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第42回
やってみなければわからないこともある。
理屈をこねないで、
飛び込んでみることも、大事なのではないか。


お釈迦様がいらした頃のインドの各国は、小さな戦争はあったものの、比較的平和であった。また、景気もよく、活気に満ち溢れていた。そんな中でもコーサラ国とマガダ国は大国で、各国の中心的存在であった。
国王の性格からなのか、マガダ国は落ち着いた国、コーサラ国は積極性のある国、という印象を与えていた。
今日もコーサラ国の首都シュラーバースティーは、行きかう人々の熱気であふれかえっていた。ここに来れば、働き先にあぶれることは無い。誰もが職にありつくことができた。

ところが、デーバナーダだけは、今日も自宅の自室で、母親の小言にふてくされていたのだった。
「デーバナーダよ、いい加減に仕事をしたらどうだい。お前だって、いつまでもフラフラしてちゃあいけないでしょ。」
「フラフラなんかしてないさ。俺は自分に合った仕事を探しているんだ。ただそれだけだよ。」
「何言ってるんだい。うちは代々職人の家なんだよ。仕事につくなら、職人のところへ弟子入りするしかないんだよ。」
「職人っていったって、いろいろ職種があるじゃないか。うちは木工細工の職人だけど、俺には合わないんだよ。だから、俺に合った職種を探してるんだよ。」
「探してるって言ったって、あんた、ここでじ〜っとしてるだけじゃないか。」
「俺はここの窓から外を眺めて、いろいろな職人の様子を見てるんだよ。いい加減にしてくれよ。俺だって考えているんだから。」
「で、いい仕事はあったのかい?。」
「えっ?。いや、今のところは・・・・。俺に合いそうな仕事は、ないんだよ。」
「どういうことなんだい。どんな仕事のことことをいってるんだい、それは。」
「ええ?、まあ、なんだっていいじゃないか。とにかく、俺には合わないんだよ。」
「そんなあんた、その仕事をやってみなきゃわからないだろ。」
「そんなことないよ。俺にはわかるさ。」
「ふ〜ん・・・。そんなもんかねぇ。」
親子の間では、こんなやり取りがもう何日も続いていたのだった。

ある日のこと、ついにデーバナーダの父親が爆発した。
「おい、いつまでグダグダ言ってるんだ。いい加減にしろよ。うちには働きもしない者に食わすメシはないんだよ。俺も甘かったよ。いいか、これから一週間以内に仕事につかなければ、お釈迦様の元に放り込んでやる。お前は、厳しい修行でもしたほうがいいんだ。」
「そ、それだけは・・・。俺は出家なんて嫌だからな。俺だっていい仕事を探しているんだ。でも、俺に合う仕事がないだけなんだよ。」
「お前は、そうやって理屈ばかりこねている。あれはこうだから俺には合わない、その仕事はああだから俺には無理だ、それは俺は長くやれないだろう・・・・。じゃあ、いったいどんな仕事が合うんだ。言ってみろ。」
「・・・・・。」
「ほらみろ。何も言い返せないじゃないか。いいか、一週間後に仕事がなかったら、俺が見つけてきた仕事に就け。いいな。それが嫌なら、祇園精舎行きだ。」
デーバナーダは、追い詰められたのだった。

しかし、彼は相変わらず、ああでもない、こうでもないと理屈をこねて、自室を出ようとはしなかった。そして、そのまま約束の一週間が過ぎた。
「どうだ?。いい仕事は見つかったのか。その様子じゃあ、ダメだったようだな。まあいい。いい仕事を見つけてきたから、それに行くんだな。」
「えぇ〜、そんな・・・。それはどんな仕事なの・・・?。」
「なに、そんな難しい仕事じゃあねぇ。やればできるさ。うちと似たような木工職人のところだ。そこへ弟子いりするんだよ。」
「えっ?、も、木工職人?。それは嫌だ。俺にはできないよ。手先だって器用じゃないし・・・。できないよ・・・。」
「馬鹿なこといってるんじゃねぇ。そんなもの、やってみなきゃわからねぇだろうが。」
「わかるよ。家で見てきてるから。俺にはできないよ。」
「がたがた言ってないで、さっさと行くんだ。俺は仕事があるから一緒に行ってやるわけにはいかねぇが、先方には、話は通してある。これが、その職人の家だ。さぁ、今から行くんだ。」
デーバナーダの父親はそういうと、彼に仕事先の地図を渡した。

デーバナーダは、地図を片手に途方にくれていた。外に出るのも久しぶりだった。仕方がないので、下を向き、首を垂れ、とぼとぼ歩いていた。いつの間にか、どこをどう歩いたのか、街からは外れ、デーバナーダの知らないところへ迷い込んでいた。
「ここはいったいどこだ。どうやって歩いてきたのだろう。うちはどこだろう・・・。」
そこはとても淋しいところだった。周りは森で、うっすらと霧がかかっていた。その中でデーバナーダは、たった一人ぼっちでたたずんでいたのだ。
「お、俺はどこにいるんだ。ここはどこだ・・・。」
「ここは、迷いの森だよ。夜叉が住んでいる森だ。」
ふと、声が聞こえてきた。その声は、デーバナーダの耳に優しく響いてきた。
「ここは、夜叉の森なのだよ。早く逃げ出さないと、食われてしまうかもしれない。」
「えっ?夜叉の森?。」
デーバナーダは、震え上がった。
「そ、そんなぁ〜。どうしてこんな森に迷い込んでしまったんだ。」
「下を向いて、迷いながら歩いていたからさ。」
「た、助けてよ。ねぇ、どうしたら、ここから出られるんだい?。」
「お前、ここから出たいのか?。」
「と、当然だろ。こんなところにいたら、夜叉に食われてしまうんだろ。だったら、早く逃げ出さないと。」
「そうなのか。お前は好きでここへ来たんじゃないのか。」
「好きでこんなところへ来るわけないじゃないか。お願いだよ。どうやったら、家に帰れるんだい?。教えてくれよ。」
「家に帰る?。」
その声は、不審そうに尋ねてきた。
「そうだよ。家に帰るんだ。こんなところは嫌だ。早く家に帰りたい。」
「それはできないんじゃないか?。」
「どうしてさ?。何で家に帰れないんだ。」
「お前は、どこかへ行く途中だったのではないか?。」
「あっ、そうだ。仕事場へ行く途中だったんだ。父親が見つけてきた仕事なんだけど。」
「じゃあ、家には帰れないだろう。その仕事場へ行くべきではないのか。」
「そうなんだけど・・・。」
「なんだ、どうした。」
「その仕事場へ行くのが嫌なんだ。」
「なぜ?。」
「だって・・・。俺には合わないんだ。俺にはあんな仕事は・・・・、合わないよ。」
「なぜ、そんなことがわかる?。やってもいないのに。」
「わかるさ。小さい頃から家で見てきたからね。職人は、合わないよ。手先が不器用な俺には。」
「不器用なのか?。」
「そうだよ。不器用だよ。」
「なぜわかる?。」
「なぜって・・・。家で父親の仕事を見てればわかるよ。」
「じゃあ、おまえ自身はやってみたことはないんだな?。」
「やってみなくてもわかるって。そんなことより、早くここから出る方法を教えてよ。なんだか、だんだん暗くなってきたよ。」
「ふん、そうか・・・。まあいい、じゃあ、教えてやろう。この先をまっすぐ行くと、大きな穴がある。そこへ飛び込むんだ。それで出られるさ。」
「本当なんだな。わかった。ありがとう、行ってみるよ。」
デーバナーダは、そういうと、目の前の道を一目散に走っていった。

しばらく走ると、確かに大きな穴があった。それは暗く、深そうな穴だった。
「こ、これに飛び込むのか・・・・。そんな・・・。できないよ・・・。」
その時、恐ろしげな声が聞こえてきた。
「あぁ〜、腹が減った。おう、人間の匂いがするぞ。どこだ〜?。へっへっへ、人間の肉は久しぶりだぁ〜。今日はご馳走にありつけるぞ。ふっふっふ、あっはっは〜。」
その声は、一声「グオアアアアア〜」と叫ぶと、デーバナーダの方へと近付いてきたのだった。
「うわっ、あ、あれは夜叉だ。ど、どうしよう。こっちへ来るみたいだ。た、食べられてしまう。」
「その穴に飛び込めばいいじゃないか。」
また、あの優しげな声が聞こえてきた。
「飛び込めって言ったって・・・。俺にはできないよ。怖いじゃないか。それに飛び込んでみたって、助かるかどうかわからないし。怪我をするかもしれないし。」
「また、そうやって理屈をこねるのか。たまには、人の言葉に素直に従ってみてはどうだ。人の言うことを信じることも大切だぞ。さあ、飛び込むがいい。そうしないと、食われるぞ〜。」
確かにその通りだった。このままでは食べられてしまう。デーバナーダは、焦った。迷った。散々、悩んだ。悩んでいるうちに、夜叉が目の前にきてしまった。
「おう、うまそうな人間だ。適当に肉がついている。これがよく働いている人間なら、筋張っていてうまくなさそうなんだが、こいつはブヨブヨだ。ははぁ〜ん、お前、働いていなかったな。まあいい。その方が俺様にはありがたいことだからなぁ〜。」
そういうと、夜叉はよだれをたらして笑った。デーバナーダは、あまりの恐怖に声が出なかった。
(こ、殺される。俺は殺される!。このままじゃあ・・・。)
その時、先ほどの声がデーバナーダの心によぎった。
『たまには人の言うことを信じて、理屈をこねずに飛び込んでみてはどうだ。』
「そうだ・・・。もうそれしかない。えぇい、こうなったら、飛び込んでやる!。」
デーバナーダはそういうと、目をつぶって、その大きな穴に思い切って飛び込んだ・・・・。

「目を開けるのだ、デーバナーダ。」
デーバナーダは、その声で気がついた。
「俺は・・・。ここはどこだ・・・。」
「気がつきましたか。ここは、祇園精舎ですよ。」
「ギオン・・・ショウジャ?。じゃあ、あなたは・・・お釈迦様?。」
「そうです。デーバナーダ、助かってよかったですね。夜叉はここまではきませんよ。」
「助かったんですね。よかった・・・。あの穴に飛び込んでよかった。」
「よかったですね。たまには人の言うことを信じて、素直に従うのもいいでしょう。そう思いませんか?。」
デーバナーダは、お釈迦様の前で、座りなおしながら言った。
「はい。その通りでした。今までの俺・・・否、私は間違っていました。私は、ただ、逃げていただけなんですね。怠けていただけなんですね。何かと理屈をつけて、ただ逃げていただけなんだ。」
「そのようですね。」
「はい。でも、逃げていただけでは、何もできない、ということがわかりました。行動する前から、何かと逃げ回っていても何にもならないということが、よくわかりました。」
「そうですよ。いつまでも逃げ回っていると、いつかは恐ろしい夜叉・・・・心に巣くう魔に命をとられてしまいます。時には、思い切って、飛び込むことも必要なのです。飛び込んで見なければ、そちらの世界がいいところなのかどうかはわからないでしょう。料理だって、食べてみないと、おいしいかまずいかもわからないでしょう。それと同じです。」
「そうですね。私は、その料理がおいしいかどうかを、食べる前から何だかんだと理屈を言って、それでその料理を食べる機会を逃がしていたんですね。」
「その通りです。そこまでわかったなら、次に何をやるべきかわかるでしょう。」
「はい、父親が紹介してくれた職人さんのところへ行くことです。」
「そうです。あなたのことは、あなたの両親がよくわかっています。ですから、父親の言葉を信じて、その職人さんのところへ飛び込んでみなさい。それはいいのですが、あなたに渡すものがあります。」
「渡すものですか?。」
「はい、その職人さんのところへ行く道筋を記した地図です。」
「えっ、それならここに・・・。」
「その地図は、ここへの道筋が書いてあるのですよ。」
「そうだったのですか。じゃあ・・・。」
「そうです。あなたの目を覚ますために仕組んだことなのですよ。お父様に感謝することですね。」
「はい、わかりました。」
デーバナーダはそういうと、しっかりとした足取りで祇園精舎を後にしたのだった。


いい話を聞いても、なかなかその通りにしない人っていますよね。口ではとても立派なことを言うけど、なかなか行動しない、そういう人っていますよね。
いざ、行動しようとすると、ああでもない、こうでもないと理屈をつけて、動こうとしない。やってみなきゃわからないのに、やる前から
「そんなの無理だよ。できないよ。」
と避けてしまう・・・・。
そういう方、あなたの周りにいませんか?。もしかすると、あなた自身がそうなのでしょうか?。

実を申しますと、私もどちらかというと、なかなか行動をしないタイプです。
「そんなのやらなくてもわかるよ。無理でしょ、普通。」
などといって、さらにはクドクドと理屈をこねて行動しないタイプです。
それがいい時もあります。明らかに怪しい話などは、やってみなくてもヤバイってことがわかりますからね。
しかし・・・・。
やってみなきゃわからない、ということも中にはあると思います。引っ込んでいないで、たまには行動してみるのもいいかな、と思うこともあります。
確かに、やってみなきゃわからないこともありますからね。

グズグズ理屈をこねて、ああでもないこうでもないと、口先だけで言い訳をして、行動に移さないのは、よくないことも多々あると思います。
時には、思い切って次の世界に飛び込んでみることも大切なこともあるでしょう。飛び込んで見なきゃ、それが素晴らしい世界か、ひどい世界なのか、わからないことだってありますからね。
思い切って、初めて試みたことが、案外自分に合っている・・・という事だってありますから。

自分を変えてみたい、今の環境を変えてみたい・・・。そう思っている方は、特にそうでしょう。変えたい変えたい・・・と思っているだけでなく、思い切ってまず行動をして見る。それもいいのではないでしょうか。
行動を起こさなきゃ、変わらないことって多々ありますからね。
思い切って飛び込んでみてください。合わなきゃ、やり直せばいいのですから。怪我を恐れていたら、心の夜叉に食われてしまいますよ、そのうちにね。合掌。


第43回
失敗した、間違ったと反省することは大切だが、
失敗した、間違ったといつまでも悔やんではいけない。
失敗や間違ったことは、正せばよいのである。

ヴァイシャリーの街外れ、誰も寄り付かない雑木林で、男がうずくまっていた。たまたま、そこを通りかかった行商人が、その男に近付いて声を掛けた。
「どうしたんだ?。苦しいのか?。それとも、まさか・・・。苦しい振りをして、誰かを襲おうとでも?。」
その行商人は、恐る恐るうずくまっている男に聞いたのだった。本当に苦しんでいるのなら、助けなければいけないし、もしかしたら苦しい振りをして、自分を襲おうとしているのかも知れない、という不安があったからだった。しかし、うずくまっている男は、
「う、うぅぅ・・・。」
というだけだった。
「やや、これはどうやら本当に苦しんでいるようだな・・・。ともかく、木陰に・・・。」
行商人は、苦しんでいる男を抱えて、雑木林の中のやわらかそうな草が生えたところに寝かした。男は、身体をくの字にして、おなかを押さえて苦しんでいた。
「大丈夫か。今、医者を呼んで来るから、ちょっと待ってな。」
行商人は、そういうと、急いで医者を呼びに行ったのだった。

しばらくして、行商人に連れられて医者がやってきた。
「ほう、これは・・・。胃の腑が痛んでいるようじゃな。とりあえず、この薬を飲むといいじゃろう。」
医者はそういうと、苦しんでいる男に、薬を飲ませたのだった。
間もなく、薬が効いたのか、苦しんでいた男は、起き上がることができた。
「どうもご迷惑を掛けました。助けていただきましてありがとうございます。」
男は、青い顔をしてボソボソと言った。
「いったいどうしたんだい?。何か、持病でもあるのか?。」
行商人の問いに、医者が答えた。
「いやいや、持病ということではなさそうじゃな。あんた、何か気になることでもあるのじゃろ。何か、深い悩み事ができたのじゃろう。あんたの腹の痛みは、そういう心の作用によるものじゃからな。」
「お、おわかりですか・・・。」
男は、驚いて医者の顔を見て、か細い声で言ったのだった。
「実は・・・・。仕事先でとんでもない失敗をしてしまいまして・・・・。それでどうしようかと悩んでいるうちに、おなかが痛くなったんです。」
「とんでもない失敗?。」
行商人が聞いた。
「はい・・・。もう、取り返しがつかないんです。私は、私は・・・・。」
「どんな失敗をしたのか知らないが、取り返しがつかないことはないだろう。どんな失敗でも、やり直せるのじゃないのかね?。わしなどは、いつも失敗だらけだよ。はっはっは・・・。」
「慰めていただきまして・・・・ありがとうございます。でも・・・。ダメなんですよ。私がしたことは・・・。もう、信用を失くしてしまいました。取り返しはつかないんですよ・・・。」
「いったい何をやったんだね?。」
「そうじゃな、すべてを話してしまった方が楽になるぞ。いい機会じゃ、話してしまうがいいじゃろう。」
医者も男をそう励ました。そういわれて、その男は、ポツポツと語り始めたのだった。

「私は、タッカデーバと申します。ある貿易商人の下で働いています。そこは大きな商いをしているところです。その職場で、私は御主人の代理を勤めておりました。実際に職場を動かしていたのは私だったのです。
現場を任されるようになったのは、もう二年くらい前からです。御主人の信頼を得たのですから、それはもう、しっかりと働きました。しかし・・・・。仕事に慣れてきたのでしょう。確かに、気が緩んでいたのです。ですから、甘い罠を見抜けなかったのでしょう。私が悪いのです・・・。
ある日、大変珍しい財宝が手に入るが買い取ってくれないか、という話が舞込んできました。それは私が扱った中では、最も大きな商いでした。『これは腕の見せどころだ、成功させて御主人様の恩に報いるんだ』と、そう思いました。私は、その話にすぐに乗りました。で、その財宝の売り先も手配したのです。私は、言われるままに話を持ち込んできた男に手付金として半金を払いました。半金といっても、大変な額です。私が働いていた店にあったお金の大半をつぎ込んだのです。
しかし、いつまで待っても男は財宝を持ってきません。売り先からも催促される日々が続きました。でも・・・。そうなんです、その男は二度と店には来なかったのです・・・。
売り先の皆さんも激怒してしまいました。おかげで、私は取引先を数軒失ってしまいました。」
その話を聞いて、行商人の男は
「そりゃあ、大変だったなぁ・・・。それで、御主人さんには打ち明けたのか?。」
と聞いた。
「えぇ・・・。内証にしておくわけにはいかないですから・・・。」
「で、御主人さんは何といってるんだ?。」
「はい、失敗は取り戻せばいい、二度としなければいい、と・・・。」
「じゃあ、いいじゃないか。そうやって言ってもらってるのなら、気にすることはあるまい。」
「そうなのですが・・・・。」
「それがかえって、針のむしろ・・・なんじゃろう。」
「そうなのです。何も言われないことが、かえって苦しいんです。むしろ、怒られて、殴られて、放り出されてしまった方が、どんなに楽なことか・・・。」
「なるほどねぇ・・・。そうかも知れないな。何も言われない方が辛いかもなぁ・・・・。それで、腹が痛くなったってわけか。」
「はい、このところ、おなかがキリキリ痛んで・・・・。」
「それはな、あんたが気持ちを切り替えないと治らんぞよ。それは、そういう病じゃ。薬じゃあ、治らんのじゃ。」
「そうなんですか・・・・。気持ちを切り替える・・・・のですか。でも、それは難しいですね・・・。いっそ、辞めてしまおうか、それとも死んでしまおうか・・・・。」
「それは、いかんことじゃ。命を粗末にしてはいかん。しかし、わしでは治せん病じゃからのう・・・・。困ったのう・・・。」
「なんだか、複雑だな。ふ〜ん、心の病ねぇ・・・。おぉ、そういえば、心の病を治す医者を知ってるぞ。」
「そ、それはどなたですか?。」
「お釈迦様だよ。ちょうど今、ヴァイシャリーの街に来ているんだよ。」
「おう、なるほど。あの方は、心の病を治す医者、とも言われてるからのう・・・。あんた、行ってみるがいい。きっと、いい助言を下さるじゃろう。」
そういわれて、タッカデーバは、お釈迦様のもとを訪れたのであった。

お釈迦様は、タッカデーバに優しく微笑みながら言った。
「あなたの気持ちはよくわかる。確かに、怒られ、殴られ、叱責され、職場を追われたほうが楽であろう。何も言われない方が辛いであろう。しかし、たとえ怒られたとしても、あなたが失敗した行為そのものは消えるわけではない。失敗した、ということはあなたの心の中に残ってしまう。きっと、あなたはそのことで、また悔やむに違いない。そうではないかな?。」
タッカデーパは、ちょっと考えてから答えた。
「はい。たぶん、私は、職場を追われても、きっといつまでも悔やんでいると思います。また失敗するかも知れないと思うと、次の仕事にも就けないでしょう。ただただ、おなかがキリキリと痛むだけで・・・・。」
「そうだね。では、あなたの失敗を消すにはどうすればいいと思うかね?。」
「・・・・わかりません・・・。それがわかれば、おなかが痛むこともないです。」
「そうだね。それがわかれば、辛い思いをしなくて済む。よいかな。あなたの失敗は、今の職場でしか消すことはできないのだよ。」
「えっ?、どういうことですか。」
「簡単なことだ。あなたは今の職場に大きな損害を与えた。だから悔やんでいるわけだね。そこから抜け出るには、その悔やんでいる元、失敗を消せばいいのだよ。それには、職場の状態を、失敗以前の状態に戻せばいいのだ。」
「失敗以前の状態に戻す、のですか?。」
「その通り。そうすれば、あなたの失敗は消えるのだよ。しかし、いっぺんにそれをやろうとしてはいけない。少しずつ、無理をしないで、山を登るようにゆっくり戻すようにすればよいのだ。店の御主人も、そう思っているからこそ、あなたを放り出したりはしないのだよ。」
「なるほど・・・。失敗を消せばいいのですね。で、それには、商売を失敗以前の状態にもどせばいい・・・・。そうか、そうですね。でも、無理をすればまた、悪い話に引っ掛かってしまいますから、ゆっくりと、慎重に進めばいいのですね。」
「そういうことだ。よろしいかな。失敗や間違った行為は、それをしてしまった以上、取り返しはつかない。起きてしまった以上、元には戻らないのだよ、いくら悔やんだところでも。確かに、反省をすることは大事だ。反省はしなければいけない。なぜ間違ったか、なぜ失敗したか、それをよく考えることは重要なことなのだよ。
しかし、失敗や間違った行為をいつまでも引きずる必要はないのだよ。いつまでも悔やんではいけないのだ。悔やむ暇があったら、失敗を取り戻すことが大事なのだよ。間違った行動を正すことが大事なのだよ。失敗や間違った行為を消し去るには、それがなされる以前と同じ状態に近付けるのが最もよいのだ。
幸い、あなたの失敗は、取り返しのつくものである。それに、あなたの御主人さんがとても理解ある人であった。これが、そこまでの人でなかったなら、今頃あなたは途方にくれ、病に臥せり、死を迎えていたことであろう。御主人さんの気持ちに応えるには、いつまでも失敗を悔やんでないで、立ち上がることなのだよ。
彼を見るがいい・・・。」
そういうと、お釈迦様は、少し離れたところで瞑想をしている修行者を指差した。

「彼には、実は人の命を奪ったという過去があります。取り返しのつかないことをしてしまったのです。彼は死んでお詫びをしようとしました。しかし、そういう彼を私は弟子入りさせました。それはなぜだかわかりますか?。」
「いや・・・・。なぜでしょうか。」
「彼が死んでしまったら、誰がその罪を償うのでしょう。罪を償うのは、彼自身にしかできません。死を選ぶことは簡単です。この世に生きて、遺族に責められ、世間に責められ、辛い思いをしていく方が大変でしょう。今や彼は生きること自体、針のむしろなのです。しかし、逃げてはいけません。自分がしてしまった間違いをまっすぐに見つめ、その間違いを正すにはどうすればよいかをじっくり考えることが大事なのです。彼にできる償いは、二度と彼と同じような人間が現れないように、人々に説くことなのです。自らの苦しみを人々に打ち明けられるようになることこそ、償いなのです。彼は、そうなるために日々、己と戦っているのです。
あなたの場合、まだまだ取り返しがつくのです。失敗を悔やんではいけない。二度と同じ過ちをしなければいいのです。そして、失敗以前の状態に戻せるよう、努力することです。」
この話を聞いて、タッカデーパの顔は、晴れやかになった。いつの間にか、おなかの痛みもなくなっていたのである・・・・。


失敗をした、間違ったことをした・・・・。それは、よくあることです。人間生きている以上、完璧ではありません。ちょっとした気の緩み、油断で、ついつい欲に走ったり、出すぎたことをしたり、しゃべりすぎたり・・・・。
やっちゃった〜・・・・、と嘆くことは、しばしばあることですよね。
すぐに取り返しのつくことなら、「あ〜、恥ずかしい」、「ごめんなさ〜い」などと、笑って済ませられますが、信用問題に関わることになると、事は重大です。ちょっとした失敗で、大きく信用を失う、と言うこともありますからね。一度失った信用は、回復するのは大変です。気の弱い方なんどは、胃潰瘍や円形脱毛症になってしまうでしょう。もっと深刻になると、ウツや自殺・・・・といった状態にまで追い込んでしまう方もいらっしゃるようです。

しかし、深刻に悩んでも、命を犠牲にしても、失敗は帳消しにはならないでしょう。よく、
「死んでお詫びをします。」
といって、自ら命を絶たれる方もいますが、それは実はお詫びになっていないんですよ。深層心理を探れば、それは辛さから逃げているだけなんです。
たとえば、とんでもないことをしでかして、世間様から責められたりします。そうした場合、生きていることが辛くなってきますよね。いっそ死んだ方が楽だ・・・と考えてしまいます。
そうなんです。「死んでお詫びします」は、実は「辛いから死んで楽になります」の裏返し、なんですよ。
とんでもない罪を犯してしまって、本当にその行為を悔やんでいるのなら、生きていることの方が辛いのです。罪を犯しても生きている方が楽、というものは、心底罪を犯したことを悔やんでいないのです。

とはいえ、死んでしまっても、罪を犯した行為、失敗、間違った行為の代償にはなりません。むしろ、迷惑を受けた方に心の負担を背負わせてしまいます。
「自分達が責め立てたから、自殺してしまった・・・。」
このように思わせてしまいます。これでは、罪の上塗りでしょう。救いがありません。ですから、いくら失敗しても、「死んでお詫びします」というのは、やってはいけないことなのですよ。

失敗や間違いは、誰にでもあることです。失敗したり間違ったりしたら、まず反省をすることですよね。どこが間違っているのか、なぜ失敗したのか・・・・。そして、二度と同じ過ちをしないためには、どうすればいいのか、それをよく考えることです。よく考えたなら、その考えの通りに実行していけばいいのです。
それこそが、失敗や間違いを帳消しにする、唯一の方法なのです。
だから、いくら失敗しても間違いをしても、ただ悔やんでいてはいけないのです。ただ悔やむだけでは、何の解決にもなりません。一つも反省したことにはなりません。悔やむ、という行為からは、何も生まれないのです。それは、単なる自己陶酔の一種に過ぎないのですよ。

悔やんでも仕方がないのです。悔やむくらいなら、「ごめんなさい」の一言の方が、どれだけいいことでしょう。正直に、「ごめんなさい、もう二度と過ちは致しません」といわれたほうが、救いがあります。
やっちゃったことは、どうしようもありません。起きてしまったことは、もう元には戻りません。時間は戻せないのですから。ならば、それをいつまでも悔やんでないで、反省し、二度と同じ過ちを犯さないようにすることです。
それが、過ちを正す唯一の方法なのですから・・・・。合掌。



第44回
やるべきことをやり遂げなければ、
何も変わることはない。
まずは、為さねばならないことを為すべきだ。

ある日の祇園精舎でのこと。お釈迦様は、若い男に話をしていた。
「あなたは、真剣にあなたの人生を変えたい、そう思っているのですね。」
その若い男・・・名をパーバリカといった・・・は、勢い込んで返事をした。
「は、はい、そうなんです。そうなんですよ、お釈迦様。私は、人生を変えたいのです。このままの生活はいやなのです。」
「わかりました。では、私の言うとおりにしてください。できますかな?。」
「今の生活から脱出できるならば、何でもします。いったい何をすればいいのですか?。」
「これから先、二年の間、必死になって働きなさい。いいですか、とにかく働きなさい。それで、あなたが抱えている借金を返すのです。」
「働く・・・・だけですか?。で、借金を返せ・・・・と。それだけですか。?」
「そうです。それだけです。あなたは、この先の二年間を、どう過ごすかによって、随分と変わるのですよ。」
「どういうことですか。」
「これから先の二年間の過ごし方で、その後の人生が、よくもなるし悪くもなる、ということです。」
「ということは、この二年間は大変大事だと、そういうことですね。」
「そうです。この二年間を怠けて過ごせば、今の人生を変えることはできないでしょうし、一生懸命働いて借金を返してしまえば、明るい人生が待っていることでしょう。」
「わかりました。私は、怠けずにこれから二年の間、一生懸命に働けばいいのですね。簡単なことです。そうすれば、二年後にいいことがあるのですね。」
「そういうことです。」
「そのいいこと、というのは・・・・今は教えていただけないですよね。」
「当然でしょう。それは、二年後に教えてあげましょう。まずやるべきことは、働いて借金を返すことですからね。」
「もし、二年以内に返すことができたら?。」
「その時は、私のところへいらっしゃい。その時に、そこから先のことを教えてあげましょう。」
「わかりました。やってみます。とにかく働いて、二年以内に借金を返済すればいいのですね。」
「二年は短いですよ。うろうろしている間に過ぎ去ってしまいます。心して働いて下さい。それができなければ、その先のことも教えてあげられないし、人生を変えることなどできないでしょう。ともかく、働いて借金を返すことです。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
こうして、パーバリカは、やる気に満ちた顔をして、祇園精舎をあとにしたのであった。

パーバリカは、夜だけ飲食店で働いていた。そこは、食事とお酒を出す店であったので、結構、夜遅くまで働いていた。しかし・・・。
「う〜ん、これだけの給料じゃあ、借金は返せないな。もっと働かなきゃ・・・。」
そう思ったパーバリカは、昼間も働くことにした。パーバリカは、まだまだ若かったので、昼夜働いても、平気であった。
十ヵ月が過ぎていた。しかし、借金は、なかなか減らなかった。
「なぜだ・・・。なぜ減らない。」
パーバリカは、よく考えてみた。しかし、よくわからなかった。
「お金は十分に稼いでいるはずだ。なのに・・・・。まあ、ある程度、使うのは仕方がないよな。う〜ん、なんだかなぁ・・・。本当にこんなんでいいのだろうか。」
パーバリカは、なかなか減らない借金に、必死になって働くことが疑問に思えるようになって来た。
「本当にこんなことでいいのだろうか。これで、俺の人生が変わるのだろうか。こんなことをしていて、二年後に何があるのだろうか。俺は今、昼間は魚屋で働いている。夜は飲食店だ。いくら一生懸命働いても、どちらも俺の店じゃないし、俺が後を継げるような立場じゃない。どっちの店にも後継ぎの息子さんがいるからな。いつまでたっても、どんなに働いても、俺はただの店員だ。雇われ者だ。このままいくら必死に働いても、二年たっても、俺は雇われ者であることには変わりはない。ということは・・・・。あ〜、なんだか、バカらしくなってきた。いいのかこれで・・・。」
とうとう、パーバリカは、働くことが嫌になってしまった。とはいっても、お釈迦様との約束もあった。なので、簡単に働くことをやめるわけにもいかない。さりとて、借金も減らないし、働く意欲もなくなっていた。
悩んだ挙句、パーバリカは、再びお釈迦様の元へ駆け込んだのだった。

「どうしたね、パーバリカ。いったい何があったのかね?。」
「はぁ・・・。本当にこのままでいいのかと・・・・。そう思いまして・・・。」
「このままでというのは?。」
「ですから、このまま働いているだけでいいのかと・・・。」
「借金は減ったのですか?。」
「それが・・・・。なかなか減らなくて・・・。働いてはいるのですが、なぜか減らないのです。」
「そんなはずはないでしょう。働いているのなら、少しでも借金は返せるでしょう?。」
「はぁ・・・。しかし・・・。」
「あなたは、使い方が下手なのではないですか?。」
「使い方・・・ですか?。」
「お金は、使わなければ貯まるものです。貯まれば借金は返せるでしょう。何か余分に使っているのではないですか?。」
お釈迦様の指摘したとおりだった。パーバリカは、休みの日は女性と戯れたり、贅沢な衣装を買いに行ったり、女性を伴って高級な食事に行ったりしていたのである。それを聞いてお釈迦様も残念な顔をされた。
「パーバリカ、あなたは自分の人生を変えたかったのではないですか?。それなのに、そんな快楽に興じていたとは・・・・。私は、ともかく働けと言ったはずです。働いて、借金を返しなさい、と。それが先決だと。快楽に興じるのは、借金が返し終わってからでもいいのではないですか?。やるべきことをやってから、それから遊べばいいでしょう。やるべきことをやらずして、少しもよくはならない、と文句をいうのは、話が間違っているでしょう。まずは、やらなければならないことをやり遂げることでしょう。」
お釈迦様の叱責に、パーバリカは恥じ入った。
「は、おっしゃるとおりです。私が間違っていました。今日からは、働くこと、借金を返すことに、必死になって取り組みます。」
パーバリカは、そう誓ってお釈迦様の前を辞したのであった。

パーバリカが、お釈迦様の元を再び訪れてから二年余り後のこと・・・。
彼は、小さいながらも一軒の飲食店を経営していた。彼は、お釈迦様の言われたとおりに一生懸命に働いた。ほとんど遊びもしないで、質素な生活を心がけ、無駄を省いて生活を送っていた。そのおかげで、当初の予定よりは遅れたけれども、借金もきれいに返すことができたのだった。
そうしたパーバリカの働きをずっと見ていた飲食店の主人が、パーバリカに独立することを勧めたのである。店主が、
「パーバリカ、お前なら店をうまく経営していける。私が最初の資金を貸してあげよう。どうだ、小さいながらも店を一つもたないか。」
と、言ってくれたのである。パーバリカにとっては、この上ないことであった。
こうして、パーバリカは、自分の飲食店を持つことができたのだった。

パーバリカは、今日も店の客に語っていた。
「俺はね、人生を変えたんだよ。予定よりは少し延びたけどね。お釈迦様を信じて、言うとおりにして、本当によかったよ。お釈迦様の言うとおりに、一生懸命働いたおかげで、いろんなことを学ぶことができた。お釈迦様が言いたかったことは、このことだったんだなと、今はわかるよ。」
「へぇ〜。そりゃ、どういうことなんだ?。」
「お釈迦様は、二年間、一生懸命働いたら、俺にそれから先のことを教えてくれる、とおっしゃったんだ。けどな・・・。」
「けど・・・?。」
「お釈迦様に教えてもらわなくても、俺にはわかったんだよ。」
「だから、なにがわかったんだ?。」
「大事なことがだよ。人生において、大事なことは何か、ということだよ。」
「ふ〜ん、そんなもんかねぇ・・・。」
「お前も、わかりたければ、まず、己がやらなければいけないことを、とにかくやり遂げることだな。」
パーバリカが、お客相手にそのような話をしているという噂を聞いて、お釈迦様は一人微笑んでいたのであった・・・・・。


上の話を読んで、ドキッとしている方、いらっしゃるのではないでしょうか?。
「きゃ〜、私のことだ〜・・・。」
「うひょ〜、俺のことだ・・・・。」
そう思って読み終えた方、多いのではないでしょうか。

実際、今回のお話のようなことは、多いんです。よくあるパターンなんですよ。
「この○年間、こうしなさい。脇目も振らず、一心に努力しなさい。」
「そうすれば、よくなりますか?。そのあとは、心配ないですか?。」
「大丈夫です。ちゃんとやり遂げれば、心配ないですよ。」
「じゃあ、頑張ります。」
こういうパターンですよね。で、一心に努力することを約束していくのですが、たいていは
「どうしても不安で・・・・。このままでいいのでしょうか・・・。」
と、また相談にくるのですよ。で、私はどう答えるかといいますと、
「やるべきことをやってからにしてよね。まだ、何もやり遂げていないうちから、心配しないように。」
となるんですね。あまりしつこいと、怒ったりもします。

確かにね、不安だと思いますよ。その気持ちはよくわかります。私だって、かつて経験したことですから。このままでいいのだろうか、これで本当にうまく行くのだろうか・・・、とね。でもね、そんな不安は、持っても無駄なんですよ。
先のことを不安がる必要はないのです。それはね、
「ちゃんとやるべきことをやっていれば、自然とわかる」
ことなのですから。
つまり、たとえば、○年過ぎた後のことは、私が答えなくても、自ずと理解できているのですよ。ちゃんとやるべきことをやっていればね。心配する必要はないのです。
やらねばならないことをやっていくうちに、何が大切なのか、どうすればいいのか、どういうことが大事なのか、ということが掴めてくるんですね。そうすれば、自ずと道は見えてきます。
だから、先のことは心配する必要はないのです。ともかく、やるべきことをやり遂げることが大事なのですから。答えは、自然にわかってくるのですよ。
あとは、私の言葉が信じられるかどうかだけです。その言葉を信じて、己を託すことができるかどうかだけですね。ま、ここが大きな問題なんですけどね。

たとえば、上の話の中で、パーバリカがお釈迦様の言葉を信じなければ、パーバリカの人生は別のものとなっていたことでしょう。お釈迦様の言葉を信じるかどうかで、大きく変わるのです。
同じように、私のところに相談に来た方も、私の言葉を信じるかどうかで、大きく変わります。私の言葉を信じて、やれと言われたことをやり遂げるか、信じないで何もしないか・・・・。
それで大きく変わっていきます。
人生の分かれ道ですよね。ま、いずれにせよ、それは自分で選択することですから、私はどちらでもいいのですけどね。

やるべきことをやりなさい、と言われている皆さん。私の言葉を信じて、やり遂げてください。そうすれば、何も心配することはありません。善き道は自然にできていくでしょう。
しかし、言われたことをやらないと、ダメですよ。怠れば、それだけつらい日々が延びるだけですから・・・・。
合掌。


第45回
今、幸福にある人は、注意しなさい。
今、幸福でない人は、喜びなさい。


お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在されていたときのこと。お釈迦様は、この山で多くの法話をされてきた。その日も、お釈迦様の法話がある日であった。街からは、大勢の人々が、霊鷲山に集まってきていた。
「・・・・人々よ、いつも言うように、この世は常に移り変わっています。一つとして、同じ状態であるものはありません。常に変化しているのです。それは、生命や物質だけのことではありません。日々生活している、その状況も変化するのです。
たとえば、仕事にしても、毎日同じ仕事ではありません。昨日と全く同じ仕事、ということはありえないのです。家庭内の仕事でもそうです。毎日、少しずつではあるかも知れませんが、昨日と同じ、と言うことはないのです。あなた方の周り、あなた方の心の内、あなた方の身体そのもの、何もかもすべて一定ではなく、変化していっているのです。
ですから、今、幸せにあるもの・・・・。仕事が安定し、家庭が円満で、満足を知り、何不自由なく暮らしている人々は、注意しなさい。なぜならば、その幸せがいつまでも続くと勘違いしてしまい、気が緩んでしまうからです。その気の緩みに魔はつけ込んできます。そうなれば、ちょっとした変化にも気が付かないものなのです。
世は常に変化して流れています。その変化に気が付かなければ、やがて大きな流れに呑まれてしまうこともあるのです。ですから、よくよく注意している必要があるのです。
今、幸福で安定しているからと言って、安心してしまわないことです。悪いときが来るかもしれません。気を緩めないように、油断しないことです。」
その話を聞いて、人々は、
「そうだ、そうだ、油断はいけない。何が起こるかわからないからね。気をつけよう・・・。」
と、ささやき合っていたのであった。

「さて、今、不幸にある人々よ。そういう人々は、嘆く必要はないのです。むしろ、その不幸にあることを喜びなさい。」
お釈迦様のこの言葉に、人々はどよめいた。
「不幸を喜べだって?。そんなバカな。」
「お釈迦様は、何を言っているんだろう。そんな、不幸を喜べなんて・・・・。」
「そんなの無理だよ。不幸にあることを喜ぶことなんてできないさ。。」
「いや、待て待て。お釈迦様のことだ。何か深い意味があるのかも知れない。」
「そうだ、最後まで話を聞いてみよう。」
しばらく人々は騒いでいたが、次第に静まっていった。お釈迦様は、それを待っていたかのように話し始めた。
「皆さん、驚いたことでしょう。しかし、私は真実を話しただけです。もう一度言いましょう。今、不幸にある人々は、嘆く必要はない。むしろ、不幸にあることを喜ぶがいい・・・。
確かに、不幸を喜ぶということは、難しいことです。なかなかできることではありません。だからといって、嘆いていても仕方がないことです。それに、大事なことがあります。それは、世の中は何もかも同じ状態ではなく、常に変化している、ということです。
つまり、今、不幸にある人も、時がたてば、その不幸に変化があるのです。いつもいつも不運であるということはないのです。ただし、その不幸の変化をよく観察していないといけません。己の不幸や不運に嘆いて、クサッてしまっていてはいけません。必ず、不幸や不運には変化があるのですから、その変化を捉えて、幸運や幸福へと進むよう努力すればよいのです。
今、幸運にある方は、その幸運が終わることに恐怖しなければなりません。しかし、今、不幸にある方は、いつかはその不幸が終わるのですから、何も怖いものなどありはしないでしょう。むしろ、幸運に転じる機会に恵まれているのですから、喜んでいいのです。
幸運からさらに幸運へと転じることは難しいですが、不幸から幸運へと転じることは可能でしょう。ですから、今、不幸にある人は、嘆くことなく、よく変化を観察し、幸運へと転じる機会を掴むことです。
よいですか。嵐の来ない年はありません。また、嵐が去らないこともありません。幸運・不運の波は、誰にでもあることなのです。その波に呑み込まれないようにすることが大事なのです。
それには、油断せず、クサらず、怠らず、時の流れ、世の変化を見ることです。世の中は常に流れています。常に同じ状態ではありません。それを忘れないように・・・・。」
こうして、その日の法話は終わったのであった。この話を聞いた人々は、
「確かになぁ・・・。お釈迦様のおっしゃることはわかるよ。しかしなぁ・・・。まあ、幸せなときは、油断しやすいから、そりゃあ注意した方がいいに決まっている。しかしなぁ・・・。不幸にあるとき、それを喜べというのはなぁ・・・。」
「そうだよね。素直に喜べやしないよね。」
などと話し合っていた。

そんな中に、ある二組の夫婦がいた。片方の夫婦は、身に着けている物も高価そうなものであった。立ち振る舞いも、どことなく上品さがあった。その夫婦は、大きな商いをしていたのである。子供にも恵まれ、生活は安定しており、なんの不自由もない夫婦であった。その夫婦は、霊鷲山からの帰り道、お釈迦様の話について語り合っていた。
「あなた、うちは大丈夫かしら。一応、商売は安定しているけど・・・。子供達も、問題なく育っているし。うちは大丈夫ですよね。」
「あぁ、安心していなさい。私が油断せず、毎日眼を光らせていますからね。大丈夫ですよ。」

もう一組の夫婦は、いかにもみすぼらしく、とても幸福そうには見えなかった。
「そうなのかなぁ・・・・。」
「なにが?。」
「いや、お釈迦様の話だよ。不幸を喜ぶ方がいいのかなぁ・・・と思ってね。」
「あんた、バカダネェ。うちは、何にも変わらないよ。毎日同じくらしさ。あんたの稼ぎも毎日同じで悪いし、食べるものも着るものも、毎日同じ。何の変化もなし。変わっていくことと言えば、年をとっていくことだけだね。他は変わることはないよ。」
「そうかなぁ・・・。でも・・・。」
「でもじゃないの。さ、帰って働いておくれよ。」
その夫婦は、街の片隅で木工細工を作って売っていた。夫の方は、なかなか器用で、木工品ならたいていのものを作る腕を持っていた。しかし、何が悪いのか、なかなか売り上げは上がらなかったのである。

霊鷲山でのお釈迦様の話から数ヶ月がたった頃のこと。外洋で大きな嵐があった。海は大荒れだったため、貿易の船が何艘も沈没してしまった。そのため、貿易商を営んでいる人たちは、商品に不足が出始めたのだった。その影響で、街の貿易商の中には店をたたむところも出てきた。大きな商いをやっていたあの夫婦の店も貿易商であった。
「あなた、大丈夫なの、お店を開けて?。嵐で商品が届かないんじゃないですか?。」
「あぁ、嵐にはまいった。確かに、商品は届かないけど、大丈夫だ。ほら、商品はここにある。」
「そうなんですか?。でも、どうして・・・。」
「いつだかのお釈迦様の話、覚えてるかい?。あの話を聞いてから、私は商品を少しずつ蓄えていたんだよ。嵐はいつ来るかわからない。貿易商にとって嵐は大きな敵だ。売り上げがいいときに、少しでも備えておこうと思ってね。お釈迦様のいうとおりにしておいてよかったよ。あの話を聞いていなかったり、聞いても信じなかったものは、今頃大慌てさ。調子がいいときに、幸運や幸福であるときに、注意をして怠りなく準備しておくことは大事なことだね。」
といって、微笑んでいたのであった。

一方、木工細工の夫婦も忙しくしていた。嵐は、海だけでなく、海に近い街にも被害をもたらした。その影響で、家具や食卓、椅子などが不足しだしたのである。普段は家具類などは作らないその木工細工屋も、家具の注文をたくさん受けていた。
「世の中わからないねぇ。こんなに注文が来るとは。もう驚きだよ。」
「あぁ、こういっちゃなんだが、嵐のおかげで儲けさせてもらえた。ありがたいことだ。」
ところが、忙しさは嵐の後始末が終わってからも続いたのだった。しかも、その頃には、細工物も頼まれるようになっていた。
「おかしいねぇ。いい加減、もう嵐の後始末は終わったろうに・・・。」
「あぁ、実はね、俺が作った家具が評判がよかったらしい。それで、木工細工物も欲しいって言う注文が入ったんだよ。」
「あぁ、そうだったのかい・・・。それにしても、世の中本当にわからないものだよ。この間までは、仕事がなくって困っていたのに。あんたがいくらいいものを作っても、ちーっとも売れなかったのに。」
「あぁ、そうだな。そう思うと、お釈迦様の話を思い出すな。」
「えっ?。どんな話だい?。」
「なんだ、忘れたのか。世の中は常に流れているって話さ。あのころは、苦しかったけど、クサらずに努力し続けてよかったよ。世の中わからない。どこでどう変化するかな。嵐の来ないことはないし、嵐が去らないこともない、クサらず努力しなさいと、お釈迦様はおっしゃったが、まさにその通りだ。」
「そうだねぇ。貧しくともやけを起こさず、努力してきてよかったねぇ。人の運なんてわからないものだねぇ・・・。」
その夫婦は、そういってしみじみとお互い見つめ合っていたのであった・・・・。


人の一生というものは、本当にわからないものです。浮き沈みはあるし、幸運・不運の時期と言うのもあります。一生、幸運で安定している・・・・などということはありません。幸運を維持するのにも大変な努力が必要なのです。
逆に、一生、不幸のままで終わるはずもないのです。本来ならば。しかし、世の中には、一生不幸で終わってしまう人もいます。
それには理由があります。それは、不運に見舞われると、人は打ちひしがれて沈んでしまいがちになるからです。自分の不運を嘆き、不幸に拗ね、クサッてしまうからです。不運や不幸に立ち向かおうとせず、ただ嘆き、やる気をなくし、努力を捨て去ってしまうからなのです。そういう態度だから、チャンスがまわってきても、幸運の時期に入っても、それを生かすことができないんです。だから、一生不幸で終わっていってしまうんですね。

どんな人にも、いいとき・悪いときの波はあります。いつも幸運で安定している、不運で一定している、というわけではありません。
ですから、今、幸運期にいる方は、そのチャンスを逃さず、いっそうの努力をするといいでしょう。そして、いずれやってくる運気が落ちるときに備えることです。また、いつ何どき災いが起きるかわかりません。そのために、先を見越してよく注意して準備を進めることです。
今、運気が悪く、不幸にある人は、いずれ来る幸運期に備え、しっかり努力しておくことです。己を磨いておくことです。そうでないと、いずれやってくる幸運の波に乗れません。一度、幸運の波を逃せば、次はいつやってくるかわかりませんからね。だから、そのチャンスを必ず掴むように、己を磨いておくことです。

こうしてみると、幸運にあるとき、幸福である時と言うのは、実は危険なときでもあるのです。気が緩みますからね。そういうときこそ、注意が必要なのです。
今、不運である方、不幸である方は、実はチャンスなのです。喜ぶべきなのです。そういうときこそ、己を磨くときなのですから。しっかり準備を整えて、来る幸運に備えるのです。

私はよく人に運気を尋ねられます。
「今、幸運の時期ですか?。不運の時期ですか?。」
と。
幸運にある方には、そのまま言います。
「幸運期ですよ。ただし、調子に乗らぬよう注意して下さい。いずれ運気が落ちる時期がやってくるからそれに備えるように・・・・。」
と。あまりよくない運気にある方には、こういいます。
「この時期の過ごし方であなたの将来が影響を受けます。運気が低迷している今がチャンスです。やがてくる運気の上昇時に乗るために、しっかり努力しておくように。その努力の仕方によって先が変わってくるのですよ。」
と。

最近、変な占い師が跋扈していまして、運気が悪い!、何をやってもダメ!などと大声で叫んでますが、そうじゃないんですよ。運気が悪いときは、喜ぶときなのです。努力しだいで未来を変えることができるチャンスなのですから。運気が悪い、不幸だ、と言うときは、己を磨くいいチャンスなのです。
ですから、そういう時は、決してクサッちゃいけないのです。喜んで不運の時期を過ごすのです。時は流れ、何もかも同じ状態であることはないのですから・・・・。合掌。




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