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第8回 
実に人は他人の過失を探し出し苦情をいうが、
自分の過失は見がたく、覆い隠したがるものである。

お釈迦様の弟子にダミンカという僧がいた。ダミンカは、頭もよく、理解力もあり、何でもテキパキとこなした。日頃から彼は、「自分は何でも完璧にこなす」と公言しているくらいだった。
ダミンカは、お釈迦様が滞在している精舎より、さらに奥の静かな森で、十数名の僧たちと共に修行をしていた。僧たちの集まりには規則があって、当番制で修行場の掃除などを行なっていた。僧たちの中には、要領が悪く、修行の時間までに掃除が間に合わない場合もあった。そんな時、決まってダミンカは、要領の悪い僧たちを批判した。批判と言うより、
「全くなにをやっているんだ。オマエたちのおかげで、修行が出来ないじゃないか。ノロマなやつらだ!」
というように、罵倒している、と言ったほうがいいくらいであった。

また、僧たちの中には、失敗をするものもいた。托鉢の鉢を洗う時、手が滑って鉢を割ってしまうものや、袈裟を木の枝に引っ掛けて破ってしまう者もいたのである。そんな時、決まってダミンカは、
「何てドジなやつらだ。注意力が足りないんだよ、君達は。ボーッとしているからそうなるんだ。もっと気を引き締めろよ!」
と、失敗した僧を罵ったのであった。
ダミンカの言うことも、もっともなことだったので、誰も言い返すことはできなかった。ただ、あまりにも言い方がひどいので、注意された僧は、ふて腐れるだけだった。もし言い返せば、
「できない君が悪いんだ!」
と言われたり、気を引き締めるため、という理由で殴られたりもした。

しかし、そんなダミンカも、当番の仕事で失敗しないわけではなかった。たまには、失敗することもあったのだ。また、時々、ちょっとしたことをし忘れたりすることもあった。或いは、戒律で禁止されているのに、托鉢の時に、若い女性と会話を楽しむこともあったのだ。
ただ、それを他の僧に批判されたり、責められたりしても、ダミンカは平気な顔をして、何かと理由をくっつけて
「自分は悪くない」
という状態に持っていてしまうのであった。ダミンカは非常に弁が立ったのである。だから、誰も、ダミンカを糾弾できなかったのである。

ある日、ダミンカが出かけている時、修行場の僧たちが集まって話し合っていた。
「くっそ!、ダミンカだって、私達と同じように失敗すのに、彼は謝ったことなど一度も無い。若い女性と戯れていたところを注意しても、なんだかんだといって言い逃れをしてしまう。いつの間にか、悪いのは我々や信者側になってしまっている。ダミンカの弁には、もう我慢がならない。あんなヤツと一緒じゃ、修行にならない。そう思わないか。」
ダミンカの態度に我慢ができなくなった他の僧たちは、ダミンカを置いて、別の修行場に行ってしまったのであった。
しかし、ダミンカは平気だった。
「あんな間抜けなヤツラと一緒に修行ができるか。こっちから願い下げだね。」
と言って、自らも別の修行場に行ってしまったのである。

ところが、ダミンカは、移った先の修行場でも同じようなことをしたので、また孤立してしまった。修行仲間は出て行ったり、或いは、仲間から追い出されたりしたのだ。こうしたことを何度も繰り返していくうちに、誰もダミンカを相手にしなくなってしまい、どの修行場も受け入れてくれなくなってしまったのである。ダミンカは、仕方がなく、お釈迦様の元で修行することにした。

「おや、ダミンカ、行くところがないのですか。ならば、ここで修行するがよい。」
お釈迦様は、ダミンカをやさしく受け入れてくれた。そして、ダミンカに語りかけたのだった。
「ダミンカよ。なぜ、あなたが他の僧に受け入れられなくなったのか、その理由がわかりますか?。」
「お釈迦様、私は間違ったことは何もしていません。私は、誰よりも勤勉ですし、よく働きました。他の僧たちが愚かなだけです。批判されても当然でしょう。それを追い出すなんて・・・・。折角、教えてやっているのに。彼らは、注意されるのがいやなだけなんですよ。」
ダミンカは、下を向いたまま、ふて腐れて、お釈迦様に愚痴った。
「そうですか・・・・・・。ダミンカよ、よく聞きなさい。ある村の村長の話です。
その村長は、彼の配下の者や、村の人々に、いつも『酒を飲んではいけない、悪口を言ってはいけない、浮気をしてはいけない』と教えていました。その村長は、普段はとても立派な村長に見えました。ところが、実際は、その村長は、夜になると隣の村に行き、酒を飲み、悪口を言い、女と戯れていました。
ダミンカよ、この村長の行動は、許されるでしょうか。」
「お釈迦様、その村長は、愚か者です。許されるはずがない。村長失格です。」

「そうですね。では、続きを話そう。
ある日の夜、その村長が、酒を飲み、村人の悪口をいい、女と戯れているところに、その村長の村の男が届け物を持ってやってきたのです。村長は驚きました。村の男もびっくりしました。そして、村長に向って言いました。
『村長、酒を飲んではいけないのではないですか。悪口を言ってはいけないのでしょう。女性と戯れてはいけない、といつも言っていてではないですか。あんた、いつも言っていることとやっていることが違うじゃないですか。』
すると、村長は何食わぬ顔をして、
『いや、なに、酒がどんなに身体に悪いものか確かめていただけじゃ。悪口を言うとどんな報いがくるか実験していたんじゃ。女と戯れると、どんな罰があたるか試してみただけじゃ。ワシはなんにも悪いことはしておらん。みんな村人のためにやっているんじゃ。ワシが村人の犠牲になって、確かめておるのじゃ。』
と言い放ったのです。さて、ダミンカよ、この村長の言っていることは正しいかね?。」
「とんでもないです。村長の言っていることは、言い逃れです。詭弁です。その村長は許されるものではありません。村人に課した決まりを自ら破っておいて、それが見つかったら言い訳をするとは・・・・。そんな愚か者は、村長失格です。」
「そうですね。この村長は、愚かものでしょう。
ところで、ダミンカよ、あなたは、この村長のようなことはやってはいませんよね。自分の行為のことは棚に上げ、他の僧に注意をしたり、批判したりはしてませんね。なにせ、自分は完璧だ、と公言しているダミンカですからね。」

その言葉を聞いて、ダミンカは血の気が引いてしまった。
「おや、どうしたのですか、ダミンカよ。顔色が悪いようですが。」
「い、いや・・・・、その・・・・。
も、申し訳ございません。私が間違っていました。私は、自分のしでかした愚かな行為を認めようとはしませんでした。つい、言い訳をしてしまいました・・・・。」
ダミンカは、お釈迦様の前に両手をついて頭を下げたのだった。
「ダミンカよ、よく気付きました。では、もう一つ聞きましょう。なぜ、あなたは自らの過失を認めなかったのですか。」
「そ、それは・・・・。私の誇りが許さなかったのです。私は、他の僧より下に見られるのがいやでした。我慢ならなかったのです。あんなドジで間抜けな僧たちと一緒に見られたくなかったのです。」
「それが間違いのもとですね。
いいですか、ダミンカよ。人は実によく他人の過失を見るものです。そしてその過失を責めたくなるものなのです。ちょっとした過失をわざわざ探し出して、批判したがるものなのです。ところが、自分が批判の対象になることは許せないんです。自分の過失は認めよとはしないものなのです。言い訳を繰り返し、詭弁を弄し、正当化しようとするのです。或いは、なかったことのように過失を隠してしまうものなのです。
よいですか。どんなものであれ、自らの行為を振り返り、自己反省することが大切なのですよ。また、他のものから注意をされたり、批判をされたりしたら、素直に受け入れるべきなのです。それが、あなたの成長になるのですよ。
つまらない誇りにこだわってはいけません。あなたは、あなたが『愚かな僧』と罵っている僧たちと、何ら変わることがない。同じなのです。否、注意を受け入れる分、彼らのほうが勝れているでしょう。自らの過失を認めるだけ、彼らは正しいのです。
ところが、あなたは、他のものは批判できるが、自分の罪は隠そうとするし、注意も受け入れない。どうですか、それが優秀な修行者と言えるでしょうか。」
「う、うぅぅ。私は間違ってました。私は愚かな者です。これからは、自らをよく省みて修行に励みます。」
こうして、ダミンカは、他者の批判を止め、修行に励むようになったのであった。その後、ダミンカは、「素直なダミンカ」と呼ばれるようになったそうである。


さて、皆さんにも経験はないであろうか。自分のことは棚に上げ、他人を批判したり注意をしたりすることはないだろうか。或いは、注意をされて、言い訳や詭弁を用い、その注意を受け入れようとしないことはないであろうか。私は、恥ずかしながら、多々そういうことがあったと思う。自己批判とは、難しいものだ。
確かに人は、他人の過失を取り上げて批判したがるものである。そして、その批判の矛先が自らに向いた時は、逃げたり、隠れたり、言い訳したりするものである。実に多くのものが、「自分の事は棚に上げて」相手を責めるものなのだ。

しかし、それでいいのだろうか・・・・。自己批判、自己反省できないでいいのだろうか。
ダミンカが陥った罠には誰もがはまる可能性があるのだ。誰もが、自分の事は棚に上げ、他を批判したがるものなのだ。私も当然その中に含まれている。誰もが、愚か者になる可能性はあるのだ。
だが、それではいけないのだ。それでは、何も変わらないし、成長は望めない。自己の成長は、「他人の過失を見ないで、自分の過失のみを見つめる」ことから始まるのではないだろうか。
過失を犯したり、批判を受けたりしたら、つまらないプライドなど捨て、素直に過ちを認めることが大切なのであろう。決して他を批判することなく、自分をよく見つめる。そう、愚か者にならないように・・・・。合掌。




第9回 
生まれや財産、職業によって尊敬されるのではない。
その人の行動、言葉、心の働きによって尊敬されるのである。

お釈迦様がいらした頃のインドは、身分制度が大変厳しかった。様々な祭祀を執り行なう知識階級であるバラモンが身分が最も高く、次いで王侯貴族であるクシャトリヤ、商工業・農業等を職業としている庶民階級のバイシャ、それらの三つの階級に隷属するシュードラ。身分は、はっきり分かれており、しかも、それは世襲であった。つまり、王侯貴族の子は王侯貴族、バラモンの子はバラモン、商工農業子供は商工農業者に、奴隷の子は奴隷であり、決して他の職業にはつくことはできなかったのである。
もちろん、身分を越えての婚姻はあまり歓迎されず、忌み嫌われていた。クシャトリヤはクシャトリヤというだけで威張っていたし、バラモンはバラモンと言うだけで、尊敬されていた。

しかし、その身分差別を全く認めない者がいた。お釈迦様である。
ある時、バラモンの一団が、お釈迦様が滞在する精舎にやってきた。お釈迦様の僧団内では、身分を問わず−バラモンの出身であろうと、シュードラの出身であろうと−平等に生活をし、修行をしていると言う話を聞いて、文句を言いに来たのである。
「お前が釈迦族出身の修行者か。最近じゃあ、人々の尊敬を集めているそうじゃないか。お前に教えておこう。この世でもあの世でも、現在でも過去でも未来でも、尊敬されるのはバラモンのみだ。バラモンこそが階級の中で最も優れており、バラモンのみが宇宙の創始者・梵天の真の子孫であるのだ。それなのに、お前は、そのバラモン出身の者とシュードラ出身の者と同列に扱っているそうじゃないか。そんなことが許されると思っているのか。」
お釈迦様は、これに対し、静かに答えた。
「確かに、私のものとに集まっている修行者達の間には、身分はありません。皆、平等です。すべての者は、生まれた階級が違うからと言って、差別されるものではありません。
よく考えてください。あなた達は、梵天の子孫といいますが、バラモンは母親の胎内から生まれず、梵天から生まれるのでしょうか?。バラモンの女性は子を産まず、梵天があなた達を産んだのでしょうか。」
バラモン達は、益々怒って言った。
「何を馬鹿なことを言っているんだ。もちろん、母親から生まれたに決まっているではないか。」
「では、シュードラの子は、どこから生まれたのでしょうか。」
「母親に決まっている。しかし、どの階級の者も、同じように母親から生まれてはくるが、その母親の身分が問題ではないか。」
「あなた達は、先ほど、自分達は梵天の子孫だとおっしゃったが、その証拠はどこにあるのでしょう。証明できるものでしょうか。バラモンであろうと、シュードラであろうと、クシャトリヤであろうと、バイシャであろうと、皆母親から生まれることには変わりはないのですよ。その意味では、どの階級であろうとも平等ではないですか。生まれの違いはありません。」
「それは、屁理屈と言うものだ。」
バラモン達は、ふて腐れて言った。
「では、あなた達にお聞きします。暴力を振るったり、人のものを盗んだり、嘘をついたり、悪口ばかり言ったり、文句ばかり言ったりしている者は、尊敬されるでしょうか。」
「そんな者は、尊敬に値しない。司直の手で取り締まるべきだ。」
「その通りですね。では、そういう人間は、どんな身分にいますか?。」
「そう言うヤカラは、どんな身分にもいるぞ。クシャトリヤなどは、特に威張っているからな。王侯貴族出身と言うだけで、やたらに威張っているし、暴力を振るうし、嘘もつく。尊敬されるような行為はちっともしない。商人だって、ちょっと金持ちになると、王族に取り入って、我が物顔で振る舞うようになる。まったく、あさましいものだ。」
「では、バラモンの中ではどうでしょう。まさか、梵天の子孫であるバラモンの中には、暴力を振るったり、威張ったり、嘘をついたり、物を盗んだり、悪口を言ったり、文句ばかり言うような、とても立派とは言えないような振る舞いをする者はいませんよね。」
「あ、いや、その・・・・・。うーん、まあね、バラモンの中にもそういう者もいるかも・・・・知れないな。うん、まあ、いるな。少ないけど。まあ、そういうヤカラは、どこにでもいるものさ。」
「ほう、尊敬されるべきバラモンにもいるのですか。身分の高いバラモンなのに、尊敬されないような者がいるんですね。」
「もちろんだ。身分が高いからといって、尊敬されるものばかりとは限らない。」
「では、どのような者が尊敬される人なのでしょうか。先ほど、あなた達は、過去・現在・未来を通じて尊敬されるのはバラモンのみだ、とおっしゃったではありませんか。」
「う、うん、まあな・・・・言ったかな・・・・。尊敬されるのは、その、なんだ・・・・・えーっと・・・・。そ、そう、尊敬されるのは、バラモン出身で、行いが立派で、人々のために働き、言葉が丁寧で、国の決まりを守り、人々をよく指導するような者だ。バラモン出身で、そういう者こそが、尊敬されるのだ。」
何とか言い逃れできたバラモンは、ほっとした顔をしていた。お釈迦様は、そんなバラモン達に、厳しい顔をして言った。
「バラモン出身でなければ、尊敬されないのでしょうか。あなた達は、もうわかっているはずです。素直に認めたらどうですか。何も恥ずかしがることはないのですよ。」
その言葉に、バラモン達は、
「も、申し訳ない。私達が間違っていました。身分など関係なく、人々のために働き、悪口や文句も言わず、国の決まりを守り、言葉が丁寧な人こそが尊敬に値する人です。」
と謝ったのだった。
「その通りですね。立派な人、尊敬される人というのは、その行動や言葉遣いによって決まるものであって、身分や生まれ、その家の財産、職業などで決められるものではありません。
ところが、人々は、その者の出身や財産、職業などで差別をしようとする。出身がよくないと嫌い、職業が立派じゃないと蔑み、財産がないと馬鹿にする。特に婚姻となると、身分だの財産だのと騒ぎ立てる。
どんな身分であろうと、どんな家柄であろうと、どんな職業であろうと、その者の行動や言葉、心の働きによって、尊敬されるか否かが決まるのである。身分などと言うものは、関係ないのだよ。」
「はい。私達が考え違いをしておりました。申し訳ございませんでした。」
「いやいや、わかればいいのです。間違いに気付き、それを正すことができればいいのです。これからは、身分で人々を判断せず、その人の行動・言葉・心で判断することです。また、バラモンとして、人々に正しい行動・言葉・心を持つように教えてあげるといいでしょう。」
「はい、わかりました。今後は、そのように人々に教えていきます。ありがとうございました。」
こうして、お釈迦様に文句を言いに来たバラモン達は、晴れ晴れとした顔をして帰っていったのである。


これは、お釈迦様がいらしたはるか昔の話、他の国の昔話だと思ってはいけません。21世紀の、IT時代の現代の日本でも生きている話なのです。
あなたは、外見だけでその人の価値を判断してはいないでしょうか。財産や職業だけで、その人の価値を判断してはいないでしょうか。あの家は財産がないとか、親の職業が立派じゃないとかで、付き合うかどうかを決めたり、婚姻の相手の判断にしてはいないでしょうか。
或いは、立派な職業についている人が言っていることだから、大変な資産家で大きな会社を経営しているから、マスコミによく出ているから、といったことだけで、その人の言動を支持したり、その人を信じ込んだりしてはいないでしょうか。

その人が、本当に尊敬に値するかどうか、信じられる人物であるかどうかは、その人の行動・言葉・思い(心の働き)によるものでしょう。決して、外見や職業、出身、家柄などで判断されるものではないのです。
その判断は、大変難しいものですが、外見や職業、出身などに惑わされることなく、よく冷静にその人を観て、判断したいものです。
あなたは、その人自身を観て、判断していますか?・・・・・・。合掌。




第10回 
たとえ黄金の雨を降らせようとも、欲望は尽きることはない。
欲望は次々と生まれ出てくるものなのだから。
お釈迦様が朝の托鉢を終え、ある林の中で静かに瞑想をしていた時、ある男が尋ねてきた。
「あのぅ、瞑想中に申し訳ないのですが、お話を聞いていただけないでしょうか。」
その男は、おずおずとお釈迦様に話し掛けた。
「よろしいです。どうぞお話ください。」
お釈迦様は、その男に優しく話し掛けた。男は、お釈迦様の前に座り、話を始めた。
「私は金持ちになりたいのです。金持ちになるには、どうすればいいのでしょうか。」
「ほう、金持ちになりたいのですか。ならば、昼夜怠らず働きなさい。余分なことはせず、とにかく働きなさい。どんな仕事でもいいから、働くことです。」
「そうですか。では、今日から働きます。頑張って働きます。ありがとうございました。」
こうして男は帰っていった。

それからしばらくたった頃、また別の男がお釈迦様を尋ねてきた。
「話を聞いてもらいたいのですが・・・・。」
「いいでしょう。どうぞ、お話ください。」
「私は、よく働き、そこそこの財産を持つことができました。しかし、働いてばかりだったので、未だに独り者なのです。そろそろ嫁が欲しいのですが・・・・。」
「ならば、結婚をすればよいではないですか。」
「はあ、そうなのですが、なかなかいい女性が現れなくて・・・・。たとえば、その嫁が私の財産を狙っていたら、と思うと、結婚が怖くて・・・。」
「ならば、一人でいるほうがよかろう。」
「いや、しかし、嫁は欲しいのです。」
「嫁をもらった時点で、あなたの財産は半分嫁にあげてもいい、そう考えなさい。財産は、働けば築けますが、結婚は機会を逃がすと、なかなかできるものではないでしょう。信頼できる方に紹介をしていただき、結婚すればいよいでしょう。」
「あぁ、なるほど、そうですね。金は働けばいいのですからね。わかりました。早速、信頼できる方に頼んで、嫁を探して頂きます。ありがとうございました。」
こうして、男は去っていった。

その日のお昼頃、今度は夫婦者がお釈迦様の元にやってきた。
「悩み事があるのですが、話をきいていただけないでしょうか。」
「よろしい。どうぞ、お話ください。」
お釈迦様は、やさしく微笑んで、夫婦者の話を聞いた。
「私には、財産もあり、こうして器量のよい嫁も来てくれて、何も言うことなく満足して生活しているのですが、唯一悩み事があるのです。それは、子供がいないことです。親や親戚からは、早く子をなせ、と言われているのですが、なかなかできません。嫁も肩身を狭くしています。どうしたらよいのでしょうか。」
「子が欲しいのは、あなたたちですか?。それとも親御さんや親戚の方ですか?。」
「私達も、もちろん欲しいのですが、うるさく言うのは親のほうです。」
「子供が生まれる生まれないは、自然に任せるより他にはありません。いくら口うるさく望んでも、子供ができるわけではない。親御さんには、自然に任せてあるから、静かに待ってくれと頼むとよいでしょう。焦らないように、待って頂けばよいのです。焦らせると、返ってよくない、と言いなさい。」
「はい、わかりました。親にはそう言います。ありがとうございました。」
こうして、夫婦者は帰っていった。

その日のお昼過ぎ、また別の夫婦者が、お釈迦様を尋ねてきて、悩み事を話し始めた。
「私達には、財産もそこそこあり、子供達もいて、何不自由なく生活しています。しかし、悩みがただ一つだけあります。それは、子供が私達の職業の後継ぎを嫌がるのです。どうしたらよいのでしょうか。」
「よいですか。子供には、子供の人生があります。たとえ、あなた達の子供であっても、実際にはあなた達のものではないでしょう。あなた自身のことだって、あなたの自由にはならない。なのに、子供があなたの自由になるわけがないでしょう。
子供には、子供の意思や人格があります。よくお子さん達と話し合って、お子さんの好きな職業に就かせてあげればいいではないですか。」
「しかし、そうすると、私達の商売は・・・・・。」
「あなたの商売は、商才のある者を探して、その者に継がせればいいじゃないですか。何も、身内が継がなければならない、ということもないでしょう。あなた達には、老後を過ごせる財産があるのでしょ。ならば、子供達は子供達の自由にさせ、商売は他の者に継がせ、あなた達は、悠悠自適に暮らせばいいじゃないですか。なにも、子供や商売に執着する必要はないでしょう。」
「はあ、その通りです。わかりました。子供ともよく話し合ってみます。」
そう言って、その夫婦者は帰っていった。

この様子を朝から見ていた弟子のアーナンダが、お釈迦様に尋ねた。
「どうして人々は、あんなに次から次へと悩み事が出てくるのでしょうか。」
「アーナンダよ、それはね、人々に欲望があるからだよ。
人は財産を欲しがる。財産の次には、よき配偶者を、次には子供を、子供ができたらその子が立派になることを、そして老後の安楽を望むのだ。こうして、次から次へと欲望が湧いてくるのだよ。
それは、たとえ黄金の雨を降らせようとも、尽きることはないし、満足することはないのだよ。それが欲望と言うものなのだ。そして、人はその欲望にとらわれ、振り回され、悩み苦しむのだよ。
悩んだり、苦しんだりしたくなければ、その欲望にとらわれないことだ。自らの欲に負けないように、執着しないようにすることなのだ。」
「はい、わかりました。私も欲を捨てるように、修行に励みます。」
「そうですね。正しく考え、正しく見て、正しく思惟するがいいでしょう・・・・・。さあ、また、悩める人々がやってきました・・・・。」
こうして、お釈迦様は、毎日人々の悩み事を聞き、少しでも心が安楽になるように話をしていらしたのである・・・・。


さて、このお話、馬鹿みたいな話だ、と思った方もいることでしょう。しかし、私達は、この馬鹿みたいな話のようなことを、意外とやっているんですよ。
「好きな人と別れた。何とか復縁できないでしょうか。」
「子供が思うように勉強してくれない。どうしたらいいでしょう。」
「仕事はしたいのだが、あの仕事はいやだ。こんな仕事がしたいのだ・・・・。」
「結婚はした。しかし、子供ができない。子供さえあれば、何も言うことはないのに・・・・・。」
「憧れの職業に就職できた。でも、人間関係が・・・・・。」
「好きな彼と結婚できたんだけど、なんか、もう魅力感じない・・・・・。新しい恋がしたい・・・・。」
「お金欲しい〜。遊びもした〜い。ブランド物も書いた〜い。」
「あぁ、たまにはゆっくりと温泉にでも浸かりたいなぁ・・・・・。」
どうでしょうか。ちょっと耳を澄ませば、こうした人々の欲望の声が、聞こえてきませんか。

人間の欲望は、尽きることはありません。それは、たとえ黄金の雨を降らせても尽きないのです。次から次へと湧いてくるものなのです。問題は、その欲望にどう対応するかなのです。
とことん、欲を追及するか、欲望のままに生きるか・・・・。
欲望にとらわれれば、悩み苦しむことになるでしょう。欲望をさらりと流していければ、そんなに悩む必要はないでしょう。しかし、人は欲望にとらわれてしまいがちなのです。
だから、うまく、欲望と折り合いをつけることが大切ですよね。欲望にとらわれないように・・・・ね。合掌。




第11回 
なぜ他人の言動に左右されるのか。
自分の行動は、自分で決めればいいことだ。
あの人が行くから私も行く、あの人が行かないから私もやめる・・・・。あの人がそう言ってるなら、私もそう思う・・・・・。あの人が身につけているから、私も身につけよう・・・・。
人々は、なぜ他人の言動に左右されてしまうのか。他人の言動に惑わされてしまうのか。
自分の意見、考え、主張を持てば、他人の言動に惑わされず、何も迷うことはないのだが・・・・・。

お釈迦様の教団で、ある事件が起きた。首謀者はダイバダッタであった。
マガダ国の王子アジャセが、仏教に帰依したときのことである。ダイバダッタは、お釈迦様に代わって、教団を率いたい、自分が中心となって仏教教団をまとめたい、という欲望を持っていた。つまりは、仏教教団ののっとりを企てていたのである。
そこでダイバダッタは、アジャセ王子に巧妙に取り入って、まだ青年であった王子の信頼を勝ち得たのであった。

アジャセ王子がダイバダッタに帰依した、という噂は、すぐにマガダ国中に広まった。それまでマガダ国の人々は、何かとお問題を起こし、お釈迦様に逆らうダイバダッタをよくは思っていなかった。ところが、アジャセ王子がダイバダッタに帰依すると、人々は途端に動揺し始めたのだった。
「アジャセ王子がダイバダッタに帰依したんだってさ。ダイバダッタは悪者じゃなかったんだね。」
「今までのことは、お釈迦様も悪いところがあったのかもな・・・・・。」
「そうだねぇ。なんせ、あのアジャセ王子様が信じたのだから、ダイバダッタ様は、実は立派な方だったんだよ。」

こうした動揺は、仏教教団内−お釈迦様の弟子達の間−でも起きていた。
「王子がダイバダッタ様に帰依したそうだ。ダイバダッタ様は、きっと立派な方なんだ。」
「とんでもない。あの者は、教団をのっとろうとしたんだぞ。そんな者が、立派な者であるわけがないじゃないか。」
「いや、大変な神通力を使うらしいぞ。そんな神通力を使えるのだから、聖者なんだろう。」
「みんな騙されるな。ダイバダッタは、また何か企んでいるかもしれないぞ。」
「そんなはずはない!。あのアジャセ王子が帰依したんだからな。」
いつの間にか、教団はダイバダッタを信じる派、信じる派に分かれていた。

そんなある日、ついにダイバダッタは行動に出た。自分を信じ始めた弟子達やマガダ国の人々を率いて、パンダブ山へ向ったのである。もちろん、その先頭にはダイバダッタとアジャセ王子がいた。
「ほら、アジャセ王子が先頭にいるぞ。やはり王子はダイバダッタ様を信じているんだ。我々もついていこう。王子様が信じているんだからな。」
「そうだな。今までのことは、きっと何かの間違いだったんだ。ダイバダッタ様の力を恐れた者が、ダイバダッタ様の悪口を流したに違いない。」
こうして、ダイバダッタとアジャセ王子は、パンダブ山に篭り、お釈迦様の引退とマガダ国王ビンビサーラの引退を要求したのである。

しかし、その状態は、長くは続かなかった。シャーリープトラの説得により、アジャセ王子がダイバダッタの本性を見抜いたのである。アジャセ王子は山を降り、釈迦様のもとへ行き、懺悔し、改めてお釈迦様に帰依したのである。すると王子に追随していった人々や、ダイバダッタに騙されていた弟子達も戻ってきたのである。
こうした人々に対し、お釈迦様は話を始めた。
「何と愚かなことか・・・・・。なぜ、あなた達は、否、世の人々とは、自らの信念に従って行動できないのか。身分の高い者や有名な者がことや、言ったことをすぐに正しいと思い、それを信じ、それに従っていってしまう。他人の言動に振り回され、左右され、自分の行動を決めてしまう。身分の高い者がしているから正しいであろう、有名な者が言ったことだから正しいだろう、あの人が行くから私も行こう、あの人が信じているから私も信じよう、あの人が身につけているから私も身につけよう・・・・・。あの人が、あの人が・・・・。
自分の信念も持たず、付和雷同で生きていくのは、確かに楽に見えるかもしれない。しかし、それは自分という者がない、ことと同じなのだ。そういう生き方をしていると、ついには何も自分では判断できない、決めることができない者になってしまうだろう。それは愚かなことではないだろうか。
よいですか、あなた達は、これからは自分で判断できるように、確固たる信念を持つよう、努力していくとよいでしょう。」
そこに集った人々は、心を強く持つよう、気を引き締めたのであった・・・・。


確固たる信念・・・・・。それを持つことは、難しいことかもしれない。しかし、たとえ小さな信念でもいいから、それを持てば、他人の言動に左右されることなく、迷うことなく進むこともできるのではないだろうか。
あの人が行くから私も行く、あの人が言っているから正しいんだ・・・・、ではなく、あの人が行かなくても私は行く、あの人が言うことでも正しいとは限らない・・・・・、という考え。
こういう考えを持てば、自分の判断ができよう。自分というものが確立できよう。他人に左右されることなく、迷うことなく、自分で考え、何が正しいのか、何が間違っているのか、自分で判断できるようになるのである。

周りと同じように振舞い、周りと同じような言葉を使い、周りの流行に流されて生きていく・・・・・。それは、それで安心なのかもしれない。楽な生き方なのかもしれない。
しかし、それは、自ら判断する、という行為を捨てているのである。自分の個性を捨ててしまっているのだ。

自分の人生なのだから、他人に左右されることなく、自分で判断して生きていくほうが良いのではないのだろうか。今こそ、他人に左右されることなく、信念を持とうではないか・・・・。合掌。




第12回 
これぐらいは大丈夫さ、という悪魔のささやきが、
大きな損失を生み出すのである。
お釈迦様が、祇園精舎に滞在していたときのことである。
ある日、お釈迦様が町で托鉢をしていると、顔見知りの国王の料理人が、手かせと足かせをつけられて、兵士に引きずるようにして連れられていた。それを見て、お釈迦様は、その兵士に声をかけた。
「そこの兵士さん、ちょっとお待ちください。その者はどうされたのですか。」
「こ、これは、お釈迦様。気付きませんでして・・・・。この者ですか?。この者は、罪人なのです。これから村はずれの牢獄に連れて行くところです。」
「ほう、そうですか・・・・。ところで、その者は、私の知り合いなのです。少し話をさせていただくわけにはいきませんか?。」
「いくらお釈迦様の申し出とは言え、そればかりは・・・・。この者を牢獄に連れて行くのが私の役目ですから。」
「そうですね、その通りです。なかなか立派な心掛けです。心に隙がなく、油断なく仕事をされることはすばらしいことです。では、牢獄へ向う道中、話をさせてもらうわけにはいきませんか。」
「それならば結構でしょう。しかし、手かせなどは取りませんが、よろしいですね。」
「もちろん、結構です。」
こうして、罪人を引き連れた兵士とお釈迦様は、村はずれの牢獄へと向ったのである。

お釈迦様は、その罪人−お釈迦様の顔見知りであった国王の料理人−に声をかけた。
「あなたは、王城の真面目な料理人だったではないですか。いったいどうしてこのようなことになったのですか。」
「はぁ、私は・・・・・。魔が差したと言うか・・・・・。」
その元料理人は、力なく答えた。
「実は、王様の食材を少しずつ減らしていたのです。その抜いた食材を城外の者に売ってしまったんです。・・・・・初めは、そんなつもりはありませんでした。食べ過ぎの国王を心配して、少しずつなら食事の量を減らしても気付かないだろうと思い、それで少しずつ食材を抜いたのです。そうすれば、王様は気付かないうちに、食の量を減らすことができるし、健康のためにもなる。そう思って、食材を抜いたのです。
思ったとおり、王様は食事の量が少しずつ減らされていることには、気付きませんでした。ですから、この調子なら王様も健康になる、そう思って、食事の量を減らしつづけました。
でも、困ったことに、当然ながら食材が余ってきたのです。そのうちに、余った食材の保管場所に困るようになったのです。目に付くところにおけばお咎めは間違いないし、かといって、隠し場所も無い。自分達が食べるわけにも行かない・・・・。
そんな時、ある男が声を掛けてきたのです。『余っているなら売ればいいじゃないか・・・・。』と。
初めは断りました。この食材は王様のものだし、王城の中で処理をする方法を考えたほうがいい、と・・・・。しかし、その男は、
『大丈夫、絶対見つからない。ここで処理すれば、返って王様に見つかってしまうぞ。そうすれば、お前は牢獄行きだ。なに、お前は、余った食材を裏口に運ぶだけでいいんだ。あとのことは、俺がやるから。それぐらいなら、見つかっても大丈夫だろ。適当にごまかせるしな。』
と言うんです。確かに、食材を抜いたことが王様に知れたら・・・・・。そう思ったら、急に怖くなってしまったんです。それで、その男の言う通りにしたんです。
初めは恐々でした。ところが、食材を売ってしまうのは、以外に簡単でした。私が、城の裏口に持っていけばいいだけだったんです。それだけで、思わぬ大金を手にできたのです。
『王様の食材はこんなにも高価だったんだ。』
そう思ったのがいけなかったんです。この時から、私の目的は変わってしまった・・・・。私は、お金を得るために食材を抜くようになたんです。」

男は、手かせ足かせが痛いのか、時折立ち止まっては、話を続けた。
「こうなるといけません。悪魔が耳元で囁くんです。
『もっと食材を減らしても大丈夫さ。王様は気付かない。そうそう、それぐらい減らしてしまえ・・・・。』
と・・・・。
確かに、王様は気付きませんでした。でも、だんだん減らす量が増えていくと、さすがに誰だって気付きます。その時は、そんなことすらわからなかったんです。
ある日、ついに、王様が、食材の量に気付き、怒り出しました。『最近、食事の量が少ないぞ!。どうなっているんだ。』と。
私は、必死で誤魔化しましたが、ついに隠していた食材を見つけられてしまったんです。それで、追及されて・・・・。初めはこんなつもりじゃなかったんです・・・・・・。
こんなくだらないことで、私は一生をダメにしてしまった。女房も子供も町から追い出されてしまった。真面目に働いていれば、こんなことにはならなかったのに・・・・・。何もかもなくしてしまった・・・・。」

その元料理人は、お釈迦様に語り終えたのだった。お釈迦様は、その元料理人に優しく微笑みかけながら、話し掛けた。
「本当に、あなたには、もう何も無いのですか?。そんなことはないでしょう。あなたには、その身体と心があるではないですか。今回のことは、初めは国王の健康のことを思ってやったことなのでしょう。あなたには、人を思いやる優しい心があるではないですか。
今回は、あなたは悪魔の囁きに負けてしまいましたが、心を鍛えて、悪魔の誘惑を退けられるようになれば、その優しい心で、多くの人を救うこともできるでしょう。」
「ま、まさか・・・、そんなこと・・・・。私は、罪人なんですよ。」
「いえいえ、救うことはできます。先ずは、自分の犯した罪をよく懺悔し、二度と悪魔の囁きに負けない強い心を持てば、あなたも他の人を救うことができるのです。あなたは、もう自分の罪を懺悔しています。あとは、強い心を持てばいいのですよ。」
「わ、わかりました。強い心を持つようにします。・・・・・でも、それには、私はどうすればいいのでしょう。」
「出家するがいい。私と共に、修行すればいいのです。」

その時である、お釈迦様と元料理人の話を聞いていた兵士が、元料理人の手かせ足かせをはずしたのだった。
「そんなことをすると、あなたが咎められるのではないですか。」
お釈迦様が、兵士に聞いた。兵士は、にこやかに答えた。
「いえ、大丈夫です。お釈迦様の元で出家する、と言う者には、手かせも足かせも要りません。どうぞ、この者を祇園精舎にお連れ下さい。いえ、これは決して心の油断でも、悪魔の囁きでもありません。国王もご納得されることでしょう。」

こうして、お釈迦様は、元料理人を祇園精舎に連れて行って、出家させたのであった。このことは、すぐに国王の耳にも入ったが、国王は、その元料理人の心を知り、罪を許し、その男の妻や子供も城下に戻るように手配したのであった。もちろん、罪人を逃がした兵士も咎められることはなかった。
その後、その元料理人は、どんな誘惑にも負けない、強い心を持ち、多くの迷える人を導いたそうである・・・・。


「こんなことくらいは大丈夫だろう。」  「これぐらいは平気さ。」  「誰も見ていないんだ。バレたりしないよ。」・・・・・。
と言って、人々は深みにはまっていくのである。
「別に罪にはならないんだから、大丈夫!」   「バレなきゃいいのさ!」・・・・・。
と言って、信頼する人を裏切っていくのだ。
初めは小さなことなのだ。ほんの些細なことなのだ。ところが、小さな炎がだんだんと大火になるように、それは次第にエスカレートしていくのである。本人が気付かないうちに・・・・・。

そうなると、もう取り返しがつかない。気付いた時には、もう遅いのである。
こんなことくらい平気さ、バレないさ、これくらい大丈夫さ・・・・という悪魔のささやきが、今日もあなたのもとにやって来る。あなたの人生を狂わそうとしているのだ・・・・・・。

お気を付け下さい。悪魔の罠はどこにでもあるし、誰でもはまる可能性があるのだ。自分では気付かないうちに・・・・・。
ほら、あなたの耳元でもささやいている。
「大丈夫、それぐらい平気さ。バレないさ。誰も見ていないしね。」・・・・・・と。合掌。




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