ばっくなんばー28
130.反逆、その6 その日、ダイバダッタのもとに集った修行僧たちは、その場所から始めて托鉢に出ることになった。 「よいか修行者よ。托鉢で得る食べ物には気を付けるのだ。肉類、魚類、乳製品は受け取ってはならぬ。野菜や穀類のみをいただきなさい。それが悟りへの早道なのだよ」 ダイバダッタは、托鉢に向かう修行僧にそう注意をしたのだった。出家して間もない修行者たちは、彼らをダイバダッタのもとに誘った修行僧たちに従い、街へ托鉢に向かったのだった。 「さて、私もアジャセのもとへと行くか」 ダイバダッタはそういうと、ニヤニヤしながら城へと向かったのだった。 いつものように城の門番に軽く会釈し、宮中へとダイバダッタは入って行った。しかし、国王側近の門番に 「ダイバダッタ尊者様、今日は国王は忙しく時間が取れないとのことです」 と止められてしまった。 「どういうことだ。そんな話は聞いていないぞ!」 ダイバダッタは強い口調で抗議したが、門番は、 「そうおっしゃられても・・・。国王は、前王からの仕事の引継ぎを急ぎ行わないといけないとのことで、今日明日は誰も宮中には入れるな、とのことなのです。ご理解いただきたい」 と頑なにダイバダッタを拒否したのだった。 「そうか、そういうことか・・・。まあいい。今日と明日は無理なのだな。では、明後日に参上する。誰のおかげで国王になれたのか忘れないように・・・と新国王に伝えてくれ」 ダイバダッタは、そう言い残すと、口をへの字に曲げ、門番をにらみながら城を出たのだった。 一方、托鉢にまわった修行者たちは、 「肉類、魚類、乳製品は困ります。野菜や穀類にしてください」 と言いながら家々を托鉢に回っていた。すると、どの家でも 「なんだって?。あんたお釈迦様の弟子じゃないのかい?。お釈迦様のお弟子さんは、そんなわがまま言わないよ。こっちが差し出した食べ物は、そのままもらっていくんだけどね。おかしいねぇ・・・。あんた本物の修行僧かい?。偽物に布施する気はないんだけどね」 と怪しまれていたのだった。 彼らを誘った先輩僧たちは、 「我々はダイバダッタ尊者の弟子なのです。仏陀世尊の修行は緩いので、修行にはならないのです。そこで、我々は、厳しい修行を説くダイバダッタ尊者のもとで修行することにしたのです」 と説明をしたのだった。しかし、ダイバダッタの名を聞いた街の人たちは、余計に不信感を抱いたのだった。 「ダイバダッタ尊者だって?。毎日のように城に出入りしているあのダイバダッタかい?。へぇ〜、あの人は、自分だけ城で贅沢な食事をして、あんたたちには肉や魚、乳製品はダメだっていうのかい?。あんたたち、大丈夫かい?。あんな人について行って」 そう心配する声はあちこちで聞かれた。中には、 「あんたたち、悪いことはいわない。ダイバダッタにはついて行かない方がいいぞ。だいたい、彼は悟りを得ているのか?。お釈迦様を見てごらん。仏陀になられた方は、いつもあのように黄金に輝いている。だけど、ダイバダッタは・・・。むしろ、顔色も悪く、顔つきも・・・なんていうか、ひねくれた感じがするだろ。悟りを得た修行者は、もっと・・・そう、穏やかな顔をしているぞ。お釈迦様のお弟子さんたちでも、高弟と呼ばれる方は、みんなそういう顔をしているじゃないか。気をつけなさいよ、あんたら、ダイバダッタに騙されているんじゃないかい」 と、あからさまにダイバダッタを非難する者もいた。そのため、彼らの托鉢は思うようにいかず、食事はあまり得られなかったのである。 彼れらが新たなる修行場所に戻ると、ダイバダッタが湧水の近くで瞑想をしていた。修行僧の一人がダイバダッタに声をかけた。 「何事か?」 修行僧は、街で聞いたことや托鉢が思うようにいかなかったことを報告した。そして、 「たしかに、ダイバダッタ尊者は、黄金に輝いておりません。尊者は仏陀にはなられていないのではないですか?」 とダイバダッタに詰め寄ったのだった。ダイバダッタは、怒って答えた。 「この愚か者が!。身体を黄金に輝かすのは簡単なことなのだ。そんなことは、身体に黄金の粉を塗れば済むことだ。それよりも、大事なことがあるであろう。見た目に騙されるな。外見に騙されてはいけない。街の人々は、愚かな民だ。そんな者の言葉に惑わされてどうするのか!。汝ら、修行がたらん。よいか、私が宮中へ行くのは、贅沢な食事ができるからではない。この修行場所を立派な精舎にしたいからだ。現に、今日は宮中で食事などしてきていない。国王に話をしに行っただけだ。私も今日は何も食べてはいない。一日程度の断食くらい、何だというのか!。汝ら、修行に対する厳しさが足りないのだ。わかったか?。わかったのならば、今日は、瞑想に励むがよい」 ダイバダッタの勢いに、十数名の修行僧らは黙り込んでしまった。仕方がないので、彼らは瞑想をすることにしたのだった。 ふと気が付くと、ダイバダッタの姿が消えていた。しかし、誰も気にする者はいなかった。ダイバダッタは、よく一人で出かけるので、いつものことだと誰もが思ったのだった。 昼が過ぎようとした頃だった。ダイバダッタが大きな声で修行僧たちに声をかけた。 「どうだ諸君!。私だってこのように黄金に輝いているであろう。これぞ仏陀の証しだ!」 そこに立っていたのは、身体中に金粉を塗りたくったダイバダッタであった。金粉のせいで、確かにダイバダッタは黄金に輝いていた。 「この姿で街に行けば、誰もが私が仏陀であると認めよう。世尊・・・いや、シッダールタだって、このように毎朝金粉を体に塗っているにすぎないのだ。私は、それを街の人々に知らしめてやろう。そうすれば、我々のことを街の人々も認めるであろう」 ダイバダッタはそう叫んだのであったが、修行僧たちは誰もが冷たい視線を向けただけであった。そのうちに金粉を全身に塗ったせいであろうか、また年齢のせいでもあろう、 「ふむ、めまいがする。私はちょっと横になる。おい、そこのもの、私の背をさすってくれ」 と仏陀の真似をして横になったのであった。指名された修行僧は、大きくため息をつき、ダイバダッタの背をさすり始めた。 やや日が傾きかけたころであった。横になっていたダイバダッタは、己の身体に塗った金粉が、醜くまだら模様になっているのを見て考えていた。 (いかん、これではかえって見苦しいだけだ。一度、金粉を落としてしまわねば。しかし・・・身体を光らせる何か良い方法はないのか・・・。身体が黄金色に輝かなければ、街の人々の信用も得られぬ。何としたことか・・・。ふむ、とりあえず、金箔師のところに行って、相談してみるか。いくばくかの金を払えば、何とかしてくれよう。まだ、アジャセからもらった金があったはずだ。よし、善は急げだ。このままでは、せっかくの弟子たちも逃げてしまうからな) ダイバダッタは、立ち上がり湧水で沐浴を始めた。全身の金粉はすべてとれてしまい、しわしわの素肌が現れたのであった。ダイバダッタは、そばにいた弟子に 「私はちょっと出かけてくる。あとを頼む」 と声をかけた。弟子は、 「どこへ行かれるのですか?」 と尋ねてきた。 「天界だ。ちょっと帝釈天に法を説きに行くのだ。ついてくるではないぞ」 ダイバダッタはそういうと、山を下りて行ったのだった。その姿が見えなくなったのを確認して、修行僧たちは口々に不安を言い始めたのであった。 「本当に大丈夫なのだろうか?。あの人は、神通力すら使えないのではないか?」 「このままでは、托鉢すらまともにできず、我らは飢えてしまうのではないのか?」 「こんなところ、出たほうがいいんじゃないのか?。なにせ、金粉だぞ?。身体に金粉を塗って、全身が黄金に輝いている・・・なんてやるかい?」 「きっと、今も帝釈天様のところへ行ったわけじゃない。嘘に違いない。しかし、我々はどうすればいいのか?。今さら世尊の元には帰れないだろ?」 「そうですよねぇ・・・。我々は、世尊を裏切ってダイバダッタ尊者についてきてしまった。今さら、世尊の元には戻るわけにはいかないだろう」 「いっそのこと、このままここで修行を続けるか?。何年かすれば、ダイバダッタ尊者も・・・亡くなるだろう。そうすれば、我々の教団になるのではないか?」 「その前に我らが飢え死にしてしまう」 「そうか・・・・。困ったなぁ・・・・」 彼は、本当に困り切っていた。誰からもいい案は出ることはなく、刻々と時が過ぎて行った。そんな時であった。 「何も困ることはない。戻ればいいのだよ」 と声をかけた者がいたのだった。それは、シャーリープトラであった。 「シャーリープトラ尊者!。それにモッガラーナ尊者も!」 「あぁ、助かった・・・」 シャーリープトラもモッガラーナも、何も言うことはなかった。ダイバダッタについて行った者たちは、二人の高僧の姿を見て、安心しきった顔をしたのだった。 「さて、この山を下りて、霊鷲山に帰ろうではないか。世尊が待っているよ。いや、私たちも、それから彼らも待っているよ」 シャーリープトラとモッガラーナの後ろには、出家したばかりの修行僧を指導するはずであった先輩僧の姿があった。その姿を見て、ダイバダッタについて行った僧たちは、益々世尊の元に戻りたくなったのであった。しかし・・・。 「シャーリープトラ尊者、モッガラーナ尊者。私たちは、戻りたいのです。これは本心です。霊鷲山に戻って、世尊のもとで修行がしたい・・・。ですが・・・、もし、我々が世尊の元に戻ってしまったら・・・・あの方は、世尊に何をするかわかりません。世尊に危険なことが起きてしまうのではないかと・・・」 「我々のせいで、世尊にもしものことがあったら・・・我々は生きていけません」 彼らは悲壮な顔をして、そう訴えたのであった。 「君たちの心配はもっともなことだ。だが、安心しなさい。世尊の横には、神通力第一のモッガラーナ尊者がいるではないか。いや、そもそも世尊は仏陀であるのだ。ダイバダッタごときに何もできはしませんよ。彼は、もはや神通力すら使えないでしょう。アジャセ国王を騙した時は、多少の神通力は使えたのですが、今ではその力は消えてしまっています。修行を怠り、アジャセ国王に取り入ろうとしたのが、いけないのでしょう。世俗に落ちてしまったのですよ。ですから、何も心配することはありません。もし、神通力が使えるのであれば、我々があなたたちを迎えに来たことにも気づくはずです。それに気が付かず、どこかへ出かけてしまっている。おそらく、自分の身体を黄金に輝かせる方法を探しに裏町にでも出かけたのでしょう」 シャーリープトラは、そう言って、優しく微笑んだのであった。 「ダイバダッタは、もはや神通力を使えない」 シャーリープトラの言葉は、ダイバダッタについて行った修行僧たちを安心させた。また、モッガラーナが彼らも、世尊も守ってくれるということにも、安心したのであった。そうして、彼らは、一人残らず、ダイバダッタの元を去ったのであった。 日が沈みかけたころ、ダイバダッタは、山に戻ってきた。 「待たせたな。だが、安心せよ。間もなく、私の身体も黄金に輝くで・・・・。おい、おい、修行僧よ、どこにいる?。森の奥か?。いったいどこへ行ったのだ?」 ダイバダッタは、一人で叫んでいたのであった。 彼は、大慌てで山を下りた。そして、そのあたりで作物の整理をしていた農民を捕まえ、 「おい、この山の修行僧を知らないか?。彼らがどこへ行ったか知らないか?」 と尋ねた。農民は、呑気そうに答えた。 「あぁ、夕方になりかけたころじゃったかのう。あれは・・・シャーリープトラ尊者とモッガラーナ尊者か・・・。何人かの修行僧と山から下りてきたのう。なんじゃ、あんたは置き去りにされたのか?。かわいそうにな。たぶん・・・」 「うるさい!、置き去りされたのではない!。どこへ行ったかもわかっている」 「なんじゃ、そうなのか。なら聞かなきゃいいのにのう。変な人じゃのう」 ダイバダッタは、その農民を突き飛ばすと、 「くっそ〜、やられた!。シッダールタ、見ておれ。このままで済ますか!。お前なんぞ、殺してやる!」 とブツブツつぶやきながら、裏町の方へと駆け出して行ったのであった。 131.最後の計画 「ただいま戻りました」 シャーリープトラとモッガラーナ、そして彼らに同行した修行僧が、ダイバダッタに騙されて連れて行かれた修行者たちを連れて戻ってきた。仏陀は彼らを見て、微笑みながら 「よく戻った。これからは、何事にも迷うことなく、まっすぐに修行に励むがよい。それから、ダイバダッタのことは心配する必要はない。すべては自ずと解決していく。最後には、落ち着くところに落ち着くものだ。あの者は、神通力すらなくしている。何も心配はいらない」 と優しく彼らに言ったのだった。こうして、ダイバダッタの新しい仏教教団は、幕を閉じたのである。その日以来、霊鷲山には、以前の平和が戻ったのだった。 一方、ダイバダッタは、裏町へと走っていた。そして、とある家の前に行きつくと、その家の扉を乱暴に開けたのだった。 「おやおや、どうしたのですか尊者?。忘れ物ですか?」 その家の主がそう言いながら扉の前に荒い息をして立っているダイバダッタに近付いてきた。 「忘れ物・・・ではなさそうですな。何か問題が起きたようだ・・・。ふっふっふ。私にできることなら、お手伝いしますよ」 主は、ニヤニヤしながら、ダイバダッタに手を貸し、「まあ、座りなさい」と床に座らせたのだった。そして、水を一杯渡すと 「何があったのですかな?」 とダイバダッタに問いかけたのだった。 ダイバダッタは、すぐには答えなかった。自分が率いていた教団の弟子たちをすべて仏陀に取り戻されてしまった・・・などとは、とても恥ずかしくて言えなかったのだ。しばらく考え込んだ後、ダイバダッタは口を開いた。 「人を・・・人を確実に殺したいのだが・・・・、何か良い方法はないかね?」 その家の主は、一瞬、表情が固まったが、すぐにニヤニヤしていった。 「これは穏やかではありませんな・・・。ふっふっふ。まあいい。人を殺すにもいろいろ方法がありますが、確実にとなると・・・。相手にもよりますしねぇ・・・。いったい、相手はどなたで?」 「そんなことはいい。相手のことは気にするな。相手は、兵士ではない。否、むしろ無防備だ。武器らしいものは持ってはいない。防具も身に着けてはいない。そういう相手だ」 「ほう、そういう相手ですか。ならば、毒を塗った矢を放てば簡単なことではないですか」 「ふむ、それもそうだ・・・。なんだ、簡単ではないか」 「ダイバダッタさん、どうしたのですか?。いつも悪知恵が働くのに、あなたらしくないですな」 「うるさい。余計なことは詮索するな。そうだ、毒の弓矢を用意してくれ。毒は・・・トリカブトがいい」 「まあ、簡単に用意できますけどね。それよりも矢を撃てるのですか?」 「ふん、こう見えても俺はクシャトリヤ(武家階級)出身だ。矢は得意中の得意だった」 「ほう・・・そうだったのですか。では、用意しますので、しばらくお待ちください。なんでしたら、食事でもされますか?」 「私は出家者だ。夕食は食べない」 「ふん、出家者ねぇ・・・・。夕食は食べないが、人は殺すのですなぁ・・・・」 主は、ブツブツ言いながら、奥へと引っ込んでいった。ダイバダッタは、その後ろ姿を見て、 「お前も余計なことを言うと、殺すぞ」 と小さな声で呟いていた。 霊鷲山から街へとつながる一本道の中間あたりには、霊鷲山の隣の山から見下ろせる場所が一か所だけあった。そこから眺めていると、霊鷲山で修行をしている僧侶たちが、毎朝托鉢に山を下りてくる姿を見ることができる。 ダイバダッタの教団がつぶれた翌日のこと、ダイバダッタは、その場所にいた。 「ふむ、ここからはあいつらが山を下りてくるのがよく見えるな。仏陀はいつ下りてくる・・・。あいつは、光っているからよく目立つからな。おっと、下りてきたぞ。ふん、やはりな。誰も供は連れていない。一人だ。しかし、他の修行僧がウロウロしているな・・・。どうにも邪魔だ。仕方がない、ここでしばらくいい機会を狙うか」 ダイバダッタは、その場所を誰にも見つからないように、草木で覆った。また、自分が潜んでいる時も、誰かに見つからないように、大きめの木や枯草で囲ったのだった。彼は、午前中は普通に修行僧の顔をして托鉢に出た。そして、午後からは、そこにこもったのだった。 3日後のこと、その機会はやってきた。ダイバダッタは、さっさと托鉢を済まし、仏陀たちが霊鷲山を下りてくるのを弓を構えて待っていた。いつでも矢は放てるような状態であった。 「さぁ、来い。シッダールタよ、早く来い・・・。おっと、来たじゃないか。よし、ついている。やつは一人だ」 ダイバダッタは、その一瞬を逃さなかった。トリカブトの毒が塗ってある矢は放たれたのだ。それは、まっすぐに仏陀に向かっていった。が、しかし・・・。 「ぎゃ!」 そう叫んだのは、一羽の鳥だった。仏陀に向かっていったはずの矢は、仏陀に至る前に空を飛んでいた一羽の鳥に当たってしまったのだ。その鳥は、そのまま山に落ちていった。 「くっそ!、なんでだ!。あの鳥は、なんなのだ!。くっそ、邪魔しやがって!。しかし、いいところに鳥が飛んできやがったな。お陰で命拾いしたなシッダールタ。あの鳥に感謝するがいい。くっそ、次は帰りだ。托鉢から帰ってきたところを狙えばいい。まだ、矢は2本残っているからな。くくくくく、よし今度は鳥に邪魔されてもいいように、2本連続で撃ってやる。俺は弓矢は得意だったからな」 ダイバダッタは、仏陀が托鉢から帰るところを狙うことにしたのだった。 ぞろぞろと托鉢を終えた修行僧が、霊鷲山を登り始めていた。 「そろそろだな。おっと、来た来た」 仏陀が山を登ってきた。仏陀の周りには、誰もいなかった。 「今だ!」 ダイバダッタは、矢を連続で2本放った。が、しかし、またしても一本目は鳥に当たってしまった。が、二本目の矢はそのまま飛んで行った。 「あっ、くそ!、おぉ、次の矢が・・・行け!」 しかし、その矢は仏陀まで届くことはなかった。なぜか、急に失速して、山の中に落ちてしまったのだ。 「なぜだ!、有り得ん!。この距離を矢が飛ばないわけがない!。なぜ落ちた?。しかも、急にだ!。有り得ん、こんなことは有り得ない!。くっそ〜、神通力か?。シッダールタが神通力を使ったのか?。しかし、後姿だぞ。矢が飛んでくるなんて気付いていないだろう。おかしい。偶然にしてもできすぎている。2回も鳥に邪魔されたし、最後は矢が失速して落ちた・・・。お、俺は弓矢の名手だった。カピラバストゥにいたころは、あのシッダールタよりも弓矢の腕は上だった。国一の腕前だった。それなのに・・・。おかしい。あの勢いだ。失速するはずがない。ここから、あいつらが通る道くらいまでならば、軽々と飛ぶはずだ。くっそ・・・どういうことだ・・・・。まさか・・・守られている?。神々にか?。仏陀だからか?。そんなことは・・・・そんなことは、認めないぞ。そんなことは、何があってもこの私は認めない!。くっそ〜、弓矢はダメだ。もっと確実な方法がいい。何かいい手は・・・・」 ダイバダッタは、爪を噛みながらその周辺をウロウロ歩いていた。 「そうだ!」 ダイバダッタは、ふと顔をあげ、爪を噛むのをやめた。 「これはいけるんじゃないか。よし、計画を練ってみよう」 彼は、その場で結跏趺坐すると、眼を閉じ、じっくり考え始めたのだった。 翌日の夕暮れのこと。ダイバダッタは、裏町のあの一軒の家に来ていた。 「この間の弓矢は、役に立たなかったのですか?」 「あんな飛ばない弓矢はいらぬ。あれでは、鳥すら落とせない」 「そうですかぁ?。おかしいなぁ・・・。弦の張り具合もよかったはずですがねぇ・・・。まあ、お役にたてなかったのなら、申し訳ないですな。しかし、あれ以上の弓矢は、うちにはないですよ。よそを当たっていただきませんとね」 「そんなことじゃない。今日やってきたのは、付け爪が欲しいのだ」 「付け爪?、ですかい?」 「そうだ。庶民がケンカや格闘などで使う、付け爪があるだろう?。あれが欲しいのだ」 「あぁ、あれですかい。ありますよ。金属製がよろしいんですよね。ダイバダッタさん、ケンカでもするつもりですかい?」 「余計なことは言うな。ふむ、これだ。どうやってつけるのだ?。ほう、指にはめ込めばいいのだな」 ダイバダッタは、金属でできた付け爪を自分の手にはめ、眺めていた。 「おい、この爪の先に毒を塗ったらどうなる?」 「毒ですかい?。そりゃまあ、前回のトリカブトの毒を塗ったこの爪で引っかかれたりしたなら、その者は即死ですな。助かることはありません。しかし、この爪に毒を塗るのは難儀ですよ。先に毒を塗ったりしたら、自分が死ぬことにもなりかねない。うっかりその毒の爪で引っかいたりしたらイチコロだ」 「ふむ、それほど効くのだな・・・。ならば、どうやって毒を塗ればいいのだ」 「そうですねぇ。桶にトリカブトの毒を入れておいて、先に付け爪を手にはめておくんでさ。そして、その桶の中に、付け爪の先だけ浸す。付け爪は十分に長さがあるから、指まで毒は伝わってこない。で、あとは、毒が乾けば大丈夫ですよ。ただし、毒が乾くまでは、指を動かさないようにしてくださいね」 「なるほど。よし、では、全部まとめてもらっていこう。そうだ、桶と毒の液体もだ」 ダイバダッタは、その主に数枚の金貨を渡した。主は「毎度どうも」とニヤニヤしたのだった。 翌日の早朝。ダイバダッタは、霊鷲山の一本道を歩いていた。 「ふむ、ここなら上からシッダールタに襲い掛かることができる。上のあの石影に潜んでいればいいのだ。そして、ヤツが通りかかったら、上からヤツに飛び掛かる。爪でさっとヤツの首をひっかいて、すぐに付け爪を取る。ここが肝心だな。昨夜何度も練習したから大丈夫だろう。そのあとは、道の向こう側の森へと駆け込めば、俺は捕まることはない。ふむ、完璧だ!。見てろ、シッダールタめ。お前の命も今日でおしまいだ」 ダイバダッタは、薄ら笑いを浮かべると、その場所を見下ろすことができる石によじ登ったのだった。 石の上に這いつくばって、ダイバダッタは、仏陀がやってくるのを待った。 「このところ、あいつは一人で托鉢に出ている。きょうも一人で来るだろう。ふっふっふ。この爪でお前の喉を思いっきりひっかいてやる。苦しんで死ぬがいい。俺をないがしろにし、恥をかかせた罰だ。俺を苦しめた罰だ。その罰を受けるがいいのだ。おっ、来た。シッダールタだ!」 ダイバダッタは、すぐにでも上から仏陀に飛び掛かることができるよう、身構えたのだった。 132.自滅 ダイバダッタは、石の上から様子をうかがっていた。 (まだだ。まだ早い。シッダールタがこの下を通り過ぎた瞬間を狙うのだ。後ろから羽交い絞めにし、喉を毒のついたこの鉄の爪でひっかく。これであいつも死ぬのだ。ふふふふ。そうすれば、俺様の天下だ・・・・) ダイバダッタは、飛び掛かる機会を待った。仏陀が、次第に石の下に近付いてくる。仏陀は、何も気が付かず、ただ前を向いて歩いていた。その歩調は安定して、乱れることはなかった。やがて、仏陀は、ダイバダッタが身構えていた石の下を通り過ぎた。 「よし、今だ!」 ダイバダッタは、勢いをつけて仏陀の背中めがけて石の上から飛び降りた。が、しかし、ダイバダッタが、仏陀を羽交い絞めにすることはなかった。 「あっ!」 なんと、ダイバダッタの袈裟が、石の横にはえていた木の枝に引っかかってしまったのだ。そのため、ダイバダッタは、妙な恰好で宙ぶらりんになってしまったのだ。 「ちくしょう!。なんてことだ。早くしないと、シッダールタが・・・」 ダイバダッタは、枝にぶら下がった状態で、必死に枝にひっかかった袈裟を引っ張った。 「おっと、爪で自分をひっかかないように気を付けないと・・・・。え〜い、くそっ!」 思いっきり袈裟を引っ張ると、袈裟は「ツー」という音をたてて裂けていった。 「あっ!」 袈裟が裂けたせいで、ダイバダッタは地面に落ちてしまった。その瞬間、なんと、ダイバダッタの爪は、自身の喉を突き刺していたのだった。 「うわっ!、しまった!」 叫んだ時は遅かった。喉からは鮮血があふれ出てきた。爪の先に塗った猛毒がダイバダッタの身体に巡っていった。 「けふっ、けふっ」 ダイバダッタは、口から血を吐き、道の向こうの森の斜面を、「ぐおー」という恐ろしげな叫び声を発しながら、転がって行ったのだった。 「いったい何事か?」 「怖ろしい叫び声が聞こえたが・・・・」 ダイバダッタの叫び声を聞いて、まだ托鉢に出かけていなかった修行僧たちが道を駆け下りてきた。 「あそこです。誰か人が転がっていきます」 一人の修行僧が、森の斜面を転がっていくダイバダッタを見つけた。 「あっ、あれは・・・ダイバダッタではないか。いったいどういうことなのだ?」 すると、地面が揺れ始めた。 「じ、地震です。立っていると危険です。座ったほうが・・・」 若い修行僧がそう叫んだ。 「大丈夫だ。この地震は、悪が滅ぶ地震である。悪行をしていない者は、怖れることはない」 そう言ったのは、仏陀であった。 「観なさい」 仏陀は、森の斜面の下の方を指さした。そこには、大きな裂け目ができていた。地面が割れていたのである。そこに向かって、ダイバダッタは、転がって行った。毒のついた爪で自分の胸をかきむしりながら・・・・。 「おのれ、シッダールタ!。呪ってやるぅぅぅ」 最後の力を振り絞って、ダイバダッタは、そう叫びながら大きな裂け目に落ちていったのだった。 その日、多くの弟子たちが托鉢に出かけることはなかった。仏陀自身も、托鉢に行く道を引き返していたのだった。やがて、托鉢に出ていた修行僧も戻り、弟子たちは全員がそろった。 「皆のものに話がある。ほんの先ほどのことだ。ダイバダッタが、この山の斜面の森を転がり落ち、その下にあった穴に堕ちていった。それを見ていた者もたくさんいる」 仏陀の言葉に、托鉢に出ていてダイバダッタの事件を知らなかった者たちがざわざわとした。しかし、それもやがて静かになっていった。 「ダイバダッタは、私の命を狙っていた。私を亡き者にし、私に取って代わろうとしていた。悟りも得ていないものが、仏陀の座に就こうとしたのだ。しかし、彼は失敗した。彼は、毒を塗った鉄の爪を指にはめ、私を背後から襲おうとした。街へ降りる山道の途中に、大きな石がある場所がある。その上から、私に飛び掛かろうとしたのだ。しかし、飛び掛かった瞬間、彼は袈裟を木の枝に引っ掛けてしまった。彼はもがき、袈裟を引っ張った。そのため、袈裟は裂け、彼は地面に落ちてしまった。その時に、彼は毒の爪を自らの喉に刺してしまったのだ。私の喉を掻き切るはずであった毒の爪は、自分の喉に刺さってしまったのだ。 その苦しみから、彼はのた打ち回り、森の斜面を転がっていた。そして、その時に起きた地震によってできた地面の裂け目に落ちていったのだ。 ダイバダッタが私の命を狙ったのは、何もこの世ののことだけではない。前世において・・・いや、はるか昔より、彼は私の命を狙っていた。私が猿の王であった時、私が鹿の王であった時、私が貿易船の船長であった時、私が小さな島国の王であった時・・・ことあるごとに、彼は私の命を狙って、私の立場を奪おうとした。しかし、それもこれが最後である。今回と同じように、彼の計画は悉く失敗し、彼はいつの世も自滅していった。何度生まれ変わっても、彼は彼の計画が成就することはなかったのだ。いつも、いつの世も、彼は彼自身の命を失うという、自滅の道を歩んできたのだ。 しかし、それももう終わりである。私は今世において仏陀となった。一切の生命の頂点である仏陀・・・如来・・・と、彼の差は、大きく開いてしまった。地獄の底から何を叫ぼうと、どう呪おうと、それはどうしようもないことである。 私は、いつの世も何度も彼に教えを説いてきた。いついかなる時も、大切なことは己自身を磨くことであり、相手の命を奪ってその立場を手に入れても仕方がないのだ、ということを何度も説いてきた。国王の立場、集団の頭目の立場、上に立つものの立場を手に入れたいのであれば、その立場に立つのに相応しい人間になることが大切なのだ、そのために努力することが大切なのだ、と何度も何度も説いてきた。 しかし、いつの世もその言葉は彼には届かなかった。私は、いつの世も私の修行が足りない、自分自身の力量不足を痛感し、次の世こそは悟りを得て彼を導こうと誓ったのだ。 そして、今世において私は悟りを得、ついに仏陀となることができた。仏陀は、すべてを知る存在である。その時にわかったのだ。ダイバダッタには、私の言葉は届かない、ということが。だからこそ、私は彼が出家することを拒んだのである。彼に罪を犯させないためには、彼を私から遠ざけることが唯一の方法だったのだ。 しかし、彼は出家してしまった。アーナンダよ、彼の出家は、ヒマラヤ山中にいた弟子より許可を受けたのであろう?」 そう仏陀に尋ねられたアーナンダは 「はい、その通りです」 と答えた。 「その修行僧は、言ったはずだ。『このままこの場所に留まるならば出家を許す』と。アーナンダよ、ダイバダッタは、そう約束したはずだ」 「はい、約束いたしました」 「しかし、その修行僧は、不慮の事故で命を落とす。不慮の事故となっているが、ダイバダッタが仕組んだことだ。そして、アーナンダとダイバダッタは、ヒマラヤ山を下り、我々に合流してしまった。あの時、山を下りずにそのまま修行をしていれば、悟りを得られたのだが・・・・。すべては欲の間違いから起きたことなのだ」 そういうと、仏陀は遥か遠くを眺めたのだった。 「遥か昔のこと。私がその時の仏陀のもとで修行をしていたころのことだ。私は、その時が初めての出家であった。私には仲のいい幼馴染がいた。彼は、とても聡明で、よく私と悟りについて話し合ったものだ。勉学においても、運動においても、何においても彼の方が優秀であった。彼の将来は、明るいものであった。しかし、彼は、私が出家したことを知ると、「私も俗世よりも悟りを求める生活のほうがよい」と言い、出家したのだった。私たち二人は、仏陀のもとで一生懸命修行に励んだ。やがて、私は最も浅い段階の悟りを得た。そして、神通力も使えるようになった。何もかもが私より秀でていた彼は、彼よりも早くに悟りを得た私を許せなかった。すべては、それが始まりなのだ。 彼は、私に対する嫉妬から修行に身が入らず、どんどん荒れていった。心配した私は彼に話をしに行った。すると彼は、「お前なんかに説教されるくらいなら死を選ぶ」と言って、自らの喉に剣を刺し、自殺をしたのだった。「これより先、何度生まれ変わってもお前が仏陀になることを邪魔してやる」という呪いの言葉を残して・・・。 一人の修行僧の心がわからず、私なら何とかなると自惚れ、すさんだ心の友に説教した私の罪は残った。一人の修行僧に呪詛の言葉を吐かせ、自殺に追い込んだのは私である。この罪は、その時の修行では消えなかったのだ。仏陀になるためには、この罪を消さねばならなかった。そのために、私は何度も生まれ変わり、彼に命を狙われることとなったのである。 それも、今回で最後である。本来ならば、私は仏陀になったのであるから、私の罪は消えている。それでも命を狙われたのは、それはダイバダッタが勝手に行っていただけのことである。だからこそ、ダイバダッタが私の命を狙っても、ことごとく失敗に終わり、私は何も知らないで・・・もちろん神通力で知ってはいたが・・・通っていくことができたのだ。いわば、ダイバダッタの独り相撲で終わっていたのである。私には、何の危険もなかった。もうすでに、私の罪は、前世において消えていたのである。引きずっていたのは、ダイバダッタだけであった」 仏陀は、そこまで話すと、ほんの少し悲しそうな顔をしたのだった。そして、大きく息を吸い、呼吸を整えると、再び話し始めたのだった。 「よいか修行僧よ。道を誤ってはならない。修行は各個人のものだ。誰が早く悟りを得たか、などということは関係ない。悟りを得ていなくても、人望のある者もいる。悟りを得ていなくても、悟った者に対して嫉妬してはならない。自分と他を比較して、自分を卑下してはいけない。また、他人を批判してもいけない。他と比較することなく、自分は自分の修行の道を歩めばよい。他の者と合わせる必要もないし、悟りを得るのに早い遅いなどという違いはないのだ。周りの者が悟ったからといって焦る必要はないのだ。自分は自分である。己をしっかり見つめるだけでよいのだ。他と比較してはならぬ。他と比較し、劣等感を感じたり、嫉妬の炎を燃やせば、それは修行の道を誤ることとなるであろう。 悟った者よ。汝らも、決して自惚れることなく、さらなる修行に励むことだ。汝らの悟りは、悟りの中でもまだまだ浅いものである。もっと深い悟りを目指して、修行に励むように。仏陀への道は、長いものなのだから・・・。 さぁ、修行僧よ、汝らの目標に向かって、一人一人修行に励むがよい。決して、自滅の道を進まぬよう、道を誤らないよう、心して修行に励むがよい」 仏陀は、力強くそう言ったのだった。 こうして、ダイバダッタの恐ろしい計画は、ダイバダッタの自滅という形で幕を閉じたのだった。 133.終わりの始まり ダイバダッタの一件は、すぐに落ち着いた。修行者は、誰も・・・僧侶も尼僧も・・・ダイバダッタのことに関しては何も言わなかった。噂すらする者はいなかったのだ。皆、ひたすら修行に励んでいた。教団は、平和であった。そんな平和な状態が数年過ぎていった。その間、仏陀たちは、祇園精舎のあるコーサラ国と竹林精舎や霊鷲山のあるマガダ国を何度も往復していたのだった。 霊鷲山に滞在していたある年のある日のこと、 「祇園精舎へ移動しよう」 仏陀は修行僧全員にそう告げた。 「マガダ国も平和になった。アジャセ新国王も、今ではすっかり国王らしくなり、ビンビサーラ前王をしのぐほどの善政を敷いている。人々は、平穏に暮らしている。私の教えも深く浸透している。このまま、この平穏さに甘んじてはいけない。私は祇園精舎へ移ることにする。出発は、明日の早朝である。私についてくる者はその準備をしなさい。この平穏さが修行に必要である、という修行者・・・まだ悟りを得ていない修行者・・・は、ここに残るがよい。その指導にあたる長老も選別せよ。シャーリープトラ、すべては汝に任せた」 仏陀はそういうと、あとをシャーリープトラに託し、森の中の仏陀がいつも瞑想するのための場所へと移動した。 すべてを任されたシャーリープトラは、他の長老とともに、竹林精舎に残る者、霊鷲山に残る者、祇園精舎へ移動する者を振り分けた。それぞれの指導にあたる長老も振りわけた。最後にシャーリープトラは、 「世尊は、最近よく背が痛む、とおっしゃる。今度の旅は、ゆっくりと進んだほうがよいと思います」 と他の長老に提案した。他の長老もそれには深くうなずいた。 「世尊は・・・まだ、そのような年齢ではないが・・・このところよくお一人で瞑想をされている。また、法話の最中も、よくシャーリープトラ尊者に交代をされる。体力、気力ともに衰え始められているようだ」 マハーカッサパも、仏陀の衰えを認めたのだった。 「おそらくは・・・この先のことを憂いておられるのではないか・・・」 モッガラーナがそうつぶやいた。 「おぉ、神通力第一のモッガラーナ尊者には、先のことがわかっておられるのか?」 他の長老がそういうと、モッガラーナは 「世尊がどこまで見据えられているかは計りかねますが・・・・、この状況で祇園精舎へ移られるというのは・・・」 「モッガラーナ尊者、あまり深く先を見ない方がいい。先は、なるようにしかならないし、避けられないこともある。それは尊者もわかっていることでしょう」 シャーリープトラが、モッガラーナをやんわりと諌めた。モッガラーナは 「あぁ、わかっているよ。そうだな、これ以上は・・・私にも読めぬことだしな・・・」 と言い、眼を閉じたのであった。 「さて、では明日の予定はよろしいですかな?。竹林精舎や霊鷲山に残られる長老の皆さんは、どうぞよろしくお願いいたします」 シャーリープトラがそういうと、残る組の長老たちも 「世尊をくれぐれもお守りください」 と頼んだのであった。 仏陀の衰えは、長老たちの誰もが認めることだった。しかし、体力的に旅が無理な年齢ではなかった。仏陀に付き添っているアーナンダも、年齢は仏陀とほぼ変わらないが、いつもまめに動いている。仏陀の衰えは、気力の減退によることの方が大きかったのであろう。 しかし、元々身体は丈夫なほうではなかった。よく腹痛を起こし、前回の祇園精舎滞在時の時などは、主治医であるジャーヴァカが呼ばれることも多々あった。 また、このところ法話の途中で 「少し休みたい。背が痛む・・・」 と言って、法話をシャーリープトラに変わることが増えたのも事実であった。こうしたことから、今回の旅は、ゆっくり進めたほうがよいと長老たちは打ち合わせたのであった。 しかし・・・。 「急ぐ必要はないが、ゆっくり進める必要もない。いつものように歩みを進める。汝ら怠ることなかれ」 と仏陀は皆に告げ、いつもと変わらぬように歩き続けたのであった。旅に出た仏陀は、衰えた様子もなく、疲れた様子も見せず、いつものように歩みを進めたのである。否、むしろ、今回の旅は、先を急いでいるようにも感じられた。 そのためか、仏陀たちは、途中で止まることなく、祇園精舎へと入ったのであった。 コーサラ国もマガダ国に負けず劣らず平和であった。特に変わった様子もなく人々は平穏に暮らしていた。しかし、今まさに、不穏な動きがコーサラ国でも起き始めていたのである。 コーサラ国のプラセーナジット王には、三人の妃がいた。第一王妃にはジェータという息子がいた。第二王妃にはヴィドーダバという息子がいた。第三王妃はマッリカーで、子供はいなかった。第一王妃は、他国の王女から嫁いでいた。第二王妃は、カピラバストゥ、つまりは釈迦族の大臣の娘だった。が、これには裏があったのだ。 プラセーナジット王は、かねてより文武に優れ、弱小国とはいえ頭のよかった釈迦族から王妃を望んでいた。しかし、釈迦族は大変プライドの高い民族であった。いわゆる高慢だったのだ。いくら大国の王とはいっても、大食漢で乱暴なプラセーナジット王をバカにしていたのだ。 ある日のこと、釈迦族に対し、正式に第二王妃となる女性をよこすようにコーサラ国から依頼があった。釈迦族の大臣たちは大いにあわてた。 「あんな食うことしか知らぬ乱暴者に釈迦族の血を渡すことは断固として反対だ!」 「釈迦族は優秀な民族である。頭の悪いコーサラの王族にその血を分けることはなかろう」 「しかし、王妃になる女性を差し出すことを拒否するわけにはいかぬであろう?」 「だからと言って、釈迦族の女性を、『はい、そうですか』と差し出すのも・・・・」 「ふむ、困ったことだ。シュッドーダナ王は、どう考えておられるのか?」 「大臣たちの会合で決めよと・・・。はぁ・・・いっそのこと、仏陀様に相談しようか。仏陀世尊は我が釈迦族のご出身だ。仏陀から、プラセーナジット王に断ってもらうというのはどうだ?」 「それは無理であろう。仏陀は、世俗のことにはかかわらないという。しかも、釈迦族を出た身だ。今さら、釈迦族のためにプラセーナジット王にとりなしてくれるとは思えないんだが・・・・」 「そりゃ、そうだな・・・。うぅん、ここは我々がしっかりせねば・・・」 「そういうことだな。そこでだ、私にいい考えがあるのだが・・・」 そう言ったのは、大臣の一人マハーナーマであった。 「私の娘の一人にバーサバカティヤーがいることは、皆も知っているな?」 「あぁ、あの美しい娘かね?。しかし、その娘は美人で魅力的だが・・・」 「あぁ、そうだ。あの娘は、私が・・・・まあ、言いにくいのだが、みんな知っていることだしな・・・そう、下女、奴隷女に生ませた子だ。その・・・下女があまりにも美しく魅力的だったから、ついつい手を出してしまったのだ。で、その女が産んだのがバーサバカティヤーだ。母親に似て美しく、魅力的な娘になった」 「で、その娘をどうするのかね?。まさか・・・・」 「そう、そのまさか、だ。あれでも私の血を半分受け継いでいる。王族の一員である私の血をな」 「しかし、マハーナーマ大臣、あなたは彼女を下女として扱っているではないか」 「嫁がうるさいんでな。まあ、母親は下女だからな。当然のことながら、身分は下女だ。奴隷階級の女になる」 「そんな女性を・・・大丈夫なのか?。バレやしないか?」 「そのために一芝居打てばいいのだ。バーサバカティヤーを美しく飾り立て、我々と一緒に食事会をすればいいのだ。コーサラ国の使者も交えてな。なに、コーサラ国の連中は、そろいもそろってバカな連中だ。まあ、武力だけでここまで大きくなった部族だからな。バーサバカティヤーが下女の身分などとは見抜けないだろう」 「おいおい、マハーナーマよ、我々と下女の身分のものと食事を一緒にしろというのか?」 「ほんの一時のことだ。なにも同じ器から食事をするわけではない。それに、座る場所は分ければいい。私とバーサバカティヤーが並び、その左右に向かい合って釈迦族の大臣、コーサラ国の使者と座ればいいだろう。そうすれば、あなたたちは、下女であるバーサバカティヤーと同席することはないのだ。そうだ、あなたたちは、私の側に座ればいいだろうしな。バーサバカティヤー側には、コーサラの使者を座らせればいい」 「ふむ、そういうことならば、奴隷の匂いもしないしな。まあ、一時の辛抱だ。釈迦族のために耐え忍ぶか」 「そうしてくれ。それしか、いい方法はないだろ。あの頭の悪いコーサラの者に、釈迦族の優秀な血を分け与えるのは、どうしても許せないからな」 こうして、コーサラ国の申し出に、応えることになったのである。 バーサバカティヤーは、奴隷の身分であったが、マハーナーマの計略により、マハーナーマの娘として・・・つまりは釈迦族の女性としてプラセーナジット王に嫁いだのであった。この計略に気付いたものは、誰一人としていなかった。マハーナーマを始め、釈迦族の大臣たちは、静かに胸をなでおろしたのであった。 間もなくしてバーサバカティヤーは、男の子生んだ。その子はヴィドーダバと名付けられたが、瑠璃のように美しい目をしていたので、通称ルリ王子、と呼ばれるようになった。 ルリ王子は健やかに育った。腹違いの兄のジェータは大人しい性格であったが、ルリ王子は活発であった。自ら進んで剣や弓を持ち、訓練を望んだり、早くから馬に乗ることを望んだ。しかし、プラセーナジット王はルリ王子に勉学を勧めた。 「ヴィドーダバよ、武に長けなければいけないのは当然であるが、これからは知力も大事だ。お前も、もう15歳になる。どうだ?、学問が優秀な釈迦族の学校へ通わないか?」 「母上の故郷ですね。そういえば、母は、故郷の話を一切私にはしません。釈迦族は、このコーサラに比べれば取るに足らない民族だと、いつも言っています」 「はっはっは、それはな、謙遜しているのだよ。コーサラ国は大国だ。商業も盛んだし、なんでも最先端を行っている。それに比べれば、カピラバストゥは、小さな城だ。だから恥ずかしいんだろ。しかしな、釈迦族はあの仏陀を生んだ民族だ。なかなか侮れん。世尊も、幼少時の教育がよかったから仏陀になられたのかもしれん。だから、お前もカピラバストゥで学んではどうだ?」 「はぁ・・・、仏陀・・・ですか。祇園精舎に行くのは、父上と第三王妃さんくらいじゃないですか。あぁ、兄のジェータも時々通っているようですが・・・・」 「お前もバーサバカティヤーも、わしが世尊を信じていることを嫌っているようだが、世尊の話はいいぞ。お前も一度聞いたほうがいい」 「そうですねぇ、まあ、それはまたの機会にします。釈迦族への留学は考えておきます」 ヴィドーダバは、そうは言ったが、母親の故郷であるカピラバストゥには興味が大いにあった。これを機会に、母親の故郷を見てくるのもいいかもしれない、と思ったのだ。また、会ったことのない母親の父、祖父とも会えるのではないないかと、ひそかに期待したのだ。祖父に会ってみたいと母親に言うと、いつも母親は 「おじい様は身体が弱いので、養生しているから・・・」 と言われていたのだ。ならば、見舞いに行くのもいいかもしれない・・・。ヴィドーダバは、そう考えていた。 彼は、父プラセーナジット王から、釈迦族への留学の話があったと母親に伝えると 「なんですって!。それは・・・・それはいけません。父上に反対を申し上げてきます」 と慌てて王のもとへとかけていった。その様子を見て、 「やはりどうも変だ、母は何かを隠している・・・・。ふむ、釈迦族へ留学して確かめてみるか・・・」 ヴィドーダバは、釈迦族と母との間に何かあるのではないかと疑い始めたのだった。 それからしばらくした日のこと、ヴィドーダバは、釈迦族の城、カピラバストゥに向かって、家来や侍女を引き連れてコーサラ国を後にしたのだった。その留学が、釈迦族、コーサラ国双方に災いをもたらすことになるとは、その時には誰ひとり・・・仏陀を除いては・・・気がついてはいなかったのであった。 134.終わりの始まり2 「困ったことになった」 マハーナーマは、他の大臣たちを集めた席でそういった。 「何があったのだ、マハーナーマ」 「実は、コーサラ国王に嫁がせたあの下女が生んだ子が、このカピラバストゥに勉学のために留学してくることになった」 「な、なんだと。う〜ん、それは困ったな・・・。確か、その子は・・・・」 「ヴィドーダバだ。一応、王子だ」 「ふん、奴隷の子なのにな・・・。そんな者が、この国のクシャトリヤの子供たちが学ぶ場に来るというのか?」 「そういうことだ。困ったことになった。我々クシャトリヤの子供たちと、たとえコーサラ国の王子といえども奴隷の子供と同席させるのは・・・・納得ができん」 「あぁ、そんなことになったら我慢ならんな・・・。しかし・・・」 「そうなのだ。もし断ったりすれば・・・最悪、戦争だ」 「そ、それは、まずい。戦争になれば、我が国なんぞ、簡単に滅ぼされてしまう」 「そうなのだ・・・・。だから、困っているのだ。だから、どうすればいいのか、皆さんの意見を聞きたくて、こうして集まってもらったのだ」 「マハーナーマ、あんたが責任を取ると言っていたではないか。それをいまさら・・・」 「そんなことを言っている場合ではない。どうするのか早く決めないと・・・」 「この国の者は、コーサラに嫁いだあの女が、奴隷階級の女だということを知っているのだぞ。そのことは、女子供に至るまで、みんな知っていることだ。それを今さら、どうしろというのだ。留学するも何も、その奴隷の子がこの国に入った途端、誰もがその子をクシャトリヤとして扱うことはない。あっという間に、その子は、自分の出生の秘密に気付いてしまうだろう。そうなれば、戦争は避けられないぞ」 「その奴隷の子は、いつ来るというのだ?」 「早ければ、数日中には・・・」 大臣たちは、マハーナーマの言葉に、大きくため息をついて頭を抱えたのであった。 「話を整理しよう」 一人の大臣が、沈黙を破り話し始めた。 「その奴隷の子は、確実に我が国に留学にやって来る。それも数日中だ。これを拒めば戦争になる。となれば、拒むという選択はない」 その大臣の言葉に、皆がうなずいた。 「となると、その奴隷の子を受け入れるしかない。そこで問題となるのは、その奴隷の子本人に、『お前は奴隷の子だ』とバレてしまうことだ。もし、バレてしまったら、きっとその子は、親である国王に訴えるであろう」 「そ、それはまずいな。プラセーナジット王は、短気で有名だ。釈迦族のクシャトリヤの娘と思って結婚した女が実は奴隷階級の娘だったとわかったら・・・・やっぱり戦争だ」 「そういうことだな。つまり、そうならないためには、その奴隷の子に『お前は奴隷の子だ』とバないように注意することだ。方法はそれしかない。なに、留学と言っても、何年もいるわけではないだろう。長くて1年。早ければ数か月のことだろう。うまく言いくるめて、早めにコーサラに返せばいいのだ」 「ふむ、その方法しかないようだな。それには、子供たちをちゃんと言いくるめておかねば・・・・」 「いや、この国の住民すべてにだ。すべてにコーサラの王子の出生の秘密には触れるな、彼をクシャトリヤとして扱え、と命じておかねば・・・・」 大臣たちは、その言葉に大きくうなずいたのであった。 こうして、大臣たちは、ヴィドーダバの留学を受け入れる算段を決めたのだった。彼らは、さっそく、自分たちの子や孫が通う学校に出向き、事の次第を詳細に話し、決してコーサラ国の王子ヴィドーダバが奴隷の子であると気付かせてはならないように振る舞え、と命じたのであった。さらには、国中に「コーサラ国のヴィドーダバ王子が留学に来る。決して彼の者の出生の秘密を明かしてはならぬ。彼をクシャトリヤとして扱え」というお触れを出したのであった。 しかし、国の住民や子供のことである。いつ何時、真実を不用意にしゃべってしまうかもしれない。そこで、各所に兵士を配置したのだった。コーサラ国には、王子の警備のため、と言っておいた。 数日後のことである。コーサラ国の第二王子ヴィドーダバが、護衛の兵士や侍女を引き連れ、カピラバストゥに入った。彼らは、すぐに宮殿に入り、プラセーナジット国王の親書を国王代理の大臣に渡した。 「これはこれは、ようこそカピラバストゥへ。コーサラ国のような大国の王子様が、このような小さな国にわざわざ勉学のために留学されるとは・・・。私どもは大変光栄ですが、驚いてもおります。なにせ、学問でしたら・・・いや、武芸においても・・・コーサラ国に勝る国などないですから。こんな田舎の小国の学問など、コーサラ国に比べたら、とるに足らないものですよ。がっかりされなければよいのですが・・・」 大臣の言葉に、ヴィドーダバ王子は、無表情で答えた。 「ふん、謙遜などしなくてよい。昔から、カピラバストゥは、高度な勉学をすることで有名だ。なかなか他の国の者には教えない学問もあるとか・・・。なにせ、あの仏陀世尊の出身国ではないか。さぞや、勉学に力を入れているのであろう。私は、それをゆっくり学ぶことにしたのだ。よろしく頼む」 ヴィドーダバ王子の横柄な態度に、内心ムカムカしていた大臣であったが、そんな様子は決して表には出さず、 「いえいえ、もったいない言葉です。どこでも学べますような内容の学問ですが、王子様のお気のすむまで、御滞在ください。では、さっそく、宿舎の方へご案内します。王子様のために特別にご用意させていただきました」 大臣は、宮殿の外へと王子たちを案内した。 「待て待て、宮殿内ではないのか?」 「あっ、はい、王子様の身の安全のために、特別に宿舎を用意いたしたのです。そこは、学校にも近いですし、また静かで落ち着いた場所ですから。それに、宮殿内よりも警備しやすいであろうと思いまして・・・・」 王子とともに来た兵隊長の質問に、大臣は焦りながらも答えることができた。 「ここです」 大臣が案内した宿舎は、宮殿の裏手にある古くはあったが、大きく広い建物であった。 「ふむ、なるほど・・・。まあ、確かに宮殿内よりも、我々にとっては警備はしやすいな。中も広いし。お前ら釈迦族の干渉も受けなくても済む。いい場所だ。王子様、ここなら、我々も警備しやすいです」 兵隊長の言葉に、ヴィドーダバ王子は、うなずいた。 「まあ、古いが、掃除も行き届いているし、よかろう。兵隊長、後は任せた。私は早速、学校へ向かうとしよう」 こうして、ヴィドーダバ王子たち一行は、宮殿の裏手にある宿舎に落ち着いたのであった。 (ふっふっふ、うまくいったわい。まさか、奴隷の子を宮殿で寝泊まりさせるわけにはいかないからな。よかったよ、ここを取り壊さず残しておいて。ふん、奴隷の子には贅沢な建物よ。感謝するがいいさ。これでも、昔は国王の別荘として使っていた建物だ。贅沢にはできてるのだ。まあ、100年ほど時はたっているがな・・・) 学校に行ったヴィドーダバ王子は、皆のよそよそしさにすぐに気付いた。釈迦族の子供たちは、誰一人、ヴィドーダバ王子に近付こうとはしなかった。教師ですら、 「あぁ、ようこそカピラバストゥへ。今日から一緒に・・・学びましょう・・・。えーっと、そうですね、その隅の席に座ってください。あぁ、お気を悪くなさらないように・・・。もし、万が一危険がありましたら、すぐに脱出できるよう、端の席をご用意いたしました。警備もそのほうがしやすいでしょうから」 と、淡々と言ったのだった。 「この国では、学校に危険があるというのか?」 ヴィドーダバ王子の質問に、一瞬とまどった教師であったが 「いえ、その・・・万が一、ということですよ。もし、何かあった時に、私は責任を取れませんし・・・」 と答えたのであった。 「ふん、気の小さい教師だ。なるほど、こんな教師から学ぶことなどないかもしれないな」 ヴィドーダバ王子の言葉に (くっそ〜、奴隷の子のくせに、なんなんだ、その態度は!。いいか今に見てろ、じっくりいたぶってやるからな・・・) と心の中で毒づいた教師だったが、そんなことは表情にはださず、 「えぇ、この国の学問など、コーサラ国に比べたら、本当に大したことなくて・・・・」 と笑ってごまかしたのであった。 まるで腫物を触るかのような釈迦族の者たちの態度を感じながらも、ヴィドーダバ王子の留学生活は始まった。しばらくは、何事もなく過ぎていったが、事件が起きたのは、彼が留学して一か月が過ぎようとした頃のことだった。 その日、ヴィドーダバ王子は、体調がよくなく、いつもの時間に学校に来ることはなかった。 「今日は、クソ王子がいないじゃないか」 「あぁ、やれやれだぜ。いないと清々する」 「まったく、奴隷の子の癖に威張りやがって」 「本当だな。あれがコーサラの王子じゃなきゃ、とっくの昔に放り出しているよ」 「まったくだ。それにしても、もう耐えられないよな、あいつと同じ空気を吸うことにさ」 「そうそう、同じ室内にいるというだけで耐えられないよな」 「ふん、奴隷は外に出ていろ、っていいたいよな」 「あの机と椅子、あれがあるだけで、ゾッとするよ。早く燃やしてしまいたい」 「もっと耐えられないのは、食事だよ。同じ場所で奴隷が食事をしているなんて、我慢も限界だ」 「なぁ、なんとかならないのか。マハーナーマ大臣は、なんて言っているんだ?」 「あぁ、父は、もう少しの我慢だ、と言っている。もう少しすれば、コーサラに帰るだろうってさ」 「本当かねぇ。なんか必死に学んでるって感じだぞ」 「あぁ、奴隷なんか、勉強しなきゃいいんだ!」 「そうだそうだ、奴隷は畑で働いていればいいんだ」 「クソにまみれてな!」 「あはははは」 教室内は、子供たちの笑い声でにぎやかだった。その時だった。 「それは誰のことだ?」 子供たちは、笑うのをやめて振り返った。そこには、ヴィドーダバ王子が立っていた。 「奴隷・・・とは、誰のことだ」 ヴィドーダバ王子は、笑っていた子供たちに一歩一歩近づいてきた。 「早く言え。奴隷とは誰のことだ?」 王子の手が伸びて、一人の子供の肩をつかもうとした。 「や、やめろ、汚らわしい!」 思わず、その子はそう叫んでしまった。ヴィドーダバ王子の顔が妙にゆがんだ。 「あっ」 子供たちも凍りついたようになってしまった。 「ふん、そうか・・・汚らわしい・・・・か。そういうことか・・・・。おい、誰でもいい、詳しく話せ。真実を話すのだ。言わないのなら、今すぐ、お前ら皆殺しだ」 ヴィドーダバ王子は、そう凄んだのだった。 135.終わりの始まり3 「すべてを話せ!。本当のことを言うのだ!」 ヴィドーダバは、一人の子供の胸ぐらをつかんだ。凍りついたようになっていた子供は、あっという間にヴィドーダバに捕まってしまった。ヴィドーダバは、剣を抜いた。 「誰でもいい、本当ことを言え。お前らの態度はどうもおかしいと思っていたのだ。奴隷の子?。それは、どういうことだ。言わねば、まずはこいつから切る。あとは、お前ら皆殺しだ。ふっふっふっふ」 ヴィドーダバ王子の護衛の者も剣を抜き、出入り口を固めていた。教室からは誰も逃げられないようになっていた。教師は腰を抜かし、座り込んでしまっていた。 「仕方がない。すべて話すしかないようだ。俺たちも死にたくはないからな」 マハーナーマ大臣の子供がそう答えた。そして 「ヴィドーダバ王子、あなたの母親は、この国では奴隷の身分だったんだよ。だからあなたは奴隷の子なんだ」 と言ってしまったのだった。 「私の母が奴隷の身分?・・・・それは本当か?」 「本当さ。うちの奴隷だったんだもん。下働きの女さ。お前の父親が、釈迦族から嫁を出せといったんだよね。でも、なんで釈迦族からお前の親父に嫁を出さなきゃいけないんだ?。こっちは釈迦族だぞ。由緒正しい釈迦族だ。コーサラは大国だけど、プラセーナジット王は出身はなんだ?。バラモンじゃないよね。クシャトリヤか?。そうじゃないだろう。どこの種族だい?。来歴は?。由緒は?・・・・答えられないだろ?。そんな由緒もない家に、いくら大国だからと言って、釈迦族から嫁を出すわけにはいかないだろ。身分が違うんだよ、初めからね。ま、大国だからさ、言うことを聞いておかないと、こっちも困るわけ。そこで、うちの父親が、策を練ったのさ」 「それが、お前の家の奴隷女を差し出すことだったのか?」 「そう、そういうこと。あぁ、一応、表向き、うちの養女になっているけどね。もうゾッとするよ、あんな身分の女と一時であるとはいえ、一族だったなんてね。もう嫁に出したから、関係ないけどね。はっはっは」 マハーナーマ大臣の息子は、こうしてすべてを語ってしまったのだった。そうなってしまえば、もう開き直るしかない。子供たちは、口々に「お前は奴隷の子なんだよ。身分は低いんだ」と言い出した。ヴィドーダバに掴まれて子供も「汚らわしいんだよ」といって、その手を逃れたのだった。ヴィドーダバは、ただただ放心していた・・・。 「帰れよ。国に帰れよ。お前が来るところじゃないんだよ」 誰かが言い出した。これをきっかけに一斉に「帰れ、奴隷の子は帰れ!」と教室内の子供たちが叫びだした。 「帰れ、帰れ、奴隷の子は帰れ、帰れ、帰れ、奴隷の子は帰れ、帰れ、帰れ、奴隷の子は帰れ・・・・」 ヴィドーダバは、「うるさ〜い!」と叫ぶと、教室を駆け出していたのだった。 翌日のこと。ヴィドーダバ王子と、護衛の兵士たち、侍女たちは、一斉にカピラバストゥを後にしたのだった。あわてたマハーナーマ大臣は、 「いかがなされたのでしょうか?。どうしてまた急に?」 と問いかけた。ヴィドーダバは、 「お前の息子に聞くがよい。よいか、お前ら、覚悟しておけ!」 と言い残すと、さっさとコーサラ国へと帰って行ったのだった。 マハーナーマ大臣は、ヴィドーダバ一行が帰国したことに安堵はしたが、息子に事情を聞いて、顔面蒼白となった。 「なんということを・・・・。なんということをしてくれたんだ・・・・。あぁ、これでもうこの国も終わりだ。釈迦族も終わりだ・・・・」 「父上、何を言っているのですか、戦えばいいじゃないですか。この国だって兵士はいるのだし、戦力もある。戦えばいいのです」 「バカモノ!。コーサラ国の戦力と我が国の戦力では、その差は歴然としていよう。一日で我が国は滅ぼされるわ。あぁ、子供を巻き込んでしまった私の失敗だ・・・。さっそく、会議をしなければ・・・」 マハーナーマ大臣は、あわてて他の大臣たちを集めたのだった。 大臣たちは、集まったのはよいが、結局何の策も講じることはできなかった。「困った・・・」と頭を抱えるだけだったのである。 「仕方がない。とりあえず、コーサラ国のでかたを待とう」 それが結論であった。 一方、国に帰ったヴィドーダバは、早速、父親のプラセーナジット王を問い詰めていた。国王は、 「そうだったのか?。釈迦族め、このわしを騙したのか!。許せん」 「許せないのは私です。あいつらは、私に恥をかかせました。この始末は、私にやらせてください」 「まてまて、相手は釈迦族だ。世尊の出身国だ。そう簡単には手が出せん。マガダ国の動きも見極めねばならない。こちらが釈迦族を攻める隙をつかれては困るからな。ここは下手に動いてはならぬ。しばらく待つのだ」 「待てません。今すぐに兵を!」 「いや、ダメだ。マガダ国との裏取引が終わってからだ。お前の怒りはよくわかる。わしも恥をかかされたのだ。しかし、戦は別だ。他国との関わりがあるからな。ちょうどいい機会だ、お前も戦争のやり方を学ぶがいい」 父王にそう言われ、ヴィドーダバは、引っ込むしかなかった。しかし、腹の虫はおさまらず、部屋に戻ると、すぐに母親を捕縛してしまったのだった。 「お前は奴隷の身分らしいな。奴隷が王族のマネをするのはけしからん。許し難い行為だ。ましてや、父を騙し、私を騙していた。おい、兵隊長、この者を地下の牢獄へ閉じこめておけ!。殺されないだけましだと思えよ!」 こうして、ヴィドーダバの母親、第二王妃は幽閉されてしまったのである。 プラセーナジット王は、祇園精舎に急いでいた。仏陀に真実を問いただそうとしていたのだ。王は、仏陀に釈迦族がコーサラ国に対し、否、プラセーナジット王に対し行った策略について説明をし、抗議したのだった。 「世尊、どういうことなのだ。世尊はご存知だったのか?」 「当然のことながら、私は知らぬことだ。私は、もはやカピラバストゥとは縁を切っている。国のことには関わってはいない」 「では、このことを世尊はどう思われる?」 「釈迦族が行った行為は、叱責されるべき行為であろう。あまりにも自惚れが強すぎ、周囲の者を見下すという、釈迦族の悪い習慣や文化がこのような行為の原因であろう。そのことにより、彼らは何らかの責任を取るべきであるし、いかように責められても文句は言えまい。しかし・・・」 「しかし、なんです?」 「しかし、プラセーナジット王ともあろうお方が、いまさら身分にこだわるのですか?。第三王妃のマッリカー夫人も、花園で働いていた女性ではありませんか。身分を問えば、低い身分の方でしょう。それを承知の上で王妃に迎えられた。国王は、日頃から身分など関係ない、有能な人物を登用する、とおっしゃっているではないですか。その考えは素晴らしいと、私は思っております。この世に身分などありません。どんな場所で働こうとも、どんな暮らしをしようとも、差別はありません。人は人です。人の善し悪しは、その身分で決まるのではなく、その行為で決まるのです。今回、釈迦族の行った行為は、悪しき行為でしょう。人を騙し、相手を見下し、あげく、苦しむ人々を生み出してしまった。この罪は、償わなければなりません。しかし、国王もよくお考えいただきたい。復讐からは何も生まれない。争えば、その先にあるのは苦しみだけです。恨みは、恨みを持って鎮まることはありません。恨みを恨みで返せば、また恨まれるだけです。戦いの連鎖が始まってしまいます。それは、苦しみの連鎖でもありましょう。そのことだけは、忘れないでいただきたい」 「せ、世尊・・・・。わかりました。確かに、私は、第二王妃が奴隷の出身であろうと、気にはしません。あれはよくできた女です。美しいですしな・・・。しかし、息子は・・・。ヴィドーダバがうけた傷は・・・・」 「私は何も言うことはありません。釈迦族は罰せられて当然のことをしました。ヴィドーダバ王子が受けた心の傷は大きなものでしょう。しかし、願わくば、これ以上、ヴィドーダバ王子が傷つかない方がいいかと思います。王子が国王の命に逆らい、兵をあげても・・・それは、結局は自分を苦しめることとなりましょう。そのことを王子が理解しくださればいいのですが・・・・。いや、たとえ、理解していただけなくても、私には王子を止めることはできません」 「世尊・・・・。お心遣い、ありがとうございます。息子は、何とか説得してみます。自信はありませんが・・・・」 プラセーナジット王は、そういうと、肩を落として仏陀の前を辞したのだった。 城に戻った王は、王妃が幽閉されていることに激怒した。 「ヴィドーダバ、なんてことをしたのだ。あの者は、どんな身分であれお前の母親なんだぞ。しかも、わしの妻だ。勝手なことをするな。あぁ、それから、釈迦族には攻め入ってはならぬ。よいな。マガダ国との同盟が終わってから考える。それまでは・・・・辛抱していろ。お前の悪いようにしない。釈迦族には、それ相応の責任を取ってもらう。わかったな」 国王は、そういうと、幽閉されていた第二王妃を解放したのだった。 ヴィドーダバは、我慢しきれなかった。怒りがふつふつとわき上がり、すぐにでも兵をあげたかった。しかし、彼はじっと耐えたのだ。 「父がいない時だ。いないときに動けばいい・・・・。その時、すべてを手にしてやる。マガダ国のアジャセのようにな。それまで、せいぜい怯えて暮らすがよい、釈迦族の者たちよ!」 彼は、そう小さくつぶやくと、ニヤッと笑ったのだった。 それから間もなくのことだった。プラセーナジット王と第二王妃は、マガダ国へと向かった。第一王妃は、のんびりと城で過ごすことを選んだ。第三王妃のマッリカ―は、祇園精舎へ毎日通うことにした。そこで、王は、第二王妃をつれてマガダ国へと出発したのだった。 ひそかにその日を待っていたヴィドーダバは、まずは兄であるジェータ王子のもとに向かった。 「兄上、話があります」 「なんだ?。あぁ、跡継ぎのことなら、俺は興味はない。俺は、自由に生きたいんだ。それと、釈迦族への復讐のため戦争に参加しろ、というのも断る。俺を巻き込まないで欲しい。俺を巻き込まないのなら、俺は、何も知らないことにしてもいい」 「相変わらず兄上は・・・・腑抜けですねぇ。それでも王子ですか?」 「王子の身分なんていらないよ。そうだな、一生遊んでくらせるお金さえあればいいさ。じゃあ、そういうことで、俺はこれから釣りに出かける。あとは、お前のの好きにすればいい」 ジェータ王子は、そういうと数名の供の者を連れ、城を出て行ってしまったのだった。 「ふん、一つこれで片が付いたな。では、始めるとするか」 ヴィドーダバは、そういうと軍隊を出発させたのである。目指すはカピラバストゥだった・・・・。 136.終わりの始まり4 「全軍進め!。目指すは釈迦族のカピラバストゥだ!」 ヴィドーダバの声は大きく鳴り響いた。先頭に十数頭の戦闘用の象、そのあとに歩兵軍団が続いた。ヴィドーダバは、行軍を城の高台から指揮していたが、 「やはり俺が先頭を行く。釈迦族の連中に、俺がまずはじめに切りかかるのだ」 と言って、王子用の特別な装飾を施された象に乗って、先頭に立ったのだった。 「いいぞ、このまま進め!」 ヴィドーダバの目は激しく燃えていた。怒りの炎で激しく燃えていたのだ。 コーサラ国とカピラバストゥの国境付近まで進んだ時だった。ヴィドーダバの怒りに燃える目は、一本の枯れ木を捉えた。 「なんだ、あの枯れ木は。あんな枯れ木、よく立っているな。行きがけの駄賃だ、俺が切り倒してやる」 彼は、その枯れ木を切り倒すため、その木の少し手前で象を下りた。するとそこには・・・。 「あぁ、仏陀世尊・・・」 なんと、枯れ木の下には、仏陀が座っていたのだ。彼は、あわてて仏陀のところまで走り寄った。そして、仏陀の前に跪いて仏陀に尋ねた。 「せ、世尊、なぜこのような枯れ木の下で瞑想されているのですか?。涼しそうな影を創っている木は、いくらでもありしょう。ほら、すぐそこにも、あそこにも・・・。葉をたくさん蓄えた大きな木がいっぱいあるではないですか?」 「ふむ・・・。いくら枯れ木とはいえ、やはり身内の影は涼しいものだ」 仏陀が、そう一言だけいうと、ヴィドーダバは、急に青ざめてしまったのだった。彼は、よろよろと立ち上がると、 「せ、世尊は私がしようとしていることを・・・・」 とつぶやいた。そして、軍隊の方に戻ると 「気分がすぐれない。攻撃は中止だ。全軍、戻れ!」 と力なく叫んだのだった。 城に戻ったヴィドーダバは、ベッドにもぐりこんでしまった。 「どうしてだ。なぜだ・・・。世尊の姿を見た途端、やる気が失せてしまった。釈迦族への復讐心も、急に冷めてしまった・・・・。ちくしょう!、きっと世尊の神通力に違いない。世尊はその力で、俺の気持ちを操ったのだ・・・。くそ、くそ、くそ・・・」 彼は、ベッドから起き上がると、 「俺は本当に釈迦族へ攻め入りたいのか?。本気で戦争を仕掛ける気持ちがあるのか?」 と自問自答を始めたのだった。彼は、深く考えた。 (釈迦族は、俺を笑いものにした。奴隷の子だと罵った。釈迦族のものすべてがそうしたのだ。女子供に至るまで、俺を・・・・この俺様を罵ったのだ。バカにしたのだ。笑いものにしたのだ。蔑みの目で俺を見た。汚らしいものを扱うように俺を扱った。よく考えてみろ、よく思い出してみろ。あぁ、そうだ、俺が使ったものは、誰一人触ろうとしなかった。否、奴隷階級の下働きの者だけが、俺が触れたものを片付けていたのだ。そう言えば、俺たちが滞在していた家屋は、我らが引き払った後、壊され燃やされたと聞く。ふん、釈迦族め、俺が住んだ場所は、汚らわしいとでもいうように、跡形なくもなく消し去ったのだ。俺のどこが汚らわしいのだ?。くそ、あいつらめ、バカにしやがって・・・。生かしてはおけない。許してはいけない。そうだ、ヴィドーダバ。あいつらを許してはいけないのだ。あいつらをこの世から抹殺するのだ!。そうだ、怒れ、怒れ、怒れ、ヴィドーダバ!。あいつらを一人残らず、殺してしまうのだ!。ようし、その調子だ。今度こそ、釈迦族に攻め入るぞ!。しかし・・・) 「しかし、釈迦族へ攻め入るには、世尊の神通力を何とかせねば・・・・」 いつの間にか、ヴィドーダバは、心の内を声に出していた。 仏陀の神通力に対応する手段をヴィドーダバは、考えていた。しかし、うまい手立ては思い浮かばず、数日が過ぎていった。彼は、城の外をぼんやりと眺めていた。 「この城に来るには、道が一本だけじゃないのだな」 彼は、城下町を見下ろし、城に続く道が何本もあることに気が付いた。 「ふふふ、なんだ、簡単なことではないか。カピラバストゥへ行く道は、何も一本とは限らないじゃないか。この間の道は、カピラバストゥへ最も近い道だった。通常使用する道だ。ふん、遠回りすればいいだけじゃないか。簡単なことだ。世尊は、あの道の枯れ木の下に、またきっといるだろう。ならば、あの道を通らねばいいのだ。ふふふ、わはははは。これでヤツラを皆殺しにできるぞ!」 翌日のこと。 「全軍進め!」 ヴィドーダバの大きな声が城の外へと響いていた。その声とともに、軍隊がコーサラ国の町中を進んでいった。先頭には、特別な装飾がされた象に乗ったヴィドーダバ王子がいた。 「いいか、俺に続くのだ。いくぞ〜!」 ヴィドーダバの目は、らんらんと輝いていた。 彼は、前回とは違う道を選んだ。前回よりは、やや遠回りになる道だ。軍隊を率いる隊長にもそのことは伝えてある。ヴィドーダバの行軍は、カピラバストゥとの国境付近にまでさしかかった。小高い山道を登って下って行けば、カピラバストゥはすぐそこだった。 ふと、前を見ると、小高い山道を登り切ったところに一本の枯れ木が立っていた。 「あんなところに枯れ木などあったか?」 ヴィドーダバは、ふと嫌な予感に襲われた。行軍を止めると、すぐに象から降りた。そして、ゆっくりと枯れ木に近付くと、思ったとおり、その木の下には仏陀が瞑想をしていたのだった。 「せ、世尊・・・・、世尊ではありませんか。このような何もない場所で一体何をなさっているのですか?」 ヴィドーダバは、仏陀の前まで行くと、立ったままそう尋ねたのだった。しかし、仏陀は何も答えなかった。 「あっ・・・、すみません。これは無礼なことを・・・」 ヴィドーダバはそういうと、仏陀の前で跪き、もう一度同じことを尋ねたのだった。 「世尊、このような何もないところで、なぜ瞑想などしていらっしゃるのでしょうか?。世尊には、祇園精舎があるではないですか?」 ヴィドーダバの質問に、仏陀はふと顔をあげ、彼を見据えた。そして 「たとえ何もなくとも、身内のそばは安らぐものだ」 と答え、再び瞑想に入ったのだった。 「あぁ、やはりそうか、そうなのか・・・。世尊は、私がこの道を通ることを知っていたのだ。だから、私を止めるために先回りをして、ここで座っていらしたのだ・・・・。こ、これでは、これでは・・・・」 ヴィドーダバの額には、冷や汗がたっぷり流れていた。うつろな目をしてよろよろと立ち上がると、 「き、気分がすぐれん。城に帰るぞ!」 と力なくいうと、フラフラと自分の象のところまで戻ったのだった。兵隊に手を借り、彼は、象に乗った。そして、疲れ切ってしまったかのようなヴィドーダバを乗せた象は、城へと戻ったのだった。 城に戻ったヴィドーダバは、ふさぎこんでいた。部屋の中をイライラしながら歩き回っていたかと思うと、ベッドに突っ伏したりしていた。ときおり、 「あぁ、どうすればいいのだ。俺はいったいどうすればいいのだ!」 と叫ぶのだった。食事もほとんど喉を通らなかった。部屋からも出ることなく、数日が過ぎていった。 そんなある日のこと、珍しく兄のジェータがヴィドーダバの部屋にやってきた。その時、ヴィドーダバは、ベッドにうつ伏せになっていた。 「なんだ、お前、まだカピラバストゥを攻めてないんだって?。もうすぐ国王が帰って来るぞ。そんなことで釈迦族を滅ぼすなんてできるのか?。お前、本当は戦争が怖いんだろ?。あはははは、それで戻ってきたんだろ?。ちょうどよかったじゃないか、途中で世尊と出会ってさ。良い言い訳ができるもんな。あははは。あぁ、ちなみに、俺も戦争は怖いから嫌だけどな。なぁ、ヴィドーダバよ、釈迦族なんて放っておいてさ、釣りに行かないか、釣りに。大きな魚が釣れるんだぜ。楽しいぞ・・・」 「うるさい!。さっきから黙って聞いていればいい加減なことばかり言いやがって!。戦争が怖いだと?。バカにするな!。俺は兄貴とは違うんだよ。俺はあんたみたいに腑抜けじゃないんだ!。いいか、見てろよ。今度こそ釈迦族を滅ぼしてやる!。その次は、兄貴、お前だ!」 ヴィドーダバは、ベッドから飛び起き、一気にそういうと、ジェータに向かって指をさしていた。あまりのヴィドーダバの剣幕に、ジェータは声が出なかった。しばらくして 「あ、あぁ・・・、俺は関係ないから、すまん、気を悪くしたのなら謝るよ。じゃあ、俺は、行くから・・・」 とボソボソと言いながら逃げるようにヴィドーダバの部屋から出て行ったのだった。 「ふん、腰抜け目!。いつか殺してやる!」 ヴィドーダバの怒りは、頂点に達していた。 「兵隊長、兵隊長はいるか?」 ヴィドーダバは、兵隊長を呼ぶと、 「明日の早朝にカピラバストゥに攻め入る。準備しておけ!。行程は、通常の道だ。今度は何があっても進むから、そのつもりで!」 と命じたのだった。 翌朝のこと。日が昇り始めたころ、ヴィドーダバの軍隊は城を出た。先頭に立ち、軍隊を率いているのは、ヴィドーダバだった。しかし、彼の顔つきは、前の2回の行軍とは全く異なっていた。怒りに引きつり、眼はらんらんと輝き、口を真一文字に結んだ姿は、帝釈天に怒り狂った阿修羅そのものだった。 軍隊はどんどん進んでいった。そして、カピラバストゥとの国境付近へと差し掛かった。 「ふむ、やはりあの枯れ木の下で世尊が瞑想をしているな。わかっていたさ。今度ばかりは、その神通力も通じないぞ。わはははは」 ヴィドーダバは、象の上で一人高笑いをしていた。そして、 「決して止まるな!。このまま進め!。ひるむな、下を見るな、前だけ見るんだ!」 と大声で叫んでいた。 枯れ木の下で瞑想をする仏陀の前を、ヴィドーダバの乗った象を先頭に数十匹の象軍が続いた。そのあと、剣や槍を持った歩兵たちが走り去っていった。どたどた、がたがたと大きな音を立て、軍隊は進んでいったのだった。仏陀の故郷であるカピラバストゥを攻めるために。釈迦族を滅ぼすために・・・・。 ふと仏陀は目をあけた。 「愚者が行く・・・・。この先にあるものが不幸であると知らずに・・・・。哀れなるかな愚かな民よ・・・・。自ら地獄へ向かうとは・・・」 そうつぶやくと、再び仏陀は深い瞑想に入ったのであった。 137.釈迦族の滅亡 ヴィドーダバが、釈迦族の都カピラバストゥを目指して進軍していたそのころ、釈迦族の者たちは呑気にいつものように過ごしていた。いつもの早朝の様子だったのである。もっとも、ヴィドーダバがカピラバストゥを去った後は、さすがの釈迦族の者たちも、いつヴィドーダバらが進軍してくるかを警戒していた。しかし、待てど暮らせどコーサラ国から軍隊が来る気配がない。そのうちに大臣たちの間で楽観視が芽生えてきた。 「もうヴィドーダバは攻めてこないだろう。きっと仏陀がコーサラ国のプラセーナジット王にうまく話をつけてくれたのだ。ヴィドーダバだってまだ王子だ。父王から進軍を止められたに違いない」 全く根拠のない話であったが、この話はまことしやかに釈迦族の人々の間に流れていった。そのため、彼らは、一切の警戒を放棄したのだった。なんの警戒もしていない釈迦族の人々が過ごしていたいつも早朝にヴィドーダバの軍隊は攻め込んできたのだった。 「すべて皆殺しだ!。いいか、女も子供も生かしておくな!。特に子供だ!。俺をバカにしたヤツラを真っ先に殺してしまえ!」 先陣を切ってカピラバストゥの城内に進入した象の上でヴィドーダバは叫んだ。その叫び声に「おぉー」と雄叫びをあげ、象に乗った兵隊たち、走ってきた雑兵たちが一斉に城内なんだれこんできた。釈迦族の人々は、きっと何が起こったかわからなかったであろう。全く何もわからずに象に踏みつぶされ、槍で刺され、剣で切られ、死んでいったのだった。 ヴィドーダバの軍隊が攻め入ってきたことをマハーナーマら大臣が聞いたのは、釈迦族の一般市民の半分以上がすでに殺されたときであった。まだ、世間では朝のうちのころだった。 「何ということだ。まさか本当にヤツラが攻め入って来るとは!」 「どうしますか?。我々だけでも逃げますか?」 「そ、そんなわけにはいかんだろ。そうだ、兵士たちは、我が軍の兵士たちはどうなっているのだ?」 「この宮廷を守る軍しか残っていません。もう間もなく宮廷にヴィドーダバ軍はやってきます。ここもすぐに突破されるでしょう。逃げるなら今のうちです!」 「しかし、我々だけが逃げるわけには・・・・家族はどうなる?」 「もう自宅に戻っている暇はないでしょう。宮廷に残っている家族だけでも逃がさないと・・・」 「そうだな。ここに残っている者を全員集めて、裏山からヒマラヤの山を目指して走るようにしなさい。護衛の兵隊をできるだけたくさん連れて行くがいいでしょう。ここは、私一人で何とかする」 マハーナーマ大臣は、そう言って他の大臣の顔を見回した。 「そもそもこうなったのは、私の責任だ。プラセーナジット王の要求に素直に釈迦族の娘を差し出していたなら、こんなことにはならなった。策を弄した私が悪いのだ。こうなった全責任は、私にある。私がなるべく時間を稼ぐので、逃げてくれ。早く!」 マハーナーマの指示に従い、宮廷に残った者は城の裏口からヒマラヤ山を目指して逃げることにした。しかし、残った者たちを集めているうちにヴィドーダバは宮廷に迫っていたのだった。中には、のんびり寝ている大臣の嫁がいたり、着替えに時間がかかってしまった娘や自分も戦うと言い出す息子たち、逃げる際に何を持っていくべきか迷っている女性らがおり、彼らをまとめるのにたいそうな時間を要してしまったのである。宮廷の広間に彼らが集まった時にはもう遅かったのだ。 「なんだ、全員そろっているではないか。覚悟はできているようだな。俺に殺される覚悟がな!」 象から降り、剣を手にしたヴィドーダバ王子がそこに立っていた。 ヴィドーダバは、剣を手にしたまま真っ直ぐにマハーナーマのところへ来た。逃げ出そうするものは一人もいなかった。怖ろしくて誰も動けなかったのだ。 「大臣、約束通り、釈迦族を滅ぼしに来た。それにしても、この国の人間はのんびりしているな。誰も剣を取って戦おうというものはいなかったぞ。みんな、我が軍が攻めてくることを知らなかったのか?。まさか、俺が攻めてこないと思っていたんじゃないだろうな?。なんだ、その顔は?。おいおい、本当にそう思っていたのか?。俺が攻めてこないと?。どうりで釈迦族の軍隊らしきものは一人もいなかったはずだ。お陰で簡単に釈迦族の者を殺すことができたがな。感謝するよ、あんたが間抜けな大臣でな!。おい、こいつら全員を外に出せ」 ヴィドーダバは、兵士たちに残った釈迦族の者たちを宮廷の庭へ集めた。 「城の中に誰も残っていないかよく調べろ」 間もなく兵士たちが戻り、城の中には誰もいないことが確認された。 「では、順に処刑しようか。まずは、大臣たちの子供からだな。学校で俺をバカにしたヤツラ、こいつらから処刑するか」 「待ってくれ。ちょっと待ってくれ」 マハーナーマがヴィドーダバの前に這いずりながら進み出てきた。 「なんだ?、何か言いたいことがあるのか?」 「こうなったのは、すべて私の責任だ。すべて私が悪い。彼らが悪いわけではない。ましてや子供たちは私のせいで巻き込まれただけなのだ。彼らに責任はない。だから・・・」 「だからなんだ?。あいつらを見逃せ、とでもいうのか?」 「できれば・・・・あっ!」 マハーナーマの顔をヴィドーダバは、力強く殴った。 「勝手なことを言うなよ。俺はあいつらにバカにされたんだ。見逃すわけがないだろ!」 「な、ならば・・・せめて・・・・。そ、そう、あの池に私が飛び込むから、池の水面に私が上がってくる間だけでも、彼らを逃がしてやってもらえないか?」 「なんだと、どういうことだ?・・・・あぁ、お前が池に飛び込む、息が苦しくなって水面に上がってくるその間にアイツラが逃げ出す。お前が水面に現れたら、俺たちがあいつらを追いかける。そのあとは殺していいんだな?」 「そ、そういうことだ。私は泳ぎが得意なのでな。それくらいでしか、私の罪を償えないのだ。せめて彼らに逃げる時間をくれないか。ほんの少しだけなのだが・・・・」 ヴィドーダバは少しの間考え込んでいたが、ニヤッと笑うとひとこと言った。 「面白い。いいだろう。こいつらの縄を解いてやれ」 こうして、マハーナーマ大臣が池に飛び込むと同時に残った者たちが逃げ出してもよいということとなった。ただし、マハーナーマが息継ぎに水面に現れたと同時にヴィドーダバの軍隊が、逃げた者たちを追いかけ抹殺してもいい、ということとなった。一種の鬼ごっこである。 「いいか、皆の者、私が飛び込んだら、後ろを振り向かず、一斉に走り出せ。決して振り返ってはいけない。走り続けるのだ。この池は深い。私は泳ぎが得意だ。なるべく多くの時間を稼ぐので、できるだけ遠くに逃げてくれ。では、飛び込むぞ」 マハーナーマはそう言って、池に飛び込んだのだった。それと同時に、残っていた釈迦族の者たちは、一斉にヒマラヤ山を目指して走り出していた。 どうせすぐに水面に上がってくる・・・。 ヴィドーダバは、そう思い込んでいた。いくら泳ぎが得意と言っても、それほど長く潜っていられるものではない。自分も泳ぎは得意だったので、それくらいのことはよくわかっていた。しかし、マハーナーマはなかなか上がってこなかった。 「おかしい、もうずいぶん時間が経つぞ。いくら泳ぎが得意でもこれほど長く潜っていられるわけがない。あっ!、しまった!、やられた!。きっと、この池の底には、どこかに通じる抜け穴があるのだ。マハーナーマは、そこを泳いで行ったに違いない。おい、お前ら、庭や城の周りを探すのだ。ここから通じている場所があるはずだ!」 兵士たちは、一斉に城の周りや庭を向け穴がないか調べるために駆け回り始めたのだった。 早朝から攻め入ったヴィドーダバ軍であった。この宮中に至るまでにはそれほど時間を要しなかった。まだ、朝のうちに宮中に残った者を捕縛できたのだ。戦いは昼までに終わる予定であった。 「おい、もう昼ではないか。まだ秘密の抜け穴らしきものは見つからんのか?」 「はい、いまだに・・・。王子様、いっそのこと、池に潜って抜け穴を探した方がよいのではありませんか?」 「おぉ、そうだな。そのほうが早いではないか。よし、さっさとだれか潜ってみろ」 数名の兵士が池に飛び込んだ。そして、彼らがそこで見たのはマハーナーマの変わり果てた姿だった。 「王子様、マハーナーマは池の中で死んでおりました!」 「どういうことだ?」 「はい、マハーナーマは池の中の水抜き金具に自分の髪の毛を縛り付けていたんです」 「なんだと!。自分の髪の毛を・・・縛り付けて・・・。それで水面に現れなかったのか・・・・。ふっふっふ・・・ふふふふ、あはははは。最後にしたやられたな。マハーナーマ大臣、策を弄することが得意だったとは聞いていたが、最後にやられた。策を弄して身を滅ぼすことになったが、最後にその策で仲間を助けたか・・・。あははは・・・。もういい。もういいぞ。他に生き残った者がいないか確認して、引き上げるぞ。俺にはまだ大きな仕事が残っているからな。引き上げだ!」 ヴィドーダバは兵隊たちを引き上げ、コーサラ国へと帰って行ったのだった。こうして、釈迦族は、ほんの十数名の者を残し滅んだのである。 釈迦族滅亡の知らせは、すぐに仏陀の耳にも届いた。しかし、仏陀はすでに神通力により知っていたことだったので 「そうであるか」 と答えただけであった。まったく何も知らなったアーナンダは、かなり大きな衝撃を受けていた。一人、森の中に入り大きな木の下で泣き崩れていた。そんなアーナンダに誰も声をかける者はいなかった。 祇園精舎にいる弟子たちにも少なからず、釈迦族滅亡の知らせは衝撃だった。 「なぜ仏陀の出身地がそうなるのだ?。仏陀は最高の徳を身に着けたものであろう?。仏陀を生んだ国は栄えるはずではないのか?」 「伝説では、仏陀が誕生した国は栄えると聞いているがな・・・・」 「じゃあなぜ?。仏陀は仏陀であろう?。なぜ釈迦族が滅びるのだ?」 「俺に聞いてもわからん。知るか、そんなこと・・・」 「仏陀が本物の仏陀でないとしたら?」 「あっ・・・。そういうことなら・・・・」 「有り得るよなぁ・・・」 ・・・今、我々が世尊と仰いでいる仏陀は、本物の仏陀ではないのではないか・・・? 悟りを得ていない弟子たちの間には、このような噂が流れていったのである。 この噂のことは、もちろん仏陀自身も耳にしていた。しかし、仏陀は何も言わず放置していたのだった。しかし、長老たちは違っていた。 「このままでは、不安に駆られた弟子たちが修行をやめてしまいかねない。何とかせねば」 「世尊に対する信頼、世尊を信じる心あれば、こんな噂どういうことはないのだが・・・」 「長年にわたり修行をしている者は大丈夫であろう。問題なのは、修行して日が浅い者なのだ」 「わかった。今度の法話会の折に私が質問をしよう。法話会のときならば、一般の信者さんたちも話を聞きに来ている。ちょうどいい機会だ。コーサラ国の人々もなぜ釈迦族が滅ばねばならなかったのか、その理由を知りたいであろう。それは、仏陀世尊に対する信頼にもつながる。次の法話会は明後日だ。その時に私が質問をしよう」 そうまとめたのは、シャーリープトラであった。 その法話会の日がやってきた。初めに仏陀が教えを説いた。そして、 「なにか問いたいことがある者はいようか」 と仏陀が尋ねると、シャーリープトラが 「世尊、一つお聞きしたいことがあります」 と立ち上がった。仏陀は、一つうなずいた。質問を続けよ、という意味である。シャーリープトラは続けた。 「世尊、何ゆえ世尊の故郷であるカピラバストゥ、釈迦族が滅んだのでしょうか?。その因縁とはいかなるものなのでしょうか?」 仏陀は、その質問が出てくるであろうことを予測していたので、 「よく質問をした。では、釈迦族が滅んだ因縁を解き明かそう」 と、すぐに答えたのであった。 つづく。 |