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第23回
やってはならないこと、それは、甘美を伴ってあなたを誘惑するだろう。
やらなければならないこと、それは辛く険しいことに思えよう。
「あぁーあ、やりたくねぇなぁー・・・。なんだって、この俺が、こんな片付けなんかやらなきゃいけないんだ。あぁー、めんどくせー。もう、放っておいて遊びに行っちゃおうかなぁ・・・・。でも、親方に怒られるからな。いいなぁ、親方たちは、遊びに行っちゃってさ。俺も早く遊びに行きてぇーなー・・・。」
「おい、お前、何してるんだ。」
「なんだ、誰かと思ったら・・・。見りゃ、わかるだろ。仕事の片付けだよ。」
「お前一人でか。」
「あぁ、そうだよ。俺は下っ端だからな。仕方がないんだよ。」
「ふーん。なぁ、そんなことはさ、後回しにして、これから俺についてこないか。いい所へ行くんだけど。」
「えっ?、どこへ行くんだよ。いいところって。」
「決まってるじゃねぇか。可愛い子がいっぱい集まるところだよ。新しくできた酒場さ。」
「行くって言っても、まだ早いだろ。今行ってもあいてないだろー。」
「おぉ、ちょっと寄り道してからな、それから行くんだよ。な、行かないか、一緒によ。」
「あぁ、行きたいんだけどな・・・・。これがさ、あるから。」
「そんなもん、帰ってきてからやりゃいいじゃん。親方連中、今日はもう帰ってこねぇーんだろ。」
「まあな。お前、誘惑するなよ。俺は、真面目になったんだからさ。」
「ばーか。誘惑なんかしてねぇーよ。ちょっと誘っただけさ。まあ、行かないっつーのなら、いいけどさ。他のヤツ誘うだけだから。ま、シケた後片付けでもしてりゃーいいさ。じゃあな。」
「ま、待ってくれよ。行かないっていってないだろー。行くよ行く。ちょどさ、これ辛くなってきたところでさ。いい息抜きだな。後でやりゃいいか。」
「そうそう、さ、行こうぜ。」
こうして、若者二人は、町の酒場へと歩いていった。

その二人は、悪仲間だった。片方が大工の見習いになったことをきっかけに、仲間として遊ぶ事はなくなっていた。二人がそろったのは久しぶりだった。
二人は、酒場へ行くにはまだ早かったので、街外れでぶらつく事にした。実は、誘ったほうは、初めからそのつもりだったのだ。酒場で遊ぶカネを街外れを通る人から巻き上げようと言う魂胆だったのだ。一人より二人で犯行に及んだほうが心強いので、昔仲間を誘ったのである。
「おい、久しぶりに、カネ取りするか。」
「な、何言ってんだよ。俺はもう、そんなことはしないぞ。金ないのか。お前、お金ないのに遊びに行くつもりだったのか。」
「バカか、お前。カネなんて人から取ればいいのさ。大工の見習いやってたって、一日いくらもらえるんだ?。あの酒場は、お前の稼ぐ金じゃ、遊べないぜ。そんなもん、奪えばいいのさ。そのほうが早いってもんだ。」
「や、やめようよ。」
「じゃあ、帰れよ。俺ひとりでやるからさ。帰っていいぞ。あの酒場のカワイ子ちゃんも、俺のものだ。ふっふっふ・・・。」
その言葉に大工の見習は、負けてしまった。結局、遊ぶかね欲しさに、二人は、通りを行く人を襲って、金を奪い、その夜、散々遊びまくったのである。

しかし、悪事はすぐにばれ、二人は捕まってしまった。誘ったほうは、過去、何度も金品強奪を繰り返していたので、地下の牢獄へ一生入れられる事となった。大工の見習は、親方が身元を引く受けてくれたので、一週間の過酷な労働で許された。

「と言う訳なんですよ、お釈迦様。こいつのおかげで、わしは、官吏にこっぴどく叱られました。まったく、こいつの遊び癖は治らないんでしょうかねぇ。」
大工の親方が、労役の終わった見習をつれて、お釈迦様のもとを訪れていた。その若者に大工があわないのなら、出家させてお釈迦様の元で、しばらく修行させようと考えたのであった。
お釈迦様は、やさしく微笑みながら、その親方と見習いに言った。
「若者よ、よく聞きなさい。やってはならないこと、あなたのためにならないこと、そういうことは、あなたにとって、とても素晴らしい事のように見えるでしょう。あなたにとってためにならないことは、あなたを誘惑するでしょう。その誘惑に乗ってはいけませんよ。楽しいのは、ほんの入口だけです。後は、苦しみの世界が待っています。快楽を味わえば、後で苦しみを味わう事になるのですよ。
逆に、やらなければならないこと、あなたにとってためになることは、辛く厳しい事に見えるでしょう。そういうことはやりたくないでしょ。でもね、先に辛さや苦しみを味わっておけば、あとで楽を味わうことができるんですよ。」

その話を聞いて大工の親方は、照れくさそうに言った。
「全く、お釈迦様のおっしゃるとおりで。やっちゃいけねぇって言われることは、どうもやってみたくなってしまうもんです。誘うんですよ。やっちゃいけない、ってわかっているのにね。
で、やらなきゃいけないことは、後廻しにしたくなるんですよね。いやなことに思えてならねぇ。どういうことなんですかえねぇ。」
「そういうものなのですよ。やってはいけないことは、悪魔の誘いです。ですから、悪魔は様々な手段を使って誘うんです。やってはいけないことが、さも素晴らしい世界であるかのようにね。まるで、悪い女性が男をたぶらかす時のように、結婚詐欺師が女性を誘惑する時のように、悪魔が耳元でささやくんですね。やっちゃいけないことをやろうじゃないか・・・と。
そして、やらなければいけないことは、遠ざけようとするんですよ。それは、身の内にいる悪魔がそうさせるんです。後回しにすればいいじゃないか、そんなに辛いことなら、やらなきゃいいじゃないか、とね。
こうして、悪魔にたぶらかされて、堕落した人間が造られていくんですよ。それもこれも、誰の心の中にも潜んでいる悪魔がそうさせるんですよ。
あなた方は、心の中の悪魔に気付いたのですから、今後は、もう、悪魔の誘いに乗ってはいけませんよ。」
「そうだったんですか。心の中の悪魔だったんですか。おぉ、恐ろしい。おい、こぞう、わかったか。これからは、悪魔の誘いに乗らず、真面目に働けよ。遊ぶのは、一人前になってからだ。わかったな。」
「そうですよ。辛く厳しい道に見えるかもしれませんが、それが、あなたにとって最良の道なのですよ。」

お釈迦様は、そう二人に告げると、顔を上げ、周りにいる弟子達に言った。
「修行僧達よ、よいですか。今の話を他人事だと思ってはなりません。あなた達も、いつ何時、悪魔の誘惑に遇うかわかりません。瞑想中に眠りたくなることがあるかもしれません。托鉢中に、若い女性に惹かれるような事があるかもしれません。悩みを相談に来た方に心惹かれるような思いを持つかも知れません。悪魔はいつでもどこにでもいます。そして、いつも心の隙を狙っています。
気をつけなさい。あなた達にとってためにならないこと、やってはいけないことは、甘美な事に思えるでしょう。逆に、ためになること、やらなければならないことは、辛いことに思えるでしょう。
しかし、ここで選択を誤まってはいけません。まんまと悪魔の誘いに乗ってはいけないのです。気をつけなさい。悪魔の誘いに乗ったものは、いずれ後悔することになるでしょう。その時には、もう遅いのです。」
この話を聞いて、周りにいた弟子達は、一層修行に励む事を誓ったのであった・・・・。


やってはいけないことって、魅力的に見えませんか?。そういうこと、思ったことはないですか?。やらなきゃいけないことって、面倒に思ったことありません?。辛くてヤダナ、って思ったことはありませんか?。
学生の頃、何で勉強なんかしなきゃいけないんだ−って、思いませんでした?。やりたくねーって、思いませんでしたか?。或いは部活動。毎日きつい練習ばかりやらされて、サボりたくなった事ないですか?。
やらなきゃいけないこと、自分にとって今やるべきこと、ためになることってわかっているんですけど、いいことってやりたくないんですよね。
で、やっちゃいけないことって、ついついやりたくなってしまう。若いうちは特にそうでしょ。学生時代なんかそうじゃなかったですか?

修学旅行で、持って行っちゃいけないものを持っていったり、お風呂を覗いたり・・・・。やっちゃいけないことしませんでした?。私?。私は真面目でしたから????。
まあ、そういうことって、結構誰にでもあることじゃないですか。やっちゃいけないことをやらないまでも、やらなきゃいけないことをサボったり後回しにしたりね。
あるいは、いいことも、何となくやりにくいでしょ。例えば、電車などで、席を譲ったりとかね。困っている人を助けてあげたりとかね。
逆に、悪いことって簡単にできてしまうんじゃないですか。タバコをポイ捨てしたりね。ちょっと意地悪してみたり、噂話してみたり、悪口言ったりね。
世の中には、ちーっともいいことしないで、悪い事ばかりしている方たちがのさばっている地域もありますが(ナガタちょーとかいうらしい)、あれはきっと、悪魔に負けてしまった人々の集まりなんでしょうねぇ。

やっちゃいけないこと、自分にとってためにならないことは、甘くてとっても楽しそうに見えます。逆に、やらなきゃいけないこと、自分にとってためになることは、厳しく辛く、嫌なことに思えます。これは、あなたの心に住んでいる悪魔の仕業です。心の中の悪魔が、ささやくのです。
「やっちゃいけないこと?、そんなことはないさ。楽しいよ。気持ちいいよ。最高だよ。やっちゃいなよ。そんな辛い仕事は後回しにしてさ。辛いことからは逃げればいいじゃん。楽しい事だけやってればいいのさ。」
ってね。この悪魔の囁きに負けてはいけません。この囁きに負けるとロクなことになりませんよ。

つらい事が多い人生かも知れませんが、その辛さを乗り越えてこそ、真の安楽があるのです。辛いからと言って、逃げてばかりでは何にもなりません。何も変わりません。
人生を後悔したくないのなら、悪魔の誘惑に負けないことです。世の中には、様々な誘惑があります。悪魔はいろんな姿に身を変えて、あなたの心の隙を狙っていますよ。ほら、今、あなたの後ろで悪魔が覗いてましたよ・・・・・。合掌。




第24回
自分にその報いは来ないだろう、自分は大丈夫だ。
そう思うのは、愚かしいことだ。
自分だけは特別だということは、ありえないのだ。

「さあ、どけどけどけ〜、この俺様が通るんだ、道をあけろぉ〜!」
大きな声を出して、カーシ国の城下町の通りの真中を、大きな男が数人の伴を連れてどたどたとやってきた。
「こぉーらぁー、どかねぇかー。俺様の邪魔をするやつは許さねぇぞぉ〜!」
「さあ、どけよ、カンダッタ様が通られるんだ。道をあけろー。」
その男達は、大声を張り上げて、城下町の店が建ち並ぶ通りを、我が物顔で歩いていた。男達が通ったあとは、店先に並べてあった食べ物や商品は、盗られたり、壊されたりして、荒れ放題になってしまった。街の人たちや商店主達は、
「う、うわぁ〜、ら、羅刹だ、羅刹が来たぁ〜。」
と叫んで逃げたり、さっさと店を閉じるしかなかった。

その男達の中心にいたのが、大男のカンダッタだった。彼は、王族の血筋を引く生まれだったので、誰も彼の行動を止められなかった。また、生まれつきの暴れん坊のうえ、わがままに育ってしまったので、王族の中でも手がつけられず、野放し状態でだったのだ。
だから、来る日も来る日も、街中を徘徊しては、店を荒らし、街の人に危害を加えていたのである。街の人々は、彼のことを鬼とか、羅刹、夜叉などと呼んで恐れていた。
商店主達は、カンダッタがやってきたら、すぐに店を閉めるようになっていた。店にいた客や通りにいた客も、店の中に入れ、カンダッタが去るのをじっと待っていた。嵐が去っていくのを待つように。

商店主達が、そうした自己防衛をとるようになっていたので、カンダッタは、このところイライラが募っていた。しかし、そのイライラもついに爆発する時がきてしまったのである。
その日、カンダッタは、郊外から馬車に乗って、商店街までやってきた。商店街の入口をふさぐように馬車を止めると、
「うわ〜はっはっは。カンダッタ様がやってきたぞぉ〜。店を閉めたりするな。逃げるなよ。店を閉めたりしたら、ぶっ壊してやる!」
と叫んで、商店街の中に入ってきたのである。早々に店を閉めていた商店街は、ことごとく破壊されてしまった。
「なんてこった・・・・。店がメチャクチャだ・・・・。」
商店街の人々は、がっくり肩を落とすしかなかったのであった・・・・。

「うわーはっはっは。俺様の言うことを聞かないで、店を閉めておくからだ。ざま〜みろ。はーっはっはっは・・・。」
カンダッタは、大声で笑っていた。その時だった。一人の子供が、カンダッタに向って叫んだ。
「お前、そんな悪い事をしたら、いつか神様の罰が下るぞ。神様はお前を許さないぞ!」
「小僧!。お前、死にたいのか。バカなヤツだ。まあ、いい。今日は、俺様は機嫌がいいから許してやる。おい、小僧、言っておくがな、俺様に罰はくだらない。なぜなら、俺様は特別だからだ。神も俺様を恐れているからだ。わかったか小僧。俺様は特別なんだよ!」
カンダッタは、子供にそう叫ぶと笑いながら帰っていったのだった。

その様子の一部始終を伝え聞いたお釈迦様は、悲しいそうな顔をされ、
「なんと愚かな事だ。この世に特別などと言うものはないのに。悪の報いが来ない、ということはないのに。みなのもの、彼の行く末を見ているがよい。」
と弟子達に告げ、そのまま瞑想に入られてしまった。

ある日のこと、お釈迦様は、急に立ち上がり、
「私は、少し出かけてきます。後のことは、シャーリープトラ、お願いしますね。」
と告げると、どこかへ出かけてしまわれた。

その時、カンダッタは郊外の草原でもがいていた。底なし沼にはまってしまったのだ。カンダッタの仲間が、助けようとしたが、一緒に引きずられそうになり、恐れをなして逃げ出してしまった。
「く、くっそー。どいつもこいつも逃げやがって。あれだけ、この俺様が助けてやってきたのに。俺様のおかげで、楽しめたのに、簡単に見捨てていきやがった。おのれ〜、絶対にここから出て、あいつらに復讐してやる。くっそ〜、誰か!、誰か、助けてくれ〜。」
カンダッタは、大声で助けを求めた。しかし、その声は虚しく響くだけだった。

しばらくして、カンダッタに声を掛けるものが現れた。
「助けが欲しいのですか。しかし、だれもあなたを助けないでしょう。」
カンダッタの身体はほとんど沈みかかり、残るは頭だけ、という状態であった。
「だ、誰だ。誰でもいい、た、助けてくれ。お願いだ。俺様を助けてくれ。」
カンダッタは、底なし沼の中で、かろうじて顔を上に向け、声を出した。
「私一人ではできないです。助けたくても私一人の力では、あなたのような大男を引き上げる事はできません。」
「じゃ、じゃあ、街の人を呼んできてくれ、お願いだ。早く。うっぷ。」
「街の人が、あなたを助けに来るでしょうか。よく考えなさい。あなたは、街の人に何をしましたか。」
「あ、あうぅぅ・・・。」
「あなたには、悪の報いは来ないのではないですか。あなたは特別なのでしょ。」
「お、俺様は・・・・。た、助けてくれ。助けてくれたら、なんでもする。欲しいものを何でもやろう。金か、女か。うっぷ。沼の水が・・・。うっぷ。入ってくる。早く助けてくれ。頼む、俺の持っている・・・・うっぷ・・・財産をすべてやろう・・・・うっぷ・・・。」
「この期に及んで、なぜそのようなウソをつくのですか。」
「うそじゃ・・・ねぇ・・・。う、うっぷ。本当だ・・・。」
「悲しい事だ。もし、私があなたを助けたら、あなたは私を殺し、あなたを見捨てた仲間を殺しに行くのでしょう。こんな状態になってまでも、あなたは自分を特別だと思っている。悲しい事だ・・・・。」
「うっ、くっそー・・・・。うっぷ・・・・。バレ・・・てた・・・か。うぅ、うっぷ・・・。」
カンダッタの顔は、怒りにゆがんでいた。
「カンダッタよ、これより、あなたは暗き道を辿り、暗き世界へと落ちていく。それは、あなたの行為の報いなのだ。それを素直に受け入れるがいい。
あなたが、心より懺悔の言葉を一言でも吐いていたなら、真実の言葉を少しでも言ったなら、あなたは救われたものを・・・・。悲しい事だ・・・・・。」
その声の主は、そういうと、沈みかけたカンダッタの顔を覗き込んだ。
「あっ、うっぷ・・・・。あなたは・・・・・お、お釈迦さ・・・・・。」
それが、カンダッタの最後であった。

「最後まで哀れな者であった・・・・。」
そう一言いうと、お釈迦様はその場を立ち去っていった。カンダッタの落ちた底なし沼は、いつの間にかなくなり、普通の草原となっていた。

カンダッタが底なし沼に落ちたと言う噂は、瞬く間に街中に広まった。みんな
「羅刹のようなカンダッタでも、神には勝てない。神の罰が下って、地獄に落ちていったんだ。やっぱり、特別なんてないんだよ。」
と語り合っていた。また、カンダッタの仲間だった連中も、その後、事故に遭ったり、病気をしたりして、ことごとく不幸な人生を送ったそうである・・・・・。


神をも恐れぬ輩というのは、いつの時代、どこの世界にもいるものです。傍若無人に振舞い、恐ろしい犯罪を犯しても反省することなく、平然としている。まるで、自分は特別な存在であるかのように思っているのか、平気な顔をしています。そういう恐ろしい人、いますよね。誰とはいいませんが。

恐ろしい犯罪だけじゃないですね。ちょっとした日常でも、厚顔無恥に振る舞う人は、結構いるものです。
電車待ちをしている列に平気で割り込むオバサン、タバコの投げ捨てをするオジサン、酔っ払ってからんでくるオヤジ、足を前にズドーンと伸ばして座っている若者、汚職をしても平気な顔で居座っている政治家、税金の無駄遣いをしていても自己の利益だけは確保している官僚・・・・・。
大物から小物まで、「自分は特別だ」と勘違いしているんじゃないの?、と言いたくなるような、不遜な連中が世の中になんと多くはびこっている事でしょう。

先日も、こんな事がありました。ある本屋さんの駐車場です。その本屋さんは、広い駐車場を持ってます。その日は、駐車場は混みあっていましたが、止められないくらいではありません。少し歩けば、駐車スペースはあいてました。私は、ちょうど帰るところだったので、チラッとしかみませんでしたが、何と普通の家族連れが、本屋さんの正面入口にズドーンと車を止めてしまったようでした。他のお客さんが注意をしていたようですが、どういうのでしょうかねぇ。ちょっとくらいいいだろう、というのでしょうか。それとも、そんなに固いこというなよ、という態度でしょうか。或いは、自分は特別だ、とでも思っているのでしょうか。

かわいそうなのは、そんな親に育てられる子供ですね。社会のルールを守らない親の元で育った子供は、哀れでしょう。何が間違いで、何が正しいか、判断できなくなります。そういう子供は、
「これぐらい、いいだろう」
と、親と同じようなことをするようになってしまうでしょう。

世の中には、特別扱いを受ける人間は確かにいます。しかし、真理の元では、みんな平等です。特別な人間は一人もいません。悪いことをしたら、必ずその報いはやってくるでしょうし、自分は大丈夫だ、などと言うことはありません。特別な者は一人もいないのです。

自分は大丈夫だ、悪いことをしてもバレやしない、その報いは来ない、なぜなら自分は特別なのだから・・・・。そう思っている人がいるのなら、早く心を入れ替えることです。誰も見ていないかもしれませんが、天は知っています。、地は知っています。何よりも、己が知っています。
悪いことはできませんねぇ・・・・。バチ、当りますよ・・・・。合掌。




第25回
まさに身体に刺さった毒矢を抜くように
まずは、その苦しみの根本原因を抜き去ることが先決だ。
お釈迦様の弟子−出家者−たちは、朝起きると、先ずは沐浴をし、身体に香を塗り、寝具を片付けたりしてから、托鉢に出かける。托鉢で得た食事は、午前中に済まし、午後からは果物と水分だけを取っていた。修行は、主に午後から行なわれていた。修行の内容は、お釈迦様が説かれた教えについて出家者どうしで話し合ったり、その教えについて考えをめぐらせたり、瞑想したり、というものであった。お釈迦様の説かれた教えを自分のものにし、覚りへと近付くのである。
また、修行場所は、必ずしもお釈迦様と同じ場所で修行しているわけではなかった。出家したばかりのものは、すでに覚りを得た高弟の元で修行していることが多かったし、お釈迦様自身もよく精舎を移転されたため、お釈迦様と同じ精舎で修行しなければならないことはなかったのである。

ここに、マールンクヤプッタという青年がいる。この青年は、お釈迦様と出会い、その教えに感動し、出家した青年である。しばらくはお釈迦様の元で修行していたが、今は、他の出家者仲間と共に、お釈迦様とは離れて修行していた。
マールンクヤプッタには、変わったところがあった。他の修行者と違って、お釈迦様の教えについて考えをめぐらすのではなく、自然現象などについて、考えることが好きな性分であった。たとえば、
『宇宙は無限なのか、有限なのか。夜見える星は落ちてはこないのだろうか。消えたりしないのか。魂はあるのだろうか。人は死んだらどうなるのか・・・・・。』
というようなことばかり考えていたのだ。特に、天体関係については興味があって、いつも空を眺めているのであった。

その日も彼は、空を見上げ考えをめぐらせていた。
『朝、日が昇ると、気温が上がってくる。これは太陽の影響なのだろう。曇っている日は温度は上がりにくいから、それは間違いない。とすると、太陽というのは燃えているに違いない。いったい何が燃えているのだろうか。太陽まではいけないのだろうか。空はいったいどうなっているのだろうか。空って不思議だよ。いろんな色になるからなぁ・・・・。朝は朱色。白っぽくなったと思ったら、青色になっているし・・・。青でも薄い青とか、濃い青とかいろいろあるし。で、夕方には、茜色になっている。どうしてあんなに色が変わるのだろうか。いや〜、ホント、不思議だよね。なんでだろう。それが問題だよな・・・・・。
それにしても、空って、宇宙なんだよね。宇宙って、どこまで行けるんだろうか・・・・。まあ、しかし、考えてもわからないんだよな。いっくら考えてもわからない。なんでだろうねぇ・・・・。世の中不思議なことが多いよねぇ・・・・。』
その姿を見て、他の修行者が噂し合っていた。
「また、マールンクヤプッタが考え込んでいるぞ。しかし、まあ、よくあんなことばかり考えているよな。」
「あんなこと考えたって、答えは出ないのにね。わからないことはわからないんだし。」
「そんなに知りたければ、お釈迦様に聞けばいいじゃないか。」
「そうだよな。お釈迦様ならわかるかもしれないし。」
「よし、じゃあ、俺がマールンクヤプッタに言ってやるよ。わからないことはお釈迦様に聞けよ、ってな。」
そう言って、修行者の一人が、マールンクヤプッタに声を掛けた。
「マールンクヤプッタよ。考えていることに答えはでたかい?。」
「あぁ、否、答えは出ないよ。なかなか難しいよな。君は、僕が考えていることの答えを知っているのかい。もし知っているのなら、教えて欲しいな。」
「とんでもない、俺にはわからないさ。でもな、お釈迦様ならわかるかもしれないぞ。」
「あっ、そうだな。お釈迦様ならわかるかもしれないね。お釈迦様は、どんな質問にも答えてくれるからね。そうか、お釈迦様ならわかるかも知れないな・・・・・。」
「そうだよ。だから、聞きにいけばいいじゃないか。お釈迦様なら、竹林精舎に滞在しているから、ちょうどいいよ。」
「うん、そうするよ。僕が考えていることがわからないと、修行が出来ないしね。お釈迦様に聞きに行って来るよ。」
こうして、マールンクヤプッタは、竹林精舎に滞在しているお釈迦様を訪ねていったのである。

「お釈迦様、お久しぶりです。マールンクヤプッタです。」
「おぉ、マールンクヤプッタ、久しぶりだね。どうですか、修行は進んでいますか。」
お釈迦様は、やさしくマールンクヤプッタを招き入れた。
「はい、それが・・・・・。」
「どうしたのだね。何か困ったことでもあるのかね。」
「はい、どうしてもわからないことがありまして・・・。そのことを考えていると、もう夜も寝られないくらいなんです。それで、お釈迦様に教えていただけたら、と思いまして・・・・。」
「そうだったのですか。それで、何をそんなに悩んでいるのですか。」
「はい、それは・・・。」
マールンクヤプッタは、普段から考え込んでいた、宇宙のことや空の色、太陽のこと、人の死後の世界、霊魂のことなどを一気に質問したのであった。

それを聞いたお釈迦様は、しばらく下を向き黙っていたが、ふっと顔を上げ、マールンクヤプッタに、逆に質問した。
「マールンクヤプッタ、あなたは何のために出家したのですか。」
「はぁ、もちろん、覚りを得るためです。世の中の苦しみを越えたいからです。」
「そうだね、そうだったね。この世の苦しみから解放されたいから出家したんだね。では、なぜ、先ほどあなたが質問したようなことばかり考えているのかね。」
「えっ?、なぜと言われましても・・・・・。」
「あなたが質問したことと、覚りを得ることとどんな関係があるのかね?。」
「いや、その、関係は・・・・・。」
マールンクヤプッタは、答えに困ってしまった。

お釈迦様は、やさしく微笑みながら、話を続けた。
「いいですか、マールンクヤプッタよ。ある人が、毒矢で射られたとします。さて、この人が助かるためには、どうすればいいでしょうか。」
「はい、毒矢で射られたのなら、すぐにその矢を抜いて、また同時に医者を呼ぶことが必要かと思いますが。」
「そうですね。ところが、その人は、毒矢を抜く前にこう言ったのです。
『ちょっと待ってくれ。その毒矢はいったいどんな材料でできているのか、矢の種類はどんなものか、どんな弓でその矢を撃ったのか、どっちの方向から飛んできたのか、矢を撃ったものは男か女か、どの階級に属するものなのか、体格はどうであったのか、名前はわかるのか、どこの国のものか、そうしたことがわからないうちは、毒矢を抜いてはいけないんだ。』
さて、この人はどうなりますか。」
「そ、そんなことを言っていたら、その人は毒が廻って死んでしまいますよ。そんなことは、毒矢を抜いて、手当てをしてから考えればいいことです。先ずは、その毒矢を抜くことが先決です。」
「そうだね。その通りだ・・・・。ところで、マールンクヤプッタよ、あなたはどのような苦しみを越えたいのですか。」
「それは、生きる苦しみです。年老いていく苦しみです。欲しいと思っても手に入らないときに感じる苦しみです。嫌な人と出会うときに感じてしまう嫌悪感です。怒りも消したい。イライラする気持ちも乗り越えたいのです。そうした苦しみから解放されたいのです。」
「そうですね。そうした苦しみから解放されたいのですね。では、なぜ、そのための修行をしないのですか。それとも、先ほど私に質問したことの答えがわからない限り、修行はできない、とでもいうのですか?。
そう、あたかも、かの毒矢に射られた人のように・・・・・。」
「あっ、そういうことだったのですか。」
マールンクヤプッタの眼が輝いた。その様子を見て、お釈迦様はにっこりと微笑まれた。

「わかりましたか。あなたは、かの毒矢で射られた人と同じ過ちをしているのですよ。宇宙の成り立ちや、空の色、星に関して、霊魂や人の死後について、そうしたことがわからないうちは修行は出来ない、とあなたは言っているのですよ。
それは、かの毒矢で射られた人と同じでしょう。毒矢の材料や種類、飛んできた方向、撃った人物に関することなど、そうしたことにこだわっている愚かな人と同じ過ちをしているのです。
大切なことは、毒矢を抜くことでしょう。苦しみの根本原因を抜くことでしょう。それなのに、あなたはその毒矢を抜こうとせず、苦しみの元を抜こうとせず、答えの出ないことばかり考えている。そのうちに、苦しみの毒であなたは死んでしまうでしょう。それは、愚かなことではありませんか。」
「はい、おっしゃる通りです。私は愚か者でした。まず、やるべきことは、私が今苦しんでいる、その根本原因を消し去ることだったのですね。」
「その通りです。さぁ、それがわかったらすぐに修行に取り組みなさい。」
そう言って、お釈迦様は、マールンクヤプッタを送り出したのであった。マールンクヤプッタは、その後、毒矢を抜くように、苦しみの根本原因を抜き去り、覚りを得たそうである・・・・・。


うちのお寺には、いろいろな相談事が持ち込まれます。皆さん、悩んでいることは様々です。で、いつも心掛けていることは、その悩みの原因は何か、ということです。ですので、こちらから質問することもあります。大事なことは、「なぜそのような状態になったか」ですからね。その部分がわからなければ、解決することできませんからね。
ところが、世の中には、その原因もわからずにすぐにお祓いを望んだり、またお祓いをしたりする方がいます。なんでも悪霊の祟りなどのせいにしたり、水子のせいにしたり・・・・・。すぐに、「悪い霊がとり憑いている」とかいってね。
しかし、実際はそんなに簡単な問題ばかりじゃありません。もちろん、そうした悪い霊が原因の場合もあります。水子の影響もあるでしょう。しかし、なんでもかんでも、そういった霊のせいではありません。自分で原因を作っている場合だってあるのですから。

自分のわがままや未来に対する不安、逃げ、怠慢などが原因で苦しんだり、悩んだりしている場合もあるのです。そういう場合、たいていはその悩みの根本原因を見ようとはしません。見たくないのですね。で、指摘したりすると、いろいろ理屈を並べて責任回避しようとします。これは、どんな人にもあることですね。もちろん、私も含めて、です。

悩み事は、その根本原因を取り除かなければ、なんにもなりません。そうでなければ、解決は得られないのです。苦しみからは解放されないのです。
大切なのは、今のその悩みの原因は何か、ということです。それを直視せず、遊びでごまかしたり、快楽に溺れたり、一人で引きこもったり、いじいじふて腐れたりするのは、間違った行為でしょう。まずは、悩みの根本原因を見つけ、それを取り去ることですね。そう、毒矢を抜くように・・・・。

もし、その原因がわからないようでしたら、どうぞご相談にお越しください。合掌。




第26回
欲しいものが手に入らないといって、
歎いたり、怒ったり、悩んだりする必要はない。
縁があるものは手に入り、縁がないものは手に入らないのだから。
ある日の午後、祇園精舎では、お釈迦様のお話を聞こうと、様々な国から、様々な身分の人々が集まってきていた。年老いた者から若い者、男女を問わず、大勢の人々が祇園精舎に集まっていたのである。
「人々よ、よくお集まりいただいた。これから、お話をしよう。」
お釈迦様の法話が始まった。
「さて、皆さん。皆さんは、一体どんな時に悩んだり、苦しんだりするのでしょうか。」
お釈迦様の問いに、集まった人々は、周りの人とボソボソ話し始めた。お釈迦様は、しばらくその様子を見守っていた。ふっと、一人の若者が、
「欲求が満たされない時ではないかな・・・・。」
とつぶやいた。それを聞いて、お釈迦様は、微笑みながら、
「その通りです。あなたの言う通りですね。」
と一言おっしゃったのである。

「いいところに気付きました。あなたの言う通りです。
人は、多くの場合、自分の欲求が満たされなかった時、悩み、苦しみ、あげくには怒りだしたりするのです。自分に当てはめて、どんな時に悩むか、苦しむか、怒るか、よく考えて御覧なさい。どうですか・・・・。」
また、人々は、周りの人とボソボソ話し始めた。
「そう言えばそうだよな・・・・。俺なんか欲しいものが手に入らないないと、イライラして、かあちゃんに八つ当たりしたりするもんな。」
そういう若者の言葉に、周りのものが笑いながらうなずいた。
「そうじゃそうじゃ。ワシなんか、この年になっても、欲しいものが手にはいらんと、ばあさんに当り散らすぞ。」
ご老人の打ち明け話に、皆がうなずいた。
「私もそうです。私の場合は、地位や名誉が欲しいのですが、努力してもなかなか世間は認めてくれない。そういう状況に、将来が不安で・・・。悩んでしまいます。」
真面目そうな、青年がそう告白した。
「私は、男前で、お金持ちで、とても優しい人と結婚したい、と思ってるの。でも、結婚の話がある男性は、どの人も余りたいしたことがない人ばかり。もう結婚なんて嫌になっちゃうわ。」
と若い娘がそういうと、周りから、
「それは、わがままというものよ。世の中そんなに甘くないわよ!」
と叱責の声があがった。
「そんなの、若い頃は誰でも思うことよ。でもね、現実はそうはいかないわよ。私だってそうなんだから。まあ、これならいいかと思って結婚したけど、なかなか思うようには行かないわよ。私もね、欲しい物はいっぱいある。宝石は欲しいし、きれいなものを着たいし、いいお食事がしたいわ。でもね、うちの亭主の稼ぎじゃ、ままならないわよ。子供もいろいろ欲しがってピーピー言うしね。」
女性の言葉に、周りの人々がどっと笑った。

「どうですか、皆さん。皆さんが悩む時、苦しむ時、イライラしたり怒ったりする時は、多くの場合、欲しいものが手に入らないときでしょう。」
お釈迦様の言葉にみんながうなずいた。ざわざわしていた会場が静まり返った。
「人間の欲望は尽きることがありません。欲しいものが次から次へと生まれてくる。それは、モノであったり、結婚相手であったり、地位や名誉であったり、いろいろでしょう。しかし、一つ手に入れても、また次が欲しくなる。それが人間なのです。
そうして、欲しいものが次々と生まれてくるのですが、そうそう、思うように手に入るものではありません。むしろ、手に入らないもののほうが多いでしょう。世の中ままならないものです。
ところが、人間は、そこでなかなか納得しないのです。手に入らないからといって、納得しない。諦めない。その欲しいものにこだわってしまう。するとどうなりますか・・・・。」
お釈迦様の問いに、すぐに答えが返ってきた。
「悩んだり、苦しんだりすることになります。」
「そうですね。欲しいものが手に入らないとき、悩んだり、苦しんだり、イライラしたり、怒ったりするでしょう。それは、その欲しいものにこだわっているからです。では、その悩みをなくすのには、どうすればよいでしょうか。」
また、お釈迦様が、会場に集まった人々に問い掛けた。

しばらくの間があって、先ほど地位や名誉が欲しいと言った青年が答えた。
「その欲しいものに、こだわらなければいいのではないでしょうか。」
お釈迦様が、微笑んで言った。
「そうですね。その通りです。こだわらなければいいのですよ。」
「でも、ついついこだわっちゃうんだよ・・・・・。」
別の若者が一人、そうつぶやいた。その言葉に、集まった人々は、
「うんうん、そうなんだよ・・・。」
と、うなずくのであった。

「欲しいものが手に入らないといって、悩み、苦しみ、イライラしたりするのは、その欲しいものにこだわっているからでしょう。そのこだわりを止めれば、苦しまなくてもすむのです。
ところが、人は、そのこだわりをなかなか捨てられない。ついつい、欲しいものにこだわってしまうものです。で、結局、悩み、苦しみ、イライラすることになるのです。」
お釈迦様の言葉に、皆が聞き入った。

「しかし、欲しいものが手に入らないといって、悩んだり、苦しんだり、怒ったりする必要はないんですよ。よいですか、皆さん。こう考えるのです。
あなたたちが望むと望まないのとに関わらず、縁のあるものは手に入るものなのです。縁のないものは手に入らないのです。
たとえば、欲しいものがいっぱいある方、その欲しいものの中でも、あなたに縁のあるモノは、自ずと手に入るでしょう。もちろん、ある程度の、手に入れようとする努力は必要です。しかし、いくら努力しても手に入らないものは、手に入らないのです。それは縁がないからです。縁があるものならば、それは手に入ってくるものなのです。
たとえば、お金持ちで、男前で、とても優しい人との結婚を望んでいる方。そういう男性、異性と縁がなければ、そのような結婚はできないのです。そういう相手と結婚できないのは、めぐり会えないのは、あなたに、そのような異性と出会える縁がないからでしょう。あなたに合った縁の相手としかめぐり会えないのです。それが縁です。縁のある相手としか、結婚はできないのですよ。いくら望んでもね。」
その言葉に、先ほどの若い娘が下を向いた。

「では、私もそうなのでしょうか。縁がないから地位や名誉も手に入れられないのでしょうか。」
先ほどの青年が尋ねた。
「そうですね。あなたがどう望んでも、縁がなければ、あなたが望むような地位や名誉を得ることはできないでしょう。逆に、縁があれば、あなたが望まなくても、地位や名誉はあなたの手に入るでしょう。
もちろん、望むものを手に入れようとして努力することは大事なことです。しかし、問題はそのあとなのです。いくら努力しても手に入らなければ、その欲しいものにこだわってしまうでしょう。それがいけないのです。それが、悩みや苦しみの種なのですから。その種を作らないようにするには、こだわる前に、
『あぁ、私が望んでいるものは、私には縁がないものなのだな』
と納得するようにすればいいのです。それが、真実だからです。
いいですか、みなさん。みなさんが、望んでも、望まなくても、縁があるものは手に入るでしょうし、縁がないものは手に入らないのです。
それが理解できれば、欲しいものが手に入らないといって、悩んだり苦しんだりすることはなくなるでしょう。」

この話を聞いて、会場の人々は、また、周りの人たちと話し合いだした。
「そうか、じゃあ、どうしても欲しいと思っていても、手に入らなかったものは、ワシには縁がなかったモノなんじゃな。」
と、老人が言えば、
「俺なんかのように若い者は、欲しいものがいっぱいあるけど、手に入らなかったら、それは縁がない、と思って、欲しがらないようにした方がいいってことか。」
と、若者が周りの人に聞く。すると、
「そういうことだね。そう思えば、何にも悩まなくたってすむさね。」
そうオバサンが答えてくれる。さらに、そのオバサンは、先ほどの青年に向って
「あんただって、あんまり出世は望まないほうがいいんじゃないかい。その方が気楽だよ。あんたに、もっと徳がつけば、あんたが望まなくったって、出世できるさ。まあ、地位や名誉は縁がないと思ってさ、気楽に頑張りなよ。」
と、豪快に言ったのだった。その青年は、
「そうですね。そう思うようにします。」
と明るい顔で答えていた。

そうした様子を見ていたお釈迦様は、微笑んで、みんなに語りかけたのだった。
「みなさん、わかったようですね。縁がないものは手に入らない、縁があるものは手に入る。そう思って過ごしていれば、気は楽になるものです。悩まなくてもいいのです。今日から、そう思うように心掛けるといいでしょう。」
こうして、その日の法話会は終わったのだった・・・・・。。


あなたは、欲しいものがたくさんありますか?。私は、結構あります。でも、まあ、分相応でいいや、と思ってますし、無理して手に入れようとも思ってません。また、手に入らなくても、こだわったりもしません。そんなに執着がないほうだと思ってます。
そう思うようになったのは、実は、このお釈迦様の話を、お経の訳本で読んでからです。
「縁があれば手に入るし、縁がなければ手に入らない。」
この言葉を知ったときに、
「あぁ、なるほど・・・・・。」
と思いました。それもそうだな、縁がなきゃ、手に入らないよな・・・・・と。

この話には、続きがありまして、それは、出家者に向っての話です。
「出家者は、望むこともあってはならない。望むのではなく、与えられたもののみ得るのだ。それ以外は、手に入れてはならないし、手に入れようとしてもいけない・・・・・。」
厳しいですよね。出家者は、望むこともいけないんですよ。さすがに、この境地までは達することはできませんよね。
「ただ、与えられたもののみ得よ。自ら望んではならぬ。」
というんですからね。こりゃ、大変です。

しかし、そんな境地にまでは至らなくても、縁がないものは手に入らないんだ、と思っていれば、悩んだり、イライラしたり、欲しくて欲しくてたまらない・・・・なんてことは、無くなることは確かです。余計な、悩みを抱えなくてすみます。
もし、あなたが、欲しいものがいっぱいあって、望んでいるものがいっぱいあって、それが手に入らなくて、望み通りにならなくて、悩んだり、イライラしたりしたら、少し考え方を変えてみるのもいいのではないでしょうか。
「縁がないから、手に入らない、望み通りにならないんだ。縁があるものなら、手に入るし、望み通りになるものさ。」
と。
そうすれば、随分気が楽になりますよ。余分な悩みなんてなくなりますよ。
それは、私が保証します・・・・。合掌。




第27回
いつまでも一つの事にこだわり続けるのはよくないが、
簡単に諦めてしまうのは、もっとよくない。
努力を惜しんではならない。諦めてはいけないこともあるのだ。
身分制度の厳しかったお釈迦様時代でも、その身分の枠を越えて、働き場所を求めたり、結婚をする者もいた。もちろん、その場合は、余分な苦労も伴うであろうし、周りからの非難もつきまとう。
ここに身分を越えて職業を持とうという夢を持った若者が二人いた。一人は、バラモンの息子で、本来ならばその跡を継ぎ、社会の指導者たるバラモンとなるべき者であったが、料理人になることを夢見ていた。そして、もう一人は、大きな商売人の息子であり、彼は、商売を嫌い、後継ぎ以外の道を探していた。

ある食堂でのことである。二人の若者は、久しぶりに会って、会話を楽しんでいた。
「ところで、料理のほうは、腕は上がったかい?。」
「う〜ん、それがさぁ・・・・。俺は才能がないのかなぁ・・・・。なかなか上達しないんだよ。いつまでたっても皿洗いさ。」
「なんだ、まだ皿洗いなのか。もう何年やっているんだよ。」
「そうだな、もう10年になるかな・・・・・・。そうか、もう10年だよな。」
「そんなにか?。おいおい、10年もやってれば店ぐらいもてるぞ。お前、才能ないんじゃないのか。俺の知ってるやつなんか3年の修行で店を持つまでになったぞ。」
「そうだなぁ・・・・。才能ないのかもな。」
「もう、いい加減、辞めたらどうだ。夢を追うのもいい加減にしたほうがいいんじゃないのか。」
「そうは思うけど・・・・・。でもなぁ、もう少しだけ続けようかとも思っているんだ。もうちょい、のような気もするんだよ。」
「もうちょいねぇ・・・・。」
「そういうお前は、どうなんだ。今度は何をやってるんだ?」
「えっ?、まあ、俺のことはいいよ。適当にやってるんだからさ。」
「お前、ひょっとして、また仕事辞めたのか?。」
「あ? あぁ・・・・まあね。辞めたよ・・・・・。」
「何で辞めたんだよ。お前もころころよく仕事変わるね。どうなってるんだ?。」
「いいじゃないか。しょうがないだろ。店の主人がうるさいんだよ。いちいち、いちいち。細かいことばっかり言ってさ。そんなこと、言われなくたってわかってるって言うのにさ・・・・・。だから・・・・、うっとうしいから辞めたの。俺、商売の才能ないんだよ、きっと。」
「これで何回目だよ、仕事変わったの。」
「えー、何回目かな。家を出たのが8年前で、初めは商売が嫌でバラモン先生に弟子入りして、勉強が嫌で一ヶ月か辞めたよな。その次が、コーサラの兵士に志願して、訓練がきつくて半月で辞めて、その次が、大道芸人に弟子入りして・・・・これは、すぐに辞めたな。怒られてばっかりだったから。それから、酒飲み屋で働いて・・・・、これは続いたよ。半年くらい働いていたから。うーん、あとは・・・・。何だかんだといろいろやったかな。果物屋さんや八百屋、魚屋でも働いたし、そうそう、よその国との貿易もやった。宝石売りもやったな。金掘りにも行ったな。変な商売もしたよ。いろいろやったもんだなぁ・・・・。」
「想い出に耽ってる場合か。で、どうするんだ、仕事?。」
「どうしようか・・・・。何か、いいところないか?。」
「そうだなぁ・・・。でもな、お前を紹介しても、俺が恥をかくからな。」
「なんでだ。」
「だって、お前、すぐに辞めちゃうだろ。努力しないからな、お前は。嫌なことがあると、すぐに辞めちゃう。簡単にな。後のことも考えず、簡単に辞めてしまうから、紹介できないよ。」
「そうかぁ?。そりゃ、お前は努力家かも知れないが、それも、行き過ぎってものがあるだろう。夢を追うのもいいが、適度なところで止めないと、取り返しがつかなくなるぞ。」
「俺のことはいいんだよ。放っておいてくれよ。それよりも、お前だって、いつまでもそうやってフラフラしてちゃ、結婚もできないじゃないか。」
「そりゃ、お互い様だろ。困ったもんだな。どうすりゃいいんだろう。」

その時であった。二人の会話をそばで聞いていて、ニヤニヤ笑っていた老人が、二人に言った。
「お前さんたちは、何と言う愚か者なんじゃろうな。」
「なんだと。どういうことだ。俺達が愚か者だって?。」
「ああそうじゃよ。お前さんたちの人生は、時間を無駄にしておる。まあ、こうやって、悩んでいるだけましか。世の中には、お前さんたちのように、気付きもしない連中もいるからな。」
「おい、ジジイ、俺達が、時間の無駄遣いをしているって?。じゃあ、どうすればいいんだよ。そうだよ、俺達は悩んでるよ。どうしていいのかわからないんだよ。」
「そうだな・・・・。そんなに悩んでいるのなら、お釈迦様に聞きに行けばいいじゃろう。お前達の何が悪いのか、この先どうすればいいのか、ちゃんと教えてくださるよ。はっはっは・・・・。」
そういうと、その老人は、笑いながらその食堂を出て行ったのであった。
「おい、どうする。お釈迦様のところへいくか?」
「そうだな・・・。俺は、仕事も無いし、ヒマだから、行ってみようかな。」
「うん、俺もそうしよう。じゃあ、これから行くか。」
こうして、二人は、お釈迦様のもとへ行くことになったのである。

二人は、お釈迦様の元に行き、悩みを打ち明けた。その話を聞き終えたお釈迦様は、まずは、バラモンの息子、料理人を夢見ている若者に言った。
「あなたは、夢を持って、それに向い、努力してきました。今、その努力が実らず、このまま夢を追い続けていいものかどうか悩んでいる。否、悩んでいるのではないね。答はもうでている。だけど、決心がつかないだけだね。
目標を持って、それに向って努力することは大切なことでしょう。夢を持つこともいいことです。しかし、長年、その夢を追いつづけているうちに、夢を現実化しようと言う目標が、ただ、夢を捨てられない、と言うものに摩り替わっているのではありませんか。夢を捨てられない、というこだわりになってしまっているのではありませんか。もうすでに、夢や目標ではなく、夢を捨てることを拒否する、ということが重要になってしまっているのではないですか。よく考えて御覧なさい。」
「はっ!、そうだ。そうです。そうなんです。私は、ただ、夢にこだわっていただけなんです。きっとそうなんだ。もう10年も夢を追っていたから・・・・。いつの間にか、夢を捨てるのが怖くなっていただけなんです。そうです。ただ、夢を捨てない、ということにこだわっていただけなんです。自分では、本当はわかっていたんです。そうです。よくわかりました。」
「本当は、気付いていたけど、認めるのが怖かっただけなのでしょう。しかし、今までの経験は、決して無駄なことではありません。あなたは、努力することを覚えたではないですか。その努力する気持ちを他の職業、あなたに合っている職業に向ければいいのです。あなたに合っている仕事で、今までのように努力すれば、それは必ず生かされてくるでしょう。」
そうして、お釈迦様は、そのバラモンの息子に適した仕事を教えたのであった。

次に、お釈迦様は、もう一人の商売人の息子に向って告げた。
「さて、問題は、あなたですね。あなたは、あなたに合っている仕事に就いていたにも関わらず、ちょっとしたことで簡単に辞めてしまった。あなたには、努力というものがない。成就しない夢にこだわり続けているのもいけないが、折角の才能も生かさず、微塵の努力もせず、なんでも簡単に諦めてしまうのは、もっといけないことだ。あなたは、これまでの人生で何を得ましたか。このままでは、それこそ無駄な人生になってしまいます。あなたは、あまりにも努力が足りなさ過ぎます。何でも簡単に結論を出さないで、短気を起さないで、じっくり取り組む姿勢が必要でしょう。私の言っている意味がわかりますか?。」
「は、はい・・・・。わかっています。しかし・・・。努力と言われても・・・。どうも、私は、短気者でして、ちょっと注意されたり、少しでも辛い労働とかがあると、辞めたくなってしまうんです。耐えられないんです。ついつい、うるさいな、と思ってしまって・・・・・。」
「本当は、後悔しているのでしょう?。またやってしまった、と思っているのでしょう?。その言い訳のために、諦めが肝心、と思っているのでしょう?。」
「は、はい・・・・。そうです。その通りです。」
「今のあなたのように、努力も耐えることもしないで、次々と職業を替わっても、結局、また辞めることになるのですよ。気にいらなかったら辞めればいいや、という気持ちでは、何も身につきません。」
「じゃあ、どうすればいいのでしょうか。私に合う仕事なんて、あるのでしょうか。」
「あなたは、折角持っている才能や運を少しも生かしていない。それは、努力していないからです。努力する前に、面倒だから、辛いからといって、諦めてしまっているからです。
人は、誰でも、その人に合った道があります。才能が一つや二つはあります。しかし、その才能も、努力しなければ開花することはないでしょう。諦めてはいけないのです。少しぐらいつらいことや、嫌なことがあっても、耐え忍ばなければならない時もあるのです。乗り越えなければならないこともあるのです。本当の幸せは、そういう後にやってくるものなのですよ。
あなたは、今すぐ、家に戻るがいいでしょう。あなたには、商才があります。家に戻って、商売を覚えなさい。」
「えっ?、私に商才があるのですか?。本当に?。」
「本当です。いいから、今すぐに家に戻りなさい。そして、何が何でも、3年耐えなさい。そうすれば、わかるでしょう。」
「はい・・・・。わかりました。短気を起さず、諦めたりせず、3年我慢してみます。」
こうして、二人の若者は、お釈迦様に教えられた、それぞれの道を進んだのであった。

3年後のことであった。あの二人の若者は、すでにそれぞれ嫁をとり、安定した日々を過ごしていた。料理人を夢見ていたバラモンの息子は、今は貿易商になっていた。特に宝石の鑑定は、評判がよかった。
一方、商売人の息子は、何度も家を飛び出しそうになったが、ぐっと耐え忍んで、お釈迦様に言われた通り、努力を惜しまなかったのである。そのおかげで、今や、商売も益々大きくなり、繁盛していたのであった。二人とも、幸せな日々を過ごしていたのであった・・・・・。


夢を追うのは、いいことでしょう。夢や目標は持っていたほうがいいものです。何の目標もない、夢も希望もない、という人生を過ごしているより、夢がある・・・というのは、素晴らしいことではないでしょか。
しかし、それにも限度があるでしょう。努力して夢を叶える者もいれば、いくら努力しても実らない者だっているのです。いくら努力しても、目が出ないことだってあるのです。悲しいかな、夢が夢で終わる場合だってあるのです。それが、現実なのです。現実は厳しいものです・・・・。
なのに、その夢を捨てることができずに、いつまでもこだわり続けてしまう方もいます。世間やマスコミは、そういう方を
「すごい人だな。頑張れよ。」
などと、無責任にもてはやしたりもしますが、実際問題として、それは他人事だから言えるのであって、本音では、
「バカだなぁ・・・・。そんなにうまく行くわけないだろう。才能がないことに気づけよ・・・。」
と思うことも多いのではないでしょうか。

夢を持ったり、夢を追いかけたりすることは大切なことです。しかし、それにはやはり限度もあるのです。合ってない道で努力しても、それが実ることは難しいものです。
いつしか、夢を成就すると言う目標が、夢をただ追っている・・・・ということに摩り替わってしまうこともあるのです。夢を捨てるのが怖い、諦めきれない・・・というように。
何も、夢ばかりではありません。恋愛でも、人に対する恨みでも、一つことに、いつまでもこだわり続け、苦しんでいるのは、愚かなことでしょう。それよりも、気持ちを切り替えて、先に進んだほうが賢明なのです。

しかし、それよりももっと悪いのは、夢も希望も持たず、その日暮らしで、耐えることもせず、努力もしない者です。ちょっとしたことで、すぐに嫌になる。ちょっと注意されたから、辞める。営業に出て、断られたからすぐに引き下がる・・・・。
あっさりしすぎです。なぜ、もっと粘らない・・・。そう思うことが多々あります。昔は
「石の上にも三年」
といって、成功しようと思えば、三年くらいは我慢しなさい、と言われたものですが(それくらいご存知ですよね)、今の時代、「石の上にも三日」、否「三分」かも知れません。我慢しなくなったと言うか、耐えることを知らなくなたっというか、あまりにも見切りが早いように思います。

世の中は、我慢することのほうが多いでしょう。耐え忍ぶことのほうが多いでしょう。成功しよう、幸せになろうと思ったら、その上で、努力するべきでしょう。つらいことや、苦しいことを乗り越えて、初めて幸せが得られるものでしょう。初めから幸せで、そのままずーっと幸せ・・・・ということは、ほとんどないことです。そう見える人たちでも、おそらくは、見えないところで、何かに耐え、努力しているのです。
努力を惜しんではいけないのです。簡単に諦めてはいけないのです。少しは、粘って、耐えてみることも、大切なのではないでしょうか・・・・・。合掌。



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