お気楽!!

仏教講座

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18回のテーマは

欲について

なぜ苦しみが生まれるのか・・・・。
それは、自分の思う通りにならないからです。自分の思い通りにならないからです。いや、それだけとは限りませんね。思い通りになっても、心苦しいときってありますからね。

あなたは、どんな時に苦しみを感じますか?。
愛する人と別れたとき?。好きな人が振り向いてくれないとき?。嫌な相手でも付き合わねばならないとき?。本当は休みたいのに働かなくてはならないとき?。欲しいものが手に入らなかったとき?。嫌なことをしなくていけないとき?。鏡を見てその姿にショックを受けたとき?。運動をして身体がついていかないと知ったとき?。体重計に乗ったとき?。ダイエットの効果がなくこれ以上何を減らせというのか、と憤りを感じたとき?。成績がちっとも上がらず、親や上司の苦言を聞いたとき?。病気が長引いているとき?。自分の恐ろしい考えを実行してしまいそうで恐怖を感じるとき?。楽しいことをしても、ただ虚しいだけで満足が得られないとき?。欲しいものが手に入ったのに、思い通りになったのに、虚しさが残ってしまう、そんなとき?。
それとも生まれてきたこと自体、苦しみでしょうか・・・・?。

なぜ苦しみが生まれるのか?。
まず一つには、思い通りにならないときに苦しみが生まれてきます。上に列挙したほとんどは、思い通りにならないときのことです。
思い通りにならない・・・・・。
思い通りとはなんでしょうか?。それは、自分の思う欲求、自分の望む欲求のことでしょう。自分の望む形、でもいいです。表現の仕方はいろいろあるでしょうが、いずれにせよ、自分の望みとは、すなわち、自分の欲であることに変わりは無いでしょう。
つまり、思い通りにならないとは、自分の欲望どおりにならない、ということですね。
もとは、欲なのです。その欲が満たされないがために、苦しみを感じるのです。簡単に言えば、自分の望む形にならないときに苦しみを感じるのです。
これが一つです。

もう一つは、自分の望む形になったのに、なぜか満足感が得られず、苦しみが生じることがあります。うまくいったのになぜか物足りない。なぜか虚しい・・・・。そう、虚しさを感じてしまったときに、苦しみが生まれてくるのです。
しかし、これは深層心理を探っていけば、究極のことろ、その望んだ姿は、実は望んではいない姿であったりするのです。
たとえば、大きな家を手に入れたい、と望んだとします。そのために一生懸命働きました。その結果、望んだ通りの家を手に入れました。なのに、実際に住んでみたら満足できない。よくよく考えてみたら、自分が望んだのは大きな家ではなくて、家の中で笑う家族の姿だった、一家の団欒、温かい家庭だった・・・・。ということありますよね。
あるいは、女性の方で、ご主人さんがいるのに他の男性に安らぎを求めて不倫に走る方がいますが、いろんな男性と不倫をしても虚しいと感じてしまう方が多いようです。で、その深層心理を探っていくと、実際その女性が望んでいたのは、ご主人さんに愛されることであり、温かな家庭であったりするようです。
そういわれれば、なるほど・・・と思いませんか?。
望んだ形になっても虚しさを感じて心苦しい、と思うのは、実際には、それは望んだ形じゃない、本当は別のところにある・・・からなのです。つまり、本当に望んだ形に気付いていないのですね。だから、虚しさを感じてしまうのです。
ということは、やはりそれは、自分の思い通りになっていない、ということになるのです。
つまり、苦を感じるのは、欲望を満足できないから、なのです。従って、この場合の苦の原因も欲望であるのです。

前回も言いましたように、仏教は苦から逃れるための教えです。仏陀になるということは、あらゆる苦しみから解放される、ということでもありますから。
そうであるなら、苦の原因である欲をどうにかするのが仏教でありましょう。お釈迦様も一切の苦しみを超越して仏陀になった、とうことは、一切の欲を超越したのでしょうからね。
では、仏教では、欲をどうしろ、と説いているのでしょうか。

よく、仏教のことを知っているとおっしゃる方の中には、
「仏教では欲を捨てなさい、と説きます」
といいますが、これは大きな間違いです。あるいは、そう聞いている方が多いと思いますが、それは大きな勘違いです。仏教では「欲を捨てろ」、とは言いません。「欲を無くせ」、とも言いません。ちょっと信じられませんか?。しかし、お釈迦様は、「欲を捨てろ」なんてことは、説いていないんですよ。
じゃあ、なんと説いているのでしょうか?。
それは、
「欲をよく制御せよ」
と説いているのです。つまり、「自分の欲望をよくコントロールしなさい」、ということなのです。

お釈迦様は
「欲望をよく制御するものを聖職者とよぶ。」
「我は、すぐれた心の馭者である。」
と説いています。つまり、よく己の欲望をコントロールしている、ということですね。すなわち、仏教は、欲は捨てるものではなく、よくコントロールするものなのである、と説いているのです。
お釈迦様自身ではどうだったでしょうか?。欲はなかったのでしょうか?。そんなことはありません。欲を捨てることなど、たとえお釈迦様でも、できないことなのです。
たとえば、お釈迦様は晩年のころ、
「背が痛む、説法を代わってくれ・・・。」
と弟子に頼んでいます。これは、
「背中が痛いから代わって欲しい。」
ということですよね。つまり、それは欲です。そういう欲があったんですよ、お釈迦様にも。お釈迦様にも欲はあるのです。
ただ、一般の人と違うのは、お釈迦様が望んだことが、その通りにならないときでも、お釈迦様は苦しんだりしない、ということです。たとえば、
「背が痛む。誰か説法を代わってくれないか。」
とお釈迦様が望んだとき、
「お釈迦様の代わりができるものは誰もいません。ですから、そのまま痛いのを堪えて、説法をお続けください。」
という答えが返ってきたとします。こういう答えが返ってきても、お釈迦様は、
「ああ、そうですか。」
で終わるのです。で、そのまま説法を続けたのですね。これが一般の人だと、
「そんなぁ〜、勘弁してよ。背中が痛いんだよ。代わってくれよ。あ〜、もう嫌だ。こんなことやってられないよ〜。ああ、つらいな〜。」
となるでしょう。で、途中でやめちゃうか、周りを怨みつつ、嫌々ながら続けるか・・・・ですよね。
お釈迦様と一般の人は、欲に対して、このような違いがあるのですよ。

そのことをお釈迦様は、こう説いています。
「私にも欲望はある。欲望が無いわけではないのだ。欲望を捨てたのではないのだよ。欲望はあるのだよ。背が痛いときには痛いと感じ代わって欲しい思うし、美しい花を見れば美しい思う。腹が痛めば横になりたい、とも思う。しかし、その後の欲が無いのだよ。
背が痛み説法を代わって欲しいと思ったときに誰も代わってくれなくとも、それを怨むことなどが無いのだ。美しい花を見て、美しいと思ってもそれを手に入れようとは思わないのだよ。腹が痛くても横になれない、そんなときでも誰を怨むこともなく、誰に怒ることもないのだよ。
どんな場合でも、欲望に心が騒ぐことは無いのだ。それが、欲望を制したものが至る境地である。」
と。
これを、お釈迦様は、
「私には二次的欲求が無い」
と説いています。

そもそもお釈迦様が望んだ、「覚りたい」という思いも欲望でしょう。お釈迦様はいつも「覚りが得たい、苦しみから解放されたい」と望んでいたから出家されたのでしょう。これも欲望です。
ですから、もし欲望を捨てろ、とお釈迦様が説くのなら、弟子は困ってしまったでしょう。「覚りを求める」ことも欲望の一つなのですから。
仏教は、欲望を捨てろ、無くせとは説かないのです。その欲望が満たされなくても、怒ることなく、愚痴ることなく、怨むことなく、こだわり無く過ごせ、と説いているのです。
ですから、弟子たちにも
「覚りを求めるのは当然善いことであるが、覚れないといって、嘆くこともないし、他の弟子をうらやむ必要も無い。覚りを得るときが来たら、自然と覚るのだ。覚ろう覚ろう、とこだわってはいけない。」
と説いています。

そう、仏教では、「欲望は捨てろ、無くせ」、とはいいません。ただし、「欲望にこだわるな」、とはいいます。これが、自分の欲望をコントロールせよ、ということなのです。
背が痛いけど代わりはいない、けど代わって欲しい・・・・ということにこだわらないのが、仏教なのです。
好きな人と付き合いたいけど振り向いてくれない、なんとしても振り向いて欲しい・・・・とこだわらないのが仏教なのです。
手に入れたいけど手に入らない、だけど欲しい・・・・ということにこだわらないのが仏教なのです。
欲望を持つなとは言いませんが、こだわるな、とはいいます。こだわりは捨てなさい、と説きます。それが仏教の欲に関する考え方なのです。

しかし、そうはいっても人間ですから、ついつい欲望にこだわってしまいます。なかなか「欲望をコントロールする」などということはできません。欲望をうまくコントロールするにはどうすればいいのか、どう考えればいいのか・・・・。そう思うでしょう。
欲望をうまくコントロールする。つまり、欲望とうまく付き合う、その方法は・・・・。
それは、縁と徳と戒律です。

縁が得れば手に入る、縁がなければ手に入らない。
徳があれば望んだ形になる、徳がなければ望み通りにはならない。
ルールを守るからこそ、手を引く。

こう考えれば、何も苦しむことは無いでしょう。
たとえば、縁があるから付き合いができたり、夫婦になったりするのです。縁が無ければ付き合うことも夫婦になることもないでしょう。そう思えば、付き合うことができなくても、好きな人が振り向いてくれなくても、苦しむことは無いのです。縁が無いから仕方が無いのですからね。
縁があれば欲しいと思ったものは手に入るし、縁が無ければ手に入らないのです。そう思えば、手に入らなくてもつらいとは思わないでしょう。縁がなかったね、で終わるのです。
嫌な環境の職場であるのは、己に徳がないからでしょう。人徳(人に恵まれる徳)がないから、嫌な人たちに囲まれるのでしょう。徳があれば、自分の望んだ環境で仕事ができるようになるでしょう。
人として守るべきルールがあるからこそ、間違った欲望を成就しようとはしないでしょう。ルールがあるからこそ、手を引くのです。

徳があれば、望まなくても手に入るし、縁があれば、自然とめぐり合うものなのです。ルールを守っていれば、自分の欲望を制御することは可能でしょう。
たとえば、縁があれば、無理に会社を買収しようとしなくても手に入るし、己に徳があれば、自分の行動に邪魔が入ることも無いでしょう。人徳があれば、応援者もたくさん出てくるでしょうし、嫌われることなどありません。
ルールを守っていれば、つまらないことをして非難されることも無いでしょう。
縁と徳をよく理解し、戒律を守っていれば、欲望は自然にコントロールされるのです。そうすれば、苦は自ずから遠ざかっていくものなのです。

欲は捨てたり、無くしたりするものではありません。よくコントロールし、こだわらないようにすることです。それが仏教の欲に対する考え方なのです。
そして、そのコントロールの方法として、縁と徳を説き、戒律を守ることを勧めるのです。

次回は、その縁と徳、戒律について、順番にお話いたします。まずは「縁」からですね。では、また。合掌。



19回のテーマは

縁について

前回、「苦しむ原因は欲である」というお話をしました。で、苦しまないようになる、悩まないようになるためには、「欲をコントロールすることだ」ともお話いたしました。そして、その「欲をコントロールする方法」として、次の三つの方法をあげました。
@縁があれば手に入る、縁が無ければ手に入らない、と理解するようにする。
A徳があれば望んだ形になる、徳がなければ望んだ形にならない、と理解する。
Bルールを守るからこそ、手を引く。ルールを守ることで、己を制御する。
今回は、その中の@の「縁」についてお話いたします。

ことわざに、
「袖すりあうも他生の縁」(「袖振り合うも他生の縁」ともいいます。また、他生は「多生」ともいいいます)。
「縁は異なもの味なもの」
「金の切れ目が縁の切れ目」
というものがあります。昔より、「縁」というのは、身近な存在でした。昔の人は、生活の中に、自然に「縁」を感じ取っていたのです。
「縁がある、縁が無い」
ということを生活の中で意識していたのですね。それが、いつの間にか、身近に意識されないようになってしまいました。とても残念なことに思います。
が、しかし、こと恋愛に関しては、
「縁が無いんだわ〜」、「腐れ縁なのよ」、「縁が切れないかな」、「縁結びの祈願をしてもらおう」
などと「縁」を持ち出してきます。そういう経験、ありませんか?。

先ほどあげたことわざの三つのうち二つは、恋愛がらみですよね。
「縁は異なもの・・・・」と「金の切れ目が・・・」
です。これは恋愛に関することから生まれたことわざですよね。
「男女のつながり(縁)とは、思いもよらぬ、不思議なものだ」
「金が尽きれば、男女の仲(縁)も終わるものだ」
いずれも、男女の仲・・・縁・・・から生まれたことわざです。そこから、他の人間関係でも使われるようになったのですね。
「袖すりあうも・・・(袖振り合うも・・・)」
は、生まれ変わりの思想を含んでいます。
「袖を通りすがりにすりあっただけでも、生まれ変わって縁を持つことになる(或いは、前世で縁があった仲なのだ)」
(踊りなどで、袖を振り合っただけでも、生まれ変わって縁を持つことになる、或いは、前世で縁があったものどうしだ)
という意味ですが、そこには他生(多生)、つまり生まれ変わりの生、前世・現世・来世の思想が含まれています。どんな相手でも、ちょっとした知り合いであっても、ちょっとすれ違った間柄でも、それは前世からの縁があったことであるし、また、来世への縁につながっていくものだ、という考え方ですね。
この世で知り合ったのは縁があるからだ、という考え方です。それを昔の方は、ごくごく自然に受け入れていたのです。ですから、このような縁に関することわざが生まれてきたのでしょう。

あなたの周りにいる方は、どのように知り合ったのでしょうか?。偶然?、誰かの紹介???。
あなたは、なぜあなたの家に生まれたのでしょうか?。
答えられますか?。この問いに答えることができるでしょうか?。
それに答えを出してくれるのが「縁」なのです。すなわち
「縁があったから知り合った」
「縁があったから、この家に生まれてきた」
のです。縁が無ければ、知り合うことも無かったし、その家に生まれることも無かったでしょう。縁があったればこそ、知り合いになれたのだし、親を持つことができたのです。
知り合いだけでなく、夫婦も同じです。縁があるから結婚したのです。縁がなければ今の相手と結婚はできません。
たとえば、大恋愛をしても結婚には至らない・・・・そういう場合ありますよね。これはその相手とは縁がなかったのです。結婚の縁が無いから、結婚には至らなかったのですね。

今、結婚の縁が無かった、と書きました。そう、恋愛の縁はあったのです。
先ほどのたとえで言えば、恋愛中はうまくいっていたのに、いざ結婚となるとゴールインできないで、結局別れてしまった・・・・というのは、その二人の縁は、恋愛までの縁だったのです。恋愛はできるけど結婚はできない、という縁だったのです。
縁というのは、簡単なものではありません。簡単にあるとかないとかで分けられるものではないのです。時の流れで変化していくものなのです。
たとえば、お釈迦様のいらしたころにこんな話があります。
覚りを開いて、いよいよ人々に教えを説こうと決意されたお釈迦様。説法をしようと苦行林の方へ歩いておりました。その途中、お釈迦様はある修行者とすれ違いました。お釈迦様は、その修行者に
「私は仏陀である。私が覚ったことを説いてあげよう。」
と言って、お釈迦様が覚ったことを話します。しかし、その修行者は、
「ふ〜ん、そうかも知れぬなぁ・・・。」
と言って去ってしまいます。このとき、お釈迦様は、
「あぁ、縁なきものは救いがたい。」
と呟きます。
そう、その修行者は、お釈迦様とは、縁がなかったのです。その時は・・・・。
その時は・・・・と言いましたのは、その何年か後、その修行者は、お釈迦様のもとを訪れます。弟子にしてくれと。お釈迦様は、喜んでそのものを弟子にしました。
「縁が戻ってきた。」
と言って。

一度は縁が無かったように見えても、その実、縁があったのです。もし、この修行者が、お釈迦様とまったく縁がなければ、お釈迦様のうわさを耳にしても、お釈迦様のそばを再び通りかかったとしても、誰かにお釈迦様のもとへと連れて行かれそうになっても、決して知り合うことは無く、ましてや弟子になることなどなかったでしょう。縁とは、このように無いように見えてあるものであったり、あるように見えてないものであったりもします。
「ある・ない」と一言ではいえないものなのですよ。

縁が無い・・・・。
本当に縁が無いならば、出会うことも無く、知り合うことも無く、もちろん、結ばれることも無いでしょう。一度は知り合いになった、一度はお付き合いがあった、何年かは知り合いだったが別れた、と言うような場合は、縁が無いのではなく、縁があったがそれが終わった・・・・というべきなのでしょう。
縁とは、そういうものなのです。時間とともに変化変動していくものなのです。ですから、縁が無い、縁が切れた、腐れ縁でなかなか切れない・・・などと嘆いたり、喜んだり、悲しんだり、怨んだり、執着するものではないのです。将来、どのように縁が変化していくのかは、わからないのですから。

この縁は、もちろん人間関係だけではありません。モノであっても縁が関係してきます。
たとえばの話。ギターが大好きなある学生さんがいました。その学生さんは、ある時ある楽器屋さんで前から欲しくて欲しくてたまらなかったギターを見つけました。その学生さん、とても欲しいギターなので、早速そのギターを買いにいこうとします。が、しかし、貯金がありません。まさか、そのギターが自分の身近にあるなんて考えていなかったものですから、普段から貯金をしていなかったのです。就職してからボーナスで買うつもりでした。しかし、見つけてしまった以上、やっぱり手に入れたい。そこで、楽器屋さんに
「これから3ヶ月アルバイトしてお金をためるから、その間、あのギターを売らないで欲しい」
と頼みます。しかし、楽器屋さんも商売です。3ヵ月後なんてあてになりません。ですから、
「なるべくとっておいてやるけど、欲しい人が現れたら売っちゃうよ。立場は、君と同じだからね。」
と言いました。まあ、当然でしょうね。
さて、3ヵ月後です。その学生さんとそのギター。縁があればめでたく購入できるでしょう。縁が無ければ誰かが買ってしまうでしょう。実際、縁はありませんでした。3ヵ月後、その楽器屋さんにいった学生さんは、ギターがなくなっていることを知ります。そのギターとは縁が無かったのです。
しかし、2年後のことです。仕事先から帰る途中、その欲しがっていたギターを見つけます。その時は、もう社会人でしたから、3ヵ月後・・・・なんていう必要はありませんでした。すぐに手に入れることができたのです。彼とそのギターは、縁があったのです・・・・。

縁とはこういうものなのです。今、手に入らなくても、いずれはいるかもしれません。もちろん、そのまま手に入らない場合もあります。でも、それが縁なのです。
「縁があれば手に入るし、縁がければ手に入らない。いま、縁が無くてもいつかは縁があるかもしれないし、縁が無く終わるかもしれない。縁があれば、今じゃなくても手に入るものなのだ。」
こう捉えれば、なんにも苦しむことや悩むことはなくなるのです。
自分と周りとの関係は、すべて縁なのだ、と理解すれば、なにも苦しまなくて済むのです。それは人間でもモノでも、なんでもです。自分に関する事象は、すべて縁で出来上がっているのだ、理解すれば、欲しいものが手に入らなくても、好きな相手と知り合いになれなくても、仕事関係でつながりができなくても、何も悔やむことは無いのです。
「今は縁が無いのだ、縁があればいずれ知り合えるだろう、つながっていくであろう、手に入るだろう」
と理解すれば、憂うことはないのですよ。

しかし、ここにひとつ落とし穴があります。
たとえば、受験に失敗したとします。すべては縁だから、その受験生は、受けた学校と縁が無かったのでしょうか。縁があれば受験は通るし、無ければ不合格、なのでしょうか?。
それは間違った捉え方です。縁を誤解して捉えているのですね。努力して、努力して、努力して不合格だったのなら、その学校とは縁がなかった・・・・と言えるでしょう。しかし、何も努力せず、縁があれば受かるだろう、などと思うのは縁を曲解しているといえましょう。
あるいは、夫婦間で、浮気をして離婚してしまう、と言う場合がありますよね。それも「縁が無かったんだ」ではないのです。縁があるのに、ルールを破ったが為に「縁を壊してしまった」ということもあるのです。
つまり、せっかくいい縁があっても、人間の欲望により、その縁を壊したり、なくしたりする場合もあるのです。

あるいは、せっかくのいい縁であっても、拒否する場合だってありますよね。縁談などで、せっかくいい縁なのに「顔がいや、職業がいや、体型がいや、なんとなくいや・・・・」などといって拒否する場合もあるでしょう。
それは縁に対して素直じゃないのですね。いい縁ならば受け入れる、という気持ちも必要でしょう。

さらに、「縁があるなら仕事が舞い込んでくるだろう。だからあくせく営業しなくていいや」というもの、縁を誤解しています。何もしなければ仕事関係での縁は生まれてきませんから。ふだんの人間関係の縁はあっても、物を売り買いする関係の縁は、自らが作らなければ生まれてきません。
人間関係、モノとの関係は縁でできているからといって、何もかも縁の責任にしてはいけないのです。そこには、縁を結ぶことや、縁を維持すること、縁を受け入れること、縁を作ることが必要な場合もあるのです。

つまり、縁が無ければ絶対に知り合えない、ということではないのです。絶対に手に入らないのか、と言うことも無いのです。縁を結ぶ、縁を作る、という努力によって、知り合ったり、手に入ったりすることもあるのです。
「手に入らなかったのは縁が無かったのだから、もういいや」
と簡単にあきらめてしまうのもいけないことでしょう。手に入るように少しは努力をしたのでしょうか。手を尽くして手に入るように動いてみたのでしょうか。
「知り合えないのは、縁が無いからさ」
とあきらめる前に、縁ができるように努力をしたのでしょうか。
また、せっかく縁があるのにその縁を維持するようにしたのでしょうか、その縁を受け入れたのでしょうか。

「縁があれば手に入るし、無ければ手に入らない。
縁があれば知り合いになれるし、無ければ知り合うことは無い。」
確かにそうです。その通りです。そう理解していれば、なんの執着もおこらないでしょう。これは一つの真理です。
しかし、世の中、そんな簡単に割り切れるものではありませんし、縁もそんなに単純なものでもありません。
「今は縁がなさそうに見えても、縁があるかもしれないし、努力によってはできるかもしれない。」
「せっかくの結んだ縁を壊すようなことはしない。維持できるように努力する。」
「いい縁であるなら、素直に受け入れることも大切だ」
という考え方も必要なのです。
努力しても、頑張っても手に入らなかったとき、縁ができなかったとき、初めて「縁がなかった」と思うのです。何もしないうちから、「縁が無い」とあきらめるのではいけないのですよ。

しかし、いい縁なのかどうかはわからないし、本当に今は縁はないけどいずれ縁ができるのかどうかも、誰にもわかりません。縁を維持する、と言うのも難しいし、果たして維持していい縁なのかどうかも不安でしょう。
いい縁であるか、悪い縁であるか。いい縁が舞い込んでくるか、悪い縁しかやってこないのか・・・・。
この差はどこでつくのでしょうか?。
それは、その人の「徳」の差なのです。徳のあるなしによって、縁の善し悪しも変化してくるのです。
すなわち、「縁は生き物」なのです。
その人の徳によって、縁は善いものへ変化したり、悪いものへと落ちて行ったりするのです。徳によって縁も変わるのです。

欲望をコントロールし、なるべく執着を持たないようにするためには、
「自分と自分以外の関係は、人であれモノであれ、すべて縁でできている、だから縁があれば手に入るし、無ければ手に入らない、のである。」
と理解することは大切なことです。
しかし、ただ縁だけで片付けられるものではありません。人間の欲望はそれほど甘くはありません。世の中が縁で成り立っているのならば、できることなら「いい縁を持ちたい」と望むのは当然のことでしょう。それも欲望ではあるのですが、その欲望までも制御できたなら、それは聖者です。凡人には無理な話ですね。

縁でなりたっているのなら、いい縁を持ちましょう。それは望んでいいことなのです。いや、むしろ、いい縁を望むべきでしょう。悪い縁を捨て、いい縁を望み育てる。それは幸せへとつながることであるし、余分な欲望をコントロールすることでもあります。いい縁ができ、望むように手に入れば、望むような人間関係を築くことができれば、悩みや苦しみもなくなるし、手に入らないと嘆くこともなくなるし、人間関係で悩むこともなくなるでしょう。
我々は簡単に覚ることができません。ならば、少しでもいい縁を持って、自分の望む形になっていけば苦はなくなるでしょう。
そのためには、「徳」を身につけることです。その人の徳によって縁に差が出るのですから。

次回は、その徳について、お話いたします。では、また。合掌。



20回のテーマは

徳について

苦しみの元は欲であり、欲がうまくコントロールできれば、苦しみはなくなる、と説きました。そして、その欲をコントロールするには、次の三つの方法をあげました。
@縁があれば手に入る、縁が無ければ手に入らない、と理解するようにする。
A徳があれば望んだ形になる、徳がなければ望んだ形にならない、と理解する。
Bルールを守るからこそ、手を引く。ルールを守ることで、己を制御する。
今回は、その中のAの「徳」についてお話いたします。

「徳」とはなにか?、と聞かれたら、あなたは答えられるでしょうか?。
なんとなく意味はわかっていると思います。常識的に、というか、習慣でなんとなくニュアンス的にわかっている、とでもいいましょうか。わかってはいるんだけど、言葉には言い表しにくい、明確に「こういう意味だ」とは、言いにくい・・・。そういう感じではないでしょうか。わかっているんだけど、別の言い方をしろといわれるとねぇ・・・・、といったような。

みなさん、おそらく「徳」というのは、わかっていると思います。普段使いますからね。たとえば、
「あの人は徳があるから・・・・」
「人徳があるんだろうね、だから、いい仲間が多いんだよ」
「徳人だよね」
などという言葉を聞いたことはあるでしょう。で、意味はお互いにわかっていますよね。そう、
「徳があるから、うまくいっている。成功したんだ。思い通りに進んでいる。」
ということですよね。
逆もあります。
「徳がないから、うまくいかないよ。」
「人徳がないから、人に恵まれないんだ。」
というような・・・・。

「徳」とは、あれば思い通りに行くし、なければうまくいかない、そういうものだ、という使い方をされる言葉ですよね。
ということは、徳とは「幸運の元」ともいえるのではないでしょうか。「幸運を引き寄せる元」、「ラッキーを与えるもの」といってもいいでしょう。
こう表現すればわかりやすいですよね。まさに、「徳」とは、「幸運の元」そのものなのです。

ここで注意を一つ。いわゆる「徳のある人、徳人」というのは、「立派な人、ひとかどの人、無欲で人望のある人」などとも思われていますよね。「徳人」といえば、そのあたりの名士であったりします。一般的にはね。
しかし、本来の「徳のある人」とは、「自然にその人にとって、有利な展開をしていってしまう人」のことを言います。「大変幸運な人」ということです。逆に「徳のない人」とは、「なかなか思い通りに行かない、努力しているのに報われない人」をいいます。両者を詳しく見ていきましょう。

徳のある人。
「徳」があれば、自ずと道が開けていきます。望むとおりに、あるいは望んでいないのに、その人にとって有利な方向へと自然に展開してしきます。
たとえば、自分では望んでいないのに、社内や集まりの中で重要なポストに推薦されてしまうとか、自分にとって有利な話が舞い込んでくるとか、という話を聞きませんか?。
「あの先輩って、そんなに頭が切れるとは思えないのに、なぜかいつもうまくいってるんだよね。出世も早いし・・・。」
「なんだか知らないが、彼の意見は通るんだよな。それにその意見がうまくいく。とてもいい意見とは思えないのだが、なぜかその通りになっていくからすごい・・・。」
と言われるような方、身近にいません?。こういう人のことを「徳のある人」というのですよ。

あるいは、
「あいつは能力はないくせに、危なくなると助ける人が出てくる。」
「彼の周りには、いい人材が豊富だよね。彼自身はたいしたことないのに・・・。」
と言う方、周りにいませんか?。
こういう方は「人徳」があるんですね。人に恵まれる幸運を持っているのです。自分が望まなくても、周りが助けてくれる、あるいはピンチのときに、ちょっと頼めば助けてくれる・・・・。たまにそういう方を見ますよね。人徳があるんだなぁ・・・・と思ってしまいます。

本人は意識しているのか、いないのかは別として、なぜかその人の望む方向へと自然に流れができてしまう・・・・。そういう人こそが、徳のある人なのですね。幸運の元を持っている人なのです。
なぜかその人物の周りには、有能な人間が集まってくる、手助けをしてくれる人が代わる代わる現れる・・・・。そういう人は人徳がある人なのです。
このように、徳に恵まれている方は、望みどおりに物事が展開していくから、それほど欲を出しません。悩みません。思うとおりにいかない・・・・といって悩みません。
さらに、自分が幸運の持ち主、と知り、その幸運を生かすよう努力すれば、ますます発展していきます。大事業を成し遂げた人物というのは、徳(幸運の元)があり、さらにそれを使いこなしていた人物なのです。
いくら徳があっても、徳任せにしていれば、そのうちに徳は尽きてしまいます。徳の貯金が無くなるんですね。その時は、いわゆる「運の尽き」と言う状態になるんです。

「運が尽きる」=「徳がなくなる」と、それまで得たものも手放さなければいけないようになってきます。よく「幸運の女神に見放されたんだ」とも言いますよね。それまで、すごくうまくいっていたのに、がけを転げ落ちるように不幸へと転落していく・・・・・。世間では、よく耳にする話です。それは、「徳の貯金がなくなってしまった」ということなのです。

自分では意識していないのに、なぜか自分が望んでいる形へと進展している方、なぜか周りが自分をかってくれている方、自分の意見がなぜか通ってしまい、うまく展開していく方、困ったとき必ず助けが入る方、そういう方は、「徳」がある方です。幸運の元をもっている方です。
そういう方は、自分は徳があるのだ、と意識してください。そして、その徳を使いこなすよう、努力してください。決して徳任せ、運任せにはしないように。
そして、その「徳」もいつかは尽きます。無くなるときが来ます。ですから、そうならないためにも、普段から「徳」を貯金しておくように心がけてください。
「徳」の貯金については、あとでお話します。


徳のない人。
何をやってもうまくいかない人、何事も思い通りに行かない人、運が悪く、周りの友人や家族などにも恵まれない人・・・・、そういう方は、「徳がない」方なのです。
努力すれども実らない、望んでもいないのに他から災いをもたらされる、自分の居場所がわからない、居場所がないと感じてしまう・・・・。こういう方も「徳がない」方なのです。
このような不運を感じている方、それはひとえに自分の徳のなさが原因です。他人の責任ではありません。他者が悪いのではないのです。すべて己の徳の無さ、なのです。

「あ〜、それは私のことだ」
と思った方もいらっしゃるかもしれません。そういう方は、嘆いていることでしょう。
「自分が悪いの?。そんなひどい・・・・。冷たすぎる・・・・。」
そうとも思ったかもしれません。確かに、冷たい表現でしょう。世の中において、物事がうまくいかない、望みどおりにならない、希望がかなえられない、それらはすべて自分自身が悪いのだ、と言われれば、救いが無いように思いますよね。
しかし、仏教では、自分自身におきたことは、どんなことであれ、自分自身が原因なのだ、と説きます。すべての責任は自己にある、のです。
これは、厳しいです。大変厳しいです。人は、うまくいかないことや不運や災いが己の上に降りかかってきたとき、それは何か他のものが原因だ、と思いたい生き物なのです。自分が悪いのではない、他人が悪いのだ、と思いたいのですね。そういう生き物である人間に、すべての責任は己にあると思え、というのは、厳しいでしょう。つらいことでしょう。冷たく突き放している、と思えるでしょう。
しかし、そうじゃありません。ここでよく考えて欲しいのです。

他人のせいばかりにしていて、果たして自分の人生がよくなるでしょうか?。運が悪い、うまくいかない、思うようにならない、それらは他人のせいだ、自分以外のものが原因だ、と思うことは大変楽なことです。
でも、他人の責任や、何か怪しい他のものに原因を求めても、進歩しないのではないでしょうか?。
そうではなく、自分に徳がないからだ、すべての原因は自分なのだ、と素直に認めれば、そこから救いが生じるのではないでしょうか。

うまくいかないことを人のせいにしているうちは、実は救いなどないのです。すべては自己が原因なのだ、と認識した時点で、本当の救いが現れるのです。
仏教は、そこのところを説いているのですよ。

さて、うまくいかない、不運である、思い通りにならない、人の縁も悪い、居場所が無い・・・・などなど、様々な不運があると思いますが、それらはすべて自己の徳の無さが原因、と認識したとします。
ならば、次に取るべきは、徳の無さからの脱出です。つまり、徳を作る、徳を積むことですね。幸運の元である、徳の貯金をすることです。そうすれば、あなたを見舞っている不運から脱出ができるわけです。


「徳」を作る=「徳」を積む
幸運の元である徳を作る、徳の貯金をするにはどうすればよいでしょうか。これには、いろいろな方法があります。
@ご先祖の供養もそのひとつでしょう。これも徳を貯金するための行為です。というより、これがもっとも早く徳の貯金ができるのです。ただし、ご先祖の供養はお坊さんにお願いすることです。自分でお墓参りしているから大丈夫、ということではありません。
よく、先祖供養を始めてしばらくしたら、人間関係が変わってきた、と言う話を聞きます。嫌な相手だな、付き合いたくないな、と思っていた人と、自然に縁が切れていった・・・・というのです。代わりに、よい人と知り合えた、よい縁が生まれた、とも聞きます。
徳がたまってきて、悪い縁が消え、善い縁のみが残っていったり、できていったりしたのでしょう。徳がたまれば、こうしたことは体験できることなのです。

Aお寺廻り、祈願のご参拝、それも徳作りになります。お寺をお参りして、神仏に祈ることは、とてもいいことですね。

B人助けをする。これも徳積みになります。ちょっとしたことでいいんです。電車やバスで席を譲ってあげる、というような、ちょっとした親切な行為、それでいいのです。電車の中に放ってあった空き缶を拾ってゴミ箱に入れる、それだけで徳が貯金されます。そうした小さな徳積みが、やがて大きな貯金になるのです。
慈善事業などへの寄付行為もいいです。この場合、知らないようなところへの寄付ではなく、ちゃんとした慈善事業団体(ユニセフのような)の方が安全ですね。最近、偽者の寄付集めが横行しているようですから。
もっとも、寄付をされた側がどんな人間であれ、寄付をした、と言う行為には代わりは無いですから、徳積みはできていますけどね。寄付をする、と言う行為そのものが大事なのですから。

C社会のルールを守ることも徳積みの一つです。マナーを守る、他に迷惑を与えないようにする、これも徳積なのですよ。最近は、マナーを守らない方が増えてきました。若者だけじゃないです。大人も!です。大変マナーが悪いですね。そういうヤカラのほうが、大きな顔をしています。厚顔無恥とはよく言ったものです。実際には、恥ずかしいことをしているのですが、本人は気付いているのかいないのか、鈍いだけなのか・・・・。
そういうヤカラが大手を振って歩いていると、本当に徳積みなんてあるのか、ああいう連中はなぜバチが当たらないのだ、正直に生きている自分たちがバカみたいじゃないか、と思われる方も多いことでしょう。
しかし、それは「今」だけを見ているからです。その人の将来を見ているわけではないのです。また、その人のすべてを見ているわけでもありません。ひょっとしたら、何もかもうまくいっていなくて、むしゃくしゃしてマナー違反をしているのかもしれません。人生ちっともいいこと無い、といって腐っているから非常識な行動に出ているのかもしれません。ま、単なる恥知らず、大ばか者、と言う場合もありますが、それはそれでやがて己に返ってくることでしょう。他の方が心配したりしなくても大丈夫です。放っておいてあげなさい。己に返ってきたときに気付くでしょうから。(気付かなきゃ気付かないで、不幸になっていくだけですから、放っておけばいいのです)。
マナーの悪い人を見たら、「あぁ、不幸な人なんだなぁ・・・・。」と慈悲の心を起こしてください。それで十分です。怒ったり、注意したりすると、かえって危険ですから、下手に注意はしないほうがいいです。かわいそうな人だなあ、と思い、自分はそういうことはしないぞ、と思えばいいのですよ。それでも徳は積めていますし、減りもしませんから。


「徳」を減らすことは簡単です。が、徳を貯めることは難しいことです。お金だって、使うのは簡単ですが、貯金するのは難しいでしょ。それと同じです。しかし、少しずつでもいいから、徳をためるようにしておけば、やがて幸運はあなたのところへやってくるのですよ。徳の貯金が満タンになったとき、利息があなたのもとへとやってくるのです。それまで、せっせと徳がたまるようにすることです。
そうすれば、欲を出さなくても、望みどおりに展開していくようになるでしょう。そうなれば、悩みや苦しみも味わうこともなくなります。自然に欲望もコントロールできてしまいます。善い循環ができあがるのです。

「徳」さえあれば、うまくいくものを・・・・。
と思うことがしばしばあります。いくらお金や社会的権力を持っていても、徳がないためにうまくいかない、思うように進まない、なんて話はいくらでもあります。(最近もありましたよね。徳がないために結局は失敗に終わった・・・というTT関係の方が。あの方は人徳がないですからねぇ・・・・。)
徳を積むと言う行為は、社会生活とは関係ない、と思えますが、実はそうではないのです。一見、なんの関りもないような行為が、人生において大きな幸運をもたらしているのです。むやみに欲を出すよりも、まずは「徳」を貯えることです。徳さえたまれば、自然に手に入る・・・・というものです。望まなくてもね。遠回りのように思えるでしょうが、運をつかむには、その方が早いのですよ。

さて、次回は、徳積の一つでもありますルールを守ることについてお話いたします。欲をコントロールする、己を制御するには、ルールを守ることも大切な行為ですからね。では、また。合掌。



21回のテーマは

戒律について

苦しみの元は欲であり、欲がうまくコントロールできれば、苦しみはなくなる、と説きました。そして、その欲をコントロールするには、次の三つの方法をあげました。
@縁があれば手に入る、縁が無ければ手に入らない、と理解するようにする。
A徳があれば望んだ形になる、徳がなければ望んだ形にならない、と理解する。
Bルールを守るからこそ、手を引く。ルールを守ることで、己を制御する。
今回は、その中のBの「ルールを守る・・・戒律」についてお話いたします。

世の中には決められたルールがあります。それがなければ、誰もが好き勝手な行動をしてしまうでしょう。欲望の赴くままに、自分のやりたいように、勝手に行動してしまうでしょう。それが人間なのです。
そうなれば、世の中はとんでもないことになってしまいます。弱いものは被害を受けることでしょう。暴力のみがまかり通ってしまうことでしょう。腕力の強いもの、武器の扱いができるもの、権力を持つもののみが、生きていける社会になってしまいます。
そうならないためにも、世の中にはルールが必要なのですね。みんなで、やってはいけないこと、やらねばならないことを決めて、ルールを作っておけば、誰もが平和に生きられるようなるのです。
ただし、ルールを破るものがいるので、罰則が必要ですが・・・・。

こうして、罰則も含んだルールが決められれば、勝手に行動をするものが少なくなってきます。ルールを守らなければいけない、という思いが、行動にブレーキをかけるのですね。つまり、欲望の抑制になるのです。ルールを守れば、欲望も抑えられるわけです。
このルールのことを仏教では、戒律といいます。ただし、仏教で言う戒律は、社会のルール・・・法律・・・とは異なります。どちらかと言えば、生き方に関するルールなのです。

お釈迦様は、男性の出家者、僧侶には約250の戒律を、女性の出家者、尼僧には約350の戒律を授けました。そんなに数多くの戒律を?、と思うかもしれません。しかし、初めからこの数の戒律があったわけではないのです。徐々に増えていったのですよ。
仏教は、初めは教団というものがありませんでした。ところが、お釈迦様の元で出家したいという者が次第に増え、やがて出家集団ができあがります。これを僧団(そうだん)、もしくは教団といいます。
人が集まれば、そこに自ずとルールが必要となります。教団内での生活の仕方、托鉢の時間、出家者の上下関係、服装などなど、細かい規定が次々と増えていったのです。なかには、嗜好品に関する事柄もでてきますし、事故がおきた場合の対処方法はこうしなさい、などという指示や、一般信者との接触の仕方、特に女性との関りも細かく決められていきました。
何か問題があった場合、それに対応してルールが増えていったのです。また、尼僧に関しては、身体的な問題から、僧侶よりも規定の数が多くなったのです。

たとえば、僧は女性と一対一で話してはならない、女性と話をする場合は、ひざをくっつけて話してはならない、などという変な戒律もあります。(ある僧侶が特定の女性専門に、一対一で説法をしていたのです。ひざをくっつけて。その僧侶と女性は、その仲を疑われることになりました。それで問題になり、この戒律ができました。まあ、いろんな人がいますから、ルールも増えますよね。)
しかし、このようなルールを決めるのは、お釈迦様の本意ではなかたっと思います。いや、お釈迦様の心中を察すれば、
「なんで、こんなことまで決めなきゃいけないんだろうね。人間は、本当に愚か者で、欲に弱いものなんだねぇ。あぁ、嘆かわしい・・・・。」
といったところではないでしょうか。
例にあげた戒律でも、その戒律がなければ、女性と一対一で説法をする僧侶は増えただろうし、やがて間違いも起きたことでしょう。
欲望に打ち勝つために出家したのに、欲望に負けてしまう・・・・。
そういうことは、出家者であっても多々あったことなのです。
そこで、こうして何か問題がおこるたびに、ルールが増えていったのです。それはすべて、欲に打ち勝つための方便なのです。

ですから、お釈迦様がいらしたころ決めた250の戒律をすべて守れば、人は欲望を抑えられることでしょう。おそらくは、人が欲望から起こす間違った行動、すべてに対応しているでしょうからね。250の戒律をすべて、常に守っていれば、欲望はすべて抑えられるのです。
が、そんなことは無理です。できるわけがありません。250の戒律をすべて守れるわけがないのです。なぜなら、時代が違うからです。
この時代に、乗り物を乗らずに遠くへ移動ができるでしょうか?。お金を使わずに生活がしていけるでしょうか?。人々が捨て去ったような布をまとった人間を、世の中の人は信用するでしょうか?。野山で寝起きし、托鉢で食事を得、川で沐浴をして生活していけるでしょうか?。また、そのような人間を社会が受け入れるでしょうか?。人々が、そういうものの言うことを信じるでしょうか?。
おそらくは、変人扱いでしょう。そんな生活は無理なのです。お釈迦様だって、そのことはよくわかっています。ですから、
「時代にそぐわなくなった戒律は捨ててもよい。」
とおっしゃってます。(これをいいことに、やりたい放題の僧侶もでてくるのですから・・・、いやはや、人間の欲望は恐ろしい)。
時代によって、ある程度はルール変更もしなくてはならないのですね。
お釈迦様は、そのような細かいルールは、本当はあまり重要視していなかったのではないかと、私は思います。それよりも、もっと大事なルールがあるだろうと、そう思うのです。つまり、基本的なルールさえ守っていれば、自然と欲望にも打ち勝てるようになり、細かなことを決める必要もなくなるであろうと、それが本意ではなかったかと、そう思うのです。

で、その基本的ルールは、五つないし十のルールがあります。まずは、五つのルールからお話いたしましょう。
*五つのルール・・・・五戒
@殺生してはならない(不殺生・ふせっしょう)
これは人間が守るべき基本的ルールですね。他の命を奪ってはならない。当然のことでしょう。非暴力は当たりまえです。
では、なぜ当たり前のことなのでしょうか、その説明ができますか?なぜ、他の命を奪ってはならないのか、
そう質問をされてあなたは答えられるでしょうか?。
この問いに答えられない学校の先生もいた、とか・・・・。なので、あなたが答えられなくても恥ずかしいことではありません。答えられなくても、理由がわからなくても、命を奪ってはならない、ということさえ理解できていればいいのですから。
とはいえ、中には理由もわからないようなことは守れない、というへそ曲がりもいるかもしれませんので、殺生をしてはならない理由を述べておきます。それは、
あなたも殺されたくはないでしょうから・・・
という理由です。
誰もが、暴力は振るわれたくはないでしょう。誰だって、殴られたり、蹴られたり、叩かれたり・・・・という暴力を振るわれたくはないでしょう。その延長である命を奪われる、ということは誰もがされたくないことなのです。誰も、殺されたい、と望まないでしょう。
だから、他の命を奪ってはならないのです。他に暴力を振るってはいけないのです。相手の立場になって考えればわかることですね。
誰もが、相手の立場に立って物事を考えることができるようになれば、暴力なんてなくなるものなのです。

A盗んではならない(不偸盗・ふちゅうとう)
これも@と同じ理由です。自分のものを取られたくない、と思うように、誰もが自分のものを取られたくないのですから、他から奪ってはいけないのです。
また、人の所有物を奪ってまで欲しがってはいけません。これこそ、欲望の抑制です。欲しいならば、正規の手続きを経て、正しく手に入れればいいのです。奪ってはならない、自分だって取られたくはないのだから、という考えを持てば、自然と欲望がコントロールできることでしょう。

B浮気をしてはいけない、みだらな性行為をしてはならない(不邪淫・ふじゃいん)
浮気は、これもされた立場を考えれば、してはいけないことだと理解できますよね。浮気をされたほうは、悲しいだろうし、つらいだろうし、許せないことでしょう。よく、「浮気は男の甲斐性」と甲斐性もないくせに男の方が言っていますが、それは男性の勝手な理屈です。もし、その人の奥さんが浮気でもしたらどうでしょうか?。きっと、怒るでしょうね。自分のことは棚に上げて。夫婦は平等です。自分がされたくないことは、相手もされたくはないことなのです。ですから、浮気はしてはなりません。

みだらな性行為とは、昨今問題になっている児童買春やポルノですね。また、性的に乱れた生活をしてはいけない、ということです。児童買春やポルノは説明の必要もないでしょう。
性的に乱れれば、生活も乱れますし、病気にもなる可能性があります。動物ではないのですから、欲望の赴くままに・・・という生活は慎むべきでしょう。
人間の人間たる尊厳を持て、と思います。そういう思いが、己の浅ましい欲望にブレーキをかけるのです。

Cうそをつかない(不妄語・ふもうご)
うそはいけません、うそはね。騙されるのはいやでしょう?。だから、あなたもうそはついてはいけません。うそをついたって、ろくなことにはなりません。うそは真実ではないので、覚えていられないし、何度も聞かれれば、必ずほころびがでるものです。うそをついて誤魔化しても、ばれてしまいます。そうなれば、余計に印象が悪くなります。また、うそをつけば、そのうそを正当化するために、またうそをつくことになります。そのうちに、どううそをついたか忘れてしまいます。なので、うそをつくのは止めましょう。
ただし、人を救う場合のうそは、これは許されるでしょう。そういう場合のみに、「うそも方便」という言葉が当てはまるのです。それ以外、自分を正当化しようとするうそや相手を陥れるうそはいけません。

Dお酒を飲まない(不飲酒・ふおんじゅ)
私は、このルールが入っていることは、画期的だと思いました。お酒を飲むな、とはっきり言ったのは、お釈迦様だけではないでしょうか。2500年前、お酒の悪について真正面から言い切ったのはお釈迦様だけでしょう。
お酒は、酔わない程度なら薬にもなります。しかし、たいていの場合、薬として飲むのではないでしょう。酔いを楽しむために飲むのでしょう。そこに危うさが潜んでいるのです。
酔えば、心のタガが外れやすくなります。いけない、と思っていたことでも平気でできてしまうようになります。酔ったことによって起きた事件が、世の中には数多くありますよね。芸能人だって、酔って暴力を振るってしまたっとか、あるじゃないですか。酒に酔えば、欲望に対するブレーキが利かなくなってしまうんです。
だから、酒を飲むな、とお釈迦様は説いたのです。

以上を守っていれば、おそらくは欲望をコントロールすることも可能でしょう。さらに、もう少し上級者向けの戒律も紹介しておきましょう。それが十の戒律・・・十善戒です。上の五戒から「酒を飲まない」を抜いて、六つのルールを上乗せしたものです。
@殺生しない。A盗みをしない。B浮気やみだらな性行為をしない。Cうそをつかない。(ここまでは同じ)。
D乱れた言葉を使わない(不奇語・ふきご)
まあ、流行り言葉のようなものですね。誰にでも通じる言葉を使いなさい、ということです。日本人は、特に若者は、略した言葉を使いたがりますよね。まったく意味不明のね。そういう言葉を止めなさい、ということです。なぜなら、うまくコミュニケーションが取れないからです。ですから、正しく言葉を使いましょう。

E悪口を言わない(不悪口・ふあっく)
文字通り悪口を言うな、ということです。なぜなら、自分も言われたらイヤでしょうから。また、人の悪口は、聞くのもイヤですしね。

F二枚舌を使わない(不両舌・ふりょうぜつ)
片方にもう一方のことを悪く言って、同時にその逆をいう・・・・。二枚舌です。わかりやすく言えば、AさんBさんCさんがいて、BさんはAさんに「CがねAのことを悪く言っていたよ」と告げ、またCさんには「AがねCのことを悪く言っていた」と告げる、こういうのを二枚舌といいますね。
また、詐欺師の如く、調子のいいことばかりを並べ立てる口を二枚舌といいます。
こういうことをすると、友達をなくします。気をつけましょう。人を陥れると、自分が陥れられますよ。

G余分な欲望を出さない(不慳貪・ふけんどん)
あれも欲しい、これも欲しい、ああしたい、こうしたい、これ以下のものはイヤ、もっと、もっと、もっと・・・という気持ちを抑えなさいという、欲望をコントロールせよという、そのものの決まりごとです。
欲を出せば、その分苦が増える、と理解して、欲を慎むことです。分相応が一番いいですよ。

Hねたむな、そねむな、うらやむな、ふてくされるな(不瞋恚・ふしんに)
心の問題ですね。人の不幸を望んだり、羨んだり、怨んだり、ふてくされたり、いつまでも怨み続けたり、いつまでも怒り続けたり、愚痴を言い続けたり、文句を言い続けたりするな、ということです。さっぱりいきましょう、こだわらずにいきましょう、ということですね。
あっさり、さっぱり、すっきり、こだわりなく、イヤな事は忘れて、人のことは羨むことなく、他人の幸せも不幸もなんとも思わず、マイペースでそこそこに生きましょう、ということなのですよ。

I待ちがった考えを起こすな(不邪見・ふじゃけん)
邪見とは、簡単に言えば「自分は正しい、間違っていない」と勘違いすることです。どんな人間でも、自分が100%正しい、ということはありません。必ず、どこかで誤った考えをしているものです。
一般的に、「自分は間違っているのではないか」と疑うことのある人は、他にも優しい人が多いですね。「俺は間違ってない、俺は正しいんだ」という者の方が、正しくないことが多いです。たいてい、威張っているヤカラは間違ってますよね。
つまり、この戒律は、自己反省しなさい、というルールなのです。たまには、自分を見つめなおしなさい、自分を省みてみなさい、ということですね。反省なきものに成長なし、です。

こうして戒律について話をしてきましたが、基本は唯一つです。それは、
「自分がされてイヤだと思うことは、他人もされたらイヤなんだ、と理解すること」
です。つまり、相手の立場に立って物事を考えよ、ということですね。これさえ理解できれば、他人の苦も理解できるでしょうし、相手がイヤがるようなこともしなくなるでしょう。そうすれば、自ずと欲望を抑えることができるというものです。そいてそれは、自分の苦しみから離れることでもあるのです。
しかし、なかなか相手の立場に立って物事を考える、ということは難しいことです。ついつい自分の側から見てしまいますよね。そこで、このようなルールが生まれてくるのです。

さて、以上のルールをできるだけ守っていけば、あなたも欲望をコントロールすることができるようになるでしょう。そして、徳を積み、縁があれば手に入る、なければ手にはいらない、という考え方を身につければ、何も悩むことはありません。ほぼ、悟りの世界です。苦しみなんて無縁になります。
これら三種類のことを一度に実行しようとするのは、きっと無理があるでしょう。ですから、一つずつしてもいいし、全体を少しずつ守っていくようにしてもいいのではないでしょうか。
縁ということをいつも意識して、徳を積むということを意識して、基本的ルールを守っていく・・・・。そうすれば、苦も自ずと離れていくことでしょう。
もし今、あなたに苦があるとすれば、それは縁ということを理解していないからなのか、徳が足りないからなのか、ルールをよく守っていないからなのか、どれかに当てはまると思います。そのどれかをよく見極めることが大切です。
必ず、苦を離れる方法はあるものです。それを見つけてください。



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