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第58回
善き友と行け、悪しき友と行くな。
善き縁を保て、悪しき縁を切れ。
さすれば、汝の道は平穏であろう。
ムータンガとムリタは腕のいい大工と設計士であった。ムリタが設計し、ムータンガが親方となって建物を建てていた。二人は、特に大きな建物・・・・王宮や金持ちのお屋敷・・・・を得手としていた。ムリタの設計は、斬新で王侯貴族や大商人に人気があったし、ムータンガの技術は堅固で安心のできる建物を建てたので、二人の仕事は途絶えることはなかった。
ある日のことである。ムータンガが大商人のヤムーの御殿を建築しているときであった。ヤムーがムータンガに言った。
「ムータンガ、相変わらずいい仕事をしているな。忙しいだろ。」
「はい、おかげさまで忙しい日々を送っています。」
「そうだろうな、それだけの腕を持っていればな。さぞや儲かるんだろうな。」
「いえいえ、そんなに儲かりませんよ。忙しい割には、収入は少ないですよ。」
「そんなことはなかろう、毎日仕事ばかりなんだから。」
「いや、こう言ってはなんですが、ほんの少しの手間賃だけで仕事をさせていただいてますから・・・。」
「まあ、そうなのかもな。わしの屋敷も、思っていたよりずいぶん安くできそうだからな。しかし、そんなことでいいのか。もったいないのう。」
「えぇ、普通の生活ができれば十分なんで。分相応というものですよ。」
「そんなものかのう。わしにはわからんな。金はいくらあってもいいものだぞ。邪魔にはならん。儲けられるなら儲ければいいものだろ。」
「いえいえ、そんな。滅相もない。今で十分です。」
「ふ〜ん、そんな人間もいるのかのう・・・・。」
ヤムーはそういうと、ちょっとムータンガを試したくなってきた。
「そうだ。ムータンガよ。今日の仕事が終わったら、ちょっと付き合え。わしが、一杯飲みに連れて行ってやろう。お前を他の商人仲間にも紹介したいしな。」
「はぁ、ありがとうございます。しかし・・・ヤムー様が行かれるようなお店に、私が入れるでしょうか?。着ていくものも、この作業着しかありませんし・・・・。」
「なーに、そんなことは気にするな。・・・・そうだ、わしのお古でよければ、お前にやろう。」
ヤムーの着ているものは高級品であり、それは王族並みの贅沢品であった。たとえ古着であっても、まったくいたんでもなく、新品同様であった。
「そ、そんなもったいない・・・。よろしいんでしょうか・・・。」
ムータンガはヤムーの誘いを断ることなく、ヤムーの古着をもらい、一緒に高級な店に行くこととなった。

その夜、ムータンガは遅くに帰ってきた。帰りが遅いのを心配していたムリタは、帰ってきたムータンガに問いただした。
「こんな時刻までどこに行っていたんだ。心配したぞ。」
「あぁ。ヤムー様に誘われてね。都の高級店に連れて行ってもらったんだ。」
「そういえば、お前のその格好、どうしたんだ?。作業着はどうした?。」
「この服か?。いいだろう、これ。ヤムー様にいただいたんだ。柔らかな生地だろ。軽くて上品で・・・。これで古着だって言うんだから、金持ちは違うよな。」
「お前な、分相応ってもんがあるだろ。似合わないぞ、そんなもの。俺たちには、いつもの作業着が似合っているんだよ。」
「そうかなぁ・・・。そんなことないと思うんだけど。お店でも、似合っているっていわれたぞ。」
「そんなのお世辞さ。俺たちは、職人なんだ。職人は、いい仕事をすればいいんだよ。」
「そうそう、その仕事なんだがな。ヤムー様が、もっと儲けたらどうだと、そうおっしゃるんだよ。」
「もっと儲けろって?。どうやって。」
「うん、もう少し利益を取ればいいって。なに、手間賃を上げればいいんだよ。たとえば、石を積むだろ、その石積み一個につき手間賃を取るとか、な。」
「そんな必要ないだろ。今まで通り仕事をすればいいんじゃないか。そんなに儲けても使い道がないじゃないか。」
「ヤムー様がちゃんと使い方も教えてくれるってさ。儲け方も、使い方も、しっかり教えてくれる。いい方だよ、ヤムー様は。」
「そうかねぇ・・・。俺にはそうは思えないんだが。俺は、そんなに儲けるよりも、いい仕事をたくさんして、みんなに喜ばれる方がいいと思うんだがな。今でも結構利益はあるんだ。お屋敷とか、御殿とか、宮殿とかを建築したからな。もう十分儲けさせてもらったじゃないか。そろそろ、一般の人たちの家を安く建てるのもいいと思うんだけどな。」
「お前は、いいさ。部屋の中で設計だけをしてればいいんだから。現場にはあまり来ないだろ。」
「その分、お前の方が取り分が多いじゃないか。」
「だから、もっと儲ければいいんだって。ま、俺に任せておけよ。ヤムー様がいいようにしてくれるさ。」
「そうかなぁ・・・・。俺は、あのヤムーさんは、信用できないと思うんだけどね。」
「うるさいな、お前は。そう細かいこというなよ。信用できるって、ヤムー様は。あんな大商人なんだぞ。」
ムータンガはそういうと、怒ってさっさと自分の部屋にいってしまった。ムリタはため息をつくだけであった。

ヤムーの紹介で、大きな仕事が次々と入ってきた。ムリタは、あまり気が進まなかったが、ムータンガのことも思って、仕方がなく設計をしていた。
ある日のことである。ムリタは、気になることがあって、ムータンガが指示をしている建築現場に立ち寄ってみた。しかし、その建物を見て、ムリタは驚いたのであった。ムリタは、ムータンガを現場のはずれへと呼び出した。
「お、おい、ムータンガ、こ、これはいったいどうなっているんだ。設計と違うじゃないか。あんなもろい石を使っちゃいけないじゃないか。崩れたらどうするんだ。」
「いいんだよ。だいたい、あの安い建築代で丈夫な石が使えるわけないだろ。」
「そんなことはないだろ。今までやってきたんだから。お前・・・・石の質を落として、儲けにまわしたな。」
「なんのことかな・・・。俺にはわからんよ。あっ、ヤムー様だ。あぁ、これはこれは・・・。コイツが、設計を担当しているムリタです。」
「あぁ、君がムリタ君か。堅物らしいね、君は。まあ、世の中、固いだけじゃあ、生きてはいけないよ。多少、あくどい部分もないとな。あっはっは。儲けられるときに儲ける。それが商売人だよ、君。もう少し、ムータンガを見習ったらどうだね。君も、お金が欲しいだろ。うん?。」
ヤムーは、ニヤニヤしながら、ムリタに聞いた。
「いえ・・・。私は、今のままで十分です。」
「そうかな?、ムータンガも最初はそう言っていたが・・・。」
「いえ、私は本当に今のままで十分です。それよりも、この現場の材料は、ヤムー様が仕入れているのですか?。」
「そうだが、何か文句でもあるのか?。」
「おい、ムリタ、いい加減にしろよ。ヤムー様に失礼だろ。」
「ムータンガ、お前は黙っていろ。ヤムー様、あの石を使えといったのは、ヤムー様ですね。」
「それがどうした。立派ないい石じゃないか。値段も安い。見栄えもいい、何が気に入らんのだ。」
「あの石は、見た目よりももろいのです。あんな石を使ったら、建物がもちません。崩れてしまいます。」
「いいんだよ。そんなに高さのある建物じゃないだろ。大丈夫、わしに任せておけ。金になるんだからな。」
「おい、ムリタ、いい加減にしろ。お前、もう帰れよ。な、いいな。」
ムータンガは、そういうと、ムリタの襟をつかみ、引きずるようにして外へ連れて行ってしまった。そして、ムリタを突き飛ばすと、
「お前とは、もう縁切りだ。俺はヤムー様と組むことにした。ヤムー様の所にもいい設計士がいるからな。お前はお前の道を行けばいいだろ。じゃあな。・・・あぁ、俺はヤムー様の屋敷に住むことになったから。あの小屋にはもう帰らないから。」
といって、さっさと建築現場にいるヤムーのもとへと走り去っていったのであった。

それから数ヵ月後たったころのことである。お釈迦様は、托鉢に出かけられたとき、大きな屋敷の前にいる一人の男に声を掛けた。その男は、ムータンガであった。
「あなたは、いい縁を捨ててしまった。そして悪い縁を結んでしまった。もったいないことをした。今ならまだ間に合うが、どうするかね?。」
「なんだお前は・・・。あぁ、あのマンゴー苑でうろうろしている修行者か。うるさいから、あっちいけ。ここはまだ空き家だぞ。まだ、完成していないんだ。もうすぐ完成するけどな。だから、托鉢するのなら、あっちへ行った方がいい。俺は食べ物は持っていないんでね。」
「ここに人が入るのはいつかな?。」
「明日だよ。明日。」
「そう、明日ね。やめたほうがいいでしょう。この家には入らないほうがいい。あなたにも災いが訪れる。あなたは、いい友を捨て、悪い友と交わり、いい縁を保つことができず、悪い縁を結んでしまった。これからは、あなたには平穏という言葉はない。司直から追われ、捕まり、冷たいところへ閉じ込められるだろう。残念なことだ・・・・。もう一度聞こう。今なら間に合うが、どうするかね。今ならまだ、救われるのだが・・・・。」
「不吉なことを言いやがる。いいから向こうへ行け。災いがやってくるって?、この俺に?。何を言ってるんだか。いいか、この家はな、俺が金持ちになる第一歩を飾る家なんだ。俺は、今日から大金持ちの仲間入りなんだよ。俺が司直に追われるだと?。捕まるだと?。牢獄へ入るってか?。笑わせるな。」
「そうか、どうあっても心入れ替えぬのか。悲しきかな、悲しきかな・・・・。あのまま、いい縁を保っていれば、平穏な道を歩めたものを・・・。悲しきかな、悲しきかな・・・・。」
そうつぶやきながら、お釈迦様はその場を去っていったのであった。ムータンガは、その後姿を見て、
「けっ、何を言いやがる。」
と吐き捨てたのであった。

それから1週間後のこと、ムータンガが建てた豪邸がもろくも崩れてしまうという事件が起こった。その家のものは、全員家の下敷きとなり亡くなってしまった。国王の指示により早速、家が崩れた原因が調査された。その結果、土台がもろかったのと、使用された石が建築に耐えられないものであることがわかった。司直は建築を担当したムータンガと石を仕入れてムータンガに使わせたヤムーを追い、逮捕するに至ったのであった。
牢獄に入れられたムータンガは、つぶやいていた。
「あの時の、あの修行者の言った言葉通りになった。なんなんだ。何がいけなかったんだ・・・・。確か、いい縁を捨ててしまたっとか、悪い友と付き合ったとか、そんなことを言っていたよな・・・。いい縁を保っていたら、災いは来ないようなことも・・・。まさか、まさか、そういうことなのか?。」
そこへムリタが面会にやってきた。
「ムリタ・・・。俺は・・・・。」
「魔が差したんだよ。今、宰相に頼んできた。お前の罪が軽くなるようにな。宰相も、魔が差したんだろう、といっていたよ。だいたい、王様の宮殿を建てたのも俺とお前だろ。なんとかしてもらえるさ。」
「あぁ、俺は、俺は・・・・。大事な友を捨てたのに・・・。ありがとう、ありがとう・・・・。でも、俺のせいで大勢の人が亡くなった・・・・。俺は・・・・。」
「それは、ちゃんと罪の償いをすればいいじゃないか。いずれここを出たら、また俺と組もうじゃないか。俺は待っているよ。いいな、ムータンガ。」
「あぁ・・・・。このことだったんだ。俺は、こんないい友を邪険にし、あんな悪い者と付き合ってしまった。いい縁を保つことができず、悪い縁を結んでしまった・・・・。」
「そうだな、逆をしなきゃいけなかったんだね。これからは、いい縁を保つようにして、悪い縁を切っていけばいいさ。ここを出たら、ヤムーのようなヤツとは付き合わないようにな。」
「あぁ、もちろんだ。もう悪い人間とは付き合わないよ。いい縁を保つようにする。」
そういうと、ムータンガはにっこりと微笑んだのであった。


今、話題になっている偽装建築と同様の話です。あの設計士も、悪い連中と付き合わず、たとえ貧しくともいい縁を保つようにすれば、こんなイバラの道を歩むことはなかったでしょう。ちょっとした欲の間違いによって、悪しき縁を結んでしまい、善き縁を捨てていってしまったのです。悪しき縁を結び、悪しき友と交われば、平穏な生活は遠のいていくのは当然です。待っているのは、地獄の入り口。付き合う人間で人生が大きく狂ってしまったのです。

こんな大きな問題ではないですが、悪い友と交わると、ロクな事にならない、ということはよく聞く話ですよね。付き合う人間によって、生活が大きく変わってしまいます。
夜遊びする友人と知り合えば、そりゃ楽しいでしょうから、一緒に夜遊びするようになってしまうでしょう。遊びは次第にエスカレートしてしまいます。やがて、勉強は疎かになり、授業についていけなくなり、学校へ行くのが嫌になってしまいます。落ちこぼれ・・・・の典型的な道ですよね。
もちろん、そんな友達を持つ自分が悪いのです。悪い友と交わった自分がいけないのです。おそらく、そういう生活をしているときに、
「そんな友達と付き合わないほうがいいんじゃないか。付き合いをやめなさい。」
などと注意は受けたのではないでしょうか。でも、そういわれたときは、ついつい反発してしまうんですよね。そのときに素直に聞いていれば、つらい道を歩むことにはならないんですけどね。

友というのは、お互いに足を引っ張り合うような関係であってはいけないと思います。お互いに盛りたてていく、励ましあっていく、助け合っていく、というのがいい友なのでしょう。
「お前がいたから、ここまで来れた」
「お前が叱咤してくれたから、助かった」
といえるような関係がいいのでしょう。時には励まし、時には注意してくれ、時には愚痴に付き合って、時には一緒に楽しむ・・・・・。そういう関係が善い縁であり、善い友であるのです。
が、若者にとって、そういう関係は、なかなか難しいのかもしれません。やってはいけないことも集団となればできてしまいます。それは実に楽しいことでしょう。悪魔の所業ですから、楽しいに決まっているのです。後に苦しみが来ることなんて考えていませんしね。

「いいじゃないか、そう固いこといわないで、一回くらいいいだろ。」
と悪い友はささやくのです。
「大丈夫だって、みんなやってるし。大丈夫だよ。楽しいじゃないか。」
と悪い縁者はつぶやくのです。
こういう誘いをする友がいたら、そういう友には、注意をしてあげましょう。
「やめたほうがいいよ。」
と。その友にとって、自分がいい縁であるように。自分がいい友であるようにね。
悪い友の誘いに乗って、一緒に悪の道へと進んでしまえば、それはお互いに悪い縁、悪い友になってしまいます。せめて、友が悪い道へ進もうとしたら、悪い誘いをしたら、それを止めてあげる存在になってください。
そうすれば、あなたはその友にとっての、いい友・いい縁者になるでしょう。
もし、あなたの助言を聞かぬようなら、共に行動をすることは避けたほうがいいでしょう。悪しき縁は断固切るべきです。

悪しき縁、悪しき友と歩めば、平穏な道はありません。勇気を持って、悪い縁は切っておくことです。そして、いい縁を見つけていけばいいのです。悪い友なら減ってもいいのです。いい友を増やしていけばいいのですからね。合掌。



第59回
ものを大切にすることと、ものを捨てないこととは、必ずしも同じではない。
ものを大切にするとは、ものを生かすことであり、ものを捨てないとは、執着の表れである。

お釈迦様はラージャグリハの街中で托鉢を終え、竹林精舎に向かって歩いていた。お釈迦様が、精舎の入り口近くまで来たときであった。一人の青年が、お釈迦様を追いかけて走って来きた。
「お、お待ちください、お釈迦様。お待ちください!。」
「どうしたのだね?。あわてなくともよい、あなたをおいて行くようなことはない。」
「あ、ありがとうございます。はぁ、はぁ・・・。」
「ゆっくり呼吸を整えなさい。あわてなくともよい。あなたが落ち着くまで待っていましょう。」
その青年は、大きく深呼吸してから、お釈迦様に話し始めた。
「すみません、托鉢中なのに申し訳ないです。少し私のお話を聞いていただけないかと思いまして・・・。あっ、しまった!。お釈迦様は、今托鉢を終えられて、精舎へ向かうところですよね?。」
「確かにそうだが、それがどうしたのかね?。」
「あぁ、いえ、精舎に向かっているということは、これからお食事なんですよね?。確か、お釈迦様の教団では、食事は午前中にすまさなければいけないと聞いてますが・・・・。」
「そのことなら、気にしなくてもよい。あなたは、急いでいるのであろう?。」
「いえ、今すぐ、ということではありませんので、お釈迦様のお時間があくまで、待っています。精舎の入り口で待たせてください。お食事が終わったころに、精舎の中に向かいます。よろしいでしょうか?。」
「わかった、それでは、そうしよう。私が食事を終えた後、案内をここに来させよう。その者についてくるがよい。」
お釈迦様は、そういうと静かに精舎の中に入っていった。青年は、その姿が見えなくなるまで見送っていた。そして、お釈迦様の姿が見えなくなると、精舎の入り口の片隅に座ったのであった。

しばらくすると、若い修行者が青年ところにやってきた。
「お釈迦様がお待ちです。どうぞこちらへ・・・。」
その修行者の後について青年は、精舎の中へと入っていった。
「待たせたね、さぁ、あなたの話を聞こう。」
お釈迦様に促され、青年は話を始めたのであった。
「私は、ラージャグリハの外れに住むバラモンの家のものです。名をウッタラプトラといいます。今日は、母親のことで相談に来ました。」
「バラモンのあなたが、私のところへ相談に?。」
「はい、バラモンがお釈迦様の教団をよく思っていないことは知っています。しかし、バラモンでも解決できない事柄をお釈迦様を始め、お釈迦様のお弟子様たちは、幾度も解決をしています。お釈迦様の教えは、バラモンの比ではないでしょう。私の立場でこのようなことは言えないのですが・・・・。そ、それほど、私は困り果てているのです。」
「あなたの決意は、よくわかりました。あなたの母親がどうしましたか?。」
「はぁ、私の母は、悪い人ではないのですが、モノを大切にし過ぎるというか、整理ができないというか、何でももったいないと言って、とっておくのです。捨てようとしないのです。その・・・モノを大切にする、と言うのはわかります。もったいない、と言うことも理解できます。しかし・・・・、何も捨ててあるモノまで拾ってくることはないと思うのです。おかげで、家の中はモノだらけなんです。足の踏み場もない。父も始めは、母に注意をしていましたが、そのうちに同じように、もったいないとか言って、色々なものを拾ってくるようになりました。さらにひどいことには、何か捨てようとすると、すごい勢いで怒り出すのです。モノを無駄にするな!と・・・・。私はいったいどうすればいいのでしょうか?。弟や妹も、居場所がなくて困っています。家の中は、ゴミなのか大切なものなのか、何がなんだかさっぱりわからない状態なんです。いったい、どうしたらよいのでしょうか?。」
「ご両親には、あなたの意見は言ったのだね?。家の中を片付けて欲しい、ゴミはゴミ、大事なものは大事なものと、振り分けて片付けて欲しい、と言ったのだね?。」
「はい、もう何度も言いました。でも、そのたびに
『捨てるものなどない。これはみんな大事なものだ。ちゃんと片付いているじゃないか。』
という始末です。それで、
『寝る場所もないくらいだ、私や弟や妹はどこに寝ればいいのか』
と問うと、
『寝る場所ならあるじゃないか。ほら、こうすればいい』
と言って、その辺にあるものを横にどけるだけなんです。大事なものじゃないのか?、と思うのですが、押し退けるだけなんです。いったい、あの二人はどうなってしまったのでしょうか?。」
「なるほど・・・。モノは拾って来るだけですか?。それとも買ってきたりもするのですか?。」
「はい、そうなんです。拾ってくるばかりだけではなく、出かけるたびに置物などを買ってきて狭いところに飾ったりするんです。どこそこで見つけた珍しいものだとか、幸運の石だとか、吉祥の置物だとか、神様の何とかだとか・・・・。私の家はバラモンの家です。本来は、祭祀のための祭壇があります。ところが、今では祭壇も一体どこの神が祀ってあるのか、さっぱりわからない状態です。これでは、バラモンとしての勤めもままなりません。私には、もうなす術がありません・・・。」
お釈迦様は、そこまで話を聞くと、目を閉じて、瞑想しているかのようになった。
(この青年は、なかなか聡明な青年である。バラモンとしての自覚も常識もある。それなのにここまで困り果ている。ならば・・・。)
しばらくるすとお釈迦様は目を開けて言った。
「よろしい、これからあなたの家に行きましょう。ラージャグリハの外れならば、そんなに遠くもない。では、出発するとしますか。」
というと、お釈迦様は立ち上がったのであった。ウッタラプトラは、あわてて
「えっ、今すぐ来ていただけるのですか?。あ、ありがとうございます。」
と言って、頭を何度も下げるのであった。

ウッタラプトラの案内で、お釈迦様は彼の家に向かった。ラージャグリハの大通りから少し奥に入ったところにウッタラプトラの家はあった。外見からは、極普通のバラモンの家であった。
「外からは、わからないのです。普通の家となんら変わりはありません。ところが・・・。」
ウッタラプトラは、そういいながら玄関の扉を開けた。
「ごらんのありさまです。」
ウッタラプトラが指し示した家の中は、踏む込む場所がないくらいにモノが散乱していた。お釈迦様はそれを見て
「ふむ、なるほど、これでは寝る場所もなかろう。」
と、つぶやいた。
玄関には、置物が乱雑に並べられ、そのために中に入るのに身体を横にして足を引きずるようにして入らねばならなかった。しかも、玄関の床には、靴が何足も散らばっていた。
無理やり身体を家の中に押し込むと、わずかな通路を残して、様々なモノがあふれていたのであった。
「ご両親はどこにいるのかね?。それにしても、これではご両親も困るであろうに・・・・。」
「はい、両親も本当のところは困っているのではないかと思います。今、呼んでみます。父さん、母さん、どこにいますか?。」
ウッタラプトラの呼びかけに、両親が
「うぉ〜い、ここだ、ここ・・・・。何か用なのか?。」
と答えていたが、その姿は見えなかった。
「父さん、母さん、いいから出てきてください。用があるから呼んでいるんです。」
「お前が来ればいいじゃないか。」
「行けるわけないでしょう。このあたりのモノを捨てていいのですか?。」
「捨ててはダメよ、もったないでしょ。モノは大切にしなきゃ。ねぇ、あなた。それが神様の教えなのよ。」
「母さん、モノを大切にするのはわかるけど、限度があるでしょう。こんなふうにしろ、という教えはバラモンの教典には載っていませんよ。」
「載っていなくてもいいのです。うちの家では、それが真実なのよ。」
そういいながら、奥のほうからウッタラプトラの両親が出てきた。
「あら、お客様だったの・・・・・?。おや、これはこれは、袈裟をつけた、モノをもたない出家者じゃないか。いったい、何の用かね?。うちにはあなた方に布施するようなものはないよ。あなたたちに布施をするのは無駄だからね。」
母親の言葉に、ウッタラプトラは青くなり、すぐさま真っ赤になって怒りだした。
「な、なんて失礼なことを!。母さん、この方がどなかたか・・・。」
「いいのだよ、ウッタラプトラ。私に話をさせてください。」
お釈迦様は、ウッタラプトラの言葉をさえぎると、彼の母親に問いかけた。
「あなたのおっしゃるとおり、私たちはモノを持たない出家者です。持っているものは、この身体、心、そして托鉢用の鉢、下衣・中衣・袈裟の三衣(さんね)だけです。」
「そうさ、あんたたちは、何も持っていない。そんな者には用はないね。帰っておくれ。お前さんたちに布施するモノはなにもない。あたしゃ、無駄にはしたくないからね。無駄は嫌いなんだ。」
「無駄は嫌いなのですか?。しかし、この家の中は無駄だらけですが?。」
「ど、どこが無駄なんだね?。この家の中のどこが無駄なのさ?。いい加減なことを言わないでおくれ!。」
「いや、いい加減なことではありませんよ。ほら、ここに無駄がある。そこにも無駄がある。」
お釈迦様が指差したところには、使われていない座具があり、何も入れられていない花瓶が斜めに置かれていた。
「座具は、人が座って初めて役に立つ。モノとして生かされてくる。花瓶は、花を入れてこそ花瓶として生きてくる。人の座らない座具や花の入れられない花瓶は、無駄な存在だとはいえないかな?。」
お釈迦様の言葉に、ウッタラプトラの母親は、言葉に詰まってしまった。しかし、
「そ、そこにあればいいのさ。あたしにとっては、それがそこにあることが生かされていることなのだよ。」
と苦し紛れに答えた。
「ほう、じゃあ、この臥具も丸めてるのがあなたにとっては生かされていることなのですか?。あなたは、臥具に横たわらないのですね?。おやおや、あなたの家はバラモンの家のはずだが、祭壇にあるのは・・・・。」
バラモンの神が祀ってあるはずの祭壇には、動物の置物がいっぱい並んでいた。
「これでは、バラモンの神もここにはいないでしょう。これでは、居場所がないからね。神がいないのでは、祭祀もできない。」
「か、神がいない?。そ、そんなことは・・・・。だって、うちはバラモンの家なんだから、神がいないなんて・・・。」
「では、どこに神が祀られているのですか?。」
お釈迦様の問いに、母親はバラモンの神を祀る祭壇を指差したが、そこにはお釈迦様が指摘したとおり、動物の置物が並んでいた。
「それは神の像ではありませんよ。動物の置物だ。」
「ほ、放っておいてくれ。何もかもあたしにとっては大事なものなんだよ。あたしは・・・・あたしは・・・、捨てられないんだよ。もったいなくってね・・・・。」
そういうと、よたよたとウッタラプトラの母は、へたり込んでしまった・・・。

母親は、ボソボソと語り始めた。
「あたしは、バラモンの家で育ったのだけど、親が厳格な親で、無駄なものを家には置かない・・・という主義だったのよ。だから、あたしには教典以外、何もなかった。女の子らしい人形や置物など、何一つなかった。だからね、せめて結婚してからは、自分の好きなものを、自分の周りに飾りたい、そう思ってね・・・・。ところが、色々集めているうちに、何もかももったいないと思うようになってしまって・・・。捨ててあるモノでももったいなくって。あんたたちのようにモノを持たない人間には、わからないでしょう。こうやって集めたものは、すべてあたしのものさ。あぁ、もったいない。捨てるなんて・・・・もったいないじゃないか。あたしは、モノでいっぱいに囲まれて生きていたいんんだよ。」
「母さん、こんなにあるのに、もっと集めたいの?。もういいじゃないか。」
「何を言ってるんだい。まだまだ足りないよ。世の中の人間はモノを無駄にしすぎる。もっと大切にしなきゃねぇ。いらなくなったら、使えるものでもすぐに捨ててしまう。ものは大切にしなきゃいけないのさ。だから、あたしが、大切に扱っているんじゃないか。」
「使いもせず・・・・にかね?。これらのモノにとっては、この家は牢獄のようなものだ。その意味がわかるであろうか?。」
お釈迦様は、穏やかに母親に問うた。
「モノにとっては、牢獄だって?。どういう意味だい、そりゃ・・・。」
「よく考えてみるがよい。あなたは、モノを大切にしているというが、本当に大切にしているだろうか?。もし、これらのモノが口を利けたなら、喜んでいると言うだろうか?。」
「そりゃあ、捨てられているのを拾ってやったんだから・・・・・。」
「捨てられているのと、拾われた今の状態と、どう違うのかね?。」
その問いに、母親は何も答えなかった。

沈黙を破ったのは、ウッタラプトラであった。
「そうだよ、母さん。捨てられているのと、ここでこうして置いてあるのと、どう違うんだ?。同じじゃないか。母さんは、モノを大切に、といっているが、少しも大切にしていない。ただ、モノに囲まれていたいだけなんだろ!。」
その声に、母親は彼を一瞬にらみつけたが、すぐに下を向くと
「そ、そんなこと・・・・。大切にこうして・・・・。」
「大切に、こうして乱雑に積み上げている・・・・。矛盾していないかね?。」
「じゃあ、あたしは、どうすりゃいいんだい。いったい、どうしろというんだい!。」
「お母様、あなたはモノを大切にする、その本当の意味をわかっていますか?。」
「モノを大切にする、本当の意味・・・・?。」
「そう、モノを大切にすると言うことの、本当の意味です。」
お釈迦様は、そういうと、神通力を使って、埋もれていた花瓶を一つ取り出すと、そこに花を一輪入れたのであった。
「モノは生かしてこそ、喜ぶのです。モノを大切にするとは、そのモノを生かすことです。これは何もモノだけに限ったことではありません。人でもそうです。人でもモノでも、生かしてこそ大切にしている、と言えるのですよ。このように花瓶は花瓶の役目を果たしてこそ、生き生きと輝きを増してくる。人もモノも生かしてあげることによって、その生命を輝かせるのです。
座具は、座るためにあるのです。埋もれさせれば、それは座具ではなく、ゴミです。ゴミにするかしないか、無駄にするかしないかは、それを使う人によるのですよ。いくらいいモノであっても、使わなければ無駄でしかない。いくらいい才能を持っていても、使わなければ無駄なのです。生かしてこそ、輝く命。生かさなければ、単なるゴミなのですよ。家の中にあろうが、外にあろうが・・・・。
あなたは、単にモノに執着しているだけなのです。それは餓鬼の心です。いくらもったいないといっても、無駄に集めることはいけません。それは、モノに対する執着心の表れなのですよ。あなたは、単に貪欲になっているだけなのです。
ましてや、神を祀るはずのバラモンの家で、神の居場所がないくらいモノに溢れさせるとは。神もこれでは立ち退くでしょう。残るのは疫病神か貧乏神か・・・餓鬼くらいのものでしょう。
モノを大切にする、その意味がわかりましたか?。」
お釈迦様の言葉に、母親は言葉を失っていた。そこへウッタラプトラの父親が現れた。
「何もかも私が悪いのです。こいつを止められなかった私が・・・・。バラモンの祭司ともあろうものが、神を祀る祭壇すら守れなかった・・・・。いつか眼が覚めると思いつつ、女房に合わせていた自分が悪いのです。」
「わかればいいのですよ。それよりも、片づけが先でしょう。そうではないですか、お母様?。」
お釈迦様の問いかけに
「あたしにモノが捨てられるでしょうか?。」
「モノを捨てることは、初めは苦しいかもしれません。しかし、少しの辛抱です。家の中が整理され、清潔に保たれれば、気分もよくなることでしょう。家族みんなで力をあわせて、生かせることができるものは生かし、使えるものは使い、飾れるものは場所を決めて飾り、それ以外の生かすことができないものは整理することです。そして、これからは、バラモンの神をしっかり守っていくことです。」
「はい、何とか、この人と息子や娘の力を借りて、モノを整理します。ものを生かしてこそ、モノを大切にしているのですからね。そう思って、頑張ってみます。」
「そうです。モノを生かしてください。そして、この家を家族みんなのために生かすように。でないと、家族の団欒のための家も単なる倉庫になってしまいますよ。それこそ、家がもったいない。家を無駄にしないように。」
「あぁ、そうですね、その通りです。あたしは、家をも無駄にしていたんだ・・・・。」
「それに・・・。」
お釈迦様は、やや厳しい顔をされて言った。
「それに、いくらモノを抱えても満足は得られません。あなたは決して満足はしないでしょう。人間の欲望は限りがありません。モノに執着して無理やり詰め込んでいけば、やがて入り切らなくなり、破裂してしまいます。そうならないためにも、モノに対する執着は慎みなさい。」
「はい、わかりました、これからはモノを生かすように致します・・・・。」
その言葉を聞いて、お釈迦様は再び優しい顔に戻ったのであった。

帰り際のことである。お釈迦様は、ウッタラプトラの玄関に立ち、彼の家族を振り返って言った。
「先ほど、私たち出家者は、三衣と鉢しか持っていないといいました。しかし、私たちはあなたよりも多くのものを持っているのですよ。」
「な、なんと・・・・。どういうことで・・・すか?。だって、持っていないでしょう・・・・。」
「いいや、たくさん持っていますよ。それはあなたの目に見えないだけです。」
「眼に見えない?。まさか、神通力で隠しているのですか?。」
「いいえ違います。私たち出家者は『徳』と言うモノをたくさん持っているのですよ。この家に入りきらないくらいにね。そう、この虚空でないと、納まらないくらいの徳を、我々は持っているのですよ。それ以上のモノは必要ないでしょう。我々にもあなたたちにも・・・・。」
そういうと、お釈迦様はにっこりと微笑んで、去っていったのであった・・・・。


ゴミ屋敷なるものが、ニュースでたびたび話題になります。その映像を見ていると、ぞっとしますよね。使えもしない壊れたモノをうず高く積み上げていたり、散乱させていたり・・・・。はっきり言って、汚いです。汚いどころじゃないですよね。近所の方は、さぞ迷惑だと思います。ゴミ屋敷の住人の方のご家族はいったいどういう暮らしをしているのでしょうね。一人暮らしなのですかねぇ。それにしても見るに耐えない状況です。
現在、あのニュースのようなゴミ屋敷に住んでいる、という方はいないと思いますが、家の中が片付いていない、整理できていない、と言う方はひょっとするといるのではないでしょうか?。
「片付けられない症候群」
とかいうのでしたっけ?。なんでも症候群を付けりゃいいものじゃありませんが、片付けられない人が増えているのではないか、という話はよく聞きますよね。

私は、仕事上、他人の家にお邪魔することがよくあります。お祓いに行くんです。そういう時、たいていの家は、片付いています。また、私が行く前に掃除もすることでしょう。古いお宅であっても、ものが多いお宅であっても、ほとんどの場合、整理整頓されています。足の踏み場もない、なんてことはありえないです。
が、稀に、ゴチャゴチャの家、というのがあるんですよ。整理整頓されていない家があるんです。こういう家は、ちょっと困りますよね。お祓いする気が起きないんです。

あるマンションにお祓いに行ったときのこと。玄関に入ります。靴が散乱しています。下駄箱があるのに、です。下駄箱に入らないのなら、せめて揃えておくのが常識じゃないかと思いますよね。
廊下を見ます。なぜなのかは、わからないのですが、廊下にバスタオルが落ちています。で、横を見ると、洗濯機のおいてあるところに、汚れ物が散乱しています。
部屋を見ます。あぁ・・・布団が敷きっぱなし・・・。ざぁ〜っと見回すと、ノートだかメモ帳だか、本だとか、雑誌だとか、コップだとか、湯のみだとか、新聞だとか、広告だとか、着替えだとか、洗濯したもの?(だと思う)だとか、菓子パンだとか、観葉植物だとか、ラジカセだとか、CDだとか、人形類に水晶玉に飾りものに、縁起物などなどが散乱しているんですね。これでどうやってお祓いしろというのか・・・・・。すっかりやる気をなくしますよね。とても座れないし、お茶を出されても絶対飲めません。トイレなんて見る気もしないです。
これじゃあ、いくらお祓いをしても意味がありません。

常日ごろから言ってますが、汚いところには汚いものしか宿りません。汚く乱雑にしていれば、そこには疫病神か貧乏神しか宿らないのです。なぜなら、モノを大切に扱っていないからです。モノを大切に扱わないということは、モノを無駄にしているということです。モノも元は買ったものでしょう。つまり、モノは、その元はお金です。お金がモノに変わっただけですよね。物を大切にしない、無駄にすると言うことは、お金を無駄にしていることと同じなのです。もったいないからと言って、モノを溜め込むことが、モノを大切にすることではありません。いくらモノを溜め込んでも、それを生かさなければ、ものを無駄にしていることと同じなのです。結局は、お金を無駄にしているのです。そういうところには、貧乏神は好んでやってきます。片付かない家の中やモノに溢れてしまっている家の中は、貧乏神の生息地なのですよ。

家の中を乱雑にする方は、整理できない、捨てられない、という方が多いようです。捨てようとすると、もったいなくなるんですね。もったいないならば、ちゃんと整理整頓すればいいのに、それができないで、そのあたりに放っておくんですね。モノに対してもったいないと思うならば、大切に扱えばいいのに、その辺に放っておくのですよ。これって矛盾してますよね。で、結局は部屋の片隅に山積みになっていくのです。下のほうになったものは取り出せないので、何があるかわからなくなる。それこそ、もったいないですよね。ひょっとしたら大事なものがあるかもしれない。挙句の果てに、同じものを何度も買ってきてしまう。無駄ばかりです。

もったいない、モノを大切にする・・・・その気持ちは、大事なことです。ちょっとだけ使ってすぐに捨ててしまう、というのは、もったいないことです。お金の無駄ですよね。無駄遣いになってしまいます。折角買ってきたものならば、そのモノを十分に生かすように使って欲しいものです。
また、もったいないといって、使いもしないものを溜め込むのも愚かなことです。モノは使ってこそ、なのです。使わないでそのままにしておくなら、それはモノに対して失礼なことです。そのモノを作った人々に対しても失礼ですよね。
使わないものを溜め込んでもいけないし、ちょっとだけ使って捨ててしまうのもいけない。モノに対して執着してもしけないし、さっぱりし過ぎてもいけません。モノを大切にするとは、モノの命を十分に生かすように使うことです。それこそが、モノを無駄にしないことなのです。

家の中、どうでしょうか?。片付いていますか?。家の中を乱雑にしていると、そのうちに家も怒り出しますよ。もっときれいに扱え、ってね。家も大切にしないと、貧乏神を招いてしまいますよ。どうせ招くなら、福の神ですよね。そのためにも、家の中を整理整頓して、きれいに掃除しておきましょう。合掌。



第60回
悲しい現実・つらい事実は、受け入れがたいものだ。
しかし、それが現実ならば、受け入れる以外にない。
つらくとも、それが幸福への道である。
「誰か、誰か・・・・誰か、私の子を・・・・私の子を助けてください。た、助けてください・・・・。」
そう叫びながら、子供を抱えた女性がコーサラ国の都シュラーバスティーを走り回っていた。その姿は、ひどい有様だった。髪を振り乱し、涙・鼻水・涎で顔はべたべたに汚れていた。衣服も汚れ、裸足でよたよたと走り回る姿は、もはや常人とは思えなかった。行きかう誰もが、その女性を見るや、恐れおののいて逃げるのであった。しかし、そんな中でも、助けを求める声に
「どうしたのだね?。」
と答えるものもいた。しかし、声を掛けたものは、誰しも後悔したのであった。その老人もその一人であった。
「なんじゃ、そんなにあわてて、どうしたのじゃ。わしは、医者じゃ。その子がどうかしたのかね?。」
救いを求める半狂乱の女性にその老人は声を掛けた。
「あぁ、ありがとうございます。どうか、どうか、この子をお救いください。救ってくださったのなら、私は何でもします。」
そういって、その女性は、胸に抱えた子供をその老医師に診せた。
「どれ・・・・。うわっ!、な、なんじゃ、これは!。」
「なんじゃって、私の大事な息子です。どうか、どうか、助けてください・・・。」
「助けるもなにも、こ、これはもう死んでおる。あ、あんた・・・。あんたの子は、もう死んでおるんじゃ。これでは、助けようがない。バラモンの祭司のところへ行って、葬ってもらうことじゃ。よいな。あぁ、なんてことじゃ。声を掛けるんじゃなかったわい・・・。」
そういうと、その老医師は、そそくさとその場を立ち去ったのであった。残されたその女性は、ただ一人たたずんでいた。
「誰か、誰か・・・・。この子を助けてください。助けてください。助けて・・・・。」
と、つぶやきながら・・・・。

シュラーバスティーの鬼女・・・の話は、街中に広がっていた。その女に出会っても、絶対声を掛けるな、無視しろ、近付くな・・・。街中の人々は、そう噂しあっていた。そんな中、今日も子供を抱えた女性がどこからともなく、シュラーバスティーの街に現れた。人々は、扉を閉ざし、道行く人は、店の中へと逃げ出すのであった。
「誰か、誰か、誰か、私の子を助けてください。どうか、私の子を・・・・・。」
「私が助けてあげよう。」
シュラーバスティーの鬼女の後ろから、声を掛けるものがいた。それは托鉢中のお釈迦様であった。
「私の後についてきなさい。」
お釈迦様は、その女性にそういうと、彼女を追い越して歩き出した。シュラーバスティーの鬼女は、満面に笑みをたたえ、おとなしくお釈迦様の後ろに従った。
しばらく黙って歩くと、そこは祇園精舎であった。精舎の奥深くまで二人は歩いていった。
「さぁ、そこに座るがよい。」
お釈迦様は、自分の座に着くと、彼女に正面に座るように促した。彼女は、子供が助けてもらえると思い、素直にその言葉に従った。
「あなたは、名前をなんというのか?。」
「わ、私ですか・・・。私の名は、キサーゴータミーといいます。あの本当にこの子を助けてもらえるのでしょうか。」
「キサーゴータミー、よく聞くがよい。その子を救いたければ、その家、またはその家の縁者に死者がいない、という家を見つけて、その家の米を七粒もらってきなさい。あなたが、死者を出したことのない家を探している間、その子は私が見ていてあげよう。」
お釈迦様にそういわれ、キサーゴータミーは、喜び勇んで精舎をあとにしたのであった。

どんどんどん・・・。
キサーゴータミーは、家々の扉を叩いては、
「あなたの家から、死者は出していないでしょうか?、縁者に死者はいないでしょうか?。」
と訪ね歩いた。それは、シュラーバスティーの街中すべての家にわたった。しかし、どの家でも答えは同じであった。
「あんたねぇ、死人を出していない家なんか、あるわけないだろ。帰ってくれ、不吉じゃないか!。」
「この家じゃあ、もう何人も死んでますよ。どの家も同じでしょう。死人を出していない家なんか、ないでしょう。」
そんな中でも、たまには、
「うちからは死人は一人も出していないよ。」
と答える家もあった。キサーゴータミーは、喜ぶのだったが、よくよく聞いてみると、
「あぁ、でも、親戚のおじさんが半年前に亡くなってるなぁ・・・。」
と言われる始末であった。挙句の果てに
「どの家だって、親やその親、またその親が死んでるんだよ。子供だってたくさん死んでる。多くのものが死んでいったさ。世の中には死んだものばかりだ。死者のない家、死者と縁のない家なんて、あるわけないさ。絶対にね!。そんな家があったら、拝みたいもんだね。」
と言われるのであった。
(死者のない家はない・・・。どの家も死人はいる・・・・。多くのものが死んだ・・・。たくさんの子供も死んでいった・・・・。)
首を深く垂れ、足を引きずるようにして歩いていたキサーゴータミーは、いつのまにか祇園精舎まで戻っていたのであった。

「どうだね、キサーゴータミー。死者のない家、死者と縁のない家は、見つかったかね?。」
うなだれて帰ってきたキサーゴータミーにお釈迦様は優しく声を掛けた。
「いいえ、そんな家は見つかりませんでした。」
「そうか、では、あなたのお子さんを助けることはできないな。残念ながら。」
「はい、仕方がありません。でも、もういいんです。」
「もういいのかね?。」
「はい、どの家も亡くなった方ばかりでした。老人が亡くなる、若者も亡くなる、男も女も亡くなる、子供も・・・・子供もたくさん亡くなっている・・・・。それが現実でした。」
「ようやくわかったかね。誰にでも死は訪れる、それが現実なのだよ。」
「はい、わかりました。不幸な現実にあっているのは、私だけではありませんでした。誰もが亡くなる、その現実を多くの方が受け入れておりました・・・。」
「よく理解した。たとえどんなにつらく悲しいことであっても、それが現実なら、それを受け入れるしかないのだよ。現実を拒否しても、逃げられるものではないのだし、現実が変わるものでもない。どうやっても変わらぬ現実ならば、受け入れるしかないのだよ。いやなことでも、つらく悲しいことでも、不本意なことでも、それが現実で、逃げられない、避けられないものならば、受け入れてしまった方が楽なのだよ。一度、その現実を受け入れ、それから考えればいいのだ。その現実を乗り越えることを・・・。それが幸福への道でもあるのだよ。」
「はい、よくわかりました。私も現実を受け入れます。そして、その現実・・・・私の子を亡くしたというその現実に対し、最もよい方法を考えました。」
「ほう、どうするのかね?。」
「はい、亡くなった子のために、出家いたします。そして、大切な方を亡くした方がいたら、つらく悲しい現実に直面されて苦しんでいる方がいたら、力になってあげようと思います。そう決心いたしました・・・。」
「それでいいのかね?。」
「はい、これから家族に別れを告げてきます。そして、明日、また出直してきます。どうか出家をお許しください。」
「よかろう。では、明日、またいらっしゃい・・・。」
そういって、お釈迦様はキサーゴータミーを送り出したのであった。

翌日、彼女は、約束どおり、祇園精舎を訪れ、出家し、尼僧教団に入ることとなった。その後、真面目に修行をして、多くの悲しい現実に直面した女性を救ったそうである・・・・。


つらいこと、悲しいことにあったとき、あなたはどうしますか?。その現実をなかなか受け入れることができず、できれば見ないようにして、あるいは知らぬ振りをして、通り過ぎようとしますか?。または、受け入れをまったく拒否してしまいますか?。それとも、素直に受け入れますか?。
素直に受け入れる派、拒否する派、無視する派、とぼける派、うじうじ愚痴る派・・・・・、その他、いろいろな派があると思いますが、あなたは、どの派に属するのでしょうか?。

たとえば、彼氏に振られた・彼女に振られた、というとき。あなたは、素直にそれを認めるでしょうか?。結婚している方は、奥さんが・旦那さんが、浮気をしていたとしたら、そのとき、あなたは、その現実を受け入れるでしょうか?。
「うそ、まさか、そんなのうそでしょ・・・。」
「ありえない、そんあことありえない。知らないわ、聞こえません、そんなこと信じない・・・。」
「ウソだろ、ウソと言ってくれ。そんなことって・・・。」
などというセリフを吐くのではないでしょうか?。

そりゃ、まあ、すぐには現実を受け入れることは難しいでしょう。いくらなんでも、浮気が発覚して
「あらそうなの。へぇ〜。それが事実なのね。わかったわ。」
な〜んて話にはならないですよね。一旦は、誰もがその現実を拒否したり、疑ったりします。それが当然でしょう。それは、当たり前の話なんです。
しかし、問題なのは、いつまでも現実を拒否し続ける、ということなのですよ。
「そんなことは、誰もしないでしょう。」
と思われるかもしれません。しかし、人間って結構、往生際が悪い生き物でして、なかなか現実を受け入れようとしないんですよ。で、迷路に入っちゃうんですね。

「なんで、俺なんだ・・・・。」
とリストラされた男は嘆き、飲んだくれたり愚痴ったり・・・・。どうしても現実を受け入れられないと、いつまでも「なぜ俺が?」にこだわり続けることとなってしまいます。挙句の果てには、暗いくらい道を歩むことになったりもしますよね。むしろ、「仕方がないか、それが現実だ」と受け入れて、立ち直ればいいのですけどね。そのほうが、安楽なんです。明るいんです。

「どうして私じゃいけないの・・・。」
と振られた女性は、いつまでも振った男の影を追いかける・・・。よくある話です。所詮叶わぬ恋なのに、いつまでも思い続け、挙句の果てには行かず後家・・・・などと言うこともあります。最悪の場合、ストーカー化してしまったり・・・・。

「なんで、なんで落ちたの・・・・。どうして・・・。あんなに勉強したのに・・・。」
と受験に失敗したものは、嘆くことでしょう。しかし、現実は「不合格」なのですから、それを受け入れるしかないのですよね。でも、たまにそれを受け入れられず、いつまでも悔やむものもいるようでして。挙句の果てには、逆恨みをしてしまうものもいたりします。「この俺を落とすなんて、最低の学校だ」などとね。

たとえ苦しくとも、つらく厳しい事実であっても、悲しい出来事であっても、それが現実ならば、素直に受け入れてしまった方がよいのです。いつまでも
「なんで、なんで私だけが・・・」
「なんで俺が、なんで俺だけが・・・」
とこだわり続けるのは、愚かなことなのです。なぜなら、それが現実ならば、どうしようもないからです。変えようのないこと、避けようのないこと、変更ができないこと、修復ができないことならば、それに従うしかないからです。変えようがない、避けようがない現実ならば、それを素直に受け入れ、それから対処方法を考えた方がいいのです。
しかも、不幸な現実にあっているのは、
「あなただけ」
ではないのです。誰もが、多かれ少なかれ、つらい現実に直面したことがあるのです。それを多くの方が、通り過ぎて行っているのです。乗り越えていっているのです。心の中で自分なりの折り合いをつけてね。

現実から逃避したり、つらいからと言って避けたりしてはいけません。どうせ変えようのない現実ならば、さっさと受け入れ、どんと立ち向かっていった方が、立ち直りが早いんですよ。
いつまでも、くよくよしていないで、
「ど〜んとこい、現実!。」
と強く立ち向かっていきましょう。そうすれば、きっと励ましてくれる人や支えてくれる人ができてきますよ。
合掌。



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