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第18回
目先の欲にとらわれると、正しい判断ができなくなる。
そして、それが大きな失敗や損失を生むのである。
ある日のこと、バーラーナシーの街はずれの精舎で、お釈迦様が、多くの人々に話をしていた。その話とは・・・・。

コーサラ国の都サ−バッティは、大変大きな街であった。街には、様々な商人達が集まり、にぎやかな市場が開かれていた。中でも、街の中心には、大きな商店が軒を連ねていた。食料品を売る店、衣料品を売る店、生活用品を売る店、飲食店などで、大賑わいであった。大きな店は、一流の品を揃えており、訪れる客も、身分の高い者だけであった。一般庶民は、街外れの小さな出店を利用していた。

飲食店クンバーダは、サーバッティの中心地にあり、王族や武家、バラモンたちがよく利用する、高級飲食店であった。毎日のように、多くの客で店内は賑わっていた。
ある日のことである。店じまいをして、一日の売上を計算していた店主のクンバーは、ニヤニヤしながら、妻と話をしていた。
「今日も一日、大入り満員だったなぁ。商売繁盛で結構なことだ。」
「そうだねぇ。でも、あんた、喜んでばかりいちゃいけないよ。客は入っているけど、儲けはどうなのさ。ちゃんと儲かっているのかい。」
「儲けか・・・・。まあ、そこそこあるさ。今の店を維持して、結構贅沢な暮らしをできるくらいの利益は生んでいる。お前だって、好きなものを買っているじゃないか。」
「あら、なにいってるんだよ。あたしゃ、これでも欲しいものを我慢しているんだよ。あんたみたいに、遊んでないさ。あーあ、わたしももっと贅沢がしたいねぇ。あんた、もっと利益が出るようにしなよ。」
「おいおい、そんなことを言ったって、なかなか難しいんだぞ。王族達は、贅沢な食材に慣れているからな。うちも、山海の珍味を多く仕入れなきゃならん。これに費用がかかるんだ。儲けを増やすことは、難しいよ。」
「何いってるんだい。あんた、頭を使いなよ。いいかい、その贅沢な食材の四割は捨てているんじゃないのかい。腐ったりしてね。それを使えば、もっと儲けが出るのに。あんたは、細か過ぎるのさ。神経質なんだよ。捨てなくていいものまで、捨てちまうからね。」
「どういうことなんだ。」
「だからさ、まだ腐りかけの食材なら、使ってしまえばいいのさ。」
「馬鹿な事を言うな。うちの店は、新鮮なものをおいしく食べられる、というのが売りなんだぞ。そんなことをしたら、客が離れていってしまう。」
「そうかねぇ・・・。いいかい、店で出している料理は、みんな調理しているじゃないか。味付けしてさ。なら、味なんて、誤魔化せるんじゃないのかい。」
「何をお前は・・・・。もし、客が食中りでも起こしたらどうするんだ。うちの客は、王族や金持ちの商人、バラモンなんだぞ。もし、客が食中りにでもなったら、俺たちは殺されちまう。」
「そんなことを言っているから、あんたは出世しないんだよ。さっきわたしが言ったじゃないか。料理は、みんな調理しているんだろ、って。火を通しているんだろ。なら大丈夫だよ。食中りなんてならないさ。」
「そうかなぁ・・・・。でも、味が落ちるんじゃないか。」
「だからさ、味付けで誤魔化せる、っていってるじゃないか。それに、客の連中だって、本当の味なんてわかってやしないさ。誰も、味なんてわかっていないよ。わかった振りをしているだけなのさ。味なんてわかってないくせに、ここのは美味しい、とか、言っているだけさ。評判で決めているだけだよ。店の大きさとか、造りとかでね。
ねぇ・・・、そう思わないかい。今、捨ててしまっている食材の半分くらいは、完全に腐っていないものだろう。それなら、使っても平気だよ。完全に腐ったものはダメだけどね。
そうすりゃ、もっと利益が出るよ。店ももっと大きくできるし、住まいももっと綺麗にできる。わたしの着る物だって・・・。あんただって、もっと遊べるようになるんじゃないのかい。」
「そりゃ、まあ、そうだが・・・・。そうだなぁ・・・。確かに、捨ててしまっている食材の中には、まだ食べられそうなものがあることはある。」
「そうだろ。なら、大丈夫じゃないか。」
「そうだな。それを使えば、利益はまだまだ生まれるなぁ・・・・。よし、そうするか。店員達には口止めをしておかないとな・・・。」
「内緒でやればいいのさ。店員の知らないところでね。調理するのはあんたじゃないか。」
「そうだな。よし、明日からそうしよう。」
夫婦の相談は、こうしてまとまったのであった。

翌日から、クンバーは、妻に言われた通り、今まで捨てていた食材も使って料理を出すようになった。とは言え、まだ不安があったので、捨てるような食材を使うことは、なるべく避けてはいた。少しずつ使って、様子を見ることにした。クンバーは、慎重な性格だったのである。

一週間が過ぎても、食材の変化に気付くような客は一人もいなかったし、食中りを起こすような客もいなかった。妻は、誇らしげにクンバーに言った。
「ほら、ごらん。わたしの言った通りさ。これなら、もう少し捨てる食材を混ぜても大丈夫だね。一人の客の料理に出すんじゃくて、なるべく大勢の客に均等に入れてしまえば、目立たないさ。」
その言葉にそそのかされ、クンバーは、不安を抱えつつも、妻の助言に従った。

食材に無駄が出なくなったおかげで、利益はどんどん上がっていった。クンバー夫婦は、ますます贅沢になっていった。
しかし、悪事はいつかはバレるものである。ある日のことだった。客に異変が現れたのである。
「おい、なんだこの肉は。味がおかしいぞ。それに、うぅ・・・、なんだか、腹が痛くなってきた。おい、店主を呼べ。いったい、何を食べさせた・・・・・。うぅ、腹が痛い・・・・。店主を呼べ!」
その日、クンバーの店で食事をしたものは、皆、腹痛を起してしまったのである。
この事件がきっかけで、「クンバーの店は、腐ったものを食べさせる」という評判がたってしまった。こうなると、店はもうお終いだった。その上、クンバー夫婦は、捕らわれてしまい、牢獄へ送られることとなってしまったのである・・・・・。

さて、皆さん、この話で、何が大事なことかわかりますか。こんなバカなことは誰もしない、などと思ってはいけませんよ。こんなバカなことを、多くの人々が行ってきたし、また、今も行っているだろうし、これからも行っていくでしょう。自分の身に置き換えて、話の内容を考えて見て下さい。

クンバーは、妻にそそのかされ、ついつい、欲に目がくらんでしまった。冷静に考えれば、やっていいことか悪いことか、すぐにわかるはずなのに、クンバーは、欲望で正しい判断ができなくなってしまったのです。諭すべきは、妻の考え方であったのに。
欲のため、誤った判断をした代償は、あまりにも大きなものでした。欲は、身を滅ぼすものです。みなさんも、欲を慎んで、生活してください。
大切なことは、これで充分だ、という満足を知ることです。欲は、恐ろしいものです・・・・。

そこにいた人々は、クンバーの愚かさを笑ってはいられない、という顔をして、お釈迦様の話を聞いていたのであった・・・・・。


この話、途中まで読み進めば、先がわかると思います。話の途中で、「こんなバカなことやるヤツいない」と思われた方、それは間違っています。
話の途中で、「日本でも似たようなことやってるよな。しかも、大きな企業が・・・。」と思われた方、正解です。今でも、この話のクンバーとそっくりなことをやっている愚か者がいるんですよね。皆さんも、新聞やニュースで、よぉーくご存知でしょう。ですから、くだらない小さな欲にこだわって、大きな利益を失った、その愚かな者については、ここではあえて指摘しません。わかりますよね、誰が愚か者なのか。

人は、欲の虜になってしまうと、正しい判断が鈍ってしまいます。例えば、恋愛。相手のことを好きになってしまうと、相手の本当の姿が見えなくなってしまいますよね。だから、結婚してから、「こんな人とは知らなかった!」となってしまうのです。好きで好きでどうしようもない時は、親や友人のアドバイスには耳を貸しませんしね。好きになって、相手に夢中になってしまうことは、わかります。私にも経験がありますからね(はるか昔に・・・。)。しかし、やはり、アドバイスには耳を貸したほうがいいでしょう。他人は、「好き」という気持ちがないので、目が曇っていませんから、恋愛相手のことを冷静に見ています。(中には、感情的になり、ただ嫌い、と判断する親達もいますが、これは論外ですね。)。特に親しい友人は、よく見ていることでしょう。ですから、他からのアドバイスは聞いておいた方がいいのですよ。

あの肉の事件だって、「そんな小さな利益を追うより、もっと他に利益のあげ方があるんじゃないか。ばれた時、信用を無くすよ。」とアドバイスした方はいなかったのでしょうかねぇ。それを聞き入れたかどうかはしりませんが・・・・。

欲にとらわれると、正しい判断ができなくなります。大事なことを決める時は、冷静な判断ができる方から、アドバイスをもらうといいでしょうね。失敗してからでは遅いですからね・・・・。合掌。




第19回
誰にでも、どうしても乗り越えなければならないことがある。
それを避けて生きるか、克服するかが大きな分かれ目なのだ。
お釈迦様が、竹林精舎を散策していた時のことである。夕暮れの竹林精舎の中に、見知らぬ男性が一人たたずんでいた。
「どうかされたのですか。」
お釈迦様が、その男に声をかけた。
「いや、別に、その・・・・・。何でもないんです。」
「何でもなくはないでしょう。あなたは、死に場所を探しているのではないですか。よろしければ、お話を聞きますよ。そのためにここに来たのでしょ。」
「は、はい、実は・・・・。そうです。ここを歩いていれば、お釈迦様にお会いできるかと思いまして・・・・。もし、お会いできなければ、この先の川に飛び込めば・・・・と。」
「さぁ、何も遠慮することはありません。お話しなさい。」
「はい。私は、マガダ国の城下町で商売をしていたのです。私は、どちらかと言うと、手堅く商売をする方でした。ですので、そんなには大きな店ではありませんでしたが、まあ生活に困ることはないし、それどころか裕福な方でした。家族に金で苦労させたこともあまりありません。しかし・・・・。私が甘かったのでしょう。詐欺にあいまして・・・・・。店を大きくするいい機会だと思ったのです。ところが、それは、詐欺だったのです。私は、すっかり騙されて、お店を取られてしまいました。仕事も失い、生活できなくなってしまいました。女房にも働かせなくてはならないし、子供も奉公に出さないといけない・・・・。なのに、私には職がないんです。何にもやる気がしないんです。この先どうしていいのか、真っ暗闇です。いったい、私はどうすればいいのでしょう。」
その男は、その場に泣き崩れてしまった。

お釈迦様は、目を閉じて、じぃーっと何かを考えているようであった。しばらくして、お釈迦様が、微笑みながら話しだした。
「お見受けしたところ、あなた自身、商才はあります。商売は、あなたにとって天職のようなものでしょう。」
「そうなんですか。じゃあ、なんで、商売をダメにしてしまったのか。あんな詐欺に、なんで簡単に引っ掛かってしまったんでしょう。」
「どんなに商才があっても、どんなに強運の持ち主でも、困難にあたることは、あるのですよ。どうしても、避けられない災難というのもは、あるものなのです。それは、どうしようもないことです。問題は、その困難にあたった時、どう対処するか、です。今のあなたのように、へこたれてしまうか、その困難を乗り越えようとするか、そこで真価が問われるのでしょう。」
「そんなものなんですか。」

お釈迦様は、さらに続けた。
「今回、あなたは詐欺にあいましたが、それは、仕方がなかったことです。もし、詐欺にあっていなければ、あなたは、他のことで財産を無くしていたでしょう。詐欺にあうか、他の災難にあうか、それはどちらでもいいことなのです。大事なことは、あなたの人生において、一度は大きな困難にあうことは、避けられないことだ、ということなのです。これは、あなたがどうしても通らねばならない道なのです。これを避けては通れません。避ければ、さらに大きな困難となって、あなたを襲ってくるでしょう。
どんな困難であろうと、その内容は、問題ではないのです。いずれ、通らねばならない道なのですからね。大事なのは、その困難から逃げるか、それを乗り越えるか、なのです。
あなたが、今、受けている困難から逃げる道を選ぶのか、それとも立ち向かって克服しようとするのか、そこが、大きな分かれ道なのです。」

その男は、お釈迦様のほうを見て言った。
「そうだったんですか。いずれにせよ、私は、無一文になったんですね。そうか・・・・。ならば、最初の頃を思い出して、もう一度頑張ってみようか・・・・。」
「そうですね。どんな成功者であっても、初めから成功者であったわけではありません。どんな金持ちであっても、初めから金持ちであったわけではありません。そして、そういう成功者やお金持ち達も、いつも順風満帆であったわけではないでしょう。様々な困難を乗り越えてきたのです。多くの困難を乗り越えたからこそ、成功者として尊敬されるのでしょう。
どんな困難があるにせよ、それを乗り越えるものこそが真の成功者なのですよ。」
「わかりました。初心に返り、もう一度頑張ってみます。家族にも迷惑をかけたくないし・・・・。」
「そうですね。頑張ってください。さぁ、出発しましょう。」
こうして、その男は、死を選ぶことなく、生きる道を選んだのである。この先、どんな困難があろうとも、それを乗り越える決意を固めて・・・・・。


人は、誰でも、一度や二度は、困難に立ち向かわなければならないことがあります。悩み苦しむことがあります。たとえば、子供達は、受験と言う越えなければならない道を歩まねばならないでしょう。もし、その道を選ばないとしたら、働かなければなりません。義務教育を終えて、すぐに就職か専門学校の道を選ぶことになります。それさえも避けるということならば、家に閉じこもるのか、家を出てブラブラするのか、という道を歩むことになるでしょう。どの道を選ぶのかは、個人の自由ですが、いずれにせよ、楽な道はありません。受験を選べば勉強しなければならないし、就職を選べば働き口を見つけ、社会にもまれることとなります。
家に閉じこもれば、外に出るきっかけを失い悩むことになるでしょうし、家を出れば、悪の道が待っています。いずれにせよ、やらねばならない、通らねばならない道が、困難が、待っているのです。

子供時代を順調に過ごしたものであっても、その先に、何が待っているかはわかりません。折角、就職した会社が倒産したり、とんでもないところへ単身赴任させられたり・・・・。商売でもそうですよね。自分の会社を持てば、困難の連続もありえます。

人は、生きていく上で、困難は付いてまわるものなのです。初めからそう思ってしまえば、気が楽でしょう。大切なことは、その困難にどう向うか、でしょう。避けて通るのか、逃げるのか、積極果敢にぶつかっていくのか・・・・・。それが人生の大きな分かれ道になるのです。
受けてしまった困難や災難、起こってしまった困難にいつまでもこだわって、悩み苦しみ過ごしているのか、気持ちを早めに切り替え、その困難をどう乗り越えるか考え、実行していくのか、そちらのほうが、大きな問題なのです。起こってしまったことは、どのみち起こることなのですから・・・・・。合掌。




第20回
愛する者や親しい者との別れは、誰にでも等しく訪れるものだ。
悲しいかも知れないが、それはあなただけではない。
その若者は、夜の街をふらふらと歩いていた。まるで何かにとり憑かれたように・・・。
どれくらい歩いたのであろう。その若者は、お釈迦様が滞在している森林に迷い込んでいた。

「そこの若者よ。どこへ行くのですか。この先は、崖になっていますよ。」
闇の中から、突然、声が聞こえた。若者は、その声に驚いたが、彼は、恐怖も感じず、ただその暗闇に向って問いかけたのだった。
「お前は、死神か?。そうなのか、この先は、崖か・・・。ちょうどいい。お前が死神ならば、私の魂をやろう。私についてくるがいい。」
「若者よ。私は、死神ではないよ。汝を助けるものだ。さぁ、こちらに来て、話をするがよい。」
「死神じゃない?。ならば、俺には関係ない。話す事など何も無い・・・・。放っておいてくれ。」
そういうと、その若者は、崖に向かってふらふらと歩き出した。そのあとを声が追ってきた。

「逃げなくてもよい。私は、汝を救うものだ。」
若者は、立ち止まって、その声のした方−−そこは単なる闇であった−−に向って答えた。
「逃げる?。俺が逃げてるっていうのか?。何から逃げているっていうんだ・・・・。それに、お前は、俺を助けるというのか?。どうやって・・・・。ふん!、誰にも助けられはしないさ・・・・。」
「苦しんでいるのでしょう?。それを話すといいでしょう。闇に向って、話せばいいのだ。崖に向うのは、それからでも遅くはなかろう。」
「そうか・・・。そうだな。じゃあ、聞かせてやるよ。この闇にね、聞かせてやろう。
俺は、確かに苦しんでいるよ。つらいんだ。悲しいんだ・・・・・。結婚したばかりの・・・・・。結婚したばかりの妻が・・・・、昨日死んだ・・・。」
嗚咽が流れた・・・・。しばらく、声にならなかった。

その若者は、泣きながら語った・・・。
「あんなに愛していたのに。やっと二人で生活できると言うところだったのに。あっけなく、アイツは死んでしまった・・・。俺は、もう生きていけない。アイツ無しでは・・・・。生きていたってしょうがないんだ・・・。だから・・・。わかったか。俺を救うなんて誰にもできないさ。俺を救えるのは、死神だけだ・・・・・。」
「そういうことでしたか。確かに、愛するものと別れることは、つらいであろう。苦しいであろう。あなたの苦悩は、大変なものでしょう。しかし、その苦悩や悲しみは、あなただけのものであろうか。」
「な、なんだと・・・。苦しんでいるのは、俺なんだよ。悲しんでいるのは、俺なんだよ。俺は、妻を亡くしたんだよ。」
「その亡くなった奥さんは、どうであろう。早くに命を終えてしまい、つらくはなかったであろうか?。これから、あなたとの結婚生活を夢見ていた矢先に、死を迎えてしまったあなたの妻は、つらくはなかったであろうか。虚しくはなかったであろうか。本当に、つらい思いをしているのは、あなただけだろうか。苦しんでいるのは、あなただけだろうか。」
「な、なんだと・・・・・。どういうことだ・・・。」
その若者は、その場で立ちすくんで、考え込んだのであった。

しばらくして、若者が言った。
「確かに・・・・、確かに、悲しんでいるのは、俺だけじゃないかもしれない。亡くなった妻自身も、確かにつらかったろう。苦しかっただろう。無念だったであろう。それはそうかもしれない。否、きっとそうに違いない。だけど・・・・。それが、何だって言うんだ・・・・。」
「亡くなった奥さんには、家族はなかったのですか?。」
「いたよ。まだ、俺たちは若いんだ。俺の両親もアイツの両親も健在だ。親よりも先に死んでしまったって、歎いていたさ。見ているのが、つらかった。あんな姿は、見たくなかったよ。りっぱな父親だったし・・・・・・。あぁ、そうだな。悲しんでいたよ。アイツの両親も悲しんでいた。確かに、悲しんでいるのは、俺だけじゃない。」
「あなたも悲しい、つらい。亡くなった奥さん自身もつらい、悲しい。奥さんの両親もつらいし悲しい。他にも、多くの方が、悲しんでいたのではないですか?。」
「あぁ、俺の両親も、アイツの親戚や友人も、みんな悲しんでいたよ。」
「あなたの奥さんを失ったのは、あなただけですか?。あなたの奥さんと別れたのは、あなただけですか。」
「いいや、違う。妻の両親も妻を失ったことに変わりはない。俺と同じだ。大切な人を失ってしまった。妻との別れを悲しんでくれたのは、大勢いる。みんなつらかったと思う。別れはつらいものだ。」
「そう、別れはつらいものです。生きていようと死んでいようと。」
しばらく沈黙が流れた。

「闇の人よ。つらい思いをしているのは、私だけではなかったようだ。亡くなった妻自身も、妻の両親も悲しみは同じだ。妻の友人にしても別れはつらかったに違いない。ありがとう。私は、今、気がついた。取り乱していたんだ。」
「気付いてよかった。ここで、あなたが崖に向ったら、ますます悲しみに暮れる人が増えるだけだから。それに、別れを経験して、つらい思いをしているのは、あなたやあなたの妻の両親や、友人達だけではないのだから。」
「闇の人よ、それは、どういうことでしょうか。」

「別れは、常に誰の元にも訪れるものなのだよ。どんな者でも、別れを経験しなければならないのだよ。」
「どんなものでも・・・。そうか・・・。誰でも、別れを経験するのですね。」
「そうなのだよ。出会うことがあれば、別れもあるのだよ。一度出会えば、必ずそのものと、別れる時がやってくるのだ。それは、人に限らず、動物であれ、何であれ・・・・。」
「生き物でなくても?。」
「そうだよ。たとえ、それが生き物でなくても、物であっても、いつかは手放す時が来るものだ。使えなくなったり、事情があって手放さなくてはいけなくなったりして・・・・。
人は、出会いがあれば、別れもあるものなのだよ。それは、どんな人間にも、必ずやってくるものなのだ。別れを経験したくないのなら、誰にも出会わないようにしなければならない。しかし、それは無理なことであろう。」
「それじゃ、生きていけない。いろんな人に出会うし、いろんなものを手に入れるから。でも・・・・。確かに、いつかは別れる時がくる。確かにそうだ。いつかは、手放さなきゃいけない時がくる。確かにその通りだ・・・。つらいことだけど。悲しいことだけど・・・・。」
「そう、つらく、悲しいことだけど、誰もが、それを経験するのだよ。この世は、そう言う世界なのだ。出会いがあれば、別れがあるのだ。
人は、誰でも、この世に生まれた瞬間、母と出会い、父と出会い、様々な人と出会い、様々なものを手に入れる。そして、やがて友との別れや愛する人との別れや、両親との別れ、愛着のあるものとの別れを経験するのだよ。
この世は、出会いと別れの繰り返しなのだよ。それは、誰にでも平等にやってくるものだ。」

若者の顔は、いつの間にか明るさを取り戻していた。
「闇の人よ。よくわかりました。別れを経験して、つらくて悲しんでいるのは、私だけではない。世の中のすべての人が、私と同じように悲しんでいるのですね。つらい思いをしているのですね。」
「そうです。だから、その悲しみに執着してはいけません。その悲しみを乗り越えていかねば。でなければ、あなたに別れを経験させてくれた、あなたの妻の気持ちを無駄にすることになるでしょう。」
「そうですね。妻は、身を持って、私に教えてくれたのですね。別れは、誰にでもある、悲しみに明け暮れてはいけない、強く生きるんだ、ということを・・・・。」
「そうです。それがわかったならば、もう大丈夫でしょう。これからは、強く生きてください。そして、別れを経験して、つらい思いをし、悲しみに明け暮れている人に出会ったならば、この闇との話をしてあげるとよいでしょう。」
「わかりました。世の中には、つらい別れのせいで、悲しみに沈んでいる人々がたくさんいます。そう言う人に出会ったならば、闇の人よ、あなたとのこの会話のことを話して聞かせましょう。」
その若者は、そう言うと、しっかりした足取りで、森を抜けていった・・・・。


別れは、悲しいものです。つらいものです。妻や夫との別れ、親しい友人との別れ、両親との別れ、我が子との別れ・・・・・。別れる相手は、様々でしょうが、いずれにせよ、親しいものや愛するものと別れをしなければならないのは、つらく、悲しいものです。それが、生きての別れであろうと、死のために別れることになろうと、別れがつらいことには違いはないでしょう。

人間はこの世に生まれると、様々な人や動物、物と出会います。生まれてすぐに、親から離されてしまう子供もいるでしょう。普通に育っていっても、まずは、乳離れをしなければいけません。赤ん坊にとって、これはつらいことなのです。つぎに、オムツから離れなければいけません。これもつらい。様々なおもちゃも手にしますから、そういうおもちゃともいずれ別れねばなりません。

やがて入園や入学があります。いろんな友との出会いがありましょう。しかし、それは、別れの始まりでもあるのです。すぐに卒園や卒業がやってきます。
学生時代、恋もするでしょう。彼女・彼氏ができることでしょう。しかし、そのまま付き合って結婚するものは、少ないのではないでしょうか。ふられたり、ふったりして、別れが訪れるのです。

いろんな出会いと別れを繰り返し、やがて結婚をしたりもします。結婚生活がうまく行かなければ、新婚旅行から帰ってきてすぐに離婚・・・ってこともありますね。すぐに別れなくても、やがて不倫や浮気が原因で別れることもあるかもしれません。結婚生活がうまくいっても、どちらかが病気や災難であっけなく亡くなってしまう、ということもあります。結婚生活をまっとうしても、やがては、どちらかが先に亡くなります。
その間に、両親の死を経験したり、飼っていたペットの死を経験したり、友人の死を経験したりして、幾度となく別れを経験することでしょう。それは、どれもつらく、悲しいものです。

しかし、今、書いたようなことは、誰にでもあることなのです。これには、特別扱いはありません。どんなものでも、つらい別れを経験するのです。金持ちだろうと、偉いさんであろうと、社長であろうと、平社員であろうと、ぷーたろーであろうと、主婦であろうと・・・・。
誰にでも平等に別れは訪れるものなのです。

だから・・・・・。つらいのは、あなただけではないのです。悲しんでいるのはあなただけではないのです。この世の多くの人々が、つらく悲しい別れを経験しているのです。大事なことは、それを乗り越えるかどうか・・・なのです。

今、大切な方を亡くされて、或いは、愛する方と別れて、悲しみに打ちひしがれている方がいましたら、どうか、こう考えてください。
今、自分と同じように悲しんでいる人々が、何万人いることであろう・・・・と。
そう、同じようにつらい思いをしている人々が、たくさん、この世にはいるのです。
悲しんでいるのは、あなただけではないのですよ・・・・。合掌。




第21回
愛することは、素晴らしいことであろう。
しかし、それは得てして苦しみを生む元となる。

お釈迦様が、コーサラ国近くの祇園精舎に滞在していたときのこと・・・・。その日、コーサラ国の城下町を托鉢していたお釈迦様は、ぼうっとして座り込んでいる一人の男に出会った。
「そこの方、ぼんやりして、どうかなさったのですか。」
お釈迦様は、その男に声をかけた。
「あ、いや、大丈夫です。ただ、つい先だって亡くした子供のことを思い出していたんです。ただ、それだけです。」
男は、そういうと、涙を拭きながら立ち上がった。
「もう、大丈夫です。心配していただきましてありがとうございます。」
男は、そういうと、その場を立ち去ろうとした。その背中に向って、お釈迦様が声を掛けた。
「そういう苦しみは、愛から生まれるものなんですよ。愛は、得てして苦しみを生むものです。」
その言葉を聞いて、男は振り返えり、
「なんだって!、愛から苦しみが生まれるだと!。馬鹿な事を言うな。俺は、子供を亡くして悲しんでいるんだ。愛からは、喜びが生まれるんだ。愛することは、喜ばしいことなんだ。ふん、くだらない。そんなことを言うなんて、お釈迦様も、いい加減なもんだ。」
と怒って、さっさと行ってしまった。その後姿を見て、お釈迦様は、悲しい顔をしたのだった・・・・。

「お釈迦様が、変なことを言ったらしい・・・。」
「何でも、苦しみは愛から生まれる、などと言っているらしい。」
「お釈迦様も、たいしたことないな。愛は、喜ばしいものなのに。幸せな気分を生むものなのにな。」
コーサラ国の城下町は、お釈迦様と悲しんでいた男の話でにぎわっていた。誰もが、
「お釈迦様は、おかしい。」
と噂し合っていた。この話は、当然、王宮まで聞こえていった。

王宮の庭でパセーナディ国王とマッリカー王妃が楽しげに話をしていた。
「そうそう、お前、聞いたか。お釈迦様が、苦しみは愛から生まれる、と言ったそうだな。これは、本当だろうか。」
「お釈迦様がおっしゃったことならば、真実だと思いますわ。」
「ふうぅん。じゃあ、聞くが、お前は、わしのことをどう思っている。」
「もちろん、愛しております。国王様はどうなのですか。」
「馬鹿なことを聞くな。もちろん、わしもお前には、深い愛情を注いでいるではないか。もう一つ聞くが、お前は、今、苦しんでいるのか?。」
「いいえ、とても幸せです。国王様の愛情に包まれて、私はとても幸せに満ち溢れています。」
「そうだろう、そうだろう。わしも、お前と一緒になって、幸せだからな。ならば、愛することは、ちっとも苦しくないんじゃないか。愛は、幸せを育むが、苦しみは生んでないぞ。」
「あぁ、そうですねぇ。でも・・・・。」
「お釈迦様も、あてにならんことを言うこともあるものだ。」
「えぇ・・・・。でも、どうなのでしょうか・・・・。」

妃のマッリカーは、その日以来、「愛は苦しみを生む」というお釈迦様の言葉が、心に引っ掛かって、気が晴れなくなってしまった。何をするにもその言葉が頭からはなれず、王の世話も、手が止まってしまうことが、しばしばあった。
「マッリカー、何をぼんやりしているんだ。お茶がこぼれているぞ。もうよい、下がれ。最近、おかしいぞ、お前。」
と、国王から注意をされるほどだった。
『これでは、いけない。やはり、はっきりとお釈迦様にお聞きしたほうがいいわ。』
マッリカーは、そう決心し、その翌日の午後、祇園精舎のお釈迦様のもとを訪れたのだった。

「お釈迦様、ご無沙汰しておりました。今日は、お釈迦様にお聞きしたいことがありまして、お訪ねいたしました。」
「マッリカー、どうしました。顔色があまりよくないようです。悩みがあるのでしたら、何なりとお聞きなさい。」
「はい、ありがとうございます。お釈迦様は、『愛は苦しみを生む』とおっしゃったそうですが、本当ですか。」
マッリカーは、深刻な顔をして尋ねた。お釈迦様は、いつものように優しく微笑みながら答えた。
「えぇ、言いましたよ。その言葉は、私が言ったことです。」
「なぜでしょうか。私は国王様を愛しております。国王様も私を愛しております。愛し、愛されている、今の私はとても幸せです。愛からは、幸福感しか生まれてこないのではないですか。苦しみなど生まれてこないのではないですか。」
「そうですね。今のマッリカー、あなたは、とても幸せでしょう。国王の大きな愛情を受け、また、国王を慕うその気持ちに満たされ、あなたは、本当に幸福感に満たされているでしょう。」
お釈迦様は、そこまで言うと、一呼吸いれて、話を続けた。

「では、聞きますが、もし、あなたが、愛しいと思っていた国王に招かれなければ、どうだったでしょうか。あなたは、片思いで終わっていたでしょう。その時の気持ちはどうですか。愛しい国王と結婚できず、全く愛してもいない男性と結婚させられたら、あなたはどう思います。国王のことを思って、胸が張り裂けそうになるのではないですか。」
「そ、そうですねぇ・・・・。もし、私が国王と結婚できなければ・・・・。確かに、国王への思いで、胸が張り裂けそうになるでしょう。それは・・・。」
「そう、それは、とても苦しいことですね。たとえば、とても愛し合った男女がいるとします。その男女は、いつもお互いに、愛を確かめ合い、やがて一緒になるつもりでいました。ところが、その女性の父親が、仕事関係のため、二人の仲を裂き、よその大金持ちの男と結婚させてしまいました。その女性は、いやいや結婚させられたのです。彼女は、恋人だった男性が忘れられず、家を出てしまいます。そして、恋人だった男性のもとへと行きました。二人は、夜通し話し合った上、二人が引き裂かれてしまうくらいならば、死を選ぼう、と言うことで、心中してしまいました。
さぁ、どうですか。愛は、幸福ばかりを生むものですか。」
「いいえ、愛は、苦しみをも生んでしまいます。」
「そうですね。もし、今、あなたが、国王を失ったらどうでしょうか。」
「とても苦しみます。わかりました、お釈迦様。愛は、時に苦しみも生むものなのですね。」
「そうです。ですから私は、『愛は得てして苦しみを生むものだ』と言ったのです。今は、あなたは幸せかもしれません。国王の愛情に包まれ、あなたも国王を愛している。そういう状態である今は、あなたは幸せでしょう。苦しみなど感じない。しかし、いずれ、その苦しみを感じる時がくることでしょう。愛とは、そういうものです。
ですから、愛に執着してはいけないのです。報われない愛もあります。満たされない愛もあります。愛からは苦しみが生まれるのです。ですから、その愛にこだわってはいけない。こだわれば、益々苦しみを生むこととなる。その愛を乗り越えなければいけないこともあるし、その愛を捨てなければいけないときもあるのですよ。」
「わかりました。帰って国王様にも、この話をお伝えします。」
マッリカーは、そう言うと、晴れ晴れとした顔をして宮殿へと帰っていった。

王宮に戻ると、庭で娘と遊んでいる国王がいた。その姿を見て、マッリカーは、国王に尋ねた。
「国王様、王様は、娘のバジーリーを愛しておりますか。」
「何を馬鹿な事を聞くのだ。もちろんじゃないか。まだ、お前はおかしいのか。」
マッリカーは、それには答えず、話を続けた。
「ならば、バジーリーが、もし万が一亡くなったりしたら、苦しみますよね・・・・。」
娘のバジーリーは、庭を無邪気に走り回っていた。
「何を・・・。当たり前じゃないか。娘がそんなことになったら・・・・。悲しいどころではない。苦しいどころではないぞ。愛している娘を亡くしたら・・・・・。あぁ、そうか。お前はこの間のことを・・・・。」
「えぇ、そうです。お釈迦様の言葉のことです。『愛は苦しみを生む』。」
「そうか、そういう意味だったのか。なるほど。確かに、お釈迦様の言葉は、真実だ。愛は確かに苦しみを生む。」
「えぇ、そうなんです。愛は、苦しみを生むんです。ですから、お釈迦様は、こうもおっしゃいました。愛に執着しないようにと。愛にこだわれば、益々苦しみに落ちると。愛を乗り越えたり、捨てたりすることも、時には必要であると。」
「なるほどな・・・・。確かにお釈迦様の言う通りだ。わしにとって、お前を失うことや娘を失うことは、苦しいことだ。しかし、もし、そう言う時が、わしを襲ったとしても、お釈迦様の言葉を思い出し、深い悲しみを乗り越えるとしよう。
『愛は、苦しみを生む』か・・・・。」
パセーナディ国王とマッリカー王妃は、無邪気に遊ぶ娘を見ながら、しみじみとお釈迦様の言葉を心に刻み込んだのであった。


前回、愛する者と別れることは苦しいことだ、と書きました。確かにそうですね。愛するものとの別れはつらいものです。
しかし、「なぜつらいのか」、と聞かれれば、あなたはどう答えるでしょうか。
答えは一つ。それは、「愛していたから」です。

愛することは、確かにすばらしいことですね。愛情のない生活は、まさに苦しいことです。誰からも愛されない・・・・・。そんなことは、耐えられないことでしょう。人は、誰かに愛され、誰かを愛さなければ、生きていけないものなのです。愛は、生きていく上で必要なことです。愛のない生活なんて、考えられませんね。
しかし、愛は、時として残酷です。ロミオとジュリエットの話にもあるように、成就されない愛は、苦しいだけです。素晴らしいはずの愛が、幸福感をもたらすはずの愛が、苦しみを生んでしまいます。

あなたも経験があるのではないでしょうか。片思い・・・・。
彼のことや彼女のことを考えている時、幸せな気分と同時に、つらい気分もありませんでしたか?。思いを伝えられないもどかしさ。思いを伝えたのに、ふられてしまった時のショック・・・・。
「愛することって、つらいことなんだ・・・・」
と知った青春の一ページ。そう、愛ってつらいこともあるんですよね。

不倫でもそうですよね。妻子ある男性を好きになってしまった。夫や子供のある女性を好きになってしまった・・・・・。
「そんなの気にしないで付き合えばいいんじゃないの」
と思う方もいるかも知れませんが、それは非常に短絡的じゃないでしょうか。不倫の行き着く果てを、何も考えてはいないのではないでしょうか。欲望のままに突き進んでも、苦しみは消えないでしょう。愛欲の果てに待っているのは、苦しみの上の幸福感、残酷な幸せとでも言いましょうか。それは、やはり苦しみのなにものでも無いのです。
不倫の行き着く先が、苦しみだとわかっているから、そういう愛を抱いてしまった者は、悩み苦しむのでしょう。愛は、苦しみを生むものなのです。

愛する妻や夫が、お子さんが、或いはご両親が、亡くなったりしたら、それはつらいことでしょう。愛しているからこそ、つらいのです。別に愛していない夫婦ならば、別れが来てもつらくはないでしょうし、逆にスッキリしますよね。愛がなければ、一緒にいてもつらいだけですからね。しかし、愛があっても、それは別れの時に苦しみをもたらすものなのです。愛がなくて一緒にいるのはつらい、愛があって別れることはつらい。とかく、この世は侭ならぬものですね。

愛すること自体は、とてもいいことです。愛自体は美しい行為でしょう。それは、清浄な気持ちであると思います。しかし、その愛にこだわってしまうと、その愛は時として苦しみを生むものなのです。
苦しみを生んでしまう愛に、あなたはこだわりますか。こだわりながら、愛にとらわれますか。それとも、そのこだわりを捨てて、苦しい愛を乗り越えますか。苦しい愛を捨てますか。

愛は得てして苦しみを生むものなのです。合掌。




第22回
時の流れは誰にも止めることはできない。
すべてのものは老い、やがて死を迎えるのだ。
だからこそ、今と言うこの時を大切に生きるのである。
お釈迦様が、象頭山(ぞうずせん)という山に滞在していたときのことである。お釈迦様の従者であったアーナンダが、街へ托鉢に来ていた、その帰り道のことであった。アーナンダは、いい争いをしている若い夫婦に出会った。
「もしもし、そこのあなた達、何を朝から言い争いをしているのですか。よろしければお話ください。」
「なんだ、坊さんか。あんたには、関係ない。向うへ行ってくれ。」
「いいえ、ちょうどいいわ。このお坊さんに聞いてみましょう。どっちが正しいか。」
「どういうことですか?。」
「えぇ、私の夫は、この先の村の出身なのですが、もう10年も前に家出をしたきり、実家に帰っていないんです。私たちが結婚をしたのが、6年前、子供が生まれたのが3年前。もうそろそろ、夫の両親に私も会ってみたいし、子供も合わせたいのです。それに・・・・。」
「もういいじゃないか。坊さんにこんな話をしたって、どうしようもないさ。」
「いやいや、そんなことはないかもしれません。さぁ、奥さん、続きをどうぞ。それに・・・なんですか。」

その若い男の妻は、話を続け始めた。
「それに、風の便りでは、夫の母親がどうやら病気のようなのです。それで、余計に会いに行ったほうがいいと、そう言っているのですが・・・・。夫ときたら、『今日は都合が悪い。明日こそ出かけよう。』とか言ったり、その日が来ると、『今日は何だか身体の調子が悪い。もう少し調子がよくなってからにしよう。』とか言って、ちっとも動こうとしないんです。」
「そんなことはないじゃないか。今日だって、ここまで来たし。家まで、もうあと少しだろ。」
「そうですよ。もうあと少しですよ。なのに、あなたは『やっぱり、今日はやめよう。明日にしよう。』と言って、帰ろうとしたじゃないですか。」
「あぁ、まぁ、そうだが・・・。何だかちょっと、おなかの具合がよくないような気もするし・・・・。どうも気分が乗らないんだ。だから・・・・。」
「なぜ、家に帰りたくないのですか。」
アーナンダは、その男に尋ねた。

「否、その、何となく・・・・。帰り辛いというか・・・・。その・・・。」
「この人、気が小さいんですよ。家を出た理由が、父親への反抗ですし、そのあと、母親に苦労をかけたと思うと、顔を合わせ難いんですよ。それで、先延ばしにしているんです。」
「はぁ・・・。そういうことですか。ふぅうん・・・・。」
そういうと、アーナンダはしばらく考え込んでいた。

「あの、私は出家者なのですが、まだ修行中でして、覚りを得ているわけではありませんので、うまく言えないのですが、あの、私も国に両親を残してきて出家しました。やはり、まだ、両親への思慕の念が断つことができず、たまに会いたくなることがあります。両親も高齢です。いずれこの世を去ることでしょう。ですから、その前に一目でも・・・と思うのですが、出家の時、父母とは縁を切っていますので、会うわけにはいきません。ましてやまだ修行中ですし・・・。
あの、ご主人さん。あなたの気持ちはわかりますが、ご両親が元気なうちに会っておかれたほうがいいと思いますよ。
もし、それでも迷うようでしたら、この先の象頭山にお釈迦様が滞在されておりますので、ご相談されるといいかもしれません。私は、アーナンダと申します。尋ねてこられるようでしたら、私の名前を精舎の入口で言ってくだされば結構ですよ。」
「ありがとうございます。ほら、お坊様だって、会える時に会ったほうがいい、っておっしゃているじゃないですか。やっぱり、これから行きましょう。」
「うーん、そうだなぁ・・・・。気乗りしないなぁ・・・・。」
「もう、本当にはっきりしないんだから、あんたは。」
「まあ、まあ、ケンカしないで、よくお二人で話し合ってください。それでは、また。」
そう言い残すと、アーナンダは、象頭山へ向って歩き出したのであった。


それから一ヶ月ほどたったある日のこと、象頭山にアーナンダを尋ねて若い夫婦のものが来ていると、出家間もない小僧が知らせに来た。
その夫婦は、以前托鉢の帰り道に出会った夫婦者であった。
「おやおや、お久しぶりです。どうかなされたのですか。あのあと、ご両親に会われたのですか?。」
アーナンダは、二人を見てにこやかに尋ねた。しかし、二人の顔色はすぐれず、何となく元気もなかった。
「はぁ、それが・・・・。あの日は、結局、会いに行かなくて・・・・。」
主人の方がボソボソと言った。それを見て、女房の方がいらいらしながら口をはさんだ。
「この人の優柔不断にはあきれました。結局、あの日は会いに行かなかったんですが、そのあとも、なんだかんだと理由をつけては動かなくなって・・・・。そのうちに、母親は亡くなってしまいました。会いに行ったのは、その知らせがあってからでした。まったく、この人は・・・・。」
女房は、その場で泣き崩れてしまった。アーナンダは、どうしていいかわからず、途方にくれてしまった。
「アーナンダよ、どうしたのです。おや、その方たちは、どうされたのですか。」
その声は、お釈迦様であった。アーナンダは、ホッとして、この夫婦について、お釈迦様に語り、
「どうすればいのか、わからなくなってしまいまして・・・・。お釈迦様、お教え願えないでしょうか。」
と、頼み込んだのであった。お釈迦様は、にっこり微笑みつつ、
「よろしい。では、向うの広い方へ行きましょうか。他の弟子達も集めるがいい。」
とアーナンダに告げ、いつも法を説く場所へと歩いていったのであった。

「さぁ、この夫婦の話を聞いて、皆のものはどう思いますか。
よいですか、皆さん。時は流れています。いつでも流れています。誰がどうしようとも、何がどうあれ、時は関係なく常に流れています。これを止めることは誰にもできません。もちろん、仏陀である私でも無理なことです。
この世にあるすべてのものは、それが生き物であれ、作られたものであれ、滅びへと向っているのです。この世のすべてのものは、この世に生まれた時点から老いるのです。そして、やがて死を迎えるのです。これを避けることはできません。誰もが、死を避けることはできないのです。いずれ、あなたも私も、今生あるものは、皆死を迎えるのです。」
あたりは、静まりかえっていた。お釈迦様の話を聞いているものは、誰もが、世の無常を感じていたのであった。

「しかし、人々は、いつまでもこの命があると勘違いしています。いつまでも我が身があるのだと、思い込んでいる。そして、周りにいる大切な人たちも、いつまでもこの世に存在していると思い込んでいるのです。
だから、自分も、周りの人々も、両親も、子供も、やがて死を迎えるとは思ってもみない。見ようともしない。時は流れているのに、それが止まっているかのように思い込んでいる。
いつ死神が訪れてもおかしくないのに、誰もそれを認めようとはしない。この命が、いつまでもあると思っている。
だから、人々は、無駄な時間を過ごすのだ。怠惰に過ごすのだ。
『明日やればいい』、『今度行けばいい』などといって、今やるべきことを先延ばししてしまう。ついつい、怠け心に負けてしまうのだ。命がいつ尽きるかも知れないのに・・・・・。気がついたときは、もう遅い。後悔しても、もう時間は戻せない。
ここに集うものよ。時の流れは誰にも止められない。死はいつ汝らの元に訪れるかわからない。だからこそ、今この瞬間を大切にし、やるべきことをやるのだ。逃げたり、怠けたりしてはいけない。死王は、すぐそばまで来ているのだから・・・・。」
「う、うぅぅ・・・。わ、私が間違っていました。変な見栄を張らず、素直に会いにいっていればよかったんです。大切な時を私は失ってしまった。わぁぁぁぁ・・・。」
夫婦者の主人が大声で泣き出した。それを見て、お釈迦様は、悲しそうな眼をして告げたのであった。

「泣いても時間は戻らない。今、汝は、自分の愚かさに気付いた。それでいいではないか。汝の母親は自らの命もって、汝に教えてくれたのだ。その教えを今後忘れぬように、時を大切に生きなさい。」
「は、はい。わかりました。今後は、残った父親を大切にし、時を無駄にせぬよう、生きていきます。」
「わかればいいのですよ。奥さんも、夫を支えて怠る事無く、生活していってください。」
「ありがとうございます。おかげで夫の目も覚めました。私も、時間を大切に生きていきます。後悔のないように。」
「さぁ、ここに集った出家者たちよ、時を無駄にせず、怠りなく精進するがよい。」
お釈迦様がそう言うと、弟子達は、より一層真剣な眼差しになり、修行に励むのであった・・・・。



私は、どちらかと言うと面倒くさがりなほうです。なかなか動かないタイプです。ついつい、
「まあ、いいか。明日があるし、何も今日やらなくても・・・・。」
と思ってしまうんです。子供の頃からそうでした。
「よーし、今日から勉強始めるぞ!。っとその前に、ちょっと休んでおこう・・・。」
と言って、勉強を先延ばしにしたことは、何度あったことでしょう。
「よーし、明日から頑張って勉強するぞ!。」
と言って、その明日がなかなかやってこないということが、何度あったことでしょう。
「やるからいいって、わかったって、うるさいなー。本当にやるって!。」
と言いつつ、ちっともやらなくて、大変な思いをしたことが何度あったことでしょう。
皆さんは、そんな経験ないでしょうか。

今でもそうです。もっと早くにこのHPの更新分を作っておけば、切羽詰って苦労しなくてもよかったものを・・・。今更、後悔しても遅いのですが、ホトホト疲れますね。何度も同じことを繰り返している・・・・。
時を無駄にしていますね。もっと大切にしないと・・・・。

最近の若者でも、ダラダラだらけている人、よく見かけます。コンビニの前で無為に時を過ごしている。他にやることないの?、と思うのですが・・・・。若い時は、なんとも思わないかもしれないけど、大人になると気付くんですよね。
「あぁー、あの時、もっと努力していればよかった・・・。」
って。後悔は、先に立ちませんから。それどころか、人生後悔ばかりなり・・・・になってたりして。気付いたら、身体も頭もうまく動けない年齢になって、しまったなぁ・・・なんて思うのかもしれません。

正月早々、陰気くさい話になってしまいましたが、陰気くさいついでに、もう少し・・・。
一休さんは、お正月になると、髑髏を杖の先につけて、京の街中を徘徊したそうです。その時に、こういう句を唱えていたそうです。
「門松や 冥途の旅の 一里塚。めでたくもあり めでたくもなし」
毎年、正月が来た、と喜んでいるけど、それは冥途へまた近付いたということです。めでたいようでもめでたくない。なんとも、まあ、イヤミな話ですが、でも、これが真実なんですよ。

時の流れは誰にも止められません。この世のすべてのものは、老いていきます。そして、いつかは死を迎えます。だからこそ、今やらねばならないことを今やる必要があるのです。時を無駄にしないよう、怠けないよう、後悔しないよう、今と言う時を大切に生きたいですね。

お正月です。一年の初めに、今年こそは時間を無駄にせず、今を大切に生きるぞ、と誓うのもいいですね。皆さんは、時を大切に生きていますか?。合掌。



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