お気楽!!

仏教講座

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36回のテーマは

輪廻の世界
C修羅の巻 その一
今回から修羅(しゅら)の世界についてお話いたします。
実は、修羅の世界は他の輪廻の世界とは少々異なります。どこが違うのかと言うと、修羅の世界ができた経緯が、他の世界と異なっているのです。そこで、前にも話をしましたが、もう一度輪廻の世界ができた経緯を復習しておきましょう。

輪廻の世界には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の世界があります。人類初の死者であるヤマ(閻魔大王のこと)は、一人で死の世界を進んでいくと、楽園を見つけます。これが天界の始まりですね。
ヤマの死後、次々と死者がヤマが見つけた楽園にやってくるようになります。それは、みんなヤマが見つけた楽園への道をたどってきたのです。
初めのうちはみんな仲良く楽園で過ごしていました。ヤマを中心に初期の死者七人で楽園を仕切っていました。そして、楽園から再び人間の世界へ生まれ変われることを知ります。
年数がたつうちに、悪人や様々な欲望を持った者も楽園にやってきました。死者のたどる道は一本しかありませんから、楽園に来るしかなかったのです。そうした者たちは、勝手な振る舞いをしたり、暴力事件を起こしたり、楽園を荒らしたりするようになったのです。
そこで、ヤマたち初期の死者七人は考えました。
「このままでは楽園が悪人に乗っ取られてしまう。奴らを追い出した方がいい。」
「じゃあ、人間界に放逐するのか?。そうすれば、あの者たちは喜んでしまうし、人間界でも乱暴を働くようになるぞ。」
「ならば、悪人を収容する場所を造ってはどうか。」
「それはいい。悪人を収容する場所なら、この楽園からずっと遠くの場所に造ろう。人間界よりも遠くにしないといけない。」
「では、地下に造ろう。地下ならば、逃げることもできないぞ。」
ということで、楽園にはそぐわない死者の受け入れ場所を地下深くに造ろうと言うことになったのです。そこで、悪人を更生させようとしたのです。これが地獄です。この地獄を管理したのがヤマです。(なので閻魔大王は、地獄の閻魔、と言われるのです)。ヤマは、神通力で鬼たちを作り出し、悪人の死者へ罰を与え、魂を浄化するという役割を担うことになったのです。

ところが、いくら悪人と言えどもその悪さには、差があります。極悪人からちょっとした悪さをした、という者まで、その内容は複雑です。初めのうちは、地獄の種類を増やすことによって対応しました。しかし、どう考えても地獄にはそぐわない者も出てきたのです。
たとえば、ただ欲が深い、ケチである、いじきたない、金の亡者、怠け者、性欲のみが強い、愚痴ばかり言っているなどなど・・・。地獄へ送るには厳しすぎるが楽園(天界)へ置いておくわけには行かないし、人間界に戻すのも問題がある。
そこで初期死者の七人は、地獄のほかに
「欲が深い者たちが行く餓鬼の世界」
「怠け者や愚痴が多いものが畜生の世界へ生まれ変われる道」
を造り出しました。畜生の世界は、もともとあった世界ですから、そこへ人間の死者からも生まれ変われるように道を造ったのです。
こうして、天界や地獄、人間界のほかに、人間の死者の魂が生まれ変われる世界が、増えていったのです。

善行を積んだものは我らがいる楽園(天界)へ招こう、もう少し善行を積んだほうがいいものは人間界へ戻そう、極悪人は地獄へ落とそう、欲深く執着心の強いものは餓鬼へ送ろう、愚痴ばかりの怠け者は動物や昆虫の世界である畜生に生まれ変わるようにしよう、その振り分けは、我ら七人で吟味しよう。その場所も造ろう・・・・。
こうして人間界から死者が現れたら、生きていたときの善行や罪を確認し、死者の行き場所を決めたのです。その行き先は、
地獄か、餓鬼か、畜生か、人間か、天界か・・・・。
この五つの世界のどこかなのです。(ちなみに、地獄・餓鬼・畜生の世界を「三悪道」といいます。この三つの世界は、大変苦しい世界だからです)。

皆さん、もうお気付きでしょう。そう、修羅の世界がありません。この時には、修羅の世界は造られなかったのです。それもそのはず、実は修羅の世界は、もうすでにあったのです。それも楽園の中、つまり天界に・・・・。

そもそも修羅の世界は、楽園の一部だったのです。修羅の世界は、天界の中に存在していたのです。
ヤマが見つけた楽園は、広大な世界でした。そこで初期の善人の死者たちは、楽園の中にそれぞれ自分の世界を持つようになったのです。
ヤマはヤマ天(閻魔天)を、帝釈天はトウリ天を(この中にさらに三十三の世界を持つのです。帝釈天は欲張りでした)・・・・といったように、初期の死者で自分の世界を造り出していったのです。
修羅の世界もその中の一つです。ここは、正義を象徴とした世界でした。その王は、阿修羅(あしゅら)です。阿修羅は、正義感溢れる王だったのです。で、正義を重んじるものを部下とし、正義を美徳とし、正義に生きる者を集めました。正義の無いものは、容赦なく地獄へ落とすと言う、厳しい神だったのです。そう、初め修羅の世界は、人間界よりも上の天界の中に存在していたのです。
それがなぜ人間界よりも下になってしまったのでしょう。それは、阿修羅の正義感の強さが原因だったのです。

天界での阿修羅は、正義の神としてその名を轟かせていました。その阿修羅には娘がいました。名前をシャシといいます。シャシはとても美しく、器量がよく、天界一の娘だと阿修羅は豪語していました。
シャシは、帝釈天に心奪われていました。帝釈天の多数いる妃の中に加えてもらいたい、と願っていたのです。父の阿修羅も、帝釈天の嫁になるなら・・・と、密かに帝釈天の元へ嫁ぐことを望んでいたのです。ただし、できれば第一の妃として・・・。
そんなある日のこと、シャシはトウリ天にいる友人(天女)のところへ遊びに行きました。トウリ天は帝釈天の世界です。彼女は帝釈天に逢えたなら・・・と乙女心をときめかせてトウリ天の友人を訪ねたのです。友人と楽しく語らったあとの帰路のことでした。シャシは、見事な花畑に見惚れていました。それは美しい姿でした。その美しい姿に心を奪われてしまった神がいました。帝釈天です。
帝釈天は、いきなりシャシを抱きすくめると、その場で凌辱してしまったのです。つまり、帝釈天は、阿修羅の娘をレイプしてしまったのです。さらに、それだけだはなく、そのまま帝釈天の城へ連れ帰ってしまったのです。強姦及び誘拐です。
阿修羅は、シャシの帰りが遅いことを心配していました。そんな時、シャシが帝釈天に強姦され誘拐されてしまったと言う知らせが届きます。阿修羅は、それを聞き、怒りを爆発させます。
「おのれ!帝釈天!。あの不届き者めが!。許さん、絶対許さんぞ!。」
そして、修羅界の正義軍団を率いて帝釈天に戦いを挑んだのです。
帝釈天は天界の王、力の神でもあります。その力は、天界一です。いくら阿修羅でも勝てる可能性はありません。が、阿修羅は正義の神。帝釈天の行為を許すことができません。そんなことをする者は神ではない、天界に住まう者ではない、地獄へ送るべきだ!、と声高々に帝釈天に挑んだのです。
しかし、他の神々は、これに同調はしませんでした。帝釈天の性格や性質、考え方などをよく知っていたからです。他の神々は、
「放っておけばよい。帝釈天は、行動に問題はあるかも知れぬが、あれはあれでよいのだ。帝釈天をよく見ているがよい。むしろ、危ういのは阿修羅だ。何とか、心鎮めてくれぬものか・・・。」
といって、静観していました。

阿修羅は孤軍奮闘、帝釈天に挑みます。何度も敗れながらも、何度も挑んでいくのです。もはや、何のための戦いなのか、阿修羅にはわからなくなっていたくらいでした。シャシのことなど忘れたかのように・・・・。いつの間にか、戦うことが、阿修羅の存在理由になっていったのです。
一方、帝釈天はシャシを第一の妃とし、仲良く生活していました。いつも二人一緒でベタベタ・イチャイチャ・・・。それはもうラブラブだったのです。どのくらいラブラブだったかというエピソードがありますので紹介しておきましょう。
ある日のこと、帝釈天が一人フラフラと出かけることが多くなったので、浮気を心配したシャシは帝釈天を尾行します。すると、帝釈天は浮気をしていたのではなく、人間界の仙人のところへ行って教えを聞いたり、問答をしたりしていたのでした。シャシは、
「なんだ、仙人様のところで修行をされていたのですね。」
と帝釈天の横に座ります。帝釈天は苦笑いをしながら
「ここは女人が来る場所ではない。帰りなさい。」
と優しく言いました。しかし、シャシは首を横に振ります。
「やだ。帰りたくない。」
「これこれ、仙人様の前だ。よさないか。」
「黙って座ってますから、ここにいさせてください。」
「そうか、うんうん、よしよし、じゃあ、私の横に座りなさい。ほら、こっちへおいで。」
などといって、二人でイチャイチャベタベタ。仙人がいるのも忘れて・・・・。その様子を見ていた仙人は、
「あぁ、わしも女性と戯れたい・・・。」
という欲望を起こしてしまいました。おかげで仙人の神通力はあっという間に消え、ただの老人になってしまったそうです。
それくらい、シャシと帝釈天は仲がよかったのです。そんなことを知ってか知らずしてか、阿修羅は相変わらず帝釈天に戦いを挑んでいたのです。

帝釈天には、余裕があったのです。阿修羅との戦いなど、子供と大人の戦いでした。ある戦いでは、帝釈天は、戦いの最中、アリが歩いていたのを踏まないようにしたため、全く無抵抗になりましたが、アリが立ち去ったあと阿修羅の軍勢を退けています。戦いの最中でも、決して殺生はしないという戒律を守って戦っていたのです。
が、阿修羅は夢中です。戦うことに夢中になっていました。そんな様子を見て、他の神々も
「阿修羅よ、汝の娘は幸せになっているではないか。もういい加減、戦いをやめてはどうか。帝釈天は決して汝を滅ぼそうと言うつもりは無いのだ。戦いを見てみよ。帝釈天は汝らの軍勢の命を奪うことはしない。もう戦うことをやめよ。」
と勧告したのですが、阿修羅は聞き入れません。
「いいや、戦いはやめない。わしの顔に泥を塗った帝釈天をどうしても許せないのだ。正義の名のもと、帝釈天を駆逐するのだ。あんなものは、許してなるものか!。」
「そうか、どうしても戦いをやめぬか。許すことも大切なのだが、それがわからぬか。戦いでは解決しないものなのだが、それが理解できぬか。ならば、この天界を去るがいい。汝のように他の意見を聞き入れず、意固地で頑固で他を許すことができぬものは、天界を去るがよい。海の底にでも落ちて頭を冷やすがよい。」
こうして、阿修羅の世界は、人間界の下、海底へと落とされてしまったのです。こうして修羅界が誕生したのです。

正義は確かに重要なことです。正義なければ、悪がはびこります。しかし、正義に執着するのも、実は悪なのです。何が何でも正義で通せるものではありません。正義は大切ですが、それも過ぎれば許すことができなくなるのです。正義が通らねば、いつも怒ってなければいけなくなります。
また、正義そのものも、人によって異なってしまいます。阿修羅は娘を奪われてその罪を帝釈天に問いました。それは正義です。しかし、娘本人は不幸になったわけではありません。むしろ、幸せです。娘にとって、父親の正義など迷惑です。己の正義が果たして周りや相手の正義となりうるか、それはわからないのです。正義とは、主観でしかないからです。
その独りよがりの正義に執着してしまい、他のアドバイスに耳を貸さず、怒りに燃えている阿修羅は、とても天界にいられるものではないでしょう。余裕が無く、他のことが見えず、怒りに燃えていては、神失格なのです。海底の底に落とされても仕方がないのです。

こうして、修羅界は、戦いの世界として誕生しました。いつもいつも戦い、怒り狂っているものが行く世界として人間界の下に落とされたのです。

次回は、修羅の世界をもう少し詳しくみていきます。合掌。



37回のテーマは

輪廻の世界
C修羅の巻 その二
修羅(しゅら)の世界の2回目です。今回は、どんな人が修羅の世界にいくのか、ということをお話していきます。

正義の神であった阿修羅が、海底奥深くの世界へと落とされてしまい、人間界よりも低い修羅の世界が誕生した理由は、前回お話したとおりです。正義に凝り固まりすぎたゆえの怒りが原因でした。そして、未だに阿修羅は帝釈天や、自分を海底へと落とした神々に対して怒り続けているのです。戦い続けているのです。
そう、阿修羅は未だに戦っているのですよ、一人で淋しく・・・・。

さて、この戦いの世界である修羅界、どんな人間が行くのでしょうか。
@怒り、争い続けている人。
怒ってばかりいる人です。いつもイライラして、八つ当たりばかりしている人。こういう人は危ないですねぇ。修羅界直行便に優先的に乗せてもらえますね。
周りを見てください。いつもイライラして、八つ当たりをしている人っていませんか?。えっ、自分がそう?。あぁ、気をつけてくださいね。イライラは、身体にも悪いし、周りにも迷惑だし、生きているときはもちろん、死後も不幸ですよ。
たとえば、奥さんへ暴力を振るう夫とか、子供に八つ当たりする親とか・・・いますよね。DVとかいいますが、奥さんを何かと殴ったり、蹴ったりする男って。他に怒りを向ける方向がないんですね。奥さんに歯向かうことしかできなんです。情けない男なんですよ。
さらに悪いのが、子供への暴力。子供のような弱いものにしか、自分の不当な怒りを向けられない、惨めな人間なんですね。
外で面白くないことがあると、外の人間には逆らえないので、家に帰ってきてから奥さんや子供に八つ当たりをするんです。外で溜めた怒りを家の中の弱いものに吐き出すんですね。動物を虐待するものも同じです。
本当は、外のものに言いたいのだけど、外にいるものに怒りをぶつけたいのだけど、それができない。で、そのイライラを弱いものへとぶつけるんです。情けないですね。そうやって、外のものに対し怒り続け、そのものとは争えないので内の弱いものに戦いを挑む・・・・。まさに修羅界へ直行ですな。いやいやあまりひどいと、地獄ですねぇ。

直接的な暴力だけでなく、家族内で争っている人たちもいますよね。嫁姑戦争とか、そこに小姑が加わるとか、遺産をめぐっての兄弟姉妹の争いとか、身内同士の骨肉の争いとかね。そんな話もよく聞きます。まさに修羅の世界ですね。そういう方たちは、この世だけでなく、死後の世界にも争いを持ち越したりするんですよ。特に遺産相続での争いは、故人の嘆きも受けてしまいますから、罪は大きいですよ。死後の世界まで争い続けるなんて見苦しいし、虚しいですよね。争いごとは極力避けたいものです。

ご近所で争っている方たちもいるようでして。いつだかの「騒音オバサン」なんていい例です。修羅まっしぐらですよね。先日も近所のお宅に汚水を撒くオバサンが逮捕された、というニュースを見ましたが、これも騒音オバサンの仲間ですね。自分だけの怒りにとらわれ、周りが見えなくなり、戦いを挑んでいくんです。相手は、戦う気なんて、争う気なんて全くないのにもかかわらず、勝手に戦いを挑んでいくんですね。まさに娘のことで怒り狂う阿修羅そのものでしょう。スケールは小さいですが・・・・。


A文句の多い人
いつも何かに怒ってブツブツ文句をたれている人も危ないですよ。あまり文句が多いと、死後は修羅の世界へ招かれてしまいます。
文句の多い人は、きっと正義感が強力な人なのだと思います。自分の正義感に周りが合わないと、つい文句が出てしまうのでしょう。ただし、その正義の基準は世間一般の基準ではなく、あくまでも自分自身の基準なのでしょうけど。しかも、結構細かい正義感の基準だったりするんですよね。
こういう方が、さらに悪化すると@のような怒り続ける人になってしまうのでしょう。騒音オバサンなんて、近所の方から言われた一言が、自分の正義の定規に合わなかったのでしょう。で、火がついてしまった。おそらくは、普段から文句が多かったのではないかと思います。
正義を振りかざすのも疲れます。杓子定規ではなく、多少の融通性は持たないとね、息が詰まってしまいます。修羅の世界は、息苦しいですよ。


Bケンカに明け暮れている人。
若者に多いですよね。ケンカっ早い人。すぐにカッとなって「なんだと〜」になる人っていますよね。若者だけでなく、オジサンにもいますが。
先月、掲示板にも書きましたが、電話のかけ方がよくないよ、と注意したら、逆ギレされましたからね。素直に聞いて、気をつけます、といえばいいものをいきなりケンカ腰で文句をたれてましたからねぇ。あぁ、この人は修羅の人なんだな、と思いましたね。すぐにケンカ腰で相手に威圧感を与える人なんだな、と思いました。まさに修羅の人ですね。

威圧感、といえば、ヤクザな方々などがそうですね。ヤクザの世界は、まさに修羅の世界です。脅迫やケンカや抗争・・・。修羅そのものでしょう。ま、これはよくわかることですよね。

すぐにケンカ腰でものを言う人もいますよね。たとえば、本人が満足しているのに、余計な口出しをしたり、妙なお節介を焼いたり、茶々を入れたりして、ケンカになっている人っていますよね。友達間で、本人が満足しているのにも関らず
「それおかしいよ」、「変じゃない」、「こっちの方がいいと思うよ」、「こうしなさいよ」・・・・
などと余計なお節介を焼く人っているでしょ。で、自分の意見を聞き入れてもらえないと、
「まぁ、なによ、せっかく人が親切で言ってあげてるのに!。プンプン。」
と怒っちゃうんですね。こういう方は、お局様に多いかな?。で、ケンカになったり、イジメが始まったり・・・・。危ないですよ、それは修羅の第一歩ですからね。余計なお節介は慎みましょう。本人がいいならいいじゃないですか、放っておけばね。他人の人生なんですからね。

身内でも同じですよ。自分以外は他人なんですから、親であろうと、子であろうと、本人が満足しているなら、あまり余計な口出しはしないほうがいいのです。本人が迷っているなら、アドバイスをしてあげればいいのです。そうでないなら、ケンカになるだけです。親子ゲンカなんてその際たる例でしょ。たいていは、親が子に余計なことを言って、
「あ〜、もう、うるさい!」
となるんですよね。注意することは必要ですが、ケンカ腰になっちゃいけません。何回もしつこく言う必要もありません。大人のアドバイスを聞かずにいれば、いずれ困るのは本人なんですから、困るまで放っておけばいいのです。でないと、いくら言っても聞きませんからね。聞く耳を持つまで放っておきましょう。無用なケンカは修羅を招くだけですから。


B頑固を通し、他の意見やアドバイスを聞かない人。
こういう人は、Aのケンカっ早い人と同類です。あまりにも頑固で、他人の意見を絶対聞き入れない人って、いますよね。特にお年寄りにね。まあ、人は年齢を経ると、だんだん頑固になっていきますからね。下手にアドバイスしようものなら逆に怒鳴られてしまいます。困ったものです。
こういう、頑固な人、自分の考えに凝り固まっている人は、放っておくのが一番いいのですよ。頑固で損をするのは本人なんですから。そうです、頑固者は損をしますし、そのうちに誰も相手にしなくなりますから、淋しいですよ。孤独ですよ。阿修羅が、仲間の神々から相手にされなくなったように、頑固を通せば孤独になりますからね。
修羅の世界は、孤独でもあるのです・・・・。


私の寺があるのは岐阜県なのですが、岐阜には有名な合戦場跡がいくつかあります。最も有名なのが、関が原の合戦場跡です。そこでは、当時何万人もの武士や農民が、戦で亡くなりました。そういう場所です。
で、夜中にそのあたりにいくと、未だに戦い続けている侍たちの幽霊を見る方がいます。あるいは、ザンバラ髪の落武者を見る方もいるそうです。みすぼらしい鎧をつけたヨレヨレの武士たちが刀を振りかざし戦っているのだそうです。私は見たことがありませんから、というか、そういう場所にはいきませんから、本当の話かどうかは知りません。しかし、それが修羅の世界でもあることは確かでしょう。400年を経ても、未だに戦いの中にいるのです。浮かばれず、成仏できず、未だに戦いの世界に身をおいている・・・・。それが修羅の世界です。戦いを止めたくても止められない、戦うしかない・・・・、戦うことでしか存在を示すことができない・・・・。そういう虚しい世界が修羅の世界なのです。
恐ろしいものです。

たとえば、あの第二次世界大戦の日本軍も修羅道まっしぐらだったのではないでしょうか?。日本の正義という基準で世界を量ったとき、世界の側が間違っている、という答えが出てしまったのでしょう。本当は、日本の基準が間違っていたのでしょうが、誰も自分の基準が間違っているなんて思いませんからね。そうして、日本は世界から孤立してしまったのです。そこから大きな争いになってしまったのではないでしょうか。

修羅の世界へ行く、修羅の世界にこの世ではまってしまう、そういう人は、自分の基準でしか世界を見れない人なのです。自分の尺度でしか世間を測れない人、自分の尺度にこだわってしまい、周りの意見を取り入れることができない人、そういう人が修羅の世界に生きる人となるのでしょう。
何事にも自分の尺度を持ち出して、それに合わない者を糾弾したり、追及したり、争いを吹っかけたり、怒ったりするのです。世間一般の尺度ではなく、自分の尺度を持ち出すんですね。で、それが正しいと信じているんです。自分の尺度は間違っていない、絶対である、と信じて疑わない人が修羅の世界へ行く人なのですよ。いや、そういう人は、この世ですでに修羅の世界に生きているんです。修羅界は、人間界のすぐ傍にあるのですよ。

じゃあ、どうすれば修羅の世界の住人にならないようにできるのか。
答えは簡単です。頑固を去って、柔軟な思考を持つこと、です。自分の尺度にこだわらず、他人の意見を取り入れることです。他の存在や考え方を認めることです。そして、それは他を許すことにつながるのです。

他を許す・・・・。実はこれができない人が修羅の世界にまっしぐらになってしまう人なのです。阿修羅も、娘が満足しているのだから、帝釈天の行為を許せばよかったのです。帝釈天を許すことができれば、天界の神としての存在を許されたです。阿修羅は、他を許すことができなったがために、自分も許されなかったのです。
他人の行為が自分の基準と多少合わなくてもいい、他人の行為が多少不快でもいいじゃないか、他人の考え方が自分と合わなくても自由であろう、他人が自分と違っていても認めてあげよう・・・・。
そういう許容量の深さ、許容範囲の広さが修羅の世界を遠ざけるのです。狭量になればなるほど、修羅の世界に近付くんですよ。

修羅の世界へ行く人は、この世ですでに修羅の状態になっている人です。他を許すことができず、いつもイライラしたり、ちょっとしたことにこだわって、怒り続け、争いを挑み、競争に明け暮れる・・・・。それが修羅の世界です。その先に待つのは、虚しさだけです。それ以外何もありません。戦いに勝っても、やった〜、と思うのはその場限りです。そのあとは新たなる戦いを始めるしかなくなるのです。でないと、自分の存在場所がなくなってしまいますからね。結局は、戦い続けなければいけなくなてってしまいます。それは、やはり虚しいでしょ。

戦いや競争、争いなんて、何もいいことなんてありません。この世で修羅の世界にはまってしまい、さらに死後まで修羅の世界に行かなければならなくなってしまいます。そんなことでは、人生楽しくありませんよね。折角の人生なんですから、争わずに楽しんだほうがいいでしょ。そのためには、修羅の世界にはまらないことです。
頑固を去って、他の意見を聞き入れる。他の存在を認める。自分の基準を振りかざさない。そうして、「他を許す」ことができれば、何も争うことなく、穏やかな生活が送れるのですよ。修羅の世界の住人にならぬよう、気をつけてくださいね。


38回のテーマは

輪廻の世界
D仏教の宇宙観 その一
今回は、天界の話をしようと思ったのですが、その前に、仏教の宇宙観について説明をしておきます。天界の位置や我々が住んでいる世界、地獄や餓鬼、畜生、修羅の世界の場所などを説明しておきます。とてつもない世界ですので、想像力をよ〜く働かせて読んでください。
また、この説明の中には、由旬(ゆじゅん)という長さの単位が出てきます。まずは、それについて説明をしておきましょう。
由旬とは、インドの古代の長さの単位で、ヨージャナと発音したのを音写したものです。仏典を漢訳する際に、「ヨージャナ」が「由旬」と書き表したのです。で、1由旬はどのくらいの距離かといいますと、これがハッキリしないんです。仏典によりますと、
「牛の鳴き声が届く距離×8」
なんだそうです。牛の鳴き声が届く距離って・・・・当時のインドはさえぎるものがないでしょうから、かなり届きますよね。音の伝わる距離は気温にも影響されますから・・・・、などと考えても始まりません。後々計算が面倒なので、
1由旬=10km
としておきます。まあ、だいたい牛の鳴き声って1kmちょっとは届くでしょ、きっと・・・・。
ということで、これから出てきます由旬は、1由旬=10kmとさせていただきます。そのほかの単位については、そのつど説明いたします。

さて、まずは、巨大な空間を想像してください。宇宙空間ですね。その中に風輪(ふうりん)という円柱が浮かんでいます。この風輪は、圧縮した空気の層です。圧縮してありますので、フワフワしていますが、ものを載せることができます。また、この風輪はとても巨大です。どれくらい巨大かといいますと、高さが160万由旬(ゆじゅん)という高さです。ですので、1600万kmということですね。
大きいのは、高さだけではありません。その周囲がまたすごいんです。風輪の周囲はなんと、1阿僧祇(あそうぎ)由旬なんです。
と、ここで、阿僧祇というわけのわからない言葉が出てきました。これは、単位ではなく、桁数です。億とか兆とかと同じです。億、兆、京、と順に進みますと、ガイ、シ、ジョウ・・・(省略)・・・恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス川の砂の数)、阿僧祇、那由他(なゆた)、不可思議、無量大数、で終わります。
で、阿僧祇ですが、1阿僧祇は、10の64乗です。ちなみに、恒河沙は、10の56乗、那由他は10の72乗、不可思議は10の76乗、無料大数は10の84乗です。これでも、無限ではありません。有限です。

というわけで、風輪の周囲は、とてつもなく大きいんです。なんせ、1阿僧祇由旬ですから、10×10の64乗kmですからね。これは、今の宇宙の広さよりも大きいらしいです。この周囲の長さからみると、高さは異常に低いですね。つまり、風輪とはペラペラの薄い円盤だと思ってください。紙でできた、大きな円盤ですね。
でも、それだと、想像しにくいので、図1のように書いてみました。この図は、わかりやすさを優先したので、高さや大きさは無視しています。このような感じ、というだけのことですからね。実際は、風輪は、ペラペラの巨大な円盤です。

さて、そのペラペラの円盤の上に直径120万3450由旬(12.034.500km)、高さが112万由旬(1120万km)の円柱がのっかっています。この円柱は、下から80万由旬(800万km)のところで、水輪(すいりん)と金輪(きんりん)に分かれています。
つまり、風輪の上に、高さが80万由旬の円柱である水輪、その上に同じ直径で高さが32万由旬の金輪がのっているのです。図1のような感じです。
金輪と水輪の間が、金輪際と呼ばれる場所です。「金輪際会わない」というときの金輪際は、こんな場所にあったのです。金輪の頂点から32万由旬(320万km)下にあるんですね。
まとめてみましょう。
風輪・・・・高さが160万由旬(1600万km)、周囲が1阿僧祇由旬(10×10の64乗km)の円柱
水輪・・・・高さが80万由旬(800万km)、直径が120万3450由旬(1203万4500km)の円柱
金輪・・・・高さが32万由旬(320万km)、直径は水輪と同じの円柱
これが、土台部分にあたります。
面白いですね。普通は、下へ行くほど堅くなるように思うのですが、インド人は逆を考えたようです。一番下の風輪は圧縮した空気の層、水輪はもちろん水、で金輪に至り堅い土状になるのです。下へ行くほどやわらかくなるんですよ。


         

  図   1                                図   2
さて、金輪ですが、その頂上は、上から見ると図2のようになっています。といっても、よくわからないですね。
金輪の上の周囲には、鉄囲山(てっちせん)という山があります。つまり、金輪の周囲は、鉄囲山で囲まれているのです。その中には、海があります。中心には須弥山(しゅみせん)が立っています。
須弥山の周りは、七つの山脈で囲まれています。図2で、須弥山の周りにある円は山脈です。須弥山をぐるりと七重に山が取り囲んでいるのですよ。
山と山の間(円と円の間)は、淡水で満たされています。で、7重目の円の外が海水なんですよ。
その海には、四方に島があります。洲といいます。
ちなみに、鉄囲山の高さは、海抜312.5由旬ですから、3125kmですね。須弥山の高さは、海抜8万由旬(80万km)、金輪からの高さだと16万由旬ですので、160万kmですね。なので、海の深さは、8万由旬(80万km)あります。

四方にある島は、図2の向かって右が東の洲で勝身洲(しょうしんしゅう)、下が南の洲で贍部洲(せんぶしゅう、またの名を閻浮提(えんぶだい)という)、左が西の州で牛貨洲(ごかしゅう)、上が北の洲で倶盧洲(くるしゅう)といいます。我々が住んでいるのが、実は、南の贍部洲です。

ちょっとまとめておきましょう。
金輪の上には、須弥山とそれを囲む七つの山脈、海があり、四方には島がある。海の周りには鉄囲山がある。
七つの山脈の間には淡水が溜まっている。
須弥山の高さは、海底からは16万由旬(160万km)、海抜8万由旬(80万km)ある。
鉄囲山の高さは、海抜312.5由旬(3125km)ある。
海の深さは、8万由旬(80万km)ある。
海の四方にある島は洲と呼ばれている。その中でも南の洲が我々人間の住む場所で、贍部洲という。

とまあ、ここまでいいでしょうか。ようやく、私たちが住む場所までたどり着きました。
では、地獄はどこにあるのでしょうか?。それは、当然地下ですよね。
贍部洲は、周囲が7千由旬(7万km)あります。地球一周が4万kmですので、ほぼ倍ですね。また、水深8万由旬の海に囲まれています。当然、地下の深さは8万由旬ありますよね。とてつもなく深いのです。地球の直径よりも深いです。なんせ、80万km下ですから。地球から月までの距離が約38万kmなので、その倍ですね。
その私たちが住んでいる贍部洲(せんぶしゅう)の地下を掘り進んでいくと、六つの土の層がでてきます。どうなっているか掘ってみますと
初めは単なる泥→白ゼンという土→白土→赤土→黄土→青土
という層になっているのです。
で、青土を掘り進むと、なんと等活地獄の天井にたどり着いてしまいます。ここまでの距離は、不明です。ただし、泥の部分は、500由旬(5千km)あるそうなので、均等とすれば、等活地獄の天井までの距離は地下3千由旬(3万km)ですね。

ちょっと、変だと思った方、いませんでしょうか?。地下を掘り進んでいくと、等活地獄の天井に行き当たる、というのは変じゃないですか?。
地下をどんどん堀り進んでいくと、実は等活地獄の天井に行ってしまうのです。で、罪人は、そこからさらに等活地獄の地面まで落ちなくてはいけません。
地獄は全部で8種類ありました。地獄の広さは、最も苦しい阿鼻地獄を除いて、一辺が1万由旬の直方体になっているのです。
つまり、それぞれの地獄は、一辺が1万由旬(10万km)のサイコロになっているんですね。
ということは、地下へ3万km掘り進んでいきますと、等活地獄の天井に当たり、さらに10万km落っこちるわけです。で、やっと、等活地獄の地面にたどり着くわけです。
ちなみに、一番下の阿鼻地獄は、一辺が8万由旬(80万km)のサイコロとなっています。

まとめてみましょう。
我々が住んでいる贍部洲の下に地獄がある。
各地獄は、最も苦しい阿鼻地獄をのぞいて、一辺が10万kmのサイコロ状の世界となっている。
阿鼻地獄は、一辺が80万kmのサイコロ状の世界である。
地下を掘り進むと、泥や土の層がある。それは6種類に分かれている。泥や土の層の厚さは、3千由旬(3万km)ある。

とまあ、ここまででわからないことはあるでしょうか?。え、想像がつかない?。はぁ、まあ仕方がないですね。とてつもない世界ですから。
あぁ、そう、ちなみに、餓鬼の世界は、地下の泥の中です。畜生の世界は、我々人間界と同じ。修羅は、鉄囲山に囲まれた海の底にあります。つまり、金輪の頂上ですね。

以上が、地下〜地上の世界でした。次回は、上空の世界、つまり天界の場所のお話です。合掌。


39回のテーマは

輪廻の世界
D仏教の宇宙観 その二
天界は、果たしてどこにあるのか?。
と、その前に、仏教にはいわゆる「天国」というものがありません。仏教でお葬式をされた死者、あるいは仏教で供養されている霊は、天国とは関係ありません。仏教には天国はないのです。
ちなみに、神道にも天国はありません。神々の住まう国、はあります。それは皆さんがイメージするような天国ではなく、「神の国」というものです。
ですので、仏教においては「天国の使者」とか「天国へ行くのだ」とか「天国からの声」などという概念は存在しないのです。あるのは、輪廻の世界の一部である「天界・・・・天人の住まう世界」があるのみです。

天国と天界・・・・同じじゃないのですか?、と聞かれることがあります。もちろん、同じではありません。天国は永遠の存在を認める世界でしょ。天界は、寿命があります。天国へ行ったものは、そこで永遠の命を与えられるのでしょう。しかし、天界には永遠の命は存在しません。ですので、天界と天国は、全く異なるものなのです。これを混同している方は、仏教を知らない方です。仏教には、天国は存在しないのです。

さて、その天界ですが、いったいどこにあるのでしょうか。
輪廻の世界は、大きく分けて三種類に分かれます。欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三種類です。
欲界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間、そして天界の一部・・・天界の下層部・・・の世界で、欲望がたっぷりある世界です。なので、欲の世界という意味で、「欲界」と言われているのです。天界でも下層部は、欲の世界なのです。
色界は、天界の中層部の世界です。この世界の神々は、基本的な欲・・・睡眠・食・性の欲・・・があるのみで、それも余分な欲はないという世界です。あとは、決められた仕事をするのみ、という世界なのです。
無色界は、天界の上層部の世界です。この世界は、実体を伴わない世界です。いわゆる精神世界です。非常に清浄な魂のみの世界です。なので無色なのです。それでも、寿命があり、輪廻する世界なのです。いわば、魂の根源の世界、とでもいいましょうか。魂の本体が存在している世界、魂のふるさと、とでもいえばわかりやすいでしょうか。

とまあ、このように輪廻の世界は三種類の世界に分かれているのです。天界も、その三種類の世界に渡って、下層部・中層部・上層部に分かれています。当然、下層部は下のほうにあります



  

図  1
上の図を参考にしてください。「天」の文字がついたのが天界です。一番下は「下天(げてん)」です。その上は、「トウリ天」、次が「夜摩天(やまてん)」、「兜率天(とそつてん)」、「楽変化自在天(らくへんげじざいてん)」、「他化自在天(たけじざいてん)」と続いています。ここまで、実は「欲界」です。つまり、地獄から他化自在天までが、欲のある世界「欲界」なのです。
その上、「梵衆天(ぼんしゅうてん)」から色界に入ります。その上が、「梵輔天(ぼんぽてん)」、「大梵天」へと続いていきます。色界に所属する天界は、その上もまだまだあり、全部で17の天界が存在しています。参考までに、大梵天の上の天界名を挙げておきましょう。
「少光天、無量光天、極光浄天、少浄天、無量浄天、遍浄天、無雲天、福生天(ふくしょうてん)、広果天、無煩天(むぼんてん)、無熱天、善現天、善見天、色究竟天(しきくぎょうてん)」
です。上の図には、これらは省略いたしました。

で、その上に、無色界に所属する上層部の天界があります。といっても、それは魂のみの存在ですので、天人が住む世界とは、異なります。魂の塊のような世界、魂のみが漂っている世界、と思ってください。その世界は、魂が到達した状態によって、次の四種類に分かれています。
@空無辺処(くうむへんしょ)・・・虚空のように無辺である境地
A識無辺処(しきむへんじょ)・・・識(意識)が無辺である境地
B無所有処(むしょうしょ)・・・・何もないという境地
C非想非非想処(ひそうひひそうしょ)・・・空であるという想いがなく、空であるという想いがないということもないという境地。空を越えた、その越えたという想いもない境地。
となっています。で、このCの世界が、天界の最上階、最も上の存在なのです。ですので、人々は、この世界のことを「有頂天」と名付けました。

以上、天界は、最下層の「下天」から最上階の「有頂天」まで、27の世界に分かれているのです。(欲界の天界が6種類、色界の天界が17種類、無色界の天界が4種類です。)

さてさて、天界の位置です。どこにあるのか。図1を見ていただければわかるように、我々の存在する世界の上空にあります。最下層の下天で、須弥山の中腹にあります。その上のトウリ天は、須弥山の頂上にあります。
前回のおさらいです。須弥山の高さは海抜8万由旬でした。つまり、海抜80万kmの高さです。ということは、トウリ天は、海抜80万kmの場所に存在しているのです。
下天がその半分の位置だそうですから、海抜4万由旬・・・・40万kmの場所にあります。地球から月までが約38万kmですから、下天のある場所は、だいたい月のあたり・・・・ということですね。
ちなみに、閻魔大王の世界である夜摩天は海抜16万由旬(160万km)、兜率天は32万由旬(320万km)、楽変化自在天が64万由旬(640万km)となっています。
そう、倍になっているんです。次の天界は、前の天界の海抜からの距離の倍になっているんですよ。こうして計算していくと、色界の一番上の天界である色究竟天で1677億7216万由旬(1兆6777億2160万km)になります。とんでもない数字ですよね。宇宙の果てか、という感じです。(ちなみに太陽から最も遠い冥王星で、太陽からの距離が約60万億kmくらいだそうです)。とてもとても、遠い存在でしょ。せいぜい、夜摩天か兜率天あたりくらいなら、何とかなりそうな距離ですかねぇ。

とまあ、仏教では宇宙を以上のように考えているんです。地獄の場所から天界の場所まで、事細かに解説しております。昔の人は、すごい想像力を持っていたんですね。驚きます。天界は、まるで宇宙のどこかの星のことを意味しているかのようです。ひょっとしたら、天界とは他の惑星のことであり、そこに住む神々とは宇宙人のこと・・・・だったのかもしれませんねぇ。ま、そんなことはないですけどね。

次回からは天界の世界をご案内いたします。合掌。


40回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その一
今回から、天人・・・神々ですね・・・の住まいである天界をご案内いたします。まずは最下層の下天からです。

1、下天
げてん、と読みます。下天は、四天王が住んでいる場所です。四天王とは、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん、多聞天(たもんてん)ともいう)の四人の神々のことです。
彼らは、何をしているのかといいますと、天界の入り口の守護をしているのです。天界の入り口は、下天にあります。下天は、須弥山の中腹にあります。ここから天界へと入っていくのです。
天界への入り口は、下天の東西南北の4箇所にあります。ですので、四天王は、それぞれの方角の入り口を守っているんですね。
東は持国天が守護しています。南は増長天、西は広目天、北が毘沙門天です。(仏教では、東西南北という順ではありません。東南西北の順に進みます。マージャンと同じですね。)
それぞれが、それぞれの方角の門を守っているのです。魔物が天界に紛れ込んだりしないようにね。あるいは、魔物が天界方面へ向かって来ないように、にらみを利かせているのです。
ですから、この下天の門をくぐって初めて、天界へ入れるのです。ここを通してもらえない者は、天界へは行けません。すなわち、下天そのものが、天界の門であるのです。
なので、人間界から下天へは生まれ変わることは、あまりありません。下天へ生まれ変わる、ということ自体少ないのです。ここは住まいというよりも、仕事場であるからです。門を守っている四天王の世話係として生まれ変わるくらいでしょうか。そういう役割に生まれ変われば、天界の門である下天に生まれることもありましょう。
とはいえ、下天は、一応は四天王の住まいもかねています。なので、お世話係くらいはいるんですよ。毘沙門天が大好き、という方は、毘沙門天のお世話係を目指してもいいかもしれませんね。
ちなみに、下天に生まれ変わった場合、その寿命は900万歳、といわれています。長いですねぇ。


2、トウリ天(三十三天)
トウリのトウは、「りっしんべんに刀」という字です。パソコンでは変換できないんですね、これが。リは、「利」です。まあ、当て字なんですけどね。
トウリとは、サンスクリット語の「トラーヤストリムサ」の音写です。意味は「三十三」です。数字ですね。ということは、トウリ天とは、三十三天という名前なのです。トウリ天は、須弥山の頂上にあります。そしてその名前の通り、三十三の国があるのです。
須弥山の頂上は、中央が平たい地で、四方に峰があります。一種の盆地のようですね。その四方の峰には、八つの国があります。ですから、中央の平地の周りには、合計で32の国があるわけです。中央の平地には、帝釈天が統治する国があります。それらすべてあわせて、須弥山の頂上には33の国があるわけです。なので、三十三天といわれるのですよ。
このトウリ天の中心に君臨する帝釈天は、三十三天のうち「善見城天」という国の王です。住まいを「殊勝殿」といいます。彼は、この殊勝殿に居て、人々のことを見守っています。が、しかし、帝釈天は意外に暴君だったりもします。
帝釈天とは、元はインドの中心的神であったインドラ神のことです。酒と女が大好きな神です。インドラ神がお釈迦様に帰依してからも、その性質は残っていました。修羅の世界でも話しましたが、阿修羅の娘を強姦し、連れ去ってしまったりもしました。そういうことが、よくあったりしたのです。で、お釈迦様に叱られたりしています。

あるとき、あまりに女性との淫行に耽るので、身体中に千もの女性器ができてしまうという奇病を患ったことがあります(一説には、仙人の奥さんに手を出し、呪いをかけられ、女陰が千個できてしまった、ともいう)。で、お釈迦様に叱られ、精進潔斎して一心に仏道修行に励んだところ、その千もの女陰は千の目になったそうです。
あるいは、ちょっと嫉妬深いところがあり、人間界で仏道修行をしっかりしている修行者がいると、女性に変身したり、悪い商人などに変身して、その修行者を誘惑するのだそうです。なぜなら、あまりにも自分の素行が悪いので、ひょっとしたらその修行者が死んだあと、自分の地位を奪ってしまうのではないか、と恐れているのです。帝釈天の立場をとられ、自分は地獄へ落とされてしまうのではないか、とビビッているのです。で、真面目な修行者が居ると、様々な誘惑をするのですね。
もし、修行者が誘惑に乗れば、その修行者は帝釈天の地位を奪うことはないでしょう。帝釈天は安心してほっとします。誘惑に乗ってしまった修行者は大変ですよね。そのまま気付かないでいたら、地獄行きです。
では、もし誘惑に乗らなかったら・・・・。
帝釈天は、やはり安心します。帝釈天ほどの神の罠を振り切る修行者は、三十三天のはるか上に生まれ変わるでしょう。ひょっとしたら、輪廻を解脱しているかもしれません。なので、帝釈天の地位は安泰なのです。
これは、言い方を変えれば、帝釈天が修行者を試している、ともいえます。本当の修行者なのか、ニセモノの修行者なのか試しているのだと、きっと帝釈天はそういうでしょうね。まあ、確かにそうとも取れますからね。
また、帝釈天はカミナリを司ります。雷が落ちるのは、帝釈天の怒りが落ちたのだ、といわれています。いつだか、国会議事堂に雷が落ちたことがありましたが、まさしく帝釈天の怒りが落ちたのでしょう。でも、そこに集う人間たちはなんとも思っていないようでしたけどね。
高野山は、よく雷が落ちます。過去、それが原因で大火事になり、諸堂が燃えてしまったこともあります。それは、きっと帝釈天の怒りだったのかもしれませんね(とまあ、ゆる〜く言っておきましょう。)
帝釈天は、素行が少々悪いところもありますが、やはり三十三天の王でもありますから、それなりに仏道修行もしますし、人間界に影響もします。戦いの神として祀られたりもしていますし、神々の王として崇められたりもしています。お釈迦様の守護もすれば、お釈迦様の命を受けて人間界にその力を及ぼしたりもします。そのあたりは、やはり神ですからね。ただ、酒と女に弱い神、というだけではありませんので、ご注意ください。(帝釈天のことを悪く言うと、私が帝釈天に怒られますからね。)
なお、帝釈天は、中国では天帝と呼ばれ、人間の寿命を支配すると言われています(天帝と帝釈天は別の神、という説もあります。)

さて、人間界で善行をし、徳を積んだものが生まれ変わる先で最も多いのが、実はこの三十三天です。つまり、人間の死後、最も行きやすい天界がこの三十三天なのです。
とはいえ、帝釈天に生まれ変わるわけではないですよ。33カ国ある中の、どこかの国の住人として生まれ変わるのです。天界の住人・・・・天人・・・・になるのですね。いきなり、帝釈天の国である善見城天に生まれ変わることは少ないようですね。そこは、三十三天のうちの他の国からの生まれ変わりが多いようです。おそらく、そこには段階があるのでしょう。最も上が帝釈天の善見城天なのでしょう。で、順位があるのだと思われます。
33カ国もあると、いろんな世界があります。音楽で徳を積んだ者が生まれ変わる「音楽天」。智慧のある者が生まれ変わる「智慧天」。善い行いをした者が生まれ変わる「上行天」など、職業によって生まれ変わる国が異なったりします。大衆のために尽くした者はそれにあった国に、職人で人々のために尽くした者はそうした国に生まれ変わっていくのですね。ですから、意外とこの三十三天に生まれ変わるのは容易なんですよ。己の職業において真面目に励み、それが間接的であれ、直接的であれ、人々のためになっており、日常、悪い行いをしなければ、死後三十三天へ行くことは可能なのですよ。三十三天、目指してみるのもいいかもしれませんね・・・。
えっ?、帝釈天の奥さんになりたい?。う〜ん、それにはまず美しさがないと・・・・。身も心も美しくないと、帝釈天は振り向きませんよ。ま、頑張ってみてください。帝釈天の妃までとはいいませんが、他の国の王妃にはなれるかもしれませんからね。
なお、三十三天の住人の寿命は、3600万歳だそうです。長すぎ・・・・ともいえるかも。しかし、寿命を全うするかどうかは、わかりませんからね。途中でどうにかなる場合もありますから。そのことは、次回にお話しましょう。


3、夜摩天
やまてん、と読みます。夜摩とは、閻魔様のことです。閻魔様は、サンスクリット語で「ヤマ」といいます。それを音写したのが、閻魔です。
ヤマは、人類第一号の死者でした。死の世界に初めて入った人間がヤマだったのです。ヤマは、一人、暗い道を歩いていきました。ふと気がつくと、すばらしい世界にたどり着きました。いろいろな種類の実がなる木があり、美しい池があり、暑くもなく寒くもなく、なんとも言えず清々しい世界を見つけたのです。そこは楽園でした。そして、仏・菩薩の住まう場所だったのです。そこに住んでいた仏・菩薩は、
「ついに人間に見つかってしまった。この場所を汝に授けよう。汚したりせぬよう、守っていきなさい」
とヤマに告げ、どこかへ去っていってしまったのです。
こうして、初めての天界である夜摩天が誕生したのです。
閻魔様は、その職業上(死者の裁判を行なう裁判官)、怖い顔をしていますが、その実は非常に優しい顔をしています。どちらかというと、女性っぽいお顔です。で、本来の閻魔様は、この夜摩天・・・・自分の世界・・・・で、のんびりしているのです。死者に相対しているのは、自分の分身ですね。本体は、天界にいて、仏・菩薩に託された楽園を守っているのです。

さて、夜摩天は最初の天界です。そこは仏・菩薩が住まう楽園でもありました。なので、他の天界は、この夜摩天をモデルに造られていきました。ですから、どの天界もその様子はほぼ同じです。尤も、下天は門の役割なので、質素ではありますし、三十三天は国が33カ国もありますので、雑踏な感じはします。しかし、そこにある池だの、木々だの、食べ物だのは、夜摩天と同じものです。ですから、天界の生活スタイルは、夜摩天が基本なのです。なので、天人の生活については、どの天界でも同じです。ただ、仕事が違うだけです。下天ならば、ガードマン役もしくは四天王のパシリ。三十三天ならば、各国の住人で職業を持って生活している。夜摩天ならば、楽園を汚さないように清掃活動をしている・・・・。といった具合で、働きが異なるだけです。詳しくは、次回にお話します。
なお、この夜摩天の住人の寿命は、1億4400万歳です。


4、兜卒天
とそつてん、と読みます。都史多天(としたてん)ともいいます。この天界は、次の仏陀が住まう世界です。すなわち、現在は弥勒菩薩がこの天界に住んでいて、この天界に生まれ変わってきた者に教えを説いているのです。ですから、この天界に生まれ変われるものは、仏教について結構な知識がないといけません。つまり、正しく仏道を学んできたものが、この兜卒天に生まれ変わることができるのです。だからといって、お坊さんが全員、兜卒天に生まれ変わるか、といったら、そんなことはありません。何度もいうように、徳がなければ天界には来れませんからね。いくら修行したお坊さんでも、罪が多ければ地獄へ行ってしまいますから。むしろ、そのほうが多いでしょうし。
この兜卒天は、仏道を学んできたものの中で、徳があり、罪のないものが生まれ変われる天界です。従って、大変狭き門になっています。
弘法大師空海様は、「弥勒菩薩のもとへ行く」といって入定されました。ですので、真言宗のお坊さんは、兜卒天へ生まれ変わるのを理想としています。さて、何人いけたことやら・・・・。
なお、お大師様は、弥勒菩薩の手伝いをしにいったのであって、弥勒菩薩から教えを聞くために行ったのではありません。まあ、そういうこともありますけどね。もし、お大師様も弥勒菩薩の教えを学ぶために兜卒天を目指したのなら、兜卒天へ生まれ変われる条件は、いきなりハードルが高くなってしまいますからね。お大師様ほどの人間が兜卒天なら、一般ピープルには天界は無理になってしまいます。お大師様は、弥勒菩薩のお手伝いをしているのですよ。

さて、正しい仏教をよく学んで、正しい生活を心掛けていれば、弥勒菩薩の下へ生まれ変わることができるかもしれません。まあ、まずは、仏教を学びたい、という気持ちが大切ですね。
なお、ここでの生活は、修行三昧です。教えを聞くことがすべてです。
ちなみに、その寿命は5億6700万歳です。もうここまで来ると、想像がつかない数字になりますね。

この上の天界は、あまりなじみのない世界になります。なので、省略します。次の次あたりで、その他の天界と題しまして、お話しする予定ではあります。天人といえども、天界ばかりが住まいとは限りませんので(魔界という場合もある)、そのあたりもお話しする予定です。
なので、今回はここまでにして、次回は天界での生活についてお話しいたします。合掌。
次回予告「E天界の世界 その2  天界での生活」


41回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その二 天界での生活1
今回は、天界での生活についてお話いたします。とはいえ、天界といってもたくさんあります。どの天界の生活がいいのか・・・。そこで、みなさんが最も行きやすい天界であるトウリ天・三十三天での生活を紹介いたしましょう。最も人間界に近いですから理解しやすいでしょうし、一番行きやすい(生まれ変わりやすい)場所ですからね。
では、あなたがトウリ天のある国に生まれ変わったと思って読み進めてください。

−−天界での生活−−

1、誕生、子供時代
あなたは、現世において亡くなりました。49日の間、7回の裁判を受け、ついに生まれ変わる先が決まります。あなたは、六つの扉の中から一つを選びます。選んだ先は・・・・。おめでとうございます、トウリ天でした。
あなたは蓮の花の中に入っています。すやすやと眠っている赤ちゃんです。性別は・・・どっちでもいいですね。男でも女でもいいです。
あなたが眠っている蓮の花は、ある夫婦の家に届けられました。その家の夫婦は、ふと目覚めると、寝室に大きな蓮の花が置いてあることに気付くのです。
「あぁ、やっと念願の蓮が届いた。さぁ、花よ、開いておくれ・・・。」
その夫婦はそう願うでしょう。その願いを聞き届け、蓮の花は徐々に開いていきます。その中には、あなたが生まれ変わった赤ちゃんが眠っているのです。こうして、あなたはトウリ天に誕生したのです・・・・。

実は、天界での誕生や子供時代については、あまり詳しくは説かれていないようなのです。人間界と同じように誕生する、という程度にしか考えられていなかったようなのです。しかし、一説に、極楽浄土のように蓮の花から誕生する、というものがあるのだそうです。極楽浄土では、極楽に生まれ変わったものは蓮の花から生まれる、と決まっています。ただし、生まれてくるのは赤ちゃんではなく、成人です。しかも性別はありません。男でも女でもないのです。
ところが、天界は、まだまだ欲がある世界です。輪廻の世界です。ですので、性別もありますし、恋愛や結婚もあります。そのあたりは、人間界と同じと思っていただいて結構です。ただ、子供は蓮の花が届けられる・・・・ようですね。こういう説もあるのです。人間界と同じような誕生・・・・よりも、蓮の花が届けられる、という方が天界らしいですしね。ですので、ここでは蓮の花からの誕生という説を採用しておきます。
ひょっとしたら、桃太郎の話も、こうしたことが影響したのかもしれません。蓮の花が桃になった・・・のかもしれません。あくまでも想像ですが・・・・。

ともかく、あなたはトウリ天に無事生まれ変わることができました。かわいい赤ちゃんです。その赤ちゃんは、すくすくと成長していきます。どうやら成長のスピードは人間界よりも速いようです。あなたは、そう人間界で言えば15歳くらいの年齢に達しています。
天界は寿命が大変長いところです。何万年、何十万年、何億年・・・という単位です。ただし、それはその天界の王の寿命です。たとえば、下天なら寿命は900万歳ですが、それは四天王の寿命であって、そこへ生まれ変わったものの寿命ではありません。トウリ天も同じです。トウリ天ではその寿命は3600万歳ですが、それは帝釈天などの国王や王妃などであって、一般の住民はそんなに長くはありません。それについては後ほど詳しく述べます。
それでも、人間界よりは長い寿命を持っています。しかし、赤ちゃんは急速に成長します。なぜなら、天界では、一番働ける時代、人間で言えば15歳くらいからが長いのです。つまり、青春時代が長く続くのですよ。従って、子供時代は大変短いんですね。
これは、楽しみが大変多い、ということです。天界にはあまり悩みがありません。ですので、思春期の悩みと言うものもありません。楽しみのみなのです。
しかも、天界にはブスとかブサイクとか、デブとかガリガリとか、外見的に劣る、ということはありません。すべていい男であり、いい女であるのです。もちろん、好みがありますから、多少の差はありますが、外見で嫌われるとか悪口を言われる、とか言うことはないのですよ。みな、美しく輝いているのです。一応はね。
一応・・・といったのは、せっかく美しく輝いて生まれ変わったのに、それが劣っていってしまう場合があるからです。それについては、後ほどお話いたします。

ともかく、あなたは輝ける青春時代に突入したのです。天界での青春です。こうして、あなたも天界の住人の一人になったのです・・・。
ちなみに、天界での赤ちゃんからの成長は急速ですので、親は赤ちゃんを育てることは必要ありません。勝手に育ちますからね。


2、衣食住
衣装は心配いりません。天界の住人は、何も着ていないからです。といっても、ヌードの状態ではありません。隠すべきところは隠されています。というのは、天界での衣装は、身体にくっついているのですよ。うまくいえませんねぇ・・・。
皮膚が衣装になっているのです。あるいは、体毛・・・かもしれませんが。そうですね、きれいな南国の鳥を思い出してください。鳥は羽毛に覆われているでしょ。その羽毛は色とりどりで美しいですよね。それと同じように、天界の住人も身体を覆う皮膚のようなものがあって、それが色とりどりの洋服のようなものになっているのです。ですので、服を着る必要はないのです。
また、服のデザインは自由です。成長すると共に様々な神通力がついていきますから、服も自由に色やデザインを変えることができるんです。さぁ、あなたも好きなデザイン、好きな色の身体で出かけましょう。

食べ物ですが、これは天界初心者とベテランでは異なってきます。
基本的に天界では食べたいものが食べられます。食のために働く必要はありません。何が食べたくなっても食べることはできます。天界には自然の中に美味の食べ物がいっぱいあるからです。
たとえば、あなたはおなかが減って何かが食べたい、と思ったとします。そう思ったなら、あなたは美しい公園に行きます。そうした公園はどこにでもあります。公園の中には、いろいろな食べ物が実となっている木がたくさん生えているのです。あなたは、その木の実をとって食べるだけなのです。
ただし、これは天界に生まれ変わって間もない天界初心者にとっては、ほんのおやつ程度の栄養しかありません。また、いくら食べてもすぐにおなかが減ってしまいます。そうした木の実で生きていけるのは、天界のベテランのみです。
では、初心者とベテランはどの程度の年数で差が出るのでしょうか?。
それは、人間界での年数でいえば、50年です。つまり、亡くなった方の五十回忌が終わると、ベテランの領域に入れてもらえるんですね。そうなれば、天界の食べ物で栄養が十分に取れるようになるのです。
ところが、人間界で50年に満たない場合は、天界での食べ物では栄養は取れないのです。それだけを食べていては、早くに寿命が来てしまうのです。

では、天界初心者は何を栄養にするのでしょうか?。
それは、人間界から送られてくる供養の功徳なのです。

あなたは亡くなって、天界に生まれ変わりました。それは、人間界ではあなたが亡くなって四十九日目のできごとです。人間界では、あなたの子孫や縁者があなたの供養をしてくれていることでしょう。その供養の功徳が、天界にいるあなたに届くのです。
天界にいるあなたは、くたびれてきます。
「あぁ、疲れたなぁ・・・。どうしたらいいんだ。さっき、木の実を食べたけど・・・・美味しいには美味しいんだけど、物足りないなぁ・・・。」
そんな時、人間界からあなたの子孫の供養の功徳が届くのです。すると、
「おやおや、おぉ、子孫が供養をしてくれたぞ。あぁ、蘇る・・・。元気ハツラツだ。さぁて、遊びに行くか〜。」
となるのですよ。
ここで、供養が届かないとどうなるか・・・・。答えは簡単ですよね。栄養不足、飢餓の状態です。となると、寿命も短くなり、死が近付いてくるのです・・・・。

これが、天界での食生活なんですよ。天界でベテランの領域に入ってきたら、たまにしか届かない供養の功徳でも十分になるし、天界にある食べ物で十分な栄養が取れるようになるのです。そこに至るまでには、人間界で50年の年数がかかるのですよ。人間界で、
「五十回忌が終わったら、先祖の仲間入り・・・」
というのは、このことからなのです。

住ですが、これも心配いりません。まだ青年・少女時代であるあなたは、とりありあえず、天界の親の家に住んでいます。しかし、家を出たい、自分の家が欲しいと願えば、あなたの神通力の度合いによって家が手に入ります。家の大きさも快適さも、あなたの神通力によります。神通力がまだまだ・・・・という場合は、親元にいればいいのです。そこでも、十分快適でしょうからね。間違っても、人間界のように、ましてや日本の都会のようなウサギ小屋・・・ということは有り得ませんからね。

ところで、神通力次第・・・といいましたが、これが次の項目で説明することなのです。そう、天界で「やること」に関ってくるのです。


3、仕事と楽しみ、修行
天界ですることは、修行が主です。その修行とは、仏教の修行です。その中でも、神通力を身につけることは重要です。あなたは、天界に生まれ変わったら、まず神通力を身につける修行をしなければなりません。
そうですね、まずは天界を自由に動き回れる力を身につけましょう。あなたはトウリ天に生まれ変わっていますから、そのトウリ天内を自由に動き回れるようにならなければなりません。初めは生まれた家の周辺だけです。力が段々ついてくれば、トウリ天のいろいろな国を廻れるようになります。もっと力がつけば、他の天界・・・下は下天、上はヤマ天など・・・を訪問することもできましょう。まあ、それには相当な修行が必要でしょうけどね。とりあえずは、家の周辺だけでなく、自分の生まれた国中くらいは動き回りたいですね。

次に、現世を見通す力を身につけましょう。自分の子孫の様子を見る力ですね。子孫がちゃんと供養してくれるかどうかを見ることができる力です。その力が強くなってくれば、子孫を守ることができるようになってきます。つまり、守護霊になれるわけです。

次は、先祖がどこに生まれ変わっているかを見る力を身につけます。それが身につけば、自分の親に会うことができます。生まれ変わった親、ですけどね。姿かたちは変わっているでしょうけど、魂が呼応するのでわかるのですよ。その力が強くなればなるほど、先祖をたどることができるのです。

次に、空中を飛ぶ力を身につけましょう。さらに修行を重ねれば、瞬間移動の力も身につけることができます。これが身につけば、トウリ天内は自由に飛んでいけるし、瞬間移動の力がつけば、人間界にも他の天界にも自由に行き来できます。

次に、分身の術を身につけます。これができるようになれば、本体を天界において、分身を人間界に送り込むことができます。何のためにそんなことをするのかといいますと、もちろん子孫を守護するためです。分身の術が一人しかできない場合は、一人の守護霊となります。たくさん分身を作ることができるようになれば、多くの子孫の守護霊となれるでしょう。

次に、先行きを見通す力・・・予知の力を身につけましょう。これができるようになれば、子孫を危なくない、安全なほうへと導くことができます。しかし、この神通力はなかなか難しいものがありますので、相当な時間とエネルギーが必要となります。それこそ、子孫の供養次第でしょうね。

さて、以上があなたが天界ですべき事柄です。これらの神通力を平均的に全部身につけるか、一つずつ身につけるかは自由ですが、どの神通力修行も大変なエネルギーを使用します。ですので、しっかりと子孫はエネルギー供給をしなければなりません。つまり、供養をすることです。供養がなければ、折角天界に生まれ変わっても、修行ができず、ただただ衰えていくのを待っているしかありません。
供養があれば、神通力修行にも励めますし、ましてや楽しみがたくさんあります。とくに、天界では若い時代が長いですから、恋愛も自由にできるのです。若さを誇れるのですよ。若さを堪能できるのです。これこそが、天界の醍醐味なんですよね。
そう、天界は自由恋愛なのです。大いに恋愛を楽しんでください。

が、しかし、仏教の修行も忘れてはいけません。天界での仏教の修行は、戒律的なことよりも、精神的なことに重点が置かれます。つまり、まずは「空を悟る」ことでしょう。そこから次第に、「菩薩の教え」にはいり、「方便」を学び、最終的には「仏になる・・・成仏」を目指すのです。
戒律的なことは、あまり重視されません。なぜなら、欲するものはたいていは手に入るので、盗むこともないし、殺生することもありません。自由恋愛なので邪淫もありません(あまりひどい場合は罰が下ります)。他者と比較しても劣ることがほとんどないので悪口はないでしょう。快適な世界なので、くだらないことを言うものもいなければ、騙すことも、人を仲たがいさせることもありません。けんかもすることはないし、何か手に入らなくてイライラする事もありません。妬みもうらみもないのです。なので、戒律的なことは問題視されないのです。
そもそも、人間界において、正しい生活をしてきたものが天界に来れるのです。ですので、戒律は常識として自然に身についています。ですので、とやかくうるさく言う必要はないのですよ。
なので、ここでの仏教の修行は、精神的なことになるのです、本格的に覚りと菩薩行について修行するのです。これをサボって恋愛ばかりしていると、帝釈天様に怒られますよ。そうなると、最悪の場合、天界追放・・・も有り得ます。ご注意くださいね。


さて、あと残り、「結婚」についてと、「衰え、病気、死」についてお話しようと思いましたが、今回はここまでにしておきます。上の方で「後ほど・・・」といったことは、「次回に・・・」に訂正させていただきます。
残念ですが、今回はここまでにして、続きは次回にお話いたします。合掌。
次回予告「E天界の世界 その2  天界での生活2」



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