は、しばらくビンドーラの顔を眺めていたが
「あ、あぁ、そうか、お前は・・・大臣の息子の・・・・・」
「思い出してくれましたか。今では、出家をして仏陀世尊の弟子になっており、名前もビンドーラと変えています。昔の・・・俗人だったころの名前は、もう捨てました」
「そ、そうなのか・・・・、そうか仏陀の弟子か・・・・」
「そうです・・・・。国王様、心に重いものを抱えていらっしゃるのではないでしょうか?」
「わ、わかるのか?」
「仏陀世尊ほどではありませんが、多少ならわかります。私に答えられることならお答えします。どうぞ、胸の内をお話しください」
ビンドーラは、いつになく真剣なまなざしで、そう告げたのだった。
「そ、そうか・・・そうだな・・・・。では、尋ねるとしようか・・・・。わしは、色々な才能を持ち、名君と世間でも言われていることは、そなたも知っておろう。確かに、若い時はよかった。今でも、それほど年をとったわけではないが、それでも昔ほど体力はなくなったのだ。失われるのだ・・・・。うまくは言えないのだが、この先、どんどんわしの中から失われていくような、そんな気がするのだ。体力もそう、多くの民衆を魅了したこの声もそう、琴を弾く腕前もそう、そして国王の地位もそう、あぁそうだ、妃もそのうちに失うことになるのだろう。そして、やがては命も失うのだろう・・・・。何もかも失うのだ・・・・」
国王は、そういうと、その場に座り込んでしまったのだった。
「ビンドーラよ、そなたは、そうしたことを考えたことはないのか?。汝もやがては死を迎えるのであろう?。それとも、そのような神通力を身に着けていれば、死はやってこないのか?。永遠に生きていられるのか?。年はとらないのか?。何も失わないのか?。どうなのだ?」
「ウデーナ王よ、私が教えを受けている仏陀世尊は、まさにそのような疑問に答える方なのです。世尊は、この世は無常であると説きます。一切の存在は、あるいは現象は無常である、と説くのです。時とともに世は流れていきます。誰もが年をとり、病に罹り、やがて死を迎えるのです。その間にも、人々は愛する者との別れに苦しみ、大切なものをなくすという苦しみを経験し、憎い相手と出会ったり、敵対するものと出会ったりしては苦しみ、欲しいものが手に入らぬ、思うようにならぬと嘆き苦しみ、身体の抑えがたき欲求や衰えに翻弄され、迷い悩み、苦しむのです。それがこの世に生を受けた者の通る道なのです」
「そ、それではあまりにも苦しいではないか。我々人間は苦しむために生れてきたのか?」
「いいえ違います。そうした苦を苦でなくすために生れてきたのです」
「快楽におぼれろと?」
「それも違います」
「好きなことをして忘れろとでも?。あるいは、魔神に祈り、永遠の命をもらえばいいのか?」
「それも違います」
「では、どうすればいいのだ。どうしたら、この不安から解放されるのだ?」
「それには、正しい教えを聞き、正しく世間を見て、正しく考え、心落ち着け、真理を受け入れることです」
「真理を受け入れる?。正しく見る?。正しく考える?・・・・・うぅん、わからん。何を言っているのかよくわからん」
「ウデーナ王よ、今、あなたはとらわれているのです。檻の中に閉じ込められているのと何ら変わりがありません。その檻から外に出ることができれば、国王よ、あなたはすべての苦しみから解放されるでしょう」
「とらわれているのか?。このわしが?」
「そうです。たとえば、国王の座にとらわれている。たとえば、若き時の体力にとらわれている。たとえば、自分の美声にとらわれている。たとえば、権力にとらわれている。たとえば、愛する者にとらわれている。たとえば、自分の迷いや悩みにとらわれている・・・・。そうではありませんか?」
ウデーナ王は、座りなおして、ビンドーラの言葉の意味を考え始めたのだった。

「とらわれている・・・・か。そうかもしれぬな。そうか、仏陀はこの世は無常と説いているのか・・・・・。なるほど、そうだな、その通りだな・・・・・。無常か、無常な・・・・。ふむ、まさしくそうだな。誰もが年をとり・・・・いや、生き物だけではないな。モノも時とともに古くなっていく。作り出したものでさえ、時ともに滅んでいくな。それは・・・・確かだ」
ウデーナ王は、そういうと城を見上げたのだった。
「そう言われればこの城も完成時は黄金に輝いていた。金は、色あせぬとは言うが、どうしてどうして・・・・。いつの間にか、輝きを失いつつある。あれほど白く輝いていた壁も雨や埃でくすんできている。この頑丈な城でさえ、滅びに向かっているのだなぁ・・・・・。そうか、この世に生まれた者は、生まれた時点で滅びに向かっているのだな」
「その通りです、国王よ。おっしゃる通りです」
「何もかもが衰え、滅んでいくことに抵抗はできぬのか」
「それが真理ですから」
「そうか、生まれた者は滅ぶ、これは真理か・・・・。では、逃げることはできぬな」
「そういうことです。同じように・・・・」
「生れた以上、病にも罹る。これも真理だな」
「その通りです。たとえば、作り出されたものでも、故障したり、傷んだりします。それと同じように、人間の体も、長年使っていれば傷みも生じるでしょう。ましてや、多くの病の種をもとより抱えている身です。身体の中に元々病の種を持っているのです。病気ならないわけがありません。国王といえども、それは平等です」
「おぉ、そうだな。王だから病にならぬとは言えぬな。ということは、神通力をつかうそなたも病には罹るのだな?」
「もちろんです、国王よ。私も・・・否、仏陀世尊ですら病気にはなるのです。肉体を持っている以上、病からは逃げられません。これも真理です」
「そうか、真理か・・・・ならば仕方がないな。受け入れるしかないのだな」
「そうです。同じように・・・・」
「愛するものや、愛着のあるものとも別れるときはくる・・・・。そりゃそうだな。自分が死ねば、否が応でも別れることになるからな。なるほど、厭な相手と出会うことも、思うようにならぬことがあるのも、手に入らぬものがあることも、妙に不安になったり、イライラしたり、身体が妙に興奮したりすることも・・・・誰にでも平等にあることなのだな。国王といえども、それは同じなのだな。なるほどなるほど・・・・。そうか、そういうことか。よくわかった。わしは、当たり前のことを当たり前と思えず・・・・否、当たり前のことを当たり前と認めることを拒んでいたのだな。ふむ、よくわかった。ビンドーラ、汝のおかげで救われたぞ」
「いえいえ、私のおかげではありません。こうした教えを説いているのは、仏陀世尊です。世尊に出会わなかったら、私も国王同様に、悩み苦しんでいたことでしょう」
「そうか、そうだな・・・・。その仏陀世尊はどこにいらっしゃるのだ。いやなに、妃もな、会いたがっているのだ。それに、わしももっと話が聞きたいのだ」
「世尊は、この国に滞在しております。コーサラ国からマガダ国へ向かう途中なのです。世尊は、城門の中に入ったすぐの森に滞在しております」
「おぉ、そうか、あの森か・・・。あそこは涼しく、水も豊富ですごしやすい。ふむふむ、できれば長く滞在して欲しいものだ」
「はい、そうは思うのですが、長くはいられないでしょう。マガダ国にも多くの人々が世尊の帰りを待っていますから」
「そうだな・・・・。ビンドーラ、明日にでもわしと妃を世尊に会わせてはくれぬか?」
「もちろん、喜んで御案内いたしましょう」
こうしてウデーナ王と妃は、仏陀のもとへと行くことになった。
「ほっ、よかった・・・・。なんとかうまくいった・・・・」
一人、そうつぶやくビンドーラであった。


90.この世に生まれた理由
ウデーナ王と会ったあと、ビンドーラはにこやかな顔をして仏陀の前に進み出た。
「明日、ウデーナ王と妃がここに来られます」
「なんとか話ができたようだね、ビンドーラ」
「はい、うまくいきました。これで国王の悩みも解消されるかと・・・」
「人の悩みは深いものだ。一時的に解消されたとしても、再び同じことで迷うのが人間だ。頭では理解できても心が伴わないこともある。執着とはそういうものだ」
仏陀はそういうと静かに目を閉じたのだった。ビンドーラは、ウデーナ王を説き伏せたことに有頂天になっていたことを反省した。
(ふむ・・・・世尊の教えは奥が深いな。私はまだまだだなぁ・・・・修行せねば)
「修行に戻ります」
ビンドーラはそういうと一礼をして、自分の修行場所へと戻って行った。

翌日の午後のこと、ウデーナ王と妃が馬車に乗って仏陀たちが滞在している森にやってきた。ウデーナ王の顔には、やや影がさしていた。迎えに出たビンドーラは
「国王様、いかがなされましたか?」
と、すかさず尋ねた。
「あぁ、ビンドーラか・・・・。汝と会ったあとは気持ちがすっきりしていたのだがな、朝起きてみるとなんだかなぁ・・・」
ウデーナ王の答えは、歯切れが悪かった。
(あぁ、まさしく世尊が懸念されていた通りだ。ウデーナ王は、また悩み始めている。いったいどうすればいいのか・・・・)
ビンドーラが黙りこくっているのを見て、妃が助けを出した。
「国王様、ともかくビンドーラに仏陀様のところへ案内してもらいましょう」
「そ、そうですね。さっそく案内いたします」
ビンドーラは救われたのだった。
ウデーナ王と妃が仏陀の前にやってきた。二人は習いの通りに仏陀を礼拝し、正面に座った。
「ようこそおいでくださいました。私が仏陀です。皆の者は世尊と呼んでいます」
「お目にかかれて嬉しく思います。お話はビンドーラから聞いております。また妃は以前より仏陀様の噂を聞き、会いたがっておりました」
ウデーナ王は、穏やかにそう言った。
「お二人の悩みはよくわかっています。ウデーナ王も理屈では分かっていらしゃるでしょう。聡明な方ですから。しかし、人間は理屈だけで生きているのではありません。感情が伴います。頭ではわかっていても心がついていかないこともあります。そんなとき、人はやはり悩み苦しむものなのです」
「おぉ、その通りです。私は・・・・昨日ビンドーラから話を聞いて納得したつもりでした。いえ、今でも理屈は分かっています。確かに世は無常。いつかは滅ぶものです。いつか失うものです。国王の座も、この若い肉体も、このよく通る声も、他国にも及んだ才能も・・・・いずれは枯渇することでしょう。だから、それに執着してはならぬ、そんなことを悩む必要はない、悩むことではない・・・・それは分かっているのですよ。いや、よくわかったのですよ。しかし・・・、なんというか・・・・気持ちが伴わない。今朝起きてからも食欲がない。つまらない。元気が出ない。すべて無常ならば、何もしなくていいじゃないか、いや好きなことをしているだけでいいじゃないか、なにも国王の座にいることはないじゃないか、コーサラ国に国がとられてもいいじゃないか、どうでもいいじゃないか、という考えが浮かんでくるのです。これではいけない、国王たるもの、そんなことではいけない・・・・と否定し続けているのですが・・・。どうせ私も死ぬのなら好き放題すればいい、という考えが頭から離れなくなってきたのです。私はいったいどうすればいいのでしょう・・・・・」
ウデーナ王は、肩を落とし、うつむいてしまったのだった。

「国王よ、あなたは何が望みなのですか?」
仏陀はやさしく尋ねた。国王は顔を上げ、考え込んだ。
「何が望みか・・・・私は何を望んでいるのか・・・・・」
「毎日、女性と戯れ酒におぼれることですか?」
「いや・・・そんなことをしても私の心は晴れぬ・・・。酔いがさめれば同じこと。虚しいだけだ」
「地位や名声が永遠に続くことですか?」
「う〜ん・・・・、それも違います。地位や名声がいくらあっても・・・・この虚しさは埋められないでしょう」
「命が永遠に続くことですか?」
「いやいや、それは・・・・長生きはしたいが・・・いや、老いぼれの醜態をさらすくらいならば、元気なうちに亡くなったほうがいい。だから、それも違いますなぁ・・・」
「お金がたくさん欲しい?」
「今もたくさん持っていますから。それにいくら金を使っても同じことです。欲しいものを手に入れた途端、もう別のものが欲しくなっている。せっかく手に入れたものには、興味がなくなっている。同じことの繰り返しです。きりがない。そんなことでは、この虚しさは・・・・・埋まらない」
「皆があなたのことを讃えてくれることですか?」
「もうそんなことはいいです。ときに国王の座とは疲れるものです。そんなことは望んではいない」
「では、何を望んでいるのです?」
「何を望んでいるか・・・・・」
国王は、小声で「あれか・・・いや違う、ではこれか・・・それも違う」などと呟きながら深く考え始めたのだった。

森は静かだった。誰も何も言わなかった。いつの間にかウデーナ王のつぶやきもなくなっていた。彼は眼を閉じ、深い深い瞑想状態に入っていたのだった。
そしてしばらくしたとき、国王はふと眼を開けた。
「これだ・・・・これだ、私の望んでいるものは、まさにこの状態だ」
「わかったようですね」
「はい、私が望んでいるのは、この心地よい安心感です。今、私はふと感じたのです。仏陀の御前にいることは、なんと安心感があるのだろうと・・・・。それで分かったのです。私が欲しているものは、安心なのです。心の安らぎなのです。穏やかな心の状態なのです」
「あなたには安心がないのですね」
「はい、毎日が不安なのです。いや、不安でした。失うことが・・・・国王の座・若さ・健康・手に入れたもの・才能・・・・それらが失われていくことが不安でした。しかし、昨日ビンドーラから話を聞き、誰もが失っていくことを知りました。この世は無常です。生きとし生けるものが、生まれた時から死へと向かっています。しかし、生き者は、特に人間は、成長していくうえで様々なものを手に入れます。それは望むと望まないとに関わらず、です。が、いったん手に入れたものは失いたくないのが人間です。しかし、失わねばならない。それが自然の成り行きである・・・・。私は理解した。だから、そうした不安は、とりあえずなくなった。にもかかわらず、心が晴れない。なぜだろうか・・・・。よくよく考えてみれば簡単なことだったのです。それは恐怖があるからです。不安が消えたわけではなかった。根底にある恐怖心がなくならない限り、私の不安は解消されないのです。そう・・・恐怖なのです。失うことは当たり前でも、そこには恐怖心が伴うのです。この恐怖心はどうしようもないのですよ。そして、そんな恐怖を味わいながら生きることに何の意味があるのか、なぜ生まれて来なければいけなかったのか、あまりにも虚しいではないか、と思うようになってきたのです。私は、失う恐怖と生きる虚しさにさいなまれているのです。願わくば・・・この恐怖を取り除いて、生きる意味を教えていただきたい・・・・」
ウデーナ王は、苦しそうな声でそういったのだった。

「恐怖を乗り越えることは難しいことだ。失うことの恐怖。死を迎える恐怖・・・・。これは誰もが通らねばならない恐怖である。しかし、それを乗り越えることは困難な道であろう。恐怖心を乗り越える方法はただ一つ。心静かにそれを受け入れることだけである。恐怖を受け入ることができれば、恐怖は恐怖でなくなるのだ。その時は、心が静かに落ち着くであろう。ウデーナ王よ、あなたはまだ若い。失うことは大きな恐怖を伴うであろう。しかし、あなたもいずれは失う時が来る。しかし、いまからその時の恐怖を想像し、怯え慄くことはなかろう。あるがままに、あるがように、生きていけばいいのではないか。失う時が来たならば、あなたなら素直に恐怖を受け入れることができよう。すべては自然の流れに任せばよいのだ。それが恐怖を乗り越える方法である」
「自然の流れに任せる・・・・」
「そうだ。雲が流れるように、水が高きより低きに流れるように、時の流れに逆らわず、自然に、あるがままに生きればいい。それが恐怖を取り除くであろう。何も、この世は無常であるから失われていっても仕方がないのだ、と自分に無理やりに言い聞かす必要はないのだ。あるべきように、あるがままに生きれば、何も怖くはない」
「あるべきように、あるがままに・・・・あぁ、なるほど・・・。私は私の考えにとらわれていたのですね。あぁ、なんと愚かな・・・・。私は目にしてもいない恐怖を勝手に作り出し、その陰に怯えていただけなのですね。あぁ、わかりました。なるほど・・・・あるがままに、流れるように、時に身を任せればいいのだ。あぁ、恐怖心から私は解放された」
「これで安心できますね」
「はい、もしまた恐怖心がわいてきたら、あるがまま、自然に生きる・・・と唱えます。あぁ、そうだ。毎日、部下や家臣にこの言葉を言わせよう。うん、それがいい」
国王の顔はにこやかになっていたのだった。

「もう一つ。生きる意味です。それについて話しましょう」
仏陀の言葉に、国王は座りなおしたのだった。
「人が生きる意味はなんでしょうか?。これは難しい悩みです。何のために生きるのか。やがて死を迎えるのに、何故生まれてきたのか」
ウデーナ王をはじめ、妃や供の家臣、さらには仏陀の弟子たちも静かに聞き入っていた。
「はるか昔、何億劫年も前のころ、生命は自然の中から誕生しました。それは何の意思もなく、何の前触れもなく、そこに植物があるように、そこに石があるように、そこに川があるように、そこに泉があるように、そこに陸があるように、そこに海があるように、自然に生まれてきたのです。
やがて時は流れ、生命は知能を持ち始めます。そしてその生命は人となったのです。しかし、そのころの人は善そのものでした。悪は含まれていなかった。やがて、一人のものが死を迎えました。知能を持った人間の初めての死です。動かなくなった人を見て、残った人々は思いました。
『なぜ動かなくなるのか。やがて動かなくなるのなら、好きなことをしたほうがいいのではないか』
こうして人びとは欲望を手に入れたのです。欲望はますます膨らみ、怠惰を生みました。怠惰は、他から暴力で奪うことを生みました。逆らうものは死に至らしめればよいという欲も生まれました。人びとは、罪を犯すようになったのです。しかし、そうした罪を犯すものも死を迎えます。死を迎えた者はどこへ行くのか・・・・。初めて死を迎えた者はまったくの善であったため、神となりました。その次の死を迎えた者も罪がほとんどなかったため神となりました。こうしてしばらくの内は神ばかりだったのですが、罪を犯した者が死を迎えたことによって、その罪に見あった場所を造ることになりました。それが地獄です。やがて、罪にあう世界が細かく作られるようになりました。地獄の上に餓鬼の世界、その上に畜生の世界、その上に修羅の世界、そして人間の世界、その上に神々の世界です。そうした話は、皆さんよくご存じでしょう。バラモン教の聖典に説かれていることです。
さて、ウデーナ王よ。あなたは地獄へ行きたいでしょうか?」
仏陀は、ウデーナ王を見つめ尋ねた。ウデーナ王は、即座に
「嫌です。そんな世界が本当にあるのかどうか知りませんが、なかったとしても地獄へ行きたいか、と尋ねられればいいえと答えるでしょう。できれば、私は神々の住まう世界へ行きたい」
「いい答えです。ウデーナ王、あなたは聡明な方です。同じように、誰もが地獄へは行きたくない、と答えるでしょう。できれば神々の世界へ生まれ変わりたい、と。
では、もう一つ尋ねましょう。ウデーナ王、あなたはなぜ人間界へ生まれてきたのか?」
「なぜ人間界へ生まれてきたのか・・・・・」
ウデーナ王は、首をかしげて考え始めたのだった。


91.ウデーナ王の帰依
ウデーナ王はしばし考え込んでいた。
「なぜ人間に生まれたのか・・・・。う〜ん・・・・」
しかし、いくら考えても答えは出て来なかった。
「世尊・・・・いくら考えても分かりません。ただ・・・きっと、この世に人間として生まれてきた理由はあるに違いない、ということだけは分かります」
ウデーナ王は、素直にそう答えたのだった。
「いい答えです、ウデーナ王。この世に生まれてきた理由がある、ということが理解できることが、まずは大事なのです。それを認めない人・・・・この世に生まれてきた理由などない・・・・と言う人もいるのです」
仏陀は満足げにそう答えた。そして、話を続けたのだった。
「この世に生まれた理由・・・・それはこの世に生まれる原因があるからです。その原因とは如何なるものか・・・。それを考える前に、人はこの世に何のために生まれたのか、それを考えたほうが分かりやすいでしょう。ウデーナ王よ、あなたはこの世に、何のために生まれてきたのでしょうか」
「またまた難しい質問ですな・・・・。何のために生まれたのか・・・・。楽しむため?・・・・いや、それだけではないな・・・・。苦しむため?・・・でもなかろう。仕事をするため?、いやいや・・・そうだな、人は生まれてきて、色々な教育受ける。いや、身分によっては、子供のうちから働かなければならない。身分によっては、贅沢な暮しをする子供もいるなぁ・・・。やがて、大人になり、仕事をし、結婚して家庭を持つ。そして子を生み、育て、やがては死んでいく・・・。それは身分に関係なく共通していることだな・・・・。さて、そんな人生に目的などあるのだろうか。仕事をするために生まれたのか、子孫を残すために生まれたのか・・・・。寝て、食べて、働いて、家族を養い、子を生み、育て、死んでいく・・・・。あぁ、人の人生なんて、なんて簡単なものだ。なんて単純なものなのだろう。そうか・・・、私は何を考え込んでいたのか。そうか、人はこの世に、働くために生まれ、子を為すために生まれ、子を育てるために生まれ、そして死ぬために生まれたのですね。あぁ、なんと簡単なことなのだ。それ以上でもそれ以下でもないのだ」
ウデーナ王は、明るい顔でそう言った。
「王よ、その通りです。人は、この世に生まれたならば、働かねばなりません。それは周囲の人々に対し、施しをすることであるのです。働くことにより、多くの人々の役に立っているのです。どんな仕事であれ、働くことができれば、それは周囲の人々に施しをしていることになるのです。収入があろうが無かろうが、どんな種類の仕事であろうが、たとえ身体で働かなくとも、たとえ知恵だけで働くことであっても、それは周囲の人々へ施しになるのです。人は、働くために生まれてきたのです。つまりそれは、周囲の人々へ施しをするために生まれてきたのです。
人は子を為し、子を育て、子孫を未来へ残すために生まれてきたのです。それはすべての生き物を見ればわかるでしょう。どんな生き物であれ、この世に生まれた以上は、子孫を残そうとします。命をつないでいこうとします。そうして命をつないだならば、死を迎えるのです。すなわち、人は死ぬために生まれてきたのです。
では、なぜわざわざ死ぬために生まれねばならないのか。
それは、人々に施しをしなければいけないからです。つまり、前世において、多くの人々のおかげで生きていたから、そのお返しをしなければいけないのです。恩を受けたから、そのお礼に生まれてきたのです。前世で受けた恩をすべてきれいにお返しできれば、もうこの世に生まれてくることはないでしょう。この世に生まれてくる必要はなくなるのです」
「おぉ、なるほど・・・・。ならば、人々のために尽くせば、もうこの世に生まれなくてもいいのだ」
ウデーナ王は、明るい声でそう言った。

「ところが、そんなに簡単にはいかないのです」
仏陀の声はウデーナ王に反し、重いものだった。
「なぜなら、人には欲望があるからです。
人は恩返しだけをする存在ではありません。生まれてすぐに親の恩を受けてしまいます。親が自分を育てた恩ですね。それは、やがて親が働くことができなくなったときに、返すことができます。親から受けた恩はこの世で返すことが可能なのです。しかし、生きていくうえで、周囲の人々から受けた恩は、すぐに返せない場合もあります。また、己の欲望のために、周囲の人々に迷惑をかけてしまう場合もあります。その迷惑も小さなものならば、この世で謝罪し許しを請うこともできましょうが、大きなものとなると許されないこともあります。この世で清算できない罪もある、ということですね。同じように、この世でお返しできない恩もあるのです。
人は、前世で受けた恩を返しにこの世に生れてきます。同時に、前世で犯した罪の清算も行うのです。そのために生まれてきたのです。
ところが、人は欲望があるために、また周囲の人々から恩を受けることとなり、あるいは、周囲の人々に迷惑をかけ罪を犯すことになるのです」
仏陀がそこまで言うと、
「そ、それでは・・・・いつまでったっても・・・・終わらないではありませんか」
とウデーナ王がひきつったような声で言った。
「そう、それが輪廻です。欲望が強く、犯した罪が大きければ、地獄へ行くこともあろうし、昆虫に生まれ変わることもありましょう。たとえば、ある国にこんな王女がいました」
そういうと、仏陀は、遠くを見つめるような眼をしたのだった。

「ある国にそれはそれは美しい王女がいました。国王は、その王女を深く深く愛しておりました。王女に生まれてくるくらいですから、きっと前世において大きな善行をし、徳を積んだのでしょう。しかし、王女という立場にある現世では、多くの人々の世話になり生きていました。つまり、多くの恩を受けたわけです。しかも、自らの美しさを誇り、醜いもの、汚れたものを徹底的に嫌いました。たとえば、自分がした大便も下女に始末をさせたくらいです。当然、下女たちも醜い容姿の者を避け、見栄えのいい者だけを周囲におきました。また、己が汚れるという理由から、街へ行くことは少なく、老人などを見かけた場合などは、自分の目を清らかな水で何度も洗うほどでした。
そんな王女が、若くして亡くなってしまったのです。国王は、泣き暮らしました。あのような美しい王女はいない、王女に会いたい・・・・と毎日泣いて暮らしていたのです。そのため、国の政治は滞り、国民は困ってしまいました。
それを見かねた宰相は、ある仙人に相談をします。すると仙人は、宮殿にやってきました。そして、国王に
『王女に合わせてあげましょう』
と言ったのです。国王は喜びました。早く王女に合わせて欲しい、と懇願しました。仙人は、王女の名を呼びます。すると・・・。
なんと一匹の糞転がしが飛んできたのです。仙人は『わしの神通力で、この糞転がしの思いが伝わるようにしましょう』と言いました。そうすると、国王をはじめ、宮殿にいわせた者たちに糞転がしの声が聞こえてきたのです。
『私はこの国の王女でした。それはそれは美しい王女でした。しかし、醜い者や汚いものを嫌った罪により、このようなみじめな姿になってしまいました。せっかく、前世において徳を積み、美しい姿に生まれたにもかかわらず、己の欲望に負け、周囲の人々を不幸にしてしまいました。また、多くの人々の世話を受けてしまったのです。さらには、そうした恩に対し、お返しをすることもなく、感謝をすることもなく、ただただ威張り散らし、汚いものを避け、醜いものを卑下し、老人を嫌い、身分の低いものを毛嫌いし、下女に大便の始末をさせ、それを当然としていたのです。そのために、このような姿になってしまったのです。
国王様、いいえ、ここに集う人々よ。この世に生まれたのは、前世においてそれだけの徳を積んだから。また、前世において、多くの人々のおかげを貰いその恩返しをする必要があるから。そして、前世で清算できなかった罪を清算する必要があるから、だからこの世に生まれたのです。国王様、泣いてばかりいないで、国民のために、国民が楽に生活できるように、国を治めてください。それが、国王様がしなければならない恩返しです。そしてそれが罪の清算でもあるのです。糞転がしの心の声を聞いた国王は、目が覚めたのです」

仏陀がそこまで話をすると、ウデーナ王は大きくうなずいて言った。
「わかりました世尊。ありがとうございます。私が王として生まれてきたのも、理由があるのでしょう。それがどんな理由であろうが、そのこと自体は関係はありません。どんな理由であろうと、私は国王に生まれてきたのです。ならば、私は国王としてしなければならないことをするだけなのですね。国王の責務は重大です。国民が平和で安楽に暮していけるようにしなければなりません。ということは、私は、私の国の民に恩返しをすることと同義なのですね。きっと、私は前世において、この国の人々に大きな大きなおかげを頂いているのでしょう。だからこそ、国民に、恩返しをしなければいけないのです。また、おそらくは、何らかの罪も犯しているでしょうから、その清算もしなければならないのでしょう。
分かりました世尊。私は自分のことばかりを考えていました。自分の行く末ばかりを考えていました。なんと愚かなことか。私にはもっとやるべき大事なことがあったのです。悩んでいる暇などありません」
「ウデーナ王よ、よく理解しました。その通りです。あなたはあなたのやるべきことを実行するべきなのです。あなたが王であるというというのなら、国民が幸せに生きられるよう、国を治めることが大事なのです」
「しかし、世尊。私は、実は心の弱い人間なのです。今は、こうしてやる気になっていますが、どこでまた己の欲望に負けるときが来るかもしれません。その時は、私を導きください。できれば、長く・・・いや、ずーっとここに滞在していただくわけには・・・・いきませんな。それは間違った欲望ですな。世尊の話は、多くの人々に聞いていただいたほうがいいですから・・・・」
そういうと、ウデーナ王は、少し寂しそうに笑ったのだった。
「そうですね、私も一か所に留まることができません。しかし、またこの地を訪れるときがくるでしょう。その時は、またお会いしましょう」
仏陀は静かにそう言ったのだった。

「さて、王妃よ、国王の目は覚めました。あなたが望んでおられたのは、このことであったのでしょう」
仏陀は、王妃の方を向いてそういった。ウデーナ王は、驚いて王妃を見つめた。
「な、なんだ、そうだったのか。このところ、仏陀様仏陀様、と言い続けていたのは、わしの心配をしていたからなのか・・・・」
「えぇ、そうですよ国王様。あなたがここしばらく悩んでいたから・・・・。でもね、私は噂を聞いて、すぐに仏陀様のことを信じたのです」
「噂とは・・・・?」
「マガダ国の王ビンビサーラ王が信じられた方がいる、ビンビサーラ王が毎日のように教えを聞いている聖者がいる、という噂です。あの若くして名君と言われたビンビサーラ王が信じている聖者ならば、本物に違いないと・・・。そこで、私は下女たちに頼んで、その聖者に関する話を集めたのです」
「それが・・・・」
「そう仏陀様でした。私が思っていた通りの方でした。仏陀様は存在したのです。伝説の聖者、仏陀様がついにこの世に現れたのです。私の憂いも、今日、この場できれいに晴れました。ありがとうございます。今後も、仏陀様に帰依致します」
そういうと、王妃は深々と仏陀を礼拝したのだった。それを見たウデーナ王もあわてて
「世尊に帰依致します」
と礼拝したのだった。
「お二人とも、精進されるよう・・・」
仏陀はそういうと、かすかにほほ笑んだのであった。


92.計略
「世尊・・・・できれば、この地にできるだけ長く滞在していただきたいのですが・・・・」
ウデーナ王は、少し言いにくそうにそう申し出た。
「王よ、王の申し出はありがたいが、そういうわけにはいかない。私は明日の朝、マガダ国へ向かって出発するつもりだ。道中、なるべく多くの人々に教えを説いていくことも必要なのだ。この世は病んでいる。この世に生きる人々も病んでいる。心が病んでいるのだ。私はその病を癒す術を知っている。それを説かねばならぬのだ。王よ、どうか理解していただきたい」
そのとき、妃が王に向かって言った。
「国王様、世尊に御無理を言ってはなりません。世尊の教えは私たちの心の中にあるではないですか。それに・・・・」
「それに?」
国王は、妃の方を向いて聞いた。
「それに・・・世尊はマガダ国へ帰っても、またコーサラ国へ来られます。幸い我が国はその近くにあります。また立ち寄っていただけます」
妃がそういうと、仏陀はうなずき、
「その通りだ。私はまたこの地を訪れるであろう。コーサラ国へは、今後何度も来なければならない。私たち修行者は、マガダ国とコーサラ国の間を行き来することになるのだ」
というと、弟子たちの方を向いて言った。
「汝ら修行者よ、怠ってはならない。旅をするにせよ、精舎に残るにせよ、いつでも修行である。怠ることなきよう、精進せよ」
仏陀の言葉に弟子たちは大きくうなずいたのであった。
ウデーナ王と妃は、別れを惜しみつつ帰城した。明日、仏陀が旅立つところを見送る約束をして。

ウデーナ王らが帰った後、仏陀はビンドーラを呼んだ。
「ビンドーラよ、今回はうまく事が運んだから良しとするが、あまり神通力を使用するのはどうであろうか?」
「世尊、申し訳ありません。ついつい、安楽な方法をとってしまいました。今後は、もう少し慎重にいたします」
「そのほうがよかろう。汝は・・・・少々、やり過ぎの傾向がある。調子に乗って我を忘れぬようにせよ。神通力は、人々を救うため、やむを得ない場合のみに使うようにしなさい」
「はい、わかりました・・・・」
ビンドーラは、深く頭を下げると、そそくさと自分の修行場所へと戻っていった。仏陀は、その後ろ姿を憐みのこもった眼で見つめていたのだった。

翌朝のこと、ウデーナ王と妃は、多くの従者を引き連れ仏陀の旅立ちを見送った。ウデーナ王は、得意の琴を奏でた。仏陀はうなずき、優しくウデーナ王を見てほほ笑んだ。
「国王よ、世話になりました。また、再びこの地を訪れることを約束しましょう。また、どうしても迷いから抜け出せなくなったなら、コーサラ国の祇園精舎に悟りを得た弟子が残っております。その者を呼ばれるがいいでしょう。この地にも若干の弟子を残していきたいのですが、まだまだ自立できる弟子たちがおりません。彼らも修行の途中なのです。残念なことなのですが・・・」
「お気遣い、ありがとうございます。できればビンドーラを残していただきたかったが・・・・。次に来られるまでには、立派な精舎を造っておきましょう。できるだけ長く滞在していただけるように」
ウデーナ王は、仏陀にそう約束したのであった。
こうして、仏陀たち一行は、マガダ国へと向けて出発したのだった。

一方、ヒマラヤの山中では、アーナンダとダイバダッタがバツヤヒッタ尊者のもとで修業に明け暮れていた。しかし、修行と言っても教えを受けていたわけではなく、村へ行っての托鉢や水くみ、便所の掃除、修行小屋の掃除など、ほとんどが下働きの毎日であった。
バツヤヒッタ尊者は、毎日必ず修行している小屋から少し離れた場所へ山を登っていた。それは早朝のことだった。ある日の午後のこと、ダイバダッタが尊者に尋ねた。
「尊者様。尊者様は毎朝どちらへ行かれているのですか?。まさか村へ行っておられる・・・」
「バカモノ、わしが村へ行くのは托鉢のときだけじゃ。毎朝わしが行くのは・・・そうじゃな、そろそろ教えておいてもよかろう。これから行ってみるか」
尊者はそういうと、そそくさと小屋を出ていったのだった。ダイバダッタとアーナンダはそのあとに続いた。
「ここを毎日登っておる」
尊者が指さした方は、鋭い崖であった。かろうじて人が一人通れるだけの道があった。その道を一歩踏みはずせば、下は断崖絶壁であったのだ。
「こ、こんな危険なところを・・・」
アーナンダは思わず叫んでいた。
「いやいや、修行が進めば何のことはない。わしは神通力が使えん。しかし、その分、足腰は丈夫じゃ。なぜなら、毎朝ここを登っているからじゃ。こんなことができるのも一種の神通力じゃな、あはははは」
尊者は豪快に笑ったが、ダイバダッタもアーナンダも、笑うことはなかった。
(何言ってやがる。何が神通力だ。あきれてものが言えぬわ・・・。まさか、こんなところを俺たちにも登れというんじゃなかろうな)
ダイバダッタは心の中で毒づきながら、崖を這うように続いている細い参道を眺めた。その途中には足場となるちょっとした石があちこちにある。ダイバダッタの目はその石の一つにとまった。
(あの石・・・・危険だな。崩れかかっているぞ。もし、あんな石に足をかけたなら・・・・うん?、そうか、なるほど・・・・、ふふふふふ、運が向いてきたようだ)
「尊者様、あの・・・私たちもこの崖を登る修行をできるのでしょうか?」
「う〜ん、そうじゃのう・・・、ダイバダッタはできそうじゃが、アーナンダ、お前にはまだ無理だな・・・・」
そう言われたアーナンダは内心ほっとしながらも、
「そ、そうですか、まだ無理ですか・・・・」
とボソボソと答えていた。それがさも残念そうに尊者の耳には響いた。
「そうじゃの、もう少し修行が必要じゃな。水くみを頑張ることじゃ。ダイバダッタは、明日からでも大丈夫じゃな」
「それは嬉しいです。修行に励みます。しかし、本当に危険ではないのですか?。こんな細い道しかないですよ。しかも、足場となる場所は、あんな小さな石があるだけです。あの石を頼りにこの道を登れるのでしょうか?」
「なに、心配はいらぬ。あちこちに見えているあれらの石は小さくは見えるが、実際はもっと大きな石で、山肌の中の方まで入り込んでいるのじゃ。眼に見えているのはほんの少しの部分じゃよ。人間も同じじゃな。表面に出ているのはほんの少しの部分で、内面の奥深いところまでは分からぬものじゃ。よくよく観察して、相手を見なければいけない。相手の内面が分かるようになるまでには、長い年月がかかる。山も同じじゃよ。表面ばかり見ていては、山は理解できぬ。だから足をかけても平気なんじゃ。まあ、わしについてくるがいい」
その言葉を聞いてダイバダッタは感心するふりをしながらも
(ふふふ、よくわかってるじゃないか。そうさ、人間の内面なんて誰にもわからない。修行者と威張っているあんたにもな。あんたの眼が節穴で助かったよ。ふふふふ)
とほくそ笑んでいたのであった。
翌朝からダイバダッタも崖の細道を登ることとなった。アーナンダは、その間に水を汲むことにした。山から帰ると村へ托鉢に出かけた。
「毎日毎日、修行者は大変だねぇ。あんな上の方から村まで下りてくるんだからねぇ」
村人たちは毎日同じことを言った。それが一種のあいさつの言葉になっていたのだ。そのたびに、ダイバダッタは
「毎日、足腰鍛えていますから大丈夫なんですよ」
と答えていた。が、しかし、崖の細道を登るようになってからは、ひとこと付け加えていたのだった。
「いえいえ、実はね、尊者も私も、さらに上の崖を上っているんですよ。修行だと尊者がおっしゃってます。やっと私もその修行をさせてもらえるようになりました。ほら、あの崖です」
そういってダイバダッタは、崖の方を指さしたのだった。それを見て村人の誰しもが
「あ、あんな崖を?。危険じゃないのかね?」
と驚いて尋ねたのだった。その度にダイバダッタは、心配そうな顔をして言ったのだった。
「えぇ、危険かもしれません。危険だと思います。足場が少なくて・・・・。石が一つでも崩れたら、尊者も私も真っ逆さまです。尊者は修行ができているから助かるでしょうけど、私たちはまだまだ修行が足りないので・・・・」
と。その言葉に、村人たちは心配そうに
「あんたも大変だねぇ・・・・」
と、同情したのだった。

それから一週間ほどのちの、ある早朝のことだった。
「た、大変です、大変です・・・・助けてください!」
とアーナンダが村へ駆け込んできたのだった。
「どうしたんだね?」
村人たちが集まってきた。
「そ、尊者と兄が・・・・崖下に落ちてしまって・・・・」
アーナンダは、そういうと倒れこんでしまったのだった。
「な、なんだと?、尊者とダイバダッタさんが?・・・こりゃ大変だ!。お、おい、みんな行ってみよう」
村人たちは、アーナンダに肩を貸して立ち上がらせ、修行小屋の方へと向かったのだった。
修行小屋には、ダイバダッタが倒れこんでいた。あちこちから出血していた。尊者は・・・その姿は見えなかった。
「いったい何があったのかね?。ダイバダッタさん、話せるかね?」
村人の一人が尋ねた。ダイバダッタは、起き上がろうとしたが、
「う、うぅぅ・・・・」
と唸り、倒れこんだ。
「いや、無理しなくてもいい、起き上がらなくてもいいから・・・そのままで話をしてくれないか?」
「あう、すみません・・・、わ、私の修行が・・・・・もっと・・・・できていれば・・・・・」
ダイバダッタは、そういうと泣き崩れたのだった。

ダイバダッタの話によると、その日も尊者とダイバダッタは崖の細道を登っていたのだった。行きは何事もなく登ることができた。しかし、帰りのことだった。足場にしていた石が、一か所だけ崩れてしまったのだ。先に下りていたのは尊者だった。尊者は、いつもかけている足場の石にいつものように足を乗せて踏ん張った。その瞬間、その石は崩れ、尊者ごと崖を落ちていったのだった。
「私はあわてて、駆け寄ろうとしました。尊者を助けねば・・・・と思ったのです。しかし、私も滑ってしまい・・・・。かろうじて、石の出っ張りにつかまって・・・そのあと、なんとか這い上がることができました・・・。しかし・・・・尊者は・・・・」
「そうか、それでそんな怪我を・・・。わかった。誰かダイバダッタの怪我の手当てを・・・。ダイバダッタ・・・、君が悪いんじゃない。これは不幸な事故だ。気に病んではいけない。なあ、みんなもそう思うだろ」
村人たちは、ダイバダッタに同情の目を向けた。
「あんたも大変だねぇ。尊者様は確かに偉い人だったけど・・・ねぇ・・・・」
手当をしながら、村人はダイバダッタの不運をかわいそうに思ったのだった。
その後、村人たちは尊者が落ちた現場を確認に行った。
「よくまあ、こんなところを登ったものだ。これじゃあ、いつ事故が起きても仕方かがないな。あぁ、尊者様の姿は・・・・わからないなぁ・・・・」
アーナンダは、
「私たちも初めはこの道を登ることはやめましょう、と言ったのですが・・・・。長年の習慣だし、修行だからといって・・・」
とボソボソと言った。
「いやいや、あんたたちのせいじゃないさ。尊者様はあれでなかなか頑固だったからなぁ」
「そうだそうだ。村の近くにも決して来なかったし。頑固で偏屈なところがあったからのう・・・」
村人たちは口々に、尊者の頑固さを責め、アーナンダやダイバダッタを庇ったのだった。
修行小屋に戻った村人たちは、ダイバダッタとアーナンダに尋ねた。
「こんなときになんだが・・・・、あんたたちこれからどうするね?」
その言葉にアーナンダもダイバダッタも驚いた様子を見せた。
「まあ、怪我しているうちは動けないが・・・尊者様もいなくなったのだから・・・・」
「あんたら、まだ修行ができてないんじゃないのか?」
「なんていうかねぇ・・・こんな山の中で、ちゃんとした修行ってできるのかい?。その・・・いまさら何だが・・・・もっと言い指導者のもとで修業したほうがいいのではないかと・・・・」
村人たちは今まで思っていたことを言いだし始めた。
「何でも巷じゃあ、仏陀様が出現されたとか、そんな噂だよ。ここで修業していても、毎日水くみとここの掃除と托鉢で終わってしまうだろうに」
「ちゃんとした教えを学んだほうがいいんじゃないかね?」
村人たちは、二人の心配をしていたのだった。彼らの言葉に、困った表情を浮かべたダイバダッタだが
(思った通りだ・・・・。怪我した甲斐があったというものだ)
と内心では喜んでいたのだった。


93.悪の芽
村人たちの言葉に、ダイバダッタは悲しそうな声で言った。
「な、何も今そのようなことを・・・・。それにバツヤヒッタ尊者も仏陀様の弟子です。ですから・・・・」
「そうなのか・・・・。しかしなぁ・・・。あんたら若いのだし・・・。なにも今すぐにというわけではないのだよ。怪我が治ってからでいいが、いい若い者がこんな山奥に引っ込んで修行はないだろう。ちまたに聞く仏陀はものすごい神通力を持った方だそうだ。バツヤヒッタ尊者もその弟子だったのは知らなかったが・・・・その、あの尊者は・・・悪い人ではなったが、そんな神通力なんぞ使えるような・・・・あぁ、尊者が亡くなったばかりでこんなことを言うのは不謹慎だったかなぁ・・・・」
「いえ、皆さんの気持ちはよくわかります。そうですね、ここで兄と二人で過ごすのも・・・・問題です。ちゃんとした修行ができないのは目に見えています。師もいません。落ち着いたら、皆さんのおっしゃる通りにいたします」
ダイバダッタは、横になりながらもしおらしくそう言ったのだった。村人たちは
「何も君たちを追いだそうとか、邪魔だとか言ってるわけではないのだよ」
と言い訳をしていたが、やがて話もなくなり帰って行ったのだった。修行小屋にはダイバダッタとアーナンダだけになった。
「うまくいっただろ、兄さん」
「ダ、ダイバダッタ、お前・・・・」
「そんな顔をするなよ。怪我なんて大したことはない。こんなの10日もすればきれいに治るさ。大袈裟に見せただけだ。もともと貧しい村だ。村人も毎日のように托鉢に来られたのではかなわないだろう。迷惑なんだよ、俺たちの存在が」
「そ、そんな・・・」
「尊者一人なら何とかなったろう。しかし、若者二人を面倒見るのは・・・ということなのだよ。神通力でも使えて、村人の役に立つって言うのなら話は別だろうけどね。・・・・そんなことは、初めから気付いていたさ。托鉢に出て、村人の反応を見ていればすぐにわかる。気付いていなかったのは、兄さんと尊者だけだよ。くっくっく・・・・」
「そうだったのか。それで・・・・・」
「言っておくが、尊者は本当に自分で落ちていったんだ。俺が落としたんじゃない。村人に言ったことで違うのは、俺が助けに行ったかどうか、ということだけさ。あんな崖下、助けに行けるわけがない」
そういってダイバダッタは起き上がった。
「もうすぐだ。もうすぐここから出られる。向かうはマガダ国だ」
ダイバダッタはそういってほくそ笑んだのだった。

一方、仏陀たち一行はマガダ国に向かって順調に旅をしていた。立ち寄った村々では仏陀を大歓迎したのだった。どの村も仏陀の長期の滞在を願ったが、
「また訪れることになるであろう。その時はゆっくり滞在しよう。今は、マガダ国へ帰らねばならぬので・・・」
と仏陀が丁重に断ったのだった。
そうして、コーサラ国を去って以来、約一カ月余りをかけて仏陀たちはマガダ国の竹林精舎へと戻ってきたのだった。
翌日、さっそくビンビサーラ国王が竹林精舎を訪れた。
「マガダ国に戻ったばかりでお疲れであろうと思うが、明日はぜひ宮中にて食事の接待をいたしたいのですが・・・・」
ビンビサーラ国王は、そう願い出た。国王はあわてているようであった。
「それはまた急なことですね。何かあったのでしょうか?」
「実は妃が懐妊しまして」
「それは喜ばしい」
「そうなのです。待望の懐妊なので、ぜひ世尊にも祝っていただきたく・・・・。あぁ、こういうのは不謹慎ですか・・・。世尊は、バラモンではありませんからね。こんな頼みをしてはいけなかったですね」
「いえ、国王よ、申し出は引き受けましょう。子は世の宝です。国が長く平和に治まるのも、よき後継ぎがあればこそです。明日は、宮中に向かいましょう」
仏陀は、ビンビサーラ国王の申し出を快く引き受けた。国王は、喜んで城へ戻って行った。その後ろ姿を見送ったあと、仏陀はつぶやいた。
「世は無常だ。避けられぬ災難は、如何なることをしても避けられぬ・・・・。自然の流れに逆らってはならない・・・・」
その顔は寂しそうであった。それを見たシャーリープトラが
「何か不吉なことでもあるのでしょうか」
と尋ねたが、仏陀は何も答えず、深い瞑想に入ってしまったのであった。

翌日のこと、仏陀は主だった弟子を20人ほど連れ、宮中へと向かった。城内では妃の懐妊に、皆が喜びを顕わにしていた。
「とんだ大騒ぎになってしまいました。騒々しいところに来ていただいて、本当に申し訳ないです。さぁ、どうぞこちらへ・・・・」
ビンビサーラ国王自らが仏陀たちを迎え、案内をした。
「さぁ、どうぞ召し上がってください」
用意された料理は、どれも豪華なものばかりであった。
「お祝い事なので、少々派手になってしまいました」
周囲の喧騒とは全く無縁のように、仏陀たちは作法に則って静かに食事をした。そこだけが、別の世界のように静寂であった。
食事を終え、口をすすぎ、身を清めた仏陀は、その場に集まった人たち・・・・国王や宰相、大臣たち・・・を見回し、言った。
「マガダ国にとって、妃の御懐妊は喜び事であろう。しかし、ただ喜んでばかりもいられない。子どもは世の宝である。宝であるからこそ、大切に育てねばならない。が、問題は、その大切に・・・の意味である。それは決して甘やかして育てればいい、と言うものではないのだ。
王子と言う立場・・・・私もかつてはそうであったが・・・・は、周囲が気を遣いすぎてついつい甘やかすことが多くなる。しかし、王子は学ぶべきことがたくさんある。甘やかすばかりがよいことではない。かといって、王子だから強くならねばと、厳しく育てるばかりがよいものでもない。
また王女であれば、我が儘になりがちとなってしまう場合が多い。どうしても周囲の大人たちが、ちやほやし過ぎてしまうからだ。我が儘な王女であれば、他国からも敬遠されがちとなってしまう。
王子にしろ、王女にしろ、厳しくすべきは厳しく、甘くすべきは甘く・・・・。どちらにも偏り過ぎず、常に均等に、ほどよく接しなければならない。
王家の子孫は、何かと周囲から特別な目で見られる。しかも、城内においても世間においても特別扱いをされるであろう。幼きうちからあまりにも特別扱いし過ぎれば、「己は特別な存在であるのだ」という意識が強すぎる子になってしまおう。そうなれば、長じて暴君となったり、鬼女となることもある。
子どもは生まれた時は真っ白だ。善でも悪でもない、全くの無の状態であるのだ。それをいろいろな色に染め上げていくのは、大人の務めである。
明るく清浄なる色に染めるのか、暗くどす黒い色に染めるのか、無感情の冷たい色に染めるのか、暖かく気持ちの良い色に染めるのか・・・・それは周囲の大人によりけりなのだ。
国王や妃はもちろんのこと、教育を担当する大臣や宰相の責任は重くなることを知ってほしい。生まれたばかりの赤子は、まだ何色にも染まっていないことを心得ておいて欲しい。善に染めるのか、悪に染めるのかは、大人なのだ。あなたたちの責任は重いことを自覚して欲しい」
祝いの席であるのに、仏陀の言葉は重いものであった。それはまるで、ビンビサーラの子・・・生まれてくる子・・・が、不吉なのではないかと思わせるような話であった。
「せ、世尊・・・・ひょっとして、この子は・・・私たちの子は・・・・あまり・・・その・・・・」
「そうではないビンビサーラ国王よ。勘違いしてはならぬ。私は子育ての難しさを説いているのだ。どんな子供であれ、生まれてきたときは何ものに染まっていないし、幸でも不幸でもない。無の状態である。それをまっとうに育てることができるかどうかは、大人務めである、と説いているのだ。すなわち、あなたたちの育て方次第で、どのようにも変わっていくのだ、ということなのだ。そこを間違えないようにしていただきたい。新しい命を、大切に育てていって欲しい。そう願っているのですよ」
仏陀の言葉に納得のいったビンビサーラは、涙を流して喜んだ。
「世尊の言葉通りに、大切に育てます。大切とは、決して甘やかすことではなく、悪にそまらぬよう、人々のために尽くせるような人間に育てていきます。教育を担当するものにも、十分に注意しておきましょう」
「それがいいでしょう。・・・・・ひとつ教えておきましょう。妃のお子さんは、王子であろう」
仏陀の予言に、そこにいた国王をはじめとする一同は、歓喜の声をあげた。
「王子ですって?。それは素晴らしい!」
「国王様、やりましたね!。これでマガダ国も安泰だ!」
食事の席は大騒ぎとなってしまった。国王は、さらに仏陀に尋ねた。
「王子は・・・・どのような子供なのでしょうか?」
「なかなか気の難しい王子となろう。よく話をし、理解させることが大事だ。くれぐれも教育には注意を・・・・」
仏陀はそういうと、食事の席を立ったのだった。

宮中を出て、竹林精舎へ向かう仏陀の顔は険しかった。何かを憂いているようにも見えた。精舎に戻り、いつもの位置に仏陀も弟子たちも座った。すかさずシャーリープトラが仏陀に尋ねた。
「如何されましたか世尊・・・。やはり国王の子に何か・・・・」
シャーリープトラの質問に、仏陀はゆっくりと口を開いた。
「まだ何とも言えぬ。できれば避けたいものだが・・・・。しかし、悪の芽が着々と育ち始めているのも事実だ・・・・」
「悪の芽ですか?」
「否、まだ不確実なことだ。皆のものにも言っておこう。未来は決まっているわけではない。先のことはどうなるかわからない。しかし、予測できることもある。もし、その予測できることが禍ならば、その禍ができるだけ小さくなるよう前もって努力することは無駄ではない。また、何が禍のもととなるかをよく考え、それを防ごうとすることは良いことである。禍のもと・・・・それは間違った欲望であり、間違った見解であり、間違った観察である。正しく世間を見て、正しく観察し、正しく考え、正しく行動をすれば、避けられる禍も多くあるのだ。
が、もちろん、避けられぬ禍もある。そうした場合、極力その禍が小さくなるよう努力すべきであろう。修行者よ、汝らの欲望の制御次第で避けられる禍もあるのだ。そのことを忘れぬよう、怠らぬよう、修行せよ」
そういうと、仏陀は再び黙り込んでしまったのだった。

仏陀たちがマガダ国の竹林精舎に戻ったころ、ダイバダッタとアーナンダはようやくヒマラヤの山の村を下りたところだった。
「兄さん、これからは托鉢をしながらの旅となる。頑張ってくれよ」
「大丈夫だ。尊者の元にいた以上に辛いことはないだろうから」
アーナンダは、そういうと苦笑したのだった。こうして、彼らは托鉢をしながらの旅を始めたのだった。
村を出て一ヶ月ほどが過ぎようとしていたころ、ようやく二人はヴァイシャリーの街にたどり着いた。
「兄さん、大丈夫かい?。もうここまできたらマガダ国は近い。このヴァイシャリーの街は修行者には親切な街だと聞いている。ここならゆっくり体を休めることもできよう。ここでしばらく身体を休め、体力をつけてからマガダ国へ向かうこととしよう」
ダイバダッタがアーナンダにそういうと、アーナンダは不思議そうな顔をしてダイバダッタを見て言った。
「どうしたというのだ?。もうすぐそこにマガダ国があるのに、急がないのかい?」
「ここまできたら急ぐ必要はないだろう」
「でも、ここまでは結構、急いできたじゃないか」
アーナンダは疲れていたのだった。なので、愚痴を言いたかったのである。しかし、そんなアーナンダの気持ちには気にもかけず、ダイバダッタは
「道中、ロクな村がなかったからな。だから大きな街まで急いだのさ。ただそれだけだよ。さぁ、城内に入ろうか」
というと、ヴァイシャリーの城門をさっさとくぐったのだった。
二人とも手には托鉢用の鉢以外何も持ってはいなかった。身につけているのは、修行者が身につけている袈裟と下衣。もちろん裸足である。それは仏陀たちと同じ姿であった。
ヴァイシャリーの街の人たちは
「おや、世尊のお弟子さんかい?。世尊なら一ヶ月も前にここに来たが・・・。君たちは遅れているのかい?」
と声をかけてきたのだった。そのたびにダイバダッタは、
「はぁ、少々事情がございまして遅れてしまったのです」
と情けなさそうな顔をして答えた。街の人によると、仏陀たち一行は、一ヶ月ほど前にヴァイシャリーを去ったということだった。
「そうですか、一ヶ月ほど前にここを立ったのですか」
「そうだよ、急いだ方がいいんじゃないかい?」
「いえ、大丈夫です。ここで身体を休めてから竹林精舎へ向かいます」
「弟はちょっと怪我をしていまして・・・」
アーナンダがぼそりと言った。
「身体を休めながら戻ればいいと・・・・世尊からもいわれております」
ダイバダッタは、嘘をついた。
「そういうことですか。ならば、ここヴァイシャリーの街は都合がいい。この街の者は修行者には親切ですからな」
その言葉に
「ありがとうございます」
と礼をするダイバダッタたちであった。


94.ハーラーイー罪
アーナンダとダイバダッタがヴァイシャリーの街に到着したころ、マガダ国の首都ラージャグリハは祭りでにぎわっていた。古くからのバラモン教による祭りである。その上、ビンビサーラ王の妃が懐妊したという噂が街を駆け巡り、祭りは一層盛り上がっていたのだった。
街のそんな喧騒とは全く関係なく、竹林精舎ではいつものように修行が行われたいた。修行者たちは、日の出とともに起き、泉で沐浴をし、托鉢へと出かけて行き、精舎に戻り食事をとり、口をすすぎ、午後からは瞑想や仏陀や長老の指導を仰いでいたのだった。とはいえ、修行者の中には、祭りに浮かれている者もいたのだった。
「はぁ〜、世間は祭りでにぎわっているのに・・・。長老様、私たちも祭り用の御馳走を食べるわけにはいきませんかねぇ」
「何をバカなことを言っているのだ。私たちが求めているものは何だ?。君たちが求めいるものは何だ?。祭りの御馳走を求めているのか?」
「い、いえ・・・、真理に目覚めること、悟りを求めているのです・・・・」
「そうだろ、ならば、祭りに気を取られないでしっかり真実を見つめなさい。祭りなど、ほんの一時の快楽です。祭りが過ぎ去ったあとは虚しいものです」
といったようなやり取りが、そこかしこで見られたのであった。中には、
「祭りの御馳走を托鉢で手に入れたぞ。さぁ、みんなで食べよう」
などと浮かれている者もあったのだった。仏陀は、毎日修行者たちに心を揺るがさないように指導をしたのだった。

托鉢は一人ひとりバラバラで行くのだが、街でよく修行者どうしが出くわすことがある。そんなとき、修行者は目礼をするだけで話をしないのが決まり事であった。とはいえ、多くの修行者がいるので、その決まりが徹底されているわけではなかった。なかには、おしゃべりな者もいたのだ。
その祭りも終わり近づいてきたある日のことであった。その日、珍しいことにモッガラーナとビンドーラが街で一緒になってしまった。
「おや、これはモッガラーナ長老。托鉢は進んでますか?」
「これ、ビンドーラ、托鉢中に話しかけてはならない」
「それをいうならモッガラーナ長老も、今しゃべってしまったではないですか」
「あっ、あぁ・・・。これは一本取られたねぇ。まいった・・・」
「そんなことよりモッガラーナ長老、あれをご覧ください、あれですよ」
「あれは・・・なんだ?。金色に輝いているが・・・・」
ビンドーラが指さしたのは、長い長い竹竿に取り付けられた黄金の鉢だった。
「あれはね、黄金の鉢なんですよ。なんでもラージャグリハ一の大金持ちが、お祭りだからと言って長い長い竹竿に黄金の鉢をくくりつけて、ああやって掲げているんです」
「あんな高いところに鉢を掲げても意味がないじゃないか」
「何を言ってるんですか、モッガラーナ長老。もちろん、手でとれるわけがないじゃないですか。あれはね、聖者に神通力で取れと、そういうことなんですよ」
「神通力で?」
「そうです。このラージャグリハにはたくさんの聖者がいますが、本物の聖者ならば神通力が使えるだろうと、神通力があるならこんな高い場所にある黄金の鉢もとれるだろうと、そういってるんですよ」
「なるほど・・・。で、あれをとった者にはそのまま鉢をやろうということなのかな」
「そういうことです」
「で、それがどうしたのだ」
「鈍いですねぇ、長老。長老がとったらどうですか。長老は神通力に優れているじゃないですか。あんなの簡単に取れるでしょ」
「ビンドーラよ。私はあんな黄金の鉢はいらない。この鉄製の鉢があればそれで十分だ」
「長老がいらないなら世尊に布施すればいいじゃないですか」
「いや、世尊はそんなことをされても喜ばないだろう。くだらないことを考えてないで、精舎にもどうろうではないか」
「う〜ん、残念だなぁ・・・。あんなの簡単に取れるのに。しかも、黄金ですよ。それに、私たちがあれをとったら、世尊の弟子はすごい!って評判にもなるでしょう。なにせ、誰もとれないんですから。何人もの聖者が挑戦したんですけどね、誰も成功しなかったんですよ。だから、ああして掲げてある」
モッガラーナは大きくため息をついた。
「そんなことはどうでもいい。・・・・ビンドーラ、そんなにあの黄金の鉢が欲しいならば、あなたがとればいいじゃないか。それくらいの神通力は使えるだろう」
そういうと、ビンドーラをおいてさっさと精舎に戻ろうとした。しかし、運の悪いことに、その高く掲げられた黄金の鉢はモッガラーナやビンドーラが精舎へ帰る道の方へ移動してきたのだった。
「おや、鉢が動いた。あぁ、このまま行くとちょうど出会いますね」
ビンドーラの言葉を無視してモッガラーナは帰路を急いだ。ビンドーラもついてくる。後ろで彼はまだブツブツ言っていた。

やがて黄金の鉢を掲げた長者たちと、モッガラーナとビンドーラは出くわした。何も言わず通り過ぎようとしたモッガラーナだったが、ビンドーラは長者に声をかけてしまった。
「私があれをとってみせましょう」
ビンドーラはそういうと、神通力で高く高く掲げられた黄金の鉢まで飛んだのだった。そして、そのまま黄金の鉢をとり、空中を三周して戻ってきた。
「いや〜、すごいすごい!。すごい聖者だ!。みなさん、とんでもない聖者がいましたよ。あの黄金の鉢を簡単に取ってしまった。しかも空中で三回も回った!。すごい聖者だ」
長者はそういうと、下りてきたビンドーラの黄金の鉢にたいそうな御馳走をたくさん入れたのだった。大食漢のビンドーラは満足そうにほほ笑んだ。が、その時、
「ギャー」
という女性の悲鳴が聞こえた。皆が悲鳴のした方を見ると、女性が下半身血だらけになって倒れていたのだ。
「どうしたのだ?。何があった?」
街の人たちが集まってきた。中には「医者だ、医者を呼べ」と叫んでいる者もいた。やがて医者が駆けつけた。医者は「すぐに医療所に運べ」と指示した。集まっていた街の男たちで、その女性を板に載せ、医療所まで運んで行ったのだった。祭り気分は一気に冷めてしまった。
「いいたいどうしたのだ。何があったのだ・・・」
金持ちの長者が現場にいた人に尋ねた。
「はぁ、どうやら・・・その・・・・」
現場に居合わせた人たちは言いにくそうにビンドーラを見た。ビンドーラは気づいた。
「ひょっとして・・・私がいけないのでしょうか?。もしかしたら、私の神通力を見て驚いて・・・」
「いや、聖者様が悪いのではないでしょう。たまたまですよ、たまたま・・・。あの女性はどうやら妊娠していたようでして、聖者様の神通力にびっくりして・・・・」
「あぁ・・・・そういうことですか」
ビンドーラは頭を抱えた。
「いや、聖者様、私が悪いのです。軽率なことをしてしまいました。あの女性の面倒は私が責任を持って見ます。ですから、このことは・・・・もうお忘れになってください」
長者はビンドーラにそういったのだった。ビンドーラは「よろしくお願いします」と小声でそういうと、肩を落として精舎へと向かった。少し離れた所から一部始終を見ていたモッガラーナだったが、悲しそうな目でビンドーラを見つめただけで、何も言わずビンドーラと並んで歩きだしたのだった。

二人は竹林精舎に戻った。が、雰囲気がいつもと違っていた。二人にはそう感じられたのだった。どこか空気が張り詰めたような、鋭い冷たさが流れていたのである。
まだ、出家したての若い修行僧が二人を待っていた。その修行者は、
「世尊が二人をお呼びです」
と告げると、さっさと精舎の奥へと歩いていった。モッガラーナとビンドーラは顔を見合わせた。モッガラーナは厳しい顔を、ビンドーラは情けない顔をして、うなずき合った。二人ともなにも言わず、奥へと進んでいった。
竹林精舎の最奥の広場には、仏陀を中心に精舎で修業する全出家者が集まっていた。彼らは通路を中心に左右に分かれていた。通路は仏陀の手前で終わっている。あたりは静まりかえり、しんとしていた。誰もが厳しい表情をしている。あるいは、下を向き、うなだれていた。
モッガラーナとビンドーラは、何も言わず静かに仏陀の前まで歩いて行った。二人は作法通りに仏陀を礼拝した。
「報告することがありますね」
仏陀は厳かに言った。モッガラーナが最初に話し始めた。
「今日の托鉢のときのことです。ラージャグリハの街は祭りでにぎわっていました。その中で・・・・」
「モッガラーナよ、汝には聞いていない。ビンドーラに聞いているのだ」
その声は厳しいものだった。ビンドーラは震えていた。
「さぁ、ビンドーラよ、報告することがあるならば言うがいい」
ビンドーラは大きく息を吸い込んで
「も、申し訳ございません。わ、私は騒ぎを起こしてしまいました」
と大声で言ったのだった。しかし、仏陀の表情は変わらなかった。静かに、かつ厳しく声は響いた。
「騒ぎ・・・・その一言で片づけられるようなことですか?」
ビンドーラは凍りついた。
「あ、あ、あ・・・・あの・・・わ、わ、私が・・・・つ、つまらない欲を出したばかりに・・・・に、妊婦を・・・・」
そこまで言ってビンドーラは泣き崩れたのだった。
「モッガラーナ、説明せよ」
仏陀はモッガラーナに報告させた。モッガラーナは、祭りの中、長者が高く掲げた黄金の鉢をとるために、ビンドーラが神通力を使い、そのために妊婦が流産してしまったことを詳細に報告したのだった。
「皆の者もよく聞きなさい。ビンドーラ、私はかねがね神通力を無闇に使ってはならぬ、と教えてきたはずだが、そうではなかったか?」
ビンドーラは泣きながら答えた。
「は、はい・・・何度も注意を受けています」
「今回は、その神通力を使う必要があったことなのか?」
「い、いえ・・・・神通力を使っていい状況ではありません」
「では、なぜ神通力を使ったのか?」
「そ、それは・・・・」
ビンドーラはそういうと、手にした黄金の鉢を見た。
「こ、この鉢が・・・・欲しかったからです」
「それだけか?」
「この鉢の中身の食事が欲しかったからです」
「それだけか?。今までのことも振り返ってよく考えて見よ。なぜ、汝は安易に神通力を使うのか?」
ビンドーラは、恐る恐る仏陀の顔を見つめ、そしてうつむき、考え始めたのだった。

しばらくしてビンドーラが顔をあげた。
「わ、私は・・・・目立ちたかったのでしょう。いい格好をしたかった。人々から『すごい聖者だ』と尊敬されたかった。あの・・・人々の羨望の眼差しが・・・・たまらないんです。嬉しいのです。人々から・・・身分を問わず・・・・すごい聖者だと褒められ、尊敬され、羨ましく思われるのが・・・・嬉しくて嬉しくて・・・・」
「鼻高々だったか」
「は、はい・・・・。それで、ついつい神通力を使ってしまって・・・・」
「よいかビンドーラ。ここでの教えは何であったか?。私が常々説いている教えとは如何なるものであったか?」
「己の心をよく知り、己の欲望をよく制御し、何事にも揺るぎない心をもつこと・・・・。世尊は、いつもそう説かれております。そのためにここで修業しています」
「その通りだ。ビンドーラ、汝は汝の欲望をよく制御できていたか?。心は定まっていたか。揺るぎなかったか?」
「で、できていません・・・・」
「何度注意されたか?」
「十数回以上・・・・です」
「今までは、他愛のないことでの神通力の使用だった。たとえば、托鉢へ行くのが面倒だからと言って鉢だけを神通力で飛ばして街の家々を巡らせたとか、清掃の仕事が面倒だからと言って神通力で放棄やぞうきんを動かして掃除をしたとか・・・・。その度に私や長老たちが注意したはずだ。神通力はそのように使うものではない、無闇に使ってはいけない、そのうちに大事に至ることもあると、そうも忠告したはずであったが・・・・忘れたのか?」
「い、いえ・・・忘れていたわけではありませんが・・・・」
「では、なぜ、今日、神通力を使ったのか?」
「・・・・・・忘れておりました」
「汝を庇うことはできなくなった。今日起こしたことは、単なる騒ぎだけではない。もっとも犯してはならぬ罪を汝は犯してしまった。神通力の使用よりも、重い罪を犯してしまった。それは何か?」
「・・・・命を・・・・命を・・・・奪ってしまったことです」
「そうだ。こればかりは取り返しがつかない。汝は命を奪ってしまった。図らずも殺生をしてしまったのだ。これはハーラーイー罪にあたる。これはかねてからの決まり事だ」
ハーラーイー罪と聞いて、ビンドーラの顔はひきつった。隣にいたモッガラーナは深くうなだれた。周囲にいた修行者たちは、マハーカッサパやシャーリープトラなどの長老たちを除いて、みな驚いた表情をしていた。
「汝ら殺生をすることなかれ。もし、この戒律を犯した者あれば、それはハーラーイー罪となる・・・・。汝ら修行者は、毎日一番最初に唱える戒律であろう」
仏陀の表情はあくまでも厳しかった。


95.二人の新弟子
「ハーラーイー罪ですか・・・・」
ビンドーラはそうつぶやくと深くうなだれた。周囲の弟子たちの中にも
「ハーラーイー罪か・・・・当然かな・・・」
「仕方がない。殺生の罪は大きい」
「初めてのハーラーイー罪だな・・・・あぁ、なんということだ」
とつぶやく者がいた。お釈迦様は、
「ビンドーラ、教団追放だ。さぁ、自分の持ち物をまとめて、この精舎を出ていくがいい」
と静かにビンドーラに告げたのだった。ビンドーラはうなだれたまま、頭を縦にゆっくりと振っただけであった。

ハーラーイー罪とは、最も重い罰則である。それは仏陀の教団から追放されることであった。いわゆる破門である。教団を追放されたものは、二度と仏陀の弟子となることはできない。また、教団の精舎の近くにはいられないのだ。
ハーラーイー罪に値する罪とは、殺生すること、盗みを働くこと、性行為をすること、悟ってもいないのに悟ったと言いふらすこと、そして後に加えられたのが教団を分裂させるような行為をすること、である(後にさらに増えていくことになる)。ビンドーラは殺生の罪を犯したため、重罰であるハーラーイー罪に相当するのだ。

ビンドーラはゆっくりと立ち上がった。うなだれ、肩を落とし、顔面は蒼白で、とぼとぼと自分の寝所へと向かったのだった。
誰も何も言わない。多くの弟子たちがうなだれていた。仏陀は表情は厳しいままであったが、その厳しさの中には憂いがこもっていた。やがてビンドーラの姿が見えなくなると、仏陀は静かに言った。
「修行者たちよ。心引き締めて修行せよ。二度とハーラーイー罪を犯すものが出ぬように、修行に励むのだ。それから・・・」
そういって仏陀はモッガラーナの方を見た。そして、
「モッガラーナよ、汝にも責任の一端がある。長老として、悟りを得ている者として、ビンドーラを止められなかったことは・・・・残念だ。7日間、瞑想して自省するがよい」
と命じたのであった。モッガラーナは黙って頭を下げたのだった。モッガラーナは、7日間一歩も外に出ず僧房に籠って瞑想することとなったのだ。僧房を出られるのは便所に行く時だけであった。食事はモッガラーナが指導している若い修行僧が運ぶこととなった。
「すべての修行僧よ、心引き締めて修行に戻るがよい」
仏陀はそういうと深い瞑想に入ったのであった。修行僧はそれぞれの修行場所へと戻っていった。

自分の持ち物を整理し終えたビンドーラは各長老たちに
「お世話になりました」
と挨拶をすますと、仏陀の前に進み出た。
「今までお世話になりました。これからはどこか人里離れたところで静かに一人で修業いたします」
そう仏陀に告げた。仏陀はそれには何も答えず、独り言のように話し始めた。
「ここより南方に小高い山がある。その山の周辺にはいくつかの貧しい村が存在している。たまにその村の人々がここマガダ国のラージャグリハやコーサラ国のシューラバスティーにやってくる。それらの者は皆野蛮で礼儀を知らず、暴力を振るうと恐れられている。しかし、彼らは決して野蛮な民族ではない。生活習慣が異なっているだけだ。ただ、その異なりを理解していないだけなのだ。住む場所が違えば慣習も異なるし、振る舞いも異なるであろう。それが理解できれば彼の南方の人々も野蛮と言われなくなるであろう。そうなればコーサラ国の人々もマガダ国の人々も、南方の人々と交流が持てるのだが・・・・・」
それだけ言うと仏陀は立ち上がり、ビンドーラを見ないで精舎の奥に広がる竹林へと向かったのだった。ビンドーラは
「ありがとうございます。私はこれより南方の村に行きます。その村のことは大臣時代に聞いたことがあり、知っております。いい修行場所を教えていただき、ありがとうございます」
と涙ながらに言って、去りゆく仏陀の背中を礼拝したのだった。

その後のビンドーラは、無事に南方の村にたどり着き、その村の奥にある山の中で小屋を造り修行に励んだそうである。村の者は願い事があるとビンドーラの山小屋に野菜などの作物をお供えした。すると、数日後には不思議なことが起こって願い事がかなったといわれる。特に病気が治るようにという願い事はよく叶ったそうである。ただし、人を呪ったり、恨んだりという願い事すると、その祈願をした者に罰が下ったそうだ。
願い事がある者は野菜などのお供えを小屋の前におき、
「ビンドーラ様、ビンドーラ様、どうか願いを叶えてください」
と声をかけ、願い事を言うのであった。
このことは日本にも伝わっている。古いお寺には、本堂の前や縁側に僧侶の像がおかれていることがある。その像が「びんずるさん」、すなわちビンドーラである。ビンドーラは教団を追放されたため、お堂の中には入れない。しかし、神通力が優れているため、特に病気平癒には力を発揮したと言われていたので、参拝者が病気平癒の祈願ができるようにお堂の前や縁側に安置したのである。参拝者は「びんずるさん」の頭をなで、
「病気が治りますように」
と祈ったのである。
ビンドーラは教団追放にはなったが、仏教の発展や仏教を信じる者のために大きく貢献したのだ。それは優秀な弟子であったシャーリープトラやモッガラーナなどよりも大きなものであったといえるかもしれない。

ビンドーラが去った教団は、いつもとかわりなかった。修行僧は朝起きて沐浴し、戒律を唱え、托鉢に出かけた。食事を昼までに済ませると、午後からは仏陀の教えを復唱したり、深く考えたり、観察したり、長老に教えを請うたりしていた。仏陀は悩み事を抱えて相談にやってくる人々に教えを説いたり、多くの者に法話をしたり、瞑想をしたり過ごしていた。
そんな平和な日々が一ヶ月ほど過ぎたころ、新たに二人の修行者が竹林精舎を訪れたのだった。それはアーナンダとダイバダッタであった。

ビンドーラが教団を追放となったころ、アーナンダとダイバダッタはヴァイシャリーの街に滞在し始めた。約一か月前のことである。二人は、ヴァイシャリーの街はずれにある森で修業を始めたのだった。
彼らは朝起きると森に湧いている泉で沐浴して身を清め、仏陀の教団の戒律を唱えた。それはヒマラヤ山中で修業をしていたときに覚えたものだった。そして、街へと托鉢に出たのだ。
ヴァイシャリーの街は、修行者には優しい街であった。誰もが、修行者に親切に施しをした。それは仏陀の弟子だけに限らず、バラモン僧やジャイナ教の修行者など様々な修行者に対して平等に親切であった。
「兄さん、見てみろよ」
ダイバダッタは顎を振ってアーナンダに言った。
「あれがジャイナ教の修行者だ。カピラバストゥでは見られなかった姿だ。釈迦族は、ああいう下品な姿を嫌うからね」
ダイバダッタが指示した方には、丸裸の男たちが数名立っていた。彼は何も身につけていない。ジャイナ教では、執着を無くすために衣服も身につけさせなかったのである。丸裸の男たちは、その姿で托鉢に出ていた。街をゆく若い女性などは顔を赤らめ、彼らを避けるようにして歩いていた。
「あんな格好・・・そりゃカピラバストゥじゃあ無理だよ。つかまってしまう」
「そうだな。確かにちょっと下品だな。だが、彼らは結構厳しい修行をしているようだ。守らねばならない規則がたくさんあるらしい」
「へぇそうなんだ。でもダイバダッタはジャイナ教へは入らないんだろ」
「当たり前だ。厳しい修行はいいが、さすがに裸で過ごせというのは・・・・。それは真理の本質とは離れているのではないかと思うし」
「そんなものかなぁ・・・。私はあの姿自体が受け入れらない」
「案外、街の人もそう思っていると思うよ。それに比べて、仏陀の弟子は規律正しいし、清々しい、托鉢の姿も美しいと言われている。この街ではジャイナ教信者が多い。しかし、最近では仏陀のほうが評判が良くなってきている。とはいえ、この街の有力者であるシーハ将軍はジャイナ教の熱心な信者だから、街の人たちは表立っては口にはしない。が・・・・仏陀の弟子に対してはおおむね親切だな」
「お前はいろいろよく知っているねぇ・・・・」
アーナンダはそう言うとダイバダッタをまじまじと見たのだった。
「情報を取り入れることと観察することは大切なことさ」
ダイバダッタはそういうと托鉢に歩き始めたのだった。
ダイバダッタとアーナンダは、こうしてヴァイシャリーでしばらく修行をすることにしたのだ。それは約一ヶ月に及んだ。この間、二人はなるべく目立たないように、大人しくまじめな修行者を心掛けるようにした。一応、仏陀の弟子に出家を許され、仏陀の孫弟子になるとはいえ、仏陀には正式に認められているわけではなかった。カピラバストゥで出家を拒まれたこともある二人である。目立った行動をして、マガダ国の竹林精舎にいる仏陀の耳に届いても問題がある。
もともとダイバダッタは聡明であった。頭はよく、観察力もあり、実行力もあった。ただ、周囲からの評判がよくなかっただけである。ダイバダッタ自身も、自分を理解できない周囲の人たちが愚か者なのだ、とバカにしていた節があった。そのため、態度が悪いという評判になり、人気がなかったのである。周囲との協調性があれば、国王にもなれたほどの実力あったのだ。アーナンダは、そんな弟を見て、もったいないとよく思っていた。
ヴァイシャリーで何事もなく無難に過ごした二人は旅立ちの準備をしていた。
「明日はこの街ともお別れだ。まあ、また訪れることにはなるだろうけどね。その時は、二人だけじゃなくて大勢の弟子たちと一緒だ。もちろん仏陀も、だ」
「いよいよラージャグリハ行くんだね。長かったなぁ・・・。でも、ここにいたおかげで楽な生活ができたよ」
「兄さん、生活じゃない、修行だ。しかも楽な・・・は言ってはいけない。充実した修行生活を送っていた、だ。竹林精舎に行って、仏陀にいろいろ質問されたら、そう答えるんだ。間違っても楽しかった、なんて言わないくれよ」
「あっあぁ、わかっているよ・・・・」
ダイバダッタは頼りない兄を見て大きく溜息をついたのだった。こうして、二人はヴァイシャリーの街をあとにしたのだった。

竹林精舎の入口の前に二人は立っていた。中に入る。若い修行僧が
「どうされましたか?」
と尋ねてきた。
「カピラバストゥからアーナンダとダイバダッタが訪ねてきた、と仏陀にお伝え願いますか」
ダイバダッタが若い僧に言った。
「少々お待ちください」
若い修行僧はそういうと竹林精舎の奥へと入っていった。
(もうすでに神通力で私たちが来ることは分かっているはずなのに・・・・。相変わらず面倒なことだ。しかし、今回はもう拒否はできない。俺たちを弟子にせざるを得ないのだ、シッダールタ・・・いや仏陀世尊・・・・)
ダイバダッタはこみ上げてきそうな笑いを抑えて、引き締めた表情をしていた。横ではアーナンダがぼんやり突っ立ている。
しばらく待っていると先ほどの若い修行が戻ってきた。そして
「どうぞ奥へお入りください。仏陀世尊がお二人にお会いするそうです。私が案内いたします」
と二人に言った。すべては予定通りだった。
つづく。


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