ばっくなんばー26
117.アングリマーラ コーサラ国の首都シューラバスティーは、アングリマーラの噂話がそこかしこで聞かれた。仏陀の弟子たちも托鉢の際に人々から注意してくれと言われたのだった。 「ご注意、ありがとうございます。しかし、我々修行僧は、朝の托鉢以外、精舎の外に出ることはありません。ですから危険はないのです。むしろ、皆さんのほうが危険でしょう。夕方以降の外出はご注意ください」 托鉢先でシャーリープトラが、そう答えると意外な言葉が返ってきた。 「いえいえそうじゃありませんよ。アングリマーラが出るのは、夜だけじゃないんです。朝だって・・・。僧侶の皆さんが托鉢される早朝でもアングリマーラは現れるらしいですよ」 この話にシャーリープトラは驚きを隠せなかった。 アングリマーラが、朝も昼も夜も関係なく出現して人を襲うという話は、街中で広まっていた。実際に、早朝に被害にあった者も多数いるということだった。 シャーリープトラをはじめ、長老たちが集まっていた。彼らは、托鉢に出ることが危険であるかどうかを協議していたのだった。 「このまま早朝に托鉢出ていいものか・・・」 「しかし、世尊は何も言われない。何も言われないということは、このまま托鉢に出なさい、ということだ」 そう言ったのはモッガラーナであった。 「しかし、もし襲われたらどうする?。我々長老は悟りを得ているから、その場で命を取られようとも問題はない。これも因縁だ。前世の罪による結果が来たまでだ、と理解できる。しかし、まだ修行の浅い者は、その覚悟がない。阿羅漢になっていない者が、そのような暴漢にあい絶命するようなことがあれば、きっと彼らは『なんで自分がこのような目に合うのだ。私の命を奪ったものを恨んでやる』と呪いの言葉を吐き、また輪廻の原因である罪を作ってしまうだろう。これでは、今まで修行してきた意味がなくなってしまう。何か対策を考えたほうがいいと思う」 マハーカッサパの意見に多くの長老がうなずいたのであった。 「若い修行僧のことを考えたら、マハーカッサパ尊者の意見は当然でしょう。いくらモッガラーナ長老が神通力に優れていても、若い修行僧すべてを守ることはできない。また、我々阿羅漢の皆が神通力を使って、若い修行を守ろうとしても、それも不可能であろう。ここはよく考えたほうがいい」 そう言ったのは長老に集まってもらうように言ったシャーリープトラであった。そうして、長老たちは、しばらく沈黙し考えたのであった。 初めに口を開いたのはマハーカッサパであった。 「時間をずらしてはどうか?。我々のように神通力が使えるものは、今まで通り早朝に托鉢に出よう。しかし、神通力の使えない者は、人々が街にあふれてくる昼近くに托鉢に出てはどうか」 「ふむ、それはいい案だ。もし、托鉢できなかった場合は、早朝に托鉢に出たものが、食事を分け与えればよいであろう」 それがいい、という声が長老たちの多くから上がった。シャーリープトラは一つうなずくと、 「意見がまとまったようですね。では、私が後ほど世尊に相談しに行ってきます」 こうして、長老たちの托鉢の危険回避の話はまとまり、仏陀に提案することになったのであった。 そのころ、仏陀のところには王宮から使いの兵士がやってきていた。 「世尊および修行僧の皆様におかれましては、しばらく托鉢を休まれるようにとの、国王の伝言です。なお、托鉢に出られない間は、食事の用意を国王がいたすそうです」 と仏陀に告げたのだった。それ程、アングリマーラの危険性が高まっていたのだ。 仏陀は、それに対し、沈黙をもって答えた。兵士は、 「早朝から夜更けまで我々が街を巡回しておりますが、なにぶん神出鬼没で・・・。犠牲者も今日で99人を数えるに至りました。情けない話です・・・。しかし、必ずやアングリマーラを捕まえます。ほんのしばらくのご辛抱をお願いいたします」 そう仏陀に告げると、祇園精舎を後にしたのだった。仏陀の後ろに控えていたアーナンダが 「長老を集めます」 というと、仏陀は首を横に振ったのだった。そして 「その必要はない。我々が托鉢に出ない日は、雨期の安居のときだけである。明日も明後日も、そのあとも、今まで通りに托鉢に出るのだ」 とアーナンダに言ったのだった。アーナンダは 「しかし、それでは危険ではないのでしょうか?。国王様も先ほどのようにおっしゃっているですし・・・」 「いや、よいのだ。それよりも、間もなくシャーリープトラが、早朝の托鉢の件で一つの提案を持ってくる。しかし、私は瞑想に入る。アーナンダよ、シャーリープトラがきたら、『その必要はない』とだけ答えておいておくれ」 と言うと、仏陀はもうそれ以上何も言わずに、瞑想の部屋に入ってしまったのだった。 仏陀の言ったとおり、シャーリープトラがやってきた。 「おや、世尊は?」 シャーリープトラの質問にアーナンダが答えた。 「世尊は瞑想をしておられます」 「そうですか、では待ちましょう」 シャーリープトラがそういうと、アーナンダが仏陀からの伝言があるといった。 「それは何ですか?」 「はい、世尊はシャーリープトラ長老が来られたら、このように伝えよと・・・・。『その必要はない』。私にはわけがわかりません。シャーリープトラ尊者は、意味が分かりますか?」 アーナンダがそういうと、シャーリープトラは、そうですか、と微笑んだのだった。そして、 「大丈夫です。わかりました。では、世尊に伝えてください。『承知しました』と。さて、皆さんにもそのように伝えましょう」 シャーリープトラは、なぜだか晴れ晴れとした顔をしてその場を去ったのであった。アーナンダ一人が首をかしげていたのであった。 翌日の早朝のことだった。 「あと一人、あと一人で百人だ!。あぁ、私の修行もこれで完成だ!」 男はそう小声でいうと、短剣を手に街角に潜んだのだった。しばらくすると、中年女性が向こうからやってくるのが見えた。 「ふふふふ、ついに百人目が来たか。ふふふふ・・・・」 男は笑いながら女が近づくのを待った。女は、 「いやだよぉ、こんなに朝早くに使いに出るのは・・・。なんだってこんな時に!。うちの亭主は、私がアングリマーラに襲われてもいいっていうのかねぇ。まったくもう・・・・」 とブツブツ文句を言いながら小走りで道を進んでいったのだった。 「あぁ、あの角を曲がれば・・・・。あともう少しだ。どうかアングリマーラに出会いませんように」 女はそう神に祈りながら角を曲がろうとした。そのとき・・・。 「キャー」 女の前に男が現れたのだった。手には短剣が握られていた。 「お前で百人目だ。名誉なことじゃないか。喜ぶがいい!」 男はそう叫び、女に切りつけた。しかし、その剣先は空を切ったのだった。 「くっそ!」 男は何が起きたのかわからなかった。ふと見ると、女の前に修行僧が立っていた。女はその後ろで腰を抜かして座り込んでいたのだ。 「ふん、修行僧か。別にお前までも構わない。百人目に変わりはないからな」 そういうと、男は修行僧に切りかかった。が、またしても剣は空を切ったのだった。 「くそっ!、なぜ切れない!。待て!、逃げるな!、止まれ!、おとなしく私に切られろ!」 男はそう叫びながら、修行僧に再び切りかかったのである。しかし、それもむなしく終わったのだった。 「くそ、どうなっている。待て、止まれ!」 「何を言っているのだ。私は先ほどから止まっている。少しも動いてはいないではないか。止まるべきは、お前のほうではないか、アングリマーラよ」 その言葉に男は止まった。剣を振りかざしたまま、固まってしまったのである。 「アングリマーラよ、よく止まった。もうよいのだ。もう終わったのだよ」 その言葉を聞くや否や、アングリマーラは崩れ落ちたのだった。 「どこだ、どこだ!」 大きな足音や叫び声が聞こえてきた。街中を巡回していた兵士が女の叫び声を聞いて集まってきたのだ。 「あぁ、これは世尊!、どうして世尊が?・・・あっ、そこにいるのは!」 「そう、この男がアングリマーラだ、兵士長」 兵士長と呼ばれた男は、状況がよく理解できてなかった。 「いったいこれは・・・・。いや、それはいい。おい、この男を捕縛せよ」 兵士長が部下にそう命じると、仏陀がそれを止めたのだった。 「いや、兵士長、この男は私が貰い受ける。このまま祇園精舎へ連れて行くのだ」 「世尊、それはいけません。この男は危険な殺人鬼ですぞ。そんなことをしたら、祇園精舎の修行者たちがどんな目に合うかわかりません」 「大丈夫だ、この男は危険ではない。彼はもう目覚めている」 そう言われたアングリマーラは、真っ青な顔をしてうずくまっていたのだった。 「私は・・・・私は・・・・・とんでもないことを・・・・・してしまった・・・・、あぁぁぁぁぁ」 彼は、その場で泣き崩れたのだった。 騒ぎを聞きつけ、街の人々も集まってきた。周囲は騒然としてしまった。 「世尊。世尊が何と言おうと、この男は捕縛し、収容所へと連れて行きます。それが私たちの仕事です。その・・・もし、それでも・・・・世尊のお考えが変わらないのでしたら、後ほど収容所のほうへ・・・・」 兵士長はそれだけ言うと、仏陀の顔を見て頭を下げたのであった。そして、 「誰か、おぉ、お前でよい。すぐにアングリマーラ捕縛の報告を国王にせよ。それから、アングリマーラは、収容所に連れて行くことも伝えるのだ。ぜひ、国王の立ち合いを、ということを忘れないように言うんだぞ。わかったな」 若い兵士にそう命じると、再び仏陀に頭を下げ、アングリマーラを引き連れその場を去ったのであった。 仏陀は、その後ろ姿を見ていたが、すぐに歩き始めたのであった。 コーサラ国の収容所は、シューラバスティーの郊外の淋しい場所にあった。周囲は、小高い山に囲まれ、日があまり差さない暗い場所に立っていた。収容所の周辺は、武器を持った兵士や飼いならされたトラや犬を連れた兵士が立っていた。また、横には、象が数頭飼われていた。もし、脱走者がいた場合、トラや犬、象で追いかけるのだ。罪人は刑に応じて、様々な労働をさせられていた。また、極悪な罪人は収容所の前にある処刑場の中央で処刑されることになっていた。その処刑場は、人々から見えるようになっている。つまり、人々の目にさらされ、処刑が行わるのだ。カラスがたくさん空を舞っていた。 アングリマーラは、身体を縛られ収容所の一室に閉じ込められていた。コーサラ国は、野蛮な国ではない。いくら99人の人々を殺した殺人鬼であっても、すぐには処刑はしなかったのである。一通りの取り調べも行ったのだ。 「ふん、こいつが世間を騒がせたアングリマーラか。まだ若いではないか」 そう言ったのは、プラセーナジット王であった。その国王に兵士長が言った。 「すでに聞き及んでいるかと思いますが、まもなく世尊がここにやってきます」 「あぁ、聞いてはいるが、詳細はしらん。いったい何があったのだ?」 「はい、我々もよくはわからないのですが・・・・。我々が駆け付けた時にはすでにこの者は・・・アングリマーラは跪いて泣いていたのです。そして、その場に世尊が立っておられました」 「世尊が襲われたのだろうか?」 「わかりません。しかし、世尊は、アングリマーラを祇園精舎へ連れて行くと・・・・」 「精舎へ?。いったいどういうことなのだ。世尊は何を考えておられる?」 兵士長と国王が話をしているところへ、若い兵士に導かれた仏陀が現れた。 「これは国王。ちょうどいいところに来たようですね。お話があります」 仏陀はそういうと、国王の顔をじっと見つめたのであった。 118.アヒンサ 「国王よ、話があります。このアングリマーラは、私が祇園精舎に連れて行きます」 捕縛されたアングリマーラを数名の兵士が取り囲んでいた。その前で兵士長とプラセーナジット王が、これからアングリマーラの話を聞こうとした時であった。そこに仏陀が現れたのだ。仏陀は、その部屋に入るなり、国王にアングリマーラを連れて行くと告げたのだった。 仏陀の言葉に、プラセーナジット王は驚いた。 「せ、世尊、待ってください、いったいどういうことですか?。この男は殺人者なのですよ。しかも凶悪な犯罪者だ。危険すぎる」 「国王よ、落ち着いてください。この男は、もう凶悪な犯罪者ではない。危険ではないのです。彼は、もう目覚めている。そうだね、アヒンサ」 「アヒンサ?」 国王と兵士長は、お互いに目を合わせ首をかしげた。 「世尊、この男はアングリマーラと呼ばれる・・・・」 「それは過去のことだ。今は、この者はアヒンサである。いや・・・過去もアヒンサであったのだが。そうだね、アヒンサ」 アヒンサと仏陀に呼ばれた男は、仏陀の顔を不思議そうに見つめ 「は、はい・・・、私は確かにアヒンサですが・・・・。なぜそれを・・・・」 と仏陀に問いかけたが、仏陀はそれには答えず、 「アヒンサ、いきさつを話すがよい。汝が、アングリマーラとなってしまった、その経緯を話すがよい」 とアヒンサに言ったのだった。 「ちょ、ちょっと待ってください、世尊。いったいどういうことなのですか?」 割って入ったのは国王だった。 「世尊、この男はアングリマーラだ。それがアヒンサとは・・・。世尊、アヒンサとは『殺生をしない者』という意味の言葉ですぞ。この男にはもっとも相応しくない名前でしょう。世尊、どうされたのですか?」 「国王よ、あなたが何と言おうと、この男の本当の名前はアヒンサなのです。アングリマーラではない。それは、街の人々が付けた通称だ。この者の本当の名は、殺生をしないという意味のアヒンサなのだよ。さぁ、アヒンサ、お前の今までのことをここで語るがよい」 仏陀は、アングリマーラにそう促したのだった。しかし、彼は下を向いたまま話をしようとしなかった。 「アヒンサ、汝は真実を話さねばならない。誰もかばう必要はない。あったことだけを包み隠さず話すのだ。すべてを思い出しているのであろう?。すべてをわかっているのであろう?。さぁ、話すのだ」 仏陀は、彼に優しくそういったのだった。アヒンサと呼ばれた男は、仏陀を見つめた。仏陀は、黙ってうなずいた。 「私の名前は、確かにアヒンサといいます。生まれは、シューラバスティーの郊外のバラモンの家です。私は、捕えられたときに、すべてを思い出しました・・・・」 アングリマーラと恐れられた男は、小さな声でぼそぼそと話し始めた。 「私はあるバラモンの師について、その教えを学んでいました。師である先生はとても高名な方で、500人もの弟子を持っております。その中で、私は最も師から可愛がられていました。ですので、師のお宅にも何度も泊めていただいたこともあります。師の家に泊まり込みで学ぶことを許されていたのは、私だけでした。しかし、それがいけなかったのでしょう・・・・。 ある日のこと、師の奥様が私に言い寄ってきました。奥様は、私に言いました。『師はもう高齢で、男として役に立たない、私は欲求不満で死にそうなくらいだ。そんなところに若いお前が泊まっている・・・。あぁ、これは私にとっては地獄の苦しみなのだよ。わかってくれるわよね』と・・・・。奥様にとって、私が師の家に泊まることは、耐え難い誘惑だったのでしょう。私がそれを理解していればよかったのかもしれません。そうすれば、師の家に泊まることなどしなかったのですが・・・・。しかし、私は勉学に燃えていた。師の奥様の誘惑などどうでもよかった。私は、もっと学びたかった。だから、私は師の家に泊まることを止めなかった。あのとき、私が師の家から出て自宅に帰っていれば・・・・・」 アヒンサは、そこまで言うと大きな声で泣き出したのだった。 「続きを・・・続きを話してみよ」 国王の言葉に、アヒンサは少し落ち着きを取り戻した。そして、話を続けたのだった。 「師の奥様に声をかけられたその夜のこと。私は夜遅くまで重要な資料を読み漁っていました。師から借りた大事な本です。なかなか読める機会が得られない本でした。師は、もうお休みになっていました。私は私にあてがわれた部屋で一人で本を読んでいたのです。そこに奥様がやってきました。奥様はみだらな格好をしていました。そして、私に・・・・ 『あぁ、アヒンサ、私を抱いておくれ。早く、お願いよ』 と迫ってきたのです。私は 『奥様、止めてください。奥様は師の奥様です。そのような大切な方に・・・・そんなことは・・・・できません』 と断ったのです。しかし、それがいけなかったのです。奥様は深く傷ついてしまわれた。奥様は、透けたみだらな夜着を自ら破いたのです。そして、叫びました。 『あ、あ、アヒンサ、なんてことを!。止めなさい、止めて〜!』 と。私は何が何だかわからなかった。奥様はそう叫ぶと、夜着をあちこち破き、下着をはぎとり、ベッドに思いっきり倒れ込んだのです。私はあわてました。どうしていいかわからず、ただ呆然と立ち尽くしていました。そこへ、奥様の叫び声を聞いた使用人がやってきました。使用人は、私の部屋の扉を開け中の光景を見るなり、 『あ、奥様!。アヒンサ、お前が奥様を襲ったのか!。ご主人様、ご主人様、大変です、奥様が!』 と叫んで師の部屋へかけていきました。その様子を見て奥様は小声でこういいました。 『アヒンサ、あなたが悪いのよ。私を楽しませてくれないから。うふふふふ』 私は、背筋が凍るような感じがしました。冷や汗が流れてくるのが、よくわかりました。 師はすぐに駆けつけてきました。そして、部屋に入るなり、 『アヒンサ、私はお前を信じていたのに・・・・、なんてことを・・・・』 とと言って、私に掴みかかってきました。私は、師に『誤解です』と言ったのですが、師は聞く耳を持とうとしませんでした。師は興奮して、私の胸ぐらをつかんで、何度も私に平手打ちをしました。 何度目の平手を打たれたときでしょうか、奥様が師を止めたのです。 『あなた、もうやめてあげてください。アヒンサを許してあげてください。私の貞操は危ういところで守られています。私が叫んだため、アヒンサはお驚いて目的を達成してはいません。安心してください』 と師の背中にしがみつき、師の耳元でそう言ったのです。その時、奥様は私の目を見てニヤリと笑ったのを私は今でもはっきりと覚えています。 奥様の貞操が守られたと知った師は、私にこう言いました。 『アヒンサ、お前に最後の修行を与える。これをやり遂げたならば、お前はもう立派なバラモンとなっているであろう。いわば、これは最後の試練だ。さぁ、わしの目をじっと見つめるのだ』 その時、私は師が奥様のことをわかってくれたのだと思いました。誤解だったのだ、と。しかし、それはとんでもない間違いだったのです。私は単なるお人よしだったのです・・・・。 師のそれは・・・・今ならわかります・・・・それは催眠術でした。師は、私にこう命じたのです。 『アヒンサ、これより、100人の人間を殺して来い。そして、その死体から指を一本切り取るのだ。その指で首輪を作るのだ。100本の指でできた首輪だ。それが完成すれば、お前の最後の試練は終わる。そうすれば、お前は立派なバラモンとなるのだ』 私は、すっかり師の催眠術にかかってしまったのです。そのあとのことは・・・・皆さんがよくご存じのとおりです。 そして、100人目であったそちらの・・・・」 アヒンサが言いよどんでいると、国王が口を挟んだ。 「仏陀世尊だ。アヒンサ、お前は知らなかったのか?」 「あぁ、仏陀世尊・・・・やはりそうでしたか・・・。お噂は聞いておりましたが、私はバラモンでしたので、仏陀の教えには興味はありませんでした。それなのに・・・・私はバラモンに救われず、仏陀に救われた・・・。 そう、100人目は、通りすがりの女性だったのです。私はその女性に切りかかった・・・つもりだったのですが、その女性の前に仏陀世尊がいらした。女性と私の間に割って入ったようでした。どうやって割って入ったのか、私にはいまだによくはわからないのですが、ともかく、そこから標的が変わりました。女性ではなく、私は世尊に切りかかったのです。しかし、どうやっても世尊に届かなかった。私は走っているのに、世尊に追いつくことすらできなった。周りには何もなかった。私と世尊だけがそこにいたのです。初めに切りつけた女性も、街の建物も壁も・・・・なにもなかった。ただあるのは、前を行く世尊だけだった。私は止まれ!と何度も叫んだ。私は走っているのに、世尊に追いつくことはできなかった。だから止まれと叫んだのに・・・・。 そこで声が聞こえたのです。 『私は止まっているよ、アヒンサ。止まっていないのは、汝であろう、アヒンサ。もうよいのだ、アヒンサ、もうよいのだ。さぁ、止まるがよい・・・・』 と。その声で、私は夢から覚めた・・・・そう、まさに夢からさめたような気分だったのです。そうです、これがすべて夢ならどんなによかったことか。夢の中での殺人ならば、どんなに救われたことか。 しかし、私が99人もの人を殺してしまったことは夢ではありません。事実なのです。そう、事実なのです。これは紛れもなく現実なのです・・・・」 そういうと、アヒンサは、気絶してしまったのだった。 「国王よ、アヒンサが言ったことはすべて真実である。だから、この者には、もう危険はないのだ。彼は、本来その名前の通り、虫も殺さぬ真面目な心正しき青年だったのです」 アヒンサの長い話を聞いて、仏陀が国王に言った。国王は、 「どうやらそのようですな。悪の根源は、師のほうにある、いや、師の奥さんですな。おい、兵士長」 といい、兵士長に何か命じたのだった。 「裏を取る、というわけではありません。悪の根源は断たないといけませんからな。このシューラバスティーで500人の弟子がいて、催眠術が使えるというバラモンはそうそういません。ましてや奥様が・・・たぶん若い・・・となると、答えは簡単です。自分の行動には責任を持ってもらわねばならない。そうですね、世尊」 「国王よ、そのとおりである。このアヒンサも、自分の犯した罪の責任は自分で取ってもらわねばならない。すべて自己責任だ。なので、私が教団に連れて帰ることにします。彼に責任をとってもらうのです」 「はぁ、参りましたな、世尊。世尊がそこまで言われるなら仕方がありません。あとは世尊にお任せいたしましょう。おい、アヒンサの縄をほどけ」 こうして、アングリマーラと怖れられた男は、アヒンサに戻り、祇園精舎へと連れてこられたのであった。 しかし、それはアヒンサにとって、つらい毎日の幕開けだったのである。 119.たとえ死ぬより辛くても 「アーナンダよ、この祇園精舎で修行をするビク・ビクニをすべて集めよ」 祇園精舎にアヒンサを伴って戻ってきた仏陀は、帰るなりアーナンダにそう命じた。やがて、祇園精舎中のビク・ビクニが仏陀の前に集まった。 「皆のものよ、心静かにして話を聞くがよい。世間を騒がせていた殺人鬼アングリマーラは、その存在を消滅した。殺人鬼はもういないのだ。殺人鬼アングリマーラは、新しい者に生まれ変わった。・・・いや、元に戻ったと言ったほうがよかろう。いずれにせよ、アングリマーラは、もうこの世に存在しないのだ。 私の横にいる者を紹介しよう。彼は、アヒンサという者だ。が、彼は、ほんの少し前までアングリマーラと呼ばれていた青年でもある。本来ならば、重罪の刑に処されるところではあったが、私が引き取った」 その時、大きなどよめきが起こった。集まったビク・ビクニが口々に 「大丈夫なのか。いったいどういうことなのだ」 「そんな者と一緒に修行するのか?」 「世尊は何を考えられている?」 と騒ぎ始めたのだ。静かにしていたのは、悟りを得ている長老たちだけであった。仏陀は、口を閉じた。騒ぎが静まるまで待つことにしたのだ。騒ぎはなかなか静まらなかった。しかし、仏陀も長老も口を閉ざしたまま、静かに待った。ついに、しびれを切らしたアーナンダが大きな声で 「静かにしましょう。世尊の言葉を最後まで聞きましょう」 と叫んだのであった。 普段、大人しいアーナンダが叫んだことにより、騒いでいたビク・ビクニは静まり返った。 「話をする前に汝ら修行者に言っておく。私の言葉は最後まで聞くがよい。私の言葉の途中で騒いでいては、汝らはいつまでたっても悟りには到達できまい。長老の言葉も同じである。話は最後まで聞き、そのあとに今後自分はどうするべきか、どの道を進むべきかを決めるのだ。話の途中で騒ぐ者は、愚か者と言えよう」 仏陀は、いつになく厳しい言葉を放ったのであった。騒いでいたビク・ビクニは、深く反省したのであった。 「話を続けよう。アヒンサは、本来、真面目な青年で、アヒンサという名の通り、殺生をしたことなど一度もない青年であった。しかし、彼はある悪人により罠にかけられ、アングリマーラとなってしまったのだ。しかし、今はもうアングリマーラではない。アングリマーラは、先にも言ったとおり、もう消滅したのだ。ここにいるのは、アヒンサという真面目な青年である。従って、彼に危険を感じることはない。むしろ、彼に追い越されないように、ともに修行に励むがよい。 しかし、世間では、彼のことをアングリマーラとして恐れるものもいるであろうし、また彼の手にかかって亡くなってしまった者の家族もいよう。そうした者たちは、彼のことを恨み、憎むであろう。彼は、そうした者の手により、暴力を受けることにもなりかねないであろう。 皆も知っての通り、我々は托鉢にて食を得ている。当然のことながら、アヒンサも托鉢に出る」 そこまで仏陀が話したとき、ビク・ビクニの中から「あぁ」という声が聞こえてきた。 「そうだ、気が付いたものもいよう。よいかアヒンサ。汝にも今から言っておく。汝が托鉢に出た時、汝に対し暴力を振るってくる者もいよう。その時、汝はどう対処する?」 仏陀がアヒンサに尋ねた。 「世尊、私はその方たちから殺されても仕方がないことをしました。私は何ら抵抗することなく、彼らの暴力を受け入れましょう。たとえそれが、死ぬより辛いことであったとしても、私にはすべてを受け入れる覚悟があります」 「よく言ったアヒンサ。その覚悟は揺らぐことはないか?」 仏陀は再び尋ねた。アヒンサは「揺らぐことはありません」と即座に答えた。仏陀は、さらに重ねて問うと、アヒンサの答えもまた同じであった。 「このようにアヒンサは、固い決意をもって修行に励むことを誓った。皆の者は、その言葉を信じるがよい。さて、問題は、汝らである」 仏陀は、そういうと集まったビク・ビクニを見渡した。 「汝らビク・ビクニよ、もし托鉢の時、アヒンサが人々から暴力を受けているのを見たならば、汝らは如何とするか?」 仏陀は、再びビク・ビクニを見渡したのだった。仏陀は、答えが返ってくるまで待つつもりであった。 しばらくして一人のビクが言った。 「あの・・・申し訳ないですが、私は何もできません。アヒンサ・・・を庇うこともできませんし、彼を痛めつける街の人々がいたとしたら、彼らを止めることもできません。なぜならば、彼は・・・彼は・・・それだけのことをしたからです。彼に身内の者を殺された人にしてみれば、彼を討ちつけるのは当然のことかと・・・・。私の考えは間違っているでしょうか?」 すると、別のビクが言った。 「君は、戒律を理解していないのか?。暴力を見て見ぬふりをすれば、それは自らが暴力を振るっているのと変わりはないのではないか?。もし、街の人々がアヒンサに暴力をふるったならば、理由はともかく、それを止めるのが我々修行者の務めではないであろうか?」 この言葉に、初めに発言したビクは黙り込んでしまった。また別のビクが言った。 「いや、私は関わり合いになりたくはない。それにだ。戒律に暴力を止めよ、などというものはあっただろうか?。自らが暴力を振るわなければ、それは戒律違反にはならないのではないだろうか?」 「いやいや、やはり見て見ぬふりはいけないだろう」 こうして、ビク同士の話し合いが始まったのだった。それは、仏陀の望むことでもあった。 「暴力は止めるべきだ。人をして暴力をふるわせてはならない、という戒律もあるはずだ。ならば、目の前に暴力をふるう者がいたならば、それは止めるべきであろう」 「巻き添えを食うかもしれないではないか」 「そもそも命が惜しくば、修行などできないであろう」 「女性には、とても無理かと・・・・」 「あぁ、一人二人のことなら大声を出すとかで止められるかもしれないが、集団となると・・・・」 「難しい問題だな。実際にその場面に出くわさないと何とも言えないのではないかな・・・」 「いや、街の人々に暴力の罪を犯させないことも考えるべきであろう。そう考えれば、止めることは必要ではないか。自分さえよければいい、という考えでは修行者とは言えないのではないか」 このようにビクやビクニは、それぞれの意見を言い、深く話し合いをした。そして、 「ふむ、やはり黙って見過ごすわけにはいかないだろう。もし、街の人々がアヒンサに暴力を振るようなことがあったならば、それは止めるべきであろう」 という結論に達したのであった。アヒンサは 「ありがとうございます。私のような罪深い者に対し、こんなにも考えていただけるとは・・・。しかし、私はどんな暴力にも耐えて見せます。皆さんのお気持ちは嬉しいのですが、巻き添えを食ってしまっては、私はかえって辛いです。もし、街の人々が私に対し暴力をふるったならば、声を上げて止めるだけにしてください。決して、間に割って入らないようにしてください。お願いいたします」 「どうやら結論が出たようだ。今、アヒンサが言ったのが我々にできる最大限のことであろう。アヒンサよ、汝が選んだ道は、最も厳しい道であろう。それに耐えて悟りを得られるよう、精進するがよい。皆の者、私からの話は以上である」 こうして、仏陀はアヒンサの紹介を兼ね、今後のアヒンサへの対応、そして暴力に対するビク・ビクニたちの考えを深めたのであった。 翌日から、アヒンサの托鉢が始まった。早朝とはいえ、街中には人々があふれていた。それは、アングリマーラが捕まったことや、そのアングリマーラを仏陀が引き取ったこと、引き取った以上、アングリマーラは托鉢に出てくるであろうという噂が街に流れていたからである。人々は、シューラバスティーを恐怖に陥れた殺人鬼の顔を一目見ようと、朝早くから街に出ていたのである。よくみると、そこかしこに兵士も立っていた。いくら仏陀がアングリマーラは安全であるといっても、もしものことに備えたのである。 アヒンサは、仏陀の後ろについて歩いていた。その後ろにはアーナンダがいた。 「あれがアングリマーラか。仏陀はなぜあんな殺人鬼を弟子にしたのだ」 「おぉ、悪そうな顔をしている。あぁ、恐ろしや恐ろしや」 「目を合わすな、殺されるかもしれないぞ」 「そうかなぁ。仏陀世尊がアングリマーラの前に立っているんだぞ。安全じゃないのか。それに悪そうな顔をしていないぞ」 「思ったよりも好青年に見える。あんな真面目そうな男が・・・・」 街の人々の反応はさまざまであった。仏陀は、 「このものはアングリマーラではない。アヒンサというものだ。アングリマーラは、もうすでに消滅した」 と、よく通る声で宣言した。そして、托鉢を続けたのであった。 仏陀のすぐ後ろにいるときは、アヒンサには何も起きなかった。しかし、托鉢は、一人でするものである。アヒンサも仏陀のそばを離れ、一人で托鉢に回り始めた。そのとたん 「この殺人鬼めが!。私の息子を返せ!」 と叫んでアヒンサに掴み掛った男がいた。アヒンサは、その男に倒された。 「この殺人鬼が!、のうのうと生きておって!。お前なんぞ、死ねばいいのじゃ!」 男は、アヒンサの上に馬乗りになると、アヒンサを何度も殴りつけた。暴力は暴力を呼ぶ。ましてや、あいては無抵抗の元殺人鬼である。あっという間にアヒンサの周りには多くの人が詰まっていた。そして、彼らは、無抵抗のアヒンサに殴る蹴るの暴力を働いたのだった。 「止めさなさい。誰であろうと、暴力はいけない。それは大きな罪だ!」 仏陀や仏陀の弟子たちが、その現場に集まってきた。 「止めよ、止めぬか。暴力では何も解決はしない。罪が深まるばかりだ」 仏陀の弟子たちは、口々にそう叫んでアヒンサに暴行を働いている者たちを止めようとした。しかし、彼らは止まらなった。 「復讐して何が悪い!。私の息子はこいつに殺されたんだ!」 「こいつが私の娘を殺したんだ」 「私の妻を返せ!」、「子供返せ」、「夫を返せ」、「母さんを返して!」・・・・・・。 彼らは、そう叫びながらアヒンサへの暴行を続けたのであった。 さすがにこれ以上暴行を続ければアヒンサが死んでしまうと思ったのであろう、見かねた兵士たちがアヒンサと暴行をしていた人たちの間に割って入った。 アヒンサは血だらけになっていた。まるでぼろ雑巾のようにそこに横たわっていた。アヒンサは、、それでももぞもぞと起き上がり、土下座をして 「みなさん・・・、申し訳ないことをしました・・・。私はこのような目にあっても・・・・どのような目にあっても・・・・仕方がないことをしました。皆さんが私を殴ることによって、気が晴れるというのでしたら・・・・どうぞ、好きなだけ殴ってください。私はそれだけのことをしたのですから・・・・」 というと、気を失ったのであった。 翌日のこと、アヒンサは腫れ上がった顔をして托鉢に出た。身体中に青アザができていた。幸い、骨が折れることもなかったが、全身が痛んでいた。ほかのビクたちに 「そんな状態で托鉢に出られるわけがない。今日は寝ていたほうがいい」 と止められたのだが、 「いえ、たとえ死ぬより辛くとも、たとえこの身がどうなろうとも、私は仏陀の弟子です。修行僧です。托鉢に出かけます」 と言って、街に出たのである。 しかし、アヒンサを待っていたのは、石つぶての攻撃だったのである。 120.恨むことなく 街の人々は、アヒンサに向かって石を投げた。 「人殺し!」、「死んでしまえ!」、「お前なんか消えてしまえ」、「死ね死ね死ね!」 口々にそう叫びながら、街の人々はアヒンサに石を投げた。その石は、アヒンサの体のあちこちに当たった。当たるたびにアヒンサは「うっ」とうなり声をあげていたが、その場で倒れることもなく、街の人々に言い返すこともなく、静かに歩いて托鉢をしたのだった。 一人のビクが、そんなアヒンサを哀れに思い、アヒンサに寄り添って歩いた。すると 「お前も人殺しの仲間か!」 と街の人々は、そのビクにも石を投げつけたのだった。アヒンサは、頭から血を流しながら、 「仲間よ、私のそばにいてはいけない。関係のないあなたまで傷つけてしまう。私は一人で大丈夫だ。私は、街の人を誰一人恨んではいない。怒ってもいない。むしろ、石を投げられ、棒でたたかれ、罵声を浴びせられたほうが安心できるのだ。だから、私を一人にしてください」 と寄り添ったビクに頼んだのだった。ビクは、「本当のそれでいいのか」と問いかけたが、アヒンサの固い決意のまなざしに、一度だけうなずくとアヒンサのそばを離れたのだった。しかし、そのビクは大きな声で人々に言ったのだった。 「止めよ、街の人々よ。確かに、彼はアングリマーラであった時、多くの人々の命を奪った。しかし、今は世尊の弟子として、不殺生を守り抜いている。彼は生まれ変わったのだ。かつての殺人鬼ではないのだ。人々よ、石を投げるのは止めよ、暴力を振るうのは止めよ。世尊はおっしゃっている。暴力では何も解決はしないと」 しかし、街の人々は聞く耳を持たなかった。 「うるさい!。お前に大切な人を殺された者の辛さがわかるのか!。お前に何がわかるのだ!」 その一言に、アヒンサを庇って叫んでいたビクは黙ってしまったのだった。 「ほうらみろ、何も言えないだろ。修行僧だからといって、偉そうな顔をするな」 街の者は、そう叫ぶと、再び石を投げ始めたのだった。そこに兵士たちが現れた。 「止めよ、止めよ、街を騒がせる者は、捕縛するぞ」 兵士たちの姿を見るや否や、街の人々はすぐさまに散ってしまったのだった。アヒンサを庇ったビクは、悩んだ。「私たちは無力なのか」と。 そのビクは、托鉢を終え、祇園精舎に戻ってからも沈んでいた。そのビクは、シャーリープトラの指示を受けていたので、精舎へ戻った後、戒律通りの行動をし、食事を終え、シャーリープトラのもとへと足を運んだ。 「シャーリープトラ尊者よ、私はわかりません。私たちは何もできないのですか?。人々に何を説けばいいのでしょうか?。私たちには、何ができるというのでしょうか?・・・いいえ、私たちは、結局のところ、人々に何もできはしないのではないでしょうか?」 「どうしたというのですか?」 シャーリープトラの問いかけに、そのビクは托鉢時の出来事を語った。シャーリープトラは、 「その通りです。私たちは無力です」 と静かに言ったのだった。そして、さらに続けた。 「あなたの行動はまちがってはいません。しかし、私たちは、無力です。そもそも、我々のような小さな存在が、人々の行動を制御しようなどとは・・・、それは難しいことでしょう。それができるのは、仏陀ただ一人です。私たちは、小さな存在です。人々一人一人に語りかけることくらいしかできません。人々に食べ物を施してもらい、それで人々に徳を積ませることくらいしかできないのです」 「しかし、それでは・・・。世尊の教えを人々に説けば、人々も、もっと清い心を持ってくれるのではないでしょうか?」 「ですから、それは難しいことなのですよ。たとえ、教えを説いたとしても、怒りに燃えている者たちは、その火を消すことはないのです。今、街の人たちはアヒンサへの怒りで燃え上がっています。この火は、あなたがいくら叫んでも消えはしないでしょう。いや、一時的に消えることはあるかもしれません。しかし、それはあくまでも一時的です。すぐに火は再燃するでしょう。兵士たちがいくらその場を鎮めても、街の人々の火は消えることはありません。つまり、あなたも、私も、兵士たちも、人々の怒りの火を消すことはできないのです。下手に躍起になって火を消そうとすれば、その火は・・・次に燃えるときは、目立たぬようになるでしょう。街中で怒りの炎を燃やせば、兵士が鎮めに来るとわかれば、人々の怒りの炎は陰に隠れて燃え上がってしまいます。それは、むしろ危険なことです。アヒンサが、大通りで石を投げられ、殴られ、棒でたたかれているうちは・・・・まだ大丈夫なのです・・・・」 シャーリープトラはそういうと、ちょっと遠くを見るような眼をして、一瞬であるが悲しそうな顔をしたのであった。しかし、すぐさまビクの方を向くと 「よいですか。アヒンサを追い込むようなことをしてはいけません。アヒンサの望むようにしてあげなさい。そのほうがアヒンサのためになるのです。それがわかっているからこそ、長老たちはアヒンサを庇ったりはしないのです」 「アヒンサを追い込むようなことはしない・・・ですか・・・・」 「そうです。忘れてはいけません。私も、あなたも、兵士たちも、無力なのです・・・。怒りの炎は、自らでしか消すことはできないのですよ」 シャーリープトラは、そういうと目を閉じて、瞑想に入ったのであった。 シャーリープトラの言葉通り、アヒンサは毎日怪我を負ってはいるが、何とか耐え忍んでいた。托鉢の鉢の中にも、少しずつではあるが、食べ物が入れられるようになっていた。しかし、それには理由があった。兵士たちが街を見回っているからだった。街の人々は、兵士に捕縛されるのを恐れ、アヒンサへの攻撃を抑えていたのだ。だが、これは逆効果を生んだ。兵士の監視にさらされた街の人々の不満は、破裂寸前まで高まっていたのだ。 「何もかもアングリマーラが悪い」 それが街の人々の共通の思いだったのだった。それは、やがて大きな怒りへと発展していくのである。 ある日のこと、アヒンサは仏陀に申し出た。 「街を兵士が見張っています。これをやめさせてはもらえないでしょうか」 「アヒンサよ、それはできぬことだ。兵士は兵士の仕事、街の治安を守るために働いているだけである。兵士に街に入るな、とは言えない」 「ですが、街の人々の怒りが爆発寸前のように私には思えるのです。このままでは、街が混乱してしまうでしょう。それも、すべては私一人への怒りが原因です。兵士がいなくなれば、街の人々の怒りは私に向かうはずです。そうすれば、街は守られます。どうか、兵士たちを街から退去させてください」 「アヒンサ、それは無理なのだ。私がいくら兵士にそれを頼んでみても、兵士たちは仕事だから、というであろう。アヒンサ、私も街の不穏な空気は知っている。しかし、いくら仏陀であろうと、できることとできぬこともあるのだ。いや、口を出してはいけないこともあるのだ。我らは修行者だ。修行者は、政治に関することには口は出してはならぬ」 「では、世尊、私に街の大通りではなく、裏通りを托鉢してよいとお許しください」 アヒンサが街の大通りのみで托鉢していたのは、仏陀の指示であった。大通りの人目のあるところならば、アヒンサの命まで奪うような暴力行為は、行われないであろうとの考えからであった。裏通りや人の目の少ないところは、アヒンサにとっては危険であると判断したのだ。 「アヒンサ、それがどんな意味を持っているかわかっているのか?。裏通りは、アヒンサ、汝にとって大変危険であるのだよ」 「承知しています。私は、何をされても誰も恨むことはありません。たとえ、この身が引き裂かれようとも・・・、私は構いません。それよりも、私は街の人々の心がすさんでいくことの方が辛いのです」 「そうか。では、明日より、どこでも自由に托鉢するがよい」 仏陀は、アヒンサの覚悟を知って、アヒンサの行動の自由を許可したのであった。 その日からアヒンサは、大通りではなく、裏通りや人の少ない街外れを托鉢して歩いた。そうしたところは、人がほとんどいないので、托鉢で得る食事も少なかったが、もともとアヒンサの鉢の中には、多くの食は入れてもらえなかったので、アヒンサは何も気にしてはいなかった。 3日ほどは、アヒンサは石も投げられることなく、棒でたたかれることもなく、暴力を振るわれることはなかった。托鉢から戻ると、アヒンサは、必ず仏陀のもとに立ち寄った。 「世尊、今日も無事に托鉢ができました。街外れは、今日も平穏でした。あぁ、そういえば、気なることが一つあります」 「ほう、それはどんなことだ」 アヒンサの言葉に仏陀が問い返した。 「はい、私が托鉢に行く街外れの一軒の家に妊婦がいるのですが、どうも他の人の気配がしないのです。その妊婦は、今にも子供が生まれそうなお腹をしております。しかし、どうしたものか、家の中には、その妊婦しかいないようなのです。どういう事情なのかは分かりませんが、人の気配がしないのです。もし、あの者が産気づいてしまったら、もしそのようなところに私が出くわしてしまったら、私はどうすればいいのでしょうか?。人を呼ぶにしても・・・私では・・・・。誰も来てはくれないのではないかと・・・・」 「アヒンサよ、心配はいらぬ。もし、その妊婦が産気づいていたところに汝が托鉢に行ったとしたら、汝は、すぐに人を呼べばよい。もし、その妊婦が子が生まれそうになって苦しんでいるようであれば、次のように唱えよ。『私はこの世に生まれてこのかた一度も殺生をしたことはない。この言葉に偽りがなければ、あなたは安らかに子を産むことができ、助けもすぐに来るであろう』と」 「せ、世尊、私は・・・殺人鬼でした。そのような嘘は・・・・」 「ふむ、それは汝が出家する以前の話であろう。出家後は名前の通り、不殺生を貫いているではないか・・・。ではこう唱えよ。『私がこの世に聖なる命を受けて以来、故意に生き物の命奪ったことはない。この言葉が真実ならば、あなたは安らかに子を産むことができ、助けがすぐにやってこよう』と」 アヒンサは、「それならば」と仏陀の教えた言葉を覚えたのであった。 アヒンサが裏通り方面に托鉢に出るようになって4日目のことだった。裏通りや街のはずれには、怪しく光る眼がたくさんあったのだった。 アヒンサは、歩きなれた街の外れの淋しい通りを歩いていた。いつも通る家の前に来た。妊婦が一人でいる家だ。しかし、いつもと様子が異なっていた。中からうめき声がするのだ。アヒンサは、すぐさま家の戸口を開けた。 「あぁ、産気づいているのだね。く、苦しそうだ・・・・。人はいないのか?。ここには、あなた一人なのか?」 アヒンサは、苦しんでいる妊婦にそう問いかけたが、今にも生まれそうで苦しがっている妊婦には答えようがなかった。しかし、彼女は、苦しみながらも、ここには自分以外誰もいないことを告げたのだった。アヒンサは、あせった。しかし、仏陀から教えられた言葉を思い出したのだった。 「妊婦よ、よく聞くがよい。私は修行僧だ。私がこの世に聖なる命を受けて以来、故意に生き物の命奪ったことはない。この言葉が真実ならば、あなたは安らかに子を産むことができ、助けがすぐにやってこよう」 アヒンサがそう唱えると、その妊婦はにっこりとほほ笑んだのだった。そして、 「きっと、その言葉は真実でしょう。ありがとうございます」 と息を切らしながらもアヒンサに言ったのであった。アヒンサは、「では・・・」と言ってその家から外に出た。その時であった。 「この家の中で何をしていた人殺し」 と叫ぶ者があった。次の瞬間、アヒンサは路上に倒れ込んでいた。頭を思い切り殴られたのだ。それを皮切りに、大勢の人々が現れた。彼は、寄ってたかってアヒンサを蹴り飛ばしたり、棒でたたいたりした。アヒンサは、無抵抗で殴られながらも「待て、待ってくれ、その家に産気づいて苦しんでいる人がいる。助けてやってくれ」と叫び続けたのだった。初めうちは、誰もその言葉を信じなかった。しかし、いくらたたき続けても、アヒンサはその言葉を言い続けるので、一人の青年が「うるせー奴だな。クソッ、もし、その言葉が嘘だったら、ぶっ殺してやる」とアヒンサが出てきた家に入ったのだった。 「た、大変だ。本当に妊婦がいて、苦しがっている。だれか、医者を!」 青年は、アヒンサに暴行を加えていた者たちに叫んだのだった。 妊婦は、アヒンサに暴行を加えていた者たちの手によって、無事に医者のもとに運ばれていった。一人残されたアヒンサは、路上で倒れていたのだった。 121.恨みを鎮める アヒンサは、気が付いた。 「ここは・・・。あぁ、あの妊婦のいた家の前か・・・。どうやら妊婦はあの者たちの手によって・・・・救われたようだ。よかった・・・」 彼は、もう立ちあがることはできなかった。口からは大量の血をふきだしていた。あちこちの骨が折れていたようだった。それでもアヒンサの心は澄み渡っていた。なんとも心地よかったのだ。体を横たえたまま、アヒンサは喜びに満ち溢れていたのだ。そのとき、声が聞こえてきた。 「アヒンサよ、よく耐えた。よく耐え忍んだ。もうよい、もうよいのだ、アヒンサよ」 それは仏陀の声だった。アヒンサの横には、仏陀が座っていたのだ。 「せ、世尊・・・。私は・・・。あぁ、世尊、今、わかりました。生の意味、死の意味。そして、なぜ私にこのような因縁が・・・・あったのかも・・・。今、私は・・・これで堂々とヤマの前に跪くことができます。何の恐れもなく、ヤマの所に行けます。世尊、私を見捨てないで下さったことを感謝いたします。私を出家させてくださって・・・ありがとうございます」 「アヒンサよ、よくぞ悟った。私は、それを望んでいたのだ。汝が悟ってくれることを」 「世尊、私は悟ったのですね」 「そうだアヒンサよ、汝は悟った。もはや汝は、ヤマの前に行くこともなく、輪廻の輪から解脱したのだ。もう二度とこの世に生まれ来ることはないであろう。輪廻を解脱した者だけがいくことができる世界へ旅立つのだ」 「世尊・・・・。ありがとうございます」 こうしてアヒンサは、仏陀が見守る中、息を引き取ったのである。殺人鬼アングリマーラは、アヒンサという青年に生まれ変わり、悟りを得てこの世を去ったのだった。 アングリマーラだったアヒンサが、街の人々の暴行によって亡くなったという噂はすぐに広まった。その噂を耳にした国王は、急いで祇園精舎に向かった。 「世尊、世尊!。世尊はいらっしゃるか」 「どうしたというのですか、国王よ。ここは修行場です。どうかお静かに」 「おぉ、世尊・・・あ、これは申し訳ない。ついあわてていて・・・。いや、それはいいのだが、アングリマーラが殺されたと聞いたので・・・」 「アングリマーラとは、誰のことですか?。そのような名前の者は、ここにはいませんが」 「あぁ・・・、えっと・・・アヒンサ、そう、アヒンサだ。彼が街の者の手によって弄り殺されたと聞いてだな、その真偽を確かめるために私はここに来たのだ」 「確かに、アヒンサは、先日そのようなことが起きて命を落としております」 「せ、世尊、それは本当か?。いや、失礼。仏陀の言葉はすべて真実でしたな。いや、それならば、アヒンサを殺害した者を見つけなければいけません。それは放っては置けませんぞ」 「国王よ。そのようなことはアヒンサは望んではいない。彼は、悟りを得て、満足して死を迎えた。犯人探しのようなことは、彼は望んではいない。国王よ、どうか、アヒンサの願いを聞き入れていただきたい」 「しかし、それでは国の秩序が保てないであろう。暴行を許すことになる。それでは、国の示しがつかないのだ」 「国王よ。アヒンサの命を奪った者たちは、暴行魔でもなければ、国の秩序を乱すような暴徒ではない。普段は、大人しい一般の市民だ。彼らは、アヒンサに暴行を加えたかも知れないが、同時に妊婦を救い、新たな生命を守ってもいる。悪人たちではないのだ。もうよいではないか」 「いいや、これで許してしまえば、その暴行をしたものはいいかもしれないですが、もっと悪い者たちが、暴行しても許されると勘違いしてしまいます。ここは、見逃してはいけないでしょう」 「そうですか・・・。では、3日待ってください。そして、約束をしていただきたい」 仏陀はそういうと、3日後に街の人々を集めて法話会を行うこと、法話会が終わるまで兵士たちは犯人探しをしないこと、もし犯人が名乗り出た場合は注意だけして罰を与えないこと、を国王に約束させたのだった。国王は、しぶしぶであったが、その条件をのんだのであった。 3日後のことであった。シューラバスティの街を 「祇園精舎で仏陀世尊の大事な話があるよ〜、今日の午後からだよう」 と金をたたいて練り歩く出家して間もない僧・・・沙弥(しゃみ)・・・の姿があちこちで見られた。街の人々は 「いったい何の話なんだろうね。仏陀様の話だ。きっといいことに違いない」 と、お互いに話し合いながら、祇園精舎に向かったのであった。 その日の午後、祇園精舎はあふれんばかりの人々で埋め尽くされていた。みな、仏陀の話を聞きに来ているのだ。群衆の中には、国王や妃、大臣の姿も見られた。また、多くの兵士たちの姿もあった。しかし、彼らは見張っているのではなく、彼らも仏陀の話を聞きに来ているのだった。 一段高いところに仏陀が結跏趺坐で座った。仏陀は目を閉じて、黙していた。ざわざわしている人々が静まるのを待っているのだ。やがて、祇園精舎は、大勢の人々で埋め尽くされているにもかかわらず、人がいないかのように静まり返った。 仏陀の目が開いた。 「先日、私の弟子がシューラバスティーの街外れの裏通りで、その生を終えた。彼は、出家前、大きな罪を犯していた。殺生の罪である。しかし、彼は出家してからは、一度も殺生の罪を犯してはいない。ほんの小さな命すら奪うことなく修行に励んでいた。彼が托鉢にでると、街の人々は彼の出家前の所業のことで石を投げたり、暴力振るったりした。しかし、彼は決して人々を恨むことなく、人々の暴力を受け入れていた。なぜならば、暴力を振るわれる原因を作ったのは彼自身だからである。彼は、そのことをよく心得ていたのだ。彼は言った。『私は決して人々を恨むこともなく、人々に対し怒ることも、そしることもありません。すべては私がまいた種です』。そう心得て、彼は毎日托鉢に出たのだ。彼の鉢には何一つ食事を入れらることなどないというのに・・・。しかし、それも自らの業によるものだ。同情されるものでもないし、同情すべきでもない。彼にとっては、当たり前のことなのであるから。そうして、彼はある日のこと、裏通りで暴力を受けその生を終えたのだ。彼は最後の時、 『私は、今わかりました。生の意味、死の意味・・・。縁起の教え、この世の真理・・・。世尊が説かれたことが、すべて理解できました。これほどの喜びはない。私は真の幸福に包まれ死を迎えます。ありがとうございます。すべての人々に感謝いたします』 と言い残し、喜びにあふれた顔でこの世を去った。彼は、こうして輪廻から解脱し、真理の世界へと向かったのだ。 彼が最後の時、彼が暴力を受けた場所で、一人の妊婦が産気づいて苦しんでいた。そこにはだれ一人いなく、そのままではその妊婦は赤子ごと死を迎えることになる。しかし、そうはならなかった。なぜならば、彼に暴力を振るった者たちが、その妊婦を助けたからである。妊婦も新しい命も無事であった。もし、彼に暴力を振るう者たちが、そこに現れなかったならば、その妊婦は助からなかったであろう。その妊婦を助けたのは、彼に暴力を振るった者たちなのだ。すなわち、彼がその者たちを招きよせたのだ。 彼の命を暴力で奪った者たちよ、汝らは、彼がその妊婦を救うために汝らを招きよせたのである。汝らは、よく彼の思惑に従ってくれた。彼は、そのことに深く感謝していた。彼ほど、死と生の意味を深く知る者はいないであろう。彼に暴力を振るった者たちよ、懺悔はしなければいけないが、汝らも命を奪った者であり、命を救った者であるということを知るがよい。すなわち、汝らも彼と同じ立場であるのだ。汝らも彼と同様に、真理に至ることができるのだ。そのことを忘れてはならぬ」 そこまで語ると仏陀は、しばらく話を止めた。集まった人々をゆっくり見渡した。そして、そのまま瞑想に入ったのだ。 しばらくの沈黙の後、仏陀は再び話し始めた。 「彼は多くの大切なことを教えてくれた。それを今、汝らに説こう。 人々よ、恨みは恨みによって決して鎮まるものではない。恨みは恨みなくして鎮まるのだ。これは永遠の真理である。しかし、人々は恨みを恨みで返そうとし、耐え忍ぶことをわきまえない。そしていさかいが生まれるのだ。彼は、耐え忍ぶことをわきまえた。したがって、彼と人々の間にいさかいは生まれなかった。よいか人々よ、『あの者は私をそしった、殴った、悪口を言った』などと言ってその人を恨むならば、恨みは鎮まることはないのだ。しかし、『あの者は私をそしった、殴った、悪口を言った』と言わずに、その人を恨むことがなければ、恨みは消え去るのである。恨みは恨みなくして鎮まるものなのである。彼はこれを覚ったがゆえに輪廻から解脱できたのだ。 人々よ、罪をなした者はこの世において憂い、死して後も憂う。罪をなした者は、この世とあの世で憂い、苦悩するのだ。しかし、善きことをした者は、この世において喜び、死して後も喜ぶ。この世とあの世で喜び、幸福感に包まれるのだ。彼は、大きな罪を犯し、憂い苦悩した。しかし、命を救う手助けをして喜び幸福感を得た。このことを覚ったがゆえに、彼は輪廻を解脱したのだ。 人々よ、すべての者は暴力におびえる。すべての者は死を恐れる。自分自身が暴力におびえ死におびえるのであるから、他者も同様に暴力におびえ、死におびえるのだ。しかるに、他者に暴力を振るってはならぬ。他者に死をもたらしてはならぬ。自らが行わず、人を使って暴力を振るったり、命を奪ったりしてはならぬ。人々は誰もが生を望み、安穏に暮らすことを求めているのだ。自分と同じように誰もがそれを望んでいる。自分の生を奪われるのを厭うように、自分の安穏な生活を奪われるのを嫌うように、自分以外の人々もそれを望んでいるのだ。自分が怖れ、避けたいことは、他の者たちも避けたいことなのだ。ゆえに、暴力を振るってはならぬし、死をもたらしてはならぬのだ。彼は、これを覚ったがゆえに輪廻を解脱したのだ。 人々よ、生きることは苦である。生活することは苦を伴うことである。その苦の中で、少しでも安楽に生きることを望むのであれば、耐え忍び、戒を守り、人を恨むことなく、心を鎮めて生きることが必要である。カラスのように傍若無人にふるまえば、その者からは苦は離れないであろう。今は、安穏に過ごせていても、悪の実が熟した時は、大きな苦を味わうことになるのだ。その時は、もう遅いのだ。人々よ、悪をなしてならぬ、善をなせ。悪を離れ、善を友とせよ。そうであれば、汝らは、この世でもあの世でも安楽であるのだ。彼は、このことを覚ったがゆえに、輪廻を解脱したのだ。 人々よ、彼が身をもって説いたことを決して忘れぬよう、心にとどめて日々の生活をして欲しい」 仏陀は、そこまで語ると、再び目を閉じて深い瞑想に入ったのであった。 人々は動かなかった。仏陀の教えに誰もが感動していたのだ。多くの者が、心の中で反省をしていた。アヒンサに暴力を振るった者は、格別であった。そういう者は、下を向き、震えていたのであった。しかし、周囲の者もそれに気付いていはいたが、誰もその者を責める者はいなかった。仏陀の教えの通り、その者を非難すれば、また同じことを繰り返してしまうであろうと考えたからだ。人々は、静かに仏陀の教えをかみしめていたのである。 ふと、手をあげる者がいた。仏陀はそれに気付き、一つうなずいた。するとその者は、立ち上がって 「アングリマーラ・・・いや、アヒンサを死に追いやったのは私です。私は・・・・どうすればいいのでしょう・・・いや、兵士の皆さん、私を捕縛してください」 と大きな声で言ったのだった。すると、次から次へと同じように立ち上がって叫ぶ者が出たのだった。 「私もです。私もアヒンサを死に追いやった」 「私もだ。私もアヒンサに暴力を振るった者のうちの一人だ」 「私もだ」、「私もだ」、「私もだ」・・・・・。 その数は、数十人に膨れ上がっていた。 国王は、その様子を見て、ちょっと困った風な表情をしたが、やがて優しく微笑んでいった。 「世尊、国ではこの者たちを引き受けるわけにはいきません。どうか、世尊のもとで指導してはもらえないでしょうか」 「国王よ、引き受けよう。汝らは、これより我が弟子である。アヒンサの遺志を継ぎ、修行に励むがよい」 仏陀は、そういって、国王とアヒンサに暴力を振るったと名乗り出だ者たちに微笑んだのであった。 こうして、アングリマーラの事件は幕を閉じたのであった。このことにより、仏陀の評判はさらに増したのであった。これを契機に、多くの財産家や権力者が仏陀の教団の支援に回ったのである。しかし、それを面白くなく思う者もいたのである。彼らは、アヒンサの話を聞きにいかなかった者たちであった。そういう者たちもいたのである。その者たちにとって、仏陀は邪魔な存在となったのだ。不穏な空気がシューラバスティの街を流れていた。 122.妬み 仏教教団が誕生したころ、インドには大きく分けて六種類の宗教が存在していた。その中でも勢力を誇っていたのは、バラモン教である。バラモン教は、王宮を始め庶民の生活にも深く浸透していた。しかし、バラモン教はどちらかといえば、生活習慣や季節ごとの行事、祭祀に関する教えが主であり、仏教のように考え方を改めることを勧めるものではなかったし、また悟りを目指したり、天界へ生まれ変われることを目指したりする教えでもなかった。そのため、バラモン教と仏教は敵対することは、多くはなかった。たまに仏教をよく思わないバラモンの司祭が、仏陀に問答を吹っかけに来る程度である。その場合、仏陀は、ことごとくバラモンの無理難題を論破していた。論戦に負けたバラモンは、すべて仏陀の弟子となっていたのである。 バラモン教以外に、もう一つ勢力を誇っていた宗教があった。ジャイナ教である。彼らは、仏教教団と同じく、托鉢で生活を維持していた。彼らが説く教えは、仏教と似たところもあったが、それはあまり深いものではなく、古くからあるインド思想の空の教えを説くだけだった。ただし、彼らは仏教教団よりも厳しい戒律を守っていた。その中でも特に目立ったことは、衣服を身に着けない、ということであった。彼らは裸で修行生活をしていたのだ。裸で街を托鉢していたのである。その姿に、コーサラ国やマガダ国の人々を始め、多くの人々が違和感を感じてはいたが、聖者に食事を施すことは徳を積むことで善いことである、という伝統があるインドでは、裸の修行者を拒否することはなかったのである。 しかし、仏教教団が誕生したことにより、街の人々の対応に変化が現れたのであった。仏陀が、コーサラ国やマガダ国の王家の信仰を得たり、街で起こる様々な事件や揉め事を解決したりしたため、仏陀や仏教教団の評判は上がる一方であった。また、仏教の修行者は、いつも身なりに気を遣い、清潔で立ち姿や振る舞いにも気品が感じられた。さらに、言葉遣いも大変優しく丁寧であったのだ。それはジャイナ教の修行者には、なかったことであった。ジャイナ教の修行者は、裸であるためいつも泥や土で汚れており、汚らしい姿であった。また、聖者であることを誇り、庶民に対しいつも威張っていた。言葉遣いも荒々しく、托鉢で食事を与えない家があると、唾を吐きかけたり、口汚くののしったり、呪いの言葉をかけたりしたのだ。仏陀の弟子たちが托鉢に回る以前は、それも仕方がないこと、と受け入れていた民衆も、仏陀の弟子たちの態度を見て、ジャイナ教の修行者を非難するようになったのである。それは、人々にとっては当然のことであった。誰だって、裸で汚れた者が家にやってくるのは、できれば避けたいことである。片方は清潔で立ち振る舞いも美しく言葉遣いも丁寧、片方は汚らしく下品となれば、誰もが清潔な修行者を選ぶのは当たり前なのである。こうしたことから、どの国のどの町や村でも、ジャイナ教の修行者は、立場が悪くなっていたのである。そんな状況で、仏陀がアングリマーラ事件を解決した。人々の心が、益々仏教教団に傾くのは仕方がないことであった。しかし、そのため、ジャイナ教の妬みを仏教教団が買ったのも仕方がないことなのである。 シューラバスティの外れの森で、数人の裸の男が座り込んで話をしていた。 「くっそ〜、何とかならんのか」 一人の男がそばにあった小石を投げながら言った。 「それは、ゴータマのことか?」 「そうだ、当然だろ。あいつが出てきてから、民衆の我々に対する態度が、明らかに変わってきている」 「お前もそう感じていたのか?。俺だけかと思っていた。そうなのだ。ゴータマが現れ、あいつの弟子たちが街中を托鉢しだしてから、街の人々の態度が変わったのだ」 「おぉ、そうそう。こんなことがあったぞ。ある家に托鉢に行ったのだ。すると、『裸で下品なお前らは、もう来るな』と叫ばれた」 「俺なんぞ、水をかけられたぞ。汚らしいって叫ばれながらな」 「俺は、そこの嫁に叫ばれた。『ギャー、変態!』ってな。もう参ったよ。どこの国から嫁に来たのが知らないが、その嫁は我らのジャイナ教を知らないというのだ」 「その嫁は、仏教は知っていたのか?」 「あぁ、知っていたらしい。その家の使用人に聞いたところによると・・・あぁ、その家は結構な金持ちなのだ・・・その嫁の国ではジャイナ教徒は少ないらしい。ほとんどがバラモンと仏教修行者だそうだ。それで我らのような姿を見たことがなかったのだ」 「ふっふっふ、その嫁にしてみれば、旦那や父親以外の男の裸を見たのは初めてだったわけか。ふっふっふ」 「へへへへ、まあ、そういうことだな。そりゃ、驚くか。はははは」 「あははは、いいものを見せたんじゃないのか、あははは」 男たちは下品に笑っていた。しばらく笑いあった後、一人の男が真剣な顔をして言った。 「笑っている場合ではない。そんな嫁をからかってどうする。いいか、ついこの間までは、こんなことはなかったのだ。誰もが我々を敬っていた。それなのに・・・・。ゴータマたちより、我らは厳しい戒律を守っている。この姿もその表れなのだ・・・。民衆はそれを理解しようとしない。今じゃ、毛嫌いされている。汚らしいと・・・」 「ふん、ゴータマの修行などは、生ぬるいものなのだ。あんな修行で悟りを得たなどと言っている。何が仏陀だ。くっそ〜、何とか鼻を明かしたいものだ。何とかならんか」 「何とかならんか・・・といってもなぁ。コーサラ国で最も優れたバラモンが問答を挑んだのだが、簡単に負けてしまったという。今では、そのバラモンもゴータマの弟子だ」 「何と言っても、アングリマーラの事件を解決したヤツだからなぁ・・・・」 「俺たちでは・・・はぁ・・・困ったなぁ」 男たち頭を抱え込んで悩んだ。 「お前さんたち、何を悩んでいるんだい」 そこにやってきたのは、アージーヴァカ教の女修行者チャンチャーであった。 アージーヴァカ教は、ジャイナ教とよく似た教義の宗教で、苦行と宿命論を説いていた。しかし、戒律はジャイナ教ほど厳しくはなく、裸ではなかった。また、女性の修行者も認めていた。そのアージーヴァカ教の中でもチャンチャーは、美しい修行者として有名であった。彼女は、よく赤い着物を着て、街を托鉢していたため「赤い着物のチャンチャー」と呼ばれていた。彼女が通りを歩くと、世間の男性は誰もが注目し、声をかけたといわれるほどであった。 「相変わらず、裸暮らしかい?。あんたたちの教えは、大変だねぇ。それにしても、裸の男どもが集まって、何をひそひそ話してるんだ?」 チャンチャーは、宗派が違うので、男たちは初めは知らない顔をしていた。 「なんだよぉ、あたしが何かしたっていうのか?。苦行の仲間じゃないか。何とかいえよ」 チャンチャーは、彼らを睨み付け、低い声で聞いてきた。それは、妙に迫力があった。 「い、いや、お前さんのことじゃあないんだよ。我々は・・・ゴータマのことについて話し合っていたのだ」 「あぁ、ゴータマねぇ。最近、話題になっている仏教かい?。自分のことを仏陀とか言っているヤツだろう?。そいつがどうしたんだい?」 「お前さんは、何も影響がないかもしれないが・・・・。我々は、あいつのせいでひどい目にあっているんだ。今、そのことについて話をしていたとろこだ」 「ひどい目ねぇ・・・。たとえば?」 男たちは、チャンチャーに街の人々から毛嫌いされるようになったことなどを説明した。チャンチャーは、内心(それはそうだろう、こいつら不潔だからねぇ)と思ったが、そんなことはおくびにも出さなかった。一通り話を聞いて 「で、どうするのさ。何か策でもあるのかい?」 と男たちに尋ねた。男たちは 「いや・・・、それを悩んでいたのだ」 と渋い顔で答えたのだった。チャンチャーは、ニヤッと笑うと言い放った。 「そんなこと、簡単だろ。ゴータマの信用を落とせばいいんじゃないのか?」 「まあ、それはそうなのだが・・・。その方法が・・・」 「おい、待てよ・・・。チャンチャー、お前さん協力してくれるか?」 その言葉を待っていたかのようにチャンチャーは、ニヤニヤ笑いながら 「面白そうだからね。協力してやってもいいよ。その代り、報酬は弾んでくれるんだろうねぇ」 と言ったのだった。こうして、ジャイナ教の男たちとアージーヴァカ教のチャンチャーとの間で、悪の契約が成立したのである。 翌日の夕暮れ時から、美しく着飾ったチャンチャーが、祇園精舎の方へ歩く姿が見られた。祇園精舎に仏陀の話を聞きに行っていた人々は、否が応でもチャンチャーとすれ違った。チャンチャーは、シューラバスティでは有名だったので、誰もが声をかけた。 「おや、チャンチャーじゃないか。こんな夕暮れに、そんなに着飾ってどこへ行くのだ。そっちには祇園精舎しかないぞ?」 そう尋ねられると、チャンチャーは、 「あら、大きなお世話よ」 とすまし顔で答えたのだった。 翌朝のこと。シューラバスティの街を祇園精舎の方から歩いてくるチャンチャーの姿が見られた。その姿を見て街の人々は 「おや、チャンチャーじゃないか。なんだ、昨夜はどこかに泊まったのか?」 と尋ねてきた。チャンチャーは、 「大きなお世話よ」 と一言いうと、顔を隠すようにして足早に去って行くのだった。こうしたことが、毎日のように続いたのである。 「おい、チャンチャー。こんなことで本当にゴータマの信用は落ちるのか?」 「あぁ、落ちるさ。このあたしが毎晩祇園精舎に通っているとなれば、街の人たちはすぐに疑いだすさ」 チャンチャーは、そういうと身体をくねらせたのだった。 「ま、まあな。こら、そんな姿を見せるな。我らも一応修行者なのだぞ」 「大丈夫だよ。間違ってもあんたたちのような汚い男を誘惑などしないよ・・・。それにしても、遠くから見ただけなんだけど、ゴータマはいい男だねぇ。惚れ惚れするよ。本当に誘惑したいくらいだねぇ」 「な、何を言っている。本当に誘惑できるわけがなかろう。相手は仏陀だぞ。すべての欲望を超えているのだ。我らとは違うのだ」 「あははは。あんたたち、惨めだねぇ。あははは」 チャンチャーは、艶めかしく笑ったのだった。 それから一か月が過ぎたころのこと。朝帰りのチャンチャーに街の人が声をかけた。 「ほう、チャンチャー、今日も朝帰りかい?。よほどいい男がいるんだねぇ」 その言葉を待っていたかのように、チャンチャーは、声をかけた男に近寄ると耳元でささやいた。 「あぁ、そうさ。すごくいい男がいるんだよ。あたしを朝まで離さないんだ」 「だ、誰なんだ、それは・・・」 「この先にあるのは何だろうねぇ・・・・。そこの主様だよぉ」 そういうと、チャンチャーは、艶めかしく笑い、すたすたと歩いて行ったのだった。チャンチャーは、この男のほかの人にも、同じように話をしていたのだった。その話を聞いた人たちは 「まさか仏陀世尊が・・・それはないだろう」 と噂し合っていたのだった。 「おい、チャンチャー。ちっとも効果がないじゃないか。街の者どもは、ゴータマを信じきっているぞ」 「そう、お前がゴータマのところに行っていると言ったところで、誰も信用はしていない。どうするのだチャンチャー」 「大丈夫さ。あたしに策がある。任してきなよ。こうなったら、あたしも意地さ。絶対にゴータマの信頼を崩してやる」 チャンチャーの顔は怒りに燃えていたのだった。 さらに半年が過ぎたころ。チャンチャーは、大きくなり始めたお腹を見せつけるようにして街を歩いていた。チャンチャーを知る人たちが 「どうしたんだチャンチャー、子供ができたのか?」 と声をかけてきた。すると彼女は 「えぇ、そうよ。子供ができたのよ」 「へぇ〜、いったい誰の子だ?」 チャンチャーは、通りを指さすと、 「こっちの方向にある立派な精舎に住まわれている方さ」 と言い、にやりと笑ったのだった。街の人々は、驚きながらも、彼女に言った。 「おいおい、チャンチャー、それはないだろ。嘘はいかんぞ、嘘は。いくらなんでも、そんなことは誰も信じない」 「信じるか信じないかは、あんたたちの勝手さ。でも・・・そのうち本当のことがわかるさ」 彼女は、ニヤニヤしながら、祇園精舎とは反対の方向へ歩いて行ったのだった。それ以来、チャンチャーの姿はシューラバスティの街で見られなくなった。 さらに三か月が過ぎたころ、大きなお腹を抱えたチャンチャーの姿がシューラバスティの街で見られた。彼女は、ゆっくりと祇園精舎の方に向かって歩いていた。 123.悪巧み 「チャンチャー、チャンチャーじゃないか」 街の人々は、大きなおなかを抱えて歩くチャンチャーの姿を見て、呼び止めた。 「久しぶりじゃないか。どこに行っていたんだい?。それにその大きなお腹は・・・やっぱり子供ができていたんだ」 「そうさ。ちょっと身体の具合が悪くてさ、少し休んでいたんだよ。でもね、最近、体調がよくなったんでね・・・。この子の父親に会っておこうかと思ってね。それで出てきたんだよ」 「その子の父親って・・・」 街の人たちは、チャンチャーに恐る恐る聞いた。 「確か・・・以前にも、祇園精舎に住んでいる立派な方とか言っていたよな・・・」 「あぁ、そうさ。これから会いに行くんだよ。なんなら、あんたたちも来るかい?。面白いものが見られるよ」 チャンチャーはそういうと、大きなおなかを抱え大変そうに歩き始めた。街の人たちは、不審そうに顔を見合わせたが、チャンチャーについていくことにしたのだった。 祇園精舎の午後は、多くの信者の人たちでにぎわっていた。仏陀や高弟の周りには、教えを聞く者たちで人だかりができていた。悟りを得ていない弟子たちは、祇園精舎の奥にある森の中で静かに修行に励んでいた。 チャンチャーは、まっすぐ仏陀の方向に向かって歩いて行った。その歩き方は、妊婦と言うよりは、ふてぶてしいといったほうがいいような歩き方であった。法話を聞きに来ていた人々は、チャンチャーの姿に驚き、注目をした。そんな中、チャンチャーは、まっすぐ仏陀の前に行き、立ち止まると 「お偉い修行者様、あなたのおかげで、私は臨月を迎えました。お産の用意をしてくださいな。散々楽しい思いをしたのだから、責任を取ってくださいな。おやおや、知らない顔をするんですか?。まさか、私とのことをなかったことにするんじゃないでしょうねぇ」 と、仏陀に向かって大声で言ったのだった。周りにいた人々は、突然の出来事に声も出せず、呆然とチャンチャーを見つめていた。 仏陀は、まるで哀れな捨てられた子犬でも見るような眼でチャンチャーを見つめた。 「な、なんだい、なんなんだい、その眼は!。私をバカにしているのかい?。何とか言ったらどうなんだ!。さぁ。どうしてくれるんだ。この子の責任をどう取ってくれるのさ!」 チャンチャーは大声でそういうと、さらに周りにいた人たちに向かって言い放った。 「みんな、この修行者は、こんな顔をしているけど、私をたっぷり弄んだんだ。その証拠がこれさ!」 チャンチャーは、大きくなったお腹をこれ見よがしに突き出した。すると、その途端・・・・。チャンチャーの裾から丸い木のお盆が落ちてきたのだった。 「あっ!」 「ありゃなんだ?」 チャンチャーが叫ぶのと、周りにいた人々がお盆に注目して発した言葉と、ほぼ同時であった。チャンチャーの足元には、大きな木のお盆と紐や布を丸めたものが落ちていたのだ。 「この大嘘つきめ!」 誰かが叫んだ。それと同時に、人々がチャンチャーを押さえつけた。 「いててて、何をするのさ。やめておくれよ。痛いじゃないか」 チャンチャーは、涙ながらに訴えたが、彼女を押さえつけている者は、その手を離さなかった。 「この愚か者が。お前なんぞ、兵士の前に突き出してやる。仏陀様を侮辱したのだ。お前は死刑だ!」 「そうだそうだ!」 人々は怒りで、今にも彼女に殴り掛からんばかりであった。 「少し手を緩めてやるがよい」 その時、仏陀がそう声をかけた。 「チャンチャーであったか・・・汝はなぜこのようなことをしたのか?」 仏陀が、チャンチャーに問いかけた。しかし、彼女は 「こんなに押さえつけられていたら・・・・痛くて・・・・まともに話もできやしない・・・」 と、苦しそうに訴えた。仕方がなく、彼女を押さえつけていた者が、その手を緩めながら 「ちゃんと仏陀様の問いに答えるのだぞ逃げても無駄だぞ」 というと、彼女は「わかっているさ。手を放しておくれ。逃げやしないさ」と言うや否や、身体の自由がきくとわかった途端、勢いよく走って逃げだしたのだった。 「あ、この女狐が!、逃げやがった!」 その場にいた人々が、逃げ出したチャンチャーを追おうとした。しかし、 「追うことはない!。追う必要はない」 と仏陀が止めたのであった。仏陀は、なぜか悲しそうな顔をしていたのであった。 チャンチャーは走った。走って走って祇園精舎を走り抜けた。祇園精舎の入り口付近にいた人々や、これから精舎に向かう人々は、ものすごい形相をした真っ赤な着物を着た女が走ってくる姿に驚き、誰もが道を開けたのだった。チャンチャーは、皆が除けてくれる中、止まることなく道の真ん中を走り続けた。が、次の瞬間、彼女の姿は消えてしまったのだ。叫び声だけを残して・・・。 「お、女が消えた!」 「今のはチャンチャーか?」 「いったいどこへ行ったんだ?」 人々は、チャンチャーが消えた付近に集まってきた。するとそこには、大きな穴が開いていたのだった。 「お、おい・・・、こんな穴、今まであったか?」 「い、いや、さっきまでこんな穴はなかった。それにしても、道の真ん中にいつの間にこんな大きな穴が・・・」 祇園精舎の中からも多くの人々が集まってきた。 「この穴、どれくらい深いんだろうか?」 「底が見えないな・・・」 「チャンチャーは、本当にこの穴に落ちたのか?」 「あぁ、確かに・・・、ギャーという叫び声がして・・・で、そのまま消えてしまったから、多分この穴に落ちたのだろう・・・」 「この穴って・・・地獄につながっているんだろうなぁ・・・きっと・・・」 「このままにしておくのは、危ないな。しかし、この深さじゃあ、ちょっとやそっとのことでは埋まらないぞ」 人々が話し合っていると、騒ぎを聞きつけた兵士たちがやってきた。彼らは、その穴の深さを見て、その穴がとても埋めることは不可能だと判断し、さっさと木枠で囲んだのだった。それはチャンチャーが落ちた地獄穴としてその後も語り継がれていった。ちなみに、インドに経典を取りに行った唐の僧・玄奘三蔵もこの穴を見たと、書き残している。 「世尊、いったい今のできごとは・・・」 弟子の一人が仏陀に尋ねた。 「おそらくは、私や教団の評判を落としこもうとした者が、あの女性を使って仕組んだことであろう」 「なぜそのようなことを・・・。あのようなことをしても、嘘はいずれ露見してしまうことなのに・・・」 「嘘がわかってもいいのだ。街の人々が、我々に疑いの目を向ければ、それでいいのだよ。人々は疑心暗鬼になる。一度、疑心暗鬼にとらわれると、信用を取り戻すのは難しいこともある。そこが狙いなのだ。 よいか、このようなことは今後もあることだ。人々の間で我々の評判が良くなればなるほど、このようなことは増えるであろう。汝らも、このようなことに惑わされず、なお一層修行に励むがよい」 仏陀は、厳しい表情で・・・悲しみを帯びてはいたが・・・そう弟子たちに注意を促したのであった。弟子の中から質問をする者がいた。 「世尊、もし今日よりもひどいことがあり、街の人々が我々に冷たい態度をすることがあったならば、我々はどのようにすればよろしいのでしょうか」 その質問に、まだ悟りを得ていない修行僧たちがうなずきあった。彼らは不安だったのだ。 「たとえどのようなことがあろうとも、我々はいつもと同じように修行に励むだけである。いつもと同じ日々を過ごすだけである」 仏陀の言葉には、重々しい決意が込められていた。それは、今後に起こることを予言しているかのようであった・・・・。 祇園精舎とは正反対の街外れの森で、裸の修行者たちが固まって座り込んで話し合っていた。 「ちっ、チャンチャーの奴、失敗したじゃないか」 「評判を落とすどころか、評判をあげてしまった」 「街の人たちは、仏陀を陥れようとしたから、チャンチャーは地獄に落ちた、と噂し合っている」 「し、しかし・・・お前ら見たか、あの穴?。俺はこっそり見たんだが、ものすごく深いぞ。本当に地獄に続いていると思われる。なんであんな穴が突然できたんだ?。しかも、絶妙な状況で、だぞ。チャンチャーが走ってきて、で、いきなりあの穴ができて、あの女は落ちたんだ。それまでは穴なんてなかったんだぞ」 「何が言いたいんだ?」 「いいか、俺は見ていたんだ。チャンチャーの策が成功する所を見たかったからな。しかし、実際に見たのは・・・・」 「だから、なんなのだ」 「お前ら、怖くないのか?。仏陀は何もしなかった。だが、あんな穴が突然あいたのだ。あれは・・・きっと、ヤマが怒ったに違いない。死神のヤマが仏陀に味方したのだ。お、俺は・・・死神を敵に回したくはない」 「おい、こいつはこう言っているが、みんなはどう思う?。このままゴータマを陥れることを続けるのか、それともやめるのか・・・・」 男の問いかけに「俺は続ける」、「ここまで来たら同じだ」という声が上がった。 「こういうことだ。止めようと言っているのは、お前だけだ。仲間を外れてもいいぞ。5人の仲間が4人になるだけだからな」 「ほ、本当にいいのか。じゃあ、俺は抜けさせてもらうよ」 その男が立ち上がろうとした時だった。その男は「うっ」というとその場に倒れ込んだのだった。 「おい、どうしたんだ?」 「おい、おい、大丈夫か?・・・あっ、こいつ刺されている」 倒れた男を心配した男たちは、その男の胸にナイフが刺さっているのを見つけたのだった。男に「仲間を抜けていい」と言った男は 「初めからこうやればいいんだ。チャンチャーのように面倒なことをするよりもな」 というと、ニヤニヤとしたのだった。他の3人もその顔を見て 「あぁ、なるほど・・・それはいい」 と言い、4人で大笑いしたのだった。 「これで、あはははは、これでゴータマも終わりだ。あはははは」 森に4人の男たちの不気味な笑い声が響いたのだった。 「おい、スンダリー、ちょっといいかい?」 女の苦行者スンダリーに声をかけたのは、ジナ教の裸の男だった。 「なんだい、お前らかい」 「お前らはないだろう」 「お前らで十分さ。それともジナ教の不良修行者ども、と言ったほうがいいかい?。チャンチャーは残念なことをしたね」 「ちっ、スンダリー、お前知っていたのか?」 「ジナ教は、今は評判悪いからねぇ。教主に命令されているのかい?、それともお前さんたちだけの考えかい?」 「教主は関係ない。俺たちが勝手にやっていることだ。俺たちは・・・ゴータマの評判さえ落せればそれでいいのだ」 「それで、あたしに何の用なのさ。あたしに手伝え、っていうのかい?」 「よくわかっているじゃねぇか。話が早いぜ。なに、簡単なことだ。チャンチャーのように日が沈むころ、祇園精舎の周辺をウロウロしてくれればいいんだよ。それだけだ」 「それだけでいいのかい?」 「あぁ、あとは俺たちに任せろ。大丈夫だ。お前には迷惑はかけない。チャンチャーのような目には遭わないさ」 「本当だろうねぇ。本当にウロウロするだけでいいんだね」 「あぁ、いいさ。で、その報酬だが・・・」 「へぇ、そんなにくれるのかい。わかったよ。祇園精舎の周りを夕方にウロウロすりゃあいいんだね。あぁ、なるべく目立つようにするさ。任しておきなよ」 スンダリーは、そういうと裸の男が持っていた小さな袋を受け取った。その中には修行者が決して持つことはないお金が入っていた。 次の日の夕方から、祇園精舎の周りをウロウロ歩いているスンダリーの姿が見られるようになった。それは、一か月にも及び、街の人々も「なぜ、あんな時刻にスンダリーが?」と疑問に思い始めだしたのだった・・・。 つづく。 |