ばっくなんばー29

138.因果は廻る
「何ゆえ、釈迦族は滅んだのか。その原因は、はるか昔にさかのぼる・・・」
仏陀はそう言うと、しばらく遠くを見つめるような目をした。そして、多くの弟子たちをゆっくりと見回し、再び遠くを見つめるように顔をあげた。
「遥か昔、釈迦族は今のカピラバストゥの地より、もっと西の方に城をかまえていた。そこは、このインドの西の端と言ってよいであろう。海岸が近くにあり、釈迦族は主に漁業を営み、また他国との貿易によって生活を成り立たせていた。多くの者は海に出て魚を獲っていたのだ。そして、その魚を自分たちで食するだけでなく、干物にしたりして他国へも売っていたのだ。また、そのついでに他国から珍しいものを買い入れ、海岸から遠い国に魚の干物のとともに売りさばいていた。そうして、釈迦族は成り立っていたのだ。
彼らは、漁業に詳しく、次第に魚の生態も知るようになり、効率よく大量の魚を獲る術を覚えた。それとともに国は潤い、民は栄えていった。しかし、やがてそれは、魚を獲りすぎるようにとなっていった。彼らは、自分たちで食することができない魚や売れ残ってしまった干物を捨てるようになっていた。その量は次第に増えていった。彼らは、城の外で海岸に近いところに大きな穴を掘り、余った魚を捨てるようにした。捨てる魚の量が増えるにつれ、穴の大きさや数も増えていった。
ある年のこと、大量に魚が獲れる日が続いたことがあった。その年は、異常に魚が獲れたのだ。
『こんなに獲れたのだ、明日からはしばらく漁を休んだ方がいいだろう』
釈迦族の長である国王は、漁に出る者たちにそう言った。しかし、漁師たちは
『いやいや、いつ獲れなくなるかわからないですから、獲れるときに獲っておきましょう。なに、干物にすれば、長持ちしますから』
と言って、できるだけ漁に出ると主張した。国王は彼らに反論した。
『そうはいっても、毎年捨てる魚が増えているではないか。他国へも干物が売れなくなってきている。いや、売れる量は変わらないが、干物の量が増えているのだ。そのため、売れ残りが増えているのだ。これ以上売れ残った魚を捨てるようになれば、その場所の確保も大変なのだ。しかも、腐った魚の匂いが街中に流れてくるようになってきた。いくら大量に魚が取れるからと言って、捨ててしまうようでは意味がない。いったん漁を休んで、残っている魚を調整しようではないか』
『もし、この先魚が獲れなくなって食べるものに困ったとしたら、国王様はどうなさるね?。我々の食の保証をしてくださるか?。国民が飢えてもいいのですか?』
『よく聞きなさい。私は、今年の漁を今後すべて休めと言っているのではない。今は干物もたくさん残っているから、それがなくなるまで休め、と言っているのだ』
『そんなことはわかっています。私らが言っているのは、その漁を再開したときに、魚が獲れなかったらどうするのか、ということです』
『わかった。その時は、国民の食を保証しようではないか』
国王はそう言い切ったが、漁師たちは疑いの目で国王を見ていた。彼らは『どうせそんなことはできっこない』と思っていたのだ。
釈迦族の大半の人々は、漁によって生活を営んでいた。だから、漁を休むということはとても不安だったのだ。結局、彼らは国王の提案を受け入れることなく、翌日も、その翌日も漁に出たのであった。
毎日が大漁であった。船は、満杯の魚を乗せて戻ってきた。しかし、その魚たちは誰にも食べられることなく、すべて海岸の穴に捨てられることとなったのだ。そうした日が幾日も続いた。釈迦族の人々は、毎日のように大量に魚を捨てたのだ。魚の命を毎日大量に無駄にしたと言ってもよい。
やがて、海岸は魚の腐臭で人々が寄り付かなかくなってしまった。また、いくら魚を獲っても売れないのではお金にならない。釈迦族の人々は漁に出ても生活に困ることになってしまった。
『漁に出ても暮らしていけなくなってしまった。しかも、魚の腐った匂いで街自体暮らしにくいものとなってしまった。このままでは、もうこの場所で生活することは不可能だ。幸い、国には貿易による蓄えがある。しばらくの間は生活に困ることはない。そこで、我が釈迦族は他の地へ移転することとする。ここより東、ヒマラヤ山に近い地域だ。そこでは農業や酪農が営める。また、ヒマラヤに近いと言っても、一年中寒いわけではない。春もあれば夏もある。とても過ごしやすい地だ。川もあるし、生活に困ることはない。よいか、釈迦族はこの地を捨て、他の地へ移動するのだ。今度は私の指示に従ってもらうぞ』
国王は、釈迦族の人々にそう宣言した。こうして釈迦族は、現在のカピラバストゥの地へと移ってきたのだ。彼らは、その地で城を築き、智慧のある民族として世に知られるようになった。
しかし、殺生の罪はあまりにも大きかったのだ。その罪から逃れることはできなかった。そう、釈迦族が滅んだのは、遥か昔に大量の魚を捨て続けたことによるのだ。原因は大量の殺生、その結果が釈迦族の滅亡へとつながったのである」
仏陀は、そこまで話すと、静かに目を閉じたのであった。

仏陀は、ゆっくりと目を開いた。
「よいか弟子たちよ。因果は必ず廻る。罪を犯せば、その報いは必ずやって来るのだ。その時、なんの報いもないからと言って安心してはいけない。罪を犯したすぐ後に、その報いがやって来るとは限らないのだ。報いとは、多くの場合、時を経てやって来るものなのである。たとえば、大きな瓶に水滴が垂れ、やがて瓶が水でいっぱいになりあふれてくるように、罪も一つ一つ重なりやがて大きな報いとなってあふれ出てくるものなのだ。
もちろん、それは善行においてでもそうある。善いことをしたからと言って、すぐにその恩恵がやって来るとは限らない。多くの場合、善行の恩恵は、時を経てからやって来るものなのだ。同じように、善行を積み重ねることによって、やがて大きな善果がやって来るのである。
汝ら弟子たちよ。決して悪に染まってはならぬ。決して悪行を為してはならぬ。それらは、一つ一つは小さくとも、やがては大きな塊となるのだ。その報いが来るときは一度にやって来る。大きな報いとなってやって来るのだ。罪を犯すときは小さな重なりであっても、その結果が廻って来るときはいっぺんにやって来るものなのだ。小さな罪と言って決して侮ってはならぬ。その小さな罪の積み重ねが恐ろしい結果を招くのだ。今一度、自分を振り返り、戒律を犯してはいないか、考察するがよい」
仏陀がそこまで話した時、質問をする者がいた。
「世尊、お尋ねしたいことがあります」
「話すがよい」
「因果が廻るのでしたら、釈迦族を滅ぼしたヴィドーダバ王子にもその報いがある、ということでしょうか?」
「よい質問だ。因果の法則は簡単である。善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果がやってくる、そういうことである。釈迦族は、魚を大量に無駄にして捨てたという悪行のため、釈迦族滅亡という悪い結果がやってきた。では、釈迦族を滅亡させたヴィドーダバ王子が行ったことは、それは善行か悪行か?。善行ならば、ヴィドーダバ王子には善い結果が現れるであろうし、悪行ならば悪い結果が現れるであろう。果たして彼が行った行為は善か悪か?」
仏陀に尋ねられた質問した弟子はすぐさまに答えた。
「事情がどうであれ、殺生をしたのですから、それは悪行です。殺生の罪は、量り知れないくらい大きなものです。ですので、やがてヴィドーダバ王子には悪い結果がやってくるでしょう」
仏陀は一つうなずくと、
「因果は廻る。汝らは、その嵐の中に入らぬように注意せよ。世俗のことに関わってはならぬ。たとえ、汝らの種族が滅んだとしても、その原因は必ずあるのだ。その因果をよく考察し、現実を受け入れ、何事にも動揺せぬよう不動で堅固たる心を手に入れよ。さぁ、そのために修行に励むがよい」
と力強く言ったのであった。

一方、釈迦族を滅亡に追いやったヴィドーダバ王子は、その勢いでコーサラ国の国王に就くことを宣言した。そして、マガダ国からコーサラ国への帰途にあるプラセーナジット国王を捕えるために出兵したのであった。
「プラセーナジット王は、我がコーサラ国をマガダ国へ売ろうとした。裏切り者である。このヴィドーダバは、裏切り者の父プラセーナジットを成敗する!」
ヴィドーダバ王子は、そう高らかに宣言し、プラセーナジット国王を捕縛に向かったのだ。ヴィドーダバ王子の動きは、すぐにプラセーナジット王に伝わった。
「なんてことを・・・ヴィドーダバめ、父親であるわしに刃向うとは・・・。しかも、あれほど止めたカピラバストゥへの進撃を行うとは・・・。あぁ、世尊に会わす顔がない。わしは・・・なんと罪深いことをしてしまったのか・・・。世尊よ、どうか我を救いたまえ・・・。いや、嘆いている場合ではない。こうなったら、マガダ国のアジャセ王に救いを求めるしかない。あの者は、若いがカピラバストゥへの進軍を憂い、反対していた。アジャセ王に頼んでヴィドーダバを迎え撃ってもらおう」
こうしてコーサラ国への帰途にあったプラセーナジット王であったが、急きょ方向を元に戻し、マガダ国へと向かったのだった。
プラセーナジット王を乗せた馬車と護衛の兵隊の馬は、走りに走った。彼らは、ヴィドーダバの軍に追いつかれることなく、マガダ国へと入ることができた。しかし、それは真夜中のことであった。
「国王、城門が閉まっております。門の兵隊もいません。どういたしましょうか?」
「夜明けを待つしかないな。夜が明ければ兵隊が出てくるであろう。ここまでくればヴィドーダバも手はだせまい。大きな軍隊を連れてきているわけではないからな。まあ、夜明けを待つとしよう」
そうしてプラセーナジット王たちは、城門の前で夜明けを待つこととなったのであった。しばらくして
「うーむ、腹が減ったなぁ・・・。何か食べ物はないか」
とプラセーナジット王が馬車から降りてきた。周辺で休んでいた数名の兵士が
「どこかで食べ物を探してきます。持ってきていた食べ物はすべて食べてしまいましたので・・・」
と答え、すぐさま食料探しに出かけたのであった。
「ふむ、ぼんやり待っているのもなんだな。今は安全だから、わしも食べ物を探しに行くか」
すっかり安心しきっていたプラセーナジット王は、ぶらぶらと歩きだした。やがて国王は、畑にを見つけた。
「おや、畑があるぞ。おぉ、大根らしきものが置いてあるな。よし、一本くらいいただいても構わんだろう。後で金を払えばすむことだ」
国王は、大根を一本手に取ると畑に座り込んで、大根についた土を払い落すと、それに噛り付いた。
「ふむ、腹が減っているから、こんな大根でもうまいものだ」
国王は、あっという間に大根を食べてしまった。そして、その場で寝入ってしまったのであった。

夜が明けた。国王を探す兵隊たちの声でプラセーナジット王は、目が覚めた。彼は、兵隊の声にこたえようとした途端、激しい腹痛に見舞われた。
「うっ、うぅぅ、なんだ・・・・腹が痛い・・・・」
うずくまった時に国王は畑においてある大根を見た。その大根は、置いてあるのではなく捨ててあったのだ。
「あっ、こ、この大根・・・・すべて腐っている・・・ではないか・・・・・しかも・・・虫が・・・ついている・・・。うお、うおおおお、腹が・・・腹が痛む・・・・うぉぉぉ」
国王の叫び声に兵隊たちがやってきた。
「国王様、どうされましたか?。あっ、まさかこの腐った大根を食べたのでは?。なんてことだ。すぐに医者を!」
兵隊たちは、すぐに医者の手配を頼もうと門番の兵士に頼んだが、まだ夜が明けたばかりで医者も起きてはいなかった。急いで城内の医者を叩き起こし、同時にのた打ち回るプラセーナジット王を抱えて城の中に連れていった。医者に事情を話してみてもらったが、
「いかんのう、腐った大根に当たったうえ、どうやら虫が腹の中で繁殖しているようじゃ。もうすぐ、国王の腹は虫に食い破られてしまうであろう。これでは手の施しようがない・・・」
しばらくして、プラセーナジット国王は苦しみの中で亡くなったのであった。


139.大いなる変化
助けを求めに行ったマガダ国の城の目前で、コーサラ国のプラセーナジット王は亡くなってしまった。それは何ともあっけない死にざまだった。一緒にいた第二王妃や家臣の者たちは、マガダ国に匿われた。コーサラ国の軍勢がプラセーナジット王を追ってマガダ国に迫ってきているからだった。
マガダ国のアジャセ王は、軍隊を率いコーサラ軍を出迎えた。そして、プラセーナジット王がなくなったことを告げ、遺体をどうするか尋ねたのだ。コーサラ国の軍隊長は、新しい国王ヴィドーダバにその旨を伝え、返答を待つ間、待機することをマガダ国の軍隊長に伝えた。こうして、しばらくの間、マガダ国の国境付近でマガダ国軍とコーサラ国軍がにらみ合いの状態となったのである。
やがて、ヴィドーダバからの返答が来た。それは、
「遺体などどうでもいい。それよりも第二王妃を渡せ。渡さなければ、全軍をあげてマガダ国を攻める」
というものだった。
マガダ国のアジャセ王は、第二王妃にどうするかを尋ねた。
「ヴィドーダバの言う通りにすれば、当然ながら処刑されてしまう。かといって、あなたを匿えば、大きな戦争になるでしょう。私としては、戦争になっても構わないですが・・・。いや、いずれ大きな戦争となるのは避けられません。ですから、このまま逃げてはどうですか?。釈迦族の生き残りの者たちが、ヒマラヤ山ふもとに数名ですが逃げ延びているということです。そこへ行かれてはいかがでしょうか。護衛をつけますので、そうするといいと思いますが・・・」
アジャセ王の言葉に、第二王妃は深く頭を下げ
「私は、元々奴隷の出身です。奴隷の身分の者が、今さら釈迦族を頼るわけにもいきません。ヴィドーダバは、あれでも我が子です。私は、あの子の母親です。母親として責任を取ります。ありがとうございました」
といって、家臣とともに城を出て行ったのである。
第二王妃は、マガダ国軍とコーサラ国軍がにらみ合っているところまでくると、家臣には
「あなたたちは、不本意かもしれませんが、マガダ国に移住しなさい。コーサラに帰れば処刑されます。命を無駄にしてはいけません」
と言い残し、一人でコーサラ国軍の前まで進んだ。
「我が子に伝えてください。決して道を過たぬように、争いはやめるように、平和な国を造るように・・・。こうなったのはすべて私の責任です。望まれない母親であなたに要らぬ苦労をさせてしまった。私のことは、一切忘れてください。あなたには、母親はいなかった!」
第二王妃は、大きな声でそう叫ぶと、隠し持っていた短刀で喉をついて自害したのだった。一瞬の出来事であった。

コーサラ軍は、引き揚げていった。軍の目の前であったことは、ヴィドーダバ新国王にすべて伝えられた。ヴィドーダバは、しばらく部屋に引きこもってしまった。いくら奴隷の身分出身と言っても、やはり母親は母親だ。ヴィドーダバにとって、それは大きな傷となった。
「なんてことだ・・・。私は、母を追いつめてしまった・・・。なぜ、私は母を許さなかったのだ・・・。あぁ、私はなんて不幸なのだ・・・・。この不幸は・・・そう、そもそも父王がいけないのだ。何もかも好き勝手にやったことがいけないのだ。最後は大根にあたって死んだだって?。何という恥さらしな!。国王の品位にも欠ける!。あまりにも食い意地が張っているから、そんな恥ずかしい死に方をするのだ!。あぁ、何もかもあの父親が悪いのだ!。食い物と女に意地汚い、あの・・・あの・・・クソオヤジがいけないのだ!」
ヴィドーダバの怒りは、いつしか自分から父であるプラセーナジット王に向けられていったのだった。
「俺はあんなクソオヤジにはならない。国を治めることを忘れ、国を広げることを忘れ、平和に甘んじ、食い物と女のみを追求したバカオヤジみたいにはならない。そうさ、国王の役目は、国を豊かにすることだ。それには、国土を広めねばならない。コーサラは、今でも裕福だが、国民をもっと裕福にするには、国土が狭すぎる。あのクソオヤジは、怠けてばかりいて国土を広げるということを忘れてしまった。あんなクソオヤジが国王だったことは、この国にとっても不幸なことだ。そうだ、俺はクソオヤジの二の舞になってはいけない。オヤジができなかったことを成し遂げなければいけないのだ。それが、俺の役目だ。クソオヤジがやらなかったことを俺はやってやるんだ!。それは、俺にしかできないことなんだ!」
ヴィドーダバは、立ち上がった。目を輝かせ、さっそうと自室を出ると、すぐに軍隊の司令官を呼んだ。
「マガダ国を攻める。マガダ国を吸収して、大コーサラ国を創るのだ。準備をしろ!。これが国王としての最初の仕事だ!」
こうして、コーサラ国は戦争の準備を始めたのであった。
一方、マガダ国も戦争の準備を始めていた。それは、マガダ国に残ったプラセーナジット王の家臣たちからの助言によるものだった。
「ヴィドーダバ新国王は、以前より国の統一を国王に進言していました。ですから、この機会に必ず軍をあげて攻め入ってくるでしょう。準備をされた方がいい」
この助言に、アジャセ王は
「私もそう思っていた。彼は、激高する性格だ。これで終わることはない。何かと難癖をつけ、我が国を攻めてくるであろう。我が国も戦いの準備をしよう。あなたたちにも協力をお願いする。まずは、コーサラ国の守りの弱いところを教えてくれ・・・」
と、コーサラの元家臣たちに協力を仰いだのであった。
こうして、コーサラ国とマガダ国の戦争は始まったのである。

戦いは数か月に及んだが、あっけなくコーサラ国軍は敗退した。その原因としては、マガダ国に匿われた元コーサラ国の家臣たちの協力が大きかった。また、戦争中に、ヴィドーダバの兄であるジェータ太子が非協力的だったうえに亡くなったことがあった。
ジェータ太子は、戦争などわれ関せずという態度で毎日釣りに出かけていた。ある日のこと、母親であるプラセーナジット前国王の第一王妃や王妃の家臣たちと釣りに出けた。その日は晴天だったのだが、にわかに空が曇り一瞬のうちに嵐となってしまった。その嵐に巻き込まれ、ジェータ太子や母親である第一王妃らが乗った船は転覆。全員、流されてしまったのだった。
また、マガダ国のアジャセ国王の戦い方がマガダ国だけでなくコーサラの人々に支持されたことも、マガダ国の勝利の大きな要因でもあった。アジャセは、自国の国民には戦いに参加しないように指示をし、さらには、なるべく両国民に被害や迷惑がかかららぬよう、荒れ地で戦いを仕掛けたのだ。一方、ヴィドーダバは、国民も戦いに参加するように指示をした。戦争に期間を要したのは、アジャセの戦い方によるものだった。国民を無視して戦えば、もっと早くに終わる戦争であった。アジャセの両国民への配慮は、両国民から大きな支持を得たのだった。いや、それどころか、兵士たちにも支持を得たのだ。コーサラ国軍の兵士たちは、ヴィドーダバについていくことに疲れていたのだった。追いつめられたヴィドーダバは自害をし、コーサラ国は、マガダ国に吸収されることとなった。
短期間の間に、インドは大きな変化を迎えたのである。

「結局は、因果が廻ってしまったのですね」
アーナンダの言葉に、仏陀はうなずいた。
「釈迦族を滅ぼしたヴィドーダバは、結局は滅ぼされてしまった。無理やり手に入れた国王の座は、あっという間に奪われてしまった。戦争に加担はしなかったが、反対もせず、知らない振りをして贅沢を貪っていたジェータ太子も、その報いが来てしまったのだ。プラセーナジット王にしてもそうだ。あれほど食べ物には注意せよ、と話したのだが、最後は己の食い意地の汚さで命を絶ってしまった。
さて、こうした結果の元は何であろうか?。汝らはそれをよく考えねばならない。ただ、結果だけをながめ、『あぁ、哀れだ、愚かなことだ』と言っているようではいけないのだ。大切なのは、そこに至った原因である。なにゆえ、彼らはこのような結果を招いてしまったのか。前世を見るのではく、この世だけで考察してみるがよい」
仏陀は、弟子たちにそう問いかけた。長老以外の弟子たちは、深く一人考察する者、弟子仲間でぼそぼそと話し合う者などがいた。悟りを得た長老たちは、すでに答えはわかっているので、静かに成り行きを見守っていた。やがて、弟子の一人が手を挙げた。
「このような結果を招いた原因は、すべて欲にあると思います」
仏陀は、さらに続けるよう目で促した。
「プラセーナジット王が命を落としたのは、食欲という欲を自ら制御できなかったからです。己の食欲がしっかり制御できていたならば、夜中に腐った大根など食べずに朝まで待つことができたでしょう。日ごろ、食欲を制御せよ、と世尊に忠告されていたのにもかかわらず、プラセーナジット王は、食欲に負けてしまったのです。己の食欲という欲望さえ制御できていたならば、国王は命をなくさずに済んだのです」
若い弟子や新しい弟子たちの間から「おぉ、なるほど」などという声が聞こえてきた。仏陀は、さらに続けるよう促した。
「ジェータ太子らも同じです。国政には一切耳を貸さず、己の欲望のままに生きていました。国民の税金でのうのうと贅沢をしていました。せめて、国政に少しでも関わっていたならば、ヴィドーダバ王子を止めることもできたのではないでしょうか?。いや、そこまでしなくても、戦争下であるのなら、大人しく城にこもっていてもよかったのだと思います。国政に関わらないのであれば、しばらく外に出ることなく城で過ごすべきだったのでしょう。国政にも関わらない、ヴィドーダバ王子を止めることもない、知らない振りをして遊びまわっていたが為に、災難に遭ってしまったのでしょう。自分の立場をわきまえなかったことが原因でジェータ太子は命を落としたのです。そこには、自分勝手という欲があったためだと思います。自分の欲望のまま振る舞えば、災難に遭うことは仕方がないでしょう」
またもや、他の弟子たちから「ふむふむ、なるほど・・・」という声が聞こえてきた。
「最後にヴィドーダバ王子です。確かに、彼の生い立ちは哀れかもしれません。しかし、人の品位は身分で決まるものではないでしょう。母親が奴隷階級出身だからと言っても、それを気にせず、善政を心がけようと思えばできたはずです。身分をあまり気にしなかったプラセーナジット王のようにすれば、コーサラ国が滅ぶことはなったと思います。自らの間違った誇りが、道を間違えさせたのでしょう。釈迦族を滅ぼしたことで、彼は自惚れてしまったのではないかと思います。国土を拡大できる、それがよい国造りだ、自分はそれができる・・・と彼は勘違いしたのだと思います。それは単なる自己顕示欲であり、威張りたい、君臨したいという名誉欲にすぎません。彼こそ、欲望そのものでしょう。すべてを手に入れたいという欲に負けてしまい、戦争に走ったのです。欲にまみれて仕掛けた戦争です。負けるのは仕方がありません。アジャセ王には、余裕がありましたから。アジャセ王にしてみれば、仕掛けられた戦争です。そこには、国民を守るという国王としての当然の思いしかありません。もし、アジャセ王が、この先、欲を以て支配をしようとすれば、彼もまたヴィドーダバ王子と同じ運命をたどることでしょう」
その弟子は、そこまで語ると礼をして座った。仏陀は、一つうなずくと話を始めた。
「よく考察した。その通りである。すべては間違った欲によるものだ。その欲に自分が飲まれてしまったがために、死へと導かれてしまったのだ。己の欲に負けなければ、平和で安穏な生活があったことであろう。欲は恐ろしい。何もかも滅ぼしてしまう。しかし、欲はいつでも、だれでも、どこでも生まれてくる。大切なことは、その欲に負けない強い心であり、その欲を分析し、考察する智慧である。すべての欲を制御できる智慧が身に着けば、汝ら悟りはもう目の前であろう。欲を制御できる智慧を得ることが大事なのだよ」
仏陀は、そう結んだのであった。

このようにインドの国々の間には、大きな変化があった。コーサラ国、マガダ国の二大国は統合され、大きなマガダ国となったのである。その周辺には、まだまだ小さな国々があった。そうした小国は、マガダ国の恐怖にさらされることとなったのである。


140.去る弟子
マガダ国とコーサラ国の中間点に大きな街があった。ヴリッジ族が治めている街ヴァイシャーリーである。この街は、マガダ国とコーサラ国を行きかう商人や旅人達のお陰で大繁栄をしていた。仏教教団を始め、各宗派の聖者たちへの支援も厚く、宗教者も多く集まってくる街であった。仏教の修行者が修行をする精舎もあった。
ヴリッジ族は、ヴァイシャーリーの繁栄により、経済力が強大となり、大きな力をつけてきていた。それは、マガダ国にとって脅威にも感じられるものになっていた。
「コーサラ国も統合した。小さな国々も我がマガダ国の属国となることとなった。しかし、ヴリッジ族だけが首を縦に振らん。あの国は、益々力をつけてきている。何とかならぬか?」
コーサラ国を破ったアジャセは、マガダ国王として国民の大きな信頼を得ていた。今では、青年であるアジャセも国王らしくなったのだった。しかし、そのアジャセ国王にも心配の種があった。それがヴリッジ族の繁栄である。彼は側近の大臣に尋ねたのだった。大臣は、アジャセ国王に告げた。
「もし、戦争を仕掛けてマガダ国に統合するのでしたら、今のうちでないと・・・。彼らは、益々力をつけるでしょう」
「う〜ん、そうか・・・。しかし、我が国も無傷というわけにはいかないだろうな」
「そうですね。コーサラ国は、相手がヴィドーダバだったこととコーサラ国の元大臣たちが協力をしてくれたおかげで、楽な戦争となりました。しかし、ヴリッジ族はそういうわけにはいかないでしょう」
「あの国を支持する商人も多いしな。戦争の結果においては、失うものも多いかもしれぬ」
「世尊に尋ねてみてはどうですか?。今、世尊は鷲の峰・・・霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在しております。世尊に伺ったほうがいいかと思います」
「世尊か・・・・。どうも・・・苦手でなぁ・・・」
「世尊は、ダイバダッタ尊者のことや前国王のことなどは、もう何も言われません。私も一緒に行きますので・・・」
「そうか・・・。では、世尊の元へ行くとするか。いつまでも知らない顔もできないだろうし・・・」
こうして、アジャセ国王は大臣とともに仏陀の元へと向かったのであった。

鷲の峰・・・霊鷲山では多くの修行者が修行に励んでいた。仏陀も瞑想をしていた。ふと瞑想から目覚めると、
「アーナンダよ、間もなくアジャセ国王がやって来る。来られたら、何も言わずすぐに案内しなさい」
「世尊、よろしいのですか?。アジャセ王は、ダイバダッタと組んでビンビサーラ国王を幽閉した者です。そんな者を・・・」
「もう終わったことだ。そのような恨みや思いは、きれいに捨て去るがよい、アーナンダよ。そうした過去のことにいつまでもこだわってはならぬ。ビンビサーラ前国王にも、そうなるべく因縁があったことなのだ。それも、もう終わったことである」
「わかりました。すぐに案内いたします」
アーナンダは、仏陀の言葉にうなずいたのであった。
間もなく、アジャセ国王が大臣と数名の護衛の兵士を伴い霊鷲山にやってきた。アーナンダは、すぐさま仏陀のもとへと案内した。
「せ、世尊・・・。その・・・・」
「アジャセ国王、過ぎたことはもうよいではないか。あなたが反省し、心を入れ替え、国民のために善政を敷いているのならば、私は何も言うことはない。これからも、国民が安心して過ごせるよう願うのみである」
仏陀の言葉に、アジャセは思わずひれ伏していた。
「さて、アジャセ国王、今日はどうのようなことでここに来られたのか」
「はい、今、国の安定に関して不安なことが一つあるのです。それは、ヴリッジ族のことです。かの国が我らマガダ国の脅威にならないかと懸念しておるのです」
仏陀はそれには答えず、アーナンダに向かって問いかけた。
「アーナンダよ、ヴリッジ族の人々がしばしば会合し、よく集まるという話を汝は聞いたことがあるか」
アーナンダは、即座に
「はい、そのように聞いております」
と答えた。仏陀は続いてアーナンダに問いかけた。
「アーナンダよ、ヴリッジ族の人々は一致和合して会合し、決議し、事を処理していると聞いているか」
「はい、世尊、そのように聞いております」
アーナンダは、またもや即座に答えた。仏陀は続けた。
「アーナンダよ、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っていると聞いているか」
「はい、世尊、そのように聞いております」
「アーナンダよ、彼らは年長者を尊敬し、その言うことをよく聞いているか」
「はい、世尊、そのように聞いております」
「アーナンダよ、彼らは婦女子を強制して、無理やりいうことをきかせようとしてはいないか」
「はい、世尊、そのように聞いております」
「アーナンダよ、彼らは内外の精舎や神殿を崇拝し、昔からのしきたりの供物を怠ってはいないか」
「はい、世尊、怠ってはおりません」
「アーナンダよ、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそからくる宗教家も喜んで立ち寄り、また以前からいる宗教家も喜んでそこに留まっているか」
「はい、世尊、そのように聞いております」
「アジャセ王よ、私はかつてヴァイシャーリーのそばの精舎に滞在中、ヴリッジ族の人々にこれらの7つの教え・・・七不衰法・・・を伝えた。彼らがこの法を守っている間は、繁栄こそはすれ衰退することはない。ましてや、他国からの侵略は難しいであろう」
仏陀は、アジャセ王にそう教えたのだった。アジャセ国王は、
「なるほど・・・わかりました。ヴリッジ族の人々が、その七つの教えの一つでも守っている間は、彼らは繁栄するのですね。ヴリッジ族を攻めることは、やめておきます」
と仏陀に言った。
「それがよいであろう。ただし、ヴリッジ族の人々がこの法を捨ててしまった時や、何か陰謀があり内部分裂でもしてしまった時は、その繁栄も終わるであろう」
「そのようなことが・・・・いや、この世の中何があるかわかりません。コーサラの前国王のようなこともあるのですから・・・。わかりました。もし、ヴリッジ族の人々が七つの教えを捨てた時や、陰謀などで内部分裂を起こした時などは、私が仲介に入りましょう。そして平和に処理いたします」
アジャセ王は、仏陀にそのように誓ったのであった。
その後、アジャセ王は、武力による他国への支配は一切しなかった。小さな属国に対しても、平和な外交で緩やかな支配を行ったため、大きな混乱は起こらなかったのだ。旧コーサラ国にしても、以前と何ら変わることなく、人々は平和に暮らしていたのだった。

時は流れ、仏陀も年を取るとともに、体力的な衰えがみられるようになった。
「最近、世尊は寂しそうにしておられる。あの後姿を見ると、何とも言えない悲しさが漂っているように思えるのだが・・・。アーナンダよ、何か聞いてはいないか?」
長老の一人が、アーナンダに尋ねた。
「はい、私は何も聞いてはおりません。しかし、世尊は、このところ体力的に弱っていらっしゃるようで・・・・。今回の霊鷲山から祇園精舎への旅も辛そうでありました。しかし、愚痴の一つもこぼされません。時折、法話の最中にシャーリープトラ様に代わってくれと頼む程度です」
「そうか・・・。そう言えば、アーナンダよ、汝も世尊とはそれほど年齢差がないのだが、汝は元気なようだな」
「はい、私は、元々身体だけは丈夫で・・・。足腰も強く、体力もあります。世尊は、幼少のころより胃腸が弱く、身体も弱い方でした。よく木の陰で休んでおられた。元々、身体は丈夫ではありませんから」
「そうか・・・。世尊にお伝えください。あまり無理をせぬようにと・・・」
アーナンダは、深く礼をすると、「伝えます」と言って、仏陀のもとへと歩いていった。
祇園精舎に来てからの仏陀は、よく考え事をしているようでもあった。若い弟子たちへの教えや指導は長老たち任せ、一人部屋にこもって瞑想することが多かった。また、人々への法話も、話初めてからしばらくすると
「シャーリープトラよ、背が痛む。代わってくれ」
と交代を願うことがよく見られた。そういう場合、仏陀はすぐに自室にこもり、瞑想したのだった。仏陀の衰えは、誰もが認めるところとなったのだ。弟子たちは、そろそろ仏陀は引退し、シャーリープトラ尊者に教団を譲るのではないか、と噂し合ったのだった。
「困った噂が流れてますね」
シャーリープトラは、モッガラーナにそう言った。
「あぁ、気にするなよ。それが事実でないことはもうすぐわかるさ。これから世尊のところへ行くのだろ?」
「あぁ、そうだ。いよいよその時が来た。これから私は世尊に挨拶をし、お暇もいだたこうと思う。モッガラーナ、君もじゃないのか?」
「そうだ。だが、私はシャーリープトラよ、君の後に世尊に会うことにするよ」
「世尊は、衰えられたが、仏陀であらせられることには変わりはない。アーナンダにもしっかりと言っておかねば」
「シャーリープトラよ、君らしい。ここ去ろうというときに、アーナンダの心配かい?」
「モッガラーナよ、そういう君だって、同じことを考えていただろう」
「あぁ、どこまでも二人は同じなんだな。生まれた日も一緒、故郷を捨てた日も一緒・・・」
「そして、同じ師の元で修行をし、悟りを得た」
「君には、勝てなかったけどな。智慧第一のシャーリープトラ尊者よ」
「いやいや、君の神通力には遠く及ばないよ、神通第一のモッガラーナよ」
「しばしの別れだな」
「あぁ、しばしの別れだ。では、世尊のところへ行ってくる」
シャーリープトラがそう言うと、モッガラーナは深くうなずいた。そして、世尊の元へと向かうシャーリープトラの背中をいつまでも見つめていたのだった。

「いよいよその時が来たか」
シャーリープトラが仏陀の方へやって来る姿を目にすると、仏陀はそうつぶやいた。
「世尊、お暇を頂きに参りました」
「出会った以上、別れがあるのは当然である。この世に生まれた以上、死があるのも当然である。それが真理だ。アーナンダ、よく理解するがよい。シャーリープトラよ、ご苦労であった」
「はい、世尊。長い間・・・今世ならず過去世においても・・・・お世話になりました。これにて迷いの世界から離れ、真の彼岸に至ります」
シャーリープトラの言葉に、仏陀は深くうなずいた。シャーリープトラは一つうなずくと、
「アーナンダよ、世尊は仏陀であらせられる。真の姿を見よ。仮の姿である姿に惑わされてはいけない。仏陀の真の姿を見るのだ」
とアーナンダに教えたのだが、アーナンダには理解はできなかった。シャーリープトラは、ふと寂しそうに微笑むと、「では」といって立ち上がり、五体投地の礼拝をすると、仏陀の前を去って行った。

しばらく後、今度はモッガラーナが仏陀の前にやってきた。
「その時が来たのだな」
「はい、これより・・・私の身に起こることがありますが、私はすべて受け入れることにしました」
「わかっておる。まだ、話すことができよう」
「はい、ご迷惑をおかけいたします。長い長い間、教えを頂き、ありがとうございました。先に真実の世界へ行ってまいります」
「先ほどシャーリープトラも暇を告げていった。この教団も寂しくなるものよ」
「まさしく諸行無常でありますね。アーナンダよ、私たちの身を持っての教え、無駄にせぬように修行に励んでくれ。では、これにて」
モッガラーナはそれだけ言うと、五体投地の礼拝をして精舎の外へと向かった。アーナンダは、何のことかわからず
「モッガラーナ尊者も、シャーリープトラ尊者も、いったい何をおっしゃっているのでしょうか?」
と仏陀に尋ねた。仏陀は、
「いずれわかるであろう。今言われたことを忘れぬことだ」
と言ったきり、深い瞑想に入ってしまったのだった。

祇園精舎の外で、覆面をした男が二〜三人ほど木の陰にいた。
「あれだ。あの男がモッガラーナという修行僧だ」
「あいつが神通力第一と称されたモッガラーナか。しかし、そんな神通力を使うヤツを・・・」
「大丈夫だ。神通力の使用は仏陀に禁止されている。アイツが神通力を使ったと言われたのは、もうずいぶん前の話だ。ひょっとしたら、神通力第一というのは単なる噂であって、本当は大したことはないのかもしれない。案外そんなものであろう」
「そうかもな。くっくっく・・・。まあ、いい。後をつけるか」
覆面の男たちは、こっそりとモッガラーナの後をつけて行ったのだった。


141.二大弟子の最後その1
「な、なんだと、また弟子がゴータマの元へ行っただと?」
そう叫んだのは、仏教教団が外道と称したとある教団の教祖だった。ゴータマとは、仏陀のことである。外道たちは、仏陀のことを仏陀とか世尊と称せず、ゴータマと蔑んで呼び捨てにしていた。
「な、なぜだ・・・。なぜまたゴータマの元へ・・・」
「師よ、仕方がありません。師の教えよりもゴータマの教えの方が優れているのです。真面目に真理を知りたいと望むものは、皆ゴータマの元へと向かいます」
「わしの元にいては真理が悟れぬというのか!」
「お言葉ですが、師よ。その通りです。ゴータマが現れるまでは、師の教えはこの世界で最も優れたものでした。しかし、ゴータマの教えはそれを越えております」
「うぅぅぅ、確かにゴータマが現れるまでは、わしの教団は数千人の規模だった。この聖地でも数えきれないくらいの多くの弟子が修行をしていた。それが今は・・・・何と寂しいことよ。修行者の数もまばらではないか・・・」
「はい、とても寂しい限りです。それもこれも、すべてはゴータマがこの世に現れたことが原因かと・・・」
「いやいや、そうではない。確かにゴータマが現れてから、この教団の弟子は減った。しかしな、それは正確ではない。よく振り返ってみろ。ゴータマが現れたころのあいつの教団は、今ほど大きくはなかった。ほんの千人程度のものだった。しかも、在家者も多く、本当の修行者の数はそれほどでもなかったはずだ」
「そう言われてみれば・・・。では、なぜこのように我が教団から修行者がゴータマの元へ走ったのでしょうか?」
「簡単なことよ。ゴータマの弟子のモッガラーナだ。あいつが神通力を使い、『仏陀の元へ来ればこれほどすごい神通力を使えるようになる』と宣伝したからだ。それに騙された修行者がゴータマの元へ走ったのだ」
「師よ、しかし、今は神通力の使用は禁止されています。モッガラーナ尊者も神通力は使用していないはずでは・・・」
「そんなことはない。公の場所での神通力は禁止されているから使わないが、他の教団の近くに来てはこれ見よがしにモッガラーナは神通力を披露していくのだ。それを見た他の教団の修行者たちは、その神通力に引きつけられ、モッガラーナについて行ってしまうのだ」
「そ、それは本当ですか?」
「あぁ、本当だ。わしもそれを見たし、他の教団の師たちもそう話していた。間違いないのだ。モッガラーナが、仏教教団以外の教団の目の前で神通力を披露して、修行者たちを誘惑しているのだ」
「そ、そんな悪い奴だったのですね、あのモッガラーナは!。あぁ、私はあの方は立派な尊者だと思っていました・・・。では、あの者がいなければ、ゴータマの教団は・・・」
「そういうことだ。ゴータマは自分では何もできん。モッガラーナという手品師がいたからこそ、ゴータマの教団は大きくなったのだ」
「手品?。モッガラーナは手品を使っていたのですか?」
「当り前であろう。妙な催眠術や手品を使わねば、噂に聞くような神通力が使えるわけがなかろう。わしも長年修行をしているが、モッガラーナのような神通力など使えぬ。いや、あんな神通力を使えるものは、見たことも聞いたこともない。ならば、それは催眠術や魔術、手品に決まっておる。何も恐れることはないのだ。あれは手品や催眠術だ」
「そうだったのですか。ならば何も怖いことはありませんね。ヤツの手の内にはまらなければいいだけだ。催眠術は、ヤツの目を見なければいい」
「そういうことだ。あぁ、モッガラーナさえいなければ、我が教団も昔のように大きくなるのだが・・・。そうなれば、わしの後を継ぐ汝も・・・・」
「わかりました。師よ、良い方法があります。私は街のならず者に知り合いがあります。彼らは金さえあれば何でもします。私にお任せください」
こうして、この教団の弟子は街のならず者にモッガラーナ尊者の暗殺を依頼したのである。

モッガラーナは、仏陀に最後の挨拶を済ませると、一人で祇園精舎の森の奥へと入って行った。彼が指導していた弟子たちには、
「決してついてくるではない。私は孤独の行に入るので・・・」
と告げていた。さらに、まだ悟りを得ていない弟子たちは、他の長老の指導に従うよう指示し、長老たちにはその旨を願った。
「そうか・・・。モッガラーナ尊者も・・・・いよいよ一人の行に入るのか・・・」
長老たちは、少し寂しそうな顔をしてモッガラーナを見送ったのだった。
その翌日のこと、モッガラーナは、いつものように托鉢を済ませ、食事をとり、瞑想の後に祇園精舎の森を街に向かって出かけたのだ。
「ふむ、やはり後をついてくるか。もう世尊には挨拶は終わった。惜しむべき命ではないのだが、簡単に命を取られてしまうのも・・・・相手にとってはよくないことだ。物事は簡単には成就しないということを教えてやることも大切であろう。ならば・・・」
モッガラーナ尊者は、そのあとをこっそりつけていた覆面の男たちの目の前でスーッと消えてしまったのだった。
「お、おい、モッガラーナはどこへ行った?」
「い、いま、消えたよな、消えたよな。ま、まさか神通力か?」
「バカなことを言うな。アイツは神通力は使えない。手品や催眠術は使うがな。なんかからくりがあるに違いない。俺たちは、アイツのからくりが使えるところに誘導されたんだよ。ビビるんじゃねぇ」
「そ、そうなのか、ならばいいんだが・・・。神通力が使えるなら、ちょっと厄介かも知れないと思って・・・」
「くっそ、ほら見ろ、こんな狭い場所に通路がある。きっと、ここをくぐって向こう側に出たんだろう。あいつら修行者の身体は細いからなぁ」
「今日のところは仕方がない。明日、出直すとしよう」
覆面の男たちは、その場を去って行ったのだった。
その翌日もモッガラーナは、托鉢から帰ってくると食事をとり、静かに瞑想をし、そのあと街の方へと出ていったのだった。
「ふむ、やはり今日も後をつけてきているな。さて、彼らはいつ私に襲い掛かってくるのか・・・」
モッガラーナは、ちょっと微笑んでいた。まるで、覆面の男たちが襲い掛かってくるのを楽しみに待っているかのようだった。
「ふっふっふ。今日もギリギリのところでかわしてやろう」
モッガラーナは、まるで彼らを誘うかのように、細い路地へと入って行った。
そうとは知らない覆面の男たちは、モッガラーナに襲い掛かる機会を狙っていた。彼らは、目で合図を送った。「それっ!」という掛け声と同時に、男たちはモッガラーナに飛び掛かった。が、そこには誰もいなかった。
「おい、どうなっている。また、あのヤロウ、消えやがった!」
「おい、本当に神通力じゃないだろうな。こんなところで消えるか?」
「待て待て、ほらここを見てみろ」
一人の男が指をさしたところの壁には、下の方に小さな穴がいていた。
「ここから、この家の中にもぐりこんだに違いない」
「けっ!、汚ねぇヤロウだ。逃げやがって!」
「ま、いいじゃねぇか。いつまで逃げられるか、試してやるのも面白れぇ」
覆面の男たちは、卑屈な笑いをしたのだった。
次の日もモッガラーナは、午後になると街に出かけ、覆面の男たちが後をつけてきているのを確認すると、狭い路地に彼らを誘い込んだ。そして、彼らの目の前で消えたのだった。
そんなことが、さらに三日続いた。
「さて、今日であの覆面男たちが私を付け狙って7日目か。もうそろそろ潮時だな。覚悟を決めねば・・・」
モッガラーナはそういうと、沐浴をし、衣を整え、身ぎれいにした。その姿は、神々しくもあった。
颯爽としたいでたちで、モッガラーナは祇園精舎を後にした。しばらくすると覆面の男たちが3人後をつけているのが確認できた。
いつものようにモッガラーナは、彼らを細く狭い路地に誘い込んだ。
「ほほう、彼らも賢くなったようだ」
モッガラーナは、微笑んで独り言を言った。覆面の男たちは、モッガラーナの後ろに二人、前の方に一人と分かれていたのだ。モッガラーナの前にいた男は、その通路に逃げられるような隙間や穴がないことを確認し、その場でモッガラーナを待ち伏せた。
「ふむ、今日は逃げないつもりなのだが・・・。まあ、彼らの手柄にしてやるのもいいか」
モッガラーナは、彼らの罠にはまることにしたのだった。
「おい、修行僧よ、ここから先へはいけないぞ」
「ほほう、そのようですな。では・・・」
モッガラーナはそういうと、その場に結跏趺坐をして座ったのだった。
「てめぇ、ふざけんじゃねぇぞ!」
「覚悟しやがれ!」
口々に男たちは叫び、モッガラーナに殴り掛かっていったのだった。
日が沈みかけていた。モッガラーナは、まだ息があった。すぐそばに長い影があった。
「せ、世尊・・・。わざわざ来てくださったのですか・・・」
「モッガラーナよ、よく耐え忍んだ。汝は、我が教団の手本であり、誇りである」
「世尊、お世話になりました」
それが最後の言葉だった。東の空に満月が浮かんでいた。

モッガラーナが、覆面の男たちに付け回され始めた日の早朝、シャーリープトラは故郷であるナーラカ村へ旅立とうとしていた。
「尊者!、シャーリープトラ尊者!」
そう呼びかけてきたのは、ラーフラであった。ラーフラは仏陀の息子であったが、シャーリープトラが指導をしていた。そのためか、ラーフラは早くに悟りを得ていた。
「尊者、いよいよ旅立たれるのですね。私も是非ついていきたいのですが・・・」
「ラーフラよ、汝はもう悟りを得ているではないか。私が教えることは何もないのだよ。これからは、世尊について教えを請うがよい」
「しかし、尊者は私にとっての大恩人です。尊者は・・・・私は・・・最後までお供したいのです」
「ラーフラよ・・・・」
「私だけではありません」
ラーフラがそういうと、木陰から500人ほどの弟子たちが現れた。すべてシャーリープトラを慕って、彼の指導を仰いでいた修行者たちである。その中には悟りを得た者もいれば、まだ出家して間もない者もいた。
「兄さん、否、尊者。私も一緒に行きます。尊者の目的は、母のことでしょう?」
「マハーチュンダ・・・。あぁ、汝も気にかかっていたのかい?」
「はい。あの母は・・・今でも・・・・」
「あぁ、わかっている。そうだ、私の最後の説法を母にしようと思ってね。それでどうなるかはわからないが、せめて法を聞かせておかないと、このままでは・・・・母は・・・・」

シャーリープトラには、一人弟がいた。それがマハーチュンダである。シャーリープトラは、仏陀の元で修行をし悟りを得た後、故郷に帰り弟のマハーチュンダを出家させてしまった。マハーチュンダは喜んで出家をしたのだが、彼らの母親は烈火のごとく怒ってしまったのだ。
「シャーリー!、お前は何という親不孝者だ!。マハーチュンダまで連れ去ろうというのか!。私を一人ぼっちにして・・・。お前は悪魔だ!、悪魔の使いだ!。もう二度と帰ってくるんじゃない!。この悪魔め!」
「お母さん、いずれ女性でも世尊の弟子になることができるようになります。その時に迎えにきますので、どうか待っていてください」
シャーリープトラは、そう母親を説得しようとしたのだが、彼女は聞く耳を持たなかった。皿など手当たり次第に投げつけたかと思うと、箒で彼らを叩こうとしたのだ。
「仏陀か何か知らないが、そんなものを私は信じない!。私に必要なのは、今日暮らす食べ物とお前たちなんだよ!」
「母さん、私たちは死ぬわけではありません。修行をするだけです。会おうと思えばいつでも会えます」
「この親不孝者どもめが!。私はその修行者が大嫌いなんだよ!。働きもせず、物乞いをして生きるなんて!。みっともないったらありゃしない。お前たちみたいな残飯食いは、消えていなくなればいいんだ!。この残飯くらいが!」
「マハーチュンダ、行こう」
シャーリープトラは、そういうと首を横に振りながら歩きはじめた。弟のマハーチュンダは、黙ってそのあとをついていったのだった。

「母を救いに行くのですね?」
マハーチュンダの問いかけに、シャーリープトラはゆっくりとうなずいたのだった。


142.二大弟子の最後その2
シャーリープトラと弟のマハーチュンダ、そして仏陀の子であるラーフラと、さらにシャーリープトラを慕う500人の修行僧は、祇園精舎を後にし、シャーリープトラの故郷であるナーラカ村へと旅立った。
数日後、彼らは無事にナーラカ村にたどり着いた。シャーリープトラは、すぐには家に戻ろうとしなかった。いきなり尋ねても追い返されるだけだと知っていたからだ。そこで、甥の家を訪ね、
「私とマハーチュンダが戻ってきた、と母に知らせてくれないか」
と頼んだのである。この知らせを聞いた母親は、てっきり二人が出家生活をやめて戻ってきたのだと勘違いした。シャーリープトラは、その勘違いに乗じて、マハーチュンダと二人だけで生家に戻ったのだった。ラーフラや500人の弟子たちは、近くの森で休んでもらうことにした。
シャーリープトラたちは、それぞれ自分の育った部屋に入った。しかし、その時すでにシャーリープトラは、病にかかっていたのだった。そして、彼はそのまま寝込んでしまった。高熱を発していたのだ。彼は、母親に
「母上、私の最後の頼みです。どうやら私の命はそう長くはありません。どうか、我々の出家を許し、世尊の教えに耳を傾けてください」
と願った。しかし、その言葉を聞くや否や、母親は、急激に怒り出し、
「まだ、そんなことを言っているのか!。どうせ疲れが出ただけでしょ。残飯ばかり食べているから、身体が弱くなっているのよ。修行をやめて私が作った御馳走を食べれば、すぐによくなるわよ!。それがイヤだっていうのなら、さっさと出て行っておくれ!。いいかい、修行をやめてうちに戻ると言わない限り、あたしはあんたたちを許さないからね。今は、もう夜更けになってしまったから、仕方がないけど・・・。いいかい、うちに戻らないのなら、明日の朝、夜明けとともにさっさと出て行っておくれ!」
そう叫ぶと母親は、自分の部屋に閉じこもってしまったのだった。
(母は、怒りのせいで私が病に罹っているいることすら気が付いていない。これでは母を救うことはできない・・・ラーフラよ、私の声が聞こえるかい)
シャーリープトラは、滅多に使わない神通力を使い、ラーフラに呼びかけた。
(尊者よ、聞こえます。どうされましたか?)
ラーフラも神通力で答えた。
(どうやら、母親の怒りはまだ収まっていないらしい。私は、高熱で起き上がれない)
(高熱ですって?。わかりました。今すぐに全員で見舞いに行きます)
こうしてラーフラと500人の修行僧は、シャーリープトラの家へとやってきたのである。
「尊者の見舞いにきました。どうか尊者の部屋に案内をお願いいたします」
ラーフラは、玄関でそう声をかけた。その声を聞きつけ、母親は、
「こんな夜更けに何だっていうんだ!。尊者だって?、それは誰のことだ!」
と叫びながら玄関へと向かった。そして、玄関を開けると・・・そこには500人もの修行僧が立っていたのである。
「こ、これは・・・・」
母親は何も言えなかった。
「尊者のお母様でいらっしゃいますか?。尊者を見舞いに来たのです。どうか、尊者の部屋へ案内をしてください」
ラーフラは、そう頼んだ。
「尊者?、尊者って・・・誰のこと・・・」
「決まっています。シャーリープトラ尊者ですよ。我々は、尊者に指導をしていただいている修行者です」
母親は、びっくりしてしまった。自分の息子にこんなにたくさんの弟子がいることに驚いたのである。
(あの子は・・・そんなに偉い人になったのかしら・・・)
彼女は、半信半疑ながらも、ラーフラたち修行僧をシャーリープトラの部屋に案内した。
「あ、あんたの弟子とやらが、大勢見舞いに来ているよ」
母親は、それだけを告げると部屋から出ていった。500人の修行僧たちは、順にシャーリープトラを見舞いはじめた。
そのうちに彼の部屋が輝き始めたのだった。その光は、上空から降りてきていた。
「な、なんなのあの光は・・・・?」
母親は、屋根を突き抜けてくる光に呆然としていた。しばらくすると、聞いたことがない心地よい音楽が流れてきた。さらには、嗅いだことがないとてもいい香りがあたりを包み込んだ。彼女は、何とも言えない穏やかな気分になっていったのである。
すると、シャーリープトラの部屋に天女や神々らしき人がいるではないか。
「あ、あれは・・・・。もしや・・・」
「あれは、天界の神々ですよ。あぁ、帝釈天様だ。兄は、帝釈天様にも教えを説くことができるのですよ」
とマハーチュンダが、母親に言ったのであった。
天女を引き連れた帝釈天は、シャーリープトラを見舞いに来たのだ。シャーリープトラは、帝釈天に
「この世は無常なのです。こうして私の肉体も滅ぼうとしています。しかし、私は、死を乗り越え、あらゆる欲を捨て去っています。今は、時を待つ身です。帝釈天よ、あなたも決して死や老い、病を怖れてはいけません。それは、神々といえども必ずやって来るものです。すべてを受け入れ、決して現実から逃げないように心正しく修行に励んでください」
と教えを説いたのであった。
「あ、あの子が・・・あの子が、神に説教をしている・・・どういうことなの・・・・」
帝釈天と天女たちは、シャーリープトラに礼を述べると、上空へと舞い上がり、消えてしまった。やがて、音楽が消え、香りも消え、光が消え去った。いつの間にか、500人もいた修行僧たちもいなくなっている。
母親は、静かになったシャーリープトラの部屋に入って行った。
「あ、あなたは・・・・いったい、何ものなの?」
母親は、オドオドしながらそう尋ねた。
「母よ、私は何ものでもありません。あなたの子、シャーリーです」
「でも、あなたの弟子だという500人もの修行僧がやってきたし、それに・・・あれは神々なのでしょう?」
「あぁ、そうですね。帝釈天と天女です。私を見舞いに来てくださったのですよ」
「あなたは・・・神が見舞いに来るような人になったのですか?」
「母よ、世尊・・・仏陀の教えを聞き、悟りを得られれば、神々はその者を祝福にきます。神々は、悟りを得た者の教えを聞きにやって来るのです。仏陀世尊の周りには、いつも神々がいます。神々は、世尊の教えを聞き、世尊の教えのみを頼りにして暮らしているのです」
「あなたが慕う仏陀という人は、本当にあの伝説の仏陀なのですね?」
「そうです。この世のすべてを、いや、この宇宙すべての真理を悟った方、仏陀なのですよ。私はまだまだそこまで及びませんが、ありがたいことに多くの弟子を持つこともできたし、神々も私の教えを聞きに来てくれるようになりました」
「そうだったの・・・。あなたは、そんなにも立派になっていたのですか・・・・」
「マハーチュンダも同じです。彼も悟りを得ているんですよ」
「兄さんほどではありませんが・・・。私は、まだまだ至りません」
マハーチュンダは、そう言いながらシャーリープトラの部屋に入ってきた。こうして、何年ぶりかに親子三人がそろったのであった。

シャーリープトラは、夜が明けるまで母親に教えを説いた。母親は、それを熱心に聞いていた。そして日が昇るころには、母親の誤解はすっかり消え、彼女もまた仏陀に帰依するようになっていたのである。
ラーフラを始め、500人の弟子たちが夜明けとともにシャーリープトラの家へと再びやってきた。彼は、病床から起き上がると広い場所へと移動をした。
「修行僧たちよ。私が修行者として過ごしてきたこの44年間、私はあなたたちを怒らせたり、不満に思わせたことはなかったであろうか」
シャーリープトラは、彼らに向かって言った。
「尊者よ、そのようなことは決してありません。尊者に罪は何もありません」
「ふむ、よかった」
シャーリープトラは、そういうと、自分の部屋まで戻り、再び眠りについた。そして、その晩のこと。そのまま、静かにこの世を去ったのである。東の空に満月が輝いていたのだった。

翌日のこと。祇園精舎は、寂しい朝を迎えた。長老たちは、普段と変わらぬ態度であったが、どことなく寂しそうな様子であった。何も知らない弟子たちは、
「なんか、今日は様子が変じゃないか?」
「変って?。そうかなぁ・・・。いつもと変わらないんじゃないか?」
「う〜ん、うまくは言えないんだが、なんだか沈んでいるような・・・」
「あぁ、わかるわかる。なんか、暗い感じがするよ」
「そうかなぁ?、いつもと変わらないだろう」
などとコソコソ噂し合っていたのだった。しかし、長老たちも仏陀も何も言わず、いつも通りに沐浴を済ませ、いつも通りに支度をすると托鉢に出て行ったのである。
「ほら、いつもと同じじゃないか。長老たちも世尊も托鉢に出られた。我々も修行に励まねば」
「そうだな。俺の勘違いかも知れないな」
修行僧たちは、あわてて支度を澄ますと、街へと托鉢に出て行ったのである。
誰も何も言わなかった。仏陀もシャーリープトラとモッガラーナの死のことについては一言も言わなかった。仏陀が言わない以上、長老たちも口を閉ざしていた。悟りを得ていない修行僧たちも、なんとなく雰囲気が以前と異なるということは感じていたが、あえて誰も長老たちに尋ねることはなかった。誰も、シャーリープトラ尊者はどうしたのか、モッガラーナ尊者の姿が見えないけど・・・と口にする者はいなかったのである。また、そうした変化に全く気が付かない者もいた。そうした者たちは、自分のことで精いっぱいで、そこまで気が回らないのだ。知っていて口を閉ざす者、雰囲気が異なることに気付いた者、全く気が付かずに日々の修行に追われる者。思いはそれぞれであった。

あの満月の日から1週間ほどたったある日の午後のこと。マハーチュンダとラーフラが、500人の修行僧を連れて祇園精舎に帰ってきた。そこでようやく仏陀が長老を始め、すべての修行僧を集めた。
「今日は、汝らに報告をしなければいけないことがある」
仏陀の表情は、どことなく固かった。その時であった。出家して間もない修行僧の一人が
「あれ?、世尊の両隣が・・・・。いつもそこに座っている尊者がいらっしゃらない。どうしたのかなぁ。世尊が集まれと言った言葉を聞き逃したのでしょうか?。私、探しに行ったほうがいいでしょうか?」
と立ち上がって言ったのだった。その言葉に、長老たちはお互いに顔を見合わせた。咳払いをする長老、上を向く長老、うつむいてしまう長老・・・。いつも静かに座っている長老たちの様子のおかしさに、修行僧たちがざわつき始めた。
「静かに、静かにせよ。汝、修行僧よ。二人を探しに行く必要はない。静かに座るがよい」
仏陀は、そういうと、ゆっくりと一同を見回した。
「落ち着いて聞くがよい。汝らが大変世話になったシャーリープトラ尊者とモッガラーナ尊者は、1週間前の満月の夜に涅槃に入った」
仏陀の言葉に、そこに集まった修行僧たちは一言も発することができなかったのだった。


143.最期の旅1
「シャーリープトラ尊者とモッガラーナ尊者は、涅槃に入った」
仏陀の言葉に、集まった弟子たちはしーんとした。
「彼らは立派な指導者であった。そして、涅槃に入る際も、最後まで聖者としての尊厳を保っていた。汝ら修行者よ、これは喜ばしいことであって、悲しんではならぬことである。彼らは、もう二度と輪廻することのない世界へと行ったのだ。六道輪廻から解放された永遠の世界へと行ったのだ。汝らも、彼の二人を手本として、より一層の修行に励むがよい」
仏陀の言葉に集った弟子たちは、さらなる修行に励むことを誓ったのであった。
弟子たちが去った後、仏陀の傍らにはアーナンダのみが残っていた。
「世尊、私は悲しくてなりません。あのお二人がこの世を去ったなんて・・・・」
アーナンダは、そう言って涙を流した。
「アーナンダよ、シャーリープトラやモッガラーナは、汝から修行僧としての大切なものを奪ってこの世を去ったのであろうか?」
仏陀は、泣き続けるアーナンダにそう言った。
「いいえ世尊、あの尊者たちは、そのようなことをいたしておりません。お二人は、いつも私に教えを与えてくださった。よく指導してくださった。ですが、もうそれが無いとなると・・・悲しくて、寂しくて仕方がないのです」
「アーナンダよ、いつも言っているであろう。否、彼らも汝に教えたはずだ。この世に生まれた以上、この世を去らねばならない。また、この世に生まれた以上、愛するものとの別れは経験しなければならない。この世に永遠にとどまることはできない、それが真理である、と。アーナンダよ、この世は無常なのだ。いまこそ、その無常を知るときなのだ」
仏陀の教えに、アーナンダは涙をこらえたのだった。
「よいか、涙を流し悲しんでも、彼の二人は喜ぶことはない。彼らが教えてくれたことをよく噛み締め、瞑想するがよい」
そう諭されたアーナンダは、一人とぼとぼと森の中に入って行った。

翌日のこと、すべての修行僧を集めた仏陀は
「旅に出る。行先は、パータリプトラだ。この祇園精舎に残るもよし、パータリプトラまでの間の精舎へ行き、そこに残るもよい。他の精舎を目指し、旅に出るもよい。汝らの思うがままにするがよい」
と宣言した。それは誰も予想はしておらず、いきなりの出発だった。
マハーカッサパら、長老の半分が祇園精舎に残ることにした。半分の長老は、仏陀に付き添いながらも途中の精舎を目指す者もいた。また、各長老に従っていた弟子たちも、自分を指導してくれる長老に従った。
出発時、仏陀はマハーカッサパに言った。
「これが最後の旅になろう」
と。マハーカッサパは、何も答えず、静かにうなずいたのであった。マハーカッサパは、「後を託した」という仏陀の意思表示であった、と受け止めたのだった。
旅は順調に進んだ。祇園精舎から南に向かい、ガンジス川のほとりに至った。さらに、ガンジス川沿いにパータリプトラ方面へと歩いた。旅に出て2週間が過ぎたころことである。仏陀らはガンジス川のほとりで滞在していた。夕日が沈む方を向き、仏陀は静かに瞑想をしていた。ふと目をあけると
「修行僧たちよ」
と、おもむろに語り始めた。旅に同行した修行僧らは、誰もが驚き、仏陀の方を見つめたのだった。
「修行僧たちよ。シャーリープトラとモッガラーナがこの世を去ってから、教団の中が大変寂しくなったように感じられる。まるで、教団の修行僧が半分以下の人数になったようだ。それほどあの二人は偉大であった。昔、この世に現れたと伝えられる多くの仏陀には、彼らと同様の勝れた二大弟子がいたと伝えられている。これから先に現れる仏陀にも、同じように二大弟子が存在するであろう。シャーリープトラとモッガラーナは、それほど偉大であったのだ。よいか修行僧よ、汝らも彼らに負けぬよう、修行に励み、いつしかこれから先に現れるであろう多くの仏陀の二大弟子となれるように修行に励むがよい」
仏陀も・・・たとえ仏陀であっても・・・、シャーリープトラとモッガラーナがいなくなったことを寂しく思っていたのであった。
実際、そのころの仏陀は、いつも難しい顔をされていたと伝えられる。あるいは、いつも元気がなかったとも伝えられている。年齢も80歳近くになっていた。身体も弱ってきていた。そこへ、最も自分の教えを理解していたシャーリープトラと、最も自分の神通力に近かったモッガラーナを失ったことは、たとえ仏陀であっても、辛いことであったのであろうと思われる。それほど、二人の影響は教団にとっては大きかったのだ。

ガンジス川を渡り、一行はパータリプトラに入った。パータリプトラは、マガダ国の新都市として、様々な建物が建築されつつあった。そのため、多くの人々がこの地に集まってきていたのだ。近い将来、この地域は、マガダ国にとっても重要な都市となることは明白であった。
パータリプトラに仏陀らが到着すると、人々は盛大に彼らを歓迎した。仏陀は早速、集まった人々に対して法話をしたのであった。
「人々よ、行いの悪いものが受ける損失に次の五種類がある。第一には大いなる財産の損失を招く。第二に評判が悪くなる。第三に人々の前でいつもビクビクしていなければならない。第四に死ぬ時に迷い悩む。第五に死んだ後は地獄に落ちて苦しむことになる。
これに反し、戒律をよく守り、正しい行いをした者は、次のような五種類の功徳が得られる。第一に大いに財産が増える。第二に評判がよくなる。第三にいつでも誰の前でも自信を持って行動できる。第四に死ぬ時に迷わない。第五に死後には天界に生まれることができる。
人々よ、行いが正しくない者の苦しみは、簡単ではない。いつもいつも苦しみの中に生きていなければならない。それは死が訪れる瞬間まで続く。いや、それは死後にも続くのだ。悪い行いをし、戒律を破った者は、苦しみの中にしか生きられないし、死後も永遠と思われるほどの長い時間苦しみが続くのだ。これからでも遅くはない。正しい行いをし、五つの戒律・・・殺生してはならない、盗みをしてはならない、性に淫らになってはならない、嘘をついてはならない、酒を飲んではならない・・・をよく守れば、人々よ、汝らは安泰な生活が送れるであろう。そして、死して後、天界に生まれ変わり、祝福を受けるのだ。どちらが良いのかは、明白であろう。決して、放逸な生活を送ってはならない。日々、怠らぬよう、暮らしていくことが大切なのだ」
仏陀は、旅の疲れも見せず、精力的に法話を行った。また、
「ぜひ、私どもの村へ」
という依頼があれば、周辺の村々へも足を運んだ。そうして、パータリプトラやその周辺の村々をすべて回りつくし、仏陀は再び旅に出ることにしたのであった。
「留まることはない。また、留まってはならぬ。雲が流れるように、川の水が流れるように、我々も教えを広めるための旅に出るのだ」
仏陀は、そう告げると、ガンジス川を渡り、北に向かった。

小さな村で滞在をし、教えを説きながら、仏陀たちはヴァイシャーリーを目指していた。途中のナーディーカー村に滞在した時のことである。そのころ、アーナンダは、悩んでいた。
(このところ、世尊は死後のことを説かれる。果たして人間の死後の運命とはどういうものなのだろうか。人々は、いつまでも輪廻を生き続けなければいけないのだろうか・・・・)
それを知った仏陀は、ナーディーカー村での説法の際、アーナンダに言った。
「アーナンダよ、汝の疑問はよい疑問である。今ここで質問するがよい」
アーナンダは、喜んで仏陀に尋ねた。
「世尊よ、人々の死後はどのようになっているのでしょうか。いつまでも輪廻を転生しなければいけないのでしょうか。もしそうならば、たとえ天界に生まれ変わったとしても、いつかは地獄へ落ちることになるかもしれません。人々は、永遠にその輪廻からは、抜けられないのでしょうか」
アーナンダの質問に仏陀は一つうなずくと、人々の方を向いて教えを説きはじめたのだった。
「人々よ、よい機会である。人々は、戒律を守らず、怠惰で自分勝手な生活を続けていれば、輪廻から解脱することはできない。繰り返し、六道輪廻を生き続けることになるのだ。この世が滅ばない限り、この世の生命がなくならない限り、それは続くのである。しかし、私の教えを聞き、佛・法・僧の三宝に対して、固い信仰を持った者は、7回生死を繰り返す間に必ず輪廻を解脱することできよう。さらに、その心境が進むのであれば、ただ一度の生死を経たのち、次の死で輪廻から解脱できよう。この世に再び戻ることはないのだ。次にさらに修行が進めば、この世の死をもって輪廻を解脱することができる。最高は、この世で生きたまま悟りを得ることである。つまり、この世で阿羅漢となることである。
人々よ、汝らはすでに私の教えを聞き、佛・法・僧の三宝に深く帰依した。このまま、その信仰をなくすことなく続ければ、汝らは、あと7回の生死を繰り返した後に、出家者となり、悟りを得て、阿羅漢となることができよう。もし、7回の生死の間に、出家をしていたならば、もっと早くに阿羅漢となることができよう。
よいか、輪廻から解脱することは誰でもできることなのだ。永遠に輪廻から抜け出せない、ということはない。しかし、戒律も守らず、信仰も持たず、何も徳を積まず、怠惰で放逸な生活を送っていれば、輪廻からの解脱どころか、地獄から抜け出すことさえままならぬであろう。これを忘れないで、正しい生活を送ることが大切なのだ」
仏陀の教えを聞き、自分たちもいずれは輪廻から解脱できると知った人々は、喜びに満ちていたのであった。
ナーディーカー村で、一通りの教えを説き終わった仏陀は
「さて、出発だ」
と再び歩きはじめたのであった。そして、目的地の一つであるヴァイシャーリーへと入った。

この地は、何度も訪れていた。信仰の厚い人々が多くいる街で、特に仏教教団に対しては維摩居士を始め、多くの支援者がいた。久しぶりのヴァイシャーリーの訪問を真っ先に出迎えたのは、有名な遊女のアームラパーリーであった。彼女は、仏陀ら一行を自分のマンゴー園に案内した。
「このマンゴー園を仏陀様の教団に寄付いたします。どうぞご自由にお使いください。あぁ、管理は私の方でいたしますからご安心ください」
アームラパーリーは、そういうと「できるだけ長くとどまってください」と願ったのであった。仏陀は、無言を持って、これに答えたのであった。アームラパーリーの元には、多くの大商人がやってきて、仏陀の滞在を譲るように懇願したが、アームラパーリーはこれをすべて断ったのである。
仏陀は、そうした大商人たちに対し、
「今年、ヴァイシャーリーの街は、天候不良のため、食糧不足に陥っている。汝ら、私を招待することもよいが、その費用があるのならば、貧しく食を得られない人々に食事の接待をしてあげなさい。食事を得られない多くの人々に、施しをしなさい。その功徳は、計り知れないものとなるでしょう」
と説いたのである。こうして、ヴァイシャーリーの周辺の小さな貧しい村々には、食料が届けられることになった。
「人が生きる手伝いをすることは、大変大きな功徳となる。殺生は大きな罪となるが、その逆は大きな功徳となるのだ。ただ、戒律を守るのではなく、ただやってはいけないのではなく、その逆のことも考えることが大切である。殺生の反対は生かすことである。盗みの反対は施すことである。邪淫の反対は清浄である。嘘の反対は真実を語ることである。飲酒の反対は健康を心がけることである。他の命を生かし、施しをし、清浄に生き、真実を語り、健康に気遣う・・・。このような生活をする者は、神々に祝福されるものである。できることからでよいから、こうしたことを心がけることだ」
仏陀の言葉により、ヴァイシャーリー周辺の貧しい村人たちは、その命をつなぐことができた。そして、彼らは、自分たちができることをすることで、その恩を返したのであった。
「このような人々の心の働きがある地域は、発展はするが滅ぶことはない」
仏陀は、助け合う人々の姿を見て、優しく微笑んだのであった。

「雨期に入る。我々は、雨安居をヴァイシャーリーの街で過ごそう」
雨期に入ったため、仏陀たちはヴァイシャーリー周辺の村で点在して過ごすことにした。大きな精舎がなかったためと、相変わらず食糧不足が続いていたためであった。
その雨安居は、仏陀にとって苦しい安居となった。


144.最期の旅2
仏陀たち一行は、ヴァイシャーリー周辺の村々で分散して雨安居に入った。仏陀が滞在したのは、ベールヴァ村という竹がよく茂った村だった。仏陀はそこの村の一軒の家にアーナンダとともに世話になった。食事はヴァイシャーリーの人たちが時折運んでくれたので、世話になっている家の人たちにも迷惑をかけることはなかった。むしろ、食糧不足だったので、家人を始め村人たちは、仏陀たちの滞在を喜んでいたのだった。
仏陀は、その家の中で静かに瞑想をして過ごしていた。インドの雨季は長い。ほぼ三カ月に渡るものだった。その年の雨季は特に激しい雨に見舞われていた。湿度が高く、高齢の仏陀の身体には、それが重くのしかかってきていた。しかも、食料品も腐りやすく、過ごしにくい雨安居であった。
その安居も半ばが過ぎたころのことだった。仏陀は激しい腹痛に見舞われた。耐え難い腹痛は、毎日のように続いた。普段から胃腸が丈夫でなかった仏陀は、このような腹痛がよくあったが、今回の腹痛は特に激しいものであった。アーナンダは仏陀の主治医であるジーヴァカから持たされていた薬を仏陀に飲ませた。それでもその腹痛はなかなか治まらなかった。
(道はまだ半ばである。まだ訪問せねばならないところがある。しかし・・・・。この身体も老いぼれた。入滅もそれほど遠いものではないであろう。だが、まだ早い。まだその時期ではない。侍者たちに断りなく、教団のことを放置したまま入滅はできない。雨期が明けたら、再び旅立たねばならぬ・・・・)
仏陀は、静かに苦痛に耐えたのであった。
しばらく激痛が続いたが、仏陀の腹痛は次第に治まっていった。仏陀は、体力を養うため、なるべく静かに過ごした。やがて、すっかり回復した仏陀は、久しぶりの晴れ間に家から出て軒下で瞑想をしていた。その姿を見たアーナンダが走り寄ってきた。
「あぁ、世尊、回復されたのですね。よかった・・・。世尊が、教団のことを何も指示せずに入滅されるようなことはないとは思っておりましたが、それでも回復された姿を見るまでは心配で・・・・」
仏陀は、アーナンダの言葉を聞き、
(絶えず一緒にいるアーナンダですらこうだ。離れている弟子たちは、長老を除いてみな私が亡き後の教団について不安に思っているのであろう。こままではいけない。心得を説いておかねば・・・)
と考え、アーナンダに告げたのであった。
「アーナンダよ。教団が私にこれ以上、何を期待するのか。私はこれまで内も外も区別なく法を説いてきた。法を教えることに出し惜しみなどしてはいない。教団の修行僧たちは、自分たちがどのようにしなければいけないのかをよく理解している。『私による指図が必要である』とか『修行たちはみな私を頼っている』といったことはない。よいかアーナンダ。修行者は私を頼るのではなく、法を頼っているのだ。それを忘れてはならぬ。頼るべきは法なのだ。
アーナンダよ。私は老い衰えている。今回の旅の間に80歳となった。しかも、元々身体は丈夫ではない。それは、たとえて言えば、古くなった車が修理しながらやっと動いているようなものだ。私の身体もやっとのことで動いているのだ。それがどういうことかわかるな、アーナンダよ。
アーナンダ、汝だけではない。すべての修行僧に言えることだが、自分自身を灯明とせよ。自分自身をよりどころとせよ。他の者に頼ってはいけない。ただ法を灯明とし、法をよりどころとし、修行に励むのだ。他の者に頼ってはいけない。わかったね、アーナンダよ」
アーナンダは、静かに仏陀の言葉をかみしめていたのだった。

ほどなくして長かった雨安居が明けた。
「さて、旅立とうではないか」
仏陀の呼びかけに、修行僧たちは滞在していた村々から集まってきた。一行は、ヴァイシャーリーにいったん入った。そこで数日を過ごし、法を説いた。その後、郊外のチャーパーラ村へと向かった。その村でのことであった。仏陀は、アーナンダに向かってこう告げた。
「如来は、あらゆる神通力に達している。もし自分で希望すれば、どれだけ長い間でもこの世にとどまることができる」
しかし、アーナンダは仏陀が何を言っているかわからなかった。意味が理解できなかったのである。経典では、この場面を
・・・アーナンダの耳は、悪魔にふさがれていたために、仏陀の声が届かなかった
・・・アーナンダは悪魔に心を奪われていたために、仏陀の声が聞こえなかった
としている。アーナンダは、仏陀が告げた後、即座に
「いつまでも仏陀世尊が世のためにとどまってくださるよう願います」
と懇願すべきだったのである。
仏陀は、折を見て三度、同じことをアーナンダに告げた。しかし、三度ともアーナンダは何も答えなかったのである。
仏陀は、「一人にして欲しい」といい、静かに瞑想に入った。
「悪魔パーピマンよ。来ているのであろう」
「気付いていたか仏陀よ。ならば話が早い。いつも一緒にいるアーナンダですら、お前の望みを聞き逃した。そんなものだ仏陀よ。この世の者は、愚かで救いがたい」
「何を言うかパーピマンよ。アーナンダの耳をふさいでいたのは汝ではないか。私はすべてを知っているのだ」
「ふん、知ったうえでのことだというのか」
「そうだパーピマンよ。私は常日頃から生あるものは必ず死を迎える、と説いてきた。これは誰も逃れられないことである、と。この世に誕生したものは、生命体であろうが、生命体でなかろうが、必ず滅びるのだ。パーピマンよ、汝も例外ではない」
「うるさい、仏陀よ。余計なことは言わなくてもいい。さて、どうするのだ、仏陀よ。お前はその真理に逆らうのか?」
「いいや、パーピマンよ。私は真理の具現者である。真理を説いてきたものである。真理には例外はない。しかるに、私も死を迎える。そう、今日より三か月後である」
「あっはっはっは。そうか、そうか、ついに仏陀も死を迎えるか。あははは。これで俺の勝ちだな。この世は欲望の果てに滅びていくであろう」
「パーピマンよ。私は死を迎えるが、法は滅びはしない。法が残っている限り、パーピマン、汝の思うようにはならない」
「果たしてそうかな?。人間は愚か者だ。厳しいお前の教えなど、すぐに捨ててしまうであろう。欲望の渦に自ら入り込み、欲望の炎を盛大に燃やし、自分で自分の首を絞めていくのが人間なのだよ。仏陀よ、お前の負けだ」
「いや、パーピマンよ。法が残る以上、人間は滅びはしないであろう。たとえ欲望のために滅びそうになったとしても、その愚かさに気が付くときは来るのだ。私の説いた法は滅びない。法が滅びないということは、私も滅びない、といううことだ。いいや、法の中より、多くの如来や菩薩が出現し、迷える人々を救いだしていくであろう。法がある限り、負けるのは汝だ、パーピマンよ」
「うるさい!、黙れ老いぼれめ!。ふん、お前が亡き後のこの世界がどうなるか、楽しみだ。ふふふ、あと三カ月の間、死の恐怖を味わうがいい」
「パーピマンよ、今さらそんな言葉が私に通用すると思っているのか。私は死をすでに乗り越えているのだよ。だからこそ仏陀となったのだ。恐怖など、ひとかけらもないのだよ。消えるがよい、パーピマンよ」
パーピマンが消えうせたと同時に、大きな地震があった。

「いったいこの地震は・・・」
ハッとしてアーナンダは立ち上がった。そして、すぐさま仏陀のもとへとかけていった。
「せ、世尊、今の大きな地震は何かの前触れですか?。私はなんだか嫌な予感がして・・・」
「アーナンダよ。地震には大きく分けて二種類ある。一つは自然現象としての地震だ。もう一つは仏陀が重要な時期になった時や、重要なことを決意した時におきる地震である。たとえば、菩薩が兜率天から下って母体に入るとき、母体から誕生するとき、悟りを得て仏陀となったとき、初めて法を説いたとき、生命力を放棄するとき、そして入滅するとき、そのときに地震は起きる」
「ということは・・・・今の地震は・・・・」
「仏陀が生命力を放棄したのだよ、アーナンダ」
仏陀は、優しく微笑んでそう答えたのであった。その言葉を聞いてアーナンダはハッとして、
「せ、世尊、久しくこの世にお留まり下さい」
と願ったのであった。
「アーナンダよ。もう遅いのだよ。自然に逆らうことはよくないことである。この世に存在するものはすべて何であろうと、滅びるのだ。私も例外ではない。それは何度も説いてきたことであろう。アーナンダよ、私は魔王パーピマンと約束をした。今日より三か月後、私は入滅する。しかし、このことは決して口外してはならない。わかったね、アーナンダよ」
アーナンダは、仏陀の前で泣き崩れたのであった。

「誰にも言えない、そんなこと誰にも言えない。それに私は信じない。仏陀が・・・仏陀が死ぬなんて・・・」
アーナンダは一人になると、木陰で一人ブツブツとつぶやいていた。そして、彼はそのまま貝のように話をしなくなってしまうのであった。

チャーパーラ村を出た仏陀たち一行は、再びヴァイシャーリーの街を訪れた。仏陀は街をしばらく見つめていたが、
「さて、次の村に向かおう」
と一言発しただけであった。こうして、仏陀たちは、バンダ村へ行き、そこからハッティ村、アンバ村、ジャンブ村へと旅をし、ボーカ町へと入った。その町で仏陀は弟子たちだけを集めて教えを説いた。
「よいか修行僧よ。今後、もし修行僧のうち誰かが教えに関して、『これは仏陀自身から親しく聞いた』、『これは規定にかなう教団で聞いた』、『これは多くの長老から聞いた』、『これは一人の有能な長老から聞いた』という四つの場合、すぐに賛成したり、反対したりせず、一つ一つの言葉をよく考えたうえで、自分の態度を決めることである。簡単に仏陀の言葉であると受け入れてはならない。言葉は変化するものである。聞き違いもあるであろう。解釈の違いもあるであろう。伝え間違いというのもある。伝え聞いた言葉は、よく吟味してから真実の教えなのかどうか判断するべきである」
弟子たちは、仏陀がなぜそのような注意をされたのか、その真意は理解できなかったが、仏陀の言葉は強く彼らの心に残ったのであった。
その後、一行はバーヴァーという街に入った。そこには大きな果樹園があった。その果樹園は、鍛冶屋チュンダの持ち物であった。
仏陀たち一行がバーヴァーに入ると聞いていたチュンダは、すぐに仏陀たちを出迎え、自分の果樹園に滞在してくれるように仏陀に頼んだ。仏陀は、無言をもってこれを受け入れ、仏陀たち修行者はその果樹園でしばらく滞在することとなったのである。
その三日後のこと、チュンダと他の長者が仏陀に願い出た。
「明日の食事は我が家で接待させてほしいのですが、我が家は狭く、数名の修行者の方しか入れません。それでも受けてくださいますでしょうか」
「残りの修行者の皆さんには、私たちが接待させていただきます。私たちが、チュンダの果樹園に、食事を届けます。そこで教えを説いて欲しいのです」
「その翌日は、また他の長者の家に招待させていただきます。これも数名となりますが、ほかの修行者の皆様には、同じように食事を他の長者が届けます。こうしてすべての長者の家を順に回っていただけたら、と思っております」
「如何でしょうか、世尊。まず初めは、私チュンダの家になります」
チュンダらの申し出に、仏陀は無言で答えた。これは「よろしい」という意味であった。こうして、明日はチュンダの家で仏陀のほか、数名の修行者が接待を受けることになったのである。
つづく。


バックナンバー30へ


お釈迦様物語今月号へもどる         表紙へ