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仏教講座

バックナンバー13

63回のテーマは

仏教への疑問

その4  宗派は変えてはいけないのか
ご質問のメールを紹介いたします。
「日本は、家によって宗派が決められています。これは変えることはできないのでしょうか?」

確かにそうですよね。多くの場合、それぞれの家は宗派が決まっています。先祖代々からの決まった宗教があるんですね。それは、
お寺と壇家、という関係でくくられています。
中には、「我が家の宗教はキリスト教です」とか「神道です」という家もあります。しかし、多くの場合は仏教系の宗派に属しています。どこかのお寺の壇家さんになっているんですね。
その家がキリスト教の場合、これは隠れキリシタンであったか、明治時代以降、キリスト教に宗教を変えたか、です。
神道の場合も同じく、先祖代々神道であったか、明治時代以降に神道に変えたか、です。
ということは、宗派が変わっている場合もある、ということですよね。すなわちそれは、宗派を変えてはいけない、ということではない、ということになります。

そもそも、家の宗派が決められたのは江戸時代のことです。江戸時代の初めのころ、お寺は、各地域に一カ寺以上建立されていました。極端に言えば、「一つの村に一つの寺」が存在していたのです。街道沿いや宿場町、城下町などでは、寺町のように多くのお寺が固まって建立された地域もあります。皆さんの地域にも、お寺が固まって建っているところってありませんか?。結構あると思うんですけどね。
武家社会になって、城を中心に職業別に住み分けがなされました。職業によって、地域を分けたのですね。それは江戸時代にも引き継がれています。ですから、同じ職業が固まっている地域が現代でも見られます。それは江戸時代の名残でもあるんですね。

話を元に戻します。江戸時代に入って、幕府の政策として、キリシタンを取り締まることにしました。そこで、日本のすべての住民は住んでいる地域のお寺に住所と名前を届け出ることになったのです。これが「人別帳」といわれる戸籍です。村の代表が地域住民の名前をまとめて、その地域のお寺に届け出たんですね。お寺は、戸籍管理を行ったのです。
(ただし、この人別帳に記載されていない住民もいました。住所を固定しない、流浪の民もいましたし、身分制度から漏れる人々もいたのです。こうした人々は別に管理者がいたようです。)
こうして、お寺とその地域の住民の間に特別な関係が生まれました。管理する側と管理される側ですね。これが壇家制度の始まりなのです。
(また、地域によっては寺が一カ寺もなく、地域ごと神道を信仰していたところもあったようです。そうした地域は、その神社が寺の代わりに戸籍係りを務めたようです。)
お寺は、初めは村の戸籍を管理するだけでした。それをもとにキリシタンがいないかどうかをチェックするわけです。やがて、寺は人別帳に載っている人が亡くなったりしたら、その人の葬式をしてあげるようになります。葬式をすれば、遺体を引き受けなければならなくなります。お寺は敷地が広いですから、寺の敷地内に埋めて墓を建てるようになります。戦国時代などは、大名や有力な商人くらいしか葬式をしてもらえなかったでしょうし、墓なども持てなかったでしょうが、江戸時代になって平和な時代になると、庶民も葬式をしてもらえるようになり、墓を持てるようになるのです。
こうして、お寺と地域住民の関係はますます深くなります。というか、自然と寺と壇家の関係が生まれてきてしまったのですね。

江戸時代は、まだ本山と末寺の関係がはっきりしていませんでした。お寺の宗派もその寺の住職によって変わったりもしていました。宗派が固定されていない寺が結構あったりしたのです。村の小さな寺などは、特に宗派が固定されることなかったようですね。なんとなく真言宗とか、たぶん禅宗、とかいった程度で、あまり宗派にこだわりはなかったのです。もしくは、寺ができたときは宗派があったのですが、年数がたつうちに違う宗派の住職がいたりすることもあったのです。そのあたりはあいまいだったわけです。
ところが、明治時代になって、廃仏毀釈が行われ、本山と末寺の関係を明白にすることが決められました。宗派の固定をお寺に迫ったわけです。その際、住職のいない寺や宗派のはっきりしない寺は、つぶされていったのです。また、そうした地域には神社を造ったり、寺と一緒にあった神社のみを残して寺だけ廃止した地域もあります。いずれにせよ、本山級のお寺や大きなお寺以外のお寺の宗派をはっきり固定したのは、明治時代なのです。明治時代になって、お寺は国に管理されるようになったのです。そして、宗派も固定されたのです。

そんな状態の中、寺がその地域の人々の葬式の面倒見るという風習だけが残ってしまいました。これが現代まで続いているのです。江戸時代に生まれた戸籍管理のための寺と地域住民の関係が、その地域の死者の管理もするようになり、壇家制度が生まれました。それが明治時代を経て、地域のお寺が各宗派の本山に属することにより、お寺の宗派が固定され、地域の寺に属していた壇家は、必然的に宗派が決められ、その宗派の本山に属することになったのです。
こうして、現代の壇家が生まれたのです。

つまり、今の皆さんの家の宗派は、幕府や政府が決めたことであって、自分たちで選んだわけではないのです。そこに選択の自由はなかったわけです。世の中の流れで決まったにすぎません。
ならば、家の宗派にこだわる必要はないはずですよね。本来は、自分の宗教は自分で決めるべきなのですから。先祖からその宗派なのだから、という理由だけで、自分の宗教を決められてしまうのは、変な話なのです。
ところが、なぜか多くの方は、「我が家の宗派」にこだわるようです。
他の宗派でお経をあげてもらってもよくないのじゃないのか。
家の宗派と違うから信仰してはいけないのではないか。
うちの宗派は好きじゃないんだけど・・・・。
などなど、家の宗派に関して疑問を抱く方が多いようです。
ですから、はっきり言っておきましょう。仏教の場合、
「あなたの家の宗派は、国によって決められた宗派です。先祖が自分で選んだ宗派ではありません。ましてやあなたが選んだ宗派ではありません。信仰は自由です。自分が好きな宗派、納得できる教えを持った宗派に変えてもいいのです。むしろ、自分で宗派を選ぶべきなのです」
そう、自分の信仰は自分で決めるべきなのですよ。

家の宗派が嫌い、という方は、何も家の宗派で葬式をしてもらわなくてもいいのです。壇家だから、といって、その寺に縛られる必要はないのです。その寺の壇家を辞めたって構わないのです。
ただし、どんな宗派にせよ、先祖の供養を怠らないことです。宗派が大事なのではなく、供養が大事なのですからね。

宗派なんて、何でもいいのですよ。信仰をする人が決めればいいのです。壇家寺を変えたっていいのです。しっかりと先祖の供養ができればいいのです。なぜなら、同じ仏教だからです。
しかし、ここで問題があります。変えていいのは、同じ仏教内、にしてください。先祖代々仏教だったのをキリスト教に変えたり、新興宗教に変えたりするのはお勧めいたしません。それは、先祖の供養が満足にできないからです。
新興宗教では、修行者がいません。引導作法ができる者がいません。死者をあの世に送る儀式ができるものがいません。ですから、新興宗教を信仰するのは自由ですが、家の宗派までを新興宗教に変えてしまうのはどうかと思います。
また、キリスト教に至っては、それを信仰するのは自由ですが、やはり家の宗派を変えてしまうのは、供養ができなくなるという点において問題があると思います。もし、キリスト教に宗派変えをするなら、先祖の供養をお寺にお任せして、永代供養を申し込んでおくといいでしょう。であるなら、先祖も納得してくれるのではないかと思います。
できれば、宗派変えをするならば、同じ仏教内で行うほうがいいでしょうね。

ちなみに、住職さんによっては、宗派変えをすること・・・いわゆる壇家を抜けること・・・に強く反対をする方がいます。それは当然のことなのです。壇家が一軒減るということは、お寺にとっては大きなダメージなのです。収入減につながることなのです。ですから、住職さんは、壇家がぬけることを強く反対するんですね。
「壇家抜けをすると、禍がおこる。先祖が地獄へ落ちる」
などと、半ば脅しのようなことを言う方もいらっしゃるようですが、全くその心配はありません。むしろ、そんなことを言う住職ならば、その寺はやめた方がいいでしょうね。壇家抜けをしても先祖は怒ったりしませんし、先祖も自分も地獄へ落ちるようなことはありません。

ということで、家の宗派を変えるのは自由です。信仰は、あなたが選ぶものですから。
合掌。


64回のテーマは

仏教への疑問

その5  宗派はなぜできたのか
ご質問のメールを紹介いたします。
「改宗のことで掲示板で話題になっていますが、それは宗派があるからいけないのではないでしょうか。そもそも宗派なんてなければいいのではないでしょうか。仏教はもとは一つですよね?。なぜ宗派ができてしまったのでしょうか?」

宗派ができた理由・・・・それは、お釈迦様の教えが「八万四千の法門」といわれるように、仏教には実に様々なパターンの教えが含まれているからです。
お釈迦様は、対機説法(たいきせっぽう)というスタイルで教えを説きました。対機説法とは、その人の能力に合わせて話の内容を変えて説くという方法です。
これは、たとえば難しい話が通じにくい相手には簡単な修行方法を説き、じっくり考えることが得意な者には瞑想することを説き、周囲の世話が好きなものには施しを説き・・・・といったように、相手の性質や性格、環境に合わせて教えを説くことをいいます。
ですから、お釈迦様の説いた教えの中には、難しい事柄から易しい内容まで、様々な教えが含まれているのです。お釈迦様の弟子や在家の信者さんたちは、お釈迦様が説いた教えの中からそれぞれ自分にあった教えを実践したのです。

時代がさがって、お釈迦様が涅槃に入られて数百年たったころ、お釈迦様の教えを継いだ仏教教団は、分裂を始めます。その萌芽はもっとさかのぼった頃からあったのでしょう。「三人寄れば派閥ができる」の言葉の如く、仏教教団内にもいろいろなグループができていたと思われます。初めは、それは大きくわけて二種類に分かれていました。
一つは、出家至上主義のグループ。もう一つは、在家とともに救いを求めるグループ、です。
出家至上主義のグループは、悟りを得るには出家しなければならない、出家して修行の道に入らねば悟りを得ることはできない、という主義を主張していました。あくまでも、お釈迦様の教えは、個人個人が修行して救われるのだ、まずは自分が出家し、修行し悟りを得ることが大事だ、という、いわば個人主義的なグループです。

もう一つのグループは、出家者だけが救われるのはおかしい、在家でも深い教えに至る者もいるし、悟りを得る者もいる。むしろ、出家者もたじたじの教えを説く事だってできるのだ、お釈迦様は出家も在家も共に救われると説いているのだ、という主義です。つまり、出家しなくても、在家でも悟りを得る方法はある、と説いたわけです。このグループの者たちは、出家至上主義のグループに対し、個人だけが救われる教えを説いているという意味で、「小乗仏教」と批判しました。一人しか救われない小さな乗り物だ、という意味ですね。ただし、出家至上主義のグループは、悟りを得た長老を中心としていたので、「上座部仏教」と称していました。自分たちは悟った長老の集まりだから、自分たちの方が上だ、ということですね。
で、長老たちのことを小乗仏教と批判したグループは、自分たちのことを「大乗仏教」と主張したのです。多くの人々を救うことができる、大きな乗り物だ、という意味です。
こうして、仏教教団は二つに分裂するのです。ここで、小乗仏教と大乗仏教という派が生まれたのです。

出家至上主義・・・・長老組、小乗仏教、上座部仏教・・・の派は、それ以上の大きな分裂はありません。それは当然ですよね。教えの内容が一つだからです。出家して四諦八正道などの修行マニュアルを実践し、戒律を守って生活をしていけばいいだけのことですから。それ以上の教えもそれ以下の教えもありません。粛々と実践するだけなのです。なので、それ以上分裂する要素がありません。ただ、どの長老につくかという区別はありました。各長老を中心としたグループがいくつか存在したことは確かです。しかし、それらは相争うことはありません。悟りを得た長老たちなので、争うことはないのです。自己の感情をコントロールできる状態になっていますからね。ですので、グループどうしの争いはないのです。

ところが、大乗仏教グループは、さらに分裂することになります。それは、教えが多義に渡っているからです。
あるグループは、心のあり方を分析し、解析し、研究し、深層心理を考察することによって悟りに至ろうとしました。これなら、何も出家しなくても在家でもできます。このグループは「唯識」と呼ばれるようになります。
あるグループは、如来の智慧について考察を始めました。如来の智慧とはどんなものか、どのようにして得られるのか・・・・。それは空の思想につながり、般若思想と呼ばれるようになります。
またあるグループは、自分だけが救われるのではなく、迷える多くの他人を仏教に導くのが重要だ、と主張しました。迷える多くの人々にお釈迦様の教えを広めることこそが、自分の救いにつながるのだ、という思想です。自分のことは後回しにして、まずは悩める多くの人々を救おう、という教えです。これは菩薩の教えと呼ばれるようになります。

こうしたグループは、一時に同時に現れたのではありません。一つのグループが二つになり、その中からさらに発展し、分裂し・・・・といったように、時の流れとともにたくさんのグループが登場するのです。
そして、そのグループは、「我こそが一番だ」と主張し始めます。そのために、お釈迦様が説いたとされる教えの中から自分たちの教えに沿った内容の教えを集めて、物語風に仕上げて経典を作り始めます。ただし、それは嘘の話や嘘の内容ではありません。あくまでも弟子から弟子に口伝えで伝わってきたお釈迦様の教えです。その中から自分たちの主義主張にあった教えをまとめたのです。なので、でたらめを作り上げたのではありません。
このようにして、自分たちの教えに沿った内容をまとめた経典をつくることが流行します。多くのグループがこれを行いました。また、経典が作りにくいグループは、論書という解説書、いわば参考書を多く作りました。
こうして、自分たちの主義主張を文章にすることが行われるようになったとのです。これは、上座部のグループも行うようになります。初期仏教経典ですね。
このように、お釈迦様の説かれたさまざまな教えが、経典という形で世に伝わるようになったのです。その内訳は大変細かく、本当に多くの経典が存在しています。

さて、大乗仏教は仏教の主流のグループになっていきます。上座部を押しのけ、大乗仏教が仏教の中心となるのです。それは当然ですね。大乗仏教は、民衆のための仏教なのですから。人々に受け入れられるような教えを説いたのですから。
大乗仏教の中でも、時代によって教えの流行り廃りがあります。ある時は、般若の教えがブームになったり、法華経の教えがブームになったり、阿弥陀浄土が主流になったり・・・・です。
そうした中、ひっそりと伝わってきた教えがあります。あまり表舞台に登場しなかった教えですね。それが密教です。インドの土着宗教を取り入れ、独特の仏教を生み出していました。仏教の教えをすべて網羅し、さらにインド古来の宗教儀式も取り入れ、仏教色に染め上げていったのが密教です。やがて、中国では密教が表舞台に登場することになります。

こうして、各宗派がそろったのです。
唯識は法相宗に、般若や空の思想は禅宗に、浄土思想は浄土宗に、法華思想は天台宗に、そして密教です。
もとは、お釈迦様の教えだったのですが、あまりにもお釈迦様が多くの教えを説いたがために、グループができてしまったのです。そのグループが宗派へと発展したのですね。その発展の仕方は、このコーナーのバックナンバーをご覧ください。そちらに詳しく(端折ってはありますが)書いてあります。

でもね、これは仕方がないことなのですよ。
たとえば、山を登るとき、様々なルートがありますよね。少しずつ楽をして登る道もあれば、ちょっと困難だけど早く頂上へ行ける道もあります。どんな山も登山道は一本ではなく、優しい道から険しい道、けもの道に至るまで、いろいろあるのです。仏教はそれと同じで、頂上である悟りに至る道がいっぱいあるのですよ。
どの道を選ぶのかは、自由なのです。自分の足にあった・・・自分の能力にあった・・・道を選べばいいのです。

ちなみに、それぞれの宗派を登山道にたとえるならば(少々乱暴で、お叱りの声があるかもしれませんが、ご容赦ください)、浄土宗や浄土真宗の教えは易行と言われているので、ゆるやかな楽ちんな登山道でしょう。しかし、頂上へ行くには時間がかかりますね。ある意味、大変な道かも知れません。
法華一乗と言われる法華経の教えは、いわば大きな乗り物を大勢で引っ張り合い、励ましあって、やや困難な道を頂上目指して登るという道でしょう。みんなで励ましあい助けあって登れば、困難な道も何とかなるよ、という教えですね。
禅の教えは、リフトアップ方式でしょうか。ある高さまで、高速リフトでひゅ〜っと登ってしまうんですね。で、つぎの段階へまたひゅ〜っとリフトで登るんですね。それが「大悟した!」あるいは「わかった」という場面ですね。ただし、リフトに乗れるかどうか、リフトがうまい具合に上に動くかどうかは不明です。ここが難しいところです。リフトが順調に動けば頂上も近いのですが・・・・。
では、密教はどうでしょうか。密教はいわばヘリコプターでしょう。上から頂上に降り立つのです。ヘリコプターに乗って、一気に頂上へ到達し、山頂に降り立つのです。ただし、ヘリコプターの操縦は難しいです。簡単に会得はできません。才能が問題となります。ヘリコプターの免許を取っても、うまく操縦できるかどうかもわかりませんし、上空に上がっても山頂に降り立てることができるかどうかも不明です。しかし、その才能があれば難なくあっという間に山頂ですね。ですから密教は、マスターすればすごいですが、マスターできなければわけがわからなくなってしまいます。なので、自分でパイロットになろうとせず、腕のいいパイロットに乗せてもらうのがいいですね。山頂まで案内してもらうのです。それは山頂を見せてもらうだけに終わるかも知れませんが、山頂が見れる・・・悟りの疑似体験ができる・・・・のですから、他の登山道よりも楽しいし、安楽なのではないかと思います。

まあ、このようにお釈迦様の教えがグループに分かれて、宗派が生まれたということは、御理解できたと思います。なので、宗派は本来は何だっていいものなのです。宗派間で争うこともおかしいのです。宗派争いは、「どちらが勝っても釈迦の恥」と言われるように、もともとお釈迦様の教えなのですか、争うこと自体ナンセンスなのです。どの宗派でも同じなのですね。
ですから、自分にあった宗派を選ぶ・・・自分にあった登山道を選ぶ・・・それでいいのです。そして、他人の登山道に関しては、干渉しないのがルールですね。他人の登山道が楽しそうに見えたなら、変わってみてもいいのですよ。ルート変更してみなければその良さも困難さもわからないでしょうから。もちろん、安易に変わってはいけませんけどね。よく考え、吟味してみて、あっちのルートがいいな、と思ったら決断することがあってもいいのではないでしょうか。
親や先祖が通ったルートを進んでもいいし、親から無理やり押し付けられた登山道では、やる気が出ないから自分のルートを行きたい、と思えばそれもいいでしょう。どのルートを通ろうが、どのルートを選ぼうが、重要なことは頂上に至ること、なのです。道自体が目的ではないのですから。
合掌。


65回のテーマは

仏教への疑問

その6  なぜ供養は自分でできないのか
ご質問のメールを紹介いたします。
「このHPを読んでいると、よく御先祖の供養は自分ではできない、お坊さんにしてもらうべき、とあります。なぜ、自分で供養はできないのですか?。お墓参りや仏壇へのお参りでは供養にはならないのですか?」

確かに、私はよく「供養はお坊さんしてもらうべき。自分では供養にはならない」と書いています。しかし、お墓参りや仏壇へのお参りが無駄になっているわけではありません。ただ、お坊さんのお参りと一般の人のお参りには違いがあるのです。先祖の供養は、やはりその道のプロである、お坊さんにはかなわないのですよ。

供養はいったい何のために行うものなのでしょうか?。誰のために行うものなのでしょうか?
供養とは、ご先祖が安楽になってもらうために行うものですよね。ご先祖のために行うものです。皆さんは、お墓参りや御仏壇をお参りするとき、どのようにお参りをしているでしょうか。
「今日も一日、無事でありますように」
「私たち子孫をお見守りください」
「安らかにお過ごしください」
まあ、このような感じでお参りしているのではないでしょうか。たまに、嫁さんの愚痴を言っているバァさんや姑が早くあの世に行くように願っている嫁さんもいますが、多くの場合は「今日も一日・・・・」なのではないでしょうか?。
それって、供養と言えるのでしょうか?。お願いをしているのではないでしょうか?。お願いと供養は違いますよね。

ところで、お坊さんは、どの宗派でも一応修行をしてきます。もっとも簡単な修行である浄土真宗にしても、一応はお経の読み方や供養の仕方、葬式の仕方などを習います。教学をしっかり学んだ方ならば、お経の意味も理解しているでしょう。浄土真宗以外の宗派ならば、修行ももっと厳しいでしょうから、己を磨くこともしているでしょう。苦しい修行に耐えてきた、一般の人とは違う、というプロ意識も持っていることと思います。
そう、お坊さんは、プロなのです。

お坊さんは、供養のときお経を読みます。これ何のために読んでいるかご存知でしょうか?。
@お経は読むだけで功徳があるから
Aお経は教えが説かれているから、それを先祖に読み聞かせている
この二つの理由から先祖供養のときにお経を読むのです。
お経は、読むだけで功徳があります。ならば、一般の方が御仏壇やお墓の前でお経を読んでも同じじゃないか、と思われるでしょう。確かに、広い意味ではそうです。皆さんが読むお経と我々僧侶が読むお経には、お経自体に変わりはありません。どちらも同じお経で、読むことによる功徳は変わらないでしょう。
しかし、実はお坊さんはただ読んでいるだけではないのです。廻向(えこう)しているのです。つまり、お経を読むことの功徳を先祖のために廻しているのです。

お経を読む功徳は、誰にあるのか?。
それは読んだ人自身にあるのです。お経を読むという行為をした方に、その功徳がやってくるのですよ。ですから、仏壇でお経をあげれば、その功徳は自分にあるのですね。先祖のためにはなっていないわけです。
お坊さんもそうですね。朝晩のお勤めのお経は、自分の功徳のためにあげているのです。まあ、同時にお預かりしている各家の先祖の御霊にもその功徳を廻してはいますが。
そうなんです。まずは、一般の方のお参りとお坊さんのお参りのとの違いは、ここにあるんですよ。お坊さんは、いつも自分のためだけでなく、他のためにお経を読んでいるのです。そのように修行してきたのです。これを廻向といいます。

廻向とは、積んだ功徳を他へ廻すことをいいます。自分の功徳を他者へ譲るのです。先祖供養の場合は、ますはお経を読む功徳をその家のご先祖に廻しているのです。お坊さんは、そういう読み方をしているのですよ。ですから、お経の途中に、
「○○家先祖追福菩提(ついふくぼだい、追善菩提ともいう)の為に」
という一文が入るのです。これで、お経を読むことの功徳が、その家のご先祖に廻されるのです。こうして、その家の御先祖は安楽を得るのですね。
これが理由@です。

次に、お坊さんは、お経を読んでいますが、これは教えを説いていることと同じことなのです。お経は、仏陀が説かれたことです(密教経典では大日如来ですが、仏陀であることには変わりはありません。釈迦如来か大日如来か、の違いだけです)。つまり、仏陀が説かれた教えを我々僧侶が、仏陀になり代わって、先祖の御霊に説いているのです。いわば、我々僧侶は仏陀の代理人ということです。
お経の内容は、「真理はこのようになっている、だからその真理を学んで、修行するのですよ」ということが、具体的に説かれているのですね。お坊さんは、それを御霊に説き聞かせているわけです。ですから、ある程度、お経の内容がわかっていないといけません。ご先祖の御霊に対し、如来の教えを如来になり代わって説いているのですから、その意味がわかっていないといけないのですね。たとえ、本人は悟っていなくても、です。
悟っているかどうかは別問題ですからね。
「お釈迦様はこのように説いているんですよ。ですから、○○家のご先祖も一緒にその真理を学びましょうね」
という思いがあれば、いいのですよ。しかし、それには、やはりお経の内容や意味を理解していなければなりません。何が説かれているか、それがわかっていないといけないわけですね。そうでなければ、伝わらないでしょう。
一応、曲がりなりにもお坊さんは、それを勉強してきています。(まったく無知な坊さんもいますが・・・。まあ、ここでお坊さんの力量の差がついてしまうんですけどね。どんな職業でも腕の良し悪しはありますから、それは仕方がないですよね)。そこが、お坊さんと一般の方との違いです。
御先祖の御霊に教えを説くことができる、これが理由Aです。

さらに、初めにも書きましたが、お坊さんは一応修行しています。供養の方法も知っています。ですから、ここでも一般の方との差がつきますね。供養のしかたを知っている、というのが理由Bです。

そして、一番大きな理由としては、お坊さんの供養の場合、供養を頼んだ方はお布施を出している、ことです。これが最も大きな差でしょう。
自分でお経を読む場合、お布施は出しません。しかし、お坊さんに頼めばお布施が必要です。これは大きな違いですよね。
たとえば、一般の方が練習をして、お経を上手に読めるようになったとします。これで、お経を読む功徳を積めるわけですね。そして、それを先祖のために廻向するという一文も読むとします。これで、理由@をクリアしますよね。
さらに、お経に説かれている内容を一生懸命勉強して他の人に説明できるくらいになったとします。もしかしたら、お坊さんよりも詳しいかも知れないくらいに・・・・。そういう方って、たまにいますよね。やたら仏教に詳しいかた。
これで理由Aはクリアできます。
しかし・・・・。理由Bはクリアできません。とはいえ、3分の2はクリアしているのだから、結構なレベルで供養できるのではないか、と思えます。
が、ダメなんですよ。それだけでは、お坊さんの供養には遠く及ばないんですね。なぜなら、お布施を出していないからです。

お釈迦様まは、修行者へのお布施、仏教教団へのお布施が、最も功徳が積める、と説いています。なぜなら、だれでも大事なものを他者に渡すことは、本当ならばしたくないことだからです。最もやりたくないことをやることが、最も功徳が積めるのです。
たとえば、お金が有り余るほどにある場合ならば、お金をいくらお布施しても功徳は多くはないでしょう。大金持ちの100万円は、一般庶民の1千円くらいに匹敵するような場合は、100万円のお布施をしても、一般の方の千円分の功徳になるわけですね。逆に言えば、金銭的に大変苦労している方が、なけなしのお金でお布施をした場合、その功徳は大きなものになるわけです。価値観の違いですね。
ならば、大金持ちはどうやって功徳を積めばいいのか。それは、一般庶民の比率に合わせ大金を布施するか、最もやりたくないであろうこと・・・たとえばトイレの掃除とか・・・をすればいいのですよ。そのほうが徳が積めます。金持ちのおじさんや奥様が、やったことがないようなトイレ掃除をするのです。しかも、自分の家のではなく、お寺の・・・。これは功徳を積めますね。
余談でした。本題に戻ります。
自分で供養をする場合、お布施がありません。お布施の功徳は大きいです。で、お坊さんに頼めば、お布施を出すことになります。それは、大きな功徳です。お坊さんは、その功徳を、供養の場合はその家の先祖の御霊へ廻向します。祈願の場合は、祈願者の功徳として廻します。祈願者は、その功徳によって願いが成就するわけですね。
自分でのお参りには、この部分がありません。これが、自分では供養ができない、という最大の理由です。

では、お寺さんは、自分の家の御先祖の供養をどうしているのでしょうか。
多くの場合、年忌などの法事は、仲間のお寺さんに頼んで勤めてもらいます。やはり、自分では行わないんですね。もちろん、お布施も出します。普段の先祖供養は、どうしているかといいますと、自分で勤めています。お寺さんの場合、ツキの供養は自分でしているわけです。
それじゃあ、いけないじゃないか。お布施がないから、供養にならないじゃないか、と思われるでしょう。そうなんです。でも、一般の方とちょっと違う点があるんです。それは、出家生活している、という点ですね。
最近は、お坊さんの生活も俗っぽくなってきたとはいえ、やはり一般の方とは違います。寺に集う人たちの幸福を願っていますし、救うという菩薩行のことも考えていることでしょう(そんなこと考えていない坊さんもいますが、そういう坊さんの場合は、きっと子孫に悪影響が出てくることでしょう。なんだかんだと言っても、お坊さんに対して仏様は甘くはないです)。
ですから、一般の方にはない独特の功徳があるんですね。仏教を説き、布教を考え、多くの人を救いたいと願い、そのために日々の勤めをしている・・・・そういう生活をしているので、そこには独特の功徳が備わっていくのです。
で、その功徳は、自然と先祖にも廻るのです。なので、月の供養は、お寺さんの場合、自分でもできるのですよ。
出家者は、そのあたりは一般の方に比べて「お得」なのです。ただし、制約も多くなりますから、バランスは取れているのですよ。

以上のような理由から、一般の方の場合、自分の先祖の供養は自分ではできない、となるのです。
ただし、だからと言って、御仏壇をお参りしたり、お墓参りをすることは無駄とは言いません。誤解のないようにお願いいたします。ご先祖に敬意を払うのは当然でしょうし、ご先祖の拠り所である仏壇やお墓を掃除するのは、当然のことでしょう。
ただ、
「お墓は毎日行ってます。なのに、いいことがありません。先祖供養ができていないわけはないのに・・・・」
という思いは、大いなる勘違いですのでご注意ください。おは参りに毎日行っても、それは、先祖に対する御挨拶なのであって、供養にはなってない、ということなのです。その理由は、今まで述べてきた通りです。

みなさんは、もし裁判沙汰になるようなことがあったら、弁護士さんを頼みますよね。弁護士さんがいなくては裁判は成り立ちません。それとお坊さんに供養を頼むことは同じようなものなのです。自分で自分の弁護はできないように、自分で自分の先祖の供養はできないのです。専門的なことは、やはり専門家に任すべきなのでしょう。
やっぱり、餅は餅屋・・・・ですよね。
合掌。


66回のテーマは

仏教への疑問

その7  なぜお盆の供養があるのですか
ご質問のメールを紹介いたします。
「お盆の季節ですね。でも、なぜお盆という、特別な先祖供養の時期があるのですか?」

お盆の季節ですねぇ。一年がたつのは、本当に早いですねぇ。ついこの間、お正月だ節分だ、寒い寒いとか言っていたような気がしますが、もう毎日暑くて暑くて・・・・。
暑い夏が来ると、お盆の時期もやってきます。新暦では7月15日、旧暦では8月15日にお盆の供養を行います。関東は7月が多いようですね。東海から関西以西にかけては旧盆が多いようです。もちろん、地域によって異なりますが・・・・。
8月の13日〜16日あたりは、帰省ラッシュですね。いい加減うんざりしますが、都会から故郷に帰り、先祖供養したりお墓参りをしたり・・・・。悪いことではありません。むしろ、いいことであります。日本の風物詩ですねぇ。

さて、お盆の歴史ですが、そもそもお盆とは何に由来しているか、ご存知でしょうか?。
「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経があります。お盆とは、「盂蘭盆」という言葉の略語ですね。で、お盆の由来は、この「盂蘭盆経」に説かれています。
盂蘭盆とは、サンスクリット語でウラバンナーという言葉を音写したものです(詳しく言えば、サンスクリット語で書かれたお経を書写するうちに、アバランバナという言葉を誤ってウラバンナーと写してしまったらしいです。ただし、意味だけは正確に伝わったようです。ここでは、ウラバンナーで通します)。
ウラバンナーとは、人が逆さにつるされ苦しんでいる様をいいます。人は死者でも構いません。ともかく、逆さにつるされて苦しんでいる様が、ウラバンナーという言葉の意味なのです。
さて、「盂蘭盆経」にはこのように説かれています。
お釈迦様の弟子の目連さんの母親は、死後に餓鬼となって「ウラバンナー」な状態になっていました。つまり、逆さにつるされたような苦しみを受けていたのですね。目連さんは、母親を救いたいと願い、お釈迦様にどうしたらいいか尋ねます。お釈迦様は、
「母親を救うには雨季明けの最初の布薩(ふさつ)の日(毎月15日にある反省会)に、多くの僧侶に施しをせよ、そうすれば母親は救われるであろう」
と説きます。目連さんは、お釈迦様の言葉に従い、雨季明けの最初の15日に多くの僧侶に食事の接待をしました。すると、その夜のこと、目連さんの母親が天界へ昇っていく姿が見られたのです。
この「盂蘭盆経」の故事をもとに、日本では657年に盂蘭盆会が行われました。このときは、世の多くの餓鬼を救い、その功徳で天皇の安泰を祈るために、多くの食べ物を僧侶に施すという儀式が行われたのです。これが日本最初の盂蘭盆会ですね。それが行われたのは、雨季明け・・・すなわち梅雨明けの最初の15日・・・・7月15日、当時は旧暦ですから今で言えば8月初旬のころでしょうか・・・だったのです。それ以来、旧暦の7月15日には、盂蘭盆会が行われるようになりました。
初めのころは、本尊さんの前に祭壇を設け、仏・法・僧の三宝に施しをする、という儀式でしたが、いつのまにやら先祖にお供えをするという儀式に変わっていきました。おそらくは、天皇家や公家の間で行われていた盂蘭盆会が庶民に伝わるにつれ、施しを受ける対象が先祖へと移り変わっていったのでしょう。いずれにせよ、日本での盂蘭盆会の法会は、かなり古くからおこなわれていたのです。
こうしたことから、お盆という習慣が生まれたのですね。そして、その習慣は、日本人のDNAに深く刻み込まれます。

日本人である以上、なぜかしらお盆になると先祖の供養をしなきゃ、と思うのは、自然の成り行きなのです。また、そうした習慣の中に生きている以上、亡くなった先祖の方々も、
「お盆になれば供養をしてもらえる」
と期待をします。さらには、お盆には先祖の供養をすることから、御先祖が家に帰ってくるという思想、あるいは都会へ出て行った者たちが故郷に帰ってくるという習慣も生まれたことから、お盆には先祖も生きているものも帰ってくるのだ、という習慣が誕生します。こうして日本人の行事が生まれてきたのですね。
「お盆になれば供養してもらえる」
「お盆にはみんなが故郷に集まる」
という思いが生きているときから植えつけられていますから、それは亡くなったあとも続きます。ですから、お盆には死者も故郷に帰ってくるのですね。
さらに、お盆には盆踊りというお祭りが存在しています。

盆踊りの由来は、目連さんが天に昇って行った母親を見て、喜びの余りついつい踊ってしまったことから始まったそうです。また、昔は村々に鎮守の神様があり、お盆の先祖参りの行事と相まって、夏祭りが行われるようになっていました。当時は、神仏習合時代ですから仏事も神事も一緒に行われていたのです。こうして、夏祭りと目連さんが踊ってしまったという故事から、夏の盆踊りが始まったのです。その踊りは、死者が救われていく姿を喜んだ踊りなのです。

お盆の先祖供養、里帰り、盆踊り・・・・・。
これらの行事は、先祖代々、古来より行われてきました。それは、私たちのDNAにしっかり刻み込まれています。ですから、お盆の先祖供養、里帰り、盆踊りは避けられないのですよ。なぜか、心が、身体が、里帰りやお墓参り、先祖供養に駆り立てられるのです。そうした意識が薄い方は、ひょっとしたら日本人として生まれていた期間が短いのかも知れません(天界から降りてきたのか、畜生などから上がってきたのか、海外から生まれ変わったのか、それは知りませんが・・・・)。

ちなみに、お盆に一緒に行われることが多い「施餓鬼供養」は、由来が異なります。
お釈迦様の弟子であるアーナンダが寝ていると、アーナンダの枕もとに餓鬼がやってきて
「お前の命はあと三日だ、ケケケケケ」
と予言していったのです。アーナンダはびっくりしてお釈迦様にその真偽を尋ねますと、お釈迦様は
「餓鬼の言ったことは本当だ。助かりたいのなら、多くの僧侶に食事の接待をしなさい。同時に、餓鬼にも食事を施すこと」
とアーナンダに教えました。アーナンダはすぐにお釈迦様の言われたとおりにしました。アーナンダは、この行いを毎年行うようになりました。このおかげで、アーナンダは120歳まで生きたそうです。その僧侶と餓鬼への施しが行われたのが、雨季明けの布薩の日だったのです。奇しくも、目連さんが行った僧侶への接待と同じ日だったのです(年は違っていたのでしょう)。
こうしたことから、日本では、盂蘭盆会と施餓鬼会(せがきえ)が同時に行われるようになったのです。なお、宗派によってお盆の供養や施餓鬼は行わない場合があります。特に浄土真宗は、どちらもやらないようですね。なぜならば、亡くなった方は皆極楽浄土に生まれ変わっている、という妄想に取りつかれているからです(失礼ないい方ですが・・・。なお、浄土真宗でもお坊さんによっては「日本の行事だから」といってお盆の供養を行う方もいます)。

さらに、これに万灯会という法会を重ねて行う場合があります。
灯明は、迷えるものを仏陀世尊の元へ導く灯りです。その思想とお盆に先祖があの世から家に帰ってくるという習慣から、各家で迎え火を灯すようになりました。お寺では、多くの亡くなった方が参拝に来ます。そこで、その道案内、導きのために多くの灯を置くようになりました。これが万灯会の始まりです。尤も、本来の由来は、お釈迦様が迷える魂の救済のために祇園精舎で万灯の灯をともしたことによります。これも、行われたのは雨季明けのことでした。

こうした雨季明けに行われたといわれる故事に由来し、日本の仏教では、お盆や施餓鬼、万灯会といった行事が夏に行われるようになったのです(万灯会は季節に関わらず、行われる場合もあります。高野山では10月1日〜3日に行われます。ですが、お盆の8月13日には、万灯会の代わりと言ってはなんですが、ローソク祭りが行われています。これも一種の万灯会ですね)。

お盆というのは、亡くなった方にとっては、久しぶりの里帰りの日なのですよ。あの世での修行を一休みして、久しぶりに故郷に帰り、懐かしい顔に出会うのですね。ひょっとしたら、亡くなった方どうしで
「よう久しぶりりじゃのうぉ。元気に死んでるか?」
などといいあっているのかも知れません。お盆は、死者にとっては同窓会のようなものなのです。ですから、昔は、盆踊りの輪の中に、亡くなった方々の顔や姿を見ることがある・・・・と言われていたのです。
また、こうしたことから、お盆のころには死者の魂が動きます。ですから、あちこちで亡くなった方を見ることがあります。すなわち、「幽霊」を見るわけですね。
そうした言い伝えなどがあるから、夏になると怖い番組が行われるのでしょう。また、肝試しなどのようなことが行われるのでしょう。これも、古い古い日本の習慣から来ていることなのでしょう。余談でしたが・・・。

と、まあ、このような理由から、お盆に先祖の供養を行うになったのですよ。
ご先祖は供養されることを期待しています。ですから、その期待を裏切らないように、故郷に戻り、ご先祖の供養やお墓参りを行ってあげてください。どうしても故郷に戻れない、ということでしたら、近くの、あるいは懇意にしているお寺さんに頼んで、お盆の供養をしてもらいましょう。それでも先祖は喜んでくれますからね。何よりも供養をすることが大切なのですから。
合掌。


67回のテーマは

仏教への疑問

その8  極楽へ往生しました・・・本当ですか?
ご質問のメールを紹介いたします。
「我が家のお寺は浄土真宗です。先日、祖父が他界しました。その際、ご住職さんが『おじい様は、極楽へ往生されました』と言いましたが、これは本当なのでしょうか?。祖父は、信心もなく、とても好人物ではなかったのですが、それでも極楽に行けるのでしょうか?」

今月はお彼岸の季節ですね。あちこちの浄土真宗のお寺で彼岸法要が行われると思います。極楽浄土への往生を願って・・・・。
さて、御質問のメールについてです。
結論から言えば、
「極楽に往生はしていないでしょう」
ということになります。そう簡単に極楽往生などできないんですよ。
この「往生されました」という言い方と同じような言い方で、お葬式の際、「成仏されました」とお坊さんが言うことがあります。しかし、これも「成仏などしていない」のが真実です。「成仏」とは「仏陀に成る」ことです。そう簡単に仏陀にはなれません。
こうした「往生されました」、「成仏されました」という言葉は、あくまでも習慣でいう言葉であって、本当のことではありません。しかし、まさかお葬式の際に、
「故人は、生きているとき、多くの罪を犯してきました。頑固で、嫌味で、わがままで、家族の方に大変迷惑を掛けたご老人でした。ですから、きっと地獄に行くことになりましょう」
などとは言えないでしょう。これでは御家族の方や親族の方が、安心できないです。本当のことを言わないほうがいい場合もあるのです。葬式の際に限らずね。
ただし、こうした葬式の際の習慣による言葉・・・・一種の社交辞令・・・・を鵜呑みにするのだけは、やめた方がいいです。私のところに相談に来られる方でも、ご先祖に問題があることを指摘すると
「えっ、葬式の時に、お坊さんが成仏したって言ってましたが」
と反論される方がいます。まあ、鵜呑みにしてしまう気持ちはわかりますが、あくまでも社交辞令ですから。そのあたりはよくよくご理解していただきたいですね。

参考までに、なぜ往生しました、というようになったかお話ししておきましょう。これは、はっきり言えば浄土真宗がいけないのです。
浄土真宗の教えでは、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽に往生できる、と説かれます。したがって、一度でも
「南無阿弥陀仏」、「ナンマイダ〜」
と唱えれば極楽に往生できる資格を持つことになります。となると、浄土真宗の壇家さんの場合、少なくとも一度は「南無阿弥陀仏」と唱えているでしょうから、死後は必ず極楽に往生する、と言わなくてはなりません。そういう教えなのですから。真実はどうあれ、浄土真宗の壇家さんが亡くなった際には、往生されました、と言わなくては、自分たちの宗派の教えに矛盾が生じてしまいます。なので、お葬式の際、「往生されました」というようになったのですね。
しかし、この教えは大変危険でもあるのです。
一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば、死後に極楽へ行けるのなら、中には悪事を働く者も出てくるでしょう。
「何をやっても、どんなに悪いことをやっても、南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽へ行けるから平気だ、地獄へ行くことはないのだから」
と考える人間が出て来てもおかしくはないのです。浄土真宗は、それが生まれたころから、親鸞さんが教えを説いたその時点から、この矛盾をはらんでおり、実際に悪事を働く門徒(浄土真宗の信者)が現れたのです。親鸞さんは、そんなことは説いていないのに・・・・。そう、勝手な解釈が横行してしまったのですね。
人は、安易な方向へと流れやすいものです。南無阿弥陀仏と唱えれば、何をやってもいい、と言われれば、貧しい状態にあるのなら、盗みを働いたりする者が出てくるでしょう。当時、浄土真宗の信者は、多くが貧しい庶民でした。となれば、安易な方向に流れるのも無理はないものです。
もちろん、親鸞さんはこれを黙って見過ごしたわけではありません。解釈が違うことを説きました。しかし、大きな流れというものは、そう簡単には治まるものではないのです。結局、そうした流れは、続くことになります。親鸞さんが説いた念仏の意味は、安易な念仏へとすり代わって行ってしまうわけです。親鸞さんは、決して「南無阿弥陀仏と唱えれば、何をやってもいい」と言ったわけではないのです。念仏すれば浄土に行ける、というのは、「念仏したい、心から念仏が湧きでるときこそが、極楽に往生しているのだ」と説いていたのです。往生の意味が根底か違うのですね。
しかし、いまさらそれを説いても、民衆はついては来れません。真実の念仏、親鸞さんの説いた道は、意外に難しいことなのですから。本当ならば、浄土真宗の皆さんが、親鸞さんの説いた教えを今一度振り返って、安易な念仏では極楽へはいけないのだ、と説いたほうがいいのですけどね。何と言っても、あの宗派は、戒律さえないのですから、どうしても安易な方向へと流れやすいのでしょう。

人は亡くなれば、生きているときの行いによって、生まれ変わる場所が変わります。片方で念仏を唱えていても、片方で悪事を働いたり、人に嫌われるようなことをしていれば、極楽に往生などできるはずがないのです。それは、偽善なのですから。
なので、お葬式の際には、本当は
「故人はこれから死出の旅に出ます。7日ごとに裁判を受け、生前に行った善いこと・悪いことを問われるのです。そして、49日目に自分の行いにあった先へ生まれ変わることになるのです。ですから、故人の応援のためにも7日ごとのお参りがあるのですよ。ご家族の方も、49日目に、よいところへ生まれ変われるように、7日ごとのお参りで応援してあげましょう」
と説くのがよいのでしょうね。何も、往生されました、成仏されましたなどと偽りを言う必要はないのでしょう。もちろん、
「故人は信心もなく、人には不親切で嫌な人間だったから、地獄へ行きますよ」
「故人は、女遊びばかりして、奥さんに迷惑ばかりかけていたので間違いなく地獄ですな」
などという必要はありません。ただ、どうなるかはわかりません、と言えばいいのだと思います。それが本当でもあるのですからね。
多くの場合、悪いことばかりをしてきたわけではないはずです。少しはいいことだってしてきたはずです。根っからの悪人なんて、そうそういるわけではありません。逆に、根っからの善人もそうそういません。ですから、亡くなったら、すぐに極楽とか地獄とかはないのです。皆さん、7日ごとの裁判を受けるのですよ。だからこそ、供養する必要があるのです。

今月はお彼岸ですね。それこそ、ご先祖が極楽浄土に行けるよう、お彼岸の供養をされるといいと思います。
合掌。


68回のテーマは

仏教への疑問

その9  仏教では前世を本当に説くのですか?
ご質問のメールを紹介いたします。
「先日、とある占い師に『あなたの前世はカエルです』と言われました。これって本当のことでしょうか?。そもそも前世って本当にあるのでしょうか?。前世という思想は、仏教から来たと聞きます。仏教では、前世をどのようにとらえているのでしょうか?。もし、仏教が前世を説くのなら、人間の前世がカエルということもあるのでしょうか?。ちょっとショックです」

まったくいい加減な占い師もいたもんです。前世がカエル?。バカバカしい。こういうことを言う占い師は、占い師を辞めるべきですね。冗談でも言っていいことと悪いことがあります。占い師のところへ来る、その人の気持ちを少しは考えたらどうかと思います。腐ってますなぁ・・・・。
そもそも、TVでオーラのなんとかって番組をやるものだから、チマタに「前世占い」などという胡散臭いモノが流行るんでして・・・。あれも罪作りなものですねぇ。
「あなたの前世は○○です」
こんなことを言っても証明のしようがありませんからね。好き勝手なこと言い放題です。あまりにもくだらない。あまりにも愚かしい。それが簡単にまかり通るTVの世界って・・・・怖いですねぇ。皆さん、簡単にTVで言っていることを信じちゃダメですよ。特にオカルト系はね。ほとんどウソなんですから。
なので、そんなくだらない占い師が言っていることは、真に受けてはいけません。前世がカエルなんてありませんので。つまらない占い師にお金を払ってしまった、無駄なことをした、と悔やんでください。で、もう二度と、つまらない占いに引っ掛からないようにしてください。前世占いに行く、あなたの状況に問題があるのですよ。そう言うときは、何に迷っているのか、よく考えてくださいね。

さて、仏教での前世の扱いですが、仏教は輪廻思想を取り入れていますから、当然、前世を説きます。なので、来世も説きます。これは、仏教独自の思想ではなく、当時のインドでは当たり前に信じられていたことです。命は輪の如く生まれ変わっていく、という思想は、インド古来からの思想なのです。決して仏教のオリジナルではありません。そもそも輪廻思想があるところに、仏教が生まれているのです。なので、仏教も輪廻思想を説くのです。
ちなみに、仏教は輪廻を説かない、魂の存在を否定する、とする説がありますが、これは諸法無我を間違って理解していることによります。
お釈迦様は諸法無我(あらゆる存在には我は無い)を説いた
     ↓
だから、我は存在しない
     ↓
我が存在しないから、輪廻はしない
という説なのですが、確かに「我」は存在しません。諸法無我です。しかし、魂は生まれ変わります。輪廻します。お釈迦様は、己という我を否定しただけであって、魂の存在は否定していません。魂は、死を迎えれば、その次は何になるかわからないが生まれ変わっていくという輪廻思想を仏教は取り入れています。ただ、我が持ち越されない、というだけです。つまり、己という自分が次の世も、その次の世も、続いて行くことはない、ということですね。生まれ変わるときには、我は連続してないということです。ちょっと、難しいですか?。
いずれにせよ、仏教では輪廻思想を説きます。

さて、仏教での輪廻思想は、どういうものでしょうか?。
お釈迦様は、
「今の自分自身をよく観察すれば、自分の来世も前世もわかる」
と説いています。たとえば・・・・。
もし、今、貧乏で苦しんでいるのなら、その人の前世は、きっと贅沢でしかもケチで、他人に施しなど一切しなかった人生を送っていたのでしょう。
もし、今、異性に縁がない生活をしているのなら、その人は前世において、異性にひどい仕打ちをしていたのでしょう。
もし、今、仕事がなく困っているのなら、その人は前世において怠けものだったのでしょう。
もし、今、裕福で贅沢な暮らしができているのなら、その人は前世において、たとえ貧しくとも多くの人に施しをし、神仏への信仰を持ち、心豊かに暮らしていたのでしょう。
もし、今、充実した日々が過ごせているのなら、その人は前世において、多くの人に親切にし、神仏を信仰し、心の安寧を願っていたのでしょう。
もし、今、周りから迷惑をかけられるような日々を過ごしているのなら、その人は前世において、多くの人に迷惑をかけていたのでしょう。
もし、今、特技があるのなら、それは前世においても、その特技を修行していたのでしょう。
(これは「たとえば」の話です。ここにあげた例に当てはまるからと言って、自分もそうだと思い込むのはやめてください。何事も人それぞれです。一概には言えません。人はもっと複雑です。単純には答えられませんので)。

仏教の前世観はこのようなものです。それは、「前世ではどんな生き物であったか」ではなく、「前世でどのような暮らし方、生き方をしていたか」を重視するのです。「前世での行為」が大事なのです。その前世での行為は、よく考えればわかることだと説いているのです。なぜなら、前世の行為が、この世に大きく反映されているからです。すなわち、この世での幸・不幸、生き方、才能、容姿、特技などは、前世からの影響である、ということです。
「前世において、あなたは○○だった」
こんなことを言われても、意味があるでしょうか?。「だからなに?」となりませんか?。しかも、それは証明のしようのないことです。たとえば、お釈迦様ならば、相手の資質を見抜き、
「あなたは・・・・あぁ、なるほど、前世では○○という行為をしたのですよ。だからこそ、今この世で、このような状態になっているのです。まずは、それを理解しなさい」
となるでしょう。
で、さらに、仏教では、その続きを説きます。「前世が○○だった」では終わらないのですね。

仏教では、この世での状態が前世の行為によって反映されている、と説きます。この世での状況は、前世での行為の影響である、ということですね。
だからこそ、この世では、そうならないように、「注意しなさい」と、説くのです。
たとえば、この世で貧困なのは、前世でケチだったから・・・というのでしたら、この世では、せめて貧しいながらも、寄付をしようじゃないか、1円でもいいから、施しをしようじゃないか、そういう行いをしなさい・・・、
と説きます。
たとえば、特技がないもない、才能がない、というのでしたら、きっとそれは前世で怠けていたのですから、この世では、何でもいいから働こう、地道に働こう、余裕が出てきたら習い事をして資格を取ろう、そのように努力せよ、と説くのです。
仕事がなく困っているなら、職種を選ばず、何でも仕事をしよう、どんな仕事でも有り難く仕事をしよう、と謙虚な気持ちになれ、と説くのです。
異性にもてないなら、異性にも同性にも親切にしよう、嫌われないよう優しく接しよう、心から、周囲の人に優しく振舞う努力をせよ、と説くのです。
容姿に問題があるのなら、決して他人の容姿の批判をせず、外見だけでなく心の美しさを磨く努力をせよ、と説くのです。
そうでないと、来世にも苦しみを持ち越してしまうからです。
「この世の姿を観察すれば来世もわかる」
そう、この世でひどいことをすれば、来世ではそのしっぺ返しを食うのです。この世で周囲の人を卑下していれば、来世では決して尊敬されない、いつも卑下される存在として生まれるでしょう。この世で異性に対しひどい仕打ちをすれば、来世では異性から相手にされないものになるでしょう。この世で、贅沢三昧に生きれば、来世では貧しいものになるでしょう。だからこそ、この世での己の行為に注意しなければならないのです。
行為により、来世の生が決まる、それが輪廻です。この世の姿を見れば、来世も前世もわかるのです。

ちなみに、前世がカエルなどということはありません。カエルから人に生まれ変わることはないからです。人に生まれ変わるには、人に近い存在でなければなりません。たとえば、前世が犬や猫といった場合はあります。あるいは、家畜(馬や牛。豚はないですね)であったとか・・・。多くの場合は、前世も人間・・・ですけどね。
ただし、来世はわかりません。その人の行為によっては、カエルになる場合もあり得ます。そうなると、人に生まれ変わるまでには、相当多くの時間・・・何万年?・・・を必要とすることになります。いろいろなものに何度も何度も生まれ変わって、徐々に人に近付いて行くのです。
さらに、よくTVで言っていることなのですが、前世が外国人だった・・・という場合。これも実は少ないです。もし、前世が外国人ならば、その国の言葉を習えばすぐに習得できます。たとえば、「あなたの前世はフランス人です」と言われたら、すぐにフランス語を習いましょう。で、フランスに行って下さい。もし、前世が本当にフランス人であったなら、フランスに行けば懐かしく思うでしょう。もちろん、フランス語も堪能になります。そうでないなら、「あなたの前世はフランス人」というのはいい加減な嘘ですね。
私の場合の話をしましょう。高野山大学に行って、弘法大師様の著作の授業出たときのこと。「あ、これ知っている」と感じました。なぜか、以前にもやったことがある、と思ったのです。おかげでそんなに勉強しなくても、成績は良かったです。なんせ、二回目(それ以上かも知れません)ですから。きっと、高野山大学の教授の皆さんも、前世では学僧(主に勉強をする僧侶。実践派ではなく書斎派と言えばわかりやすいでしょうか)だったのでしょう。私の場合は、高野山大学の授業は難しいと思ったことは一度もなく、むしろ懐かしい、あるいは、当たり前、のような感覚でした。ということは、前世において・・・どの前世かは知りませんが・・・高野山で学んだことがあるのでしょうね。前世の記憶というものはそう言うものなのです。
さらに・・・・。縁がなければ生まれてはきません。ですから、たとえば前世が外国人と言われたならば、あなたの先祖の中に外国人と深く関わりを持った人がいるはずです。そうした関わりがない家系に、前世が外国人の人が生まれてくることはありません。たとえば、その家のひいおじいさんの時代に、外国人留学生を受け入れて、すごく気があい、その留学生に「この家に生まれてきたい」と思われたとか・・・・。そうした、深いかかわりがなければ、前世が外国人ということはないのですよ。縁がなければ、関わりはできないのです。

いい加減な前世の話に振り回されないように気をつけてください。前世がなんであったか、などということは知っても意味がないことです。それよりも、前世ではどんな行為をしたか、を知ったほうがいいのです。だからこそ、この世でこうなっているのだ、じゃあ、来世ではこうならないように気をつけよう、という考え方が大切なのです。
前世が何者だったか・・・そんなことはどうでもいいじゃないですか。そんなことを気にしていると、騙されるだけですよ。
合掌。


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