お気楽!!

仏教講座

バックナンバー2

8回のテーマは

お釈迦様の教えC
−常楽我浄−

前回、仏教の基本的な教えは、
1、諸行無常(しょぎょうむじょう)       2、諸法無我(しょほうむが)
3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)      (4、一切皆苦(いっさいかいく))
と、縁起(えんぎ)
と、お話いたしました。で、縁起以外、それぞれについて説明いたしました。それを簡単にいますと、
「この世は無常であり、安楽な世界ではなく苦しみの世界であり、我という実体は無く、とっても生きにくい世界だ」
ということでしたね。これじゃあ、絶望的、真っ暗、救いがないじゃないか・・・・、と思ってしまいます。
このままで終われば、救いが無いでしょう。
でも、これで終わらないのが仏教なのです。お釈迦様は、「まずは、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を認識しなさい」と説いたのです。救いは、その上にあるんですよ。

で、その救いとは、どんな救いかといいますと、それは「常楽我浄(じょうらくがじょう)」というものです。
この文字を見て、変だと思われた方は多いのではないでしょうか。
なぜなら、先ほどまで「無常」であり、「無我」であり、「苦」であると説いていたのに、「常で楽で我があり、浄らか」はないでしょう。全く正反対ですよね。
そこが、仏教のすごいところなんです。

お釈迦様は、まず「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦」を覚れ、と説きました。また、この世のものは不浄であるとも説きました。きれいな女性も素敵な男性も、きれいな花も美しいもの、やがて老化し腐敗していくし、人間は一皮向けば地と肉の塊。それのどこが美しいのか、清らなのか、不浄じゃないか、と説きました。まずは、それだけを覚りなさいと・・・・。
その時点では、何の救いもありません。この世に絶望しろ、というようなものです。しかし・・・。

しかし、それを覚れば、世の中は一変するのです。
無常を覚れば、無常は常に。無我を覚れば、無我は我に。皆苦を覚れば、皆苦は安楽に。不浄を覚れば、不浄は浄に・・・。
と変化するのです。無常、無我、苦、不浄を覚って、涅槃寂静の状態になれば、この世は「常楽我浄(じょうらくがじょう)」になってしまうんですね。
つまり、涅槃寂静の状態になったとたん、勝手に救われてしまうんです。

涅槃寂静・・・・覚ってしまっった世界にはいると、どうなるのか。覚ったものが見るものはどういう景色なのか。それは・・・・。
覚った状態の者、つまり仏陀から見れば、世界は清らかであり、永遠であり、安楽であり、仏陀という存在は常に続くものであるのです。実際に、お釈迦様は、現代でもその影響を残しているでしょ。如来として、存在をこの世にとどめています。それは、「常」であり「我」であります。
だから、お釈迦様と同じようになれば、この世は常であるし、無我ではなくなるんだよ、と説くのです。

また、お釈迦様の眼から見れば、すべては清浄なのです。誰もが清浄です。どんな営みも清浄なのです。すべての存在は清浄なのです。男も女も、愛し合うことも、憎みあうことも、ほめることも、怨むことも、威張ることも、蔑むことも、なんでも清浄になるのです。それは、人間の心の働きの原点を見ているからです。人間がどんな行動を取ろうが、本来は清浄なんです。
だから、誰もがその清浄な心に気付けば、救われるんだよ、と説くのです。どんな悪人も、自らの清浄な心に気付けば、救われるのです。(気付かないからいけないんですよ。)

また、覚りの状態にあれば、心は安楽なのです。苦しくないんですよ。それはなぜかというと、余分な欲がなくなってしまうからです。強い欲望というのがなくなるからです。
人は、自分の思い通りにならないと、苦しみが生まれてくるものです。健康にしても、物質的なことにしても、精神的なことにしても、自分の欲求どおりに事が運ばないと、苦しみが生まれてくるものです。しかし、覚りの状態にあれば、その欲が少なくなっていきますから、自分の思い通りにならなくても、苦にならなくなるんですよ。苦にしなければ、文字通り苦しみは生まれてこないんですよね。
だから、苦しみから救われ、安楽になれるのです。

しかし、一番の問題は、この欲望なんです。これが退治しにくいんですね。欲望、執着心、これが克服しがたいものなのです。
たとえば、無常ということはわかるでしょう。これは理解できると思います。栄華を極めたものが転落すると、「何事も無常だからね」と、いってる方もいますよね。世は常ならず・・・という真理は日本人の頭の中にはインプットされていますよね。
無我・・・というのは難しいかもしれません。しかし、いつまでも自分ににこだわったり、我をはったり、頑固を通すと損だということは、理解できるでしょ。頑固オヤジは嫌われますからね。
涅槃が、つまり、覚りがいいものだ、ということも理解できるでしょう。立派なお坊さんを見ると、羨ましく思ったりしませんか?。何事にも動じなさそうで、いつの心が安定しているように見えるでしょ。本当のところは知りませんが、外見上そう見えてしまいますよね。で、それを羨ましく思いますよね。「いいなあぁ、あんなふうになれたら、何も憂いはないんだろうな・・・・」と。涅槃がすばらしいものだ、ということは理解できると思います。
で、この世が苦しみの世界である、とうことも何となくわかるでしょ。いいことばかりじゃない、苦しいことのほうが多いって。そんなことはない、毎日楽しいよ、という方は、幸せなかたですね。そういう方は、苦しみに出会ってから、仏教を学んでください。

このように、お釈迦様の説いていることは、およそ理解できるものだと思うんです。ただ、実践となると、難しいんですね。それはなぜか・・・。
それは、誰にでも欲望があるからなんです。ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい、という欲望があるからなんですね。この欲望に振り回されてしまうから、うまく気持ちがコントロールできなくって、苦しむことになるんです。頭ではわかってるけど、どうしても許せない・・・とか、どうしても納得できない・・・・という感情のことですよ。頭で考えることと気持ちのバランスが狂ってしまうわけです。で、そこから苦しみが生じるんですね。
ということは、この欲望をうまくコントロールすれば、気持ちは安定してくる、ということですよね。そすれば、苦しむことはなくなります。で、その欲望をコントロールするための基本が、実は「縁起」という教えなのです。
この「縁起」の教えを理解し、これをもとに実践をしていけば、欲望をコントロールすることができるようになるんですよ。そうすれば、苦しみから離れられるようになるんですね。
ですから、次回は、この「縁起」についてお話いたします。合掌。



9回のテーマは

お釈迦様の教えD
−縁 起−
「縁起(えんぎ)」という言葉は、ご存知の方は多いのではないでしょうか。「縁起を担ぐ」とか「縁起物」の「縁起」です。意味は違いますが、言葉は同じです。「縁起を担ぐ」というのは、いわば「ジンクス」のようなものでしょうか。これがあるとラッキーだ、こういうことがあると今日は運がいい、というようなことですよね。昔は、「朝のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい」と言ったものです。最近では、朝からお茶を入れて飲む家庭が少なくなりましたから、そういう言葉は知らない方も増えたでしょうね。
「縁起物」も同じですね。運のよくなるモノ、のことですよね。お正月の熊手や飾り物、破魔矢、ダルマなどが、そう呼ばれてます。運がよくなるモノ、のことを「縁起物」というのです。

しかし、こうした言葉に含まれる「縁起」は、本来の意味の縁起とは、意味が違います。「縁起」はラッキーを意味している言葉ではありません。
それは、仏教の実践的考え方なのです。

「縁起」とは、仏教において、お釈迦様の教えの根本的な考え方を示した言葉です。内容は、ちょっと難しいのですが、まずは、それを簡単に表現して見ます。
縁起とは・・・。
「これがあれば、かれがある。これが生ずれば、かれも生ずる。
これがなければ、かれはない。これが滅すれば、かれも滅する。」
というものです。
たとえば、簡単な例でこれの意味を表しますと、
「目をあければ、周りが見える。
目を閉じれば、周りは見えなくなる。」
という意味と同じです。これならわかるでしょう。縁起というのは、このような原因と結果の関わりを説いた教えなのです。

先ほどのたとえは、極簡単に説明しましたが、もう少し詳しく言いますと、縁起とは、「原因の追究」とでも言いましょうか。「すべての物事には、原因がある」ということを示した教えなのです。
お釈迦様の高弟であるシャーリープトラが、お釈迦様の弟子入りを決めたのは、お釈迦様の弟子であるアッサジに出会って、この縁起のさわりを聞いたことによります。ちょっと紹介しておきましょう。

シャーリープトラが街を歩いておりますと、立派な立ち振る舞いをした出家者に出会いました。シャーリープトラは、その出家者に声を掛け、
「あなたの立ち振る舞いは、すばらしいですね。あなたはなんという方で、いったいどなたに教えを受けているのでしょうか。」
とたずねました。その出家者は、答えました。
「私はアッサジといいます。お釈迦様に教えを受けています。」
「そのお釈迦様の教えとはどんなことなのでしょうか。」
「はい、私は弟子になってまだ日が浅いので、よくわからないのですが、ほんの少しなら・・・。」
「ほんの少しで結構です。教えてください。」
「はい、お釈迦様はこのように説かれます。
『もろもろのモノは原因より起こり得る。如来はその原因を説く。そして、もろもろのモノの消滅をも説く。』
偉大なる修行者は、このように説かれるのです。」
「なるほど・・・・。すべてのモノ・・・つまり現象だな。それには原因があるのか。あなたの師は、その原因を説き明かしてくれるのですね。そして、現象の消滅・・・・終わりをも説いてくれる。なぜそうなったか、という原因を・・・・。なるほどなるほど・・・。わかったぞ。すべての現象には、必ず原因があるのだ。原因があって、生じ・滅するのだ。そういうことですね。」
「は、まあ、たぶん・・・。」

ちょっと長くなりましたが、この時点で、シャーリープトラは縁起の教えを理解したのです。もし、あなたが、この話を聞いて、
「なるほど、縁起とは『生滅の原因を説いた教えなのだ』」
と理解できたなら、高弟のシャーリープトラと同じレベルです。どうですか?。理解できましたでしょうか。

つまり、縁起とは、すべての物事、現象、思いなどの原因と結果の仕組みを説いた教えなのです。それを仏教では「十二縁起の法(じゅうにえんぎのほう)」といっております。ちょっとわかりにくいのですが、紹介しておきますね。
@私たちが死ぬのには原因があります。
Aその死の原因とは、この世に生まれたからです。そりゃ、当然ですよね。この世に生まれたから死があるんです。
Bでは生まれた原因はなにか。それは、この世に存在があるからです。存在させる要因があるからです。ちょっと難しいですね。
Cでは、存在する要因の原因とは何か。それは、モノごとに対する執着があるからです。
Dでは、その執着の原因とは何か。それは、そのモノごとを愛するからです。
Eでは、その愛の原因とは何か。それは、感受性があるからです。
Fでは、その感受性の原因とは何か。それは、そのモノごとに接触するからです。
Gでは、その接触の原因とは何か。それは、いろいろな感覚があるからです。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりするから触りたくなる、触れたくなるんです。
Hでは、そのいろいろの感覚の原因とは何か。それは、個体があるからです。
Iでは、その個体の存在の原因とは何か。それは、意識の働きがあるからです。意識の働きが、個体を作り出すのです。
Jでは、その意識の働きの原因とは何か。それは、心の働きによります。
Kでは、その心の働きの原因とは何か。それは、真理を知らない愚かさにあります。
つまり、真理を知らない愚かさがすべての現象の原因なのです。
となります。わかりますか?

何となくわかるところもあるけど、同じような内容のこともありますよね。これを生命にあてはめて考えて見ましょう。
我々が死ぬのは、この世に生まれたからです。これはわかりますよね。生まれれば、死にます。(@、A)
なぜ生まれたかといいますと、両親の性的行動によるからです(B)。それもわかりますね。
なぜ、両親は性的行動したかといいますと、性衝動に駆られたからですね(C)。それはお互いの場合もあれば、無理やりの場合もありますが、いずれにせよ、性衝動に駆られたため、性的行動を起こしたわけです。その結果子供ができて、その子供が生まれて、やがて死を迎えるわけですね。ここまでの原因と結果のつながりは理解できますよね。

では、なぜ性衝動に駆られたのかといいますと、その相手のことが好きだったからでしょう(D、E)。抱きたいと思ったからですよね。あるいは、無理やりでも犯したい・・・と思った場合もありますが、いずれにせよ、相手のことを好きだったからですよね。それは、お互いに愛し合っていたのか、一方的だったのかは知りませんが、愛していた、好きだったのには変わりはないわけです。(まれに、単なる性衝動を起こす場合もありますが・・・。)

で、相手のこと好きになったのは、その相手と知り合ったからでしょ。無理やり性衝動をしたくなった場合でも、その相手と知り合ったからでしょ。知り合わなければ、愛したり、好きになったり、抱きたいと思ったりしないわけですから。
で、知り合って好きになったのは、その相手が好みのタイプだったからですよね。好みのタイプとわかるには、目で見た結果であったり、話をした結果であったり、触れ合った結果であったりしますよね(F、G、H)。
そういう感覚がなければ、いくら人と出会っても、好きにはならないでしょう。また、嫌いにもなりませんが。
つまり、人と知り合っても、目で見たり、話をしたりしても、「いいなあ、この人好きだなぁ・・・」という感情がなければ、意識がなければ、好きにも嫌いにもならないわけです(I)。
さて、その意識はどこから生まれるかといいますと、心の問題ですよね(J)。感情です。好きになっちゃいけない人を好きになって悩むのも、好きになっても振り向いてくれないと悩むのも、みんな心の問題ですよね。
で、そんな悩みを持たないにはどうしたらいいかといいますと、人を愛することは苦しいことだ、と覚ればいいのです。いくら愛しても、その愛する相手はやがては死を迎えるのだし、肉体は滅ぶものだし、変わるものだし、汚いものだから、愛さないほうがいい・・・と覚ることですよね。
つまり、愛は苦痛である、という真理を覚れば、愛することで悩まなくてもいいわけです。ならば、すべての原因は、真理をしらないことが原因というわけです(K)。
どうです?。少しはわかりましたか?

これを魂的に解説しましょう。
死を迎えるのはこの世に生まれたためです。
なぜ生まれたといいますと、前世において生まれる原因を作ったからです。
その原因とは、前世での行動によります。前世でこの世に生まれる原因である、よくない行動をしたからです。
その行動の原因は、欲望によるものです。人間の行動は、欲望に基づいていますから。ああしたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しいという欲に基づいて様々な行動をするのです。それが人間です。
その欲はどこから生まれるかといいますと、目で見たり、話で聞いたり、味わったり、触れたりしたことから生まれます。見なきゃ欲しがらない、っていいますからね。味わなきゃ、また食べたい、って思わないでしょ。知らなきゃ欲しいとは思わないのです。
その感覚のもとは、心ですよね。心がしっかりしていれば、いくら見ても欲しがらずに我慢しますし、やめたほうがいい、と考えます。欲望をコントロールするのは、心ですからね。その心が弱いと欲望に負けるのです。
その心が弱い原因は、下手に欲を出すと手ひどい目にあうぞ、ということを知らないからです。欲を出して、間違った行動をすると痛い目にあうぞ、ということを考えないからです。
それを考えない原因は、「原因と結果の関係」ということを知らないからです。悪いことをしたら悪い結果が来る、いいことをしたらいい結果が来る、ということを知らない愚かさにあるからですね。

つまり、原因と結果の関係を知らない愚かさが原因となって、すべては始まっているということなのです。この世で苦労するのは、前世で苦労する種をまいているからです。なぜ撒いたかといえば、欲望に負けて、原因と結果の教えを信じないで、何か悪いことをしたのです。
逆に安楽に生活している方は、前世において、善行をしたからですね。
こういう考え方が、縁起なのです。

これを実生活に取り入れて見ましょう。どのような考え方をすればよいでしょうか。
それは簡単です。欲を出さなければいいのです。
欲を出すから、その結果、苦労が舞い込むのです。自分の器にあったもので満足することを知れば、何も苦労することはないのです。
つまり、「そこそこでいいや」と思うことですね。
ワンランク上を目指そうとか、人よりいいモノを得ようとか、見栄を張って人から羨ましいと思われる生活をしようとか、たいして稼いでもいないのにベンツに乗ろうとか、能力もないのに経営者面したいとか、奥さんがいるのに若い女の子にもてたいとか、奥さんや旦那以外の人とも付き合いたいとか、そういう欲望を出さないことです。
余分な欲望には、苦労がつきものです。欲しがらなくても、縁があれば手に入るのです。欲しい欲しいと執着しなくても、縁があれば手に入るのです。それが縁です。

「欲しい欲しいと執着せず、欲しいけど縁があれば手に入るし、なければ手に入らない、それでいいや」
と思えるようになるのが、縁起の教えですね。
こういう考え方を実践して下さい。今回は、長かったですね〜。

このほかにも、仏教には実践することがあります。次回からは、仏教の実践行を紹介していきます。合掌。




10回のテーマは

仏教の実践@
−八正道−
今回から、実践行についてお話いたします。
仏教の修行というと、座禅をしたり、朝早くおきて滝に打たれたり、お経を読み続けたり、庭掃除をしたり・・・・などなど、そのようなことを思い浮かべるのではないでしょうか。
確かにそうしたことも修行の一つではあります。しかし、本来修行というものは、身体を酷使したりするものではありません。お釈迦様がいらした当時は、滝行はありませんでした。(ちなみに滝行は、沐浴の延長線上にあるものです。修行者は、朝起きると、まず沐浴をしました。そこから発展をして、滝行が生まれたのです。ですので、朝、シャワーを浴びれば、それで滝行と何ら変わるところはないのです。重要なのは、身を清める、ということですね。)

お釈迦様がいらした当時の修行は、いわば日々の生活そのものが修行でした。つまり、生き方ですね。正しい生き方、安楽な生き方、それを身につけることが修行なのです。
で、その最も基本となるのが、「八正道(はっしょうどう)」と呼ばれている実践行です。この八正道を日々意識して生活を送れば、自然に正しい生き方、安楽な生き方が身につくようになるのです。
その八正道について、今回はお話いたします。

八正道というくらいですから、その中には8種類の実践法が含まれています。道とは、実践方法、という意味ですね。ですので、「八正道」=「8つの正しい実践方法」というわけです。その一つ一つについて、お話します。

八正道
@正見(しょうけん)
正しく見る、ということです。正しく見るというのは、どういう意味かわかるでしょうか。正しく見る、というのは、見る対象のものをありのまま、そのままに見ることです。偏った見かたをしてはいけない、そのものの本質を見る、ということです。
偏った見かたというのは、どういう見かたかというと、欲目で見ることが、まずあげられるでしょう。欲に根ざした思いで「見る」ことが、偏った見かたになるのです。
たとえば、最たる例で言えば、「うちの子に限って・・・」という見かたです。それは親の欲目ですよね。実際、うちの子に限って・・・などということはありません。子供自体を、欲目を抜きに、本質そのものを見れば、「うちの子でもやるだろうな、可能性はあるな・・・」となるのではないでしょうか。

他人に対する見かたもそうですよね。「あの立派な人が、そんなことをやるわけがない」、「あの人に限って・・・・」という見かたは、すでに偏った見かたなのです。正しく見れば、「どんな人間だって、何をするかはわからない」となるのです。人間ってそういうもんだよ、ということですよね。
また、人間なのだから、そういう生き方があってもいいじゃないか、という理解もできるようになります。人間を正しく見れば、それぞれ違う人間なのだから、職業も違うし、性格も違う、運も違うし、顔かたちも違う、すべてにおいて違うのだ・・・と理解できるでしょう。しかし、実際は、他の個性をなかなか認めようとしないのが現実です。
このような、正しい見かたができれば、他人を許せるようになるし、他人の個性を認めることができます。つまり、差別やイジメもなくなるわけです。心の許容量が大きくなるのです。

物質面ではどうでしょうか。モノを正しく見るということは、モノの本質、働き自体を見極める、ということです。余分な装飾を除いた、本質を見るのです。
たとえば、最近の携帯電話。いろんな機能がついてます。私などは、使いこなせないですね。実際、携帯電話は、電話ができて、メールができれば、その機能を果たしているわけです。ならば、それだけの機能がある機種で十分、ということですよね。しかし、人は、あれがついてる、デザインがいい、こういう機能がいい(使いもしないのに)、などと、外見にこだわり、高い金額を払うことになるんです。携帯電話というモノの本質を正しく見れば、余分な機能も、デザインもどうでもよくなるわけです。ということは、節約できる・・・・ということですよね。

また、世の中を正しい見かたで見れば、世の中は苦しいことがいっぱいあり、出会えば別れがあるし、欲しいものが手に入らないこともあるし、いやなやつと会わなきゃいけないときもあるし、思うようにならないものだ・・・・、という状況が見えてくるのではないでしょうか。
そうです。正見・・・正しい見かたというのは、世の中は諸行無常であり、苦の世界であり、思うようにはならない世界なのだ、と認識する見かたでもあるのです。
世の中のすべてを、平等に、自己の見解を入れず、欲を離れ、本質そのものを見ようとすれば、そこに見えてくるのは、諸行無常、諸法無我、一切皆苦・・・・といったことなのです。

ということは、正見をすれば、悟りへの第一歩を踏み出すことができるのです。悟りは正しく見ることから始まる、といってもいいでしょう。ですから、お釈迦様は、「まず世の中を正しく見なさい」と説いたのです。
この「正しく見る」という見かたが身につけば、うちの子に限って・・・などというショックを受けることもなくなるし、他人に裏切られたりすることもなくなるし、他人を差別したり、イジメたりすることもなくなるし、外見に惑わされることもなくなるでしょう。目に映るすべての情報に対して、その本質を見ることができれば、騙されることはないのです。

このように、正見という実践行は、「目に映る情報すべてにおいて、その本質そのものを見る、ありのままに見る」という実践方法なのです。
まずは、欲目を抜きにして、平等に、偏らず、対象の本質を見るように努力してください。少しずつで構いません。それでも、正しく見ようと意識すれば、自分がいかに偏った見かたをしていたか、気付くと思います。そこに気付けば、後は簡単。素直にそれを受け入れればいいのですから。偏って見ていたね、いかんな・・・という気持ちを素直に受け入れるのです。
あるいは、偏った見かたをしているよ、と指摘されたら、それも素直に受け入れることです。そこから、モノの本質が見えてくるのですから。
つまり、正しく見たことをありのままに受け入れることが大切なのです。じつは、これが、八正道の二番めの正思惟(しょうしゆい)に当たるのです。

A正思惟(しょうしゆい)
正しく考えるということです。いくら、正しくモノを見ても、それを素直に受け入れ、正しく判断しないと意味がありません。
「うちの子に限って・・・」などと思わずに、「うちの子でもやりかねない・・・」という見かたができても、それを受け入れなければ、事実を認めることにはならないでしょう。
他人の個性的な面を「人間だからそういうこともある」という見かたができても、それを素直に受け入れなければ、やっぱり許せませんよね。

これはどういうことかといいますと、「頭ではわかってるんだけど、感情的に許せない」、「理解はできるんだけど、あきらめきれない」、「間違っているとは思うけど、直せない」、「あなたの言ってることは正しいけど、その通りにはできない」・・・・などということです。
よく言ってるんじゃないでしょうか、このセリフ。

いくら正しく見ることができても、いくら正しい見解を示されても、それを受け入れなければ何にもなりません。折角、正しく見たのに、正しい見解を教えてもらったのに、それを実践しなければ、正しく見た行為、正しく示された見解は、無いものになってしまいます。無意味ですね。
正思惟とは、正しく見たこと、正しい見解を素直に受け入れることなのです。人間、素直が一番です。正しく示された見解は、素直に受け入れましょう。

で、素直に受け入れるということができなければ、後が続きません。その後の正しい修行法は、次回にお話いたします。合掌。



11回のテーマは

仏教の実践A
−八正道−
B正語(しょうご)
正語とは、正しい言葉のことですね。世の中を正しく見て、それを素直に受け入れ考えれば、必然的に言葉も正しくなっていくものです。誤った見方、誤った考えをすれば言葉も乱暴になっていくのでしょう。

さて、どのような言葉が正しい言葉なのでしょうか。仏教では、次の4つを正しい言葉としています。
1、「ウソをつかない」ことです。言葉は真実でなければいけないのです。なので、ウソはいけないんですね。ただし、人を救うためのウソは許されます。いわゆる、ウソも方便・・・というものです。ウソも正しく使えば、正しい言葉になるのです。

2、「ふざけた言葉を使わない」ことです。言葉遣いのことですね。わけのわからない言葉を使うな、相手を見て言葉を使い分けなさい、ということです。最近の若い方たちの言葉はひどい、とお嘆きの方は多いと思います。確かに、「ギャル語」ですか?、あれはわかりませんよね。全く通じません。しかも、相手が誰であろうと、目上の人であろうと、み〜んな友達のように話をしますよね。丁寧語とか、尊敬語なんてないんです。使えないんでしょうね、きっと。確かに、現代の日本語は乱れています。
大人でも、偉そうなことは言えないですよね。わけがわからない・・・といえば、最近のカタカナ言葉です。意味がよくわかりません。カタカナ言葉を使えば、インテリに見えると思っているのか、カッコイイと思っているのか・・・。日本語にできる言葉は、日本語を使って欲しいですよね。カッコつけても、中身が伴わなければ、意味がありませんから。

日本では、昔から言葉遊びが行われていました。駄洒落や地口落ち、略語や逆さ言葉などなど・・・、言葉遊びが、結構行われております。逆さにした言葉が、そのまま定着して、そのまま現代でも使われている場合もあります。しかし、それはそれで、一種の文化になっています。現代のように、一部の人間だけが理解し、極端に省略されたり、外来語をそのまま取り入れたり・・・・というのとは、ちょっと違いますよね。多くの人に受け入れられるなら、それは日本語自体の進化といえるかもしれませんが、出来ては消え、消えて生まれ・・・・の繰り返しでは、単なる流行語でしかないのです。

こうした、一部でしか通じない、意味のわからない、ふざけた言葉を使わないことが、正しい言葉遣いなのです。現代の日本では、この正しい言葉遣いが最もできていないように思えますね。

3、「悪口を言わない」ことです。これは、まあ、当然といえば当然でしょう。悪口はいけません。怨みを買うだけですから。だいたい、他人のことは、放っておけばいいのですよ。頼まれもしないのに、批判や批評をするべきではないのです。下手にそんなことをすれば、怨みを買うだけです。正しい批判や批評も、受け取る側によっては、悪口にしか聞こえない場合もあります。もちろん、悪口を言ってる場合もありますが。他人のことは、とやかく言わない方が、賢明というものです。どう思うか聞かれて初めて、批判なり批評なりをすべきでしょう。その場合も、言葉遣いには注意したいですね。横柄な言い方や、棘のある言い方は避け、優しい言葉遣いにした方が無難というものです。

4、「二枚舌を使わないこと」です。これはウソをつかない、ということと似ていますが、単にウソをつくだけではありません。そこには、「オトシイレル」という行為が付きまといます。
たとえば、Aさん・Bさん・Cさんがいまして、AさんとBさんの仲を裂くために、Aさん・Bさんそれぞれに、Cさんがウソをいう・・・というのが、二枚舌です。世間では、ままあること・・・ですよね。
この場合、作為的に二枚舌を使う人と、知らぬ間に、いつの間にか二枚舌になっていた、というパターンがありますよね。そんな深い考えはないのですが、ついつい他人のことに関して、あることないことじゃべってしまい、結果的に友人の間を混乱させてしまった・・・。そういう人、いませんか?。
初めから、間を裂くつもり、騙すつもり、陥れるつもりで二枚舌を使う場合は、これはもう論外でしょう。それは犯罪にもなりかねないです。
まあ、いずれにしても、他人のことは言わない方がいいですよね。

言葉というものは恐ろしいもので、簡単に人を傷つけることもできるし、逆に人を生かすこともできます。あるいは、自分に跳ね返ってくることもあります。正しく使えば生きた言葉になるのでしょうが、正しく使わなければ、それは悪魔の言葉になるのです。
昔から、「人にものを言うときは、百回考えてから言え」などと言われました。そういう経験ありませんか?。私などは、よ〜ぉく言われましたが・・・・。
正しい言葉を使うには、正しく見て、それを素直に受け入れ、正しく考えてから、口に出さないといけません。これは、結果が直接見えてくることなので、いい修行になります。言葉遣いを正しく・・・・、ですね。


C正業(しょうごう)
正業とは、正しい行いのことです。いくら口でいい事を言っても、いくら言葉遣いが正しくても、その行動が正しくなければなんにもなりません。正しく使っている言葉自体、ウソになってしまいます。
では、正しい行動とはどういうものでしょうか。お釈迦様は、次の三つの行動を守れ、と説きました。

1、他の命を奪ってはいけない。
これは当然ですよね。これにはもちろん、暴力も含まれます。暴力によって、他人を脅すこと、いじめたりすることも含みます。それらは、すべて他に恐怖を与えることです。他に恐怖を与える行為はしてはなりません。

どうして人を殺してはいけないのか、という質問に答えられない大人がいる、と聞きますが、なんでそんなことに答えられないのか、と思います。
答えは簡単でしょう。それは、自分も殺されたくないから、です。自分が殺されたい、と思う人間はいません。いれば、それは特殊なケースですので、一般論には含みませんよね。
なので、他人を殺してはいけないのです。その人だって、殺されたい、と思っていないでしょう。自分がされて嫌なことは、他人だって嫌なんです。それが理解できない、というのは、自己本位の何ものでもありません。他人の立場になって考えることができない、ワガママな人間なのです。
いじめをしてはいけない、暴力を振るってはいけない、ということも同じ理由ですね。誰だって、そんなことはされたくありません。

よく、「じゃあ、害虫も殺してはいけないのか」と聞かれることがあります。お釈迦様の時代では、基本的に生命のあるものは、これを奪ってはならない、という決まりでした。ですから、害虫であろうと、毒虫であろうと、人に危害を食われる生き物であろうと、それを殺してはならないのです。
しかし、現代では、これは通用しないでしょう。人の命を守る、という点において、人に害を加える虫や生き物を駆除することは、致し方がないことです。なぜなら、そうした生き物は、言葉が通じませんから、改心する、反省する、ということがありません。ですから、そうした生き物を殺さざるを得ないのです。
ですが、そこに慈悲の心を加えて欲しいものです。ただ単に、「害があるから駆除してやる」というのではなく、「次は害を与えないものに生まれ変わってきなさいよ」という気持ちが欲しいですよね。その優しい気持ちが大切に思いますね。

2、盗んではいけない。
これも当然でしょう。泥棒、万引きなど、盗みはしてはなりません。欲しいものなら、自分の稼いだお金で手に入れるべきでしょう。
泥棒や万引きだけではありません。これには、盗み見、盗み聞き、も含まれます。最近は、こちらの方の犯罪も増えてますよね。特に盗み見・・・盗撮・・・です。超小型カメラの普及により、こんな犯罪が増えてしまいました。便利になれば、それに伴い犯罪も増えるものです。皆が正しい行動をすれば、そんなことにはならないのですが。

お釈迦様は、
「与えられたものだけで満足しなさい」
と説きました。また、
「いくら欲しいと望んでも、縁がなければ手には入らないものだし、逆にいくらいらないものと思っても、縁があれば手に入ってしまうものなのだ」
とも説いています。そういう考え方ができれば、他のものを盗む・・・などということは、なくなるのです。

3、性において淫らな行為をしてはいけない。
つまり、浮気をするな、ということです。不倫はダメ、ということですね。浮気や不倫は、結局のところ、他人の妻や夫を奪うこと、盗むことになります。また、浮気された側を不幸にします。それは精神的暴力でもあるのです。
ですので、浮気や不倫は、してはいけないのです。どうしても、浮気をしたくなったら、合法的な方法を取ればいいのです。性風俗ですね。そちらの方へ行けばいいのです。どうしても我慢できなくなたっら、そうすればいいのです。

性風俗・・・というと、目くじらを立てる方もいらっしゃるでしょうが、我慢の限界を超え、犯罪を犯してしまいそうになるくらいなら、その前にガス抜きをした方がいいでしょう。そのための性風俗ならば、それは犯罪の抑止にもなるのです。いわば、必要悪・・・でしょうか。

ちなみに、お釈迦様のいらした頃は、インドの国々は一夫多妻が認められていました。また、いわゆる遊郭もありました。それに関して、お釈迦様は、何も批判をしていません。在家のものが遊郭に通うことを止めたりはしませんでした。それが、家族を不幸にしている場合を除いては。
遊女も差別はしていませんでした。元遊女・・・という尼僧さんもいたくらいです。遊女だからといって、その方からの布施を拒否することもありませんでした。それは、職業として認めていたわけですね。遊郭の効用も認めていたのです。もちろん、これは在家の方に関しての話です。出家者は、当然そのようなところへは、出入りしてはいけません。

こうしてみると、正業とは、自分がされて嫌な思いをする行為をしてはいけない、ということになるでしょう。自分がされて嫌な行為は、他人も嫌なのです。それを理解することが大事なのですね。




12回のテーマは

仏教の実践B
−八正道−
D正命(しょうみょう)
正命とは、正しい生き方、と説明されますが、そういいましても、どんな生き方が正しいのか、よくわかりません。そういうよりも、これは、「自分の命を生かすこと」と、言った方がいいでしょう。
「命を生かす」とはどういうことわかりますか?。簡単に言えば、人生を無駄にしない、ということです。これって、結構難しいことかもしれませんが、あまり難しく考えなくても大丈夫です。
具体的に言えば、日々、だらだら過ごさないで、自分にやれることをやる、ただ、それだけでいいのです。たとえば、学生さんなら、よく勉強し、よくスポーツをし、恋愛をし、友情を大切にし、よく本を読む・・・・。主婦ならば、家や金銭の管理をしっかりし、お子さんや夫に愛情を注ぎ、家庭円満になるように心がける・・・。夫は、よく働き、家族のことを思い、家族みんなの幸せを願い、健やかに過ごす・・・・。OLさんなら、仕事に、恋に、遊びに・・・適度に楽しむ・・・。
とまあ、こんなところでしょう。つまり、充実した日々を過ごしなさい、ということですね。
あれいや、これいや、それいや、つまらない、ヤダヤダ、うじうじ・・・してないで、しっかり頑張りましょう!、ということなのです。文句や愚痴を言ってないで、やることをやる、やらなきゃいけないことをやる、それが命を生かすこと、なのですよ。
お経には、このことを「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」と説いています。「身や命を惜しむことなく」という意味ですね。そういう時間の過ごし方をしなさい、ということなのです。


E正精進(しょうしょうじん)
正精進とは、正しい努力のことを言います。精進料理とは関係ありませんので、お間違いのないように。
人には、才能があります。どんな方にもその人にあった道、というものがあります。その才能を伸ばすのは、正しい努力によります。たとえば、音楽の才能があるのに、難しい方程式ばかりを解いていては何にもなりませんよね。それぞれ、その人にあった努力の仕方があるものなのです。
しかし、今日の日本の教育は、個性重視ではありませんよね。いくら輝く才能があっても、方程式が解けなきゃ上の学校には進めないし、社会的に認められない状況にあります。本来ならば、才能を伸ばすことと、一般の社会的ルールを身につけていれば、教育は足りると思うのですが、どうも日本は画一的な教育が好きなようでして。これでは、なかなか正しい努力はできないように思います。ま、いろいろな内容の教育を受けて、その中から自分のあった道を見つけるという場合もありますからね。それはそれでいいのかもしれませんが。
いずれにせよ、正しい努力とは、その人にあった道で、頑張っていく、ことをいいます。とはいえ、手先が器用だから、泥棒の努力を・・・というのはいけません。あくまでも、世の中に迎合される行為での努力じゃなきゃいけません。
たとえば、学生さんは、学生さんのやるべき道で努力をする、主婦は主婦の鏡となるよう努力をする、会社員は会社で仕事をちゃんとこなすように努力をする・・・・、ということですね。
こうしてみると、この正精進は、前の正命と裏表をなしているようですね。つまり、正しく生きるために、正しい努力をする、ということなのです。この二つは、二つで一つ、ということなのです。


F正念(しょうねん)
これは、正しい思慮のことです。簡単に言えば、悪く考えるな、悪い考えを起こすな、ということです。
他を恨んだり、羨んだり、妬んだり、責任を他に転嫁したりするような、そんな考えをするな、ということです。また、そういう考えが元で生じるのですが、「アイツさえいなければ」、「すべてはアイツが悪いんだ」というような、悪い考えを起こさないようにしなさい、ということなのです。間違った考え、思いを起こさないようにしなさい、ということですね。
間違った考えを起こさないようにするには、どう思慮すればいいのでしょうか。それは、すべては「自己責任」である、と知ることです。
この世での出来事はすべて、自分の責任である、と受け入れることなのです。仕事がうまく行かないのは自分の能力がない、努力が足りないから、夫との仲が悪いのは自分がそんな夫を選んだから、成績が上がらないのは自分の努力が足りないから、何かとうまく行かないのは自分の徳が足りないから、などなど・・・。
全部自分が悪いのだ、と思えば他を恨むこともなく、他を羨むこともなく、責任を他に転嫁することもないでしょう。しかも、自分が悪いのだ、と理解すれば、どこが悪くて、それをどう改善すればよくなるか、までわかってくるのです。
ということは、正しい思慮をすれば、自分の生き方の間違った部分を変えていけるのです。


G正定(しょうじょう)
これは、正しい瞑想のことです。正しく瞑想するということは、外に対しては、世の中の事象、現象について、内側については自分自身の心のあり方、行動などについてよく観察し、何が正しく、何が間違っているのか、じっくり考えを巡らせることを言います。そして、心の安定を得るのです。正しい瞑想は、心の安定を得るためのものなのです。
また、逆にともかく心を落ち着かせ、それからじっくり考えてみる、ということもできます。こちらの方が、簡単かもしれませんね。たとえば、何か大事が起きたとき、まず、落ち着くこと、深呼吸をして、心を落ち着かせることの方が、先決でしょう。落ち着いて、それから、じっくり考えるほうが、いい考えも浮かぶものです。まずは、冷静になることですよね。それが、正しい瞑想なのです。


以上、八正道についてお話ししてきましたが、これらは、順番に行っていくものではありません。平行して行っていくものです。しかも、似たようなものがいくつかあります。ですから、それらをまとめてしまえば、実践することは少なくなってきます。ですから、意外と実践できてきそうな、そんな気がします。たとえば、八正道の似たような項目をまとめてしまうと、
「世の中や自分自身を、偏った見かたをせず、正しく観察し、正しく判断し、それを素直に受け入れ、正しい行動や言葉を使うようにする。また、自分を生かし、怠けずに努力する。」
となります。こうしてみると、なんとなくできそうな気がするでしょ。要するに、
1、ありのままの自分を見つめ、いいところ悪いところ、いやなところをよく観察し、それを改善していく
2、他に対して、平等に、素直に、善意で行動をし、優しい言葉、態度で接する
3、自分を生かし、よく働き、怠けないで努力をする

ということなのです。もっと簡単に言えば、
「自分自身をよく知り、自己反省をし、いいことをして悪いことはしない、怠けずに働け」
となるのです。仏教の実践行は、まずこのことから始まるのです。そして、このことをやり通すのが仏教の修行なのですよ。合掌。



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