お気楽!!

仏教講座

バックナンバー3

13回のテーマは

仏教の実践C
−六波羅蜜−
今回は、仏教の実践行である六波羅蜜(ろくはらみつ)のお話です。
六波羅蜜は、字を読んでもわかるように、六つの種類がある実践行です。それは、つぎの6種類です。
@檀波羅蜜(だんはらみつ)    A戒波羅蜜(かいはらみつ)
B忍波羅蜜(にんはらみつ)    C進波羅蜜(しんはらみつ)
D禅波羅蜜(ぜんはらみつ)    E慧波羅蜜(えはらみつ)
この中には、八正道と重なる部分もあります。しかし、八正道が、どちらかというと出家向けの実践行であったのに対し、六波羅蜜は主に在家用の実践行といわれています。ですので、八正道が難しい方は、この六波羅蜜から行うといいでしょう。
波羅蜜(はらみつ)というのは、インドの言葉で、「パーラミター」のことです。般若心経に出てくる「般若婆羅蜜多(はんにゃはらみった)」の中の「婆羅蜜多」と同じですね。「般若婆羅蜜多」は、本来訳さない言葉ですが、無理に訳しますと、一般的に「如来の智慧の完成」と訳します。「般若」は「如来の智慧」です。単なる智慧とは異なります。そして「婆羅蜜多」は、「完成」などと訳されます。ですので、般若婆羅蜜多で、「如来の智慧の完成」という訳になるのですね。

ともかく、「婆羅蜜多」(波羅蜜も同じ)は、修行の完成を意味する言葉なのです。ですので、六波羅蜜は、「六種類の修行の完成方法」という意味だと理解してください。具体的に一つずつ説明いたします。

@檀波羅蜜(だんはらみつ)

檀波羅蜜とは、簡単に言えば、「お布施をしましょう」ということです。檀とは、インドの言葉の「ダナー」が音写され、「ダンナ」になり「檀那」の字が当てられました。意味は、「布施する」です。
ちなみに「旦那様」の「旦那」と同じです。女性をお世話する男性、または夫のこと「旦那」と呼ぶのは、「旦那」の元の意味が、「布施をするもの」という意味からきています。つまり、お金を与えて女性を養うので、そういう男性のことを「旦那」というようになったのです。そこから、お金持ちやちょっと威張った方などを「旦那」と呼ぶようになったのですね。
それはさておき、檀は布施を表す言葉ですから、「檀波羅蜜」とは「布施の修行」のことなのです。

よく仏教では、布施を重視します。それはなぜか・・・・。
それは、決してお寺が儲けるために、坊さんが儲けるために「布施をしましょう」と説いているのではありません。また、よく新興宗教などで言う、徳を積むために「布施をしましょう」と説くのとも少々異なります。
「布施をすれば徳が積める」というのは、正しいことです。しかし、徳を積むために布施をするのではありません。布施をすることにより徳は自然に身につきます。
つまり、徳を積むということが目的で布施をするのではないのです。徳を積むことは、目的ではなく、付属的に備わっていくことなのですよ。
では、何のために布施をするのか・・・・。

それは、執着心を捨てるためです。
自分が欲しいと思うものを人にあげたりするのは、嫌なことです。たとえば、お金です。お金は誰もが欲しいものでしょう。それを他人に何の見返りも求めず、与えるという行為は、なかなかできるものではありません。
人は、他人にお金など金品を与えるとき、そこには必ず見返りを求めます。下心があるんですね。何の見返りも求めず、金品を他人に与える者がいるでしょうか。100%とはいいませんが、まずいないでしょう。このような行為は、布施ではありません。布施とは、「何の見返りも求めずして、与える」という行為なのです。
ですから、お寺さんなどに「○○様金××円也」と掲示してもらうために寄付をするのは、本当の布施じゃないのですよ。本当の布施には、売名も見返りもないのです。(なお、お寺さんや神社が寄付者の掲示をするのは、税務上の指導があるからです。もちろん、売名や人寄せの意味もありますが・・・。)

喜捨・・・・という言葉があります。「喜んで捨てる」という意味ですよね。布施は、イヤイヤするものでなく、喜んでするものです。進んでするものなのです。そこには、何の目的もなく、売名もなく、下心もなく、徳積みでもなく、「ただ喜んで布施をする」でなくては、いけないのですね。それでこそ修行になるのです。

布施は、お金ばかりとは限りません。お金じゃなくてもいいのです。自分にできることであれば、何でもいいのです。たとえば、「無財の七施」というものがあります。これは、財力に関係なくできる布施です。ちょっと、お話しておきましょう。
@眼施(がんせ)・・・優しいまなざしのことです。キツイ目付きをするのではなく、優しい眼で相手を見ることです。
A和顔悦色施(わがんえっしきせ)・・・優しい顔をすることです。いつもニコニコ、明るい笑顔、という顔ですね。
B言辞施(ごんじせ)・・・優しい言葉を使うことです。キツイ言い方を避けることですね。
C身施(しんせ)・・・身体を使った布施です。たとえば、重い荷物を持ってあげる、力仕事を手伝ってあげる、などですね。
D心施(しんせ)・・・心配り、気配りのことです。また、他人の話を聞いてあげたり、相談に乗ってあげたりすることでもあります。
E床坐施(しょうざせ)・・・席を譲ったり、場所を提供したりすることです。電車やバスの中で席を譲る行為ですね。
F房舎施(ぼうしゃせ)・・・住まいや仕事場を清掃することです。それ以外を掃除することもいいですよ。家の中では家事をすること、外では公園の掃除や道路の掃除などをすることですね。
(布施についての話は、真実の部屋バックナンバー4にも掲載されています。参考までに)
こうしたことなら、一つくらいはできるでしょう。とはいえ、恥ずかしいと思ったりして、実行しにくいでしょうか。何でもいいのです。気張らず、思いついたとき、思い出したときに、できることから実行してみましょう。そのうちに、自然にできるようになりますから。

布施は、金品を布施することよりも、無財の七施のような行為のほうが、実際には難しいことだと思います。お金を与えることは、自分にできる範囲の額なら何とかなるでしょう。街で見かける募金に小銭を入れる行為だって、立派な布施行です。むしろ、こういうことのほうが、簡単にできるのではないでしょうか。
それよりも、誰にでも優しく微笑み、優しいまなざしで見て、優しい言葉で話す・・・・ということの方が難しいでしょう。男性などは、家庭で家事の手伝いをすることの方が、難しいことだと思います。
本来、布施とは、自らの心にあるこだわりや執着心を捨てるためにある行為です。つまり、相手に心を与える行為が布施といわれるものなのでしょう。金品を与える布施は、その代用なのでしょう。
本来の布施の修行とは、「誰にでも差別なく心を与えること」、なのです。むずかしいことですから、できることから、コツコツと・・・・ですね。


A戒波羅蜜(かいはらみつ)
戒とは、戒律のことです。仏教では在家の守るべき戒律として、五つもしくは十の戒律をあげています。
A.五戒
五戒とは、不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不妄語(ふもうご)・不邪淫(ふじゃいん)・不飲酒(ふおんじゅ)のことです。不殺生は、命を奪わない、暴力を振るわない、ということですね。不偸盗は、盗まない、盗み見をしない、盗み聞きをしない、ということです。不妄語は、うそをつかない、ことです。不邪淫は、浮気をしない、淫らな性行為をしない、ことです。不飲酒は、文字通り酒を飲まない、ということです。
初めの4つまでは、納得できると思います。当然、守るべき常識ですよね。しかし、不飲酒は、なぜ?と思われるのではないでしょうか。出家者ならば当然なのでしょうが、在家でどうして?思われることでしょう。

それは、酒に溺れる人が多いからです。酒を飲むと、酔いがまわり、他の戒律のことはもちろん、日常の常識を忘れてしまうからです。こちらの方が、よく見かけるし、やってしまった・・・という方も多いのではないでしょうか。
酒に酔えば、饒舌になり言葉も荒くなったりします。悪口や愚痴も出てくることでしょう。また、異性に寛大になっていきますよね。公衆の面前でも、平気で大声で暴れたり、異性を口説いたりします。普段は、堅い職業についている人でも、酒が入ると乱れるものです。酔って事件や事故を起こしたりする方、たまにいますからね。酔えば、ロクなことはありません。なので、お酒を飲むことを禁じたのです。
酒によっても、根本的な苦しみは解決しませんからね。酒に依存しないで、教えを頼りなさい、という意味もあるのですよ。

B.十善戒(じゅうぜんかい)
仏教では、十戒とはいいません。十善戒といいます。これは、Aの不殺生〜不邪淫までの4つの戒律と、他に6つの戒律を足したものです。ちなみに、不飲酒は入ってません。どんなものかといいますと、
*不殺生・不偸盗・不邪淫・・・・身体による行為
*不妄語・不奇語(ふきご)・不悪口(ふあっく)・不両舌(ふりょうぜつ)・・・・言葉による行為
*不慳貪(ふけんどん)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見(ふじゃけん)・・・・心による行為
の十種類の戒律です。

不妄語までは、先ほどと同じです。不奇語は、わけのわからない言葉を使うな、ということです。若者言葉など、全く意味不明の言葉がありますが、そういう言葉を使うな、ということですね。言葉は正しく、です。不悪口は、文字通り悪口を言わないことです。不両舌は、二枚舌を使わないことです。
不慳貪は、貪らない、ことです。必要以上に欲しがらないことですね。不瞋恚は、いつまでも怒っていない、妬まない、恨まない、羨まないことです。不邪見は、誤った考え方をしない、物事を正しく観察する、真理を理解しようとする、ことです。
なお、この十善戒は、別名「菩薩戒(ぼさつかい)」とも言われ、在家のもの、出家のものはもちろん、菩薩が守るべき戒律である、といわれています。また、人間が人間として守るべき最低のルールとも言われています。

難しいことは、考えなくてもいいんです。社会的ルールを守り、言葉遣いを正しくし、欲しがらない、妬まない、恨まない・・・・という日常を過ごしていれば、自然にできてしまうことです。知らず知らずのうち、戒波羅蜜を修行しているんですよ、我々は。

さて、今回は、ここまでにしておきます。残り4つの波羅蜜については、次回にお話いたします。合掌。

次回予告 「仏教の実践D 六婆羅蜜」。合掌。


14回のテーマは

仏教の実践D
−六波羅蜜−
前回の続きで、仏教の実践行である六波羅蜜(ろくはらみつ)のお話です。六波羅蜜とは、次の六つの実践行のことで、覚りへの修行方法です。
@檀波羅蜜(だんはらみつ)    A戒波羅蜜(かいはらみつ)
B忍波羅蜜(にんはらみつ)    C進波羅蜜(しんはらみつ)
D禅波羅蜜(ぜんはらみつ)    E慧波羅蜜(えはらみつ)
今回は、Bからお話いたします。

B忍波羅蜜(にんはらみつ)
忍波羅蜜とは、簡単に言えば、「耐え忍びましょう」という修行です。
人の一生というのは、よいときもあれば苦しいときもあります。何にも苦しみなんてない人生、つらいことなどない人生、ということはありません。大なり小なり、つらいこと、苦しいこと、苦難、と言うものがあるのです。そうした苦しみを乗り越えてこそ、真実の安楽が得られるものです。
ところが、誰しも、苦しみを乗り越える、と言うのは大変です。苦しみに耐え忍ぶ、というのは、それこそつらいものです。なかには、そうしたつらく悲しい、苦しいことに負けてしまう場合もあります。
でも、それではいけないんですよね。負けちゃあいけません。どんなにつらく、苦しいことであろうと、耐え忍ぶことによって、乗り切れることも多々あるのです。

たとえば、バブルの頃、ほとんどの企業がこの世の春を謳歌していましたね。小さな小さな町の個人会社であっても、輝ける日々を過ごしていたことでしょう。その好景気がいつまでも続くと思い、大いに消費することを楽しんでいたのです。
ところが、バブルははじけ、夢は破れ、春からいきなり真冬の到来の如く、不況の嵐に見舞われました。多くの企業は、不況の苦しみに際し、リストラで乗り切り、耐え忍んで過ごしていきました。小さな町工場でもそうです。親会社からの不当な注文に耐え忍び、コツコツと働いていきました。どんなにつらくとも、どんなに苦しくとも、耐えて耐えて耐えて働いていきました。家庭でもそうでしょう。今までの贅沢を慎み、耐え忍んで生活してきたことと思います。
しかし、耐え切れなかった企業、会社、工場、商店、家庭だってあるのです。苦しみに耐え切れず、ごまかしや法に触れるような方法で利益を上げようとした企業は糾弾されましたよね。
バブルの頃が忘れられず、リストラがうまく行かなかった会社もあります。贅沢が身に染み付いてしまっていたおかげで、節約生活に耐え切れず、結局破産してしまった・・・・という家庭もあります。そういう方たちは、
「あの時、もう少し耐え忍んで、辛抱我慢していれば、今頃は安定していただろうに・・・・。」
などと後悔しているのではないでしょうか。

忍波羅蜜とは、この耐える力、のことをいうのです。
「どんなにつらくとも、春はまたやってくる、嵐は必ず去っていく。」
ということを信じて耐える、そういう力のことを言うのです。
今、つらい思いをしている方がいましたら、そのつらいことは必ず去っていく、と信じて、強く耐え忍んでください。
ただし、そのつらさを乗り越える工夫も必要ですけどね。ただぼんやり、嵐をやり過ごすのではなく、その嵐のなかで如何にうまく生きるかを考え、努力する事も大事です。そして、その工夫や努力が、次の進波羅蜜なのです。


C進波羅蜜(しんはらみつ)
進とは、精進のことです。精進といっても、お料理のことではありません。精進とは、努力することを言います。努力と言っても、悪いことに努力してはいけません。当然ですよね。正しい努力をしなければいけないんです。
よく世間には、何でも人任せの方、いますよね。あなたの周りにはいませんか?。何でも
「じゃあ、あなたに任せるから。」
「やってね、お願い。」
などと言って、自分でやろうとしない方。いますよね。こういう方は、「自分で行う」と言う努力が足りないんですよね。だから、こういう方は、いつまでたっても自分ひとりでは何もできないんです。
たとえば、会社の上役が部下に
「やっておいて」
と言う場合は、別ですよ。その方は、若い頃、一人でやってきたのでしょうから。
私が言うのは、一人じゃあ何にもできないくせに、何でも人任せの方、のことを言っているのです。まずは自分でやってみよう、と言う気持ちがない方のことをいっているのです。

また、忍波羅蜜のところでも言いましたが、つらいときや苦しいときに、それを乗り切ろうと頑張れない方、いますよね。何とか努力して乗り切ってやろう、という気持ちのない方、いますよね。自分では、ちっとも努力しないで、何でも人のせいにしたり、世間のせいにしたり・・・・。
はたまた、怠けてばかりいて、ちっとも働こうとしない方もいます。少しやってみて「できないからやめた」とかね。少しは辛抱して努力してみなさい、と言いたくなるような方、実際にいるんですよ。

進波羅蜜とは、そういう人間になり下がらないように、努力しなさい、という修行なのです。ということは、皆さんが、日々働いていること、家庭がうまく行くように考えていること、家の中が汚くならないように掃除していること、おいしい料理だと喜んでもらえるよう工夫していること、会社が繁栄するようにいろいろアイディアを絞っていること、家族のために一生懸命働いていること、そうした毎日の創意工夫や働き、そのものが進波羅蜜なのです。
ですから、あえて進波羅蜜をしよう、などと思わなくてもいいんです。ちゃんと毎日働いている方は、そのままでいいのですよ。
ただし、怠けている方、つらさや苦しみに打ちひしがれてちっとも立ち直れない方、自分でやってみようと思わない人任せ型のあなた、そういう方は、進波羅蜜をやってみるべきでしょう。
努力すれば、そこから何かが見えてきますからね。


D禅波羅蜜(ぜんはらみつ)
禅波羅蜜とは、禅をしなさい、と言うことなのですが、一般の方においては、座禅なんてそうそうできるものではありませんね。じゃあ、どうすればいいのか。
座禅なんてしなくてもいいのです。この禅波羅蜜という修行は、どんな場合でも「冷静でいられる」ようにすればいいのです。

禅とは、心静かに落ち着け、何事が起きても動揺しない精神を身につけるものです。そこまで精神が落ち着けば、さらに禅を深めていき、覚りへのきっかけがつかめます。禅宗での修行では、そこに至るまで座禅を続けますが、一般の方たちは、心静かに落ち着ける、何事にも動揺しない精神を身につける、というところまで至れればいいのではないでしょうか。
ともかく、あわてない、動揺しない、ということですね。冷静さを持て、と言うことなのです。

人は、とかくあわてたり、焦ったりすると判断を誤るものです。どんな場合でも冷静であれば、次の行動も正しいものになるでしょう。何が起きても、あわてず、一休みして落ち着くこと、それが大事なのですね。その心落ち着けることが禅波羅蜜なのです。
それには、日頃から、一歩退いた状態でいることが一番いいでしょう。いわゆる客観的に見る、ということですね。そういう努力を常日頃から心掛けていくといいのでしょう。
あわてず騒がず、一休みしてから、一呼吸おいてから、考えて見ましょう。そうすれば、オレオレ詐欺にも引っ掛からないし、いいアイディアが浮かびますよ。


E慧波羅蜜(えはらみつ)
慧とは、智慧の慧です。簡単に言えば、「よ〜く考えよう」ということですね。考えなしの行動はダメですよ、ということです。
人は、時々ちょっとした誘惑や欲望に負け、考えなしの行動をすることがありますよね。否、考えたのですが、誘惑や欲望に負けてしまった、ということもあります。
やっていい事かどうか、この場合どういう行動や言葉が必要か、そういうことをよく考えなさい、というのが慧波羅蜜なのです。

最近の若い方は、よく「想像力が足りない」と言われているようです。自分の行動が周りにどのような影響を及ぼすか、自分の立場がどういうものであってどんな行動をすべきか、これをしたらどういう結果を招くか、そうしたことが想像できないようなのです。だから、行動が短絡的になるのですね。よく
「ちょっと考えれば、やっていいことかどうか、わかるでしょう。」
などという言葉、聞きませんか?。あるいは、
「ちょっと考えれば、ウソかどうかわかるでしょう。」
ということもあるでしょう。落ち着いてよく考えればウソだったとかね。ちょっと想像すれば、自分の行動がどういう影響を与えるか、簡単にわかることだったりしますよね。
その想像力、応用力、考える力、それを身につけるのが慧波羅蜜なのです。

そのためには、常日頃から、感情的にならずに、落ち着いてよく考えることです。自分の行動がまわりにどういう影響を与えているかをよく想像することです。こうすればああなる、ああなればこうなる、と応用力を働かせることです。
つまり、日頃からぼんやりしていないで、よ〜く考えること、想像すること、ですよね。

こうしてみると、Dの禅波羅蜜とEの慧波羅蜜はセットでもありますね。まずは冷静になること、そして、じっくり考えること、なのです。この二つがセットでないと、「下手な考え休むに似たり」になってしまいますからね。落ち着いてじっくり考え、想像力を働かせないと、「馬鹿な考え」になってしまいますから。


さて、六波羅蜜については、ここまでにしておきます。次回は、業(ごう、カルマ)についてお話いたします。合掌。


15回のテーマは

業について

「業」というと、あまりいい印象のある言葉ではありません。どちらかというと、悪いことを表す言葉として使われます。たとえば、「悪業」とか「業が深い」などといったように。しかし、本来、業は悪いことだけを表す言葉ではありませんでした。
また、「業」は、インドの言葉で「カルマ」といわれ、この「カルマ」という言葉を使って、人心を惑わすようなことを言う、怪しい自称霊能者もいます。たとえば、「あなたのカルマが災いしています。カルマを落とさないといけません・・・。」などとね。しかし、カルマとは、落とすものではありません。こういうことをいう方は、カルマ・・・業・・・の本当の意味を知らない者です。
こういうものに騙されないためにも、今回は、業(カルマ)の本来の意味をお話しいたしましょう。

さて、業です。インドでは、karmanと書きます。意味は、おなじみの仏教語大辞典によりますと、
@なすはたらき。作用。
A人間のなす行為。ふるまい。行為の働き。行ない。動作。普通、身・口・意の三業に分かつ。身と口と意とのなす一切のわざ。すなわち、身体の動作、口で言う言葉、心に意思する考え、のすべての総称。意志に基づく心身の活動。
B行為の残す潜在的な余力(業力)。身・口・意によってなす善悪の行為が、後に何らかの報いを招くこと。身・口・意の行い、およびその行いの結果をもたらす潜在的能力。特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。ある結果を生ずる原因としての行為。業因。過去から未来へ存続してはたらく一種の力とみなされた。
C悪業、または惑業の意で、罪を言う。
D元素の働き。
E古来インド哲学(省略)では、運動のこと。
F清浄な経験。
G努力すること。
H人間的な活動。
となってます。

これを見てもわかるように、本来の「業」の意味は、「行為」そのものを言っていたのです。人間の行う行為や、活動そのもののことを「業」と称したわけです。
それが、「すべての結果には、必ず原因がある」という仏教の考え(因果応報論)と結合して、「前世の業が現世に影響している」となったわけです。これが上記のBの意味ですね。

しかし、ここで誤解のないようにしておきたいのです。今では、「業」は悪い意味で捉えられている、と最初にいましたが、実際は、業は「善悪両方」含んでいるのです。悪だけを取り上げて、「業」といっているわけではないのです。
つまり、現世に報いるのは、「悪い業・・・・悪い行い」だけではなく、「善い業・・・・善い行い」も報いるのです。すなわち、「業」自体には、善も悪もないのです。その両方あるのです。

人間の行為には、正しい行為(善行)と間違った行為(悪行)と、そのどちらでもない行為があります。ここで、「業」として取り上げられるのは、悪行だけではなく、善行も含まれているのです。本来はね。
ところが、人はとかく善いほうは忘れがちになるのですね。悪いことばかりに目がいくのです。たとえば、人並みに生活できているのに、ちょっと災いがあると「何かあるのではないか」と考えてしまうものなのですね。前世での悪い行い、業が祟っているんじゃないか」とか、「業の報い」だとか・・・・。
人並みに生活できている・・・・という部分には注目しないのです。
つまり、悪い業の報いがあるのなら、善い業の報いもあるでしょ。それなのに、善い業の報いについては、誰も何も言わないのですよ。悪いほうばかり注目している。
人並みに生活できるのは、前世での善い業・・・善い行い・・・の報いなんですよ、とはいわないのです。悪いことが起きた場合のみ、業が多いから落とさなければ、カルマのせいだ・・・・などというのです。
これって、変じゃないでしょうか?

確かに、仏教には因果応報という考え方があります。しかし、それも多くの誤解を含んでいるようです。そういう誤解の元に、因果応報や業といった仏教的考え方が、一人歩きしてしまっているのでしょう。
しかし、元をたずねてみれば、怪しいことを言っているわけでもなく、霊感商法的なことをいっているわけでもない、ということがわかりますね。
「業」についても、上で見たように本来の意味は「行為」そのものでした。それが報いる、というのなら、善いほうにも報いなければウソになるでしょう。業を悪い面ばかりで捉えてはいけないし、そういう説明をする者は怪しい者なのです。
「業」といえば、それは「善い行い、悪い行い、そのどちらでもない行い、行いすべてのこと」を意味しているのです。前世の業が現世に影響している、というのなら、それはいいことも悪いことも影響している、といわなければいけません。
業は行為そのものです(カルマといったときも同じです)。前世での行為そのものをいうのなら、それは「落とすもの」でも「祓うもの」でもありません。過去に行った行為そのものは、どうすることもできませんからね。むしろ、行いですから、反省するもの、省みるものでしょう。自らの行いが善かったのか悪かったのか、省みることが必要なことではありますが、それ以外のものではないのです。

「業(カルマ)」という言葉を正しく理解すれば、何も怖いものではありません。また、怪しい宗教や霊能者などという者に騙されることもないでしょう。言葉の響きだけやうわべの意味だけで理解しないようにしてください。

次回は、業と同様、誤解の多い言葉「因果応報、因縁」についてお話いたします。合掌。


16回のテーマは

因果応報

「因果応報」も前回の「業」と同じように、あまりいい印象のある言葉ではありません。悪いことを表す言葉として使われる事が多いですね。たとえば、「悪いことをしたから、その報いが来たのだ」とか「親の因果が子に報い・・・」などというように。しかし、この「因果応報」も本来、悪いことだけを表す言葉ではありません。「因果応報」は、悪いことも善いことも含んでいるのです。

さて、とりあえず、因果応報とはどのような考え方なのか、それを知っておく必要がありますね。正しい因果応報とは何か、ということです。
「因果応報」は、「因果」という言葉と「応報」という言葉に分かれます。「因果応報」を知るためには、それぞれの意味を知る必要があるでしょう。特に「因果」という言葉は、仏教においては重要な言葉ですので、正しく理解しておいていただきたいですね。
仏教語大辞典によりますと「因果」は、
@原因と結果。いかなるものでも生起させるものを因といい、生起されたものを果という。事象を成立せしめるものと成立せしめられた事象。
A原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが因果の理。あらゆるものは因果の法則によって生滅変化する。
(以下省略)
となっています。
つまり、すべての現象には、必ずそうなった理由(因)がある、ということです。原因なくして結果はありえない、ということですね。まず、このことを踏まえておいてください。

日常生活をしていて、人は多くの困難や苦しみ、災難、悩み事、あるいは喜び事、楽しいこと、幸運・・・などという現象に出会います。そうしたことには、すべて原因がある、ということです。困ったことに関しては、困ったようになった原因があり、楽しいことには、そうなった原因がある、ということですね。
たとえば、受験生が希望の大学に合格したとします。それは希望の大学を目指して、それなりに頑張って努力したからでしょう。懸命に努力して勉強したという原因があって、希望の大学に合格した、という結果があるわけです。ところが、懸命に勉強したにもかかわらず、希望の大学に不合格になった、とします。それはそれで、必ず原因があるのです。勉強不足だったのかもしれません、緊張して普段の力が出せなかったのかもしれません、体調が悪かったのかもしれません・・・・。いずれにせよ、不合格という結果を招いた原因があるのです。
つまり、結果に対して、そうなった原因というのが必ずあるのです。これが因果の法則です。

もう少し例をあげましょう。
たとえば、商売をしていたとします。その商売は繁盛しています。その原因としては何が考えられるでしょうか。ご主人の商いの仕方が上手だから?、おかみさんの客扱いがうまいから?、扱っている商品がほかでは手に入らないから?、場所がいいから?、ただ単に幸運だから?、情報を得てそれに対応できるように努力しているから?・・・。
商売がうまくいっている原因は、いろいろ考えられるでしょう。このように、結果は一つであっても、原因はたくさんある場合もあります。
たとえば、商売がうまくいっていない場合はどうでしょう。ご主人の商売の仕方が悪いから?、おかみさんが愛想がないから?、そもそも経営努力が足りないから?、経費がかかりすぎ?、場所が悪い?、運がない?、お客さんの対応が下手?、ニーズに対応できない?・・・・。
やっぱり、いろいろな原因が考えられるでしょう。結果は一つでも原因はたくさんあります。
このように、結果は一つであっても、その原因は多種多様にわたっていることもあります。一つの原因に一つの結果、とは限りません。むしろ、一つの結果に対して、様々な原因が絡み合っている、と考えるほうが自然です。
つまり、結果に対して、原因は一つとは限らない、のです。これも因果の法則です。

また、結果が次の結果の原因になることもあります。たとえば、ある生徒が勉強嫌いのために落ちこぼれてしまったとします。その因果を探って見ましょう。
その生徒は勉強が嫌いだった→授業に出たくなくなった→学校に来なくなった→落ちこぼれてしまった・・・となります。つまり、落ちこぼれたのは、学校に来なかったからであり、学校に来なかったのは、授業に出たくなくなったからであり、授業に出たくなくなったのは、勉強が嫌いだったからです。勉強が嫌いだった、を結果とすると、その原因があります。それは、授業が理解できなかったから、でしょう。では、その原因は?。先生の教え方が悪かったから?、本人の理解力が少々劣っているから?、話を聞くという集中力に欠けていた?、などなど考えられますよね。
このように、結果が原因になって、次から次へと結果を生んでいくのです。最終結果は死ぬまでわかりません。
すなわち、結果は次の結果を生む原因にもなり得る、ということです。これも因果の法則です。

いずれにせよ、すべての現象、結果には、必ずそうなった原因があることだけは間違いありません。「因果」はそういうことを意味しているのです。

さて、その原因と結果は、その原因に応じて善い結果になったり、悪い結果になったりします。つまり、善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が訪れる、ということです。これを「因果応報」というのです。
すべての現象、結果には必ず原因があります。これを因果の法則といいます。その結果は、その原因の善悪に応じて、善い結果・悪い結果が現れます。つまり、善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果がやってくるのです。因果の法則に応じて、それ相応の報いが来る、ということですね。これを一言で「因果応報」というのです。
ですから、「因果応報」には、悪いことだけでなく、善いことも含まれています。

例をあげてみましょう。
先ほどの商売で考えてみましょう。商売が繁盛しているのは、様々な善い原因があるからです。ご主人が商売上手、というのは善い原因ですよね。おかみさんが客扱いがうまい、というのも善い原因でしょう。商品が善い、というの善い原因の一つです。場所がいい、というのもそうですね。そうした善い原因が絡み合って、善い結果につながっているのですね。
逆に、ご主人が怠け者だったり、おかみさんが愛想がないとか、商品が悪いとか、店が汚いとか、場所が悪い、などといった悪い要素が絡み合って、悪い結果を招いているのですね。
つまり、
善い行い、よい態度、よい考え方には善い結果が生まれ、悪い行為、悪い態度、悪い考え方(悪いというより間違ったといったほうがいいかもしれません)には、悪い結果が付きまとうものなのです。
これを因果応報というのです。


このように、一般的に因果応報というと、善い行為には善い結果が、悪い行為には悪い結果が生じる、と考えられがちですが、しかし、実際には、その因果の関係はもっと複雑だったりします。単純に悪いことをしたから悪い結果につながった、善いことをしたから善い結果になった、と割り切れるものではありません。このところを勘違いしている方が多いために、因果応報という言葉が悪く使われてしまうのですね。仏教において誤った解釈をされる原因でもあります。
たとえば・・・・。
ご主人は商売上手だが、奥さんがねぇ・・・・とか、ご夫婦は商売がうまいが、そこの商品は・・・・、なんてことがありますよね。また、場所によっては、何度もお店が変わったりするところもあります。何をやってもつぶれるね、という場所ってありますよね。扱う商品はいいのに、経営者はいいのに、いろいろ努力はしているのに、なぜか何をやっても流行らない・・・・。そういう場所もあります。
行いは善いのに結果は悪い、そういう場合もあるのです。受験の場合でも同じですね。本人は懸命に努力してきて、実力もあるのに、ほかの諸条件によって受験に失敗することもあるのです。
それは、原因が単純に一つだけ、ではないからですね。このところを忘れないようにしていただきたいのです。でないと、因果応報も誤った解釈になってしまうからです。

懸命に努力したのに、善い結果が生まれなかった・・・。だから、因果応報なんて考え方は間違っている。
悪いことをして稼いでいるのに、社会的制裁を受けずにのうのうと暮らしている・・・・。だから、悪いことをしても悪い結果がやってくることはない。因果応報なんてない・・・。
こういうことは、世の中よくあることですよね。こういうことは、
「・・・だから、因果応報を説く仏教は信じられない・・・」
という考え方につながっていきます。
しかし、この話はおかしいんですよ。今までの説明をもう一度見返してください。わかりましたか?。
「結果は次の結果を生む原因になり得る」
という話をしましたよね。結果は次の結果を生む。結果が原因となり、次の結果を、その結果がまた原因となり次の結果を生んでいく・・・・。最終結果は死ぬまでわからない。
これが因果の法則です。
つまり、現時点でおいて、懸命に努力しているのに善い結果が生まれない、努力が報われない・・・事もあるのです。それはまだ、最終結果に至ってないのです。まだ、過程なのです。
悪いことをして稼いでいるのに制裁を受けない、という場合も、まだ過程なのですよ。最終結果がでていないのです。まだ、途中の段階で物事を決め付けてはいけません。
よくやるんですよね、人は・・・・。まだ、途中なのに、悪い結果しか生まれない、と嘆いてしまうのです。うまくやっている人を妬んでしまうのです。正直者は馬鹿を見る・・・・とね。

しかし、すべて途中です。今、あなたが見ているもの、体験しているもの、それらはすべて過程なのです。結果ではありません。いったん、結果めいたものが出た、に過ぎないのです。最終結果は、最後までわからないのですよ。人生の最後までね。
たとえば、現時点で希望大学に不合格になってしまった結果を得たとします。で、第二希望の大学に行ったとします。しかし、そこで嘆いていてはいけません。第二希望だからといってクサってはいけません。それは、単に仮の結果にしか過ぎないのです。第二希望の大学に入ってしまった、という原因を善い原因にすればいいじゃないですか。
第二希望の大学に入ったから就職が悪くなった、就職が悪くなったから人生がうらぶれてしまった・・・・というのは、理由にはなりません。
第二希望の大学に入ってしまったから、余計に頑張った、就職活動も必死に頑張った、その結果は芳しくなかったけど、就職先で努力して、小さい会社ながらも出世していった、そのうちに会社を任されるようになった、最後は小さな会社を大きくして、世に名を残した・・・・。
なんて事だってありうるのです。
つまり、いくら悪い結果であっても、それをもとにして、善い結果へと導くことができるのです。
あるいは、逆に、いい大学に入ることができたが、それに甘んじて適当に大学生活を過ごしてしまったが為、いい会社に就職することができなかった・・・・という事だってあり得るのです。
すべては過程なのです。それを忘れてはいけません。ですから、一つの結果が出たからといって、一喜一憂する必要はないし、他人のいい結果を見てうらやむことも必要ないし、他人の悪い結果を見てひそかに喜んでいてはいけないのですよ。そこから、また違う結果が生まれてくるのだし、先はどうなるかわからないからです。すべては通り過ぎる一現象に過ぎないのです。

因果応報とは、悪いことをしたから悪い結果になった、善いことをしたから善い結果が生まれた。悪いことをしたからその報いで苦しんでいる、善いことをしたから幸運である、ということだけを説いているのではありません。そうした後ろ向きな考え方を説いているのではないのです。
むしろ、それは方便であって、大事なのは、
悪い結果を得ても、それを糧に努力すれば善い報いを受けることができる、という前向きな教えなのです。
因果応報といっても、結果は最終結果ではなくて、それを原因として善い結果へと変化させることができる、のです。因果方法の教えは、このことを言いたいのです。結果はいくらでも善い方向へと変えることができる、ということを説いているのが「因果応報」の教えなのです。

このところをよく理解してください。
「親の因果が子に報い」で、あなたは苦しんでいる、「あなたの前世の業により、カルマにより今のあなたは苦しんでいる」と説く事だけが因果応報ではないのですよ。
こういうことだけを説いているものは、仏教を知らない者なのです。ご注意してくださいね。

さて、次回は、この因果応報にも絡んでくる「苦」についてお話いたします。仏教での苦の考え方ですね。では、また。合掌。



17回のテーマは

苦について

仏教ではこの世を苦の世界とみなします。仏教の根本のところでも話しましたが、この世を苦の世界、と見ること・実感することが仏教の基本なのです。仏教では、まずこの世は苦の世界だ、認識することからスタートするのです。

しかし、実際にこの世は苦の世界なのでしょうか。
「いやいや、そんなことはない、楽しいこともいっぱいあるぞ、だから苦の世界なんてありえない」
と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、ここでよ〜く考えてみてください。
その楽しいことは、いつまでも続いていますか?。いつも楽しいでしょうか?。いつも快適でしょうか?。
そうではありませんよね。楽しいことは、長くは続かないことのほうが多いですよね。むしろ、楽しいことは早く過ぎ去っていくように思いませんか?。苦しいことのほうが多いように思いませんか?。
よく「楽あれば苦あり」といいますよね。有名なTV時代劇の主題歌にもあるでしょ。「人生楽ありゃ苦もあるさ♪」って。

そうなのです。人生、楽があれば苦もあるのです。だからといって、この世が苦の世界、と断定していいものではないですよね。でも、お釈迦様は、この世は苦の世界だ、と説かれました。そう認識するところから、覚りへの道は始まるのだ、と。
では、なぜお釈迦様は、この世が苦の世界だ、と説いたのでしょうか。それは、この世に次のような苦しみが存在するからです。
それは、誰にでも訪れる「生・老・病・死」の根本的な四つの苦しみと、生きて行く上で必ず味わうであろう「別れ・得られない・嫌な出会い・身体と心のバランスの不和」という苦しみのことです。
具体的に一つずつお話ししましょう。ただし、「生」の苦しみは、一番最後にお話します。そのほうがわかりいいでしょうから。なので、まずは老からですね。

*老苦・・・老いるという苦しみ
老いることは苦である、とお釈迦様は説きます。なるほど、これは理解できますよね。年をとるということは、つらいことです。身体の自由は利かなくなるし、頭の働きも悪くなります。また、次第に周りからも疎んじられるようになってきます。老いることは苦しく、つらく、悲しいことです。しわは増え、歯は抜け、頭髪も薄くなり、腰は曲がり、息は苦しくなり、悪臭も放つし、ボケてもくる。確かに、老いることは苦でありましょう。
しかも、誰も「年をとる」ということからは、逃れられません。必ず、誰もが年を取り、老いていくのです。その苦しみは、誰にも平等にやってきます。金持ちだろうと貧乏だろうと、必ず老いるのです。必ず、老いの苦しみを体験するのです。

*病苦・・・病にかかるという苦しみ
これも理解できますよね。誰だって病気になることは苦しいことです。病気になって嬉しい、なんてことはありません。やはりこれも、誰もが経験するであろう苦しみです。
よく、私は病気になったことがない、という方がいますが、その時点で病気にかかったことがないだけで、将来はわかりませんよね。いつかは大きな病気にかかるかもしれません。先のことは何ともいえませんからね。運善く、病気にかからずに人生を終える方もいないではないですが、それは稀でしょう。
いずれにせよ、病気にかかったこと自体は、苦しいことであることにはかわりはありません。病は苦である、ということは間違いのないことでしょう。

*死苦・・・死という苦しみ
死は苦である。これも理解できますよね。普段は、みんな死を意識せずにいますが、それは死が恐怖である、ということを知っているからです。死が怖いから、死が苦しいことという意識があるから、あえて死を認識しないのでしょう。
死にそうになったことがある方は、その恐怖、苦しみがよくわかるのではないでしょうか。

*別れの苦しみ・・・愛別離苦(あいべつりく)
愛するものと別れることは苦しいことです。これも理解できますよね。対人間でなくてもそうですよね。可愛がっていたペットや、愛着のあるモノでも、それと別れること、手放すことは苦であることには違いはありません。
愛していた人、親しかった人、大事にしていたペット、愛着のある手回り品、長年すんでいた家や土地・・・・。
どれをとっても、別れや手放すこと、というのは、苦しく悲しく、つらいものです。こうした苦しみも、誰もが味わう可能性があります。
ですから、愛するものや愛着のあるモノと別れることは苦しみである、ということは真実なのです。

*欲しくても得られない苦しみ・・・求不得苦(ぐふとっく)
自分が欲しいと思ったものでも、思うように手に入れられない、ということは、つらいことですよね。欲しくても手に入らない、ということは苦しみです。わかりますよね。皆さんも経験があるのではないでしょうか。いや、誰もが経験することでしょう。説明が要らないくらいですよね。
欲しいものが手に入らないということは苦しみである、ということは紛れもない真実です。

*嫌な人や事柄と出会う苦しみ・・・怨憎会苦(おんぞうえく)
いやな人間、嫌いな人間、やりたくないこと、と人は出会わねばなりません。何もかも自分の思うような出会い、仕事はないのです。職場には、必ずといっていいほど嫌な上司がいて、嫌いな同僚がいて、うっとしい部下がいるものです。しかも、仕事は自分がしたいことだけではありません。嫌な仕事、やりたくない仕事もあります。そういうことに出会ってしまったとき、誰もがそれを苦しいこと、と思うでしょう。つらい、嫌だ、やめたい、と思い、苦しむことでしょう。
我々は、生きていくうえで、嫌な人間、嫌いな人間、やりたくないことに出会わなければいけないのです。これは苦しみ以外なにものでもありませんよね。

*身体と心のバランスの不和という苦しみ・・・五蘊盛苦
これは身体の制御がきかない苦しみのことをいいます。五蘊というのは、身体と精神のことです。つまりは、自分自身ということですね。時に、人は身体と精神のバランスの不和を訴えることがあります。病気・・・まではいかない。でも、なんとなく身体がだるいとか、カッカするとか・・・・。気持ちは元気なのに身体がついていかないとか・・・・。あるいは、心ではいけないと思っているのに、身体が欲してしまうとか・・・・。言葉ではいい表せない苦しみですよね、このような苦しみは。でも、苦しくつらいことではあります。そういう経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ともかく、身体と精神のバランスが狂ってしまったとき、不和を訴えるときは、つらいものです。苦しいものです。

*生苦・・・生まれる・生きるという苦しみ
さて、最後に回してしまいましたが、生まれるという苦しみとは、どういうことかおわかりでしょうか?。
今まで述べてきた七つの苦しみは、すべてこの世に生まれたから、この世に生まれてきてしまったから、経験しなければいけないのですよね。生まれてこなければ、今まで述べてきた七つの苦しみは経験する必要はないのです。
生きることは、つらく苦しいことなのです。生まれた以上、老いなければなりません。病にかかることもあるでしょう。死を迎えねばなりません。愛する人とも別れねばなりません。手放したくないと思っても、手放さなければなりません。欲しいものがすべて手に入ることもありません。むしろ、手に入らないことのほうが多いでしょう。嫌な人とも出会わなければなりませんし、嫌な仕事もしなければなりません。身体と精神のバランスが不調となることもあるでしょう。とかく、この世は住みにくい、生きていくことはつらいのです。
つまり、生まれてきたこと自体、苦しみなのです。生まれてこなければ、こんな苦しいことを経験しなくてすんだのです。

以上、八つの苦しみについてお話をしましたが、この八つの苦しみ・・・・生老病死(しょうろうびょうし)・愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦・・・・のことをまとめて四苦八苦といいます。(四苦は生老病死のことです。)
人生、みんな四苦八苦しているのですよ。

この世は苦の世界である、それを認識しなさい・・・・。
生まれてこなければ、この苦しみを味わうことはなかった、ということを理解しなさい・・・・。
それを理解したら、この世に生まれてこない方法を知りなさい・・・・。
仏教は、これを説くのです。つまり、苦の世界に生まれてこなくてもいい方法を説いたのが、仏教なのです。また、苦の世界にいて、苦を苦と捉えない方法を説いたのです。
すなわち、仏教とは苦から逃れるための教え、でもあるのです。

そのためには、苦の原因を知らなければなりません。なぜ、我々は苦を味わうのか、ということですね。なぜ、苦が生じるのか、ということです。
そう、苦にも原因があるのです。すべては因果の関係にありますからね。その苦の原因とは、なにか。
それは、「欲」なのです・・・・。
ということで、次回は、苦の原因である「欲」についてお話いたします。では、また。合掌。



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