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仏教講座

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58回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その7  浄土宗、浄土真宗など
F浄土宗(じょうどしゅう) 
浄土系の教えは、日本独特のものではありません。そもそも浄土を説いたお経や阿弥陀信仰を説いたお経もあったのですから、浄土の教えは大乗仏教の発生とともに説かれ始めたのです。大乗仏教の祖とも言われる龍樹の論書にも浄土の教えが説かれています。また、その流れは中国仏教にも受け継がれ、いくつかの流派が生まれますが、主流は善導が説いた「称名念仏」(南無阿弥陀仏と唱えること)を中心とした教えでした。これは、中国天台宗に影響を与え、中国天台宗の教えの中に組み込まれることになります。すなわち、中国天台宗の中に善導流の浄土の教えが入っていたのです。
中国天台宗を学んだ最澄さんは、当然のことながら浄土の教えも持ち帰っています。そして、日本で天台宗を開いたときに、比叡山系の浄土の教えが誕生します。
日本では、すでに奈良仏教の僧たちによって浄土の教えは説かれていました。しかし、これはあまり世間に広まることはなかったようです。世間に広まっていった浄土の教えは、比叡山系の浄土の教え、すなわち天台宗系の浄土の教えでした。特に流行し始めるのは、平安後期のことです。貴族たちは、己の欲にまみれた行いによって、死後地獄へ落ちることを憂い、こぞって阿弥陀信仰に熱を入れたのです。それには、比叡山系の「称名念仏」の浄土の教えが深く影響しているのです。

浄土系の教えは、浄土門とも呼ばれます。その教えは、いわゆる浄土三部経を根本としています。浄土三部経とは、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経のことです。
*無量寿経・・・阿弥陀如来の前世の物語が中心になっています。阿弥陀如来の前世は法蔵菩薩といいます。この法蔵菩薩が48の願いをたてそれを成就させ、つぎの世に阿弥陀如来となり浄土を得たという内容になっています。
また、阿弥陀如来(無量寿如来)と極楽の世界のすがたを詳しく説いており、念仏を中心とした修行により、極楽浄土への往生を説いているのです。

*観無量寿経・・・阿弥陀如来と極楽浄土を観想する13観、9種類の極楽往生(九品・・・上品・下品など。「こんなところに仏教語」上品下品を参照して下さい)を観想する三観、合わせて16観を説いています。この瞑想法によって浄土へ往生することを説き明かしているのです。

*阿弥陀経・・・阿弥陀如来と極楽世界の様子を簡潔に説き明かし、念仏による極楽往生を説き、六方世界の諸仏が極楽浄土と阿弥陀如来を讃嘆するのだと説き、念仏に対する信心を持つことを勧めています。

ちなみに、浄土宗は観無量寿経を、浄土真宗は無量寿経を、時宗は阿弥陀経を中心としている、といわれています。

*浄土宗・・・ 日本の浄土宗を確立したのは法然上人です。法然さんは、比叡山で修業をしていました。しかし、比叡山の密教を中心とした教えになじまず、浄土門に傾倒していきます。ある日のこと、善導の論書を読んでいた法然さんは、衝撃を受けます。善導の書にあった
「一心に阿弥陀名号を唱えることに専心せよ。普段の行動の時も座っているときも寝ているときも起きているときも、時を問わず阿弥陀名号を唱えよ。念ずることを捨ててはならぬ」
という一説に悟りを得たのです。そこで、比叡山を下り、専修念仏の旗を掲げ、布教にまい進したのです。その教えは、
「徹底的に自力と修行することを廃し、念仏だけを唱えるという他力に頼る」
というものでした。ひとえに阿弥陀如来の願いを信じ、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀如来の浄土である極楽に往生することを説いたのです(法然さんの生涯に関しては「仏像がわかる」高僧編を参照してください)。
ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでいい、という簡単な教え・・・易行(いぎょう)・・・だったので、多くの民衆に広まっていきました。
法然さんの教えの基本は、浄土三部経と世親著の「往生論」、善導の「観無量寿経疏」によります。これらの経論に説かれた教えを中心にし、「選択(せんちゃく)本願念仏集」という論書を書き上げ、一つの宗派を築きました。これが浄土宗の始まりです。現在の知恩院のあたりに草堂を造り、浄土の教えを広めていったのです。なお、その草堂はやがて知恩院となり、浄土宗の総本山となっています。

法然さんのもとには、多くの若い僧が集まり始めます。法然さんは、特に念仏を唱えることを中心とした教えなので、教学的な解釈は弟子の個々に任せていたようです。ですから、それぞれの立場から、弟子たちによって、様々な派が誕生していきます。また、別の宗派も誕生します。そこで、それらを紹介しておきましょう。
*浄土宗内の派
1、鎮西派
弁長を派の祖とします。弁長は、36歳で法然の門下に弟子入りし、主に九州地方で念仏を広めました。このため、鎮西派と呼ばれるようになったのです。弁長から良忠へと教えは受け継がれますが、その後に白幡流・藤田流・名越(なごえ)流・三条流・一条流・木幡流の6派に分かれます。
白幡流は、鎌倉の光明寺を拠点としますが、のちに知恩院に拠点を移します。江戸時代には、増上寺もこの派に属し、他の流派も次々と白幡流に属するようになり、知恩院を総本山とし浄土宗の中心的な派となっています。

2、西山派
証空を派の祖とします。西谷(せいこく)流・深草流・嵯峨流・東山流の4派に分かれますが、西谷・深草の2流が残ります。現在では、西山浄土宗・浄土宗西山禅林派・浄土宗西山深草流が残っています。

*浄土宗とは別の浄土門の宗派
1、融通念仏宗
開祖は良忍(1072〜1132)で、阿弥陀仏の直説として感受した
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」
という偈文に基づき、開いた宗派です。
この偈文の意味は、
「一人の念仏は一切の人々の念仏であり、お互いに唱える念仏が融通し合い、やがてその念仏は何億万回にもなり功徳が円満するのだ」
ということです。なので、念仏を唱えることを日課とし、自分のための念仏ではなく、自他のための念仏を唱えることを説いています。総本山は大阪市の大念仏寺です。

2、浄土真宗
開祖は親鸞さんです(親鸞さんについては「仏像がわかる」高僧編を参照してください)。この宗派の名前は、親鸞著の「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」などに、浄土門の真実の教え、と説かれていることから生まれました。しかし、浄土真宗という名称は、浄土宗からの反発もあり、明治5年になって初めて公称として使われます。それまでは、「一向宗」と呼ばれていました。
教えは、浄土宗の教えをさらに南無阿弥陀仏と唱えることのみに特化した教え、と言ってもいいでしょう。ただただ南無阿弥陀仏と唱えることだけでいい、念仏を唱える生活をすればいい、そうすれば必ずや極楽往生できる、という絶対他力を説くものです。それは一切の自力を捨てなければいけないので、意外に実践するには難しい面もあります。

親鸞さんは、流罪が許されたあと関東に移り、念仏を広めます。特に栃木県の高田では多くの念仏衆が集まり、高田門徒として一派を築きます。親鸞さん滅後、娘の覚信尼が京都大谷の地に親鸞さんの遺骨を納め、廟堂を建てます。その後、覚如の時代に廟堂が寺院化し、本願寺と称されます。このころ、高田門徒の勢力が増大し、本願寺教団と対立します。
本願寺第8世の蓮如は、類前れなる才能を発揮し、本願寺の勢力を拡大し、現在の本願寺の基礎を築きます。また、越前での蓮如の布教により広まった本願寺門徒は農民を中心とした一向一揆をおこしたりします。信長との石山合戦などは有名です。蓮如のあとの顕如のとき、秀吉の寺領寄進により京都に戻ります。その後、家康の時代に本願寺は東西に分かれます。顕如の長男教如は、父親が京都に戻ることを反対し絶縁されます。そこで、後継者は二男の准如となります。これが今の西本願寺の始まりです。一方、家康は教如にも寺領を与えたため、独立して一派を建てます。これが東本願寺の始まりです。
現在では、東本願寺派・西本願寺派・高田派が主流で、他に7派があり、全部で10派に分かれています。

3、時宗
遊行宗ともいいます。一遍上人(1239〜1289)によって1274年に開かれた宗派です。一遍さんは浄土宗西山派の門下であり、法然の孫弟子にあたります。
一遍さんは、熊野本宮に参籠(さんろう)したときに、熊野権現から他力念仏の深意を授けられたそうです。その後、念仏を唱えながら遊行するようになったそうです。熊野権現による教えを受けたことから、神仏習合の立場をとっています。
唐の善導が法会に集う人々を「時衆(じしゅ)」と呼んでいたのにちなみ、一遍上人も自分の門下の僧や尼僧を「時衆」と呼ぶようになり、このことから江戸時代に至り一遍上人の門下を「時宗」と呼ぶようになりました。
教えの根本は口称念仏(くしょうねんぶつ)です。念仏を唱えることですね。ともかく念仏を唱えよと、一遍上人は全国を歩きまわりました。一遍上人の弟子たちも同じように全国を歩いて念仏を唱えることを説きました。このことから、一遍上人の一門を「遊行宗」とも言うようになったのです。
また、特殊な行として踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)があります。これは踊りながら念仏を唱えるという行です。時宗は踊り念仏でも名前が知られています。
総本山は、神奈川県藤沢市の清浄光寺です。藤沢から湘南に向かう道中に一遍上人の寺という看板が出ています。


以上、浄土宗や浄土系の各宗派についてのお話でした。浄土系の宗派は、このようにたくさんあるのですが、最も巨大になったのは浄土真宗です。浄土真宗は、各仏教宗派の中でも最も壇家が多い宗派ですね。それは、簡単な教え・・・ただただ南無阿弥陀仏を唱えれば極楽に往生できる・・・が民衆に受けたためでしょう。他宗派のような難しい教義や修行がないという点が民衆に受け入れやすかったのです。昔は、字も読めない一般市民・・・というのが当たり前でしたからね。字が読めなくても、貧しくても修行ができる、極楽に往生できる・・・ということが民衆に受け入れられたのです。こうして、日本全国に念仏を唱える習慣が広まっていったのです。仏教は知らなくても、「ナンマイダ〜」は知っている・・・といいますからね。
以上、浄土門でした。合掌。


59回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その8  禅宗・・・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗
G禅宗(ぜんしゅう) 
禅とは、サンスクリット語のデゥヤーナ、パーリ語(サンスクリットの俗語)のジャナーの音写です。漢字で書くと「禅那(ぜんな)」となります。これを省略したのが「禅」です。
意味は「精神の安定と統一」のことです。ですから、意訳では「定(じょう)」となり、禅と定を合わせて「禅定(ぜんじょう)」とも言われています。
禅の元は、インド古来からあるヨーガ(これも「瑜伽・・・ゆが」と音写されています)です。これを仏教に取り入れ、禅定という修行としました。お釈迦様がいらしたころから、禅定は重要な修行の一つだったのです。八正道の一つにも入っていますし、悟りに至るための重要な修行として位置付けられています。
この禅定を中心とし、宗派を形成したのは中国仏教において、です。中国に仏教が伝わると、一つの修行方法に過ぎなかった禅定が、生活規範や悟りも禅定のみから得られると考えられるようになったのです。こうして、禅定は、「禅」と呼ばれるようになり、一つの宗派を形成していくのです。特にその元となったのは「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事によるものだといわれています。

*拈華微笑
お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在していたときのことです。お釈迦様は、大勢の弟子たちを前にして、沈黙していました。ふと傍らにあった蓮華の花を一輪とると、それを拈ってほほ笑んだのです。ところが多くの弟子たちは、お釈迦様がなぜそのようなことをされたのかわからず、ポカンとしてしまいました。たった一人を除いて・・・。その一人が、マハーカーシャパだったのです。
マハーカーシャパは、お釈迦様が蓮華を拈ってほほ笑んだのを見て、同じようににっこりとし、うなずいたのでした。それを見たお釈迦様は、
「みごとじゃ、マハーカーシャパのみが我の真意を理解した。マハーカーシャパにだけ、正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教外別伝の真理を授けよう」
とおっしゃったのです。こうして、言葉では伝わらない深い教えが、お釈迦様からマハーカーシャパに伝えられたのです。
これが、拈華微笑の逸話です。禅宗は、この故事に則って誕生したとも言われています。すなわち、言葉・・・お経や論書・・・によるのではなく、禅定を通して、あるいは日常の生活の中での閃きにより悟りが得られえるのだ、と説いたのです。つまり、経典や論書から離れた絶対的な空を体感し、それを得るために言葉に頼らず、以心伝心・不立文字を貫いたのです。これが禅の始まりなのです。

*中国の禅
中国の禅は、唐時代末の禅僧・臨済義玄(りんざいぎげん ?〜866?)によって確立されたといってもいいでしょう。臨済は当時禅僧で有名であった黄檗に弟子入りし、数年を過ごすが悟りを得られず、黄檗の指示により黄檗とともに有名であった禅僧の大愚のところに行きます。そこで大愚との問答のうちに悟りを得ます(大悟した!、のですよ)。で、黄檗のもとにもどり、法を継ぎます。
その後、禅宗は大いに発展し、5派・・・イ仰宗(いぎょうしゅう)・臨済宗・曹洞宗・雲門宗(うんもんしゅう)・法眼宗(ほうげんしゅう)・・・に分かれていきます。その中でも臨済宗と曹洞宗は宋代には中心的宗派となります。日本から栄西や道元が中国を訪れたときは南宋時代でしたから、臨済宗と曹洞宗の教えが日本に伝わったのです。
なお、臨済さんの語録は臨済録として禅の教えでは重要視されています。

*日本の禅
日本に禅が定着したのは鎌倉時代のことです。栄西や道元によって宋の禅が日本に伝えられました。栄西は臨済宗の教えを、道元は曹洞宗の教えを持ち帰っています。
鎌倉時代から室町時代にかけては、禅の文化も発展し、特に室町時代には、禅は大いに発展します。特に雪舟による水墨画などの禅画は現代でも傑作が数多く残っています。また、一休さんのような空を生きる禅僧も現れます。
が、次第に活力を失い、戦国時代には禅そのものではなく、禅の要素を取り入れた茶道がもてはやされます。
禅が再び脚光を浴びるのは、江戸時代に入ってからでしょう。武士の嗜みとして参禅したり、武士道精神に禅が多く取り入れられるようになります。
また、明の隠元さんが来日し、臨済宗に新しい息吹を吹き込みます。さらには、沢庵さんや白隠さん、せんがいさんなどのような気骨のある禅僧が多く排出されます。
なお、江戸時代までは、主な禅の宗派は臨済宗と曹洞宗だけでした。隠元さんを祖とする黄檗宗は明治時代になってから、その宗派名を名乗っています。

なお、禅の修行は生活そのものが修行となっています。座禅や問答はもちろんですが、料理を作ることも、掃除も洗濯も、畑仕事も、寺の修繕などもすべてが修行なのです。そうした何気ない日常の中に、ふっと「わかる」ことがあるのですね。
「あ、お経に説いていることはこういうことだったのか」
「あ、そうか、これが空か」
「わかった、そうだったのか」
「そうか、問答の答えは・・・・わかったぞ」
この瞬間が、いわゆる「大悟」なのですね。ですから、禅の修行と言えば、生活そのものというのが正解でしょう。

@臨済宗
中国は唐末の臨済義玄を開祖とします。馬祖道一(ばそどういつ 709〜788)の頓悟禅を発展させました。主に問答(公案 こうあん)を重視した看話禅(かんなぜん)の禅風です。
日本には鎌倉時代に栄西が臨済宗の黄竜派を伝えました。その後、円爾(えんに)、蘭渓道隆、無学祖元らが楊岐派を伝えました。室町時代に至り、大応国師(だいおうこくし、南浦紹明 なんぽじょうみょう)、大徳寺を開いた興禅大灯国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)、妙心寺を開いた関山慧玄(かんざんえげん)の禅風が中心となり、「応・灯・関(おうとうかん)」の禅として栄えます。
また、室町時代には一休さん、江戸初期には沢庵さんのような高僧も輩出します。戦国時代に衰退しますが、江戸中期には白隠さんが独自の公案を確立し、臨済禅を再興します

教えの中心は、頓悟禅であり、公案により、大悟を目指すものです。もちろん、座禅もします。寺によっては、比叡山の流れをくむことによるのか、護摩を修する寺院もあります。また、法会としては、大般若祈祷法会が有名です。
いわゆる禅問答は、臨済宗系の禅風です。問答をを通して、自由闊達な考え方を養い、空を覚ることが教えの中心でしょう。
なお、臨済宗の座禅は一般的に壁を背にして行います。

臨済宗の主な派は、天竜寺派、相国寺派、建仁寺派、南禅寺派、妙心寺派、建長寺派、東福寺派、大徳寺派、円覚寺派、永源寺派、方広寺派、国泰寺派、仏通寺派、向獄寺派の十四派があります。
特に京都や鎌倉は臨済宗の寺院が多いですね。なお、臨済宗は、室町時代には絵画や庭園において、戦国時代には茶道などの日本文化に大きな影響を与えています。
水墨画の大家・雪舟も臨済宗の僧ですね。京都の寺院では、庭の有名な寺院が多くあり、枯山水の庭は禅により得られる空を示しているといわれています。

A曹洞宗
中国曹洞宗は、洞山良价(とうざんりょうかい)と曹山本寂(そうざんほんじゃく)が開祖とされています。二人の名前の一文字を取って曹洞宗というのです(別の説としては、洞山と曹渓慧能 そうけいえのう、の両者の名前というものもある。日本ではこちらの方が有力)。
臨済宗の問答を中心とした看話禅に対し、ひたすらに座禅をする黙照禅を修業の中心としています。

日本には、鎌倉時代に道元が伝えました。道元は、一時建仁寺に滞在しますが、後に比叡山からの弾圧から逃れるため道元の支持者であった波多野氏により越前に永平寺を開きました。以後、永平寺は曹洞宗の総本山となっています。やがて、いくつかの派に分かれますが、江戸時代に入って、永平寺・総持寺を両本山として末寺をまとめました。それは現代に至るまで続いています。

教えの中心は座禅です。只管打座(しかんたざ)といい、ただひたすらに座禅をすることにより悟りを得ることを目指します。また、曹洞宗も臨済宗と同じで、生活そのものが修行となっています。
なお、曹洞宗の座禅は壁に向かってします。臨済宗とは反対ですね。

B黄檗宗
江戸初期に来日した隠元さんを開祖としています。教えや修行などは臨済宗と変わりません。そもそも黄檗宗の名前も明治時代になり、政府の政策として臨済宗から独立させられたために名乗ったにすぎません。
本山は京都府宇治市の万福寺です。他の臨済宗などの寺院と異なるのは、その建築スタイルです。屋根の反りなどに中国風の姿を残しています。そりが大きいのですね。一見して、他の寺院建築と異なるのがわかります。

隠元さんは、お茶を普及させたことでも有名です。煎茶ですね。宇治に茶畑が多いのも隠元さんによるものでしょう。また、何と言っても隠元豆は隠元さんが中国からもたらしたことで知られています。皆さんも隠元豆を食べたことがあると思いますが、知らない間に仏教に関わっているんですね(ちなみに空豆は弘法大師が中国から持ってきたものと言われています。弘法大師・・・空海・・・の空の字をとって空豆というのですよ)

禅が日本にあたえた影響は計り知れません。武士道もそうですし、茶道もそうです。空の教えを広めたのも禅でしょう。また、庭の造り方や絵画への影響も大きなものがあります。さらには、皆さんご存知の「ナゾナゾ」は禅の公案がもとです。多くは白隠禅師が作ったものといわれています。
精進料理も禅宗寺院の食事からきています。お漬物の代表のタクワンは、沢庵禅師によるものと言われてますし、ガンモドキも禅宗の僧侶が考え出したもの、といわれています。知らないあいだに禅のお世話になっているのですよ。
禅宗の教えをちょっとだけ味わってみたい、と思うのでしたら、京都の禅宗寺院を参拝するといいでしょう。庭を眺め、座禅などをしてみると空がわかるかも・・・・しれません。
また、真冬に永平寺を参拝すれば、禅の修行の厳しさを垣間見ることができます。根性のないダメ男くん、真冬の永平寺で修業してくるといいですよ〜。私は嫌ですけどね。
以上、禅宗でした。
合掌。


60回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その9  日蓮宗
日蓮宗という名は、近代になってからの名称です。中世末までは法華宗と呼んでいましたが、天台宗から抗議されたため、天台法華宗と区別して日蓮法華宗と称するようになりました。やがて、法華が略され日蓮宗となったのです。開祖の名を宗派名とする宗派は珍しいですね。それほど、日蓮宗の教えは日蓮さんによっていると言えましょう。
総本山は身延山久遠寺です。

日蓮さん(1222〜1282)は、千葉県小湊の生まれです。16歳で出家し、鎌倉で学んだ後、比叡山で修業します。比叡山に籍を置きつつ、高野山で密教を学んだり、浄土門も学びますが、次第に法華経中心の信仰を確立します。
やがて、日本を救うことができるのは法華経しかない、という法華経第一主義に至ります。それは、日蓮さんの激しい性格により、他宗派排撃という布教へとなっていきます。
特に浄土門を攻撃し、念仏の廃止と法華経による国家の確立を訴え、「守護国家論」や「立正安国論」を著し、鎌倉幕府に進言します。しかし、これは受け入れられず、むしろ迫害や弾圧に苦しむことになります。それは、日蓮に自らが法華経に説かれる菩薩であるという自覚をもたらすのです。法華経には、「この教えを説く者は難にあう」とあったからです。
その後、佐渡に流罪になり、その地で「開目抄(かいもくしょう)」や「観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」を書きあげます。
流罪が解かれ、鎌倉に戻りますが、日蓮の説くところが世に受け入れられないと知り、身延山に草庵を結びます。弟子の育成とともに、「三大秘法」を説き明かし、それに基づいた「撰時抄(せんじしょう)」を著します。61歳で下山し、故郷へ戻る途中、信徒の池上氏の邸宅で息を引き取ります。この地は、後の池上本門寺(いけがみほんもんじ。東京都)になっています。

さて、日蓮さんの教えですが、それは日蓮さんの著作を紹介したほうがわかりやすいので、簡単に説明しておきます。
*「守護国家論」(1259年の著作)
法華経を最高の教えとしています。その立場から、法然の念仏が社会的に悪影響を及ぼしており、法然排撃を説いた論書となっています。38歳のときの著作です。
この時点では、法華と真言を正法としており、現実世界こそが浄土であり、西方浄土などは穢土であると論じています。つまり、西方浄土に希望を託すのではなく、現実世界が浄土であるのだから、法華経を信仰し、現実世界の社会を正していこう、ということですね。
それはその通りで、人々が念仏に偏れば、死を優先してしまうという矛盾に陥り、社会は荒廃してしまいます。生を厭い死を望むようになってしまうのです。そうなれば、誰も働かなくなってしまいます。社会は混乱し、国家は成立しなくなります。
そうしたことを説いたのがこの論書です。

*「立正安国論」(1260年の著作)
守護国家論の1年後に書かれた論書です。「守護国家論」の念仏排撃色をさらに濃くしたものです。国家の安穏の実現について日蓮独自の方策が説かれています。「主人」とその主人に折伏される「客」の対話形式となっています。主人は当然ながら日蓮さんのことですね。
その主人は、頻発する災害の原因は法然の念仏という悪法が流行っているせいだ、とします。念仏という悪い教えの流行により、国家を守護している善神や聖人が日本を捨てたため、天変地異などの災害が起こる、と説いているのです。
まあ、現代人からすればとんでもない言いがかりですが、念仏を唱えていた者たちの中には、仕事もせずただ念仏を唱えながら悪行三昧をしていた者も多数いたため、社会問題となり始めていたことは否定できません。それは、国家の荒廃にもつながることです。そのことを憂いていたのでしょう。しかし、日蓮さんの場合はそれだけではなく、念仏そのものが悪法だと断定していました。
日蓮さんによると、日本をよくするには、善神や聖人に日本に戻ってきてもらわねばなりません。そのためには、法華経以外にはない、と説くのです。法華経を広めれば、善神や聖人は自ずと戻ってきて、日本を守護するのだ、と説くのです。したがって、すぐさま念仏を排除し、法華経を広めよ、と説いています。さらには、法華経を広めなければ、諸外国から攻撃を受ける、とも説いています。これは、元寇の予言であったとされる部分です。

日蓮宗の教えは、この立正安国論が基本とも言えるでしょう。「法華経以外、日本を救える教えはないない」、というのが日蓮宗の基本の教えなのです。その他は、いかにこの法華経を広め、理解を深めるか、に集約されていきます。
日蓮宗の教えの神髄は、「法華経のみ」に尽きるでしょう。

*「開目抄」(1272年の著作)
日蓮さんは、法華経以外はすべて悪法だ、と説くようになります。そのため、数多くの迫害を受けます。それは当然ですよね。戦いを挑めば、相手も黙ってはいません。戦う相手が大勢なら、味方の少ない日蓮さんが迫害を受けるのは仕方がないことです。
が、弟子たちはそうは思わなかったのですね。素晴らしい教えであり唯一つの本物の教えである法華経を布教しているのになぜ迫害を受けるのか、疑問に思い始めたのです。それに答えたのが、この開目抄です。
ここでは、法華経を説くもの、布教するものは必ず迫害を受けると法華経に説かれている、その迫害に耐えて布教するものこそが真の法華経の行者である、と説いています。したがって、日蓮さん自身が真の法華経行者であることは、迫害を受けている事実があることからも明白である、と答弁しているのです。
さらに、自分は真の法華経行者であるから、「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」になろうという三大誓願を立てています。

日蓮さんにしてみれば迫害を受けるのは当然であり、むしろ喜ばしいことだったのです。しかし、冷静に見れば、大いなる勘違いと言いましょうか、そりゃ迫害を受けるだろう、と思います。布教の方法論が間違っているからです。もっとうまい方法があったのでしょうが、あまりにも実直、あまりにもストレートすぎたのでしょう。真正面しか見ない、見えない性格だったのでしょうね・・・・。

*「観心本尊抄」(1273年ころの著作)
法華経の教えは、すべての人間が成仏できる、というところが重要です。それは、法華経の本門(法華経は28品あり、前半の14品を迹門(しゃくもん)、後半の14品を本門という)に説き明かされているのですが、本門の教えは「妙法蓮華経」の題目に集約されているので、その題目だけを唱えればいい、と説いています。これが「本門の観心」です。すなわち、小難しい教えなど知らなくてもいい、「南無妙法蓮華経」とだけ唱えれば、法華経の功徳が得られるのだ、と説いているのです。
さらに、その対象となる本尊は、「妙法蓮華経」の五文字と、釈迦如来・多宝如来などの諸仏の名を記したもの・・・すなわち日蓮宗でいう大曼荼羅・・・である、と説いています。

とまあ、結局は題目を唱えるだけで功徳が得られる、という念仏と同じことを説いているのです。念仏は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に生まれ変わることができる、としています。日蓮さんは、死んでから極楽往生するのではなく、現実世界が浄土なのだから、この現実世界において題目を唱えることによって法華経の功徳を得る、と説いているのです。「功徳を得るのが死後か今か」、「念仏か題目か」の違いはありますが、行為そのものは、同じですね。功徳を得る方法論は同じと言えます。
結局は、難しい理屈も修行も民衆には受け入れられなかったのでしょう。仏教の難解さを強調すれば民衆が離れる、安易さを強調すればレベルが下がる・・・・。布教は難しいものです。そのバランスが大切なのでしょう。どちらかに偏ってはいけないのですね。それが中道です。
が、念仏も題目も、「ただ唱えればいい」に偏ってしまったことは否定はできません。

*「三大秘法」
秘法とするほどのことではありません。末法の衆生を救うためには、三つのことが重要、と説いたのです。
@本尊・・・これは日蓮宗でいう大曼荼羅のことですね。
A戒壇・・・戒を授ける地が重要としています。つまり、教えを説く根本道場の場所のことです。身延山や富士といった特定の場所を意識してるようです。天台宗の比叡山、真言宗の高野山と同じ意味合いです。
B題目・・・題目を唱えよ、ということですね。
つまり、選定された特殊な場所で、大曼荼羅を本尊とし、題目を唱えることが三大秘法ということです。それだけです。

*「撰時抄」(1275年の著作)
末法の世こそ、法華経を説くべきだ、と説き明かしています。さらに、他宗派はすべて国を滅ぼす、特に真言宗は亡国だ、と説いています。
初めのころの著作では、法華経と真言のみが国を救う、と説いていたのですが、ここにきて真言は亡国の悪法となっています。

いずれにしても、日蓮さんの頭の中には、法華経以外ありませんでした。したがって、日蓮宗は、日蓮さんの教えを踏襲しているがゆえに、排他的な面があります。法華経以外は認めない、というところですね。
日蓮宗は、日蓮さんの死後、分裂を始めます。日蓮さんが法華経について説き明かしたにもかかわらず、解釈の違いが出てくるのです。これは仕方がないことでしょう。どの宗派にも起こり得ることです。
やがて、近世にはいると、「一致派」である身延山久遠寺・池上本門寺・中山法華経寺、「勝劣派」である富士大石寺・京都妙満寺・本能寺などに二分されます。それは、近代になり、一致派が日蓮宗を名乗り、富士大石寺は日蓮正宗となり、顕本法華宗・法華宗・本門法華宗・日蓮本宗・本門仏立宗などに分かれていきます。
なお、日蓮正宗は、あの創価学会を生みます。創価学会は、日蓮正宗の信者団体だったのですが、権力を持ちはじめ、やがて寺院側と決裂し、新興宗教となります。

私は、法華経というお経自体は好きです。というより、お経はすべてお釈迦様の説かれたものであり、どのお経も正しいものです。これだけが正しくてあとはダメ、ということはありません。
そのところを勘違いしてしまった日蓮さんは、ちょっと哀れでもあります。もっと広い視野を持てば、よかったものを・・・・と思います。あるいは、もっと別の方法があったろうに、とも思います。
「法華経以外は正しくない」
こんな教えは間違っているのです。どの教えを信じるかは自由なのです。排他的な教えは、他の個性を認めない独裁主義にもつながるものです。自由な発想、自由な意志、自由な信仰、それが大切なのです。
日蓮宗は、ちょっと、極端に走ってしまったという印象がありますね。
合掌。


61回のテーマは

仏教への疑問

その1  方便
今回から新しいテーマに入ります。内容は、現代の仏教、あるいは古くからの仏教に対して
「なんかへんだな?」
と、みなさんが思うことに対してお答えしようと思います。ですので、仏教に関して、お寺に関して、仏教儀礼や行事、儀式などに関して、疑問がありましたら、どんどんメールをください。ここでお答えしますので。
今回は、一回目ですので、「方便」という題でお話ししていきます。

私の元に届いたあるメールがあります。届いたのはもうずいぶん前です。いつだったかも忘れてしまいました。
そのメールにあった質問は(質問というより、実は嫌がらせメールのようなメールでした)、このような内容でした。
「仏教は本来占いは禁止していたはず。その占いを載せているお前はニセ坊主」
と、まあ、こんなような内容だったと思います。大変短い、変なメールでした。
このように、その内容は質問ではないのですが、ちょうどいい機会だからこれに答えようと思います。
(このメール、「仏教は本来占いを禁じていたはずですよね。なのになぜ、このHPでは占いを載せているのですか」と書けば、ちゃんとした質問のメールになるのにねぇ。言い方一つで随分と印象は変わります。実に惜しいですなぁ)

お釈迦様がいらした当時の仏教、及びお釈迦様入滅後の初期仏教では、確かに占いは、することも語ることも禁じられていました。それは、悟りを得ることと関係がないからです。
初期仏教は、出家主義です。出家しなければ悟りが得られない、とした仏教です。出家して、真理に関して瞑想し、規則正しい生活を送ることにより、悟りを得るのが初期仏教です。
ところが、大乗仏教になると、「出家しなくても悟りが得られる」、「出家しなくても救われる」という考えが主流になります。出家しなくても、在家のままで仏教に救いを求めればいいのだ、そうすれば苦のない世界へ行ける、という教えが主流となったのです。
そうした流れの中で、人々を救うためいろいろな手段を講じることは善いことだ、という考えが生まれます。それは菩薩の行為だ、と。そしてそれは「方便」と呼ばれるようになります。

菩薩が人びとを仏教に導くために用いる方便には、そりゃあいろいろあります。わざと意地悪をして苦しんでいるところを救うとか、自らを身分の低い者に落として、貧しい仲間になっていろいろな話をしながら仏教を教え込む「洗脳型」とか、とびっきりの美女の姿を現して「私が欲しいなら一生懸命働いて。人のためになって働いて」と誘惑し、誤った道を歩いているものを正しき方向へ導く「目の前にエサ型」とか、道端の占い婆の姿となって人びとを正しい生活に導く「誘導型」とか、それはそれは様々な手段がとられたのです。それは、
「最終的に仏教を信じるようになれば、その過程は問わない」
という思想に基づいています。

もちろん、これは一つ間違えばとんでもないことになりかねません。仏教に導くためなら何をやってもいい、というような危険思想にも発展しかねないのです。実際、そのような怪しい宗教・・・仏教の名を借りた・・・も生まれました。
しかし、そうした怪しい宗教は、結局は社会に受け入れられず、歴史に埋もれて行ってしまったのです。人間は、そこまで馬鹿ではありませんからね。
しかも、正しい大乗仏教には、どんな手段を用いてもいい、という考え方があったわけではありません。そこには、
「人々を救いたいという慈悲の心、人々を救うことによって自らも悟りに近付くという菩提心」
これがなければならない、という条件が必要です。これは忘れてはならないことですね。
とまあ、このように、人々を救うためには、あるいは仏教を広く知らしめるためには、ある程度の方便は許されるのです。

大乗仏教になってから、こうした方便が生まれた、と言いましたが、実はお釈迦様も方便を使っているのですよ。
たとえば、ナンダにした方便。
ナンダは、お釈迦様の異母弟です。お釈迦様がカピラバストゥを捨ててしまったため、将来はお釈迦様に代わってカピラバストゥの王になる予定でした。それが、お釈迦様によって、無理やり出家させられてしまうのです。しかも、ナンダは、結婚式を間近に控えていました。相手の女性はインド一の美女、だったそうです。ですから・・・。
出家したナンダは、毎日結婚相手の女性を思い出しては泣いていたのです。泣いてばかりでちっとも修行をしないナンダを見て、お釈迦様は神通力によってヒマラヤ山中に連れて行きます。そこで火傷をした雌ザルを見せます。
「この雌ザルと汝の嫁になる予定だった女性とどっちが美しい?」
お釈迦様はナンダに聞きます。ナンダは
「もちろん、嫁に決まっています。あぁ、恋しいよぉ〜、会いたいよぉ〜。お釈迦様を怨みますよぉ〜、無理やり出家させて・・・」
と泣きながら答えます。そんな泣きごとには耳を貸さず、お釈迦様は今度はナンダを天界に連れて行きます。で、天界の超美女をナンダに紹介します。
「この天女と汝の嫁になる予定だった女性とどっちが美しいか?」
お釈迦様はナンダに聞きます。ナンダは、それはそれは美しい天女を見て、もうびっくり。
「も、もちろん、この天女様ですぅ〜。おぉ、なんと美しい。この天女に比べたら、嫁は先ほどの醜い雌ザルのようなものですよ」
「この天女と一緒に暮らしたいか」
「そりゃあ、もちろん。一緒に暮らしたいです」
「一生懸命修行すれば、ここで暮らせるのだ」
「え、本当ですか。じゃあ、修行に励みます」
天女を前にしたナンダの態度もひどいものですが(女性から見たらサイテーの男ですよね)、ナンダはこのおかげで懸命に修行をして、やがて悟りを得ます。もちろん、天女のことなど、何とも思わないようになっていました。
お釈迦様も、こうした方便を使っていたのです。なにも、大乗仏教だけではなかったし、初期仏教でも方便はあったのですよ。

これと同じように、仏教では占いやおみくじが認められています。それは人々をお寺や仏教に近づけるための方便なのです。占いやおみくじがきっかけで、仏教に触れるようになれば、それはそれでいいじゃないか、という考え方ですね。
たとえば、このHPの占いを見て、ついでにほかのページも覘いてみたとします。それがきっかけで、
「へぇ〜、仏教って結構面白いじゃん」
と興味を持ってくれたなら、それはとってもいいことじゃないでしょうか。

仏教は、大変懐の深い宗教です。人々を救うためならば、ある程度の方便を用いてもいいじゃないか、という宗教です。ですから、占いをしているお坊さんは「ニセ坊主」ではないのですよ。
もし、占いが方便としていけないというのなら、お釈迦様の用いた方便はなぜいいのでしょうか?。どこが違うのでしょうか?。同じ方便でしょ。
星祭りも、一種の占いです。これを日本に正式にもたらしたのは、弘法大師です。占いをする坊さんがニセ坊主というのなら、弘法大師もニセ坊主となってしまいます。

これで私にメールを送った方は理解できたのではないかと思います。まあ、ずいぶん前の話なので、このHPを見ていないかも知れませんけど。
わかっていただけたでしょうか。人々を救うためなら方便を用いていいんですよ。


61回のテーマは

仏教への疑問

その2  一休さんの生き方
前回から新しいテーマに入りまして、皆様に仏教に関するご質問を募集いたしましたところ、このようなメールを頂きました。要約して掲載いたします。
「仏教への疑問、とは少し異なるかもしれませんが、納得ができないのでメールを送りました。
仏像がわかるのページで一休さんを紹介していました。一休さんへのイメージが随分変わってしまいましたが、あの一休さんの生き方は、仏教的に許されるものなのでしょうか。晩年、女性におぼれてしまった一休さんは、お坊さんとして許されるのでしょうか。ああいう生き方って、仏教ではいいのでしょうか。いけないのではないでしょうか。教えてください」
すごくいい質問ですよね。ちゃーんとこのHPを読んでくださっているんですねぇ。有り難いことです。
また、大変、御尤もな意見だと思います。誰もが抱く疑問なのではないかとも思います。いや、こうした疑問を持って欲しいですね。
「ふ〜ん、一休さんてすごーい。やるじゃん」
で終わって欲しくないです。むしろ、このメールの方のように
「いいのぉ、お坊さんが女性におぼれて。それっていけないことじゃないの?」
と批判や疑問を持って欲しいですね。
「それが禅なんだよ」
な〜んて、あたかも知っているような顔はしないで欲しいですね。
「禅の坊さんって・・・わからん」
と思うことはいいことです。どんなことにしても、「疑問に思う」ことは、考えることになるので大切なことですよね。どんなことでも、確信を得るまでは疑ったほうがいいものです。

さて、質問のメールに対してですが、答えを先に言ってしまえば、
「一休さん的生き方は、仏教において認められる」
です。恋におぼれた一休さんでもそれは構わない、仏教では許されること、なのですよ。

お釈迦様がいらした当時、お釈迦様の信者は出家者と在家者に分かれていました。今でも、出家者は仏教を説くお坊さん(あるいは葬式をするお坊さんともいいますが)、在家者は檀家や信者といったように分かれています。
出家者は、仏教教団の精舎(現代では寺院)に住み、そこで修行の生活を送ります。出家者の目的は、「悟りを得ること。六道輪廻からの解脱です。お釈迦様がいらした当時は、「悟りを得て、六道輪廻から解脱すること」が最終目標だったのです。
もちろん、今でも、否、いつの時代でも出家者=お坊さんの最終目的は、悟りを得ることでしょう。しかし、それだけではありません。
お釈迦様がいらした当時は、出家者は、悟りを得ることだけを目標にしていればいよかったのです。それ以外は何もないのです。後に登場する大乗仏教のような「人々を救う」ということは二の次でよかったのです。まずは己が悟りを得ること、これが大事なことだったのです。人びとを救うことはお釈迦様がしたからです。出家者は、悟りを得ることに専念できたんですね。そして、そのためには、規則正しい生活を送らねばなりません。欲を慎まねばなりません。それが早道だからです。

お釈迦様は効率よく悟りに至る方法を考えました。それは、出家させて、集団生活を送り、一定のルールに従って修行することです。そうすれば、余分なことを考えず、修行に専念できます。
ルールは簡単です。修行者同士の争いにならないようにすることと、欲を慎むようにすればいいのです。基本的には、
・金銭は持たない
・個人的な布施は受け取らない
・食は托鉢で賄う
・衣など布施されたものは平等に分ける
・規則正しい生活を送る
・異性と交わらない
でしょう。金銭に関すること、衣食住に関すること、性欲に関することが基本です。
効率よく悟りを得るために、お釈迦様は異性との交わりを禁止しました。お釈迦様という指導者の下で、素早く悟りを得るには、余分なよくはすべてカットすればよかったのです。

しかし、ここで疑問がわいてきます。悟りを得るには出家をしなければいけないのか、ということです。在家では悟れないのか?という疑問ですね。
お釈迦様は、在家では絶対悟れない、とは言ってません。在家では悟りに至るのは難しい、とはいってますが。すなわち、それは在家でも悟れる、ということになります。
実際、在家であっても、祇園精舎を寄付したスダッタ長者や、維摩居士のモデルであったと思われる財産家や、コーサラ国王の第二夫人(第三夫人かも)のマッリカーなどは、素晴らしい智慧を有し、しばしば出家者をやり込めています。
そう、在家でも悟りを得ることはできるのです。

お釈迦様が入滅された後、次第に仏教が二つに分かれていったことは、もう何度もお話しましたね。大乗仏教の登場です。その背景には、
・自分の悟りだけでなく、人びとを正しく導くことが大切だ
・出家して修行しても悟れない
・在家であっても、欲を持った生活をしていても悟りを得た者が現れる
ということがありました。つまり、出家の意味が揺らいできたのです。
とはいえ、在家の人々を導くには、出家者が必要です。出家して、仏教を学び、修行をしなければ、人々を導くことはできません。たとえ、自分自身は悟りは得られなくても、民衆を正しい方向へむけることができるなら、民衆の苦しみを和らげることができるなら、それでいいのだ、という考え方が大乗仏教です。こうした、考えを元に、出家者は在家の人々に近付いていったのです。
つまり、囲いの中で自分が悟りを得ることだけに専念し、民衆を捨て置くのは間違いだ、自分は悟らなくてもいいから、少しでも人々の苦しみを無くしていこう、そのためには民衆に溶け込むことだ、という考え方ですね。己だけはきれいなところにいて、高みから物事を言っても、誰もついては来ません。人々と同じように泥にまみれ、苦しみ、悩み、そしてその中から這い上がって初めて、人々の苦しみが理解できるのであり、人々もついてきてくれる人間になれるのです。これを一言で言い表したのが、「和光同塵(わこうどうじん)」です。光を和らげ、塵と同じになる、ということです。

大乗仏教には、このような考え方がありますから、比較的自由な発想が生まれます。その中で生まれてきたのが「禅」です。
「禅」自体は、お釈迦様の時代からありました。禅那(ぜんな)といい、一種の瞑想のことを意味しています。お釈迦様のころは、単なる瞑想だったのですが、大乗仏教になると、これにいろいろな意味がついてきます。そのもっとも特徴的な禅の意味は
「空」
です。禅はすなわち空となるのです。禅によって空を得るのですね。こうして、仏教独特の空の思想が誕生します。

空とは、どんな思想でしょうか。それは一言で言えば「こだわらない」ということです。一切のこだわりを無くした状態が空です。空であれば、在家であっても悟りを得られます。なぜなら、こだわらない生活を送ればいいのですから。
たとえば、夫や妻があっても、その夫や妻に執着しなければいい。夫や妻に執着しないとは、いい加減に扱うということではなく、お互いに大事にしあい、尊敬しあって生きていき、争うことなく、平和に暮らしていくことです。そして、どちらかが亡くなっても悲観したり、打ちひしがれたりしないで、じっと耐える・・・・。また、夫や妻を信頼し合い、お互いに裏切ったりしない、またその行動を疑ったりしないことも大切です。夫婦が自然に生活できること、それが在家の空です。
また、欲しいものにこだわらず、縁があったら手に入る、なければ入らない、という生活を送ること、それが空的生き方です。こういう生き方ができれば、在家でも悟ることができるのですよ。
一切にこだわりを無くした状態・・・・それが空です。

空の思想を掲げる禅の教えには、ちょっと変わったところがあります。そのことを示したいい話があります。
あるお婆さんが寺を建てました。お婆さんは、ぜひ禅のお坊さんに住職になってもらいたいと思います。そこで、住職になってくれる禅のお坊さんを募集します。やがて、三人のお坊さんが集まりました。お婆さんはテストします。採用試験ですね。その試験は女性の誘惑でした。
一人目のお坊さんがお寺に泊まりました。すると、見目麗しい女性が
「抱いてください。一生のお願いです。でないと私は生きていけません」
とすり寄ってきました。するとそのお坊さん。
「私は出家者です。あなたを抱くことはできません」
と断ります。女性は
「あぁ、なんと冷たいことを・・・。では、私は死にましょう」
と泣きだします。お坊さん、
「泣こうが喚こうが、抱くことはできん。死んだら供養をしてあげよう」
と冷たく言い放ちます。女性は、「なんて人!」と叫びながら寺を出ていきました。そのとき、
「お前さんは失格じゃ!」
とお婆さんが現れ、お坊さんを追い出してしまったのです。
二人目。同じように泊まりますと、女性が誘惑してきます。お坊さんは、困ってしまい異性との交わりをしても救われぬのだ、と懇々と説き始めました。抱いただけでは、根本的に救われないのだ、と。迷いや悩みの原因は他にあり、抱かれることで解消はされないのだ、と。つまり、仏教の正論を説いたのです。
延々と続く説教に、
「あぁ、うるさい!。そんなことは説かれなくてもわかっておるわ!。わかっておるが、どうしようもないこともあるのじゃ!」
と、お婆さんが叫びながら現れます。そして、二人目のお坊さんも「失格じゃ」と追い出してしまいます。
三人目。同じように女性が誘惑に来ます。するとそのお坊さん
「わしが抱くことで汝が救われるのか」
と問います。女性はうなずくと、「ならば抱くとしよう」と言って、女性を抱いてしまいます。すると、
「なぜ抱いた!。出家者とあろうものが!」
と、お婆さんが叫びながら出てきます。お坊さんは、
「それでこの者が救われるなら、いいではないか。己が罪を受けてもそれはそれ。自分は汚れても、この者が救われるなら、それでよい」
と答えます。その言葉にお婆さん「合格じゃ!」と叫び、そのお坊さんに住職をさせたのだそうです。
禅には、こういうところがあるのです。

禅の思想には、こうした考え方がある、ということを頭に入れておいてください。
さて、一休さんです。
一休さんがいた当時、多くのお坊さんが、権力者にすり寄り、金品の供与を受けていました。また、大寺に住まい、将軍家や武家に偉そうに教えを説いたりしていました。民衆とはかけ離れたところにいたのです。日が昇るときは、偉そうな態度の立派な僧侶。絢爛豪華な袈裟衣を身につけ、肌もつやつや。威張った態度でお経をあげたり、説教したり・・・・。
ところが夜ともなると、色街で武家や公家の接待を受け、飲めや歌えや、肉を食らえ酒を飲め、女を抱け大いに騒げ・・・・。昼間には決してそのようなそぶりも見せない高僧がたくさんいたのです。お金なんてもらってない、接待なんて受けてない、魚肉なんて食べてない、酒なんて飲んでない、女なんて抱いてない、清浄潔白なお坊さんですよ、という顔をしてお経をあげているのです。禅を説き、悟りを説いていたのです。
一休さんは、これがたまらなく嫌でした。大嫌いでした。それは、
「出家者たるもの、ダメじゃないか!」
という意味で嫌っていたのではありません。嘘や隠し事が嫌だったのです。民衆の目を欺いていたのが許せないんですね。つまり、酒を飲むなら飲め、女を抱くなら抱け、ただし、そんなことしませんという顔をするな、むしろ、抱いてなぜ悪い、という顔をしろ・・・・ということだったのです。遊びたいがため、権力を貪りたいがため、権力者に近付き、乱痴気騒ぎをしておきながら、表向きは、清廉潔白を見せようとしている、その偽善ぶりが大っ嫌いだったのです。
なので、一休さんは、
「あんなヤツラと同じにされてはたまらん。オレは、女も抱くし、酒も飲むし、魚肉も食う。オレを探したいなら、その界隈をあたれ!」
という破戒宣言をして寺を飛び出すのです。痛烈なあてつけですね。嫌味です。皮肉です。こうやって堂々と戒律違反を宣言できないようなヤツらが、偉そうな顔をするんじゃねぇ、ということなのです。やるなら堂々とやれ、ということですね。それが空ってもんだろ、というわけです。
なので、一休さん、遊びまくりますね。でも、こだわりませんでした。遊べないときは貧乏してましたし、貧乏も苦にはなりません。また、「一休殿抱いてください」と言われれば、どんな女性も抱いたでしょう。下賤の身分だろうと、醜かろうと、お構いなしだったようです。
「どうせ骸骨同士がからみあっているんじゃ」
という考えもあったようです。

そんな一休さんが、純愛におぼれます。晩年のことです、そう、それは純粋な愛だったのです。相手は森女という盲目の旅芸人。40歳ほどの年齢差。お互いに大恋愛です。それは醜い愛憎劇ではありません。まるで、赤ん坊が母を慕うように、一休さんは森女を慕いました。まさに純愛です。純粋なる愛情であって、他の何ものでもありません。その愛情の表現として交わりがあったにすぎません。
もちろん、朝昼晩、ひっきりなしに森女と戯れていたわけではありません。昼間は、訪れる人々に教えを説き、愛の素晴らしさを語り、一人では生きていけぬことを語り、人と人の関わりを語ったのでしょう。一休さんを慕うものは数多くいました。
偽善者ではなく、孤高の聖者でもなく、どっぷりと俗世に浸かり、しかも俗にとらわれない。そんな一休さんに多くの方が清浄さを見いだせるのではないでしょうか。

分別もある晩年になって、
「森女が好きじゃ〜」
と恥ずかしくもなく言ってのける一休さん、羨ましい限りです。とても真似できそうにないかな、と思いますね。心の中に曇りなど一点もありません。それこそが、一休さんの禅なのでしょう。
だから、一休さんのような生き方は、仏教では非難しないし、否定もしないのです。まさに、純粋。清浄すぎるくらい清浄ですね。
むしろ、否定するようなお坊さんは、その裏で何かやってるんじゃないかと疑ってしまいます。偽善じゃないか?、とね。あるいは、本当はしたいけど、真似できないから、やっかみで批判しているんじゃないか、とね。

考えてもみてください。現代では、ほとんどのお坊さんが結婚をしています。一休さんを批判することなどできませんよね。自分たちは、女性を抱き、家族を持っているくせに、晩年に女性におぼれた一休さんを批判できるでしょうか?。できませんよね。自分たちの方が「汚れ」ですよ。一休さんほどの純愛に生きられないでしょうから。中途半端なんですよね、我々は。
したがって、一休さん的生き方は、仏教において認められるのです。誰にも非難も否定もできないのですよ。
仏教は、奥が深いでしょ。

このように、毎回仏教に関する疑問に答えていこうと思います。ということは、皆さんの疑問のメールがないと、このページは成立しません。ですので、何か疑問を見つけてですね、ぜひぜひメールを送ってくださいな。
よろしくお願いいたします、合掌。


62回のテーマは

仏教への疑問

その3  動物にも仏性があるか
今回も、ご質問のメールをいただきました。ありがとうございます。
早速、ご質問の内容を要約して紹介いたします。

「動物に仏性はあるのでしょうか?
以前、他サイトのお寺の御坊様に『一切衆生悉有仏性は、人間のことであって畜生のことではない。畜生に仏性はない』と教えられましたが、実際のところはどうなのでしょうか?。教えてください」

今回も、大変いい質問ですよね。真面目に仏教を学ぼうと思っている方がいらっしゃることは、喜ばしい限りです。
さて、この質問にある
「一切衆生悉有仏性」
という言葉は、涅槃経に説かれている言葉です。意味は、
「すべての生きとし生けるものには、仏性・・・仏陀となることができる因・・・が有る」
という意味です。これを別の言い方で「如来蔵(にょらいぞう)」ともいいます。

「衆生」とは、一般的に
「すべての生あるもの、生きとし生けるもの」
のことを意味します。ですから、もちろん、動物も虫も人間も、皆含まれます。さらに、生きとし生けるものであるから「植物や物質」も含まれるのだろう、という解釈も生まれました。そこから
「山川草木悉有仏性」
という言葉も生まれました。山も川も草も木も、すべてに仏性があるのだ、という考えですね。この世の存在すべてには命があるのだ、という思想です。私は、この思想はとても大切だと思います。これぞ仏教であると・・・・。
とまあ、そのことについては、後ほどお話しましょう。ここでは、もう少し詳しく「一切衆生悉有仏性」について解説したいと思います。

まずは、「衆生」です。
これについては、意見が分かれる場合があります。それは、
@衆生とは人間を指して言う言葉である。すべての生あるものというなら「有情(うじょう)」というべし。
A衆生とは、生きとし生けるもの、すべてをさしていう言葉である。「有情」は、心を持たない物質・・・植物や鉱物など・・・の非情に対していう言葉である。
です。
しかし、意見が分かれるといっても、大乗仏教ではAを採用しています。@の考え方は、初期仏教的です。大乗仏教では、Aからさらに発展して、非情にも仏性あり、と見るようになり、先ほどお話した「山川草木悉有仏性」という思想が生まれるのです。
@が初期仏教的、と言いましたが、実際には初期仏教においても、衆生は人間だけを指している言葉ではありません。ただ、「特に人間」というだけです。さらに、「衆生」とは古い漢訳の場合で、玄奘三蔵以降の漢訳経典の多くは「有情」と訳しています(参照「仏教語大辞典、衆生の項目)。
ということは、「衆生」も「有情」も語源は同じ、ということですね。すなわち、「生きとし生けるもの」ということです。それは、すべての生命体ということでもあります。
したがって、ご質問メールの中にある他サイトのお坊さんが「衆生は人間のことだ」という解釈は、間違っているのです。衆生には動物も含まれるのですよ。

ということで、「一切衆生悉有仏性」には、動物も含まれるということがわかったと思います。つまり、動物にも仏性がある、ということですね。
では、なぜ動物は悟れないのでしょうか?。
っていうか、人間だって悟れませんからね、それは同じなんですけどね。すなわち、犬や猫などの動物も人間も、ちーっとも悟れないという点では、平等ですよね。
まあ、人間は悟ろうと努力はしますけどね。動物にはそれがありません。しかし、人間の中にも、悟ろうと努力しない人もいますし、人間としての心を持ってないんじゃないか、犬の方が優しいだろ!、というような嫌な人間もいますよね。犬畜生にも劣る所業をする人間もいるんですよ。そんな人間にも仏性があるんです。ならば、犬畜生だって仏性はあるでしょうよ。
エラソーにするな人間ども!、ですよね。
しかし、動物に仏性があるのかないのか、という疑問は過去の高僧の中でも多く問われていることなのです。そのことについての有名な問答があります。それは「狗子仏性(くしぶっしょう)」と言われおり、「無門関」第1則にあります。
「犬に仏性ありやなしや」
という問いですね。これに対し、ある者は「有る」と答え、ある者は「無い」と答えます。ただし、この場合の「無」とは「ない」という意味の「無」ではない、というのが通説になっています。
あぁ、ややこしや〜、ですよね。これが禅問答です。
さて、この「犬に仏性があるのないのか」という問いの答えですが、皆さんならお分かりでしょう。ここまで読んできたのですからね。素直に答えればいいのです。
「有る」
と。
そう、答えは「有る」のです。
では、さらに質問があります。
「仏性があるのなら、なぜ悟りが得られないのか?。なぜ、悟ろうとしないのか?」
その答えは、こうです。
「それは仏性がないから」
?????ですよね。まさしく禅らしいのですが、その意味は、こいうことです。
「犬は自分に仏性があるということを知らぬのだ。知らないということは、無いに等しいとも言える。知らなければ、存在に気付かないのだから、それは無いともいえるのである。したがって、犬には仏性は無い、となる。ただし、それは存在が無い、という意味ではない」
となるのです。わかりますか?。

たとえば、あなたが外から家に帰ってきた時のことを想像してみてください。あなたは、ちょっとお腹が空いています。小腹が空いているんですね。何かつまみたい。しかし、あっちの戸棚、冷蔵庫、こっちの棚などを探しますが、何もありません。外に買いに行くのも面倒です。仕方がなく、腹が減ったまま寝てしまいました。
ところが、実は戸棚の奥にとっておきの高級羊羹があったんです。あなたは、それに気付かなかったんですね。そのため、高級羊羹を得ることはできなかったんですね。
動物の仏性も、これと同じです。仏性が高級羊羹ですね。
そう、気付いていなければ、無きに等しいんですよ。でも、羊羹は身近に存在しているんですね。羊羹はあるが気付いていないから得られない、ということです。ならば、それは羊羹がない人と変わらないじゃないか、となりますよね。
同じように、犬も仏性は持っているのですが、持っていることに気付いていないから、それは仏性を持っていないのと同じ、ということになるのです。

もう一つ、たとえ話を。あまりいいたとえではありませんが・・・・。
あなたの中に病気があります。しかし、あなたは検査しなければ気がつきません。検査してみると、ガンが発見されました。で、手術になります・・・・。手術の結果、あなたは命を永らえることになりました。めでたしめでたし・・・。
これと同じです。
ガンは、検査したからできたわけではありません。以前から、あなたの中にあったものです。ただ、あなたはその存在に気付いていなかった。いや、うすうす気付いていたから検査に行った、のかも知れません。
これと同じで、もともと仏性はあるのです。検査とは仏教に触れることですね。で、仏教に触れた結果、仏性が自分にあることに気付きます。手術とは修行のことです。手術でガンを取り除き命を永らえるとは、修行したおかげで仏性が開花し悟りを得るということです。

仏性は、誰にでも、人間だけじゃなく動物にも虫にもあるのです。生きとし生けるもの、すべてにあるのです。ただ、その存在に気付いていないだけなのです。
人間だって、自分に仏性あることに気付いていない人はたくさんいます。その意味では、犬や猫と同じです。昆虫と同じです。人間だけが特別なわけではありません。人間だけが仏性を持っているわけではありません。動物にも、植物にも、鉱物にも、この世のありとあらゆる存在には仏性が宿っているのです。そのことを人間が理解しなければいけない、と私は思います。でないと、人間はおごり高ぶるからです。その結果が、今の地球でしょう。

人間にしか仏性がない、などと、仏教者が言ってはなりません。その驕りの心が、人間を高慢ちきな生き物にしてしまうのです。仏教は、そんな高慢な人間を厳しく注意しています。
地球にとっては、自然にとっては、今は人間は天敵となっています。人間の存在そのものが、害悪となっています。そうならないように、地球や自然と共存しなければなりません。そうした思想に、実は仏教はぴったりなのです。仏教だけではないでしょうか、この世の存在すべてに仏性があるから大切にしなければいけない、と説くのは・・・・。
人間のために動物があるのではありません。人間のために自然があるのではありません。人間がいなくても、動物はいるし、自然は存在しているのです。
人間は、あまりにも驕り高ぶり過ぎましたよね。

この世の全人類に説きたいですね。
「山川草木悉有仏性」
と。地球上の存在すべては平等なのですよ。そう説くのが、仏教なのです。
ご質問をくださった方、御理解いただけたでしょうか?。動物にも仏性はあるのですよ。合掌。

さて、仏教への疑問、ありましたらどんどんメールをください。疑問に思うことは、恥ずかしいことではありません。むしろ、見聞きしたことを鵜呑みにせず、疑問を感じたほうがいいのです。簡単に信じ込まないで、あれ?変だぞ?、と思ったほうが理解は深るのですよ。
こんなつまらないことでも?、などと思わず、どんどんご質問ください。よろしくお願いいたします。合掌。


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