ばっくなんばー25

110.こだわり
マハーカッサは、少々腑に落ちないところがあった。
「世尊は何故このようなことを許可したのか、私には未だに理解できぬ」
それに答えたのはシャーリープトラであった
「女性の出家を許可したことですか?」
「あぁ、そうだ。シャーリープトラ尊者よ、あなたはどう思うか?」
「そうですねぇ・・・・。世尊も本意ではないと思います。できれば、女性の出家は許可したくはなかったことでしょう。アーナンダ、あなた、世尊から言われてませんか?」
シャーリープトラはアーナンダに尋ねた。シャーリープトラ、マハーカッサパ、モッガラーナ、アーナンダでビクニの修行場所、居住場所を手配しているときのことである。彼らは、アーナンダに段取りを指示していたのだ。
シャーリープトラに質問され、アーナンダは作業の手を止め小さな声で言った。
「はぁ・・・。その・・・・世尊は・・・・千年続くはずだった正しい教えが五百年しか続かなくなったと・・・・」
「ふん、やはりな・・・そうまでして何故世尊は・・・」
マハーカッサパは、憤った。アーナンダを睨んでもいた。
「まあまあ、世尊にも考えがあるのです」
「シャーリープトラ尊者、汝はよく冷静でいられるな。修行の妨げになるのだぞ。悟りを得ていない者にとっては、女性の存在は苦しみを生むだけだ。困ったものだ。それを指導する我々も気を引き締めねばいけない。あぁ、瞑想の時間がまた削られる・・・・」
「マハーカッサパ尊者よ、落ち着いてください。よくよく考察すれば、世尊の気持ちも、女性の出家を許可した理由もわかるでしょう。あなたらしくありません」
そういわれて、マハーカッサパは黙り込んだ。それまで黙っていたモッガラーナが口を開いた。
「マハーカッサパ尊者の気持ちは分からないでもないが、避けられない因縁もあるのだ。それに、あのまま世尊が女性の出家を認めなければ、彼女等は余計に危険な状態にさらされるであろう。世尊は、そこまで考えておられる。さらに、あのまま彼女らをカピラバストゥに返すわけにもいくまい。彼の国は、やがては・・・」
「モッガラーナ、それは言わぬことだ。そこまで言わなくても、マハーカッサパ尊者は世尊のお考えを理解できている」
シャーリープトラは、モッガラーナを横目で睨んでそう言った。マハーカッサパは
「あぁ、わかってはいる。わかってはいるのだが・・・・。私は、もともと女性に対し教えを説くのが苦手なのだ。私には出家前に妻がいたのだが、その妻には指一本触れなかった。妻も男女関係を望んでいなかったからよかったが・・」
「その奥さんは今は?」
シャーリープトラが尋ねた。
「あぁ、そういえば、私と一緒に家を出て修行の旅に出たのだ。あぁ、思いだした。私は約束をしていたのだ。お互いにすばらしい聖者に出会ったら教え合うことを・・・・」
「ならば、呼んであげればいいじゃないですか。世尊は女性出家者を認められた。マハーカッサパ尊者の奥さんも出家できる」
「シャーリープトラ尊者よ、そんな簡単にいうが・・・・」
「いや、そんな簡単なことですよ。尊者がなにをこだわっているのか、私にはわかりません。あなたは、固すぎるところがあります。いや、妙にこだわるところがある。思い出したくはありませんが、あなたも維摩居士には注意を受けているでしょう」
シャーリープトラは、そういうと大きな溜息をついた。そして、モッガラーナやマハーカッサパと顔を合わせ、がっくりと肩を落としたのだった。

ヴァイシャリーに到着して、間もなくのことであった。新しい修行道場は快適であった。誰もが、気持ちよく修行に励むことができた。また、ヴァイシャリーの街の人々は、仏陀の弟子には大変親切であった。
ヴァイシャリーの新しい道場は、街の富豪である維摩(ゆいま)という大商人が寄付したものであった。彼は、街の人々から維摩居士と呼ばれていた。しかし、彼は、その大修行道場を一人で寄付したにもかかわらず、誰にもそのことを吹聴するでもなく、自慢することもなかった。ただ、条件があった。修行者以外では維摩だけは出入り自由、という条件である。その条件により、維摩居士は毎日のように修行道場へ現れていた。
修行道場へ現れるだけならば、別に誰も何も言わなかった。が、しかし、彼はただ修行道場を訪れるだけではなかったのだ。仏陀の弟子一人一人と問答をしていたのである。シャーリープトラもモッガラーナもマハーカッサパも、維摩居士に問答を吹っかけられ、痛い目にあっているのである。たとえば、マハーカッサパは、こうだった。
ある日のこと、マハーカッサパはヴァイシャリーの街はずれの貧民街を托鉢していた。マハーカッサパは、托鉢をするとき必ず貧民街を廻っていた。それはどの街に滞在しているときも同じであった。
「マハーカッサパ尊者ではありませんか」
そう声をかける者がいた。維摩居士である。
「あぁ、これは維摩殿。こんなことろでどうされましたか」
「それを聞くのは私のほうですよ、マハーカッサパ尊者。あなたは毎日このような貧民街でいったい何をされているのですかな?」
「何をと・・・もちろん、托鉢です」
「なぜわざわざこのような貧民街まで足を運ばれるのですかな?。しかも、毎日・・・・」
「はぁ、私には信念があるのです。托鉢は貧民街で、という。私は、心にそう決めているのです」
「ほう、それはまたなぜにそのように決めているのですかな?」
「貧しき者は、前世において物惜しみをしたがゆえに、このような貧民街に生まれ変わることとなった。彼らがこのような貧民街から脱出するには、この世で施しをするべきでしょう。彼らをこの貧困から救うには、施しをさせるのが最も良い方法なのです。それは維摩居士殿もよくご存じではなりませんか」
「なるほど、それで尊者は貧民街を選んで托鉢しているわけですな」
「そうです。それが彼らの救いになるからです」
マハーカッサパが力強くそういうと、維摩居士は急に笑い始めたのであった。
「ふっふっふ、あっはっはっは・・・なんと愚かな!。マハーカッサパ尊者よ、あなたは愚か者だ!」
「ゆ、維摩居士・・・何をおっしゃるのか・・・」
「愚か者だから愚か者、と言ったまでじゃ。はぁ、汝は、何にもわかっておらぬ」
維摩居士はそういうとマハーカッサパを鋭い目で睨んだ。
「では汝に問う、金持ちと貧困の者、その差は何であるか?」
「か、金があるかないか・・・・」
「愚か者!、金持ちと貧困の者、それらに差などない。よいか、世尊は絶対平等を説いていらっしゃるではないか。金持ちと貧困の者に差などない。たまたま金があるかないかの違いはあっても差別はないのだ。汝は、貧困の者だけを托鉢して回っている。それは、金持ちに対する差別であろう。汝は、金持ちを軽蔑しているのか?。いや、貧困の者に対して、同情しているのか。よいか、同情は上からものをみているから起きる気持ちだ。つまり、汝は心のどこかで貧困の者を軽蔑しているのだ。見下しているのだ。何が救ってやらねば、だ。汝はそんなにも立派な人間なのか。汝と貧困の者、その差は何じゃ?」
「うっ・・・・」
維摩居士に問い詰められ、マハーカッサパは、何も答えられなかった。
「マハーカッサパ尊者よ、汝は大変優れた修行僧じゃ。だが、こだわりを捨てきれておらぬ。こだわりを持っているということは、差別や蔑みの心を持っているということだ。それは真の悟りではない」
その言葉を聞いた時、マハーカッサパは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「あっ、あぁ、そう・・・・ですね。いや、その通りです。私には確かにこだわりが・・・・」
「よいか、マハーカッサパ尊者よ。こだわりだけではない。吾が救ってやろうとか、功徳を積ませてやろうとか、貧困から脱出させてやろうとか、いいところへ生まれ変わらせてやろうとか、そんなことを考えて托鉢してはならぬ。托鉢するときは、托鉢することだけ思い、相手が誰であるとか、この托鉢によって功徳が積めるであろうとか、そんなことを考えて托鉢してはならぬのだ。相手がだれであろうが、功徳がどうであろうが、そんなことは修行僧の汝が思うことではない。そういうこだわりを、捨て去ってこそ真の悟りなのだ。わかったかね、マハーカッサパ尊者よ」
マハーカッサパは、その場で動けなくなってしまった。まさに維摩居士の言うとおりだったのである・・・・。

「あれからいろいろ考えたのだが・・・・。確かに維摩居士の言う通りなのだが・・・・」
「なかなかこだわりは捨てきれませんか?」
「ふむ・・・・。欲望などのこだわりはないのだが、殊のほか修行になると・・・・」
「確かにマハーカッサパ尊者は、袈裟も他の修行者よりボロをまとっていらっしゃる。托鉢の鉢も壊れかけで、綺麗なものではない。わざわざそうされているように思うのですが・・・・」
シャーリープトラの問いに、マハーカッサパは困ったような顔をして言った。
「これは癖なのかもしれぬな。ついついボロを選んでしまう。ついつい誰も見向きもしない道具を選んでしまう。別に意識しているわけではないのだが・・・・。托鉢の時など自然に足が貧民街に向いてしまうのだ。こだわっているつもりはないのだが・・・・」
「世尊は何かおっしゃっているのですか?」
「汝がそう思うのなら、それでよいではないか、と・・・・・。しかし、維摩居士に言われたことを打ち明けたら・・・・」
「打ち明けたなら?」
「少し微笑まれた。それでうなずいてそのまま無言であった」
「では、あまり気にされないほうがいいでしょう。維摩居士の言葉を気にするのもこだわりですよ」
「そう・・・・なのだが・・・・」
マハーカッサパは、困った顔をして上を向いたのだった。

そうこうしているうちに尼僧の居住場所が出来上がっていった。修行場所も囲われていった。
「とりあえずこのような感じでよろしいでしょうか?」
アーナンダが、マハーカッサパらに聞いてきた。
「ふむ、よいではないのか。あとは、我々長老がしっかり見張っていればいいことだ。モッガラーナ、君の神通力に期待するよ」
シャーリープトラが、快活に答えた。モッガラーナは
「まあ、ウソはすぐにわかるからねぇ。しかし、神通力を使うのも集中力がいる。それは君もよく知っているじゃないか。毎日毎日、神通力を使いっぱなしというわけにもいかない。やはり、長老の皆さんの協力がいる。そう思うと。マハーカッサパ尊者じゃないが、確かに厄介なことではあるな」
モッガラーナはそういうと、アーナンダを横目で睨んだのである。アーナンダは恐縮したのだった。それを見て、シャーリープトラは、アーナンダに向かって
「アーナンダ、一言注意しておく」
と言った。その口調には厳しさがあった。それは、比較的穏やかなシャーリープトラにしては、珍しいことであった。
「アーナンダよ、これから汝は、ビクニたちが問題を起こすたびに、お前のせいだ、というようなことを言われるであろう。それほど責任重大なことを汝はいい出したのだ。そのところをよく理解しておいてくれ」
「はい、シャーリープトラ尊者。私は、女性の出家を願い出た時より、なにか彼女らにあった時は、矢面になる覚悟ができております。皆さんには、やっかいなことを持ちこんでしまったとも思っております。しかし、女性でも悟りが得られると世尊がおっしゃった以上、私は放っておくことはできなかったのです。そのことをわかっていただきたいとも思います」
アーナンダは、3人の尊者に深々と頭を下げたのであった。
「それだけの覚悟ができているなら、いいのではないかな。なぁ、モッガラーナ、マハーカッサパ尊者」
「それに世尊が許可したことだからな。協力はするよ」
モッガラーナは、そういってアーナンダを優しく見たのであった。
「女性でも悟りを得ることはできる・・・・か」
マハーカサッパは、そういうと自分の修行場所へと歩いていったのであった。その後ろ姿を見て
「マハーカサッパ尊者のことは気にするな、アーナンダよ。彼には彼の考えがある。それでいいのだ」
とシャーリープトラはアーナンダに言った。アーナンダは、うつむき加減でうなずいたのだった。
「さぁ、アーナンダよ、元気を出して、女性出家者たちを呼んできなさい」
シャーリープトラに言われ、アーナンダは彼女らの元へと駆けて行ったのだった。こうして、尼僧修行集団が誕生したのであった。


111.呪われた遊女
ヴァイシャリーの新しい修行道場は、活気にあふれていた。女性たちが新たに修行に加わったことは、男性修行者・・・ビク・・・たちにいい結果をもたらした。今まで修行していても悟りを得られなかった修行者たちは、女性に負けられない・・・とより一層修行に励むようになったのである。
「世尊、彼女たちの出家は、よい効果を生んでおります。女性出家者・・・ビクニ・・・を認めたことは、他の修行者に対し、よい刺激になったようです」
シャーリープトラが、ビクニについての状況を仏陀に報告しに来ていた。
「シャーリープトラよ、物事はある一方側だけから眺めてはいけない。今は好結果をもたらしていることでも、やがて問題を起こすこともあるものだ。よくよく注意して見守ってもらいたい。そのことを他の長老にも伝えておくように。油断は禁物である」
仏陀は、いつものように淡々とシャーリープトラに伝えたのだった。シャーリープトラも、気持ちを引き締めてうなずいたのであった。
しかし、シャーリープトラの報告を聞いて、ホッとしていたものがいた。アーナンダである。シャーリープトラの報告は、アーナンダに対し行われたのである。もちろん、仏陀も承知していた。仏陀は、シャーリープトラ、アーナンダ、双方に対し、油断は禁物、と言ったのであった。

「女性出家者を仏陀が認めた」
このことは、ヴァイシャリーだけにとどまらず、マガダ国やコーサラ国へと広まっていった。しかも、
「女性でも悟りは得られる」
と、仏陀が認めたことも同時に各国へ伝わっていったのだった。これは画期的なことであった。
当時、女性修行者いるにはいたが、正式に女性の修行者を認めた大きな教団はなかったのである。小さな修行者の集団の中にたまに女性が混じっているとか、女性だけの修行者の小さな集団があるとかいった程度だったのだ。
バラモンはもちろん、仏教教団とともに多くの修行者を集めていたジャイナ教でも女性修行者は認めていなかった。ましてや、女性が悟れると認めたのは、仏陀が初めてだったのである。

その女性は、仏陀が女性でも悟れるといったという噂話をラージャグリハの郊外にある邸宅で聞いた。その女性はウッパラバンナーという名の遊女だった。ただし、遊女とはいえ、千の金貨を積まないと相手にはしないという遊女だったのである。従って、広大なマンゴー園を持ち、大きな邸宅に住み、召使いを何人も抱えていた・・・・。

当時のインドでは、遊女は国が認めた職業であった。職業として遊女は成り立っていたのである。中には、ウッパラバンナーのように、大金を用意しないと相手にしてもらえない遊女もいた。彼女ら遊女は、カースト制度の中では、商人と同等として扱われ、決して奴隷階級ではなかった。立派な職業だったのである。

「その話は本当なのか?」
ウッパラバンナーは、食事を運んできた侍女に聞き返した。
「はい、ラージャグリハの街では、そのうわさ話で持ちきりです。自分も出家しようか・・・という女性も何人も出てきています」
「そう・・・そうなのか・・・女性でも悟りは得られる・・・そう仏陀様がおっしゃったのだね・・・。そうなのか」
ウッパラバンナーはそうつぶやくと、侍女を下がらせた。それ以来、彼女は、自室に籠ることが増えたのだった。
彼女の生い立ちは、呪われた人生と言っても過言ではないだろう。実際、彼女を知る人々は、
「マガダ国一美しいが、呪われている遊女」
と言っていたのである・・・・。
ウッパラバンナーは、コーサラ国の大きな商人の家に生まれた。生まれながらにして大変美しい容姿を持った彼女は、幼いころより、「コーサラ国一輝く娘」と讃えられたのだった。そのため、年頃になると、多くのものが求婚に彼女の家を訪れた。そして、彼女を嫁に迎えたのは、コーサラ国の首都シュラーバスティーに住む、ある長者であった。
その長者の家に嫁いで間もなく、ウッパラバンナーは身ごもった。彼女は、幸せな日々を過ごしていた。そんなある日のこと、夫の留守中に、夫の父親が彼女に襲い掛かってきたのである。夫の父親は、かねてよりウッパラバンナーの美貌にひかれ、いつか関係を持とうと企んでいたのであった。息子が仕事でマガダ国へ旅に出たところを狙ってウッパラバンナーに襲い掛かったのだ。もちろん、彼女は抵抗した。大声をあげ、助けを求めたのだ。その声を聞き、召使たちや近所の者たちが彼女の家にやってきた。これはマズイと思った舅は、近所のものにこう言ったのだった。
「この女は、息子が留守になった途端、わしを誘惑してきた。どうやら、他にも男がいるようなのだ。とんだ食わせ者の汚れた女だったのだ。今、わしは、この女を追い出そうとしていたのだ。こんな汚れた女は、我が家に不釣り合いだからな」
ウッパラバンナーは驚いた。驚いて
「舅はウソを言っています。不貞を働き掛けてきたのは舅の方です。私は、汚れてはいません」
と言ったが、誰も彼女の味方はしなかった。近所の者や召使いの者は、舅を怖れ、舅が嘘を言っていると知っているにもか関わらず、誰も彼女を庇うことはしなかったのである。仕方がなく、彼女は家を出ることになった。
ウッパラバンナーは、すぐさまありったけの金を持って、マガダ国の夫に元へと旅立った。しかし、身重の女の足である。マガダ国へはなかなかたどり着けなかった。
やがて、マガダ国の首都ラージャグリハにたどり着いた彼女は、そこの宿で男の子を出産した。彼女は、ラージャグリハで小さな家を借り、息子と過ごすことにした。そうして夫を探そうと思ったのだ。このとき、ウッパラバンナーは、まだ15歳になったばかりであった。
ある日のこと、彼女がほんの少し目を離したすきに、彼女の息子はさらわれてしまった。彼女は、半狂乱になり、息子と夫を探した。しかし、二人とも見つからなかった。そうした日々が続いたある日、今度は、彼女が盗賊に捕まった絵しまったのである。盗賊の首領は彼女に言った。
「俺はお前のような美しい女を嫁にしたかったのだ」
こうして、ウッパラバンナーは、盗賊の首領の嫁となってしまったのである。
やがて、彼女は身ごもり、女の子を産んだ。そんな頃には、彼女には上品な面影はなく、すっかり盗賊のアネサンになっていたのだった。ある日、彼女は、盗賊の夫とケンカをした。そして、そのはずみで娘を落としてしまった。娘は頭にけがを負い、その傷はいつまでも消えることなく残ってしまった。ウッパラバンナーは、その傷を見るたびにその時の生活が嫌になり、こっそり盗賊のアジトから抜け出て、ラージャグリハに戻り遊女となったのだった。このとき、彼女は17歳であった。
それから十数年がたった。ウッパラバンナーは、マガダ国一の遊女となっていた。彼女と遊ぼうと思えば、千の金貨を用意しなければならないと言われていた。一方、さらわれたと思われていた彼女の息子は、旅商人となっていた。その時の名をダッタと言った。
「ダッタ、お前はマガダ国一の遊女と遊んだことはあるか?」
商売仲間からそう言われたダッタは、そのとき初めてウッパラバンナーという遊女を知った。そして、誘われるがまま、ウッパラバンナーと遊ぶことにしたのだった。ダッタは、一目見て彼女に心を奪われてしまった。彼女もまた、ダッタのことを忘れられなくなってしまった。間もなく、二人は結婚してしまったのである。もちろん、親子であるとは思いもよらなかった。このとき、ダッタは、17歳になったばかり、彼女は33歳であった。
その後、ダッタは旅先であ知り合った盗賊の娘を嫁として連れ帰ってきた。その娘は、まだ16歳であったが、大変美しく、ウッパラバンナーに引けを取らなかった。
ある日のこと、ウッパラバンナーが、その娘の髪をとかしている時、頭に傷跡があるのを見つけた。彼女は、その娘に父親の名を尋ねた。それは、なんと自分の夫だったのだ。つまり、その娘は自分の娘だったのである。
その話をダッタは、聞いてしまった。彼は、もっと詳しく二人の生い立ちを話すように迫った。そうして、ウッパラバンナーの口から語られた話は、ダッタを死に追いやってしまったのだった。
そう、ウッパラバンナーは、自分の息子と結ばれ、なおかつ娘と夫を共有してしまったのだ。息子のダッタに至っては、自分の母親と妹と結ばれてしまったのである。知らなかったこととはいえ、これはダッタにとって大きな衝撃だった。その結果、ダッタは死を選んだのである。一方、妹は、そのまま行方知らずとなった。ウッパラバンナーは、いつか娘が帰ってくるかもしれないと思い、再び遊女に戻り、ラージャグリハにすんでいたのである。
遊女に戻ったウッパラバンナーは、その美貌からすぐに「マガダ国一の遊女」に返り咲いた。あっという間に金持ちになり、大きなマンゴー園を持ち、多数の召使いを抱えるようになったのである。しかし、そんな日々を彼女は呪っていた。

「私などは、とうの昔に死んでいなければいけなかった。呪われた遊女ウッパラバンナー。美しいが不幸な女。金は持っているが満たされることはない女・・・・・。はぁ・・・。その通りよ。私は満たされることはない。毎日毎日、生きていることを呪いながら生きている。こんな不幸な女なのに、世の男どもは、外見が美しいというだけで大金を積んで私を抱こうとする。愚かな男ども・・・・。愚かな女を金で買う愚かな男ども・・・・。それでも・・・・それでも、私は止められない。娘が・・・娘が帰ってくるまでは・・・・。でも、それも、もう叶わぬ夢なのか・・・」
その日も、ウッパラバンナーは酒を飲み、自分の人生を呪っていた。このところ、彼女は、彼女を求める男どもの申し出を悉く断っていた。
「男などもういらぬ。金ならある。もう男は必要ない。私の美しさも、もうすぐ終わる。どんな美しい花も、やがては枯れてしまうのだ。枯れれば見ていられないものになる。美しいが故に、枯れた時は余計に惨めなものだ。いずれ人々は言うだろう。『美しかったウッパラバンナーも、歳をとれば単なる小汚いババアだ』と・・・・。はぁ・・・私の人生って、いったい何だったのだろうか」
彼女は、来る日も来る日も自室に籠って、そんなことばかり考えていた。
「仏陀様は、女性でも悟りを得られるといったらしい。でも、私のような汚れた女では・・・しょせん無理よね。ふん、聞けば出家した女性は、もとカピラバストゥにいた宮廷の女たちだそうじゃないか。御身分が違う・・・・。長は前国王の妻、仏陀様の継母らしいし、その中には仏陀様の元奥様もいるというじゃないか。私は遊女・・・・。奥様方や女どもからは、目の敵にされる存在。いくら国が認め、世間が認めても遊女は遊女。仏陀様のもとで出家した女たちの仲間になれるわけがない」
彼女は、手にしていた盃を壁に思いっきりぶつけた。そして、そのまま眠りこんだのであった。目が覚め、酒を飲み、愚痴をこぼし、荒れ果てた挙句、酔いつぶれて寝てしまう・・・・。それがウッパラバンナーの日常であった。

そんなある日のこと、仏陀がラージャグリハの竹林精舎に帰ってくるらしいという噂が流れてきた。
「御主人様、御主人様」
召使いの女が、ウッパラバンナーの部屋の扉を激しく叩いていた。
「うるさいわねぇ・・・。頭が痛いのよ・・・。静かにして・・・・」
乱れた姿で出てきたウッパラバンナーに召使いは言った。
「仏陀様がラージャグリハに帰ってきます。国王様もお待ちかねで、ラージャグリハの街は、綺麗に掃き清められています。仏陀様が、竹林精舎にお戻りになるのです!」
召使いの女の顔は、喜々としていた。
「仏陀様がお戻りになる・・・・・。それはいつのこと、いつ?、いつなの?」
「は、はい、数日後のことと・・・・」
「そう、そうなのね。わかった。わかったわ・・・・」
ウッパラバンナーは、そういうと、その召使いに、
「家中にいる者たち、いいえ、マンゴー園にいる者たちも、全員集まるように言って」
と命じた。
しばらくして、ウッパラバンナーが雇っている召使い全員が彼女の前に集まった。
「みんなよく聞いて。この家にある私以外のもの、すべてお前たちにあげよう。さぁ、何でも好きなものを持っていくがいい」
と宣言したのであった。


112.表面に迷うな
ウッパラバンナーは、大きな声で宣言した。
「さぁ、好きなものを持っていくがいい。ただし、私以外のものだ。私以外のもので、欲しいものはすべてくれてやる。そして、あなたたちは今日から自由だ。どこへでも行くがいい」
その言葉を聞いた召使いたちは、いっせいに金目のものを手にし始めた。召使いどうし取りあいにもなっていた。それは、なんとも浅ましい姿であった。ただ一人、ウッパラバンナーにいつも付き添っていた侍女だけが、静かにウッパラバンナーの横に立っていた。
「あなたは欲しいものはないの?」
ウッパラバンナーは、一人残っていた侍女に聞いた。
「御主人様・・・・。御主人様は、出家なさるおつもりでしょう。私もお供したいと思っています」
「あなたも出家を?」
「はい、出家しても御主人様のお世話をいたしたいと・・・・」
「それはいけません。仏陀世尊は、出家者は平等であると説いています。ですから、あなたがもし出家したならば、私の世話をすることはできません。あなたも私も平等なのですよ」
「では、私はどうすればよいのでしょうか?。私は御主人様のお世話がしたいのです」
侍女のその言葉を聞き、ウッパラバンナーは嬉しさのあまり涙をこぼしていた。
「そんなことを言われたのは初めてだわ。ありがとう・・・・。今まで生きていてよかった・・・・。でも、出家者には、世話をする人は必要ないの。そうねぇ・・・・あぁ、そうだわ。ここから竹林精舎は結構離れている。同じマガダ国の首都内といえども竹林精舎は、北の外れ、ここは南の外れ。仏陀世尊の教団も大変多くの出家者を抱えることになったわ。だから、このマンゴー園を教団に寄付しようと思っているの。あなたは、このマンゴー園の管理者になって欲しい。そうすれば、出家者の皆さんを世話することができます。私だけでなく、多くの出家者の世話をすることができるのです。そのほうが徳が積めるでしょう」
ウッパラバンナーの提案に、その侍女は喜んだ。
「ありがとうございます。そうしていただければ、こんな嬉しいことはありません。私は、生涯、このマンゴー園を守り続けます。出家者の皆さんのために・・・・」
そういうと、その侍女は早速、マンゴー園を管理する準備に取り掛かったのだった。
ウッパラバンナーの部屋をはじめ、彼女の邸宅の各部屋の中は、荒れ放題に荒れてしまった。貴金属類はすべて消え去った。高価な布も、家具も、衣装も、細かな生活用品まで、お金になりそうなものはすべて持ち去られていた。
「なんとも浅ましいこと・・・・。人の欲望はなんと恐ろしいものか・・・・。さて、この家も売り払い、マンゴー園の中に精舎を建てましょう」
ウッパラバンナーは、そういうと邸宅を一人で出て行ったのであった。

数日後のこと、ウッパラバンナーが住んでいた邸宅は売却された。遊女であった彼女を贔屓にしていた大商人が買ったのであった。ウッパラバンナーは、そのお金で自分のマンゴー園に精舎を造るように依頼した。そのようにすべてを整え、彼女は髪を剃ったのだった。身につけていた高価な衣装を脱ぎ捨て、彼女は竹林精舎へと向かった。
「あっ、あれはウッパラバンナーじゃないか?」
「まさか・・・、髪の毛がないぞ。人違いだろう」
「いや、あの美しい姿、顔は、まさしくウッパラバンナーだ」
ウッパラバンナーは、なるべく目立たないように歩いていたのだが、すれ違う男性たちには、すぐにわかってしまった。男どもは、誰もがウッパラバンナーの姿に不思議そうな視線を投げかけてきた。中には、彼女を抱いたことのある男性もいて、「どうしたのだ」などと声をかけてきたが、彼女はすべてを無視して、ただただひたすらに歩き続けたのだった。肩を掴む者は身体をよじってよけ、腕を取る者は振り払った。その雰囲気はただならぬものがあった。やがて、彼女に声をかける者はいなくなったのだった。
その日の夕方のこと。ウッパラバンナーは、竹林精舎の門に立っていた。案内を請い、出家の意思を伝えた。若い修行僧は、美しいウッパラバンナーを見て、顔を赤くして仏陀のもとへと案内したのだった。彼女は、竹林精舎の奥深く、仏陀世尊がいらっしゃる座に至るまで、多くの修行僧とすれ違った。出家して間もない者は彼女の姿に見惚れた。悟りを得ていない者たちも茫然と彼女を見つめた。悟りを得ている長老たちは、困ったものだとでも言うように首を左右に振っていた。そんな光景を横目で見ながら、ウッパラバンナーは仏陀のもとへとまっすぐに進んだのであった。やがて、神々しく輝く仏陀の姿が目に入ったのだった。

「仏陀世尊、突然の訪問、お許しください」
ウッパラバンナーはそういうと、仏陀の足に額をつける最高の作法をもって仏陀を礼拝した。
「今日は、願い事があってこの精舎にやってきました。世尊はもうお分かりでしょう。私は、出家を希望しています。出家して、自分の呪われた人生から解放されたいのです。願わくば、出家のお許しを・・・・」
「ウッパラバンナー、汝の決意はわかっています。今、ビクニ・・・女性出家者のことです・・・の責任者をここへ呼びましょう」
仏陀はそういうと、後ろに控えていたアーナンダにマハープラジャーパティーを呼ぶように言った。
しばらくして、マハープラジャーパティーと他のビクニ一人がやってきた。仏陀はマハープラジャーパティーに
「新たなる出家者である。これよりビクニになる出家式を行う。ビクニであるゆえ、汝が立ち会うこととする」
と告げた。マハープラジャーパティーは、大きくうなずくとウッパラバンナーの横に座った。そして
「これから出家の意思が本当に固いものであるか、世尊が尋ねます。あなたは、思った通りに返事をなさい」
と彼女に言った。
代表的な長老たちも集まって来ていた。そんな中、仏陀が厳かにウッパラバンナーに質問をしたのだった。
「ウッパラバンナー、汝は仏陀に従うか、仏陀の教えである法に従うか、仏陀の弟子であるビクに従うか」
「はい、もちろん従います」
これが三度繰り返された。
「汝、戒律をいかなる時も守るか」
「はい、守ります」
これも三度繰り返された。
「よろしい、汝の出家を認めよう。なお、この後、戒律をすべて授ける。汝、誓い通り、戒を身につけるようにせよ」
仏陀はウッパラバンナーにそういうと、その場を立ち去ったのであった。
その後、彼女はマハープラジャーパティーらから、ビクニの戒律を学んだ。こうして、ウッパラバンナーは、ビクニになったのであった。

翌日のこと、ウッパラバンナーは、マハープラジャーパティーに自分が所有していたマンゴー園を教団に寄付したいと話した。マハープラジャーパティーは、さっそくその申し出を仏陀に伝えた。仏陀はこれを快諾した。そして、竹林精舎で修行をするすべての出家者を集めたのだった。
「竹林精舎で修行する汝らに話しておくことがある。昨日、新しいビクニが誕生した。汝らももう知っていよう、そのビクニは、外見が美しいと言われているビクニである。汝らの中にも、そのビクニの外見に心を奪われ、修行に身が入らないという者も出てこよう。すでに長老の中には、そのことを懸念して、指導がしにくいと憂いている者もいる」
仏陀の言葉に、マハーカッサパが大きくうなずいた。
「しかし、そのような憂いはもってはならぬ。長老よ、修行の指導は困難をともなうものである。新たな困難が生まれたと嘆く前に、己の指導力を磨くことが大事である。嘆いていても何も変わらぬ。愚痴を言っても始まらぬ。長老ら自らが、悟りの境地から堕ちるようなことになってはならぬ。為すべきことをただ為すがよい。
修行者よ、まだ、悟りを得ていない修行者よ。汝ら女性の色香に迷うことなかれ。心惑わされることなかれ。どんなに外見が美しくとも、やがては衰え、老人へと変貌するものだ。一時の美しさにとらわれるな。
どんなに外見が美しくとも、人間の身体には汚物が詰まっているのだ。一皮めくれば、血が噴き出し、骨が現れる。また、美しいと思われているその顔にも、身体にも無数の虫がついている。よくよく観察すれば、この肉体は、汚れたものなのだ。外見上の、ほんの一時の美しさに迷わされてはならぬ。
いや、そもそも美しさとは何ぞや。そんなものは、元より存在しない。それは、単なる幻想にすぎないのだ。汝らが勝手に造り出している妄想にすぎない。美醜の区別など自ずからない。
真理の世界からすれば、この世のものは、一切差別などないのだ。苦も楽もない、生も死もない、増も減もない、垢も浄もない、美も醜もない。それらは、汝らが勝手に造り出している幻なのだよ。
よいか、よくよく観察せよ。表面の差に迷うな、とらわれるな。一時の欲望に振り回されるな。よく欲望を制御し、静かなる境地に至れば、真理に目覚めるのだ。惑わされぬよう、修行に励むがよい。
長老たちよ、よく指導するように・・・・」
仏陀はそう言うと、修行に戻るように言った。そして、ウッパラバンナーをマハープラジャーパティーに任せたのであった。仏陀もウッパラバンナーの美しさに迷うものが出てくることを懸念したのある。

後の話であるが、仏陀のこの心配事は現実となる。ウッパラバンナーを数名の男性修行者が襲ったのである。そのときすでにウッパラバンナーは、悟りを得て神通力も身につけていた。彼女は、出家して間もなく悟りを得、神通力も使えるようになった。そこで彼女は、暴漢に襲われそうになると、神通力を使い、己の身体が汚れていることを見せたのだった。すなわち、一皮めくって見せたのである。それによりことなきを得たのだが、そうしたことはしばしばあった。中には、一人の修行僧から愛の告白を受け、精舎を逃げようとも言われたことがあった。ウッパラバンナーは、その修行僧に
「私のどこが好きなのか?」
と尋ねた。その修行僧は、彼女からそんな質問をされるとは思わず、嬉しそうに
「あなたの目が好きなのです。その美しい目が忘れられません」
と答えた。すると、ウッパラバンナーは、神通力によって
「では差し上げましょう」
と己の目をえぐり出して差し出したのである。彼女に好意を寄せていた修行僧はすぐさま逃げ出したのであった。
さらには、こんな事件もあった。
ウッパラバンナーが沐浴をしていると、ふいに男に殴打された。彼女は、意識がもうろうとしている中、その男に犯されてしまったのだった。このことは、教団内で問題となり、犯されたことが性行為にあたるのかどうかが議論された。ウッパラバンナーは、犯された瞬間を
「熱せられた鉄の棒を体内に入れられたように激痛と苦痛以外の何ものでもなかった」
と答え、犯されたことは性行為にあたらないとされたのだった。
このように、教団内にいると、彼女の周りには性的な事件がいつ起こるかわからないという状況であった。そこでウッパラバンナーは、誰も来ることがないような山奥に一人籠り修行することが多かったようである。
あまりにも美し過ぎたウッパラバンナーは、出家してからもその美貌により、悩み続けたのだった。まさに、美し過ぎることも罪だったのである。だからこそ、彼女は、人里離れ、なるべく世に姿を見せぬように、山中深いところでひっそりと修行に励んだのであった。しかし、その最後は、たまたまマガダ国の王宮に法を説きに行った帰り道に、ダイバダッタに殴り殺された、と伝えられている。ダイバダッタは、ウッパラバンナーが人里離れて修行しているにもかかわらず、マガダ国王妃に好かれているのが気に入らなかったのであった。妬みによる逆恨みであった。しかし、彼女は悟りを得ていたため、恨み返すことなく、この世去ったのであった・・・・。

マガダ国一美しい遊女の出家の話は、マガダ国全体に駆けめぐった。その影響からか、遊女たちの出家が相次いだのだった。彼女等は、世をはかなんでいたのだ。出家して心の平穏を得たいと思ったのであった。名前などは残ってはいないが、ウッパラバンナーの出家をきっかけに、女性出家者が増えたのは事実であった。尼僧教団もその人数が増えたのだった。


113.愚か者
ウッパラバンナーの出家は、遊女たちに出家の道を開いた。当時、インドでは、「ガニカー」と呼ばれる歌ったり踊ったりする女性たちがいた。彼女等は、演劇をするだけでなく、贔屓の客をとったりもしていた。遊女としての顔も持っていたのである。しかし、ガニカーたちは、今でいうスターやアイドルでもあった。従って、多くの客を集め、金銭的には潤っていたものが多かった。ウッパラバンナーは、遊女ではあったが、マガダ国一であることから彼女もまた裕福な生活をしていた。また、彼女たちは国が認めた遊女たちであったので、身分も保証されていたのだった。が、彼女たちの中には、自分の環境に虚しさを感じていたものも少なからずいたのだった。こうした遊女たちが、ウッパラバンナーの出家をきっかけに、竹林精舎へ駆けこんできたのであった。しかし、これは男性出家者・・・ビクたち・・・にとっては、大きな不安要素となったのであった。
仏陀は、ウッパラバンナーの出家の際に、女性の表面に迷うな、とビクたちに注意をしておいたのだが、それでも迷う者はいたのである。頭ではわかっていても、感情的に惑う者が少なからずいたのは事実であった。特に、出家して間もないものを指導していたマハーカッサパやシャーリープトラ、モッガラーナのもとには、そのような心弱き出家者が多くいたのだった。仏陀の説法のあと、一月ほどたったころのことであった。

「これでは修行にならぬ」
そうつぶやいたのは、マハーカッサパであった。長老たちが集まっていた席のことである。
「こう女性が多く出家してきたら、まだ悟りを得ていない者たちが迷ってしまうではないか。しかも、彼女等はもと遊女だ。男性を誘惑するのは得意だ。いや、そもそもその立ち振る舞いが、男性を誘惑しているようだ」
長老たちが集まっている中で、マハーカッサパは怒りをあらわにしたのだった。
「マハーカッサパ尊者が誘惑されるのですか?」
のんきにそう尋ねたのはアヌルッダであった。
「アヌルッダ尊者、言っていいことと悪いことがある。私は、すでに欲を制した者・・・阿羅漢(あらかん)である。何故、私が誘惑されよう。誘惑されているのは、私が指導している、出家して間もないビクたちだ」
険しい顔をしてマハーカッサパはアヌルッダを睨んだ。
「それは申し訳なかった。しかし、阿羅漢であるなら、そのように怒りをあらわにしなくても・・・・」
「私は怒ってなどいない。問題提起をしているだけだ」
「まあ、落ち着いてください。確かに、出家して間もない者たちの間では、折角出家したのに、ここでも欲で悩まされるのか、と嘆いている者もいます」
「そう、そうなのだ、シャーリープトラ尊者、それが問題であると私はいっているのだよ」
「ふむ、確かに、もと遊女たちが、出家して間もないビク達の前を歩くのは・・・・刺激が強すぎると言えば強すぎる」
モッガラーナ尊者は、腕を組み、一人うなずいていた。
「世尊は、表面の美しさに惑わされるな、とおっしゃってますが、修行のできていないビクにとっては・・・・」
他の長老たちも、そのように言いだしたのだった。
「しかし、そこをよく指導するのが、我々長老の仕事でしょう。私はそう思いますが」
そう言ったのは、ウパーリであった。
「ちなみに、私が指導しているビクたちは、いまのところ何も騒いではいません。ビクニの存在すら気にしていないという態度を貫いています」
ウパーリの反論に、他の長老たちは押し黙ってしまった。自分たちの指導力がない、と思われるのが嫌だったのであろう。
「ウパーリ尊者のもとには、優秀なビクが集まっているのでしょうな。しかし、中には、迷いに迷っている者もいるのです」
「マハーカッサパ尊者、そこを指導するのが我々の役目ではないですか」
ウパーリの言っていることは、まさに正論であった。そう言われると誰も反論はできなかった。
「どうです、みなさん、もうしばらく様子を見てみましょう。私もビクニの長老に注意をしておきます。それでしばらく様子を見ましょう。どうしても困難である、というのなら、私が世尊に進言します」
そうまとめたのは、シャーリープトラであった。多くの長老が、彼の言葉に賛同した。悩ましげに首を左右に振ったのは、マハーカッサパだけであった。しかし、多くの長老がシャーリープトラに賛同した以上、この問題はしばらく様子を見ることとなった。
「ところで、マハーカッサパ尊者」
長老たちがそれぞれ自分の修行場所に戻ろうとしていた時、シャーリープトラがマハーカッサパを呼びとめた。彼は、怪訝そうな顔をして、シャーリープトラを見つめたのだった。
「何事か、尊者よ」
「いえいえ、マハーカッサパ尊者の奥様だった方のことです。よいのですか、このまま放っておいて。世尊の弟子となるよう、進言しないのですか?」
マハーカッサパは上を見上げ、唸った。そして、シャーリープトラに向き直ると
「そのことは・・・・触れないでいただきたい」
と言って、歩きだしたのだった。その後ろ姿にシャーリープトラは
「いつまでもこだわっていないほうがいいと思うのですが」
と声をかけたのだった。マハーカッサパは何も答えず、静かに精舎の奥へと消えたのだった。シャーリープトラは、マハーカッサパの後ろ姿をしばらく見つめていたのだった。しばらくして
「さて、マハープラジャーパティー長老に話をしてきましょうか」
シャーリープトラは、そうつぶやくとビクニが修行する精舎へと歩を進めたのだった。

女性出家者が増えたことを機に、竹林精舎内には、ビクニ用の精舎が造られた。ビンビサーラ王の第3王妃アバヤマーターが是非寄付をしたい、と申し出たのだ。この第3王妃も遊女・・・ガニカー・・・出身であった。彼女もまた、出家を望んでいたのである。しかし、今は子供が小さいうえに、王妃という立場から離れることができずにいたのであった。アバヤマーターは、女性出家者が安全に修行できるように計らったのである。
とはいえ、女性だけで固めておくのはやはり危険であった。そこで、ビクニの精舎は、男性出家者たちの精舎の奥に造られたのであった。従って、ビクニは、托鉢から自分たちの精舎へ戻るときは、どうしてもビクの前を通過しなければならない。裏側に道などを造れば、ビクニは危険にさらされるので、これは仕方がないことであった。ただ、通過するだけの女性に心を奪われる男も男であるが、ビクニの中には、もと遊女の癖で、男性に媚を売るようなそぶりをしてしまうビクニもいたから、困ったことになっているのだった。
また、沐浴場などは、当然のことながらビクとビクニで別れてはいたのだが、ビクが見ようと思えばビクニの沐浴を見ることができたのだ。多くの場合は、男性同士、お互いに牽制し合ったりもしていたし、長老も見張っていたので、ビクニの沐浴を覗くような者は、まだ現れてはいなかった。
シャーリープトラが、そのビクニの精舎に行くと、彼女らはそろって瞑想にふけっていた。その数は数十名に膨れ上がっていた。シャーリープトラは、その姿を見て
「ふむ、私はなんとも思わないが、出家して間もないビクや、志が緩い者、中途半端な気持ちで出家した者は・・・・、迷うであろうなぁ・・・・」
と思わずつぶやいていた。
シャーリープトラの訪問にマハープラジャーパティーが気が付いた。
「長老様、何か御用で?」
シャーリープトラは、長老会議で話し合われたことを彼女に伝えた。彼女は、驚きを隠さなかった。
「そう・・・・ですか・・・。私たちの出家は、そこまで長老様たちを悩ませているのですか」
「いや、悩むというか、まあ、今後問題がないように、今から対処したほうがいいのではないか、ということであって・・・。まあ、私たちの指導力不足というのも否定はできないのですが・・・」
「わかりました。ビクニたちにしっかり指導しておきます。用もないのにビクの前をうろつかぬように、と」
「それとですね、今度アバヤマーター様がいらっしゃったときに、沐浴場に衝立を造ってもらえるように、お願いしてみてはどうかと思うのですが」
「あぁ、わかりました。ビクニたちは、あまり気にしていませんが・・・・あぁ、それでも、中には気にする者もいますねぇ・・・。そうですね、衝立があったほうがいいでしょう。わかりました。お願いしておきます」
マハープラジャーパティーの返事を聞き、シャーリープトラはさっさと立ち去ろうとした。それを彼女は引きとめたのだった。
「どうしましたか、長老」
「あ、いや・・・・その・・・・」
「迷っていないで、話した方がいい。隠しても、私が神通力を使えば、あなたの心は見通せます。ならば、隠さないほうがいいでしょう。私もあなたの心を覗くのは・・・いい気分ではありません」
シャーリープトラにそう言われ、マハープラジャーパティーは、一つうなずくと、とんでもないことを言い出したのだった。
「実は・・・カールダーイン長老なんですが・・・・」
「彼がなにか?」
「その・・・ウッパラバンナーに・・・・下着をくれと迫ってきたと・・・・」
シャーリープトラは、彼女の言葉に強い衝撃を受けた。
「なんと・・・・それは・・・・」
彼は、言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった。しかし、
「わかりました。詳しく状況を教えていただけないでしょうか」
とすぐに問い返したのだった。

ウッパラバンナーによると、それはほんの数日前のことであった。彼女が、仏陀に自分の土地であったマンゴー園にできたマンゴーを布施しようと届けた時のことであった。仏陀は、あいにくその時は不在であった。ところが、仏陀がいつも座っている場所にカールダーインが座っていたのである。
「カールダーイン尊者、そこは世尊の座る場所です。何故、長老が座っているのでしょうか?」
カールダーインは、ウッパラバンナーを見てにやにや笑い、
「手に持っているマンゴーは、世尊に渡すものかい?」
と聞いてきた。彼女は、気分が悪くなり
「長老に答える必要はありません。それよりも、早くその座から降りてください」
と強い口調で言ったのだった。カールダーインはニヤニヤしながら言った。
「まあ、降りてやってもいいが、それには条件がある。お前の下着を私によこすのだ」
ウッパラバンナーは、あまりにも下品な申し出に腹がったが、争い事になってはいけないと思い、自分を制御し言った。
「長老様がそのようなことを・・・・。いえいえ・・・・私たちにとって下着は手に入りにくいものです。それを差し上げるわけにはいきません」
「いや、いまお前が身につけている、その下着でいいんだ」
カールダーインは、そう言いながらウッパラバンナーに迫ってきた。彼女は、身の危険を感じ、慌てて下着を脱ぐと、カールダーインに投げ渡し、その場を走り去ったのだった。

「なぜ、もっと早く言わなかったのですか?。そんな大事なことを・・・・」
シャーリープトラは、彼女らにそう言った。しかし、ウッパラバンナーは
「相手がカールダーイン長老ですし・・・。しかも、もとは世尊と同じ釈迦族の貴族の方。私一人が黙っていれば事は大きくなりませんし・・・・」
「いやいや、そういう問題ではない。あなたが我慢すればいいという問題ではないのです。マハープラジャーパティー様もなぜ早く言わなかったのですか」
「申し訳ないです。今度の布薩会(ふさつえ、戒律を犯していないかという反省会。毎月1日と15日に行われた)に報告すればいいかと・・・・」
「いや、少し言い過ぎました。そうですね。あなたたちは、まだ出家して間もない。何を報告して何を報告しなくていいか、その判断もできないでしょう。わかりました。この話は、私の方から世尊に伝えます」
シャーリープトラは、そういうと彼女らに挨拶を済ませ、ビクニの精舎を立ち去ったのだった。

「た、大変だ!。マハーカッサパ様、大変です!」
シャーリープトラがビクニの精舎を去ろうとしていた時、ビクの精舎では事件が起きたのだった。


114.切るべきは
ビクの精舎は大騒ぎとなっていた。マハーカッサパが指導をしていた一人のビクが、なんと自分の性器を切ってしまったのだ。
「まったくなんでそんなことを・・・・」
知らせを受けたマハーカッサパは、頭を左右に振りながら、ブツブツ言いつつ、その弟子のもとに急いだ。
そのビクの周りには、大勢の修行者が集まっていた。
「手当てはもう施したのか?」
マハーカッサパが弟子の一人に尋ねた。その者によると、大急処置は済ませ、本人も落ち着き、話ができる状態であるという。マハーカッサパは「わかった」というと、その弟子のもとへ行った。
その弟子は、板の上に寝かされていた。
「なぜそのような愚かなことをお前はしたのだ?」
マハーカサッパは、男性器を切ってしまったビクに尋ねた。そのビクは、
「はぁ・・・、その、恥ずかしい話なのですが・・・・、毎晩毎晩・・・夢にビクニが現れて・・・その・・・淫らな行為に私を誘うのです。その夢を見るようになってから・・・・瞑想をしていると、その光景が現れて・・・・」
「頭から離れないのか?」
「は、はい・・・・、それで瞑想中も・・・・その・・・興奮してしまい・・・・ついつい・・・・」
「自慰行為に及んでしまっていたのか?」
「はい・・・・申し訳ございません」
「それで切ってしまったのか・・・・」
「はい、それがなければ、もうそのような行為はしないだろうと・・・・」
「愚かな・・・・いや、仕方がないのか・・・・、いや、そもそも尼僧などがいるからこうなるのだ。これは・・・世尊に・・・。いやいや、その前に・・・・。わかった、もうよい、しばらく休んでいなさい」
マハーカッサパは、そうビクに告げると、眉間にしわを寄せ、難しい顔をして立ち上がった。
「ふむ、やはり世尊のもとに向かおう。報告もせねばならぬし・・・」
マハーカッサパは、世尊の元へと向かった。その足取りは重いものであった。

一方、ウッパラバンナーの訴えを聞いたシャーリープトラも重い足取りで仏陀の元へと向かっていた。
「さて・・・・、世尊にはなんと言えば良いものか・・・。しかし、カールダーイン長老にも困ったものだ・・・。あの方は・・・あぁ、阿羅漢(あらかん)にはなっていなかったのか・・・・」
阿羅漢とは、悟りを得た者のことを言う。阿羅漢と仏陀に認められた修行者が長老となっていた。とはいえ、悟りの内容には個人差があった。シャーリープトラやモッガラーナのような、仏陀に近い悟りを得た者もいれば、潔癖と完璧へのこだわりを残したまま阿羅漢と認められたマハーカッサパのような者もいる。いずれにせよ、仏陀から阿羅漢であると認められた者は、長老として弟子を何人か抱え、弟子の指導に当たっていたのである。
教団がまだ小さかったころは、長老としての認定は厳しいものがあった。しかし、教団が大きくなり、修行者の人数が増えてくると、それをまとめるための長老が必要となり、阿羅漢と認められていなくても、長老と呼ばれる修行者も出てきた。必要に迫られたわけである。その際、長老としての条件としては、周囲の者から尊敬されていることや、信望が厚いこと、指導力に優れていることなどが決められていた。そうした者は、たとえ阿羅漢になってはいなくても、長老として認められており、修行者の指導に当たったのだ。カールダーインもその一人だったのである。

二人の長老が頭を垂れながら、重い足取りで別々の方向から仏陀が瞑想する場所にやってきた。
「あっ、シャーリープトラ尊者ではないか」
先に気付いたのはマハーカッサパであった。
「どうしたのですか、マハーカッサパ尊者。顔色が優れませんが・・・・」
「そういうシャーリープトラ尊者こそ、顔色が優れないようだが・・・・。世尊に相談事でも?」
「はぁ、まぁ・・・・。尊者も同じですか?」
マハーカサッパは、一つうなずくと
「私から先でも構わないだろうか?」
とシャーリープトラに尋ねてきた。マハーカッサパの表情は、事情を知らないシャーリプトラにも、彼の抱えていることが重大なことだと十分伝えることができた。シャーリープトラは、黙ってうなずいた。しかし
「世尊の部屋には一緒に入ってもよろしいですよね」
と尋ねてきた。マハーカサッパは、すぐには返事をしなかったが、首を縦に振ったのだった。二人は、並んで仏陀の瞑想する部屋に入っていった。

「二人揃って、どうしたというのだ」
「はい、御報告をしなければいけないことと、御相談が・・・」
マハーカサッパが先に話し始めた。仏陀は
「先ほどの騒ぎのことか」
と尋ね返してきた。
「はい、その通りです。先ほど、私が面倒を見ている修行僧が一人、自分の男性器を切ってしまいました」
その話を初めて聞くシャーリープトラは、驚いて目を見開いた。マハーカッサパは、その修行僧が男性器を切るに至った事情を詳しく説明した。そして
「やはり、尼僧を認めたことは間違いだったのではないかと・・・・」
と、仏陀の後ろに控えるアーナンダを睨んで言った。仏陀は、そんなマハーカッサパに厳しい顔をして話し始めた。
「そうか・・・彼は切るものを間違えたな・・・・。彼が切るべきは、女性への執着心だ。人に性差などない。人間は汚れたものである。美しいものではない。いや、美しい醜い、汚れている清浄だのといった区別など、初めからないのことであるのに・・・。そのことを彼は知らねばならなかった。そのことを彼が知っていたならば、性的に興奮することなどなかったであろうし、切るものを間違えることはなかったであろう。
よいか、マハーカッサパ。彼が男性器を切ってしまったことと、尼僧を認めたこととは関係のないことだ。彼は、尼僧がいてもいなくても、性の煩悩に苛まれていたであろう。なぜならば、我々修行僧は托鉢をする。托鉢をすれば、嫌でも女性と接することとなる。中には、衣装がはだけてしまっている女性もいる。遊女の家もある。性的な魅力を放つ女性もいる。托鉢する修行僧に色目を使いからかう女性もいるのだ。汝のように、貧しい家ばかりを托鉢する者は気付かぬかもしれぬが、街中で托鉢する者はたえずそのような誘惑にさらされているのだ。そうした状況において、誰もがその誘惑に負けぬよう、修行しているのだ。そして、その誘惑に打ち勝っているのだよ。
マハーカッサパよ、あえて遠ざけているからこそ見えぬのだ。よく目を開いてみてみるがよい。今回のことは、汝の指導の仕方が偏っていたがために起きたことであろう。平等に街中で托鉢していたならば、その修行僧も女性を見慣れていたであろう。あえて普段から女性を遠ざけていたがために、尼僧を見て煩悩が喚起されてしまったのだ。偏った指導、偏った思考には、そうした弊害が生じるのは当然である。わかるな、マハーカッサパよ」
仏陀の言葉を聞き、マハーカッサパは「あぁ・・」と言ったきり、うなだれてしまった。しばらくして
「はい、私が間違っておりました。世尊のおっしゃる通りです。あの修行僧が日頃から女性を見慣れてれば、あんな行為をしなかったでしょう。私は、修行の邪魔になってはならぬと、あえて女性を遠ざけるように指導してきました。托鉢も、なるべく見栄えの良い女性や若い女性がいないような、貧民街を中心に行っておりました。それが間違っていたのですね」
と言った。
「よいか、マハーカッサパよ。汝が女性を避けるのは、女性に対し怖れがあるからだ。自分の修行が乱されたらいけない、自分が汚されぬようにしなければいけない、そう思っているからだ。それは、女性に対し、汝が弱いことを示している。女性に対し、何も思わないのならば、あえて女性を避けることもしないであろう。汝は、怖れているのだ。自分が女性の誘惑に負けてしまうのではないかということを。
だが、安心するがよい。汝はそんなに弱くはない。汝は、女性を見ても女性が誘惑してきても、決して負けない強い心を持っている。もうそろそろ、女性の呪縛から自らを解き放つがよい」
仏陀の言葉にマハーカッサパは
「そう、そうなのです!・・・あぁ、私は今、悟りを得ました!。私は女性にこだわっていたのです!」
と叫んでいたのだった。

マハーカッサパは清々しい表情になっていた。
「あぁ、私は間違っていた。そうだ、私は怖れていたのだ。女性の誘惑に負けてしまうのではないかと・・・・。あぁ、今回のことは・・・・私はあのビクに感謝せねばいけない。彼のおかげで私はまた新たな悟りの扉を開いたのだ。そう、そして、私は彼に謝らねばならない。私の間違った指導のせいで、彼にはつらい思いをさせてしまった」
「マハーカッサパよ、そこまで分かれば何も言うことはない。尼僧のことに関しては、よいな」
「はい、世尊。私が心得違いをしておりました。私の要件は以上で終わりです」
マハーカッサパは、そういうと、座ったまま、少し後ろにさがった。それをみて、シャーリープトラが
「先ほど尼僧のところへ用事があって行ってきたのですが・・・・」
と話を始めたのだった。
すべてを聞き終えた仏陀は
「カールダーインか・・・・」
と一言いったまま、口を閉ざしてしまった。

しばらく沈黙していた仏陀だったが、ふと口を開いた。
「よろしい、カールダーインには私から話しておこう。処分も私が行うことにする」
仏陀はそういうと、再び沈黙してしまった。シャーリープトラは、もう何もいうことがなくなってしまった。仏陀の沈黙は、もうさがってよい、という意味であった。シャーリープトラとマハーカッサパは、静かに仏陀を礼拝すると、その場を辞したのであった。
仏陀の部屋を出たあとマハーカッサパがシャーリープトラに話しかけた。
「カールダーイン長老は・・・・確かまだ阿羅漢にはなっていなかったと思うが・・・」
「えぇ、なってはいません。まあ、カピラバストゥ出身の修行僧からは、厚い信望がありますし、指導力も優れています。世尊の教えもよく理解はしています。ただ、理解するのとそれが身についているのでは違いますから」
「ふむ。そうだな。たとえ理解していても、実践できなければ意味がない。まあ、私がいうのも何だが・・・」
「いえいえ、マハーカッサパ尊者は、立派なものです。自分のことをよくご存じであるし。阿羅漢にも早くになられている。悟りの世界をよく知っていらっしゃる」
「あなたほどではないよ、シャーリープトラ尊者。まあ、それはいいとして、カールダーイン長老にも困ったものだ。いったいどうすればよいのやら」
「わたしは、一応ほかの長老の皆さんにも知らせておいた方がよいと思います。もちろん、カールダーイン長老には何も言わずに。そのうえで、皆で彼を監視するというか、気をつけてみていたほうがよいのではないかと、そう思うのです」
「世尊はそのようには言ってはいなかったが・・・・」
「長老の中のことは、私たち阿羅漢に任されています。世尊は、そのことはよくご存じでしょう。そして、私のこともよくご存じです。私がどのような考えをし、どのような行動を取るかも」
「なるほど、そのことを承知しての沈黙であったか・・・。いやはや、さすが智慧第一と称されるシャーリープトラ尊者だけのことはある。私は、そこまで考えが及ばなかった」
シャーリープトラは、マハーカッサパの言葉ににこりともせず、「カールダーインを除いた長老に報告しましょう」とだけ言ったのだった。

一方、仏陀はカールダーインを呼んでいた。カールダーインは、何事もなかったかのような顔で仏陀の前に現れた。実際、彼は何も悪いことはしていない、と思っているのだ。仏陀は、当然ながらそのことは承知していた。悪気のない悪行は、注意しても意味がない。なぜ悪いのか、ということから話をせねばならない。仏陀は、深刻な顔をしてカールダーインを見つめたのだった。


115.カールダーイン
「カールダーインよ、汝は私に報告せねばならぬことがあるであろう」
仏陀は、カールダーインを見つめ、重々しく言った。カールダーインは、
「えぇっと・・・、そうですなぁ・・・」
などと考えこむそぶりをした。仏陀は、何も言わず、黙って彼の返事を待った。
「あぁ、ありますあります。先日のことですが、尼僧のウッパラバンナーが世尊にマンゴーを届けに参りました。ちょうどその時、世尊は外出しておりました。そこで、私が代わりに受け取っておきました。あぁ、しかし、マンゴーは程よく熟していたので、放っておくわけにもいかず、私と若い弟子たちでいただいてしまいました。報告が遅れまして申し訳ございません」
「それだけか?」
「はい?」
「私に報告することは、それだけか?」
その時になって、ようやくカールダーインは、仏陀が怒っていることに気がついた。
「あっ、はい・・・。実はその・・・・悪気があったわけではないのです。ただその・・・・。ウッパラバンナーにその時に・・・その・・・・身につけている下着を・・・・所望したしました」
「何故、そのようなことをしたのだ」
「はぁ・・・その・・・ウッパラバンナーが・・・とても・・・・魅力的で・・・・ついつい・・・・。あぁ、しかし、私はそれによって自慰行為に及んでいるわけではありません。ただ、欲しかっただけで・・・・」
「カールダーイン、下着を貰っていったい何にするというのだ。汝は、それをどう使うというのだ」
「あ、いや、その・・・・使うとかではなく・・・・ただ・・・・」
カールダーインは、汗まみれになり、しどろもどろになってしまった。
「正直に言え、カールダーイン。一切の隠し事なく、正直に言うがよい。隠し事をしても、私の前では意味のないことだ。よいか、私はもうすでに何もかもわかっているのだ。しかし、私の口から指摘をしても、何にもならない。汝が正直に告白してこそ、反省ができるのだ。さぁ、カールダーイン、素直に言うがよい」
カールダーインは、しばらく黙りこんでいたが、大きく息を吸い込むと、意を決したように話し始めた。
「はい、私はウッパラバンナー尼に身につけている下着を要求しました。それは、ウッパラバンナー尼が魅力的で、性的興奮をおこさせる女性だったからです。それで、ついつい他の者がその場に居ないことをいいことに、私は彼女に下着をくれるように頼んだのです。その下着は、しばらく私が保管していましたが、今はもうありません。雑巾にして使った後、泥と混ぜて精舎の壁に埋まっています。私は、彼女の下着を何に使うということはありませんでした。ただ、彼女と会ったときに無性に欲しくなっただけです。手に入れてしまえば、それはどうということはない、単なる布切れです。けっして、何かに使ったということはありません」
カールダーインは、すべてを話すとがっくりと肩を落としてうなだれた。
「カールダーイン、私はいつも言っているであろう。人間は男女の差などないのだ、と。美しい女性といえども、それは外見だけであって、よくよく観察してみれば、けっして美しいものではないのだ。綺麗に見えるその肌は、汗や汚れ垢にまみれている。さらには、無数の細かな虫が付いているのだ。汝らが欲するであろう美しい女性の口の中にも、無数の虫が存在している。それは悪臭を放ち、歯を腐らせるのだ。体内では食べ物を消化し、やがて糞を作っていく。よいか、人間はクソの入った袋のようなものなのだ。その袋の中には、クソだけではなく、得たいの知れない虫が多く宿っているのだ。よいか、女性は外見はどんなに美しい顔であれ、豊かな胸を持っていても、あるいはくびれのある腰であっても、それは見た目だけであり、その表面は汗や垢、埃、虫などで汚れているのだ。いや、それは女性だけではない。男性であってもだ。中身は汚物の詰まった袋なのだ。しかも、どんなに美しくとも、やがては年老い、醜くなっていくのだ。よいかカールダーイン、外見に騙されてはいけない。見た目に惑わされてはいけない。ましてや、汚れた下着など欲するものではない。修行者は清浄でなくてはならない。よいな、いつも汝は清浄であることを心掛けよ」
仏陀は厳しくそういうと、カールダーインを見つめたのであった。彼は、
「以後、気をつけます。これからは益々修行に励みます」
と誓って、仏陀を礼拝したのだった。
「アーナンダ、次回の布薩の時に、新たな律をいい渡すので覚えておくように。それは、修行者は異性の下着を要求してはならない、だ。こんなことを律として残しておかねばならないとは・・・・」
仏陀はそういうと、ひどく悲しい顔をしたのであった。

こうして、この一件は大事にならずに処理がなされた。布薩の時には、修行者に「修行者は異性の下着を要求してはならない」という新たな律が言い渡された。当然ながら、カールダーインは、すべてのビク・ビクニの前でこの度のことを報告し、懺悔したのであった。カールダーインには、罰として、1週間の外出禁止が与えられた。
ここで、カールダーインについて話しておこう。彼は、このほかにも数々の問題をおこしている。その結果、修行者の戒律を増やしたのだった。
カールダーインは、仏陀と同じカピラバストゥの出身である。彼は、大臣の息子であった。奇しくも、誕生日は仏陀と同じであった。しかし、一説によると、仏陀が誕生した日、釈迦族では500人の子供が生まれた、とあるので、仏陀と同じ誕生日であるからと言って、深い意味があるわけではない。もし、意味を読み取るならば、誕生日が同じであっても運命は異なる、というよい例である。つまり、生年月日による占いなど意味をなさない、ということであろう。
カールダーインは、子供のころから後に仏陀となるシッダールタ王子の善き遊び相手でもあった。シッダールタが出家したあとは、シュッドーダナ王の命令で修行中のシッダールタを探し、またその様子を国王に報告などもした。
シッダールタが仏陀となり、故郷のカピラバストゥを訪れる手はずを整えたのもカールダーインの働きが大きかった。そのようなことからもわかるように、彼はけっして無能な人間ではなかった。ただ、少々お調子者のところがあり、また女性に・・・性において・・・弱い面をもっていたのである。たとえば・・・。
祇園精舎に仏陀たちが滞在していた時、彼は長老として若い修行僧が、規律正しく生活できるように指導することを任されるようになった。彼は数名の若い修行僧の生活指導に当たることとなった。
「ここの場所は修行者の生活に慣れるのには相応しくないな。そうだ、あっちの精舎に行こう」
彼は、祇園精舎から少し離れた精舎を新しい修行場所として選択した。彼は、若い修行者に荷物をもたせ、先に精舎に行かせた。自分は、夕暮れになって村をぶらぶらと歩き、行き交う人たちをからかいながら精舎へと向かった。
日が暮れて彼は精舎についた。精舎の前で声をかけても誰も出て来ない。中にはいってみると、若い修行僧はすっかりくつろいでいた。怒ったカールダーインは、若い修行僧を精舎から追い出してしまった。その夜は特に冷えた夜であった。若い修行僧はその寒い夜を外で過ごす羽目になったのだ。
このことを知った仏陀は、すっかりくつろいでしまっていた若い修行僧もいけないが、元はと言えば指導ができていないカールダーインに責任があるとし、彼を叱るとともに今後何事があっても夜に修行僧を精舎から追い出してはならない、という律が制定された。
また、このようなことがあった。
あるときカールダーインは、たくさんの羊の毛を手に入れた。彼は、尼僧のところにいくと
「この羊の毛を染めてくれ」
と尼僧にいいつけた。尼僧は気がすすまなかったが、彼の強引な言いように負けて、仕方がなく染めることとなった。羊の毛が染めあがったころ、たまたま仏陀が尼僧に用があり、尼僧の精舎にやってきた。仏陀は尼僧の染料で汚れた手を見て事情を聞いた。仏陀はカールダーインを呼びつけ、彼を叱りつけると、
「今後は、尼僧に対し、自分の妻であるかのような振る舞い、要求はしてはならない。これを教団の律とする」
としたのであった。
また、このようなことがあった。
仏陀たちが祇園精舎に滞在していた時のことである。そのころ、王宮では毎日違う長老を招待し教えを聞く、という催しが行われていた。もうすでに何人かの長老が呼ばれ、プラセーナジット王とマッリカー夫人の前で教えを説いていた。
その日は、カールダーインの担当の日であった。彼は、早朝・・・まだ日が昇ったばかり・・・の頃に宮中を訪れた。宮中では、まだ皆が起きていなく、出迎えるべきマッリカー夫人も寝室にいた。夫人はカールダーイン長老の訪問にあわてて、着替えもそこそこに彼を出迎えた。ところが、あわてて着替えたせいもあり、カールダーインに挨拶をすると身につけていた衣装が落ちてしまった。マッリカー夫人は彼の前で全裸をさらけ出してしまったのだ。しかし、カールダーインは、何事もなかったように、教えを説いて帰っていった。
が、彼は精舎に戻ると修行僧たちに
「今日はいいものを見てしまった。国王の宝だ。宝を見たんだよ」
と嬉しそうに語った。修行僧が「いったい何を見たのか」と問うと
「マッリカー夫人の裸だよ。裸。全裸だぞ。私は王妃の全裸を見たんだ」
と自慢したのであった。これを聞いた修行僧はあきれ返り、このことを仏陀に告げた。仏陀はカールダーインを呼びつけると、彼を厳しく戒めた後、
「今後みだりに宮中を訪れてはいけない。ましてや、早朝・・・日が昇ったか昇らないかのうちに宮中を訪れてはいけない。これを律とする」
と新たな禁止事項を作ったのであった。
また、このようなことがあった。
カールダーインは、ある女性に教えを説いていた。その女性は、カールダーインの古くからの知り合いであった。彼は、彼女の家に行き、教えを説いていたのであった。たまたま、彼女の知り合いがその時、彼女の家を訪れた。すると、そこではカールダーインが彼女と膝を接触させて教えを説いていたのだ。それをみた女性の知り合いは、すぐにこのことを仏陀に報告した。仏陀は、すぐにカールダーインを呼び
「今後は他の者がいないところで、修行者は異性と二人きりで席を同じくしてはいけない。また、膝を触れあって話をしてはいけない」
と戒め、このことを教団の律としたのだった。
また、このようなことがあった。
仏陀たちが祇園精舎に滞在していた時のことである。ある男が妻を連れて祇園精舎にやってきた。彼は、いろいろ回った後、カールダーインの部屋で教えを聞いた。精舎からの帰り道、彼は妻に
「いやぁ、カールダーイン尊者はすばらしいなぁ。たいしたもんだ」
と感心したように言った。すると、彼の妻は
「何がすばらしいもんですか。あのカールダーインとか言う修行者は、教えを説いている間中、私の身体をなでまわしていたのよ。あなたにわからないようにね。私は何度あなたに助けを求めようと思ったことか・・・」
と泣き叫びだしたのだった。それを聞いた夫は、「あのやろう!」と叫ぶと一目散に祇園精舎へと戻っていった。そして、カールダーインの元へ行くと
「このスケベやろう!」
と罵り、今にも殴りかかろうとしていた。その騒ぎを目にした仏陀がカールダーインに掴みかかった男に事情を聞いた。すべてを知った仏陀はあきれ返り、カールダーインをきつく叱った後、
「今後、修行者は決して異性の身体に触れたり、髪に触れたり、手を握ったりなどしてはならない。これを教団の律とする」
と厳しく言ったのだった。
こうしたことが、何度もカールダーインにはあった。その度に、仏陀は彼を厳しく戒めたのだが、彼の性癖はなかなか治ることがなかった。しかし、修行の成果はやがて実り、悟りを得て、阿羅漢となり神通力も使えるようになったのである。その後は、マハーカールダーインなどとも呼ばれ、よくコーサラ国の宮中に出入りし、マッリカー夫人に教えを説いたと伝えられている。しかし、それはまだまだ後のことであった・・・・。

カールダーインを叱った後、仏陀は、
「尼僧を認めたことは、大きな悪影響を及ぼした。今後は、さらに厳しく指導をしていかねばならない。アーナンダよ、汝もこのことを決して忘れてはならない。よいな」
とアーナンダに告げると、深い瞑想に入ったのであった。


116.接待の席
女性の出家を認めたことは、仏教教団の運営という点に関し、大きな問題を与えることとなった。それは予測されたことではあったことだが、仏陀にとっては予測を上回る事件も起き、あらためて人間の愚かさを思い知らされるという、仏陀にとっては嘆かわしい事態に至ったのであった。
「愚かしいことだ。私があれほど教えを説いても、通じない者がいる・・・。それも在家者ではなく出家者においてだ・・・・。僅かな人数とはいえ、嘆かわしいことだ。しかも、これからは女性出家者のかなから問題を起こす者も現れてくるであろう。しかし、多くの修行者が女性出家者に対し、何も反応を示さなかったのはよかったことだ。極端な行動をとる者は僅かばかりだ・・・。アーナンダよ、修行者たちが落ち着いたら、祇園精舎に向かう。長老たちに、そのように知らせておきなさい」
仏陀は、コーサラ国に向かうことにした。それは、女性出家者・・・ビクニ・・・を連れた初めての旅となる。

数日後のこと、シャーリープトラが仏陀のもとにやってきた。
「修行者は落ち着いて修行をしております。ビクニに対し、偏見の目で見る者もいなくなりましたし、色目を使うものもいなくなりました。カールダーインも落ち着いて修行しております」
「そうか、ではそろそろコーサラ国に向かうことにしよう。ここ竹林精舎に残る者、コーサラ国の祇園精舎に向かう者、それぞれ振り分けておくように」
仏陀は、シャーリープトラにそのように命じたのであった。

コーサラ国に向かう日が来た。ビクニは全員連れて行くこととなった。また、主だった長老も祇園精舎に向かうこととなった。カールダーインは仏陀とアーナンダにはさまれて行動することとなった。コーサラ国へ向かうのは、200名ほどの修行者であった。竹林精舎に残るのは、一部の長老と真面目な修行僧のみとなった。それでも数百名の修行者が竹林精舎に残るのである。その振り分けに仏陀は安心して竹林精舎をあとにすることができた。
こうして、尼僧を伴った旅が始まったのである。
コーサラ国へ向かう旅は、自ずと時間がかかった。旅慣れていないビクニを連れての旅は、思いの他、時間がとられたのである。しかも、滞在するのが町や村ならばよかったのだが、樹林などでの野宿になるときは、大変であった。ビクニたちの集団を中央にし、彼女らを取り囲むようにビクで固めたのだ。男性修行者が周りを囲むことで、ビクニが暴漢に襲われないように配慮したのである。さらに、ビクニの周りには、大きな布を木々に吊るし、ビクニたちの生活がビクから見えないようにも工夫したのであった。
こうした配慮は、すべてアーナンダが中心に行った。彼は、仏陀に女性の出家を認めさせた責任を感じていたのである。彼は、竹林精舎を出発する前から、こうしたビクニに対する処置を考え、準備していたのだ。そのため、彼の荷物は大変な量であった。
しかし、アーナンダの行動は、他の修行者にも影響し、協力者が多数出てくるようになった。こうしたことは、修行者に男女の性差を無くす心を生んでいった。多くの修行者が、男女は平等である、という真理を得たのである。
コーサラ国に到着するころには、修行者は男女を問わず、一体化してきていたのだった。ビクの中にはビクニに教えを請う者まで出てきていた。ビクニは認められてきたのである。
最も大きな変化を見せたのは、マハーカサッパであった。ある日のこと、彼はシャーリープトラに言った。
「シャーリープトラ尊者よ、どうやら私は間違っていたようだ。ビクニであっても修行をすれば悟ることはできるのだし、必ずしも我々修行僧の邪魔になるとは限らぬようだ。むしろ、よい効果をもたらす場合もある。あぁ、だからと言って、私はアーナンダを許しているわけではないのだが・・・・。彼が、周囲の修行僧にビクニが迷惑をかけないようにしようと配慮することは、当然のことなのだ。それだけ、彼には大きな責任がある。だから、私は彼を許したわけではない・・・・。とはいえ、女性にとっても仏陀の教えは重要だ。女性も仏陀の教えを学んで悟りを得たほうがいいことは間違いない。そこでだ・・・・」
マハーカッサパは、シャーリープトラを見て眉根にしわを寄せて続けた。
「元の妻を呼ぼうと思う。ビクニとしてだ。出家させるのだ。尊者よ、どう思う?」
シャーリープトラはすかさず微笑んでいった。
「それはよいことではないですか。是非、呼んであげるといいでしょう」
「そうか・・・・。では、祇園精舎についたら、連絡してみよう・・・。尊者よ、元妻の指導、よろしく頼む」
マハーカサッパは、シャーリープトラに頭を下げると、森の奥へと消えていった。シャーリープトラはその後ろ姿を見て、
「アーナンダよ、君もよいことをしたではないか」
と一人つぶやいていたのだった。

仏陀の一行は、いつもより長い時間を費やし、祇園精舎に戻ってきた。精舎にはすでに、プラセーナジット王やマッリカー夫人、スダッタ長者を始め、多くの信者が仏陀たちの到着を待っていた。
「世尊、女性の出家を認めたそうではないか。マッリカーも喜んでおる。早速、この祇園精舎内にビクニの精舎を造っておいたぞ」
プラセーナジット王が、仏陀たち一行が到着するや否や、大声でそう言ったのだった。これには、ビクニたちは大いに喜んだ。
「ささ、荷物を片付け、沐浴されたら、接待の準備が整っています。お昼までに食事を済ませてください」
スダッタ長者の言葉に、修行者たちはそれぞれ精舎の中へと進んでいったのだった。
ビクニ用の精舎は、至れり尽くせりだった。マッリカー夫人が指導をして造らせた精舎だけあって、女性にとっては大変過ごしやすい精舎となっていたのだ。快適な修行場所となっていたのだった。
接待の席でマハープラジャーパティがビクニを代表してプラセーナジット王らに礼を述べた。王は、仏陀に尋ねた。
「しかし、女性修行者を認めたのは、世尊が初めてではないか?。世尊は、どうして女性の出家を認められたのですか?」
「王よ、女性であろうと、男性であろうと、悟りを得る種は誰でも持っているものです。悟りの種を持っていない人間はいません。ただ、社会の仕組みが女性には生きにくい状況にあり、また女性の修行は危険が伴うという状況にあったがために、女性の出家が認められなかっただけでしょう。女性の出家修行は、きわめて危険です。また、男性の修行者に混じって修行をすることは、男性の修行者にとっても修行の妨げになりましょう。とかく、性欲は制御し難いものです。男性は女性を求め、女性は男性を求める・・・。それは人間が生きていくうえで持つ基本的欲求・・・本能・・・にも関わることなので、制御しがたいのは当然なのです。しかし、それに対し目をそむけて修行していては、本当の修行にはならないでしょう。たとえ、美しく魅力的な裸の女性に囲まれていても全く動じない心をもたねば、本当の悟りとは言えないのです。男性ばかりの中で悟った悟ったと喜んでいても、果たしてそれで女性に囲まれたときに正常な精神状態で居られるかどうかは不明なのです。女性に囲まれた途端、気持ちが揺らいでしまっては、それは真の悟りとは言えないでしょう。男性の中でも女性の中でも、全く動じない心を持つことが重要なのです。女性の出家者を認めたことは、真の悟りに向かうにはよい機会ではあるのです。大変難しいことではあるのですが」
「なるほど・・・。確かに男ばかりの中にいれば、それなりに悟れるかもしれないですな。しかし、それは本当に欲を制御しきれているかどうかはわからないわけですな・・・・。ふむ、近くに女性がいれば、男性は心が揺れる。あぁ、女性も同じか・・・・。お互いに異性の目は気にしているわけだ・・・。それを超越してこその悟り・・・なのですな。そういう意味では、男性社会という特異な世界で修行するより、より自然の状態に近い方がいいわけですな」
「そういうことです。悟りを得やすい環境の中にいて悟りを得ることはたやすいでしょう。しかし、その悟りは真の悟りなのか、特殊な環境から出ても維持できる状態なのか、それが問題となってきましょう。理想を言えば、在家者が生活する状態と同じ状態において悟りを得るのが本当の意味での真実の悟りでしょう。在家の生活をしていながらも、何のこだわりもなく、憂うことなく、無闇に喜ぶこともなく、苦しむことなく、極々自然体に雲が行くように、水が流れるように生きていけることができたならば、それは真実の悟りと言えましょう。
こうして出家し、社会と隔離し、悟りを得やすい環境において修行をすれば、悟りを得て当たり前なのです。こうした生活は、悟りを得やすいように仕組みを作ってあるのですから、それは当然のことでしょう。しかし、理想を言えば、一般の社会において、こだわりのない生活を送ることの方が重要なのですよ」
「おぉ、なるほど、それはマッリカーのような生活だな」
国王の言葉にマッリカー夫人は、「それは言い過ぎです」と小声で言った。
「いや、マッリカー夫人は大変悟りに近いところにいらっしゃる。そのほかにも、ヴァイシャリーには維摩居士という長者がいる。彼は、在家の生活をしていながら悟りを得ていると言ってもよいでしょう。
男性であれ、女性であれ、出家者であれ、在家者であれ、誰もが悟りを得ることはできるのです。ただ、目の前の欲望にかられて迷ってしまっているだけなのです。物事をよく観察し、心を落ち着け、よく考えて行動すれば、自ずと悟りは見えてくるものなのですよ」
「うーむ、そこが難しいところなのだよ、世尊。わしなどは、目の前に御馳走があると、我を忘れて飛びかかってしまう。我慢が出来んのだ。欲に負けてしまっているのだ」
「そのような人は、悟りを得るためには出家をした方がいいでしょうね」
マッリカー夫人が笑いながらいった。
「いやいや、いかん、わしはまだ出家などせんぞ。もっと楽しみたいし、国もまとめていかねばならん。まだまだ欲にまみれていたいのだ」
プラセーナジット王は、大きなおなかを抱えてそういったのだった。その様子にスダッタ長者を始め、その場にいた在家の人々は大いに笑ったのだった。接待の席は、大変和やかな空気に包まれていた。

ふと、国王が深刻な顔をしていった。
「それはいいのだが・・・世尊。実はこの国に困ったことが起きているのだ。夜な夜な殺人鬼が出没しておるのだ」
「お陰で街が死んだようになっているのです」
そう言ったのはスダッタ長者だった。
「昼間はまだよいのです。しかし、夜になると恐ろしい殺人鬼が現れるので、誰も夜に出歩かなくなってきたんです。それでも、全く人がいなくなるわけではありません。用事がある者もいる。また、そんな殺人鬼など怖くないという剛毅な者もおり、酒場は店を開けてはいるのですが・・・。それでも、いつものような活気はないのですよ」
「それはどのような者なのですか?、またどのような事件なのですか」
そう尋ねたのはシャーリープトラであった。スダッタ長者は、さも恐ろしそうに答えた。
「それが犯人はどんな者か皆目わからんのです。わかっておるのは、その者に出会えば必ず殺されるということと、死体からは小指が切り取られているということだけなのです。街の人々は、犯人のことをアングリマーラ・・・指切りの悪魔・・・と呼んで怖れております」
「国の兵士たちでは捕まえられないんですか?」
シャーリープトラの質問に、国王は渋い顔をした。
「それがなぁ・・・、シューラバスティーは広いからなぁ・・・。どこに出現するかわからないし・・・。酒場のある裏通りや、街のあちこちに兵士たちを配置しているのだが・・・・。毎晩現れるとは限らんし、神出鬼没でなぁ」
「犠牲者も90人を超えています。世尊よ、この恐怖から救われる方法はないのでしょうか?」
スダッタ長者は、仏陀をすがるような眼で見たのだった。仏陀は
「ふむ、それは・・・・困ったことである」
と一言だけいい、沈黙したのであった。
つづく。


バックナンバー26へ


お釈迦様物語今月号へもどる         表紙へ