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第69回 厳しさがなければ、何も成し遂げることはできない。 人は甘い態度をすれば、どこまでも堕落するものなのだ。 それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることである。 |
「おい、バーラタ、またゴロゴロしているのか!。修行はどうした?。」 目連尊者の厳しい声が響いた。 「あ、あぁ、はい、修行はちょっと前までやってましたよ。今は休憩です。」 「休憩中?、ふ〜ん、他の修行者たちの話によると、君はいつもダラダラしているそうじゃないか。」 「え〜、そうですか?、そんなことはないと思いますけど。」 「いいや、君の修行仲間から、『あんなんじゃあ規律を乱しますから、注意してください』と、頼まれたのだ。ラダック長老も心配しているよ。どういうことだね、バーラタ。」 「え〜、おかしいなぁ・・・。ちゃんと修行もしていますよ。」 「だが、今もゴロゴロしていたではないか。バーラタよ、君はそれでいいと思っているのか?。」 「それでいいって・・・、どういうことですか?。」 「君の日々の過ごし方だよ。それでいいのか?。」 「それでいいか、とおっしゃられても、よくわからないのですが・・・。」 そういわれて、目連尊者もどうしたものか、困ったようだった・・・・。 先日のことである。目連尊者のもとに、ラダック長老がやってきたのだ。 「目連尊者、お久しゅうございます。お元気でお過ごしだったでしょうか?。」 「ラダック長老、お久しぶりですね。お元気そうで何より・・・・ではなさそうですね。長老であるあなたが私の元にこられるとは・・・、何かありましたか?。」 「さすが目連尊者、見抜かれておられますか?。」 「いやいや、神通力は無闇に使うなという戒律がありますので、何も見抜いてはおりません。どうか、お話ください。」 「はい、実は私の弟子のバーラタなんですが。」 「バーラタ・・・、あぁ、あのちょっとのん気な青年ですね。」 「はい、もう出家して3年になろうというのに、一向に悟りが得られないのです。」 「ほう、でも、まあ、3年ならば長いほうではありませんよ。もっともっと悟りまでに時間がかかる方もいますから。」 「はぁ、それだけならいいのですが・・・、どうも日常の生活に問題があるのではないかと・・・。」 「日常の生活ですか?。」 「どうも、怠け癖がついたような様子があるのです。他の弟子たちからも、苦情が出ているのです。」 「どんな苦情ですか?。」 「バーラタと一緒にいると気が抜けてしまう、と。見ていると、イライラしてくる、と。」 「ふむ・・・、それはいけませんね。そういう問題は、早めに解決しておかないと・・・。」 「はぁ、そう思いまして、バーラタに尋ねたり、彼の様子を見たりしていたのです。ところが、どうも人をイライラさせるような感じはないのです。確かに、のん気かな、とは思いますが・・・・。」 「特に問題はないと?。」 「えぇ、まあ、私ものん気な性格ですので、感じないのかもしれません。私の若い頃もバーラタのようだったかな、とも思えますし・・・。」 「でも、それでは収まらないのでしょう?。」 「そうなのです、そこで・・・。」 「はい、わかりました。では、私が一度バーラタに会って見ましょう。」 「ありがとうございます。お願いいたします。」 このようないきさつで、目連尊者はラダック長老にバーラタのことを頼まれたのであった。 (日々の過ごし方がいいかどうかよくわからない・・・か。意味が通じていないのか・・・・、困ったものだな。) 目連尊者は思案した。 「そうか・・・・、う〜んそうだなぁ・・・、バーラタよ、君の日常をちょっと振り返ってみてくれないか。」 「はぁ、私の日常ですか・・・。え〜っと、そうですねぇ・・・・。」 バーラタは、自分の日々の生活について考えてみた。 「え〜っと、まず朝起きて、そこの河で沐浴をします。ちゃんと沐浴してます。で、托鉢に出かけます。今日もしっかり出かけました。で、昼前にはこの精舎に戻ってきて、食事を済ませ、口を漱ぎ、静かにしてます。確か、食事のあとはしばらく静かにしている方がよかったんですよね。で、そのあとは、瞑想ですよ、瞑想。ついさっきまで瞑想してました。で、休憩ですよね。今の状態です、はい。で、このあと、また瞑想をしようかな、と・・・・。それから、夕暮れに片づけをして、当番の仕事を済ませ、寝ます。以上ですが・・・、問題ありますか?。」 バーラタの話を聞いた限りでは、なんら問題はなかった。しかし、目連尊者には、何かが違うような感じがしていた。 「まあ、確かに、基本的には君の日常に問題はない。が、違うんだ。どうも違うんだよ。うまくは言えぬが・・・。うん、そうだな、一度、付きっ切りで私が見ていよう。」 「えっ、尊者様がですか。うわ〜、光栄だなぁ。ありがとうございます。嬉しいなぁ。」 「では、明日の朝から始めるから、今日のうちに私の庵の方へ来なさい。身の回りのものを持ってくるのだよ。しばらく、一緒に修行することにしよう。」 目連の言葉に、バーラタはにこやかに元気よく返事をしたのであった。 その翌日のこと、朝日が昇るとともに、目連とバーラタは目覚めた。二人は、すぐに河にいき沐浴を始めた。 「あぁ、気持ちいですねぇ、いい気分だ〜。」 そういいながら、バーラタはザブザブと河に入っていった。 「おいおい、違う違う。そうじゃない。沐浴はそうやってするものではないのだよ。それじゃあ、行水や川遊びと同じじゃないか。」 「えっ、違うんですか?。だって、沐浴って身体の穢れを落とすんでしょ。こうやって水を浴びて、もぐったりすれば垢は落ちますよ。」 「まあ、確かにそうなのだが、違うんだよ。水を浴びればいい、というものではない。この水の流れが清らかであることに感謝し、今朝目覚めることができたことに喜びを感じ、今日も一日修行ができることに思いをはせ、身を引き締めるために沐浴をするのだよ。ダラダラと水につかればいいだろう、というものではないのだ。一日の始まりに身を引き締め、心を冷静に落ち着いた状態を一日中保てるよう、誓うのだ。それが沐浴だよ。」 「はぁ〜、そうだったんですか。知りませんでした。私は水を浴びればいいものだと思ってました。」 「そこで、すでに君は気が抜けているんだな。もう少し、気合を入れて、気持ちを込めて沐浴しなさい。」 「はい、わかりました。」 沐浴が終わり、托鉢の準備も整ったので、目連とバーラタは街に托鉢に出かけた。目連は、ゆっくりとではあるが、しっかり背筋を伸ばし堂々と歩いていた。しかし、バーラタは背を丸め、なんとなくだらしがない恰好で歩いていた。 「うぅん、違う、違う。もっと背筋を伸ばし、シャンとして歩くんだ。堂々と。君の歩き方はダラダラとしてまるでやる気がないような歩き方だ。それでは修行にならない。」 「え?、托鉢って食事を集めればいいのではないのですか?。」 「基本的にはそうではあるが、托鉢も修行なんだよ。お釈迦様の弟子は、いつも規律正しく、堂々としていて心にやましいところがないから、清々しい態度で托鉢をしている、といわれている。いいか、バーラタ、心は態度に表れるし、態度は心に影響を与える。態度がダラダラとしていれば、心もダラダラとしてしまう。心がダラダラとすれば、態度もダラダラとしてしまうのだ。もう少し、歩き方や托鉢の態度にも気を遣うべきだ。でないと、修行にならない。シャンとしてみなさい。」 ここへきて、目連はバーラタの間違っているところに気がついたのだった。 バーラタは万事このようにダラダラとしていた。托鉢するにも背が丸くなりうつむき加減であったし、歩き方も何度注意しても足を引きずるようにダレて歩いていた。あげくの果てには、 「あの、ちょっと疲れたので休みませんか?。」 という始末であった。 「そうか、それでいつも托鉢に時間がかかっていたのか。ダメだ、休むことなく、このまま歩いて精舎まで行くよ。」 「うへぇ〜・・・、はい、わかりました。」 しぶしぶ歩き出すバーラタであった。 食事もそうであった。時間をかけて食べるのは健康のためによいことなのだが、時間をかけすぎていた。普通にゆっくり食べている他の弟子たちの倍以上の時間がかかっていた。ダラダラと食事をしているのだ。 それでも、食事はなんとか午前中に済ませることができた。そして、そのままバーラタは横になった。 「食後は横になるのがいいんですよね。」 とニヤニヤしながら。バーラタの様子を横目に、目連は考えていた。 (これでは、他の修行者がイライラするのは当たり前であろう。バーラタには修行の意味がよくわかっていないのだ。彼には厳しさがないのだな。よし、よくわかった。) 目連は、バーラタが昼寝から目覚めるのを待っていた。やがて、目覚めたバーラタは、目連の厳しい顔を見て、ドキッとした。 「あの・・・、何か・・・・。」 「うん、バーラタよ、いいから座りなさい。ちょっと話をしよう。」 目連の厳しい表情にバーラタは素直に座った。 「バーラタよ、君は修行の意味がわかっていないようだね。確かに、君の行動や生活は戒律を犯すものではない。表面上は間違ったことは何もしていない。戒律どおりの生活をしている。しかし、戒律というのは守っていればいい、というものではないよ。戒律どおりに生活すればいい、というものではないのだ。その中に、厳しさがないといけないんだよ。ただ、規則どおりの生活をすればいいというものではないのだ。わかるかね?。」 その言葉にバーラタは首をかしげていた。目連の話は続いた。 「朝も言ったが、沐浴にも意味がある。托鉢にも意味がある。戒律や規律は、それ自体に意味があるものなのだ。なぜ守らねばいけないのか。この戒律はなぜできたのか、そういうことを考えれば、わかるであろう。自分に厳しく、自分を律するためのものが戒律なんだよ。」 「でも、お言葉ですが、あまり厳しすぎてもいけない、と世尊はおっしゃってますよね。あまりにもきびきびしすぎては、人間関係もギスギスして、うまくいかないと。のんびりするところも必要である、と。」 「君のは、のんびりしすぎなのだ。厳しすぎてもいけないが、のんびりしすぎてもいけないんだよ。」 バーラタは小声で 「そうかなぁ・・・・。」 とつぶやいていた。その様子に目連は、ため息が出るだけであった。 「バーラタよ。弦楽器の弦はゆるいほうがいいか、きついほうがいいか、どっちだね?。」 その声は、目連の後ろから届いた。お釈迦様であった。 「あっ、お釈迦様。」 緊張した様子のバーラタに 「いいから、答えてみなさい。」 「はい、ゆるすぎてはいい音はでません。かといって、きつすぎてもいい音はでませんし、切れてしまいます。」 「そうだね。修行もそれと同じだよ。」 「はい?、弦とですか?。」 「そうだ。いい音を出そうと思ったら、弦をゆるすぎず、きつすぎず張るであろう。修行もそれと同じだ。規律規律とうるさすぎるのもよくないし、苦行もよくない。かといって、ダラダラとのんびり休みながらすればいい、というものではない。ゆったりとした中にも、己に対する厳しさがないといけないのだよ。・・・・・バーラタよ、汝はなぜ出家したのだ?。」 「はい、悟りを得たいからです。思い煩うのが苦しいと思ったからです。」 「のんびり毎日が過ごせればいい、と思ったからではないのか?。」 「いいえ、違います。本当に悟りが得たいのです。」 「ならば、もう少し己に厳しくならないといけないのではないかな。自分を甘やかしてはいないかね?。」 「自分を甘やかす・・・・ですか・・・・。」 その言葉にバーラタは考え込んだ。 しばらくして、ふと顔を上げたバーラタは、にこやかに言った。 「やっとわかりました。私は自分に甘かったようです。いつも休むことばかりを考えていました。いつも逃げることを考えていました。いつも弦を緩めていました。これでは、いい音が出るはずありませんよね。私はいつの間にか緊張感をなくしていたのですね。そういえば、出家したての頃は、もっと緊張していたし、休まずに行動していました。慣れてしまったんですね。そうか、そうだ、わかりました。今日から、気をつけます。」 「わかったかね。それはよかった。しかし、一つ注意しておこう。自分に甘かった、と言うことに気がついたのはいいのだが、急に厳しくしてはいけないよ。極端は避けなさい。一つずつ、少しずつ、厳しさを身につけていけばいいのだ。急に何もかも厳しくしても、苦しいばかりで修行にはならない。嫌になってしまうか、また逃げたくなってしまう。緩急混ぜ合わせ、極端にならぬよう、注意することだ。急がず、少しずつ変化すればよい。まずは、日常の規律の意味を考えることから始めるがよい。わかったね。」 「はい、わかりました。さすがにお釈迦様です。よ〜っし、張り切って自分に厳しくするぞ、と思っていました。極端ですよね、私は。気をつけます。少しずつ、できることから自分に厳しくします。そうですね、まずは、托鉢の態度から改めてみます。」 「ふむ、それがいいであろう。」 お釈迦様は、優しく微笑んだのであった。そして、いつの間にか集まっていた弟子たちに言った。 「よいか、慣れは恐ろしい。いつの間にか自分に甘さを植えつけていく。自分に甘いものは、その罠にはまるであろう。自分に対し、厳しさを持っていないと、やがてはだらけてしまい、当初の目的を失ってしまうのだ。 何かを成し遂げようと思うのなら、自分に対し厳しさを持たねばならない。決して怠けぬよう、努力をするという厳しさを持たねばならない。人は怠けたい、と思うようにできているのだ。自分を甘やかせば、どこまでも堕落していってしまうだろう。休むことは必要だが、必要以上に休ませることは害毒であるのだ。 自分に対する最低の厳しさを忘れぬよう、修行に励みなさい。」 その言葉を弟子たちは深く胸に刻んだのであった。 自分に厳しく、というのは、はっきりって難しいものです。この世で生きていくには様々な誘惑がありますからね。それだけではありません。自分自身の中にも大きな誘惑があります。それは、 「休みたい」 「怠けたい」 「ちょっとくらい・・・・」 というものです。 これは誰でも思っていることなのではないでしょうか。 多くの方が、休みたい、怠けたい、もういいだろう、と思いつつ、仕方がなく働いているのではないでしょうか。会社勤めの場合、いくら休みたいと思っても、許されるものではありませんよね。無理に休もうと思えば、仕事をやめるしかありません。そうなると、生活が困ってしまいます。否が応でも、自分に厳しくないと生きていけませんよね。無理やり自分に厳しく仕向けているようです。 だからこそ、ストレスが溜まってしまうのでしょう。それが続けば、パンク状態になってしまう場合もあります。ウツですよね。最近、大変増えているようです。 これは、理由は人それぞれあると思いますが、基本的には自分に厳しすぎるのが原因なのでしょう。また、責任感が強すぎるのがよくないのでしょう。あるいは、他人に対しても厳しすぎたりするのでしょう。他人のだらしなさを許せないって言う場合ですね。 こういう方は、たまには、息抜きをしたり思いっきり休んだり、他を許せるような考え方を身につけたり、ちょっとのん気な生活を心掛けた方がいいのでしょう。 しかし、それにもやはり限度があります。あまりにも自分に甘くしすぎれば、立ち直るきっかけを失うこともあります。自分に厳しくするところも必要なときもあるのでしょう。甘すぎず、厳しすぎず、緩急取り混ぜて、ゆったりとした生活を心掛ける・・・。それができれば一番いいのでしょうね。 会社勤めの方は、ある程度コントロールされていますから、自分に厳しくならざるを得ないでしょう。しかし、自営は大変です。ちょっと気が緩むと、のんびりのびのびになってしまいます。 私などもそうですよね。ついつい暇があれば、ゴロンと横になりたくなってしまいます。 「まあ、これくらいならいいかな。ちょっとサボっとけ」 「まだ、時間があるから平気だろう。ま、のんびりいきましょうか。」 みたいな・・・・。まあ、この程度なら、切羽詰ったときに苦しむのは自分ですからね、それはそれで覚悟してるからいいのですが。このHPの更新準備のようにね、焦ってやってますよ。帳尻合わせは大変です。これも、怠け癖のせいですね。う〜ん、自分に厳しくないとね、いけませんねぇ。 あるいは、自営業の方には様々な誘惑がツキモノでしょう。お金の誘惑、女性の誘惑など・・・。あぁ、最近では主婦の方も誘惑が多いようですね。ブランド物や異性からの誘惑などがね、多々あると思います。 そういう場合、自分を律するという気持ちがなければ、あっという間に罠にはまってしまいます。あるお寺さんのご住職のように若い女性の色気に負けてしまう場合もありますよね。自分を律することができなかったんですね。 あるいは、どこかの教授のようについつい痴漢をしてしまい、信用を失ってしまうんですよ。自分に対する厳しさがなかったんですね。 何か大きなことを成し遂げようとするならば、自分に対する厳しさは絶対条件です。自分に甘い人間には、大きなことは成し遂げることはできません。 また、大きな壁を乗り越えなきゃいけない、というときも、自分に厳しくなければいけません。自分を甘やかしていると、その壁から逃げることばかり考えてしまうからです。 もちろん、休息は必要です。走り続けては息切れしてしまいますからね。でも、休んでばかりもいけません。身体も心もなまってしまいます。たまに厳しく、たまに優しく・・・・。 うまく自分でコントロールできない人は、 「このことはなるべくやってみよう、これについてはそれができてからだ。」 と順番にこなしていくのがいいでしょう。できなくても、嘆かないように、またトライすればいいだけのことですからね。徐々に徐々に、です。 まあ、それにしても、何事もし過ぎは毒になります。極端は避けるようにしたほうがいいですね。自分に厳しく、たまに自分に甘く・・・・。 自分に甘いばかりだと、どこまでも堕落していってしまいます。そうならないように、一線は引いておくことです。 厳しさの限界点、甘さの限界点。 それを知ると少しは楽になれますよ。合掌。 |
第70回 人は平等であることを望む。 だが、平等に扱われることに不満を抱く。 |
お釈迦様が、ある小国を訪れたときのことであった。その田舎の小さな国にも、お釈迦様の噂は届いていた。 「おい、聞いたか。仏陀がこの国にやってきたそうだ。」 「仏陀だと?。そんなものいるのか?。あれは伝説だろ。」 「いや、本当にいいるんだ。それで、この国にもやってきたんだそうだ。」 「冗談を言うなよ。そんなことよりも今日の食い物だ。今日、どうやって生きていくのか、そのほうが大変なんだぞ。仏陀なんて言ったって、俺たちをどうこうしてくれるわけじゃねぇ。俺たちはスードラだ。誰も助けてはくれないさ。この世界には、平等はないんだよ。」 「それが違うんだよ。仏陀は、身分なんてない、っていっているんだ。だから、俺たちも救ってくれるんだそうだ。スードラでも助けてくれるんだってよ。」 「そんなバカな・・・・。この国は、どっちかというと身分制度がゆるい方だが、それでも俺たちはスードラであることには変わりはない。そんなことを言ってないで、食い物を探しに行くぞ。さぁ、行こうぜ、チャンドラ。」 「いや、俺は仏陀の所へ行く。行って確かめてくるんだ。本当に平等に扱ってくれるかどうかを。」 「ふ〜ん、じゃあ、好きにするがいいさ。腹がへったとかいって、助けを求めても知らねぇぞ。」 「いいよ、一日くらい何も食べなくても平気だから。じゃあ、行ってくる。」 そういうと、チャンドラは仲間たちが暮らしているスードラの村を駆け出していった。 当時のインドには、厳しい身分制度があった。その身分制度は世襲式であった。従って、いくら努力しても奴隷階級は奴隷のままであるし、いくら怠けても王族は王族であった。国によっては、多少の融通も利き、農民から商人へ、商人から農民へ、工芸人から商人へなどと職業を変わることはあったが、奴隷階級だけは人間として扱われることも少なく、阻害されることが多かったようである。住む場所も偏狭の地にスードラの村を作ることが多かった。チャンドラも、そうしたスードラ階級の一人だったのだ。 チャンドラは、一人で仏陀であるお釈迦様が滞在しているというマンゴー農園を訪れた。しかし、まだ午前中だったため、お釈迦様は托鉢に出ており、マンゴー園でお釈迦様の帰りを待つこととなった。 しばらくしてお釈迦様が托鉢から戻ってきた。留守を守っていた一番若い弟子が、お釈迦様に報告をした。 「世尊、お話を伺いたいという青年が一人待っております。いかがいたしましょうか?。」 「朝から待っているのかね?。」 「はい、そうです。」 「そう・・・・では、こちらに来るように言いなさい。お腹もすいていることであろう。あぁ、あなたも留守を守っていて托鉢に出られなかったのですから、托鉢に出た他の弟子たちから、食を分けてもらいなさい。」 「はい、わかりました。では、その青年をお連れしてから、食を分けてもらいに行きます。」 お釈迦様は、その言葉に肯くと、マンゴー園の奥へと入っていった。 お釈迦様の前に通されたチャンドラは、神妙な顔をしてお釈迦様の前に座った。 「そんなに堅くならなくてもよい。朝から待っていたのかね?。」 「は、はい、そうです。朝から来てました。」 「そうですか。私たちは、午前中は托鉢することになっているので、街を廻っていたのだ。待たせたね。さぁ、汝も食べるがいい。お腹がすいたであろう。」 そういうと、お釈迦様は自分の鉢から食べ物を半分取り出し、別の鉢に移してチャンドラに与えた。チャンドラは驚いた。 「えっ?、もらっていいんですか?。」 「遠慮しないで食べなさい。」 チャンドラは、喜んで食べた。 分け与えてもらった食事を終えると、チャンドラはお釈迦様に話しかけた。 「あの、お、お釈迦様も、托鉢をされるんですね。」 「もちろんです。托鉢は修行のために行なうものですからね。」 「でも、お釈迦様は仏陀になられているんでしょ?。」 「そう、私は仏陀です。この世の真理を覚ったものです。」 「ならどうして・・・。仏陀は偉い方じゃないですか。なのになんで托鉢に出るのですか?。」 「仏陀であろうとなかろうと、この出家者の中・・・人々は仏教教団というが・・・・その中で生活を共にする者は、誰であろうと托鉢に出なければ食事は得られないのだ。留守を守る役に当たったものや病気で托鉢に出られないものを除いてはね。また、一部の覚りを得たものたちの中には、食事に招待されるものがいて、そうしたものは托鉢に出ない日もある。が、しかし、基本的には皆平等に托鉢にでるのだ。この私も例外ではない。」 「あの、ここではみんな平等なんですか?。」 「もちろんだ。この教団には身分制度はない。あるのは、秩序を守るために、出家した日が古いものが上席になる、という規律だけである。それは出家前の身分に左右されるものではない。スードラもクシャトリアも、バラモンも、なんら差別されることはない。」 「平等ですか・・・。」 「平等である。」 「ならば、こんな私でも出家は許されるんですね。」 そういうと、チャンドラはスードラの証である入墨を見せた。 「もちろん出家しても構わない。汝に真理を求める心があるのなら、出家を許そう。」 その言葉に、チャンドラは泣いて喜んだのであった。そして、そのままチャンドラは出家したのであった。 一方、その小国の国王もお釈迦様がやってきていることを耳にした。 「あの仏陀がわが国にやってきているそうだな。」 国王は側近に言った。 「はい、町外れのマンゴー園に滞在されています。」 「なぜ、そんなむさくるしいところにいるのだ。ここへ来れば楽な生活ができるのに。」 「仏陀が率いる教団は、贅沢はしないそうです。宮中に滞在されることはないそうです。」 「そうなのか。贅沢はしないのか。しかし、施しは受けるのだろう?。」 「はい、それは受けられるでしょう。」 「うん、彼のコーサラ国王やマガダ国の王も仏陀には、様々な施しをしていると聞く。徳積みになるそうだからな・・・・。よし、わしも施しに行こう。何がよいかな。やはり食べ物か?。」 「いえ、聞き及びますところによりますと、布が一番喜ばれるとか。あとは灯火用の油がよいそうですが。」 「そうか、では布を施そう。おい、上質の布を用意しろ。なるべく上質じゃ。よいな。」 「しかし、仏陀たちの教団は贅沢は慎むとか・・・。」 「いいんじゃ。マガダ国の王が質素な布を施すか?。コーサラの大王がボロ布を施すか?。答えは違うだろう。みんな上質の布を施すに違いない。だから、いいのだ。上質の布を用意しろ。用意できしだい、出発じゃ。」 国王は、そういうと立ち上がったのであった。 上質の布を大量に持たせた国王は、馬車を率いてマンゴー園に至った。 「仏陀様はどこだ。この国の王が来たと伝えてくれ。」 マンゴー園の入り口で掃除をしていた若い出家者に家臣が声をかけた。 「ただいま、奥の方で接客中です。悩みを相談に来られた街の方と話をしております。しばらくお待ちください。」 その言葉に家臣は、 「何を言うか、この国の王だぞ。いいから通せ。」 「そう申されましても・・・・。ここには身分はありません。皆、平等ですから。」 「なんだと?。国王と街の人間が平等だというのか?。そんなバカな。もういい、勝手に進む。」 そのやり取りを聞いていた国王が家臣を止めた。 「待て待て。さすがは仏陀だ。みな平等だという。身分は無い、という。そうでなくては聖者ではなかろう。平等、いいことではないか。人々はな、いつも平等を望んでおる。平等に扱われることを望んでおるのだ。しかし、この国にはカースト制度があるからな、そうはいかんのだ。だからこそ、せめて仏陀のいらっしゃる場所くらいは平等であっていいであろう。いや、平等であるべきであろう。街の者も国王であるわしも平等に扱うという、その仏陀の精神はすばらしいものだ。お前らはそのことがわからぬのか!。」 国王の言葉に、家臣たちはかしこまったのであった。 しばらくして国王たちが奥へと通された。国王は、上質の布をお釈迦様にささげた。 「お釈迦様、どうかこの布をお使いください。やわらかい上質の布です。」 ふと、国王が傍らを見ると、先ほどの街の者が置いていったのであろう、綿製のあまり上等でない布が置いてあった。国王は、密かに (ふん、所詮そんなものよ。この上質の布とは比べようも無い。これでわしは特別になる。ただでさえ国王だからな。いくら平等はいえ、その中にも特別はあるものだ。世の中はそうしたものだからな。) と一人でニヤついていたのだった。 がしかし、お釈迦様の態度は、国王の期待するものではなかった。お釈迦様は、表情を変えることなく、 「それは、それは。ありがたいことです。」 というと、そばにいた弟子に手渡し、傍らに置いてある綿製の布と一緒にしてしまった。 「ちょっと、待たれよ。わしはお釈迦様に使っていただこうと思って差し出したのじゃ。しかも、こんなに大量に。それをそんな腐ったような布と一緒にするとは、失礼ではないかね。」 「国王よ、あなたは勘違いされている。この中ではすべては平等である。国王の布も街の人々の布も、この教団に施された以上、布に過ぎないのだ。上質だろうと粗末だろうと、布には変わりは無い。また、誰が施そうと施されたものには、差別は無い。さらに、施された布は、すべて切断され、平等に修行者に配られるのだ。誰に施したとかは関係は無い。ここには身分など無いのだ。」 この言葉に、国王はがっかりした様子で帰っていったのであった。 この様子を見ていたチャンドラは、益々喜んだ。 (思ったとおりだ。ここでは何もかも平等だ。身分も何も無い。・・・そうだ、みんなにも教えてやろう。みんな喜ぶぞ。まあ、その代わり修行はしなきゃいけないけどな。でも、覚れるならいいじゃないか。そうだ、みんなを導こう。) そう決心したチャンドラは、翌日自分がいたスードラの村に行った。その姿は頭を剃り、袈裟をつけた姿であり、すっかり出家者であった。村のみんなはチャンドラの姿を見て驚いた。 「本当に出家したんだな。」 「あぁ、したよ。お釈迦様の教えはすばらしい。お釈迦様の元では何もかも平等なんだ。身分などありゃしない。たとえばな、昨日なんて・・・。」 チャンドラは嬉しそうに話をしたのだった。 チャンドラの話を聞いて、10名ほどの者が出家した。そのものたちを、チャンドラはお釈迦様の元へと引き連れていった。こうして、仏教教団の中に、チャンドラの仲間ができたのだった。 それからしばらくたったある日のこと、チャンドラの仲間たちが修行のことの解釈で揉めていた。その内容を聞いたチャンドラは、自分には解決できないことであると知って、お釈迦様に尋ねることにした。しかし、仲間からは 「お釈迦様に尋ねなくても、長老に教えてもらえばすむことだろう。」 といわれたのだった。しかし、チャンドラは 「なに、俺が聞けばお釈迦様は答えてくれるさ。ま、この中では、俺は導き手だから特別だ。お前たちを出家させたのは俺だからな。いわば、俺は君たちより偉いんだからな。お釈迦様だって俺には一目置いてくれる。」 といって、取り合わなかった。それどころか、さっさとお釈迦様が修行されている方へと向かって歩き出したのだ。残された仲間は、 「最近、チャンドラはおかしいよな。」 「うん、なんだか知らないが、自分は特別だと思っているらしい。あれほど、お釈迦様の元では平等だ、と言っていたヤツが・・・・。」 「あぁ、本当だ。身分は無い、平等だ、と叫んでいたのに、俺は特別だ、と言っている。本当にチャンドラは特別扱いなのだろうか?。」 「もしそうなら、がっかりだな。お釈迦様も自分にとって有利なものを贔屓するのかな。」 「でも、未だに国王は街の民と平等に扱われているらしいぞ。いくらわしは国王だ、と言っても、お釈迦様は平等に扱っているようだ。」 「じゃあ、チャンドラの勘違いかな。・・・・う〜ん、よくわからん。」 そんなことを話していると、チャンドラが怒って戻ってきた。 「くっそ、何が順番だ。この俺がお釈迦様に尋ねに行ったというのに。俺は、導き手なのに。それを・・・・、あの従者はわかっていないんだ。あのお釈迦様についている従者はバカだ。愚か者だ。特別に扱わねばならない人もいるのだということをわかっていない。何もかも平等にすればいいというものではないぞ、そう思わんか、みんな。」 「そういわれてもなぁ・・・。でも、ここではすべて平等だ、ってお前が言っていたんだろ。」 「そうだチャンドラ、ここには差別が無い、みんな平等だ、って・・・。だからこそ、ここはすばらしいんだって、お前が言っていたんだろ。そのお前が特別扱いを望むのは変じゃないか。」 その言葉にチャンドラが怒り出した。 「バカかお前らは。確かにここには身分の差は無い。平等だ。皆が望んでいるとおり平等だ。しかしな、すべて平等ではおかしいだろ。教団に対する貢献度もあるだろう。どれだけ教団に尽くしているかで区別されるべきだ。現に長老たちは特別扱いを受けているだろう。」 「いや、そんなことはないよ。長老といえど、お釈迦様に会うことは順番を待っている。」 「そんな長老は、貢献度が低いんだ。」 そういうと、チャンドラは不貞寝してしまったのだった。 「人々は平等を望むが、平等に扱われることを不満に思うものだ。」 ふと心にどっしりと響く声が聞こえてきた。チャンドラたちが振り返ると、そこにはお釈迦様が立っていた。 「従者に聞いた。チャンドラ、汝はいつから特別になったのかね?。」 お釈迦様の厳しい視線がチャンドラを貫いた。チャンドラは何も答えられなかった。 「平等であることに感動して出家したのはどこの誰かね?。」 チャンドラは座りなおした。そして、深く頭をたれた。 「反省しているのかね?。」 「はい、私が間違っていました。お釈迦様の元ではすべて平等です。特別はありません。長老と言えど、特別扱いはされていません。国王も奴隷階級のものもお釈迦様の前では、皆平等です。」 「そうだ、その通りだ。わかっていながら汝は過ちを犯した。しかし、これは誰もがはまる罠である。皆のものも気をつけるがいい。このことを他人のこととして捉えるな。自分のこととして考えるがいい。よいか・・・、 人は平等平等と叫び、平等に扱われることを望むが、その実、自分だけは特別であろうと望むものなのだ。すべてが平等になっても自分だけは特別でありたい、と望むものなのだ。それが人の心に住みつく悪魔である。 本来、特別など無い。平等を望むならば、あくまでも平等であるべきである。自分だけが特別になりたいというのなら、平等な世界を望んではならない。平等の中に特別はないのだから。そのことを忘れぬように、よくよく注意するがよい。」 お釈迦様はそういうと、静かにマンゴー園の奥へと戻っていった。後には、打ちひしがれたチャンドラたちが残さていたのであった・・・・。 「俺だけは特別なんだ」 と勘違いをしている人が多いこと多いこと。そういう人に限って、ちょっと不当に扱われるとものすごく文句を言うんですね。 「不平等だ!。」 って。 まあ、平等・不平等の定義は難しいんですけどね。今の日本は自由競争主義ですから、差があることが当然ですから。不平等であることが平等ですからね。自分の頑張りや努力が、一応、繁栄される世界ですからね。格差があって当然でしょう。怠ければ収入が少ないのは当然だし、学生時代にサボればいい就職先に就けないのは当たり前のことです。苦難を乗り越え、みんなが遊んでいるときに頑張ったものが、いい就職先に就けるのは、当然と言えば当然でしょう。むしろ、いくら頑張っても認められない方がおかしいのですし、怠けていてもいい職業に就けたり、大金を手にしたりする方がおかしいのです。それこそ不平等と言えます。ですから、頑張ってもいないのに「認められない」と嘆くのは、インチキですよね。 とまあ、不平等に見てはいるのですが、みんなそれぞれの努力や徳によって平等に扱われているのですよ。 ところが、人はそれでは納得できません。 「こんなに頑張っているのに。」 「所詮、いくら頑張っても結果は変わらないさ。不平等な世の中なんだ。」 という不平不満が出てくるんですね。なので、なるべく行政や社会は、平等に扱うことを心掛けているのです。 しかし、それをまた不満に思う方たちがいるんですね。 「俺を誰だと思っているんだ」 「お前のところの会社には随分肩入れしてるんだぞ」 「なんでうちばかりが・・・。みんなズルしているじゃないか」 な〜んて声が聞こえてきます。扱う側は平等に扱っているんですが、それが不満な方が多々いらっしゃるようなんですよ。自分は特別だと思っているんですよね。 電車内で携帯電話で話をしているオバサンやオジサン。彼らも自分たちは特別だと思っているんでしょうね。それとも単なる無神経なんでしょうか?。 平気で違法駐車をしている方たちも自分は特別だと思っているんでしょうね。 「いいじゃん、少しくらい」 って言う感じで。で、他の人がやっていると怒るんですよね。ズルイって。 ちなみに、うちのお寺でも、私はみんな平等に扱っています。古くからの信者さんも新しく来られた方も、みんな平等です。あの人を紹介したのは私なんだから、といって特別扱いを望む方もたまにいらっしゃいますが、そのようには扱いません。相談などの予約は、順番です。割り込みはなし。どんなに親しい方でも、どんなにお寺に多くお布施をくれた方でも、どんなに古い方でも、どんなに多くお寺に足を運ばれても、扱いは皆平等です。 以前、こういう方がいました。 「私が頼めば、どんなに忙しくても和尚さんは時間をとってくれるから」 「私が言えば、多少の無理はきくから」 「私が連絡すれば、何とかなるよ、私は親しいからね」 とまあ、こんな感じでしょうか。しかし、無理なものは無理ですし、時間が無いものは時間が無いのです。特別はありません。ご相談の予約は順番です。みんな平等です。 が、それが面白くない方がいるようですね。自分は特別だ、と思いたいんですね。困ったものです。 人は、平等平等と叫びますが、その実、自分だけは特別に扱われたいんですよね。それはズルイ考え方なんですが、誰もが同じような考え方を持っているものです。自分では気がつかないことなのでしょうけど。 気をつけてください。知らない間に「自分は特別だ」と言う罠にはまってしまいますよ。気をつけないとそこから騙されたりします。悪いやつらは、 「自分は特別に扱われている」 というところに喜びや優越感を感じると言う、人間の心理を巧妙に突いてきます。そういうヤツラは、こうささやきます。 「あなたは特別ですよ。よかったですね。」 「このことはみんな知らないんですよ。あなただけですよ。あなたは特別なのです。」 とね。この言葉に酔わないように、よ〜く注意してくださいね。 合掌。 |
第71回 相手が変わらないのなら、自分が変わるしかないであろう。 相手に変わることを望むより、自分が変わったほうが早いのだ。 |
祇園精舎の程近くにマンゴー園があった。そのマンゴー園は規模が大きく、大勢の若者が働いていた。彼らは、十名ほどの班に分かれて仕事をしていた。各班の長は、若者ではなく、年長のものが務めていた。そのなかのある班でのことである。 「おい、みんな集まれ!、お前ら、何度言ったらわかるんだ、あぁん?。」 その班の長であるウパニカが若者たちを集めた。 「ちっ、またじーさんの説教だぜ。参るな〜、ちゃんと仕事してるのに・・・。」 そう口々にいいながら若者たちは集まってきた。 「お前たち、まともに仕事ができんのか、だいたいだな・・・・・。」 ウパニカは、毎日一度は若者たちを集めては説教をするのだった。特に、注意することがなくても、何かしら失敗を見つけては怒るのであった。若者たちは、毎日の説教にうんざりしていた。 (またかよ、いい加減にして欲しいよな。これじゃあ、また仕事が遅れるじゃないか。) (何が言いたいんだろうな・・・・。何言ってるか、さっぱりわからないや。) (あ〜ぁ、ねむて〜・・・。) まともに話を聞いている者は、一人もいなかった。 「おい、聞いているのか。ガンディラとデーパ、お前らだ!。お前らは、いつもいつも・・・。なんだその態度は!。」 「またですか?。なんで俺ばっかり・・・。」 名指しで怒られたガンディラが口答えをした。 「いつも俺を注意するけど、俺が何をしました?。ちゃんと仕事してますよ。」 「口答えをするな。今、俺の話を聞いていなかっただろ。だから、怒っているんだ。」 「注意っていっても、的が外れてるんですよ。そんなのぜんぜん注意じゃない。」 「お前のその態度の悪さを怒っているんだ。」 ウパニカとガンディラの言い合いに、周りの若者はニヤついていた。 (まただよ。いいよ、頑張れガンディラ。おかげで休憩ができるよ。) (バカだなぁ、黙って聞いてればいいのに。聞き流していれば嫌な思いなんてしないのにさ。ま、いいか、休めるからな。) (こっちにとばっちりが来ませんように・・・。このままガンディラと言い合いが続きますように・・・・。) (あ〜ぁ、ねむてぇ〜。早く終わんないかな・・・。) (長くなりそうだな。早く仕事に戻った方が楽なんだけど・・・。) つまらない言い合いが長引きそうになったときのことであった。それまで黙っていたデーパが 「あのう、そろそろ仕事に戻らないと・・・・予定が終わらないんじゃないかと・・・。」 と小さな声で言った。 「あっ、あぁ、そうだな。いいかお前ら、わかったな。今言ったことをよく注意しながら仕事に励むんだぞ。よし、仕事にかかれ。」 ウパニカはそういうと、若者たちに仕事にかかるように指示をした。 「おいデーパ。」 「なんだいガンディラ。」 「お前、名指しで注意されて腹が立たないのか?。」 「別に・・・・。」 「注意されたといっても、根拠のないことだぞ。ほとんど言いがかりだぞ。むかつかないのか?。」 「特には・・・。」 「なんなんだ、お前?。」 「いや、だって・・・。あんなの無視すればいいことだし・・・。」 「毎日毎日、つまらないことで集合をかけられて、つまらない説教を聴かされるんだぞ。イヤにならないか?。」 「うん、まあ、面倒だけど・・・。」 「変なヤツだなぁ、お前。他のヤツラはどうなんだろうか・・・?。」 「聞いてみればいいんじゃない?。」 デーパにそういわれ、ガンディラは他の仕事仲間にもウパニカのことを聞いてみた。すると・・・。 「特に何もない。うっとうしいけど・・・。」 「無視すればいいじゃないか。」 「仕事を休めるからいいんじゃない。」 「適当に聞き流せばいいから、放っておけば。」 という意見がほとんどだった。中には、 「うっとうしいよ。なんとかして欲しいよ。今は、ガンディラが標的になっているから助かるけどね・・・。」 「消し去りたい。辞めればいいのにな、あんなじじい。」 という意見もあった。 こうしたことからガンディラは、ウパニカに対する不平不満や説教によって仕事が遅れることを雇い主であるマンゴー園の持ち主に訴えかけることにした。 「俺は、雇い主にいってやる。ウパニカがいる限り、仕事にならないんだ、とな。」 ガンディラはデーパにそういった。しかし、デーパは 「止めたほうがいいよ。いくら言ってもムダだって。俺たちは雇われているんだから。」 とガンディラを止めたのだった。 「いや、どうしても我慢ならない。ウパニカこそ辞めるべきなんだ。もしくは、あの毎日の説教を止めてもらうんだ。」 「無駄だと思うよ・・・・。」 そうして、雇い主のところへ乗り込んでいったガンディラであったが、 「雇われの身で何を言うか。嫌なら辞めてもいいぞ。変わりはいくらでもいるんだからな。」 といわれただけであった。 「お前の言ったとおりだよ、デーパ。いったいどうしたらいいんだ。」 「だからさ、気にしなきゃいいんだよ。」 「気にしなきゃいい、っていってもなぁ・・・。なんで、お前はそうなんだ。どうして、腹がたたないんだ?。」 「う〜ん・・・・。あぁ、たぶん、お釈迦様の教えを聞きに行っているからだよ。」 「お釈迦様の教え?。どんな教えなんだ?。」 「うん、腹を立てるな、っていう教えだよ。注意されても怒っちゃいけない、注意してくれるのは、正しいことを教えてくれているのだと思え、って。」 「正しいことを教えているって・・・・でもウパニカにはあてはまらないだろ。あのジジイは、理不尽に注意しているだけだぞ。注意するようなことじゃないことで注意しているぞ。」 「あぁ、そうだなぁ・・・。じゃあ、えっと、怒っても仕方がないことなら怒るな、引っ掛かるな、流しておけ、って教えられたよ。」 「引っ掛かるな、か・・・・。でもなぁ、引っ掛かっちゃうんだよな。・・・・はぁ、あのジジイさえいなきゃなぁ・・・。」 「そんな無理な願いをしても無理だよ。」 「わかってるよ。わかっているけど、そう思っちゃうんだよ。アイツさえいなきゃな、って。あるいは・・。」 「あるいは?。」 「アイツが変わってくれないかな、とかさ。・・・・そうだ、その説教をやめろよ、って直接言ってやろうか?。お前の説教なんぞ、誰も聞いてない、無駄な説教するな、時間がもったいない、仕事してたほうがましだ!、ってさ。そうすれば、変わるんじゃないかな?。」 「変わらないよ。今まで変わらなかったんだから、変わらないよ。反対に怒鳴られるだけだよ。」 「そんなこと、やってみなきゃわからないじゃないか。よし、明日、俺が言ってやる。見てろ〜、ジジイめ。」 ガンディラは、こぶしを握り締めてそう叫んだ。 翌日のこと、いつものようにウパニカはみんなを集めて説教を始めた。ウパニカが何か言おうとする前に、ガンディラが怒鳴った。 「いい加減にしてくれよ、お前の説教なんぞ聴きたくないんだよ。」 その言葉に、ウパニカは驚いた。 「誰もお前の説教なんぞ聞いてないんだよ。時間の無駄なんだよ。いつもいつも、集めるなよ。わかったか、ジジイ。」 「な、なんだと!、ガンディラ、お前わしに逆らうのか!。」 「逆らうとかじゃなくって、無駄な説教を聴きたくない、っていってるんです。何も注意することがなくても、毎日こうやって集めるのが、無駄だって言ってるんですよ。いい加減、そのクダラナイ説教、やめてもらえませんか?。」 「わしの注意が無駄だというのか。お前ら、そんなことを言っているからダメなんだ。注意するのはな、お前らがちゃんと仕事ができるように、一人でもちゃんと仕事ができるようにと思って注意しているんだぞ。そんなこともわかっていなかったのか。」 「いや、だから、その注意自体が、的外れで役に立たないってことを・・・・。」 「バカモノ!。役に立たないのは、お前らの聞き方が悪いからだ。ちゃんと聞いていないからだ。もういい、明日からは、わしの注意をよく聞いていたかどうか、確かめるからな。今日は、仕事にもどれ!。まったく、今の若者ときたら、どうなっておるのだ。生意気なだけだな・・・・。」 ガンディラの訴えかけは、ウパニカには全く通じなかった。 「バカだな、ガンディラ。あれじゃあ、火に油をそそぐようなものじゃねぇか。あぁあ、明日からつまらない説教を聴いていたかどうか、質問されるんだぜ。責任取れよ、ガンディラ。」 「余計なことしやがって。無視していればいいものを・・・。」 ガンディラは、みんなに責められた。 「すまない・・・。でも、その無視ができないんだよ、俺は・・・・。」 「ガンディラは真面目なんだよ。適当なことができないんだよ。」 デーパだけがガンディラを庇ったのだった。 「デーパ、庇ってくれてありがとう。結局、あのジジイを変えるどころか、余計に意固地にしちまった・・・。デーパ、お前の言ったとおりだった・・・・。」 「相手を変えようと思っても無理だよ。期待もできないよね。」 「そういうものかなぁ・・・・。お前、お釈迦様にそういうことを教えてもらっているのか?。」 「そうだよ。」 「いったいいつ行くんだ。休みはないじゃないか。」 「仕事が終わってから行くんだ。そうだ、今日、一緒に行くかい?。」 デーパに誘われて、ガンディラはお釈迦様の話を聞くことになった。 祇園精舎のお釈迦様のもとにいくと、十数名の人がお釈迦様の前に座って話を聞いていた。 「おやデーパ、今日は友人を連れてきたのだね。」 お釈迦様がデーパに声をかけた。 「はい、実は私の友人のガンディラが・・・。」 デーパは、マンゴー園でのことをお釈迦様に話した。 「そうだったのか。ちょうどいい。今そのような話をしていたところだ。ガンディラ、あなたも聞くがいい。」 ガンディラは、デーパの隣に腰を下ろしてお釈迦様の話しを聞くことになった。 「人間関係は、多くの悩みのもととなる。人間関係がうまくいかない、嫌な人間がいる、うまく付き合えない、溶け込めないなど、その悩みはいろいろである。そうした悩みを抱えたものは、こう思うことが多い。 『あの人がいなくなってくれればいいのに・・・。』 『あの人が変わってくれればいいのに・・・。』 『あの人たち何とかならないだろうか・・・・。』 あなたたちも心当たりがあるのではないだろうか。」 お釈迦様の言葉に、そこにいた者たちが大きく肯いた。 「しかし、いくらそう願っても、その願いはなかなか叶うものではない。運よく、そうした願いが叶えばいいのだが、そうならないのが現実である。また、嫌な相手が変わってくれることも期待できない。消し去ることもできないし、いなくなることも叶わない。ならばどうすればよいか。」 この問いには、誰も答えるものはいなかった。お釈迦様は皆を眺めて 「デーパ、あなたならどうするか?。」 とデーパに尋ねた。お釈迦様に尋ねられて、デーパは自信なさそうに答えた。 「はぁ・・・。私なら、知らない顔をしています。というか、あきらめます。」 「ふむ、あきらめるか・・・・。それは正しいようではあるが、正しくはない。」 お釈迦様の言葉にデーパは不可解な顔をした。 「あきらめる、ということは、正しいことではないのだ。あきらめるのではなく、己を変えるのである。 嫌な相手がいなくならない、嫌な相手が消えることがない、嫌な相手が変わってくれない・・・。そんな相手と接触しなければならないとき、多くの人は悩み苦しむ。そして、ついにはあきらめるか、その場を逃げ出すであろう。これは実は正しい判断のように思えるが、正しくはないのだ。 嫌な相手と接触しなければならないのは、一つの因縁である。ならば、その因縁を生んだのは己であろう。しかるに、あきらめるのではなく、受け入れるのである。 嫌な人間が消え去ることがないのなら、その人間を積極的に受け入れるのである。その人間の存在を積極的に認めるのである。そうした人間がいてもいいではないか、と認めるのである。 嫌な人間が変わってくれないのなら、己が変わるのである。自分がその人間に対応できるように変化するのである。相手が変わることを期待するよりも、自分が変わることのほうが早いのだ。 こうしたことは、あきらめではない。そのものたちよりも、一歩悟りに近付くのである。あきらめるのではなく、自分と嫌な人間の関係は、因縁であると悟って、積極的に受け入れるのである。その方向に自分が変わることが先決なのだ。そうすれば、次第に周りも変わってくるであろう。まずは、自分が変わることが必要なのだ。また、そのほうが解決が早いのである。わかったかね、ガンディラ、まずは、あなたが変わることだ。」 お釈迦様は、そういってガンディラに微笑みかけたのだった。 翌日のこと、いつものようにウパニカが皆を集めて説教を始めた。一通り説教が終わると、ガンディラに注意事項を確認した。ガンディラはすらすらとそれに答えた。ウパニカは驚き、 「よ、よく聞いていたな、ガンディラ・・・。そう、それでいいんだ。」 というと、小声で仕事に戻るように言った。その姿を見て、デーパがささやいた。 「拍子抜けしたみたいだな。お釈迦様の言葉はこういうことだったんだな。」 「あぁ、そうだな。よくわかったよ。相手を変えようなんて思わないほうがいいんだ。俺が変わればいいんだ。そのほうが早いや。」 「全くだな。あははは・・・。」 ガンディラとデーパは、にこやかに仕事に戻っていった・・・・。 人間関係で悩む人は大変多いですね。悩みのほとんどが人間関係によるもの、といってもいいくらいです。 姑がうるさい、嫁が冷たい、頑固ジジイがいやだ、旦那がうっとうしい、親がうるさい・・・・という家庭内の人間関係もあれば、うるさい上司がいる、意地悪な同僚がいる、何かとイライラしている同僚がいる、当り散らす同僚がいる・・・・といった職場の人間関係もありますよね。 皆さんも、経験があることと思います。あるいは、現在進行中かもしれませんね。 こうした、嫌な人間に出会うと、たとえそれが血を分けた身内であっても、うんざりするものでしょうし、なんとかならないか、と悩んでしまうでしょう。職場なら辞めれば何とかなるかもしれませんが、身内だと逃げようがない場合があるので、余計に辛く苦しいものになりますよね。職場で嫌な人間に会うと、会社へ行くのがいやになりますね。ひどくなれば、出社拒否を起こします。身内でも、職場でも、そうした悩みを抱え、悪化すると、欝になったりもしますね。苦しみはなくならないですねぇ・・・。 そういう状態にあると、人は、密かに願うのです。 「あ〜、あの姑、早くクタバッテくれないかな〜。せめて、口数が減らないかしら・・・。」 「いい加減、干渉するのをやめてくれないかしら。消えてしまえばいいのに・・・。」 「なんで、私に構うの?。放って置いてくれればいいのに・・・・。」 「嫌なヤツ、辞めればいいのに・・・・。」 「こんな現実、なくなってしまえ!。」 などなど・・・・。だけど、なかなかこういう願いは叶わないものです。いや、もし願いが届いたりしたら、かえって怖いし、自己嫌悪に陥ったりしますよね。 では、どうすればいいのでしょうか?。 答えは簡単です。嫌な人間に期待しないことです。そうした嫌な人間は、 消えてなくなりません。 嫌なことを止めません。 口数も減りません。 意固地で頑固は変わりません。 ちょっかいを出したり、イジメをしたりすることを止めません。 なんですよ。嫌な人間ほど、自分を変えようとしません。というか、自分が嫌な人間であると気付きもしないでしょう。自分が嫌な人間であると気付かない以上、その人間がいい人間に変わることは無いのです。 ならば、自分が変わるしかないんですよ。自分が変わるのです。そのほうが、早いんですよね。 そう、嫌な人間に悩まされているのなら、その嫌な人間を消そうとか、変えようとか、何とかならないか、と思うよりも、自分がその嫌な人間に悩まされないように変わるほうが早いんですよ。 相手に何かを期待するよりも、相手が変わってくれないかなと願うよりも、まず、自分が相手に悩まされないように変わることのほうが早いんですよ。 つまり、相手に何をされようが、何を言われようが、どんな嫌なことをされようが、 「それがどうした」 という顔をできるように変わるのです。 「へん、お前らなんか、相手にしないぞ。何を言われても平気だ、べ〜。」 と対応できるようになればいいのですよ。 何かを言われても、何かをされても、気にしなければ、悩むこともなくなるものです。相手が言ったことややったことに、一つ一つ引っ掛かってしまうと、悩みが始まっちゃうんですね。 だから、何も引っ掛からないように流すこと。それを覚えるといいんです。流せるようになることを覚えれば、悩むこともなくなってくるんですよ。昔から言いますよね、 「暖簾に腕押し」 「ぬかに釘」 「柳に風」 反応がない相手には、イジメをしてもつまらないんです。何を言われても、なにをされても、どうってことない、って言う人には、誰もちょっかいを出さなくなるんですよ。そういうものです。 なので、そういう人間になるように、自分を変えていきましょう。そのほうが早いんですよ、他人に期待をするよりはね。 ただ、こういう態度が苦手な人もいます。なかなか自分を変えることができない人もいます。まあ、だからこそ、悩むんですけどね。 で、そういう場合、どうしようもない場合は、やっぱり願いましょう。 「悪い縁が切れますように、いい縁が結べますように・・・・、安楽な日々が過ごせますように・・・。」 とね。こう願えば、 「あんな嫌なヤツ消えますように」 というような、嫌な願いをするのではないから、自己嫌悪に陥ることもないでしょ。モノは言いよう・・・ですよね。そして、 「いろいろなことが流せるように、こだわらないように、そうなれますように・・・・。」 と願いましょう。いつか必ず、柳のようなしなやかで、風のようにさわやかな人になれるでしょう。そうすれば、悩みなんて、煙のように消えてしまいますよ。 合掌。 |
第72回 他人に頼りにされたい、尊敬されたいと願うのなら、 自分自身をまず磨くことである。 他人に頼りにされ、尊敬される人間とはどういう人間か、よく考えよ。 |
お釈迦様の弟子は、次第に膨れ上がっていった。5人から始まって60人ほどとなり、やがては千人を超える教団となっていった。弟子の人数があまりにも多くなると、その面倒はお釈迦様一人では当然無理が生じる。そこで、お釈迦様はある程度の悟りを得た弟子を長老とし、新しく弟子となったものの指導を任せることにした。 指導者に選ばれるのは、早くに出家したものがほとんどであった。なぜなら、それだけお釈迦様の話を多く聞いているし、修行期間も長かったからだ。したがって、最初に弟子となった五人は当然ながら、指導者となった。 また、カッサパのように、すでに自分の弟子を持ち、バラモンとして活躍していたものも、指導者的立場となった。それは、宗教的経験が豊富であったのと、やはり聡明であったからだ。したがって、後から出家したにもかかわらず、カッサパのように経験の豊富な弟子や年長の弟子が指導者となっても、誰も文句は言わなかった。 出家者は次から次へと入ってきた。古くからの弟子は、自ずと指導者的立場となっていった。 ところが、出家して7日ほどで指導者となった弟子が二人いた。シャーリープトラとモッガラーナであった。これは異例中の異例であった。 シャーリープトラは、お釈迦様の最初の5人の弟子の一人であるアッサジが連れてきた。彼は、托鉢中のアッサジを見て、「この方の弟子となりたい」、と思ったのだ。そこで、その場で教えを求めたのであった。アッサジは、「ほんの少ししか教えられませんが・・・」、といって、お釈迦様の教えのほんの一部である「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静」について説いた。それを聞いたシャーリープトラは、その場で第一段階の悟りを得てしまったのである。 アッサジの言葉に感動したシャーリープトラは、友人のモッガラーナを伴って、お釈迦様のところへ出向き、出家したのである。 その日のことであった。お釈迦様は、二人を見ると、 「あなたたちを待っていました。さぁ、ここへ座るがよい。」 といって、自分の座っている左右にそれぞれを座らせたのである。驚いたのは、周りにいた弟子たちだけでなく、シャーリープトラやモッガラーナ本人たちもだった。躊躇している二人を 「いいから座りなさい。」 といって、自分の隣に誘ったのである。 翌日のこと、教団内は大騒ぎであった。 「どういうことなんだ。出家の儀式も終わっていないあの二人が、世尊の横に座るなんて・・・。」 「わからない。まあ、いずれ世尊からそれについて話があるだろう。」 「俺は認めないぞ。なんでなんだ。俺たちのほうが出家が早いじゃないか。」 「まあ、いいんじゃないか。世尊が認めたのだから。それなりに勝れているのだろう。」 「しかしなぁ、秩序が乱れるぞ。まだ、あの二人は若いしな。あの二人を認めないものが多く出るんじゃないか。」 「お前もその一人・・・か?。」 「そうだな・・・。」 誰もが、シャーリープトラとモッガラーナの扱いに、戸惑い、やっかんでいたのだ。静かにしていたのは、長老と認められたものたちだけだった。彼らは、動揺している弟子たちに対し、 「お釈迦様を信じることだ。お釈迦様が認めたのだから、彼の二人はとてもつもない才能を秘めているのだよ。それを知ることだ。」 と説きまわったのだった。そんな中、ついにお釈迦様が皆を集めた。 「皆も疑問に思っているであろう。なぜ、シャーリープトラとモッガラーナに、私の横に座ることを許したのか。いずれわかるであろうが、この二人は大変勝れているのだ。二人は、この教団を大きく発展させるであろう。何よりも、ブッダが認めた二人である。いずれ、誰もが彼の二人に従うようになるであろう。」 お釈迦様からの言葉はそれだけだった。納得したのは、悟りを得ている長老たちだけであった。 その後、一週間ほどして、再びお釈迦様から話があった。 「このシャーリープトラとモッガラーナを第一の長者とする。二人は、最高の悟りの域に達している。皆、彼らに教えを仰ぐが善い。私が教えを説かなくても、彼らが私の代わりに教えを説いてくれるであろう。」 その言葉の通り、二人は大変勝れていた。今までのどの長老よりも深く教えを理解していたし、神通力も勝れていた。しかも、決して驕ることはしなかった。シャーリープトラは、いつまでもアッサジを師と仰いでいたくらいであった。 長老たちは、お釈迦様の言葉どおり、シャーリープトラとモッガラーナを第一の長老とし、ある時は教えを請い、ある時は助けながら、二人を中心に教団をまとめていったのだった。 しかし、どこにでもいるのだが、こうしたことを快く思わない弟子いたのだった。 パンダリカとグーヒヤの二人を中心としたグループであった。彼らは、火のバラモンであったカッサパの弟子の中にいて、カッサパが出家したときに一緒に出家した者たちだった。 「面白くない。」 「あぁ、面白くない。あの二人は何なんだ。」 「誰もが、あの二人に媚売りやがって。なんで俺たちじゃないんだ。」 「そうだ。俺たちのほうが早くに出家している。お釈迦様の話だってたくさん聞いている。本当なら、次の長老は俺たちだったんだ。」 「そうだ。俺たちが長老の仲間入りをする番だったんだ。それがなんだ。出家して7日しかいないものが、長老だって?。」 「しかも、第一の長老だ。今までの長老よりも上だぞ。カッサパ様よりもだ。」 「面白くない。断固抗議するしかない。」 「うん、そうだ。まずは、カッサパ様に相談しよう。」 こうして二人は、かつての師であったカッサパに相談をした。しかし、カッサパには一言で片付けられてしまった。 「バカなこと言うでない。彼の二人は、わしよりも勝れている。わしが到達し得なかった世界に至っておる。なんとも頼もしいお二人じゃ。・・・・お前らも、そんなことを考えずに、早くに長老にないのなら、修行せよ。尊敬されるような人物になれ。よいな。」 と・・・。 「話にならん。」 「あぁ、話にならん。カッサパ様もどうかしてしまったようだ。」 「こうなったら、新しく入ってきた弟子を我々が指導しようじゃないか。」 「勝手にか?。」 「そうだ、勝手にだ。別に悪いことをするわけじゃない。新しく入ってきたものに、誰を尊敬したらいいのか、誰を頼ればいいのか、それを教えてやるだけだ。」 「そうだな、それが手っ取り早いな。いい案だ。よし、明日からは、俺たちも指導者だ。」 パンダリカとグーヒヤは、そう話し合った。 翌日のこと、新しい弟子が入ってくると、パンダリカとグーヒヤの二人が勝手に自分たちのグループに連れていってしまった。たまたま、そこには他の長老が不在であったため、彼らは勝手な行動ができたのだった。本来ならば、長老が戻るまで待たせておくという戒律があったのだが、二人はそれを無視したのだった。 パンダリカとグーヒヤの二人は、チャンスがあれば新しく弟子入りしたものを自分のグループに引き入れることを繰り返していた。 そうこうしているうちに、勝手に引き入れた弟子たちが騒ぎ始めたのだ。 「なぜお釈迦様に会えないのでしょうか?。」 「出家の儀式は、いつ行なわれるのでしょうか?。」 そんな声が上がり始めたのである。パンダリカたちは、 「うるさいな、お前らは、俺に従っていればいいのだ。俺たちを頼りとしていれば大丈夫なんだ。出家の儀式は行なう。今は、準備中だ。その儀式が終わったら、お釈迦様に会えるのだ。」 「よいか、騒ぐなよ、俺たちの言うことを聞いていれば悟れるんだからな。俺たちの言ってることに間違いはないのだ。わかったな。」 パンダリカたちは、半ば脅すようにして出家したばかりのものを言いくるめていたのであった。 しかし、いつまでも隠しおおせるものではない。やがて、パンダリカたちの行為は、皆の知るところとなった。 他の長老たちがパンダリカたちをお釈迦様の前に引き連れてきた。お釈迦様は、彼らに問うた。 「なぜこのようなことをしたのだ?。」 「・・・・・・。」 お釈迦様の問いに誰も答えなかった。口を尖らせ、ふてくされた態度で下を向いていた。 再び問うても、誰も答えない。三度目のことだった。 「これが最後だ。答えなければ、教団を出て行ってもらうことになる。三度問う、なぜこのようなことをしたのか?。」 「・・・・あの二人が・・・・我々を飛び越して長老になったからです・・・・。」 パンダリカがボソボソと答えた。 「あの二人・・・・シャーリープトラとモッガラーナか・・・・。なぜ、あの二人があなたたち古くからいる出家者を飛び越えて長老になったのか、わからぬのか?。」 「・・・・わからないわけではありません。ただ・・・・。」 「ただ?。」 「認めたくないというか・・・・。面白くないというか・・・・。」 「もっと、心の深くを覗くが善い。さぁ、もっと深く探ってみよ。なぜ、こんなことをしたのか・・・。ただ、シャーリープトラやモッガラーナが面白くなかった、というだけではなかろう。」 パンダリカたちは、お釈迦様の言葉が意外であった。絶対に怒られる、下手をすれば教団追放だ、と宣言されると思っていたのだ。 彼らは考えた。自分たちはなぜこんな勝手なことをしてしまったのか・・・・。 しばらくしてグーヒヤがポツリポツリと語り始めた。 「あせりが・・・・あせりがあったのです。それとやっかみです。」 「シャーリープトラとモッガラーナに対するやっかみかね?。」 「そうです。やっかみです。羨ましいと思ったのです。」 そのとき、パンダリカが叫んだ。 「俺たちも早く長老になりたかったんです。尊敬されたかった、みんなから頼りにされたかった。長老長老と言われたかったんです。」 その言葉に、他のものも 「そうです。尊敬されたかったんです。いつまでも弟子のままじゃ嫌だったんです。」 「我々は、結構長いこといるのに、未だに長老になれない。だけど、教団に入ってすぐの二人が長老になってしまった。我らはいつまでも下っ端だ。俺たちも尊敬されるような立場になりたかった・・・。」 と鳴き声で訴えだしたのだった。彼らは、お釈迦様の前に泣き崩れていたのだった。 お釈迦様は、しばらく黙り込んでいた。彼らが落ち着くまで待っていたのだ。しばらく様子を見て、ようやく彼らが落ち着いた頃を見計らい、お釈迦様は厳しい顔で彼らに問うた。 「顔を上げなさい。汝らに問う。尊敬されたい、頼りにされたい、というが、汝らは、それに値するか否か?。」 誰も答えなかった。みんな下を向いて黙り込んでいた。 「わからぬか・・・。では、汝らが使う言葉は、尊敬に値する言葉であろうか?。正しい言葉を使っているか否か?。」 また、誰も答えなかった。 「汝らの行動は、尊敬に値する行動であるか否か?。」 お釈迦様は、矢継ぎ早に問うた。 「汝らの心は清浄か否か?。 汝らの心に怒りはないか否か?。 汝らの心に貪欲さはないか否か?。 汝らの心に妬みや怨み羨みやっかみの心はないか否か?。 汝らは嘘をつかぬか否か?。 汝らは悪口を言わぬか否か?。 汝らは誰にでも平等に言葉を使っているか否か?。 汝らは誰に対しても謙虚な態度であるか否か?。 汝らは正しく修行をしてるか否か?。」 お釈迦様はそこまでいうと、一呼吸おいて最後にこう尋ねた。 「汝らは悟っているのか否か?」 そして、さらに続けた。 「人に尊敬されたくば、尊敬されるような人物になることが先だ。尊敬は他人に強制するものではない。自分のことを尊敬しなさい、などというものは愚か者だ。誰を尊敬するか、誰を頼りにするかは、他人が決めることであって、己が強制することではないのだ。 そんなに尊敬されたい、頼りにされたい、と思うのなら、もっと自分自身を磨くが善い。自分を磨くこともせずに、尊敬だけされようと思うのは、愚か者以外何ものでもない。 よいか、先程問うたことがすべてできねば、尊敬などされないのだ。尊敬されるもの、頼りとされるものは、自ら望まなくても、自然と周りが認めるものなのだよ。わかったかね?。」 お釈迦様の、いつになく厳しい言葉に、パンダリカたちは打ちひしがれた。そして、 「はい、わかりました。一から出直します・・・・。」 とだけ答えるのが精一杯であった。 そして、この話を聞いていた長老たちも、己を磨くことを忘れぬよう、お釈迦様の言葉を心に刻んだのであった・・・・。 尊敬されたい・・・。そこまで行かなくても頼りにされたい、と思う方は大勢いるんじゃないでしょうか?。 「私はそんなこと思ったこともない」 という方もいるとは思いますが、多くの方は 「他人に頼りにされるような人間になりたい」 と望んでいるのではないかと思います。なぜなら、他人に頼りにされるということは、実に気持ちのいいことだからです。人間は、本能的にこうした思いを多少なりとも持っているんじゃないかと、私は思っているんですよ。。ですから、何も恥ずかしいことじゃありません。素直に認めたほうがいいことです。 「そんなことない!」 と否定すると、ますます怪しい・・・と思われます。いいんです、誰もが少しは持っている気持ちなのですから。 なぜそう思うかといいますと、こういう方が多いんですよ。たいていは仕事のことでの相談を請けているときに出る言葉です。 「他人に頼りにされるような、そんな職業に就きたいんです。」 「他人に必要とされるような、そんな人になりたいんです。」 どちらも、本質的に同じ内容ですね。きっと、現状は他人に必要とされていない、頼りにされていない、と思い込んでいるのでしょう。 これらは、思い込みです。実際は、誰もが他人に必要とされているし、どこかで頼られているんですよ。だけど、気がつかないんです。 いや、もっとはっきり言って欲しいんでしょうね。 「あなたのこと、頼りにしているから。」 「あなたのこと、尊敬していますよ。」 「君が必要なんです。あなたが必要なんです。」 などという言葉が欲しいんでしょうね。言葉は言葉にしか過ぎないんですけどねぇ・・・・。 特に、人間関係が多くあるところの仕事だと、人に頼られたい・尊敬されたい、という思いは強くなるのではないでしょうか?。 でもね、尊敬するか、頼りにするかは、他人が決めることなのであって、自分で決めることじゃないですからね。そんなこと、他人に強要しても、誰も振り向いてはくれません。むしろ、尊敬に値しませんよね、そういう人物は。 「私を尊敬しなさい」 な〜んていうヤカラは、絶対尊敬できないヤツですよね。イヤナヤツです。 他人の尊敬を集めたい、他人から頼りにされるような人物になりたい、と思うのなら、そういう人物になるしかないのです。 では、どんな人物が尊敬されるでしょうか?。 礼儀正しい、言葉が優しく人を傷つけない、品行方正、謙虚である、他人のことをよくわかってくれる、自分の立場や自分のことをよく知っている、誰にでも平等である、媚びへつらったりバカにしたりしない、何か秀でたものがある・・・・。 書いていて、こんな人間いないよねぇ・・・と思えてきてしまいました。まあ、全部ができなくてもいいんですけどね。この中の少しくらいはできないと、尊敬はされないし、頼りにはされないでしょう。 一つ特に思うのは、どんなときでも態度が変わらない人は尊敬できるな、と思います。 「弱いものには強く、強いものには媚びる」 な〜んていう人物は、絶対尊敬できませんよね。どんな相手に対しても、変わらない態度で接してくれる、そんな人なら尊敬に値するんじゃないでしょうか。 よくいますよね。金持ちや名の通った人物に会うとやたら「ヘイコラ」しちゃう人。上のものにはぺこぺこしちゃって、部下や下のものと判断したものに対してはやたらと威張るヤツ。こんなヤツは、尊敬できませんよね、その人がどんな立派な立場にあっても・・・・。 そうじゃなく、誰に対しても平等で、媚びることなく、威張ることのない態度でいる人は、頼られるし尊敬されるんじゃないでしょうか。 もし、あなたが頼りにされたい、尊敬されたいと望むのなら、誰に対しても謙虚な態度でいることが第一です。相手によって態度を変えるとか、威張り散らすなんてことは、絶対にしてはいけません。 頼りにされたい、尊敬されたい、と望むことは、決して悪いことではありません。望んでいいことです。でも、そのためには、まず、己を磨くことですよね。そうすれば、自然に尊敬されるような人間になりますから・・・。 合掌。 |