ばっくなんばー27

124.非難の嵐
夕方になると、スンダリーの姿が祇園精舎周辺で多くの人々に見かけられるようになって、一か月が過ぎようとしていた。スンダリーは、チャンチャーよりも美しく、しかも上品な苦行者であったため、街の多くの者がその姿や名前を知っていた。そのため、スンダリーが夕方になると祇園精舎に現れるという事実は、いろいろな憶測をもたらした。チャンチャーのことは、チャンチャーが企てた罠だったことは、街のだれもが知っていたが、まさか、すぐに同じような悪巧みをスンダリーが行うとは、誰も思っていなかったことも、人々の憶測へ少なからず影響を与えていたのだ。
「チャンチャーのことがあるからなぁ・・・。まさか、スンダリーもそこまではバカではないだろう」
「もし、チャンチャーのようにスンダリーが悪だくみをしているならば、同じように地獄の穴に落ちるさ」
「そうそう、それを知っているからこそ、スンダリーがチャンチャーと同じことをするわけがないといっているのだ」
「あぁ、なるほど・・・じゃあ、なんだ、スンダリーは・・・・何をしにあんな時間に祇園精舎をうろつくのだ?」
「そうそこさ。たとえば、こういうことは考えられないか?。チャンチャーのことで、今ならば修行僧たちも女を精舎に連れ込んでも疑われない。誰もが、そんなことをすれば地獄の穴に落ちる、と思っているからこそ、スンダリーの行動を疑わないじゃないか・・・・」
「そうか、チャンチャーのことを逆手に取っているわけだな。ということは・・・」
「ひょっとするとスンダリーは、祇園精舎の修行僧の相手をしている・・・のかも・・・」
「まさか、それはないだろう・・・」
「否定はできない・・・んじゃないのか?」
街の人々の間では、この話題は尽きることはなかったのだった。

「くっくっく・・・いい具合にうわさが広がり始めたな」
「チャンチャーのことが、いい伏線になったな。いい置き土産をしてくれたぜ、チャンチャーも」
「さて、そろそろ頃合いだな。次へ進むか」
裸の男たちは、森の片隅でしゃがんでヒソヒソ話をしていたのだった。

そんなころから、スンダリーの姿がぴたりとみられなくなった。彼女は、祇園精舎周辺に現れることがなくなったのだ。人々は、
「きっとチャンチャー同様、地獄の穴に落ちたに違いない」
「いや、修行僧と駆け落ちしたに違いない」
などと噂し合っていた。そうした人々に、スンダリーの行方を尋ねる者たちがいた。裸の苦行者たちだった。
「どなたか、スンダリーの行方を知らないか?。あぁ、あの女は、我々修行者の仲間なのだ。彼女は、決して性悪な女ではない。真面目な修行者だった。しかし、一か月半くらい前から、苦行林で姿を見なくなったのだ。それで探していたんだが・・・」
「どうやら祇園精舎周辺でよく見かけたという噂があると聞いてね、それで苦行林をでてここまで探しに来たのだ」
「特に親しいわけではないが、一応修行仲間だからねぇ。さすがに一か月半以上も姿を見ないと心配になってね、探しに来たのだよ」
裸の修行者は、さも心配そうに口々にそう言ったのだった。街の人々は、確かにここ一か月半ほどは祇園精舎でスンダリーの姿をよく見かけたこと、しかし、最近になって全く見なくなったこと・・・を彼ら裸の修行者に教えたのだった。
「いったいどこへ行ったのか・・・・」
「急に行方をくらますようなものではなかったのだが・・・・」
「スンダリーは、見た目は派手で綺麗な女だったが、真面目な修行者だった」
「誤解をしている人が多いと思うが、素行は真面目だったのだ・・・・」
「いったいどこへ行ったのか・・・」
4人の裸の修行者は、途方に暮れたような顔をしていた。その様子を見て、街の人が
「宮殿の大臣に捜索を依頼したらどうだい?。あんたら修行者の話なら、すぐに聞いてくれるだろう」
「そうだ、兵士たちに探してもらうといい」
と助言したのだった。裸の修行者は、それはいい、そうしよう・・・と早速宮殿へと出向いたのであった。
そうして、彼らは、宮殿の犯罪を取り締まる大臣にスンダリーのことを話した。そして、探してもらうように依頼をしたのだった。大臣は、
「あぁ、スンダリーか・・・。確かに、ここ一か月半くらいは祇園精舎で姿を見たが、最近は見ないなぁ・・・。そういえば、妙な噂もあるし・・・」
とつぶやいてしまった。裸の修行者は、その言葉に
「妙な噂?」
と問いかけたが、大臣はそれを無視して
「あぁ、いや、なんでもない。わかった、スンダリーを探そう。早速、兵隊をスンダリー捜索に回そう」
と、兵士を派遣することにしたのだった。

翌日から、スンダリーの探索が行われた。大勢の兵士がそれにあたった。もちろん、裸の修行者たちもこれに加わった。兵士たちは、祇園精舎周辺から街の中心部にかけて広範囲でスンダリーを探した。しかし、彼女は、一向に見つからなかった。
スンダリー捜索開始から、三日が過ぎたころのことだった。裸の修行者の一人が
「おや、この土地はなんか変だ。掘り返したようなあとがある」
と言い出したのだ。その言葉に、周辺にいた兵士たちが集まってきた。
「おや、本当だ。ここだけが土の色具合がおかしいなぁ。よし、掘ってみるか」
兵士がその土地を掘り返すと、すぐにそれは現れた。それは、変わり果てたスンダリーの遺体であった。
「あぁ、ス、スンダリー、スンダリーじゃないか!。いったい、これはどういうことなんだ!」
裸の修行者は、スンダリーを抱きかかえると、そう叫んだ。しかし、スンダリーの遺体は、すでに腐り始めており、彼は
「うわっ、く、腐っている!」
とスンダリーの遺体を放り出したのだった。
すぐに仏教教団専属の医師、ジーヴァカが呼ばれた。彼によると、スンダリーは、どうやら後ろから鋭いナイフで胸を刺されていたようであった。しかも、そのナイフには猛毒が塗ってあったということであった。
「これは、結構な力で刺さないと・・・。このような傷にはなりませんな。力の強い男性が刺したのでしょう。しかも、この毒を手に入れられる環境にあった者の仕業ですな。とても、祇園精舎の修行僧がやったとは思えませんが・・・・」
ジーヴァカがそう言ったのは、スンダリーの遺体があったのは祇園精舎のすぐ近くであったため、兵士の一人が修行僧が犯人ではないかと疑ったからであった。
しかし、ジーヴァカの意見は、聞き入れられなかった。そこに言わせた人々が「祇園精舎の修行者がやったに違いない!」と叫びだしたからであった。その声につられ、人々は
「そうだ、そうだ。よくスンダリーはこの辺りをうろついていた」
「犯人は修行者だ!。お釈迦様の弟子でも、悪い奴はいるに違いない」
と大きな声で兵士たちに訴え始めたのだった。あたりは、騒然としてしまった。
兵士たちは、すべてを大臣に報告することとし、その場に居合わせた人々を鎮めると、人々に帰るように促した。人々は、
「だいたい、これだけ騒いでいるのに、お釈迦様も、その弟子たちも誰ひとり出てこないのはおかしい」
「彼らの誰かが犯人なんだ。それでかばっているに違いない」
と噂しながら帰って行ったのだった。その姿を見て、ほくそ笑んでいる者がいた。あの4人の裸の修行者たちだ。
「ふっ、うまくいったな。明日からが楽しみだ」
彼らは、そういうと、声を出さずに笑いあったのだった。

翌日のこと、仏陀やその弟子たちは、いつも通りの朝を迎えた。そして、いつも通りの身支度をし、いつも通りに精舎を出て、いつも通りに托鉢に行った。しかし・・・。
街に出ると、どの家も仏陀の弟子たちにつらく当たったのだった。どの家も戸口を閉ざし、托鉢に応じる気配はなかった。中には、
「この人殺しがっ!。お前らなんか修行者じゃない!、さっさとこの街から出ていけ!」
と罵るものや、
「人殺し!」
「女殺し!、修行が聞いてあきれる!」
と叫ぶ者もいた。そのような状況であったため、仏陀も弟子たちも、誰一人托鉢ができなかったのだった。
空っぽの鉢を抱えて修行僧たちが話し合っていた。
「昨日まで何事もなかったのに、今日の街の人々の態度はいったいどういうことなのだ?」
「托鉢に応じてくれる家が一軒もありませんでした」
「ついこの間まで、アングリマーラのことで、人々に暴力はいけない、一方的に責めてはいけないなどと世尊がお説きなったばかりなのに・・・。あぁ、人々はいったい何を考えているのやら」
「私は、石をぶつけられました。石を投げたものは、人殺し、女殺し、などと叫んでました。いったいどういうことなのでしょうか?」
「これは世尊に伺ったほうがいい。皆で世尊のところへいこう」
祇園精舎の修行者たちは、全員、仏陀の前に集まっていた。仏陀は、
「あったことを話しましょう」
といい、ジーヴァカから聞いた話・・・・スンダリーという女性修行者が一か月半ほど祇園精舎周辺をうろついていたこと、急に彼女の姿が見られなくなったこと、昨日、彼女の遺体が祇園精舎付近で埋められていたのが見つかったこと、彼女は毒のナイフで刺されて亡くなっていたことを修行僧に伝えた。そして、修行僧のうちの誰かが、スンダリーと男女の関係になったが、邪魔になったため殺して埋めたのではないか、と街の人々が疑っていること・・・・を告げたのだった。
「そ、そんな、そんなことって!。私たちは、今までそのような過ちなど一切せず、真面目に修行に励んできました。人々に多くの教えを説き、人々のためになるように努めてまいりました。それなのに・・・・。私たちの信用は、そんな薄いものだったのでしょうか?」
「なぜ、人々は私たちを信じてはくれないのか?。今までやってきたことはなんだったのか・・・」
「あぁ、嘆かわしい。この街の人々は、もう救いようがない。そんなことで、私たちを疑うとは・・・。あぁ、情けない・・・」
弟子たちは、街の人々の仕打ちに情けない思いでいっぱいになっていた。中には、失望をする者もおり、
「世尊、この街の人々は救いようがありません。このような愚かな人々がいる街は、もう捨ててしまいましょう。マガダ国へ戻ったほうがよろしいのではないでしょうか」
と言い出すほどであった。それは少数意見ではなく、賛同をする者も多く出始めていた。弟子たちは、口々に「これではやっていけん」、「托鉢もできないでは修行にならぬ」、「もうこの街の人々は嫌だ」・・・などと言い合っていた。それはなかなかに鎮まらなかった。しかし、仏陀は、それを止めることはなかった。

しばらくして、ようやく不平不満の声が小さくなっていった。文句も言い尽くされれば、枯れてくるものなのである。また、文句を言うことにより疲れも出てくるのだった。その様子を見て、仏陀がようやく口を開いた。
「私たちは、ここを動くことはない。皆もそれを心得るように。
よいか、人々の心とは、空に浮かぶ雲のようなものだ。絶えず形を変え、色を変える。日陰を作ってくれる雲もあれば、嵐を招く雲もある。雲は、気まぐれな存在なのだ。人々の心も同じように、気まぐれである。周囲の噂や、勢いに押され、翻弄され、自分の意見など考えもせず、冷静な判断もできないで、騒いでしまう。それが人間というものなのだ。
よいか、明日も汝らはいつもと同様に托鉢に出るのだ。そこは非難の嵐が渦巻いているであろう。汝らは、その嵐を避けることなく、あえて嵐の中を突き進むがよい。我々にやましいところは何一つない。堂々と嵐の中を進むがよい。ただし、非難に応えてはならぬ。多くを語るものは非難される、少し語るものも非難される、黙っている者も非難される。ならば、何も語らず、黙々と突き進むがよい。堂々と突き進むがよい。
そうすれば、この騒動は7日間で収まるであろう」
仏陀の言葉に、弟子たちは深くうなずいたのであった。


125.真実は一つ
街での非難が起こった翌日も、街の様子は変わらなかった。人々は、
「人殺しにやる食事はない!」
と言って、固く扉を閉ざしていたのだ。托鉢に出た修行僧たちは、何も食事を得ることができず、祇園精舎へと戻って行ったのだった。
しかし、精舎に戻ると、スダッタ長者が大量の食事をもってきていたのだった。
「たぶん街では托鉢はできないだろうと思いまして、食事の用意をいたしました」
スダッタ長者は、笑顔で修行僧たちに食事の施しをしたのだった。
「街の人たちは、今は皆さんに怒っているようですが、実は半信半疑の者もいるのですよ」
スダッタ長者は、街の人々の様子を話し始めた。
「アングリマーラのことがあって、人々は暴力はいけないということは重々承知しています。しかし、今回、この祇園精舎近くで遺体が見つかったということで、ちょっと興奮気味なようですな。ちょっと、衝撃的だったのですよ。しかし、時間がたつにつれ、おかしいぞ、と思う人たちも増えてきているのです。ほら、チャンチャーのことがあったでしょ。チャンチャーは、皆さんを陥れようとして、逆にあの穴に落ちてしまった。今は、囲いがしてあって、兵士の皆さんが埋めようとしていますが、これがなかなか深いようでして、土がいくらあっても足りないんですな。人々は噂しています。チャンチャーは、地獄へ落ちたのだ、と。街の人々は、今回のスンダリーも、もし修行僧が関わっていないならば、きっと真犯人の身の上に何か災いが起こるのではないか、と噂し合っているのですよ。あるいは、修行僧が犯人ならば、その修行僧の身に何か災いがあるだろうと、そう思っているのです。ですから、それが起きるまで、様子を見ていようとしているようですな。まあ、托鉢ができないようでしたら、私が毎日食事を運びますよ。心配なさらぬように。あぁ、国王もマッリカー夫人も、協力してくださいます。警備隊に言って、真犯人の捜索もしております。皆さんはご心配なく修行に励んでください」
スダッタ長者の言葉は、意気消沈していた修行僧の励みになったのだった。それと同時に、修行僧の中には、
『これであすから托鉢に出なくて済む』
と心に思った者が何人かいたのだった。仏陀は、すぐにそれを感じ取った。
「スダッタ長者よ、食事の差し入れ、深く感謝します。若い僧や尼僧の中には、動揺している者もいました。これで安心して修行にはげみます。しかし・・・・、修行僧よ、スダッタ長者が差し入れをしてくれるからと言って、托鉢を休んではいけない。今は安居の時期ではない。したがって、托鉢には必ず出ることだ。托鉢をしながら、街を回ることは、修行の一つでもある。托鉢は怠らぬことだ」
修行僧や尼僧たちは、あらためて気を引き締めたのだった。

スンダリーの遺体が見つかって、ついに7日目の朝を迎えた。仏陀が「7日間でおさまる」と言った日である。
しかし、その日の朝は、やはり街の家々の扉は閉ざされていた。
「世尊が言った日は今日だ。今日のうちには、きっと街の人々も元に戻るのだろうな・・・・」
「う〜ん、しかし、この様子だと・・・。本当に今日で終わるのかなぁ・・・」
托鉢に出た僧や尼僧は、不安げに会話をしながら祇園精舎に戻ってきた。
不安そうな修行僧を前に、仏陀は何も言わなかった。ただ、静かに、いつもと同じように座り、アーナンダが運んできたスダッタ長者の差し入れの食事をとっていた。長老も、ある程度修行が進んでいる修行僧も、何も言わず食事をとった。不安そうな顔をしているのは、まだ修行を始めたばかりの、若い僧や尼僧だけだった。しかし、彼らも、先輩修行僧の態度を見て、とりあえずは何も言うことはなく食事をとったのだった。
「街の様子は、いつもと変わりはない。しかし、それも今日で終わるであろう。明日からは、以前のシューラバースティーに戻るであろう」
仏陀は、食事を終えると、そう皆の者に伝えたのであった。その一言で、不安そうな顔をしていた者たちも安心した顔つきになったのだった。

そのころ、王宮の警備隊の兵士たちが、スンダリーの身体から見つかった毒の種類を突き止めていた。そしてそれは、特殊な毒で、ヒマラヤ山中の一部にしか生息しない草からとったものだとわかった。さらに、その草を売った者も突き止めることができた。こうして、毒をたどることにより、スンダリーを殺した真犯人にたどり着くことができたのだった。それは、裸の修行者たちだった。
彼らは、いつもの森にいた。その森の泉の近くの木陰で4人の裸の修行者がしゃがみこんで話をしていた。
「うまくいったな。仏教教団の評判はがた落ちだ」
「托鉢に応じる家が一軒もない」
「それはいいのだが、あいつらはまったく困っていない様子だぞ」
「なんだと、それは本当か?」
「あぁ、しばらくは祇園精舎に近付かない方がいいと思って、そっち方面には行ってなかったのだが、昨日と今日、祇園精舎の様子を見てきたんだ」
「それで・・・どうだったのだ?」
「やつらは、いつもの通り修行に励んでいた」
「なんだと、この街を出ようとしてはいないというのか?」
「あぁ、それどころか・・・、普通に修行をしていたよ」
「どういうことなのだ?。なぜ、この街を出ようとしない。食事も得られないんだぞ」
「答えは簡単さ。スダッタ長者と国王が食事を差し入れているんだ」
「な、なんだと・・・。それじゃあ・・・」
「あぁ、やつらは食事には困らない。だから修行はいつ戻りにやっている。ただ・・・」
「ただ?」
「街の人々の支持が得られない、というだけだ」
「う〜ん、それでは、やつらは困らないなぁ・・・。くっそ、中途半端な結果だな」
「くっそ、せっかくスンダリーを殺してまで仕組んだのに、この結果か!」
「なに、簡単さ。次は、スダッタ長者を殺せばいいのさ。そうすれば、仏教に帰依して、たくさんの寄付をしても、こんなに不幸な目にあう、と世間に知らしめることができるだろ」
「なるほど。そうすれば、今度こそは・・・」
「あぁ、仏教教団は潰れるだろうな」
「そいつはいい。くくくく。よし、じゃあ、どうやるか作戦をねるか」
その時だった。違う声が響いてきたのだ。
「どういう作戦を練るのかな?。教えてもらいたいものだ」
それは、王宮の兵士の声だった。

スンダリーを殺した裸の修行者4人は、兵士に連行され街外れの処刑場に連れてこられた。そこには、シューラバスティーの人々がたくさん集まっていた。
「あいつらがスンダリーを殺した犯人だってよ」
「なんだ、お釈迦様の弟子じゃないじゃないか」
「あぁ、ジャイナ教の連中だよ。あいつら、自分たちが街の人たちに嫌われているのは、お釈迦様のせいだと思い込んだんだそうだ。それで、仏教教団がなくなれば、自分たちが街の人々に優遇されると思ったらしい」
「なんだそうだったのか。それでスンダリーを・・・。ひどいもんだ。だいたい、あいつらは、ジャイナ教の中でも悪い修行者で有名じゃなかったっけ?」
「あぁ、裸の悪人5人組さ。そういえば、一人足りないじゃないか」
「どうやら、仲間が殺してしまったらしいぞ。裏切り者は死ね、ってやつらしい」
「それでも修行者なのかねぇ・・・」
「しかし、お釈迦様たちの疑いが晴れて良かったじゃないか。まあ、俺は最初からお釈迦様たちが犯人だとは思ってはいなかったけどね」
「よくいうよ。疑っていたくせに・・・。それにしても、お釈迦様たち修行僧の態度は立派だったなぁ。誰一人、文句を言わなかった。静かに・・・まるで嵐が過ぎるのを待っているような、そんな態度だった」
「あぁ、立派なものだ。やはり仏教の修行僧たちは違う。なにがあっても動揺しないし、怒ることもない。文句も言わない。不安そうな様子もなかった。いつも通り、礼儀正しく、堂々たる立ち振る舞いをしていた。罵られても、石を投げつけられても、反撃も反論もしない。我々にはまねできないよ・・・・」
「あぁ、そうだ、その通りだ。あれこそが、真の聖者の姿なんだなぁ・・・」
街の人々は、益々仏陀への信頼を高めたのであった。

こうして、スンダリー事件は幕を閉じた。シューラバスティーは再び平和を取り戻し、修行僧たちも、気持ちよく托鉢に回ることができるようになったのだった。
その日の午後も、多くの人々が祇園精舎に集まっていた。そして、仏陀の話に耳を傾けていたのだった。
「人々よ。あらぬ疑いをかけらた時も、それが真実でないのならば、何もあわてることはない。たとえば、国の兵士が間違って汝らを捕まえたとしよう。しかし、本当に何も知らない、何もやっていないのならば、正直に何もしていない、何も知らないというだけでよいのだ。それ以上のことは言う必要はない。もしも、兵士たちが汝らにあるいは脅し、あるいは暴力を振るい、ウソの供述を迫ったとしても、知らないことはしらない、やっていないことはやっていないというべきである。脅しや暴力に屈することなく、真実を述べるべきである。うそはどこかで露見するものである。真実は一つである。自分の身にあらぬ疑いがかけられても、真実は一つなのだ。自らが潔白であり、何の落ち度もないのならば、堂々としていればよいのだ。やがて、本当のことがわかるであろう。
しかし、実際は自分が罪を犯しているにもかかわらず、それを隠してうそをつき、やったことをやっていないということは、愚か者がすることである。真実はあらわになる。嘘は発覚する。その時に失うものは、あまりにも大きい。一度失ったものは、取り返すことができない。自分が犯した罪をごまかすため、嘘をつくことは、大きな罪であるのだ。
人々よ、正しき人であれ。決して愚か者の仲間になることなかれ。自分の嘘や罪を覆い隠すようなものになってはいけない。その場でいくら隠しおおせても、自分自身は知っているのだ。そして、死神ヤマもそれを知っている。苦の世界を避けたいのならば、嘘や隠し事に包まれて過ごすことはやめることである」
仏陀は、人々にそう説いたのであった。

その後、仏教教団は平和な時を迎えていた。もちろん、教団内の小さな揉め事や戒律違反などはあったが、街を巻き込むほどの大きな事件は、何一つ起きなかった。スンダリー事件以降、仏教の評判はますます上がり、弟子たちもよい環境で修行に励むことができたのであった。もはや、コーサラ国やマガダ国を始め、インドの諸国は仏教徒を支持していた。しかし、仏陀は、他の宗教にも寛容であった。今まで信じていた宗教を捨ててまで仏教に帰依することはない、とも説いていた。従って、他宗派との関係も平和に保つことができていたのだ。
しかし、平和な時期というのは、ある日突然に壊れるものである。それは、誰も予期してはいなかった。仏陀一人を除いては・・・。
それは、マガダ国で起きたことであった・・・。


126.反逆、その1
仏陀や主だった弟子たちが、マガダ国郊外の霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在していたときのことである。そこに飛び込んできたのは、アジャセ王子がビンビサーラ王を幽閉し、自らが国王に就いたという知らせであった。
「ついに王子は・・・。これも因縁か・・・」
仏陀はそうつぶやき、深い瞑想に入ったのであった。

アジャセ王子の反逆は、急に起きたことではないし、単独でのことではなかった。アジャセ王子の心の中に父王に対する反抗の芽が生まれたのは、前回、竹林精舎に仏陀たちが滞在した時のことであった。
そのころ、ダイバダッタは頻繁にマガダ国宮中に出入りするようになっていた。彼は、アジャセ王子のお気に入りとなっていたのだった。
「ダイバダッタ尊者、尊者の話は大変面白い。もっと聞かせてくれ」
「王子様、世界は広いです。このような面白い話は世界にはたくさんありますよ。もっと知りたいのでしたら、王子様自身が世界に出て、自ら見聞きした方がよろしいのではないでしょうか」
「確かに尊者の言う通りだ。しかし・・・・」
「しかし、どうされたのですか?」
「父が・・・国王が、それを許さないのだ。父は、私が諸国を旅することを禁止しているのだ」
「国王が?・・・。では、王子は、この城から出てはいけないのですか?」
「そうなんだ・・・。尊者よ、なぜ私は宮中から出てはいけないのだ?。尊者は、その理由を知っているのではないか?」
アジャセ王子は、ダイバダッタの目をまっすぐ見つめ、真剣に尋ねてきた。ダイバダッタはちょっと悲しそうな顔をして目をそらせた。
「尊者よ、何かあるのだな?。ごまかしてもダメだ。父は、『お前は大事な一人息子だから子供のうちは外に出てはいけない、危険だ。軍を持てるようになったら留学してよい』と言っているが・・・、もう私は自分の軍隊を持てる年齢になっている。いや、すでに軍隊を指揮している。この城内で、軍を率いる訓練もしている。なのに父は、私が外に出ることを極端に禁止しているのだ。その理由を、ダイバダッタ尊者よ、あなたは知っているのだな?」
ダイバダッタは、意を決したように大きく息を吸ってから答えた。
「はい、王子様、知っています。しかし、それは・・・言えません」
「なぜだ!、なぜ言えぬ?」
「それを聞くには・・・大きな勇気と覚悟が必要だからです。王子はまだ若い。軍の指揮を執っているといえども、まだ嫁を取る年齢にもなっていない」
「何を言うか尊者よ。嫁なら来年には取ることになっている。相手も決まっておるわ」
「おぉ、そうでしたか。それはめでたいことです。そうですか、王子はもうそのような年齢になられていたのですか。私も年を取るはずですなぁ」
「そんなことはどうでもよい。そうやって私を煙に撒こうとしているのか?。尊者よ、そんな無駄なことはやめてくれ。私には、汝の話を聞く、勇気も覚悟もある。そう・・・このところ、父の周りにいる大臣たちも様子がおかしいのだ。守護兵に至っては、私をにらんでくる者もいる。いったいどうなっているのか・・・・。ダイバダッタよ、頼む、教えてくれ」
「そ、そうでしたか・・・大臣も、兵隊たちも、そのような・・・・。わかりました。お話ししましょう。しかし、今日はもう竹林精舎に帰らねばなりません。世尊がうるさいのです。長時間、宮中にいてはいけない決まりごとがあるのです。ですから、今日はお話はできません」
「では、明日はどうか?」
「はい、明日、お話しいたしましょう」
「そうか、ならば、食事の用意をして待っておる。食事の後で、その話をしてくれるのだな」
「はい、そのように・・・」
ダイバダッタは、そう王子に言い残し、竹林精舎へと向かったのだった。その道中、彼はひそかにほくそ笑んでいた。
(ついにこの時が来た。もう少しだ。もう少しで・・・俺も仏陀だ・・・。ここで焦ってはいけない。ここまで我慢したのだ。何年も何年も・・・。ふん、今に見てろ、シッダールタめ。すべてを奪ってやる)
竹林精舎に戻ると、そこには仏陀が立っていた。
「ダイバダッタよ、よからぬ雲が流れている。宮中に近付くのは控えるがよい」
「世尊、御心配には及びません。そのような雲は流れておりません。ご安心ください。何事もありませんので・・・。それよりも以前、私が提案をした戒律についてですが、ご検討していただけたでしょうか?」
「ダイバダッタよ、汝の提案は、戒律にすることではない。それは個人の自由だ」
「なぜですか?。私の提案のどこが・・・。もう一度言いましょう。世尊は、私の言ったことがお分かりになっていないようですからな」
ダイバダッタの声が大きくなっていたのか、仏陀とダイバダッタの周りには、弟子たちが集まり始めていた。
「よいですか」
ダイバダッタは、集まってきた他の弟子たちを見回し、より大きな声で言った。
「私は次の五つの戒律を、再度、仏陀に提案します。
第一、出家者は一生涯、森林の中で暮らすこと。人里に住めば罪となる。
第二、、托鉢のみによって食事を得ること。食事の接待を受ければ罪となる。
第三、衣は捨てられた布を継ぎ合わせた糞掃衣(ふんぞうえ)のみを着ること。布施された布を衣とした者は罪となる。
第四、木の下に座ること。屋根の下に座った者は罪となる。
第五、魚の肉、乳製品を食べないこと。もし食べれば罪となる。
この五つの決まりを戒律に入れてください。それくらい厳しく修行せねば、悟りは得られません。現に、若い弟子たちはだらけているではないですか」
「ダイバダッタよ」
仏陀は、ダイバダッタの顔を悲しげな目で眺めて言った。
「ダイバダッタよ、汝の提案はいずれも強制すべきものではない。個人個人が好きにすればよいことだ。しかも、ダイバダッタよ、汝は精舎に寝泊りしており、森林で暮らしてはいないではないか。宮中で食事の接待を受けているではないか。王子から布施された布で衣を作っているではないか。屋根のある精舎で座っているではないか。魚の肉も、乳製品も施されたものならば、汝は食べているではないか。それなのに、何を言うのか?」
仏陀の指摘に、まわりを取り囲んでいた弟子たちの中から失笑が漏れた。
「マハーカッサパは、森林に暮らし、食事の接待を受けず、糞掃衣のみを着て、屋根のあるところに座ってはいない。汝に言われなくとも、そのようにしたい者はそのようにする。それは個人の自由であろう。少なくとも、他人に強制しようとする前に、汝自身がそのようにすればよいではないか」
仏陀は、そういうと静かにダイバダッタの前を去って行ったのである。それと同時に、周りを囲んでいた弟子たちも次々と去って行った。一人取り残されたダイバダッタは
「くっそー、シッダールタめ。大勢の前で恥をかかせやがって・・・。今に見てろ。お前の仏陀の座もあと何年もつか・・・。くっ、くくくく」
ダイバダッタは、卑屈に笑ったのだった。

翌日のこと、ダイバダッタは、約束通りアジャセ王子のもとに出向いた。
「待っていたぞ、ダイバダッタ。さぁ、好きなだけ食事をするがよい」
ダイバダッタとアジャセ王子は、二人で食事を共にした。アジャセ王子に付き添っている兵士たちも部屋の外に出していた。
食事を終え、ダイバダッタは口中をすすぎ、手を洗って、衣を整えた。
「さぁ、ダイバダッタ、約束だ。話してもらおう。この部屋は、密閉性が高い。中の声は外には漏れないようにできている。何も気兼ねなく話ができる」
王子がそういうと、ダイバダッタは、悲しそうな顔をし、眉間にしわを寄せ、そして一息つくと、優しげな顔になり、話し始めたのだった。
「アジャセ王子、これは王子の出生の秘密に関することになります。決して、取り乱さないと誓えますか?」
アジャセ王子は、緊張した顔つきになった。しかし、ゆっくりとうなずくと「大丈夫だ」と言ったのだった。
「父のビンビサーラ王と母イダイケ夫人の間には、お子さんがなかなかできませんでした。どうも母上はお子さんができにくい体質のようですな。ある日のこと、マガダ国で評判の占い師に王子が誕生するか否かを占ってもらうことになりました。その占い師は、宮中に招かれ、国王と夫人を占い、こういったのです。
『国王、お子さんはできます。そのお子さんは男の子です。王子ですな。しかし、それは今すぐではありません。夫人が懐妊されるのは3年後のことです。』
『3年後?、そんなに先なのか?』
『はい、しかし、この王子様は聡明で頭の良いお子さんとなりましょう。なぜならば、この王子は、ヒマラヤ山中にいるとある仙人の生まれかわりだからです』
『なんと、そんなことまでわかるのか?』
『はい、わかります。その仙人・・・おそらくは、今は亡きアシタ仙人のお弟子さんでしょう。今は、一人で静かに暮らしておりますが、3年後寿命を迎えます。寿命を終えると、彼の仙人はイダイケ夫人の腹に宿ることが決まっておるのです』
『おぉ、あのアシタ仙人の弟子とな・・・。それならば、優秀な仙人に違いない。そうか、3年後か・・・・。それは、早めることはできないのか?』
『はい、できませぬ。仙人の寿命は決まっております。3年後です。無闇にそれを早めては・・・決してそれはしてはいけません』
占い師はそれだけ告げると、褒美をもらって帰って行きました。ビンビサーラ王は、占い師の言ったことが本当かどうか、確かめたくなりました。そこで、兵隊たちと信用のおける隊長級の者を数名、ヒマラヤに遣いに出しました。占い師が言った仙人が実際にいるのかどうかを確かめに行かせたのです。一週間後、彼らはヒマラヤから戻ってきて、国王に報告しました。『仙人はいました。実際にあってきました。その仙人は3年後に寿命が尽きる。その後は、マガダ国の王子に生まれ変わる、と占い師が言ったことと同じことを言いました』と報告したのです。それ以来、ビンビサーラ王とイダイケ夫人は、悦びにあふれる毎日を過ごしていましたが、人は待つことが苦手なのですよ、王子様。特にビンビサーラ王は、気が短い方です。そのうちに『3年も待てぬ』と言い出したのです。そこで、国王は考えました。『仙人の寿命を早くしてしまえばいい』とね」

ダイバダッタは、そこまで一気に話をすると、ここで一息ついた。水を飲み、のどを潤すと、アジャセ王子の心配そうな顔つきには目もくれず、再び話し始めたのであった。
「国王は、ひそかに仙人を見つけ出した隊長を呼び寄せました。
『よいか、これは極秘命令だ。あのヒマラヤの仙人のところに行って、こう言え。国王が3年も待てないとおっしゃっている。こんな暮らしをしているより、早く王子に生まれ変わったほうがあなたも幸せであろう。だから、今すぐ命を自ら断ってはどうか、とな』
こう命じられた隊長は驚きましたが、国王の命令は絶対です。隊長は、
『もし、その仙人が自ら命を絶つことを拒否しましたらいかがいたしましょうか』
と国王に聞きました。国王は、『その時は』と言い、剣に手をかけました。それで万事が通じたのです。さらに国王は、
『信頼できる者、数名で行くがよい。なるべく少人数でな。よいか、あくまでもこれは極秘だ』
と隊長に命じたのです。こうして、その隊長は信頼できる部下3名を選び、ヒマラヤへと向かったのです」
アジャセ王子がつばを飲み込む音が聞こえた。王子も緊張しているのである。顔が引きつっていた。ダイバダッタは、心の中で大いに笑っていた。
(わははは。クソガキめ。いい気味だ。そうだ、お前の出生は呪われているのだ。もっとおののくがいい、もっと怖れるがいい。あははははは)
しかし、そんな心の中を全く見せず、ダイバダッタは、悲痛な顔つきをして尋ねた。
「大丈夫ですか、王子。続きを聞きますか?。あまりにも王子の顔が・・・その・・・」
「何を言うかダイバダッタ。私は恐れてなどいない。いいから続きを話せ。次に私に気遣うようなことをいったら、その時は・・・汝も覚悟するがよい」
「これは失礼しました。では続きを話しましょう」
ダイバダッタは、丁寧に礼をすると、こみあげてくる笑いをかみ殺し、悲壮な顔つきをして続きを語り始めたのであった。


127.反逆、その2
「ヒマラヤ山中の仙人のもとにたどり着いた隊長たちは、さっそくその仙人に国王の命令を伝えました。
『仙人さん、あなたももう高齢だ。今死ぬも3年後死ぬも変わらないだろう。それに、あなたも早く生まれ変わったほうが幸せだろう。王子になれるのだからね。だから、今、ここでその命を絶ってくれないか?』
隊長は、そういうと、短剣を仙人に差し出したのです。しかし、仙人は
『何を下らぬことをいうか。さっさと帰ってビンビサーラ王に伝えるがよい。わしの寿命まで待て、とな。もし、それが待てぬのなら、国王は・・・呪われるぞ』
そういうと、隊長が差し出した短剣を崖の下へ放り投げてしまったのです。隊長は、
『やむを得ぬ。俺を恨むなよ。これも国王の命令だからな』
と一言いうと、仙人の首をバッサリと切り落としてしまったそうです。首を切られた仙人は、それでも息絶えず、
『哀れビンビサーラ王よ。3年待てば幸せな余生が過ごせたものを・・・。ビンビサーラ王、汝は呪われた。死の恐怖に怯えながら生きるがよい。我、必ず、生まれ変わり、汝を苦しめるであろう』
と呪いの言葉を放ったのです。そして、その仙人は絶命いたしました」
「待て、待て、ダイバダッタ尊者よ。その話は本当なのか?」
「はい、真実です。私は・・・とある者からすべてを聞きだしております。いいえ、聞きださなくても、神通力でわかってしまいますからね。もちろん、この話は世尊も、その弟子たちも知っています。神通力のある弟子たちは、皆知っている話です」
「ま、まさか・・・・。いやいや、そんな・・・。父上が・・・そんなことを・・・。いや、しかし、その仙人の生まれ変わりが、この私であると、そんなことは保証できないではないか」
アジャセ王子は、真っ青な顔をして、ダイバダッタにそう食い下がった。ダイバダッタは、哀れな捨て犬を見るような眼でアジャセ王子を見つめると
「やはり、話さない方がよかったですかねぇ・・・。この話にはまだ続きがあるのですが・・・」
と、つぶやいたのだった。その言葉にアジャセ王子は
「な、なんだ、まだ続きがあるのか・・・。ならば、早く話せ」
と先を急いたのだった。が、ダイバダッタは暗い顔をしてこう言ったのだった。
「しかし、私の話が信じられないというのでしたら、これ以上話しても無駄ですし、王子を不快にさせるだけです。王子の気持ちがふさぐようでしたら、これ以上は・・・」
「うるさい。不快ではない。私は真実が知りたいのだ。汝の言葉を私は信じる。だから、続きを話すのだ!」
「わかりました・・・。では、仕方がないですな。続きを話しましょう」
ダイバダッタは、大きくため息をつくと、悲しそうな顔をして話し始めたのだった。しかし、内心では
(うわはははは。あわてているぞ、このくそガキが。いい気味だ。もっと苦しむがいい。そして・・・、俺に協力するのだ。もう少しだ。あははは)
と笑っていたのであった。

「隊長たちは、マガダ国に戻りますと、国王に仙人の命を奪ったことを告げました。その証拠に、仙人の髪の毛を持って帰っていました。国王は、隊長たちをねぎらうと、しばらく休むように命じました。が、その時から仙人の呪いは始まっていたのです。隊長とその3人の部下は、間もなく原因不明の高熱を出し、亡くなってしまったのです。
そんなころ、イダイケ夫人は、懐妊した夢を見ます。その夢は、やがて現実化します。王子、あなたがイダイケ夫人のお腹に宿ったのですよ。国王は、大いに喜び、以前占ってもらった占い師を宮中に呼びました。すると、その占い師は
『そ、そんなバカな・・・。確かに御后様は懐妊されています。しかし・・・これは・・・。あっ!、あの仙人さんが亡くなっている・・・』
『ふむ、やはり、夫人のお腹の中の子は、その仙人の生まれかわりか?』
国王は、占い師に尋ねました。占い師は、必死に何か占いをしたそうです。すると、彼は突然真っ青な顔になったかと思うと
『わ、私はもうこれ以上、関わりたくない。国王よ、あなたは呪われた。仙人の呪いにかかっている。后様は確かに懐妊されたが、生まれてくるお子さんは、国王、あなたに仇をなすでしょう。・・・あぁ、決して産んではなりません。もし生まれてくれば・・・・、国王、あなたは・・・殺される・・・。決して、お子を産んではならない。そのお子は。呪われた子だ!』
『な、何を言うか!。このめでたい席で・・・。おい、誰か、この者を牢屋にぶち込んでしまえ!』
国王の命令に兵士が占い師を捕えようとすると、その占い師の声が突然変わり、
『わしの命を奪ったビンビサーラ王よ。この占い師の言葉は真実だ。国王よ、今日より、死の恐怖に怯えながら暮らすがよい。ケケケケケ』
と言ったとたんに、死んでしまったのです。このことにより、イダイケ夫人のお腹の子供は、殺された仙人の生まれかわりだと・・・確定されたのですよ、王子」
ダイバダッタはそういうと、アジャセ王子をまっすぐに見つめたのだった。見つめられた王子は、
「そ、それがどうしたというのだ。わ、私は父を恨んでなどいないぞ。こ、このような自由な暮らしをさせてくれている父を恨んだことなどない。そ、その占い師は、間違っておるのだ。私は、そんな仙人の生まれかわりなどではない」
と、ダイバダッタから目をそらして答えたのだった。
「えぇ、賢明な王子様は、父である国王様を恨んではいないでしょう。しかし、国王はあなたをこの宮中内に止めているではありませんか。決して外には出そうとはしない。まるで、王子、あなたは幽閉されているようだ」
「た、確かにそうかもしれん。しかしだな、それが・・・」
「それに・・・」
「それに?」
「はい、それにもう一つあります。王子様、あなたは今の私のこの話を信じないかもしれませんが、国王はいかがでしょうか?」
「父であっても、そんな話は信じまい?。信じるほうがどうかしている。バカバカしいにもほどがあるぞ」
「果たしてそうですかな?」
ダイバダッタはそういと、悲しそうな顔をしてアジャセ王子の部屋の外を眺めたのだった。

「国王は、目の前で占い師が呪いの言葉を吐くの聞いてしまいました。そして、そのまま絶命するのも見てしまったのです。これで不安にならない者はおりません。たとえ、勇敢で聡明なビンビサーラ王であっても・・・」
「父は・・・信じたのか・・・・」
「えぇ、信じたのですよ」
「な、なぜ・・・。そうだ、なぜ父は世尊に相談しなかったのだ?。世尊ならば、その神通力でなんとか・・・」
「どのように話せばよいのですか?。国王は、普段から世尊の教えを守っていました。その国王が、仙人を殺したと・・・そう話せというのですか?。もっとも、世尊は気付いていたでしょう。国王と会うたびに、
『何か言わねばならないことがあるのではないですか?。心にとどめておくと、苦しいばかりですよ』
などと声をかけてはいましたがね。しかし、そんなことを言われて『はい、そうなんです』と答える者はいないでしょう。世尊は、生ぬるかったのです。禍の種を知りながら、それを除去しようとはしなかったのです。もし、私ならば、国王にすぐさまこういったでしょう。
『あなたのお子さんの禍を神通力で取り除いて差し上げましょう』
とね。そうすれば、王子よ、あなたもその後の苦を受けずに済んだのです」
「せ、世尊は・・・気付いていたのに何もしてはくれなかったのか?」
「そう、何もしてはくれませんでした。そのため、王子よ、あなたは何度も父王に殺されそうになったのですよ」
「私が父に・・・・?」
「はい。国王は、イダイケ夫人に堕胎するように命じました。しかし、夫人は頑なに拒否しました。国王は、そんな夫人を何度も襲ったのです。ある時は、お腹を鉄の棒で殴ろうとしました。ある時は、後ろから突き落とそうとしました。ある時は、飲み物に堕胎の薬を混ぜて夫人に飲ませようともしました。しかし、それらは悉く失敗に終わったのです。夫人は、自分がそのような危険な目に遭わされていたことすら気付いていないでしょう。それほど、夫人のことを何かが・・・きっと仙人なのでしょうが・・・守っていたのですよ」
「父がそんなことを・・・」
「国王は、夫人のお腹が大きくなるにつれ、様々な方法で夫人のお腹を狙ったのですが、それらはすべて失敗しました。そして、ついにお産の日を迎えたのです」
そういと、ダイバダッタは、立ち上がり窓の方へと歩いて行った。そして、
「ここはかなり高い場所ですね。とても気持ちがいい。あぁ、しかし、ここよりもあの場所の方が高いのですな・・・」
ダイバダッタは、窓の外に見える城の高楼を眺めた。
「あぁ、あそこは、この城の中で最も高い場所だ。とても眺めがいいのだ。私は、あの場所が大好きだ」
ダイバダッタは、アジャセ王子の言葉に言葉には何も答えず、急に王子を振り返ると
「王子、王子のその右手の小指ですが・・・」
と言った。
「あぁ、これは生まれつき曲がってしまっているのだ。お陰で、弓が撃ちにくい」
王子は、自分の曲がってしまっている右手の小指を眺めた。
「ほう、王子はそのように聞いているのですか」
「ど、どういうことだ?」
ダイバダッタは大きくため息をつくと、王子を見据えて言ったのだった。
「その指こそが、国王が王子を殺そうとした証拠なのですよ」
「な、なんだと、どういうことなのだ」
アジャセ王子は、立ち上がるとダイバダッタに迫ってきた。今にもダイバダッタの胸に掴み掛りそうなほどの勢いであった。
「落ち着いてください、王子。これからその話をします」
そういうとダイバダッタは、再び窓の外を眺めたのだった。
「王子の出産は、安産でした。イダイケ夫人もお子さんも、それはそれは順調に生まれました。誰もが、王子の出産を喜びました。しかし、国王だけが喜んではいませんでした。生まれたお子さんが男の子だと知ると、すぐさま生まれたばかりの王子を抱きかかえて、あの高楼に登ったのです」
ダイバダッタは、振り返って王子を見た。
「そして、あの場所から王子を落としたのです」
「まさか!」
アジャセ王子は、そう叫ぶと、窓に歩み寄った。そして、高楼を眺め、
「ダイバダッタ尊者、この期に及んで嘘はいけません。いくら赤ん坊でも、あの高さから落としたら死んでしまいますよ。しかし、私は現に生きている。尊者も人が悪い。真剣な話をしているのに・・・・そんな・・・・冗談を・・・まさか、そんな・・・。その話は・・・本当のことなのか?」
ダイバダッタの真剣なまなざしに、アジャセ王子の顔から笑みが消えた。そして、ダイバダッタに縋り付いてきたのだった。
「王子、残念ながら本当のことなのです。たまたま、王子が落ちた時に、たくさんの干し草を積んだ車があの下を通ったのですよ。そのため、王子は一命を取り留めました。しかし、その小指だけは・・・折れ曲がってしまったのです」
「ま、まさか・・・まさかそんなことが・・・・」
アジャセ王子は、ダイバダッタにしがみつきながら、その場で崩れ落ちてしまったのだった。ダイバダッタは、優しく王子の肩に手をかけ
「これが、王子の出生の秘密なのですよ」
と冷たく言ったのだった。そしてその顔は、悪魔のように微笑んでいたのだった。しかし、誰もその微笑みに気付く者はいなかった・・・・。


128.反逆、その3
「国王は、アジャセ王子、あなたを恐れている」
王子の肩に手をかけたまま、ダイバダッタは優しくそう言った。
「だからこそ・・・」
「みなまで言うな。そういうことなら納得がいく」
王子はそういうと、すっと立ち上がった。そして、ゆっくりダイバダッタの方に顔を向けた。その顔は、暗く打ち沈んでいたのだった。
「ふん」
と息を漏らすと、王子は口の端をあげて笑った。
「そういうことか・・・。ならば、納得できることが多々ある。道理で父は、私に多くの軍を持たせないわけだ。私を外に出さないのは、どこかでこの話が私の耳に入ることを恐れてのことであろう。あの高楼から赤ん坊を落としたのが事実ならば、城内で知らない者はいないだろう。否が応でも目立つからな。ふんっ・・・城内の者たちが・・・兵士も侍女も、母上までもが、私の顔色を窺うような態度をするのは・・・・そういうことだったのか。いやいや、父上に至っては、いつも私の様子を気にしていた。それは、私への期待感だと思っていたが、とんだ誤解だったのだな。父は、私を恐れていたのか・・・。いつ、私が父に向かって剣を抜くのか、それを恐れているのだな」
そういうと、王子はダイバダッタを鋭くにらんだのであった。
「まあ、そういうことになりますかな」
「なんだ、妙に歯切れが悪いではないか」
「いえいえ、そのようなことは・・・・。確かに国王も御后様も兵士たちも侍女ですらも、王子の反乱を恐れています。王子が剣を抜く日は、今日なのか明日なのか・・・。毎日が恐怖でしょう。ましてや、今は王子もある程度の軍隊を持っております。王子直属の兵隊たちもいます。ひとたび王子が反乱を起こせば・・・」
「起こせば?、私が父に刃を向けたならば、どうなる?」
「国王は、ひとたまりもないでしょう。ビンビサーラ王は・・・こういってはなんですが、最近ひどく衰えていらっしゃる。妙に老けられた。おそらくは、王子への恐怖心にさいなまれ、そのことで疲れ切っているのでしょう。周囲の大臣たちも、国王の元気のなさ、力の衰えは心配しております。それと同時に・・・」
「私の反乱もな・・・。ふんっ、知らなかったのは私だけか・・・。私以外の者は、みんな私がいつ反乱を起こすか、待っていたわけだ。びくびくしながらな!。そうか、そういうことならば面白い。期待に応えてやろうではないか」
アジャセ王子が国王に対し、復讐心を燃やすのを見て、ダイバダッタは、内心ほくそ笑んでいた。
(ついにこの時が来た。いいぞ、その調子だ。まずは、アジャセに王位に就かせる。そしてその後は私の番だ・・・・)
「いや、王子、早まってはいけません。国王に刃向うなど・・・」
「ダイバダッタ尊者よ、尊者は、私を止めるのか?」
「いや、そういうわけではないのですが・・・。ここは、平和的にですな・・・」
「この期に及んで何を言うか。あの父は、私を殺そうとしたのだぞ。今でもひょっとしたら、私の命を狙っているかもしれぬ」
「まあ、そうなのですが・・・。確かに、国王は、できれば王子を亡き者にしたいと思っていることでしょう」
「ならば、私を止めるな。私が父に代わって国王になればいいだけの話だ。そうではないか、ダイバダッタ?」
「その通りです、王子」
「ふんっ、ダイバダッタよ」
王子の呼びかけから尊者の文字が消えていた。
「お前のたくらみは、知っているんだよ」
王子は、そういうとダイバダッタを横目で眺め、ニヤッと笑ったのだった。
「私が気づいていないとでも思っていたのか?」
「な、何のことでしょうか?」
「教団を掌握したい・・・のだろ?」
アジャセ王子の言葉に、一瞬ダイバダッタの身が固まった。しかし、すぐに普段通りに戻ると、
「ま、まさか・・・。そんなことは私には・・・」
と、とぼけたのであった。しかし、アジャセの追求は緩まなかった。
「尊者、嘘はいけませんな。出家修行者は、嘘はついてはいけないのではないかな?」
二人の間に沈黙が流れた。

「いいではないか、ダイバダッタよ。正直になろうではないか。もはや、私と尊者は、ただの間柄ではない。秘密を共有した間柄だ。私は父王を打ち、父に代わって国王の座に就く。尊者は・・・どういう方法をとるのか知らぬが、仏陀世尊に代わって、教団の主になればよいのだ。お互いにこのことは秘密だ。そして、お互いに望みが成就した暁には、協力し合おうではないか」
アジャセ王子は、そういうとダイバダッタを見下したように微笑んだのだった。
(くっ、やられた・・・。この王子、ただの坊ちゃんだと思っていたが、なかなか頭がいい。くっそ、こちらの計画を見抜かれていたか・・・。しかし、まあいい。計画そのものには支障はないからな。お互いに、計画を遂行するまでだ・・・・)
「わかりました。王子がそうおっしゃるならば、仰せの通りにしましょう。では、王子は国王の座をかけて、私は仏陀の座をかけて・・・・」
「そういうことだ、ダイバダッタよ」
二人は、静かに笑いあったのであった。

二人が悪巧みを交わした3日後のことだった。
「父上、覚悟!」
そう叫んだアジャセ王子が、ビンビサーラ王に切りかかった。国王の側近の兵士が交代のため入れ替わった瞬間だった。
「ア、アジャセ、何をする!」
すぐに他の兵士が駆け付けたが、それはアジャセ王子の兵士たちだった。あっという間に、ビンビサーラ王は、数名の兵士に取り囲まれてしまった。そして、その喉元にはアジャセ王子が握った剣の先が突きつけられていた。国王直属の兵士は何もできなかった。
「父上、よくも今まで騙していたな。いや、父上だけではない。そこにいる大臣たちもだ!」
アジャセは、あわてて駆けつけてきた大臣たちの方を振り返って叫んだ。
「いや、その私たちは・・・・」
大臣たちは、しどろもどろになっていた。そこに母親である后も駆け付けた。
「母上、遅かったですね。この通り、国王は私に捕まってしまった。さぁ、どうしますか?」
「アジャセ、あなたなんてことを!」
アジャセ王子に掴み掛ろうとした后を大臣たちが止めた。
「御后様、いけません。御后様まで捕えられては・・・」
后は
「アジャセ、許しておくれ・・・・」
と、泣き崩れたのであった。
「あぁ、うるさい、うるさい!、どいつもこいつもうるさい!。もういい、もういいのだ。そんなことはどうでもいいのだ!。大臣どもよ、私に従うか、従わぬか?」
アジャセは大声でそう叫んだ。集まっていたすべての大臣たちは
「ビンビサーラ王、申し訳ございません」
と泣き崩れ、その場にひれ伏したのだった。ひれ伏した大臣たちを見て、アジャセは笑った。
「あはははは。そうだろうそうだろう。誰もが命は惜しいからな。こんなものだよ、父上。人なんて、こんなものなんだ。いくら忠誠を誓っても、自分の命は惜しいんだよ!」
「アジャセ、それは違う。大臣たちは、私に忠誠を誓っているのではない。この国、マガダ国に忠誠を誓っているのだ・・・・。大臣たちよ。汝らは悪くはない。今まですまなかった。嫌な思いをさせた・・・。アジャセよ、すべては私が悪いのだ。大臣たちには罪はない。私はどうなろうとも構わない。しかし、この国のため・・・お前が国王として国をまとめるためにも、大臣たちは許してやってくれ・・・。彼らは、この国に必要な者たちなのだ。あっ!」
ビンビサーラの言葉に怒り狂ったアジャセは、自分の父親を思いっきり蹴り上げたのだった。
「黙れ、くそったれがっ!。おい、お前ら、こいつを地下の牢獄に幽閉しろっ!」
アジャセは、兵士たちにそう命じたのだった。こうして、ビンビサーラ王は、手かせ足かせをつけられ、地下深くの牢獄に閉じ込められたのだった。
ビンビサーラ王が去ったあと、アジャセは大臣たちを振り返り、
「今日から私が国王だ。よいな!」
と宣言したのであった。大臣たちは
「はい、今日より、アジャセ国王にございます」
と答え、一斉に頭を下げたのであった。アジャセは、満足そうに国王の座・・・玉座に座ったのであった。

そして同じ日に霊鷲山では、ダイバダッタが仏陀に迫っていた。仏陀とダイバダッタの周りを、大勢の弟子たちが取り囲んでいた。
「世尊、世尊はもう高齢で、この大きくなった教団を率いるのは無理です。しかも、最近では戒律も緩みっぱなしであるし、戒律違反を犯した修行者たちを簡単に許すようになっている。統率が全く取れてません。それもこれも世尊、あなたの衰えが原因だと私は思っています。ただ単に年齢がいっただけではないのです。世尊は、このところやる気がないように思われる。いくら高齢でも、活気があれば、ちゃんと教団を統率できるのに、世尊にはそのやる気が見られない。年齢以上に老けられてしまわれた」
「何が言いたいのだ、ダイバダッタよ」
「世尊には教団を統率する力も能力もない、とそう言いたいのですよ」
「私はそうは思わないが、どうすればよいというのだ?」
「私が世尊の代わりに教団の長となりましょう。私のように修行に厳しい者こそが、この教団の長に相応しいのです。世尊のように、年齢以上に老いぼれてしまわれた者には、この際引退していただき、ゆっくりと自分の修行に専念されればよいのですよ」
「ダイバダッタよ、私は、汝よりも格段に優れたシャーリープトラやモッガラーナにさえ、この教団を譲る気はない。彼らよりもはるかに劣る汝に、この教団の長を任せることなど有り得ない。下がるがよい。他の修行者の邪魔であろう」
「わ、私がシャーリープトラやモッガラーナよりも劣るというのですか?」
「劣るであろう。それは、誰もが認めることだ。汝のように自惚れの強い者に教団を任せるわけにはいかないのだ」
「私が自惚れが強いと、そういうのですか?。私は、誰よりも厳しい修行をしております」
「誰よりも厳しい修行をしている者が、毎日マガダ国の宮中に入り込み、王子をたぶらかしたりするであろうか?」
「た、たぶらかすなどと・・・何と人聞きの悪いことを!。私は、そのようなことを・・・」
「そうかな?。毎日、アジャセ王子のところに入り浸り、宮中の贅沢な食事を味わい、王子の部屋に入り込み、余計なことばかりを王子に吹きこんでいるのではないのか?」
「余計なことなど・・・、私は真実を話しているだけだ!」
「ふむ、やはり王子のもとに入り浸っていたのだな。今、汝はそれを認めた。ダイバダッタよ、いくら真実であっても、話していいことと話していけないことがある。アジャセ王子の出生の秘密のことなど、本人に話す必要はないのだ。話さなくても、自然に流れていくのだ。因縁の流れは変えることはできない。その自然の流れをあえて汝は、変えてしまったのだ」
「何を言うかと思えば・・・。遅かれ早かれ結果は変わらないのですよ。ならば、早めたほうがいい。そのほうがお互いのためだ」
「そう思うところが、自惚れの強いところなのだ。汝は、何様になったつもりか?。自然の流れを変えるほどの権力を持った者なのか?。他人の運命の流れを変えていい者なのか?。よいか、他人の運命を弄んでいい者など、この世には存在しない。神々ですら、そのようなことはしない。ましてや、悟りを得た者や悟りを得ようとする者は、他人の運命を弄ぶようなことは決してしないのだ。汝はそれをしてしまった。汝は、そんなことすら理解できていないのだ。教団の長になるような資格は、そのような者にはない。もう一度、初めから修行をし直すがよい」
仏陀の強い口調に、長老たちは「さもあらん」という顔をした。そして、長老を始め、多くの弟子たちが仏陀とともに、ダイバダッタの前から去って行き、それぞれの修行の場に戻っていったのだった。誰も、何も言わず、ただただダイバダッタに対し、哀れみの目を向けたのだった。ダイバダッタの周りには、十数名の若い修行たちだけが残っていた。その彼らも、心配そうにダイバダッタを見つめていたのだった。
「くっそー、俺に恥をかかせやがって・・・・。あんな目で俺を見やがって・・・・。今に見てろ、今に見てろ・・・」
ダイバダッタは、ブツブツとつぶやいていた。その眼には、怒りの炎が燃え滾っていたのだった。


129.反逆、その4
ビンビサーラ王は、地下の牢獄に幽閉されてしまった。
「父上、いいやもはや父上などというのはよそう。そう、お前でいい。お前にはここがお似合いだ。今からは、私がこのマガダ国の王だ。お前は、ここで飢えて死ぬがいい」
アジャセは、笑いながらそう言い放った。
「アジャセよ、なぜこのようなことを・・・。私は、お前が結婚をしたら引退するつもりでいた。お前に王位を渡し、私は出家するつもりでいたのだ・・・。それなのに・・・」
「何を今さら。そんなとってつけたようなことを言っても騙されません。私は、お前が行った悪行をすべて聞いた。私に関する悪の行いをすべて知ったのだ。お前は、私を殺そうした。今でも私の命を狙っているのだろう?。私など死ねばいいと思っていたのだろう。ふっふっふ・・・。それも不可能なこととなった。哀れな者よ・・・」
「いったい誰が、そのようなことを・・・・。あぁ、ダイバダッタだな。あの者が・・・・。余計なことを・・・。よいかアジャセ。私は、世尊に諭され、私が行った行為を深く反省したのだ。それ以来、私はお前の命を狙うような愚かな行為はやめたのだ。そう、お前がもっと幼いころにな・・・。しかし、これも私の愚かな行為の報いだ。私はすべてを受け入れよう。だが、アジャセ・・・・、あのダイバダッタだけは信じてはいけない。あれは、この国を滅ぼす。あの男の言葉に耳を傾けてはいけない。よいな、それだけは守っておくれ」
「う、うるさい!。お前なんか、さっさと死んでしまえ。おい、牢番、誰もここに近付けるではないぞ。わかったな」
アジャセ新国王は、そう叫ぶと地下の牢獄を後にしたのだった。
王室に戻ると、アジャセは宰相に
「ビンビサーラ王は急病により亡くなった、国王はアジャセ王子が後を継いだ、と国民に伝えよ。いいか、一週間、喪に服すように国民に伝えるのだ。その翌日に、私の戴冠式を行う」
と命じたのであった。
その日の真夜中のことだった。牢獄に向かう者が一人いた。
「あ、これは御后様」
「し、静かに・・・。お願いです、ここを通してください」
「しかし、それは・・・・」
「このままでは、国王は死んでしまいます。いいえ、勘違いしないでください。私は、ビンビサーラ王をここから出してアジャセを討とうなどということを考えているわけではありません。ただ、国王の命だけが心配なのです。お願いです・・・・」
牢番は、無言で牢獄のカギを開けた。后は、ビンビサーラ王に食べ物を与えたのだった。
「王様、王様をここから出すすべは今はありません。ですが、こうして食料をお持ちします。ですから、決してあきらめず、生きてください。支援者を作って、必ずここから出して見せます。そして、他国へ逃れましょう」
「イダイケ、もうよいのだ。こんなことを続ければ、やがてアジャセに見つかってしまう。そうすれば、汝の命も危ないであろう。こうなったのも、すべて身から出た錆だ。自業自得なのだ。世尊にも以前に言われたのだよ。『ビンビサーラ王、あなたは早まったことをしてしまった。この報いは必ずやってくるであろう。その時は、国王よ、一切の抵抗をやめ、アジャセ王子に従うのだ。そして、静かに瞑想をするがよい。心を落ち着け、決して取り乱さないように・・・』と。私は、己の人生を振り返っているのだ。そして、深く深く反省をしている。あぁ、そうだ。イダイケよ、世尊に伝えておくれ。もし、叶うことならば、この場で戒を授けてもらえぬだろうか、と・・・。あぁ、世尊よ、願わくば、私に心の平穏を・・・・」
「国王、わかりました。世尊には伝えておきます。ですが、私はこうして毎晩、食料を届けにきます」
「イダイケ、それはダメだ。よいか、お前のその行為が、牢番の命を奪うことにもなろう。そして、アジャセの罪を深くするのだ。私のことはもういい。そうだ、イダイケ、お前だけでも出家しておくれ。お願いだ・・・」
ビンビサーラは、イダイケ夫人にそう願ったのであった。しかし、イダイケ夫人は、次の日の夜も、ビンビサーラ王の元を訪れたのであった。そして、それは毎晩続いたのだった。

一方、ダイバダッタは、悔しさのあまり、眠れぬ日が続いていた。
「くっそ、シッダルタめ。なにが仏陀だ。この俺に恥をかかせやがって。許せん。どいつもこいつも澄ました顔をしやがって、俺を哀れみの目で眺めやがって、俺をバカにしやがって・・・・。あぁ、もう腹が立つ。何としても、シッダルタに痛い目に遭わせてやる。何かいい手はないか?・・・。あぁ、くっそ、アジャセだけが上手くいって、何で俺の方が上手くいかない!」
日に日にダイバダッタの目つきは悪くなっていた。ダイバダッタにつき従っていた数名の弟子たちも、彼を遠巻きにして眺めていた。
「そうだ・・・。何も私がこんなところにいる必要はないのだ。そうか、何もこの私がシッダルタと一緒に過ごす必要はないのだ。ふむ・・・・。おぉ、それはいい考えだ。ふっふっふ、あはははは」
ダイバダッタは、笑い始めると、急激に穏やかな顔つきになっていった。その表情は、彼を取り巻く弟子たちに向けるいつもの顔つきであった。彼は、自分に着き従う者に対し、いつも優しく接していた。ただし、戒律を守ることだけには厳しく指導していた。それ以外は、意外にも弟子たちにはやさしい指導者であったのだ。しかし、それは、指導が上手いというわけではなく、自分の周りに弟子を置いておきたいという思いからの行為であった。彼は、多くの弟子に囲まれていたいという願いを持っていたのだ。
「ふむ、そうだね。そうだ。おい、君たち、こちらへ来なさい」
ダイバダッタは、遠巻きに彼を見ていた弟子たちを呼び寄せた。弟子たちは、恐る恐るダイバダッタに近付いて行った。
「何も恐れることはない。まあ、座るがよい。楽にして話を聞きなさい。よいか、汝ら。私はついに決心をした」
「決心ですか?」
「そうだ、決心だ。よいか、私はな、新たに教団を作ろうと思う。仏陀は、もうダメだ。あれでは指導はできぬ。あの者について行っても悟りは得られぬ。そこでだ、私が新仏教教団を作ることにしたのだ。戒律に厳しい新たなる仏教教団だ。厳しい修行をしなければ、悟りは得られないからな。さて、そこで、君たちに第一の修行を与えよう」
「修行?、ですか?」
「そうだ。よいか、汝ら、できるだけ私の新仏教教団に入る者を集めてきなさい。そうだのう、一人10人は集めて欲しいのう。もちろん、強制はしないが・・・」
ダイバダッタは、そういうと、優しく微笑みかけたのだった。
「おぉ、そうそう、新仏教教団は、アジャセ新国王が支援してくださる。だから、何も心配はいらない。修行場所も確保される。さぁ、私につき従う弟子を集めてくるがよい。ただし、仏陀や長老どもに気付かれぬようにするのだ。よいか、狙うのは出家して間もない者たちだ。ここを旅立つのは一週間後の早朝だ。それまでになるべく多くの者を集めるのだ」
ダイバダッタは、そう宣言したのであった。そして、ダイバダッタに命じられた弟子たちは、霊鷲山で修行する者たちに声をかけに行ったのであった。

一週間の時が過ぎようとしていた。
「お久しぶりですな、アジャセ王子・・・否、アジャセ新国王。万事うまくいっているようですな」
「ダイバダッタ尊者か。あぁ、おかげですべてうまくいっている。これも汝のお陰だ」
「ふっふっふ。そう言っていただければ、私もアジャセ国王にいろいろお話したかいがあるというもの・・・。喜んでいただければ、それで何よりです」
「ふん、ダイバダッタよ、今日は、何の用だ?」
「おやおや、これは冷たいおっしゃりよう。国王ともなりますと、変わるものですなぁ。あぁ、いや、気になさらぬよう、年寄りの戯言です。実はですな、私もいよいよ新たなる仏教教団を立ち上げることとなりましてな」
「ほう、いよいよ仏陀を裏切るのか」
「国王、人聞きの悪い・・・。初めからの計画通りではないですか」
「わかっておる。冗談を言ってみたのだ。このところ、忙しくてな。すまんなぁ、ついつい当り散らしてしまった」
「いえいえ、国王ともなれば、その責任は重大。お疲れになりましょう」
「ダイバダッタ尊者よ、汝の言いたいことはわかっておる。新しい汝の仏教教団に協力してくれと、そう言いたいのだろう?」
「さすが国王。お察しのいい・・・。よろしくお願いいたします」
「あぁ、わかっておる。まずは、精舎だな。どこがよいのか場所を選定してくれ。場所が決まれば、すぐに用意をしよう」
「ありがとうございます。では、そのお礼と言ってはなんですが、一つ御忠告を」
「なんだ?」
アジャセ王は、怪訝な顔をした。
「ビンビサーラ王・・・否、元国王ですな・・・は、お元気ですよ。どうやら、元国王に食料を届けている者がいるようで。あぁ、大きなメスネズミのようですな。ネズミは夜中に動き回る。お気を付けください」
「なんだと!」
アジャセ王は、玉座を立ち上がると、地下の牢獄へと駆け出したのだった。
「くっくっく、バカな小僧だ」
一人残ったダイバダッタは、ニヤニヤ笑っていたのだった。

「おい、どうなっている?、なぜこいつはやせ細っていない?」
アジャセ国王は、牢番に剣を突き付けた。
「あぁ・・・、あの・・・その・・・」
「その者が悪いのではない。私が悪いのだ」
牢獄から声がした。ビンビサーラ王だった。
「その者は、私が脅したのだ。私が脅して、黙っていろと言ったのだ」
「そんな言葉に騙されるか。牢獄の中から脅しができるわけがない。おい、お前は私と一緒に来るのだ」
アジャセは牢番を連れて行ったのだった。
その日の真夜中のこと。いつものようにイダイケは、食料を隠し持って地下の牢獄へ向かおうとしてた。
「こんな真夜中にどこへ行くのですか、母上?」
「ア、アジャセ・・・・。どうして?。まさか、牢番が?」
「いいえ、あの者は、決して口を割らなかった。だから、命を落としたけどね。立派な者だった。ああいう兵士を私も欲しいものだ」
「では、なぜ?」
「神通力を使えるものがこの世にはいるのですよ。あなただって、頼っているではないですか」
「あぁ、ダイバダッタね・・・。あの男が・・・・」
「そんなことはどうでもいい。隠し持っているものを出してください」
アジャセに迫られ、イダイケ夫人は隠し持っていた食料を出したのだった。
「ふん、こんなにたくさん・・・。どうりであの男は元気がいいはずだ。母上、牢獄にいるものを助けるのは、重罪です。覚悟してください」
アジャセは、そういうと剣を抜いたのであった。
「もとより覚悟はできています。さぁ、切りなさい。母である私を切り殺しなさい」
「言われないでも切ってやる!」
アジャセがそう叫び、今にも剣を振り下ろそうとした時だった。
「待ってください。お待ちください。母親を切ってはなりません」
そう叫びながら、アジャセとイダイケ夫人の間に入った者がいた。それは宰相であった。
「いけません、アジャセ国王。いまだかつて母親を殺害した王はいません。もし、ここでアジャセ国王がイダイケ夫人を切ってしまったなら、国王はこの世界が誕生して以来の重罪人になります。よいですか、この世界の歴史上、国王である父親の命を奪い王座についた王子は数多くいますが、母親を殺した国王や王子はいないのです。イダイケ夫人、このマガダ国にはアジャセ国王が必要なのです。あなたの命と引き換えに、この国を滅ぼすわけにはいかないのです」
「な、なんと、母上は、自分の命と引き換えに、この私を罠にはめようとしたのか・・・・」
「あぁ・・・、よい宰相に救われましたね。あなたがいれば、この国も安泰です。いえ、私はこの国を滅ぼそうとしたのではありません。このアジャセが、国王に相応しいかどうかを試したのです。あなたが、止めに入るのも計算していました。もし、あなたが止めに入ったとしてもアジャセが私を殺したのなら・・・・この国が滅んでも仕方がない・・・そう思ったのですよ」
「そ、そうだったのですか・・・・。母上、私は危うく・・・すべてを失うところだったのですね」
「その通りよ。国王になるには、この世界の歴史を多く学ばねばなりません。そして、頼るべきは、あの男ではなく、あなたの近くにいるこの宰相なのですよ」
アジャセは、そこでようやく気が付いたのだった。
「あぁ、私がバカだった・・・。あんな者の言葉に耳を傾けた私がバカだった。私はとんでもないことを・・・。私はいったいどうすればいいのか・・・・」
「アジャセ、あなたは何も悪いことはしていない。私もビンビサーラも、あなたのことは恨んでいない。あぁ、しっかりしなさい。私を捕えて、牢獄に放り込むのです。それがあなたの仕事です」
イダイケ夫人は、アジャセの顔をまっすぐ見つめてそう言ったのだった。


130.反逆、その5
アジャセは、母親のイダイケ夫人に「自分を捕え地下に幽閉せよ」と言われたが、動くことはできなかった。
「何を迷っているのですか?。さぁ、私を捕え地下の牢獄に幽閉するのです」
今や、剣を納め、肩を落としたアジャセには、母親の命に従う気力さえも失せてしまっていた。彼は、自分が間違ったことをしてしまったと、ようやく気が付いたのだ。
「アジャセ・・・。あなたは間違ったことをしたのではないのよ。国王は、いずれあなたに王位を譲り、この城を出る覚悟でいた。国王が城を出るときは、私も一緒についていく予定でした。そして、二人で出家するつもりだったのよ。それが、たまたま地下の牢獄になっただけ。アジャセ、世尊は偉大なお方です。私たちが地下に幽閉されても、その場所で私たちの出家を許してくれるでしょう。私たちは、どこにいても同じなのです。これよりは、地下の牢獄が私たちの精舎になるだけのことです。さぁ、アジャセ、私を地下へ・・・」
イダイケ夫人の言葉の通りにしてよいものかどうか迷ったアジャセは、宰相を見た。宰相は、ゆっくりと深くうなずいた。宰相のうなずきに、アジャセもうなずき返し、唇を固く結び、目を閉じた。そして、目を開くと
「わかりました母上。では、地下へ参りましょう」
と力強くいったのであった。
「手枷はいいのですか?」
「必要ないでしょう。さぁ、行きましょう」
こうして、アジャセは母親のイダイケ夫人を伴い、地下の牢獄へ向かったのであった。

地下の牢獄では、ビンビサーラ元国王が瞑想をしていた。その姿は、ぼんやりと光り輝いていた。アジャセは、牢獄の鍵を開けると、
「父上、出てください。そして、母上と二人で仏陀世尊のもとへと行ってください」
と言ったのだった。しかし、ビンビサーラはしっかりとした口調で
「それはできない。我らの精舎はここだ。アジャセよ、一度決めたことは、最後まで貫き通せ。それが責任というものだ。お前は、私を幽閉し、国王となった。その責任は重大である。私は間もなく死を迎えるであろうが、私がここで死を迎えることは、アジャセ、お前にとってはよい戒めになるであろう。私がここで亡くなることを、死を安らかに迎え入れることを決して忘れるではない。その意味を一生背負っていれば、お前は間違った道を選ぶことはないであろう」
というと、アジャセに対し優しく微笑んだのであった。アジャセは、生まれて初めて、父親の優しいまなざしを見たのであった。
「父上・・・・私は・・・・」
アジャセは、そこに跪き、涙を流したのであった。
「アジャセ、もう何も言うな。こうなったのも元はと言えば、私が早まった行為をしたからだ。自業自得なのだよ。アジャセよ、お前には、私がしてしまった間違いをして欲しくはないのだ。よいか、私もイダイケも、自ら進んでここへ来たのだ。さぁ、イダイケよ、中にお入り。間もなく世尊が多くの弟子を連れていらっしゃる。私たちは、ここで修行できるのだ」
そう言ったビンビサーラの顔は、喜びで満ち溢れていた。イダイケ夫人も、牢獄の中に入ると、
「さぁ、アジャセ、もう上に戻りなさい。私たちだけにしておくれ」
と優しくいったのであった。ビンビサーラも
「明日は、新国王のお披露目式であろう。そのような情けない顔をしていては、国民が不安に思うぞ。よいか、国民のためにしっかりと国王を務めるのだ」
と言ったのであった。アジャセは、その言葉に一つうなずくと、牢獄の扉を閉め、鍵もかけずにその場を去ったのであった。
その翌日から、アジャセは、両親のために世話役の兵士を付け、毎朝食事を運んだが、その食事が食べられることはなかった。しばらく後、アジャセは瞑想をした状態で亡くなっていた両親の姿を見ることになったのである。このことは、後のアジャセに大きく影響を与えることとなった。

両親を地下の牢獄に幽閉した翌日、アジャセは新国王就任の発表のために、城のバルコニーに立っていた。左右には、宰相を始め、大臣たちが並んでいた。宰相から、ビンビサーラ国王が病気になり、王位をアジャセに譲ったという発表が国民に向かってなされた。アジャセは、国民に対し、ビンビサーラ前国王以上に平和で安全で、活気あるマガダ国を目指すと宣言したのであった。
「なかなか良い演説でしたな。見事です。立派なものだ・・・。あんなことをして国王になったのに・・・」
控えに戻ってきたアジャセ国王に声をかけたのは、ダイバダッタであった。
「なんだ、ダイバダッタ尊者か。あの混雑の中、よく入れたな。で、今日は何の用だ?」
「冷たいお言葉ですな。そういう態度をしていると、国王の座も危ないんじゃないですか?。マガダ国の新国王は、前国王を殺して王座についた・・・。善政で国民から圧倒的な指示を受けていたビンビサーラ王だ。その王が殺されてしまった、それも息子に殺された、さらに王座を奪われた・・・と国民が知ったら、どう思いますかねぇ」
「相変わらず、悪知恵が働くなダイバダッタ尊者よ」
アジャセは、ここでビンビサーラ前国王は生きていて、自分とも和解していることをダイバダッタに言おうかと思ったが、それは黙っていることにした。それは、アジャセが
(ダイバダッタは、父や母のことは気付いていないのだ。あれほどの神通力者であるのに?。あぁ、そうか、世尊か・・・。世尊が地下の牢獄をダイバダッタから隠しているのだ。ということは、父や母が生きていることをダイバダッタに気付かせない方がいいのだな。そうだな、それに気付いたならば、この男は何をするかわからないからな。余計なことは言わない方がいい。ここは、この男の言い分を聞いておくことにしよう・・・)
と、仏陀の意向に気付いたからであった。
「ダイバダッタ尊者よ、精舎のことであろう?。場所は決まったのか?」
「話が早い。そうこなくては、私とあなたの関係は成り立ちませんからね。いい場所があったんですよ。霊鷲山のすぐそばなんですがね、環境も霊鷲山に似ていて、修行がしやすい。一度、見ていただきたいのですが」
「あぁ、そうだなぁ。見に行きたいのはやまやまだが・・・。なにせ、新国王に就任したばかりだ。何かと忙しくてな・・・。そうだ、私の側近の兵士を二人、尊者に従わせよう。その者たちに、その場所を見てもらい、図面を引いてもらおう。それでよいですね?」
「あぁ、結構だ、アジャセ国王」
ダイバダッタは、そういうと、ニヤリと嫌な笑いをしたのだった。そうして、ダイバダッタは、兵士を二人引き連れ、城を後にしたのだった。
「さて、新しいあの場所に、いったい何人の弟子が集まったのだろうか?」
ダイバダッタは、何もかも自分の思うように運んでいると確信し、浮かれていたのだった。

ダイバダッタが選んだ場所は、霊鷲山に近い、名もない小高い丘だった。そこは、うっそうと樹木が茂り、精舎を建てるような場所はなかった。しかし、丘の中央付近に岩場があり、そこから水がわいていた。そのあたりだけは、樹木がなく、草むらになっていた。
「ごらんのとおり、樹木が多すぎる。この樹木を程よく伐採して・・・そうだなぁ、あのあたりに精舎を建ててくれ」
連れてきた兵士にダイバダッタはそう言った。兵士は、ダイバダッタの言葉にうなずくと、紐で指示のあったあたりを測る振りをした。二人の兵士は、実は単なる門番であったのだが、アジャセ国王に「ともかく大きさを測る振りをするのだ」と言われていたのである。樹木の中を計測する振りをしている兵士を見て、ダイバダッタはニヤニヤしていた。
「さぁ、あとは、弟子の到着を待つだけだ。とりあえず、あの湧水が出ている岩場のあたりで、修行をするとするか。ふむ、数十人くらいは修行できそうだな」
しばらくすると、ダイバダッタに従っていた者たちが、その丘に登ってくるのが見えた。
「はっはっは。やっと来たか。さて、どのくらいの者たちを引き連れてきたかな?。50人か?、100人か?。まさか、500人ということはなかろう・・・」
ダイバダッタは、ウキウキしながら弟子の到着を待っていた。しかし、丘の上にやってきたのは、十数名の者たちだったのだ。
「な、なんと!、たったこれだけなのか?。元々いた弟子が6人ほどだから、10人程度が来ただけか・・・・。お、おい、お前ら、こんな程度しか集められなかったのか!」
ダイバダッタは、叫んでいた。その顔は、普段の優しい顔ではなく、悪魔のような形相であった。
「す、すみません・・・。なかなか話しかけるのが難しく・・・。出家したばかりの者たちは、長老や慣れた修行僧が、いつも一緒にいることが多くて・・・」
頭を下げた弟子たちを殴りつけてやろうかと思ったダイバダッタであったが、一緒にやってきた新弟子たちが怯えている様子を見て、怒りを解いたのであった。そして、いつものように優しく微笑むと
「もうよい。世尊ですら、初めての弟子は5人であった。私は、その上を行く十数名の弟子がいる。私の初めての弟子は、汝ら十数名なのだ。これだけでも、私が世尊・・・否、シッダールタよりも上であることがわかるであろう。さぁ、皆の者、私と一緒に修行をしようではないか。来たれ、修行者よ」
ダイバダッタは、仏陀の口調をまねてそう言った。新しくやってきた修行僧たちは、不安げな様子であった。ダイバダッタは、彼らを安心させるため、
「まだ今は、精舎ができてはいないが、これから急いで精舎を建立する。もうすでにアジャセ新国王の側近が精舎建立予定地を測量している。ほら、あそこだ」
ダイバダッタが指さした方には、誰もいなかった。兵士たちは、隙を見てさっさと城へ戻ったのであった。
「あっ、、あぁ、もう測量は終わったのだな。そうりゃそうだな。そんなに時間はかからないであろう。まあ、いい。いずれにせよ、あの場所に大きな精舎ができる。ただし、精舎は、あくまでも休息の場所や布や油の保管庫として使う。私の説く修行は、シッダールタよりも厳しい。戒律も厳しい。しかし、そのほうが悟りに至るのは早いのだ。そうだな、私が提唱する修行法を汝らに説いておこう」
ダイバダッタは、そういうと、新弟子たちを集め、岩場前の草むらに座らせた。そして、仏陀に進言して却下された戒律を新弟子たちに説いたのであった。わけがわからずついてきた新弟子たちは、とりあえずうなずくしかなかった。不安を覚えながらも、「ダイバダッタ尊者に従ったほうが、神通力や悟りが早く得られる」というダイバダッタの使者たちの言葉を信じるしかなかったのであった。
こうして、ダイバダッタの新仏教教団は始動したのである。

その翌日のことであった。霊鷲山では、騒動が起きていた。
「せ、世尊、昨日出家したばかりの弟子たちが、10名ほど見当たりません。いったいどこへ消えてしまったのでしょうか?」
新弟子を指導していた先輩の弟子たちが、仏陀の元へ駆け込んできたのだ。仏陀は
「ほう、10名ほどであったか。さて、このまま放っておいても、その者たちはやがて戻ってくるのだが・・・・。皆の者、あわてることはない。彼らが消えたのは、指導に当たっていた汝らの責任ではない。消えてしまった10名ほどの者は、単にわけがわからず、ある者について行ってしまっただけなのだ。長老たちを見るがよい。誰もあわてた様子はないであろう。それは、その消えた者たちが、やがて戻ってくることを知っているからだ」
と報告に来た修行僧らに言ったが、彼らは申し訳なさそうにしているばかりであった。
「ふむ・・・、その様子だと、汝らは心配で修行に身が入らぬようだな。仕方がない。シャーリープトラ、モッガラーナよ、汝ら、午後から彼らを連れ戻してきなさい。そう、午後からでないと、彼らも托鉢に行っているであろうから」
仏陀は、そういうと、二人の高弟に微笑みかけた。彼らは、
「承知しました」
と一礼したのであった。そして、シャーリープトラは、不安がっている修行僧らに
「君たち、そんなに不安ならば、一緒についてくるかい?。ただし、何も話してはいけないよ。我らの後ろについているだけでいい」
と優しく声をかけたのであった。彼ら修行僧らは、大きくうなずいて
「ぜひ、お供します」
と言ったのであった。
つづく。


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