ばっくなんばー24

103.水争い
アーナンダが仏陀の身の回りの世話をするようになって数年が過ぎたころのことである。祇園精舎に滞在していた仏陀の元に血相を変えて駆け込んだ者がいた。
「た、大変ですお釈迦様!。このままでは、お釈迦様の故郷のカピラバストゥが戦に巻き込まれます。いやいや、きっと戦争になってしまいます」
その男は大声で仏陀に訴えた。周辺にいた弟子たちは驚いて男の方に目をやった。しかし、仏陀や長老は落ち着いて男を見ていた。
「落ち着くがよい。いったいどうしたというのだ?。あぁ、アーナンダ、この者に水をいっぱい差し上げるがよい」
「そう、そうなんです、水なんですよ、水!」
アーナンダが仏陀の言いつけに返事をする前に、その男は「水、水!」と騒いでいた。
「落ち着かなければ話がわからぬ」
仏陀はそういうと、静かに目を閉じた。すると辺り一帯が金色の光に包み込まれた。その光を浴びた途端、男は急におとなしくなり
「な、なんとも心地よい・・・あぁ、すばらしい・・・・」
とつぶやいていたのだった。仏陀が目を開けた。すると、あたりを包み込んでいた光もおさまった。男は、
「申し訳ございませんでした。もう大丈夫です。落ち着きました」
というと、アーナンダが汲んでくれた水をおいしそうに飲んだのだった。
「ここはいつでも水が湧き出ていて・・・ありがたいことです。その水なのです。お釈迦様も御存知だと思いますが、カピラバストゥの飲料水は、コーリヤ族の国との間のローヒニー河からとっています。いつもの年は水が豊富にある河です。しかし、今年はどうしたことか・・・。皆さんも良くご存じのように日照りが多くて、それにヒマラヤ山も雪が少なかったようです。おかげでローヒニー河が枯れてきまして・・・・。今では川底が見えるほどになってきました。流れも悪く、濁ってきてます。困ったことに、ローヒニー河を利用しているのは、釈迦族だけでなくコーリヤ族も・・・です。ですから、釈迦族とコーリヤ族との間で最近揉め事が増えてきたのです」
「水の利権か?。なんと愚かなことを・・・。しかし、シュッドーダナ王は聡明な王であろう。それがなぜ争いに?」
「シュッドーダナ王は・・・・その・・・今、御病気で・・・・・」
「そうであったか」
父親が病気であると聞いても、仏陀の表情は何ら変わることはなかった。
「あの、見舞いに行かなくてはいけないのでは・・・。行った方がいいのではないですか?」
アーナンダが横から言った。仏陀はそれには答えず、駆け込んできた男に話をするよう促した。
「そう、それで釈迦族は、今武将たちが仕切っているような状態です。コーリヤ族は気が短く争い好きで知られている部族です。しかも今回の争いは、河の近くの農民たちから始まったようなのです。シュッドーダナ王の耳にも、コーリヤの王の耳にも争い事の報告は届いてない可能性があります。しかし、争いはすぐにでも始まろうとしているのです。お釈迦様、いったいどうすればいいのでしょうか?。なんとかこの争いを止める方法はないのでしょうか?」
男は、仏陀に懇願した。仏陀は、
「よくわかった。私に任せなさい。アーナンダ、すぐに出発しよう。ローヒニー河へ行く」
というと、すっと立ち上がったのだった。そして、アーナンダだけを連れてローヒニー河へと向かったのである。

仏陀とアーナンダがローヒニー河に来ると、河をはさんで釈迦族とコーリヤ族の農民たちが、手に手に農具を持って言い争っていた。
「お前らが畑に水を引くから、河が枯れたんだ!。水を止めて河に水を返せ!」
コーリヤ族の若者が叫んだ。
「何言ってやがる!、お前らが水を引いているんだろ!。それにガバガバ水ばかり飲んでいるから河の水が枯れたんだ!。お前らが水を飲みすぎなんだ!。もう水を飲むな!」
と釈迦族の若者が返した。言い争いは次第に激しくなり、今にも河を渡って戦い始めようとしていた。
誰かがお互いの国の武将を呼んでいたようだった。その武将たちも加勢して、
「こうなったら戦争だ!。あいつらにひと泡吹かせてやろう」
「我々の勇敢さをあいつらに見せてやろう。痛い目に合わせてやれ!」
とお互いに雄叫びをあげ始めたのだった。彼らは、そこに仏陀がいることなど目に入っていなかった。
河をはさんで大勢の農民、兵士がにらみ合っていた。誰かが一歩前に出れば、お互いに河になだれ込んでくるであろうという緊迫した中、仏陀がその間に一人立った。
「何を争っているのか」
仏陀は一言だけ、そう言った。

一瞬にして両河岸に集まっていた者たちが、しーんとした。誰もがあっけにとられていた。仏陀は、もう一度、静かに重々しく問うた。
「何を争っているのか?」
しばらくして釈迦族側の武将がおどおどと口を開いた。
「あ、あ、あの・・・・、お釈迦様・・・・です・・・・ね?。いったいどこからいらっしゃったのでしょうか?」
そうなのだ。仏陀は皆の前に突然現れたように見えたのだ。
「何を言っているのか?。私は、河を歩いてきたのだ。静かに静かに歩いてきたのだ。汝らは、お互いに罵り合っていたがため、私に気付かなかっただけではないか。そこまで汝らは形相を変え必死に争っていたのだ。その争いの原因とはなんであるのか?」
「そうだったのですか・・・・。あ、あぁ、争いの原因は・・・・」
仏陀の言葉で、双方に集まっていた者たちがざわつき始めた。仏陀は、それが鎮まるまで待った。
釈迦族の武将が答えた。
「実は、この河の水が少なくなってきまして、それで我々釈迦族とコーリヤ族との間で、水の取り合いを・・・・」
それに対しコーリヤ族の武将が大声で叫んだ。
「お釈迦様、お聞きください。初めに水を独り占めにしようとしたのは釈迦族の者です。ヤツラは、自分たちの畑に使うといって、水を大量に流したのです。そのため、我が国の飲料水が枯渇してしまったのです。最初にあくどいことをしたのは、お釈迦様には申し訳ないですが、釈迦族の連中なんです」
「なんだと!、お前らコーリヤが飲料水だといって水を大量に引き込んだんじゃないか。お釈迦様、お聞きください。あの野蛮な連中が、飲料水と称して、大量に水を自国に引き込み、無駄に使っているのです。飲料水にそれほどの量を使うはずがない。無駄に放水しているに違いないんだ!」
「なんだと、そんなでたらめを言って恥ずかしくないのか!。お釈迦様の前だぞ!」
再び、双方の罵りあいが始まった。それはなかなか収まりそうになかった。

お釈迦様は目を閉じると、小声で何かつぶやいた。するとそのとたん、まばゆい光がお釈迦様から発せられた。誰もがその光の眩しさに目を覆った。
すぐに光は収まった。あたりはようやく鎮まり返った。
「双方の武将に聞く。水と人の命とどちらが大切か?」
双方の武将が即座に答えた。
「人の命です」
「汝らは、今、水争いによって、双方の人の命を無くそうとしていた。そうであるな?」
お互いの種族の武将たちが顔を見合わせた。そして、肩を落として
「はい、間違いありません。その通りです。もう少しで、この河で争うことになりました」
「行きがかり上、戦いは避けられなかったでしょう」
と双方の武将は答えた。
「そうなれば、河の水どころではなくなる。それはわかるな?。この河の水は血で濁るであろう。多くの者が死に、畑に水を引くどころか、飲料水を確保するどころか、多くの者が命を落とし、嘆き、苦しみ、そして多くの者が迷惑をこうむるのだ。小さな争いが大きな災いを、不幸を生むのだ。汝らは、そこまで考えた上で争いをしようとしていたのか?」
仏陀の問いかけに双方の武将をはじめ、集まっていた者たちは黙りこくってしまった。
「もし、私のところに汝らが争っていることを知らせに来てくれた者がいなかったら、もし、私がここに立たなかったら、汝らの小さな争いは、釈迦国とコーリヤ国の争いに発展していたであろう。そして、それは、多くの者を不幸に巻き込んだであろう。汝らの欲望のために、関係のない人々が命を落とすことになっていたであろう。それがどういうことか、汝らはわかるか?。
争いは、争いを生み、そして死をもたらし、暴力をもたらす。それは、恨みを生むのだ。一度恨みを生めば、その恨みは、さらに恨みを生む。お互いに恨みあい、憎しみ合っていくのだ。その恨みの連鎖は、止まることを知らない。そんな中で、汝らは幸福に暮らせるだろうか?。
良く考えよ。お互いにいがみ合い、憎みあい、恨みあって、そこに幸福は生まれるであろうか?。
よいか、恨みは恨み無くして鎮まるものだ。お互いにいがみ合うことなく、双方話し合うことによって、争いは鎮まり、恨みは消えゆくのだ。
汝ら、自分のことだけを考えて貪るな。貪りなく話し合って暮らすことで幸福は生まれるのだ。争いなく話し合って暮らすことによって幸福は生まれるのだ。お互い、譲り合う気持ちがなければ、幸福には暮らせないのだ」
仏陀の叱咤に双方の川岸に集まった者たちは、深く頭を垂れた。
「お釈迦様のおっしゃる通りです。我々は、大人げないことをしてしまいました。自分たちの都合だけで物事を考えていました。貪りの心で正しく判断ができませんでした。危うく、大きな不幸を生むところでした。申し訳ございません。これからは、少ない水をお互いがうまくいくように話し合っていきます。それでよろしいかな?、コーリヤのみなさん」
釈迦族の武将が、対岸のコーリヤ族の者たちに呼びかけた。
「もちろんだ。我々も反省している。自分たちの都合ばかりを主張して申し訳なかった。そうだ、これからお互いの代表で話し合いをしよう」
コーリヤの武将の提案に、釈迦族の者たちも「それがいい」と受け答えた。双方の争いは、こうして鎮まったのである。

仏陀は、後ろにいたアーナンダを振り返ると、
「このままカピラバストゥに向かおう」
と言ったのだった。


104.父王の死
水争いが起こる一ヶ月ほど前のこと、仏陀の出身国であるカピラバストゥの国王シュッドーダナは病に倒れ寝込んでいた。その病状は激しく、全身が痛み、手足はちぎれそうなほどの苦痛であった。ありとあらゆる薬が処方されたが、その効果は現れることはなく、シュッドーダナ王は来る日も来る日も苦しみに喘いでいたのだった。その苦しみの中、王の口から出てくるのは、釈迦族の今後のことであった。
「シッダールタめ、釈迦族のことを・・・・・何も考えて・・・・いないのか・・・・。この国を・・・・この国の民を・・・・滅ぼすつもり・・・・なのか・・・・。何が・・・・何が・・・・仏陀だ・・・・。あれが仏陀ならば・・・・わしは・・・・・仏陀など・・・・伝説の聖者など・・・・・信じないぞ・・・・、シッダールタ、シッダールタ・・・・・」
「国王様、お話になられてはなりません。どうか、お休みください。医者よ、国王を眠らせるのじゃ。でないと、益々衰えてしまう。今は、シュッドーダナ王が頼りなのじゃ」
宰相の命に従い、医者が眠り薬を国王に与えた。国王は、ぶつぶつ呟きながらも眠っていった。
「はぁ、国王が取れてから毎日じゃ。毎日のようにシッダールタ王子への恨み事ばかり・・・・。はぁ、どうしたものか・・・。明日になり、薬が切れて王が目覚めると・・・・はぁ、また同じことの繰り返しじゃ・・・・・」
宰相の心配事は毎日のように続いた。国王は、まずは激痛で目覚めた。
「うおー、うおー、痛い、痛い、なんとかしてくれー・・・・・助けて・・・・助けてくれ・・・・」
そして、いったん気絶するのだ。あまりの激痛に意識を失うのである。次に気付いた時は、激痛は和らいでいるのだった。すると、国王の恨み事が始まるのだ。
「シッダールタめ、シッダールタめ・・・・、あいつは、わしから何もかも・・・・奪っていった・・・・。わしのあとを継ぐはずだった・・・・・ラーフラも・・・・・。ラーフラが成長するまで・・・・・国王代理を務めるはずのナンダも・・・・補佐をする大臣も・・・・。あぁ、ナンダのあと、国王代理をしばらく務めた・・・・・あの温厚で優秀だった・・・・パドリカも・・・・。みんな出家させてしまった。シッダールタめ・・・お前はなぜ・・・・・わしから大事なものを・・・・奪っていくのだ・・・・・。そんなにもわしが憎いのか・・・・・。お前の母を助けなかったからか・・・・・。あれは仕方がなかったのだ・・・・・。お前を産んだ後・・・マヤはあっけなく逝ってしまった・・・・・・。最善は尽くした・・・・それでもお前は・・・・・わしを恨むのか・・・・・。うぅぅぅぅおぉぉぉぉ、シッダールタ、シッダールタ・・・・・お前には・・・・・すべてを与えてきた・・・・・ではないか・・・・。それのどこが気にいらぬのだ・・・・。何もかも捨ててしまい・・・・父であるわしも捨てて・・・・子も捨てて・・・・国をも捨てて・・・・お前はどこに行くのだ・・・・・・。あぁ・・・・あぁ・・・・・仏陀となったか・・・・。アシタ仙人の予言通りだったか・・・・。あぁ、なんと素晴らしいことだ、我が釈迦族から・・・・伝説の聖者・仏陀が誕生した・・・。はぁ、はぁ・・・・。コーサラ国の王もマガダ国の王も・・・・・今ではシッダールタに従っているか・・・・。そうか、釈迦族が大国を支配したか・・・・・。そうだ、それでいい・・・・。釈迦族は優秀な種族だ。この世の支配者たるは釈迦族なのだ・・・・。だが、なぜシッダールタはここにいない?・・・・・なぜじゃ、なぜじゃ、なぜじゃあー・・・・・」
シュッドーダナ王は、恨み事を繰り返すうち、幻覚を見るようになっていたのだった。このような状況が、すでに一ヶ月近くも続いているのだった。

釈迦族とコーリヤ族との間に起きた水争いを鎮めたあと、仏陀はそのままカピラバストゥへ向かうことをアーナンダに伝えた。アーナンダは、大いに喜び、
「では、他の釈迦族の出家者にも連絡をした方がよろしいのではないでしょうか」
と仏陀に提案した。仏陀はしばらく考えていたが、
「ならば、釈迦族の王族の者にのみ伝えよ。シュッドーダナ王を見舞いに行く、と」
とアーナンダにいった。アーナンダは早速、祇園精舎に戻ることにした。アーナンダが仏陀の元に戻るあいだ、仏陀は釈迦族側の地にある樹林で待つことにしたのだった。
アーナンダは、大急ぎで祇園精舎に戻った。そして、釈迦族出身で、王族出身の者だけに、仏陀とともにシュッドーダナ王を見舞いに行くことを伝えた。そして、そのことを長老にも伝えた。長老たちは、
「ごゆっくりお見舞いしてきてください。世尊が戻られるまでの間は、御心配なくお任せください」
と快く言ったのだった。
翌日のこと、釈迦族の王族出身の出家者たちは、祇園精舎を出発した。彼らは仏陀と合流すると、一路カピラバストゥへと向かったのだった。

「シッダールタが来るぞ。帰ってくるぞ・・・・。あぁ、この国も安泰じゃ・・・・」
その日、シュッドーダナ王は激痛の叫びをあげることなく目を覚ました。それどころか、「シッダールタが戻ってくると」繰り返し口にしていたのだった。
「国王様も、いよいよ危険なのかのう。どうなのじゃ?」
宰相は、国の様子の異変を心配して医者に尋ねた。しかし、医者は首をかしげるばかりであった。
「何も大事にならなければいいのだが・・・・」
宰相は心配で、国王のそばから動けなかった。
そんなとき、門番からの伝言が入った。
「仏陀世尊様が国王の見舞いに参られました」
宰相は驚いた。本当に仏陀・・・シッダールタ王子・・・・が戻ってきたのだ。
「これは・・・・まさか・・・・。国王の回復の兆しか、それとも仏陀が王になられるのか・・・・・?。まさか、そんなことは・・・・」
宰相は、あり得ない期待を抱いたのだったが、それはすぐに打ち砕かれたのだった。
「シュッドーダナ王、お別れに参りました」
仏陀の言葉は、穏やかではあったが、冷たく響いたのだった。

「国王よ、あなたの苦しみや痛みを取り除きましょう」
仏陀はそういうと、右手をシュッドーダナ王の額の上に載せた。
「王よ、あなたは年老いてもなお、国を憂い、民を思い、この国が豊かになることを考えて来られました。そのおかげでこの国は豊かであり、平和であり、国民は平穏な日々を過ごしています。国王よ、あなたの罪はもうない。もう苦しみはやってこない。痛みもやがて感じなくなるであろう。あなたの徳は清らかであり、恨む者はなく、その心はもはや清浄であろう。悩み苦しむことはもうないのだ。恨むこともないのだ。この国を憂うこともないのだ。すべては自然のままに、帰るべきところへ帰っていくのだ。何も憂う必要はない、なにも心配することはない。王よ、あなたの心は穏やかだ」
仏陀がそういうと、国王の額においた手が輝き始めた。その光はやがて部屋中に広がった。しかし、それはほんの一瞬のことであった。光が消えるとシュッドーダナ王が囁いた。
「仏陀世尊・・・・そして、多くの聖者の皆さん・・・・。私は我が釈迦族から多くの聖者が誕生したことを誇りに思います。そして・・・・今・・・・私は仏陀と多くの聖者に見守られながら、この世を去ることを幸せに感じます。ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」
そうして、シュッドーダナ王は息を引き取ったのだった。

そこに集まっていた釈迦族の者たちは、大声で泣き出した。しかし、仏陀をはじめ、出家者のものは、アーナンダを除いて誰も涙を流さなかった。それは、この世は無常であり、生ある者はやがて死するということを理解していたからである。また、シュッドーダナ王の魂が、やがて輪廻することを知っていたからでもある。ただ、まだ悟りを得ていないアーナンダだけは、涙をこらえることができなかったのだ。彼は、他の釈迦族の者とともに、大声をあげて泣いていた。

翌日、国王の棺が宮殿から出され、釈迦族の王族が祀られる丘に運ばれることとなった。棺が宮殿を出るときになって、ナンダが仏陀に懇願した。
「私たちは出家者であり、悟りを得たものです。ですから、俗世間の葬儀に関わることは決して好ましくないでしょう。しかし、シュッドーダナ王は私たちにとっても大恩のあるお方です。世尊、どうか、棺を歴代の国王が眠る丘まで担がせてください。それが、国王に対する恩返しだと、私は考えます」
仏陀は、ナンダの言葉に深くうなずき、
「よろしいでしょう。では、ナンダ、パドリカ、汝らは棺の前を担ぐがよい。ラーフラ、アーナンダ、汝らは棺の後ろを担ぐがよい。他のものは、あいているところを担ぐがよい。私は、棺の前に立って、汝らを導こう」
というと、棺の前に立って、歩き出したのであった。
シュッドーダナ王の棺は、仏陀に導かれ、カピラバストゥの宮殿を出ると、街中を一周して釈迦族の墓所へと向かったのだった。国民は、誰もが道端で跪き、涙を流していた。また、多くの神々も仏陀の後に続き、国王の棺を取り囲むようにしていた。
そうしてシュッドーダナ王の棺は、釈迦族の墓所の前で荼毘付された。その遺骨は黄金の壺に入れられ、歴代の国王が眠る塔に納められたのである。

仏陀たちが宮殿に戻ると、多くの人々が宮殿を取り囲んでいた。人々の中から声がした。
「仏陀様、国王はどこに生まれ変わられるのでしょうか?。やはり、天界でしょうか?」
「人々よ、シュッドーダナ王は数ある天界の中でも、最も清浄であるといわれている浄居天(じょうごてん)に生まれ変わるであろう」
「仏陀様、この国はこの後いったいどうなるのでしょうか?。国王はどなたに・・・・」
「それらは、カピラバストゥの各大臣が決めることだ。みなさんは心配には及ばないであろう」
仏陀は、そういうとアーナンダたちに向かって
「私たちの役目はここまでだ。祇園精舎に戻ろう」
と告げたのだった。
「折角戻りましたのに、もう祇園精舎へ?」
アーナンダが問いかけた。
「アーナンダよ、汝のように心が定まっていない者もいる。情にほだされれば、折角の修行も台無しになる者もいる。ここには、情が多すぎる。我々がなすべきことはなした。もう用はないのだ」
仏陀はそう言うと、毅然とした態度で歩き始めた。アーナンダはまだ名残惜しそうであったが、他の者たちは、周囲に目もくれず、まっすぐに前を見て、仏陀に続いたのであった。ただ、アーナンダ一人のみ、ぐずぐずしていた。見かねたナンダが
「アーナンダよ、汝は世尊の付き人であろう。早くせぬか」
と注意をした。その言葉にアーナンダは、はっとして、慌てて仏陀を追ったのだった。彼に絡みついてくる視線を振り払いながら・・・・・。
その視線は、釈迦族の女性たちのものであった。それは、シュッドーダナ王の妃のマハープラジャーパティーをはじめ、ヤショーダラ、アーナンダの母親、女官たちの不安な目だったのである。アーナンダは、そうした釈迦族の将来に不安を募らせる王妃たちの視線が気になって仕方がなかったのだ。彼は、その視線から逃れるように走った。走って走って、仏陀のそばに駆け寄ったのだった。
「何も恐れることはない。何も憂うことはない。汝は私に従っていればよいのだ」
仏陀は、優しくアーナンダに言ったのだった。


105.悲しむべきは
祇園精舎に戻ったアーナンダは、それから毎晩うなされ、眠ることがままならなかった。寝不足の目をこすり、アーナンダは仏陀の世話のため、今日も誰よりも早く働いていた。多くのどの弟子よりも早く寝具を片づけ、沐浴をし、仏陀の寝所に向かうのだ。
「アーナンダ、眠れないのか」
ある朝のこと、仏陀がアーナンダに尋ねた。
「いえ、その・・・・・」
「正直に言ってみるがよい」
「はぁ・・・・はい・・・・。その・・・、毎晩のように嫌な夢を見て・・・・」
「どんな夢だ」
「その・・・・女性の・・・・女性の手が私を・・・・」
「追いかけ回すのか」
「はい・・・しかも、その手は次第に・・・・」
「死者の手になる、のだね」
アーナンダは、はっとして仏陀を見つめた。
「その通りです」
「アーナンダ、汝は怖れているものが二つある」
「怖れているもの?、二つの怖れ・・・・」
「そうだ、そして不満を一つ抱えている」
「不満・・・・ですか」
「それを私に打ち明けることができれば、汝は安らかな眠りを得られるであろう」
仏陀はそういうと立ち上がった。寝具を片づけ、沐浴へ向かうのである。アーナンダは、仏陀歩く後ろをついていった。下を向きながら、仏陀の背を見ようともせず・・・・・。
沐浴した仏陀にアーナンダは身体を拭くための布を渡した。仏陀は何も言わない。アーナンダもうつむいたままであった。無言のまま、仏陀は衣を身につけ、袈裟をまとった。托鉢の鉢を手に取ると、何事もなっかったように祇園精舎の中を街へと進み始めた。すでに多くの弟子たちが、沐浴を終え、鉢を手に街へと向かっていた。アーナンダも鉢を手に仏陀に従った。
托鉢を終え、弟子たちが祇園精舎に戻り始めた。もちろん、仏陀も、その後ろに従っているアーナンダも戻って来た。彼ら修行者は、仏陀であっても、無言のまま行動をしている。托鉢から帰っても、どんな食事を得たのか、どこを托鉢に廻ったのか、などという会話はない。無言のまま、所定の位置に座り、無言のまま食事を済ますのである。陽が真上にくる前に食事を終えるのが戒律で決められている。そのあとは、口をすすぎ、瞑想なり、仏陀の教えを繰り返すなり、各長老のもとで修行に励むのだ。あるいは、疑問に思うことをなどを仏陀に教えてもらう者もいた。

食事を終え、後片付けも終わったアーナンダは、仏陀から離れ、大きな木の下で座り込んでいた。瞑想していたわけではない。文字通り、座り込んでいたのだ。
「アーナンダ、今日は元気がないな。どうかしのたかい?」
そう声をかけてきたのは、最も優れた弟子と讃えられるシャーリープトラであった。
「いえ、その・・・・、ちょっと寝不足で・・・・」
「そう、それはいけないね。心にため込んでいることがあるならば、世尊に話した方がいいよ」
シャーリープトラはそういと、彼が指導している弟子の元へと去っていった。
しばらくすると、今度はモッガラーナがアーナンダに声をかけてきた。
「どうしたのだアーナンダ。今日は、なんというか・・・沈んでいるな。なにかあったのかな?」
「いえ、その・・・・単なる寝不足です」
「そうか・・・・、言いたいことをため込んでいるのはよくないな。世尊のおそばにいるのだ。いつでも聞けるではないか、アーナンダよ」
モッガラーナはそういうと、空中に浮かびあがり、祇園精舎の奥へと飛んでいったのだった。そして、その次に声をかけてきたのはマハーカッサパであった。
「ふむ・・・。アーナンダ、汝はまだ一人で解決できないことが多い。迷いは毒だ。毒は早めに出した方がよいな」
そういうと、彼は指導している弟子たちを連れて森へと向かった。
その後、アーナンダの前に次から次へと長老たちが現れ、声をかけていったのだった。言うことは、みな同じであった。
(あぁ・・・、長老たちは私の心を見抜いていらっしゃる。私が持っている不満を・・・・・)
アーナンダは、立ち上がった。そして、仏陀がいつも瞑想をしているところへと向かった。

仏陀はいつものように、いつもと同じ姿で、いつもの大きな木の下で瞑想をしていた。その姿は、神々しく、ぼんやりと光に包まれていた。アーナンダは、その前に座った。
「世尊・・・・お尋ねしたいことがあります」
仏陀は無言であった。それは話を進めなさい、ということであった。拒否しているとか、無視しているわけではないのだ。アーナンダは、一つうなずくと、話を続けた。
「世尊、なぜシュッドーダナ王の死を・・・・父であらせられる王の死を悲しまないのですか。世尊は・・・・世尊は・・・・、あれ以来、王の死について一言も何も言いません。悲しくはないのですか?。まるで何事もなかったかのようにたち振舞われている。王の死の前と、王の死の後、世尊は何も変わってはいない。王の死に対し、喪に服すとかはないのでしょうか」
いつのまにかアーナンダは涙を流していた。そして小声で
「あまりにも冷たい。冷たすぎる・・・・」
と、つぶやいていたのだった。
しばらくして仏陀が口を開いた。
「よく言った、アーナンダ。その質問はとても大切な質問だ。その答えは、アーナンダだけではなく、多くの者に聞かせたい。よって、明日の午後、人々を集い、死に対する考えを説こう」
仏陀はそういうと、再び深い瞑想へと入っていったのだった。アーナンダは、仏陀の答えに驚きを隠せなかった。しかし、自分が聞いたことを皆に伝えるべく、長老たちが修行する場へと戻っていったのだった。

翌日の午後、仏陀の前には大勢の人々が集まっていた。もちろん、祇園精舎で修行をしているすべての弟子たちも集まっていた。コーサラ国の王プラセーナジットや妃のマッリカーや、祇園精舎の施主であるスダッタ長者の姿もあった。
「先日のことである。釈迦族の王、シュッドーダナ王が亡くなった」
仏陀の言葉に集まった人々はどよめいた。
「釈迦族の王だって?。それは確かお釈迦様のお父上ではないか?」
「仏陀様は、ここにいていいのか?、葬儀は行ったのだろうか?」
「う〜ん、出家者といってもなぁ・・・・父親が亡くなったのだったら・・・・どうなんだろうなぁ」
「いや、さすがに葬儀には行ったのだろう。しかし、問題はそのあとじゃないか?」
人々の声が鎮まるまで仏陀は待った。しかし、なかなか人々のどよめきは鎮まらなかった。すると
「世尊よ、シュッドーダナ王が亡くなったというのに、ここにいてよいのですか?」
という、ひときわ大きな声が響いた。それはプラセーナジット王の声だった。その声に、人々はいっぺんに静まり返った。
「国王よ、私はここにいてよいのです。なぜなら、私は出家者であるからです」
「しかし、出家者と言っても・・・・」
「国王よ、御安心ください。私はシュッドーダナ王の葬儀に行ってます。死に際にも会ってます」
「そうでしたか、それならば・・・・。しかし、さぞ悲しかったことでしょう」
「国王よ、それは間違っています。シュッドーダナ王の死は悲しいものではありません。むしろ、喜ばしいことでしょう」
「な、なんと!、たとえ世尊といえどもその言葉は聞き入れられませんな。その真意をお聞かせください」
「国王よ、そしてここに集う人々よ、多くの弟子たちよ、この世は無常である、それはよく知っていることであろう」
仏陀の言葉に多くの者がうなずいた。
「この世に生まれた以上、やがて死が訪れることは間違いのないことである。誰もが死から逃れることはできない。死なない者はいないのだ。それは、神であっても同じことである。六道に輪廻する者は、必ずや死が訪れるのだ。これから逃れるすべはない。従って、死は当然通るべきことであり、それは日常に自然に起きる出来事と同じことである。死が特別なことであることはない。死が特殊なことであることはないのだ。ただ、それがやってくるの日が早いか遅いかの違いがあるだけで、誰にも死はやってくるのである。
当然起こりうること、前もってわかっていること、それがやってくることがわかっていること、そうしたことを汝らは悲しむであろうか?。ただ来るべきものが来ただけである。それだけのことなのだ。それを悟るがゆえに、解脱者であり得るのだ。解脱者にとってみれば、死も生も同じことなのだ。従って、なんら悲しむべきことではないのだ。
シュッドーダナ王は、苦悩の床にいた。あとを継ぐべき者は出家してしまい、国の先を憂いていた。王は苦しみの中に沈んでいた。苦しみからは、嘆きや恨みしか生まれない。嘆きや恨みはそれだけで罪となる。死を迎える病床にあり、恨み事ばかり言って、多くの者を呪っていれば、死王ヤマは喜んでそのものを地獄へと導くであろう。
しかし、死を迎える病床にあって、恨み事を言わず、己の生きてきた道を嘆かず、誰も呪うことなく、心静かに穏やかに過ごす者には、死王ヤマは手を出すことはできない。そうした者は、天界へと導かれるであろう。
死を迎える病床にあり、生ある者は必ず死する、この世は無常であり、苦の世界であり、死は悟りへの道であると悟る者は、輪廻を離れることができるであろう。
シュッドーダナ王は、危ういところであった。すぐそばにまで死王ヤマがやって来ていた。王を地獄へと導くために。そのヤマを呼んだのは、王自身なのである。
しかし、この世のことを恨んではならぬ、釈迦族から多くの出家者が出たことは喜ぶべきことである、釈迦族の国が今後どうなろうとも、その責任は王にはない、汝は解放された、それは喜ぶべきことであるのだ、と説いたところ、シュッドーダナ王は、心静かに穏やかに死を迎えることができたのだ。同時に死王ヤマは去っていった。
それは、悲しむべきことではない。喜ばしいことであろう。彼は天界へと行った。この世の苦から解放され、清浄なる世界で次への修行に入ったのだ。なぜ悲しむ必要があろうか。
よいか皆のもの。人の死は決して悲しむべきことではない。悲しむべきは、死に際して、悟りへの道を得られない場合である。死に際し、この世に執着を残し、あるいはこの世のことを恨み嘆き、己にこだわってしまうことなのだ。
もし、汝らの身内が友人が亡くなりそうなことがるならば、その死を迎えんとする人々に、己の生を嘆くことなく、恨むことなく、呪うことなく、穏やかに執着を残さぬようにと説くことである。そのものが、それを受け入れたのなら、その者の死は、喜ばしいことであろう。
しかし、もし死を迎えようする者が、己の生を嘆き、周囲を恨み、呪いの言葉を発し、苦しみの内に死を迎えたのならば、それは悲しむべきであろう。あぁ、その者は死王ヤマが地獄へ連れさってしまった、これから何年も苦しみにあうのだ、なんと愚かな者であったのだろう、と。
人々よ、汝らが死を迎えようとしたときには、己の生を喜び、誰も恨むことなく、すべてに感謝し、心穏やかに死を迎えるがよい。であるならば、その死は神々が祝福し、死王ヤマは逃げ去って行くであろう。
もし、汝らが、この世の無常を悟り、この世は苦の世界であると知り、涅槃にこそ真理があるのだと悟るならば、六道の輪廻は汝らを捕えることができないであろう。
人々よ、死は悲しむべきことではないのだ。悲しむべきは、生に執着し、生を嘆き、恨みを残すことである」

しばらく誰も口を開かなかった。仏陀の言葉をかみしめていたのだ。やがて、プラセーナジット王が言った。
「なるほど、そういうことですか。なるほど、そうか・・・・人の死自体は悲しむべきものではないのですな。悲しむのは、その人の死に際が愚かであった場合なのですな。よくわかりました。シュッドーダナ王は、死に際に心穏やかであられたのですな。私もそうなりたいですなぁ・・・・。しかし、世尊、いくらそうであっても親の恩には報いねばなりませんでしょう?。親の死を悼むことは恩に報いることではないですか?」
「国王よ。親の死を悼むことは大切だ。しかし、それが恩に報いたことにはならない。最も優れた親の恩への報いは、出家し悟りを得ることである。聖者が生まれたとなれば、それはその聖者の親にとってこの上ない幸福である。しかし、誰もが出家し聖者になることはできぬ。特に在家の者は、それはかなわぬことであろう。では、どうすれば親の恩に報いることができるか。それは、この世で幸せに暮らすことである。たとえ貧しくあっても、生きていて幸せだと言えるようになることが、親の恩に報いることなのだ。親を大切にする、親の死を悼む、それも大事なことではあるが、親の恩に報いるのならば、子らが不幸になってはいけないのだ。親に『こんなに苦しんでいるのなら生むのではなかった』と思わせないことなのだ」
仏陀の言葉に、国王をはじめ、そこに集まった人々が大きくうなずいたのだった。
「アーナンダよ、汝が怖れていた一つは、死である。汝は死が怖いのだ。しかし、死は怖れるものではない。誰もが通ることであり、それは一つの通過点であるに過ぎないのだ。だから、何も恐れることはない。死を憂うのは、愚かなことである。そして、汝が抱えていた不満であったこと・・・私のシュッドーダナ王への態度・・・・それについても納得ができたであろう。私が王の死を悲しまない理由がこれでわかったであろう。
さて、残るはもう一つの恐れだが、それは時が来れば自然に解決するであろう。それまで、待つがよい。しかし、汝は今日より眠れるようになる。安眠がやってくるであろう」
仏陀はアーナンダにそういうと、優しく微笑んだのであった。


106.マイトレーヤ
シュッドーダナ王の死後、カピラバストゥは暗く沈んでいた。王の代わりを勤めるものはなく、仕方がなく宰相が王の代行を行っていた。また決めごとなどは大臣たちが集まり、話し合いをして決めることにした。しかし、国王候補は見つからず、宮中は迷いの中にあった。
そんなある日のこと、シュッドーダナ王の妃であったマハープラジャーパティーが、祇園精舎を訪れた。手には、黄金の糸で紡いだ衣が一式あった。
「どうかこれを仏陀世尊に受け取っていただきたいのです」
マハープラジャーパティーは仏陀に申し出た。しかし、仏陀は
「個人への寄進は受けてはいない。この衣は、私へではなく教団に布施するのがよかろう」
といい、個人的には受け取ろうとはしなかった。マハープラジャーパティーは、
「これは私が世尊のために造ったものです。他の出家者の方が身につけては欲しくはないのです。ですから、どうか世尊よ、受け取ってください」
と泣きついたのであった。
「そう言われても、個人への布施は受け付けてはいないのだ。教団として受け取ることは許されるが、個人への布施は許されないことなのだ」
仏陀はきっぱりと彼女の申し出を断ったのだった。こうした押し問答が3度も繰り返された。そして、どうあっても仏陀は、個人的な受け取りは拒否したのだった。
「どうしても教団へとおっしゃるのですか・・・。それでは私の・・・・私の気持ちが・・・・」
マハープラジャーパティーは、その場で泣き崩れた。
その時、仏陀の後ろに従っていたアーナンダが恐る恐る仏陀に申し出た。
「あの・・・世尊、こう言っては何ですが、その・・・・マハープラジャーパティー様は、世尊の養母様であらせられますし、世尊がカピラバストゥを訪れて以来、五戒を守り、仏・法・僧の三宝に帰依してまいりました。とても立派な仏教徒です。ですから、どうかマハープラジャーパティー様のお気持ちをくんで、この衣を受け取ってはいただけないでしょうか」
「アーナンダ、汝の言っていることはよくわかる。マハープラジャーパティーが、どれほど優れた仏教信者であるかも、私はよく知っている。しかし、それと個人への布施とは関係のないことだ」
「しかし、そこをなんとか・・・・」
「よいかアーナンダ。何故、個人への布施が禁止されてるのか、汝はわかるか?」
「あ、はい・・・・、それはシャーリープトラ尊者から教えていただきました。個人的な布施は、その布施を受け取ったものを増上慢に陥らせる、うぬぼれが強くなり、欲が生まれ、もっと布施を求める心を生んでしまう、だから個人への布施を禁止している・・・そういうことでした」
「その通りだ、アーナンダ。それがわかるなら、マハープラジャーパティーの申し出を私が断るのもわかるであろう」
「ですが世尊。世尊は完全なる悟りを得られた方。いくらなんでも増上慢に陥ることなどあり得ません。ですから、ここは慈悲の心でマハープラジャーパティーの申し出をお受け下さい」
「アーナンダ・・・・、汝はやはり・・・・」
仏陀はしばらく考え込んだ。そして
「よろしい、受け取りましょう」
と言った。その言葉を聞き、マハープラジャーパティーは、大いに喜んだ。そして、喜びの満ちた心で、カピラバストゥへ帰って行ったのであった。

「アーナンダよ」
仏陀がアーナンダを呼び寄せた。
「この衣は、私から教団に布施をする。誰が身につけても良い。さぁ、教団の布置き場へ持っていくがよい」
「せ、世尊・・・・。世尊が身につけるのでは・・・・」
「アーナンダ、何度も言わせるな。布施は個人になされるものではない。教団になされるものなのだ。今回は、特別である。汝のために・・・・」
アーナンダは、なぜ自分のためなのか意味がわからなかったが、仏陀の目がいつもにも増して厳しく自分を見つめていたので、
「わかりました」
と答え、黄金の衣を祇園精舎内の倉庫へと持っていったのだった。
戻ってきたアーナンダに仏陀は尋ねた。
「アーナンダ、眠れるようになったのか?」
「あ・・・はい、あれ以来よく眠れるようになりました」
「そうか、それは良かった。女性の手が追いかけてくる夢は見なくなったのか?」
「はい、それも見なくなりました」
「アーナンダ、汝は、優しすぎる。特に女性に対しては。男女は平等である。女性に気持ちが傾かぬように注意せよ」
アーナンダは、深々と頭を下げたのだった。
アーナンダ自身、それは気づいていたことだった。どうしても、女性が涙ながらに訴えかけてくると、首を縦に振ってしまうのである。女性の頼みを拒否することができないのだ。心優しいと言えばそうなのだが、気弱と言えば気弱である。そのため、幼いころから女性には騙されたり、痛い目にあってきたのだった。しかし、それがアーナンダの性分なのである。わかってはいたが、アーナンダにはどうしようもないことであった。

さて、黄金の衣は出家者たちの間で話題になってしまっていた。悟りを得ていた長老たちは、誰もがそれを身につけることを拒否した。仏陀に布施されたものである。それを長老だからといって身につけることは、仏陀をないがしろにしている、と言うことになる。仏陀を超えたのか、と揶揄されるに決まっているのだ。だから、誰もが黄金の衣を身につけることを拒んだのであった。
しかし、誰かが身につけなくては、衣を無駄にすることになる。問題はそこにあった。
「そもそも世尊が身につければ、問題は解決するのではないか」
長老の一人がそう言いだした。
「確かにそうであるが、世尊は身につけないであろう。世尊が教団に布施したものだからな」
「ふむ。布施をした者が布施をした品物を自ら身につけることはあり得ない。それでは、布施の意味がないからね」
「では、誰がこれを身につけるのか?」
「やはりシャーリープトラ尊者がよいのではないか?」
「私は遠慮します。それよりも、細かく裁断して、他の布と縫い合わせたら如何ですか?」
「おぉ、さすが智慧第一。素晴らしい意見だ。それがいい」
シャーリープトラの提案に、長老たちは黄金の衣を裁断することにした。しかし、いざハサミを入れようとすると、
「うぅぅん、しかし、これを裁断するのか?。もったいないような気がするのう・・・・」
と言って、誰もが裁断することすら拒み始めたのであった。
「誰も身につけない。誰も裁断することすらできない。うぅん、ある意味、迷惑な衣だなぁ」
「世尊にもう一度相談しよう」
結局、長老たちは黄金の衣について仏陀の判断を仰ぐことになったのであった。

長老たちの話を聞いた仏陀は、長老たちを一度見回すと
「マイトレーヤ、汝が身につけるがよい」
と、あっさりと決めたのだった。そして、
「今後、豪華な布・衣・袈裟の寄付は禁ずる。布はぼろ布でよろしい。金糸銀糸でできた衣の寄付は、どんな場合であろうと受け付けないことにする」
と宣言したのであった。新たな戒律が生まれたのである。
一方、黄金の衣を身につけるように指名されたマイトレーヤは、戸惑いを隠せなかった。しかし、仏陀の命である意以上、逆らうことはなかった。きっと、そこには意味があるのだろう、とマイトレーヤも他の長老も納得していたからだ。
マイトレーヤはさっそく、黄金の衣を身につけた。すると・・・。
彼は黄金の光に包まれた。優しい、やや女性的な容姿であったマイトレーヤだったが、黄金の衣を身につけると、とたんに光り輝き始め、仏陀と同じ32の相が現れたのである。これには誰もが驚いた。
マイトレーヤは、静かに結跏趺坐し、仏陀と向き合った。すると、そこにはもう一人仏陀が現れたような情景が生まれたのだった。
ただ仏と仏・・・・・。仏陀と仏陀が見合っていた。黄金の光が二人の仏陀を包み込んだのだった・・・。

マイトレーヤという出家者は、バラナシの生まれであった。家はバラモンである。父親は、バラナシの大臣を務めてもいた。礼儀正しい、教育の生き届いた家庭で彼は育ったのである。彼の親戚にバーバリというバラモンの学者がいた。マイトレーヤは青年になると、バーバリの元に預けられ、バラモンの教えについて学んでいたのだった。ところが、バーバリはバラモンの学者でありながら、仏陀に深く帰依していた。バラモンの祭祀は職業として行うけれども、教えにおいては、仏陀の方が深いのだということをよく理解していたのだ。そこで、バーバリは自分の弟子を仏陀の弟子にしたいと願っていたのだった。本来ならば、自分が出家したいくらいであったが、高齢であることと、祭祀の職をやめることができなかったため、あきらめていたのだ。バーバリは15人の弟子を仏陀のもとで出家させた。マイトレーヤもその中の一人だったのである。
彼は、仏陀の弟子としても優秀であった。出家後、一週間もしないうちに悟りを得た。外見は、細く弱々しそうに見えるのだが、立ち振る舞いは堂々としたものであった。物静かで、他の出家者に見受けられない風格のようなものが備わっていた。シャーリープトラやモッガラーナのような、目立った弟子ではなかったが、誰もが一目置いていたのは間違いはなかった。しかし、他の長老のようにように弟子の面倒をみることはあまりなく、いつも一人で静かに瞑想していたのであった。マイトレーヤは、そのような人物であったため、他の長老をさしおいて黄金の衣を身につけるように命じられた時でも、他の長老は誰もが納得したのだ。マイトレーヤは、どこか我らとは違う、何かが違う、とわかっていたのである。

仏陀とマイトレーヤは見つめ合っていた。
「マイトレーヤよ、予言をしておこう。私が涅槃に入ってより、56億7千万年後、汝は次の仏陀となる。汝はそれまで兜率天で修行する。この世での生を終えたなら、汝は直ちに兜率天に向かうのだ。その地で、菩薩として修行を重ねるのだ。汝、怠ることなかれ。次の仏陀として必ず世に生まれるのだ。よいか、マイトレーヤ」
「はい世尊。私は怠ることなく、次の仏陀になるまで、菩薩行に専念します」
仏陀はマイトレーヤの言葉を聞き、微笑んでうなずいたのであった。この会話は、当然ながら他の修行者には聞こえてはいなかった。
光はやがて消えていった。そこには、仏陀と黄金の衣を手に持ち、普段の衣を身につけているマイトレーヤの姿があった。
「マイトレーヤ、その衣は汝が持っていればよい。身につけるかどうかは、汝が決めることだ」
「はい、わかりました世尊。私は、この黄金の衣をこの世で身につけることはないでしょう。しかし、どこへ行こうとも、私はこの衣を持って移動いたします」
そういうと、マイトレーヤは神通力によって黄金の衣を持ちやすい大きさに小さくしたのであった。
こうして、黄金の衣の件に関しては解決をしたのだった。
なお、マイトレーヤは、この後、故郷のバラナシに戻った。バラナシで12年間の布教活動をしたのち、涅槃に入った。涅槃に入ったマイトレーヤは、直ちに兜率天に向かい、弥勒菩薩となったのである。

黄金の衣の件が解決した数日後、再びマハープラジャーパティーが祇園精舎を訪れた。今度は、一人ではなかった。十数名の女性をカピラバストゥから引き連れてきたのだ。彼女たちは、いずれも宮中にいた女性たちであった。その中には、仏陀が出家する前、シッダールタであった頃の妃、ヤショーダラーの姿もあった。
彼女たちは、マハープラジャーパティーを先頭に祇園精舎の仏陀が修行されている部屋までやってきたのであった。彼女たちの表情は、大変厳しいものであった。


107.女性の出家・その1
「私たちにも出家をお許しください」
マハープラジャーパティーは、仏陀をまっすぐに見つめてそう言った。仏陀は、彼女をしばらく無言で見つめていたが
「女性の出家は認めない」
と一言だけ言った。そして、立ち上がろうとしたのだった。
「待ってください。私たちの出家を許してはくださらないのですか?」
マハープラジャーパティーは、立ち上がった仏陀の前に土下座して、そう頼み込んだ。仏陀は、静かに再び座り直した。そして、ゆるやかに
「女性の出家は認めません」
と言ったのだった。それでも、彼女は、懸命に頼み込んだ。
「どうしてもダメなのですか?。なぜですか?。私たちも同じ人間ではないですか。なぜ男性はよくて、女性はダメなのですか。お願いです。私たちの出家を認めてください」
「何度頼まれても認めることはできません」
仏陀は、三度断ると、今度はすっと立ち上がり、さっさと森の奥へと歩き去ったのだった。
その様子を見ていたアーナンダは、うろたえていた。マハープラジャーパティーは、恩のあるシュッドーダナ王の妃であったひとである。無碍にもできない。しかし、自分は仏陀のそばについていなければいけない立場であった。仏陀の後を追うべきか、マハープラジャーパティーの世話をするべきか・・・・。彼は悩んだ。そのため、決断が遅れた。そして、彼はマハープラジャーパティーに縋られることとなったのだった。
「アーナンダよ、あなたからもお願いして欲しい。どうか、どうか、出家を認めてくださるよう、仏陀様にお願を・・・・。シュッドーダナ王が亡くなられてから、カピラバストゥは混乱のなかにあります。私たちシュッドーダナ王に仕えてきた者たちは、この先どのような処遇になるかわかりません。あのような混乱の中にいるよりも、心静かに過ごしたいのです。私についてきた者たちは、みな同じ考えです。仏陀様のかつての妃ヤショーダラーも同じ考えです。仏陀様がラーフラ王子を連れて行ってしまった時は、それはもう恨んだことでしょう」
マハープラジャーパティーがそこまで話した時、ヤショーダラーがアーナンダの前に進み出てきた。
「そうです。あの時は・・・・確かに夫を・・・いえ、仏陀様を恨みました。私は・・・・私は・・・ラーフラをシュッドーダナ王のあとを継ぐべき王子として育てていましたから。でも、今になってなぜ仏陀様があのようなことをされたのか、よくわかるのです。もし、ラーフラが城に残っていたならば・・・・。考えただけでも恐ろしい。もしかしたら、命を奪われていたかもしれません。あのとき、仏陀様がラーフラを連れていって下さったおかげで、我が子は命を落とさずに済んだのでしょう。今は、感謝こそすれ、恨んでなどいません。むしろ、出家を望んでいます。あのような城には、もういられないのです。ぜひ、ぜひ、アーナンダ様からも口添えをお願いいたします」
「お願いいたします」
マハープラジャーパティーについてきた十数名の女性たちが、一斉にアーナンダに頼み込んだ。全員、アーナンダにひれ伏して・・・。
アーナンダは、恐ろしくなった。とてもとても恐ろしかった。十数名の女性から頭を下げられ、お願いされることは、彼にとって恐怖そのものだったのだ。彼は慌て、うろたえた。
「あ、あ、あ・・・・そ、その・・・・私には・・・・」
「アーナンダ様。あなたは仏陀世尊に仕える身ではないですか。どうか、どうかお口添えを」
アーナンダの心は弱かった。まだまだ弱かった。彼女たちの申し出を断ることなど彼にはできなかったのだ。
「わかりました。世尊にお願いしてみます」
と返事をしてしまったのだった。アーナンダの返事に、マハープラジャーパティーたちは一安心したのか
「今日は一旦城に戻ります。しかし、改めて出家の願いに来ます。その時は・・・・アーナンダ様、よろしくお願いいたしますね」
とほほ笑んで祇園精舎をあとにしたのだった。
こうしてアーナンダは、また悩み事を抱えることとなったのである。

翌日の午後のこと、仏陀が祇園精舎の修行者全員を集めた。
「明日の朝、ヴァイシャリーに向かう。かの地の郊外、マハーヴァナに修行堂を造っていただいた。そこに向かうことにする。ただし、そこに向かうのは全員ではない。ここに残る者も必要だ。数名の長老とその長老に従い修行をする者は、ここに残る。誰が残り、誰がヴァイシャリーに向かうかは、長老の間で決めるがよい」
仏陀はそういうと、あとのことをシャーリープトラに任せて、自らは自室に籠ったのだった。アーナンダはすかさず、仏陀についていった。
「世尊、よろしいいでしょうか」
アーナンダの言葉に仏陀は、アーナンダの方を向いたのだった。それは話を続けなさい、という意味であった。
「その・・・・急に旅立たれることになったのは、昨日のことが原因でしょうか?」
「昨日のこと・・・・マハープラジャーパティーらのこととは関係はない。以前よりヴァイシャリーの長者から、ヴァイシャリーの郊外に修行道場を建立するから立ち寄って欲しいという願いがあったのだ。この度、その道場が完成するという連絡を受けたのだ。そこで、旅立つことにしたのだ。他に理由はない。それよりもアーナンダ、自分の身の丈以上のことをたやすく引き受けるではない。自分で処理できぬことは、安請け合いしてはならぬ。断る勇気も大切なのだ。できないのに、できるといって引き受けるのは、相手にも迷惑がかかることである。身の程を知るがよい」
仏陀の言葉に、アーナンダは冷や汗が出た。しかし、彼はその時は何も言いだせなかった。仏陀はさらに続けた。
「アーナンダよ、汝は早朝に旅立てるように準備をせよ。他の長老の意見を聞き、持っていくもの、おいていくものを分けて、誰がそれを持つのか決めておくように。よいな」
仏陀はそういうと、すぐにアーナンダを他の長老の元へと遣わした。それは、アーナンダが外部の人間と接触しないようにするための配慮であったのだ。アーナンダのこと、仏陀が旅立つことをカピラバストゥに戻ったマハープラジャーパティーらに知らせることを阻止したのだ。それは、彼女らに出家をあきらめさせる手段でもあった。宮中に長くいた女性にとって、カピラバストゥからヴァイシャリーへの旅は過酷なものとなる。若い女性ならともかく、年老いたマハープラジャーパティーには大変厳しいものとなるであろう。これで彼女たちが出家をあきらめてくれれば、と考えたのであった。
翌日の早朝、まだ陽が昇る前に仏陀たち一行は祇園精舎をあとにしたのだった。

その数日後の午後のことであった。マハープラジャーパティーが二人の侍女をつれ、祇園精舎を訪れた。アーナンダに仏陀の様子を尋ねようと思ったのだ。しかし、祇園精舎を訪れたマハープラジャーパティーは、対応に出た若い修行僧の告げた言葉に、驚いたのだった。
「数日前に、世尊ら主だった修行者たちは、ヴァイシャリーに向かって旅立ちましたよ。」
彼女はその場で倒れこんでしまった。
祇園精舎近くに住む者たちの手によって、マハープラジャーパティーはカピラバストゥに無事に戻された。その際、長老の一人が付き添った。長老は
「世尊が旅立たれたということを聞いただけで、気を失うようでは出家は無理かと思います。悪いことはいいません。出家して修行をするよりも、在家のまま、この城にとどまったまま、在家の修行をされたほうが御身のためでもありましょう。無理はなさってはなりません」
と言い残して去っていったのだった。マハープラジャーパティーは、朦朧とする頭でその言葉を聞き、
「あぁ、確かに私が甘かった。中途半端な気持ちで出家を望んでいたからこうなったのだ。こんなことではいけない。もっと決意を固めねば・・・・」
と出家への気持ちを新たにしたのだった。

それからというもの、マハープラジャーパティーは出家を望む宮中の女性をひそかに集め、体力作りや健康な身体になるよう、指示したのだ。
「いいですか。長旅になります。途中には獣や山賊と出くわすこともありましょう。そのためにも、体力が必要です。それと、何よりも出家したいという揺るぎない心が必要です。何があってもくじけない、世尊についていくという固い決意が必要なのです。それがないものは、今回は止めておいた方がいいでしょう。絶対に出家したいと望む者だけが残りなさい」
マハープラジャーパティーの言葉に、出家を望んでいた女性たちは、誰一人脱落することはなかった。彼女たちは、身分を問わず、栄養をとり、体力作りに励んだ。
そして、10日もたったある日のこと
「明日、未明に城を出ます。城を出たらすぐにニグローダ園に向かいます」
と出家を望む仲間の女性に告げたのだった。彼女たちは、喜びの中にいたのだった。
翌日、彼女たちはひそかに城を抜けだし、ニグローダ園に集まった。そこでマハープラジャーパティーは彼女らに言った。
「髪を落とし、頭を剃って、これに着替えてください」
彼女が示したのは、ウコンで染めた粗末な袈裟であった。
彼女たちは、お互いに髪を切り、頭を剃り合った。そして、着なれた宮中の衣から、粗末な僧衣と袈裟に着替え、靴を脱いだ。修行者は裸足である。その姿に従ったのである。それは、真剣に出家修行をするという決意を表していた。また、それと同時に、女性にとっての旅の安全につながるものであもあった。女性であっても出家者ならば、襲われることがないからである。修行者は男性女性に関わらず、厚遇されたのだ。女性の出家者を許さなかったのは、仏教教団だけであった。他の教団は、女性出家者がいたのである。
「このような姿であれば、人に襲われることはない。また、道中、危険な道は商隊が助けてもくれよう。裸足はきついかもしれないが、出家者は裸足が当たり前のこと。みなさん、堪え忍んでヴァイシャリーに向かいましょう」
こうして、彼女たちは、贅沢な宮中の生活を捨てて、過酷な道を選んだのであった。しかし、それは決して間違った道ではなかった。やがて訪れるカピラバストゥの悲劇を見ることなく、またその被害を受けることもなかったのであるから。しかし、その時点では、そのような悲劇が起こることは誰も知らなかった。

仏陀らがヴァイシャリーの郊外にある修行道場に到着して、一ヶ月が経とうとしていた。そんなある日の昼下がりのこと、修行道場の外に倒れ込むように座っていた十数名の女性出家者らしき者をヴァイシャリーの街に向かう商人たちが見つけた。
「大変です、大変です。お堂の外に、出家者らしき女性が倒れていますよ。お釈迦様、長老様、どなたかおられませんか」
商人たちは、お堂の中に向かって叫んだのだった。


108.女性の出家・その2
倒れこんでいる女性出家者らしき者たちを見つけた商人たちは、新しいお堂に向かって修行者を呼んだ。その声に応じてお堂の中から出てきたのはアーナンダだった。
「おぉ、アーナンダ尊者様、よかった。この方たちをどうすれば・・・」
見れば、確かに出家者の姿をした十数名の女性たちが、お堂の前に倒れ込んでいた。
「お釈迦様のお弟子さんたちですか?・・・あ、でもお釈迦様のお弟子さんに女性はいないですよねぇ・・・」
商人の一人がアーナンダに尋ねている。アーナンダはどう答えていいか、わからなかった。お釈迦様の弟子と言っていいのか、それとも・・・・・。アーナンダは迷った挙句
「と、とりあえず、お堂の中に入れていただきませんか。わ、私は、出家者ですので・・・女性に触れてはいけないのです」
と商人たちに頼み込んだ。商人たちは「そうだな、ここに寝かせておくわけにもいかないし」とか「出家者は大変だな、女性に触れちゃいけないんだ」とかつぶやきながら、倒れこんでいる女性たちをお堂の中に運んだのだった。そして、アーナンダはさらに商人の一人に
「すみませんが、医者を連れて来ていただけませんか」
と頼んだのだった。

ヴァイシャリーに新しく作られた修行道場は、通りに面して大きなお堂があった。お堂に入ると、そこは、多くの修行者が瞑想ができる道場になっている。雨に濡れる心配もなく、暑さも感じさせない、快適なお堂であった。その奥には通路があった。通路を行くと房舎になっている。房舎は、お釈迦様や悟りを得た長老は個室があり、まだ悟りを得ていない修行者たちは、十数名ずつに分かれて寝泊まりできるようになっていた。
商人たちが倒れこんでいる女性出家者らしき者たちを見つけた時は、多くの修行者が食事を終え、鉢を洗ったり、午後からの修行のための準備をしている最中であった。そのため、多くの修行僧は房舎の中にいた。ただ、アーナンダだけが、午後から瞑想を行う修行僧のために、お堂を掃除していたのだった。アーナンダは、そのお堂の中に倒れていた女性たちを入れたのだった。
商人たちが女性をお堂に運び入れていると
「なんだ、どうしたというのだ」
「何か騒がしいが、何があったのだ」
と修行僧が奥の房舎からお堂に入ってきた。
「おぉ、なんと。それは女性ではないか」
修行僧の一人が驚いて声を上げた。アーナンダは、事情を説明しようとしたが、その前に商人の一人が言った。
「えぇ、この人たち、このお堂の前に倒れ込んでいたんですよ。で、そのまま見過ごすわけにもいかず、私らがお堂の前で声をかけたんです。いや、なに、この人たち、ほら、出家者の姿でしょ。てっきりお釈迦様のお弟子さんかと思いましてね。で、そしたら、アーナンダ尊者様が現れて、まあ、とりあえず中に運ぼうということになったんですよ」
商人の説明に一人の修行僧が
「お釈迦様の弟子に女性はいない。女性をお堂に入れていいのか?。これは問題じゃないか?」
と声を荒げた。
「し、しかし、その・・・あのまま放置しておくわけにもいかず・・・。もし見捨てて亡くなってしまうようなことがあったら・・・」
アーナンダは、あたふたしながら訴えた。商人たちも
「あのままにしていたら、アーナンダ尊者のおっしゃる通り、死んでしまいますよ。それに、今、医者を呼んでいます。仕方がないんじゃないですかい?。まあ、お固いことは言わないで、しばらくの間、こうして休ませたやっちゃどうです?」
と不服そうな顔をしている修行者たちに言ったのだった。それでも、修行僧たちは納得ができず、それぞれが口々に「戒律はどうなのだ?」、「女はいかんだろ、おんなは」、「しかし、放置もできないし」などと言い合っていたのだった。そこに、長老たちもやってきた。
事情を聞いた長老たちは
「とりあえず、アーナンダの対処はよかったと思う。世尊でもそのようにされたであろう」
という意見で一致した。智慧第一のシャーリープトラが長老を代表して言った。
「しばらくの間、お堂は使えない。瞑想や修行は、ここでなくてもできる。房舎でも可能だ。また、房舎の周りには広い森もある。この女性たちが体力を回復するまで、堂内を使わせてあげればよいではないか。したがって、まだ悟りに至っていない修行者は、しばらくの間は堂内に立ち入ってはならない。あとの処置に関しては、世尊にお願いしようではないか」
長老たちの指示に修行僧たちは従った。彼らは、そのまま房舎へと戻って行ったのだった。その中の一人にシャーリープトラは、「世尊に伝えてくれ」と頼んだのだった。

「アーナンダ尊者。この方たちはあなたの知り合いですね?。釈迦族の女性たちだね?」
シャーリープトラは、修行僧がすべて出ていってしまったあとで、アーナンダに尋ねた。アーナンダは小声で「はい」と答えた。
「世尊は、女性の出家を拒否された。そのことは承知ですね?」
「はい」
「では、あとのことは、アーナンダ、あなたにお願いいたします。どうすればよいか、わかっていますね?」
「は、はい・・・・しかし・・・・」
「しかし?」
「しかし、シャーリープトラ尊者様、なにゆえ女性が出家してはならないのでしょうか?」
「さぁ・・・・。それは私にもわかりません。しかし、世尊が決められたことですから、何か理由があるのでしょう」
「シャーリープトラ尊者にもわからないのなら・・・・・。いいや、私は、その理由が知りたい」
アーナンダの言葉に、シャーリープトラは「余計なことは考えない方がいい」とだけ言い残して、お堂を去って行った。他の長老たちはアーナンダに憐みの目を向けただけで、何も言わず立ち去ったのだった。
そこに医者がやってきた。
医者によると、長旅の疲労によって倒れ込んだのであろう、ということであった。特に病にかかっているとか、怪我があるとかいった心配はなかった。十分休養をし、栄養をとれば、数日のうちに歩くことができるようになるであろう、ということであった。
アーナンダは、ホッとしたのであった。

アーナンダは、すぐさま仏陀の元へ行った。
「アーナンダ、報告は受けている。で、その者たちの容態はどうであった?」
「はい、極度の疲労ということです。数日で回復すると・・・・」
「マハープラジャーパティーらであったか?」
「はい、そうです。マハープラジャーパティー様ら十数名の皆さんです」
「ヤショーダラーも含まれているな?」
「はい・・・・」
「なんという無茶なことを。あれほど断ったのであるが・・・・」
「世尊、彼女たちは出家者の姿をしておりました。頭を剃り、みすぼらしい袈裟を身につけ、裸足でここまで歩いてきたのです。どうか、どうか、皆さんの出家をお許しください」
アーナンダは、床に頭をすりつけ仏陀に懇願したのだった。
「それはできぬ、と何度も言っているであろう」
「なぜですか世尊。なぜ女性は出家できないのですか?」
「女性には危険が多すぎるからだ。出家者の修行は、一人で瞑想することが多い。瞑想中や修行中に襲われることもあろう。そうなれば、落とさなくてもよかった命を落とすことにもなる。あるいは、傷つかなくて済んだ心が傷つくことになる」
「危険を排除すれば、なんとかなるのではないでしょうか?」
「他の男性の修行者の、修行の妨げにもなろう。女性から誘惑せずとも、女性の肉体に迷うものが出てくるのだ。欲望というものはそういうものだ。欲望を制御することができる悟った者たち・・・長老たちは大丈夫であろうが、他の者たちは・・・・女性が近くにいるというだけで欲望にさいなまれることになる。出家した頃の決意が鈍ることもある。それでは真の目的である悟りを得ることに至らぬことになる」
「修行者の目につかないようにすれば・・・」
「どのようにだ?。たとえば、アーナンダ、朝起きてまず何をするか?」
「沐浴します」
「そのときに、まだ悟っていない修行僧の前に裸体の女性が沐浴をしていたら、そのものはなんと思うか?。アーナンダよ、汝のように、もともと女性に対する欲望が希薄な者はよい。女性を見ても心が欲望でかき乱されないものはよいのだ。しかし、多くの男性は、汝のようではない。むしろ、女性を見れば、ましてやそれが沐浴をしていて裸体であるならば、欲望に心をかき乱されるのだ。悟りを得ていない者は、それが抑えられない。それがどういうことかわかるね?」
アーナンダは答えられなかった。確かに、アーナンダは女性に対して欲望が希薄であった。女性と肉体的関係を持ちたいという一般的な男性の欲望が欠けていたところがあった。しかし、男性の欲望はわかっていた。多くの男性は女性に対し、特別な欲望を持つことを十分にわかってはいたのだ。
「たとえばアーナンダ、托鉢を終え、精舎に帰って来て、女性出家者が何も食事を得られずに泣いていたとしよう。そこに男性出家者が自分の食事を分け与えた。そこまではよい。が、悟りを得ていない者たちは、そうしたときに個人的な愛情を持ってしまうものなのだ。特別に親しくなるきっかけを与えてしまうのだ。それが何を意味するかわかるね、アーナンダよ」
再びアーナンダは答えられなかった。そうしたことがきっかけで特別な関係が生まれてしまうことがあることは、十分理解できるのだ。
「アーナンダよ。房舎で寝泊まりする場合、悟りを得ていない者たちは、十数名の集団で寝泊まりする。その中に女性が混じっていたらどうなるか?。あるいは、女性たちが集団で寝泊まりすることにしよう。しかし、便所に起きることもあろう。そのときに、何があるかわからないであろう。悟りを得ていないものは、己の欲望をうまく扱えないのだ。抑えることができないのだ。もし、女性修行者を犯した場合、それはお互いの不幸であろう。襲った修行者も不幸、襲われた女性修行者も不幸。なにも、わざわざ罪を犯させるような危険な環境を作る必要はなかろう。長い間、女性に触れず修行に明け暮れていても悟りを得られないものは多くいる。そうした者たちは、飢えた獅子同様の行為をすることもあるのだ。こうした危険が回避できない以上、女性の出家を認めるわけにいかないのだ。わかるね、アーナンダ」
仏陀は、優しくアーナンダを諭した。アーナンダは、うなだれるばかりであった。

アーナンダは仏陀の世話係をしている関係上、仏陀と一緒の部屋で過ごしていた。仏陀がアーナンダを世話係にしたのは、仏陀の配慮であった。気が弱く、周囲に流されやすい反面、一度決めたら頑固にやり通してしまうというアーナンダは、他の修行僧とはうまくいかないであろう、と仏陀はわかっていた。また、弟のダイバダッタにいいように利用されてもいけないと思っていた。そして、最も注意していなければいけなかったのは、アーナンダは情にもろかったのだ。特に女性には優し過ぎたのであった。
仏陀がアーナンダの出家を拒んだのは、こうした問題・・・女性の出家・・・が、彼を出家させればいずれ起こるであろうということが、わかっていたからである。しかし、アーナンダは出家してしまった。仏陀は、そこに決して曲げられない流れ・・・運命・・・があることを痛感していた。
「どうしても避けられない道はあるのだ・・・・。それが因縁というものだ。これは遥か昔から約束されたことなのだ・・・・」
仏陀は一人でそうつぶやいていた。

アーナンダは、かいがいしくマハープラジャーパティーらの世話をした。彼女たちを心から心配していたのだ。そうした姿を見て、
「アーナンダは、女性の世話しながら、自分の欲望を満たしている。戒律違反だ」
とアーナンダを非難する声も多く聞かれた。しかし、アーナンダはそうした非難を気にすることもなく、彼女らの世話をしていた。食事を運び、水を運び、着替えを用意し、汚れたものを洗濯した。毎日、毎日、かいがいしく世話をしたのだった。そうした姿に、やがて非難する者はいなくなった。また、長老たちも
「アーナンダは、君たちのような欲望は持たないのだ」
と教えていたことも、非難が消えた要因にもなっていた。
マハープラジャーパティーらが倒れ込んだ日から一週間がたった。
「アーナンダ尊者、ありがとうございました。お陰でここまで回復できました」
その日、マハープラジャーパティーら十数名の女性たちは、頭を綺麗に剃り直し、清潔な袈裟を身につけ、アーナンダに頭を下げた。そして
「これほどまで世話になってしまい、本当に申し訳ないことです。この上、こんなことを頼むのは心苦しいのですが・・・・、世尊にお取次をお願いいたします。また、どうか私たちの出家を世尊が認めてくださるよう、お口添えをお願いいたします」
とアーナンダに懇願したのだった。アーナンダは、完全に板挟み状態になってしまったのだった・・・。


109.女性の出家・その3
アーナンダは悩んでいた。
「さて、どうしたものか・・・、困った・・・・大いに困った・・・・。世尊は、お許しにならないだろうなぁ・・・」
アーナンダを悩ませていたのは、マハープラジャーパティーらの願いである「女性の出家の許可」である。仏陀からは、すでに一度ならず女性の出家は認めるわけにはいかないと断られている。にもかかわらず、マハープラジャーパティーらは、このヴァイシャリーまで仏陀を追いかけてきてしまった。その思いが、アーナンダの心を揺さぶっているのだ。
「アーナンダよ、きなさい」
仏陀に声をかけられ、アーナンダは内心びくびくしながら、仏陀の前に進み出た。
「マハープラジャーパティーらの様子はどうだ。もう体調は戻ったのか」
仏陀は優しくアーナンダに問いかけた。
「は、はい、もう起き上がれるようになりました」
「そうか・・・・では、旅はできそうか」
この言葉を聞いた瞬間、アーナンダは、仏陀がマハープラジャーパティーらをカピラバストゥまで追い返すつもりであると思いこんだ。
「そ、それはまだ・・・・まだ無理です。ようやく起き上がれるくらいでして・・・・」
「アーナンダ、何を恐れているのか。ウソを言わなくても良い。私は、マハープラジャーパティーらをカピラバストゥへ追い返そうなどとは思ってはいない。どの程度回復したかを聞いているだけだ」
心を見透かされたアーナンダは、恐縮して、固まってしまった。
「もうよい。どうやら普通の状態まで回復したようだな。そういうことならば・・・・アーナンダ、マハープラジャーパティーらが話があるのなら、聞いても良い。汝の都合のよいときに連れてくるがよい」
仏陀は、アーナンダに考える時間を与えたのであった。しかし、それはアーナンダを追い詰めることにもなった。これにより、アーナンダは、グズグズしていられない、と意を決したのである。

それでもアーナンダはすぐに行動には出なかった。自分なりに考えをまとめていたのある。そうして、三日ほど時が流れたある日のことだった。アーナンダは、仏陀のもとに行った。
「世尊、今日の午後、お話があります。房のほうへお邪魔してよろしいでしょうか」
「マハープラジャーパティーらも一緒か」
「はい、一緒です」
「ならば、瞑想堂にて聞こう。マハープラジャーパティーらが今いる堂だ。綺麗に片づけておくがよい。そもそもあの場所は、瞑想のためにある場所である。彼女らを寝泊まりさせるための場所ではない」
仏陀はそういうと、すっと立ち上がり、鉢を手にして托鉢へと向かったのだった。アーナンダは、すぐさまマハープラジャーパティーらの元へと駆けて行った。

「マハープラジャーパティー様、喜んでください。世尊がお話を聞いて下さるそうです」
アーナンダは、喜び勇んでお堂の中に入った。
「おぉ、アーナンダ尊者、それは本当ですか。おぉ、そうですか・・・ようやく、ようやく世尊にお会いできますか・・・・。それで、世尊のご様子は・・・・」
マハープラジャーパティーは、そこが最も気になっていた。しかし、アーナンダにそれがわかるはずもなく、
「は、はい・・・世尊は、その・・・・いつもと変わった様子はなく・・・・もう托鉢に向かわれました。そ、そして・・・・」
「そして?」
「話は・・・この場所で、と・・・・。なので、この中を片づけておくようにと・・・・」
アーナンダの言葉に、マハープラジャーパティーらはがっくりと肩を落とした。
「この堂内を片付けよ、ということは・・・・。荷物をまとめよ、ということと同じこと。はぁ・・・世尊はどうあっても私たちの出家を認めてはくださらぬか・・・・・」
マハープラジャーパティーらは、みな肩を落とした。中には、泣きだす者までいた。その様子を見ていたアーナンダは
「大丈夫です。私に策があります。なんとか、世尊に皆さんの出家を認めていただくように話をいたします。私に任せてください」
と、いつになく力強く宣言したのであった。

仏陀が托鉢から帰り、食事も終え、口中をすすぎ、落ち着いたところを見計らって、アーナンダは仏陀の前に進み出た。
「世尊、よろしいでしょうか」
仏陀はアーナンダの言葉に、静かにうなずき、立ち上がった。そして、マハープラジャーパティーらがいるお堂へと向かったのだった。
お堂にはいると、仏陀は静かに中央に座した。
「マハープラジャーパティーらよ、体調はもうよろしいか」
「世尊、お陰さまでこのように回復いたしました。アーナンダ尊者には、ずいぶんと迷惑をかけました」
仏陀は、静かにうなずくと、マハープラジャーパティーの次の言葉を待った。
「世尊、世尊には何度も断られていますが、私たちはどうしても出家して修行がいたしたく、ここヴァイシャリーまで世尊を追いかけてきました。どうか世尊、私たちの出家を認めてください」
マハープラジャーパティーの懇願に、仏陀は無言であった。
「どうか、お願いいたします」
マハープラジャーパティーらは、仏陀の前にひれ伏し、頭を地につけたのだった。
「マハープラジャーパティーよ、私は何度も汝らの出家を断った。その理由もわかっているはずである」
「もちろん、承知しております。しかし、どんなことがあろうとも、私たちは出家して修行がしたいのです。どうかお願いいたします」
仏陀は、再び無言になった。その様子を見て、アーナンダが恐る恐る仏陀に尋ねた。
「あ、あのう・・・・せ、世尊、一つお尋ねしたいことが・・・・」
「アーナンダよ。何か、言うがよい」
「世尊、もし女性が、世尊の教えに従って出家し修行したならば、女性でも男性と同じように修行の成果はあげられますか?」
「アーナンダよ。女性であっても、私の教えに従って、日々修行に励めば、男性修行者と同じように修行の成果を上げることはできるであろう」
「では、修行すれば、悟りを得ることも可能なのですね」
「可能である。ただし、男性修行者よりも、その可能性は低くなろう」
「それでも、悟ることはできるのですね」
「女性であっても悟りを得ることはできる」
「世尊、でしたら私はマハープラジャーパティー様たちが悟りを得た姿を見てみたいです。何年も修行しても悟りを得られない男性修行者の励みにもなります。私もより一層修行に身が入ります。なによりも、悟りを得られるかもしれない機会を奪い取るのは、それは如何なものなのでしょうか」
「アーナンダよ、汝がそのように言うことはわかっていた。確かに女性であるからという理由だけで、女性が悟りを得る機会を奪ってしまうのは、私の意に反することである。わかった、アーナンダよ、マハープラジャーパティーらの出家を認めよう」
仏陀の言葉に、マハープラジャーパティーらは驚きのあまり、固まってしまった。一瞬耳を疑ってもいた。
「い、今のお言葉・・・・本当でございますか?。世尊は、私たちの出家をお認めくださるので・・・・」
「認めよう。汝らの出家を認めよう。ただし!」
仏陀の顔が厳しくなった。
「条件がある。私の示す条件を必ず守ることだ。アーナンダよ、長老たちを集めるがよい」
仏陀は、長老たちの前で、その条件を示し、女性の出家を公にしようとしたのであった。

やがて長老たちが集まった。仏陀を中心に長老たちが左右に並んで座った。仏陀の前には、アーナンダとマハープラジャーパティーらが並んで座っていた。
「長老の者たちも聞いていおいて欲しい。本日、私は条件付きで女性の出家を認めた。その条件を長老の者らも覚えておいて欲しい。
まずは、基本的条件からだ。男性出家者を今後ビクと呼び、女性出家者をビクニと呼ぶ。ビク、ビクニは、生活場所はもちろんのこと、修行場所も区分けをする。ビクニの指導に当たるのは、悟りを得た長老、及び私が認めた者だけである。ビクの集団、ビクニの集団と分けることが基本である。その上で、次の8ケ条を守ることだ」
仏陀は、厳しい目でマハープラジャーパティーらを見据えた。
「第一に、出家して百年の経歴を持つビクニであっても、その日に資格を得たビクに対し、合掌礼拝し、尊敬しなくてはならない。つまり、ビクニは、いくら経歴や修行年数があっても、ビクよりも上位になることはない。
第二に、ビクニはビクのいない場所で雨安居してはならない。雨季に行う雨安居は、ビクニだけで行ってはならないのだ。これは、危険だからである。必ず、長老が率いるビクの集団とともに行うこと。ただし、当然ながら僧房は別である。長老は、よく指導をしなければならない。
第三に、ビクニは月に二回、ビクの僧団から戒律の反省と説教を授けられなければならない。女性の出家者は社会的に見て大変少ない。出家者としての心得のない女性、下地ができていない女性が大半である。これは、そのために必要な条件である。
第四に、ビクニは雨安居のあとで、ビク・ビクニの僧団に対し、修行の純潔の証を立てなければならない。不本意ながら、ビクニの純潔性が奪われることもある。雨安居は雨季の間、僧房に籠る修行である。たとえ、僧房を分けたといえども、どんな間違いがあるかわからない。従って、雨安居のあとは、ビクニの純潔を立証せねばならないのだ。
第五に、ビクニが重大な罪を犯した場合は、ビク・ビクニの僧団から半月間の別居あつかいを受けなければならない。重大な罪が何であるかは、その都度話し合うべきである。すなわち、罪の度合いによって、半月の別居修行が科せられる、ということである。
第六に、ビクニの見習いは、二年の間、一定の修行をしたうえで、ビク・ビクニの双方から、出家の儀式を受けなければならない。ビクニが認めただけでは、正式なビクニとしては認められない。ビクの長老の許可がいるのだ。
第七に、どういうわけがあっても、ビクニは、ビクを罵ったり、非難してはならない。もし、ビクに落ち度があった場合は、私か長老に相談すること。なぜならば、修行において、ビクニに非難されたり罵られたりしたビクは、他のビクに非難されたり罵られるよりも恨みを持つものである。余計な恨みは買わぬがよい。女性は、口が過ぎるきらいがある。余計なことを言って、恨まれていては修行にならぬ。口は慎むべきものだ。
第八に、ビクニはビクの罪をなじってはならない。理由は、第七と同じである。ただし、ビクはビクニの罪を批判し、指導しなければならない。その際、ビクニは素直にビクの言葉に従うこと。疑問に思うことがあれば、私か長老に相談するがよい。
以上の条件を汝らは守れるか否か」
仏陀の問いかけにマハープラジャーパティーは、
「この身が朽ち果てようとも、この世が終わりを告げようとも、私たちはその条件を守り通します」
と答えた。仏陀は、その後、
「条件を守れるか否か」
という問いを二回繰り返した。マハープラジャーパティーも、同じ答えを繰り返した。答えを聞いた仏陀は、一つうなずくと
「この条件は、汝らだけでなく、今後新たに出家するであろうビクニも守るべき条件である。マハープラジャーパティーら、汝らがこの条件を飲んだことは、今後継承されねばならない。それでも、この条件を守るか否か」
と再びマハープラジャーパティーらに尋ねた。彼女等は、当然ながら、「守ります」と答えた。そして、これも同じことが三度繰り返されたのだった。
こうして仏陀は、女性の出家を認めたのである。正式に女性修行者を認めた宗教教団は、仏教教団が初めてのことであった。

「マハープラジャーパティーよ、今後、ビクニの集団の代表は汝に任せる。汝が責任を持って、他の者たちをまとめるように。また、ビクニの指導は、長老以外、してはならぬ。よいな」
仏陀は、更に念を押した。
「では、この堂から中庭に出て、僧房の準備が整うのを待つがよい」
仏陀の指示により、アーナンダがマハープラジャーパティーらを中庭に案内した。アーナンダは、彼女らにすぐに戻るといい、仏陀のもとに指示を仰ぐために戻った。
「アーナンダよ、そこに座るがよい」
アーナンダを待ちうけていたのは、厳しい表情をした仏陀であった。
「アーナンダよ、確かに女性でも悟りを得ることはできる。しかし、それは大変困難で危険な道である。その困難で危険な道を汝は通してしまった。これより、我が僧団は、抱えなくても良い困難や危険を抱えたこととなる。それがわかるな?」
仏陀の問いかけにアーナンダは、下を向いたままうなずいた。
「しかし、私もそれを認めた以上、できるだけ困難や危険は取り除いていこうと思う。ここにいる長老たちも同じ考えだ。汝が通した道は、ここに座る長老たちにも大きな仕事を与えてしまったのだよ。そのことを忘れるではない。
アーナンダよ、汝が困難と危険を伴う道を開いたことで、私の正しい教え・・・正法(しょうぼう)・・・は、千年続いたはずが五百年になってしまった。正しい教えは、私の入滅後、千年続くはずだったのだ。汝は、それだけの困難と危険を持ちこんだのだよ。そのことも忘れてはならない。
シャーリープトラ、モッガラーナ、マハーカッサパ・・・アーナンダを従え、ビクニの場所を作るように・・・・」
それだけを言うと、仏陀は少し寂しそうな顔をして立ち去ったのであった。
つづく。


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