お気楽!!

仏教講座

バックナンバー9

42回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その二 天界での生活2
−−天界での生活 その2−−

4、結婚
ある程度の神通力も身についたなら、天界でも一人前・・・までは行かないかもしれませんが、認められる存在になります。神通力を使って、自分の住まう世界を自由に飛びまわれます。そうしたときに、上空から美しい天女を見つけるかもしれません。あるいは、あなたが天界の花園を散歩中に同じ天界の住人から声をかけられるかも知れません。
あなたが天界で女性に生まれ変わっているとしたら、ひょっとしたらその天界の神の妃に・・・・と声をかけられるかもしれません。そういうこともあり得るのです。
たとえば・・・・。
あなたはトウリ天に生まれ変わっていましたよね。そういう設定で話を進めてきました。
あなたは美しい女性に生まれ変わっていました。美しい人ばかりいる天界でもあなたは一際目立っていました。ある日のこと、あなたが蓮池のまわりを散歩していると、帝釈天がやってきました。あなたはすぐさま跪き、帝釈天に挨拶をします。帝釈天はそんなあなたに語りかけます。
「あぁ、よいよい、顔を上げなさい。美しいあなたの顔を見せておくれ。そうじゃそうじゃ・・・。名はなんという?。・・・ふむ、そうか、そうか。天界は今回が初めてか?。ほう、初めてこの世界へ生まれ変わってきたのか。それにしては美しいのう。さぞや前世において徳を積んだことであろう。また、あなたの子孫は、仏教を信じ、仏事を怠らぬと見える。
ところで・・・・じゃ。どうじゃな、わしの夫人にならぬか?。あなたも知っていようが、わしには多くの妻がいる。その中の一人にならぬか?。第18夫人・・・ではあるがな、不自由はさせない。今あなたが住んでいる家よりもすばらしいぞ。神通力もより強く使えるようになる。子孫にもよい影響を与えることができる。トウリ天の中心に存在する、わしの住まい善見城(ぜんけんじょう)へ来ないか?。どうじゃ・・・。」
つまり、ナンパですね。
帝釈天の妻ともなれば、トウリ天では優遇されること間違いなし、です。たとえ、第○十夫人であろうとも、関係はありません。一気に徳のレベルは上がって、子孫へもすばらしい影響を与えることでしょう。
尤も、帝釈天の妻という座に甘えて、己を磨くことを忘れたり、子孫が裕福になり仏事を疎かにするようになれば、あっという間に善見城を追い出されることになってしまいますけどね。たとえ第○十夫人といえども、その地位を維持することは疎かにしてはなりません。子孫に神通力を使って、仏事を怠らぬよう、注意をする必要はあります。
美しさを維持することができれば、○千万歳、という寿命も確保できることでしょう。
天界には、こういう幸運も転がっているのです。

あなたが男性の場合は、帝釈天の妃になるチャンスはありません。その代わりといってはなんですが、帝釈天の城以外の国・・・・トウリ天には33カ国ありましたから、帝釈天の国を除けば残り32カ国となります・・・・の王となれるチャンスはあるのですよ。
たとえば、あなたはトウリ天に男性として生まれ変わってきました。赤ん坊から成長するや否や、神通力をあっという間にマスターし、人望もあり、頭もよく、仏教を理解し、他の天界の住人に教えを説くほどの力量の持ち主でした。真面目で、品行方正、見栄えもよく、力も強い・・・・。
そんなあるとき、トウリ天の中にある、とある国の王が寿命を迎えようとしていました。その王の子は、なぜか神通力もうまく使えず、人望もなく、身体も弱く、この先が危ぶまれています。折角、国王の息子として生まれ変わったのに、どうやらその子孫が供養を怠ったのでしょう。自分の徳のみで国王の息子という地位を維持しているような状態でした。ですので、現国王は、息子に国を託すことをためらっていたのです。かといって、第2夫人の息子もよくはない。最後の神通力を使って自分の国を眺めてみると・・・・おぉ、すばらしい人物が生まれ変わってきてるではないですか。
「よぉし、このものにわしの国を任せよう。」
そういって、寿命を迎えた国王は、人気も実力も抜群のあなたを養子に迎えます。やがて、安心したのか国王は亡くなります。あなたは跡を継いで国王となったのです・・・・・。
というような幸運も転がっているのですよ。ま、すべては徳次第、子孫の供養次第ですけどね。
しかし、一般的にはこのような幸運はありません。宝くじに当たるよりも難しいことでしょう。

天界での一般の住人であるあなたは、あなたの好みの異性を選び、縁があれば結婚をすることになります。結婚生活は、人間と同様です。ただし、仕事は特にありませんし、修行に励んでいればいいのです。食べ物の心配も住まいの心配もありません。神通力さえあれば、大きな家にも住めますし、贅沢な暮らしができるのです。
そう、ここ天界では、神通力の強さ・うまさが、もてるポイントのようですね。
ちなみに、性生活は人間同様です。ただし、その快楽は人間が感じる快楽の何千倍だそうです。どんなものなのかは、よくわかりませんけどね・・・・。
また、神通力の度合いによっては、一夫多妻も可、です。その逆もありですね。多夫一妻です。恋愛も自由ですし、結婚も自由です。神通力次第で、奥さんや夫をたくさん持って構わないのですよ。
ですから、天界でもてたいのなら、まずは神通力を使いこなすことですね。しかし、神通力を身につけるための修行には莫大なエネルギーが必要です。前回もお話したように、天界の食べ物ではそのエネルギーは賄えません。子孫の供養の力が必要なのです。
しかし、快楽ばかりにかまけていてはいけませんよ。子孫の守護という重要な仕事もありますし、天界で何か仕事を命じられることもありえます。お城の警備とかね。あまり快楽ばかりに浸っていると、天界を追い出されることもあるかもしれませんので、ご注意ください。

さて、結婚をしたらお子さんですが、お子さんは前回の初めにお話した通り、夫婦で望めば、蓮が届きます。ただし、縁が熟したら、の話です。子供が欲しいと望んでも、すぐにやってくるとは限りません。縁があるものが人間界で死を迎えなければ、生まれ変わってくることはないのですから、あるいは、他の天界から上がってきたとか落ちてきたとかない限りは、あなたのもとに子供が届くことはありません。しかも、あなたやあなたの配偶者と縁があるものの生まれ変わりしか、あなたの元には届かないのですから、縁のある方の死を待つしかないのですよ。
でもね、大丈夫です。なんせ寿命が長いですからね。何十年待ったって、そんなに年を取ってませんから。それよりも、十分に恋愛を楽しんだら如何でしょうか?。早くに結婚する必要もないですからね。


5、衰え、病気、死
いくら天界といえども、輪廻の世界ですから寿命はやってきます。また、病気にもなりますし、年もとります。ただ、人間界よりも基本的寿命が長いので、人生を楽しめる時間は長いですけどね。
とはいえ、基本的寿命を待たずして、死を迎えてしまう場合もあります。それは、今までにも話の中に出てきましたが、エネルギーが届かない場合です。すなわち、子孫の供養が無い場合です。

あなたは生前の望みどおり天界に生まれ変わることができました。生まれ変わった天界はトウリ天です。帝釈天が治める天界です。全部で33カ国あるなかの端っこの方の国に生まれ変わることができたのです。トウリ天の中では、一番下のレベルの国・・・33番目の国でした。
それでも天界であることに変わりはありません。神通力も使えるようになれば、贅沢もできるようになります。順調にいけば、ですが・・・。
さて、人間界では、あなたのために供養が行なわれています。四十九日が過ぎてあなたはトウリ天に生まれ変わりました。次は百か日ですね。が、本来は、月命日があります。毎月あなたの命日にお坊さんがあなたの子孫の家にやってきて、お経をあげてくれるのです。つまり、毎月供養が行なわれるわけです。
ところが、最近では、四十九日が過ぎると、百か日までお坊さんが来ない場合が多いようです。下手をすると、一周期までご無沙汰、ということもあるようですね。
これではいけません。これでは天界に栄養が届きません。四十九日過ぎての供養があるなしで、天界ではこんな差がついているのです・・・・。

あなたがトウリ天の33番目の国に生まれ変わった日、同じくトウリ天の33番目の国に生まれ変わったものがいました。あなたはその人とすぐに知り合いになりました。
「君も僕と同じ日にこの国に来たんだね。」
「そうだよ、同じ日だよ。よかったよ、天界に生まれ変わることができて。」
「あぁ、よかったよな。ところで、おなかがすかないか?。」
「そうなんだ、なんだかこの頃、よくおなかがすくんだよ。神通力の練習をしなきゃいけないのに、力が出ないんだ。」
「吉祥果も食べたけど、まだ僕たち新米には不向きらしいよ。美味しいんだけど、力は出ないんだよね。」
「そうそう、なんとかならないのかなぁ・・・。」
「聞いた話なんだけど、僕たちの栄養になるのは、どうやら子孫の供養らしいんだよ。」
「え、そうなの?。それは困ったなぁ・・・・。僕の子孫はそんなに真面目に供養をするものじゃないからな。」
「うちもそうだよ。だからね、子孫に請求に行くんだって。」
「あぁ、神通力で?。」
「そうそう。でも、その神通力を使うと疲れるからね。程々に請求しないとね。」
「うん、わかった。情報ありがとう。」
こうして、あなたとあなたの友人は、子孫に供養の請求をしました。それから幾日かが過ぎました。
「どうだい、供養は来たかい?。」
あなたは友人に尋ねました。
「それが、まだなんだ。君は元気がいいね。供養してもらったんだね。」
「あぁ、どうやらね。最近のことだけど。おかげで、神通力の修行ができるよ。少しうまく使えるようになったんだ。」
「いいなぁ・・・・。僕ももう一回請求してみるよ。」
「うん、そのほうがいいよ。」
二人は別れ、あなたは神通力の修行に、友人は家へと戻っていきました。
それからまたまた幾日が過ぎた頃です。人間界では数ヶ月が過ぎていました。
「おい、どうしたんだ。ガリガリじゃないか。顔色も悪いし・・・、それになんだか臭うよ。肌のつやも悪いし、老け込んだよね。いったいどうしたというの?。」
「はぁ・・・・、子孫が・・・・、なかなか供養をしてくれんのじゃ・・・・。でな、いつの間にか、年をとってしまったんじゃ。うちの子孫は百か日も忘れてしまったようじゃ・・・・。あぁ、もうだめかもしれん。わしの命日まで何もないかも知れん。」
「命日までというと、一周忌まで?。それじゃあ、身がもたないだろう。」
「あぁ、天界での親に聞いたら、子孫次第だ、といわれた。お前の子孫への教育が悪いから、供養が届かないんだ、ともな・・・・。人間界にいるときに、よく言い聞かせてい置けばよかった。最近の坊主はサボってゼニを取ることばかり考えている。せめて、月命日くらいは供養をしてもらえ、とな・・・・。あぁ、苦しい、この苦しさは、人間界にいたときよりも苦しいかも知れん・・・・。」
その数日後、あなたは友人の姿を見かけなくなりました。そう、供養が届かないがために、天界での寿命が早くに来てしまったのです。あなたはその事実を知って、恐怖します。
「子孫をたえず見ていなきゃな。供養さえしてくれれば、子孫を守ることもできるのだ。僕が天界にいるうちはな。守ってもらいたければ、供養をし続けることだとわからせるようにしなければ・・・・。」
こうして、あなたは神通力を使って、いろいろなトラブルや慶事を子孫に起こし、あるいはいいお坊さんのもとへ導き、先祖供養の大切さを知らしめるのです。
天界での栄養源は、子孫の供養です。供養の功徳が天界でのエネルギーの元になるのです。なので、子孫が供養を怠れば、天界での寿命はあっという間にやってきてしまうのです。
天界は輪廻の世界です。永遠にいられる場所ではありません。いずれ、基本的に定められた寿命はやってきますが、その前に尽きることもあるのです。よくご注意ください。

なお、天界で寿命が近付いてきた場合は、大変わかりやすいです。寿命ですよ、という兆候が現れるからです。それは次のような兆候です。
@頭上の華しぼむ
天界に生まれ変わると、誰もが頭に花をつけます。頭の上に花の冠があるんですね。それは冠っているのではなく、頭から直接生えているのです。髪の毛の一種と思ってください。
その花がしぼみ始めたら、寿命が近付いてきた証拠です。花が枯れ始めるわけですね。花の色が悪くなったり、艶がなくなり、しょぼくなってきたら、いよいよ天界での寿命が尽きる頃なのです。

A腋下に汗いず
腋の下に大量に汗をかくようになります。したがって、汗臭くなります。まあ、一種のワキガのようなものでしょうか。止めようもなく、腋に汗をかくようになったら、天界での寿命は終わりを迎えるのです。

B衣裳垢膩す(いしょうこうじす)
天界では衣裳は着るものではありません。前回にお話したように、身体からはえているものです。というか、羽毛のようなものです。身体が自由に天衣に変化するのです。自分の好きなデザインに変化させることができるのです。
その衣裳・・・・すなわち皮膚ですね・・・・に垢や脂がついてくるんです。
膩という文字は、「あぶら」と読みます。汚い脂汗のことのようです。したがって、皮膚に垢や脂汗がたまって、汚くなってくるということですね。
天界の衣裳は着替えることはできません。神通力でデザインを変えることはできますが。洗濯することもできません。神通力できれいにすることはできますが。
ということは、垢や脂汗が溜まってくる、というのは、神通力がうまく使えなくなってきている、ということを示しているわけです。
神通力で衣裳の管理ができなくなってきたら寿命が近い・・・・・ということなのです。

C身威光を失す
これもBと同様です。天界の住人は、なんとなく光り輝いて見えるのです。それは、神通力の源のエネルギーが身体を覆っているからです。いわば、オーラと同じようなものでしょう。そのオーラが、実際の目に見えているのです。だから、身体が光り輝いて見えるわけです。
寿命が近付くと、そのオーラが失われてくるのです。身体を包んでいたエネルギーの源がなくなってくるのです。ですから、次第に神通力も使えなくなってきます。
身体の輝きが失われたら、寿命が近付いた証拠です。

D本座を楽しまず
本座というのは、いわば居場所のことでしょう。すなわち、居場所がなくなる、ということです。なんとなく落ち着かず、どこにいても不安で、うろうろしてしまう。あるいは、同じ天界の住人から邪魔者扱いされるようになる。そうしたことがあれば、寿命が近いのかな、というサインですね。
頭の上の花がしぼみ、体臭がひどくなり、汚い身なりをし、輝きが失われた人物はやはり相手にはされないでしょう。人間界でも、汚い・臭い人は避けられますよね。それと同じです。
@〜Cの状態が現れ、他の天界の住人が自分のことを避け始めたら、いよいよ寿命の尽きるときがくるのです。

以上を「天人五衰(てんにんごすい)」といいます。この五衰の状態が現れたら、もう天界での命は終わりです。さて、次はどこに生まれ変わるのか・・・・。それは、天界での過ごし方によります。快楽を貪り、神通力で遊んでばかりいたものは地獄が待っているかもしれません。快楽は楽しんだが、同じように仏道も学んだ、仏教の修行もした、という方は上の天界にいけるかもしれません。トウリ天の33番目の国に生まれ変わったものは、もう一つ上の32番目の国か、数段階飛び越えて28番目の国に生まれ変わるかもしれません。いずれにせよ、人間界と同様、その世界での過ごし方が次の生まれ変わり先を決めるのです。
ちなみに、生まれ変わり先を決めるのは、やはり自分だそうです。六つの扉があって、その中の一つを選ぶのです。どこへ行くかは、自分の行為や徳次第ですね。

また、天界での死は、人間界での死よりも苦しいそうです。一説には、地獄の苦しみの16倍、ともいわれています。それは、快楽の世界にあったものが、死を迎える苦しみの度合いを表しているのでしょう。
簡単にいえば、大金持ちがあっという間に無一文になってしまうようなものです。初めからお金なんてあまり持っていなければ、無一文になってもそんなに苦しくはないでしょう。しかし、昨日まで大きな御殿に住み、大勢の手伝いを雇い、贅沢三昧していたものが、今日は無一文・・・・になったら耐えられないでしょう。住むところもなく、食事を作ってくれるものもなく、ものを買うこともできなくなり、居場所もなくなってしまう・・・・。耐えられないでしょうね。
それと同じように、天界での死は、快楽を貪った分だけ、苦しみとして反映されるのです。贅沢であればるほど苦しみは増大するのですよ。
まあ、それを心得て、天界に生まれ変わったとしても、贅沢を慎み、仏道修行に励めば、苦しくない死を迎え、再び天界へと戻ってこれるでしょう。長く長く天界にいたいのなら、上手に快楽を味わうことですね。決して溺れることなく。


43回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その三 いろいろな天界
今回は、第40回(バックナンバー8)にお話した、いろいろな天界の紹介の続きになります。40回のときには、代表的な天界・・・・下天〜兜卒天まで・・・しか紹介をしませんでした。ここでは、その他の天界についてもお話いたします。もちろん、その中には魔界というものもあります。
まずは、兜卒天の上です。

@楽変化天(らくへんげてん)
あまりなじみのない天界です。文字からすると、楽しいところなのかな、とも思いますよね。まあ、天界ですから、楽しい場所ではあるのですが。
ここは、別名「化楽天(けらくてん)」ともいいます。某ネット会社が化けたものではないですよ。ひょっとして、彼の会社は、ここから名前を取ったのでしょうかねぇ?。
ま、それはいいのですが、この天界はどういうところかといいますと、
「この天界に生まれ変わったものは、自ら妙楽の境地を作り出して楽しむ。自ら楽しめる環境を作り出し娯楽し、寿命を保つところ」
なのだそうです。(参考:仏教語大辞典 東京書籍)
つまり、楽変化天に生まれ変わったものは、自分で自分が楽しめる環境を作って、その中で思いっきり楽しんでしまう、という、そういう天界なのですよ。
なんだか、TVゲームにそういうものがあったような・・・。シュミレーションですか。自分で街や村を作ったり、遊園地を作ったり、娯楽施設を作ったりしてその中で楽しむ、というようなゲームですよね。それの実際版、だと思ってくださればわかりやすいでしょう。
ちなみに、ここにも王に当たる神がいます。それが、そのまま天界の名前になっています。すなわち、この天の王は「楽変化天」という名の神なのです。寿命は、23億400万年だそうです。ただし、これは王の寿命であって、他の住人は異なりますが・・・。

A他化自在天(たけじざいてん)
実は、ここ、もと魔界なのです。天魔界と呼ばれ、天魔界の中では代表的な天界です。
天と魔というのは、矛盾していますよね。日本人はそう考えると思います。天は善いところ、善の世界、善なる神々が住まう世界・・・・そう思いますよね。で、魔界は悪い世界、悪魔の世界、人間に害をなす悪魔が住まう世界・・・・ですよね、普通は。その魔界が、天にある・・・。それっておかしいと思いませんか?。普通は、魔界は地下深くとか、どこかの山奥とか、暗い暗い恐ろしいところにある・・・・と思いますよね。まさか、魔界が天界の一部なんて!、日本人は理解できないでしょう。
ところがインドはそうではありません。魔神、すなわち悪い神でも、神である以上、天界に住んでいる、と考えたのです。また、悪い神であろうと、神であるのですから祀り讃えるのですよ。インド人は、魔を神と同列と考えたようですね。悪魔も神の一種と理解したのです。
ですので、魔界も天界の一部なのですよ。その代表格といえるのが、この「他化自在天」なのです。

この天が何ゆえに魔界なのか。それは、他化自在天という神の働きによります。この神は、修行者を誘惑したり邪魔をしたりするのが好きな神なのです。また、人間が善いことをしようとすると邪魔をしたりするのが、何よりの喜びであるという神なのです。
そもそも、他化自在天は、人間の欲が満たされた時の快感を糧としている神なのです。特に、人間が性的快感を得たとき、大いなる喜びを感じるのです。ですから、人間が欲深くなっていくのが何よりの楽しみであり、何よりの好物であるのです。人間が欲深くなり、その欲が満たされ、満足した気持ちを食事としているのですからね。
欲深い人間は、とかく犯罪を起こしやすくなります。自分の欲を満足するため、他を排除したり、不幸にしたりしますからね。ということは、他化自在天が喜ぶときというのは、人間が己の欲求のみに生きるときでもあるのです。これはどう見ても魔でしょ。人間が荒廃することを喜びとしているのですからね。他化自在天という神は、そういう神なのです。ですから、他化自在天は、本来は「悪魔」なのです。
一説によりますと、お釈迦様が覚りを得たときに降伏された悪魔パーピマンが、この他化自在天である、といわれております。あるいは、魔王であるパーピマンの配下の一人であったともいわれております。いずれにせよ悪魔であったわけです。
その悪魔が、天界に住んでいるのですよ。それは、お釈迦様に降伏され、心を入れ替えたため、天界に住まうことを許された・・・・らしいのです。あるいは、魔界を天界の位置に置いてもよい、今後は天界としてよい、とされたらしいのです。ちなみに、魔王であるパーピマンは、最後まで抵抗したため地下へ落とされた、のだそうです。
以来、他化自在天は、人間界にちょっかいをだすことなく、人間が喜ぶことを喜びとするようになったのです。自分の欲求が満たされたときでなく、何かいいことをして満足したときの喜びを糧としているのです。いいことをすると、なぜか嬉しい気持ちになるでしょ。その気持ちを食事とするようになったのですよ。
ですので、今ではおとなしくしています。たまに、人間たちが愛し合い満足しあう、その気持ちを食べていることもあるようですが・・・・・。(仏像がわかるバックナンバー7を参照してください。)

他化自在天のほかにも、天魔と呼ばれる魔界の神々はいるんですよ。そうした神々は、後ほどまとめてお話しましょう。
なお、以上、40回目の話と合わせて、下天〜他化自在天までが、欲界の天界です。(天界には、欲界・色界・無色界の三種がある。バックナンバー8の第39回を参照してください)。

欲界の上、色界の天界は、梵衆天(ぼんしゅてん)から始まり、色究竟天(しきくきょうてん)の17の世界からなっています。ここからは、欲望がほぼない世界です。なお、色界は四つの精神的段階に分かれています。そのことを禅天といいます。瞑想の深さによってレベルが分かれているんですよ。下から見て行きましょう。
@梵衆天、A梵輔天(ぼんぽてん)、B大梵天は、梵天が治める世界です。梵天は、宇宙を造り続けている神です。インド古来の呼び方で言えば、ブラフマンです。
梵天には、普通の梵天から大梵天までがおります。大梵天が一番偉いんですね。いわば、梵天族とでもいいましょうか。その長が大梵天ですね。
この梵天族が治める天界は、第一禅天です。色界では浅い精神レベルですね。

C少光天・・・ここから第二禅天となります。とはいえ、いまだ光明を放つことが少ないので、この名前があります。
D無量光天・・・ここに至ると身体から無量の光が放たれるようになるので、この名前があります。
E極光浄天・・・清らかな光が遍く天界を照らすため、この名前があります。

F少浄天(しょうじょうてん)・・・ここから第三禅天となります。浄とは、精神的清浄なる快楽のことです。
この天は、意識に浄妙の楽を受けることから浄という名があります。しかし、第三禅天では最も浄が少ないので、少がつきます。
G無量浄天・・・はかり知れない清らかさがあるため、この名前があります。
H遍浄天・・・浄が遍く行き渡っているので、この名前があります。

I無雲天・・・これより第四禅天となります。雲とは、神々の密集した状態を意味しています。ですので、これより上の天界では、神々が密集していない、神々の数が少ないのです。その初めの天界なので、無雲という名前があるのです。
J福生天・・・すぐれた福をつくった凡夫が生まれ変わるところ、なのでこの名前があります。
K広果天・・・凡夫の得る果報のうちで最も勝れた人の生まれるところなので、この名前があります。
L無煩天(むぼんてん)・・・欲界で味わう苦も、色界での楽も、ともに離れて、煩わしさがない世界です。
M無熱天・・・何のよりどころもなく清涼であって苦しむものがない世界です。
N善現天・・・禅定の徳が現れているのでこのような名前があります。
O善見天・・・見るという働きが、清涼で微細であるため、この名前があります。
P色究竟天・・・この上には、物質的な領域がないので、この名前があります。すなわち、究極的な色界、色界の畢竟である、という意味ですね。

なお、梵天が治める天界以上の天界の神々の名前は不明です。神々がいることは間違いはありません。きっとどこかに名前があるとは思いますが、手元の資料にはその名前はないので、神々の名前はわかりません。ご了承ください。
ただし、色究竟天の神の名前はわかっています。それは大自在天です。
大自在天は、インド古来の神シヴァのことです。シヴァは暴君の神、破壊と再生の神として古代インドで祀られていました。しかし、その目に余る行いを大日如来が嘆き悲しみ、降三世明王に降伏を命じます。降三世明王は、瞬く間にシヴァ神とその妻であるウマを降伏してしまいます。そして、二度と暴れないように踏み続けているのです。ですので、降三世明王の像は、シヴァ神とウマを踏んづけた姿で造られたり描かれたりするのです。

それ以来、暴神であったシヴァは、妻と共におとなしくなり、究極の覚りを求めるため、修行しているのです。インドの神々の中で、最も暴れん坊であり、最も力を持っていたため、降伏されると最も上の天界へ行くことができたのですね。
これって、すごく密教的ですよね。大きな破壊の力があるのなら、大きな再生の力もあるはずです。ならば、破壊をやめ、再生の力のみを発揮すれば、その功徳は甚大です。破壊のエネルギーも功徳を積むほうへと向ければ、さらにその力は増大しますよね。なので、大自在天となったシヴァ神は、色界の最上位にあるのです。
大自在天も、もともとは天魔だったわけです。

さて、色界の上の天界は、無色界といわれる世界です。色界までは肉体が存在していましたが、無色界になると肉体は存在せず、精神のみの世界となります。いわば魂だけの世界ですね。そこには、その魂のレベルによって四つの段階に分かれています(参考:バックナンバー8の第39回)。最上位は有頂天といわれています。有頂天を最上位として、天界は終わっています。これ以上の天界はありません。
無色界は魂だけ、精神のみの世界ですが、いまだ覚りは得ていません。ですので、寿命があります。魂だけになっても寿命があるのですよ。もちろん、その長さははかり知れない長さ・・・劫という単位・・・になってしまうので、考えるだけ虚しいのですが、それでも寿命があることだけは間違いないのです。
究極の天界である無色界は、魂だけとなっているのにも関らず寿命がある・・・・。これって、虚しいですよね。そこまでいけるのなら、覚りの世界までいけるでしょう。ですので、有頂天には行かない方がいいのですよ。有頂天にはなるな、ということですよね。
そこまでいけるなら、慈悲心を持てば、もう菩薩界は目の前ですからね。輪廻から脱出した世界は目の前なんですから。
いくら天界といっても、無色界は目指さないほうがいいですね。ここまでくると、かえって覚りにくいでしょうから。肉体もなく、ほとんどの欲望もなく、ただただ魂として天界を漂っている・・・・。つまらないですよね。まあ、こここそが、魂の根源、魂のふるさとではあるのですが・・・・。
そう、無色界は、輪廻しながら次第に清浄にされた魂が最終的に行き着くところなのです。如来や菩薩にはなれないけれど、ほとんどそこに近い存在となった魂が行くところなのです。ここまでくれば、人間界や他の天界には無関心になります。子孫に影響を与えるとか、守護霊になるとかはありません。
あなたのご先祖のなかにも、一人や二人は、この無色界に行っている方がいるかもしれません。おそらく、その方は、ふる〜いふる〜いご先祖でしょうけどね。

え〜、他の天魔界の神々についても話をしようと思いましたが、それは次回に廻します。次回は、「天魔界の神と、その他の神々」についいてお話いたします。
合掌。

次回予告「E天界の世界 その4  天魔界の神々と、その他の神々」


44回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その4 魔神から善神へ
天魔界という世界は、本来は、他化自在天の世界を言います。しかし、広い意味で言えば、魔界から神へと転じた魔神の世界も含みます。つまり、
「元は魔界だったが、その世界の王が心を入れ替え、天界の神になった」
こうした神々は、実は大変多くいます。前回お話した他化自在天はその代表者ですし、大自在天もその仲間ですよね。
元は悪魔・魔神、今は善神・・・・。
このような神々は、仏教、特に密教には数多く存在するのです。今回は、そのことについてお話いたしましょう。(前回の予告とサブタイトルが変わっています。ご了承ください。内容的には同じですから。)

密教には、その教えを象徴する絵画があります。曼荼羅(まんだら)がそれです。曼荼羅には、大きく分けて金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)があります。一般的に金剛界曼荼羅は智慧を表し、胎蔵界曼荼羅は慈悲を表している、などといわれています。このことについて解説すると、話がそれますので、曼荼羅についてはまたの機会にお話しいたしますが、その胎蔵界曼荼羅にもと魔神が多く描かれているんですよ。
胎蔵界曼荼羅には、外金剛部(げこんごうぶ)という世界が描かれています。絵図の最も外側の部分です。そこは、如来や菩薩の世界ではなく、天部の神々の世界です。そこに描かれている神々は、多くは善神(ぜんじん)です。四天王や帝釈天、梵天、弁財天などの、元より善い神であった善神が中心となって描かれています。
が、その中に混ざって、元魔神も描かれているのです。その代表的な神々を紹介いたしましょう。なお、外金剛部は東西南北に分かれています。東から順に見ていきます。

*東側
ここでの中心的な神は、なんと言っても帝釈天でしょう。帝釈天は、ワガママな神ではありますが、もと魔神ではありません。善神の仲間です。そのほかに、ここに描かれている善神は、大梵天、持国天、火天、地天、諸宿曜の星神などですね。
元魔神は、伊舎那天が代表的でしょう。伊舎那天は、大自在天が怒ったときの姿、といわれています。大自在天は魔神です。降三世明王に降伏されました。前回にもお話いたしましたね。伊舎那天は、その大自在天が怒った姿ですから、破壊を行う神だったのです。まさに魔神です。それが、善神の仲間に入り、東を守護する役割を担っています。
また、伊舎那天には数名の眷属(部下ですね。子供という説もあります)がくっついています。すべて、元ワル神のグループですね。伊舎那天一家・・・とでも言いましょうか。
今では、善神です。

*南側
ここには、元魔神がたくさん出てきます。
まずは夜叉です。元来は、子供や新しい死体を食べる悪魔です。あるとき、お釈迦様を食べようとして諭され、人々の煩悩を食べる神として変身しました。元は恐ろしい姿ですが、曼荼羅には神らしい姿で描かれています。夜叉も眷属を伴っています。
大物の魔神としては、閻魔天がここで登場します。閻魔様は、実はインドでは死神なのです。死をもたらす神?悪魔?として恐れられていました。それが、お釈迦様により、死の世界を統治する神へと変身したのです。今では、死をもたらす神ではなく、死者を裁く神として有名ですよね。閻魔様にも、眷属や奥さんが一緒に描かれています。この眷属は、まさに死神や鬼たちで、その姿は恐ろしげに描かれています。彼らの主である閻魔大王は、すでに死神ではなくなっているのですが、その眷属たちは未だに死神として活躍しているようです。

この南側でもっとも厄介な元魔神は、なんと言ってもダキニ天でしょう。
ダキニ天・・・日本ではお稲荷さん、稲荷神と同一にされています。本来は別物で、ダキニ天はインドから仏教とともに日本に入ってきた神、稲荷明神は日本古来の神です。しかし、いつのまにやら、同一視されるようになり、さらには日本古来の稲荷明神がダキニ天に取って代わられてしまうのです。今では、お稲荷さんといえば、狐にまたがった女神であるダキニ天となっています。
ダキニ天は、本来は悪魔です。死肉を食らい、人の生き胆を食する魔物でした。それが、大黒天に教化され、大黒天の許しを得た分だけ死肉を食らうことができるようになります。そのほかは、人々の繁栄を手助けする神となったのです。
が、どうもこのダキニ天、お稲荷さん、気まぐれだし、ワガママなところが強いようです。信仰されなくなると、災いをもたらしたりもします。まあ、大変厄介な神であり、扱いにくい神なのです。お稲荷さん信仰は、始めたなら最後までしっかり続けることです。続ける自信がないのなら、初めから信仰しないことですね。
曼荼羅上では、死肉を食らう姿で描かれたりします。神の姿としては、狐に乗った女神の姿で表現されています。

もう一人、有名な神が南側に登場します。それは阿修羅です。阿修羅は、ちょっと変り種で、元は正義を司る天界の神だったのですが、帝釈天との諍いが元で、海底深くに沈められてしまいます。いわば、天界を追われてしまった神、いや元神なのです。いまは、争いの世界である修羅界の統治者ですね。魔神から善神になったのではなく、善神から魔へと転落したのです。それでも、まあ元は神ですから、仲間に入れてもらえたのでしょう。この南側には、阿修羅の眷属も多く登場します。

南側は、どうも「死」に関連した神々が多く登場します。あるいは、死肉を食らう夜叉やダキニ、鬼類、あるいは死を司る閻魔天の眷属や后、そうしたちょっと恐ろしい神が描かれているのです。本当に神なの?、と問いたくなるくらいです。死をもたらす神や死肉を食う神のオンパレードなんですよ。神々の世界というよりは、まさに魔界ですよね。
あっと、書き忘れるところでした。もともとの善神である増長天とその眷属も描かれています。善神は、この増長天と眷属、星宿曜の神々くらいですね。

*西側
ここはもともとの善神が多いです。広目天を始め、水天・弁財天・月天・風天・楽天(がくてん、らくてんではありません)・竜王族、星宿曜またそれらの眷属が主体です。多くは水と音関係の神々です。
そんな中、ここには大物の天魔が登場します。大自在天です。大自在天は、もうすでにお話してありますからいいですね。
そのほかには、ネイリチ王という羅刹の仲間の神王が登場します。この神は、破壊と死、破滅をもたらす魔でした。それが、仏教の力により、煩悩を破壊破滅させる神となったのです。この神王には羅刹の娘が眷属として従っています。
西側は、魔神から転身した神は少ないですね。

*北側
ここも善神のほうが多いようです。特には、弥勒菩薩が法を説いているといわれている兜卒天の主である兜卒天(トゥシタ天)が登場します。兜卒天は弥勒菩薩が管理をしているのではなく、神であるトゥシタが管理をしているのですよ。
そのほかの善神は、毘沙門天・音楽関係の天女、仙人から神になったもの、風天の眷属といったところでしょうか。
魔神からの転身組は少ないのですが、やはり大物がいます。まずは他化自在天。天魔の代表ですね。詳しくは、すでにお話してありますので、省略します。
続いて大黒天。大黒天は、日本では福の神となっていますが、本来は破壊の神「マハーカーラ」です。「マハー」は大いなる、「カーラ」は黒きもの、で大いなる黒きもの・・・大黒天・・・なのです。大黒天は、凶暴でその力は強大なものでした。で、それをどうせならよい方向に使え、と諭され善神に転じたのです。さらには、悪行を繰り返すダキニを調伏し、善神へと導いています。
善神になってからの大黒天は、その姿が真っ黒だったため、中国で厨房に祀られるようになり、厨房や食堂(じきどう)の神となりました。また、日本に伝わってからは、大国主命と大黒が読み方が似ているため混同され、同一視されるようになり、福神となります。姿かたちも、本来は真っ黒で恐ろしい暴悪な姿でしたが、現在に見られるような俵に乗った姿や大きな袋を抱えた姿となりました。見事な転身ですね。

もう一人、大物の魔神がいます。ビナーヤカです。日本ではガネーシャとして知られていますね。頭が象で体が人間、という姿です。最近、インド関係のものを扱ったお店では人気があるそうです。人間の体に象の顔が「カワイイ」のだそうです。でもね、元は魔神ですよ、しかも悪行の限りを尽くしたという・・・・。
ビナーヤカは、一説には大自在天の息子といわれています。神の子なのですが、悪行ばかりしているので大自在天の怒りに触れ、首を切られてしまったのです。大自在天も魔神のくせに、自分のことは棚に上げて息子に暴力を振るったわけですね。人間のオヤジ族にも似たようなものがいますけど・・・・。
首を切られたビナーヤカを哀れに思った后があわててつけてしまったのが象の首だった・・・、とか、大自在天がビナーヤカが最初に出会った生き物の首をつけよ、と命じたため最初に出会った象の首をつけた、とか、象の頭になった理由には様々な説があるようです。
それいらい、醜くなってしまったビナーヤカは、さらに悪行三昧の生活をします。もう大自在天でも押さえが利きません。困った大自在天は大日如来に相談します。で、大日如来は観音様にビナーヤカの教化を命じます。漢音様はビナーヤカと同じ姿になり、一人ぼっちではないのですよ、とやさしく抱擁をします。それにより、ビナーヤカは改心して、善神へと転じるのです。
この頭が象の姿をしたものが抱き合っている像が歓喜天・聖天と呼ばれる神様なのです。

ビナーヤカは大自在天の息子でした。大黒天は、実は大自在天の変化身ともいわれています。つまりは、大自在天一家ですね。

以上、東西南北の神々をざ〜っと、紹介いたしました。どうですか?。見事な転身振りじゃないでしょうか。悪行三昧であった魔神も仏教や密教の力によって、善神へと転身したのです。
が、中には未だ魔神の性格を引きずっている神もいます。ダキニ天などはいい例ですし、聖天さんだってしっかりお参りしないと祟りますからね。
神々の多くは、魔神からの転身組みです。ですので、粗末にあつかったり、人間の都合だけでお祀りしたりすれば、怒り出すのは当然です。願うときだけは一所懸命お願いして、願い事がかなったら「はい、さようなら」では、怒りますよね。もと魔神は強大な力を持っていますから、願い事も早くかなうことが多いです。しかし、願いがかなったら、お礼参りを当然しなければいけません。なんせ、もと魔神ですからね。怒れば怖いですよ。

さて、いろいろな神々を紹介してきましたが、こうした神々の世界・・・天界・・・へ生まれ変わるにはどうすればいいのか、気になりますよね。ですので、次回は、天界へ生まれ変わる方法をお話いたします。
合掌。


45回のテーマは

輪廻の世界
E天界の世界 その5 天界へ生まれ変わるには
ちゃんとした天界からもと魔界の天魔界まで、いろいろな神々を紹介してきましたが、その天界へ生まれ変わりたい、と思った方にその方法をお教えいたします。天界へ生まれ変わるにはいったいどうしたらいいのか・・・。これを読めば、その方法がわかりますよ。

お釈迦様は、
「悟りを得たいならば出家しなさい、在家のままでいたいのなら天界に生まれ変わることを目指しなさい」
と説きました。在家のままで悟りを得ることは難しいと判断したからです。まずは、天界に生まれ変わることを目標にしたほうが、教えを受け入れやすいと考えたのですね。また、当時のインドは、身分差別が激しく、奴隷階級や下層階級の者たちは、せめて次に生まれ変わるときは天界へ・・・という思いを強く持っていたようです。こうした理由から、出家しないもの、できないものに対しては、天界へ生まれ変わることを目指すように説いたのです。
では、どうしたら天界へ生まれ変われるのでしょうか?。
お釈迦様は、まず五つの戒律を守ることを勧めました。その五つの戒律とは、このような戒めです。

@不殺生(ふせっしょう)・・・生き物を無闇に殺さないこと。必要以上に生き物を殺さないこと。暴力を振るわないこと。
これは、当然ですね。戒律の基本です。無闇に殺さないこと、というのは害虫駆除はやむを得ない、からです。在家である以上、多少の殺生は仕方がないのです。たとえば、農民ならば、畑を耕したりしなければなりません。そうすれば、土地の中にいる虫を殺すことになりますね。また、漁師ならば、ついつい余分に魚を取ってしまうこともありましょう。そういうときに、必要以上に畑の虫を殺さないで別の土地(森など)へなるべく移すようにしてあげるとか、余分に魚を取らないように心がけるようにするとか、工夫を凝らしてなるべく殺生を避けるようにするのです。だから、無闇に殺生をしない、必要以上に殺生をしない、としたのです。
さらに、恨みや怒りから生き物を殺したり、生き物に暴力を振るったりしてはいけない、と説きました。つまり、八つ当たりをするな、逆恨みをするな、ということですね。
殺人はもちろん、自殺、暴力、動物虐待、無益な殺生、必要以上の殺生、こうしたことをしない、というのが第一の戒律です。

A不偸盗(ふちゅうとう)・・・何ものも盗まないこと。
他のものを盗んではいけません。当然ですね。いくら貧しくとも、食べ物がなくて困っていようとも、盗んではいけません。働いて食や金銭を得なさい、ということです。そこに実がなっているからもらっちゃえ、というのもいけません。自然に咲いている花を摘んで持ち帰る、これもいけません。花盗人になります。出家者はもっと厳しいです。自然に咲いている花の匂いをかいだだけでも花盗人として注意されたりします。香は本来空ですから、香をかぐようなことは修行の妨げですからね。
物を盗まない、これは当然のことです。また、この中には、盗み見・盗み聞きも含まれています。
最近、働かないでお寺や神社の賽銭を泥棒して生活をしているものがいます。こういうものは、天界どころか地獄ですね。また、盗撮・盗聴をやっている方も天界は無理ですね。ねぇ、もと教授。手鏡もいけませんよ。
ちなみに、次の不邪淫にも関わるのですが、浮気もここに含まれます。他人の妻や夫を盗むことになるからです。また、時間のごまかしをすることは、時間を盗むことになります。
けっこう盗みっていろいろ種類があるんですよ。気をつけてくださいね。

B不邪淫(ふじゃいん)・・・性的にみだらな行為をしないこと。
出家者は一切性的行為をしませんからこれは当然ですが、在家の場合は、浮気をしない、金銭で異性(同性の場合もありますが)を買わない、ということに限られてきます。性的に淫ら、というのは、その2点のことですね。
ですから、夫婦間での行為はご自由です。それは問われません。あくまでも在家用ですから。

C不妄語(ふもうご)・・・うそをつかないこと。
ウソはいけません。あまり正直すぎるのもナンですが、ウソはいけません。人を陥れるようなウソ、自分を正当化するためのウソ、その場しのぎのウソ、ウソにより金銭や物を不当に得ること(詐欺ですね)、いけませんよね。中でも、よくやってしまうのは「自分を正当化しようとしてついてしまう、小さなウソ」です。
詐欺的行為や他人を陥れるためのウソ、というのは、あまりつかないですよね、普通の生活をしていれば。まあ、人を陥れるのが趣味、と言うのなら話は別ですが、そんな人はあまりいないでしょう。
ところが、「自分を正当化するためのウソ」や「その場しのぎのごまかしのためのウソ」は意外にやってしまうことがあるんですよね。簡単に言えば、「いいわけのウソ」です。
ちょっとしたごまかしや言い訳のウソでも、それが何回にもなれば、大きな罪になってきます。塵も積もれば・・・ですよね。こういう簡単なウソは、ついつい口から出てしまうので注意が必要ですね。
また、他人のあらぬ噂をばら撒くのもここに入ってきます。二枚舌も入ります。ウソ全般、口に関することの罪、すべてに注意しなさい、ということです。
その中でも特にウソは、もっとも犯しやすい罪ですから「ウソをついてはいけない」と戒めているのです。

D不飲酒(ふおんじゅ)・・・お酒を飲まないこと。
ふおんじゅ、と読みます。お酒は飲んではいけないんですよ、天界に生まれ変わりたいならね。
なぜお酒がダメ?、と思われる方もいらっしゃることでしょう。答えは簡単、自己コントロールがうまくできなくなるからです。
お酒を飲めば、当然酔います。酔えば、自分をうまくコントロールできなくなります。普段抑えていた感情が爆発するかもしれません。やっちゃダメ、ということをやってしまうかもしれません。欲望の抑えが効かなくなることもありましょう。とかく、お酒の上での失敗談は後を絶たないものです。お酒を飲めば、酔って罪を犯しやすくなるものなのです。
なので、お酒は飲むな、というんですね。
酔わない程度なら、かまわないと思います。誰にも迷惑をかけないお酒ならね。お大師様も、あまりに高野山の冬が厳しいため、
「塩酒、一杯を許す」
とおっしゃいました。塩酒とはお酒にほんのちょっとのお塩のことです。これで身体を温めよ、ということです。高野山の冬は厳しいので、身体の中からお酒で暖めよう、というわけです。ま、それぐらいならば、酔って悪いことをする・・・なんてことはないでしょう。なので、その程度ならばかまわないのです。
問題は、自分をコントロールできないくらいに飲むことなのです。これはいけません。迷惑をかけるどころか、事件を起こしたりもします。ついついお酒を飲んでトラブルを起こしやすい、と言う方は、いっそのこと飲まないほうがいいようですね。お酒は上手に飲めば身体にいいのですが、ちょっと飲みすぎれば地獄への導きになってしまいます。気をつけたほうがいいでしょうね。
ま、天界に生まれ変わりたい、と望むならば、控えめにしておきましょう。

さて、以上の五つの戒めを守れば、必ず天界に生まれ変わることができます。お釈迦様はそう説きました。
「なんだ、たった五つじゃないか、簡単だ、やってやろうじゃないか」
と思わないほうがいいですね。そう易々とできることではありません。日常生活を続けていれば、ちょっとしたことで戒めを破ったりするものです。やってやろう、と思うのなら、それ相応の覚悟がいります。おそらく、早ければ一日で、遅くとも1週間で戒めを破ることがありましょう。そういうものなのですよ。
「じゃあ、天界へ生まれ変わることは無理じゃないか」
と思われることでしょう。でも、ご安心を。戒めを一つ破ったら、何か一ついいことをすればいいのです。それでチャラですね。
たとえば、ちょっとしたウソをついてしまった場合。そのウソはほんの些細なウソで、迷惑をかけるほどではないウソでした。ちょっと見栄を張っただけのウソ、と思ってください。でも、ウソはウソ。罪は罪。なので、そんな場合は、コンビニで買い物したときに、1円や2円・・・のような小銭でいいですから、コンビニの寄付箱に入れておきましょう。
「これであのウソの罪、消してね・・・」
と思いつつね。
もし、大きなウソだったら・・・。誰かに迷惑をかけてしまった、友人を怒らせてしまった・・・・というようなウソならば、その罪を素直に謝って、二度とウソはつくまい、と心に決め、罪滅ぼしの善行をしましょう。
もっと大きな罪を犯してしまったら・・・。犯罪に関わるようなことをしてしまったら・・・・。
まあ、仕方がないですね。まずは懺悔です。ともかく謝ることです。どんな罰も報いも受けることです。素直に厳罰を受けることです。その上で、善行をいっぱいするしかないですね。

いやはや、これじゃあ、天界への道も楽じゃない・・・。
と思われるかもしれません。なので、近道をお教えしておきましょう。その方法は、信仰を持つことです。
まず、あなたが生まれ変わりたい天界を決めます。そして、その天界の神を信仰し、お参りするのです。たとえば、弁天様の世界に生まれ変わりたい、と願うのならば、弁財天信仰をすることですね。帝釈天の世界に生まれ変わりたい、と思ったならば、帝釈天信仰をすればいいのです。閻魔様のヤマ天に行きたい、と思うのなら、閻魔大王をお参りすればいいのです。
さらに、仏様や菩薩様をお参りすれば、天界への道は確実なものになっていくことでしょう。自分が信仰をする神と、さらにその上の如来や菩薩もお参りし、信仰を持てば、天界へ生まれ変る確立は、グ〜ンとアップすることは間違いありません。
たとえ、戒めを少しはずしてもね。ま、あまり大きく違反すると困りますが、それでも信仰の力が大きければ、戒めを大きく逸脱することもないでしょうし、少しは多めに見てももらえるでしょう。

もし、あなたが天界に生まれ変わりたいと望むのなら、まずは好きな神を決め、その神を信仰し、同時に如来や菩薩もお参りし、仏教の信仰を持つことです。そうすれば、天界への道は約束されるでしょう。
どうぞ、チャレンジしてください。合掌。

以上で、天界の話は終わります。残るは、人間界ですね。次回は、人間界についてお話いたします。合掌。


46回のテーマは

輪廻の世界
F人間の世界 その1
六道輪廻の世界も、後は人間界を残すのみとなりました。しかし、人間界の話といっても、特にはないんですよね。皆さんよくご存知の世界ですから。何しろ、自分たちが住んでいる世界ですからね。とはいえ、何も語らない、説明しない、というわけには行きません。仏教では、人間界のことも説いていますから。というより、仏教は今生きている人間を対象とした教えなんですから。

仏教で説くところの人間の世界は、どんなところでしょうか。
それは一言で言えば、「迷いの世界」であり、「苦しみの世界」でもあります。ただし、地獄のような厳罰を受ける苦しみではなく、「これでいいのだろうか、不安だなぁ」という迷いであり、「思うようにならない」という苦しみの世界でしょう。
そう、世の中思うようにはならないのです。それがこの世の現実なのです。
そう、これで大丈夫とはなかなか思えなくて、いつも不安が付きまとい、迷ってしまう・・・それがこの世界なのです。
そもそも、思うようにしようというのが、間違っているんですけどね。自分ひとりで生きているわけじゃないのですから、思うようにならないのは当たり前なんですけどね。また、絶対大丈夫ということはありえないので、不安があって当然なんですけどね。
でも、人びとは、「思うようにしたい」し、「安心を得たい」ものなのですよ。

勘違いしてもらっては困るのは、「思うようにしたい」と願うこと、思うことは、決して「間違っている・悪いこと」ではありません。思い方・願い方によって、間違ったり誤ったりするのです。
たとえば、目標を持って努力することは大変いいことですよね。商売繁盛させるため努力する・・・これは間違っていることではありません。お釈迦様も、
「商人は商人らしく、商売で努力するべきである」
と説いています。
また、受験生にしたって、目標の学校に入るために懸命に勉強することは、大変によいことです。大いに勉強し、希望校に入って欲しいです。
何もせず、何の目標も持たず、ただただ生きているだけ・・・・というのでは、虚しい限りでしょう。最近では、その日が食っていければいいや、という若者が増えているようですが、初めから目標を持たず、努力を捨て、負け犬のようにこそこそびくびくしながら生きていくのは、如何なものかと思いますね。若いんだから、自分の中の可能性を大いに試して欲しいです。

目標を持て、という。努力をしろ、という。これは欲望じゃないのか・・・・。
そう思われる方もいらっしゃるでしょう。そうです、これも欲望の一つです。しかし、この欲望は、悪い欲望じゃないんですよ。むしろ、大いに持っていい欲望なんです。
ただし、その欲望、いや目標ですね、が達成できなかったときが問題なのです。
たとえば、ある大学を目標に一生懸命勉強してきたとします。が、残念ながら受験に失敗し、目標大学にはいけなかった場合、
「あ〜、俺のやってきたことは何だったのだろうか。」
と嘆き悲しみ、立ち直れずに挙句の果ては引きこもりか自殺か・・・・と、これが間違っている、ということなんですよ。
そうじゃなく、目標が達成できなくとも、
「まあいいか、今年はダメでも来年頑張ろう。」
と思うか、あるいは、
「何もあの大学だけがいい訳じゃない。他にもいい大学はある。そっちは受かっているんだから、そっちに行けばいいや。」
と思えるか、なのです。
つまり、目標を持ち、それに向かって努力するのはよいことなのです。だけど、その目標が達成できなくても、嘆き悲しまないことなんです。ここが重要なんですよ。目標に拘りすぎて、何が何でもそれしかダメ、になっちゃいけないんです。道はいくらでもあるんですから、そちらがだめならこちらがあるさ、という考えを持たないと、間違った方向に進んでしまうんですよ。「欲望の扱い方を間違う」のですね。
ここで、欲望の扱い方を間違ってしまうと、「思うようにならない」という欲求不満や悩みや苦しみが生まれてくるわけです。思うようにならないことに拘ってしまうがゆえに、苦しみに苛まれることになるのですね。

また、人間界は、迷いの世界です。いつも不安で、心が安定することがないんです。いつも
「大丈夫かな、これでいいかな」
という不安を抱えています。表面上、何もないような顔をしている人であっても、大きな会社を引っ張っていっているような人であっても、大金持ちであっても、不安はついて廻るものです。
なぜそんなに不安なのか・・・・。それは、
「今の生活が失われるのではないか、今の生活を失ってしまったらどうしようか」
という不安です。
たとえば、会社が倒産したら・・・、借金が返済できなくなったら・・・、銀行の融資がおりなくなったら・・・、リストラにあったら・・・、何か不祥事があったら・・・、病気になったら・・・、事故にあったら・・・、地震が来たら・・・、火事になったら・・・、泥棒にあったら・・・、女房が、夫が浮気をしたら・・・、子供が不良になったら・・・、いじめられたら・・・、このままの人生でいいのだろうか・・・、自分はこれでいいのだろうか・・・、世の中に順応できなかったら・・・。
あげだしたらキリがありません。不安の原因はいくらでも出てきますよね。
こうした不安を抱えて生きているのが我々人間なのです。

こうした不安を抱え、これでいいのだろうかと迷い、思うようにならない人生を騙し騙し生きているのが人間なのですよ。したがって、人間界とは
「迷いの世界、不安の世界、思うようにならない世界」
なのです。そういう世界に我々は生きているんですね。

こうした迷いの世界である人間界なんですが、よくよく観察すると人間界には、いろいろな世界があることがわかると思います。どんな世界かというと、それは六道輪廻の世界なのです。すなわち、六道輪廻の世界の一つである人間界ですが、実はこの中には、六道の他の世界が含まれているのです。
よ〜っく観察してみてください。ほら、地獄の苦しみを味わっている人がいるでしょ。
あっちには餓えた貪欲な餓鬼のような人がいるでしょ。畜生のように怠け、性行為ばかりに耽っている人がいるでしょ。
いつも怒ってばかり、けんかばっかりしている人がいるでしょ。で、極普通の人がいますし、何不自由なく生活している人もいます。どうですか?。見渡せば、よくよく人間界を見れば、この世に六道輪廻の世界を見ることができるんじゃないですか?。一つ一つ説明してみましょうかねぇ・・・。

人間界の中の六道輪廻とは。
地獄・・・この世で地獄の苦しみを体験している、味わっている方は、気の毒なのですが多々いらっしゃいます。自然災害で被害にあわれた方もそうでしょう。友人を信用したばっかりに友人の借金を背負わされ、大変な人生を送っている方もいらっしゃることでしょう。何の因果でこんなに苦しまなきゃいけないのか、何で自分ばっかりがこんなに苦労しなきゃいけないのか、あぁ、世の中不平等だ、この世は地獄だ・・・・・と嘆いている方は、少なくありません。
海外に目を向ければ、この世の地獄を味わっている方は、ものすごく多いでしょう。日本は平和です。大変だ、大変だ、とはいえ、地獄に仏ならぬ、救いがあるし、助けてくれる人もいますからね。
ところが、海外の紛争地区では、そうもいってられません。本当にこの世の地獄が待っている世界もあるのですよ。

餓鬼・・・餓えに苦しんでいる人たちは、世界中にいます。一日に餓死していく人びとはいったい何人いるでしょうか?。まさしく、この世の餓鬼・・・かと思えるような光景を、私たちは見ることができるのです。ただ、見ないように目をそむけているだけです。普段は、忘れてしまっているだけです。この平和や発展の裏側には、餓えて死んでいくものがいる、ということを。
じゃあ、日本には餓鬼はいないのでしょうか?。
そんなことはありません。餓鬼とは、満足を知らず、「もっともっと」と望むもののことをいうのですからね。欲望のままに生きるものを餓鬼というのですからね。日本にもたくさんいますよ。そのことは、「現代の餓鬼」として餓鬼の世界のお話をしたときに紹介しました。バックナンバー6〜7を読み返してみてください。
この世に餓鬼の世界は存在しているのです。

畜生・・・動物は別ですよ。人間界の中の畜生のことを今はいっているのです。畜生のような人間、とでもいいましょうか。
畜生というのは、ただただぐうたらと過ごすもののこといいます。何も考えず、ダラダラと毎日を過ごし、性行為にばかり耽っているもの、そういうものを人間界の中の畜生、というのです。
働きもせず、遊んでばかりいて、他人を当てにし、ダラダラと毎日を暮らし、食うこと、寝ること、性行為にしか興味がない、掃除や片付けもせず、汚い部屋でも何も感じなく、汚れていようが臭かろうが平気で・・・というような、そんな生活をしていても悩まないもの、そういうもののことをいうのです。
そんなやつはいない・・・・ことはありません。都会に出ればいっぱいいますよね。その日暮らしで、寝るところも決まっていなくて、働きもせず、ブラブラ夜の街を徘徊している・・・。そんな人間もいるんですよ。
そういうものたちは、この世の畜生道に落ちているのですね。人間の姿をしてはいますが、魂は畜生と化しているのです。恐ろしいでね、生きたまま畜生道に落ちているのですから。

修羅・・・いつも怒ってばかり、文句ばかり、不平不満をたれ、傍若無人に振舞い、イライラして、何かあるとすぐに暴力を振るう・・・・。そんな人間が修羅のものなのです。
軽めのプチ修羅などは、そこらじゅうにいますよね。あなただって、わからないですよ。イライラして怒っているときは、プチ修羅になっているんです。けんか腰で親や友人に当たったりしているとき、そのときはあなたは修羅になっているんです。
中東の紛争地帯で戦いをしているものたちも修羅の世界を今まさに生きている人たちでしょう。しかし、あれは理解できませんねぇ。宗教観の違いで戦争がおこるのですから。いったいどういう宗教なんでしょうねぇ。
仏教などは、完全な平和主義ですからね。他人がどんな宗教であっても、どんな考え方を持っていても、すべて
「いいんじゃない、別に」
と認めるところがありますからね。ケンカにならない宗教なんですよ、仏教は。日本の新興宗教の中には、他の宗教・・・昔からある仏教や神道も含め・・・・を否定する新興宗教もありますが、そういう態度をとるということは、自分たちは仏教じゃない、と認めているということなんでしょうね、きっと。仏教は、他の宗教を否定しませんし、いろいろな考えかたがってもいい、という許容量が深い宗教ですからね。
この最も平和主義の仏教を知っている日本なのですから、もっと世界にその平和主義を広めて欲しいですね。余談でしたが・・・。
ま、この世で戦いをしている人たちは、修羅に生きているんですよ。現実の修羅道を生きている、といったほうがいいですかね。

人間・・・まあ、極普通の一般市民ですね。迷い、悩み、苦しんだり、笑ったり、喜んだり、泣いたりしている、平和な人たちです。周りにあまり迷惑をかけぬよう、謙虚に生きている愛すべき一般庶民です。国の不平等な政策に文句も言えず、けなげに、一生懸命生きている人たちです。多くの人びとが、人間界の中の人間界に生きています。

天界・・・一言で言えば、セレブな人たちのことですね。お金に不自由しなくて、贅沢三昧ができ、適当に働けばいい程度で、まったくあくせくしない。
「仕事は趣味のようなものですね。別に働く必要はないんで、アハハハ・・・・。」
といえるような人びとです。もちろん、人間界の中の天界の人々にも格差があります。下層セレブから超上級セレブまで様々でしょう。あるいは、偽セレブもいますからね。本当は借金で火の車なんだけど、セレブの振りを止められない事情がある方などがそれです。まあ、天界の神々の中にも、格差があるのですから、人間界の中の天界人の中にも格差があって当然でしょう。

どうですか?。よくよくこの世を観察してみれば、この世の中にちゃ〜んと六道が存在しているでしょ。この世は、迷い苦しみ不安の世界であると同時に、六道を映し出している世界でもあるのです。だからこそ、迷うのでしょうけどね。
さて、あなたは、この世の中のどの世界に生きているのでしょうか?。どの世界でもいいですが、そこが苦しみの世界ならば、早めに脱出したほうがいいと思います。でないと、迷ったり、不安になったり、苦しんだりするばかりですからね。
えっ?、脱出したいのは山々だけど、出るに出られない?。
あ〜、なるほど、それはお困りでしょう。では、次回は、迷い、不安、苦しみの世界から脱出する方法についてお話しましょう。
大丈夫です。お釈迦様は、人間の抱えている迷いや不安、苦しみを取り除く考え方、心の持ちようを教えてくれたのですから。そして、その教えを実行できるのは、われわれ人間と天界のものだけですから。そんなありがたいのチャンスをつかまないんてことはもったいないですよね。私たちは、迷いや不安、苦しみから解放される手立てを得ることができる立場にあるんですからね。そういう意味から言えば、人間界は、
「迷いや不安、苦しみを感じる世界でもあるが、それから解放される世界でもある」
といえますよね。不安か安心か、苦しみか安楽か・・・、この岐路にあるのが人間界ともいえるのです。ま、そのことについては、次回にお話いたしましょう。迷いの世界をいかに快適に安心して暮らすか、ということですよ。
合掌。


47回のテーマは

輪廻の世界
F人間の世界 その2
人間界を快適に生きるには
苦しみの世界、迷いの世界である人間界を快適に生きたい・・・・・。
誰もがそう思うことでしょう。この世の中を楽しく生きることができれば、何の憂いもなく生きることができれば、それは安楽なことですからね。
では、この世を快適に生きるにはどうすればよいでしょうか?。
金持ちになる?。大金持ちになって、何でも金で買う?。そりゃまあ、大金持ちになれば手に入らないものは少なくなるでしょう。でもね、そのお金も尽きるときが来るかもしれませんよ。
尽きることがないほどお金持ちになる?。宝くじにあたって?。
宝くじ・・・・たとえ3億円あたったとしても、他のクジで6億円当たったとしても、果たしてそれで不安のない生活がおくれるでしょうか?。お金を盗まれたらどうしよう・・・。自分が金持ちだとばれて、強盗に殺されたりしたらどうしよう・・・・。防犯設備は大丈夫か?、不審者はいないか?、あいつは俺を狙っているんじゃないか?、あの男、こっちを見ている、怪しいぞ・・・。不安は尽きないでしょう。
尽きることのないよう、会社経営者になり、お金をどんどん生み出すってのはどうでしょうか?。
皆さん、世界の会社経営者のセレブぶりを見て、「羨ましい、あんな生活していたら悩みなんてないだろうな」と思われるんじゃないでしょうか?。会社は有名だし、倒産することはないだろう、セレブであることは永遠に変らないだろう、彼ら会社経営者の家族はさぞ幸せだろう・・・、そう想像されるんじゃないかと思います。
が、しかし、会社経営者というのは、実は悩み多きものなのですよ。
倒産するかもしれない、株が買い占められ乗っ取られるかもしれない、スキャンダルが出るかもしれない、跡継ぎがダメオかもしれない、情報が漏れるかもしれない、次の手が失敗するかもしれない、アイディアが尽きるかもしれない、創業者一家が排除されるかもしれない・・・・・。
こうした不安はツキモノなのです、会社経営にはね。華やかなのは、表面だけなんですよ。いつ何が起こるかわからないですからね。天国から地獄、ってこともあることですからね。とくに女性のセレブの方・・・美貌で売っている(どこが美貌なのかよくわかりませんが)・・・などは、衰え・老化がさぞ恐ろしいでしょうねぇ。今だけ、ですからねぇ・・・。
というように、お金があれば不安がない、とは限りません。いくらお金があっても、命は買えませんからね。
じゃあ、むしろお金がないほうがいいのでしょうか?。飄々と自由にその日暮し・・・それもいいかもしれません。が、どうでしょうか?。心配はありませんかねぇ?。あるでしょ。
明日の食事は?、住むところは?、着るものは?、病気になったらどうする?、怪我をしたら?・・・・。
お金がなくても困りますよね。

人生の不安、迷い、苦しみは、お金で何とかなる問題じゃないんです。また、お金がないからといって不安がなくなるわけでありません。迷いがなくなるわけではありません。
では、どうすれば迷いや不安、苦しみがなくなるのでしょうか?。
その方法を説いたのが、実はお釈迦様なのです。すなわち、仏教なんですよ。仏教は決して葬式をするための宗教ではないんですね。迷いや不安から解放されるための方法を説いたのが、仏教なんです。
では、どんな方法が説かれたのでしょうか?。
その方法は、一つではありません。いろいろな方法があります。方法は、一つじゃないんですね。なぜなら、人それぞれ望むものや理解力、性格が異なるからです。その代表的な方法を示しておきますので、自分にあったコースを選んで、迷いや不安と決別してください。

@迷いや不安と完全に決別するコース
そのためには、出家しなければなりません。このコースを選んだ方は出家しなければならないのです。しかも、出家しても葬式を行わないで生きていく方法を見つけねばなりません。葬式をして生活している坊さんでは、迷いや悩みから解放される、解脱できる修行は、なかなかに難しいでしょうから。俗世間にどっぷり浸かりすぎてますからね。
ですので、迷いや不安から完全に決別したい、と望むのなら、本当の意味での出家をしなければいけないのですよ。これは、ちょっと難しいんですね。
私のところに「出家したいのですが・・・」というメールがくることがあります。出家して悟りを得たい、この世の迷いや不安から解脱したい、というのですね。
確かに志は立派です。大いに出家していただきたいものです。
が、実は、今の日本の仏教の仕組みでは、出家するのはいいのですが、それだけでは生活ができないのです。タイやミャンマー、スリランカのように、未だに托鉢で生きていける地域は出家して修行に専念できるでしょう。しかし、日本では托鉢では生活できないんですよ。あぁ、できないこともないですが、托鉢しても鉢に入れてもらうのはお金ですからね。タイのような出家者生活はできませんね。まあ、托鉢したお金で、米を買い、野菜を買い・・・すれば、生きていけないことはありません。ガスもなく、電気もなくても、水と薪があれば何とかなりますからね。
出家して迷いや悩みから解脱したい、と望む方は、それ相当の覚悟をしなくてはならないんですよ。
なので、「出家したい・・・」というメールには、「生活できませんが、それでも大丈夫ですか」という返事をします。そうすると、まあ、返事はきませんね。生活できないとは考えてなかったんでしょう。そんなものです。

迷いや不安から完全に決別するには出家するしかありませんが、ただし、托鉢で生活する覚悟を決め、またガスや電気などの文明の利器がなくても生活できるという覚悟を持っていただかないといけません。もちろん、家族とも別れ、一人ぼっちで生きていく覚悟も持たないとね。
これは無理でしょ。まあ、タイやミャンマーなどに行って、永住権をとり、そちらで出家すれば、迷いや不安と完全なる決別ができるかもしれませんけどね。
このコースを望む方は、タイやミャンマーへ行ったほうが早道だと思います。

A出家せず在家のままで、できるだけ不安や迷いをなくすコース
皆さんは、こちらを選んだほうがいいでしょうね。こちらでも、結構、不安や迷いはなくなるものですから。安心を得られるものですからね。
こちらのコースは、さらに3種のコースに分かれています。
A、祈りで迷いや悩みを消し去ろう・・・他力本願コース
ともかく祈る、迷ったら祈る、悩みを抱えたら祈る、苦しみに出会ったら祈る・・・という方法です。とにかく祈って祈って祈りまくる。後は余分なことは考えない、祈っていれば何とかなる、と信じきることです。
それは無理、祈ったって不安は解消されない・・・・と思う方が多いでしょう。でも、そんなことはないのです。そういう方は、とことん祈ってないんですよ。

何か困ったことが起きたとき、いろいろ手を打ってみたけど、どうにもなず、さらに困ってしまったとき、人は
「後は神頼みだ」
といいますよね。これなんですよ。この「神頼み」を徹底的にすることが、大事なのです。ともかく祈る、なんです。
祈るのは、観音様でもお不動さんでもいいのです。最も代表的な祈りは
「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」
でしょう。何か困ったこと、苦しいこと、迷いがあったら、ともかく称えよ、
「南無阿弥陀仏」・・・・あるいは・・・・「南無妙法蓮華経」
と。これが、祈りの教えなんですね。

結果はどうあれいいんです。どんな結果があろうとも、十分祈ったのですから、その結果が不本意であろうとも、それが阿弥陀如来の出した結論であり、お釈迦様の指図なのですから。
すなわち、この祈りで不安を解消コースの場合、「結果がこうあって欲しい」と望んではいけないのです。ただひたすら祈りまくって、その結果が受け入れがたいことであっても、それが祈りの結果なのですから、自分にとってはベストなんだ、と納得しないといけないんですね。
そういう考え方ができれば、何が起ころうとも、どんな不安なこと、迷い、苦しみにあおうとも、ひたすら祈るだけでいいのです。それで不安はなくなるのです。
「阿弥陀様に祈っているから、私にとって最も良い結果をお与えくださるでしょう」
「南無妙法蓮華経と称えているのですから、良い道を指し示してくれるでしょう」
と信じ込んでしまうこと、それが大事なんですね。で、どんな結果も厭わないことです。
これができるようになると、何も怖いものはありません。死すら恐れないでしょう。一向一揆に参加した人たちがいい例です。心から阿弥陀如来を信じ、南無阿弥陀仏と称えれば極楽へいけるんだ、と信じ込んだからこそ、命を捨てられたのですからね。
純粋に阿弥陀如来の力、法華経の力を信じ込んでしまう・・・これが本当の他力本願なんですよ。
ところが、ニセの他力本願がこの世にははびこっていますよね。祈るのは必死に祈る、一生懸命祈る・・・が、結果が思わしくない、自分が望んだことと反対の結果が出たとき、怒ったり悔やんだり、なんでぇ〜祈ったってダメじゃん、とののしったりするのは、ニセの他力本願なんです。本当の他力本願は、ぜ〜んぶ他力じゃないといけないんですよ。祈ったらお任せ、じゃないといけないんです。
仏さん任せ、ってことですよね。なので、望んでない結果になろうとも、納得して受け入れなければいけないんです。それが本当の他力本願なんですよ。
これができるようになると、強いですよ。怖いものなしです。ま、その心境に到達するのが難しいですけどね。すべてお任せ、文句は言いません・・・・、と思えるようになるには、ちょっと無理がありますよねぇ。
でも、まあ、このコースが自分にあうという方は、挑戦してみてください。

B、右から左へ受け流そう・・・・自力本願コース
何があっても、
「あらそう〜」
と流してしまうことができれば、迷いや悩みなど同ということはありません。金がなくても「まあいいや」、明日食べるものがなくても「まあいいや」、病気になっても「生きている以上、病気は当然仕方がないね」、老いていく自分を見ても「当然でしょう、時は流れるのだから」、嫌な人と会っても「別に気にしないよ〜」、大切な人と別れることがあっても「そういうこともあるさ、じゃあさようなら」、望んだものが手に入らなくても「縁がなかったんだねぇ」、どっちを選ぼうか迷いそうなときも「ま、どっちもどっちでしょ、どっちでもいいじゃん」、この先の人生も「なるようになるさ」・・・・・。
こういう、まったく何も気にしない生き方ができれば、気楽ですよねぇ。
「遊びたければ遊べばぁ〜、働きたければ働けばぁ〜、好きにすればいいじゃん。でも、そのさきどうあろうと、文句言わないでねぇ〜。」
って感じですかね。まったく執らわれない生き方ですね。

この生き方の大きなポイントは、望まない、ということです。これができなければいけません。
「望んだって思うようにならないのがこの世の中。ならば、望まずに、流れのままに流されて生きていこう」
ということですね。ですから、どんな苦労にあっても苦労とは思わず、どんなつらい目にあってもつらく感じず、どんな不幸な境遇になろうとも不幸と思わず生きていくことです。誰にも頼らず、ただ自分の心を雲のように水のように柔軟にしておく、それが大事です。
何も引っかからない、何も障害にならない、するっと抜けていってしまう・・・・。そんな生き方ですね。
すなわちこれは、禅的生き方なんです。空の世界ですね。空を体得すれば、不安は一切なくなるし、迷うこともありません。そう、空に徹することができれば、何も怖いものなどないのですよ。
「死?、どうでもいいじゃん、そんなこと。誰だって死ぬさ」
とすまし顔で言うことができるかどうか・・・。
「明日?、どうだっていいさ。なるようになるさ。年金?、もらえればもらうし、もらえなければもらわないよ。どうでもいいよ、年金なんて。食えなくなれば死ぬだけだから。えっ?、国のせいでそうなっても文句は言わないのかって?、言わないよ。どうでもいいんだ、そんなことは。死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる。お金があれば使うし、なければ使わないだけ。ただそれだけだよ。老後も怖くないね。倒れて動けなくなったら静かに死を受け入れるさ。家族が迷惑?、ま、迷惑はかけるけど、死んだ本人はどうしようもないからね。化けて出てきて、謝るわけにも行かないし・・・。いいんじゃない、それぐらいは。死体が邪魔だったら火葬して骨は流してよ、どこかへ。面倒だけど、法律上捨てるわけに行かないからね。俺にとっちゃ、生も死もどうでもいいことなんだよ。生きているから生きるだけだし、生きているから食べるし、生きているから風呂も入る。風呂に入れなくなったら入らないだけだし、動けなくなったら死ぬだけ。ただそれだけ。右から生まれて左へ流れて死んで行くだけ、それだけ・・・。」
な〜んて思える方は、空を体得できる素質がありますので、頑張ってください。くれぐれも、微塵の執着も持っちゃダメですよ。ほんの一欠けらの望みも持ってはいけません。すべて、空です。すべて右から左へ(左から右でも、前から後ろでもいいのですが)受け流してください。それが、空的生き方です。

C、流れを利用して自分の望む道を作ってしまおう・・・自他力併用コース
困ったことがあった場合、その困ったことを利用して、自分の思う方向に変えてしまおう、とする方法があります。これができれば、困ったこともラッキーなことに変ってしまいますよね。何が起ころうとも、それを利用してさらに発展していってしまう・・・そんなことができれば、困ったこともなくなるし、不安も持たなくなります。迷うこともありません。何があっても、利用すればいいのですから。
しかし、これをするには、相当な智慧が必要です。起きてしまったことを分析し、先を予測し、自分の思う方向へ誘導しなければなりません。何手も先を読まなければなりませんよね。しかも、不測の事態が起こったとき、修正ができなければななりません。なかなか一人では困難です。
そこで、このコースでは自力だけではなく、他力も利用します。自分では智慧を絞り、先を読むという努力をし、他力では自分に力を貸してくれと望むんですね。思うように運んでくれ、と願うのではなく、自分に力を貸してくれ、と望むのです。智慧が足りないから少し貸してくれ、これだけ努力しているから、ほんのちょっとでいいから後押しをしてくれ、援助してくれ、ほんのちょっとのラッキーを与えてくれ、我に力を授けてくれ〜、ということです。
現状を何とかして変えていこう、受け入れるだけでなく、変えてしまおう、それには少し力量不足だ、自分でも努力するが、不足分を補って欲しい・・・・・。
これが、このコースであり、自他力併用であり、実は密教的生き方なんですよ。

受け流すのも困難、他力に徹するのも受け入れがたい、もっと自分も参加しつつ、それでいてうまくいく方法はないか・・・という欲張りなあなたは、この密教的生き方がぴったりでしょう。
どんな状況も、どんな困難も、智慧と工夫と神仏の力で、自分が望んでいる方向へと変えてしまおう・・・、これが密教なのです。現状をいったんぶち壊して、自分の都合のいいように作り変える、という方法もアリです。これが密教なのですから。
密教的な考え方とは、まず自分の意にそぐわない現状を否定しないところから始まります。まずは認めよう、というわけですね。で、その意にそぐわない状況を利用できないか、あるいは自分に取り込んでしまい、自分の思うように変換できないか、ということを模索します。そのときになかなかいいアイディアが浮かばない場合、あるいはどうにも邪魔がある場合、神仏に祈ります。いいアイディアが浮かびますように・・・、邪魔や障害なく事が進みますように・・・・とね。で、祈りが通じれば、アイデアがひらめくでしょうし、邪魔や障害は消え去るでしょう。そうしたら、もうこっちのもの。自分の思う方向へと徐々に道を変えていってしまうのです。
祈りが通じない場合は、さっさと捨てるかぶち壊すのが密教です。捨ててしまい一から作り直す、あるいはぶち壊して新たに作り直すのです。
何か問題が起きたとき、困ったことが起きたとき、その対象や状況をよくよく分析し、先を読み、問題事や困ったことは次のステップへと変えてしまうのです。
多数の中から選択を迫られたときは、即決しないで祈ることです。ラッキーを祈るんですよ。自分に一番あったものを選びますように、とね。迷ったときは、祈るのが一番ですね。あるいは、占いやおみくじを利用するとかね。利用できるものは何でも利用しよう、これも密教です。
不安にさいなまれたときは、その不安の元を探りましょう。原因をつかむのです。で、その原因がわかったら、対処すれば不安は除かれます。
このコースでは、不安を不安のまま放置せず、積極的に原因を探り、対処ししていきます。悩まないんです。悩むくらいなら、その悩みの原因を探り、その原因を徹底的につぶしてしまおう、とします。ぐだぐだいいません。愚痴を言っているヒマがあったら考える、これが重要です。いつも建設的に物事を考える、これがポイントです。
これができるようになれば、悩まないんですね。どんな問題も解決できないことはない、人間が起こしたことなのだから、必ず方法はあるはずだ、と積極的に生きることを考えるのが密教なんです。そのためには、神も仏も利用しよう、なんでも利用しよう、占いも鰯の頭も利用しよう・・・・というほど貪欲なのが密教なんです。
私は、このコースがお勧めですけどね。でも、それには、
「物事を前向きに考える。建設的に物事を考える」
ことができるようにならないといけません。愚痴っている暇があったら、不安で悩んでいる時間があったら、とにかくよくなる方法を考えよう、と思わなきゃいけません。少々、エネルギーが必要な生き方ですよね。こうした、エネルギッシュな生き方が苦手、という方は、お勧めできませんけどね。

さてはて、この世を楽に生きるための方法の、いろいろなコースを紹介いたしましたが、どれも無理、という方もいらっしゃることでしょう。そういう方は、悩みや苦しみはあるけれど、その痛みに耐えられるように強くなれればいい、という控えめコースもあります。この世では、なるべく何事もなきよう、穏便にすめばいい・・・という場合ですね。そこそこでいい高望みなんてしない、普通でいい・・・そういう方は、なにも祈りに撤する必要もなく、空を悟る必要もなく、積極的に生きる努力をする必要もありません。じゃあどうするのか。
簡単です。テキトーに生きればいいのです。いい加減に生きればいいのです。苦しいときは人を頼って、相談して生きればいいのです。助けてもらって生きればいいのです。で、別の形で世の中にお返しをすればいいのです。
苦しい事があったら苦しいと愚痴を聞いてもらう、悩み事があったら誰かにそれを聞いてもらう、不安があったら不安だと告白する、迷い悩み苦しみ愚痴を言う生活する、どうしても困ったら他人に相談をする、他人に結論を委ねる、アドバイスを聞く、で、まあいいか、と生きていく・・・・。そう、あなたの今のままです。そうやって他人に迷惑をかけながら、他人を頼りながら生きていくのです。
でも、それで終わってはいけません。頼りっぱなし、迷惑かけっぱなしではいけませんよね。お返しをしなきゃ。世の中持ちつ持たれつですから。
では、どうするのか。簡単です。プチ親切をすればいいのです。電車内で席を譲るとか、コンビニでおつりの中から小銭を寄付するとか、家の前を掃除したついでに近所を掃除するとか、たまには他人の愚痴を聞いてあげるとか・・・。
「やってもらう」だけでなく、どこかで「してあげる」ということをするのですよ。で、「してあげる」ことが増えてくれば、これは徳積みになりますよね。徳積みは、たくさん貯まればラッキーを生んでくれます。なんとなく生きやすくなってきます。
悩み事も、迷いも苦も、少しずつでしょうが減ってきます。ただただ徳積みをするだけでね。
で、そうしたプチ親切を繰り返し、徳を積みながら、ときには寺を巡って祈ってみたり、時には受け流すよう修行の真似事をしてみたり、仏教の話を聞いてみたり、自分でできる努力をみつけて積極的に生きてみたりするのもいいでしょう。
おそらく、このようにいろいろな方法を併用しながら、積極的でなくそこそこに生きていこう、できる徳積みをしながらテキトーに生きていこう、というのが一番楽な生き方でしょう。
この苦しみの世界、迷いの世界を楽に生きるには、あまり頑張らずにテキトーに生きるのがいいのです。人に頼って、あるいはたまには頼られて、持ちつ持たれつと思いながら、少しずつ親切をし、徳積みをし、祈願したり考え方を少しでいいから変えてみたり、と生きていくのが一番楽なのですよ。

どうせこの世は迷いの世界、ならばテキトーにあまり頑張らずに、そこそこに生きていきましょう。徳が貯まってくれば、いいこともあるでしょうし、来世は少しは良くなることでしょうから。
そんなんじゃ嫌というかたは、上記のコースを試してみるのもいいでしょう。ミックスしてもいいですしね。自分のオリジナルのコースを作ってみてもいいですからね。ま、お勧めは密教コースですけどね。
なお、自分にあった密教的生き方コースを知りたい、というかたは、個人的にお尋ねください。少々厳しいかもしれませんけどね・・・。

ところで、紹介いたしました生き方のいろいろなコースは、日本の仏教の宗派の教えに従った生き方です。祈りは浄土系、空は禅、自他力併用は密教、といったように宗派別の教えに従ってコース分けをいたしました。
この六道の話も今回で終了ですので、ここでこうした宗派の話が出ましたので、次回からは日本仏教の各宗派の教えの話をしていこうかな、と思っています。
あ、でもそうなると、一応仏教の歴史をつかんでおかないといけませんよね・・・。
では、次回から簡単な仏教史についてお話いたします。本格的な仏教講座になりそう・・・かな?。
合掌。


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