バックナンバー 1
第1回 注意されても決して腹を立ててはいけない 注意を与えてくれる者は、宝物のありかを教えてくれる者である。 |
お釈迦様のお弟子さんにラーダという方がおられた。ラーダは、かなり年老いてから弟子になった方であった。 出家する前のラーダの暮らしは、大変貧しいものであった。彼は、年老いて働けなくなると、家族から厄介者扱いされた。そのためか、彼はひねくれ、誰に何を言われても耳を貸さなくなっていた。 そんなある日、ラーダは、お釈迦様の姿を見て、自分も出家したいと思うようになり、修行僧のいる精舎のすぐそばに住み着き、修行僧の世話をするようになった。しかし、そんなラーダを誰も出家させようとはしなかった。ラーダは失望し、やせ衰えていってしまった。 「なぜ、あなた達はラーダを出家させてあげないのですか?。」 ある日、ラーダの様子を知り、お釈迦様が弟子たちに問いかけた。弟子達は、下を向くだけで何も言わなかった。 「まあ、いいでしょう。シャーリープトラよ、ラーダを面倒見てあげなさい。」 「はい、わかりました。では、私の弟子として、指導いたします。」 お釈迦様は、ラーダを高弟のシャーリープトラに託したのであった。 シャーリープトラは、よくラーダの面倒を見て、出家者の決まりや、修行などの順序を教えた。また、言葉遣いや態度についても、出家者らしくあるように、よく注意をした。ラーダは、初めは、シャーリープトラの注意をよく聞いていたが、そのうちに 「なんで、わしがあんな若僧に注意されなきゃいかんのだ。いちいち、うっとうしい。まったく腹が立つ。」 と怒り出し、シャーリープトラの指導を受け入れなくなっていた。それどころか、あちこちに八つ当たりをしたり、ブツブツ文句ばかり言うようになっていた。さすがのシャーリプトラもこれには参ってしまった。 「これでは、いけない。他の修行者にも迷惑がかかってしまうし、ラーダのためにもならない。何とかしなければ・・・・。やはり、お釈迦様に相談したほうがいいだろう。うん、そうしよう。」 「そうですか。わかりました。では、私がラーダに話をしましょう。」 シャーリープトラから相談を受け、お釈迦様は、ラーダに注意することにした。 「ラーダよ。最近は、修行はどうだね。」 お釈迦様は、やさしくラーダに問いかけた。 「は、はい、その、なんですな。まあ、ぼちぼちと・・・・。」 ラーダは、下を向いたまま、ボソボソと答えた。 「シャーリープトラは、よく指導してくれますか。」 「はい、まあ、何とか・・・・。とてもよくしてくれます・・・・・。」 「ラーダよ、本当のことを言いなさい。ウソはいけませんよ。」 「あ、否、その・・・・。本当にシャーリープトラ様は、よく教えてくれます。」 「そうですか。では、なぜ私の目を見ないのですか?。」 「あ、否、その・・・・。」 ラーダは答えに困ってしまい、下を向いたまま、小さくなっていた。 「ラーダよ、素直な気持ちで人の教えを聞かねばいけないよ。出家者の中では、年齢の上下は関係ありません。シャーリープトラの年があなたより下であろうとなかろうと、そんなことは関係ないのです。大切なのは、年齢の上下ではなくて、教えや注意を素直に聞くかどうかなのです。よいですか、ラーダよ。よく聞きなさい。 注意されても決して腹を立ててはいけません。注意をしてくれるものは、あなたにあたかも宝物がどこに隠されているかを教えてくれているようなものなのです。ですから、喜んで注意を受け入れるべきです。素直な気持ちで、注意の言葉を聞き入れるべきなのです。 でないと、あなたは大きな損失を受けることになるでしょう。 いいですか、ラーダよ。注意されても決して腹を立ててはいけないんですよ。わかりましたか。」 お釈迦様は、ラーダにやさしく教え諭したのであった。 「は、はい。わしが間違っておりました。これからは、シャーリープトラ様の注意をよく聞き入れ、修行に励みます。」 こうして、ラーダはそれ以来、素直な心で教えや注意を聞くようになり、やがて覚りを得たのであった・・・・。 誰でも注意をされると腹が立つことがあるであろう。「そんなこと、言われなくてもわかっている!」と言い返したくなったり、「ふん!」とふて腐れたりすることもあるであろう。注意されて「ありがとう」などとは、なかなか言えないものである。 しかし、注意をしてくれる、ということは、その人が自分の事を気にしてくれているからであろう。注意をしてくれる人は、その人のことが心配だから注意するのだ。どうでもいい人なら、注意したりはしないし、指導もしない。 だから、注意をされるということは、本当はとてもありがたいことなのだ。感謝すべきことなのだ。しかし・・・・。 しかし、注意されると、ついつい腹が立ってしまうんですよね。素直に聞かなきゃいけない、ってわかってはいるんですけどね。注意されなきゃ、世の中のルールが身につかないですからね。だから、本当は、素直に「注意してくれてありがとう」と思わなきゃいけないんですけど・・・・。まあ、それができれば、苦労はしない・・・かな。 でも、注意されなくなったらオシマイだし、やっぱり注意されているうちが花・・・・ですからね。素直に聞くように努力しましょう。合掌。 |
第2回 真理を求め、幸福を求める営みに終りはない。 |
お釈迦様のお弟子さんにアヌルッダという方がいらした。彼は、目が見えなかった。しかし、彼の目は、生まれつき見えなかったのではなかった。それには、理由があったのだ。 祇園精舎でのことである。お釈迦様は、多くの弟子やそこに集った人々に教えを説いて聞かせていた。誰もが真剣にお釈迦様の教えを聞いていた・・・・かのように見えた。アヌルッダ一人を除いて・・・・。 アヌルッダは、こともあろうにお釈迦様の法話の最中、居眠りをしていたのだった。 「おい、アヌルッダ、起きろ!」 周りの修行仲間が起してくれたが、アヌルッダは全く起きる様子もなかった。 お釈迦様は、そのことに気付いておられ、 「まあ、よいではないか、そのままにしてあげなさい。」 と、その場は、アヌルッダを注意せず、そのままにしておいたのだった。 しかし、その法話が終わったあと、お釈迦様はアヌルッダを呼び寄せ、注意をしたのだった。 「アヌルッダよ、何のために出家したのですか。出家した時の気持ちを忘れたのですか。今一度、気持ちを引き締めて修行しなさい。」 アヌルッダは、 「はい、わかりました。気が緩んでおりました・・・・・。」 と素直に反省したのであった。 それ以来、アヌルッダは眠ることを止めてしまった。お釈迦様は、苦行は禁じておられたので、アヌルッダに眠るように勧めたのだが、 「今は眠ってはいけないのです。どうか、このままにして置いてください。お願いします。」 と、お釈迦様の勧めも断ったのであった。お釈迦様は、そんなアヌルッダをやさしく見つめていた。 そのうちにアヌルッダの眼は何も見えなくなってしまった。しかし、それと引き換えに心の眼が開いたのである。彼は、眼が見えなくなると同時に覚りを得たのであった。 アヌルッダの盲目には、このような理由があったのである。 こうして盲目になってしまったアヌルッダは、生まれつきの盲目ではなかったため、どうしても不器用であったし、細かい仕事は無理であった。特に、袈裟を縫ったりするために針の穴に糸を通すような細かいことは苦手であった。ある日のこと、 「どなたか、私のためにこの針に糸を通してくれませんか。小さな功徳ではありますが、どなたか徳を積みませんか。」 とアヌルッダは、針に糸を通してくれるようお願いした。 「私が功徳を積まさせていただきましょう。」 そう声を掛けたのは、お釈迦様であった。アヌルッダは、その声に驚いた。 「いえ、お釈迦様にお願いしたのではございません。私は、修行者に頼んだのです。」 「アヌルッダよ、私ではいけないのですか。」 「お釈迦様は、もうすでに大いなる覚りを開かれております。すでに、この上ない幸福の世界にいらっしゃいます。いまさらこのような小さな功徳を積まれる必要はないでしょう。」 「いやいや、そうではないのだよ、アヌルッダ。私だって、あなた達と同じように幸福を求めているのだよ。」 「えっ?、お釈迦様が・・・・ですか。」 「そうだよ、アヌルッダ。幸福を求める営みに終りはないのだよ。真理を求める気持ちに始まりも終りも無いのだよ。わかるかい、アヌルッダ。だから、私も、今でも幸福を求め、真理を求めているのだよ。私もまた修行者なのだよ。」 この言葉を聞いて、アヌルッダは益々深い覚りを得たのであった。 私はこの話が好きです。お釈迦様の幸せを求める気持ちが、よく伝わってくる話だからです。 「幸福を求める営みに終りはない。だから、小さな功徳でも積みたいのだ・・・・・。」 あくまでも謙虚で、清々しい姿ではないでしょうか。仏陀となったお釈迦様でさえ、小さな功徳を積み続けようとする。世の中の坊さんに(私も含めて)聞かせたい話ですよね。 幸せを求めるためには、小さな功徳を積みつづけることが大切なのです。その行為に終りはありません。たとえ、今、幸せな状態にあっても。また、不幸が続いて、世の中には神も仏もあるものか!とふて腐れている方も、今一度、謙虚な気持ちになって、小さな功徳を積むことが大切なのでしょう。幸せになるために・・・・ね。合掌。 |
第3回 幸が熟さない限り、たとえ善き人でも苦を経験する。 しかし、幸が熟した時、多くの楽しみを経験する。 |
お釈迦様がいらした頃、ウデーナという王様がいた。王には妃が二人いた。第一王妃をサーマーバーディー、第二王妃をマーガンディヤーといった。 サーマーバーディーは、先祖をよく供養し、王の親にも忠実で、どんな仕事もこなした。また、侍女や王の家来にも優しく、平等に対応した。ところが、マーガンディヤーは、意地が悪く、贅沢ばかり言い、悪巧みばかりしていた。マーガンディヤーは、いつも悪智慧を働かせ、仕事や自分が失敗したことなどは、すべてサーマーバーディーに押し付けて、いいところだけを自分の手柄のようにして振る舞っていた。 そのため、かいがいしく働くサーマーバーディーではあったが、王や王の両親は、マーガンディヤーを可愛がり、サーマーバーディーを毛嫌いしていた。彼女は、いつも一人で苦労していた。侍女や家来の中にも、 「サーマーバーディー様は、変わり者よね。マーガンディヤー様のように、もっと王妃らしく振る舞えばいいのに。」 と陰口を言うものが多くいた。 この様子を見ていたお釈迦様の弟子達が、このことを疑問に思うようになった。 「第一王妃のサーマーバーディー様は、お釈迦様の教えをしっかり守り、親や夫によく尽くしているし、掃除や王家の雑用も喜んでこなしている。人から悪口を言われても、陰口を叩かれても、意地悪をされても決して怒らない。文句の一つも言わない。いつも笑顔でいらっしゃる。なのにそれが認められず、ダメ王妃だの無能だの、といわれ苦労ばかりされている。 一方、マーガンディヤー様は、狡猾で威張っていて、お釈迦様の教えも聞かず、自分勝手なことばかりしていて、しかも贅沢だ。手が汚れるような仕事はしないし、サーマーバーディー様がされた仕事で、誉められるようなことはすべて自分の手柄にしている。自分の失敗はサーマーバーディー様に押し付けている。ひどいお方だ。なのに、マーガンディヤー様は、周りから可愛がられている。 行いが正しいのはサーマーバーディー様で、間違った行為をしているのはマーガンディヤー様だ。なのに、苦労されているのはサーマーバーディー様で、いい思いをしているのはマーガンディヤー様だ。これはおかしいのではないか。ひょっとすると、善行の報いなんてないのではないか。世の中は、狡賢く、要領よく生きたほうが徳なんじゃないのか。その方が楽なんじゃないのだろうか。」 このように、弟子達は、善行を行うことに疑問を抱き始めたのであった。 これを聞いたお釈迦様は、弟子達を集めて話をされた。 「皆の者よ、それがどんな人であろうと、『私には善行の報いは来ないであろう、努力は報われないであろう』などと考えてはならない。 水滴が落ちてやがて水瓶を満たすように、善行も積み重なり、やがて幸で満たされることになるのだ。 幸が熟さない限り、たとえ善き人でも苦しみを受ける。しかし、幸が熟した時、多くの楽しみを受けるのだ。あたかも、よく実った甘い果物を手にするまでは、手入れが必要なように。 また、逆に、『これくらいのことなら罰はあたらないだろう、こんな程度のことなら許してもらえるだろう、私には悪行の報いはこないだろう』などと考えてはならない。どんな些細な悪行も、どんどん積み重なっていけば、やがて悪の実が熟す時がくるのだ。その時、悪の報いを受けるのだ。 善行にせよ、悪行にせよ、その報いは、すぐにやって来るとは限らないのだ。すぐに報いがくることのほうが少ないくらいであろう。しかし、だからといって、歎いたり侮ったりしてはいけない。 善行の報い、悪行の報いは、必ずやってくるものなのである。それまで油断せず、怠る事無く、功徳を積み続けるがいい。なされた行為への報いは必ず来るのだから・・・・・。」 お釈迦様の話の数ヵ月後、マーガンディヤーの悪行は人々の知るところとなり、悪の報いを受けることとなった。一方、今までマーガンディヤーの手柄と思われていたことが、実はサーマーバーディーによるものだということもわかり、王家の人々はサーマーバーディーに詫びたのであった。 その後、サーマーバーディーは、王妃として幸せに暮らしたそうである。しかし、もちろん、以前と変わらず、善行を怠ることはなかったそうである・・・・。 いくら努力しても実らない時、何も悪いことをしていないのに不運なめにばかりあっている時、「なんで自分ばかりこんな目にあうんだろう。世の中にはもっと悪いヤツがいっぱいいるのに、なんでそいつらにはバチがあたらないのだろう」と思うことはよくありますよね。 正直者ほど貧乏くじをひいて損をする・・・・・。世の中そんなふうに出来上がっているような、そんな気がしてきます。 しかし、それは、今だけを見ているからです。もっと長い目で見てみましょう。贅沢三昧、悪行三昧で暮らしているものは、やがてその報いを受ける時が来るのです。それは、その人自身に来るとは限りません。子孫にその悪行の報いがやって来る場合もあります。 逆に、何も悪いことはしていない、正直に生きている、世の中のルールを守り、まっとうに生活しているのに、苦労が絶えないものでも、やがてその報いは来るのです。努力は実るものなのです。 だから、途中で投げ出したり、善行を止めて悪行に走ったりしてはいけません。悪行にせよ、善行にせよ、その報いは、必ずその行為を行なった人に戻ってくるのですから。耐え忍ぶのも大事な時はあるものなのです・・・・・。 |
第4回 過去を追うな、未来を願うな。 ただ、今日なすべきことを熱心になせ。 |
お釈迦様のお弟子さんにサミッディという方がいらした。彼がマガタ国の王舎城で修行をしていた時のことである。サミッディはその時、温泉に浸かっていた。すると天人がやってきて、サミッディに問いかけた。 「偉大なるお釈迦様のもとで修行されている方よ、あなたは『一夜賢者の偈(げ−詩のこと)』をご存知ですか。」 サミッディは知らなかったので、そのまま答えた。 「いや、知りません。それはどんなものですか。」 「修行者よ、それはあなたの師にお尋ねになるがいいでしょう。」 天人は、そう言い残して去っていった。 翌日、サミッディは、お釈迦様のもとへ行き、「一夜賢者の偈」を教えて欲しいと願い出た。お釈迦様は、その場でその偈を教えてくれた。 「サミッディよ、よく聞きなさい。これが『一夜賢者の偈』です。」 お釈迦様は、そういうと静かに唱え始めた。 「過去を追うな。未来を願うな。 過去は、すでに捨てられたものである。そして未来はいまだ到来せぬものなり。 それゆえ、ただ現在のものを、それがあるがままに観察し、 揺らぐことなく、動ずることなく、 よく見極めて実践せよ。 ただ、今日なすべきことを熱心になせ。 誰が明日、死のあることを知っていよう。 まことに、かの死神の大軍と遭わずにすむはずがない。 このように見極めて、熱心に昼夜怠ることなく努める者、 このような人を一夜賢者といい、 静寂者、寂黙者というのである。」 お釈迦様は、「一夜賢者の偈」を説き終えると、静かにその場を立ち去っていった・・・・・。 さて、皆さんは、この「一夜賢者の偈」をどう捉えたでしょうか。 過去にこだわることの愚かさ、未来に期待しすぎて夢ばかり追うことの愚かさ・・・・・。過ぎ去ったことはどうしようもないし、まだこないことを不安に思ってもどうしようもない。ただ、今できることを行う。ただ、淡々と、今の自分にできることを行なう。熱心に行なう。 それが賢者というものなのでしょう・・・・・。合掌。 |
第5回 誰にでも乗り越えなければならないことがある。 現実から逃げてはいけない。それが如何に苦しいものであっても。 強く立ち向かうのだ!。そこから救いの道が見えてくる。 |
お釈迦様が祇園精舎に滞在していたときのこと。一人の商人がふらふらとさ迷い歩いているのが見えた。お釈迦様は、その人のことが気になって、声を掛けた。 「そこの方、一体どうされたのですか。」 「は、はい、実は、私の一人息子が先日、病気で亡くなってしまったのです。それ以来、悲しくて悲しくて、何も手につかないんです。仕事もやる気が起きません。どうして私の子供だけがこんな目にと思うと・・・・。う、うぅぅ・・・。」 その商人はそう答えると、その場で泣き崩れてしまった。 「そうでしたか、それはお気の毒に・・・・。しかし、いつまでも悲しんでいてもいられないでしょう。悲しんでいても息子さんが蘇るわけではない。どうぞ、気を強く持って、悲しみを乗り越えてください。そうですね、明日の午後、またここに来られるとよいでしょう。」 お釈迦様は、そういうと、その商人の肩を抱え、精舎の出口まで送ってあげたのであった。 翌日の午後、大勢の弟子達や在家の信者たちが、祇園精舎に集まってきた。その中には、昨日のあの商人の姿もあった。 「幸福を求める人々よ、よく聞いてください。」 お釈迦様のお話が始まった。 「誰にでも深い悲しみや、苦しみが一度や二度は襲ってくるものです。私の弟子、キサーゴータミーもできたばかりの我が子を亡くし、悲しみに打ちひしがれていました。パータリプッタ国のムンダ王も最愛の妻を亡くし、夢を希望もないと歎いていました。また、ある者は、自らの責任で家族を死に追いやったと苦しんでいました。ある者は、仕事がうまくいかなくて、あるいは、職場の人間関係がうまくいかなくて苦しんでいました。 このように誰にでも苦しみや悲しみ、辛さは、突如として襲ってくるものなのです。あなた一人だけじゃない。悲しんだり、苦しんだりしているものは、あなた一人だけではないのです。誰にでもそういうことはあることなのです。 問題なのは、いつまでもその苦しみや悲しみを引きずっていることです。現実から逃げていることです。 目の前の苦しみや悲しみから逃げてはいけません。勇気を持って、立ち向かうのです。断固として、その悲しみや苦しみを乗り越えるのです。自ら立ち向かっていけば、乗り越えようと努力すれば、そこから光明がさし、自然と道が開けていくでしょう。 悲しみや苦しみの中に立ち止まってはいけません。勇気を持って進みなさい。 誰にでも乗り越えなければならない悲しみや苦しみはあるものです。現実をしっかり受け止め、それが如何に苦しいものであろうとも、勇気を持って、強く立ち向かっていくのです。そうすれば、必ずや道は見えてくるでしょう。 もし、迷ったら、またここに来るがいいでしょう・・・・。」 お釈迦様のこの話を聞いて、商人は今までの自分を恥じた。 『そうだ、いつまでも悲しみの中にいてはいけない。これでは、亡くなった息子も喜ばない。あぁ、私は情けない親だった・・・・・。』 と・・・・・。 皆さんは、耐え難いような苦しみや悲しみを受けたことがあるだろうか。受けたことがある方は、どのようにしてそれを乗り越えたのであろうか。 また、今、深い苦しみや悲しみを受けている方はいるだろうか。その人は、その悲しみや苦しみに留まってはいないだろうか。 苦しんでいるのは、あなた一人だけではない。多くのものが悩み苦しんでいる。私一人だけが苦しんでいると思ってはいけないのだ。 また、いつまでもその苦しみの中にいてはいけない。苦しみや悲しみの沼に、いつまでも入っていてはいけないのだ。勇気を持って這い上がろう。私には超えられない、などと思ってはいけないのだ。 自らを奮い立たせ、その苦しみを乗り越えるための第一歩を踏み出そう。そこから未来は開かれていくのだから。だから、現実から逃げてはいけないのだ。決して・・・・・。合掌。 |
第6回 千人の敵に打ち勝つことよりも、 たった一人の己に打ち勝つことのほうが素晴らしい。 |
お釈迦様が、まだこの世にいらした頃のこと・・・・・。 とある国にシーハーという、勇猛果敢な将軍がいた。彼は、いくさで敗れたことがなく、連戦連勝、向うところ敵なしの将軍であった。 彼は、もともと将軍の座にあったわけではなかった。身分階級の厳しい当時のインドにおいて、異例ではあったが、雑役からのし上がってきたのである。 そんなシーハー将軍であったから、それはもう我が儘いっぱいであった。シーハー将軍の普段の態度は大きく、 「俺は、これまでに千人以上の敵を倒してきた。俺の強さは天下一だ。」 と、いつでもどこでも威張り散らしていたのだった。 この態度は、王宮内でも変わらず、彼の素行は決して誉められたものではなかった。我が儘し放題だったのである。 国王もこれにはホトホト困っていた。態度を慎むように、何度も注意してきたのだが、一向に改まらないのだった。あまりしつこく注意して、王宮内で暴れられたりしたら、手のつけようがなかったし、誰にも止められないことは明白だった。 「全くシーハーには困ったものだ。あの強さだからな。敵に廻すわけにも行かないし、我が国にはなくてはならない存在だし。一体どうすればいいのか・・・・・。」 ある日、国王は、王妃にそんな愚痴をこぼした。 「国王様、そんなにお困りなら、お釈迦様にご相談されては如何ですか。」 「お釈迦様?。出家者に何ができると言うんだ。相手はシーハー将軍だぞ。」 「でもお釈迦様に説き伏せられないものはない、と私は思うのです。ぜひ、ここはお釈迦様にご相談されるとよいと思います。」 「う、ううん・・・。そうかなぁ・・・・。」 国王は、半信半疑ながらも、王妃の勧めによって、シーハー将軍のことをお釈迦様に相談することにしたのであった。 国王は、お釈迦様の元に行き、シーハー将軍のことを相談した。お釈迦様は、国王の話を聞いて、 「わかりました。」 と、一言だけ言って深い瞑想に入ってしまった。この様子に国王は、がっかりして、 「お釈迦様でも頭を抱え込んでしまわれた。やはり、無理だったんだ・・・・。はぁ、困ったものだ・・・。」 と肩を落として王宮へと帰っていったのであった。 それからほんの数日後のことであった。いつものように、街でシーハー将軍が揉め事を起していた。自分の好きな食べ物がない!、と騒いでいるのだった。シーハー将軍は、今にも暴れだしそうだった。 その争いの中に、一人の修行者が近付いて来た。それは、お釈迦様であった。 「あなたがシーハー将軍ですか。」 真っ赤な顔をして、今にも暴れだそうとしているシーハー将軍に向って、お釈迦様は静かに声をかけた。 「誰だお前は!。俺に文句でもあるのか。いかにも、俺様が、天下一の大将軍シーハーだ。」 シーハー将軍は、お釈迦様を見下ろして、大声で答えた。 「あなたは、千人に打ち勝ったということですが、それは本当ですか?。見たところ、私にはとても信じられませんが・・・。」 お釈迦様は、シーハー将軍の威嚇にも、そ知らぬ顔で、シーハー将軍に尋ねた。お釈迦様のこの問いに、周りの人たちは、真っ青になって怯えてしまった。シーハー将軍は怒り狂い、 「な、なんだと、何を言うかキサマ!。まさしく俺は、千人以上の敵を打ち倒したわい。俺に勝てるものなど、どこにもいないわ!。馬鹿な事を言っていると、この場でぶった切ってやるぞ!。」 と腰の刀に手をかけたのだった。それでも、お釈迦様は、何も恐れることなく、静かに言った。 「ほう、そうですか。しかし、あなたは、たった一人の者に負けているようですね。私の見たところ、今のままでは、あなたはその者に決して勝つことはできないでしょうね。」 「な、なんだと、この俺が負けるだと。一体誰に負けるというんだ。そいつはどこにいるんだ。俺に勝てる者がいるのなら、ここへ今すぐ呼んでこい!。」 「その者なら、もうここにいますよ。」 お釈迦様は静かに言い放ったのだった。 しばらくの沈黙のあと、シーハー将軍は笑い出した。 「ぶ、ぶ、ぶあーっはっはっは。冗談を言うな!。まさか、俺より強いヤツというのは、お前のことなのか?。見るからにひ弱そうだぞ。修行者がそんな冗談を言っていいのか?。あーっはっはっは。こいつはおかしい。あーはっはっは。」 「いやいや、私ではありません。私は暴力は使いませんから。そうじゃない、あなたが勝てない相手とは・・・・。そう、あなた自身なんですよ。あなたは、あなた自身に負けているんです。」 「な、なんだと?。オマエ、なにを言っているんだ?。俺が俺に負けている、だと?。」 シーハー将軍は、あきれ返ったように聞き返した。 「そうです。あなたは、千人の者を倒したと威張っていますが、たった一人のあなた自身に勝てないでいる。そうではありませんか?。」 「なにを馬鹿なことを・・・・。全く話にならん。説教なら止めてくれ。くだらない。」 「聞くのが、怖いのですか?。ここにいる皆さんに、天下の大将軍シーハーが、自分を恐れている・・・・。そう知られるのが怖いのですか?。」 「なにを!。俺には怖いものなどないわ!。」 「ならば、聞くがよい。あなたは、あなたに負けているのだ!。」 お釈迦様の強い口調が響いた。 シーハー将軍は、驚いて、お釈迦様を見つめた。お釈迦様は、穏やかに語りかけた。 「あなたは、自分自身の心をちゃんと管理できていますか?。我が儘し放題で、世間の規律を乱したり、皆に迷惑をかけていませんか?。」 「う、うぅ・・・。いや、その、まあ、たまには迷惑をかけることもあるかも・・・・。」 「あなたは、あなた自身の心の誘惑を抑えることができているのですか?。我が儘を言いたい、欲しいものを手に入れたい、勝手気ままに振る舞い、人の迷惑など顧みず、威張りたい放題・・・・。そんな者のどこが立派なのでしょうか。 よいですか。たとえ千人の敵に打ち勝とうとも、たった一人の自分に負けていては、何にもならない。千人の敵を打ち負かしたあなたより、己の欲望に打ち勝ち、自分をよく制御し、慎み深く生きている人のほうが、どれほど強いでしょう。あなたは、あなた自身に負ける、弱い人間なのです。」 「この俺が、弱い人間・・・・・。」 「そう。弱いのですよ。自分の気持ちをうまく抑えられない、弱い人間なのです。だから、注意されると暴れだす。怒り出す。本当に強い人間ならば、注意を聞き入れ、自分をよく制御するでしょう。あなたは、あなた自身をも支配できぬ、弱い人間なのです。ただ、それを認めたくないから、我が儘を通そうとしたり、怒ったりするのです。」 シーハー将軍は、その場に座り込んでしまった。 「た、確かに、そうです。私は、我が儘言い放題でした。それは、悪いことだとわかってはいたのですが・・・・。それを認めるのが恐ろしくて・・・。それに、私がちょっと大声を出せば、みんなが付き従ってきたし・・・・。ついつい自分に甘くなってしまっていました。自分の抑えができませんでした・・・・。」 「わかりましたね。わかればいいのですよ。これからは、あなたの外の敵を打ち負かすことよりも、あなたの内の中にいる敵を打ち負かすように努力してください。それでこそ、最強の将軍、シーハーでしょう。」 「はい、わかりました。これからは、自分の心をよく制御いたします。決して甘い誘惑などに負けないように、怒りに負けないように、自分の内なる敵に打ち勝つように致します。」 こうして、その日をさかいに、シーハー将軍は変わっていったのである。 さて、皆さんはどうであろうか。自分自身の心の誘惑に負けていないであろうか。 怠け心、サボり心、贅沢したい誘惑、浮気心、我慢できない心、怒り、我が儘、恨み、妬み、焦りなどなど・・・・。内なる自分に負けはいないだろうか。 「自分はダメな人間だ。何をやってもうまくいかない・・・・。」 「私は何て不幸なんだ・・・・・」 などとと、弱気の心に負けて、諦めてしまってはいないだろうか。 ライバルに打ち勝つことも、大切なことであろう。競争相手に勝つことも大事なことであろう。しかし、いくら人より強くても、金持ちであっても、社会的地位があっても、頭がよくても、学歴があっても、自分の行動や思いが、しっかりコントロールできてなければ、それは立派な人間とはいえないのである。尊敬される人間ではないのである。自分自身の悪い誘惑に負けてしまっていては、いけないのだ。 他人に打ち勝つことよりも、まず、自分に勝つこと。それこそが大切なことであろう・・・・。合掌。 |
第7回 自分が置かれている状況を理解せず、或いは無視をして、 自分の欲望に従って行動するものは、不幸なものである。 |
お釈迦様の高弟シャーリープトラが、ある村で托鉢をしていたときのこと。その村の片隅で泣いている一人の女性と出会った。シャーリープトラは、その女性に優しく声をかけた。 「何を泣いているのですか?。よろしければ、お話ください。私は、お釈迦様の弟子で、シャーリープトラと申します。」 その女性は、泣きながら話しだしたのだった。 「す、すみません・・・・。実は、お金がなくて・・・。子供達に何も食べさせてあげられない・・・・。生活できないんです・・・。」 そういうと、その女性は、その場に泣き崩れてしまったのであった。見るからに、その女性はやつれていた。 「おぉ、これは大変だ。ご、ご主人さんはいらっしゃらないのですか。或いは、働いていないのでしょうか。」 「主人はおります。ちゃんと働いてます。でも、稼いだお金は・・・・・。みんな酒や女や賭け事につぎ込んでしまって・・・・。私や子供が、こんなに辛い思いをしている訴えても、知らん振りで、わずかなお金をくれるだけ・・・・。『俺は遊びたいんだ。俺の稼いだ金だ、どう使おうと俺の勝手だ』と言って、いつも遊びに出かけてしまうんです。別れようと思って、何度も逃げましたが、その度に殴る蹴る・・・・。もう怖くてどうしたらいいのか・・・・。う、うぅぅ・・・・。」 シャーリープトラは、どうしていいのかわからなくなってしまい、 「明日の午後、お釈迦様のいらっしゃる精舎に、できればご夫婦でいらっしゃい。否、私が迎えに来ましょう。どうしてもご主人さんも一緒のほうがいいでしょうから。」 と、その女性に言ってしまったのであった。 シャーリープトラは、精舎に戻って、このことをお釈迦様に報告し、また、勝手に約束をしてしまったことを深く反省したのであった。お釈迦様は、やさしく微笑んで、 「わかりました。明日の午後、そのご夫婦を連れていらっしゃい。また、弟子や村の人も集めておくとよいでしょう。」 と、シャーリープトラに告げたのだった。 翌日の午後、町や村の人々が大勢、精舎に集まってきた。その人々は、身分に関係なく、王族から使用人まで様々な人たちだった。もちろん、シャーリープトラも、あの夫婦を連れて来ていた。 お釈迦様のお話が始まった。 「ある男が旅をしていた。それほど苦しくない、楽しい旅であった。ところがある時、突然巨大な象に襲われたのだ。男は慌てて走り、逃げ回った。幸いにも前方に古井戸が見えた。男は古井戸に逃げ込んだ。うまい具合につる草が垂れている。男はそれに捕まり、ぶら下がった。お陰で何とか象の災難から逃れることはできた。男は、象が早く立ち去るのを祈った。 男は、目がなれてきて、周りを見回し、あっと叫んでしまった。何と、その井戸の底には、毒蛇がうようよいたのだ。このままつる草にぶら下がっていては、やがて井戸の底に落ちて、毒蛇に殺されてしまう。かといって、井戸の外には、大きな象がいる。 男は焦った。つる草は今にも切れそうだ。切れたら最後、毒蛇の餌食だ。さぁ、どうすりゃいいんだ・・・・・。 男は歎いて天を仰いだ。その時である。天を仰いだ男の口に甘い蜜が落ちてきたのだ。その蜜は、井戸の横に立っていた木から落ちてきたのだった。その蜜はとても甘く、香りがよかった。男は、その蜜の味と香りに夢中になってしまい、象のことも毒蛇のことも、切れそうなつる草のことも、旅の途中であることも忘れてしまい、ただ口をあけ、蜜が落ちてくるのをひたすら待った。 さて、人々よ、皆さんは、この男のことを愚かだと思いますか。そこのあなた、あなたは、この男のことをどう思いますか。」 お釈迦様は、シャーリープトラが連れてきた夫婦の夫に声をかけた。男は、下を向いてモゴモゴ言うだけだった。 「どうしたのです。答えられませんか。ふむ。仕方がないですね。よく聞いてなさい。 世の中の多くのものが、実は今話をした愚かな男と何ら変わりはないのです。そんなことはない、私はそんな愚か者ではない、と思う者もいるでしょう。しかし、よく考えてみるがいい。 私達は、皆、この男のように、人生と言う旅をしています。旅の途中では、様々な災難に遭います。人々は、災難に遭うと、とりあえず避けよう、逃げようとしますね。古井戸に飛び込むように。ところが、そうした災難は、避けても、逃げても、また別の災難を呼ぶだけなのです。井戸の底に毒蛇がいたように。そして、頼みの綱である自分の徳は、か細く弱いものなのです。つる草のように・・・・。 ところが、多くのものが、このことに気付かない。自分が置かれている状況を忘れ、或いは無視して、快楽に耽っている。甘い蜜に夢中になっている愚かな男のように。災難のことも、途切れそうな自分の命のことも、自分がやらなければならないことも忘れて。 問題は、今、自分が置かれている状況はどういう状況なのか、自ら受けている災難や悩みはなぜ起きているのか、といった根本的な事柄を考えないで、そのまま放置してしまうところにあるのです。 今、何をなすべきなのかを考えないで、無為な時間を過ごし、快楽に耽って、自分の欲望を満たすことばかり考えている。そこに問題があるのです。 欲望を満たすことばかりに夢中になっていると、やがて、徳の綱が切れ、災難が襲い、不幸な目にあうのです。 ここに集う人々は、そうはならないように、真実の目を開き、今、何をなすべきか、よく考えて行動してください。」 そこに集った人々は、皆、お釈迦様の話を聞いて、うなずいていたのであった。もちろん、シャーリープトラが連れてきた夫婦もそうだったそして、その夫は、自分の愚かさに気がついたようだった。妻に対し、 「すまねぇ。俺が悪かった。家族のことも考えずに遊んでばかりいて・・・・。俺にとっては、家族を守ることが、今やるべきことなんだな。すまん。許してくれ・・・・・。」 と泣いて謝ったのであった。 さて、皆さんは、どうであろうか。あなたは、今、あなたが置かれている状況を、立場を忘れてはいないだろうか。大事なことを忘れて、ただ欲望に耽ってはいないだろうか。 家庭を守るべきなのに、賭け事にうつつを抜かしてはいないだろうか。夫ある身であり、子供達の面倒を見なければいけないのに、夫以外の男性と遊んではいないだろうか。困ったことが興っていても、その解決を図らず、ただ避けたり、逃げ回っているだけではないだろうか。 また、あなたの徳のつる草は、太いだろうか、それともか細いのだろうか・・・・。 困難な状況にあるのに、意地を張ったり見栄をはったりして、その状況を無視し、ただ無為な時を過ごしたり、悪あがきをしているのではないだろうか。 今、自分が置かれいる状況や立場をしっかり認識し、それに対処しなければ、この古井戸に落ちた男のように、不幸があなたのもとを訪れるのである。大切なのは、自分を見つめる目・・・なのだ。合掌。 |