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第46回
他人が幸福であろうと、不幸であろうと、
気にしてはいけない。
ただ、己の幸福のみを思い願うことだ。


コーサラ国の王宮の中でのことである。国王の居室や客室などを清掃するために、女官たちが集まっていた。
女性が集まれば、昔も今もおしゃべりに花が咲くのは変わりはない。女官たちは、掃除する手よりも、口を忙しく動かしていた。
「ちょっと、聞いた?。女官長、別荘の管理に廻されるらしいわよ。」
「あぁ、聞いたわよ。かわいそうよねぇ。あの年になって別荘行きとは・・・。」
「威張っていたからじゃないですか。偉そうに第一王妃にも意見してましたし。」
「まあ、いい気味といえば、いい気味だけどね。」
「それにしても、今度、女官長になるサーマディ様、運のいい方ですよね。」
「うらやましいわ〜。私もああなりたい。」
「あんたにゃあ、無理だよ。」
「それにしても、どうしてこう違うのかしら。私だって、よく働くのに・・・。」
「器量もさほど変わりはないし・・・、かい?。」
「そうそう。どこに差があるのかしらねぇ。」
「差があるといえば、国王の趣味も差がありすぎよね。王妃様の趣味の差が・・・。」
「これこれ、そういう話はいけませんよ。」
「そうですね。じゃあ・・・・。」
彼女たちの話は尽きることは無かった。その話多くは、女官仲間の不幸話や、他人の運がよかった話などであった。そういった話題には困ることはなく、彼女たちは毎日のように他人の噂話で盛り上がっていた。そして、最後は、
「あぁ〜、私たちって、不幸だわ・・・・。」
で終わるのであった。

このことを快く思わない者がいた。第二王妃のマッリカーであった。マッリカーは、国王に相談した。
「王様、女官たちのことなんですが・・・。」
「なんじゃ。女官たちがどうした。」
「噂話が絶えないのです。他人の幸・不幸のことばかり・・・。」
「女性はそういうものじゃないのか。否、衛兵たちでもよく噂話をしているようだ。それぐらいは、いいのじゃないか。」
「そうでしょうか。他人の幸・不幸を噂していても、それは自分たちの幸せのためにはなりません。彼女たちは、自分で不幸を招いているのではないでしょうか。」
「まあ、確かに、人の幸運をうらやんだり、不幸を嘲り笑ったりしてはいけない、とお釈迦様もおっしゃっているがな。」
「その通りです。私たちは、よくお釈迦様のお話を聞いていますから、そういうことに気付くのでしょう。今度は、あの女官たちや衛兵たちにお釈迦様のお話を聞かせたらどうでしょうか。」
「うん、そうじゃな。それはいいだろう。よし、早速手配しよう。」
こうして、王宮の女官や衛兵たちのためにお釈迦様が招かれることとなったのである。

その日、王宮のすべての女官、衛兵を前にして、お釈迦様の話が始まった。
「あなたたちは、幸せになりたいでしょうか。心の安楽を得たいでしょうか。」
お釈迦様の問いかけに、皆がうなずいた。
「ならば、あなたたちは、他人のことなど何も考えないほうがいいでしょう。他人のことなど気にしないで、自分の幸福のことだけを考えなさい。自分が幸せになるには、どうすればいいか、それだけを考えなさい。人の事などどうでもいいのです。」
「そ、それは・・・お釈迦様の言葉とは思えませんが・・・・。それでは、冷たい人間になってしまうのではないでしょうか。」
「よいのですよ。」
「しかし、お釈迦様は、他人の幸せも気にかけよと・・・・。」
「あなたたちが他人のことを気にかけるのは、心より他人の幸せを願ってのことでしょうか。」
お釈迦様の厳しい言葉に、あたりは静まり返った。
「あなたたちが他人のことを気にするのは、その人が不幸になった時とか、幸運を妬んで話をするときだけでしょう。そうではありませんか。それでは、あなたたちに幸せが訪れることはないでしょう。
よく考えて御覧なさい。他人の幸せを妬ましく思い、噂話をすることによって、あなたたちは幸せになれますか?。心が安楽になりますか?。他人の不幸を面白おかしく噂しあうことによって、あなたたちに幸福はやってきますか?。何も不安の無い状態になれますか?。
他人が不幸であろうと幸福であろうと、そんなことは気にしてはいけないのです。そんなことはどうでもよいことなのです。大切なことは、自分が幸せになる、ということです。
成功した人や幸せをつかんだ人の話を聞いて、参考にするのはいいでしょう。しかし、他人を妬んだり、嘲笑したりしても、幸せはやってきません。それよりも、本当の幸せとは何か、それを得るにはどうすればよいか、それを考えて、行動したほうがいいのではないでしょうか。」

ここまでお釈迦様の話を聞いても、どことなく納得できない顔をしたものが、まだいたのであった。お釈迦様は、さらに話を続けた。
「他人のことを気にしないようにする、というのは一見冷たいように見えるかもしれません。しかし、他人に対して、中途半端な同情をすれば、それはかえって不幸をもたらすでしょうし、恨まれる元にもなるでしょう。他人が苦しんでいるのを見過ごせないのなら、その人の苦しみがなくなるまで面倒を見てあげるべきではないでしょうか。他人を苦しみから救おうと思うのなら、救う側が本当の幸せとは何か、ということをよく把握していないといけないでしょうし、また、救う側が心が安定していなければ、苦しんでいる人のためになる言葉を与えることはできないでしょう。
たとえば、健康な人がお年寄りの荷物を持ってあげることはできても、不健康な人がお年寄りの荷物を持ってあげることはできない、ということと同じです。心が健康でなければ心を病んでいる人を救うことはできないのですよ。
ですから、他人のことは気にしないほうがいいのです。妬んでもいけないし、羨んでもいけないし、蔑んでもいけないのです。他人のことなど気にしないで、ただただ、己の幸せを願いなさい。幸せになるためには、どうすればよいかを考えなさい。」
お釈迦様の話を聞いて、そこに集まった女官や衛兵は、深く反省をするのであった。

翌日のこと、廊下の影からマッリカーは、女官たちの様子をこっそりと見て微笑んでいた。
「うん、お釈迦様のお話が効いたようね。みんな、静かに仕事をしているわ。仕事の効率もあがったようだわ。この調子で続けて行ってくれるといいわね。」
と・・・・。
マッリカーは、そのことを国王に報告したが、国王は
「いやいや、そのうち元に戻るだろう。わしのようにな。」
国王は、大食漢をお釈迦様に注意されていたのであるが、一向に治らなかったのである。
「まったく・・・・。国王様には困ったものです・・・・。」
マッリカーは苦笑していた。


「人の不幸は蜜の味」
などという、嫌な言葉があります。
とかく、他人の不幸話は盛り上がってしまう・・・・というのが世の中でして。そんなことは、どうでもいいのにねぇ、と思うのですが。みなさんは、そう思いませんか?。
人の幸福をやたら羨ましがる方もいますよね。
「いいなぁ、あの人は・・・。あんな生活をして・・・・。」
「あぁ、あたしもあんなふうになりたいなぁ・・・。」
などなど。成功した方の、それまでの努力は見ないで、結果だけを見て羨ましがっている。あるいは、自分だけが取り残されたような気分になって、拗ねてみたり・・・・。
人のことばかり気にしてないで、あなたには、やるべきこと、があるでしょう、と思うのですが、なかなか伝わらないようでして・・・・。

人が成功している姿をみて裏やましいとか、人が生き生きとしている姿を見てああなりたいとか、思うのでしたら、自分も真似してみればいいのですが、どうもそう思う方は、その成功した人、生き生きした人の現状だけを見ているようでなのです。つまり、結果だけを見て羨ましがっているんですね。そこまでに至る過程を見ていないんです。大事なのは、なぜその状態に至れたか、ということなのに。
人の不幸を喜んでいる方は、人が自分よりも劣っていることを確認して、安心しているんですね。自分よりも不幸な人がいる、ということで安心感を得るのです。これって、よくよく考えてみれば、これって惨めですよねぇ〜。

人が成功しようが、生き生きとしていようが、不幸であろうが、そんなことはどうでもいいじゃないですか。そんなことよりも、自分の幸せについて、真剣に考えて欲しいです。他人のことを羨んだり、蔑んだりしている暇があったら、自分自身のことをもっと考えて見ましょう。幸せになるにはどうすればいいか、じっくり考えて見ましょう。答えがわからなければ、成功した人に聞くか、相談できる人に聞いてみればよいのです。

人のことなんて、気にしなくていいのです。まずは、自分が幸せになることが大切なのです。自分が幸せにならなければ、他人のことまで頭が回らないでしょう。
まずは、己の幸せを願うことです。合掌。


第47回
自分は愚かだ、と口先だけで言っているものには
真の幸福は訪れない。
心から自らの愚かさを認めねば、何も変わらないのだ。

お釈迦様がサールナートに滞在されていたときのことである。
その地にある男がいた。その男は、名前をハラチュンダといった。彼は、なかなかよい仕事に恵まれず、一つの仕事が長続きしなかった。怠け者・・・というわけではなかった。人当たりもよく、腰も低く、明るく、気さくな性格だったので、多くの者からも好かれていた。
「ハラチュンダさんは、いい人なのにね、なんで仕事に恵まれないのかねぇ・・・。」
「働き者なのにね。他人にも親切だし。なのに仕事には恵まれないね。世の中うまくいかないもんだねぇ・・・。」
などと、ハラチュンダの知り合いは、噂しあっていたのだった。ハラチュンダは、その性格のよさからいくつも仕事を紹介されるのだが、それでもなぜか長続きしなかったのである。
そんなある日、支援者が現れた。その人は、
「いっそのこと、自分で仕事を始めたらどうかね。自分が経営者になればいいんじゃないか。あんたの人柄なら、みんなが応援してくれるよ、きっと。」
といってくれ、さらに、
「店を始めるための開店資金を貸してあげるから、自分でお店を開くようにしたらどうだい?。」
と言ってくれたのである。

ハラチュンダは喜んだ。そこで、どんな店をやったらいいか、どのあたりに店を出せばいいか、街の占い師に聞きにいったのだった。
「そうさねぇ・・・。ここから、東へ少し行った所にある料理屋が、しばらくすると閉店するじゃろう。そこを借りるがいい。そのあとを継げばいいのじゃ。料理屋をやればいいのじゃよ。」
「そうですか。わかりました。では、そこを探してみます。東へ少し行ったところですね。」
大喜びのハラチュンダに、その占い師は暗い顔をして
「お前さん、今までいくつも仕事をダメにしたねぇ・・・。それはなぜだかわかるかい?。」
と聞き返してきた。ハラチュンダは、ニコニコしながら
「はい、わかってます。それは私が馬鹿だったからです。愚か者だったからですよ。今度は、もっとよく考えて、しっかり努力します。だから、大丈夫ですよね。」
と答えたが、占い師は浮かない顔だった。
「大丈夫?。そんなことは、お前さん次第だよ。お前さん、料理屋をやるのはいいが、やり方を間違えないようにね。経験者などによく相談することだ。自己判断は避けるんじゃ。お前さんは、愚かだからのう・・・・。」
とため息をつきながら言った。ハラチュンダは、
「はい、わかってます。私は愚か者ですから、よく人に相談します。一人じゃ、できませんし。」
そういうと、その占い師の所をあとにした。占い師は、その後姿を見て、
「本当にわかっているのかねぇ・・・・。」
と一人つぶやき、またため息をついていた・・・・。

その占い師が言った通り、しばらくすると街の東のほうで、料理屋が閉店した。ハラチュンダは、これだとばかり、早速その店を借りることにした。ハラチュンダ自身は、料理は作れなかったので、その料理屋が今まで雇っていた料理人を引き続き雇うことにした。つまり、経営者だけが替わったわけである。
しかし、前と同じ料理では、流行らないと思ったハラチュンダは、支援者に相談して、大衆向けのお酒を飲める店にしたのであった。
店は繁盛した。ハラチュンダの知り合いの人たちは、口々に励ましの言葉をかけていった。
「よかったねぇ、ハラチュンダさん。繁盛してるじゃないか。今度は、長く続くといいね。」
「はい、ありがとうございます。今度は大丈夫ですよ。今までのことを心から反省して、よく考えて仕事してますから。今までの私は愚か者でしたからね。」
「まあ、頑張っておくれよ。応援してるからね。」
ハラチュンダは、有頂天になっていた。

ハラチュンダの支援者は、そんな彼の姿を見て、忠告していた。
「ハラチュンダ、初めから言っていることだが、繁盛するのは初めの三ヶ月だ。本当の勝負は、そのあとだ。わかってるね。最近、気が抜けているようだが、大丈夫かい?。」
「わかってますよ。みんな働いてくれてますから。安心です。」
「ならばいいが。人任せにしっぱなし、ってことはないな。先のことは考えてるな?。」
「もちろんです。大丈夫です。でも、私は愚か者ですから、助けてくださいね。」
「あぁ、わかってる。だから、こうして忠告しているんだ。お前が忠告を聞いてくれればいいだけだ。ちゃんと、私の忠告通りに考えて行動してくれればいいのだ。」
「はい、もちろんそうします。」
ハラチュンダの返事は、いつものようにハキハキしていた。

しかし、しばらくすると、ハラチュンダの店は、次第に客足が遠くなっていった。彼はあせって、あわてて支援者のところへ駆け込んでいった。
「どうしてか、客が来なくなりました。どうしてでしょうか。」
「お前は、馬鹿者か!。まったくわかっていないな。あれだけ口をすっぱくして忠告したのに。私の指導した通りにしなかったじゃないか。愚か者め。」
「はぁ・・・・。はい。私は愚か者です。私はダメな人間ですねぇ・・・。」
「口先だけで反省したってダメだ。もう、私の手には負えない。相談するのなら、他の人に聞くがいい。そうそう、開店資金だけは返しておくれよ。」
そういわれて、ハラチュンダは、あの占い師のところにいった。
「なんとかなりませんか。このままでは、お店がつぶれてしまいます。」
「あんた、何でそうなったか、わかっているかね?。」
「はぁ・・・。それは、私が愚かだからです。」
「それがどういう意味かわかっているのかい?。わかっていないじゃろう・・・。なんともならんねぇ・・・。あんたは、愚か者じゃ。口先だけの愚か者じゃ。」
「どうしたらいいんでしょうか?。」
「あんたに忠告しても、いうことを聞かんじゃろ。わしの手には負えん。他に行っておくれ。」
「そこをなんとか、助けてください。何でも聞きますから。」
「話を聞くだけで実行せねば同じじゃ。帰れ。帰ってくれ。」
そういわれて、ガックリとしたハラチュンダは、占い師の店を出ようとした。その時、
「お釈迦様がサールナートにいらっしゃる。説教してもらえ。」
と占い師はいったのだった。

ハラチュンダは、お釈迦様の下へ駆け込んだ。そして、そこまでに至る事情を話した。お釈迦様は、厳しい表情でハラチュンダに問うた。
「なぜ、そうなったか、あなたはわかっていますか?。」
「はい、わかっています。それは私が愚か者だからです。」
「あなたは、本当に自分のことを愚か者だと思っているのですか?。」
「はい、そう思っています。私は、ダメな人間です。」
「うそはいけません。仏陀の前でうそを言うのなら、すぐに立ち去るがよい。汝に言うべき言葉はない。正直な気持ちを打ち明けるなら、話をしよう。」
お釈迦様の言葉にハラチュンダは顔色を失った。ハラチュンダは、何も言えなかった。

しばらくの沈黙の後、お釈迦様の厳しい言葉が響いた。
「何も言えぬか・・・・。よいか、口先だけで、自分は愚かだ、馬鹿だ、などと言っていても何も変わらない。それで幸福になろうと思っても無理な話だ。心から自分が愚かだと思わなければ、自分を変えることなどできないのだ。
汝は、心から自分のことを愚かだと思っていないであろう。自分は愚か者だ、と言っていれば、失敗したときの言い訳になる、ただそれだけで、自分は愚か者だ、といっているのだろう。そう言っていれば、謙虚な人だ、と思われるからであろう。
多くの者が、汝を助けようとした。助けようとして、様々な忠告を与えてくれた。様々な指導をしてくれた。いろいろなことを教えてくれた。ところが、汝はそれを素直に聞いただろうか。忠告を素直に受け入れただろうか。
心の中では、『そんなこと言われなくてもわかっている、偉そうにものを言うな』、とふんぞり返っていたのではないか。皆の忠告を舐めていたのではないか。真面目に聞き、真剣に考えただろうか。
口先では、自分は愚か者だから助けてくれ、などといっておきながら、実際には他人の忠告など聞かずに怠惰な生活をしていた・・・・。そうであろう。」
お釈迦様のきつい言葉に、ハラチュンダはボソボソと話し始めた。
「はい・・・。その通りです。今回の料理屋もそうです。初めは繁盛していたので、他からの忠告は聞き流していました。これが俺の実力だ、と思っていました。ですから、こんなに客が来なくなるなんて、思ってもいませんでした。そのうちに客が来なくなるときがくる、とは言われてましたが、そんなこと耳に入りませんでした。俺は実力がある、だから大丈夫だ、そう思い込んでいました。愚か者だとは・・・・思っていませんでした・・・。」
「今はどうだ?。今はどう思っている?。」
「はい。自分は、本当に馬鹿だったと思ってます。ちゃんと、みんなの忠告を聞いて、日ごろ努力を重ねていけばよかたっと・・・・。本当に私は愚か者だった。救いようのない愚か者だった・・・・。」
そういうと、ハラチュンダは泣き崩れたのであった。
「そこまでわかればよろしい。もう一度、汝の支援者のところへ行き、心を入れ替えて一から出直すから、最後の願いを聞いてくれ、と頼んできなさい。何度も何度も頭を下げて。わかったね。これが最後の助けだ。今度、同じ過ちを繰り返せば、もう救いはない。それをよく心にとどめておきなさい。」
そういわれ、ハラチュンダは、支援者のところへすぐに行ったのであった。

それ以来、ハラチュンダは、本当に腰の低い、謙虚な働き者なった。もう、自分のことを愚か者、などとは言わなくなった。そんなことをいうくらいなら、経験者や支援者に相談に行き、よき助言を受けていた。そうして、ハラチュンダは変わっていったのであった・・・・。


「私ってダメだ。ダメな人間だ・・・。」
という愚痴をよく言う方に会ったことはありませんか?。あるいは、酒場あたりでそういう愚痴を延々としゃべっている方を見たとか・・・・。
自分のことを
「ダメだ、ダメな人間だ・・・。」
と言うことは、決して悪いことではありませんよね。一応、反省しているんですから。
しかし、それって、本当に心のそこから「自分はダメな人間だ」と思っているのでしょうか?。

自分のことをダメな人間だ、と言うことは簡単なことです。でもね、ダメな人間だ、で終わっているようではいけないんですよ。そこで終わっていては、それは
「自分ことを本当にダメな人間だと思っていない」
と同じになってしまうんですよ。わかりますか?。

自分のことをダメな人間だ、愚かな人間だ、と心から思うのなら、他人のアドバイスを聞くでしょ。忠告を聞くでしょ。人からのアドバイスや忠告を聞かない、ということは、心のどこかで、自分に対する愛着があるからでしょう。頑固だからでしょう。どこかにプライドがあるからでしょう。本当に心から、自分は愚かだと思うのなら、謙虚に他人のアドバイスを受け入れると思うのですが・・・・。

「俺ってダメな人間だよな・・・・。」
「私ってダメな女なのよねぇ・・・。」
と口先だけで言っていては、本当にダメな人間になってしまいます。
口先だけ、ポーズだけ、それだけで「ダメな人間、愚か者」などと言ってはいけません。心からそう思うのならいいのですが、口先だけではダメなのですよ。
心から自分のことを愚か者だ、と認めることができれば、素直に忠告やアドバイスを聞き入れることができるでしょう。そうすれば、変わっていけるのですよ・・・・。合掌。


第48回
地道な努力なしでは、何も得られない。
簡単に得たものは、簡単に失っていく。楽をして得られるものは、何も無いのだ。


「あ〜ぁ、どこかにうまい話は転がっていないかな。俺も早く、あんな大金持ちになりたいよ。」
クリナーラが見上げた先には、大きな屋敷が並んでたっていた。そこは、マガダ国の首都ラージャグリハの郊外で、商売などで成功したものが住まう屋敷だった。
「クッソ〜、こんな仕事をしてたんじゃあ、いつまでたっても大金持ちにはなれない。いい話があったら、こんな仕事辞めてやる。」
クリナーラは、家具店の店員をしていた。注文を受けた家具を製造し、配達するのだ。手先もそこそこに器用で、体力もあったクリナーラは、店では重宝がられ、家具造りや配達に忙しく働いていたのだった。その日も、ある屋敷に注文の家具を届けに来たところだったのだ。
「忙しい割りに金にならねぇ。なんか、大きな金をつかめる仕事は無いかな・・・。」
そう独り言をいいながら、クリナーラは、屋敷内に家具を運び込んでいた。
「おいお前、家具屋がいやなのか。」
そう声をかけたのは、その屋敷の主だった。クリナーラは、驚いた。
「今、そう言っていたじゃないか。忙しいが金にならんと。辞めたいのか?。」
「あ、いや、その・・・・。」
「大丈夫だ。家具屋の店主には黙っててやる。それよりも、儲けたいのならいい話があるぞ。」
「本当ですか。」
「あぁ、金儲けをしたいのなら、いい話がある。楽な仕事じゃないがね。どうだ、やるか?。」
「お金になるのなら、何でもやります。」
「そうか、なら、奥へ来い。話をしてやる。」
ひょんなことから、クリナーラは家具店を辞め、その屋敷の主に雇われることとなったのである。

しかし、それは過酷な仕事だった。山に入り、宝石の原石を掘り当てるという仕事だったのだ。確かに、原石を掘り当てれば、大金が手に入った。実際、大きな宝石の原石をたくさん掘り当て、大金持ちになったものもいたのだった。
「いいか、クリナーラ、大金をつかみたいのだろ。なら、この山を掘れ。堀りまくれ。この山にはな、宝石の原石が埋まっているんだ。わしもそれを掘り当てて、大金持ちになった。ここまでの金持ちになるまで、何年掘り続けたことか・・・・。いいか、クリナーラ、大金持ちになりたいのなら、何年かかってもいいから、堀まくるんだ!。」
そういわれたクリナーラは、懸命に山を掘り続けた。しかし、幾日過ぎようとも、宝石の原石を掘り当てることはできなかった。
3ヶ月が過ぎたころ、クリナーラは飽きていた。
「ケッ、こんなこといくらやっていても、話にならねぇ。疲れるだけで一銭にもならねぇじゃねぇか。俺が掘り当てた宝石といやぁ、家具屋で働いていたときの給料とほとんど同じじゃねぇか。こんなことなら、前のほうがましだ。」
その夜、クリナーラは宝石堀りの現場から逃げ出していた。

ラージャグリハをブラブラしていたクリナーラに声をかけるものがいた。
「クリナーラじゃないか。大金は得られたのか?。」
それは、家具店の前の店で働いていたときの仲間だった。
「あぁ、お前か・・・・。いや、金なんか無いよ。いい仕事なんかありゃしねぇ。おい、なんかうまい話は無いか?。」
「あるわけないだろ。あったら、俺がやってるよ。」
「あぁ、楽に稼げないかなぁ〜。簡単に大金が手に入らないかな〜。」
「クリナーラ、そりゃあ無理だろ。そんないい話は無いよ。」
「その通りですのう。」
そう二人に声をかけた老人がいた。托鉢中のマハーカッサパだった。マハーカッサパは、お釈迦様の弟子で、長老の一人であった。
「お二人さん、楽に稼ごう、楽して生きよう、楽に大金を得よう、などと考えないほうがいい。楽に大金が手に入る、などということはない。地道にコツコツ働くほうが、幸せをつかめるというものじゃ。それに、簡単に手に入れたものは、簡単に失うものじゃよ。苦労して手に入れたものは、身につくものじゃ。どんな金持ちも、そこに至るまでは苦労しているのじゃよ。楽に現在の地位を得たわけではなかろう。
よいかな、楽することばかり求めると、結局は、不幸になるばかりじゃよ。そのことをよく考えることじゃ。では、また・・・。」
マハーカッサパは、そういうと托鉢へと去っていったのだった。
「ふん、うるせぇんだよ。俺の人生だ。好きに生きるさ。くそジジィ!。」
クリナーラは、その背中に叫んだ。
「俺はな、今に必ず大金を手に入れるさ。楽をしてな。そのときを見てろ!。」

そんな二人にある男が近づいてきた。
「君たち、お金儲けがしたいのか。ならばいい話があるんだが・・・・。」
その男の話によると、その仕事というのは、マガダ国内ではなく、他国で珍しいものを見つけてくる、というものだった。珍しいものが見つかったら高く買い取る、というのだ。その買取値段を聞いて、二人は喜んだ。そういう仕事なら、旅もできるし、面白そうなので、引き受けることにした。
「では、早速、旅に出てください。できれば、南方がいいのですが。あちらなら、珍しいものがたくさんありますから、簡単に大金が手に入るかもしれませんよ。」
その男は微笑んでそう言った。

2ヵ月後、二人は一文無しだった。その間、いろいろな国のいろいろな珍しい物を持ち込んだが、ほとんど金にならなかった。たまに、いい値で買い取ってもらったりもしたが、そうしたお金は、あっという間に使い切ってしまっていた。
「結局、金にならないか・・・。もっといい仕事ないかなぁ・・・・。すぐに金になるような。」
「あぁ、こんなしんどい仕事は、もういやだ。楽に稼ぎたいよ・・・。」
ブラブラしていた二人に、また、声をかけるものがいた。
「君たち、いい仕事があるよ・・・・。ふっふっふ。」
と・・・・。

半年後、クリナーラとその友人は、マガダ国の司直の手によって捕まっていた。詐欺と窃盗の罪であった。ラージャグリハの街中を手かせ足かせをつけられて引き摺られていく二人の横を、托鉢中のマハーカッサパが通り過ぎていった。クリナーラは、その後姿を見てつぶやいた。
「あぁ、あの爺さんの言うとおりだった・・・。楽に稼げることなんて無い。俺も、あの爺さんの後姿のようになりたかった・・・・。」
去っていくマハーカッサパの後姿は、背筋が伸び、堂々として自信に満ち溢れていた。神々しくさえあった。
「これからでも遅くない。罪を償ったらお釈迦様のもとへ来るがよい。まじめにコツコツ修行すれば、自信を持てるようになるじゃろう・・・・。」
マハーカッサパは、そうつぶやいていた・・・・・。


誰しも、苦労はしたくありません。できれば楽をしてお金を得たいものです。お金だけではありません。何でも楽をして手に入れたい、身につけたい、と思うのが人間ってものでしょう。
勉強しないでいい学校には入れたら・・・・。運良くいい仕事について、どんどん出世できたら・・・・。買った株で大もうけできたら・・・・。宝くじが当たったら・・・・。
などと夢を見る方は、多いと思います。

しかし、多くの場合、夢は夢なんですよね。なかなか成就しません。それに、簡単に手に入れたものは、失っていくのも早いものです。
たとえば、一気に人気が出た商品や会社って、落ちていくのも早いでしょ。アイドルでもそうですよね。急激に売れ出したアイドルって、忘れ去られるのも早いものです。
でも、しっかり実力をつけ、地道にコツコツ努力した結果、売れ出した方や商品、会社というのは、そう簡単に消えたりはしません。それは基盤が違うからです。
世の中の成功者、といわれる方だって、簡単にその地位や名誉を得たわけではないでしょう。楽をしてきたわけではないでしょう。人知れず努力し、苦労を重ねてきたことと思います。イチロー選手なんていい例ですよね。

楽をしたい、苦労をしたくない。それは誰もが持つ希望です。誰だって苦労はいやです。しかし、楽をして得るものなんて、所詮「泡の如し」です。夢まぼろしです。夢が覚めたとき、手には何も残ってはいないでしょう。
楽を得たいのなら、その前に苦を乗り越えねばならないのが世の常なのです。地道な努力なしでは、何も得られません。楽をして得られるものなど、何も無いのです。現実は厳しいものなのです。
結局は、地道にコツコツ努力したものが、勝っていくものなのです・・・・。合掌。


第49回
父母の恩に報いることは大切である。
しかしそれは、父母の言いなりになることではない。
真実の親孝行とは、子孫が幸せに暮らすことである。
「私たちは、このように多くの恩を受けてこの世に生きています。」
今日もお釈迦様の法話には、大勢の人々が集まってきていた。
「自然の恩恵を受け、国の恩恵を受け、国王の善政による恩を受け、多くの人々の恩を受けているのです。ですから、決して一人で生きているのではありません。一人で生きていけるものでもありません。多くのものに世話になって生きているのです。
ですから、自然や国、国王、多くの人々に感謝しなければなりません。また、その恩に報いるためにも、自然を大切にし、国の平和を願い、善政に協力し、他の人々が生きるということを手伝ってあげることが大切なのです。」
この話に人々は、大きくうなずいていた。

「さらに、父母の恩があります。生みの親がわからない場合は、育ててくれた親代わりの方の恩ですね。そういう恩があります。あなたたちが、今こうして命があるのもあなたたちを産み、育んでくれた親があるからでしょう。
よく、『産んで欲しくなどなかった』とか『産んでくれと言った覚えは無い』などと、悪態をつくこともあるし、そういう経験をした方も多くいることでしょう。確かにこの世に人として産まれ、生きていくことは、つらく苦しいこともあります。否、むしろ、この世は苦の世界ですから、苦しいことの方が多いのです。しかし、この世に人として生まれてこなければ、幸福への道は開かれないのだし、また、様々な喜びも味わうことはできないのです。この世に人と生まれてこそ、覚りを得る機会に出会えるのだし、幸福を得られる機会が与えられるのです。ですから、あなたがたは、父母に感謝する必要があるのです。父母の恩に報いることが大切なのです。
が、しかし、注意しなくてはならないのは・・・・。」
多くの人々は、この話を静かに聴いていた。しかし、その多くの人々の片隅に、ブツブツいいながら聴いていたものがいた。ナーガナーラ夫妻である。
「いい話じゃねぇか、なあ、おい。そういえば、うちのどら息子夫婦は、わしらをちーっとも大事にせん。」
「ほんとにねぇ、あの嫁ときたら、わたしらが困っていても知らん顔だ。」
「そうだ、すぐに家に戻って、嫁にお釈迦様の話を聞かせてやろう。わしらの恩に報いろ、とな。」
「そうじゃ、それがいい。あんた、すぐに帰ろう。」
こうして、ナーガナーラ夫妻は、そそくさと帰っていってしまった。お釈迦様の話がまだ途中であったのに・・・。

家に戻ったナーガナーラ夫妻は、早速息子夫婦を呼びつけた。
「お釈迦様がな、親の恩に報いなければならない、とお説きになった。いい話だった。お前らにもぜひ聞かせたかった。よいか、これからは、お釈迦様のお話の通りにするんじゃ。だから、わしらを大切にするようにな。」
「そうじゃ、そうじゃ。お前ら息子夫婦は、私ら親を大切にするんじゃ。それがどういうことかわかるな。」
「は・・・い。はぁ、お釈迦様がそうおっしゃっているなら、間違いは無いでしょう。しかし、今までも、私たちは、お父さんお母さんを大切にしてきたと思うのですが・・・・。」
「何を言っとるんじゃ。お前らが、いつわしらを大切にしたんじゃ?。うん?。」
「そうじゃ、そうじゃ。私らをほうりっぱなしにしておいて。よくもまあ、そんなことを言えたもんじゃ。」
この言葉に、息子夫婦は、お互いに顔を見合わせた。息子夫婦は、決して親夫婦を放っておいたわけではないのである。

ナーガナーラ親子は、一緒に住んでいたわけではなったが、舅や姑が大きな声で呼べば、すぐに駆けつけられる距離に住んでいた。親夫婦は、まだ元気で、舅は職人だったので、今でも適度に働いてもいたし、姑も普段から元気で、家事一切をこなしていた。だからといって、息子夫婦は、親夫婦を放っておいたりはしなかったのである。毎日、顔を見せてもいたし、たまには豪勢な食事にも招待もした。演劇や見世物にも連れて行ったりもしていた。欲しいものがあれば、できるだけ要望に答えてもいた。息子夫婦は、誰もが認める親孝行な息子と嫁だったのである。
「いいか、お前ら。明日からは、わしらが苦労しないように、何でも言うことを聞くのじゃ。いいな。」
「そうじゃ。それがお釈迦様のおっしゃったことじゃ。お釈迦様のいうことを聞かねば、お前ら地獄に落ちるぞえ。」
「はい・・・。わかりました。」
息子夫婦は、そう返事をするしかなかった。

翌日から、ナーガナーラ夫妻の我が侭な日々が始まった。
「腰が痛いから揉め」
「食事の準備ができてない」
「洗濯物をしろ」
「街の宝石店で見た金の細工物が欲しい」
「たまには、王様が行くようなところでうまいものが食べたいのう」
「遊びに行く金が無いんじゃ。都合つけてくれ」
「いいか、婆さんには内緒じゃ。女がたくさんいる店に連れて行け」
「よいかのう、じい様には内緒じゃ。あの大きな金剛石がついた指輪が欲しいのう」
二人の要求は、だんたんとひどくなっていった。しかし、息子夫婦は、
「お釈迦様のいいついけだ。守らなくていけない・・・。」
といって、親の言いなりになっていったのである。

ある朝、いつものようにナーガナーラ夫妻が、息子の嫁を呼びつけて騒いでいた。そこへ、たまたま托鉢に目連尊者が通りかかった。
「おや、あなたはナーガナーラさんのところのお嫁さんでしたね。どうしましたあわてて・・・。」
「これは目連尊者様。お恥ずかしい所をお目にかけてしまいました。」
「ふむ・・・。どうやら深い事情がおありのようですな。あなたも少しやつれているようだ。よろしければお話しなさい。」
その言葉に、嫁は涙ながらに話し始めたのであった。
「お釈迦様は、ひどいです。こんなにつらい思いをさせるなんて・・・・。」
と・・・・。
一通り話を聞いた目連は、
「よろしい、よくわかりました。あなたは、誤解をしていますよ。お釈迦様は、そのようなことは説いていません。親の言う通りにしなければ地獄に落ちる・・・などとはね。私に任せておきなさい。」
そういうと、目連尊者は、ナーガナーラ夫妻のところを尋ねた。そして、
「二人ともすぐにお釈迦様のもとに来なさい。」
といって、二人を連れ出していったのだった。

お釈迦様の前でナーガナーラ夫妻は、縮こまって座っていた。
「あなた方は、とんでもない勘違い、聞き違いをしていたようですね。あなた方は、最後まで私の話を聞きましたか?。」
お釈迦様の問いに、ナーガナーラ夫妻は顔を見合わせ
「あぁ、そういえば・・・。わしらは途中で帰ってしまいました。あぁ、そうです。あの時は、まだお釈迦様の話の途中じゃった・・・。」
「そうでしょう。あなた方は最後まで話を聞いていなかった。だから、大きな間違いを犯してしまったのです。人の話は最後まで聞くものです。途中で勝手な判断をしては、誤解を生じてしまいます。その誤解は、大きな間違いへと発展していきます。よろしいですか?。」
「はい。申し訳ないです・・・・。」
二人は、素直に謝った。
「では、あの時の続きの話しをしてあげましょう。恩に報いることは大切だ。あの時、私はそう話しましたね。」
「はい、そうです。そう聞きました。」
「確かに、恩に報いることは大切です。しかし、恩を受ける方は、その恩に報いることを利用して、甘えたり・怠けたり・自分の言いなりにさせようとしてはならない、のです。
たとえば、国王が国民に、『国を守ってやる代わりに、たくさんの貢ぎ物をしろ、働いた分はすべて国王に貢ぐのだ』と言ったらどうなりますか?。」
「そんな国王は、国民を苦しめるだけです。」
「そうですね。そんな国王ならば、国民は暴動を起こし、国の平和は乱されてしまいます。
また、人々が、『お前は俺の恩に報いる必要がある。俺はお前が着ているものを作った本人なのだからな。感謝しろ、恩に報いろ』と言い出したらどうなりますか?。」
「そんな世の中になったら、感謝しろ・恩に報いろ、と言うものばかりで、誰も働かなくなってしまいます。」
「そうですね。それでは、国が滅んでしまいます。」
お釈迦様は、ナーガナーラ夫妻をやさしく見つめた。

「いいですか。恩に報いると言うのは、恩を受けた側が自然に行うものなのです。感謝の念から、自発的に行うものなのです。自然の恵みを受けているから大切にしよう、国の恩を受けているから平和を乱すような迷惑なことはやめよう、国王のおかげで平和に暮らしているのだから少しは税を納めよう、人々がいるからこそ自分たちが生活できるのだから人々に親切にしよう、また、自分たちも働こう・・・・・、というように、自発的に行うものなのです。それを恩があるから、その恩に報いろ、と要求してはならないのです。
同じように、親も育ててやった恩があるから、我々を大切にしろ、と要求してはならないのです。」
「はぁ、そうなんですか。要求してはいけないですか・・・。」
「あなたがたは、親の恩に報いるにはそうするべきだと思いますか?。親孝行とは、どんなものだと思いますか?。」
お釈迦様がナーガナーラ夫妻に問うた。
「それは・・・親を大切にすることです。」
「親を大切にするとは?。」
「そうですなぁ・・・。親に苦労させない。親の面倒を見る・・・でしょうか。」
「どうすれば親は苦労しないでしょうか?。親の面倒を見るとは、どういうことでしょうか?。」
「・・・・・・。」
「たとえば、親の身体の調子が悪く、働けないとか、動けないとか、親だけでは暮らしていけないとか、そう言った状態ならば、子供たちは、親が楽に暮らせるよう、食事の世話や身体の面倒、暮らしの世話を見てあげるべきでしょう。では、あなたたちのように、まだまだ元気で働くこともできるし、家事もこなせる、という親ならば、どうすればいいでしょうか?。」
「そうじゃな、私は・・・・欲しいものを買ってくれるとか、うまいものを食べさせてくれるとか・・・・。ですじゃ。」
「うーん、わしもそうじゃな、何でも言うとおりにしてくれれば最高じゃな。」
「あなたたちは、そこを勘違いしているのです。」
「勘違い?、ですかな?。」
ナーガナーラ夫妻は、怪訝そうな顔をしたのだった。

「よいですか。あなたたちが言ったことは、親の恩に報いることは大切である、と言うことを利用して、自分たちの欲望を満たそうとしているだけなのですよ。よく考えて見なさい。
あなたたちは、我が侭を言っているに過ぎないのです。そんなことをさせても、あなたたちのためにはならないでしょう。ますます欲望が増えていくだけではないですか?。」
その言葉に、二人はうつむいてしまったのだった。
「はぁ・・・。まあ、確かに、贅沢をいうたかもしれません・・・・。」
「身勝手な欲望じゃないですか。あなたがたは、自分たちの欲望を顕わにしたに過ぎないのです。それは、誤った欲望ではないですか?。そういう欲望は、際限なく増え続けるものです。私が普段、欲を慎みなさい、と説いているでしょう。欲望は自らを滅ぼしていくものなのですよ。」
お釈迦様の叱咤に、二人は声も出せなかった。
「よいですか、本当の親孝行とは、あなたがた親の欲望をかなえてあげる、ということではないのですよ。ましてや、親の言うことは何でも聞く・言うとおりにする、ということでもありません。
親の恩に報いる、ということは、親に感謝し、親に心配させないようにする、ということなのですよ。本当の親孝行とは、親に迷惑をかけず、心配をかけず、親が安心して暮らせるように配慮してあげることを言うのです。それが親孝行と言うものですよ。
親に心配をかけないということは、子世帯だけで生活していけるということでしょう。
親に迷惑をかけないということは、子夫婦が安穏に仲良く暮らしている、ということでしょう。
親が安心して暮らせるように配慮するとは、子世帯が親の近くに住んでいようと遠くに住んでいようと、親が何の憂いもなく生活していけるように配慮してあげることでしょう。
決して、親に贅沢をさせる、親の言いなりになる、親の欲を満たしてあげる、ということをいうのではありません。」
この言葉に、二人はさらに小さくなっていった。

「聞くところによると、あなた方の息子さん夫婦は、あなたたちに突然の出来事があってもすぐに駆けつけられるところに住んでいたというではないですか。毎日あなた方の様子を見に来ていたというではないですか。たまには、あなたがたを食事や演劇に招待したそうではないですか。
また、あなたがたは、どうみても健康そうで、働くことも家事も十分できるようですね。それなのに、自分たちの欲望を満たさんが為に、過度の要求をするのは、親孝行をさているのでも何でもありません。ただ、贅沢を、我が侭をいっているに過ぎないのです。それは恩に対する感謝を受けているのではなく、過度の要求をしているに過ぎないのです。
そのおかげで、息子さん夫婦は、苦労している。苦しんでいる。ご存知でしたか?。気がついていないでしょう。あなた方も人の親ならば、子供世帯が幸せに暮らせることを望みなさい。」
お釈迦様の厳しい言葉に、ナーガナーラ夫妻は、深く反省したのであった・・・・。


親孝行は大切なことでしょう。我々が今、こうして生きていられるのも、親のおかげです。親がいたからこそ、我々が存在していられるのです。
中には、「産んで欲しくなかった」、「産めとは頼んでない」と思っている方もいるかもしれません。よくありますよね。
「こんなに苦労するなら、こんなにつらい思いをするなら、産んで欲しくなど無かった・・・」
と言う方。でもね、つらいこともあれば、いいこともありますから。また、いい出会いもあるでしょうし。今、このお話しを読んでいられるもの、この世に生まれてきたからですよ。そう思えば、生まれていいこともあるでしょ。悪いことばかりではありませんよね。それを途中で、早くに結論を出して人生を止めてしまう、と言うのはよくないですよね。つらい人生と言うのなら、生き続けて、いい思いをしてから人生を終える方がいいでしょう。
だから、「産んで欲しくなかった・・・・」などと考えてはいけないんです。生き続けていれば、「産んでくれてありがとう」と思う気持ちになれますよ、きっとね。

さて、「生まれてきてよかった」と思えるのなら、この世を適度に楽しんでいるのなら、今、生きていることを喜び、この命を与えてくれた親、育ててくれた親(或いは親代わり)に感謝しなくては・・・ね。それにはどうしますか?。やっぱり、親孝行ですよね。でもね、親孝行って、結構難しいものだと思います。中には、親孝行をするべきだ、ということを強く思い込んでしまっている親もいますからね。そういう親って、ちょっと大変・・・・のようですからね。

親孝行とは、どういうことでしょうか。本当の親孝行とは、どうすればいいのでしょうか。
本当の親孝行とは、親に安心を与える、ということです。親に心配をさせない、ということです。決して、親の言うことを何でも聞いてあげる、親の言いなりになる、親の欲望を満たしてあげる、と言うことではありません。
親の言いなりになったりしたら、それは親の欲望を増長させるだけです。欲望が増長する、ということは、我が侭三昧になる、ことですから、周りに迷惑をかけることは間違いありません。子供たち、孫まで含めて、きっと振り回されてしまうでしょう。それは、親の罪を増やしているだけなのです。
親孝行というのなら、「親の言いなりになることが親孝行だ、と言うことは間違っている」とビシっというべきでしょう。「それは親孝行でもなんでもない」とね。

親孝行は、親に安心を与えることです。安心して暮らせる、何の心配もなく生活できる・・・・。そうした環境を整えることが親孝行でしょう。それには、まず子供世帯が平和に暮らしていることが大事なのです。子供世帯が平和に暮らしていないと、親世帯まで配慮が行き届かないですからね。親の面倒を見ようと思うのなら、まずは、自分たちがしっかりしないといけません。
親も、自分たちの面倒を見てもらいたいのなら、子供世帯が平和であることを先に願ったほうがいいですね。子供世帯が安穏であって始めて、親のことを心配できる余裕が生まれるのですから。

親孝行と親の欲望を満たしてあげることは、決してイコールではないのです。このことを、親も子もよく理解しておかないと、親子関係はギクシャクしてしまいます。
親は子の幸せを願い、子は親が安穏に暮らしていけるよう配慮する。それが親子関係がうまくいく秘訣でしょう。親は、子に過度の要求をしないことですね。合掌。



第50回
初めから「できる」、「完成されている」ということはない。
誰もが、地道な努力と経験により、
実力と自信を身につけ、完成していくのだ。

「あぁ、もうやめた。俺にはできない。あぁ、やっぱり俺は不器用なんだ。合ってないんだ、この仕事は。すみません親方、やめさせてください。」
ケーナヤーナは、そういうとその店を飛び出していた。そこは、貝殻細工を造って販売する店だった。彼は、その店に2ヶ月ほどいただけだった。
店を飛び出したケーナヤーナは、
「今度こそ、俺に合った仕事をみつけるぞ。だいたい俺は、身体を動かしている方が向いているんだ。」
そういって、身体を使ってできる仕事を探していた。
そんな時、ケーナヤーナは、マガダ国の王宮内の庭木の手入れをする職人を募集している、という話を聞き込んできた。しかも、未経験でもいいという。人手が足りないから、見習いから雇ってくれるというのだ。雇い主は王宮である。食いっぱぐれはない。早速、ケーナヤーナは王宮へと向かった。

「未経験なんですが、雇ってもらえるでしょうか。」
「あぁ、いいとも、やる気が合って、我慢強いものなら雇ってやるよ。だけど、2〜3ヶ月で辞めると言うのならこなくてもいい。なるべく長く勤めて欲しいからな。さぁ、どうするかね。」
「もちろん、すぐに辞めるなんていいません。どんな仕事でもやります。僕は、外では働いている方が合っているんです。だから、お願いします。」
「おぉ、そうか。それなら雇ってやろう。しっかり仕事を覚えて、一人前の庭師になれるように頑張るんだな。」
「はい、頑張ります。」
こうして、ケーナヤーナは、マガダ国の王宮で働くことになったのだった。

ケーナヤーナは張り切って働いていた。庭師の仕事は彼に合っていたようで、仕事を覚えるのも早かった。
「この分なら、半年もすれば、立派な庭師になれそうだな。俺って、天才だな。へっへっへ。」
彼は、明るく、充実した毎日を過ごしていた。
彼の働きは、王宮内でも有名になっていた。誰もが、
「今度入った若い庭師見習いは、よく働くし、気が利くね。」
と噂しあっていた。そして、その噂は、ビンビサーラ王にも届いていたのだった。
「そうか、久々に働きのいい若者が来たか。これであの老庭師のいい跡継ぎができる。王宮の庭もこれで安心だな。」
「さようですな、王様。なにせ、あの老庭師は頑固でして。弟子が次から次へと逃げ出す始末。もう少し上手に指導してあげればいいのですが・・・。」
「宰相よ、そういってやるな。彼も焦っているのだろう。年をとっていく自分の後継者が早く欲しいのだ。だから、ついつい口調が荒くなるし、厳しくもなる。そういうものだよ。まあ、なんにしても、その若者が長続きして、よき後継者になるとよいのだがな。」
ビンビサーラは、王宮の庭でこまめに働く若者を見て、宰相たちとそう話していたのだった。

しかし、1年も過ぎたころ、彼はふてくされ始めていた。それは、このところ、毎日のように親方から叱られるからだ。
「何度言ったらわかるんだ。そこはそうじゃねぇ、こうやるんだ。」
今日もケーナヤーナは怒られていた。
「違うって言ってるだろ。こうやって切らなきゃ、格好がつかねぇだろ。」
毎日毎日怒鳴られてばかりのケーナーヤーナは、すっかり自信をなくし、やる気も失せていた。
「やっぱ、俺には才能なんてないんじゃないのか。俺は、やっぱだめなんだな、何をやっても・・・。はぁ〜、辞めようかな、こんな仕事。でもなぁ・・・。」
彼は悩んでいた。
そんな彼をビンビサーラ王は、心配していた。
『あの若者、このままでいくと辞めてしまいそうだな。せっかく才能がありそうなのに。最近の若者は我慢が足りんからな・・・。う〜む。どうしたことか・・・。そうだなぁ、お釈迦様に相談してみるか。』
国王は、すぐさまお釈迦様のもとへと急いだのであった。

しばらくして、お釈迦様が弟子を数名つれて王宮へとやってきた。国王が食事に招待をしたのである。食後、国王とお釈迦様一同は庭に出た。庭の食卓につき、甘い飲み物を飲みながら、国王は言った。
「お釈迦様、どうですかこの庭は。よく手入れがしてあるでしょう。」
「そうですね。この庭の手入れは、あの方たちが行っているのですか。」
お釈迦様が手を向けた方には、老庭師とケーナヤーナが庭木を切っていた。
「えぇ、そうです。ここへ呼びましょうか。」
国王はそういうと、老庭師とケーナヤーナを呼び寄せた。ケーナヤーナは、老庭師の後ろの方に小さくなって立っていた。お釈迦様は老庭師に尋ねた。
「見事な庭ですね。たいした腕です。何年ほどこの仕事をしていますか?。」
「お褒め頂いてありがとうございます。わしはかれこれ、50年になりますか。この頃では、腕が思うように動かなくなりました。」
「いやいや、そんなことはないでしょう。見事な腕前です。いつの頃からこれほどのわざができるようになったのですか?。庭師になり始めた頃からですか?。」
「いえ、とんでもないです。弟子入りした頃は、毎日怒られてばかりで・・・。一人で庭を任されるようになったのは、弟子入りして20年ほどたったころでしょうか。わしは、不器用でして・・・・。ずいぶん迷いながら仕事をしていました。」
「ほう、そうなのですか。」
「はい、今でも迷いがあります。これでいいのかどうか、と。なかなか満足いく仕事はできぬものです。そういうものじゃないでしょうか、お釈迦様。」
「そうですね。私でも最初から覚っていたわけではありません。初めから仏陀ではなかったのですからね。そうですか、満足いく仕事をする、ということは難しいことですね。」
「へぇ、そうです。なかなかこれでいいんだ、と自信を持って言える仕事はできぬものです。それなのに、わしのところに弟子入りしてきたものは、わしの弟子になれば、すぐに庭師として一人前になれると勘違いしている。こういう仕事は経験がモノをいいます。何年も何年も経験して、庭木の気持ちがわかるようになってこなきゃいけない。しかし、それがわからないんです。この頃の若者は、ちょっと怒るとすぐに辞めていく・・・・。困ったものです。」
「私の弟子たちでも、同じですよ。弟子入りしてすぐに覚れるものではないのに、弟子の中には、私に弟子入りしたらすぐに覚れる・・・と勘違いしているものもいます。そんなに簡単にいくわけはないのですが・・・。」
「ほう、お釈迦様のお弟子さんでもそうですか。それじゃあ、そこらへんの若者じゃあ、辛抱が足りないのも仕方がねぇ。」
「そうですね。誰でも最初からできる、うまくやれる、なんてことはないのです。どんな名人も始めから名人であったわけではないのですが、それがなかなか理解できないのですね。ちょっと練習すれば、ちょっと修行すれば、自分も名人になれる、覚れる、と思い込んでいる。困ったものですね。」
「へぇ、おっしゃるとおりです。最近の若者は、そこまで至るまでの過程がないんです。長年の苦労をしたくないようでして。そんなに簡単なことなんてないんですがね。わしでも、自信を持って仕事をできるようになったのは、ここ10年です。それでも迷いはある。それが理解できないんですよ。」
お釈迦様と老庭師のやり取りを聞いて、ケーナヤーナはさらに小さくなっていた。

「その点、今いる若者は大丈夫なのではないですか。よく働くと聞いています。」
「へぇ、こいつなんですが、なかなか見所があります。わしなんかよりも覚えが早い。しかし・・・。」
「しかし、なんです?。」
「こいつも辛抱が足りないようでして。このところふてくされている。辞めようかどうしようか迷っているんです。だから、余計に腕が鈍っているんですよ。」
「親方・・・・。わかっていたんですか・・・。」
「当たり前だ、お前のことなんぞ、手に取るようにわかる。何年この仕事をやっていると思ってるんだ。わしだって、若い頃、ずいぶんと悩んだもんだ。才能なんかないんじゃないか、この仕事は合ってないんじゃないか、俺はへたくそなんじゃないか、こんなことでいいのか、本当に成功できるのか、庭師として独立できるのか・・・・。自信なんてありゃしねぇ。いつも心配で心配で・・・・。ただ、他の仕事に移る勇気もなかったし、親方にも世話になっている。裏切るわけにもいかねぇ。それだけで、この仕事にしがみついてきただけだ。
だがな、それがよかったのよ。何も考えず、ただ言われた仕事をこなし、親方の技を見て覚えようと頑張ってきた。それがよかったのさ。
いいか、最初っからわしと同じようなことなんてできるわけがない。経験の年数が違うからな。だから、わしと同じようになるなんて考えるな。わしと同じ年齢になったころ、わしよりも上にいけるように努力しよう、そう考えるんだな。初めから自信も技術もあるヤツなんていやしないよ。わかったか、ケーナヤーナ。」
親方の話を聞いて、ケーナヤーナは、再びやる気を起こしたのであった。
お釈迦様は、
「長年の経験と実績による言葉は重いものです。私も、何も言うことはありません。いやむしろ、私の弟子たちも、いい刺激を受けました。わかりましたか、弟子たちよ。
最初からできる、完成されている、などということはないのです。普段の努力と経験によってこそ、実力や自信がつくのです。悩んだり、迷ったりするよりも、努力を積み重ねることです。」
お釈迦様は、自分の弟子たちを見回して言った。弟子たちは、
「はい、よくわかりました。私たちも初めから覚りを得ようなどと思わないようにします。経験を積み重ねて、少しでもお釈迦様に近付きたいものです。」
といい、精進することを誓ったのであった。
「今日は、とてもいい日でした。感謝します。」
お釈迦様は、老庭師にそう告げると王宮を去っていったのであった。その後姿を見送る老庭師とケーナヤーナは、迷いの去った明るい顔をしていたのだった・・・・。


最近の若者は辛抱が足りない、
と言われています。私は、最近だけじゃないと思います。いつの時代も若者は辛抱が足りない、と年を取った方たちからは思われているのです。長年の経験を積まれた方たちから見れば、若者は辛抱が足りない、と思われるのでしょう。いつの時代も、若者は辛抱が足りない、のです。
だから、辛抱しなくてもいい、といってるわけではないですよ。今回は、辛抱する、しないの話ではないのです。

確かに若者は辛抱しない、というのはいつの時代もあったことでしょう。しかし、特に最近は、それが顕著ではないでしょうか。
仕事が長続きしない、ちょっと失敗するとやめる、ちょっとうまくいかないと嫌になる・・・・。どうも、思うに失敗するのが嫌なようですね、現代の若者は。失敗して怒られるのが嫌なようです。恥をかくのが嫌なんでしょうね。
それと、最初からうまくいかないと不安なようです。始めから成功が約束されていないとやらない、のですね。
いろいろな相談を受けていると、どうもこの頃その傾向が強いように思います。いわく
「失敗しませんよね、成功しますよね。」
「うまくやれますよね、大丈夫ですよね。」
「何にも苦しみはないですよね。嫌なことはないですよね。」
困ったものです。

失敗するかしないかは、その人のやり方もあるでしょう。いくら合っている仕事であっても、努力もせず適当にやっていれば、失敗することだってあります。やるべきことをちゃんとやっていなきゃ、いくらいい運を持っていても失敗しますよ。
最初からうまくやれることなんてありません。自信なんて初めからないものです。初めから自信を持っているものは、「うぬぼれているもの」だけです。そういうものは、かえって伸びないでしょう。失敗して、間違えて、反省して、どこが悪かったかを考え、次はどうするべきかを考察して伸びていくものなのです。
苦しみのないことは、この世にはありません。どんな事柄にも苦しみはツキモノです。その苦しみを乗り越えてこそ、幸せが感じられるのです。だから、その苦を乗り越えよう、と努力しなければいけないのです。

どんなことでも最初から「できる」、「完成されている」、「うまくいく」ということはありません。何事も努力と経験の積み重ねを経て、できあがっていくものなのです。
過程を無視してはいけません。地道な努力と経験があってこそ、実力がついていくのです。過程なくしては、本物にはなれないのです。
経験による裏付けがなければ、簡単に行き詰ってしまいます。ハッタリだけでは、メッキは簡単にはがれてしまいますよ。合掌。



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