お気楽!!

仏教講座

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1回目のテーマ

仏教ってなに?

今回から始まりました「お気楽、仏教講座」。実は、このHPを始めた頃、一時連載していたんですよ。でも、いつのまにか終わっていました。ページが増えたのが理由なんですけどね。
しかし、真実の部屋が最終回を迎えましたので、この度、復活させていただきました。仏教について、わかりやすく、正しいお話をしていきたいと思います。素人さんでもわかる、仏教入門のページです。難しい話は一切なし!をモットーに進めていきたいと思います。よろしくご贔屓に。合掌。

さて、記念すべき復活の1回目のテーマは、当然「仏教とは」ですよね。これを抑えておかなければ、後の話ができませんからね。
さぁ、皆さんはどう答えますか? 仏教ってなに?って聞かれたらどう答えます?
知らない方は、素直に「知らない、わからない」って答えたほうがいいと思いますよ。中には、勘違いしている方もいらっしゃるでしょうね。どういう勘違いかというと、
「心霊とか、幽霊とか、霊にとり憑かれたのを祓うとか、そういうものでしょ。」
「お墓参りでしょ、葬式でしょ、で仏壇にお参りすることでしょ、あ、お寺参りってのもあるわね」
「お経読んだり、座禅したり、修行したりすること・・・かな?」
こんな感じですね。実はこれ、仏教とは・・・と聞かれたときの答えとしては、×なんですよ。

一番目の答えは、問題外ですね。こういうのは仏教じゃないです。中にはくだらないオカルトもありますし。2番目と3番目は惜しいのですが、少々的がはずれています。この答えでは、仏教ってなに?の答えにはなりません。これらは、仏教的活動です。
2番目の答えは、家庭における仏教的活動、3番目はお坊さんの仏教的活動ですね。ですので、「仏教ってなに?」と聞かれたときの答えにはならないでしょう。

では、仏教って何なのでしょうか。難しく考えてはいけません。答えは、簡単なものです。
仏教とは何か・・・・。
答えは二つあります。一つは、「仏の教え」です。で、もう一つは、「仏になるための教え」です。
簡単でしょ。
「仏の教え」、「仏になるための教え」
これが「仏教」なのです。

「仏の教え」
まさしく「仏教」でしょ。そりゃ、インチキだ!、答になってない!ってことはないですよ。そうでしょ。まさしく「仏教」は「仏の教え」なのですから。
仏教というのは、お釈迦様が説いた教えからできている宗教です。宗教とは、前回真実の部屋でもお話したとおり、「その人の生きかた」です。
つまり、仏教とは、「お釈迦様の生き方の教え」なんですよ。

なぜ、「仏教」の「仏」が「お釈迦様」なのか。
「仏」というのは、実は日本語ではありません。今や日本語になっていますが、元はインドの言葉です。
インドの言葉に「ブッダ」という言葉があります。「ブッダ」というのは、直訳すれば「目覚めたもの。覚者(かくしゃ)」となります。つまり、簡単に言えば「覚りを得たもの。真実を知ったもの」のことですね。
インドには、古くから、「世の中が乱れればブッダが現れ、人々を救ってくれる」という伝説があったそうです。「ブッダ」とは、人々を苦しみの中から救う、伝説の聖者、伝説のヒーローだったわけです。

で、今から約2千5百年前のことです。インドのカピラバストゥという小さな国の王子様が、国や妻子を捨て、激しい修業の後、7日間の瞑想を経て、その伝説のヒーロー、ブッダになったのです。
そのブッダとなった王子様とは、釈迦族のシッダールタ王子だったのです。
なので、ブッダのことを「お釈迦様」と言うわけですね。本来は、ブッダは固有名詞ではないのですが、お釈迦様以来、ブッダは一人もいませんので、ブッダ=お釈迦様、でも構わないんですよ。

で、その伝説のヒーロー・ブッダとなったお釈迦様の教えだから、「ブッダの教え」となるわけです。「ブッダ」漢字で書きますと「仏陀」となります。
これでおわかりいただけたでしょう。仏教とは、仏陀の教え、であり、それはつまり、お釈迦様の教え、であるのですよ。

「仏になるための教え」
では、もう一つの仏教とは?の答はどういうことなのでしょうか。
お釈迦様は、様々な修行をされました。いろいろ瞑想もしたし、確かに6年間の苦行をしました。当時のインドでは、苦行こそがブッダへの近道、と考えられていたからです。
しかし、その6年間の苦行では、結局、覚りを得ることはできなかったのです。
では、どのようにしてお釈迦様は覚りを得たのか・・・・・。

その方法を説き明かしたのが、実はお経の内容なのです。
お経は、お釈迦様の説いた教えが書かれています。お釈迦様の教えは、「ブッダになる方法」なのです。どういう考え方をすればブッダになれるか、どうすればブッダになれるか、それをお釈迦様は説いたのです。
つまり、お経には、ブッダになる方法が書いてあるのですよ。ただし、その方法は、いっぱいあります。ある人には、難しい方法が合っているでしょうし、ある人には簡単な方法が合っているでしょう。それは、人によって異なります。人の数だけ、覚りに至る方法がある・・・と言ってもいいくらいでしょう。ですから、お経は膨大な量があるんですよ。
まあ、大まかに分けられるんですけどね。覚りに至る方法も、大きく分ければ何種類かに分類はできるんですけどね。それはまた後日にお話しましょう。

いずれにせよ、お釈迦様が説いた教えは、ブッダになる方法なのです。ですから、仏教とは、ブッダになる方法、つまり、「仏陀になるための教え」なのです。

さて、皆さん、これで仏教とは?という質問に答えられますね。もし、あなたが、仏教ってなに?と聞かれたら、「仏陀の教え、仏陀になるための教え」ですよ、と答えられるでしょう。
しかも、仏陀ってなに?と聞かれても大丈夫ですよね。仏陀とは、覚りを得たもの、という意味ですからね。歴史上では、お釈迦様のことなんですよ。


2回目のテーマ

仏教の目的

今回のテーマは、「仏教の目的」です。予告で、「仏教の種類」と書きましたが、その話をする前に、仏教が何を目的としたかを話しておかないといけない、ということに気付いたので、変更させていただきました。どうもいけません、行き当たりばったりで、話を進めていますもんで・・・。ま、こういう変更は今後もちょくちょくあると思います。ご了承くださいね。

さて、前回、仏教とは仏陀の教え、仏陀になるための教えと言いました。では、その仏陀の教えとは、何を目標としていたのでしょうか。
もちろん、答えはもう出ていますよね。仏教は、仏陀になるための教えでもあるのですから、その目標は、「仏陀になる」ことに決まっています。
つまり、仏教の目的は、「仏陀になること」なのです。

仏陀になるとは、いったいどういうことなのでしょうか。
仏陀とは、前回も言いましたとおり、真理を覚った者のことです。この世の真理をすべて覚った者が仏陀なのです。仏教は、この仏陀になることを目標としているんですね。
と言うことは、つまりは、この世の真理を覚ることを目標・目的としている、というわけです。

お釈迦様がいらした当時のインドでは、多くの修行者がいました。その誰もが、仏陀を目指していたのです。そのために彼らは、様々な苦行をしていたんですよ。
ところで、なぜ、修行者は仏陀を目指したかおわかりでしょうか。それは、この世の苦しみから脱出したい、と言う願いからおこったものなのです。
当時のインドは、厳格なカースト制度のもと、身分がきっちり分けられていました。さらに、それは世襲でもありました。王族の子は王族だし、武将の子は武将、商人の子は商人、農家の子は農家、奴隷の子は奴隷だったのです。
人々は、その厳格なカースト制度の中で生活をしていました。身分の高いものは、それなりにいい暮らしができるから、不満や不平も少ないでしょう。しかし、身分が下のほうになればなるほど、苦しみは増大していきます。何とか、今の身分から脱出したい、何とか、この苦しみから逃れたい・・・・。
そう思うのは当然のことでしょう。

また、当時のインドでは、輪廻の思想が信じられていました。人は、死んで生まれ変わる・・・という思想ですね。しかし、その生まれ変わりは、やはり身分制度の範囲の中であり、王族の子は、亡くなってもまた王族に生まれ変わってくるのだし、奴隷の子はまた奴隷に生まれ変わってくる、というわけです。つまり、人は生きていても、死んで生まれ変わっても現状の身分からは逃れられないのです。
尤も、悪いことをすれば地獄に行ったり、動物に生まれ変わったりして、人間よりも悪いところに生まれ変わるだろうし、或いは、すばらしくよいことをすれば、ひょっとしたら天界(神々の住まう世界)に生まれ変われるかもしれない、もしくは、今のより上の身分に生まれ変われるかもしれない、ということは信じられてはいましたが・・・。しかし、それは、悪いほうへ生まれ変わることはあっても、よいほうへ生まれ変わるなどということは、夢物語であったようです。

ところが、仏陀は違います。どんな身分の出身であろうと、仏陀になってしまえば、身分の輪廻から脱出できるのです。しかも、もう二度と生まれ変わることはありません。
真理のすべてを覚ってしまったものは、身分などと言う小さなものに縛られることもないし、その魂は、この世に生まれ変わることなく、永遠に仏陀であり続けられるのです。
しかも、天界の神々の上を行く者になるのです。神々をも従える、そういう存在が仏陀なのです。ですから、当然、身分の最上位であるバラモンや王族など目じゃないわけですよ。
だから、苦しみに喘いでいる人々の中には、仏陀を目指し、修行者となる人が多くいたのです。
お釈迦様もその中の一人だったわけです。

ともあれ、お釈迦様は、6年間の苦行を経て、その後1週間の瞑想をし、ついに覚りを得て仏陀になるわけですが、初めは人々に教えを説くことをためらったんですよ。実は。
「私が覚ったこの真理は、あまりにも深遠で誰も理解することができないだろう。だから、私一人、その覚りの世界にいよう・・・。」
そう決めていたんですね。
ところが、仏陀であるお釈迦様の元に梵天(ぼんてん−宇宙を造り続けている神)が現れて、お釈迦様に教えを説いてくれるよう懇願するんです。で、仕方がなく、お釈迦様は人々に教えを説く決意をします。
「わかりました、人々に私が覚った真理を説きましょう。多くのものが、苦しみから逃れることができるように・・・・。」
と。

もう、おわかりでしょうか。仏教の目的は、実は「苦しみから逃れる」ことだったのです。
確かに、仏教は仏陀になるための教えではあります。お釈迦様の教えであるお経を読み、その修行方法を実践していけば、仏陀になれる・・・はずです。
しかし、それは大変難しいことなのです。なかなか仏陀にはなれません。事実、お釈迦様の亡くなった後(本来は亡くなるとは言いません。入滅−にゅうめつ−といいます)、次に現れる仏陀は56億7千万年後の弥勒菩薩(みろくぼさつ、今は菩薩)なのです。それまでは、仏陀になるものは一人もいないのです。
つまり、仏陀にはなれないんですよ。

ですから、仏教の目的は、実は仏陀になること、ではないのです。それは、単に「苦しみから逃れるため」なのです。仏教は、この世に存在しているあらゆる苦しみ、人々を悩ます苦しみから、解放されることを目的としているのです。
決して、仏陀にならなくてもいいんです。苦しみから解放されれば、それでいいのです。これが、本来の仏教の目的なのです。


3回目のテーマ

在家と出家@

今回のテーマは、予告どおり「在家と出家」です。その違いについてお話していきます。

仏教が目標とするところは、「仏陀になる」ということよりも、「苦しみから解放される」ということである、と前回お話し致しました。仏陀になろうと思ってもなれないのですから、そこまでは求める必要はなく、輪廻の苦しみから解放される、或いは、現実の苦しみから解放される、ということを目標にすればよかったのです。
しかし、この目標は、出家者と在家者で多少の違いがあったのです。

出家者とは、どのような者たちかおわかりでしょうか。現代では、出家者といえば、お坊さんになりお寺で過ごしている者たちのことを言いますよね。簡単に言ってしまえば、出家者=お坊さんです。
お釈迦様がいらした頃もそれは同じです。ただ、戒律が厳しかっただけですね。
お釈迦様がいらした頃の出家者とは、それまでその者が住んでいた家を出て、それまでの自分を捨て、身分を捨て、職業を捨て、家族とも離れて、お釈迦様の弟子として、山野に暮らしながら修行をする者たちのことをいいます。もちろん、結婚は認められておりませんでしたし、奥さんや夫を持っていたものは、離婚をしてから出家しました。
また、住まいは、今で言うお寺のような建物はなく、精舎といって、簡単な建物があったに過ぎません。インドの気候は、日本のように寒暖の差がそれほどありませんから、雨がしのげればよかったわけです。

当時の出家者は、現在の日本のお坊さんのようではありません。もっと厳しいものだったようです。戒律は男性の出家者(これを比丘−びく−といいます、僧侶のことです)で約250戒、女性の出家者(これを比丘尼−びくに−といいます、尼僧のことです)で約350戒ありました。
ちなみに、現在でも受戒(戒律を受ける儀式)の時は、僧侶は250の戒律を、尼僧は350の戒律を授かります。守る守らないは別として・・・(もちろん、時代に合わなくて、守ることができない戒律もありますしね)。

その出家者の生活を簡単に紹介しておきましょう。
夜明けとともに起き出しました出家者は、まず沐浴を致します。身を清めるわけですね。この習慣が日本に伝わりまして滝行になるわけです。滝に打たれるのは、そもそもは沐浴の代わりだったわけです。日本では、それに深い意味づけがされていくのです。
さて、沐浴が済みましたら身の回りを片付け、掃除をし、身支度を整えて托鉢に向かいます。
出家者の身なりは粗末なものでした。使い古しの布を用い、下着・上着・袈裟の三種のものを着ました。出家者には、新しい布は不要なのです。こうした着るものも自分で縫わなければなりません。

ところで、当時の托鉢と言うのは、町や村の家々を回り、手にした鉢に食事を入れてもらうことです。食事は何でも構いません。
日本の仏教では、肉を食べてはいけない・・・と言われますが、本来そんな決まりはありません。出家者の食事は、托鉢で得たものならば何でもよかったわけです。肉であろうが魚であろうが。ただし、托鉢以外で食事を得てはいけません。しかし、食事の接待はありました。
お釈迦様や高弟になると、在家の信者から食事にご招待をされるのです。それでも、そうした食事の接待は、しょっちゅうあったわけではありません。しかも、食事時間は午前中のみ、と決められていたので、食事の接待も午前中だけでした。
そうなんです。出家者の食事は、午前中のみなのです。午後からは水分を取るだけです。果物は許されていたようですが、お腹いっぱい果物を取ることは×でした。

さて、昼までに托鉢から帰って来た出家者は、木陰などで静かに食事を済ませます。食べきれずに残ってしまった食事は捨てたりしないで、鳥や動物、魚などに与えます。無駄はありません。
このように、午前中は、托鉢や食事、身の回りのことなどで過ごします。午後からは本格的に修行をします。修行といっても、座禅して肩をパンパンと叩かれるわけでもなく、滝に打たれるわけでもありません。主な修行は瞑想です。お釈迦様の教えを思い起こし、それを納得いくまで瞑想するのです。或いは、お釈迦様の教えを暗誦(あんしょう)したりするのです。そらで唱えるわけですね。
で、「なるほど、そうだ、その通りだ」と納得できたなら、お釈迦様のもとや、すでにある程度の悟りを得ている高弟のもとに行き、自分の到達しえたことを話すのです。で、お釈迦様や高弟から「よく悟りましたね」と言われれば、一応の悟りを得たことになるのです。その域まで達することができたなら、一応、輪廻を脱出することができるのです。つまり、もう生まれ変わらなくていいわけです。

出家者の目標は、ここにあります。輪廻からの脱出ですね。仏陀になることはできなくても、お釈迦様と同じ覚りを得ることはできなくても、輪廻から脱出することができる程度の悟りは得られるのです。出家者の目標は、まさにその輪廻からの脱出にあるのです。出家をすれば、それは可能だったのです。否、出家しなければ、それは無理なのです。それはなぜかと言えば、お釈迦様の教えは、出家しなければ到底実践できるようなものではなったからなのです。少なくとも、出家者はそう信じていたのですし、お釈迦様自身も、輪廻から脱出しようと思うのなら、出家しなさい、と説きました。在家でいるのなら、輪廻からの解脱は無理ですよ、とね。
ですから、在家は、輪廻からの解脱を目標としなかったのです。では何を目標としたか・・・。それは次回にお話し致しましょう。合掌。



4回目のテーマ

在家と出家A
今回のテーマは、前回に引き続き、「在家と出家」です。前回は出家者の目標についてお話しました。今回は、在家の目標についてお話しいたします。

前回お話ししたように、出家者は「覚り」を目標としていました。覚りを得て、「輪廻」から脱出する、解脱すると言うことを目標としていたのです。
ところが、在家ではそこまでは求めることはありませんでした。輪廻から脱出することは求めなかったのです。では、何を求めたのでしょうか。

その話の前にもう一度、輪廻についてお話しておきましょう。
インドには、古くからこの世に生を受けたものは、過去にも生があったと考えます。つまり前世の存在を認めていたんですね。であるから、当然来世も認めます。この世で死を迎えたあと、何かに生まれ変わるのだ・・・・と言う考えです。生きていたときの罪と徳、悪行と善行の差によって生まれ変わる場所が変わるのだ・・・と、そう信じていたのです。
その生まれ変わる場所は、6種類に分かれています。下から順に「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」、「修羅界」、「人間界」、「天界」です。この世に生を受けたものは、人間であろうと動物であろうと、死後、この6種のどこかの世界に生まれ変わるのです。そう信じていたんですね。否、それは常識だったのです。信じる信じないの問題ではなく、インドでは古来より生まれ変わると言うことが常識だったのです。

で、この生まれ変わる世界から脱出したい、もう生まれ変わりたくない、そう思う人々が出てきました。それが出家修行者たちです。修行して、伝説の仏陀になれば、もう二度と生まれ変わることはなくなる、だからそれを目指して修行しよう・・・。そうして、出家修行者たちは生まれたのです。
なぜなら、在家のままでいたのでは、よくてせいぜい天界に生まれ変わるくらい、と信じられていたからです。輪廻から脱出するには出家しなければいけない、在家のままでは天界どまり、と固く信じられていたんですよ。これも常識だったのです。

そうなのです。在家のままでは、いくら修行しても来世は天界どまりだったのです。在家のまま、善行をし、徳を積めば、死後天界に生まれ変わることができる、そう信じられていたんですね。否、そう決まっていたんです。
では、出家すれば必ず輪廻を脱出することができるか、と言われれば答えはNOでしょう。お釈迦様が現れる前までは、どんな出家修行者も輪廻を脱出できるような覚りを得たものはいませんでした。みんなせいぜい仙人どまりです。まあ、神々の端くれにはなっていたということですね。
しかし、それでは輪廻の中です。天界どまりですね。在家の最高と変わりはありません。

出家は冒険だったのです。出家し様々な修行するものは大勢いましたが、それは一種の冒険であり、挑戦だったのです。
在家のままで最高の天界を目指すか、出家して一か八かで覚りにかけるか・・・・。当時のインドの人々は、そういう思想があったんです。多くは在家のまま、来世に天界に生まれ変われるように善いことを行う、と言う生活を心がけたわけです。いくら出家しても、輪廻を脱出できると言う保証はなかったし、出家生活は苦労はするし、不自由だし、苦しいですからね。それに、出家した後、もし堕落してしまったら、確実に地獄行きですからね。出家生活は苦しいから、堕落してしまうものは多かったのでしょう。
なので、多くは在家のまま天界に生まれ変わることを目標としていたのです。

お釈迦様が覚りを得る以前から、インドにはこういう常識があったのです。
覚りを得たいものは出家して修行する、出家が嫌な者は在家のままで天界に生まれ変わることを目指す・・・・。そういう思想が当時のインドの人々には根付いていたんです。

ところが、お釈迦様が覚りを得てからはこうした思想に変化が生じます。それまで出家しても覚りを得ることは難しいことだったのですが、お釈迦様の指導を受ければ覚りを得られるようになったんですね。輪廻から解脱できるようになった。
では在家はというと・・・・。
在家には、お釈迦様はそれまでと同様に、天界に生まれ変わることを目指しなさい、と説いていました。覚りを得るには在家のままでは無理だから・・・・、と言う立場を取っていたんです。在家では輪廻からは脱出できない、そう説いていたんですね。
在家においては、悪いことをせず、善いことをし、仏を敬い、教えを聞き、仏陀や出家修行者に布施をし、人々に施しをし、在家の五つの戒律・・・・殺生をしない、盗みをしない、浮気をしない、うそをつかない、酒を飲まない・・・・を守って天界に生まれ変わりましょう、と説いていたのです。
始めはね。

というのは、在家でも深い教えを理解するものが現れ始めたんですね。出家修行者よりも深く教えを理解するものが現れ始めたんです。もちろん、そういうものは極わずかではありましたが。
しかし、数は少なくとも、実際に出家修行者よりも深い覚りを得てしまったものがいたことは確かでしょう。
そうなると話は変わってきます。在家でも覚りを得られるではないか、となるんですね。ここに、後に誕生する大乗仏教のもとがあるのです。しかし、その大乗仏教の誕生は、お釈迦様が涅槃に入られた後のことです。お釈迦様がこの世にいらした頃は、在家の仏教である大乗仏教は、まだ芽が出た程度のものです。それについては、おいおいお話ししていきます。

話を戻しましょう。このように、在家のものは、お釈迦様が覚りを得て仏陀となられる以前も以後も、かわりなく天界に生まれ変わることを目指していたのです。
輪廻を脱出するのは出家修行者、在家は天界でいい・・・・そういう状態だったわけです。

さて、こういう状況下の中、お釈迦様は教えを説いていくのですが、それには様々な種類があります。現在でも多くのお経があるように、多くの宗派が生まれてしまったように、お釈迦様の教えには様々な種類の教えが含まれているのです。次回からは、その様々な教えについて、基本からお話ししていきます。合掌。


5回目のテーマ

お釈迦様の教え@
−仏教の種類−
今回から、本格的に仏教の内容、お釈迦様がどのような教えを説いたかをお話していきたいと思います。まずは、仏教の種類についてお話しいたしましょう。

仏教には、本来種類はありません。どんな教えであっても、それが仏教の経典に基づいているものなら、それはすべて「仏教」であります。
しかし、やはり仏教には種類があります。タイやミャンマーの仏教は日本の仏教とは異なっています。日本の仏教とは明らかに異なりがあるのです。それは、種類が違うと言ってもいいでしょう。
では、仏教にはどのような種類があるのでしょうか。

仏教は、大きく分けて3つに分かれると言っていいでしょう。どう分かれるかと言えば、
@上座部仏教(小乗仏教)
A大乗仏教
B密教
です。これが一般的なわけ方ですね。まあ、私は、このようには分けたくありませんが。というのは、密教の中には、大乗仏教も小乗仏教も含んでいるからです。その2種の仏教を含んだ上で、さらに秘密の教えの部分を持っています。ですので、並列して分類するのは、ちょっと抵抗がありますね。
ですが、それではお話が進みませんので、一応、並列に分けておきます。ですが、あくまでも密教は小乗仏教も大乗仏教も含んでいることを忘れないで頂きたいですね。

なお、@は上座部(じょうざぶ)仏教と書きました。別には、「根本仏教」などとも呼ばれています。昔は、小乗仏教と言われていたのですが、その表現は「大乗仏教に比べて馬鹿にした名称である」のだそうで、小乗仏教と呼ぶのをやめたんです。仏教者のお偉いさん方がそういうことに決めたんですね。そんなものは言葉の上でのことだけで、言えば「大川さん」なのか「小川さん」なのかの違い程度のことと、私は思うのですが、中には、「小乗」ということに屈辱感を感じる方がいるのでしょうね。
確かに、「小乗仏教」というのは、「大乗仏教」の信者たちからの、馬鹿にした呼び方ではあったのです。その部分は、なぜこのような種類が仏教に生まれたのか、ということにあります。

なぜ仏教に種類が生まれたか
それは、前回お話しました出家と在家の間の確執から生まれたのです。
輪廻を解脱し、二度と生まれ変わってこない世界、覚りの世界に入るには、出家をしないと無理であった、とお話しました。在家の人たちは、輪廻の解脱を求めずに、輪廻の中の最高の世界である天界を目指せばいい、ということでしたね。
ところが、在家の中にも深い真理に至る人たちが現れ始めたのです。もちろんその数は多くはありませんでした。が、しかし、出家者よりも深い覚りの境地に達するものが出てきたのは確かなのです。在家の生活をしたままでね。
お釈迦様がいらした頃は、それでもよかったのです。在家にも真理に至る能力のあるものはたまに出てくるものだ、と一言おっしゃれば、それで納まるのです。出家者の弟子たちもそれで納得します。自分たちも、在家の人に負けないように修行して、さらに上の境地を目指そう、と修行に励んだものです。

言い忘れましたが、覚りには段階があります。浅い覚りから深い覚りまで、言葉では表現できませんが、覚りには深い浅いがあるのです。もちろん最高に深い覚りは、お釈迦様の覚りですね。
ちなみに、私はさとりを「覚り」と書いて、「悟り」とは書きません。それはなぜかと言いますと、「悟り」とは浅い覚りであって、本当の意味での「覚り」とは異なるからです。「悟り」の場合は、誰でも、はっとした瞬間に得ているものなのです。ただ、気付かないだけですね。坊さんは、それに気付くだけです。
禅宗のお坊さんなどは、よく「大悟した」といいます。覚ったのですね。ですが、それは覚りのホンの入り口であるのです。ですから、そのあとも何度も「大悟」したりします。
余談ではありましたが、覚りには浅い覚りから深い覚りまで段階があるのだ、ということを覚えておいてください。

さて、本道に戻りましょう。
出家者よりも深い境地に至ってしまった在家の人たちが誕生した、というのは、出家のものにとっては脅威でした。なぜなら、出家しなくても覚れるんだ、となれば、出家者の存在意義がなくなってくるからですね。しかし、そんな在家の人たちは極々少数だったのです。ところが・・・・・。
お釈迦様が涅槃に入られ、さらにお釈迦様の直弟子の出家者たちも涅槃に入られ、お釈迦様の直の教えを聞いたものがいなくなってきた頃、覚りを得る出家修行者は少なくなってきたのです。
それどころか、覚りを得てないくせに、「我々は出家者だ、偉いのだ」などと威張るような出家者が出てきたんですね。ろくに教えも説くことができないくせに、寄付だけは請求するようになってきたのです。
まるで、現在のどこかの国のお寺の坊さんのよう・・・・と思った方もいらっしゃると思いますが、まあ、私も否定はしません。確かに、そういうお坊さんもいますからね。

それはいいのですが、悪いことに、苦しみから救われるのは出家者のみだ、在家は救われないんだ、などと言い出す出家者が増えてきたんですね。出家至上主義とでもいいましょうか。
そういう出家者ばかりになって困ってしまったのは在家の人々です。在家じゃ救われない、在家じゃダメなんだ、と言われたら、生きる気力もなくなってくるというものです。
そんな頃、お釈迦様の教えの中で在家でも覚りを得ることはできるんだ、と言う教えがあったことを知ったのか思い出したのか、そういう教えがあったことが在家信者の中で広まるんですね。
そのうち、それを応援する出家者も出てくるようになったんです。「そういえば、出家者だけでなく、在家の人でも救われるんだ、と言う教えがあったぞ」ってね。
これがどんどん広まっていったのです。

こうして、出家至上主義のグループと在家とともに救われようというグループとに別れるんですね。出家至上主義のグループは、厳格に戒律を守らないから在家では覚れないと主張します。
在家グループは、戒律は厳格じゃなくていいんだ、大切なのは精神のほうだ、在家でも覚りを得たものもいるんだ、と主張します。
で、お互いに自分たちの主張をまとめていくんです。こうして、二つのグループが誕生したんですね。このグループが、小乗仏教の集まりと大乗仏教の集まりとへ発展していくのです。
つまり、これは仏教の教えに対する捉え方から分裂が生じたわけですね。

お釈迦様の教えの中には、小乗的な教え−出家しないと覚れないよという部分−と、大乗的な教え−在家でも救われるのだ、出家は必ずしも必要ではないという部分−が初めからありました。
ですから、お釈迦様がいなくなってしまえば、分裂するのは当然だったわけです。
さらに、お釈迦様の教えの中には、非常に難解な部分もあった、と思われます。その解釈のしかたが、後の密教へと発展していくのですね。

こうして、仏教は分裂をしていったのです。次回は、各教えについて簡単に触れてみたいと思います。
合掌。


6回目のテーマ

お釈迦様の教えA
小乗と大乗の違い
今回は、「仏教の種類 各論」についてお話しします、と予告しましたが、少々変更いたします。大きく言えば、このタイトルであっているのですが・・・。まあ、行き当たりばったり、思いつき、無計画・・・で話を書いていますので、タイトルなどあまりあてにはならないんですけどね。今後も、タイトル通りの内容にならないこともあるかと思いますが、どうぞお許しを・・・。
ということで、今回は、もう少し上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いについて、お話しいたしましょう。

小乗仏教(あえてこのように呼びます。決して卑下して小乗仏教といっているわけではありませんので、その点ご了承ください。)と大乗仏教の違いを一言でいいますと、
「小乗仏教は自力の教え、大乗仏教は他力の教え」、となりましょう。
或いは、
「小乗仏教は自分で修行する教え、大乗仏教は祈りの教え」、といってもいいでしょう。

前回にもお話しましたように、小乗仏教というのは、出家主義の教えです。「出家主義仏教」といってもいいでしょう。出家して、家や町を離れ、俗世間から離脱して、規律正しい生活を修行者仲間とともに行い、一人で修行して悟りを得るのが、小乗仏教といわれるものです。
いわば、「温室育ち」のようなものです。
俗世間から切り離されているので、変な誘惑はまずありません。周りにいる仲間は、皆同じ目標−悟りを得るという−を持っています。毎日の生活も決まっています。生活ができるかどうかの心配も要りません。しかも、お釈迦様と言う監督官、先生がいつもいてくれてます。迷ったり、わからないことがあれば、すぐにお釈迦様に教えてもらえるのです。
純粋に悟りを得るための修行ができると言うものです。これで悟りを得られなかったら、ちょっと困ってしまいますよね。悟りを得るには、この上ない環境になっていますからね。それでも悟れない・・・・・という場合は、よほどのことでしょう。
つまり、小乗仏教は「悟り完成システム」なんです。しかも、それは、あくまでも個人主義なのです。各個人が悟りを得るために最高の環境を与えたのが、小乗仏教の教えなのです。
ですから、システム自体を重要視するんですね。修行法を重視するわけです。なので、出家至上主義になってしまうのです。
こういうことから、小乗仏教は
「自力で修行する教え」といえるでしょう。

この出家修行者たちには、様々な修行法があります。が、それは簡単に言ってしまえば、すべて「瞑想」といえるでしょう。世の中の仕組みをよく観察し、俗世間がいかに虚しく、いかに空なるものかを瞑想するのです。そして、俗世間の欲望に惑わされなくなったら、一応の悟りが得られたことになります。
具体的に言えば、どんな誘惑にも動揺しない心、どんな状況にもあわてない心、恐れや恐怖心、怨みや妬みを持たない心、どんなことが起ころうとも感情を顕にしない心、何事にも一喜一憂せず常に冷静でいられる心、そうした状態の心を得られたら、それは悟ったとことになるのです。
小乗仏教では、この段階の悟りを目標としていたのです。これが小乗仏教なのです。


一方、大乗仏教はどうでしょうか。大乗仏教では、あまり修行法を説きません。大事なのは、祈ることだからです。
大乗仏教と言うのは、「出家しなくても救われるのだ」、「出家しなくても悟りを得られるんだ」ということを基本にしています。小乗仏教とは全く立場を異にしています。
特に難しい修行法は説きません。仏に祈り、救いを求めることが修行なのです。多くのものを仏の教えに導く、お寺を作ったり、仏像を作ったり、仏画を描いたり、お釈迦様の教えを説いたり、写経を勧めたり、祈ることを教えたりすることが、大乗仏教での修行と言えるでしょう。
この場合、その導き手、教えを説いたりする者は、悟りを得ていようがいまいが関係ないのです。戒律を守っていようがいまいが、関係ありません。尤も、ある程度、仏教を理解していないと教えを説くことはできないし、ある程度戒律を守って正しい生活を送っていなければ、人はついては来ないでしょうが。
しかし、親鸞さんのように妻帯した方もいますし、一休さんのように戒律自体を超越してしまったような方もいますからね(一休さんは破戒僧で有名です)。
大乗仏教の場合、
「自分はどうであれ、人々を仏の教えに導き、苦しみを少しでも和らげてあげること」ができれば、それでいいのです。それこそが大乗仏教の目標なのです。
ただし、その安楽は、生きているときに得られるとは限りません。それは死後・・・・である場合もあります。

大乗仏教は、たった一人が悟ることよりも、多くの人々を少しでも楽にさせてあげることを優先したのです。ですから、たった一人が悟る出家至上主義者を「一人しか乗れない小さな乗り物−小乗」といったのです。それに対し、「なるべく多くのものを乗せてあげる大きな乗り物」ということで、大乗仏教を名乗ったのです。
こうしたことから、大乗仏教は、「菩薩の教え」とも言われています。
菩薩は、本当は深い覚りを得ているのですが、迷える人々があまりにも多いため、いったん覚りの世界、仏の世界に入ることをやめ、人々を救うために働いている方です。つまり、「自分のことはさておいて、人々に安楽を与えるために活動をしている」わけです。これは、大乗仏教の目標と同じです。ですから、大乗仏教は、菩薩の教えともいわれるのです。


小乗仏教と大乗仏教の違いは、基本的にこのような違いが有るのです。では、密教はどうでしょうか。
密教は、小乗と大乗を混ぜたものであり、さらにその上を目指します。
自力での修行も必要としますし、祈りの仏教でもあります。しかし、単なる祈りだけではありません。少しでも安楽に・・・というだけではないのです。
簡単に言ってしまえば、密教は、
「積極的変化の教え」とでも言いましょうか。
祈りは導き手だけに任せず、自らも積極的に参加し、つたないながらも真言を唱え、如来に接近しようと努力し、さらに如来側からの力を得て、自分のおかれている環境や状態を変化させよう・・・・というのが、密教なのです。しかも、それは個人的にだけではなく、多くのもののために、よりよき状態に変化させよう、というものなのです。今、生きているうちに、状況をよい方へ変化させて安楽を得よう、ということなのです。そのためには、あらゆる手段を使います。それが密教なのです。
ですから、密教は大乗仏教の範疇には入りません。もちろん、小乗でもありません。そうしたものを超えたところにあります。


さて、簡単に小乗仏教、大乗仏教、密教について違いを述べましたが、これらのグループにも共通した教えがあります。それは、仏教の根幹をなす教えです。この教えは、小乗仏教であろうが、大乗仏教であろうが、密教であろうが、変わることはありません。
次回は、その共通する教え、「仏教の根本の教え」についてお話いたします。合掌。


7回目のテーマ

お釈迦様の教えB
仏教の根本の教え
今回は、小乗仏教、大乗仏教、密教に共通する教えについてお話いたします。いわば、この教えがないと、仏教ではない、といえる教えです。これは、仏教の根本の教えなのです。

仏教の基本は、次の教え・・・それは真理といっていいでしょう・・・からなっています。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう)
2、諸法無我(しょほうむが)
3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
(4、一切皆苦(いっさいかいく))
と、縁起(えんぎ)
4番目を括弧したのは、必ずしもそれが必要ではないからです。そのことについては、のちほど説明いたします。それと、縁起は、5番目にはしませんでした。いうなれば、1〜3(4)がワンセットなのです。そのワンセットと縁起の思想が、仏教の根本の教えなのです。
まずは、ワンセットのほうから説明いたします。

1、諸行無常
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・・」
ご存知、平家物語の冒頭の部分です。みなさんも、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ここにも登場している「諸行無常」。これは仏教の根底をなす教えなのです。

諸行無常というのは、ご存知の方も多いと思いますが、すべて存在は一定していない、という意味です。つまり、すべては時とともに移り変わっていく、ということですね。いつも同じ状態であることはない、という意味です。
たとえば、時とともに肉体は滅んでいきます。どんな物質も、この世に誕生としたと同時に、少しずつ壊れていきます。滅びの方向に向かって行っているのです。そして、やがては死や消滅を迎えるのです。
ですから、この世に存在するもので、永遠のものはありません。
CDなどは、半永久品、といわれています。非常に耐久性がいいんですね。でも、いずれは消滅するでしょう。永遠に残るわけではありません。ですから、半永久品というのですね。

人は、往々にして、いつまでも同じ状態が続くと考えがちです。また、そう望みがちです。美貌がいつまでも続くことを願い、若さがいつまでも続くことを願い、命がいつまでもあると錯覚し、現状の幸せや不幸がいつまでも続くと思い込み、変わらぬことを願うものです。
しかし、どんなものでも一定の状態を保つ、いつまでも同じ状態である、わけはないのです。人は老い、肌は衰え、体力はなくなり、脳の働きは鈍り、病にかかり、そして死を迎える。
これは、この世に生まれた以上、当たり前のことですね。どんなものでも、これを避けることはできません。生き物はもちろん、物質であっても、滅ぶことは避けられないのです。

また、同時に、状況においても、常に変化していることも事実です。ですから、幸福はいつまでも続かないし、逆に不幸であっても、いつまでも不幸ということはありません。もちろん、不幸が益々不幸になることや、幸福が益々幸福になることもあり得ますが・・・・。
ともかく、いつも同じ状態であることはないのです。これが真実なのですね。

ますは、このことを覚りなさい、とお釈迦様は説いています。


2、諸法無我
ここでいう法とは、教えのことではありません。諸法とは、簡単にいえば、どんな場合にも、といった意味です。例外なく、ということです。すべての現象を対象として、ということですね。
無我とは、我が無い、ということです。我が無い、というのは、よく「実体が無い」と説明されます。しかし、これでは意味がよくわかりません。

インドでは、肉体が滅んでも、魂は残ると考えられてきました。「私」という我は、肉体が滅んでも魂となって次の世の何かに生まれ変わる、というのです。ですから、生まれ変わっても「私」は存在し続けるわけです。そうであるなら、誰でも前世の記憶を持っていないといけません。
「私が犬だった頃・・・」
「私があなたのおばあさんだった頃・・・」
というように。こうして、永遠に我は続いていくはずですね。

しかし、実際はそういうことはありません。前世の記憶など、誰も持っていないのです。なぜなら、永遠というものは、一切存在しないからです。何事においても、永遠に存在するものなどありません。魂ですら、永遠ではないのです。

諸法無我は、魂は存在しないのだ、という意味だと説明されますが、そういう意味ではありません。永遠に存在する魂はない、といっているのです。「私」という我を、次の世へ、次の世へ、と永遠に伝えていっているわけではない、と説いているのです。

諸行無常は、物質的に永遠の存在は無い、という意味でした。
諸法無我は、精神的に永遠の存在は無い、という意味ととっていいでしょう。
つまり、諸行無常は外側であって、諸法無我は内側なのです。

ですから、諸法無我は、物事に執着するな、と説いているのです。
たとえば、大事なものが壊れてしまったとします。ものは、物質ですからやがて壊れるものです。しかし、その思い出や思い入れは、なくなりませんよね。で、ついつい思い出したり、懐かしがったり、忘れられなくて求めたりします。壊れたものの存在が残っているかのように・・・。
しかし、実際は、何も残ってはいません。思い出は、単なる記憶であって、その壊れたものの精神とか、魂とかいったものではないのです。壊れてしまった以上、そのものに対する記憶は残って入るでしょうが、存在しないのだから、こだわってはいけないものなのです。すでに実体は無いのですから。
つまり、すべての存在に対する執着心・・・・これが、「我」の正体なのです。

諸法無我とは、どんなものに対しても、執着心をもたない、ということなのです。すべてに対し、とらわれの心を持たない、ということを意味しているのです。


3、涅槃寂静
涅槃とは、死の意味ではありません。心の迷いを消し去った状態・・・覚りを得た状態・・・をいいます。涅槃は、インドの言葉の音写です。もとは「ニルバーナ」という言葉で、「(火を)吹き消す」という意味です。
インドでは、欲望のことを火にたとえます。日本でもそうですよね。「欲望の炎が燃え盛る」などといいますよね。覚りの境地は、この欲望を消し去った状態です。いわば、欲望の炎を消してしまった、ということです。ですので、「火を消す」という意味で使われる「ニルバーナ」を覚りの意味で使ったのです。

涅槃寂静とは、覚った状態になれば、すごく心が安定しているんだよ、何も迷いは無いんだよ、ということを意味しているのです。

諸行無常で、この世に存在する一切のものは、移ろい変化していき、滅びに向かっている、永遠の存在など無い、と覚りました。
であるから、一切の存在に執着してはいけない、一切の存在は、やがて滅ぶものだし、そんな、実体の無いものにこだわっていてはいけないのだ、と覚ったのが諸法無我です。
そこまで覚ったならば、一切の存在に執着しなくなっていますから、無いものに対しても欲望が湧いてこないでしょう。執着するのだから、どうこうしたい、という欲望が湧いてくるのです。執着心がなければ、欲望も消えてしまいます。

つまり、諸行無常、諸法無我を覚れば、涅槃寂静に至るのです。
こういうわけですから、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静がワンセットといったのです。4番目の一切皆苦は、おまけみたいなものです。


4、一切皆苦
これは、この世に存在するものは、みな苦しんでいる、という意味です。この世は苦しみの世界である、という意味ですね。
なぜなら、すべての存在は滅びに向かっているからです。皆、死に向かっているからです。どんな快楽を得ようとも、どんな幸福を得ようとも、それらはほんの一時的なものであって、真実の快楽ではありません。むしろ、下手に幸福を味わったり、快楽を知ったりすると、それが得られなくなた時、苦しみは倍増しますよね。天国から地獄へ・・・・ということです。
こういうことは、実際にちょっと前に経験しましたよね。そうです、バブルの崩壊です。
好景気が永遠に続くと勘違いし、みんな飲んで歌って騒いでました。この世の春じゃ、永遠に続く春じゃ、と浮かれてましたよね。ところがそんなものは長続きするはずは無いのです。永遠なんてあり得ないのですから。
予想通り、バブルは崩壊し、昨日まで天国じゃ、極楽じゃ、と浮かれていたものは地獄を知り、苦しみの世界を知ることになったのです。
そう、この世は安楽な世界ではありません。苦しみの世界なのです。そう覚れ、と教えているのが、一切皆苦なのです。これは、諸行無常と諸法無我をもととした教えです。なので、おまけ、といったのです。


こうしてみてみると、仏教では、「この世は無常であり、安楽な世界ではなく苦しみの世界であり、我という実体は無く、とっても生きにくい世界だ」といっているようなものですよね。
こんな話を聞くと、じゃあ、生きてこないほうがよかった・・・となります。この世に生まれるんじゃなかった、と思いますよね。生まれてきたばっかりに、苦しみを味わうなんて! 死ぬために生まれてきたようなものなんて! つまらないじゃないか! と思いますよね。仏教のおかげで、余計に暗くなってしまった。これじゃあ、救いが無いじゃないか・・・・と。

このままで終われば、救いが無いでしょう。まるで、仏教は、苦しめるのが目的であるかのように感じられてしまいます。
でも、これで終わらないのがぶ仏教なのです。お釈迦様は、「まずは、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を認識しなさい」と説いたのです。救われる救われないは、もう一つ次の段階なのです。
それについては、次回にお話し致しましょう。なので、「縁起」については、その次にお話いたします。合掌。

次回予告 「常楽我浄」。合掌。



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