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第13回 
最上の幸せとは何か。
健康は最上の利益、満足は最上の財産、信頼は最上の縁者。
そして、心の安らぎこそが最上の幸せなのだ。
幸せとは何であろうか・・・。
古来より、人々は幸せを求めてきた。そして、それは今も続いている。本当の幸せとは、最上の幸せとは、いったい何なのであろうか・・・・。

お釈迦様がこの世にいらした頃のこと。マガダ国の城下町、ラージャグリハの商店街は、今日もにぎわっていた。往来の人々の楽しげな声が響き、街は平和だった。
商店街の一角、近辺に住む人々が、大きな声で議論を始めた。
「なあ、なあ、本当に幸せな人って、どんな人だと思う?。」
「そりゃ、金持ちの人さ。金さえあれば、言うことはないね。何でも買えるしさ。だから、金持ちが一番幸せな人さ。」
「そうかなぁ・・・。お金持ちでも不幸な人はいるんじゃないの?。」
「そうよねぇ。いくらお金を持っていても、病気ばかりしていたら、何にもならないからねぇ。」
「そうそう。いくらお金持ちでもさ、それを使えなきゃ、意味ないよね。病気ばかりして寝込んでいたら、いくらお金があったって使えないからね。なら、お金がないのとあんまり変わらないさ。」
「あぁ、そうだなぁ・・・・・。じゃあ、どんな人が幸せな人なんだろうか?。」

「そうだなぁ・・・。そりゃあ、健康な人だろう。病気知らずで、健康ならば働くこともできるし。」
「そうだよな。健康が一番だよ。健康な人が幸せな人さ。」
「でも、健康でも人から嫌われたり、仕事がなかったりしたら、やっぱり不幸じゃないのかな・・・・?。」
「そうよねぇ・・・・。いくら健康でも友達がいなきゃねぇ。人から信頼されなきゃ、寂しいわよねぇ。」
「そうか・・・・。そういえば、健康だけが自慢のヤツがいるんだが、そいつはみんなに嫌われているんだよなぁ。あれも不幸だよね。嫌われているから、誰にも相手にされなくなって、それで仕事もなくしたんだよね。」
「じゃあ、健康であっても、必ずしも幸せじゃないのか。」
「そうねぇ・・・・。金持ちでも、健康でも、必ずしも幸せな人ってことはないわけね。」
「うーん、難しいなぁ。一体どう言う人が幸せなんだろうか。」

皆は考え込んでしまった。
「そうねぇ・・・。幸せそうな人は沢山いるのにね。ほら、あそこの先生の一家なんか、幸せそうよ。」
「あぁ、あそこの先生一家ね。でも、見かけは幸せそうだけど、そうでもないのよ。」
「どういうことだ?。」
「ここだけの話なんだけど・・・・。あの先生一家、まあ、そこそこにお金もあるし、財産もあるし、家族もいて、幸せそうにみえるんだけどね・・・・。実はね、そうでもないのよ。うちは、隣の家だからよく聞こえるのよねぇ。ケンカの声が・・・・。」
「へぇ・・・・。ケンカしているのか。」
「そうなのよ。どうも、あの先生、若い女と浮気しているようなのよ。おまけに息子は、悪い仲間と付き合っているようだし。昼間は礼儀正しいんだけど、夜になると町のゴロツキと出かけていくのよ。」
「なんだかなぁ・・・・。外見は幸せそうに見えても、中身はわからないもんだよねぇ・・・・。」
「そうねぇ・・・。そうなると、幸せなんて、程遠いのかねぇ・・・・。」

その時だった。お釈迦様の弟子のマハーカッサパ尊者が、ちょうどその話し合っている人たちの脇を通りかかったのだった。
『おやおや・・・。幸せには程遠い、なんて考えているなどとは・・・・。これではいけないな。』
そこで、マハーカッサパ尊者は、その話し合っていた町の人たちに声をかけた。
「町の皆さん、何を考えこんでいるのですか。何かわからないことでも?。」
「あぁ、これは尊者様。いやなに、今ね、幸せな人ってどんな人か、って話し合っていたんですけどね。」
「そうあんですよ。でもねぇ・・・。幸せそうに見える人でも、中身を知るとねぇ・・・。そうでも無いし・・・。」
「所詮、私たち庶民には幸せなんてねぇ・・・。程遠いんじゃないかって・・・・。」
「そうですか、幸せですか。皆さんは、とてもいいお話をしていますね。幸せに程遠いなんて、そんなことはないんですよ。」
「本当ですか?。本当に幸せは遠くないんですか?。」
「まさかぁ・・・。いくら尊者様の言葉でも、簡単には信じられませんよ・・・・。」
「そうですか・・・・。では、お釈迦様に尋ねられたらどうです。ちょうど、今日は法話の日ですからね。」
「そうだねぇ。そうしましょう。」
こうして、町の人たちは、お昼からの法話会に行き、お釈迦様に「本当の幸せとは何か」と尋ねることにしたのだった。

午後からの法話会が始まった。今日も精舎には大勢の人々が、お釈迦様のお話を聞くために集まっていた。お釈迦様は、いつものようにお話を一通り済ませてから、集まった人たちに尋ねた。
「こうして皆さん集まっていらしたのですから、何か聞いておきたいことはありませんか?。」
「あのう・・・・。幸せというのは、得られるのでしょうか。本当の幸せというのは、何なのでしょうか。」
「幸せですか・・・・。大変いい質問ですね。では、お話し致しましょう。
皆さんは、財産があり、人々にも認められ、名声もあり、贅沢ができ、健康である人を幸せな人、と思うのではないでしょか。」
そこに集まった人々は、皆うなずいたのであった。

「しかし、それは本当の幸せではありません。財産があれば、それがなくなるという不安が付きまとうものです。財産は、無くしたくはありませんからね。世間の人々に認められ、名声を得ると、今度は、世間の人々からそしられる不安が生じます。」
人々は、「それもそうだな・・・。」とささやきあっていた。

「皆さんもそう思うでしょう。贅沢をしたいと思う方は多いでしょうが、贅沢になれてしまうと、元の生活に戻すのは大変ですね。贅沢な生活を手に入れてしまうと、それを失うのが不安になります。健康は、確かにありがたいことですが、誰でも病気にはなるものです。健康だ、と威張ってはいても、人間の身体は弱いものであり、絶えず病気への不安を持っていなければなりません。」
「じゃあ、やっぱり、幸せなんてないんだ・・・・。」
町の人がボソッとつぶやいた。

「そうではありません。よく聞いてください。
健康というのは、この上ない利益でしょう。健康という利益があるからこそ、働くことができるのです。利益を得たいと望むのでしたら、まずは健康という利益を得ることが第一です。
財産を持ちたい、と思うのでしたら、満足を知るがいいでしょう。私にあった生活はこれくらいである、これで充分だ、という満足を知ることができれば、それは最上の財産となるでしょう。どんな状態でも満足であるなら、それは決して無くすことはない財産となるのです。
信頼を得ることは、最もよい縁を得るということです。また、良縁は世間の信頼を得ることになります。よい友と交われば、世間の人々もその人たちを信頼するでしょう。しかし、悪い友と交われば、誰も信用してくれません。良縁を得ることは信頼を得ること。信頼は最高の縁者なのです。」

「そうか・・・・。健康は、確かに我々にとって最上の利益だよな。健康第一だからな。」
「そうねぇ。満足を知れば、たとえ少ない財産でも、それでいいのだし、多くの財産を持っていても、足ることを知らなければ、それは貧者とかわらないわよねぇ。」

「皆さん、では、最高の幸せとはなんでしょうか。それは、不安を持たない状態にあることです。
病気になっても、お金がなくても、友人がいなくても、名声がなくても、何もなくても、心に不安がなければ、何も怖がることはないでしょう。いつも心は安定しています。
何も不安が無い、心配がない、どんなことが起ころうとも、何も不安に思わず、冷静でいられる人、そう言う人が本当の幸せ者なのです。
たとえば、健康な人がある日突然、病気になったとします。よくあることですね。しかし、その人は『人間いつかは病気になるものだ』と思っていましたから、実際に病気になっても何も不安がないのです。また、その病気が不治の病であったとしても『人間いつかは死ぬものだ』と常日頃承知していたものですから、その病気を不安にも思わないし、死をも恐怖に思わないのです。心はいつも安定しているのです。そう言う人は、たとえ病気であっても幸せな人なのです。

また、ある財産家がいたのですが、ある時、その財産家はすべての財産を無くしてしまったのです。しかし、その財産家は『いくら財産があっても、死後の世界まで持っていくことはできない。そんなものに執着することは馬鹿げている』と思い、何の心配もなく、明るく、不安なく暮らしていったのです。そう言う人が幸せな人なのです。
どんな状態に陥ろうとも、どんな災難に遭おうとも、また逆に、どんな素晴らしい状態になろうとも、いちいち不安がったりせず、心配せず、喜んだりしないで、いつも心が安定している人を幸せな人というのです。
だから、どんな方でも幸せは得られるのです。貧富の差に関係なく、健康であろうが病気であろうが、そんなことには関係なく、どんな人でも幸せになれるのです。どんな方でも心の安らぎは得られるのです。」

「そうか・・・。何の不安も無い生活。それが一番だなぁ・・・・・・。」
「そうねぇ。しかもそれは、自分で得られるものなんだねぇ。」
「幸せは程遠くないんだわ。私たちも幸せは得られるんだわ。よかった・・・・。」
そこに集まった人々は、誰でも幸せになれるということがわかって、みな明るい顔をして帰っていたのだった。


さて、みなさんはどうでしょう。本当の幸せとは何だと思いますか?。
大金持ちなって高級車に乗り、高級な住宅地に住み、高級な衣装を身にまとい、世間にチヤホヤされる・・・・。それが幸せなのでしょうか。某姉妹のような、あんなゴージャスな生活が幸せなのでしょうか・・・・。
世間なんて冷たいもので、昨日までチヤホヤしていたと思っていたら、今日になって知らん顔・・・・なんてことはよくありますよね。
また、いくら財産を持っていても、無くなる時はあっという間に無くなってしまいますし、いつかは無くなるかも知れないという不安は、ついて回るものでしょう。たとえ財産がなくても、少ない貯金が目減りしていくのを見るのはいやなものです。(我々庶民はつらいものです・・・・。)
バブルの崩壊で、いくら財産があっても、それは夢・幻・・・・ということを現実に見てきましたから、よくおわかりだと思います。
地位や名声を得ても、ちょっとしたことがきっかけで何もかもパァーという話もよくあることで・・・・。

それなのに、人々は財産を求め、地位を求め、名声を求める・・・・。何度繰り返しても同じ。いい加減、学習したほうがいいと思うのですが、これは、本能なのでしょうかねぇ、愚かなことです・・・・。
本当の幸せとは、そんな不安定な、いつなくなるかわからないようなものの上にあるのではありません。そんな不安定な状態は、本当の幸せとは言わないのです。
本当の幸せとは、何の不安もなく、心が安らいだ状態にある、そういう生活を送ることができることをいうのでしょう。それが、一番の幸せなのでしょう。たとえ、平凡で刺激のない生活ではあってもね。
平凡な生活、不安のない生活、それが一番でしょう。あえて、刺激を求め、危険の中に身を置き、不安な日々を過ごすことはないと思うのですが・・・・・。そういう方は、本当の幸せはいらない、それよりも危険な匂いのする生活が送りたい、という冒険家なのでしょうね。合掌。




第14回 
愚かなる者は、財産や子供を自分の思うままにできると考える。
自分ですら自分のものではないのに、
何ゆえ、財産や子供が自分の自由になると思うのであろうか。
「あたしのうちは、大丈夫さ。後継ぎの息子がいるからね。」
「そうだねぇ。あんたのとこは、立派な息子がいるからね。この先は、心配ないよね。」
「そういう、あんたの家も、娘の婿さんがしっかりしているから、安心じゃないか。お金もあるしね。」
「やだねぇ、もう。婿はね、いい人だから、よかったよ。お金は、そんなにないわよ。それはそうと、商店街の果物屋さん、息子が出て行ったらしいよ。何でもコーサラの兵隊になるってさ。」
「それじゃあ、果物屋さん、どうなるんだい?。」
「出て行った息子が帰ってくるまで、待っているんだとさ。身分も違うから、どうせ長続きしやしないだろうって、ご主人が言ってたわよ。」
「そりゃ、そうよね。どこの家でもそうだけど、息子達は、親の後を継げばいいんだよ。この国じゃあ、身分が決まっているんだから、高望みしたって何にもなりゃしない。親の言うこと聞いてくれりゃ、それでいいんだよ。」
「そうよねぇ。親の言うことを聞いてくれる子供達が一番よ。はっはっはっは・・・・・。」

ある日、お釈迦様が托鉢に歩いていた時のこと。コーサラ国の城下町の商店街は、今日も井戸端会議のおばさん達でにぎわっていた。そこでの話題は、たわいのないうわさ話が大半であったが、時には、自分の家の自慢話をしているものもあった。そういう場合は、たいていは、自分の子供達の自慢か、財産がどれほどあるか、といった内容だった。そういう話は、托鉢をしているお釈迦様の耳にも届いていた。こんな時、お釈迦か様は、一人溜息をつくのであった。
「自分の事さえ、自由にならないし、思い通りにならない。なのに、なぜ自分ではない子供が、自分の思い通りになると考えるのであろうか。これではよくない・・・。」
と・・・・・。

それから数日後のことである。お釈迦様が、いつものようにコーサラ国の城下町を托鉢に歩いていると、先日「うちは後継ぎの息子がいるから大丈夫」と言っていた女性が、ぼうっとして立っていた。そこへ、やはり先日その女性と一緒に話をしていた女性が、元気なさそうにやってきた。
「おや、どうしたんだい、あんた。そんな、ぼうっとしてさ。」
「えっ?、ぼうっとなんかしてないよ。そういうあんたも、元気なさそうじゃないか。」
「そ、そんなことはないさ。あたしゃ、元気だよ。それより、あんた大丈夫かい?。顔色悪いよ。」
「そ、そうかい?。あぁ、そういえば、あの果物屋さんの息子は帰ってきたのかい?。」
「いや、まだだそうだよ。何でも近頃じゃ、身分に関係なく、兵隊が必要とかで、コーサラの兵士なっちまったらしいよ。」
「親の言うことを聞いてりゃ、いいものをねぇ。そのほうがうまく行くのに。なんだって親に逆らうのかねぇ・・・。」
「どうしたんだい。あんたのうちは、後継ぎがいるじゃないか。」
「はっ、その後継ぎが出て行っちまったんだよ。やりたいことがあるんだとさ。まったく、馬鹿者だよ。腹が立つったらありゃしない。何でも親の言うことをきいた、いい子だったのに・・・・・。」
「あんたのとこもかい。うちもさ。娘婿が、うちのお金を持って、出て行っちまったんだよ。何でも、新しく商売を始めるんだとさ。あたしの老後はどうなるんだろうねぇ・・・・。」

「思うようにならなくて、当然ですよ。」
「えっ?、あなたは・・・・。お釈迦様!。どうして・・・・。」
「いやいや、立ち聞きしたようで申し訳ないのですが、今の話、聞かせていただきました。あなた達の経験したことについて、今日の午後からお話しいたしましょう。よろしければ、精舎までお越しください。」
「あっ、はい、わかりました。お伺いします・・・・。」

その日の午後の説法会も大勢の人々で精舎はいっぱいだった。あの托鉢の時に出会った女性達も来ていた。噂話に出ていた果物屋さんの主人も来ているようだった。
精舎が静まり返った。お釈迦様の法話が始まるのだ。
「ここに集まった多くの方達は、ある程度財産もあり、仕事もあり、家庭も持っていることでしょう。家庭にはお子さんも何人かいることと思います。
そして、多くの方は、財産を自分のものと考えており、仕事は引退するまで続けられるものだと思い、子供達は親に従って、言う事を聞くと思っていることでしょう。
しかし、そうでしょうか。財産は自分の自由になるものでしょうか?。仕事がなくなるようなことはないでしょうか?。子供達が親に逆らうことは、ないのでしょうか?。
よく考えてください。皆さんは、自分の身体すら思うようにならないでしょう。」
「そんなことはないぞ。俺は自分の身体を思うように動かしている。自分の思うようになっているぞ。」
会場から、賛同の声がもれてきた。
「そうでしょうか。ならば、あなた達は、自分が望んで病気になっているのですね。自分が思っているように若さを保っているのですね。」
「うっ、そうか・・・・。病気は望んでいないや・・・・。申し訳ないです。さっきのことは、失言です。」
会場から、どっと笑い声がおきた・・・・。

「気がつけばいいのですよ。どんな方も、自分すら、自分の事ですら、自分の思い通りにならないでしょう。それは当然なのです。身体は老いるものでありますし、病気にはどんな方も罹るものなのですから。それに、自分ひとりで生きているのではないですから、自分の思い通りにならないのは当然でしょう。いろんな人々と、いろんな事象が絡み合って、関わりあって生きているのです。相手にも意思があるのですから、自分の思い通りにならないのは当然なのです。

ですから、財産でも自分の考えている通りになると思ってはいけないのです。仕事でも、自分の考えている通りに、いつまでも続くと思い込んでいてはいけないのです。もちろん、お子さんは、お子さん自身の意思があるのですから、親の言う通りになるとは限らないのです。
財産にしろ、お子さんにしろ、自分の思い通りになると考えるのは、愚かなことでしょう。自分ですら思う通りにならないのですから。」
「では、子供や財産をあてにするなと、そうお釈迦様はおっしゃるのですか。」
「そう、あてにしてはいけないのです。あてになるのは、自分自身だけです。自分自身の行きかたのみが、あてになるのです。」
「じゃあ、子供など産む必要もないし、育てる必要も無いじゃないか。」
「そんなことはありません。子供達は、社会を形成する上で必要でしょう。子供達がいなければ、世の中は、終わってしまいます。また、お子さんが生まれた以上、育てるのは親の義務でしょう。」

お釈迦様は、一息ついてから、話を続けた。
「私が言いたいのは、子供達を親の私物化にしないように、無闇に期待を掛けないように、親に逆らったからと言って歎かないように、と言うことをいっているのです。子供には子供の意思があります。それを尊重しなさい、ということを言っているのですよ。
財産を作ることは、生活をする上で必要なことでしょう。お子さんを正しく育てることは、親の義務でしょう。しかし、それらが自分の思い通りにならなかったからと言って、腹を立てたり、歎いたり、怨んだりしてはいけない、と言っているのです。
自分の事でも思う通りにはならないのです。自分以外のことなら、なおさらでしょう。それを心得ていれば、財産を無くしたとしても、お子さんが親の思う通りにならなかったとしても、腹を立てたり、歎いたりすることはないのです。」
「そうですね。親の思うとおりになってくれなくても、本人が納得していればいいんですよね。本人の人生なんですから。」
「そうなんですよ。親は寂しいと思うかもしれませんが、それでいいのです。親にできることは、子供達を正しく育てることなのです。そして、子供達が正しく生きれるよう、応援してあげることなのです。」
そこに集まった人々は、誰もがあらためて子育てを考えなおしたのであった。


最近、よく子供の虐待の事件を耳にします。たいていは若い父親や母親が、「泣き止まなかった」とか「言うことを聞かなかった」という理由で、小さなお子さんに暴力を振るってしまうようです。それも日常的に。最悪の場合、それは死に至ってしまいます。
お子さんを育てたことがある方は、おわかりかと思いますが、小さな子供は、親の思うようには振る舞ってはくれません。否、親の都合にあわせて行動はしてくれないのです。子供と言うものは、そういうものです。
子供が成長するに連れて、親は妙な期待をかけてしまいます。よい成績、よい学校、よい就職。あるいは、跡を継いで欲しい、という望みを持ったり・・・・・。
ところが、なかなか親の言う通りにはいきません。上がらない成績、親の焦りをよそに涼しい顔・・・・。そういう話はよくあることです。あるいは、学校や就職は親の望み通りに行ってくれたのに、嫁に行ってくれないとか、結婚相手が気にいらないとか、同居を望んでいたのに別居になたっとか・・・・・。とかくうまく行かないもんですね。思うようにはならないものです。

そりゃ、そうでしょう。子供にも意思というものがあります。そのお子さんの性格もあるのだし、才能もあるのだか。個性があるのですから、その個性を無視して、親の思う通りにしよう、などと思う方が間違っているのです。思うようにならなくて、当たり前なんですね。
だからと言って、子育てを放棄していい、と言っているのではないのですよ。親は子供を正しく、常識ある一人の人間に育てる義務があります。その義務が守れないになら、子供を持ってはいけませんよね。子供は、自分のために育てるものではないのです。

世の中は、何事も自分の思う通りには行かないものです。思う通りに行かないことのほうが多いのです。そう納得していれば、何が起きても焦りはしないし、腹も立たないし、ましてや、幼児虐待など起こらないでしょう。
ただ、思う通りにならない世の中だからといって、何もかもあきらめてしまってはいけません。思うようにならない世の中で、少しでも快適に、過ごしやすく、幸せに生きる努力は怠ってはいけないのです。努力はするけど、頭の隅には「思う通りにはならないのは世の常」ということを入れておいて欲しいのです。
それが、幸せになるコツなのではないでしょうか。合掌。




第15回
自分の責任を棚上げし、
何事も他者の影響や運のなさなどに、責任を転嫁するものは
成長は望めないし、不運を味わう者となる。

とあるコンビニ前で・・・・・。
「まったく・・・・どうしてなんだろう。俺達、何をやってもうまくいかない。運が悪いのかな。」
「そうじゃないさ。世の中がおかしいのさ。俺達は悪くない。こうなったのも、オヤジやオフクロのせいさ。」
「そうだよ。俺達が悪いんじゃない。社会が悪いんだよ。エラソーなことばっかりいっている大人がいけないんだ。」
「そうそう。ちょっとくらい仕事ができないからってサ、あんなに怒ることはねぇよな。いちいち怒鳴るなってぇの。ちぇっ、ついてねぇよな。」
「あーあ、つまんねぇの。何か面白いことねぇーかー。」


ある家庭内で・・・・。
「どうして、起してくれなかったの!。今日も遅刻じゃん。お母さんのせいだからね!。」
「なんだってあんたは、そうやって人のせいにするの!。お母さんだって、忙しいんだから。だいたい、お父さんが、早く起きてくれないからいけないのよ。」


ある会社にて・・・・。
「君のせいで、部長にまた怒られてしまったぞ。いったい、君はどう思っているんだ。だいたい、君は何度言っても仕事ができない。責任を取ってもらうからね。」
「(また、課長が人のせいにしているよ。失敗事は何でも人のせいにするからな。もう、いい加減うんざりだ。あぁあ、ついてねぇなぁ。こんな上司の下で働くなんてさ。バカ課長め)。はい、でも、私の責任じゃないですよ。担当の経理の子のミスですから。(まったく、あの子がいけないんだよな。こんな単純ミスするなってぇの。OLはこれだからな。使えないよなぁ・・・・・。)。私のほうから、よく注意しておきます。」


ある大学の実験室にて・・・・。
「また、失敗だよ。これじゃあ、データとれないぞ。だいたい、お前がつまらないミスするから、いけないんだ。お前のせいだぞ。」
「何いってんだよ。お前の計算ミスだろうが。それよりも、この実験設備が古すぎるんだよ。最新のものに変えて欲しいよな。」
「おう、そうだよな。設備がわりぃんだよな。あー、やる気なくすね。今日は、やめようぜ。」
「そうだな。また、明日やり直せばいいや。」


ある国のある日の国会にて・・・・。
「ですから、それは、私は知らないことです。秘書がやったことですから。そう、秘書がやったんです。」
「そうやって、何でも秘書のせいにしているんじゃないですか。」
「(何いってるんだ、コイツ。お前だって、裏で何やっているか知れたもんじゃないくせに。たまたま、俺が運が悪かっただけさ。くっそ、ついてない。誰だ、俺を嵌めたヤツは。)。いいや、違います。すべて秘書が単独でやったんです。」


ある学校にて・・・・。
「てめぇ、何でセンコーにチクルんだよ。てめぇーのせいで、呼び出しだよ。」
「お、俺じゃないよ。コイツだよ。」
「な、何言ってんだよ。俺じゃないよ。お前、人のせいにするなよ。お前がチクッたんじゃん。」
「うるせーんだよ。どっちにしろ、てめぇーらが悪いんだよ。くっそ!」


ある家庭のある部屋にて・・・・。
「お母さんが悪いんだ。僕が外に出られないのは、お母さんが悪いんだ。お母さんが、僕をこんな風にしてしまたんだ。」
「何言ってるのよ。私は、あなたのいうことを何でも聞いてきましたよ。あなたが、勝手に引きこもっているんでしょ。いいえ、お父さんよ。お父さんが、ちゃんと怒ってくれないから、甘えん坊になってしまったのよ。お父さんが悪いんだわ。」
「くだらない事をいうな。だいたい、教育は、お前に任せてあっただろう。お前が悪いんじゃないか。お前のせいだ。ワシは知らん。」


あるグラウンドにて・・・・。
「お前があそこでエラーするからいけないんだ。だから、負けたんだよ。」
「何言ってるんだよ。エラーはしたけど、そのあと、お前がちゃんと抑えれば、点は取られなかったんだよ。お前が、バカスカ打たれるからいけないんだよ。」
「お前がエラーさえしなきゃ、打たれなかったんだよ。お前が悪いんだ。」
「はっ!、へたくそ同士が、責任の押し付け合いか。みっともないね。へたくそなんだから、もっと練習しろよ。」
「なんだと。だいたい、お前らだって、三振ばっかりしているから、点が取れないんだ。少しは打ってもらいたいね。へたくそ!。」


ある路上にて・・・・。
「あんたがぶつかってきたんでしょ。あんたがへたくそなのよ。あんたのせいよ。どうしてくれるのよ。」
「何だと。そっちがよそ見運転しているからいけないんじゃないか。だいたい、オバサンは運転がトロイんだよ。へたくそなくせして運転するな。車、弁償してもらうからね。」
「何言ってるのよ。よそ見してたのは、あんたでしょ。弁償してもらうのは、こっちのほうよ。まったく、ひとのせいにするんじゃないわよ。」


ある占い師の館にて・・・。
「あなたの運が悪いのは、あなたを呪っている方がいるからですよ。」
「やっぱりそうですか。アイツだわ、きっと。アイツのせいで、私が不幸なんだわ。」
「そう、すべては、その男が不幸の原因よ。では、お祓いしましょうね。」



お釈迦様の法話会にて・・・・。
「よいですか、みなさん。これが、二千五百年後の未来の、ある国の様子です。さて、皆さん、これを見てどう思いますか。」
「こ、これが、二千五百年後の未来なのですか?。なんと言うことでしょうか・・・。こんな国が本当にあるのですか。」
「なんと言うことだ・・・・・。今も未来も、少しも変わっていないじゃないですか。人間は、進歩していないのでしょうか。」
「いや、今よりもひどくなっているぞ。言葉遣いもそうだが、この者たちは、何でも人のせいや、周りのせいにしている。自己反省が一つも無い。」
「自分の非をまったく認めようとしないとは・・・・。なんと言う愚かしいことか。」
「その通りですね。未来のこのある国の人々は、己の非を認めようとせず、他人に責任を押し付けようとしています。それができない時は、単に運が悪いせいだとか、環境が悪いとか、周りの状況にその責任を押し付けようとします。たいへん愚かな人々としか言いようがありません。
みなさんは、この国の人々のように、自分の非を認めず、自分の力量不足を認めず、自分の努力の足りなさを認めず、他人に責任を押し付けているような者になってはいけません。ましてや、自分で為した悪事を部下などに押し付けるなどとは、人として最低のことです。
よいですか。皆さんは、こんな人間にならないように、自分に非が無いかどうかということを、よく反省し、あればその非を素直に認め、改善していくことを忘れないようにして下さい。そうしなければ、進歩はありえませんし、不幸を味わうこととなります。未来のこの国の人々のように・・・・・。」


ありゃー、お釈迦様の法話の、いい材料になっているようですね、今の日本人は・・・・。あ、でも、こう言う人たちは、ほんの一部だということをお釈迦様に伝えなければ・・・・。
えっ?、そうでもないって?。日常、だれでもこういうことはあるって?。
はぁ、そういえば、そのようですね・・・・。こういう話、よく聞きますし、よく見ますからねぇ・・・・。
これは、反省しないといけません。いつの間にか、自分自身も他人に責任を押し付けているかも知れませんからね。気をつけましょうね。合掌。
(もちろん、この話はお経には載っていません。フィクションです。合掌。)





第16回
自分が犯した過ちや罪を認めないもの、
犯した罪を謝っているのに、それを許さないもの、
これらの者は、ともに愚か者といわれる。
祇園精舎にほど近い、とある民家の前で二人の男が言い争っていた。
「お前がやったんだろ。お前が、この壷を壊したんだろ。」
「いや、オレじゃない。オレは、たまたまここを通りかかっただけだ。」
「嘘をつくな。素直に言えよ。お前がやったんだろ。」
「ふん、知らないな。オレがやったという証拠でもあるのか。証拠も無いのに、いい加減なことを言うなよ。」
「だけど、この壷が割れる音がした時、ここにいたのはお前だけじゃないか。じゃあ、誰がやったというんだ。お前はすぐ近くにいたんだから、この壷を割った犯人を見たはずだ。誰がやったんだ。」
「さぁ・・・・。オレは知らないね。その壷が勝手に割れたんじゃないのか・・・。それに、そんなに大事な壷なら、外へ置いておくなよ。外に置いておいた、お前の方が悪いんじゃないのか。」
「な、なんだ、その言いぐさは。これは、外で使うための壷なんだ。だから、丈夫にできているんだよ。そんな壷が勝手に割れるわけないじゃないか。」
「そうかな。お釈迦様だって言っているぞ。この世にあるものは何でも、いつまでも同じ状態にない、いずれは滅ぶものだって。この壷も、その滅ぶ時が来たんじゃないのか。寿命だよ。寿命。」
「そんなはずは・・・・。この壷は、そんなに古くないはずだが・・・。」
「はっ!、そりゃ、騙されたんだな。古い壷を売りつけられたのさ。」
「そうかなぁ・・・・。そうとは、思えないが・・・・。本当にお前が割ったんじゃないんだな。」
「しつこいなぁ。オレじゃないって。」
「信じていいんだな。」
「もちろんだ。(しめしめ・・・・。こいつは、バカだ。オレの言ってることを真に受けてやがる。やばかったなぁ。まさか、ちょっと、叩いただけで、割れるとは思わなかったもんな・・・・。何とかごまかせた。よかったよ・・・・・。)」
「じゃあ、なんで割れたんだろうか。本当に寿命だったのかな・・・・。」
「そうさ、そうだよ。(そんなわけないだろ。くっくっく・・・・。さ、バレないうちに退散するかな・・・・。)
じゃあ、オレは、そろそろ行くからな。オレもヒマじゃないし。」
そう言って、疑われていた男は、その場を去ろうとした。

その時である。祇園精舎のほうから声が聞こえてきた。
「自分の犯した過ちを 素直に認めぬ悪い者
自分の犯した過ちを ごまかすために うそをつく。
過ちの上に うその罪。
うまく行ったと思っても いつかは真実わかるもの。
うそがバレたその時は、親しき友もいなくなる。
あの時、素直に認めていれば、辛い思いはせぬものを。
後悔しても、もう遅い。愚かな者のたどる道・・・・。」、

「あ、あの声は・・・・。お釈迦様じゃないのか。この詩は・・・・。」
壷を割られた男がそうつぶやいた。そのお釈迦様の詩を聞いて、その場を立ち去ろうとしていた男の顔色が、見る見るうちに変わっていった。
「あっ、お前、まさか・・・。」
「す、すまん。悪かった。じ、実は・・・・。実は、オレが壊したんだ。わざとじゃないんだ。ちょっと、叩いてみたら、割れてしまったんだ。申し訳ない。うそをついて悪かった。ちゃんと、弁償するから、許してくれ。」
壷を割った男は、その場で土下座して謝りだした。
「何言ってるんだ。今更、謝ってももう遅いぞ。お釈迦様の詩が聞こえてこなけりゃ、ごまかすつもりだったんだろ。そんなの許せるか!。弁償してもらったって、絶対許さないからな。」
「うっ・・・・。そりゃ、そうかもしれないが・・・。今は、後悔してるんだ。お釈迦様の詩で、自分の愚かさに気付いたんだ。もうウソはつかない。だから・・・・。すまなかった。許してくれ・・・。」
「いいや、許さない。覚悟しやがれ。お前は大嘘つきだ。もう、何を言っても信じられない。お前なんか、村にいられなくしてやる。」
「そ、そんなぁ・・・・。オレが悪かったよ。謝っているじゃないか。弁償もするし。嘘をついたことも、後悔している。なぁ、頼むよ。許してくれよ。」
壷を割った男は、土下座をして、涙ながらに許しを請うた。しかし、壷の持ち主の男は、怒りに顔をゆがませながら言った。
「いいや、ダメだ!。村の長老に言って、お前をこの村から追い出してやる。いいか、ここで待ってろ。逃げ出そうものなら、その時は、袋叩きにしてやるからな!。いいか、待ってろよ。」
そういい捨てて、壷の持ち主の男は、村の長老のところへ向おうとした。

その時である。また、祇園精舎のほうから、詩が聞こえてきたのである。
「謝っているものを 許そうとしないのは 愚か者。
怒りに 心を もやす者
怒りで 心を 満たす者
汝の心は 醜きものなり
怒りの炎は 人の命までも奪うもの
いつまでも しつこく怒るな ののしるな
怒りの炎は やがて 自身を燃やすだろう
許しを請うものを 心鎮めて許す者
汝は 祝福される者となる・・・・」

「お、お釈迦様の声だ・・・・。そ、そうか。今度は、俺のほうだ。そうだな。怒りすぎだな。ちょっと、怒りすぎたようだ。悪かった。お前が、こんなにも謝っているのにな。それを許そうともしないで、村を追い出すなんて・・・・。俺も大人気なかったよ。さぁ、もういいから、立ってくれ。」
「オ、オレを許してくれるのか。」
「あぁ、もういいよ。あっ、弁償はしてもらうけどな。はっはっは・・・。」
「も、もちろんさ。ちゃんと弁償するよ。許してくれてありがとう。本当にすまなかった。」
「そうだ。二人でお釈迦様の所へ行かないか。こうして笑いあえるのもお釈迦様のおかげだ。お釈迦様の詩のおかげで、俺たちは、愚か者にならずに済んだのだから。」
「あぁ、そうだな。お釈迦様にお礼を言いに行こう。」
こうして、二人の男たちは、祇園精舎のお釈迦様のところへ向ったのである。


素直に謝れないことって、ありませんか?。悪い、とわかっていても、何だか素直になれなくて、ゴメン、の一言が言えない。照れくさいって言うこともあるけど、そうじゃなくて、「こんなヤツに謝れるか」と意地を張る場合もありますよね。
素直に謝ってしまえば、過ちを認めてしまえば、人間関係がギクシャクすることはないのですが・・・・。どうも素直になれない。愚か者ですね・・・・。
「あの時、謝っておけばよかった・・・・。」
などという後悔はしないほうがいいようです。悪い、と思ったら、謝ってしまったほうが、自分のためにも周りのためにもいいようです・・・・。

カップルの間とか、夫婦間とか、親子の間、会社の人間関係などで、素直に謝れない、というのは、まだかわいげがあるかもしれませんが(そうでも無い場合もありますが・・・)、犯罪を犯しておいて、認めないのはよくないですよね。愚か者どころか、そういうヤカラは「救いようのないもの」、になってしまいます。国のお偉いさんにも、そういう方がいるようで・・・・?。
大なり小なり、過ちや罪を犯している方は、素直に謝ってしまいましょう。この際ね。

素直に謝っているのもを、あっさりと許せない、というのも人情でして・・・・。なかなか許せないとは思います。しかし、いつまでも怒っているのも愚かしいことでして・・・・。
しつこく矛を振り上げていないで、矛を引っ込めるタイミングは、逃がさないようにしたほうがいいと思いますね。怒りまくっている姿っていうのは、あまり美しいものではありませんし。

いつまでも怒っていると、いつの間にか、それが怨みに変わっていってしまいます。怨み続けていると、それは、いつの間にか、心を蝕んでいきます。
絶対に許せないことをされたと言えども、いつまでもそのことにこだわっているのは、どうでしょうか。いつかは、忘れなければいけない時がくるものではないのでしょうか。
夜叉の心を持ち続けるより、慈悲の心を持ったほうがいいのではないでしょうか。いつまでも怒り続け、恨みつづけていると、そのうちに己自身が、その怒りの原因を作ったものよりも、愚かなものになってしまいます。人間の心を忘れてしまいます。それは、不幸なことではないでしょうか。
腹が立つこともありましょう。許せないこともありましょう。しかし、いつまでもそれにこだわり続けないようにしたほうがいいと思います。

謝る者も 許す者も 菩薩顔・・・・・合掌。





第17回
他人に頭を下げることができず、他人の意見を聞かず、
自分を省みることなく、自惚れているもの。
そういうものには、安らぎはない。
お釈迦様の高弟のサーリープトラが、マガダ国の街を托鉢している時のことだった。商店街の方から、罵声が聞こえてきた。
「また、お前か。何度言ったらわかるんだ。いい加減にこの仕事になれてくれよ。仕方がないから、雇っているんだぞ。わかってるのか。」
「うっ、うぅぅ。」
(くっそ〜、なんで俺がこんな仕事を・・・・・。俺には、実力があるのに。俺には、こんな仕事は向いていないんだ。なんで、この俺が頭を下げなきゃいけないんだ。くっそ〜。俺は、お前なんかよりも考えていることがすごいんだぞ。俺のほうが実力があるんだ。こんな店、俺が切り盛りすりゃあ、もっと繁盛するのに。怒られてまで、こんな仕事なんかできるか。辞めてやる。)
「どうなんだ。辞めてもらってもいいのだぞ。人手はいくらでもあるんだから。」
怒られていた男は、下を向いているだけだった。
(俺には、実力がある。俺には、こんな仕事は向いていないんだ。そんな俺が、こんな下働きするなんて・・・・。この店主には見る目がないんだ。こんな店、辞めてやる。俺が辞めたら、こんな店、あっという間に潰れるさ。)
「どうなんだ。辞めるのか。それとも、一から出直すか。どうするんだ?。」
「ふん、こんな店辞めてやる。俺にはな、実力があるんだ。なんで、その俺が、へいこら頭を下げなきゃいけないんだ。こんな下働きじゃなく、もっと、人を使える仕事をさせてくれりゃ、この店をもっと繁盛させてやるのに。惜しいねぇ。あんたは、見る目がないんだ。こんな店辞めるよ。ふん、こんな店、そのうち潰れるさ!。」
そう言って、その男はその店を辞めて出て行ってしまった。

その男は、町の中をブラブラし始めた。どうやら、仕事を探しているようだった。サーリープトラは、その男がどうするのかが心配で、その男のあとを、そうっと着いて行くことにした。もし、誰も雇ってくれるところがなかったら、声を掛けてみようと思っていたのだった。

何軒お店を尋ね歩いても、誰もその男を雇うところはなかった。さすがに、その男も元気がなくなり、町の片隅の木の下で座り込んでしまった。
「大丈夫ですか。元気がないようですが。いったい、どうされたのですか?。よかったら、お話してみませんか。」
「はん、修行者か。お前らに俺のことがわかるか。お前らに話す事なんかない。帰れ。」
「おやおや。そんなに冷たくしなくてもいいではないですか。」
「うるせぇなぁ。あんたらに言ってもわからないだろ。どうにもならないし。」
「実力があるのに、誰もそれを理解してくれないし、誰も雇ってくれない。そうではないですか?。」
「な、なんでそれを・・・。まあ、いいや。その通りさ。だから、あんたに言ってもどうにもならないの。わかったかい。わかったなら、さっさと行けよ。」
「まあ、まあ。あなたに実力があるのかどうかは、私にはわかりませんが、いくら実力があっても、いきなりあなたの望むような仕事をするのは、なかなか難しいこととは思いませんか。」
「俺の望むような仕事?。お前にわかるのか、俺がどんな仕事を望んでいるのか。」
「えぇ、わかりますよ。あなたは、商売の店を一軒任せてもらいたいんでしょ?。あなたが、お店の主となって、商売を任せてもらいたい、そうですよね。」
「そう!、そうなんだよ。あんたよくわかってるじゃないか。あんた、さすが出家者だな。だけど、誰もわかってくれないんだ。」
「そうですねぇ。そりゃ、難しいでしょう。」
「なんでだ。なんで、難しいんだ。」
「だって、あなたのことを雇い主はわからないんですよ。あなたに本当に実力があるのかどうか、わからないでしょ。だから、まずはあなたに実力があるかどうかを雇い主に認めてもらわないといけないのではないでしょうか。それには、我慢することも必要なのではないですか?。こつこつと努力することも大事じゃないですか。下働きをすることも、いずれ人を雇う身になったとき、役に立つのではないですか?。」
「俺に実力があるかどうか見抜けない店主なら間抜けだね。下働きなんて、俺の場合、必要ないさ。そんな、コツコツ努力するなんて、俺には関係なんだよ。お店を任せてくれればいい、それだけさ。」
「そんな簡単には、いかないでしょう、世の中は。信用は、初めからあるのではなくて、コツコツと積み上げていくものではないでしょうか。」
「あー、そういうのは、無駄っていうんだぜ。無駄なの。みんな無駄なことをしてるよな。もういいから、あっちへ行けよ。」
結局、サーリープトラの意見は、聞いてもらえなかった。仕方がなく、サーリープトラは、その場を去っていった。

それから、何日かたったある日のこと、ある大きなお店を経営している店主が、その男をある町の出店の店主として雇うことにした。たまたま、サーリープトラがその町を托鉢に通った。
「おや、あんた、いつかの修行者じゃないか。」
「あぁ、あなたは、あの時の・・・・。これは、あなたのお店ですか?。」
「あぁ、そうさ。ま、雇われだけどね。そのうちに、この店を大きくして、俺のものにして見せるさ。はっはっは・・・・。」
しかし、その店は大きくはならなかった。それどころか、「店主が威張っている」、「店主と客のケンカや言い争いが多い」などという評判がたってしまい、客足が途絶えて、ついにその店は潰れてしまった。

「だから、あれだけ言ったじゃないか。お前は、ワシの意見をちっとも聞き入れず、『俺に任せてくれればいい』とばかり言っていたが、その結果がこれだ。どうしてくれるんだ。」
「俺のせいじゃないさ。客が悪いんだ。」
「なんだと、まだそんなことを言うのか。いいか、うちの店が蒙った損害は、キッチリ払ってもらうからな。」
「ふん、くっそ〜。あんたが、俺に店を任せるからいけないんだろ。あんたの見る眼がなかったんだ。俺を雇わなければ、よかったのさ。」
「なんだと、本気でそんなことを言っているのか。仕事がない、というから雇ってやったのに・・・・。その恩を感じもしないというのか・・・・・。恩知らずなやつめ・・・・。こんなヤツを雇ったなんて、ワシも見る目がなかった。もういい、どこへでも行け!。もう二度と見たくない。」
こうして、その男は、放り出されてしまったのだった。

外では、サーリープトラが待っていた。
「やっぱりダメでしたね。他人の意見はよく聞いておいた方がいいですよ。それに、もう少し、自分を省みたらどうですか。自惚れが過ぎるもの、身を滅ぼしますよ。」
「う、うるせぇ!。俺が悪いんじゃない。どっかへ行け。お前らに何がわかる。」
「まあ、いいです。もし、あなたが心を入れ替えて、今後どうすればいいか、自分のどこが悪かったかを知りたいのならば、竹林精舎にいるお釈迦様のところを訪ねるといいでしょう。では、お元気で・・・。」
サーリープトラは、そういい残すと、竹林精舎に向って歩き出したのであった。

精舎に戻ると、サーリープトラは、その男に関することを一部始終、お釈迦様とその周りにいた弟子達の前で話したのであった。すると、その話を聞いた弟子の一人が、サーリープトラに問い詰めた。
「サーリープトラ尊者。尊者ともあろうお方が、その男を諭さず、見捨てたのですか。そんなことが許されてよいのでしょうか。」
「そうだ、そうだ。尊者の対応は、あまりにも冷たい。ひどい仕打ちだ。」
お釈迦様の周りに集った弟子達が、口々にサーリープトラのことを非難し始めた時、お釈迦様が口を開いた。
「そんなことはないのだよ。サーリープトラがとった行動は、一番よい方法なのだ。」
「どういうことですか。」
「サーリープトラは、その男に何度も忠告をしました。しかし、その男は、それを聞き入れようとはしませんでした。それどころか、自分には実力がある、と自惚れていました。自惚れが強く、結局、失敗をしても、その責任を他人のせいにしています。自分の非を認めない、他人に頭を下げることもできない、忠告や助言を聞き入れようともしない、ただただ、自惚れている。そういうものは、いつまでたっても安心がない。何度、忠告をしても聞き入れられなければ、放っておくしかないのです。こういうものを増上慢(ぞうじょうまん)といい、あなたたち修行者が最も避けるべき者なのです。
サーリープトラは、そんな男を見捨てずに、ここ竹林精舎へ来ることを勧めておきました。これ以上の対処の仕方はないでしょう。サーリープトラだったからこそ、このような対処ができたのでしょう。他のものならば、怒りに心が奪われてしまったことでしょう。
皆さんも、増上慢には、くれぐれも注意することです。そして、あなたたち自身も、増上慢にならないように、注意してください。」
「は、はい。そうです。その通りです。きっと、私たちなら、その男に罵声を浴びせていたかも知れません。きっと、冷静には対応できなかったことでしょう。サーリープトラ尊者、申し訳ないことを言ってしまった。許して下さい。」
そこにいた弟子達は、サーリープトラに謝ると、彼を見習い、さらに修行に励むことを誓ったのであった・・・・。


あなたの周りには、他の人に頭を下げることが嫌いで、文句ばかり言い、他人のアドバイスには耳を貸さず、自惚れの強い、そんな人はいるでしょうか。
会社内などで、最も困るのは、実力がないくせに自分はできる、と思い込んでいる人でしょう。悪いのは自分じゃなく周りのせい、と平気で言ってのけれるような、そんな人間でしょう。こういう方は、始末に悪いもんです。

最近の若者にも、こう言う人が増えているような気がしますが、そう思いませんか?。アドバイスを聞くどころか、「私の勝手でしょ」の一言で終わってしまう。他人に頭を下げるなんて、とんでもない、もちろんコツコツ努力なんて絶対しない、その日その日を好き勝手に生きている。
世の中甘くないですから、そんな生活をしていれば、行き詰まるに決まっているのですが、そうなったらそれは、自分のせいではなく、他人のせいにする。
そんな人、あなたの周りにいませんか?。もしいるのなら、そう言う人は放っておいたほうがいいでしょう。そう言う人に関わってると、ストレスが溜まるだけですからね。

いやいや、周りの人間だけでなく、あなた自身はどうでしょうか。妙な自惚れ、持ってませんか?。俺はモテるとか、実力があるとか、私ほど可愛い女はいない、とか・・・・。知らない間に自惚れが強くなり、高慢になったりしてないでしょうか。
増上慢には、誰でもがなりやすいものです。たまには自分を省みないと、いけないですよね。増上慢にならないように・・・・。

そうそう、あなたの周りにいる、厚顔無恥で自分勝手な増上慢に、アドバイスしたり、忠告したりするのなら、三度までにしておきましょう。三度、忠告しても聞き入れられなかったなら、もう仕方がありません。気が付くまで放っておきましょう。一生気付かなかったら、それも仕方がないこと。それがその人、そのものなのですからね。
なぜ、三度かって?。そりゃあ、やっぱり「仏の顔も三度まで」ですからね。合掌。



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