お気楽!!

仏教講座

バックナンバー14

69回のテーマは

仏教への疑問

その10  密教は、仏教に反するのではないですか?

ご質問のメールを紹介いたします。
「仏教は、本来、現世利益や宗教儀式、占いなどを禁止しています。密教は、その禁止事項をすべて行っています。ということは、密教は仏教に反するのではないでしょうか?」

と、まあ、このような内容でした。実際は、質問というよりは、私への抗議?のような感じでしたし、「占いをする偽仏教者」みたいなニュアンスも感じられました。まあ、しかし、意味は上に書いた通りで、密教は仏教ではないのではないか、という疑問のメールだな、と善意に解釈しておきました。

確かにお釈迦様は、神々に祈る儀式を否定していました。否定というと誤解が生じますね。否定ではなく、神々に祈る儀式では悟りは得られない、本当の救いは得られない、という立場だったのです。神々に祈る宗教儀式そのものを否定していたわけではありません。そんな事をしても救われないぞ、悟れないぞ、心の安定は得られないぞ、ということだったのです。
で、ほかにも、占いをしたり、天体の動きによる予知など、当時のインドで行われていた占星術なども禁止したのです。もちろん、そうした行為を禁止されたのは、出家者のみです。在家は関係ありません。在家が占いをしてもらったり、バラモンの宗教儀式をしたり、インド古来の神々に祈ることをしたりすることには、不問でした。
お釈迦様、あるいは仏教に誤解があるかもしれませんので、あえて言っておきます。お釈迦様は、仏教以外の宗教を外道といって、区別はしました。しかし、それは見下げていったのでもないし、馬鹿にしていったのでもないのです。「外道」という言葉に、現在は「道を外れたもの」という意味があるので、どうしてもお釈迦さまが仏教以外の教えを否定していたかのようにとらえられることもありますが、それは誤解なのです。お釈迦様は、仏教以外の宗教を「外道」と言っただけなのです。それは差別ではなく、区別なのです。
たとえば、お釈迦様の話を聞いて、
「今までジナ教を信じていましたが、今日からお釈迦様の教えに従います。ジナ教の修行者には施しをやめます」
という在家の方が結構いたのですが、そういう場合、お釈迦様は
「何も私の教えだけを信じる必要はない。ジナ教の修行者にも、他の教えの修行者にも、今までと同じように施しをするがいい」
「あなたには立派な宗教があるではないか。なにも、私の教えに鞍替えすることもなかろう」
などと、答えています。つまり、お釈迦様は、仏教以外の教えも決して否定も批判もしなかったのです。
まずは、この点を御理解いただきたいですね。

さて、占いや宗教儀式です。確かに、出家者の間では、これらは不要です。仏教には、本来は儀式は必要ありません。なぜなら、悟りを得ることを目標にしているからです。
しかし、在家にとっては宗教儀式は、ある意味、必要な行為です。それは、多くの人を呼び寄せる、ために必要なのです。
大乗仏教は、出家者のための仏教とは異なり、多くの人々を救う、多くの人々に安楽を与える、多くの人々の苦を抜き楽を与えることを目標としています。その目標達成のためには、多くの人々を集めねばなりません。また、効率よく、多くの人々を救うことをしなければなりません。
そのためにはどうすればいいのでしょうか?。
出家者至上主義のいわゆる小乗仏教では、戒律や個人の教えが中心ですから、多くの人々を救うことはできません。ましてや出家しなければ救われないなどとと説いていては、大乗仏教の目標は果たせないのです。なので、出家至上主義の教えでは、どうにもなりません。
多くの人々を救うにはどうすればいいのか・・・・。出家を促すわけにもいかない。さてどうしよう・・・・。

というときに、そういえば、お釈迦様は、在家の人々を仏教に引き寄せるために、神通力を使っていたじゃないか、ということに思い至ります。お釈迦様はみんなには禁止していたはずの神通力を、人々を救うための神通力ならば良い、と言っていたではないか、人々を救うための方便だ、と・・・・。
つまり、人々を救うためならば、神通力などの禁止されていることでも大丈夫なのだ、という考え方が生まれてくるのです。こうして、簡単な功徳を積み、救われるという方便が説かれるようになってきたのです。その簡単な功徳とは、仏教教団が行う行事に参加することなのです。
初めは、法話会のような行事だったのでしょう。それが、時代とともにお経を読む儀式となり、それに参加すれば功徳が積めると説かれるようになり、次第に、仏教にも宗教儀式が生まれるようになったのです。そうしたほうが、大勢の人々に徳を積ませることができるからです。つまりは、仏教に導くための方便なのですね。
その集大成が「密教」なのですよ。

密教が行う儀式は、すべて方便なのです。ですから、儀式を単なる儀式で終わらせてはいけないのですね。ここは大事なところです。あくまでも、儀式は人々を救うための方便なのです。
たとえば、無病息災を祈るため、毎月一回護摩を焚きます。多くの人々がその護摩法会に参拝し、本当に毎月無病でいられたとします。人びとは思うでしょう。あぁ、仏様の力はすごい、と。そこで、僧侶は護摩の功徳や仏様の力の強さを説きます。また、神仏に祈ることは、安心を得られることなのだ、と説きます。そうして、人々は、心の安定を得られるのです。さらに、これが仏の教え・・・仏教なのか・・・・と感動してくれます。すると、もっと仏教を学びたい、と思う方も出てきます。そうなれば、仏教の本来の目的である、悟りや心の安定、考え方などを説くことができます。仏教本来の目的を果たしたことになるのです。
ならば、いいじゃないですか、儀式を行っても・・・・・。

占いも同じですね。密教には宿曜占いという占星術があります。私もやります。人間関係の相性を知ったり、運気の流れを知ったりするのには便利な占星術です。占って欲しい、とやってくる相談者の方もいます。でも、それはあくまでも入り口なのです。切っ掛けですね。占いはあくまでも切っ掛けであって、それにひかれてきた人に、占いだけでなく、生き方を説くのが本来の目的なのです。占いという切っ掛けにひかれてきた人に、仏教的考え方を説くのです。そして、安心して生きられるという希望を与えるのですね。これは、本来の仏教から外れていることなのでしょうか?。
手段は何でもいいのです。法律に触れるような悪意のあることでなければね。どんな手段でもいいから、人々をお寺に招き、教えを聞かせる、それが大事なのですよ。目的が誤っていなければ、手段はどんなことでも(法律に触れることはだめですが)構わないのです。

うちの寺に
「彼氏との相性を見てください」
「運勢を見てください」
などとやってくる方は多くいます。しかし、その方たちは、みなさん生き方や世の中の見かた、考え方を説教されて帰ります。ただ、占いだけでは終わらないのです。占いだけで終わっていたのでは、それこそ仏教からは外れて、占い師になってしまうでしょう。そうではなく、占いは切っ掛けであって、それを通じて、いろいろな説教を聞いて帰って行くのです。メインは、説教なのですよ。

密教の儀式は、単なる儀式ではありません。仏様の力を知らしめるための儀式であり、それはお釈迦様が人々を導くために使った神通力と何ら変わりはないのです。そうした儀式は、あくまでも方便なのです。目的は、人々の苦を抜き、楽を与えることにあるのです。さらには、仏教を学び、在家としての心の安楽な生き方・・・・在家の悟り・・・・を得られるように導くのが最終目的なのですよ。儀式や占星術は、単なる切っ掛けなのですね。

なので、密教は仏教に反することはないし、私も何ら仏教に矛盾した行為をしているわけではないのです。真実を知らず、表面だけを見て物事を判断するのは、愚か者の行為です。どんな行為にも理由があります。その理由をよく知ることが大事ですよね。
合掌。


70回のテーマは

仏教への疑問

その11  仏壇は必要ですか。必要ならその祀り方を教えてください。
ご質問のメールを紹介いたします。
「本来の仏教には、仏壇などはいらないはずですよね。でも、日本の仏教は日本独特の仏教になってますから、やはり仏壇は必要なのでしょうか?。もし、必要ならば、その祀り方を教えてください」

本来の仏教と日本の仏教の違いをよく理解されている方の質問ですね。いい質問だと思います。
本来の仏教は、皆さんよくご存じだと思いますが、偶像崇拝はありません。本来の仏教は、悟りを得るのが目的ですから、祈る行為も儀式もなかったのです。したがって、仏像も仏画もお墓も仏壇も存在していません。しかし、それは本来の仏教、個人が修行をしてその個人だけが救われるという仏教のことです。日本はこの仏教ではありません。方法はなんでもいいから、多くの人々が救わることが大事という大乗仏教です。ですので、大乗仏教の道をとる方は、仏壇はあってもいいでしょう。大乗仏教をとらず、本来の仏教を信じるという方は、早く出家したほうがいいと思いますし、日本ではなくタイやミャンマー、スリランカなどに行って修行されるほうがいいでしょう。

さて、仏壇ですが、なくていいか、あったほうがいいか、と問われれば、状況による、としか言いようがありません。
あなたが長男であり、あるいはその家の跡をとるものであったならば、先祖を祀るための仏壇はあったほうがいいでしょう。
最近では、跡取りが必ずしも長安ではない場合もあります。次男が継ぐこともありますし、その家に女性しかいなく、その方が跡をとる場合もあります。少子化の影響で、跡を継ぐ子がいない場合もあります。それぞれのケースにより、仏壇が必要な場合とそうでない場合とがあります。あるいは、その処理にも影響が及びます。
たとえば、親が次男等で家に仏壇がなくその家の長男が嫁を貰ったとします。その場合、親のどちらかが亡くなったら仏壇を購入して設置したほうがいいでしょう。
しかし、その子世帯夫婦に子どもがいなかったらどうすればいいのでしょうか?。
その場合も、親が亡くなったのですから仏壇はやはりあったほうがいいですね。親の魂の安置場所はあったほうがいいものです。手を合わせるという行為は、人の自然な形の一つだと思いますし、親に感謝の意をささげることはとてもいいことだと思いますからね。
が、問題は子どもがいない場合、いずれ仏壇が不要になってしまう、ということです。
その場合は、最後に残った者が仏壇と自分の葬式の処理をお寺さんとよく話し合って決めておくことです。

これからは、一人ものが増える時代ですよね。自分が死んでも誰も気づいてくれないかもしれない・・・ということもありうる時代です。なので、もしものときに、家にある仏壇の処理や自分の葬式のことは、所縁のお寺の住職さんとよく話し合って決めておくのです。もちろん、費用の面も合わせて。で、なくなったらどのようにするか、手順を書面に残しておくのです。もちろん、お寺さんにも同じ書面を預かっていてもらいます。そうしないと、どのように処理されるか分からないですからね。
このように、後の処理のことをしっかり決めておけば、仏壇を持つもとに迷いは生じないでしょう。できれば、仏壇はあったほうがいいです。毎日、先祖に対し手を合わせることは気持ちのいいものです。心落ち着くものです。
仏壇は、いわばミニ寺です。我が家の中のお寺なのです。なので、そこに手を合わせ、先祖に感謝の意をささげ、先祖あっての自分の存在と知るべきなのです。それが、生きること喜び、感謝の心を生むのではないかと思います。

こんな話があります。
家に仏壇がある家とない家では、子どもたちの落ち着き度が違う、というのです。正確なデータかどうかは知りません。そんな話を聞いたことがあるのです。
親が仏壇の前で手をわせる姿を子どものころから見ている子どもは、人に対しても優しさがあるというのですね。一方、家に仏壇がなく、親が無信心で手を合わせることなどしない家庭に育った子供は、落ち着きがなく、他人に対して辛く当たる・・・というのです。本当かどうかは知りませんが、私のところに相談に来られる若い方を見ていますと、この話もまんざら嘘ではないな、と思います。なぜなら、自然に本尊さんの前に座って手を合わせようとする、もしくは「手を合わせていいですか」と聞いてくる方の家には、必ず仏壇があります。そうしない方、相談だけでさっさと帰って行ってしまう方の家には、仏壇はない場合が多いからです。手を合わせることに慣れていないのですね。そして、それは心の余裕にも少しではあるのでしょうが、つながっているようにも思えるのです。
(私は、相談に来られ方にお参りしなさい、と言いません。お寺なのだから、まずは手を合わせるものなのですが、それを自分で気づくことが大事なのです。なので、手を合わせなさい、と強制などはしないのです。今は、手を合わせられなくてもいい、今度来た時、あるいは来世で手を合わせられるような人になればいい、と思っています)
お寺で手を合わせることに気づくかどうかそれは大したことではないかもしれません。しかし、そこにほんのちょっとの差があることだけは否定できないでしょう。それはきっと、心のありように影響しているだろうな、と思います。口ではうまく表現できませんが、生き方に、仏壇のある家庭・ない家庭の違いが出てしまうことはあると思います。
ですので、できれば仏壇かもしくはそれに代わる祭壇のようなものがあるといいと思います。親が先祖に、あるいは大いなる存在に手を合わせ頭を垂れる姿は、できれば子に見せたいものです。見せたほうがいいと思うのです。人間が地球の支配者ではない、と知ったほうがいいのですよ。

さて、仏壇の祀り方ですが、これは宗派によって異なります。しかし、基本は同じですね。
必要なものは、御本尊・脇侍、ローソク立て・香炉・花立、仏飯器・茶器、お位牌もしくは過去帳、が最低限のものです。このほかに宗派によっては、瓔珞だの飾りだの、明かりだの、いろいろ必要ですが、それらは必ずしもいるものではありません。
仏壇の一番奥の中央には御本尊が祀られます。それは仏像の場合もありますし、掛け軸の場合もあります。御本尊は宗派によって異なりますので、所縁のお寺さんに教えてもらうほうがいいですね。また同じ宗でも派によって異なることもあります。浄土真宗でも東と西では本尊さんが異なります。真言宗でも古義と新義で異なります。ですので、かならずお世話になったお寺さんに聞いてください。仏壇屋さんに聞いても曖昧なこともありますので。
一番奥の中央に本尊さんを祀ったら、その左右には掛け軸で脇の仏様かあるいは宗祖を祀ります。高野山真言宗の場合は、中央が大日如来(または観音様)、右の脇は弘法大師、左の脇は不動明王と決まっています。本尊さんと合わせて三尊になるようにします。

位牌がある場合は、本尊さんの前に位牌を置きます。位牌の大きさは、仏壇に合わせてください。大きすぎる位牌は、かえって邪魔になります。最近の仏壇はコンパクトになっていますので、位牌がおけない場合もあります。その場合は、繰り出し位牌と呼ばれる(場所によっては異なる呼び方があるようです)、戒名や法名が書いた板が何枚も入っている位牌を使うといいでしょう。
ちなみに、位牌は一人につき一つの位牌のほうがいいですね。夫婦位牌といって、夫婦の戒名が並べてある位牌もありますが、あまりお勧めできません。なんだか、片方が空いているのを見ていると、早く死ね、と言っているような気がして・・・・。夫婦位牌ができた理由は、仏壇が狭い、ということからです。本来は、一人につき一つの位牌です。
なお、仏壇を祀ったら、必ず先祖代々の位牌を造ってください。親の戒名の位牌しかない場合がりますが、先祖があっての親ですからね。中央、本尊様の前には「○○家先祖代々位」などと書かれた位牌が来るものなのです。
で、そのわきに左右に亡くなった順に位牌を並べていきます。
なお、五〇回忌が過ぎたような古い位牌は、お寺さんに納めます。五〇回忌が過ぎれば、御先祖の仲間入りですからね。先祖代々の位牌でいいのです。
繰り出し位牌の場合は、普段は先祖代々が一番前になっています。で、それぞれの命日の日に前に出してあげるようにします。

位牌の前には仏飯器と茶器をおきます。仏壇の大きさにもよりますが、昔の一間仏壇のような大きな仏壇でなければ一組あれば十分です。なお、仏飯ですが、よく
「毎日ごはんを炊かなければいけないのでしょうか」
と聞かれますが、必ずしもご飯でなくても結構です。ご飯を炊いた時はご飯をお供えすればいいし、そうでないときは、洗米やお菓子、パンなどでも構いません。昔は、毎日ご飯を炊いたものですが、今は家庭内の人数も減って、そうでない場合が多いようです。朝からご飯を食べる家庭も少なくなりましたしね。
なので、仏飯はご飯でなくても大丈夫です。代わりのものでもいいのですよ。
お茶は、できればお茶がいいですね。朝の一番茶、ですね。そうでない場合は、お水でもいいでしょう。ないよりはあったほうがいいですから。

つぎに、ローソク立て、線香立て、花立がきます。ローソク立てが一対、花立が一対、線香立てが一つという場合を五具足といいます。ローソク立て・花立・線香立てが一つずつの場合を三つ具足と言います。仏壇の大きさに合わせて選んでください。たいていは、三つ具足で十分でしょう。
線香立てですが、香炉形式のものでも大丈夫です。香炉の場合は、線香ではなく炭を置き、刻み香を焼香しますが、結構一般家庭では面倒だと思います。線香立てでいいでしょう。
なお、線香は普通サイズのものだと、30分〜45分ほど燃えています。皆さん忙しく、線香が燃え尽きるまで待ってられない場合が多いので、短い線香を使うか、線香を折って使ってください。線香を折ってはいかん、という頑固な坊さんがいますが、意味がわかりません。なぜ折っちゃいけないの?、と聞いてみたいですね。線香は折って使っても構いません。火事になったら大変です。線香を折って使い、短い時間でもいいですから手を合わせましょう。
なお、位牌ではなく、過去帳の場合は、過去帳を開いて立てておく経見台がありますので、それを使ってください。

仏壇を購入し、祀るときは、必ず所縁のお寺さんに指示を仰いでください。仏壇屋さんも勘違いや間違いをすることもありますから。
また、新しく仏壇を購入したばあいは、必ず仏壇の開眼・・・仏壇開き・・・を行ってください。これも、所縁のお寺さんに相談することです。

仏壇は、祀り方がその宗派によって異なります。今ここに書いたのは、ごくごく一般的な祀り方です。ですので、詳細は所縁のお寺さんに尋ねるのがいいでしょう。恥ずかしがることもないですし、恐れることもありません。素直にお寺の御住職に尋ねればいいのですよ。分からないから聞いているのですからね。
で、所縁のお寺さんとは仲良くなっておくことです。いずれ、お世話になることでしょうから。
合掌。


71回のテーマは

仏教への疑問

その12  護摩について教えてください。
ご質問のメールを紹介いたします。
「先日、京都の青蓮院で護摩(ごま)をされているのをお参りしました。あの護摩というのは、どういういみがあるのでしょうか」
と言ったようなメールでした。今回は、護摩についてお話いたします。

青蓮院さんは、天台宗ですので、私たち真言宗の護摩とは少々作法が異なります。が、その意味するところは同じです。護摩自体には変りはありません。初めにそのことをお断りしておきます。
さて、護摩ですが、護摩は正しくは護摩法(ごまほう)といいます。祈願法の一種です。護摩とは実は当て字でして、サンスクリット語の音写です。もとはホーマ(homa)といいます。漢訳した場合は、「梵焼(ぼんしょう)、火祭り祭祀法」となります。簡単にいえば、火を焚いて祈願をする作法、となります。
もともとは、古代インドに始まります。古代インドでは、リグ・ベーダの教えに則り、火を焚くことにより、火の神を召喚し、火の神に貢物をくべ、祈願をしました。お供え物を火を焚く炉や釜に投げます。するとその供物が燃え、供物の「気」が天に昇り、火の神である火天(かてん)を始め、天界の神々に届くのですね。で、その功徳により、人々の願いを叶えていただこう、という祈願法です。これが護摩の起源です。
火を祀る宗教は、インドには古くからあり、バラモン教のほかにもゾロアスター教などが有名ですね。お釈迦様が自らの教えに屈伏させたカサッパ三兄弟も火の神を祀る宗教家でした(お釈迦様物語を参照してください)。
お釈迦様がいらしたころは、仏教は火の神を祀る儀式は一切しませんでした。むしろ、そのような祈願法をしても、真実の悟りは得られないから、そうした祈願法は意味のないことだ、という立場をとっていました。当然ですね。悟りと祈願の儀式は関係ありませんから。そのような儀式をしても悟りは得られません。
それがなぜ後々仏教に・・・否、密教にとりいれられたのでしょうか。

仏教は、大乗仏教の勃発により、他の宗教をどんどん吸収していきました。他の宗派の人々を仏教に引き入れるために、他の宗教を飲み込んでしまい、その宗教の信者ごと取り入れてしまおう・・・というわけです。その集大成が密教ですね。密教には、他の宗教・・・インド古来のヒンドゥー教やバラモン教・ゾロアスター教、・中国の道教など・・・をその信者ごと吸収していったのです。それは、仏教の奥深さ、柔軟さ、幅広さ、容量の大きさを示す結果によるものです。仏教は他の宗教を否定しません。それよりも仲間になることによって、大きくなっていく道をとります。みんな仲間じゃないか、というわけですね。相手を否定や非難しないのが、大乗仏教の最大の特徴なのです。そうして、他の宗教の儀式なども取り入れ、仏教的に意義付けをし、仏教の儀式に変貌させていくのです。その最終形態が、密教の護摩法となるのです。

密教の護摩は、単に釜に火を焚き、お供え物を火にくべ、祈願成就を祈る・・・・という儀式ではありません。それでは、単なるインドの古代宗教と変りがありません。どこが異なるのか・・・・。
火を焚き、供物を火にくべ、祈願をすること自体は同じです。しかし、それと同時に、密教の護摩は人間の持つ誤った欲望を燃やし尽くし、自らの心に潜む魔を焼き尽くし、悟りを成就することを願います。単に自分の願望の成就を祈るだけではないのです。
また、護摩祈願とあるように、一般の人々の願いを叶えてもらうように、護摩を焚きます。あるいは、特別に一人の人物のために護摩法を行う場合もあります。それは、古代インドの護摩祈願と同じと思えるでしょう。しかし、それにも仏教的裏付けがあります。
たしかに、願いを叶えてもらうために護摩法を行います。が、その祈願が成就した場合、祈願した人たちは、護摩の力を信じることでしょう。そして、それが切っ掛けとなり、正しい仏教へと導かれていくのです。
つまり、祈願を通じて本当の仏教へと入って行くのですね。これは大乗仏教の典型的手法です。大乗仏教では、まずは自らの安楽を祈ることから始まりますからね。その祈りを通じて、次第に心が休まれば、仏様の力が分かるというものでしょう。そうなれば、仏様の教えを素直に聞くことができる心を持てます。護摩も同じです。異なるのは、他の祈願法よりも、祈願が成就しやすい、というだけです。護摩は、祈願法の最高峰なのですよ。最も祈願が成就しやすい作法なのです。

このように護摩は、願い事を成就させるための最高の作法なのです。そしてそれは、仏様の力の強さを知らしめるためにあるのです。仏様の力が強く大きなものだと分かれば、仏様の教えに耳を傾けるでしょう。人間とは、そうした力を見せられないと、なかなか信じないし、受け入れないし、話を聞こうとしません。なので、こうした祈願法を方便として使うのです。
人々が、初めから仏様の教え・・・仏教を素直に受け入れられるならば、このような方便は不必要なのですよ。
これが、護摩の意味です。

さて、護摩には二種類あります。それは外護摩(げごま)と内護摩(ないごま)です。外護摩は寺院で見られるような実際に火を焚き、供物をくべ、祈願するという護摩です。内護摩とは、実際には火を焚かずに、心の内にある煩悩の火を如来の智慧の火へと転じる瞑想法です。これを成就すれば、一切の煩悩が焼き尽くされ悟りを得る、と言われています。それはそれは、難しい作法です。
また、護摩(この場合は外護摩のこと)にはその目的に応じて4種類あります。息災・増益(そうやく)・敬愛・調伏の4種類です(これに鉤召・・・こうちょう・・・を加え5種類とする場合もある。また敬愛と鉤召を併せる場合もある)。
息災護摩は、真言宗寺院や天台宗寺院でごく一般に見られるオーソドックスな護摩です。私も毎月息災護摩を修法しております。
増益は、利益が増大することを祈る護摩です。簡単にいえば、商売繁盛・事業繁栄。金運向上用ですね。
敬愛は、恋愛成就や愛情を増大させるための護摩です。私も年に一度、愛染明王を本尊にした敬愛護摩を修法します。恋愛成就・夫婦円満・交際円満のための護摩です。
調伏は、相手を負かすための護摩です。言うことを聞かない相手を屈服させるための護摩ですね。元々は、病魔や禍の魔を滅ぼすための護摩法でした。それが唐の時代、戦の相手を打ち負かすための祈願法へと変貌し、あくどい僧侶などは呪いの作法として修法したりもしました。いわゆる黒護摩(くろごま)と言われるものです。やってはいけない護摩法ですね。
なお、一般的には本尊さんは不動明王です。まれに、降三世明王、大元帥明王、愛染明王、観音様、毘沙門天・・・などを本尊とする護摩もあります。
また、護摩は基本的には一度の護摩祈願で5つのパートに分かれています。これを五段護摩といいます。
初めの段は火天(かてん)に祈ります。次が部主(ぶしゅ。本尊により担当の仏様が変わる)、次が本尊、次が諸尊(すべての如来・菩薩が対象)、次が天部(不動明王と天界の神々、主に十二天)となっています。
が、略式で火天・本尊・諸天の三段護摩や本尊のみの一段護摩という作法もあります。
また、七日間護摩を焚き続けるという八千枚護摩(主に天台宗で行う秘法)もあります。

真言宗と天台宗の違いは、護摩の根拠となっている次第が異なる点にあります。真言宗は、金剛頂瑜伽護摩儀軌をもとにしており、天台宗は建立曼荼羅護摩儀軌をもとにしています。その点が異なるだけで、意味するところは同じですね。

以上、護摩についての説明でした。しかし、いくら説明してもそれは知識でしかありません。護摩を知りたいと思うのでしたら、実際に護摩の法会を参拝したほうがいいと思います。また、護摩法会参拝にし際し、護摩木に祈願を書いて祈るのもいいと思います。まずは参加してみることですね。そうでなければ、護摩の意味がよくわからないでしょう。
で、いつかどうしても叶えたいという祈願ができた時、普通のご祈願でお願いしてみても成就しないということでしたら、特別に護摩祈願を依頼してもいいと思います。まあ、ちょっと費用はかかりますけどね(作法上、諸経費がかかりますので、祈願料は高くなるのですよ)。でも、それだけの価値はあると思いますよ。
以上、護摩についてでした。
合掌。


72回のテーマは

仏教への疑問

その13 日本の神様と仏教の関係を教えてください。
ご質問のメールを紹介いたします。
「初詣に行きました。初詣はお寺がいいのか、神社がいいのか迷います。ところで、神社の神様は仏教ではどのように位置づけられているのでしょうか。七福神などは仏教とどうかかわっているのでしょうか」り
と言ったようなメールでした。今回は、仏教と日本の神様の関わりを中心にお話ししましょう。

ご存知のように、日本にはたくさんの神様が存在しています。八百万の神というくらいです。日本の神様の由来は、多くは古事記に説かれていますよね。古事記を読んでいただければ(漫画本の古事記もあります。読みやすいのでぜひどうぞ)よくわかると思いますが、古事記に登場する神の多くは、いわば自然の精霊のような神です。自然神とでもいいましょうか。海の神にしろ、山の神にしろ、自然が人格化したもの・・・・と考えたほうがいいですよね。
あるいは、その地方に存在した権力者、と解釈するのが妥当でしょう。たとえば、海の神は、当時海辺で栄えた国があり、その海を支配していた国王が神格化されたもの・・・・というように、実際に存在した権力者、乃至は国王を死後に神として祀ったと解釈するのが妥当ですね。
有名な大国主命も、実際はそういう神がいたのではなくて、出雲にあった国の王様であり、その国王が死後に「大国主命」として祀られるようになったのでしょう。それが神話が伝える真実ですよね。神話とは実際にあった事柄を神話として語り継いでいるものなのです。
と、まあ、そういうことですから、日本の神々は、自然の精霊から誕生した神か、あるいはその地域の権力者もしくは国王が死後祀られるようになり神格化した神なのです。地方の一地域の権力者が祀られるようになれば、それは「地主神」とか「鎮守の神」とか呼ばれるようになるのです。
古来、日本人はそうした自然から生まれた神か、あるいは過去の権力者がなった神に祈っていたのです。

6世紀後半から7世紀にかけて仏教が日本に伝わります(もっと早くから伝わっていたという説もあります)。日本人は、なぜか当時から舶来ものが好きだったようです。というか、目新しいものは国を治めることに利用しやすい、という点もあります。まあ、新しい物好き、ということもありますが・・・・。
ともあれ、仏教が日本に伝わりますと、時の権力者はそれに飛びついてしまうのですね。しかも、仏教の教えは深いです。なぜ、国が荒れるのかとか、なぜ血で血を争うようなことが起こるのか、罪と罰、極楽や天界と地獄、因縁・・・そうした教えが貴族の間に浸透していくのですね。
残念ながら、古来祀られていた神々の場合、深い教えというものがありません。どちらかと言えば、シャーマニズム的な宗教です。それはどこの国も同じで、土着宗教というものは、多くはシャーマニズムであり、祈りや奇跡を求める儀式的宗教が主流でした。ところが、仏教はそうではありません。もちろん、儀式もあり、祈りもあり、奇跡も求めますが、それだけではありません。そこには、深い教えが存在しています。知識層であった貴族たちが、仏教の虜になるのは当然と言えば当然でしょう。ただただ、祈り、御伺いを立てるだけの宗教では、満足できないのです。
こうして、あっという間に仏教は知識層を中心に広まり、古来からの日本の神々を中心から追いやることとなります。

しかし、仏教は排他的ではありません。吸収型です。なので、日本の神々も吸収してしまいます。かつて、インドでインドの神々を吸収してしまったように・・・・。
仏教は、本来神々を祀ることはしません。しかし、大乗仏教が起こると、インドの神々はどんどん仏教に吸収され、仏教化されてしまいます。つまり、仏教の支配下におかれるわけです。
仏教は本来は己の悟りを得るための教えです。悟りを得た者は、仏陀となり、解脱者となり、神々をも従えるものとなります。仏陀はそういう存在としてインドでは認められていました。ですから、お釈迦様が仏陀となられた後は、インドの神々は、お釈迦様の足元に跪いたのです。仏教がインドの神々を従えたのですね。インドの神々は、輪廻する存在ですが、仏陀は輪廻を解脱した存在です。どちらが上か、ということは自ずから判断できますよね。
つまり、仏陀が最高位で、その下に菩薩、で因縁によって悟った者である縁覚(えんがく)が続き、お釈迦様の教えを聞いて悟った者である声聞(しょうもん)がきます。ここまでが輪廻を解脱したものです。で、その下に天界の神々がきます。悟りを得た者は神よりも上の世界にいるのです。神の下は人間ですね(その下に修羅・畜生・餓鬼・地獄と続きます)。これが仏教での序列です。仏教では神々は、悟りを得た者よりも下、となるのです。

この思想は、日本にも適用されます。そもそも、日本の神の多くは時の権力者、あるいはその地域の権力者がなった神ですから、悟りを得て真理に達した仏陀からすれば、格下であることは当然だったわけです。なので、その地域の地主神は寺に土地を貸し、寺を守るための鎮守の神となります。これが仏教における日本の神に与えられた地位の一つです。

もう一つ、別の解釈が生まれます。それは、日本の神々の中には、仏教の菩薩や明王が化身した神もいる、という説です。たとえば、天照大神は大日如来の化身である、という教えですね。こうした仏教の如来や菩薩や明王が化身して、日本の神になった、としたのです。これを「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」といいます。「本」は大元のことで、本来の姿という意味です。「地」はこの世に現れた姿を意味します。「垂迹」とは「上からやってきた」という意味ですね。
つまり、日本の神様は、本来の姿は如来であるが、如来の世界から日本を救うためにこの地にやってきた化身である、という意味になるのです。
したがって、日本の神々の中には、如来や菩薩、明王が化身した神も存在している、としたのです。
また、これと同様に、権現様、という神も誕生しています。権現様も意味は「本地垂迹説」と同じで、如来や菩薩、明王が権化した姿、という意味です。有名なところでは、蔵王権現がよく知られていますね。
あなたの地方に、もし権現様がいらしたら、それは如来か菩薩か明王が権化した神であったのです。

日本の神々は、このように仏教の中で位置付けられていったのです。まとめますと、
@もともとその土地の権力者であったという性質をもつ神の場合は、地主神とし、寺に土地を提供する神として祀られるようになった。あるいは、寺を守る鎮守の神として祀られるようになった。
A熊野神社や伊勢神宮など、古来からある日本の中心的神々は、仏教の如来や菩薩、明王が化身して現れた姿であると位置付けた。これを本地垂迹説という。
となります。

このように仏教が日本の神々を吸収した形をとったわけですが、やがて明治維新となり、寺と神社は分離させられます。明治政府は、王政復古に伴い、古来の神国日本に戻そうということで、輸入品の仏教を弾圧したのですね。つぶすことが可能な寺はことごとくつぶしたのです。で、神社を格上とし、寺は死者の管理・・・つまり葬儀を執り行う場所・・・としたのです。いわば、今の各寺院の檀家寺という状態は明治政府が、江戸時代から続く檀家制度を利用してつくったものなのです。ここで寺の性質が大きく変わってしまったのですね。寺は修行の場、教えを説く場から、葬式を執り行い、先祖の供養を行う場へと変わっていったのです。
この時点において、寺と神社の立場は逆転します。

しかし、神社は、実は大きな神社はいいのですが、地方の神社は困窮することとなります。それまでは寺と一緒だったので、寺に収入があれば神社の方も潤ったわけです。しかし、分離されると神社は収入を得るすべがなくなってしまいます。寺と共存共栄、持ちつ持たれつだったからやっていけたわけで、寺から分離されれば、瞬く間に火の車なんですね。なぜなら、宗教儀式は多くが寺が引き受けていたからです。特に死者への儀式は寺の仕事だったからです。その部分での収入が大変大きかったのです。
なので、多くの地方の神社は廃れてしまったのですね。住職のいない寺は、あるにはあるのですがそんなに多くはありません。ところが、神主のいない神社は、ものすごくたくさんあります。神社1社ごとに神主さんを置いていても生活ができないのです。そこで、神主さんは多数の神社を掛け持ちするのですね。なので、神主さんのない神社があちこちにあるのです。

話がそれました。もどします。
このように、仏教では、日本の神々は、@地主神・鎮守の神、A如来や菩薩、明王の化身、権現様、として位置付けています。
そういえば、ずいぶん前のことですが、ある尼僧さん(有名な方ではありません)が書いた本に、
「日本の神々は如来の上の存在である」
とありました。私はびっくりしましたね。いったい何を勉強してきたのか、と。よくまあそんなことが書けたもんだな、と。本当に尼僧さんなのかねぇ、とも思いました。まあ、その本からすると(買ったのではありませんよ。ある方がお寺に持ってきたのです。こんなことが書かれている、と・・・・)、ちょっと怪しい尼僧さんだったようですけどね。
しかし、尼僧であれ、なんであれ、仏教を学んだ専門家ならば、本地垂迹説くらいは知っておいて欲しいですね。

仏教はあくまでも真理を悟るための教えです。また真理に至った者は、解脱者となり、神々をも従える存在となるのです。なぜならば、一切の欲望を超越しているからです。欲望の残っている神々とは、その存在が異なるのです。比較対象にはならないのですね。解脱者は、一切の現象や事象から解放されているので、本来、比較すべき存在ではないのですよ。なので、同一線上で語られる存在ですらない、というのが、仏教本来の立場でしょう。
その答えが最も正確だと思います。
これが、日本の仏教における日本の神の位置ですね。


次に七福神ですが、これは室町時代に出来上がった縁起担ぎの神様たちです。もとは、バラバラですね。
七福神は、皆さんご存じだと思いますが、弁財天・毘沙門天・大黒天・布袋・寿老人・福禄寿・恵比寿大明神の七人の神々から出来上がっています。室町時代に、商売繁盛や禄が増えるという神、寿命が延びる神、景気のいい神などを勝手に集めて、それをお参りしましょうという習慣が出来上がったのです。江戸時代には、七福神を描いた絵を枕の下に敷けばいい夢が見られるということで、お正月の初夢のために七福神の絵が描かれ売られたそうです。
七福神の中で、弁財天・毘沙門天・大黒天は仏教の神々です(大黒天については、のちほど説明します)。布袋・寿老人・福禄寿は中国の道教の神ですね。唯一、恵比寿さんだけは日本の神様です。
なお、大黒天は、インドの神である大黒天のことです。もとはマハーカーラという悪神です。それが仏教にとりいれられ、豊穣の神となります。
仏教が日本に入ってきたとき、日本には大国主命という神がいました。米俵に乗って大きな袋を担ぎ、打ち出の小槌を持っている姿で表現されますね。まあ、その姿も後につくられたものですが・・・・。
この大国主命と大黒天、名前が似ていますよね。大国はダイコクとも読めます。しかも、どちらも豊穣の神で米にかかわりがあります。やがて、二人の神は合体してしまいます。大国主命は大黒天と同じになってしまったのです。七福神の中の大黒天は、姿形は大国主命ですが、名前は大黒天なのです。本来の大黒天の姿はもっと恐ろしい姿ですからね。ここでも、仏教が日本の神を吸収した、ということが起きているのです。
なお、布袋さんも、もとは中国の神と言われていますが、一説には弥勒菩薩の化身である、という説もあります。というか、仏教では布袋さんは弥勒菩薩の化身というのが定説ですね。
七福神は、縁起のいい、景気のいい神様を集めただけです。しかし、それが因縁というものでして、初めは単に縁起のいい神を集めただけかもしれませんが、それが民衆に広まり、信仰されると、ちゃんとした意味を持つようになるのです。信仰の対象としての存在となるのですね。
ですから、七福神をお参りすることは、意味のあることなのですよ。それは、仏教の教えとは切り離して考えるべきであり、信仰として受け入れるべきものでしょう。本来の仏教にはないからと言って、否定するものではありません。信仰と理論は、別物ですからね。

ちなみに、仏教が入ってきたことによって、日本の神がその姿形を変えてしまったものとして、大国主命のほかには、ダキニ天があります。お稲荷さんと言った方が分かりやすいですね。
稲荷明神は、本来は日本の神でした。稲の神として古来より祀られていました。姿は老人の姿で表現されることが多いですね。手下として狐を使っていたという性質があったらしいです。
仏教が入ってきたときに、稲の神としてダキニ天もやってきました。ダキニ天はジャッカルに乗っている女神です。ジャッカルは日本にはいません。似ているのは・・・・キツネだったのです。そこで・・・合体が始まります。
老人の姿で描かれていたはずの稲荷明神は、ダキニ天に乗っ取られてしまいます。以後、稲荷明神と言えば、その本体はキツネに乗った女神となるのです。なお、キツネは御使いであって、キツネが御神体ではありませんのでご注意ください。本体は、キツネに乗った「女神であるダキニ天」です。

このように、仏教は仏教が伝わった国の土着の宗教や神々を吸収してしまうという性質を持っています。ですので、日本の神々も吸収されたのですが、それは仕方がないのです。土着宗教には、仏教に打ち勝てるような理論がないからです。人々は、深い教えを求めるものなのです。

以上、仏教における日本の神々の位置についてでした。
合掌。


73回のテーマは

仏教への疑問

その14 滝行などの修行について教えてください。
ご質問のメールを紹介いたします。
「TVで滝に打たれる修行をやっていました。和尚さんもされましたか?。修行になりますか?。修行とはそういうことをするのですか?」
と言ったようなメールでした。今回は、仏教の修行についてお話いたします。

一般的に仏教の修行と言うと、すっごく厳しいのではないか、冬に水を浴びたりするのではないか、などといったイメージがあるのではないでしょうか。しかし、それはあくまでも民間の間にある伝承と言いますか、一般的に信じられている修行と言った方がいいでしょう。実際は、そうでもない場合が多いのです。
もちろん、日蓮宗の百日修行のように寒い中、水浴びをする厳しい修行もあります。永平寺のように雪の中でも裸足で過ごすようなキツイ修行もあります。滝修行をする宗派もあることでしょう。
が、しかし、そうしたことはあくまでも本来の修行とは違った、いわば付録の修行のようなものでしょう。本当の修行とは、肉体をいじめるものではなく、精神を鍛えるものなのです。ま、それは後にお話しするとしまして、まずは滝修行についてお話いたしましょう。

いつから滝修行が行われるようになったのか。それは私は知りません。定かではないと思われます。
そもそもは、山伏・・・山岳宗教、いわゆる雑密(ぞうみつ)の修行者の間で行われていたのではないかと思われます。発祥は、山伏なのではないかと思うのです。
滝修行の原点を尋ねれば、それは「清め」でしょう。なぜ滝の水を浴びるのか、といえば、清らかな水で自らの穢れを落としたいから、というのが始まりだったと思います。
お釈迦様は、出家修行者にいつも清潔であれ、と説いていました。そのためには、朝起きたらすぐに沐浴をするように、と勧めていました。また大便をしたならば、やはり川や泉に入り、沐浴をするように勧めていました。それは、修行者が生活する集団・・・精舎内・・・に疫病が流行らないようにするためでもあったでしょう。お釈迦様は、理由のないことをやるように指示はしません。清潔にせよ、という理由は、疫病を避ける、と言う意味があったのでしょう。なので、朝起きたら沐浴をし、身体の穢れをおとし、大便をしたら沐浴をし、やはり穢れを流していたのです。それはあくまでも清潔さを保ち、病にならないようにするための予防策でもあったわけです。

水を浴びて清らかになる・・・・これにいつからか精神論が加味されるようになりました。すなわち、滝に打たれて身も心もきれいになる、ということですね。
本来は、川の水でよかったのです。川に入って身体を洗うことが大事だったのです。それがいつの間にやら、滝になったのですね。まあ、川で流すよりも、滝に打たれたほうがキレイになるような気もしますし、水の重みで身体も鍛えられますしね。山岳宗教者や山伏にとっては一石二鳥でしょう。天然のシャワー、しかも筋トレができる、というわけです。
さらには、すがすがしい山の空気に触れることで、精神は清められることでしょう。誰でも山や森に入れば、気持ちがいいですからね。森林浴です。そうした中で、清浄なる水に打たれるのは、まさしく身も心も清らかになることでしょう。
が、だからと言って、それが仏道修行か、と問われれば、否、としか言いようがありません。

仏教の目的は悟ることです。滝に打たれ続けて悟れるならばいいでしょう。自分の中にある雑念や妄念、誤った考えや汚れた心がきれいになり、「あぁ、そうだったのか」と悟ることができるならば、滝修行もいいのではないかと思います。
が、ただ単に「清められた」と思うだけならば、それは修行という程のことでもないと思うのです。お風呂に入れば済むことですから。
「冷たい水に打たれ、身も心も清めらた」
と感じるのはいいことでしょう。しかし、仏道の修行とはちょっとずれているのです。清めるのなら今も言ったように、お風呂で
「清められた」
と感じればいいことです。そう感じにくいのは分かりますが・・・・。
しかし、寒い中、滝に打たれるというのは、一種の我慢大会のようなもので、それは単に我慢大会で最後まで耐え抜いた、と言うだけにすぎないところがあることは否定できません。夏にこたつに入って着ぶくれて我慢していると同じです。いわば、自己満足ですね。
我慢する、辛抱する、辛さに耐える・・・・そうした精神力を身につけているのだ、といわれれば、それはそうかもしれません。しかし、それも一時のことです。それならば、満員電車に毎日のようにつめ込められ、耐え忍んでいるサラリーマンの方が強靭な精神力が身につくのではないかと思うくらいです。

お釈迦様は、修行は苦しくてはいけない、快楽でもいけない、と説いています。苦痛を与えてもそれは何の意味を為さないものだ、悟りには程遠いものだ、と言って苦行を禁止しました。苦行では悟れない、ということですね。
では、何が修行になるのでしょうか。それは深い深い瞑想なのです。
もっとも重要な修行とは、己を知ることなのです。己自身を知り、己の心をすべて知り、それを認め、受け入れてしまうことが、もっとも重要な修行なのですね。そして、自分自身をコントロールすることが最重要の修行なのです。最終的に、己のすべてを知り、己の欲望を完全にコントロールできたとき、それが悟りなのですね。
そのためにはどうすればいいのか。そこへ至るためにはどんな方法があるのか。
もちろん、それにはいろいろな方法があることでしょう。ですが、中でももっともやりやすい方法が瞑想です。あるいは座禅でしょう。

瞑想と座禅は似ているようで異なっています。そのベクトルは全く逆と言っていいくらいでしょう。
瞑想は己の中に深く深く入っていくもの。座禅は、己を無色透明になるように解放していくもの、とでもいえばわかりやすいでしょうか。瞑想は内へ、座禅は外へ、と言った方が分かりやすいかもしれませんね。
瞑想は、内へ深く深く入って、己をすべて知り、己をコントロールしようとする積極性があります。そうして、己と言うものを超越していくのですね。
座禅は、己をどこまでも外へ外へと広げつつ、いつの間にか宇宙と己の区別がなくなるまでに持っていきます。そして、一切から解放された自分を手に入れます。完全なる自由を手に入れるのですね。
超越と解放・・・言葉は違いますが、行き着くところは同じです。これが仏教の最終目標です。そのために修行があるのですが、今も言ったようにそこへ至る道は様々で、瞑想あり、座禅あり、念仏あり、読経三昧あり・・・・なのです。
しかし、そこには滝行は含まれません。

本来、滝行というのは、沐浴の代わりです。本当の修行は、あくまでも己の解放、あるいは己を超越するために行うものです。滝に打たれて、それができるでしょうか?。
滝に打たれるのは長時間ではありません。しかも、一生懸命お経をあげています。あるいは、御真言を唱えます。それはそれで修行にはなるでしょう。しかし、それで悟りを得ることは難しい・・・としかいいようがありません。なので、滝行は正式な修行項目にはどの宗派も入っていないのです。

真言宗では修行と言えば四度加行(しどけぎょう)です。これは一種の瞑想法で、如来と一体化するのが目的です。もっとも、加行は自動車教習所のようなもので、特殊な瞑想法を教わるにすぎません。四度加行をしたから悟れる、と言うものでもありません。大切なのは、その修行を終えた後なのです。
お寺に入って、あるいは、宗派の修行をして悟りを得られるか、と言われれば、答えはNOです。そんなに簡単なことではありません。
大切なのは、日々の生活の中で、絶えず如来と一体化できているか、いつも世間から解放されているか、世間の中にあって世間から離れていることができるか、なのです。それを日常維持していることが本当の修行でしょう。

私は坊さんになって約25年になりますが、その中でこれこそが本当の修行だな、と思ったのは、
「俗世間にいて俗世間に染まらず」
ということです。一般の人々と同じような生活をし、なおかつ一般の人々が求めるようなことに執着しない、ことが最も厳しい修行となるのだな、と思います。出家者と一般人のラインを意識することが修行そのものなのだと思うのです。

「お前はそれができているのか?」
と問われれば、答えは不明です。よくわかりません。しかし、執着はないのかな、と思います。
私はお坊さん仲間と酒場に行ったりもします。若い女性がいるような飲み屋さんにも出入りします。しかし、だからと言って、それがないと生きていけないか、と言われればそんなことはありません。誘われるからいく、たまたま時間と費用があるからいく、時間もなく、費用もなく、誘われなければいかない、ただそれだけです。行く機会がなければいかない、それだけです。いけなければいかない、それだけです。それ以外の何ものでもないのです。
車で行きますから、お酒は飲みません。車じゃなくてもお酒は飲みません。気持ちが悪くなるから飲まないだけです。修行者だから飲まない、のではありません。家でなら缶ビールくらいは飲めます。気持ちが悪くなっても大丈夫だからです。ただそれだけです。
TVゲームもします。最近ではPSPのモンハンを坊さん仲間とやってます。しかし、できなきゃできないでどうでもいいです。やる時間があるからやる、それでだれにも迷惑はかかっていないし、誰も悲しい思いにはさせてはいません。
本も読みます。たいていはミステリなので、死体が出てきます。ドロドロの人間模様が描かれています。文学やファンタジーはあまり読みません。仏教書も最近は読みません。
だからといって修行にならないか、堕落しているか、と言われればそんなことはないと答えます。別に堕落もしていません。するべきことはしていますし、周囲にとやかく言われることもないです。
俗世間にいて俗世間に染まらない、俗世間に執着しない・・・・
それを貫いています。

修行と言うのは、何でもいいと思います。それが滝行であってもいいし、念仏三昧であってもいいし、お百度参りであってもいいし、座禅であってもいいし、何でもいいのです。でも、ただ苦しいだけを我慢するのなら、やらないほうがいいですね。それならば、我慢大会に出たほうがましです。賞品とかもらえるし。我慢する、辛抱する、辛いのに耐える、ために修行するならば、それは修行ではなくて、自己満足にすぎません。修行とは、自己満足のためにやることではないのです。悟りを得るためにやるのです。我慢していては悟りなぞ得られるわけはないでしょう。お釈迦様のように
「苦行に耐えているだけでは悟れないということを悟った」
くらいしか効果はありません。

もし、あなたが滝行をやりたい、滝行をやってます、というのならば、滝に打たれることを耐えるのが修行だと思わないでください。滝に打たれているんだぞ、修行をしているんだぞ、という気持ちを流してしまうために滝に打たれてください。
滝行は、あくまでも、単なる清めです。風呂に入るのと同じです。冷たさや辛さや痛さに耐えても悟りとは関係のないことなのです。ましてや毎日滝に打たれています、なんて自慢するのは愚ですね。まあ、私はできませんから、
「あぁ、偉いな〜、大変だな〜」
とは思いますが、それだけです、それは個人の自由ですからね。滝に打たれるのもいいことでしょう。それが必要だと思う方もいますし。滝行を否定することはしません。やりたい方はやればいいと思います。

修行を勘違いしないでください。肉体的に厳しい、辛い、キツイから修行になるのではありません。自分をとことん知り、そんな自分を認め、世間をとことん知り、現実の清と濁を受けいれ、それらを飲み込んで、執着しないようにする、それが修行なのです。
俗世間にあって俗世間に染まらず、俗世間にあって俗世間に執着せず、たえず解放されている、たえず超越している、そういう状態を手に入れようとすることが修行なのです。
さらに、そういう状態が好きでなければなりません。まったく執着しない、解放されている状態、それを楽しめるようにならないといけないのです。そのために己をコントロールすること、それが修行なのです。
辛さに耐えるのが修行・・・ではないのですよ。
合掌。


74回のテーマは

仏教への疑問

その15 欲を捨てるのが仏教の教えなのではないですか。
ご質問のメールを紹介いたします。質問と言うより、抗議と言った方がいいですかね。
「前回、滝に打たれることなど修行ではない、と言ってましたが、滝行は立派な修行だと思います。世俗の穢れ落とす修行です。出家者は、欲を捨てるのが仏陀の教えです。それなのに、夜の街で歩くなんて!。滝に打たれて欲を捨てたほうがいいんじゃないですか?」
と言ったようなメールでした。どうも仏教の修行について勘違いしているというか、仏教の欲について勘違いをしているようなので、今回は、「仏教の欲」についてお話いたします。
ちなみに私は滝に打たれること自体を否定しているのではありません。「滝に打たれること=修行」ではない、と言っているだけですので、ご注意ください。もう一度、前回の内容を読み返していただいた方がいいと思います。

確かに、多くの人が勘違いしていると思います。どういう勘違いかと言うと、
「仏教は欲を捨てるという教えを説く宗教だ」
という勘違いです。
「え〜それって、勘違いじゃなくて、本当のことでしょ?」
という声が聞こえてきそうですが、仏教では「欲を捨てろ」などとは言いません。「欲をコントロールせよ」とは言います。捨てるのとコントロールするのでは大きく異なりますよね。仏教は欲を捨てる宗教ではないのですよ。
もし人間が欲を捨てたらどうなるでしょうか?。
いい人になりたい、これも欲です。
勉強したい、これも欲です。
出世したい、これも欲です。
金持ちになりたい、これも欲ですね。
当然ながら、悟りを得たい、これも欲です。
仏教が欲を捨てろ、と説いているのならば、悟りを得なさい、などと説くこともなくなるわけです。欲を捨てよ、の一言に集約されてしまうからです。
欲を捨ててしまったら、お釈迦様の教えは成立しなくなります。欲を捨てよ、ということは「生きたい」と言うことも捨てなければなりませんからね。当然ながら、基本的な欲望である「食欲」も捨てねばなりません。それでは、生きていけませんよね。欲を捨てろ、と言うのが仏教ならば、仏教はすべての生命に対して「滅びよ」と言っているのと同じことになってしまいます。
だから、「仏教は欲を捨てろとい宗教だ」というのは大きな勘違いだ、と言っているのです。

「否、そうじゃない。余分な欲を捨てろ、間違った欲を捨てろ、という宗教なのだ」
と言い換えて見ましょう。
となると、「余分な欲」とは何でしょうか?。「間違った欲」とは何でしょうか?。
もちろん、明らかに間違った欲や余分な欲はあります。それは捨てるほうがいいでしょう。というか、そういう欲は出さないほうがいいでしょう。捨てるのではなく、「出さない」ですね。
たとえば、人を殺したいとか、他人のものを奪いたいとか、十分に手元にあるのにもっと欲しいとか、他人を陥れたいとか・・・そういった貪りや人道的に反する欲は、当然ながら排除すべきでしょう。そういう欲は捨てるのではなく、初めから「もたないようにする」ことが大事ですよね。それは、人間として当然のことです。欲を捨てるとか出すな、以前の問題ですよね。問題外の話です。

では、よかれと思ってなした行為が相手にとって悪い結果を生んでしまった場合はどうなるのでしょう。
「相手にとってこうするのがいいだろう、こうしてあげたほうがいいだろう」と思って行動することって、よくありますよね。どなたでも経験があると思います。そういう行動は、当然ながら「欲」の上で成り立っています。よ〜っく、心の奥底を覗いてみてください。相手にとって「よかれと思ってした」というのは、自己満足による行為なのか、その人に「いい人だ」と思われたいからしたことなのか・・・・。いずれにせよ、その行為の根底には「欲」が絡んでいます。そこをまず理解していただきたいです。
で、「よかれと思ってした行為」がいい結果を生めば問題はありません。相手から感謝されることでしょう。感謝されれば満足できますよね。欲が満たされます。しかし、よい結果が生まれるとは限りません。よかれと思ってしたことが裏目に出て悪い結果を生むこともあります。そうなれば、「余計なことをして」と詰られるか、責められるか、嫌みを言われるか、恨まれるか、ですよね。下手をすれば、関係悪化ということもあります。
さて、よかれと思ってしたことは、余分な欲なのか、いけない欲なのか、捨てるべき欲なのか、間違った欲なのか・・・・どうなのでしょうか?。
もし、そうした欲も捨てろ、と言うのなら、世の中「冷たい人」ばかりになってしまいますよね。誰も手助けはするな、と言うことになってしまいます。
仏教は欲を捨てろと言っている・・・・なんて単純な話ではないのですよ。欲に関して言えば、そんなひとことで言えるほど単純な話ではないのです。

譬え話をしましょう。
あなたは旅に出ています。一人旅です。途中でお金を落としてしまいました。無一文です。もちろん、携帯電話など持っていません。行けども行けども民家はありません。そうした日を数日過ごしています。もうハラペコですね。そんなある日、一軒の家を見つけます。助かった、と思い、あなたはその家に飛び込みます。が、その家には誰もいません。家には食卓テーブルと椅子が一つあるだけです。よく見ると、そのテーブルに上は豪勢な食事がおいてあります。そして、その食事にはこう書かれた紙が添付されていました。
「この食事はご自由にお食べください。ただし、『毒入り』です。苦しんだうえ死がやってきます。ひょっとしたら毒に対する免疫があり助かるかもしれませんが・・・。それでも良ければ食べてください」
さて、あなたはどうしますか?。
あなたはもう何日も食べていません。この先助けが来る保証はありません。あなたの選択肢は限られています。
@先に進んで助かる可能性を求める
Aその家で助けを待つ
B毒の食事を食べ、満腹になって死ぬ
C餓死、もしくは自殺を選ぶ
@を選ぶ場合は「助かりたい、生きたい」という欲望があるからですよね。Aもそうです。BCは死を選ぶとうことですね。Bの場合はどうせ死ぬのなら満腹で、という欲ですよね。Cは毒で苦しむくらいならなるべく苦しまないで死ぬ、という選択です。このほかに道はあるでしょうか?。
仏教ではこうした問いに対してどう答えると思いますか?。「欲を捨てろ」と言うのならば、答えがありませんよね。死にたい、と言うのも欲ですからね。結局は、「今ある状況から救われたい」、と言う欲の上で行動になるのですから。もし、仏教が欲を捨てろ、と説くならば答えられないことになります。が、それでは宗教としては不完全になってしまいます。仏教は真理を説く宗教です。真理を説く以上、こうした問いにも答えを出さねばなりません。
さぁ、あなたはどう答えますか?。

お釈迦様ならこう答えるでしょう。「好きにしなさい」と。
先に進んで助けを求めるもよし、その家で待っているのもよし、毒の入った食事を食べるもよし、何も食べず先にも進まず静かに瞑想でもして餓死するもよし、自由にするがいい・・・・、と。しかし、これで終わりではありません。
「ただし、どの道を選んでも、その結果において後悔しないこと、誰も恨まないこと、自分自身も恨まないこと、嘆かないこと、満足すること、未練や思いを残さないこと」
と答えるでしょう。これが仏教の本質なのですよ。
「自分が選んだ道において、それは自己責任である以上、どんな結果であろうとも満足すること」
これが仏教の教えなのです。つまり、「欲をコントロールせよ」というのは、結果において「恨んだり、嘆いたり、後悔したり、他人のせいにしたり、未練を持ったり、妬んだり、羨んだりするな」ということなのです。
そうした思い、未練、念と言うものをうまくコントロールすることが仏教の欲に対する考え方なのです。で、そのコントロールが修行なのです。

「こんな譬え話の状況なんてないでしょ」
と反論される方もいるかもしれませんので、ありそうな下世話な話でもう一度、質問をします。女性の方は、以下の話の性を入れ替えて考えて(妄想して)ください。
あなたはある会社の部長クラスの役職をしています。部下からも上司からも信頼される社員です。家庭もあり、持ち家(マンションでもいい)もあり、ローンはあるけど不自由はしていません。ごくごく平凡な家庭ですね。
ある日のこと、部下のOLに相談を持ちかけられます。そのOLさんは社内でも評判のいいOLさんです。あなたも少なからず好意を持っています。もちろん、上司と部下と言う間での好意です。そのOLさんに相談を持ちかけられたのですね。で、見事、その部下の悩み事を解決します。当然ながら感謝されます。が、それで終わらなかったんですよ。彼女は、
「付き合ってください。いいえ、たった一度でいいですから・・・・・」
とあなたに迫ります。さらには
「もちろん、家庭を壊すようなことはしません。ただ、好きなんです。不倫だということも分かっています。多くは望みません。お付き合いして欲しいだけです」
と言ってきました。さて、あなたはどうしますか?。
「こんなことはない」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、世間には実はよくある話なのですよ。多くの場合、誘うのは男性側ですけど、女性から・・・というのも少なからずあるのです。
さて、こうした場合どうしますか?。この場合の部下のOLさんは、いわば先ほどの話の毒の食事と同じす。異なるのは、あなたは決して飢えていない、と言うことだけです。それと他にも女性はいる、と言うことですね。しかし、あなた自身も前々から好意は持っていた相手です。さてさてどうしましょう。
当然、多くの人は迷うと思います。どうしようか・・・・、一回くらいだけならいいか、不倫だとわかっているならいいか、問題ないよな、イヤイヤやっぱりいかんだろう、立場もあるし・・・・家庭もあるし・・・・、でも家庭は壊さないと言っているし・・・・いい女だしなぁ・・・・。
心の葛藤が聞こえてきそうですよね。
このときに大事なのが、欲のコントロールなのです。さて、あなたは欲をどのようにコントロールしますか?。どう答えを出しますか?
単純に「NO」と否定し、翌日からも普通の顔ができる人は、幸せなかたなのです。心の強い方なのです。そういう方には、仏教の教えなど必要はありません。我が道を行けばいいのです。仏教が必要な方は、「迷う人」なのです。迷って悩んで、どうしていいかわからない・・・・そういう人にとって仏教は必要なのです。
さて、あなたは単純にNOといえるでしょうか?、迷った挙句に答えを出すでしょうか?。

この場合の答えは簡単なんですよ。
「あなたの今の感情は一時的なものなのだよ。しばらくすれば、そうした思いは消えていくものだ。私があなたの愛を受け入れることは簡単であろう。しかし、それで幸せになる人はいない。あなたは私にとらわれるであろう。私は妻子への罪の意識を持ち続けさいなまれるであろう。一時の欲望を満たすことにより、苦しみは増大するであろう。その苦しみを受け入れる覚悟は私にはないのだよ。あなたにはあなたにふさわしい人がいるのだ。私はあなたにとって『あこがれの上司』であったほうがいいのだよ。そのほうが美しいではないか。関係を深めることにより苦しみを得るよりも、今の上司と部下の関係であったほうがお互いに幸せなのだよ」
というように説得する、ですよね。
しかし、もし、あなたに家庭が壊れても、仕事を失っても、家族や相手の両親や身内から恨まれようとも、何をされようとも構わない、すべてにおいて責任をとる、たとえ地獄に落ちても子孫には救いを求めない、と言うのならば、部下に手を出してもいいと私は思います。それも仏教の説く選択肢の一つだと思います。

問題は「覚悟」なのです。どん状況に陥ろうとも、その道を選んだのはすべてにおいて自己責任なのですから、一切の苦しみを受け入れる覚悟があれば、どの道を選んでもいいのです。お釈迦様は注意もしないし、怒りもしないでしょう。
たとえ地獄で苦しむことにあっても、否、この世で地獄の苦しみを味わうことになっても、満足できるならば、いいではないか、ということなのです。誰も恨まない、後悔しない、誰も悲しませない、誰も苦しめない、という覚悟があるなら、何をやってもいいのです。もし、誰かを苦しめたのなら、責任を持ってその苦しみを癒してやらねばならないのです。その覚悟がなければ、安全な道を選ぶことですよね。
よくこのような話をすると、またまた勘違いをする方がいますので先に言っておきます。というのは、「どうせ俺なんて・・・」といって通り魔事件を起こしたりする者がいますよね。オウムのサリン事件もそうですが、彼らの中にはは「納得して事件を起こした」と言う者もいます。それが当然だ、という考え方ですね。しかし、その根底にあるのものは、「世をはかなんでいる」、「自暴自棄なっている」、「世間を恨んで、その恨みを晴らすためにやった」と言った場合が多いでしょう。それは結局のところ、「逃げ」なのですね。
それでもいい、逃げでもいい、ならば、自分の逃げによって犠牲になった人たちの悲しみや苦しみを一身に受けて、その悲しみや苦しみを癒す努力をしろ、と仏教は言うでしょう。自分の欲望を遂行することによって苦しめた人々を救う努力をしろ、というでしょう。その覚悟がないのなら、自己満足のためだけの欲望に従うのはやめておけ、となるのです。欲望をよくコントロールしなさい、となるのです。

日常生活をしていると、ありとあらゆる欲望の中に身を置くことになります。その中で、その欲をコントロールして生きていくことは大変難しい生き方なのです。多くの人は、それを意識せずにやっていることでしょうが、意外とダメージは受けているのですよ。そのダメージは、ストレスになるのです。もし、欲望をうまくコントロールできるようになれば、ストレスというダメージは受けないのです。
仏教の悟りとは、欲望をコントロールし、ダメージを受けない、ストレスを抱え込まない心の状態にすることなのです。その手段として修行があるのです。
ですから、ストレスを受けない、自己コントロールできる、そういう自分を造るというのなら、どんな修行でも構わないでしょう。滝にうたれてもいいと思います。問題は目的なのですよ。
仏教は欲を捨てるのではなく、うまくコントロールし、なるべくストレスを抱えないようにするための教えなのです。すべての状況において、ストレスを感じなくなった時が、悟りと言えるのです。ただし、それは「あきらめ」とは異なることは言うまでもありませんよね。悟りとあきらめは似ているようですが、真反対です。

さてさて、あなたは自分自身の欲望をうまくコントロールできるでしょうか?。
いい人と思われたい・・・これも欲なのですよ。それが過ぎれば、大きなお世話となり、いらぬ節介となり、恨まれるだけです。だからといって、冷たくあしらえば、イヤなヤツ・冷血漢・自己本位とののしられ、恨まれます。
とかく難しい世の中ですよね。そういう難しい世の中をストレスを抱えないように生きていけるように指導する、それが仏教なのですよ。

ちなみに、夜の街を歩くのが戒律違反だというのなら、結婚も戒律違反だし、PCを使うことも戒律違反になります。こちらはよくて、あちらはダメ、というのは・・・・意味がわかりません。それを決めるのは私自身であって、質問者のあなたではありませんよね。私は私の覚悟を持って、誰に迷惑をかけることもなく生きています。それは穢れではありません。もちろん、清浄でもないでしょう。そう、どちらでもない空なのですよ。
合掌。


75回のテーマは

仏教への疑問

その16 本当にお葬式はいらないのでしょうか。
ご質問のメールを紹介いたします。
「最近、『葬式はいらない』と言うような本が出ています。ベストセラーにもなっていますが、本当にお葬式はいらないのでしょうか?」
というメールでした。このメールにある本は知っています。が、読んではいません。著者の島田さんが好きじゃないからです。というか、きっと葬式について大きな勘違いをしているのではないか、と思います。宗教学者なのにねぇ、とも思います。まあ、実際に、その本を読んでないので、本の内容については言及はしません。ですから、葬式は必要か不必要か、ということで話を進めます。

結論から先にいますと、葬式は、
「葬式が必要だと思う人には必要だし、不必要だと思う人は不必要です」
となります。
「当たり前のことをいうな!」
と怒られそうですが、でも、宗教ってそういうものじゃないでしょうか?。その宗教を信じている者にとっては、その宗教における儀式は必要なものであるし、その宗教を信じない者にとってはその宗教儀式は意味をなさないものでしょう。
したがって、仏教による葬式も、仏教を信じている者にとっては必要な宗教儀式になりますし、仏教を信じていない者にとっては不必要な宗教儀式となるのです。

ここで問題なのは、「仏教を信じているかどうか」ということです。ここが難しいところですよね。日本人は、欧米人とは違い、宗教意識が希薄ですからね。どうちらかというと欧米諸国の人の方が宗教意識が高いですね。が、日本人は、くだらないオカルト的なこと・・・・心霊とか幽霊とか憑き物とか・・・は信じる傾向にあります。しかし、仏教と言う宗教になると耳を貸さない傾向にありますよね。
「宗教は胡散臭い。お寺の儀式などは坊さんが儲けるためにある」
といった風潮がはびこっていますからね。なので、仏教の儀式・・・・葬式や法事、供養・・・と言った話になると、どうも敬遠しがちです。私に言わせれば、TVでやっているようなオカルト、心霊、お祓い、憑き物の話の方が断然胡散臭いんですねけどねえ。ああいうことをTVという影響力のある媒体で行うこと自体、信じられないのですけどねぇ。さらには、ああいう番組に登場する胡散臭い宗教家みたいな人物が言っていることを鵜呑みにする人々がいることも信じがたいのですがねぇ。
まず第一に注意しなければいけないのは、ああいうTV番組でやっているようなことと、仏教を一緒にしないということです。あれは仏教とは何の関わりもないことなのです。その点をご注意ください。決して混同しないように。

仏教とは、悟りを目指す宗教です。また、心が軽くなるような生き方ができるようになる宗教です。気楽な人生を送れるように考え方を変えていこう、という教えを持った宗教です。ここを間違ってはいけません。
しかし、それはあくまでも仏教の目的です。そうした仏教が目指す心の安定のためには、仏教は様々な方便や手段を用意しました。仏教の儀式がそれです。
たとえばお寺が行う大きな法会(ほうえ)もその一つです。「法会に参拝する」という行為は、「徳を積む、徳が身に着く」といわれ、その結果「幸運を招く、災厄を防ぐ、難を避ける」ことができると説かれるのです。それが仏様の力であると。
これはあくまでも方便です。
「仏様の神通力により御利益が頂ける。あぁありがたいなぁ。そういう仏様が説かれる教えと言うのはどういうものなのだろう。きっと、すごい力を持っておられる仏様だから、その教えも素晴らしいに違いない」
といって、仏様の説く教えを聞かせるのですね。そのための方便です。
このように、お寺が行う儀式を通じて御利益を得た方は、仏様の教えを信じるという気持ちが生まれるのです。すなわち、「信心が生まれる」のですね。こうして仏教信者が誕生します。
これは仏教に限りません。他の宗教もおおむね同じです。奇跡的なことを通じて、信心を起こし、その宗教の教えを学ぶ。そして、信者となる。皆同じ仕組みです。宗教はこうして成り立っていくものです。

さて、信者にとって、その宗教が行う儀式はどのようなものになるでしょうか。それはおそらく神聖で何ものにも代えがたい儀式となっていくでしょう。特に死に関する儀式は、その宗教を信じる者にっては重要な儀式となります。何度も言いますが、それは仏教に限らず、です。
ということは、仏教を信じる者にとっては、宗教儀式の一つである葬式も重要な儀式となります。それは意味のある行為となるのです。
大事な点は、「仏教の信者である」という点です。あくまでも、仏教の信者にとっては葬式は重要な儀式、となるのですね。ですので、最初に言った結論、
「葬式が必要だと思う人には必要だし、不必要だと思う人は不必要です」
となるのです。
葬式が必要だと思う人は、ある程度仏教を受け入れている方でしょう。そういう方にとっては、葬式と言うのは意味を持つ儀式となるのです。
ところが、仏教を全く信じない、あるいは宗教なんてクソくらえだ、と思っている人にとっては、どのような宗教で行う葬式でも無意味になるのです。
つまり、信じる者にとっては葬式は意味のあるものだし、信じる気持ちのないものにとっては葬式は無意味なものになるのです。
ですから、「葬式なんていらない」というのは暴論だと思います。それは、人間の宗教心や信心と言うことを無視しているからです。極論ですよね。それを宗教学者が説きますかね?、と思うので、私はあの本は読まないのです。タイトルからして、宗教学者が書くことではないでしょう。宗教の学問を教える側ならば、宗教の意味をよく分かっているはずです。宗教はそれを信じる者にとっては重要な意味をもつものだ、くらいのことは分かっているはずですよね。
とはいえ、本を読んでないので、内容は何とも言えません。善意の解釈をして、「華美な葬式はいらない」というのなら話は分かります。確かに、派手な金のかかる葬式はいりません。たとえば、高野山では
「不動明王、十三仏、弘法大師の掛け軸をおき、その前に遺体の入った棺桶、華・灯明・香、お供え物、それだけあればいい」
と言います。現代のような祭壇などは不必要です。あれは趣味の問題ですね。葬式の儀式には、祭壇はいらないのです。本来は、葬式用の御本尊・・・真言宗では不動明王・・・・があればいいのです。そういう意味で
「華美な葬式はいらない」
と言うのなら話は分かります。
また、それは戒名も同じです。戒名はお釈迦様の弟子になったという証ですが、これは二文字あればいいのです。出家者名ですからね。私の場合は「廣栄」が戒名になるわけです。それ以上はいらないんですよ。ですから、院号だの道号などは不必要なのですね(詳しくは「真実の部屋」を読んでください)。
つまり、本質の部分はあったほうがいいけど、余分なものはいらない・・・と言うのなら、その通りですね。

仏教における葬式は、いままで他のコーナーでも説いてきたと思いますが、
「お釈迦様の弟子になってあの世に送る」
と言う意味を持っています。そうしたほうが、あの世で有利だからです。そう仏教では説いているのです。それを信じない者にとっては、意味をなすものではありません。生まれ変わり、前世、あの世を信じるならば、またはお釈迦様の弟子になっていたほうがあの世で有利だと信じるのならば、葬式はしておくべきでしょう。それを信じないのなら、仏教による葬式は必要ありません。
それは信じる信じないの問題であって、葬式自体が悪いわけではないのです。ここを間違うと、「宗教学者のくせに・・・・」と言われる羽目になるのですね。
葬式と言う儀式は、それが必要だと思う人にとっては必要だし、そんなものはいらないと思う人にとっては不必要でしょう。それは信心の問題ですから、自分で決めることであって、他人に押し付けられるものではありません。
生まれ変わりやあの世、前世や来世、と言ったことを信じるのならば、なんとなくでもいいから信じるのであれば、もっと仏教を学んだほうがいいし、お寺の儀式にも参加したほうがいいし、仏教による葬式もした方がいいと思います。
中途半端に、TVに出てくる胡散臭い人が言っていることは信じるけど、坊さんの話は信じない・・・・というのでは、本質からずれています。それでは、筋が通っていません。
また、坊さんは坊さんで、TVの話は胡散臭くって、本来の仏教ではこのように説くのですよ、と人々に教えるべきですよね。そうしたことをさぼってきたから、「葬式なんていらない」と宗教学者に言われるようになるのですな。また、仏教の重要な儀式である葬式を葬儀屋にいいようにされてしまったからこそ、葬式の意義が失われてしまうようなことになるのです。
つまり、坊さんが悪いんですなぁ、すべて・・・・。
というわけで、葬式がいらない・・・なんてことはありません。それは間違いです。
合掌。



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